真夜中のピエロさん 2023-07-07 19:26:00 ID:5a4928631 |
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(ざわざわと木の葉が薄闇の中で踊り、昼間とは一風変わった夜の顔を湛えた街を横目に、男は疎らになった通りをゆっくりと歩いていた。並木道の中でしばらく歩を進め、幾つかのレンガ造りの建造物を通り過ぎた先、小さなブラックボードを構えた可愛らしい建物の路地裏に人工的な光を見止めて、男の足先がそちらに向いた。街灯が居並んだ道が夜にしては明るすぎたのか、暗い路地に足を踏み入れてから男の目が暗闇に慣れるまで些か時間が必要だった。男が薄闇の中の光景を明確に捉えられるようになる頃には、優に1分半もの時が過ぎ去っていた。男は薄暗い路地裏の奥に先程通りから見えた灯りと同様のそれを見つけると、その光の発生源を確かめるべく歩み寄る。灯りの正体はどうやら飲み屋か何かの照明だったらしく、入口に吊り下げられた木製のプレートには“OPEN”の四文字が控えめなフォントで彫ってあった。男がこれまた木製の大分年期を帯びた扉に手をかけると、蝶番が僅かに鳴いて、風圧に揺れたドアベルが歓迎の音を奏でる。同時に店の奥から「いらっしゃいませ」と控えめな男性の声が聞こえた。視線を前方に戻してまず初めに目に入ってきたのは、きっちりと揃えられたアンティーク調の家具たち、そしてカウンターに立つ人影だった。男はカツカツと革靴を鳴らしてカウンター席に腰を下ろすと、机の上に印字された焦げ茶色の文字を追いながら、適当なものを選んでバーテンダーに声をかけた。しばらくして目の前にすっと置かれたグラスを持ち上げて唇に合わせて傾けた。ウィスキー独特の苦みと鼻に抜けるような熱をもって、それは男をいい気分にさせた。)
(いつもと同じ道、いつもと同じ夜の街独特のどこか冷たい空気を吸い込んで、男は薄暗い道をただひたすらに歩んでいた。この先にひっそりと佇む個人経営のバーが彼の最近のお気に入りである。静かな黒色の闇の中に靴の音だけが響く。男は人通りの見えない路地裏を進み、目的の特徴的な灯りを瞳に映すと、僅かにその瞼を下ろした。モノクロの中に色づく水彩のように、ゆらりと揺れた橙色の眩しさに数度目をしばたたかせて、室内へと続く扉を引いた。カランカランという鈴の転げるような心地の良い音が耳に入り、聞き慣れた店長の声がした。ふと手首に着けた腕時計の針を確認する。時刻はちょうど9時を回ったところだ。これもいつも通りだと鼻で小さく息を吐いて、顔を上げる。不意にそこで視界の先―――見慣れたカウンター席に珍しい色彩を捉えて、男は引き込まれるようにそちらに足を動かした。椅子に腰を掛けている青年の髪は灰で撫ぜたような空色で、こちらから表情は確認できないが、その後ろ姿からはどこか不思議な魅力を感じる。)
「―――ねぇ、隣いいかな?」
(男は青年の横の席に身を寄せて、そう言葉を発したが青色の彼が反応する素振りはなく、ひょっとすると警戒されたのだろうかと目を瞬かせた。こんな時間に男が男に話しかけられて警戒? そんな馬鹿な。男は一瞬脳内を過った考えをそうして振り払うと、もう一度、今度はつい数秒前より幾分か大きな声を出した。)
「――ね、青い髪のお兄さん。君だよ、君。隣座っていいかな?」
(夕日を差しいれたような橙で包まれる室内には優し気なジャズが流れている。それらはまるで揺り籠だった。それも大層心地の良いもので、時折、男の胸の内にある表情を感傷的に彩った。滑らかな女性の声で奏でられる音楽を聴きながら、彼は一度グラスを宙で傾けた。幸い、グラスの中で少量のアルコールが揺らめくのみで、それらが自身らの領分からせり出して、床を濡らすことはなかった。ただ、そこでゆらゆらと男を見つめていた。男は川のせせらぎでも見ているかのようだと思った。男が川に小石を投げ入れる。すると、広く、深い、水たちの都で彼らが応えてくれるのだ。やがて、グラスの中の液体が落ち着きを取り戻したのを見止めて、男はその瞳をすぅっと細めると、ようやっとテーブルにそれを預けた。いつの間にか入って来たのか、近くで深い男の声がした気がする。先程まで酒精の揺らめきに見惚れていた男はというと、それを背景に木製のテーブルに頬杖をつきながら、どこか映画の鑑賞でもしているような、上手く言えば、浅く夢のベールを被ったような気分でどこともつかない虚空を瞳に映していた。こんな静かな夜は久しぶりだな。そうして自身の心地に酔いしれている男の脇に誰かの手が置かれた。男はどうせ若者か素行の悪い阿呆でも、己を省みることも忘れた頭で無邪気に騒いでいるのだろうと考えて、特段それを気に留めることもしなかったが、些かの間をもって、男の頭を覆うベールは剥がされることとなる。つい数秒前、彼の横に少々唐突に表れた掌がとんとんとバーのテーブルを指で叩いた後、「青い髪の」という物言いを付け足した声を発したからである。いや、正しくは掌ではない。男が顔を上げると、視界に存在するのは優しそうな顔つきを湛えた男性だった。大人びた声の主はこの一人でここを訪れたらしい男性なのだろうと納得して、男はその瞬間、しまったと内心口を一文字に結んだ。あの時耳に入ってきたものは雑音などではなく、自分自身に問いかけられていた言葉だったのだと、今もこちらを見て律儀に返答を待ちながらどこか不思議な表情でこちらに顔を向ける男性を眼前に思った。)
…ああ、えっと…どーぞ。まぁ、こんな男の隣でよかったら、別に許可なんか必要ねぇと思いますし…まぁお好き…に?
(男はそう言い終えると、乾いた笑みを貼り付けて、また自身のグラスに視線をやった。)
「―――それはよかった。ありがとう。」
(男はそう言い終えると緩慢な動作で席に着いた。彼の動作と共に、彼の視界の先でさらさらと揺らぐのは淡く透き通るような白。相も変わらず邪魔くさい髪の毛だと男は思った。実のところ、彼の片目を完全に隠すように伸びた髪は彼自身の傷痕を隠してくれる大きな壁であるのだ。視界のほとんどをそれに覆われてしまうという欠点はあるものの、わざわざ目立つような場所にある傷を出会う相手皆に晒して置くのは、何より彼にとって居心地の悪さを覚えることだったからだ。男はゆっくりと瞬きをしたその先、瞼の裏に記憶を描いた。誰も彼も、男の満面を目に映すと、この傷痕ばかりに視線を刺す。右顔面に大きく残った縫い痕はそうして時偶、彼の精神を大きく揺さぶった。その嫌な揺れは間もなく全身に伝わり、ぞっとするような思いをいつも彼にさせるのであった。だから男は恐れている。自身の右側に刻まれたそれが他人の瞳に映ることを。男は閉じていた目を開けると、適当に目に映ったアルコールを選んで店長にその旨を伝えた。それから何もすることがなくなったので、隣で頬杖をつく青い髪の彼に視線をやった。)
「…あのさ、間違っていたら悪いんだけども…もしかして、ここで飲むの初めてだったりする?」
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