主 2023-02-11 00:33:03 |
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(相手が登場し事を収めてくれたのも束の間、現れた不定浪士の存在に身構えるも相手の耳打ちに僅かに眉を顰める。
己は相手の能力は知らない為、其の役回りは自分が請け負うと言いたかった物の娘の存在の事を考えれば迅速に行動するのが得策。
「怪我するなよ。」
己自身何でこんな言葉を言ったのかは理解出来なかったが、あまりに自然に相手の身を案ずる言葉が出た。
其れは最早“言い慣れている”と言う感覚に近い感覚で。
娘を肩に抱え相手に背を向け一目散に走り出すも娘は相手の身が心配な様で喚いており。
「五月蝿ぇな。こんな時間に騒いでたら見付けて下さいって言ってる様なもんじゃねぇか!」
『だって先生が!嫌よ!下ろして!私戻るわ!』
「あんたが行った所で足手纏いでしかないんだよ。分かったらさっさと依頼を完遂させろ。俺は彼奴(相手)の敵じゃない。」
自分の言葉に多少の緊張が解けたのか僅かに大人しくなった娘は『それにしても貴方。女子を肩に抱えて運ぶなんて本当に野蛮ね。先生だったらきっとお姫様みたいに横抱きにしてくれたわ。』と悪態付いて。
(城に辿り着き従者に内容を告げればあっさり大名の元へと通される。
大名の横には娘の母親である花魁が大名の盃に酒を注いでおり、己と娘の存在を目にした途端僅かに目を見開く。
『御大名様、嫌だわ。あちきに飽きて若い女子に目移りでありんすか?』
僅かに上擦った声で花魁は大名に擦り寄るも大名は花魁の肩を抱き寄せたまま下卑た笑みを浮かべており。
『何を言っているんだ。千早(チハヤ)。あれは御前の娘だろう。…そして儂の娘。ほう、母親に似て美しいな。こっちに来い。』
『お、御大名様。あちきに娘なんていませんわ。』
『嘘を吐くな。御前もよく見てみろ。瓜二つじゃないか。』
娘は初めて見た父親の存在と、幼い頃の記憶しかない母親に娘である事を否定された事からわなわなと震えており其の足を一歩踏み出した所で娘の腕を掴む。
「さて。顔合わせは済んだか?」
無表情のまま大名に問い掛ければ大名は片眉を上げ不服そうに己を見詰めて来て。
『何。家族水入らずの時間が欲しいだけさ。御前はもう下がれ。』
「そうは行かねぇよ。俺はあんたの娘の護衛も請け負っている。このまま街に帰すまでが任務だ。』
怒りに身を任せ立ち上がる大名から娘を庇うように前に立つも娘は己を押し退け険しい表情のまま大名の前に立ちはだかる。
『家族水入らず?笑わせないで。私には父も母もいないわ!…何なのよ。二人揃って娘を攫わせて…。馬鹿にするのも大概にして!』
『小娘が。頭に乗りおって…、』
花魁は酷く辛そうな表情のまま大名を落ち着かせようとしていた所、大名の合図一つで部屋の外で待機していた従者達が己を取り囲む。
やはり一筋縄では行かなかったかと頭を抱えては、刀を抜き、構え、「学習能力が無ぇな。前回の俺を忘れたか?恐ろしい化物から尻尾巻いて逃げたのは誰だったっけな。」と従者達を挑発し。
従者達を脅すように大名に刀を向けた所、動き出す従者達に紛れ花魁は娘の腕を掴み悲痛な表情のまま『逃げて!』と叫ぶも娘は腕を振り払い『触らないで!』と。
このままじゃ埒が明かない。
花魁が娘を庇い続けてしまえば花魁自身が処罰の対象になる事も容易に想像がつく。
きっと相手も此方へ向かっている筈。
ならば取り敢えず少し強引なやり方にはなるが黙らせるのが得策かと。
娘を再び強引に肩に抱えれば片手の刀は離さずに「手を出してみろ。大事なお嬢様も傷物になるぜ。」と。
そのまま大名に向き直り「さて交渉の時間にしよう。娘との顔合わせは済んだ筈だ。其れ以上の用事があるならさっさと話してくれ。」と言い放ち。
_全く不本意だが便利だな…。
( 相手が娘を抱えて颯爽とした身のこなしで去った後、当然男達は激昂しその後を追おうとした。
然し、己の能力により報奨金のことは偽りだと思い込みお家に帰って貰ったところ。
代償があり欠陥があるとはいえ世を統べるのに便利過ぎる能力。
便利過ぎるが故に一人の男を狂わせた。
_『御前のせいで__母さんは死んだんだぞ!』
_『何故躊躇う。金が必要なんだよ!!』
脳裏に過る一度消えた過去の記憶。
己と同じ藍色の髪に目元が良く似た男が疲弊した顔で怒号を飛ばす。
少し感傷的になり嘲笑と共に一人ごちれば緩く首を横に振って拳をそっと握る。
相手が去り際に残した、たった一言。
“怪我をするな”と。
その一言で何故か心が震え、鼓舞させた。
今更だが依頼でもなく金にもならない案件に首を突っ込みすぎではと思うも本当に今更過ぎるため、相手に加勢すべく夜の街を走って。
( 一方大名の屋敷、大名は相手の機転を働かせた行動に顔を赤くして息を荒げており。
『御前、何様だ!交渉も何も儂の娘なのだから自由に扱って何が悪い。娘を此方に渡せ。何、悪いようにはしない。部屋は今住んでいる家の何十倍の広さ、金にだって困らない。身の回りの世話も全部使いの者がやってくれる。』
『そんなのいらない!私は今の暮らしがいいの!』
『その頑固な所、母親にそっくりだな。千早、この小娘が実の娘だと認めて二人共儂の元に来れば何も言うことはない。御前もいつまでも鳥籠の中では窮屈だろう。』
( 大名は下衆な笑みを浮かべて花魁と娘を交互に見る。
勿論傍に置くだけなんてことはなく、二人の美しさや人脈を利用するだけ利用するつもり。
大名にとって二人は道具でしかなく。
と、張り詰めた空気の中、静かに開く襖。
入ってきたのは従者で何を隠そう此の従者の正体は己である。
宣言通り隠れて屋敷の中へ侵入し、途中からではあるが大方会話を聞いていた。
大名との話し合いよりも一時花魁と娘を話し合わせたほうが良策に思え、一旦その場を離れ裏手口にいた見張り役を気絶させて着物を拝借し、髪は布で隠して軽く変装した次第。
顔は知れている為、直ぐ気付かれる危険性はあるが相手も居るし何とかなるだろうと。
『なんだこんな時に!この状況がわからんのか!』
「ご尤もで御座います。立ち入っているところ誠に申し訳ございません。ですが、大切なご来客が、」
『なんだと?こんな時間に無礼な!大切なのは今だ。こんな時に客人を通すなど御前もどうかしている!』
( 苛立つ大名に臆せず傍によればそっと耳打ちを。
その客人は大名よりも偉い地位の名前。
当然此の場凌ぎの嘘のためこの後は適当に話を合わせとんずらするつもり。
「…ですから今は千早様にもお帰りになって頂いたほうがいいかと、」
( 駆虫を噛み潰したような顔をする大名、然し自身よりも地位が高い客人を放っておく訳にはいかないだろう。
変装は簡易的なもの、相手にはバレているだろうと踏んでさっさと娘と花魁と共に此の場から離れるよう目配せして。 )
(従者に扮した相手に気付いたのは相手が部屋に入って直ぐの事。
最早嗅ぎ慣れた相手の匂いに視線だけを其方にやり小さく頷く、…がしかし、相手は一体どう此処を切り抜けるつもりなのか皆目見当も付かない。
兎にも角にも相手が作ってくれた隙を逃す訳には行かない。
花魁と娘を追い出すかの如く共に部屋を出ては花魁が困ったように己を見上げて来ては『御前さんには、驚かされてばっかりだね。』と。
花魁に案内され、屋敷から直通でもある通路を通り花街へと出れば娘を花魁に預け己は屋敷へと戻ろうと。
『待って。…先生は?』
「彼奴なら、大丈夫だ。今から迎えに行く。だからあんたは大人しく母親と、」
『私に母親なんていない!!!勝手に連れて来られて、…こんな場所に置いていくなんて本当に最低よ!!!』
喚く娘の腕を強く掴んだ花魁は瞳に涙を溜めながら厳しい表情で娘を見詰め、『大きな声を出すんじゃないよ。逃してくれたんだよ。もう分かってるだろ?』と諭すような口調で言う。
『御前が出来て、どうしたら良いか分からなかった。ずっと放って置いたんだ。恨まれても仕方ない。でも、この守り方しか出来なかったんだ。』
花魁の言葉の語尾に力が籠っており、娘は静かに黙っては唇を噛み締めたまま静かに涙を溢す。
『さあ行ってくれ。足止めして悪かったよ。“娘”が惚れ込んだ男の顔、見てみたいんだ。…ちゃんと無事に連れて来ておくれよ。』
『ちょっと!!!』
『今更何だい。御前の反応見てたら“先生”とやらが御前の想い人だなんてあっさり分かったよ。さあ行こう千代。まずは身を隠さないと。………爛、ゆっくりで良いから帰って来て。店で待ってる。』
(優しく微笑む花魁の表情は穏やかな物で、花魁に手を引かれる娘にももう抵抗の様子は無く。
走り去っていく二人を見送ってはさっさと今来た道を戻り。
(自分が去って直ぐの事、一向に現れない“客人”に痺れを切らした大名は従者二人を呼び付け相手を押さえ付けては顔の布を強引に剥ぎ取り、其の正体に目を見開く。
しかし大名からすれば相手の存在は疎ましいものではなく、ふ、と息をつき先ほどの嫌らしい笑みを浮かべれば相手の頬を撫でる。
『誰かと思えば。…まぁ良い。客人は御前のはったりだろう。そんなに俺があの女どもと馴れ合っているんが嫌だったのか。』
清々しいまでの勘違いをひけらかし相手の正面に腰を下ろすも、相手の解放とまでは許さず従者は相手を抑え付けたままで。
『良い良い。御前の気持ちは分かってる。交換条件にしよう。御前が大人しく俺の元に来ればあの女どもには今後一切手出しはしない。花魁も所詮もう年増女よ。御前が望むのなら花魁から金を巻き上げるのもしないさ。俺とあの女に接点があるのは嫌だろう。』
相手の気持ちが完全に自分の物になってない事を知ってか知らずか、大名は何とも都合の良い条件ばかり提示して来て。
(其の頃、漸く部屋まで辿り着き内部の様子を確認していた己は大名の其の言葉一つ一つに全身の血が逆流したかの様な感覚を覚え襖に手を掛ける。
しかし、なぜこんな感覚になるんだと疑問を感じては襖に掛けた手をぴくりと止めて。
よく分からない、が、相手に馴れ馴れしく触れている其の行為が酷く許せない。
相手の能力に関して己は全く知らない。
…が故に、僅かに緩んだ従者の腕から解放された相手の細腕が大名に伸ばされて行く瞬間が目に入っては、相手が大名の条件を受け入れた物だと思い音を立てて襖を開けて。
『…御前は、』
大名の言葉など耳に入らず、思考もままならないまま、ただ“嫌だ”という感情に支配されては呼吸すら整えない状態でゆっくりと刀を抜いて。
( 頬に触れる他人の体温、低俗な交換条件、全てが不愉快で表情が歪みそうになるのを堪える。
いっそ、ほんの少しだけ条件を飲んでやろうと思った。
其れで事が収まるのなら。然し、脳裏に過ったのは何故か相手の顔で、相手以外に触れられることに腹の奥底から激しい嫌悪感を覚える。
可笑しな話だ。相手にだってそう触れられたこと等ないのに。
___!?
( 此方から触れるのは不本意だが致し方ない。
相手が戻ってきてくれているなど露知らず、条件に乗ってやるフリをして大名の頬に触れ能力を解放しようとしたまさに其の瞬間、襖が開け放たれ現れた相手に目を見開く。
刀を抜く姿は美しく、怒りに燃える深紅の瞳に惹き込まれる。
己の為に戻ってきてくれたのではと場違いにも期待して震える心。
然し自惚れている場合ではなく、従者たちは相手を取り押さえようと刀を抜き、大名は声を荒らげて
『御前、もう護衛の任は済んだはずだろう!何故戻ってきた!』
( 品位の欠片もなく吠える大名、従者たちも今にも刀を振るわんとしておりそうなれば何かと面倒。
相手の目の前で能力を解放するのは躊躇いがあった。
でもこんな下衆の為に相手の手を汚させたくない。
一瞬の間の葛藤の元、大名に触れたままの手に意識を持っていき能力を解放する。
“ 花魁とその娘には今度一切手を出さず関わりを持たないこと。交換条件は己と偶に酒を飲み交わす。”
と契約を交わした記憶を改竄する。
流石に無条件では不満が残るだろうし、ある程度関わりを残したほうが大名の動向も探れて視察にもなる。
酒の相手くらいならと妥協した次第。
大名はぴくりと身体を強張らせぼーっとする。
「そういうことだから、次会うまでに良い酒を用意して待っててくれ。で、この手はなし。今日は疲れたからお暇させて貰うよ。」
『…ぐ、解せないが仕方ない、か。…だが何故…。いつのまに、儂は…』
己の頬に触れる手を退けると納得いかない様子の大名と困惑気味の従者たちを無視して立ち上がる。
着物の裾を軽く払うと相手に近づいていき刀を持っていないほうの手を取り「ほら行くぞ。」とほぼ強引に手を引き屋敷を出て。
( 屋敷を出て冷たい風の吹く夜道を手を引いたまま暫く歩く。
人気の少ない路地へと回れば漸く足を止めて相手と向き合って。
正直、相手に何か悟られてはいないかと畏れていたが平静を装い。
「別に戻ってこなくても良かったのにな。…心配して戻ってきてくれたのか?」
( 冗談っぽい口振りで小さく笑みを浮かべるも、何となく気まずく咳払いをして。
「あの大名が今後あの二人に関わることはないはずだ。御前が上手く逃してくれたから事が運べた。あの二人の様子はどうだった?親子でちゃんと話し合いできそうだったか?千……、」
( 花魁とその娘、二人の様子を気にして問いかけ娘の名前を口にしようとし、はっとする。
名前が、出て来ない。“千代さん”と娘の名前は何度も口にしているし、ど忘れするなんてことは通常はあり得ない。だが、一瞬浮かんだ名前が霧状になって脳内で消えた。
帳簿には名前が記してある。然し相手の前故に直ぐには見られない。
微かに狼狽えて視線を泳がせた後「…あの子、いつも何処か寂しそうにしてたから気になってたんだ。上手く話し合えるといいけど。」と誤魔化して眉尻を下げ下手くそに微笑み。)
(相手に腕を引かれ、まだ冷たい夜風に漸く正気を取り戻した所で僅かな違和感が膨らみ相手の瞳をじっと見詰める。
何故か相手が娘を“あの子”と言い直した事、何かを隠すような憂いを帯びた微笑み。
己は此の下手くそな笑みを知っている。
相手が大名に手を翳しほんの数秒、長い話し合いを経たのかの如く大名がすんなり引き下がった事。
「何を、したんだ。」
情けなく震える声に力を込める。
途端、激しい頭痛に襲われ表情を顰めては髪をぐしゃりと掴む。
脳裏に過ぎるは以前孤児荘へ相手を招き入れた際に相手が持って来た古びた帳簿と孤児荘の床下にあった手紙。
『-○月○日:八百屋の息子の名前は宗介(ソウスケ)。-』
『-○月○日:酒屋の女将の名前はお市(イチ)。-』
手紙には何と書いてあっただろうか。
襲い掛かる頭痛に耐えながら懸命に記憶を辿る。
不可解な内容だと、食い入るように読んだ筈。
確か、確か内容は、______恐らく手紙を受け取ったであろう前日に相手が能力を使ったと言う事と、___己に対しての記憶がほんの僅かでも消えている事がないか不安な為、夜に落ち合おう。
そんな内容だった筈。
頭の中に声が木霊する。
「-あんたがいくら能力を使おうが俺はあんたの事を全部覚えている。安心しろ。-」
(頭痛が治り己の顔を覗き込む相手を見詰めては何かを言い掛け口を開くも花魁と娘の存在が脳裏を過ぎる。
「千代の所へ行かないと。…多分、あんたを心配してる。」
短く答え相手の腕を掴み花街へと抜けるも其の間に一切の会話は無く、ただ時間だけがやけに長く感じ取れて。
(花魁の店に到着し、以前己が通された部屋に案内される。
襖を開ければ娘と花魁が何か話をしていた途中の様子。
『おや?あんたが“先生”かい?こりゃまた色男を見付けたもんだ!』
花魁の明るい声が響き、先程の出来事など忘れてしまいそうになる。
娘が相手の元へ走り寄り『先生!!!何かされてない?無事なのね?怪我は、』と涙ながらに騒ぎ立てる中、己はただ茫然と其の姿を見詰めていて。
声を掛けられ花魁に向き直り、娘に是迄の事を話そうとするも花魁は首を横に振り全て話したという旨を伝えて来て。
まだ僅かに距離感は感じられる物の、相手の前で仲睦まじく戯れ合う二人の様子に胸を撫で下ろして。
(街へ戻ろうと店を出る際、花魁に袖を掴まれては『爛、迷惑かけたね。彼方の先生にもしっかり伝えてくれ。…今更母親面出来るなんて思わなかったよ。きっと紅が引き合わせてくれたんだね。』と耳打ちされる。
手を振り見送る花魁を背に、相手の背に背負われながら寝息を立てる娘にちらりと視線をやっては「念願の姫抱きはどうしたのやら。」と。
煙管を咥え夜道を歩きながら、何か話を切り出そうかと思考を巡らせるも何も浮かばず。
相手の能力に関して、触れて良いものかと頭を悩ませるも何故か自分に隠し事をしている其の様子が気に障り。
全く持っておかしな話、自分と相手はそんな間柄では無い。
煙を吐き出し、「あんたは、距離を詰めた相手に対して隠し事が大層下手だな。」と何とも阿呆らしく遠回しな触れ方をして。
明日は貴人の娘と街に赴く予定が入っている。
相手に働いた前回の無礼を謝罪したいとの事。
どうせ明日も会う事になるのだ。本当に相手とは何かと縁がある。少しばかり不安に曇る感情のまま漸く相手に視線を向け。
……、
( たゆたう煙管の煙越しに視線が絡み思わず視線を逸らす。
大凡、相手は己の能力について勘づいているだろう。
相手は能力を蔑んだり利用したりする人間ではないだろうし、己の能力を打ち明けたい気持ちもある。
然し、相手の言う通り己は距離を詰めた者に対して臆病なのだ。
その聞き方もどうなんだ。……悪い、此処では言いたくない。何処で誰が聞いているか分からないから。それに言うなら御前だけが良い。まあ多分今御前が想像してる通りの答えだよ。
( 嘆息混じりに軽く茶々を入れては暫く間を開けて視線を合わせ静かな口調で話す。
己自身上手い言い逃れが出来たと思う。嘘は吐いていない。
然し話すのを先延ばしにしただけ。
相手の瞳の不安にも薄々気付いているだけに妙な引け目も感じて。
「…じゃあ、千代さんを家まで送り届けてくる。御前も気を付けて帰れよ。疲れてるだろうからしっかり身体温めて寝てな。」
( 数刻前の会話で思い出した娘の名前を口にし背中で未だ眠る娘に目配せする。
其れから娘を片腕で支え直し空いた手を自然な動作で、無意識的に相手の柔らかな銀髪へと。
そして優しくくしゃりと撫で、加えて余計なお節介の一言迄。
未だ引け目を残しつつ手を離し「…それじゃ、おやすみ。」と半ば逃げるように相手と貴人の娘の予定は知らずにその場を去って。
相手と別れた後、娘の家へ行き起こすのは忍びなかったが勝手に娘の家に上がる訳にもいかないため家の前で起こし、また寺子屋に行くだとか花魁である母親ともまた会って欲しいだとか軽い会話をして別れる。
そして今は自室にて寝支度を済ませて布団の上に座り一息付くところ。
花魁と娘のことは良かった。
だが、相手との距離感は益々分からなくなっている。
相手のことになると鈍る思考がもどかしい。
兎にも角にも己の能力のことは機を見てしっかりと打ち明けようと。
其の時、ふと花魁が相手に耳打ちしていたことを思い出す。
盗み聞きするつもりはなかったし相手程ではないが仕事柄常人よりは秀でた聴力。
“紅”と聞こえた名前。
何処かで聞き覚えがあった。
単に忘れているだけなのか、記憶から消えたのか…
考えたところで睡魔が襲い布団に横になっては暫くその名について思い出そうとするもゆっくりと眠りに落ちて。)
(相手と別れ孤児荘へと戻るなり就寝の準備を済ませ、縁側の障子を開け夜空を見上げながら寝る前の一服をしていた所。
触れられた髪、憂いを帯びた優しい笑み、どれを思い出しても顔に熱が集まるのを感じては参ったなと項垂れる。
何となく、此の気持ちには気付いていた。…が、先祖の色恋沙汰という名の“運命”とやらに支配されて気がして気付かない振りをしてしまっていた。
考えても終わりなど見えないしこんな感情を感じたのは初めての事故に、考えるのをやめては障子を閉め布団に入り。
(翌日、子供達に起こされ朝食を済ませ寺子屋へと向かう子供達を見送った後。
貴人宅へと令嬢を迎えに行っては門から出てきた令嬢が駆け寄ってくるなり不満気な顔をする。
『待ち合わせは町の広場で良いって言ったじゃない。』
「護衛も着けないで来る気だったんだろ。」
『折角初めての“待ち合わせ”が出来ると思ったのに。』
町へと向かい令嬢が持っている荷物を受け取ろうとするも今回も拒まれ、中身は何なのかを興味本位で尋ねる。
『筆に半紙に、…まぁ、教材関連よ。お高いお菓子なんて持って行った所で受け取ってくれなさそうだし。』
「庶民的な考えを覚えた物だな。」
『馬鹿にしてる?』
寺子屋へと到着し玄関を叩いた所。
丁度午前の勉学の時間も終わった時刻。
ぱたぱたと走り寄って来る足音が聞こえては昨夜の娘が玄関を開けて来て、己の顔を見るなりげ、と顔を歪める。
『あ、あの。お忙しい中御免なさい。…菊先生はいらっしゃる?』
『いる、けど…。何の用事ですか?』
娘の問い掛けに令嬢が何と答えたら良いかと頭を悩ませる。
真実を伝えよう物なら眼前の娘は怒り大爆発になる様が容易に浮かんでは令嬢の前に立ち「彼奴に以前失礼叩いちまった謝罪がしたいんだとよ。」と僅かに濁した真実を伝える。
娘が僅かに訝しんだ様子で返事をし、中へと通されれば令嬢は緊張した足取りで庭を歩き。
部屋へと通される途中、孤児荘の子供に『あれ!爛兄ちゃん!何してるの?』と呼び止められては其方へと向かい。
(部屋へと通されお茶を出された令嬢は娘に『あ、お、お構いなく。』と答える。
二人きりになって気不味い状況の中口を開いたのは娘の方だった。
『私、濁すのは苦手だからはっきり言わせて貰いますけど。謝罪だ何だを理由に先生目当てで来たのならお引き取り願うわよ。』
『…え?』
『地味に多いのよ、そういう子。勉学になんて興味無い癖に此処で働きたいって言い出したり、何なら貴女みたいに何かしらの理由を付けて先生に会いに来て手紙を渡してきたり。私が此処で働き始めてからは私が目を光らせているけど、』
『貴女、先生を慕っているのね!』
『な、』
『年頃の女の子と恋愛話をするの、憧れてたの!貴女は先生のどんな所を好きになったの?』
『あのね、話聞いて、』
『嗚呼、先生の事なら安心して。本当に謝罪に来たの。前に失礼な事をしてしまって。』
眉を下げて言う令嬢の様子に娘はあまり深く聞く事はせず『………そう。御免なさい。私の勘違いね。』と。
娘は令嬢の様子を気遣っては相手が到着するまでの時間、令嬢念願の恋愛話とやらを始め二人はそのまま楽し気に話ていて。
( 寺子屋にて午後の勉学の準備をする頃、子どもたちに綺麗なお姉さんが来たとだけ伝えられて相手の存在は知らずに部屋に向かう。
部屋の前迄来たところで聞こえるのは楽しげな娘と令嬢の声。
年頃の女性の色恋の会話。弾む声は聞いていて微笑ましいが立ち聞きになってしまう為、襖に手を掛けたとき__『爛、』と名前が聞こえてぴたりと手を止める。
『爛とはお友達からって話したわ。でも同い年の男と比べたら大人びているし男前よね。』
『分かるわ。不器用なようで真っ直ぐで優しい。私も何度も助けられた。…ところでもう名前で呼んでいるの?』
『呼んで良いって了承は貰ったわよ。でも本人の前ではあまり呼ばないかも。』
『それって…大事にしてるってことじゃないの?』
『どうなのかしら。でも彼と居ると楽しいし本当の自分でいられるわね。…依頼抜きでも来てくれるのかしら。』
『…依頼?』
『…!なんでもないのよ。…菊先生、お忙しいみたいね。』
( そんな二人の会話、相手の話だが何故か胸がもやつく。
己も相手のことを然程知っているわけでもないのに相手を知ったふうに話されるのが嫌で。
然し此れでは本当に立ち聞きの為、小さく息を吐くと襖を開き
「おまたせ、ふたりとも気が合うみたいで何よりだよ。…綺麗なお姉さんって貴方のことだったんだな。」
( と、二人には裏の顔も知られているため特に何も装うことなく話し、令嬢からは謝罪だと例の教材一式を渡される。
正直己も令嬢には色々と能力やら何やら使っているため謝らなければならないのは此方もだが渡されたものは礼を言って有り難く受け取り。
『貴方の此処最近の街での噂は聞いてるよ。雰囲気が柔らかくなって親しみやすくなったって。傍にいる番犬の影響が大きそうだけど…変わろうと努力して行動に移せるのは中々出来ないことだと思う。正直、今日会って驚いたよ。』
( あの令嬢が此処まで心を開けたのは相手のおかげ、歳も近いしお似合いだなとつい思考がずれた時、娘が『あ!』と大きな声を出して。
『何よ、いきなり大きな声を出して、吃驚するじゃない。』
『私、先生と霧ヶ崎さんに話があったんだわ。…この前先生から借りた画集について、ちょっと気になることがあって…、』
『あら、3人のほうが話しやすいならお暇するわよ?』
「いや、貴方を一人では危ないから帰せない。…というか3人でと言うことはあいつも来てるのか。なら尚更、あいつの任務のためにも貴方には残っていて貰わないとな。…多分子供たちに掴まってるだろうから呼んでくる。…改めて、教材ありがとな。」
( 教材一式の入った袋を軽く掲げては二人を残し一旦部屋を出る。
教材一式を別室に置いたあと、キャッキャとはしゃぎ声が聞こえる外へと足を進めれば孤児荘と寺子屋の子供たちにもみくちゃにされる相手の姿が。
一人は相手に肩車して貰い髪をぐいぐい容赦なくひっぱり、僕も私もと相手の足に掴まったり手や服を引っ張ったり後ろから抱きついていたりと賑やかで。
長身で細身の相手が小さな子どもたちに弄ばれる様子は微笑ましくつい頬が緩むも、一切助ける気がない素振りで「…楽しそうだな。」と笑いを堪えた風にぼそりと零し少し離れたところで傍観して。)
(集まって来た子供達の存在に、令嬢の事を忘れかけていた所。
一人の少年が『あ!菊先生!先生もこっち来て遊ぼうよー!』と声を上げた事で相手の存在に気付く。
子供達を下ろし、「先生と大事な話があるから。」と伝えては、ぱたぱたと走り去って行く子供達を見送り相手の元へと向かう。
己の素直な感情に気付いた今、こうして面と向かって話をするのは何とも言えない気持ちになり視線は逸らしたままで。
「令嬢との話は済んだのか?…付き添いで来たんだが、お役御免だったみたいだな。」
短い言葉を交わしては、何故か案内されるがままに室内へと上がって。
(再び二人だけになった娘と令嬢だが、先程までの気不味い雰囲気は全く無くお茶菓子を摘みながら会話に花を咲かせていた所。
『今更だけど名前聞いてなかった。私は千代。』
『本当に今更ね。美代(ミヨ)って言うの。名前で呼び合うお友達なんていなかったから。好きに呼んで頂戴。』
『偶々なんでしょうけど、名前似てるのね。分かった!遠慮無く美代って呼ばせてもらうから。』
『ええ。でも一つだけ。私貴女より年上だから。私年齢的には先生とそんなに変わらない筈。』
にっこりと笑顔で言う令嬢に娘は驚いた様に『え、見えない。何か…先生の方が大人っぽい。美代って幼いっていうか子供っぽいっていうか、』と素直にな気持ちを溢す。
娘の様子に『あのね、素直過ぎるのも毒よ。』なんて受け答え眉間に皺を寄せるも、揶揄い合う様な会話も楽しそうで。
娘は相手が中々戻って来ない事に気付き一度部屋を後にするも、廊下を曲がった所でばったりと鉢合い。
『あ、戻って来たのね。良かった。』
娘は慣れた様子で相手の隣に肩を並べ話を始める。
二人の一歩後ろを着いて行きながら、仲良さそうな二人の様子に面白くない感情が湧き上がる。
改めて見れば、丁度良い身長差。
何処と無く騒がしい娘に落ち着いている相手。
認めたくはないが、お似合いだった。
無意識に足を止めてしまっていた所、『霧ヶ崎さん?早く早く。』と己を呼ぶ娘の声にはっとし、「悪い。」と短く返事をしては部屋へと入り。
( 相手が何処か余所余所しい。
やはり昨夜しっかりと能力のことを打ち明けなかったから気を揉ませたか怒らせてしまったかと考えていたため、部屋に向かう間娘が色々話しかけてくるもあまり内容が入ってこず愛想笑いで相槌を打つだけで。
そして4人揃った室内、令嬢も何だかんだ気を遣ってか少し離れたところで様子を見守っている。
娘は用意して持ってきていたのか件の画集を部屋の真ん中にある机の上に置いて。
『此れ、寺子屋の書庫にあった画集で一目惚れして借りてたのね。凄く綺麗な絵だから同じ作家で他にも画集を出してないか色々調べたのよ。名前の代わりに凛の花の絵を描く…なんて御洒落な事をする作家は珍しいから直ぐ見付かると思ったんだけど、結局この画集しかなくて。でもね、この作家の肖像画は残ってたの。過去の記録を残した本に凛の花の作家って書いてあったから間違いないと思うわ。で、此れが其の肖像画なんだけど…、」
( 娘は新しい発見に少し興奮気味に声色を弾ませながら一枚の幾分劣化した肖像画を机の上に置く。
その肖像画に描かれた人物、その人物は黒髪で壮年の男、だが面影がと言うより瞳の色を除けば驚くことに相手にそっくりな顔立ち。
相手が髪を染めて少し歳を取ったらこうなるだろうと言うくらい似ており。
そして何故かその肖像画の男を見た時、会ったこともないのに知っていると感じた。
「__凛、」
『…!先生、この作家を知ってるの?』
「…いや、初めてみる。でも、歳に違和感があるような…、」
( 初めて見るのに歳に違和感を覚えるなど奇妙なもの。
横目に相手の反応を伺いながらそう言えば此の画集を全部見たことはなかったと思い表紙を開く。
一枚目は以前も見た月明かりに照らされる美しい銀毛の狼の絵。
そして頁を捲っていくと様々な風景や見知らぬ女性や男性の絵などが続き、頁も終盤に差し掛かった時、一枚の絵にどくんと大きく心臓が脈打つ。
その一枚の絵、其れはつい先日相手が手直ししてくれたあの簪だった。
細部の繊細な装飾まで丁寧に描かれているため間違いない。
僅かに震える指先を頁から離して、上手く回らない頭で考える。
あの簪の絵が描かれていると言うことは己たちの先祖に関わりがあるということか。
『ねえ、霧ヶ崎さんは何か知ってる?貴方にそっくりだからもしかしたら祖先かもって。…ああ、でもその、出過ぎたことをしてるわよね。嫌な思いをさせたのなら御免なさい。』
( 先程までの弾んだ声はどこへやら、娘はつい先日母親と一悶着あったことを思い出し、繊細な話かもしれないのに好奇心で尋ねたことを詫びて声を小さくしていき。)
(娘に差し出された画集をまじまじと見るも、まるで己の姿を描いて貰ったかの如く銀毛の狼の姿や簪の絵に息を飲む。
そして何処と無く自分に似た顔立ちの男の肖像画を見た時の相手の小さな一言。
あまり思い出したくは無い幼少期の記憶の中、忘れる筈の無い血を分けた兄の存在が脳裏に蘇る。
何故相手が其の名前を知っているのかは疑問だか、肖像画の男は微かな記憶の中の兄の姿にあまりに似ている。
が、年齢的に合わないしそもそも此の画集は己が生まれるずっと前の物。
娘の言葉に何か返そうと口を開くも其の儘黙り込んでしまい。
『-爛、俺は外国人のお金持ちに買われる事になったんだよ。だからさようなら。もう会う事は無いけど、もし次会う事があったら其のずたぼろの布切れじゃなくまともな着物を着て、傷なんてこさえて無い爛を見てみたいな。…まぁ、父さんの奴隷のままじゃ一生無理だろうけど。-』
(顔は朧げだが髪の色と瞳の色を除けば兄と己は瓜二つだった記憶がある。
兄は父親に似たのだろう。己の銀髪や瞳の色は母親譲りの物らしい。
兄は年齢にはそぐわない美しい少年だった。
一度転んで顔に傷をこさえた際、父は大騒ぎして薬を塗ってやっていた。
其の様子がいつも酷く妬ましかった。
「確かによく似ているな。先祖って所も気になるが…俺には兄がいるんだ。今は外国にいるんじゃねえか。幼い時から会ってないもんでな。兄の名前が凜なんだよ。」
(当たり障りの無い回答をしては珍しい出来事だと驚く娘と令嬢をよそに画集を見詰めて。
(寺子屋の玄関先まで見送られ、令嬢を屋敷まで送り届けた後。変な胸騒ぎがし、久し振りにいつもの丘へと向かう。
存在ごと忘れていたが一体兄は何処へ行ったのだろうか。
___まぁ、己には関係の無い事。
そもそも兄と仲が良かった訳では無いのだ。
己の欲しい物は簡単に手にいれ、挙げ句の果てにはそれを見せびらかしてくる兄。
正直、ずっと苦手だった。
溜息を溢し、大木に身体を預けては刀を抜き刀の手入れを始めて。
(道時刻、己と同じ顔をした青年は港にて船から降りるなり背伸びをしていた所で。
『初めて髪を切ったな。ずっと長くしていたから。いやあ楽だね。』
一人でに呟き外国製と思わしき鞄から二枚の肖像画を取り出す。
『爛、は変わらないね。会ったらどんな顔すんのかな。でもまずはこっち、かな。』
相手の肖像画を見るなり口角を上げては事前に契約していた町外れの離れの平屋へと向かい。
『和装は…一着しか無いんだよな。流石に洋装じゃ警戒されちゃうし明日は服を買わなきゃね。それから寺子屋さんか。忙しくなるな。』
兄は裏組織の人間に成り果てていたようで。
己と相手の肖像画は兄が依頼して取り寄せた物。
事前に組織の人間に用意させていた黒地の着物を赤の帯で締めては鏡の前に立つ。
『何回も夢の中に出て来てくれるもんだからさ。もしかしたら此の人が運命の相手?ってやつだったりして。』
独り言を言い片眉を下げて微笑んだところで漸く平屋の鍵を閉める。
開きっぱなしの鞄の中にはおそらく此れも外国製のものなのであろう銀髪の鬘が無造作に入っていて。
( 相手と令嬢を見送った後、午後の寺子屋の勉学を終えてイザコザがあったばかりと言うこともあり大事を取って娘を家まで送る。
其の宵、久々の組織の密売の仕事で身支度をするところ。
思い出すのは昼間の話、相手の兄の話は初めて聞く話で驚きもあったが何故か合点がいった。
そして無意識に口走った相手の“兄”の名前。
おそらく先祖の記憶とやらなのだろう。
だが今の相手にも兄はいるらしい。
女郎が相手に耳打ちしていた“紅”という存在も気になる。
然し、身内の事に他人の己が安易に踏み込むものではない。
結局、相手のことを考えていて、その理由に薄々気付いてはいるものの小さく首を横に振って黒い布で口元を隠し宵闇に出る。
当然、兄の帰国は知らずにいて。
数刻後、難なく今宵の密売の依頼を終えて一度組織の拠点へと向かう。
其処で言われたのは相手とのこと。
忘れ掛けていたが組織から相手を組織に引き込み利用するために親しくなれと言われていたのだと。
組織の意図を組んだ訳ではないが、相手との交流はある。
親しいかは別として__親しいと思いはしたいが。
『勿、そろそろ狼男を引き込めないのか。報酬は今の組織の倍出すと言え。』
「組織の裏切りの危険性を考えたら報酬が倍程度じゃ揺らがないだろ。…それにその依頼を正式に受け入れた覚えはない。』
『御前も頑固だな。…まあ良い。とにかく事を進めろよ。』
( しつこい組織に嫌気が差しつつ其の日は帰路に付いて。
( 翌日、寺子屋を娘と手伝いの者に任せて己は街へ子供たちの昼餉の買い出しへ行く。
握り飯等昼餉を持ってくる子供も居るが、貧しい家計も多く出来る限りお腹を満たせるものを用意していて。
いつもの八百屋で野菜を買うと少し育ち過ぎたたからと大根を多めにまけてくれる。
子どもたちのお腹を満たすには十分な量に、何となく本当に何となく相手の事が気になって、大根をおすそ分けすることを口実に足先を変えて孤児荘へと向かって。)
(胸中の胸騒ぎを誤魔化すかの様に刀の手入れをしに丘に行った翌日の事。
あの後は特に何事も無く孤児荘へと戻り寝床へと着いたのだが夢見は最悪で翌日の早朝に目を覚ます。
兄の話をし、久方振りに思い出したからか兄の夢を見た。
『-爛、起きなよ。客に貰ったんだ。食べな。-』
美しい着物を着た兄が珍しく己の自室に来て渡して来た大福。
恐らく兄の気紛れだったのだろうが、当時は兄の“客”と言う言葉に僅かに違和感を感じていた物の特に触れる事は無かった。
きっと何らかの仕事をしていたのだろうが己は当時自分の事で精一杯だった記憶が残っている。
苦手だった兄が夢に出て来た事に僅かな苛立ちを感じては、子供達もまだ寝ている時間故に散歩がてら丘へと向かい。
(時刻は昼時。兄は着物を調達した後、銀髪の鬘を装着し呑気に町を彷徨いていて。
町行く人々は兄を己だと信じて疑う事もせず気さくに話し掛けてくれるも第一に触れてくるのは瞳の色や、やや派手な服装。
『おや、兄さんにしては珍しい着物だね。気分転換かい?』
『偶には悪くないと思ってな。』
『うんうん。似合ってるよ。しかし聞きにくいんだが、…眼、どうしたんだ?前に生まれ付きだとか言ってたからさ。』
『ああ、偶に一時的だが普通の眼に戻るんだよ。まぁ、一種の病のようなもんだ。』
『…そうだったのか。何だか悪い事を聞いちまったね。ごめんよ。』
『いや、気にしないでくれ。』
(通り掛かった八百屋の店主に声を掛けられいつもの己の如く無表情で答えては其の場を立ち去る。
大通りと比べて人通りの少ない裏道に来ては顎に手を置き少し表情を曇らせる。
『口調だ何だの調べはそれなりに付けてたつもりだけど流石に服装の好みまでは知らなかったな。…まぁ良いか。俺はこれ気に入ってるし。』
臙脂色の地に華の刺繍が施された着物は一見すると女物かと間違える程に華やかな物。独り言を溢しては向こうから歩いて来る相手の姿が見え一瞬陰に身を潜ませ懐から肖像画を取り出す。
相手と肖像画を確認し僅かに口角を上げてはさも偶然を装い陰から出ては相手を真っ直ぐ見詰めやや表情を和らげては『偶然だな。』と言い。
今夜は此の町の大名と酒を飲み交わす宴会という名の依頼が入っている為町を詮索していた所。
偶々と言えど相手と出会すとは思っても無かった為、己の身辺調査も含めて兄は堂々と相手に声を掛けた次第で。
(同時刻。孤児荘にて子供達が遊んでいる様子を縁側から微笑ましい気持ちで見ていた所、買い物へ行っていた年長の少女達が戻って来るのが見え、荷物を受け取ってやろうと其方へ向かう。
『あれ?兄さん町にいたと思ったらもう帰って来てたの?』
「…?いや、今日はまだ町には行ってないが、」
『嘘だぁ。だってその髪間違える筈ない物。後ろ姿だったけどすぐに分かったんだから。珍しい着物なんか着てさ。』
『もしかして花街にでも行ってたのかしら?そりゃ隠したくもなるわね。』
くすくすと揶揄う様な言い方をする少女達に、僅かに首を傾げる。
『私達にばれたらふしだらだって叱られると思って急いで帰って来たんでしょ。』
「いや、本当にどこにも行っていない。」
『爛兄ちゃんずっと居たよ?僕起きてからずっと居た。』
年少の少年の言葉に少女達はぴくりと黙り込む。
途端顔を青ざめては『やだ、幽霊?』なんて騒ぎ始めて。
…令嬢にお人形にでもされたのか?いや、悪い。あまりにもいつもと印象が違ったから一瞬、誰だかわからなかった。
( 相手はどうしているだろう、兄の話題が出た時に垣間見えた相手の表情は陰りがあった。
幾分前にほんの少し両親の話が出た時に兄のことは話題にも上がらなかったから良い思い出はないのだろう。
そんな考え事をしていれば、当の本人が目の前に…が、然しその恰好に瞠目する。
綺羅びやかで華やか…優麗。
普段の相手の静かで月のような優美さとはまた違った魅惑。
あまりの違いに誰だ御前はと警戒すらし微かに眉を寄せるも、パッと浮かんだのは令嬢のお遊びか依頼の類かと。
訝しげにそんな問い掛けをするも流石に瞳の色は変えられない。
「瞳の色はどうした。」と町人と同じ質問をすれば、同じく“一種の病”だと返されて。
「…そんな話、今迄何も言わなかったじゃないか。まあそんな間柄でもなかったな。」
( 今迄明かしてくれなかったことを身勝手にも何故か寂しく思い、つい皮肉じみた物言いをしてしまい咳払いをする。
目の前にいる相手に対する違和感はあったし、兄のこともちらついた。
然し、外国にいると聞いていたためまさか目の前の相手が兄だと思わず。
「そうだ、丁度御前のところに此れを渡しに行こうとしてたんだ。今荷物になるなら持っていくが、よかったら受け取ってくれ。さっき八百屋で貰った大根。」
『今受け取っておく、ありがとう。…今夜予定は?』
「早速大名から飲みに誘われた。…千代さんや千早さんには近づかないはずだからただ本当に飲むだけだと思う。…それより御前は、その大丈夫か?昨日の話が出た時、様子が気になって。」
『…問題ない。じゃあ、俺はもう行く。』
「ああ…。……余計なお世話かもしれないが、いつもの恰好のが見ていて落ち着く。」
( 拭いきれない不信感、去りゆく背中にそう声を掛ければ、いつもの煙管の匂いがしないことや白い刀がなかったことに気が付きまたその背中をじっと見る。
其の華やかさに町娘たちが黄色い声を上げているのを見つつ、まさかな…と疑念を残しながら兄とは思わず、孤児荘には寄らずに寺子屋へと足を向けて。
( その夜、相手(兄)に話した通り大名との宴があり屋敷へと向かう。
正体は知れている為、特に変装はせずに髪は軽く結って飾り気のない簪を差すだけ。
常と違ったことをしたのは昼過ぎ、やはり相手のことが気になり文を出した。
“ 突然済まない。やっぱり昨日の御前の様子が気になった。しつこいのは承知だがまた直接話したい。あと今日の恰好は別に似合ってなかったわけではないから誤解するなよ。 ” と。
誤解とはなんだと何とも可笑しな文を出してしまい。
飛脚の手により文は既に相手の手に届いているはず。
変に思われていないかとやたら気にするうちに屋敷へと付き、案内人に中へ通され宴の部屋へ向かって。)
(時刻は夕方。早めの夕飯を終え自室の前の縁側にて煙管を燻らせていた所通り掛かった年長の少女に『兄さん宛のだったよ。』と文を渡される。
差出人を見ればどうやら相手から。珍しいなと思いつつ文を開けば先日の己を気遣ってくれている様子の内容にほんの僅かに表情が和らいだのも束の間。
“今日の格好は別に似合ってなかった訳では無いから誤解するなよ。”の一文に眉を寄せる。
そもそも今日は相手に合っていないし、己は着物は同じ柄の物を数着持っているのみ。
そこで思い出すは昼間の少女達の会話。
まさか本当に幽霊とやらが出たのか、なんて思っては己も相手と直接話す必要があるなと考え今夜寺子屋へと向かってみるかと考えていて。
(相手と別れた後、兄は僅かに眉間に皺を寄せては今晩の大名との宴会に相手が来る事に対してどう対応しようかと頭を悩ませる。
そもそも宴会に呼ばれた理由としては外国の話が聞きたいという目的の元だった。
最初は素の自分の姿で向かおうと思っていたが、裏の仕事をしている以上は変装をしている方が有利。
しかし己が大名と接触があった事は調べが付いている為己の変装をしていくのは不利と言えるだろう。
『全く。面倒な御大名様だな。折角目的の人に会えたってのに機会が悪いんだから。…ま、仕方ないか。』
(小さく呟いては大人しく町外れの自宅へと戻って。
(空が暗がり始めた頃、兄は黒髪はそのままで顔に包帯を巻き付けては昼間とは違う派手な着物に身を包み大名の元へと向かう。
案内人に通され部屋に入るなり畳に手をつけ深々と頭を下げてはいつもより僅かに低い声を意識し話し始める。
『御招待頂き誠に有難う御座います。』
『御前が“霧里”か。…随分と不気味な男だ。顔の包帯は何なのだ。』
『米国にて皮膚病を患いました。みっともない姿で申し訳ありません。』
『…まぁ良い。面白い話を期待していたんだ。楽しませてくれ。』
『勿論で御座います。』
(目尻を下げ人の良い笑顔を浮かべては大名より僅かに距離を取った場所に腰を下ろすも視界の端で相手の姿を確認する。
幼少期、父の機嫌が良い日に聞いた母親の源氏名を名乗り、顔こそ見せて無いものの人懐こい様子で話を続ければ大名はすぐに気を良くし、相手に酌をさせながら段々と酔い始めて来て。
数時間後、しっかり出来上がった大名が相手の腰に手を回し始めた様子が伺えては笑顔は崩さないまま、静かに近づき手慣れた様子で大名の酒に睡眠薬を混ぜ込む。
酒を飲み干し数分後、床に突っ伏していびきをかき始めた大名に困った様な様子で従者を呼んでは大名を自室へ連れて行って差し上げるようにと命じて。
『僕達はお暇しましょう。』と相手に笑顔のまま告げて廊下に出れば、もう少しだけ相手と話したい気持ちが芽生え『先に出ていてください。厠に寄ってから後を追いますので。』と。
相手と一度別れ、空き部屋にて己の姿へと変装を施し持って来ていた荷物の中から別の着物へと着替える。
『露草は派手な着物はあまり好みじゃなかったみたいだしね。』
(独り言を溢しながら颯爽と着替えを済ませては玄関から出るなり、またもやさも偶然かのように振る舞いながら相手へと近寄る。
『依頼でな。護衛で来てたんだ。あの包帯の男なら目を覚ました大名に話の続きが聞きたいって捕まってたところだったな。恐らく今夜は帰れないだろうからあんたを送ってやってくれってさっき頼まれたんだ。』
(それとなく現実味のある話で流しては相手と二人で夜道を歩き始め。
(その頃、煙管を咥えながら寺子屋へと向かっていた己は擦り寄って来た猫に足を止めていた所。
ゴロゴロと喉を鳴らす猫を軽く撫で、再び歩を進めようとするも後をついてくる様子に僅かに困った様な表情を浮かべる。
丁度相手の元へと向かうし、少しばかり鰹節でも分けて貰おうなんて呑気に考えては着いてくる猫に合わせて足取りを遅らせて。
( 大名の宴を共にした見知らぬ男、初対面の裏と繋がりのある男と共に帰る理由など無かったが待っていたのは何処となく雰囲気が相手と似ていたから。
我ながらどうかしていると思っていれば次に現れたのはいつもの姿をした相手。
細い棘が引っ掛かったような違和感はあったが、兄の演技に気付かずに相手だと思い、尚且つ偶然遭ったことに少し浮かれ。
「今日は偶然が多いな。それにしても男を送らせるなんてあの大名もおかしなことをさせる。……それで、文は届いたか?お節介だとは思ったんだが先祖の話も少し気になって。あの画集が御前の兄の先祖が描いたものなら能力のことも簪も…今と繋がりがある。もしかしたら外国にいると言っていた御前の兄にも先祖の記憶があったりするのかもな。」
『…先祖の記憶はあるんだな。』
「…俺たちにか?前からその話はしているだろ。いや、悪い。それよりも文にも書いたが御前が少し落ち込んでるように見えたから。過去を詮索するつもりもないが、御前の様子が変だと子どもたちが心配するだろ。」
( 何が言いたいのか己でも良く分からず一人やきもきしながら夜道を進む。
今宵は少し風が強く木の葉が舞って風が冷たい。
相手が寺子屋へ向かっているとは知らずに、寺子屋近辺に来たところで足を止めて「御前も子どもと言えば子どもだ。こんな事を言える間柄でもないかもしれないが、歳上を頼ることを覚えろよ。…と、ちょっと止まってて、」と少し曲がった言い方をした時、相手(兄)の髪に枯れ葉が付いていることに気がつく。
ひょいと片手で払おうとするも上手い具合に絡んでしまったのか一回では取れずに、少し身体を近づけたことで息が掛かる距離になり「…そう言えば今日は煙管を吸ってないのか?あまり匂いがしないから、」そんなことを言いながら絡んだ枯れ葉を取ると「取れた。」と距離感は其の儘で取れた枯れ葉を見せて少し笑んで。)
(己へと送られた文の話に僅かに冷や汗を流し、時折噛み合わない会話を繋ぎ合わせる事に精一杯だった物の髪に手を伸ばされ一気に距離が縮まっては息を飲む。
何度か頭痛が起きる度に脳裏に過った相手の存在。最初は誰だか分からなかったがいつも誰かを心配して懸命に動く姿に心打たれ必死に探した。その相手が今目の前にいるのだ。
煙管の事を尋ねられ何か言い訳を考えなければとは分かっているものの、相手の微笑みに言葉は浮かばず相手の手にそっと触れた所で。______
(自分の足元をうろうろとする猫に溜息を漏らしてはその小さな体を持ち上げる。
猫に合わせて歩いていたら日が暮れてしまう。
寺子屋の入り口までもう少しと言った所で僅かに相手の香りが鼻腔を掠めては入り口より僅かに先を見詰める。
夜道ではっきりしない物の、相手と、もう一人。
親密そうに寄り添う姿に一瞬足を止める。
しかし黙って立ち去るのも納得が行かなかった。
相手の横にいる“もう一人”の存在は無視したまま、ズカズカと大股で其方に近付けばぐいっと相手の肩を引き此方へと向かせ「あんた人たらしの癖はやめた方が、」と言い掛け口を噤む。
“もう一人”が己の手首を掴み、同じ背丈の男と目線が交わる。
『全く。会う機会が早すぎるよ。もうちょっとだけ楽しもうと思ってたのに。』
(自分と瓜二つの男が困った様に微笑みながら銀髪の鬘をずるりと外す。
あまりの驚きに言葉が出ない物の、昼間の少女の会話をすぐに思い出しては不思議な出来事に合点が行き僅かに眉間に皺を寄せては兄の手を振り解く。
「趣味の悪い遊びだな。」
『久し振りの再会にしては随分冷たいんじゃない?御免って。明日からは爛に化けるのは止めるからさ。…町の人達にもしっかり話してよ?お兄ちゃんですって。』
「…俺には関係無い。」
(楽しそうに何処と無く人の気に触れるような話口調をする様は変わっていない。
これ以上馴れ合う気は無いと相手の腕を強引に引きその場を離れようとした所で兄が相手の肩を掴み頬に軽く口付けをする。
馴れ馴れしい様子に怒りを露わにした所で兄はひらりと手を掲げ『やだなぁ。そんなに怖い顔しないでよ。挨拶だよ。』と。
言葉を返す事もせず寺子屋方面へ戻る様に大股で歩いては、先程相手と兄に駆け寄る際に下ろした猫が再び擦り寄って来て。
兄の姿はもう無い。相手に背を向けたまま暫し黙り込む。
兄はいつだって自分の欲しいものを一つ残さず奪っていく。
「彼奴とは、今後一切関わるな。瞳の色で判別つくだろ。」
(感情を隠しながら小さな声で言い、ゆっくり振り向いては先程口付けられた相手の頬に触れようとするも伸ばした手を引く。
己は相手に簡単に触れる事すらできないと言うのに。
怒りが段々と心を侵食しては相手の顔も見れないまま静かに俯いたままで。
( 目まぐるしく起きる出来事、瞠目し思考停止する間に相手と二人きりに。
なぁん、とこの場に合わないのんびりした声が聞こえて下へ視線をやれば、猫が相手の足にしなやかな身体を頭から尻尾の先まで擦り寄せて甘えている。
ぐるぐると喉を鳴らす音まで聞こえてきて、動物は心の優しい人が分かるのだなとズレた事を思い視線を相手へと。
すると此れまた普段と凛とした姿からは想像付かぬ俯き顔。
段々思考が回り始めれば不謹慎だろうが可笑しくなり、ふッと少し吹き出すように笑って。
「なんて顔をしてるんだ。…悪かったよ、瞳の色のことは病だと言われて信じてしまった。御前はあまり兄を好かないようだし、見間違えて一緒にされるのは不快だよな。」
( 見慣れない顔、年相応の何処か膨れた少年の姿と重なりつい笑い混じりになって相手の髪に手を伸ばしくしゃくしゃと撫で回す。
然し、後述は静かで穏やかな声色に変え、手は頭に置いたまま俯き顔の理由の予想を口にする。
ただ、芽生えてしまった感情。
その感情が相手の一つ一つの言動に期待してしまう。
もしかしたらと__。
__爛。
そう呼びかけようとして短く息を吸い、髪に置いていた手をそっと離す。
「でも、そうか。彼奴が御前の…、海外に居ると聞いていたが帰ってきてたんだな。その、御前だと思ってさっき文のことや先祖の話を少し話してしまったんだ。向こうも先祖の記憶はあるようだった。気付かずに余計な話をしたかもしれない。…俺が言える立場じゃないが突然のことで御前も混乱してるだろうし力になれることがあれば言ってくれ。」
( 呼べなかった名前。その代わりの言葉も本音。それでも何処かもどかしい。
無意識に兄に口付けられた頬を手の甲で拭い相手の言葉を待っていればまた猫がなぁんと甘えた声で鳴く。
「その猫どうしたんだ。御前にべったりじゃないか。家まで付いてくるんじゃないか?」
( 軽く顎でしゃくって猫を指し少し話題を変えればしゃがんで猫を撫でようとする。
するとシャーと威嚇されて「…うわ、嫌われてる。」とやや表情を顰めて手を引っ込めて。)
(どうやら相手は己が“兄と間違われた事を不快に思った”と取っている様で、穏やかに微笑む姿に調子が狂う。
本音を話してしまえば楽ではある物の胸の内の感情を素直に打ち明ける事こそ難しいものは無い。
相手に何と無く子供扱いされている様な感覚を感じれば少し面白く無い様な感覚さえ芽生え立ち上がる。
どうやら相手と話をする前に原因は特定できた。
かと言って穏やかな気持ちにはなれないまま、夜分遅い時間の為退散する事にして。
別れ際に「兎に角、彼奴には気を付けろ。」と小さく言ってはそのまま着いてくる猫と共に孤児荘へと戻り。
(一方その頃、兄は自宅にて銀髪の鬘を放り投げては『高かったんだけどな。』と溢し。
明日の依頼の内容を確認し始めれば、どうやら明日は麻薬を売り捌いている表向き役人の男を仕留める事。
依頼をしてきた人間はこの役人に麻薬の支払いが追い付かず多額の借金をした上どうにもならなくなってしまい兄の元へ依頼してきた様で。
小さく溜息をつき欠伸をしては布団に寝そべり瞳を閉じる。
眠りにつく前に浮かぶのはいつも相手の顔。
つい昨日まで会った事すら無かったと言うのに。
直近で脳裏に過った記憶を思い返す。
相手は優しく微笑みながら兄の絵を褒めていた。
其れが嬉しくて沢山絵を描いた。___それなのに、古い記憶の中の兄は“何かの出来事”を表紙に絵を描かなくなった。
記憶の中のあの笑顔がもう一度見たくて、自嘲気味に笑っては『まずは、お友達からかな。』と小さく呟いて。
(翌日、孤児荘へと到着するなり昼過ぎまで眠っていた為のそのそと立ち上がっては顔を洗いに行く。
自室へと戻る途中庭で子供達がはしゃぐ声が聞こえ何事かと目をやれば昨晩の猫と遊びたがっている様子。
しかし猫は小さな物陰に入ってのんびりとしており、子供達の要望どうり出てきてくれる事は無く。
着替えを済ませ町へと出向けば、町娘に囲まれている素の姿の兄が見え颯爽と裾を翻す。
胡散臭い笑顔と口調でへらへらとしている様子は昔と変わらない。
大人しく戻ろうとしたその時、大名の娘に呼び止められては振り向く。
『お久し振り。霧ヶ崎さん。暇でしょ?ちょっと手伝って欲しい事があって。母さんに会いにいきたいんだけど、…昼間と言えど流石に一人では入れないって言うか…』
「先生にでも頼めば良いだろうが。」
『それがね、聞いて。前に付き添って貰ったのよ。でも…綺麗に着飾った女の人達が私の存在を無視して先生に群がるのよ!先生の横には私がいるって言うのに!』
(騒ぐ娘を呆れた様に見詰めては送り迎えくらいなら付き合ってやっても良いかと思うも面倒臭そうな表情は変わらないまま花街方面へと向かって。
( 相手と町娘が花街へ向かう頃、己も時を同じくして花街におり。
其の理由は依頼。珍しく昼からの依頼で何でも表向きは役人の麻薬の売人が大口の案件を抱えており身の危険を案じて其の案件が沈着するまで己に連れ立って欲しいと。
奇しくも其の案件とは兄に依頼した人間が企てた役人をおびき出す罠なのだが己は其の事を知らず。
役人と落ち合う場所、路地の影に来るも約束の時刻よりも幾分早く来てしまい。
時間を潰そうにも店の中へ入る気にはなれずに帳簿でも見返えそうかと懐に手を入れた時、
『…あ、露、…菊?今は勿のが良い?偶然だね。』
( 明るく手を振り近づいてきた男、素の装いをした兄がにこやかに話掛けてきて。
相手に“彼奴には気をつけろ”と言われていたものの警戒心はあまり無く「…ああ、」と反応は薄いが帳簿を取り出すのを止めて顔を上げる。
「別に呼び方は何でも良い。…あんたは花街に遊びにきたって…訳ではないよな。」
『まあね。多分、菊と同じような目的だよ。ねえ、少し時間あるならお茶しない?まだ昼間だしちょっと値は張るけどお茶だけ楽しめるところもあるからさ。』
「いや、遠慮しておく。…外の国から来たばかりなのに随分この辺りに詳しんんだな。」
『ふふ、情報通だからねぇ。さ、行こう。俺の奢りだよ。菊、栗が好きでしょ?栗ようかんが美味しいお店なんだ。』
「誰も行くとは…ッて、おい!」
( ぐいッと手を引かれて抗議しようとするも、推しの強さと其の胡散臭い笑顔の中にある無邪気さに負けて「約束があるから少しだけだ。」と念押しして大人しく後に付いていき。
其の頃、相手と町娘。夜の花街とはまた違い、活気がありお茶屋昼餉の呼び込みをしており綺麗に着飾った女性の声があちらこちらから聞こえていて。
『お兄さん男前やわぁ、可愛いお嬢ちゃん連れて妹さんかい?美味しいお菓子あるからうちのお店よかったら寄っていかん?』
『ちょっと、私が先に目を付けたのよ。お兄さん、よかったら夜も遊びに来て。うんとまけるから。』
( 女は瞳を輝かせ町娘そっちのけで香水の匂いを纏わせながら相手に寄り添い態とらしくふくよかな胸を押し付ける。
花街に入ってから此れが何度目かになる事態で中々目的地へ辿り着けずにいて。)
(賑わっている花街。人の多さと呼び込みの声に防がれ中々進まず、こんな事なら面倒事を引き受けるのでは無かったと若干の後悔を覚えては言葉少なに呼び込みの女達に断りを入れるも娘に冷めた眼差しを向けられ「少しは庇え。誰の為に来てやってると思ってるんだ。」と。
『…はぁ。まぁ、まだ先生じゃないだけ心の平穏は保たれてる。先生ったらあの笑顔で一人一人に優しくお断りするんだもの。』
「そうかい。ったく埒が開かない。急ぐぞ。」
(娘の腕を掴み大股で歩けば娘は『ちょっと!待って!ああもう本当に乱暴なんだから!!!』と不満な様子を全開にしながら必死に足を急がせていて。
(漸く店の前へと到着すれば呼吸を整える娘に思い切り睨まれては「悪かったよ。」と口ばかりの謝罪をする。
身なりを整える娘と共に母親である花魁のいる店内に入ろうとした所、___少し遠くに人混みの中でも頭一つ分出ている程の長身の男に気が付き足を止める。
やたらと遭遇する兄の存在である事に気付き、知らぬ振りをしようとするも兄に腕を掴まれている相手の存在が目に入れば息を呑み。
娘に少し離れる事を告げては急いで相手を探すも人混みが邪魔をし中々進めずにいて。
(相手の腕を引きやや強引に連れて来たのは町場より僅かに格式高い茶屋。流石は花街の茶屋と言った所か湯呑みや皿までにも金箔があしらわれていて。
兄は適当に数品の注文を済ませては人の良い笑顔のまま頬杖を付き相手を見詰める。
『そう言えばちゃんとこの姿で会うの初めてだね!なんか照れるな。あ、そう言えば見てよ。落ち着いた柄の着物も数着買ったんだよね。菊の好みだと良いな。』
(にこにこと楽しそうに、やや一方的に話を始めては運ばれて来た茶菓子を次から次へと相手に差し出す。
抹茶を一口啜った所で思い出した様に表情を輝かせては『そうだ!菊は寺子屋の先生だったね。俺勉強はあまり好きじゃないけど出来る方なんだよね。今度お手伝いさせてよ!外国にいた頃は勉強中退屈すぎてずっと落書きしてたんだけどさ。こう見えて絵も得意なんだよ。今度寺子屋に遊びに行ったら似顔絵屋さんタダでやるよ!』と話を続けて。
暫しの会話とお茶を楽しんでいた所で兄も依頼の時刻に近付き会計を済ませては茶屋の入り口にて相手と向き直る。
『菊も仕事か。…困った事があったらいつでも俺を呼んでね。仕事なんてそっちのけで助けに行くから。じゃあね露草!』
(別れ際、慣れ親しんだ呼び方を無意識に呼んでしまった事すら気付かず相手に手を振っては花街の人混みに消えて行き。
(結局相手と兄の姿を見付けられないまま娘と合流しては、花街の人混みの中に紛れた依頼の伝達人が通りすがりに文を渡して来て。
娘を花街の入り口まで送り届けた所で懐の文を開く。
依頼の内容は麻薬の売人である役人から。
どうやらこの男、最近身辺で怪しい動きをしている人間がいる事を察してか相手には自分の護衛を。己には麻薬の支払いを一定期間滞納している人間の始末を依頼してきていて。
そして今回始末する標的は兄に依頼をしてきた男。
それぞれの依頼内容など知る由も無く、再び花街へと戻れば人混みを避ける為裏路地に入り屋根へと駆け上がって。
(同時刻、兄の依頼人である男は麻薬の売人が仕留められる様を其の目で見なくては安心できないと言う理由の元、兄と待ち合わせの約束をしており。
兄もまた相手と己の依頼内容など知らずに、頻繁に麻薬の取引に使われている店の個室部屋へと向かっていて。
( 相手と見た目は似ているのに気さくで明るい兄、正反対な性格…なのに何処か不器用で素直でないところは似ていると感じたのはなぜか。
兄が似顔絵を描いてくれる件は子どもたちが喜ぶ姿を思い浮かべるとはっきりと断り切れず「考えておく…。」と返し、結構なお値段をご馳走になったことの礼を添えて。
そして兄の背を見送りながら“露草”と呼ばれたことに抵抗を感じなかったことを不思議に思い。
今己をそう呼ぶのは寺子屋の前任者である大家だけだ。
相手に対するのとはまた別のざわつきに胸をさすり、一息吐くと役人(売人)との約束の場へ向かって。
( 重なり合った依頼の事など露知らず、己と役人は麻薬の取引が行われる個室部屋へ。
役人も警戒はしているが護衛である己と相手にも依頼してあるからか幾分余裕があるようで個室へ向かう廊下の途中『今日の客も本当に馬鹿なんだ。コイツ(薬)にハマった奴はどれだけ値をかさ増しようが借金をしてでも買いに来る。中には妻子を売ったやつもいた。ま、俺がそう仕向けたんだがな。役人やってると色々と事が運びやすいんだよ。』と不愉快極まりない外道な話しを聞かされる。
特に言葉を返すことはなく無言のまま兄と客が待つ部屋へ。
因みに室内にいる客は依頼人が雇った演者で兄はその護衛役。
隙を見て役人を打つ手筈であり、全ては役人を殺めるための罠。
この罠を仕組んだ張本人である依頼人は襖を隔てた直ぐ隣の部屋で役人が仕留められるところを窺っており。
そんなことは知らずに己は取引部屋の襖を開き役人と共に中へ。
そして中にいた兄の姿に小さく目を見開き、兄もまた表情こそあまり変化はないが驚いた様子で。
面倒なことになったと心中ぼやきつつ、互いに向き合う形で座る。
はじめに切り出したのは売人。
『さて早速だが金を渡してもらおうか。』
『またまた気の早い。今回が額も大きい。今後も御前さんのところから買いたいから親睦も兼ねてゆっくり酒を交えて話しましょうや。ここは花街、イイ女も沢山いる。』
『まどろっこしいのは好かないんだが…まあいいだろう。それより良い護衛を連れてるじゃないか。』
( 胡散臭い世間話から始まり酒を飲みが始まる。
事が動いたのは何杯か酒を飲み交わし客と役人が程よく出来上がってきた頃、兄が役人の杯に不審な液体を入れて『この酒も最上級のもの、どうぞ飲んでください。』としれっと役人にすすめて。
相手に似た綺麗な顔立ち、役人は兄のことを気に入りなんの疑いもなく『おー、これはありがたい。』と飲もうとする。
「待て、あまり飲むとまともな取引が出来なくなるだろ。大口の案件だ。勘定間違いでもしたら困るんじゃないか?」
『…たく、堅いな。でも確かにそうだ。そろそろ本題に移らないとな。』
( 杯への不審な混入は気付いていたため安堵するが、兄の目的が役人を討ち取ることなら厄介。
先程迄は己に対して良好的であったが、裏の任務が絡むとなれば互いにどうなるかは分からない。
兄がもし役人を討ち取る気であれば己も手は抜けないかといつでも刀が抜けるよう気を張った時、
『あーあ、なんだか面倒くさいなぁ。…屋根の上に迷いこんだわんこが全部片付けてくれればいいのにー。汚れ仕事はいやなんだよなぁ。』
『霧里、急に何をいいだすんだ。酔ったのか?』
( うんざりと言った少々わざとらしい態度で兄は嘆息を零し、なにやら天井へと視線をやる。
状況を掴めない客と役人、そして襖の向こうの依頼人。
己もまた状況を把握しきれずにやや眉を潜める。
兄は兄で何となく現状を把握したのと相手の気配に気がついたことで、どう取るかは相手次第だが皆殺しにしてしまえと言うような無茶苦茶をそれとなく投げかけて。)
(依頼を果たすべく屋根裏部屋へと侵入したは良い物の僅かな隙間から見えるのは兄と相手の姿。
最悪な状況に苦虫を噛み潰すも兄の態とらしい一言に苛立ちが走り、もう身を潜めていても仕方が無いと木板が剥がれている箇所から飛び降りる。
ざわつく室内をずかずかと通り無言で隣の襖を開けては逃げ出そうと立ち上がる男の首筋に手刀を落とす。
演者の男と売人の男はそれぞれ相手と兄に己を始末する様に叫ぶが兄は座ったまま楽しそうに酒を飲んでいて。
鞘を抜かないままの刀で鳩尾を突き、もう一人を組み倒せば気絶した三人の男を苛立たしげに見下ろす。
騒ぎを聞きつけた店の女将が呼んだ役人が駆け付け、何と説明しようか口を逃げらせていた所、兄が態とらしく怯えながら役人の元へ駆け寄り。
『御役人様!助かった…三人で酒を飲んでいたら急にこの男達に襲われましてね…。何でも麻薬の売買を行っている者の様で…、…いやあ怖かった。弟が武術を学んでいたのが不幸中の幸いでした…。』
(役人の男達が気絶している男達を雑に抱えた所、其の内一人が表向き役人を務めている事から見知った顔の男の存在に驚きつつ兄に軽く頭を下げる。
台風が静まった後の如く兄の口の上手さにすっかり騙された役人達は男達を連れ店を後にして。
『どうしたの。始末しないなんて。随分甘い事するじゃん。』
(静寂を破ったのは兄。酒を片手ににっこりと自分を見詰める様子に苛立ちは増していく。
この男の所為で依頼はおじゃんだ、その上馴れ馴れしく相手の横に行き酒を注ぐ様に血管が切れそうな感覚さえ感じる。
「あんたの思い通りになると思うなよ。」
『まぁまぁ。そんなに怒らないでよ。それにほら、俺達は麻薬の売人と常習犯を一気に捕まえた立場になった訳だ。御礼も後から貰えるらしいし楽しくやろうよ。』
(兄の言葉に返事はしないまま無言で其の場を立ち去ろうとするも相手を置いて行けばまた兄に関与されるだろうと想像が付き相手の腕を引けば部屋から追い出す様にして「あんたも見ていただろ。依頼は無しだ。もう帰れ。」と。
大袈裟な反応で残念がる兄を無視し、自分は窓から外に飛び降りては一瞬相手と合流しようか悩んだものの兄の目の届く場所で落ち合うのは危険であると判断し花街を立ち去って。
(翌日、孤児荘にて昼過ぎに目を覚ましては自室の襖を開ける。
庭では子供達がいつものように遊んでると想像していたものの、どうやら一人の少年に群がっている様で。
『ねぇねぇ、どこから来たの?』
『いくつー?』
(何事かと子供達の元に向かい割って入れば中心に一人の少年が立っており、ぼろぼろの着物が目に入れば煙管を咥えたまま身を屈める。
「どこから来た。父親や母親はどうした。」
『いない。』
(孤児が自らここへ来る事は珍しくない。恐らくそういった訳有りの子なのだろうと思っては兎に角着物を貸してやろうと立ち上がる。同じ背丈程の少年達に着物を持ってくる様に話していた所、少年の腹の音が盛大に鳴る。
「腹減ってんのか?」
『うん!』
「先に飯食って、風呂に入れ。」
(少年の頭にぽん、と手を置き年長の少女を呼ぶ。『何が食べたい?』と微笑む少女に少年はやや警戒しつつも腹の虫には逆らえない様で『…かつおぶしのご飯。』と答えており。
年齢は13~14くらいだろうか。ひとまず詮索は後にすべきかと思っていた矢先、新しい仲間の登場かと胸を躍らせる子供達が『今日寺子屋に行くんだけど、あの子も連れてって良い?一緒に遊んだりしたい!』と訴えてきて。
本人に聞く様に促した所、子供達は食事中の少年の元へ行き誘いを持ちかけており。
小さくこくりと頷く少年の一言で子供達は嬉しそうにはしゃいでいて。
( 兄の機転と相手の機敏な動きで片付いた騒動の場、部屋から押し出されまだ思考が追いつかぬまま外へ出れば其処には既に相手の姿はなく。
兄が直ぐ追いかけてきて何やら話しかけてきたが、視線は孤児荘方面の道へ向け先程相手に掴まれた腕をさすり「…悪い、俺もこれで。」と兄のほうを見ること無く其の場を立ち去って。
( 翌日寺子屋が開く時間、子どもたちが徐々に集まり出したころ、落ち着きある花柄をあしらった着物姿の兄がさも当然の如く門を潜ってきて。
『おはよー、菊。早速俺の絵をお披露目したくて来ちゃった。画材道具も余分に持ってきたから子どもたちもお絵かき出来るよ。』
「…許可した覚えはないんだけどな。」
『わぁ、こわい顔!子どもたちが見てるよ。』
『お兄ちゃんだぁれ?』
『孤児荘の爛お兄さんにそっくり!』
『ふふ、俺はね。燐って言うんだ。絵がとっても得意なんだよ。みんなが描いて欲しいものあれば言って。描き方も教えて上げる。』
『本当!?やったぁ。ねえねえ菊先生、今日はお絵描きをお勉強したい!』
『僕も!母ちゃんの似顔絵描いて贈り物にする!』
( 子どもたちはわいわいとはしゃいで既に初対面の兄に懐いている。
子どもに害をなすようであれば容赦はしないが現時点その挙動はない。
近づくなとは言われているが相手の兄であることから警戒が緩み「分かった。じゃあ今日はこのお兄さんにお絵かきを教えてもらおう。……昨日のお茶も依頼を上手く回した来れたことは礼を言う。でも俺はあんたを信用した訳じゃない。」と子どもたちに笑顔を向けた後、兄に耳打ちして。
『わかってるよ。なーんにもしないって。…さ、菊も描こう。あ、画伯は今でも健在かな?』
「…どういう意味だ。」
『夢での菊は中々奇抜?…個性的な絵を描いてたから。』
『燐お兄さん、早く絵を教えてよー。』
『はーい、今行くよ。まずは似顔絵から描いてみようか。』
( 子どもたちに手を引かれて室内に入っていく兄の後ろを歩きつつ、兄はどこまで先祖の記憶があり、兄弟は互いの関係をどうしたいと思っているのだろうと考える。
然し、兄弟関係迄に首を突っ込むのはお節介。
己も子どもたちに混じって筆を取り、相手に己の描いた絵を見せたら何と言うだろうかと想像して筆先に炭を付けて。
( その頃、孤児荘ではお腹を満たした少年は言葉が少ないが他の子供達とも打ち解け相手にも懐いていて、相手が動く先々ちょこちょこと其の後ろを付いて回り。
『爛、片付け手伝う。』
『…洗濯する。』
『爛も寺子屋行く。』
( と何かと相手から離れたからず着物の裾を掴み、その様子に年長の子どもたちはお手上げで『爛兄さんも寺子屋に行くしかないわね。その様子だと一日離してくれないんじゃない?』と少し面白がっていて。
『じゃあ、爛兄ちゃんも出かける準備して!ほら行くよ。』
『やったねぇ、爛兄ぃも一緒だって。』
『…やった。』
『あ、笑った!かわいい!君、良く見ると瞳がまんまるできらきらしてて綺麗だね。』
( 少年は少し恥ずかしそうにはにかみ相手の後ろに隠れる。
その後子どもたちは相手と共に寺子屋へ向かい、その間も少年は相手の手を離さずに、ほんの僅か聞こえるか否か程度にグルグルと喉を鳴らしていて。)
(流れで己も寺子屋へと向かう事にはなった物の、昨夜の後故内心僅かに気不味さもあり重たい足取りで寺子屋への道を歩く。
不意に現れた少年の名前すら知らなかった為改めて名前を聞くもきょとんとされてしまえば深く問い詰める事も出来ずに。
漸く目的地へと到着し子供達が寺子屋の門を潜るのに着いて行けば室内は賑わっており何事かと首を其方にやる。
『あれ?爛。昨日振りじゃーん。』
(ひょっこりと首を出した兄の存在にあからさまに表情を歪めれば孤児荘の子供達は己と瓜二つの兄の存在にはしゃぎだす。
部屋の奥には相手の姿も見え、視線を其方にやれば己が言葉を発するよりも先に子供達が相手の元へと走って行き。
『孤児荘にね、新しいお友達が来たんだよ!』
『まだ緊張してるみたいだったから今日は爛兄ちゃんも一緒に来たの!』
『今日はお絵描きなのー???』
(次々に話し始める子供達は兄から半紙を受け取り楽しそうに兄の周りに座り絵の指導を受けている様子。
何で兄がここにいるのかと面白くない気持ちが湧き上がっては無意識に素っ気ない反応になってしまい。
『そこの子も一緒に描こうよ。爛の後ろにいる子。君の名前は?』
『そう言えばまだ名前知らなかった!』
(兄の呼び掛けに困った様な反応を見せる少年に兄は名無しの孤児である事を察した様子で、笑顔のまま『なんか君、夢の中で飼ってた猫に似てる。小太郎なんてどう?』と。
人間に猫の名前を付けるとは、と思ったものの本人は気に入っている様子で頷いており。
『じゃあ小太郎。おいでよ、一緒に絵を描こう。』
『…。』
『まだ緊張してる?爛と一緒においでよ。』
(見上げてくる少年に負け、気に食わないが兄より少し離れた場所へと腰を下ろせば少年はおずおずと半紙を受け取っており。
相手に目をやれば相手も一生懸命絵を描いている様子。
年上ながらも一生懸命な様子が可愛らしく思えては僅かに表情の硬さが和らぐも何を描いているのかは分からずに「…何を描いてるんだ。」と正直な質問をした所で視線が交わる。
「…っていうか、何であいつが来ているんだ。」
(目線を逸らしながら兄の事を問い掛けた所で少年が一枚の絵を持ってきて見せてくれて。
どうやら魚の絵を描いた様子。得意気に微笑む様子にこちらも釣られ僅かに微笑む。
少年が席に戻ろうとした時、相手の前に立ち唐突に『会った事ある。』と。
「寺子屋に来た事があったのか?」
『無い。絵描きのお兄さんも会った事あるよ。匂いで分かった。前は違う見た目だったから最初分からなかったけど。』
『あははは、俺が爛の振りしてた頃に擦れ違ったりしてたのかな。』
(少年の言葉に両親がいるのかと思ったもののはっきりしない会話の内容に頭を悩ませる。
まぁ兄の言う通りどこかで擦れ違ったりでもしたのだろうと自己完結しては、僅かに緊張も解けた様子の少年を部屋に置いたまま縁側へと向かい煙管を咥えて。
( 孤児荘の子どもたちと共に訪れた相手の姿に静かに舞い上がる気持ち。
表情に出さないようにしつつ見慣れぬ小太郎と名付けられた少年を不思議に思う。
己と会ったことがあると。然し、己にはその覚えはない。
また先祖とやらが関係しているのかと訝しみしんでいれば、ぶッと後ろから兄の吹き出す音が聞こえ。
『…ご、ごめん。それって妖怪?魑魅魍魎?外国でもいろんな生き物をみたけど其れは見たことなかったな。』
「……。」
『睨まないでよ。それにしても爛に何を描いてるのか聞かれた時の菊の顔、面白かったなぁ。地味に傷ついてたでしょ?』
「あんたのその正直なところは兄弟そっくりだよな。」
( やだなぁと胡散臭い笑顔で片手をひらひらさせる兄を軽く見据えてからいつの間にか近くに来ていた少年の頭を撫でる。
因みに己の描いた絵は相手の着物に描かれている菊の花なのだが、花とは縁遠く此の世のものではないものを生み出していて。
( その頃、縁側。相手が煙管を吹き出してそう時間が立たないうちに一枚の紙がひらひらと相手の前に舞い落ちる。
其れは依頼の紙…だがその紙は似てはいるが裏組織がいつも使う紙とは少し違っており“ 猫探しの依頼。見つけ次第此の場所に連れてこられたし。” と三毛猫の絵と共に手書きの地図が描かれていて、差出人も書いていない。
そんな事は知らずに己は温かい茶の入った湯呑を2つ手にして相手の元へ行き、一つ差し出し。
「…良かったら。…兄のことは悪かった。彼奴が勝手に来たのもあるが俺がはっきりと断らなかったのもある。ただあまりあまり悪い人間には思えなくて…。御前が兄を毛嫌いというか、遠ざける理由は何かあるのか?…言いたくなかったら良い。」
( 静かな声で問いかけ気まずさから御茶を啜る。
縁側から見える開花前の露草が風に揺られるのを何となしに見ながら答えを待っていればトタトタと寺子屋の少年少女が近づいてきて。
『孤児荘のお兄さん、見てみて!』
『これ、菊先生が描いた絵。…爛さんを表象して描いたんだって。』
「え、どこから其れを…、」
『炭を探してて引き出しの奥から見つけたの。何の絵かなぁって思ったけど燐さんがそうじゃないかって。』
( 少年少女が持ってきた墨絵、其れは先程描いたものではなく、画集が見つかったころに銀毛の狼の絵を真似て描いたもの。
残念ながら模写ではなく新たな生命体を誕生させているが、其の墨絵は誰に見せるまでもなく引き出しの奥に仕舞った。
子供たちは責められないが、子供たちに相手に見せるよう仕向けたのは兄の仕業だろう。
「これは何でもないから、さ…燐のお兄さんに絵描きをもっと教えて貰ってきな。」
( さっと少年の手から墨絵を取ると無造作に懐に押し込み小さな背中を押して室内へ戻るよう促して。)
(問い掛けられた兄の事について答える間も無く、現れた子供達が持って来た絵が目に入れば相手の死角で僅かに表情が緩む。
室内に戻ろうとする相手の腕を無意識の内に掴んでは「其の絵、貰っても良いか。」と問い掛けて。
言ってしまった後に内心己は何を言っているんだと焦るも、少年が己を呼びに来たのを良い事に誤魔化す様に室内へと戻って。
(空が暗がり始めた頃、子供達は草履を履いた後相手に別れの挨拶をしており。
昼間の謎の依頼書を思い出しては今夜は大人しく猫探しでもしようと思っていた所。
少年が子供達の群れから離れた場所で池をじっと見詰めている様子が目に入っては其方へと歩み寄る。
少年の目の先にあるのは池の中で優雅に泳ぐ鯉。
あまりに身を乗り出している様子から池に落ちてしまわないかと不安に思い「小太郎!」と呼べば少年の身体は体制を崩しぐらりと傾く。
慌てて駆け寄り少年の腕を掴んだかと思った時、何故かふと軽くなった身体に今度は己が体制を崩してしまい___。
派手に池に飛び込んでしまったと溜息を漏らす。
少年は無事だろうかと顔を上げた所、目の前にいるのは青褪めた表情の少年。
しかしおかしい、少年の身体がやけに大きい。
『ら、爛、…どうしよう、どうしよう。』
(わなわなと震える少年に一歩踏み出した所で更なる違和感に気が付く。
恐る恐る足元を見れば銀毛に覆われた丸い足。
『小太郎ー!!!どうしたのさっきの音!!!』
(ぱたぱたと子供達が駆け寄って来る音が耳に入り冷や汗を流す。
無意識に能力の解放でもしてしまったのだろうかと、水面に映る自分の姿を確認した所で絶句した。
___映っているのは何とも太々しい表情をしている猫。
冷静に思い返せば狼化状態の自分の足はこんなに小さくもないし、爪は鋭くこんな丸くは無い。
何が起こったのか理解できずに少年と水面に映る自分を交互に見ては子供達が集まって来て。
『あれ!猫だ!』
(手を伸ばして来る少女から逃れる様にして少年に近付き「どういう事だ…。」と問い掛けるも言葉にはならず。
少年が自分を抱き抱え小さな声で猫の鳴き声を真似た様な声を漏らす。
『“御免なさい。どうしよう、何とかするから。”』
(泣きそうな少年の表情、何故か言葉として伝わった鳴き声から何と無く察するも困惑したままの頭に整理は追い付かずに。
( 子供たちも兄も帰宅した頃、相手の身に起きた奇妙な出来事は知らず、己は自室にて机の前に座り嘆息を零す。
其の手には少し皺の寄った己が描いた絵。相手が欲しいを言ってくれたもの。
結局渡せなかったしこんな奇っ怪な絵を渡すのも恥ずかしい。
其れでも捨てずにいるのに奇っ怪なのは絵だけではないようで、また一つ息を吐き出すと絵を机の引き出しの中へ仕舞って今宵の依頼のため支度を始めて。
( その頃、少年と猫になった相手…少年は相手を両手で抱えたまま孤児荘の外へ出る。
年長の子供には『爛、急な用事で出かけた。おやすみは出来ないかもって言ってた。僕も一緒に行ってくる。』と大雑把な理由を付け相手を追いかけるフリをしてきた。
夜の静かな時間、家屋が並ぶ道をやや早歩きで進みながら少年は俯き気味に話し出す。
『“ 嫌われるの嫌だから黙ってたけど、僕生まれた時から猫の言葉が分かるんだ。それにそのつもりはないのに今みたいに人を猫にしちゃう。前にも友だちを猫にしちゃって…大騒ぎになって…みんなの目が怖かった。 ”』
( 人間の言葉よりも幾分滑らかに話すも声は震えている。
相手をきゅっと抱えて『 “ 此処を真っ直ぐ行ったところに色んなことを知ってる猫おじさんが居るんだ。昔話も沢山知ってておじさんに聞けば爛を元に戻す方法を何か分かるかも。”……あれ、此れなんだろう。”』と目的地を伝えていると少年の足元に一枚の紙が。
『“ ね、ね猫探し…?み、み…だめだ、読めないや。あ!…僕この三毛猫さん知ってる。大きい家の菖蒲(アヤメ)様って呼ばれてる女の子が可愛がってるミケさんだよ。ほら、頭のてっぺんにお花みたいな斑があるから分かった。迷子になっちゃったのかな。”』
( そう其の紙は相手が昼間受け取ったものと内容が同じもの。少年は字は全て読めなかったが、三毛猫の絵を見て分かったようで。
此の依頼の紙、此の辺りでも大金持ちの一人娘が出したもの。
可愛がっていた三毛猫が居なくなり、両親に叱られるのを恐れた娘は一人で何とかしようと何枚も捜索願の紙を書き、風のうわさで相手のことを聞いて万屋とでも勘違いしたのか飛脚に頼んで相手の元へ此の紙を渡すよう頼んだのが事のあらまし。
『“ 探して上げたいけど…先におじさんのところに行ってみよう。ミケさんのことも知ってるかも。”』
( 少年は紙を懐にしまうと相手の頭を撫でて猫おじさんと呼ばれる男の住まいへ足を進めて。
( その頃、己は依頼のため奇しくも件の三毛猫、ミケさんを目の前にしており。
場所は町外れの家屋、組織の男が鈴の付いた大人しく香箱座りをする三毛猫を指さして
『此の猫を隣町の御婦人の元へ内密に届けろ。』
「…猫を?鈴がついてるから誰かの猫じゃないのか。」
『捨て猫だ。其れを偶然御婦人が見かけて此の猫の模様を気に入ったらしい。報酬は弾む。簡単だろ。』
「捨て猫なら内密に届ける必要はないだろ。」
『御婦人は金持ちだから捨て猫を拾ったとなれば世間体が悪いんだろ。』
( やや怪訝に眉を潜めるも男の嘘を信じ、三毛猫が一人娘の元から盗まれたとは知らずに「分かった。」と頷いて。
少々、否かなりぼてっとした三毛猫。はみ出た肉が畳に広がっているのが愛らしいが…「…重、」と抱える際に思わず声が漏れる。
りん、と鈴の音が鳴るのが気掛かりで外そうとしたが三毛猫が嫌がったので其の儘にし、大きめの風呂敷で猫を隠して負担にならないように抱え直すと家屋を出る。
隣町迄は少し距離があるため此の重たさだと肩が凝りそうだと少々気が滅入りつつ、大人しくしてくれている三毛猫の頭を撫でて「…花の模様みたいだな。」と頭のてっぺんの模様を見て己の描く花より綺麗なんて思いながら足を進めて。)
(夜、少年に抱き抱えられ目的の場所へと向かっていた所。
この姿になってまだそんなに経ってはいないものの何とも不便で仕方が無かった。
裏通りにぽつんとある一軒家の前で足を止めた少年は玄関を叩き『おじさん!開けて!』と声を上げる。
中から出て来たのは寝巻き姿の老人、眠そうに目を擦りながら玄関を開けて来るなり少年の姿を見つめては嬉しそうに表情を綻ばせる。
『おぉ!お前猫太郎か!大きくなったなぁ気付かなかった!』
(ここまでの道中の少年の話をふと思い出す。
少年は孤児荘へ来る前は野良猫と遊んでいる事が多かった為、『おやつをくれるおじさんがいるんだよ!』『縁側でお昼寝もさせてくれるし冬には囲炉裏のある部屋に入れてくれるの!』と言う野良猫達の話に釣られてやって来たのが最初の事。
猫をいつも引き連れている事と何処と無く猫に似ているからと言う理由で付けられた呼び名が“猫太郎”であった。
『こんな時間に何をしているんだ。取り敢えず入りなさい。』
(中へと通されご丁寧に己の分の座布団まで用意されれば言葉にならない鳴き声で礼を言い腰を下ろす。
『おじさん、前に昔話してくれたよね。誰でも猫にしちゃう不思議な力を持った少年の話。…確か、最後に悪い子供を捕まえて猫にしちゃうお話だったよね。』
『そうだが…何だ。こんな時間に昔話を聞きに来たのかい?』
『どうしても知りたい事があって…。その悪い子供は其の後どうなったの?誰でも猫にしちゃって、それで、戻せないままなのかな。』
(鬼気迫る少年の表情に老人は小さな咳払いをしては近くの襖から巻物を持って来るなり其れを広げて少年へと見せる。
『…少年に、言っちゃ駄目だと言われているんだ。』
『!!!…会った事、あるの?』
『こんな嘘臭い昔話を熱心に聞いているのはお前さんくらいだったからなぁ。仕方無い、特別に教えてやろう。だが誰にも言ってはならない。これは約束だ。』
『分かった!!!絶対に守るよ。』
『簡単な事なんだ。昔話の少年は盗みを働く悪い子供を転ばせて、其の拍子に猫にした。戻したい時は同じ容量で転ばせる。其れだけだ。』
(どこか懐かしむ様な表情で語る老人に少年は目を見開く。老人の前である事も構わず、己に振り返れば『寺子屋の池だ!』と叫んで来て。
『先生に、話してくる!池で遊びたいって!』
(突拍子も無い事を言い勢い良く飛び出して行った少年を慌てて追いかけようとすれば老人に抱き抱えられ何事かと振り向く。
『珍しい毛の色。紅い瞳。…お前さんは随分と“孤児荘の兄さん”に似ているね。いや、何も言わなくて良い。猫太郎にも何も聞かないさ。ただ、あの子を大切にしてやってくれ。親も兄弟もいない中、一人で生きて来たんだ。何度うちの子になるかと聞いても断られた。“お礼を返せないから”だそうだ。』
「………。」
『昔、儂は盗人でね。“不思議な力を持った少年”にお灸を据えられたのさ。………猫太郎に良く似た少年だ。まさか、とは思った。でも………、いや、良い。寺子屋へと向かうのかい?其の小さな足では遠いだろう。途中まで連れて行こう。』
(優し気な瞳が僅かに潤んでいた。
老人は玄関へと向かうと草履を履き、己を抱えたまま寺子屋へと向かって。
(其の頃、一足先に寺子屋へと到着した少年は扉を叩くも人がいる気配は無く肩を落とす。
後から追ってきた老人の腕の中の己を受け取っては老人に深々と頭を下げて、何か言いたげな様子の老人は何も言わず優しい笑顔のまま自宅へと戻って行って。
『“先生、いないみたい。…ああもう、池だったらどこでも良いのかなぁ…。でも風邪を引いたら大変だし確実を狙いたいよね。猫は風邪ひいたらすぐ大変になるから。”』
(大人しく明日伺おうと言おうとしたものの、少年が顔をふと上げてはすんすんと鼻を鳴らす。
『“本当に微かにだけど、先生の匂いがする。多分でしか無いけど、寺子屋を出たのはついさっきなのかも。匂いが消える前に追いかけよう!”』
(己の返事を聞く様子も無く走り出した少年は隣町へと繋がれる橋方面へと全速力で走り出して。
( 隣町へ向かう道中、三毛猫がもぞもぞと動いて落ち着かなく爪研ぎをさせたり水を飲ませたり立ち止まることも多く進みが遅れていて。
其れにしてもだ。此の三毛猫、毛並みの色艶も良く爪先までしっかり手入れされて首に付いている鈴も高値のもの。
今更だが本当に捨て猫なのかと疑念が深まる。
ともあれ受取人を見て判断しようと隣町へと繋がれる橋へ差し掛かったところ『せんせー!』とつい昼間聞いたような子供の声が背後から聞こえて足を止め。
一応姿は寺子屋時とは変えている。
パッと見て子供が分かるものなのかとゆっくりと振り返り視線を其方へやれば“小太郎”と呼ばれていた少年が銀色の毛の猫を抱えて駆け寄ってくるではないか。
『よかった。見つけた。匂いで分かった。…先生、すぐ来て。』
「小太郎君…?こんなところまでどうしたんだ。一人で来たの?その猫は…、」
『あ、ミケさん!』
「この三毛猫のこと知ってるの…?」
『知ってる。…菖蒲様の猫。』
「やっぱり、何か事情がありそうだな。…それで態々こんなところまで俺を追いかけてきて何があったんだ。」
『そうだった。爛!…爛が大変。』
「…!? 彼奴が?どうしたんだ!?何があった?!」
( まだ頭の整理が付かぬ内に相手の危機を聞けば、当人が目の前に居るとは知らずに瞠目し焦燥を隠しきれず。状況は読めないが急を要するのだろう。
三毛猫も何か裏がありそうなため此の儘受取人に渡すのは保留にしようと一旦気持ちを落ち着けて少年と共に来た道を戻りがてら事情を聞こうとした時、
『おい、其処の。もしかすると猫を届けにきた者か?約束の時間になっても来ないから此処まで来てみたが、何をしている。』
( そう話しかけてきたのは黒い着物の男。恐らく依頼人の使い手。
面倒だなと心中悪態を吐き「すまないが此方のお偉いさんからのご達しで状況が変わった。この件は持ち越させて貰う。」と適当に嘘を吐き、男の制止も聞かずに少年の手を取ると隣町を背に来た道を引き返して。
其の儘寺子屋まで戻っても良かったが追っ手が来ることを考え道中にあった暫く使用されてなさそうな小屋に身を潜めることに。
少々ホコリ臭く狭いが仕方がない。
小さな木箱の砂埃を手で払うと少年を其処に座らせて己は正面に座り肩から掛けていた三毛猫が入った風呂敷を下ろす。
スッと体が軽くなるのを感じ呑気に伸びをする三毛猫を横目に焦る気持ちを抑え少年を見て
「それで、爛に…彼奴になにがあったのか教えてくれる?」
『えっと…僕のせいで…猫に、…急ぎじゃない。』
「猫に…?猫と何かあったの?」
『…ううん。猫になったの。』
「…え?」
( 急ぎではない。と聞いてひとまず安堵し、少年の辿々しい言葉を慎重に聞くも次に出た言葉に再び思考は停止。
少年は先程から抱えていた銀色の綺麗な毛並みをした猫を地面に下ろして。
よくよく見れば相手と同じ紅い瞳、毛で見づらいが傷があるようにも見える。
まさかと思い銀色の猫を凝視する。
太っちょの三毛猫が銀色の猫(相手)に興味を示して体を擦り寄せるのを見て押し潰されそうだと思考が現実逃避しそうになり眉間を軽く指で押さえて。
「…あー、この猫が彼奴ってことか?」
( 少年に最終確認を取りながら半信半疑で相手に手を伸ばし、そっと触れて頭を撫でたあと顎下を擽ってみたりして。)
(細く淑やかな指が顎下に触れ、擽ったい様な心地良い様な感覚を覚えるも此の様な姿を相手に見られてしまった事に僅かな羞恥を感じ距離を取る。
体格の良い猫がしきりに匂いを嗅いでくるものだから悩まし気に少年を見詰めるも少年は相手への説明に必死な様子で。
『其れで、寺子屋の池にもう一回入れば爛は元に戻る筈で。だから寺子屋に行かないとって思って。』
(少年の拙い説明を真剣な表情で聞いている様子の相手を少年の背後からそっと見上げる。
思い返せば己が相手を見上げる事は中々無い事。
何だかもどかしい気持ちになり視線を逸らせば少年は立ち上がる。
『よし。行こう。一応、隠れながら。…あ、先生。ミケさんには大人しくしててねって伝えておくから。』
(少年が蹲み込み三毛猫に話しかけては漸く物陰を伝う様にしながら寺子屋への道を辿って。
(いつもより僅かに時間は掛かった物の漸く辿り着いた寺子屋。池に一目散に駆け、そっと水面を覗き込んだ其の時___。
『えい!!!』
(少年の言葉と共に軽い体が突き飛ばされる。
目を白黒させながら飛び込んだ池、一瞬の水飛沫から視界が戻る頃には、伺える少年の背丈はいつもの高さに戻っており飛んだ災難だったと溜息を溢す。
「…いきなり何しやがる。」
『あ、ごめん。…爛はびっくりしながら池に落ちたからびっくりさせた方が良いかなーなんて、』
(着物の裾を絞りながら相手に向き直れば「面倒掛けた。」と小さな謝罪を述べる。
安堵した様子の少年を尻目に未だ相手の腕に抱えられる大きな三毛猫を指さしては「取り敢えず、家に帰すんだろ?」と問い掛けるも相手には相手の“仕事”もある様で。
暫しの沈黙が走った後、夜中にも関わらず盛大に扉を叩く音がすれば先程の男達が追って来た様子。
相手と少年に下がる様に告げ、刀に手を添えたまま門を開ければ息を切らした男達に詰め寄られる。
『この辺りに大きな風呂敷を持った男が来なかったか。此方の方へ行ったのを見かけたんだが。』
(どうやら男達は相手の昼間の姿までは知らない様子。寺子屋へ来たのも相手の素性を知ってでは無く此方へ駆けて行く様子を見た為たまたま訪ねて来た様で。
「さぁ。見てないな。其れにしてもこんな夜中に何なんだ。」
『“御婦人の猫”が攫われたんだ。俺達は其の犯人を探しているだけだ。』
「…そいつは御苦労様。」
(先程の少年の言葉をふと思い出す。もう“御婦人の猫”にされてしまっている上に相手は犯人扱いかと呆れては去って行く男達の後姿を見送り寺子屋内へと戻って。
「悪い、巻き込む形になった。…それにしても本当に猫になってたんだな。」
( 追っ手を上手く追い返してくれた相手。
其の姿は既に見慣れたいつもの姿。未だにさっきまでの猫が相手だったことが信じられないが目の前で起きたことだ。己も能力者であるためある程度受け入れられて。
「小太郎くんも助けを呼びに来てくれてありがとう。…と、濡れてるし其の儘だと風邪引くだろ。着物は少し小さいかも知れないが俺のがあるし、湯浴みしてくと良い。」
( 少年の頭をぽんと軽く撫でた後、先程人間に戻るために池に落ちて濡れてしまっている相手を見やる。
銀毛が水を含んで重くなり肌に張り付く様が艶っぽいが普段よりも幼くも見える。
早まる鼓動を気にしないようにして懐から手ぬぐいを取り出すと白い頬や首筋を拭いてやり。
『ミケさんはどうするの?』
「…此の三毛猫は今夜は此処で預かってまたどうするか考え直すことにするよ。小太郎くんもお風呂入るか?』
『僕、濡れるの嫌いだからな。…爛、一緒に入ってくれる?』
( 相手から手を引き相手と少年が湯浴みする前提でそそくさと着替えやらを準備しながら話を進め「…小太郎くんも体が冷えてるだろうし一緒に入ってやったらどうだ?子供用の着替えもあるし。」と用意した着替えを押し付け風呂場があるほうを指差す。
少年は既に風呂に入る気満々でトタトタと其方に掛けていき『爛、早くね!』と元気になっていて。
其の姿に癒やされて小さく微笑みつつ横目に相手を見て「…ところでその、猫になっていた時は人間の言葉は理解出来てたのか?」と小声で問いかける。
少年から相手の窮地を聞いた時、焦燥と共に相手の名前を口走ってしまったこと。
今更思い出せば妙に気恥ずかしく相手は気付いていたのか気になり問いかけて。)
(俯き加減に問い掛けられれば、格好悪い姿を見られてしまった当て付けに如く口角を上げ「勿論理解出来たぜ。心配ありがとよ。」と相手の顔を僅かに覗き込む。
少年の後を追い風呂場へ行けば少年がそそくさと着物を脱いでおり、慣れない様子で髪を洗う様に痺れを切らしては髪を洗ってやる事にして。
お湯を掛ける際にびくりと身体を震わせる物の、湯船に恐る恐る入れば心地よさに目を細めており。
目紛しい一日だった。疲れがどっと押し寄せて来ては瞼が重くなる。
いつもより早めに湯から上がればせっせと着替える少年の髪を拭き相手のいる部屋へと戻って。
有難う。助かった。
(短い礼を言い相手の膝でうとうととする猫をじっと見詰める。少年が相手をじっと見詰め、『明日、菖蒲様のお家教えるね。孤児荘の皆とお勉強教わりに来るから帰りにでも。』と微笑みながら言う。
相手に入っている依頼は想像するに別件。
口を挟むのも忍び無く、縁側に腰を下ろし煙管を燻らせては無言を貫いたままで。
数時間後、かなり遅い時間になり着物は後日返しに来る事を伝えては玄関先にて一度相手に振り返る。
月明かりに照らされる相手の顔、随分と前から見慣れている様な感覚さえ感じ無意識に相手の髪にそっと触れるもぱっと手を引っ込めては「悪い。」と無愛想に返して少年と共に寺子屋を後にして。
(翌日。早朝に寺子屋へと訪れた兄は『今日もお手伝いに来たよー!』と言いつつも、縁側で伸びている猫を見詰めては僅かに目を細める。
兄に“御婦人の猫を盗人から取り返し、御婦人へと届ける事。”という依頼が入ったのは丁度夜明け頃の時刻。
容姿や振る舞いにからは想像できない程几帳面な性格の兄、一から調べを付けては相手に入った依頼、昨夜何が起きたかまで把握していて。
『この猫は、菊が飼う事になったのかな?』
(掴めない笑顔のまま、やけに遠回しな質問をしては猫の首元を撫でる。
依頼に関しての調査時、相手が絡んでいる事を知った時点で兄は最早依頼の事などどうでも良く。
『もしかして引き取り手に困ってる?其れとも“飼い主に元に帰す”か“新しい引き取り手に渡す”か悩んでる?』
(表情は変わらないままどんどんと詰め寄る。相手の答えを待っていた其の刹那。
『おはようございまーす!!!』
『先生ーーーーー!!!どこーーー?』
(子供達の声が響き渡り外へと目をやる。
この話は一旦お終いだな、と判断しては『まぁ。俺はいつだって相談に乗れるし手も貸せるからね。…あーでも爛には隠れてお話ししよう。あいつすーぐ怒るからさ。』と戯ける様な仕草をし相手の方をぽんぽんと叩き。
(兄の問い掛けに答える間もなく聞こえた元気な子供たちの声。
さっぱりした笑顔の裏に何かあるのではと疑いはするも兄の依頼のことまでは知らず、相談に関しては首を縦に降るだけにして子供たちの元へ向かい。
時は過ぎて夕暮れ、兄は絵描きだけでなく教学も其れなりに出来る様で算盤や習字など子供達に教えるのを手伝ってくれ更に子供たちと打ち解けすっかり人気者。
兄が子供たちを見送る頃、学び舎の黒板を掃除していると少年、小太郎が小走りに近づいてきて。
『昨日、約束してた菖蒲様のお家の場所、教えるね。』
「ああ、ありがとう。ところで、その菖蒲様はミケさんのことをかわいがってたんだよね?」
『うん、とっても。ミケさんも菖蒲様のこと大好きだよ。』
「……そうか、じゃあやっぱり捨て猫ってのは嘘だな。」
『…?それでね。ミケさんを連れていくなら先生一人じゃないほうが良いと思う。最近、菖蒲様に近づくために男の人達が詰めかけてて警戒されてるみたいだからミケさんを連れていくにしても僕も一緒のほうが疑われないよ。』
「んー、頼もしい申し出だけど子供を夜に出歩かせる訳にはいかないよ。」
『それなら俺の出番だね。』
(少年が描いてくれた“菖蒲様のお家”の地図から視線を上げてその小さな頭を撫でてやっていれば、いつから話を聞いていたのか横からひょっこり兄が顔を出す。
『その地図の場所なら俺も知ってるし男二人でも男色でーすって雰囲気出せばいいだけだしさ。』
「いや、其れはどうなんだ…。」
『でも小太郎くんに危険なことさせるわけにはいかないでしょ?すんなり依頼を終わらせるためだよ、露草。』
「…なんかあんたに其の名前で呼ばれるのはむず痒い。」
『なになに春の予感?』
(巫山戯る兄を煙たげに目を細めて見つつも提案は正直有り難い。
男色の演技をするかは兎も角、少年に礼を告げ孤児荘の子供たちと一緒に帰るよう言い其の背中を見送って。
兄と二人になり三毛猫がごはんを食べるのを見守りながら依頼のことを軽く話す。
『なるほどねー、確かにこの模様は珍しい。…捨て猫だって嘘を付いた其の御婦人、噂だけど気に入った獣の皮を剥いで着物にするらしい。』
「…毛皮か。良い気はしないな。」
『で、どうするの?』
「三毛猫は元の飼い主の元へ返す。…御婦人が黙ってないだろうから三毛猫がどうでもよくなるくらいお眼鏡に叶う代わりになるものを仕立てられたらいいんだが…。」
『ほうほう、其れなら良い仕立て屋を知ってる。ちょっと変わり者だけど腕は確かだし御婦人の心を鷲掴み間違いなしだよ。』
「どれだけ顔広いんだよ。」
『其れ程でもー。で、仕立て屋に頼む条件だけどお金は勿論、もう1つ重要なことがあるんだ。』
(したり顔の兄に嫌な予感しかしなかったが、其の後に続いた言葉に呆然とする。
其の条件とは“男色を見せるつけること”。因みに仕立て屋は女である。そう云う癖らしい。
兄曰く『どうせ男色のフリして菖蒲様の御屋敷に行く訳だしその延長戦だと思えばいいじゃん。』と何とも軽いノリ。
『演じてる間は燐って呼んでね。俺も露草って呼ぶから。』
(兄は此の仕事が上手く行けば御婦人も満足して今自身が担っている依頼も飛ぶし丁度良いくらいに思っており楽しげで、段取りが決まるやいなや『どうせなら二人共御洒落な恰好して行こう。露草に似合いそう着物も持ってきたんだ。』と言ってどこからとも無く着物を取り出してくる。
実は此の一連の流れを予測していたのではと怪訝に思いながらも、一応は依頼。
やるからにはしっかりせねばと兄が用意してくれた着物と羽織を身に纏うとひとまず三毛猫を飼い主である菖蒲の元へ返すために屋敷に向かう。
日も暮れた夜道、肩が触れ合う距離を歩く兄に人通りが少ないとはいえ何とも気まずい。
『露草ー、顔が険しいよ。そんなんだと怪しまれるって。笑顔ー。仕事だよ、仕事。』
「……分かってる、燐。…俺のところばかり来て弟のところには行かないのか?」
『えー、何。名前呼んでくれたと思ったらそんな話?だって、歓迎されないでしょ。』
(態とらしく口を尖らせる兄にグッと腕を組まれ、風呂敷の中に抱える三毛猫が落ちないように歩みを進めながら頭の中では昨日相手が見せた悪戯な表情や、髪に触れてきた手の感触やらを思い返していて。)
(寺子屋から帰宅した少年が駆け寄って来るなり、『ミケさんの事だけどね!先生が菖蒲様のお家に連れてってくれるんだって!』と嬉しそうに話して来る様子に内心胸を撫で下ろす。
しかし相手が請け負っていた依頼はどうなったのかと思えば年長の少女が先程持って来てくれた風呂敷に目をやる。
昨夜相手に借りた着物、梅雨の時期故乾くのに時間が掛かってしまった。
流石に夕飯時に持って行くのもなと思えば明日届けようと。
(子供達も床に着いた時刻。今日は依頼という依頼は入っていないが相手に惚れ込んでいる娘の母親、元い花魁から頼まれ毎をしていた為着替えを済まし外へと出向く。
己が裏での仕事を行なっている事を何となく知っている花魁は偶に依頼と称して小さな頼み事をして来ては報酬と言いつつも頼まれごとには見合わない金額を渡してくる。
毎回受け取れないと断るも、これはあくまでも依頼だと言い切られてしまい正直申し訳ない気持ちさえ湧いてくる。
今日の頼み事も些細な物で、仕立て屋に頼んでいた着物を受け取ってきて欲しいとの事。
そんな事を依頼と称して己に頼むより店の人間に頼んだ方が金もかからないという旨の本一度は断ったのだが『彼処の女主人はね、腕は確かだがちょいと変わった奴というか…一癖も二癖もある様な人間でさ。誰も近付きたがらないんだ。だから爛に頼んでるんだよ。』と言い切られてしまい。
渡された地図を頼りに漸く目的の仕立て屋へと到着した所。
店の引き戸を開けるなりふと僅かに香った相手の香りに眉を顰める。
奥の部屋から出てきた店主である女は苛立たしげに帳簿に名前を書く様に命じて来て。
無言のまま花魁の名前を書けば至近距離で女主人と目が合う。
『あんた、異国の人間かい?』
「いや、…何だ唐突に。」
『面白い髪と眼をしているなと思って。丁度良い。あんたも混ざる?』
「何に。」
『頷いたら其の花魁の着物タダにしてやっても良いよ。』
(己の問いには答える事無く手招きされては訝しげに奥の部屋通される。
足を進めるに連れて濃くなる相手の香りと僅かに感じ取れる兄の香り。
開けられた襖の向こうにいたのはやけに着飾った様子の兄と相手の姿。
何故こんな所に、と疑問を覚えながらも立ち尽くしていた所、女主人は部屋の真ん中で相手達と向き合うように腰を下ろしては『待たせたね。さぁ初めてよ。』と。
状況が掴めず女主人に詰め寄ろうとすれば『まだ分からない?…あ、其れとも男相手には興奮しない質?』と聞かれ。
布の擦れ合う音がしたと同時に兄が相手の首筋に顔を埋め、やけにゆっくりとした動作で相手を押し倒す。
相手の細い手首を掴み、手の平を這わせ指を絡める。
何が起こっているのか理解などできる筈も無かった。
噛み締めた唇、僅かに血の味がする。
兄が己の死角で相手の口を手で塞ぎ『駄目だよ露草。今は俺達恋人同士なんだから。』と小さな声で言う。
相手の着物の襟首が乱れた所で居ても立ってもいられず、平静を装いながら「急いでるんだ。もう行く。」と女主人に伝える。
「ああ、さっきの質問だが俺は男もいけるよ。依頼として金を払ってくれたら何でもしてやるさ。」
(女主人は『あら残念だね。』と呟き着物の入った木箱を渡して来ては其れを受け取るなり足早に其の場を後にして。
己の身に何かあったのではと不安そうな表情を見せる様子、何かと世話をやいてくれていた事全て思い上がっていた。
激しい怒りさえ感じ早々に花街へと着物を届けては孤児荘へと戻るも眠れる筈も無く。
(翌日、少年と一緒に寺子屋へ着物を返しに行く約束をしていたものの行く気になる筈も無く、「礼を言っておいてくれ。」と少年に伝えては其の儘特に宛も無く街へと向かって。
(三毛猫を無事に菖蒲の元へ届けて仕立て屋へ行き、気の向かないまま兄と共に男色を演じあろうことか其の様を相手に目撃されるという目眩がするような一件があったのは昨夜のこと。
今は寺子屋にて子供たちを迎えるところ。因みに兄も一緒だ。
昨夜は相手が来た時、背筋が冷えて動揺と焦燥で一時演じるどころではなくなったが兄の言葉で我に返る。
あくまで“仕事”。女主人もフリなのは分かってるから本当に接吻やら戯れをしろと迄は言っていない。出来るならしてしてほしいらしいが…。
結局のところお互い軽く着物を乱し触れたりはしたが、肌に唇を寄せたりは素振りだけで寸止め。
お戯れ程度しかしていない。其れだけでも嫌悪感はあったっが女主人は納得して最高の素材を早急に仕立ててくれることに。
仕上がり次第連絡をくれるとのこと。然し問題が一つ。女主人は受け取りにも条件を付けてきて、値下げもするから兄との恋人関係をもっと見たいと。
其れも街中や日常生活の交わりを見たいらしく、女主人は隠れて見ているから兄と己は其れっぽく過ごしてほしいらしく。
兄はもっぱら乗り気で『勿論、其の代わり此れからもご愛顧させてね。』とちゃっかりしており。
そんなこんな朝から女主人の姿は隠せていても濛々とした気配と視線を感じながら今に至っているわけで…。
元気よく訪れる子供たちに手を振り笑顔で迎えるも心は曇っており、
『露草、目が笑ってない。子供は敏感なんだからバレるよー。』
「…笑ってられるか。というかあの仕立て屋の女、ずっと見てて仕事はちゃんとしてくれるんだろうな。」
『其処は信用出来るから心配いらないよ。俺もいつ寝てるんだろーって疑問だったけど、彼女にとっては衣食住よりも此れが生きがいらしい。』
(そう言って子供達の前でくっつき『お兄さんたち仲良しー。』と戯れる。
其処へ少年が貸していた着物を持ってやってきて『…二人共恋人同士なの?』と。
女主人が見ている手前兄は『そうだよー。熱々なんだから。』と笑って。
『…へえ。またそんなことしてるんだ。……爛可哀想。』
「…また?」
『なんでもないよ。…はい、借りていた着物。ありがとうって爛が。』
「…ああ、小太郎くんも持ってきてくれてありがとう。…その彼奴の様子はどうだった?」
『ちょっと元気なかったかな。』
(しゅんとする少年にもし昨夜のことで相手に嫌な思いをさせたのなら弁解する必要があると思い。
否、本当にその必要はあるのか。
そもそも誰だって人の戯れを目撃したら不快だ。しかも距離を置いている兄絡み。
相手とは恋仲でも何でもない訳で弁解する意味はあるのか。
ただやはり誤解をされたままは嫌なので相手には真を伝えようと思った時、
『爛にはまだ言っちゃ駄目だよ。知らないほうが“フリ”が真実味増すし、仕立て屋の彼女も楽しめると思う。』
「俺は何も言ってない。」
『でも直ぐにでも伝えようって顔してた。駄目だよ、まだ。』
「…わかったよ。」
『じゃ、そういうことで後はお手伝いさんたちに任せて俺たちは街へおでかけに行こう。』
(どこまでも用意周到な兄、今日は街へ出掛けられるように教鞭を執ってくれる人材を確保してくれており、己たちは街をぶらつく予定で。
女主人にも良く見えるよう手を絡めて握り
『今日も楽しもうね。…あ、頬に接吻くらいはあり?』
「…仕事と言われれば、」
(眉を寄せて無愛想に答えるも女主人に仕事放棄されては困るため手だけは軽く握り返して街へと足を進めて。
(一方其の頃、街。入念な兄、其れっぽい雰囲気作りのため裏工作に余念はなく街に己との関係を仄めかす噂を流していて。
噂好きの街の人々、すっかり其の噂は広まり、魚屋の店主の男は街を歩く相手を見かけるやいなや『おー、兄ちゃんこっちに来てくれや。』と手招いて。
『聞いたぞ、御前にそっくりのあんちゃんいるだろ?寺子屋の先生とそういう関係になったらしいじゃないか。そんな素振りちっとも無かったのに、どうしてか聞いてるか?兄ちゃん、先生と最近仲良さそうじゃないか。』
(若者はいいなぁと気楽な魚屋の店主。男色はさして珍しくないため其処に驚きはしないものの『もったいないよなぁ。そうだ、兄ちゃん、うちの娘と見合いでもどうだ?孤児荘の子供たちは毎日魚食べ放題だぞ。』と冗談のような本気の口振りで相手の肩をぼんぼん叩き。)
(気晴らしに街へ来たつもりだったが飛び交う相手と兄の話に苛立ちは最高潮。
呼び止められた魚屋の店主の言葉にいつもと変わらないままの無表情で「さぁな。俺は特に何も聞いていない。」と答えては続け様に「其れも良いな。だが生憎俺の稼ぎが悪いもんでね。あんたんとこの大事なお嬢さんにひもじい思いをさせる訳にはいかない。」と僅かに表情を緩める。
甘味処をふと通り掛かれば最近会ってさえいなかった貴人の令嬢と出会し、お茶に誘われるも甘味処の椅子に座り話し込んでいる女子達の会話が耳に入れば僅かに眉を寄せる。
『聞いた?燐さんと寺子屋の先生が恋仲だって噂!』
『勿論よ!でもちょっと残念。寺子屋の先生ちょっと狙ってたのに…。』
『冗談は良しなさいよ。其れにしても本当に絵になるなぁ…あの二人。でもさ、燐さんって何のお仕事してるのかしらね。』
『此の前うちのお父さんの大工仕事手伝ってくれたのよ。其の前は芝居で穴が空いた役を代役してたらしいし。』
『私見に行ったのよ。代役とは思えなくて驚いちゃった。』
『器用よね。頭が良くて優しい先生と燐さんか…。本当にお似合い。』
(沸々と全身の血液が沸騰するような感覚を覚える。
己はこんなにも短気だっただろうか。
令嬢の誘いをやんわりと断っては大人しく帰ろうと引き返す。
大股でくるりと振り返った事に激しい後悔をした。
『あれ!爛じゃん。何してんの?』
(満面の笑顔で手をひらひらと振る兄。…と兄にしっかりと手を取られている相手。
最悪の機会に咥えていた煙管を落としそうになるも変わらぬ無表情を貫く。
甘味処から湧き上がる黄色い歓声に応える様に町娘達にもひらひらと手を振る兄は、一人駆け寄って来た町娘の『あ、あの!お二人が恋仲って噂は、』と問い掛けににっこりと微笑む。
『えーもう噂になってるの?恥ずかしいなぁ。そうだよ。露草は女の子に人気があるから俺いつも冷や冷やしてるの。だから手出しちゃ駄目だよ?』
(見せ付ける様に相手の頬に口付けを落とす兄。
問い掛けて来た町娘は顔を真っ赤にしながら友人の元へと戻り話に花を咲かせている様子。
平静を装いながらも呆然とする。
昔から兄はいつだって己の欲しい物を奪い、見せ付けて来る。
「お熱いこった。」
『まぁね。爛も恋人の一人や二人作れば良いのに。』
(兄の横で何も言わない相手に苛立ちが走る。
正直、町娘の問い掛けに答えた兄の言葉を撤回して欲しかった。
いつものように兄に対して鬱陶しそうな表情であしらって欲しかった。
己に対しての、此れまでの言動、表情、態度、嘘だったのだろうかと身勝手な嫉妬心を感じるも、ふと冷静になる。
___嗚呼、そういう事だったのかと。
「まぁ仲良くやんな。俺はもう行く。」
(煙管の煙を吐き出し相手の横を通り過ぎる際、相手の肩にぽん、と手を置き耳元に唇を寄せる。
「俺に良くしてくれてたのは俺の顔が此奴と瓜二つだったからか。危うく騙されるとこだったぜ。…あんたはつくづく人を狂わすのが得意だな。先生よ。」
(吐き出した言葉に自分自身の心が痛んだ。
相手の顔すら見れずに逃げる様に大股で其の場を後にして。
(行く宛も特に無く、昼寝がてら丘へでも向かおうと街を出ようとした時。
ふと己の前を通り過ぎた長い藍色の髪に目を惹かれ、其の細い腕を掴んでしまい目が合う。
無意識だったが故、すぐにぱっと手を離し「…悪い。」と小さく謝罪をする。
何処と無く相手に似てはいる物の、目前にいるのは女性。
己の謝罪に対し緩やかな微笑みを浮かべ軽くお辞儀をする様子まで相手と良く似ていた。
通り過ぎる女性を見送ってはまたやるせない気持ちに襲われ、誤魔化す様に丘へと向かって。
『もう、爛が来てから表情暗いよ。…一応彼女に見られてるんだからしっかりしないと。と言うか二人は別に付き合ってるわけでもないんでしょ?何も気にすることないよ。』
「…まあ、それもそうか。」
(茶屋にて兄と向き合う形で座り茶を啜るところ、己は先の相手との一件で上の空。
一番見られたくない相手に“仕事現場”を見られ、恐らくだが不快な思いをさせてしまった。
ほんの少し、もしかしたら相手が怒る理由が嫉妬しているからなのではと自惚れがないわけではない。
だが然し、兄と関わるなと何度か言われてきた。
十中八九、苦手な兄と恋仲関係にあること事態が不快なのであって、其処に深い意味はないのだろう。
直ぐに弁明出来ないもどかしさと無意味に傷心する己自身に嘆息が零れ。
『ちょっと幸せが逃げていくんですけどー。ねぇ、今日はうちに来ない?…あー、変なことはしないよ。彼女も流石に人の家の中までは覗いて来ないだろうし、一緒にお酒飲むだけ。…家の中に一緒に入ってくところ見せつけるだけ。』
「…それで満足してくれるんだろうな。」
『さあね、でも早いところ満足してくれないと御婦人も待っててはくれないから“仕事”は早く片付けないと。』
(兄の言うことは最も。“仕事”と何度か口にしてくれるのも己が割り切りやすいように配慮してくれているのだろう。
相手には仕事が片付いたらちゃんと説明しようと蟠る胸内に気付かないふりをして「…分かった。今日は燐の家に行くよ。…楽しみにしてる。」と机の上に置かれる兄の手に指先を這わせて重ね柔く微笑んで。
(一方、丘付近。相手とすれ違った己に良く似た女性は相手とは初対面だが何かの縁を感じていた。
そして1つ聞きたいことを思い出し振り返ると小さくなった相手の背を追いかけて『あ、あの…すみません。』と僅かに息を弾ませて声を掛け。
『突然御免なさい。貴方、この辺りの人かしら。…私、寺子屋に行きたくて、良かったら場所を教えてくれると助かるの。地図を持ってきたのだけど風に吹かれて水溜場へ落として滲んでしまって…。』
(女性は既に乾いているが炭が滲んで何が書いてあるかわからない紙を見せて困り顔で微笑む。
斜め掛けで背負われた風呂敷には結構な荷物が入っていて、履物の草履も何処から歩いてきたのか潰れていて足も赤い。
『…ああ、でも用事があるわよね。追い掛けてきて御免なさい。』
(なんだか懐かしくてと微笑み頭を下げて女性は去ろうとしたがプチンと草履の鼻緒が切れるとバランスを崩し、荷物の重みもあり背中から相手のほうへ体が傾いて。)
(倒れ掛かる女性を咄嗟に支えては近くの石造りの階段に座らせ鼻緒の切れた草履を受け取る。
孤児荘の子供達は走り回り良く草履を壊す。
慣れた手付きで額の布を噛み切り草履の応急処置をしては無言のまま女性の荷物を取る。
「寺子屋だろ?案内する。」
(正直今寺子屋に行くのは気が引けたが危なっかしい様子のこの女性を一人で向かわせる方が後味が悪い。
柔らかく微笑み礼を言う女性の其の様子や顔立ちがどうしても相手と重なり、ふと無意識に顔を逸らしては寺子屋へと歩き始めて。
(寺子屋へと辿り着き玄関を叩くもどうやら留守の様子。
困った様に眉を下げる女性を尻目に、兄の所にいるのかと身勝手な嫉妬心が胸を支配する。
時刻は最早夕方。女性は『あの、ありがとう。充分助かったわ!取り敢えず帰ってくるまで待ってみて、夜までに帰って来ない様子であれば宿を探す事にするから、』と慌ただしく早口で話し始める。
心配を掛けさせまいと早口になる所まで相手とあまりに似ていた。
「連絡はしていなかったのか?今日来るって事。」
『其れは、…してない、』
昼こそ活気の良い町だが夜になればそこそこ治安も悪い。
このまま放って置く事など出来る筈も無く「家に来るか?」と問い掛けては慌てて説明を付け足す。
「此処からそんなに遠くないんだ。見寄りの無い子供達と住んでいるからそこそこ広いし部屋も空いてる。…別に変な意味で言ったんじゃない。」
(女性は暫く悩んだ後、『其れじゃあ、お言葉に甘えて。』と柔らかく微笑む。
女性の素性には触れないまま、孤児荘へと引き返しては頭の中は相手の事で埋め尽くされていて。
(其の頃、兄の自宅。
上等な酒を数本開けては僅かに酔った様子の相手を兄は上機嫌で見詰めていて。
時折兄の表情が切なげに曇る原因は先日見た夢。
兄の脳裏に過ぎる記憶はいつも無音で映像のみだった物の、先日見た夢は音までもが鮮明だった。
『-爛に伝えて欲しい。-』
(記憶の中の相手の言葉。いつも優しい微笑みを浮かべながら話していたのは恐らく自分の事では無かったのだろうと兄は何処と無く察していた。
幼少期、兄はいつも金を稼ぐ為に接待していた裕福な客から貰った菓子を己の元に良く届けてくれていた。…が、其の様な記憶は己自身残っていなかった。
父に己を家畜の様に扱う事を強要されていた事もあってか優しい態度で渡した事なんて無いに等しかった。
幼い頃、己にと持ち帰った団子を床に敢えて落とし『食べて良いよ。俺はさっきたらふく食べたから。』と言ったのを今でも兄は覚えていた。
うとうととする相手の髪を優しく撫でる。
『あの時はさ、爛が団子食べてみたいって言ったから俺は客に団子を強請ったの。其の前も。』
(独り言の様に呟きながら相手の頬を撫でては『…露草は渡したく無いんだよな。仕事でも演技でも、俺今が一番楽しいもん。』と小さく呟いて。
( 翌朝、己は酒に飲まれ昨晩のうちに帰宅するつもりが兄の住まいで寝落ちしてしまい。窓の面格子から差し込む朝日で目が覚め、いつの間にか寝かされていた布団から上半を起こすも脳内を刺すような痛みと気分の悪さに眉間に皺を寄せて額を押さえて。
『あ、おはよー。目醒めた?御免ね、ちょっと飲ませすぎちゃったね。あのお酒すごく口当たりが良くて飲みやすいんだけど結構強くてさ、別名酒豪泣かせって言われてるんだ。あ、二日酔い醒ましの生姜湯飲む?』
「__燐、昨日何か言ってたか?」
( 襖が開きお盆を手に入ってきた兄、いつもの明るい兄だがぼんやりと昨夜の記憶が残っていて物憂げな表情が重なり、生姜湯が入った湯呑を小声で礼を言いながら受け取って問いかける。
『えー、何か言ってたかな?』
「…そうやって茶化して誤魔化してるとまた誤解が解けないのが続くぞ。」
『わー、朝から辛辣。っていうかまたって何さ。』
「…確かに、なんでまたなんて思ったんだろうな。__生姜湯ご馳走様。寺子屋もあるしそろそろお暇するよ。仕立て屋も満足しただろ。」
『だね、今頃張り切って着物を仕立ててくれてるんじゃないかな。あ、寺子屋まで送ってく。』
( 子供じゃないから良いと断ったが付いてくる兄は好きにさせ、重たい身体を奮い立たせて外へ出る。
道中考えるのは相手のこと。誤魔化しているのは己も同じじゃないかと胸中嘆息を零し、さっさと相手に本当のことを報告しようと。
「…途中で団子買って帰ろう。」
『何、昨日の話やっぱり聞こえてたの?』
「孤児荘に、持ってってくれ。」
『…えー。』
( 嫌そうな顔をする兄に団子屋で買った団子を押し付け、団子屋でも兄と己の恋仲噂が浸透していて冷やかされたため此方の噂も早い所沈下せねばと思いながらひとまず兄と共に寺子屋へ向かって。
( 一方、孤児荘。
女性は相手と共に孤児荘へ行き夜まで居てもう一度寺子屋へ足を運んだが当然門は仕舞ったまま。
宿を探すつもりで居たが夜に女一人で宿に泊まるのも危険ということで孤児荘へ再び戻り一泊することに。
子どもたちとも直ぐに打ち解け風呂や寝支度などを手伝い子どもたちと同じ布団で雑魚寝した。
そして朝、女性は早朝から朝当番の子どもたちと共に炊事場に立って朝餉作りを。
着物をたすき掛けして己と同じ藍色の髪を目立たない簪で結い上げ、慣れない場所でも手際が良く焼き魚や味噌汁を調理していき。
『お姉さん料理上手だねー。』
『ふふ、ありがとう。でもドジなところあるから焦がしたり入れるもの間違えちゃったりするのよ。……ねえ此処のお兄さんと寺子屋の先生の関係って聞いてたりする?』
『爛兄さんと先生?…お話してるのは見かけるよ?』
『…そっか、そうよね。変なこと聞いてごめんね。』
( 女性は眉を下げて笑いながら鍋の中の味噌汁をゆっくりかき回していて。)
(翌朝、目覚めるなりのそのそと顔を洗いに行く。
子供達が次々に挨拶をしてくる中、通りがてら台所で昨夜の女性と年長の少女を見掛けては足を止めるも此方に気付いた女性が駆け寄って来るなり『昨夜は泊めてくれてありがとう。助かったわ。』と和やかな笑顔を浮かべていて。
「…別に。一応あんたは客人なんだから気を使わなくても構わないんだが、」
『じっとしてると落ち着かなくて。其れに料理は嫌いじゃないの。』
「今日は寺子屋に行くのか?」
『ええ。其の予定だけど…』
「なら、子供達と一緒に向かうと良い。昨日通った道とは言えあんたまた迷いそうだからな。」
『…確かに、否めない…。じゃあお言葉に甘えて。何から何までありがとう。』
(明るい日の元で良く見れば見るほど、女性は相手と似ており無意識に目を逸らしてしまうも女性は変わらず優しい態度で話ており何だか調子が狂う。
顔を洗い寝巻きから着替えては女性と子供達との朝食を済ませ、寺子屋に向かう女性と子供達を見送り。
縁側で煙管の煙を燻らせていた所、玄関を叩く音に気付き戸を開ければ何故か其処には兄の姿があり。
咥えていた煙管を落とし掛けるも変わらない表情のまま「何の用だ。」と問い掛ける。
『いきなりむつけないでよ。お届け物。』
(差し出されたのは団子の包み。
不意に脳裏に蘇る幼少期の記憶。
『-食べないの?餓死しちゃっても俺知らないよ?-』
幼い兄が包みを開けるなり態とらしく団子を地面に落とす。
脳裏に過った記憶に苛立ちを隠せず、団子を差し出す兄の手を思い切り払いのければ団子の包みはべしゃりと地面に落ちる。
『あーあ。勿体無い事しないの。…良かった。包みだけだよ地面に触れたのは。まだ食べれる。好きだったでしょ。団子。』
「…何しに来たんだ。」
『だから、届け物だって。露草からだよ。』
(兄の言葉に眉間に皺を寄せる。何故相手が自分に?と思ったが其れを問う事は無く、兄も何か話す素振りは無いまま用事は済んだとばかりに裾を翻して。
(寺子屋へ到着した女性は、道中『お姉さんって菊先生に似てる!』『家族なの?』と言った問い掛けを受けるも決定的な答えを述べる事は無く。
寺子屋の入り口の前で軽く身なりを整え直しては意を決した様に足を踏み入れるも、奥に見える相手の姿を見付けるなりやや足早で駆け寄り。
涙ぐんだ瞳で相手の腕を掴んでは漸く交わった視線。
掠れる声で『…兄さん。』と小さく言葉を漏らしてはじっと相手の瞳を見詰めて。
(兄が孤児荘を後にするなり自室へと戻る。
今日こそ依頼は入っていない物の、明日の依頼は中々に面倒臭い。
見せ物小屋から一人の少年を攫って来るとの事なのだが、少年の特徴として書かれている内容が“赤髪”のみ。
単に赤髪と言われても、明るめの茶髪の事も赤髪と言えるしと頭を悩ませる。
町はきっと相手と兄の話で溢れている為出向く気にもなれず自室で昼寝でもしようと寝転んで。
( 孤児荘へ団子を届けに使い出てくれた兄を見送り寺子屋で子どもたちを出迎える頃、突然の来訪者に瞠目する。
性別こそ違うが己と良く似た目鼻立ちに髪の色、背丈も己よりは低いが女の中では高い部類。
そんな初対面の女が己を『兄さん』と呼ぶ。
普通であれば不審でしかないが、何故か掴まれた腕を直ぐに振り解けずに狐につままれたように立ち尽くし。
『…やっぱり、覚えてない。当然よね…まともに会って話したのも数えるくらいしかないもの。突然ごめんね。でも私は兄さんとちゃんと話したい。出来れば急ぎで…。』
「状況がつかめないんだが…孤児荘の子どもたちと一緒に来たってことは其処の…荘主にもあったのか?」
『荘主…霧ヶ崎さんのこと?ええ、昨日お世話になって。子どもたちが此処まで案内してくれたの。』
( 女のことは信用出来ないが相手と会い、子どもたちも打ち解けている様子。
危険人物にも見えないため、まだ少し涙ぐんでいる女の掴む手をそっと解くと奥の部屋へ通して。
__
『御茶、ありがとう。兄さん。』
「…その、さっきから兄さんってのは…。俺には兄妹は居ないはずだが。」
『はず、でしょ?はっきり自分でも分かっていない。…小さい頃能力の代償で一度全ての記憶を失ってるから。』
「……。」
( 二人だけの部屋、女は御茶を飲み少し落ち着いたのか先程よりも物言いがしっかりとし、誰にも打ち明けたことのない事実をぴしゃりと言い当てる。
『私達、双子の兄妹なの。でも私たちの生まれた村は田舎で言い伝えに心酔する宗教村、双子は厄災を呼ぶ源と信じられていたの。両親は…特に母さんはお腹の子が双子だと確信していたから私たちを守るために他の村人に知られないよう私たちを産んだ。私は生まれて直ぐに今の育ての親に引き取られて、兄さんは母さんと父さんの元に残った。6歳くらいまではね、本当に偶にだけど両親と兄さんが会いに来てくれて一緒に遊んでたのよ。でも母さんが体を悪くしたって文が届いたきり連絡が取れなくなって、私も小さかったから村には行けなくて育ての両親も何か必死で隠してるみたいだったから深くは聞けなかった。…大人になって村で起きたことを知って、兄さんをずっと何年も探してた。それでやっと、やっと見つけた。会いたかったの。それだけじゃない、兄さんの助けが必要なの。あのね、私も能力者で、…「ちょっと待て…一気に話しすぎだ。」
( 大人しそうな“妹”と名乗る女は最初こそ控えめに話していたが、次第に熱がこもり高ぶる感情を声に乗せて前のめりに瞳を輝かせるが正直二日酔いの頭にはきつい。
生まれの村の話は何となく知っていたが己が双子なのは覚えがない。
しかも其の双子の妹は能力者だと言う。
二日酔いだけが原因ではない頭痛に片手で額を押さえる。
『混乱させて御免ね。…私、ハナ(華)。覚えない?』
「…ハナ。」
( ぽつりと名前を口にすると記憶の片隅に幼い少女の笑顔が靄が掛かって浮かび上がる。
だが妹だという実感は湧かずに申し訳ないが小さく首を横に振り
『いいの。…思い出せとは言わない。無理やり思い出させることもできるけど其れはしたくないし。』
「どういうことだ?」
『言ったでしょ。私も能力者なの。兄さんの能力のことは知ってる。その代償も。私は兄さんみたいに記憶を自由には操れない。だけどね、本人ですら忘れた記憶を呼び起こすことができる。だから今直ぐ兄さんが忘れた記憶を繋ぐこともできるわ。…大丈夫、しないから。ただ、必要なの。兄さんの力が。』
( 真っ直ぐな瞳、控えめなようで強引なところが己と似ている。
女は真剣な眼差しで訴えると机の上にあった己の手に自らの手を重ねて『その前に兄さんの話を聞かせて。…寺子屋に来たときのこととか。』と屈託なく笑って。)
( その頃とある見世物小屋。
狭い一室には窓が無く襖にも格子が付けられ錠付き。
隔離された其の一室の片隅で烈火の如く赤い髪を持つ青年が一人。
燃ゆる髪は紛うことなき赤。小柄で幼い顔立ちは少年とも言えあどけない。
そんな青年の細い手足首には“見世物”の証の鉄枷。
鎖で繋がれていないが、逃亡を測っても一目見て“見世物”だと気付かれる。
『あーあ、また脱走失敗。だからって窓無しの部屋って無くない?可愛い僕に酷い仕打ちだよねぇ。』
少年は畳の上に寝そべり器用に片足で鞠を回たり飛ばしたりして弄びながら襖の向こうの監視役に聞こえる声量でごちる。
監視役から返事はなく『つまんなーい。』とわざとらしく溜息。
然し片手に持つ肖像画を見て口元を緩ませては『ふふッ、直ぐに抜け出して会いに行くからね。…それとも会いに来てくれる?』と肖像画を胸元へ大事に引き寄せて嬉しげに一人無邪気に笑いを零す。
其の肖像画には正しく相手が描かれていて。)
(翌日、寺子屋へと向かう子供達を見送りながら相手に団子の礼すら言えずにいる此の儘の状況にもどかしさを感じていて。
子供達に「団子を貰ったから、礼を言っておいてくれ。」と一言言うだけの事など容易い筈なのに行動に移せない。
今夜の依頼の前調べにと真昼間の花街の奥、見世物小屋がある場所まで訪れては店主に金を払い、特別に見世物である者達の見物の許可を貰う。
『真昼に来る観客は少ないんだがね。お兄さんは物好きだ。気に入ったのがあれば金額交渉も承ろう。』
(店主の下卑た笑みを尻目に裏口から中へと入れば中には沢山の部屋。扉には小さな覗き窓が付けられている。
手当たり次第順番に見て行く物の、これと言って目立つ“赤髪”は見付からずに困っていた所。
『嗚呼、まだ一人いるんだ。脱走癖のある餓鬼でね。一番奥の二重扉の部屋にいるよ。見て行くかい?』
(店主の言葉にこくりと頷けば案内された部屋の覗き穴をそっと覗き込む。
薄暗い部屋の中から『わぁ!びっくりした!』と声が聞こえたかと思えば瞬時、部屋の中が明るくなる。
『ごめんごめん。真っ暗で俺の顔見えなかったでしょ。』
(覗き穴越しに満面の笑みを此方に向ける青年の髪は人目を奪う程の赤。
そして其の少年の手から燃え盛る炎が薄暗い部屋の中を明るく照らしていた。
『あの餓鬼は炎人間。身体の至る所から炎を出現させる事が出来るのさ。うちの一番人気だからな。あれはそう簡単には売ってやれないが、どうしてもと言うのなら考えてやっても構わない。ただし値は張るぞ?』
店主の言葉に頭を悩ませる。攫わずとも金を払って仕舞えば良いのでは無いかとも思ったが見世物に売られてる人間の素性など知れないし、依頼は忠実に言われるがままに実行するのが安牌。
「いや、いい。手間掛けたな。」
(店主に手短に礼を言っては裾を翻すも、扉がガタガタと鳴れば『え?ちょ!兄さんもう行くの!?』と青年の声が響き。
何も言葉をかける事も無く其の場を後にして。
(其の頃、兄はいつもの如く寺子屋へと向かっており。
手には物珍しい外国の焼き菓子。
『胃袋から掴んで行こうなんて、俺ってばいじらしいんだから。成長しても餌付け癖は変わってないんだろうなー。』
呑気に独り言を溢しながら寺子屋の門を潜った所で庭を掃き掃除している妹の姿を発見しぴたりと動きを止める。
『あら。こんにちは。』
『びっくり…してる筈なのに、不思議だな。俺君と初めましてな気がしないよ。』
『兄さんと顔が見てるからかしら。…でも奇遇ね。私も、なんだか不思議な感じ。』
『一応挨拶ね。寺子屋のお手伝いしている霧ヶ崎爛でーす。』
『…の、お兄さんの燐さんね。兄さんから聞いてるわ。ふふ、騙せると思った?』
(妹の柔らかい微笑みに釣られて表情を綻ばせるも、兄は部屋の中にいる相手の姿を見付けるなりばたばたと其方に駆け寄れば焼き菓子の箱を相手に手渡して。
『あ、団子。渡しといたからね。』
(思い出した様に一言言えば其の先を言う事は無く箱を開けるように促して。
( 妹と名乗る女の話は実感は無かったが嘘とは思えず、泊まる場所もないと言うので押しの強さにも負けてひとまず寺子屋の手伝いをさせていたところ、兄が来て渡された菓子を受け取り。
「へぇ、変わった見た目だな。いい匂い。…団子もありがとな。」
『別にー。…あ、そう言えば妹さん、来てくれたんだね。さっき門のところで会った。此処に泊めるの?』
「ああ、実感がなくて初対面なのにどうかしてると思うんだがな。少し頼まれごとをされたんだ。ただ仕立て屋の一件もあるし直ぐには取り掛かれないから其れまでは寺子屋の手伝いをしてもらいながら空き室に泊まってもらうことにした。」
『ふーん、初対面の女の子泊めちゃうなんてだいたーん、なんてね。…そうそう、仕立て屋だけど早速さっき飛脚から文を渡されて今夜中にも仕立てられるってさ。ただ最後にまた俺たちの恋人関係を見たいらしいから受け取りは一緒にだって。』
「…仕事は早いのに面倒だな。」
『だから今夜もよろしくね、露草。』
「仕立て屋から受け取ったら彼奴には本当のこと話すからな。」
『はいはい、さ、俺は子どもたちのところ言ってくるよ。』
( 手をひらつかせて子どもたちの元へ向かう兄の背を見送り、先程受け取った焼き菓子に視線を落とす。
相手は異郷の菓子は好きだったりするのだろうか。
団子を受け取ったときの反応も直接見たかった。
妹のことも、兄のことも色々話したい。
考えることは多いが考える大半は相手のこと。
ひとまず、今夜の仕立て屋の一件を片さねばと焼き菓子は後に取っておき己も子どもたちの元へ向かって。
( 夜の花街。
見世物やの一室で赤髪の青年はむくれたいた。
昼間見た相手の姿。其の姿を見た瞬間昂ぶった感情。
夢の中で何度も見た相手の姿。
きっと夢の中の相手と昼間に見た相手は別人なのだろう。
だがそんなことはどうでも良かった。
自身と同じ異彩な髪色。見世物小屋に関わりを持つ能力者。
少し前に相手が少しの間見世物小屋で其の能力を開放した時、電撃が走ったのだ。
__嗚呼、なんて優美なんだろう。此の人のことを待ってたんだ。此の人なら人から忌み嫌われ堕しに使われる虚しさや諦めも、寂しや孤独も分かってくれる。
相手の孤独も己なら埋められると、会ったこともないのに一目見て抱いた感情。
客に取り入って手に入れた肖像画を大事に眺め、漸く昼間に相手と会えたのに。
『でもきっと兄さんまた来てくれるよね?』
( 青年は何となく相手がまた来てくれる気がしてこっそりと屋根裏の天井の一角を開けやすいようにして、素知らぬふりをして退屈そうに畳に寝転んでいて。)
(時刻は夜。昼間偵察に出向いた甲斐もあり青年の部屋は掴めている為颯爽と花街へと向かえば人目を避ける為屋根へと駆け上がる。青年の部屋はこの辺りだった筈と記憶を呼び起こしながら屋根の一角を拳で叩き音を確認する。…も、明らかに不審な点があり眉間に皺を寄せる。内側から処理を施されているかの様にやたらと響く音に不信感を持つも屋根板を引き剥がす。あっさり侵入できた屋根裏部屋。飛び降りた位置の足元をまた軽く拳で叩き板を剥がそうとしたした物の、驚いた事に既に板は剥がれておりただ被せられているだけの状態で。
依頼がバレて罠でも仕掛けられたのだろうかと、そっと部屋の様子を覗き込めばぱちりと目があった青年に冷や汗を溢す。
『兄さん!ここ!早く引き上げてー!』
(小さな声で言いながら手を伸ばす青年。今回の依頼内容は青年にも伝わっているのだろうかとすら思ったが青年はあくまでも囚われの身である筈。そんな事は有り得ない。
上半身を真下にぐっと身を乗り出し、片手で青年を抱き抱えては屋根裏部屋へと持ち上げる。
見付かっては面倒だと駆け足で花街を拭ければ青年は呑気ににこにこと微笑んでおり『ありがとー!あそこ、退屈だったんだよね。』と礼を述べて来て。
「勘違いするな。あんたの為にやったんじゃない。俺は人攫いだ。」
『え!!!助けに来てくれたんじゃ無いの!!!』
(騒がしい青年に頭を抱えるも不思議な事に逃げ出そうとする素振りは無い。此の儘引き渡しまで大人しくしてくれれば良い物の油断は禁物。しっかりと青年の腕を掴んだまま大股で裏道を歩いていれば向こうから来る人影に気付き青年の口を塞いだまま物陰に隠れる。
『ほら露草。ちゃんと腕組んでよ。全く、全然慣れてくれないんだから。でもそんなところが可愛いんだけどね。』
(響き渡る兄の声に思考が止まる。恐らく向こうから来るのは相手と兄。ここ最近では一番会いたくない存在だった。
一瞬緩んだ手元。
『もう兄さん!乱暴にしてくれちゃって、』
慌てて再び青年の口を抑えるも時刻は既に夜中。
静寂に包まれる路地裏に青年の声は響いており。
近付く足音に冷や汗が垂れる。
『…爛?何してんのそんな所で。』
(真後ろから掛けられた声に諦めた様に向き直る。
『え、何してんの。君大丈夫?』
(兄は己の腕の中でばたばたと暴れる青年に話し掛ける。致し方無いと口を開く。
「依頼で『兄さんに一晩買われたの!』」
(満面の笑顔で答える青年。青年の唐突の発言について行けず開いた口が塞がらないままでいれば兄に肩を組まれる。
『爛も男だね。』
「触るな。違う。こいつはそんなんじゃ、」
『酷いよ兄さん!ここまで連れて来といて今更話は無しなんて言わないよね!』
(慌てて弁解をしようにも聞く気配も真実を話させる気配も無い。相手の顔を見れないまま青年が余計な作り話をし続けるのを防ぐ為強引に其の場を後にして。
『爛はあーいうのが好きなんだね。なんか意外。でもあの赤毛の子、何処かで見たことあるような。ね、露草もそう思わない?』
「…さあ。」
『うわ、今迄で一番の仏頂面。…今夜はお楽しみみたいだし直ぐには本当のこと伝えに行かないほうがいいかもね?』
( 兄の茶化しはあまり耳に入っていなく、相手と青年が去った夜道を見据える。
相手は何処か焦っていて弁解しようとしているようにも見えた。
だが、真実(青年を買ったこと)がバレたら体裁が悪く否定しようとしたのかもしれない。
また胸の蟠りが増えたと短く嘆息を零すとさっさと目の前の案件を片付けようと少々雑に兄の手を引き仕立て屋の元へ向かって。
( 翌朝、寺子屋にて掃除をしてくれる妹を少し離れたところで眺めながら考えるのは昨夜のこと。
仕立て屋の案件は追加の頼まれごと(兄との軽い絡みを要求された)はあったが上等な着物は手に入れ無事に御婦人の手に。
御婦人はミケさんのことを未だに忘れられないでいたようだが、仕立て屋の着物を見た瞬間目が輝いて態度は急変。
ミケさんへの興味も己たちに向けられた敵意も薄れたようでひとまず一件落着。
然しである。問題を解決する過程で起きた事態のほうが今は深刻で朝から眉間に皺が寄っていて。
『…兄さん怖い顔。昨日の夜出掛けたたみたいだけど何かあったの?』
「あった。…すまない、少し出掛けてくる。もうすぐ燐が来ると思うが寺子屋の番を頼みたい。」
『それは構わないけど…霧ヶ崎さんのところに行くの?』
( 察しの良い妹、なんでわかったと言う表情で見返し言葉は発さずに短く頷くと「頼んだ。」と軽く肩を叩き、兄とのことを打ち明けるつもりで孤児荘へ向かって。
( 時は戻り昨夜、青年は己と兄と別れ再び相手と二人きりになってからも逃げる素振りはなく相手の腕の中に収まり上機嫌に足をぶらつかせる。
『ふふ、本当に俺のこと買ってくれてもいいんだよ。なんて。兄さんも仕事なんでしょ?ねぇ、提案があるんだけどさ。誰が俺を攫ってくるよう頼んだか知らないけど、俺をその組織?依頼主か誰だかに引き渡したあと、その依頼主に頼んで俺と組んで一緒に仕事しない?兄さんと二人なら何でもできるから絶対に儲かるし楽しいと思うんだよね。…お願い、俺また一人ぼっちは嫌だし誰かの言いなりになって閉じ込められるのはやだよ。』
( 青年は明るさと寂しさを上手く織り交ぜて眉を下げては瞼を伏せ相手の着物の合わせ部分をキュッと握って下唇を噛んで。)
(いつもよりやや早めに目を覚ました朝方。思い返すは昨夜の事。青年の提案に言葉を返せないまま依頼主の屋敷まで訪れてはまだ悩まし気に眉を寄せる。
己より僅かに年下であろう青年の境遇を思えば断る事もできず、尚且つ青年の世渡り上手な一面など知る由も無く「さっきの誘いに乗ってやる。ただし俺の邪魔はするな。」と言葉少なに返答して。
屋敷に入るなり青年の言葉巧みな交渉により依頼主も暫し悩んでいる様子。
しかし青年の『貴方達に悪い様にはならないよ。裏切らない限り。ほら、俺が村ごと焼き尽くしたすごい噂はもう知ってるでしょ?』といった発言に依頼主は表情を変え二つ返事で首を縦に振り。
屋敷を後にするなり先程の青年の発言を掘り下げる事も無く、別れも告げないまま青年とは反対方向に裾を翻す。
昨夜の事を思い出しつつ、面倒な事にならない事だけを願いながら顔を洗い縁側で一服をしていた所でのそのそと起きて来た年少の少年が『あれ。兄ちゃん早いね。』と声を掛けて来た事に気付き其方に視線を向ける。
「お前も随分早起きだな。」
『うん。華ちゃんがね、早寝早起きできる子は格好良いって言ってたから。』
「友達か。」
『爛兄ちゃんも知ってるでしょ。お泊まりに来たお姉ちゃん。華ちゃんって言うんだよ。菊先生の妹なの。』
(少年の言葉に驚く。思い返せば名前も知らなかった。きっと何か訳有りなのだろうと問い掛ける事もしなかった。
相手と良く似たあの女性は相手の妹だったのかと、すんなり納得してはふと相手の事を思う。
もう暫くまともな会話をしていない気がする。
「-こんな事になるくらいならば、もっと、沢山の想いを言葉にすれば良かった。あんたが嫌がる程、小っ恥ずかしい甘い台詞でも吐いてやれば良かった。-」
「-もしまたあんたと巡り会えたなら、其の時は、-」
『___ちゃん!兄ちゃんってば!』
(少年の言葉にはっとする。
『何急にぼうっとしちゃって。』
(唐突に脳裏に浮かんだ、恐らく己の先祖と思しき男の姿。
悲しげな其の後ろ姿に、行き場のない苛立ちを覚える。
己にどうしろと言うのだ。
朝餉の時間が近付き、起きて来た子供達の姿に正気になれば己も着替えを済ませ街にでも向かおうと。
( 青年が相手にした提案や相手が華が己の実妹だと知ったことは知らずに孤児荘へ向かう道中、まさに今会おうとしていた人物が街方向へ続く道を歩いて行くのが見えて。
少し距離があったが走っていくと後ろから手首のあたりを掴む。
意外と細い、なんて思いながら_
「待て、…ちょっとお前に話がある。」
( 有無を言わさずぐいっと手を引き道の端に寄ると手を開放し、勢いのまま話させば気持ちがまた揺らぎ兼ねないため口を開いて。
「燐とのことだが…彼奴とは何でもない。恋仲ではないし、フリだよ。演技だ。ご令嬢の猫と御婦人絡みの任務があっただろ。其のいざこざを片付けるために恋仲のフリが必要だった。…此の一件が片付くまで口止めされてたんだ。」
( 一気に話すとやっと言えたと肩の荷が一つおりたかの如くはぁと深い嘆息を零す。
「演技をするのに街中巻き込んで街の人はまだ俺と彼奴が恋仲だと信じ込んでるし溜まったもんじゃないよ。…お前にも色々と不快な思いをさせてただろ。誤解を解いて置きたかった。」
( もっとはっきりとした言い方があるはずなのだが昨夜の青年と相手のやりとりが脳裏を過りぼやけた物言いをし、探りをいれるように視線を向けて。
「ところで、昨日一緒にいた赤毛の子が言ってたのは本当か?…買ったとかどうのって。いや、こんなこと聞くようなものじゃないのはわかってるが、信じられなくて。」
( 声を潜めてやや相手の耳元に顔を近づけて問い掛けてはどうなんだと視線を向けて答えを待って。)
(掴まれた腕、驚きながらも振り返れば相手の姿があり僅かに身構えるもやや早口で語られる相手の言葉に呆然とする。
段々と整理されていく脳内、目前の相手は嘘をついている様には見えずにこれまでの己の葛藤は何だったのかと恥ずかしくなって来て。
顔を隠すように俯きながら髪をぐしゃりと掴み大きな溜息を溢す。
青年の事を問われどこまで話して良いものかと頭を悩ませる。
が、しかし、誰よりも相手に誤解をされるのは心苦しいと思う気持ちには逆らえずに静かに口を開く。
「いや、あれは、…あいつの悪い冗談だ。…というかあいつの事は良く分からない。能力を持ってて見世物屋に居たって事くらいしか。」
(昨夜の出来事を簡潔的に話していた所、立ち話をしていてもと思い、柄にも無く取り敢えず何処かに入ろうという旨の提案をする。
久し振りに相手と並びほんの数歩歩いた所で路地から勢い良く飛び出して来たのはまさに今相手に話していた赤髪の青年。
あからさまに眉間に皺を寄せるも青年はにっこりとした笑みを崩さないまま相手に『こんにちはー!』なんて挨拶をしており。
「仕事以外で関わる気は無いんだが、」
『まぁまぁ!それより何処か行くの?俺も一緒に行って良い?』
「悪いが俺はこいつと話があって、」
(己の言葉を遮る様に青年は相手の前に立ち『一緒に行っても良い?』と笑顔で問い掛けていて。
強引な誘いに痺れを切らし、青年の肩を掴もうとするも青年は相手の手をきゅっと握り『兄さんのお友達でしょ!?俺とも仲良くしてよー。俺友達いないからさ!一緒に甘い物でも食べよ!』としつこく誘っていて。
(青年ははなから己と相手の言葉など聞くつもりも無かったかの様に強引に着いて来ては取り敢えずと入った茶屋にて呑気にあんみつを注文しており。
折角の相手がいても青年の前では深い話は中々出来そうに無い。
あんみつと抹茶を運んできた看板娘が相手に微笑みながら『あら先生。今日は燐さんは一緒じゃないの?』と声をかけるのに反応しては相手が口を開くより先に口を出す。
「燐のおままごとに付き合わされてただけだとよ。」
『そうだったの!?町中先生と燐さんの噂でここ暫く持ち切りだったのに…。私もお似合いの二人だな、なんて思ったり。』
「顔が同じなんだ。俺ともお似合いって訳だな。なら次は俺と先生の噂でも流しといてくれ。」
『あら!兄さんさては、』
「燐への当て付けだ。勘違いするな。」
(相手と兄の関係の誤解を知った以上、“持ち切りの噂”を聞くだけでも苛立ちが勝り、また柄にも無い事を言ってしまったと後悔する。
『こらこら兄さん。そんなに噂が立て続けに広まったら先生にも迷惑かかっちゃうでしょー。』
(青年が匙を指で遊ばせながら指摘して来た事に、言われてみればそれもそうか、なんて納得しつつも内心は本当に相手と己の噂が広まって仕舞えば良いのになんて思っていて。
(何だかんだで到着した茶屋、赤毛の青年のおまけ付き。
相手は己の言葉を信じてくれて、どうやら赤毛の青年も仕事上の関係らしい。
相手からのお誘いに舞い上がったのも束の間、また邪魔が入り今に至って。
話の流れで相手から放たれた言葉に期待してしまうも、どうやらそれも“勘違い”。
先程から己の感情の起伏は忙しないが表面上は平静を装い。
「別に迷惑とは思わない。…寧ろ俺にとっては好都合だ。」
(態と曖昧な表現をして薄く笑みを浮かべ相手を見遣れば残っていた茶を流し込んで立ち上がり「俺はそろそろ行くよ。…話はまた。」そう言って3人分の勘定を先に済ませてしまっては一足先に茶屋を出て。
その直後、その期を待っていたかの如く相手と青年の前に町商人に扮した黒服が近づいてくる。
『ようお二人さん。二人組んだんだってな。…早速依頼主さまからご依頼だ。まぁ腕試しってところだろう。』
(男は二人の前に依頼の書かれた紙を伏せて差し出す。
そして分かりやすく表情を歪め『…化け物同士お似合いなこった。』と嘲罵を吐き捨て、直ぐに立ち去っていき。
『わぁ、俺たちお似合いだって嬉しいなぁ。』
(青年は皮肉をはしゃいだ声で漏らし、男の背中にべぇと舌を出して。
『何にしても初の共同作業だね、兄さん。』
(青年は笑顔であんみつを頬張ると依頼が書かれた紙を相手に差し出す。
紙には【将軍が集う宴会の賑やかし。能力を存分に使うこと】と。)
(相手と入れ替わりに近付いて来た、恐らく組織の者であろう黒服の男から渡された紙に目を通す。
裏稼業を始めて間も無くはこういった類の依頼しか入らなかったなと思い出し溜息を一つ溢す。
報酬金額はまあまあだが、きっとこの設定金額は“将軍が気に入れば”の金額なのだろう。
会計を済ませようと店主を呼ぶも会計は済んでいるとの事。
青年が『ご馳走になっちゃった!今度お礼言いに寺子屋に行ってみようかな!』と呑気に話しているのを尻目に己は颯爽と甘味処を後にして。
(時刻は夜。陽が落ちるのが早くなったと言えどまだ蒸し暑さが残っており襟首を軽く乱す。
青年は先に城へと向かっているとの事。
同行を迫って来たかと思えば『…あー、いいや。やっぱ先に行く。兄さんはゆっくり来てね!』と唐突に言って来た昼間の青年の様子をふと思い出す。
門番に話を済ませ、中へ通される。
宴会部屋と思しき大広間、豪華な襖を引けば室内は不思議と静まり返っており、将軍の正面に佇む青年が此方に振り返る。
『あ!兄さん!早かったね!』
「…、」
『それで将軍様、話を戻すね!今俺に勧めたこのお酒に入っている薬は何?依頼内容は俺達の能力で見世物だった筈。本当の目的が別にあったとか?』
「おい、何の話だ。」
『俺もさっき着いたんだけど、取り敢えずお近付きの印に一杯!ってお酒貰ったの。でも味少し変わっててさ。普通の人間なら騙せたと思うけど俺の舌は誤魔化せないよ。…うー、まだ舌がじんじんする。』
(舌を出す青年の前にある酒に鼻を寄せるも、鼻の効く己にすら異変は感じられない。
眉を寄せ、酒を口に含もうとするも青年に酒の入った盃を弾かれれば鈍い音を立てて畳に落ちる。
騒ぎ出す将軍の側近達。
刀を抜こうとする仕草に此方も身構えていた所、不意に立ち上がった将軍が青年に近付き頬を撫でる。
『毒を見抜くのは特技か?』
『特技…になったのかな?ほら、俺みたいな化け物は見世物の一環としてこう言った類の薬良く飲まされるの。だから慣れて来ちゃった。倒れる程の品じゃ無かった事を見ると、殺す気では無かったって事だよね?気でも失わせて俺達を売り捌こうとか?』
(笑顔を崩さないままつらつらと話し続ける青年に呆気に取られていた所、将軍は面白そうに口角を上げる。
『気を悪くさせて悪かったよ。次の酒にはもう薬は入っていない。安心してくれ。』
『上等な薬でしょ、これ。俺じゃ無かったら気付かなかったもん。また盛られたら怖いなぁ…。そうだ!ねぇ将軍様、可愛い俺の顔に免じてお願い聞いてよ。』
『…ほう、言ってみろ。』
『この薬を売った人、今此処で俺の目の前で始末してよ。きっと薬の効果を確かめる為に隠れてたりするよね?…俺薬だけはどうしても怖いし、もう薬を入れないとかいう口約束も嫌いなんだよね。もし俺のお願い聞いてくれたらたんまりご奉仕するよ?』
(目の前で繰り広げられる出来事にまだ頭の整理が付かない。
しかし青年の口から発せられた“上等な薬”という単語に冷や汗が落ちる。
薬の売人など五万といる。相手だけじゃない。
必死に己自身を安堵させる為相手でない事を願っては瞳を伏せていて。
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