2025-01-26 00:23:08 |
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ふふ……ふふっ。本当にそう見えていたの? それならば、私の戯れもなかなかの腕前ということね。──失礼。顎を少し引いて、手はこちらへ。力を抜いて……これでよろしいかしら?
(上流階級の装いが違和感なく映るほどに、他ならぬ芸術家アーサー・バートンの審美眼に認められるとは。まるでストンと矢で射抜かれたかのような衝撃が心臓を貫き、一瞬、呼吸さえ忘れてしまう。大きく見開かれた瞳にほんの刹那、ひどく人間らしい戸惑いと確かな安堵の色が宿り。それを悟られまいと朗らかな笑いを紡ぎ、ほっそりとした指先でそっと口元を隠した。けれど、懐かしむ心が油断を生みほろりとこぼれ落とした発言は思いがけず零れた幼き日より続くごっこ遊びの名残。それを掘り下げられる前に、あるいは自ら掘り下げてしまう前に──そっと指先を降ろし、彼の指示に応じて姿勢を整える。ふと目元を撓めると、モラレス侯爵に迎え入れられるにあたり、最初に模倣した夫人の面影が脳裏をよぎった。幼少期より接してきたプレストン夫人の気立ての良さを学ぶことは、さほど難しくはなかったと。時には社交界で最も人気のあった令嬢の慎ましやかな立ち振る舞いを、時には嫉妬の的となった淑女の聡明さとあざとさを──そのすべてを己が身に落とし込みながら、本来の私とは遠く離れた男性にとって理想の女性へと形を変えることに密やかな愉悦があったと思い出した。忘れてしまっていたくらい当たり前だったその気持ちも、彼の傍にいると上書きされていた”本当のベアトリス”がふと顔を覗かせることに不思議な気持ちを抱き。先ほどまでカリカリと音を立てて迷いなく進められていたペン先が止まった事に気がつくと新たなページにめくられるのを静かに見届けて。どのように私を描いたのか──その好奇心を飲み込む代わりに、そっと微笑みながら質問を口にして。)
Mr.アーサーが芸術に触れたきっかけを教えて頂きたいわ。
……良い。そのままで。
(数秒の静寂の中で、指示通りに整えられた姿勢を確認して頷く。微細な調整を要するかと一瞬考えたが、光の加減と彼女の自然な佇まいに違和感はなく、視線を紙へと戻して迷いなく鉛筆を走らせる。今度こそ、彼女の姿を正しく捉えられるはずだ。綻ぶように滲んだ一瞬の安堵も、それを塗り重ねるように作られた笑顔も、すべてを拾い上げなければ気が済まない。顔の輪郭をなぞるように曲線を走らせたその時、思いがけない問いが耳に届いた。手元の線が乱れる前にそっとペン先を浮かせ、即座に返答はせず、鉛筆の後端を口元に押し当て思考を巡らせる。芸術に触れたきっかけ──紋切り型の答えならいくつも思いつくが、本当の原点を誰かに語ったことは、これまで一度もなかった。目を細めれば、遠い記憶の奥底に埋もれていた情景がゆっくりと輪郭を帯びて蘇る。──鉄と油の香りが入り混じった重い空気。部屋の隅々まで響き渡る活版印刷機の規則正しい駆動音。紙の束が運ばれるたびに立ち上る、乾いた繊維の匂い。煤で曇った窓に西日が差し込み、大きな機械の鋳鉄の表面が鈍く赤く光る、妙に印象的な光景。静かに息を吐き、鉛筆の動きを再開させながら口を開く。なぜこの記憶を知り合ったばかりの彼女に語りたくなったのか、自分でも理由はわからない。)
──…子供の頃、印刷所で働いていた叔父がよく工房に連れて行ってくれた。本や新聞が山ほど積まれていて、まだ字が読めなかったから挿絵のある本ばかり眺めて…その中にレンブラントやターナーの複製画があった。…色彩もない、影と線だけの…今思えば職人が元の絵を真似て彫っただけの版画だ。…だけど、不思議と光を感じた。
(/ご連絡のみ失礼します。相談所の方にご相談の書き込みを致しましたので、お手隙の時にご確認いただけますと幸いです!※こちらご返信お気遣いなくです。)
(姿勢を正して優雅に佇むその姿はまるで繊細な細工を施された宝石のようで。しなやかに首を傾けて肩の角度を計りながら、微笑みにふわりと優美な曲線を描くことなど、ベアトリスにとっては呼吸するほどに自然な所作だった。向かい合う静寂の中でペンが紙を滑る微かな音に耳を澄ませながら問いを投げてはみたが、その答えはきっと当たり障りのない言葉で彩られてこの場を穏やかに流れてゆくものだと予想していた。だからこそ、予想を超えた真実──彼が芸術に目覚めた瞬間を知ることができたとき、ほんの僅かでも彼の本質に近づけたような気がして心がふわりと浮き立って。作り物のように整えた微笑みはいつしか好奇心に染められて、無邪気な色を帯びていた。それはまるで幼き日に初めて目にした美しい絹の輝きに魅了され、ただ心のすべてを奪われたあの頃の自分と重なって見えたからかもしれない。そう思うと目の前の彼への親しみがそっと芽吹き、もっと彼自身を知りたくなって。心を揺さぶる美しさの前に立ちそれに携わることを選ぶのは、決して容易ではない訳で。そこへ踏み込むには確かな勇気が必要だと理解しているからこそ、静かに翡翠の瞳を向けた。尊敬の色を宿したまなざしで、一瞬だけ、正面に座る彼の姿だけを映し込み。)
……その光に、手を伸ばそうとしたとき。怖くはなかった?──光を追い求めるいま、”アーサー少年”は幸せ?
……痛みを知らない子供は恐れもしない。火に指を伸ばして、崖を覗き込み、闇の中に踏み込んでいくものだ。……そういう意味では、俺は随分長い間、子供だったんだろう。
(二つの問いかけが心に揺らぎを生じさせたことを悟られぬよう、視線を上げることはせず、無言のままスケッチの線をなぞる動作を繰り返して思考の間を稼いだ。ひとつめの問いに対してはさして迷わずに答えが出た。芸術を求める道の途上で恐れを抱いたことはない。最初に炭を握り紙の上に影を落とした瞬間から、その行為は言葉など不要なほど純粋な歓びそのものであり、疑念も逡巡もほんの一欠片たりとも入り込む余地はなかった。才能にも恵まれ、それだけが己を表現する唯一にして絶対の手段であったが故に、筆を握ることはただひたすらに幸福であるはずだった──いや、幸福でなければならなかった。彼女の問いの後半、“今、幸せか”──その言葉は容赦なく突き刺さり、鉛筆の先が震えて紙の上に刻まれる線が微かに乱れる。眉を寄せ、誤魔化すようにスケッチの角度を変えた。直向きに光を追い求める無垢な子供でいることは叶わない。仕事とはそういうものだと教えられ、芸術は自由であるべきだと高尚な信念を掲げたつもりでいながら、現実は貴族たちの望む肖像画を描き、彼らの虚飾を彩ることに費やされる。理想と妥協の狭間で足掻きながらも、他に何も持たない自分には筆を置くことは許されなかった。選ぶ余地など初めからなかったと自らを思い込ませ、それでも折り合いをつけられていないことを、彼女は見透かしている。そこに悪意など微塵もないのが分かるからこそ尚更たちが悪い。沈黙が降りる中、指に余計な力がこもり紙が軋む音が耳を打った。言葉にならない何かを噛み潰し、視線を躱すように頭の角度を深くして。苛立ちとも焦燥ともつかぬ感情が湧き上がるのを、理性が制しようとする。良くない事だとわかっている。わかっていたのに、気づけば言葉が零れていた。)
──…貴女こそ。貴女は……愛しているのか? “彼”のことを
──アーサー少年は、“子供”のまま”大人”へと堕ちてしまったのね。………この時代に愛をただの幻想ではなく本当に”愛して”生きられる女はどれほどいるのかしら。
(彼の頭は深く落とされ、視線が交わることはそれが物理的に不可能であると教えるように無かった。そんな姿のまま落とされた凪いだ声色の問いかけは、反論の余地すらないほど確信を帯びた内容だったようで喉の奥が石のように重くなり、声を発することさえできなくて。苦虫を噛み潰したように口角がわずかに落ち、瞳が曇る。しかしその色は決して悲壮感ではなく、鋭い言葉を正面から受け止めてころころと鈴を転がすような笑い声を。眉をわずかに下げて意図的に困ったような表情を作りながらも、その返答には確かな負けん気が滲み。何も持たぬ女がこの世を生きるために、どう身を振るべきか──それくらい、思春期を迎える頃の子供でも知っているはずだと。受けた問いに、明確な答えを返すことはせずに暗に伝える、それが己の出した答えだった。夢を追い光に手を伸ばしたはずのアーサー少年がいつしか”幸せ”を濁してしまったように、持たざる者がこの時代を生き抜くためには妥協や諦めが必要になる。そう理解するからこそ、ほんの数秒だけ静かに目を閉じて。誰もが思っていても敢えて投げない意地悪な質問に答えたことが寧ろ心に落ち着きをくれたらしい。ゆっくりと目蓋を開くと長い睫毛に縁取られた瞳には明日を見据える無謀な光が宿り。わずかに下唇を噛む葛藤の末、不敵に口角を上げて言い切って。)
………私もそうよ。今もまだ“子供”のまま、“大人”のふりをしているの。
………すまない。今のは浅はかだった。
(言葉を噛みしめるように低く呟き、手のひらに残る紙の感触を確かめるようにスケッチブックの端を指でなぞる。自分でも驚くほど素直に謝罪の言葉が出たのは、彼女の毅然とした態度に完全に打ち負かされたと悟ったからだ。問いかけた瞬間の自分はあまりにも幼稚で、彼女が何を見て何を知りながら生きているのかを考えもせずに──ただ、現状と向き合うことを恐れ、自己防衛のためにあのような問いを投げたのだと気づいてしまった。自尊心が焼けるように痛めど取り繕うことすらできない。躊躇いながらも視線を上げた丁度その時、丸窓から一際強く差し込んだ陽光が彼女の輪郭を淡く縁取った。金糸のような髪が光を編んでふわりと輝き、影を削り取られたその姿は聖像めいて神々しく、そこに存るだけでひとつの絵画のようだと、深く胸を打たれる。世界の欺瞞も、光の裏に伸びる影も、彼女は現実の冷酷さを知りながら、まるで舞台の幕が下りる最後の瞬間まで演じきる役者のように、堂々と“物語”を生きている。自分にその覚悟はあるかと問われたなら──答えを探すように鉛筆を握り直すも、その先は紙を捉えることが出来ない。このまま問いを閉じることもできたはずだった。彼女の強さをただ眩しいと見上げるだけなら、余計な詮索を加えることなく絵を描き続けることで沈黙を保つことができただろう。しかしそれでは駄目だと、その核心に触れずにはいられないという衝動が抑えようもなく胸の奥で疼いてしまった。指先の微かな震えを握った鉛筆の冷たさで誤魔化して、歯切れ悪く問いを紡ぎながら、光に揺れる彼女を見つめ)
……もし、何にも縛られずただ“子供”でいられたなら……貴女は、何を望んだ?
私らしく生きることを望むわ。──熟した林檎を口にできなくても、華やかなドレスに袖を通せなくても、たとえこの手が荒れてしまったとしても、それでも構わないわ。ただ、がむしゃらに働いて、自分の足で歩いてみたいの。ベアトリスは、生きていることを楽しむのよ。
(真っ直ぐに届けられた謝罪の言葉が胸の奥をそっと叩いた。ふっと小さく息を漏らし、穏やかな微笑みを浮かべると僅かな表情変化だが許しの意を表して。互いの好きな物だって知らないのに、それでも多くを語らずに理解が出来るのはきっと、生きるために身を置く世界があまりにも似ているからだろうか。あるいは──そう信じたかったのかもしれない。強い陽射しがほんの少し眩しくて、天日に干されたシーツの香りが記憶の扉をそっと叩いた。思わず太陽の香りを探して深く息を吸い込んだけれど、そこに広がったのは太陽の匂いではなく、絵の具や木炭、オイルの混ざった画材の香りだった。その違和感にほんの一瞬、どこか不思議な気持ちになって眉が下がる。不意に筆を止めた彼が、言葉を慎重に選びながら、それでも正解を見つけられずにいるように問いを投げると瞬きの後に視線を向けて。その内容に驚くこと無く、すう。と息を吸い込んで返事をする。──それはあまりにも優しくて、あまりにも現実味のない夢と同じ。子供が「空を飛びたい」と願うのときっと同じくらいに儚く綺麗なだけの内容で。一拍の間を置いてからその言葉に合わせるように、すらりと伸ばした指先を視線の高さまで掲げる。瞳に映るのは冷たい水に晒されたことのない、爪の先まで整えられた美しくきめ細やかな手。苦労を知らない、貴族の愛玩物にふさわしい指先だった。その手をそっと握りしめると静かに再び元の姿勢へと戻った。今、こうして夢を語るベアトリスは誰かの模倣ではない。ベアトリス・ルーナとして、己の言葉を紡いでいると実感が湧いた。それは彼が飾り気のない率直な言葉をくれるからこそ取り繕う必要のないありのままの自分でいられる時間だった。困り眉のまま目を細め、にこりと微笑む。少し大きく開いた唇の隙間からは、白いエナメルが覗いた。幼い子供が楽しくてたまらないときに見せるような、屈託のない笑顔。淑女には相応しくない仕草かもしれない。それでも構わなかった。心のままに、ただ笑う。それはまるで、幼い少女たちが寄り添い、おとぎ話に夢中になるような、無邪気な笑顔でそんな表情のまま言葉を紡ぎ。)
そんなふうに生きた先で、心のままに“愛する”ことができたら──最高ね。
(衝動に駆られるまま投げかけた問いに迷いなく応じた彼女の声は、確かに空気を震わせながらも耳に届く頃にはどこか現実の輪郭を曖昧にし、遠くで鳴る銀の鈴の音のように儚く揺れた。そして言葉を締めくくるように微笑みを向けられた瞬間、世界のすべての音が掻き消えたような錯覚を覚えさせられる。それは決して計算された媚びでもなく、誰かに愛されるための装いでもなく、ただ心の奥底から零れ落ちた何の衒いもない無垢な微笑み。洗練された容貌には不釣り合いなほど幼く無邪気でありながら、その奥底には揺るぎない意志が宿っている。繊細な花弁のように儚い一方で大地を踏みしめる足取りは確かであり、ただのか弱い美しさではなく、己の道を歩もうとする強かさ。その在り方こそが彼女の本質なのだと、理屈ではなく、もっと根源的な部分で理解させられた。震える指先で鉛筆を握り直すが、いざ紙に線を刻もうとした途端その動きは宙で凍りつき、やがて力なく下ろされる。──これまで数え切れぬほどの肖像画を描いてきた。貴夫人の誇りも、戦士の哀しみも、彼らの一瞬の輝きを筆先に掬い取り、紙の上に縫い止めることができたはずだった。だが、今目の前にいる彼女をどう描けばよいのかが、まるでわからない。幾度となく紙に触れ数多の絵画を生み出してきたこの手が、今やただの無機質な器のように虚ろで頼りないものに思える。焦燥が喉の奥に絡みつき、ゆっくりと目を伏せた。彼女の瞳を真正面から受け止めることができない。それ以上に、今の自分では到底この姿を紙に留めることは叶わないという、あまりにも残酷な現実を突きつけられることが、ただ恐ろしい。筆さえあれば何でも描けると信じていた傲慢な幻想は、彼女に触れた瞬間、音もなく崩れ去った。今、ベアトリスの気高き矜持の前に立たされ、痛いほどに思い知らされる。掠れた声で紡ぐ言葉は彼女に向けられたものでありながら、同時に自らの無力を噛み締めるような、苦い告白であり)
……描けない。──……俺の手では、貴女を描くことはできない
(これは自分でも気がついていなかった夢物語。当然、誰にも漏らしたことのない秘密の会話。心の奥深くに閉じ込めた想いを声に乗せて伝えれば、ほんの少しの恥ずかしさとそれを上回る爽快感が押し寄せた。何も持たぬ愛人の女が語る夢を彼がどう受け取るのか、鼻で笑うのかそれとも馬鹿げた話と笑うことさえないのだろうかと彼の反応を窺って。しかし、予想に反して彼は何かを恐れるような怯えた表情を浮かべていた。何に脅えているのか皆目見当もつかず、苦しみながら絞り出すように発した声には驚きと戸惑いが宿っていた。苦々しく伝えられたその言葉を頭の中で何度も繰り返し、それでもやはり理解できないまま疑問が次々と浮かぶ。何故?どうして?何が理由なの?私の解答が可笑しかったから?頭の中には疑問が渦巻き、声を出せずにいた。芸術家アーサーの実力は、自身の目で確かに把握している。こんなにも素晴らしい芸術家に今後出会える保証はなく、同時に恐らく会えないだろうと思うのに──そんな彼が筆を置いた。彼が描きたいと思わなかったのかもしれない。彼が思い描くほどの魅力がベアトリスにはなかったと言われてしまえば、それまでなのだ。それでも「はい、わかりました」と素直に返事をすることはできず、諦めの悪さで言葉を探し口を結び。必死に彼へかける言葉を探すうちに怯えながら筆を止めた彼の悔しさに触れたらしい、気丈に見せた凜とする声で静かに問いかけて。)
…………Mr.アーサー、どうしてか理由を伺ってもよろしい?
(静かに投げかけられた問いに、即答できるはずもなかった。否、答えならば既に目の前にあるのに、それを手に取り晒すことに、どうしようもなく躊躇いが生じてしまう。──ベアトリス・ルーナという少女は、この手で捉えようとするには、あまりに遠かった。愛の不在ごと己の境遇を受け入れ、しかし決してそれに呑まれることなく自らの意志で立ち、歩み続ける。苦しみも憧れも、そのすべてを抱えながら前へ進もうとする彼女を、果たして描くことなどできるのか。伯爵家の庇護を捨てる覚悟も、ひとりで生きる勇気も持たぬまま、ただ曖昧に、臆病に、「画家」を気取ってきた自分に、彼女の本質を捉える資格があるのか。己の在り方すら定まらぬまま、強靭で、崇高で、そして何より確固たる意志を宿したその瞳を、真に描き出すことなどできるはずがないと、痛いほどに思い知ったのだ。彼女の姿に向き合うことで否応なく自分自身とも向き合わされ、逃げ場のない現実に晒された今、筆は動かず、胸の奥でざわめく何かを押し殺すように強く拳を握る。爪が掌に食い込む痛みだけが生々しく残り、心の奥にまで突き刺さる。見ないふりをして筆を執ることもできただろう、しかしそれでは美しいだけの虚ろな「肖像画」しか生まれない。彼女をそんなものに閉じ込めるわけにはいかない、その一心で筆を置くことが、今、自分にできる唯一の誠実な選択だった。ゆっくりと拳を開き赤く爪痕の滲んだ手のひらを見つめ、沈黙の果てにようやく、塞がった喉を押し開くように言葉を絞り出して)
………月を、掴むようだ。どれだけ手を伸ばしても届かない。──…光を追うことをやめた俺には、貴女が遠い。
(芸術の殿堂とも称されるクラリッジ伯爵が目を掛ける画家。さらに、彼が描く肖像画は真実を映し出すと噂され、多くの貴族たちが理想の姿を「真実」として描いてほしいと彼の筆を求め始めた。ベアトリスもまた、その一人。ただし、求めたのは虚飾をまとった姿ではなく内面をも映した偽りのない自分だったと言うだけ。今後を生き抜くための光として、その一枚を宝箱に閉じ込めておきたかった。自分でも知らない自分とは何だろうかと昨夜から募らせていた期待。冷たくも鋭い宝石のようなブルーグレーの瞳が己をどのように映しているのかという高揚に満ちていた。しかし、作品が未完に終わるという事実を突きつけられた。彼の痛々しいほどに握り締められた拳と、胸を締めつけられるほど苦しげな表情が、言葉よりも鋭く真実であると物語っている。失望がないと言えば嘘になる。期待していた作品を得られないことは、どうしようもなく残念だった。けれどそれ以上に、彼が自らを罰するほどに苦しんでいることのほうが心に刺さった。誤魔化しなどいくらでもできたはずなのに、適当に仕上げることなく筆を置いたその誠実さは、むしろ好感を抱かせるものだった。彼は、女に恥を晒してでも嘘をつかない。そんな人間がいるのだとベアトリスは初めて知った。静かに立ち上がり、一歩ずつ彼に近づく。イーゼルを避け、正面に立てば、白い肌に爪を立てた深い跡が目に入る。それほどまでに彼を追い詰めたのは何だったのだろう、そう考えてみても彼がこの苦しみを抱えるに至った理由を理解することはできない。ただ、彼が誰よりも誠実な芸術家であることだけは、痛いほどに伝わった。イブニングバッグを開き、控えめなピンクのレースのハンカチを取り出す。そっと爪痕に被せ、そのまま両手を包み込んだ。この手に描いてもらうことは叶わなかったけれど、彼と過ごした時間の中で自分自身を見つめ直すことができた。それは、どんな宝石よりも価値のあるものだった。ふ、と瞼を落として気持ちを込めればかけがえのない感謝を込めて、包んだままの彼の手にそっと温もりを預けるように握りしめて。)
……アーサー様のおかげで、私はベアトリスに触れることができたわ。アーサー様がいてくれたから。アーサー様が、私をちゃんと見ようとしてくれたから──ありがとう。
(己を映し出す鏡──ベアトリスという存在はまさしくその象徴であり、彼女を前にして否応なく突きつけられるのは、自分が求めながらも手を伸ばし得なかったもの、目を逸らし続けたもの、そしてひたすらに背を向け逃げてきたもの、その全てだ。自らの無力を暴き立てられ、画家としての“敗北”を容赦なく突きつけられる、それは筆をとって以来初めての挫折であった。顔を上げることさえ叶わぬまま沈黙の中に身を埋めていると、微かな衣擦れの音が静寂を破り、続いて椅子がわずかに軋む音が響いた。歩み寄る足音は静かで、それでも近づいてくる気配は否応なしに伝わってくる。そして次の瞬間、冷えた指先に、じんわりとした温もりが滲んだ。柔らかな布地が肌を撫でる感触とともに、小さく震えていた手がそっと包み込まれ、ハンカチ越しに伝わる体温がかえって胸を締めつける。痛むほどに優しいその仕草が、まるで無言のうちに己の脆弱さを肯定されるようで、抗いがたいほどの居たたまれなさが込み上げた。それでもなお顔を上げることができず、ただこの手を覆う彼女の白い指先を見つめる他ない。真っ直ぐに向けられる言葉が、いかに真心からのものであるかは理解できた。しかし、だからといってそれに甘んじて己を赦すことなどできるはずもなく、そうであるからこそ、彼女の瞳を見上げることなく目を逸らし、低く押し殺した声で吐き捨てるように呟き)
……やめてくれ。…俺は、貴女が求めるものを何ひとつ形にできなかった。それなのに、感謝される筋合いなんて……
…………アーサー・バートン、私を見て。下を向かずに、この目の前にいる私を見てちょうだい。私は誓うわ。夢を、夢のまま終わらせないと。今すぐには叶えられないかもしれない。けれど、あなたがくれた”勇気”を胸に、この瞬間を大切に抱きしめながら、いつかきっと──私はこの手で夢を掴んでみせると。
(包み込んだ手は大きく、男らしい強さを宿していた。それなのに、ひどく怯え、体温は冷たく、かすかに震えていた。ほんの少し前まではどんな些細な変化も見逃さないというように、まっすぐに己を見つめていた彼が、今は塞ぎ込むように俯いている。その姿が、惜しくて、悔しかった。彼は、ベアトリスがどんな女であるのかを思い出させてくれた人。だからこそ、彼がこんなふうに自らを閉ざしてしまうのを、ただ見過ごすことなどできなかった。そっと包んだ手に、気づかぬうちに力がこもる。呼びかける声には凛とした響きが宿った。それはまるで、落ち込み傷つく彼を奮い立たせる鞭のようであり、彼の中に巣食い始めた恐れを振り払うための祈りのようでもあった。彼がくれたものは、ベアトリスの未来を照らす大切な贈り物。それなのに、彼が自らの選択を後悔し、筆を取ることを怖れるようになってしまったら……それはあまりにも悲しい。ふと、弱々しい声が耳を打つ。胸が痛む。けれど、その痛みよりも強くこみ上げるのは、彼自身が自らを貶めることを許せないという感情だった。誰が彼を侮辱しようとも、それがたとえ彼自身であったとしても──それを許せなかった。きっ、と射抜くような眼差しを向けて彼が視線を合わせるのを待つ。その眼差しに込められたものは、言葉にせずとも彼が筆を手放さないように、彼が、己の芸術を誇れるように。その思いばかり。そうして脅しや呪いのような想いを彼へ伝えて)
そして、夢を叶えたそのとき──私を描くと約束して。
(握られた手からじわりと伝わる力が、身体の隅々にまで浸透するかのように感じられた。その力強さとともに響く凛とした声が鼓膜を打ち、心の奥底にまで届く。恐る恐る視線を上げると、感情を宿した強い眼差しが絡みつき、逃れられぬまま心を縫い留められた。そしてその声が告げる言葉は胸を鋭く貫き、まるで彼女の指先が直接触れたかのように、心の深層を突き刺すような感覚に襲われる。夢を手に入れてみせるのだと、揺るぎない決意を込めた彼女の声は眩いほどに輝き、同時に、暗闇に沈みかけた自分に差し伸べられた救いの手のようで。霧に閉ざされた世界の隅に一筋の光が射し込むような温もりに包まれながら、握られたままの手を静かに見つめる。逃げることは容易だ。それでも、今この瞬間に背を向ければ、二度と取り戻せない何かが失われる気がした。ベアトリスが誓った、夢を叶えてみせるというその言葉。その夢を手にした時、彼女の姿を描くのは一体誰だろうか。その輝きを、無謀に見えるほどの夢の果てで燃え上がるその姿を、他の誰でもなく、ただ自分の手で描きたい──そんな衝動が、執着にも似た激情が、理性を押し退けて顔を覗かせながらも、それでもなお、自分には確信が持てなかった。まるで聖母に祈るように、救いを乞うように、迷いを滲ませた問いが震える唇からこぼれ落ちて)
──……俺は…、……俺はもう一度……光を、追えるだろうか。
(呼びかけに応えて彼の顔がゆっくりと上がる。ブルーグレーの瞳に浮かぶのはただの戸惑いではなくて、落ち着きの奥に怯えの色が滲んでいる。それを確かに捉えながらも――もしも彼が、芸術を諦めずにいてくれるのなら。たとえそれが苦しく、険しい道であったとしても、嬉しいと感じてしまうのだろう。それが傲慢で身勝手な考えだと自覚している。それでも、抑えられなかった。いつか、きっと。次こそは、彼が思うままに自由を手にしたベアトリスを描いてほしい。そのためならばどれほどの茨が道を塞ごうとも、耐えられる。共にこの時代を生き、戦う仲間としての願いだった。苦しい道を進む同士として、盟友として。彼が筆を手にし、ただひたむきに芸術と向き合い続けるのだとしたら、それ以上の心の支えなど他になかった。目の前の彼は、今にも溺れてしまいそうなほど不安定に見えて、本当ならば救いの手を差し伸べるべきなのかもしれない。けれど、それを知りながら彼を道連れにしようとしている。己の選択が彼の人生を変えたかもしれない。だが、己もまた、彼と出会ったことで生きる世界も、見るべきものも、進む道も、すべてが変わっていたのだ。思いのままに顔を寄せれば柔らかなレースのハンカチ越しに包み込んだ彼の手。その甲へ、そっと唇を触れさせる。希望をくれた、尊敬する手に敬愛を込めて。それからゆっくりと顔を上げる。そして、ふんわりと微笑んだ。救いを求める彼に対して伝えるそれは踏み込みすぎた発言だったけれど、本心からそう思うとあまりにも自然な言葉だった。)
───私が、あなたの光になるわ。
(体温が少しずつ戻る手の甲に唇が触れた瞬間、心臓がひどく跳ねた。ハンカチ越しであっても、彼女の温もりと柔い圧力が確かに伝わり、驚きと、それ以上に胸を満たす熱に戸惑い、指先まで痺れるような感覚に呑み込まれる。凍てついた大地に初めて陽光が差し込むように、雪解けの朝日に似た微笑みを湛えた彼女の口から発せられる言葉が、重く、温かく、そして恐ろしいほどに真っ直ぐに響いた。奥底で鈍く燻っていた何かが、炎のように激しく揺らめき始める。世界の全てを許し、肯定するかのようなその微笑みが、何よりも美しく、呼吸の仕方を忘れたように胸の奥がひどく詰まる。そして確信めいて強く思う、この光を失いたくないと。筆を折ることで自ら光を遠ざけるなど、そんなことは耐えられないと。心臓が煩わしいほどに鼓動を刻み、耳の奥で血液が流れる音が聞こえる。痛いほどの熱が心を焦がし、ただ、今この瞬間に彼女が──ベアトリスがここに在ることだけが、すべてになった。何かが決定的に変わってしまったことを本能が告げるが、抗おうとする意思すら湧かず、ただ、もう戻れないのだと理解するだけだった。震えを失った手は静かに彼女の手を握り返し、そっと瞼を落として。思わず彼女の名を呼び、出かかった言葉は自分たちの立場を思えばこそ苦々しく飲み込んで、再び開いた瞳をまっすぐに向け、代わりに先ほど彼女が望んだ約束だけを交わして)
……この光があれば、闇の中でも迷わずに歩いていける気がする。──ベアトリス…、………いや、…いつか貴女という光を、この手で描かせてほしい。
(/お世話になっております。今回もとても楽しい一幕をありがとうございました!きりが良さそうでしたので、このあたりで一旦シーンを閉じても良いかなと思っております…!こちらで〆でも、最後仕上げを施していただいてもどちらでも大丈夫です。場面転換先を迷っていまして、相談所の方で少しご相談を進めさせていただいてから移行したいと思うのですがいかがでしょうか…!)
(大きくて、少し筋張った男性の手が、自らの手の中で小さく震えていた。怯えるように、怖がるように。可哀想に、大丈夫よ――そう言葉にする代わりに、己の熱をそっと分け与える。指先からじんわりと伝わる温もりが、まるで氷のように冷たかった彼の手を次第に人肌の暖かさへと戻していく。そしてふいに握り返された。決して強い力ではなくて、それでも確かに彼の意志を持ったその手の動きに驚きの思いが胸を落ちる。けれどそれ以上に、初めて出会ったときから今に至るまで一度たりとも見たことのないほどの強さが彼の瞳に宿っていることに衝撃を受けた。何かを言いかけて、けれど言葉にしなかった彼。その言葉がどんなものだったのだろうと心に引っかかることはなかった。それほどに光を宿した彼の瞳はまっすぐで、力強くて、ただそれだけで心を大きく揺らしたのだ。交わしたのは契約書など存在しないただの口約束。けれど彼の声で名前を呼ばれ交わされた約束は、これまで生きてきた中で何よりも重たく、そして何よりも大切な約束になった。──極論、これだけで今後の人生を生きていけるとそう思わせるほどの力を持った約束だった。ああ、この船に乗りこの部屋で芸術家アーサー・バートンと出会えたことを、きっと生涯忘れることはないと、自信を持って言い切れるほどだ。熱く力を持った彼の瞳、吸い込んだ画材の匂い、窓から差し込む眩しいほどの日差し。そしてこの部屋で過ごした全ての時間が、何よりも愛おしい。その愛しさに蓋をするように、そっと触れていた手を解いてこくん、と頷いた。大切な約束を胸の中の宝箱にそっと閉じ込めるように、ふんわりと微笑んでからもう一度だけ、ゆっくりとした動作でしっかりと頷く。この部屋を後にすればベアトリス・ルーナは再びモラレス卿が描く理想の女性に戻る。けれど、不思議と苦しくはなかった。それさえも温かく感じられるほどに彼との約束が胸をじんわりと満たしてくれていたから。だからこそ、彼にベアトリスを残すように。この時間を、この想いを、そっと託すように。持ち歩いていたレースのハンカチーフを彼のそばに置いていくことを決めた。姿勢を正し、にっこりと微笑んで別れの挨拶を。すう、と目元を細めればそれはまるで会釈の代わりのようで。それから小さな箱庭のようだった、優しくて暖かな時間を後にして──。)
Mr.アーサー、私の光は、……あなたよ。
(穏やかな風が吹く中、絶え間なく降りしきる雨が海面を叩く、航海四日目の夜。一等客室のダイニングルームは特別な演出が施され、シャンデリアの灯りが落とされる代わりに各テーブルのキャンドルが揺らめき、夢幻のような雰囲気を漂わせていた。金の縁取りが施された白磁の皿に彩られた料理が並び、グラスの中では琥珀や葡萄の色が静かに揺れる。ワイングラスを鳴らしながら談笑する老夫婦、事業の話に花を咲かせる紳士たち、その傍らで退屈そうに欠伸をする少年。各々の時間が蝋燭の光の中で静かに溶け合っていく──そんな華やかな場にあっても、人目を避けるように隅の暗がりへと身を置き、銀のフォークを手に取ることなく眼前の光景をスケッチブックに写し取る。社交が苦手な自身にとってこうした場はただ疲れるばかりで、恐らく後で伯爵夫人に小言を言われるだろうが、それでも筆を執る方がはるかに気が楽であり。鉛筆の先が紙を走り、描かれるのは食事と社交を楽しむ貴族たち、そして……真直ぐ向けた視線の先には、ベアトリスとモラレス侯爵。並んで席に着き、親しげに会話を交わしながら食事を楽しむ二人の姿を目にするだけで、胸の奥に小さな棘が刺さるような苛立ちが込み上げる。視線を外して別のものを描こうとしても、なぜか鉛筆は彼らの姿を紙の片隅に刻んでしまう。彼女と正面から向き合った時には惨めになるほど手が動かなくなり、醜態を晒したにも関わらず、群衆の一部としてならそれが出来る──そんな自分に嫌気が差しながらも、筆を止めることはできず。その時、不意に肩に軽い衝撃を受け)
──…っ…!
「おっと! 失礼。どうも食べ過ぎてしまってね、この通り道が狭くて……いやはや、シェフの腕が良い証拠だ! 素晴らしい船の、素晴らしい食事に乾杯!」
……はあ。いえ、こちらこそ…。
(振り向けば、そこにいたのは自分よりも少し背の低い中高年の紳士。丸い腹をポンと叩き、陽気な笑いとともに楽しげに語れば、片手のグラスを掲げてウインクを一つ。その場を去ろうとした途端また別の乗客にぶつかり「おっとっと! 失礼。」と謝罪しながら忙しなく消えていく。貴族らしからぬその雰囲気に、自分と同様にこの場へ招かれた立場の人間だろうか…と頭の隅で考えながら彼を見送り、再び鉛筆を握り直して。)
(/航海4日目の晩餐シーンまで飛ばして再開させていただきました!今後は他の人物との会話も増えそうでしたので、テスト的に上記のように表してみましたが、もし苦手な書き方でしたらお申しつけください…!また、航海日誌も記録しましたので下記に添えさせていただきます。すみません、完全に背後の趣味なのですが、航海日誌感?を強めたく色々と情報を蛇足ながら加えております…。)
1日目
天候:晴れ、微風(東北東3ノット)
海況:穏やか(波高0.5m)
航路:サウサンプトン港 → イギリス海峡 → ブレスト岬沖
豪華客船レガリア号は午前10時、サウサンプトン港を華々しく出航。青空のもと、甲板では貴族たちがシャンパンを傾け、出航の祝宴が繰り広げられる。船はイギリス海峡を東へ進み、夜半にはフランスのブレスト岬沖を通過した。
ギルバート・モラレス侯爵は、同船していたクラリッジ伯爵付きの画家アーサー・バートンの存在を知る。彼の画才を聞き及んでいた侯爵は、自らの肖像画制作を依頼した。
2日目
天候:曇りのち晴れ、北風(8ノット)
海況:やや波高し(波高1.2m)
航路:ビスケー湾 → スペイン北部沿岸
午前、船はビスケー湾を南下。荒々しいことで知られる海域だが、この日は比較的穏やかで、船は揺れを最小限に抑えながら進行。時折遠くの水平線に雷雲が見えるも、進路には影響なし。
モラレス侯爵の客室にて、アーサーは肖像画のための下絵を描き始める。その場には侯爵の愛人、ベアトリス・ルーナも同席。
アーサーの絵が持つ「対象の奥深い本質を捉える力」に強く惹かれたベアトリスは、彼に密かに自身の肖像画を依頼。二人は翌日の同時刻、誰にも知られぬようスケッチを行う約束を交わした。
3日目
天候:快晴、東風(5ノット)
海況:穏やか(波高0.8m)
航路:ポルトガル沖を南下
約束の時刻、アーサーはベアトリスを自室に招き、肖像画のための素描を始めた。しかし、その過程で彼女の本質や生き様に触れるうち、自らの芸術に対する姿勢を省み、未熟さを痛感した結果、彼女を描くことを諦め筆を置く。ベアトリスは迷える画家に導きの言葉を授け、彼は再び筆を取る決意を固めた。
深夜、後部デッキで絵を描いていたアーサーは、一組の男女がそこで待ち合わせ、静かに会話を交わした後に抱きしめ合う姿を目撃。その情景を無意識のうちにスケッチに収めた。
(豪華絢爛なシャンデリアの灯りが消え、薄暗くなった部屋の中では、キャンドルの炎だけが鮮やかに燃えていた。揺らめく光と影が織りなす幻想的な空間の中、集った貴族たちはその非日常を優雅に楽しんでいる。贅を尽くした食事に舌鼓を打ち、そこに身を置くだけで特別な存在であるかのような錯覚を覚える──その効果を、ベアトリスは冷静に理解していた。モラレス卿との会話は、いつも彼が話し彼女が聞き手に回る。それはモラレス卿に限ったことではなく、この時代の女に求められる“あるべき姿”なのだろう。慎み深く、控えめに。まるで愛らしい小花が咲くように微笑み、時に頷き、時に『わかりませんわ』と相手の知識を引き出す。そうすることで、彼を心地よくさせ、穏やかで満たされた時間を作り上げてきた。だが、今宵は違った。モラレス卿から視線を逸らしたことなど一度もなかった彼女が、ほんの一瞬、さりげなく口にしたのは──芸術家アーサー・バートンを暗に示す話題、『ギルバート様の肖像画が出来上がるのが楽しみでたまらないわ』そう自然な話題の流れを装いながら、その彼を口に出したのはほんの些細なきっかけにすぎなかった。それなのに無意識のうちに視線は彼を探してしまう。けれど煌めく光の中から暗がりにいる彼の姿を見つけることは叶わず、胸の奥に浮かんだ感情を寂しさと名付けることもできないまま、再びモラレス卿へと意識を戻した。お気に入りの愛人が肖像画にしてまでも求めてくると、その言葉のままに受け取ったモラレス卿は機嫌を良くし、にやにやと笑みを浮かべる。『そう急かしてやるな。良い作品を手がけるには時間が必要なのだよ』これみよがしに手にしたワイングラスの中では、ルビーのように濃く深い葡萄酒が揺れていた。促されるままに、自身のグラスへと細い指を伸ばし品のある動作で静かに掲げて口をつける。薄口のグラスはひんやりと冷たくて舌の上で転がしたワインは丸みのある上品な味を広げた。しっかりと味わい、適切な感想を伝えようとした、その瞬間──目の前のモラレス卿が呼吸困難に陥った。肺に酸素を落とせず、大きく口を開くが絞められた鶏のように掠れた声ばかりが洩れ出る。息を吐くことさえできないまま、喉を押さえて電流を浴びたかのように激しく震え始めた。その異様な光景に、周囲のざわめきが一瞬で止まっていた。何が起きているのか、理解が追いつかない。唖然とするばかりで、悲鳴すら上げられずに手にしていたワイングラスを床へ落としてしまった。ガシャン──! ガラスの割れる音が静寂を切り裂き、ガタンッと大きな音を立てながら椅子を後方へと引いて。この状況下では大きく見開いた目を瞬く以外、ベアトリスにできることは何もなかった。声を絞り出そうとしても、細い糸のように震えるばかり。震える唇が何度も名前を呼ぶが答える声は無く、モラレス卿が泡を吹き倒れ落ちる頃に漸く大きな波が押し寄せるような悲鳴が広がった。その後のことはハッキリと覚えていないのだ。気づけば医務室へ運ばれ、考える間もなく自室での待機を命じられ、それから間もなくしてモラレス卿が死亡した事が伝えられたのだ。更には直前の様子や死体の状況で読み取るに死因が毒によるものだと言うこと、伴ってモラレス卿が殺されたという事実だった。以来、部屋の外には一歩も出ていないが船の中は一瞬にして大きなスキャンダルで持ち切りに、その場に居合わせた貴族は愛人が怪しいと噂が広まっていた。)
……ギルバートさま。ギルバート様……?
(/読むことで物語に入り込める素敵な航海日誌をありがとうございます!早速、航海日誌と他キャストの名簿をまとめページに記載しておりますのでお手隙の際にご確認して頂けると嬉しいです。ダイジェストとして飛ばしながら書き進めるつもりが長くなってしまい、読みにくかったら申し訳ございません。アーサー様以外の台詞を含めた書き方も全然苦手じゃないのでこのままお好きなように描写下さい!)
(ベアトリスは完璧な微笑を湛えて優雅にモラレス侯爵の話に耳を傾け、舞台の役者が演じるような洗練された仕草に、侯爵は満足げに目を細める。自分は彼女と二人きりで語らうことすら憚られるのに、彼は何の制約もなく微笑みを交わし、穏やかに会話を楽しんでいる。その事実にどうしようもなく悔しさが込み上げるが、本来ならば立場上、彼女をどうこう思う資格すらないはずで、その思いを振り払うように手元のスケッチに意識を集中させようとした。だが、次の瞬間──視線の先で侯爵が苦しげに喉を押さえ、ワイングラスを取り落とした。深紅の液体が鮮血のごとく白いクロスへ滲み、見る間に広がっていく。青ざめた侯爵は息を求めてもがくが、空気は通らず、ひとつの呼吸さえ叶わぬようだった。隣のベアトリスも突然の事態に声も出ぬようで、震える手からグラスを落とし、砕けたガラスの音が鋭く響いた。侯爵の体が傾ぎ、ついに椅子から崩れ落ちると、その瞬間悲鳴が上がり、次いで椅子を引く音と騒然とした声が飛び交い始める。給仕が駆け寄り、誰かが船医を呼べと叫ぶ。指示を飛ばす声、狼狽する貴族たちの動揺。つい先ほどまで華やかに彩られていた晩餐の場は、一瞬にして騒然たる混乱へと変貌した。無意識のうちに息を詰めてスケッチブックを握り締め、鉛筆の先が紙を突き破り、小さな穴を穿つ。目の前で繰り広げられる光景が、どこか現実離れして見えていた。──その後、船の警備員が現れ、ダイニングは一時的に封鎖された。乗客たちは各自の部屋へ戻るよう指示を受ける。そんな中、足が床に縫い付けられたように動かぬまま、そこに立ち尽くしてただ侯爵の倒れた場所を見つめ、給仕に付き添われながらその場を離れるベアトリスの姿を目で追っていた。「バートン君。バートン君……」 遠くから呼ばれる声がしたが、騒音にかき消されるようにぼんやりとしか耳に届かず、「アーサー。」強めの呼び声にようやく、はっと息を飲んで振り向けば、クラリッジ伯爵が険しい表情で立っていた。鋭い眼差しが混乱を見透かすように射抜き、「我々も帰るぞ。」と冷静な、有無を言わさぬ力の籠った声に無言のままうなずき、伯爵夫妻の後を追って歩き出した。)
──………。
(一等客階の部屋へ戻る夫妻とは通路に出て早々に別れ、外の空気を求めてデッキへ向かおうと歩き出した時、不意に耳を打つ声があった。「……私の経歴はご存じないかもしれませんが、かつてスコットランド・ヤードに勤めていた者です。」足を止めて何気なく声のする方へ歩を向け、柱の陰から覗くと、二名ほどの警備員に囲まれ、見覚えのある小太りの男──先ほどダイニングでぶつかった陽気な老紳士が、低い声で何やら話していた。「ですが、ええと…Mr.ホプキンス──」 警備員の一人が少し困惑したように応じる。ホプキンスと呼ばれた男は先ほどの朗らかさとは一変し、今は真剣な眼差しを携え、低く落ち着いた声で語っており、その姿はまるで別人のようにすら思えた。「私は単なる好事家ではありません。長年、数々の事件を目にしてきた者として申し上げます。この件は慎重に捜査すべきです。寄港まで乗客の安全を守る為にも──」警備員たちは戸惑いながらも、彼の言葉に耳を傾けている。彼等の会話に耳を傾けながら、ふとスケッチブックを見下ろした。そこには今夜の晩餐の光景と、そしてモラレス侯爵とベアトリスの姿が描かれている。彼の最期の瞬間を目にした者の一人として、自分もまた何かを知る立場にあるのかもしれない。先ほどの衝撃的な出来事を反芻しながら、今なお速く脈打つ鼓動を押さえ込むように深く息を吐き、それからのち、静かにその場を後にした。)
○ ハロルド・ホプキンス(元刑事)
モラレス侯爵が関与した過去の不正事件を追っていた元刑事。50代後半の男性。髪はすっかり薄くなり、笑い皺の刻まれたふっくらとした丸顔に、腹回りの肉付きが目立つ小太りの体型。今でこそ親しみやすい風貌だが、本人いわく若い頃は相当な色男だったらしい。しかし鋭いアンバーの眼光は未だ衰え知らず。人懐っこく、皮肉を交えた軽妙なジョークを飛ばす陽気な性格で、酒と煙草をこよなく愛す。侯爵の不正を暴ききれぬまま無念の引退を遂げたが、偶然にも同じ船に乗り合わせる。事件発生時に現場付近にいたことから、正義感に駆られ、船長や警備員に捜査協力を申し出た。自身の過去の経歴を明かし、非公式ながらも調査に加わる立場を得る。
(/緊張感漂う一場面をありがとうございます!いえいえ、ダイジェストとはいえ大事な場面かと思いますので、詳細な描写ありがたいですし何よりとても楽しく読ませていただきました!一旦アーサーも自室に戻らせておりますが、次アクションとしては翌日午前、ベアトリス嬢が疑わしいと噂になっていることを知り、居ても立ってもいられずモラレス侯爵の客室に向かうことになるかと思います。そこでベアトリス嬢が連行されそうな場面に立ち会う、もしくは連行されたと聞いて警備室に向かう…という流れを考えておりますが、もちろん他の展開でも構いません。或いは4日目のうちに挟んでおきたい描写などございましたら是非取り入れさせてください!恐れ入りますが次場面の舵取りをお願いできればと思います。また、こちらも完全に趣味というか少年心を押さえきれずで、初登場キャラについてカットイン描写的な演出イメージで紹介文を置いてみております…。)
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