匿名さん 2024-01-05 19:35:07 |
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(些か彼女の目に輝きができたのを確認すると、変化を解き、ふんと鼻を鳴らしながら高らかに言う。人間を化かして驚かせるのは妖の中でも狐、狸や一部の猫妖怪の特権だ。イナリは特権という言葉が好きだった。人間であっても妖であっても特権を持つ者は優遇され、権威として尊敬される。イナリはあまり誰かに褒められたことが無かったから尚更上を目指した。そして他の追随を許さない程に精巧な変化を得られた。イナリが心から自慢できる数少ない取り柄だった)
お主の看病ごとき眠っていてもできるわ。手間なぞ感じん。それにこの我が看病してやったのだから治るのは当然じゃ。
じゃが…些か疲れたな。湯に浸かって眠るとする。
(礼を述べられると満更でもない表情を浮かべながら、尊大な態度を全面に出す。折角話し相手ができて退屈しなくて済んだのに、熱に侵されていてはまたぞろ退屈になってしまう。これはイナリの本音だった。何だかんだ言えどイナリは人間が好きだ。だから彼女の訪問も十分に歓迎している。直接口に出さないだけで。とはいえいつもは大した活動もせずに一日を終わらせているので、久しぶりに今日は疲れたというのも本音で。大きく息を吐くとぐいっと伸びをする)
…あ、それなら私が準備を…──。いや、…そうね。
何でもないわ。私は本でも読んで、また眠気がきたら適当に休んでいるわ。
(相手の尊大な態度にも、それはそうね、と軽く頷きながら相槌を打つと、疲れたという彼に看病のお返しも兼ねて何か出来ることは手伝おうと考える。しかし、すぐさま考えを改めて首を横に振ると、大人しく本でも読もうと言い、鞄に入った書物を取り出そうとゆっくり布団の上から出てくる。
よくよく考えれば此処での勝手が分かったものではないし、下手に手伝おうとして邪魔をするより、病人は病人らしく静かにしていた方が良いだろうという結論に至ったようだ。
看病なんかに手間を感じないとは言っていたものの、それでも他人の世話はやはり疲れるだろうし、余計なことをしてまた体調が悪化するのも忍びない。
ただでさえ先程から彼の布団を占領してしまっていた訳だし、自分はまた適当に寝床を見つければよいなんて思いつつ、鞄から取りだした小説の頁をペラリと捲り始める。)
ふん。賢明な判断じゃ。大人しくしておれ
(小説を捲り始めた彼女に言葉を掛けると、本殿を出て行く。雨はもう止んでおり、空に掛かっていた分厚い雲も散っていた。本殿のすぐ裏の森を一直線に進むと開けた場所が見えてくる。そこにある露天の温泉がイナリの自作の風呂だった。この辺りに温泉は無いが、張った水をイナリの妖術で温泉へと変異させているのだ。周囲に結界が張っており、イナリや彼が許可した者にしか存在は感知できない。おかげで誰の視線を気にすることなく入浴を楽しめる。着物を脱ぐと変化を解いて、静かに湯に身体を沈める。湯に浸かりながら大きくため息を吐く。イナリは星を見ながら、この解放的な湯に浸かるのが好きだった。ここでは何も考えることなく疲れを癒せる至上の空間。普段なら小一時間と入っているが、今日は病人がいるのであまり長湯はできない。小説を読んでいる途中にパタリ。そんな状況が脳裏を過ぎる。イナリが目を離すと人間はすぐに命を散らす。彼女もそうだったらどうしようか。いっその事、そうなる前に妖にしてしまえば──そこまで考えて首を激しく横に振る。何を考えている。人間を妖にするなんて禁忌中の禁忌だ。自分の中の恐ろしい考えを振り払うと湯から上がり、身体を左右に揺らして水を払う。着物を咥えると本来の姿のまま、本殿に瞬間移動する。着物を置くと、繧繝縁の上に座りぼそっと呟く)
…お主のせいで心休まらんかった。
(本殿から出ていく後ろ姿を静かに見送ると、そのまま視線を落として読書に勤しむ。静かな空間で本を読むのは昔から好きだったし、何より物語の世界に没頭することで余計な考え事をしなくて済んだ。
暫くして幾つか頁が進んだ後、ふと、繧繝縁の上から声が聞こえた気がして視線を上げる。すると、そこには変化を解いた彼の姿があった。いつの間に帰ってきてたのかしら、と小さく首を傾げるも口には出さず、一旦本を閉じて代わりの返答を。)
…九尾様を困らせるなんて、私ってばなかなかの罪人みたいね。そんなに気にしなくても、大分調子も戻ってきたし、もうその尻尾を触らせて欲しいなんて言わないわよ。
(くすりと揶揄うように笑みを含みながらそう言うが、彼が何を想って心が休まらなかったのかは検討がついていなかった。さしずめ、厄介な人間の相手に苦悩が尽きないのだろう程度にしか考えてはいない。凡そ、その考えも間違いでは無いのだろうが、あまり勝手な憶測はしないようにしてもう一度本の頁を捲って視線を落とす。…正直なところ、あの尻尾にはまだ触りたい気持ちはあるが、直接口に出すことは控えようとは思う。)
…次、我に「せくしゃるはらすめんと」をしたら祟ってやるからの。将門も道真も崇徳院も真っ青になる程の祟りじゃぞ
(九つの尻尾を大きく広げて凄んでみせる。実際のところイナリには祟りを起こせるほど抱えている恨みはないのだが。一応凄んでみせたがきっと彼女にはノーダメージだろうなと思い、すぐに辞める。此方が禁忌に触れる寸前だったというのに当の本人は涼しい顔で小説を読み耽っている。何も知らないとはめでたいことだと少し口角を上げる。イナリの感情をここまで振り回すとは並の人間ではない。まさに罪人だ。まさか……彼女は本当は人間ではなく妖なのではないか。イナリよりも上級の位を持つ妖が人間に変化し、イナリを惑わそうとしているのではないか。そんな邪推をしてしまう。まだイナリが幼く下級の妖だった頃、よく他の狐妖怪に化かされて揶揄われたものだ。あの頃の仲間はもうこの地にはいないが、今でも時々別の妖の気配を感じることがある。一瞬、お主は本当に人間か、なんて尋ねそうになったが冷静に考えて非現実的過ぎるので黙っておく。クシクシと手──今の場合は前足だが──顔の辺りを毛繕いすると大きな欠伸を一つ。繧繝縁の上で丸くなると遠目からは普通の狐にしか見えないだろう。暫く丸くなったままでぼーっとしていたが、もう一つ大きな欠伸をすると目を閉じながら彼女に告げる)
我は眠る。体調が悪うなったら遠慮なく起こせ。ぽっくり逝かれても迷惑じゃからな…。
あら、祟られたら困るわ。
(尻尾を大きく広げ凄む彼の言葉には再度視線を送りつつ、眉尻を下げながら祟りは困ると短く返す。実際に祟られたら一体どんな事が起こるんだろうか、なんだか少しばかり興味もあるが、本当に祟られたらやはり堪ったものではないので、許しがあるまではあまり近づかないでおこうかと考える。…そもそも許しを得られるかは分からないが。ただ1つ微かに分かっているのは、差程嫌われてはいないはず、と言うことだけだった。しかしこれも単なる勘でしかないので彼の本心は謎のままだ。
そして、眠る、に続く発言には「そうね、分かったわ」と頷き、瞼が閉じられる様を静かに見守っていた。本来ならばあの布団で寝ているのだろうが、恐らく自分に遠慮をして繧繝縁で丸まっているのであろう。その姿だけ見ればなんとも可愛らしい狐の子のようである。
そのまま暫く小説を読み進め、彼の寝息が深くなるのを感じると静かに立ち上がり、布団を手に取っね繧繝縁まで上がるとそっと彼の体に掛けてやる。自分は大分休んだからかまだ眠気は来ないようだし、とその後も読書に勤しむが、幾つか時間が経った頃、少しばかり身体を動かしたくなり、興味本位で本殿から出ていく。
社に封じたと言っていたが、果たしてどこまで行けるのだろう、とこれまた自由奔放にも散策するつもりらしい。)
……ん?
(彼女が出て行く足音で耳がピクリと反応する。ゆっくり目を開けると本殿から出て行った彼女の背中を確認した。一瞬連れ戻そうか迷ったが大丈夫だろうと判断して再び目を閉じる。鳥居より先へは行けないだろうし、裏に回ってもイナリの温泉より先へは行けないようになっているはずだ。それに彼女はきっと身体を動かしたいだけで脱走の意図などないだろう。もし無理に鳥居を越えようとし続けたならば、並の人間なら形状を保てなくなってしまう。彼女のことだ。一度越えられないと分かったら大人しく帰ってくるだろう。ふと自分にかけられている毛布に気が付く。きっと自分に気を遣ってのことだろう。此方が繧繝縁の上で寝ているから寒そうに見えたのだろうか。湯上りの自分の身体は毛布など無くても大丈夫だというのに。つい頬が緩む。なぜかは分からない。彼女から毛布を掛けて貰えたことが無性に嬉しかったのだろうか。一体なぜ? と考えても考えても答えの見つからない問答をしている内にすっかり眠気が逃げてしまった。折角だからと起き上がると社の屋根へ登り上から彼女の様子を観察することにする。)
(雨もすっかり上がり、夜空に輝く星たちを眺めながら、ゆっくりと外観にも視線を動かしつつ周囲を巡ってみる。朝はあの雨のせいで全く周囲へ目を配っていなかったので、今までずっと中に居たのに、初めて訪れたようで不思議な感覚に陥る。
暫くして正面へ戻ってくると、ぴたりと鳥居の前で足を止める。鳥居の先に見える景色はなんら変わりなく見えているはずなのに、何故かこの先へ行ってはいけないという気がしてくる。恐らく結界か何かがあるのだろうかと頭では理解するものの、一歩、また一歩と歩み寄っては鳥居の先に向かって右手を伸ばす。しかし、それもまたすぐにダラりと下ろせば、その場でゆっくり腰を下ろす。
冷たく流れる風に膝を抱えて腕を擦りながら、暫く変わらない体勢のままじーっと鳥居の先の景色を眺めていた。)
──…みんな、大好きよ。
(相変わらずその顔は憂いを帯びていて可愛げのある笑顔とは無縁の表情だったが、それでもその声音は優しさに満ちていた。
この言葉は勿論、あの憎たらしい教え子たちに向けられた本心でもあるし、同じ教壇に立っていた同僚たち、昔の同級生たち、両親、みんなに向けた言葉だった。色々な事があってすっかり心身ともに疲弊してしまって霞んでいたけれど、元々自分は人が好きだった。寂しかったり、辛かったり、悲しかったりと嫌な事ばかりだったし、自分は人に嫌われるタイプだった。しかし、自分に“嫌いな人”は居なかったのだ。
鳥居の向こうへ戻れないと悟り、今更ながらその事に気がつくと、表情は変わらず涙だけがぽろっと流れていく。
袖で流れた涙を静かに拭うと、そのまま立ち上がり、何事も無かったかのように本殿へ戻っていく。)
(イナリは人間の感情が苦手だった。人間の感情を理解するのがイナリは不得意だから。イナリにも感情はある。だが人間が感じるそれとは違うことをよく知っている。人間が寿命を恐れる感情をイナリは理解できない。長寿な妖だから。人間が人間を嫌う感情をイナリは理解できない。人間はとても興味深い生き物だから。人間が悠久の時を生きたいと願う感情をイナリは理解できない。長寿が時には苦痛であることを知っているから。要は複雑な感情が理解できないのだ。好きなら好きだと言葉で言えずとも行動で示せばいい。嫌いなら嫌いだとはっきり主張すればいい。だって嫌いなのだろう? 単純明快に主張するために言葉を得たのだから。イナリならそうする。だから人間たちもそうすればいい。こういった一種の傲慢がイナリの悪癖の一つだった。実際はイナリだって複雑な感情を抱いているはずなのに。500年以上生きていても、それに気付けないのがこの妖の哀れな所だった。
だから彼女が涙を流しながら呟いた言葉で理解が及ばず暫時フリーズしてしまった。なぜ? なぜ泣いているのに「好き」だという? 自分は人から好かれてないと言ったでは無いか。なのに、なぜ人を好く? 到底理解の及ばない領域にまで思考が発展してしまうと首を傾げることしか出来ない。
やがて彼女が本殿へ戻り始めると慌てて瞬間移動して繧繝縁の上に戻り、寝たフリをする。なぜそんな小細工をと問われれば、女子の後を一々着いて回る不埒な妖とのレッテルは貼られたくなかったから。姿勢も毛布の位置も先程とはえらく違っていたが、寝たフリを貫いていれば寝相が悪いだけだと思い込んでくれるに違いないと楽観して、スースーと寝息を立てる)
(夜風に当たった為か少しばかり咳き込みながらもゆっくり歩みを進めて本殿へ戻ってくると、ちらりと繧繝縁の方へ目線を動かして歩みを止める。
明らかに先程とは違う寝姿を気にするようにじっと凝視するが、 寝相の事を考えると何ら違和感はないかと心の中で思う。
だが、毛布がズレたまま放置するのは頂けないようで、足音を立てないよう静かに近付く。毛布を直そうと手を伸ばすが──右手は狐のおでこを捉えて軽くデコピンをかまして。)
…“狸寝入り”は感心しないわね。
寝息を聞けば、本当に寝ているかどうか分かるのよ?
(上記を述べて毛布の位置を正しながら小さく笑うと、その傍らに座り込む。
寝息なんて一見変わらないように聞こえるが、よくよく聞けば睡眠状態になった瞬間から寝息のリズムや音が微妙に変わるのだ。本殿から出る前、小説を読みながら静かな部屋に小さく響く寝息を聞いていたものだから、それが変わったのに気付くことが出来た。流石に外まで付いてきた事には気が付いていないが、人を観察して来た結果身に付けた見分け技らしい。)
……てっ!
(額に一撃食わせられると小さく声を上げてビクンと尻尾が跳ねる。しまったと思い何とか取り繕おうとするが、彼女の"狸寝入り"を耳がぴくんと感知すると、観念したように目を開けるとまるで悪戯を咎められた子供のように呟く)
あんな下品な者共と一緒にするでないわ…"九尾寝入り"と言わんか。
…お主が居なくなったから目覚めてしまったんじゃ。お主が悪い。だのに我に狼藉を働くとは。最近の女子は斯様に乱暴なのか。
(イナリは狸が嫌いだった。狐妖怪の中でも小柄なイナリは狸達の格好の揶揄いの対象だった。子狐妖怪だった時分には落とし穴に落とされ、尻尾を掴まれ、欠伸をした時に口に中に唐辛子を入れられ、年がら年中悪戯されていた。極めつけはイナリの変化への熱意を見た狸が「この変化バカ」とイナリに軽口を叩いた。以来イナリは狸が嫌いだった。だからこそ彼女の狸寝入りには、そこそこ不機嫌そうに抗議する。狸と名のつくものは、たぬきうどん以外全て消す。それがイナリの密かな野望だった。
彼女のデコピンは軽かったが痛みを感じなかった訳では無いので尖った口をもっと尖らせて抗議する。妖であるイナリにデコピンまでしたのは彼女が初めてだ。この人間は本当に自分を妖だと思っているのだろうか)
あら、それはごめんなさい。
ちょっと散歩したくなって…、雨が止んでいて良かったわ。
(狸を下品だと話すところを見るに、狸と狐の仲の悪さが伺えた気がして妙に納得出来た。というのも、なにかとこの両者は対で描写されることが多く、これもメディアなどの影響で印象付いているだけかと思っていたが、あながち間違いではないようだ。…どちらかと言えば彼が一方的に嫌っているように見えなくも無いが。
自分が悪いと言われたことに対しては足音が煩かったのだろうかと素直に反省しつつ謝罪をするが、その他の小言に対しては慣れてきたのか特に触れることも無く無反応を決め込む。此方としてはわざわざ寝たフリをする必要があったのか問いたいが、それは胸の中に秘めておくとして、ゆっくり立ち上がると繧繝縁から降りていく。
そして、床に置きっぱなしにしていた小説を手に取り鞄へと仕舞うと、1つ質問を。散歩と言っても外周しかしておらず、建物の中までは散策していないらしい。)
…そうだわ、朝食ぐらい作ろうと思うのだけど、台所ってあるのかしら?……そもそも、イナリ様って人間と同じ食事を摂っているの?
…我は妖ぞ。人間と同じものを喰っていると思うか?我が喰っているのは…
(すくっと起き上がるとゆっくりと彼女に近付く。その眼光は鋭く、彼女の瞳だけを捉えている。瞬間、九つの尻尾を巧みに使い、彼女を動きを封じる。後ろ足で立ち上がると鋭く長い爪を彼女の肩へ置き、まるで刀のように尖った牙をその首筋へ──)
…なんてな。我は永く人と共に生きてきた故、人と同じものを食える。外に出たのなら分かったと思うが、本殿より出て左に社務所がある。中は散らかっているが奥が土間になっていてな。そこが台所じゃ。お主が使っている台所とは、ちと違う故、注意せよ。食材や調味料などは壺に入っている物を使え。それと飯を作る時は我を呼べ。火を起こす手間を省いてやるでな。
(首筋に牙を立てる寸前で、ふっと口角を上げると何事も無かったかのように質問に答える。彼女を解放すると繧繝縁の上に戻り、再び丸くなる。一方的に此方が揶揄われているみたいで癪だったので此方からもちょっとした"冗談"を。イナリは人間を捕食対象とする類の趣味は無いが、できないことは無い。幼い頃に一度だけ食べさせられたことがあるが、とてもイナリの口には合わなかった。口にした途端に迫り来る嘔吐で苦しみ、一週間は水しか喉を通らなかった。おかげで周りの妖からは変わり者のレッテルを貼られたが)
( 九つの尻尾に囲まれ身動きを封じられると、鋭い爪や牙にさっと視線を逸らし。しかし、直ぐに解放され彼の冗談だったと知ると、静かに息を吐いてまた視線を戻した。一見すると相変わらず涼し気な顔をしていたかもしれないが、内心驚いていた。彼が人を食べる訳は無いと思ってはいたが、爪や牙が迫ってくると本能的に恐怖感を煽られるのだろうか。)
……社務所の奥ね、分かった。
少し覗いてくるわ。また料理を始める時にお願いするわね。
(台所の場所や勝手を聞くと素直に頷き、一度どんなものか見てこようと考える。料理は人並みにできると自負はしているが、彼の言うとおり現代の台所とは大分違うだろうし、何かあれば再度彼に確認しようと思う。
それからまた一人で散策がてら社務所に向かえば、言われた通り奥の方へと進んでいく。その時、着物の袖が散乱していた荷物の山にぶつかってしまったらしく、近くにあった小さな壺が落下し割れてしまった。慌ててしゃがみこみ壺の欠片を集めていると、指先からピリッとした痛みが走る。みてみると、鋭く尖った破片の先端が刺さってしまったらしく、痛みと反比例して鮮血だけが垂れていて。
そのまま破片を1箇所に集めてゆっくり立ち上がると、掃除道具も借りなければ、なんて呑気に思っていて。)
(彼女の言葉にこくりと頷くと社務所に向かう彼女の背を見送りながら先程の"冗談"を少しだけ悔いていた。表情には出ていなかったが彼女は自分に少なからず本能的な恐怖感を抱いていただろう。視線の動きで察しがついた。"目は口ほどに物を言う"と謂われているが、全くその通りだ。それでなくてもイナリは人間の負の感情を察知することに長けていた。永く人間と時を共にしてきて得たものが、人間の脆さと愚かさを見せ付けられたことと、負の感情ばかりを見抜けるようになったことでは、割に合わない。もっと人間の明るい感情を見抜ける力が欲しかった。
彼女は自分の冗談に驚いたことだろうな。やはり首に牙を寄せたのはまずかっただろうか。些か真に迫り過ぎたか。なんて見当違いな反省をする。イナリは時々ピントがズレていたり気が付かなかったりすることがある。だから初めて社務所に入った彼女があのガラクタの山を難無く抜けることができない、なんて想像もしなかった。イナリが行けるのだから彼女も行ける。この妖の傲慢さが出ていた。
数分経ってようやく彼女のことが気になり出す。上体を起こすと人間体に変化し着物を着用する。まさかガラクタの下敷きになってはいまいな。そんな不吉な妄想をしながら社務所へ向かい入口を覗き込んでみる)
お主、覗くだけでどれ程、時を費やすつもりじゃ?
(荷物が散乱していようと少しばかり気を付ければ抜けられるものだと思っていたし、実際そうだった。しかし、普段着慣れていない小袖を着ているだけでもどうも狭いところでの身動きがしづらく、壺を割った後も資料の山を崩したり、踏みそうになったりと散々だった。おまけに大昔の道具や資料が残っている為、そこに興味が移りだしついつい台所までの短い距離で寄り道ばかりをしてしまう。
ふと入口の方から声を掛けられると、ちょうどこの社務所の地図なんかが記された冊子を見つけて拾い上げた頃だった。)
……面白いものがたくさんあってつい。というか、掃除しなきゃ駄目ね。
…あと、ごめんなさい。そこの壺を割ってしまったの。
( すぐさま手にしていた冊子を近くへ放ると、肩を竦めつつ言い訳を。そして、先程壊してしまった破片の山を指差すと、先程切ってしまった指先はさっと背の後ろに隠した。ただでさえ情けない姿を見せてばかりだし、次は怪我をしたなんて知られたらまた呆れられるだけだと思ったらしい。
そこまで言うと、やっとのこと土間まで辿り着き、彼の言う言っていた調味料や食材の入った壺はどれだろうかと辺りを見渡す。)
うん? …ここにあるのはガラクタばかりじゃ。お主が割ったのは京で有力だった公家が名のある職人に作らせた壺。乱世の動乱の中で略奪され、流れ流れて我の許へ献上されたものじゃ。お主らからすれば年代物の高価な壺かもしれぬが、我は壺には興味無い。
(さっと後ろに隠された指が気になったが、それよりも派手に割れた壺の方に意識がいった。これを献上してきたのはいけ好かない武士だった。これをやるから我が宿敵の一族郎党を滅ぼせ、と言ってきた。生を司る神社で何を言うかと怒鳴り、その場で妖術を使って強制的に神社から追い出した。壺を大切そうに抱えて恩着せがましく献上してきた様を思い返し、愉快そうに笑う。不謹慎を言うから何百年越しにバチが当たったのだ、ざまあみろ。イナリは心の中で舌を出した)
…料理用の壺はこっちじゃ。これは割るでないぞ。それと…何故指を隠す。
(いつの間にか辺りを見渡す彼女の隣に移動していると、壺の場所を指で指す。薄暗かったので指先に火を灯らせ、明かり代わりにする。壺は台所横の棚に置いてある。少し暗いのと、辺りがゴチャゴチャしているため分かりにくい。なるほど彼女の言う通り、掃除は必要だ。いくらガラクタばかりとはいえ処分も必要だろう。
壺に向けられていた意識はすぐに彼女の指に向いた。隠していた指を掴むと目の前に突き出させる。血が、流れていた。一瞬イナリの動きが止まる。イナリは血が大嫌いだった。血は死の象徴だから。刺され、殴られ、撃たれ、病に侵され。過程は千差万別だったが、この赤い液体を身体から流したものは皆死んだ。人間達が死んでいった。じゃあ彼女も──嫌な記憶が甦り目から光が消えかけたその時、ハッと我に返る。彼女は壺を落とした。その時の破片で切っただけだ。何も夜討ちに遭った訳では無い。第一、こんな指先程度の出血で死ぬものか。自身を落ち着かせるように大きく息を吐くと彼女の指を解放し気まずそうに言う)
…些かガラクタを溜め込み過ぎたな。我が処分しておく。
(割れた壺の出処を聞くと、そんなに年代物だったなんて、と内心少しばかり焦る。しかし、言われてみれば此処にあるのは同様に歴史あるものばかりだろうが、実際表に出されることが無いのならば彼の言うとおりガラクタ同然なのかもしれない。まぁ、それでも多少罪悪感は残るが。
それにしても、これだけの物が献上されていたのかと考えると、昔は大層人で賑わっていたのだろう、と当時の光景を想像してみる。だが、そんな想像もいつの間にか隣へ来ていた彼に腕を捕まれた事で現実へと引き戻された。)
…だって、貴方皮肉ったらしいから怪我したなんて言ったら─……、。
ねぇ、ただの私の不注意よ。片付けなら私も手伝うわ。
( 何故隠すのかと問われれば、思っていた事を正直に白状するものの、指の出血を見て動きを止めた彼を不思議そうに見つめた。何やら考え事でもしているのか、じっと鮮血を見る彼に何やら不安を感じ、名を呼ぼうとした。しかし、その刹那気まずそうに掴まれた指は解放され、開きかけた口が閉じる。
しかし、すぐにまた口を開くと、彼の手に怪我をしていない方の手でそっと触れると、彼の気持ちを暗示してか否か、小さく微笑みかけた。)
…そうか。好きにせい。ただ怪我はするな。面倒じゃ。
(彼女の微笑みを見てようやく冷静さを取り戻すと、いつものように人を見下したような表情で鼻で笑う。口ではこういったが、手伝わせる気など更々ない。彼女が眠った後にでも一人で片付けを済ませる。その方が安全だ。あの血を見てイナリは人間が脆いことを改めて再認識した。油断していた。こんなことを言えば大袈裟だと彼女は笑うだろうか。でもイナリは恐ろしくて仕方がない。これまで自分が気に入った人間はすぐにいなくなってしまったから。そこでようやく気付く。我はこの女子を気に入っているのか──ここまでイナリに物怖じしない人間は初めてだ。自分はそういう人間に会ったことがなかったから新鮮さ故に彼女を気に入ったのか。なんて呑気に自己分析をしながら彼女の方へ向き直る)
夜も更けた。お主はもう眠れ。夜更かしは万病の元じゃ。それでなくともお主は患いの身。人間は元々が脆くか弱い。まるで赤子じゃ。今のお主は赤子の中でも産まれた刹那の赤子じゃ。ちょっとの外圧で傷が付く。
(標準語に訳すると『病気なのだから体調のためにもう寝なさい』になる。彼なりに一応は気遣って言葉を紡ぐ。ただし一々尊大な物言いをしなければ死ぬ病にでも掛かってるのかと疑いたくなる位に素直に言わない。彼女の皮肉ったらしいという評は全くもって正鵠を得ているが、当の本人は褒め言葉だと受け取っている節があるから厄介だ)
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