匿名さん 2023-03-08 21:19:11 |
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そう仰るであろうことは承知の上ですよ。まあまあ取り敢えず、一杯ぐいっといってしまいましょう。
( こういった攻防はもはや日常茶飯事といえた。次第に色づくポットの中身をちらりと確認してから、念押しにもう少しばかり蒸らすのがポイントだ。素朴なマグカップを二人分用意しながら、およそ茶を指しては用いないような俗っぽい言い回しで、あまり効果のないように見える説得よりもよほど確実な薬効を頼りにすることを宣言するのだった。十分に蒸らした茶は揃いのマグカップへ。ぐいっといってもらうためにはしばし冷ます必要があるだろうと上げた視線は、繊細な手つきで書簡を手繰る貴方へと射止められた。そばで不規則に揺れる蝋燭の炎から、ふと、夜半に喉の渇きを覚え出た廊下で、貴方の部屋から漏れる光を目にしたことを思い出す。軍人の身の上にも夜間の作戦は珍しくなかったものだが、家を持ち慎ましやかに暮らす人々というのは普通、蝋燭の消費を嫌って日暮れと共に眠りに落ちるのだという。夜に親しいという互いの共通点は、この村にあっては紛れもなく部外者の証なのかもしれなかった。どこか焦点の合わないようにも見える瞳とかち合うと、気付け薬を飲んだかのように数度瞬いてから眉を下げて微笑み、程よく冷めた香草茶を食卓へ運ぶのだった )
……すみません、見過ぎましたね。先生の瞳を眺めてると、時折思考の波に攫われそうになる。……そこから掬い上げてくれるのも先生だから、何度も向かっていってしまうのかもしれませんが。
見て気分の良いものではないでしょう。
(彼の謝罪の言葉に、困ったような恥じるような、でもどこか世間を相手をせせら笑う余裕を含んだような表情を浮かべ視線を下に外す、不吉な赤色、人を悪に誘う呪いの色は奇跡の子にも有効なのか、冷ますためにふっとゆっくり息を吹きかけたお茶の、水面に浮かんだ茶葉の欠片が不安定に揺らめいて。それに比べ自身を見た目も中身も凡庸だと卑下する彼の瞳は、いつか見た森の中の美しい鹿のようだと先程感じた、こちらをじっと見つめる無垢な獣と同じそれは、自身の全て、悪事も秘密も欲も、何もかもを曝け出してしまいそうになる深い色彩、誘惑の呪いは寧ろ其方にあるのではないかと思えるほどに。「さて、貴方は早く休んでくださいね」、明日も奉仕の予定がある相手を寝室へと促す台詞、自らの体力を代償に共鳴者を作る必要がある、その上痛みに喘ぎ縋る者たちを相手にするのだから精神の摩耗も無視はできないだろうと考えて
生来があまり考え込まない質なので、困惑はしますね。俺にとって先生の瞳は、鏡のようなものなんでしょう。
( 宝石のように艶やかな瞳を前に、何かが過ったように見えたとて、それはそこに反射した己の姿にすぎない。己の言葉に小波立った貴方を前にしたものの、そんな心に寄り添うような器用さなどは一切持ち合わせていない己は、迷うまでもなく正直な言葉を紡ぐまでだった。淹れたての香草茶の出来を確かめるがごとく、無作法にもその場に立ったまま少しばかりマグカップを傾ける。常と変わらぬ出来に一つ頷くと、残りは自室まで携えていくことにしようか。こちらが寝かしつけようとしていた貴方の方から就寝を促されてしまえば、自分でもそろそろ眠りに就こうかと考えてはいたが、少しばかりの懸念に寸の間思考する。曰く、睡眠導入剤として優秀らしい香草茶を相棒にここで仕事をこなして、貴方はきちんと寝室まで辿り着けるだろうか、と。そう簡単に懸念は消えないものの、そこまで世話を焼くのはさすがに礼を欠いたように思える。首を振って心配をも振り払うと、柔らかく笑みながら貴方の前を辞することにしようか。身体を清潔に保てるような準備は一日の最後の仕事だ )
水を張った盥はいつも通り寝室の方に用意しておきます。それじゃあ、おやすみなさい、レイ。
?えぇ、おやすみなさい。
(きちんと自室で休息を取るように、そんな促しが暗に込められた彼の眠りの挨拶に、夜更かし気味な自分の不摂生生活を指摘された気がして一瞬返事に言い淀むもそちらに顔を向けて同じように返して。そして最後に付け足された自分の名前、舌の上で甘い飴でも転がすような響き、自分では無い誰でもを言い表せる二人称や役職や、ましては侮蔑ですらないそれを、こんな風に飲み物を片手に気を抜いている日常の隙間に聞く時、誰かと一緒に暮らしているのだという事を改めて実感させられる。彼が出て行ってしまってからお行儀悪く頬杖をついて、冷めきったお茶を一口、自分は彼の、人を惹きつける不思議な魅力や痛みを消し去る奇跡の力に神性を見出している筈なのに、こうして彼と共に過ごすうちに、誰か時間をゆるやかに重ねてくれるパートナーを自分は求めていたのではないかと勘違いしそうになる、なんて低俗でありふれた勘違いを
……。
( 少しの間を置かれて返された就寝の挨拶には、奇妙な充足感があった。ひたすらに平穏な暮らしというものが、きっとこういうところに滲み出るからだろう。月明かりを頼りに進む廊下で、知らず知らず口元は笑みの形を象っている。手元のカップを置きに一度は部屋に戻ったが、その後すぐに大きな盥を手に中庭へ出た。ちょうど月に雲がかかり、手元も怪しいような具合だが、慣れ親しんだ作業のおかげでさほど苦労することはない。井戸から汲み上げた水で満たされた盥が二つ。育ちゆえかこまめに身体を清める貴方に感化されるように、いつのまにか己にも身についた習慣だった。それぞれの部屋へ運んだあとは自室に戻り、蝋燭をケチりながらごく簡単な水浴びを済ませる。すっかり冷めてしまった香草茶を情趣もなく一気に煽ると、そのままのっそりと寝台に入った。悪夢に飛び起きることがあるとしても、寝つきは比較的いい方だ。夢の世界へ転がり落ちるほんの少し前まで、伏せた瞼の裏には夕焼けのように赤い瞳がちらついていた )
(/ かしこまりました。
(明くる朝、まだ気温も低い時間帯、夜遅くまで起きていたにも関わらず浅い眠りからすっと目を覚まし身支度を整える。自室から聖堂へ、澄んだ空気の中進む廊下はまだ人間も動物たちも眠っているようでしんと静まり返っており、真面目な神父はその目を盗むようにふわりと小さく欠伸を洩らす、日課となった毎日の習慣、聖堂の重い扉を開ければ大きな窓から日光が冷たい空気の中矢のように射し込んでいて。神が最も嘆くという罪、つまりその愛と万能性への懐疑心を抱いた今でさえ、ひとり跪いて祈りを捧げるその仕草は機械仕掛けの人形ように正確無比、神が見放し堕落しきったこの世界ではこの行為だけが、自身に巣食う暗い衝動の熱を冷ましてくれるように思える、さてどれだけの時間、そうして頭を垂れていただろう
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