掲示板ファンさん 2023-08-25 23:22:35 |
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【柏葉 立夏】
けたたましいサイレンが辺りに鳴り響く。
周囲の野次馬たちと同様に事故現場を呆然と見ていたが、ふと背後を振り返るとそのまま駆けだした。つい先ほどまで一緒にいたのに、彼が忽然と姿を消していたのだ。
嫌な胸騒ぎがする。早くあいつを見つけなければ。
薄暗い夜道を必死に走りながら、鞄の中へ片手を突っ込む。スマホを取り出して、履歴から彼の電話番号にかけたものの、「おかけになった電話は……」というアナウンスが流れるだけだった。時間とバッテリーを無駄にしたくないから、スマホを鞄にしまう。
徐々にスピードを落としつつ、呼吸を整える。体だけでなく、頭も動かすべきだ。
交通事故の現場からはだいぶ離れたと思うが、あの極度の運動音痴で足の遅い彼がそこまで遠くに行くとは考えられない。第一、何も言わずに傍を離れるような人間ではないはずだ。
――あいつがまだ人間でいればの話だが。
【柏葉 立夏】
ゆっくりと息を吸い、吐き出す。精神を集中させて、夜道にじっと目を凝らすと微かに警告音が聞こえてきた。パトカーのサイレンよりもずっと静かで、頭の中に直接聞こえてくる奇妙な音。
「ありがとう、天使様。できれば聞きたくはなかったけど」
危険が迫っているという知らせに、ますます嫌な予感が高まっていく。だが、ここで引き返すわけにはいかない。警告音に導かれるまま進んでいくと、公園に辿り着いた。時間は午後7時を過ぎた頃。
さすがに、夜の公園で遊んでいる子どもなど一人もいなかった。かと言って、大人の姿も見当たらない。公園の敷地内に足を踏み入れ、すべり台とブランコの前を通り過ぎる。数少ない街灯の明かりを頼りに、公園の中央へと向かっていく。広場のような開けた場所まで近づくと、警告音がより強く響いた。音は次第に無機質な声へと変わる。
『哀れな獣』
『殺せ』
『殺せ』
『殺せ』
「蓮!」
天使のお告げを遮るようにして彼の名を叫ぶ。すると、誰もいないはずの広場に黒い霧が立ち込め始めた。
【柏葉 立夏】
「迎えに来てやったぞ。ほら、早く帰ろうぜ」
平静を装い、普段通りに話しかける。しかし、夜の闇よりどす黒い霧の中から聞こえてきたのは、蓮の声とは似ても似つかない獣の低い唸り声だった。霧が揺らめく瞬間、僅かに目を見張る。
もやもやと宙を漂っていた黒い霧が集まり、まるで狼のような輪郭を形作っていた。再び獣が唸り声を発する。言葉は解らずとも、殺意を向けられていることだけははっきりと理解した。人間としての理性を失った彼に、説得という平和的解決のための手段は最早通用しない。獣から目を離さないまま、静かに鞄へと手を伸ばして護身用の投げナイフを掴む。
「せっかくのデートが死闘になるなんてな」
と小さく呟いて顔をしかめた。先に動いたのは獣だった。勢いよく一直線に突進してくる獣に対し、右方向へ跳んで回避する。すぐさま体勢を立て直し、ナイフを構えたが、獣の姿はどこにもなかった。暗闇に紛れて姿をくらませたらしい。己の荒い息遣いと耳障りな天使の声だけが聞こえる。
『殺せ』
『哀れな獣』
『殺せ』
『殺せ』
うるさい。苛つくあまり、舌打ちしてしまう。と同時に真後ろでヒュンと風を切る音がした。
【柏葉 立夏】
激痛のあまり、思わず顔を歪める。どうやら鋭い爪で背中を引っ掻かれたようだ。倒れそうになったが、足に力を入れて踏ん張った。ふざけんな、この日のために買った服だってのに! そんな怒りを込めつつ、振り向きざまに反撃のナイフを放つ。しかし、回転しながら飛んでいったそれは、何にも当たることなく地面へと落下した。実体のない獣相手では圧倒的に不利だ。神経を研ぎ澄まし、獣の気配を探る。妙なことに足音も声も聞こえなくなっていた。消えた、あるいは隠れているのか。だけど、蓮なら他の理由が思い当たる。
「……血」
後ろ手で背中を擦る。当然、出血中の傷に触れれば手のひらも真っ赤に染まった。血塗れの手を前方に掲げてみる。
暗闇の中から、くぅん、と弱々しい鳴き声がした。声のする方に向かって、ゆっくり歩いて行く。手を伸ばせば、柔らかい動物の毛の感触があった。見た目は黒い霧みたいなのに、輪郭をなぞるように撫でていくと、ただの大型犬としか形容しようがない。獣の頭から頬、顎まで付着した血液。獣はされるがままだった。ああ、やっぱり、こいつは怯えている。
「そうだよな。お前には殺せないよな」
とりあえず命拾いしたことに安堵する。それから、獣化しても本質は変わらないままの蓮が愛しく思えて不覚にも笑ってしまった。
【柏葉 立夏】
「りっか……りっかぁ!」
嗚咽交じりの声で名前を呼ばれる。が、無視して無理やり唇を塞いでやった。蓮にはいつも笑顔でいてほしいんだけど、たまにはこういうのも悪くないかもしれない。というか、尋常じゃないくらい興奮する。なんでだろう。以前なら肩に手を置いて軽く唇に触れるだけで満足できたのに。今は舌を絡め合うほどの深い口づけがしたかった。逃げようとする蓮を抱き寄せて、口内に唾液を流し込む。もちろん、彼は涙目で嫌がっていたけれど、結局観念して飲み込んでくれた。そこで唇を離すと、蓮は赤くなった顔(二つの意味で)をこちらに向けてわめき始めた。
「何すんの! 苦しいでしょ!」
「は? お互い様だろ。こっちはお前に背中をざっくりやられたんだし」
「そ、それはごめんだけどっ!」
「てか、いつの間に人間に戻ったんだ? さっきまで人の言葉も話せてなかったじゃんか」
ふと疑問を投げかけると、蓮はハッという顔をしてから、口元に手を当てて考え込んだ。獣から完全な人間に戻ったわけではなく、黒い犬のような耳や尻尾が後遺症として残っているのだが、それを除けばほぼ元通りに見える。
「記憶があやふやだから断言はできないんだけど……立夏の血の匂いを嗅いだ時にね、自分が人間だったことを思い出せた気がするんだ。そのあと、キスされたら体も記憶も元に…って、そだ! 血! 立夏、血! 救急車呼ぼう!?」
「うるさ…そんなに騒ぐなよ。これくらい唾つけとけば治る」
生まれつき自然治癒力がかなり高い体質だから、今回もすぐに治ると思う。比喩だと思われがちだが、RPGと同じで一晩休息をとれば全回復する体だ。それでも、蓮がパニックになっているのは怪我を心配しているからではない。血が苦手だからだ。
「いいから、もう帰ろうぜ。明日早いんだし」
「明日? あっ、学校どうしよう!? 耳と尻尾、明日までに取れるかな?」
「獣化の後遺症は個人差あるけど、最低でも一週間はそのままだな」
「ふえぇ……!」
ずっと小声でどうしよう、どうしようと呟き続ける彼の手を引いて公園を後にする。背中の傷の痛みはほとんど感じなくなっていた。天使も空気を読んでいるのか静かだ。日常を取り戻したことに一安心しながら帰路につく。
【柏葉 立夏】
帰りは極力人通りの少ない道を選んで、だいぶ遠回りすることになった。蓮が獣の耳と尻尾を他人に見られたくないと言うのだから仕方ない。尻尾は服の中にしまってどうにか隠せたものの、頭頂部の獣耳を隠せそうなものは持ち合わせていなかった。やむを得ず、蓮は自分の手で獣耳を覆いながら歩き続けていた。
恋人らしく家まで送り届ける……なんて考えたこともなかった。同じマンションに住んでいるため、意味のない気遣いだと思っていたからだ。蓮が住んでいる二階に着いたら、そこでバイバイしていいだろう。幸い、マンションの階段や廊下でも他人と遭遇せずに済んだ。だが、二階に着いても蓮は手を離そうとしなかった。むしろ、ぎゅっと強く握ってくる。
「なに?」
「今日はお家帰りたくない…」
「……は?」
一瞬、時が止まった。いや、自分がフリーズしただけか。
「そんな爆弾発言、どこで覚えてきたんだよ。諏訪の野郎か?」
「ううん、諏訪ちんは関係ないよ。ただ、ちょっとね…獣になっちゃったこと、お父さんに知られるのが怖くなっちゃって」
蓮が俯きがちにぽつりぽつりと話す。見るからに不安そうな様子の彼になんて言えばいいのかわからず、「そうか」と一言返すのが精一杯だった。蓮もおじさんも、当時と比べてメンタルはほぼ正常に近い状態にまで回復しているが、まだ獣のトラウマが完全に癒えた訳じゃない。慎重になるのは当然のことだ。では、これからどうすればいい? 俺が蓮のためにできることは……
「帰りたくないなら、俺のウチ来る?」
【柏葉 立夏】
「えっ、あー……うん」
と、彼がしばし逡巡した後、確かに頷いたのを見逃さなかった。階段を上り、三階へ。住み慣れた我が家だというのに、蓮がいるだけでこうも気分が高揚するものなのか。引かれたら嫌だし、表情には出さないけれど。
「ただいまー」
「お邪魔します…」
鍵を開けて部屋の中に入る。蓮がウチに来たのは今回で二回目だ。彼は少し緊張しているみたいだったが、リビングまで移動したところで違和感に気がついたらしい。
「立夏のお父さんとお母さん、いないんだね」
「そ。父さん、休日のはずだったんだけど大型の獣が出たとかで急に呼ばれてた。母さんはまだ海外だな。インド? エジプトだっけか」
鞄を床に置きながら答える。父は獣を討伐するハンターで、母は海外で活動しているカメラマン。二人とも大忙しで、一家団欒の時間など滅多にない。
「…? 立夏、背中の傷」
突然蓮が俺の背中にぽんと手を当ててきた。
「なに? 血が怖いならあんま見るなよ」
「こ、怖いけどそれよりも! 傷がもう塞がってるよ!」
なんで、なんでと繰り返しながらペタペタ体に触れてくる蓮。こいつ、わかってんのかなぁ。単なる好奇心以外の感情は……ないだろうな。
「だから言っただろ。すぐ治るって。もういいから、シャワー浴びてこいよ。お前にも俺の血がついてるから。ほら、頭とか顔とかさ」
「立夏がつけたんだよ! うー、わかった。先にお風呂行くー」
蓮は渋々というように浴室へ向かった。そういえば、髪や頬、手に血が付着していても、パニックを起こさなくなったな。完全に克服とまではいかなくても、少し気分が悪くなる程度で済んでいるようだ。
俺も手についた血を洗い流そうと、キッチンの流しに向かう。そこで手を洗うと、赤く滲んだ水が排水溝に吸い込まれていく。
「B細胞保持者の獣化は、強いストレスやショックによって引き起こされるんだよな……」
蓮の場合、ただ血を見ただけではない。考えられるのは、あの時目撃した交通事故だ。
【じっけんしせつにて】
今日は何月何日? わからない。
ここはどこ? わからない。
あなたは誰? わからない。
ここで何をするの? わからない。
なぜここにいるの? わからない。
壁も床も天井も、全部真っ白な部屋。真っ白で広い広い部屋。そこにぼくはいた。灰色のシャツとズボンを着て、左の手の甲には「7」と刻まれている。白い部屋には、ぼく以外の子どももいた。みんな、ぼくと同じ灰色のシャツとズボンを着ている。そして、左手の甲にはそれぞれ違う数字が刻まれていた。
「クロウサギはどこ!? どこに意ったの!? ねぇ、だれか志らない!?」
「9」の子が部屋中に響き渡る大声で言った。クロウサギは、「9」と一番仲良しの男の子だ。ぼく以外のみんなは数字じゃなくて、別の名前で呼び合ってるみたい。それを聞いて気づいたけれど、たしかに部屋にいる子どもの人数がこの前より一人減っている。
「大丈夫だよ。もうすぐここに帰ってくるから」
「もうすぐっていつ? ずっとかえって木てないんだよ? クロウサギ、詩んでないよね!?」
「もちろんよ。私たちは誰も死なない。だって、世界を作る使命があるんですもの」
世界を作る? 「9」と話している「3」は大人っぽくて話し上手だけど、こんな難しい話をしているのは初めて見た。ぼくは部屋の隅っこに座って、そのまま二人の会話を盗み聞きする。
「異きてるならいいけど…でも、だまっていなくなるなんておかしくない? ギンネコもいなくなったときあったけど、ケンサだって押しえてくれたし、すぐかえってきたのに。ぜったいクロウサギになんかあったんだよ! ちょっとさがしてくる!」
「だめよ。この部屋を勝手に出てはいけないわ。お願いだから、落ち着いて」
「キンネズミはしんぱいじゃないの!?」
「……」
「キンネズミ、ほんとはクロウサギがどうなったか史ってるんでしょ。なんで、花してくれないの。」
「……」
「もういい。じゃあね」
「9」は暗い表情でスタスタと足早に立ち去った。今度は、部屋にいる他の子どもに話しかけて情報を集めているらしい。そして、残された「3」は呆然とした後、顔を両手で覆い、「ごめんなさい」とか細い声で呟いていた。
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