ふーちゃん 2022-08-25 16:35:47 |
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ぼくは、ばかたれだけど、研究者でありたかった。そして、技術者でありたかった。何も、覚えられない頭だけど。そもそも、理解力がないのだけど。 2022.8.29,
ひとりごと
自動車を運転する人は、たとえ、職業ドライバーでない人でも、プロドライバ~であって、プロドライバーでなくては、ならないと思います。道路上のマナーとは、何かということは、わかってこなければ。三十年、車乗っても、マナーという言葉にこめられた心を理解しない人、無視する人は、免許取り上げてもいいくらい大事なことだけど、あまり、責める気にもなれません。すこしずつ、わかってくださいね。心の問題だけです。難しい技術のことじゃないのです。それくらい、マナーは、大事なことみたいだよ。プロとして。そうじゃない人も、あるでしょうけど。
ふーむ。
論語でふか。
義を見てせざるは勇なきなり、でふか。
これって、何か困ってる人があれば助ける、みたいに今は捉えられていまふが、元の意味は自分の属する社会内に於いて、自分の役割を果たすという意味でふ。
しかしそれは封建時代、人が平等でない時代の遺物でふ。
自分の役割を把握しその事に努力する、て意味で他人に気を使うとか、そんなんではなく、主従関係のある考えでふ。
どろろんさん、史実の奥は深いんですね。中学の時、国語(現国)の教科書に、載っていました。
ただ、二十世紀の通説的解釈ですけど、それはなかなか、できるものではないと感じます。ただ、行動できるのに、日常の惰性が、ストップをかけることがあります。行動することのみが、正しいことも、あることを感じます。まさに、助けを必要とする人に、助けを出せる力のある人が、ほっかむりする世間では、もの悲しく思います。
ずぅーと むかしの うた です だいは、しりません
むーかしー むーかしー そのむーかしー
しーのきばやしの すーぐそばにー
ちーさな おやまが あったとさーあ あったとさー
まーんまるぼーずの はげやまはー いーつでも みーんなの わらいものー
こーれこーれ すぎの子 おーきなさいー
おーひさーま にーこにーこ こえかけたーあ こえかけた
おやすみなさい。はやいですか?ねるのは。
申し訳無いオブラートに
包んだつもりだが
不快に感じたのなら
気にしないでくれ
特に深い意味は無いから
どろっさん
あんさんが居るっちゅう事は
そう言う事なんかな?
それはそうと
Yahooウンタラカンタラ
ってのあった?
オイラあったのだけども
ん?
ワシはここの主がアレコレ考えてるのに感心して参加してるのでふが。
知らない事に耳を傾ける器量もあるみたいでふし。
なるほどね
最近まともな所に
行って無くて
過敏になってるのかも
かと言って他に部屋も無く…
まぁ一時の脳の混乱かな
薬学と座学と哲学とヴォイニッチ手橋を
1日考えた感じの疲れって言えば
伝わるかな?
おはようございます。けさは、あさつゆが、さわやかです。
きょうは、ながい ながい しおりの おはなし (個人の回想です。しかも、本についてるのんの。)(すでに、半分、期待が失われたところでしょう。)(こういうやつなので。)
活字には、不足気味でした。それなのに、その時買った本を覚えていません。書店が、しおりを挟んでくれるサービスが、あったのです。こういう言葉が、書かれてあったのが、記憶に、残っています。
「あとからくるもののために、いずみのみずをよごしては、ならない」
よごす人が、いたと考えるよりは、これは、たとえなのだと、思った方が、よさそうです。
多分、砂漠の民にとっては、だれともなく、自然に、行われてゆく習慣のような感が、ありますから。この言葉、思えば、これも道徳ですよね。真実の言葉だなあと、思えます。いい言葉だなあと、思った記憶が、ふと、よみがえり、こんな、投稿になりました。
第二弾 意見表明という習慣のない私たちの社会のために
欧米文化圏と違う点に、上記の点があると思います。うかつに、勝手に物言うだけで、「あいつは・・」と、陰で、問題視されかねない、日本社会。勝手にものも言わせてはくれないので、たいていの人は、しっかりと、堅く、この暗黙のおきてに従っています。
ぼくは、もう、社会の家畜にはならない。とりとして、空を、飛んでゆくのです。真実と自由こそを
求めるものとして。
むずかしい境界線は、自己主張には、節度がいるということでしょうか。逆に、黙ってて、何も物言わない人の、心のうちを、理解することも、大変、たいへんな労力なのですから、自分の何か他者の人からの理解が必要な部分には、会話を通して、表現するという活動は、大切なことです。
私たちは、そういう習慣がなかった(むしろ、以心伝心の文化)から、まだまだ、自分自身のことさえ、よくは、わかっていなかったり、物言ったかと思うと、日ごろ、黙っていることの反動で、自己主張の強さが、出てくることも、あるでしょうか。意見や思いを表明すること自体を、自己主張と見なす慣習は、よいと思いません。意見を述べること自体と、意見の内容の自己主張の強さが問題すぎるのとは、ちがうことを、言いたいと思います。正しくはない考えを心のうちに持ちつつ、我を通そうというやり方や、議論のように見えても、そのための陽動作戦だったり。人の世も、かんたんではないけれど。やはり、反省も後悔もない生き方をすることの罪は、大きいというところに、話しは落ち着かせておこうと思います。
追記
なぜ、ものを言わせない社会なのかということには、この国の統治の伝統的手法の、いくつかの理由にあるでしょう。その理由のひとつだけは、ここに。知らなかった、気づかなかったを、言い分にするためでしょう。学校や職場のパワハラ問題以後の、管理者側の対応を、その参考例として。
これも、仕事を、楽にするための視点によっています。
…ということはと、考えてみました。ずるさとは、その意味は、善悪の境界が、不明瞭な領域を利用して、自らの行為の正当といい難い部分を、カムフラージュしたり、合理化する、言い訳する、っていうことなのでしょうか。だれもせめませんよ。みんな、精いっぱいいきているんですから。なんで、いちいち、こだわるもんか。僕個人の、自分にたいするポリシーでの、好き嫌いの話です。ちょこっとくらい、とがめるのは、それくらいは、いいよね。 幸せになろうね。
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