Petunia 〆

Petunia 〆

匿名さん  2022-05-28 14:28:01 
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  • No.796 by ギデオン・ノース  2024-07-28 17:18:31 




(人体のメタモルフォーゼ。それ自体は、実は特段珍しい話ではない。たちの悪い妖精、或いはマナに満ち満ちた精霊。そういった人外の手によって、ヒトは案外簡単に変貌を遂げる。ギデオン自身も、以前ピクシーに襲われて犬化したことがあるくらいだし、ヴィヴィアンの父ギルバートがいつまでも若々しいのは、偉大なる精霊の寵愛によるものだ。だが、それと魔獣化は違う。金貨を溶かして鍵に作り変えることはできても、肉を生み出すことはできない。それと同じで、ヒトが魔獣になることも、魔獣がヒトになることも、そのルーツの違いからして、本来完全に有り得ないのだ。
一説によると、魔獣の父祖は、かつて古代世界を滅ぼした四巨人のひとり、“死の巨人”だとされている。その者が一度地上を滅ぼしてから大地に斃れたその骸……その背骨が、やがて今日のカダヴェル山脈として聳え立つようになった。しかしその骨髄は今も尚生きていて、新たな血を造りだし、その一滴一滴が魔獣の命を生んでいる。だから魔獣は皆一様に、深紅の魔核を持っている──。もっともらしいこの論は、無論あくまでも伝承の域を出ない。しかしそれでも、多くの魔獣がカダヴェル山脈を生息地とし、そこから大陸じゅうに広がっていったのは、歴史的な真実だ。それから、普通の動物にはない肉体強度や魔力、不死性、そういったものを生まれ持つのも本当だ。──だからやはり、魔獣というのは、我々とは父祖が異なる生きものであるのだろう。我々と魔獣は、違う血が流れている。我々と魔獣の間には、絶対の垣根が存在する。その一線は、決して揺らぐことがない。
この世界の多くが信じるその常識を、ギデオンも信じていた。だがしかし、それならば。──今目の前をやって来るあの老人、その額に輝く赤は……何なのだ。)

……クルト……
貴、様……

(思わず声が低く震える。ヴィヴィアンを己の背後に庇いながら、それでも目の前の光景を、思わず愕然と見つめてしまう。ふたりは今、村人たちの異変を前に、儀式の祭壇から逃げ出してきたところだった。しかし小屋までまだ遠いうちに、ギデオンが不意に“それ”を見つけ、ふたりで立ち止まったのだ。──小屋へと続く道の向こう、月光に照らされて……痙攣しながら歩んでくる人物。それはこのフィオラ村の長、老人のクルトであった。どういうわけか儀式の場にはいなかった彼は、しかし今、首を直角にぼっきりと傾け、肩や肘を発作的に跳ね上げ、時に上半身を左右にゆらゆら振りながら、ふらふらこちらに歩いてきている。そこに首長など風格などなく、白い礼服は血や泥でぼろぼろだ。
より近づいてきたクルト、その額には、やはり魔核としか言いようがないものが、間違いなく出現していた。そしてその顔面は、何故かしわくちゃに、脂汗をいっぱいに浮かべながら笑っている有り様で。苦し気な目尻から血の涙が流れた瞬間、「ころしてくれ、」と、絞り出すようにクルトが言った。「ころしてくれ、ころしてくれ……ころしてくれ、」。べしゃり、と老爺が地面に落ちる。倒れるというよりは、己の体を地面に激しく打ち付けるような勢いで、ギデオンは咄嗟にヴィヴィアンの腕を掴み、助けるなと無言で叫んだ。「……だれかが、我々の祝杯に……蜜を……! ああ、絶対に……あの腐れ娘が……」あの穏やかさが嘘のように罵るクルト、その額を見開いた目で見据える。割れて血の噴いたそこは、深紅の石がめきめきと体積を増しはじめていた。「──嫌だ、嫌だ! 英雄になるのは、わしではない……わしの孫たちでもない! そうなるくらいなら、頼む……頼む……、」
──それが、人間クルトの言い残した最期の台詞だった。あまりの有り様に立ち尽くすふたりの前で、老爺の肉体はあっという間にぼこぼこと膨れ上がり、醜いけだものへ変貌していく。──それも、そこらの狼ではない。額に真っ赤な魔核を宿す、見上げるほどに巨大な魔狼だ。)

──ッ、ヴィヴィアン、走れ!

(ほんの一瞬。ゆらりと頭をもたげた獣が、最早人間としての自我を感じぬ、無表情な灰色の目で、こちらを見つめた次の瞬間。──むらおさだった巨大な魔狼は、いきなりこちらに、剣山のような牙の生え並ぶ口をぐばりと晒して噛みついてきた。その喉奥へ反射的に雷魔法を叩き込み、躊躇いなく魔剣を薙いで、生々しい両まなこを一太刀に切りつける。悲鳴を上げたけだものが一歩飛び退り、頭を振り回すその間、相棒の背中を強く押し、いつになく真剣に叫んだ。考える暇も、言い争う暇もない──人から魔獣に堕ちたクルトが、どんな動きをしてくるものか、ギデオンにはまるで読み切れない。故に逃亡が先決だ、そう相棒に伝えようとして。──しかし、物凄い速さで迫ってきた爪音を聞きつけ、はっと振り向いたときだった。突然巨大な満月を背に躍り上がった二頭の獣、互いに瓜二つの……まるで双子のようにそっくりな、若くしなやかな姿の魔狼が。クルトの警戒に全神経をとがらせていたギデオン、その喉元めがけてまっすぐに飛び掛かり。)



  • No.797 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-07-31 09:04:51 




──ッ!!

 ( 真っ直ぐにこちらへと向かってきた双狼の牙は、既にギデオンの喉笛へと肉薄し、爆破魔法ではギデオンの頭ごと爆破の衝撃に巻き込みかねない。咄嗟に杖に魔素を込めて振り抜けば、クルトが変貌したそれより質量がないことは幸いだった。ギャンッと吹き飛ばされていく一頭に──これならいける、と杖を握り直すも。しかし、すぐさま飛びかかってくるだろうと構えていたもう一頭が、吹き飛ばされた姉狼を庇うように立ち塞がるの目にした途端、絶対に二人で帰るんだ、と息巻いていたビビの心は、その光景に否応がなく揺さぶられて。──なぜ飛びついて来た方が姉の方で、庇った方が弟だと分かったのか。それは、今ならフィオラの"花"の意匠だとわかる、特徴的なブローチをそれぞれ胸元と髪飾りにつけていた、その全く同じ位置に輝く紅い魔核のためでもあるのだが。たった数日、思い出になるほどの交流があった訳でもない。しかし、意図してお互いを寄せて似ているように見せかけて、案外二人を見ていれば、その性格はそうでも無さそうなことはすぐ分かった。村の子供たちからも人気のある、明るく勇ましい姉の方。男尊女卑のこの村で、女性陣の中に交じって仕事をする姿も度々見かけた、おっとりとした弟の方。その面影を目の当たりにしてしまったその瞬間、さきほど姉狼を殴り飛ばした掌がじんと痛んで、身体が動かなくなってしまったビビを助けるのは、やはりギデオンの一声で。
──ヴィヴィアン、と。唯一の肉親である父も含めて、その名でビビを呼ぶのは、かけがえのない相棒で、愛しい恋人でもある相手だけだ。今は焦燥を滲ませつつも、低く凛としたその声に、はっと杖を握り直せば。ぐったりと地に伏せていた姉狼が立ち上がり、三頭の目が此方に向くのを見逃さず、得意の閃光魔法を叩きつけ。 )

ギデオンさん、目を──


  • No.798 by ギデオン・ノース  2024-08-01 23:08:49 




(魔素の高まりが爆ぜるとともに、辺りを満たす一瞬の静寂。そして一拍遅れての、きぃん……と押し寄せる強い耳鳴り。籠手を嵌めた手の甲を、やがて目元からゆっくりと外す。あのやるかやられるかの状況で、ギデオンがそんなにも悠長に自衛していられたのは、偏に相棒への信頼ゆえだ。
──はたして。ギデオンとヴィヴィアンから十歩ほど離れた先、無関心な満月が冷たく見下ろす夜道の上には、三頭のけだものたちが泡を吹いて転がっていた。低木ほどもあろう四肢がぴくぴくしてはいるものの、あの目玉の奥の奥まで、相当派手に喰らったのだろう。これでは当分動けまい……そう、当分、今しばらくは。──今後絶対に、ではない。いつまた動きはじめるのか、数時間後か、数十分後か、それは誰にもわからない。ヴァランガ地方でギデオンたちが見た、あの凶暴な魔獣たち同様、こちらに強い攻撃性を示したこの狼擬きたちが……今後ギデオンを、ヴィヴィアンを、仲間たちを、行きずりの誰かを、再び襲わぬとは限らない。
右手の魔剣を握り直す。小さく、無音で息を吸う。一度目を閉じ、指先まで速やかに無心の感覚を巡らせた。それでいて、「ヴィヴィアン、」と、今度はどこか優しい声で、相棒に呼びかけて。)

今の閃光弾を見て、後ろの森の……余裕のあるどこかの班が、応答信号を打ち上げるはずだ。
……そいつを探していてくれ。

(それだけ静かに言いきれば、後はごくごくいつも通りに、戦士の広い背中を向けて。ざわ、と下草を踏み分けながら、その一帯に歩み寄る。今ギデオンの足元には、無力化された魔獣が三頭。どれもお誂え向きに仰向けなのが、見習い時代に先輩戦士が回してくれた、実習用の低級魔獣にそっくりだ。あれに比べれば随分とでかいが──獣の弱点は、皆同じ。視界にちらつく痙攣を、生の気配を、脅威の兆候と読み替えて。獣の周囲を歩き回り、手頃な場所で立ち止まると、──ずぶり、と。正確な角度、正確な深さで、己の魔剣を沈め込む。
ごく微かな動きだけで、獣の骨格を、内臓を探る。知識どおりだと確信すれば、慣れた動きで前腕を回す。魔狼の動きが明らかに強張るものの、毛皮越しに体重をかけてその身動きを封じ。魔剣の切っ先を掻きまわし、幾つかの太い血管を正確に破る感覚を勝ち取る。後は大きく引き抜くついでに、そのまま魔核を削ぎ落した。獣の口から、ガッ、ハッ、と引き攣れるような呼吸音。手順通りだ──二体目に向かう。こちらは一体目に比べて幾らか小さく、……随分と若く。それだけ内臓や筋肉の跳ね返す力が強い、ということではあるが、そんなもの、ギデオンが身につけてきた二十余年の経験が、一向に意に介さない。すぐに終わらせて三体目。こちらは心臓を崩した後に、完全な別作業として側頭部の魔核を剥ぐ。このとき、心臓を突いた時点で元に戻っていたのだろう目が、こちらをじっと見上げていたような気もしたが、構わずにただ処理を進める。職業上、目を開けたまま盲いる技術は身につけている。光の反射ではなく、手元の感触や物音、臭いで、目前の事象を見るのだ。その感覚に身を委ねながら、片手半剣ではなくレイピアがあれば、などと冷静に考えた。幅広な刀身では、頭の中身は崩せない……念には念を入れたいのだが。
全ての処理は、ほんの二分もかからずに終わったろうか。幸い辺りには下草が豊富なので、魔剣や装備についた汚れを、ゆっくりと念入りに拭った。感覚的な問題ではなく、経験値による染みついた仕草だ。これを怠ると、意外に渇きの遅かった血でいざというときに滑ってしまい、思い通りに動けないなどという事故が起きやすい。だから時間をかけたのだが……いやに、静かな、ひとときだ。遠く聞こえる悲鳴や喧騒、あれは先ほどの儀式の会場で一斉に“湧いた”魔獣たちのものだろう。遠く轟く唸り声はウェンディゴか。あちらがあちらで潰し合ってくれるならいい、こちらはこちらで仲間を揃えて、レクターや子どもたちとすぐにここを出て行かなければ。そんなことを考えながら、皮手袋の内側で、頬にかかった血を拭う。不意に鼻につく血の臭いに、一瞬思考が停止する。
──そこで初めて、ぱぁぁん、と。それまでも数発は打ちあがっていた魔法火が、ひときわ明るく空に打ち上がったのが、初めてギデオンの耳に届いた。今の音、今の色は! と、途端に思考が切り替わり、はっとヴィヴィアンを振り返る。そこには既に、いつも通りのギデオンの顔があった。魔剣を鞘に収めながら、さっと軽快に駆けつける。そうして同じ方角を見上げてから、隣の相手を見下ろして。)

──どこの隊が、何と?



  • No.799 by ギデオン・ノース  2024-08-01 23:50:19 




(魔素の高まりが爆ぜるとともに、辺りを満たす一瞬の静寂。そして一拍遅れての、きぃん……と押し寄せる強い耳鳴り。籠手を嵌めた手の甲を、やがて目元からゆっくりと外す。あのやるかやられるかの状況で、ギデオンがそんなにも悠長に自衛していられたのは、偏に相棒への信頼ゆえだ。
──はたして。ギデオンとヴィヴィアンから十歩ほど離れた先、無関心な満月が冷たく見下ろす夜道の上には、三頭のけだものたちが泡を吹いて転がっていた。低木ほどもあろう四肢がぴくぴくしてはいるものの、あの目玉の奥の奥まで、相当派手に喰らったのだろう。これでは当分動けまい……そう、当分、今しばらくは。──今後絶対に、ではない。いつまた動きはじめるのか、数時間後か、数十分後か、それは誰にもわからない。ヴァランガ地方でギデオンたちが見た、あの凶暴な魔獣たち同様に。こちらに強い攻撃性を示したこの狼擬きたちが……今後ギデオンを、ヴィヴィアンを、仲間たちを、行きずりの誰かを、再び襲わぬとは限らない。
右手の魔剣を握り直す。小さく、無音で息を吸う。一度目を閉じ、指先まで速やかに無心の感覚を巡らせた。それでいて、「ヴィヴィアン、」と、今度はどこか優しい声で、相棒に呼びかけて。)

今の閃光弾を見て、後ろの森の……余裕のあるどこかの班が、応答信号を打ち上げるはずだ。
……そいつを探していてくれ。

(それだけ静かに言いきれば、後はごくごくいつも通りに、戦士の広い背中を向けて。ざわ、と下草を踏み分けながら、その一帯に歩み寄る。今ギデオンの足元には、無力化された魔獣が三頭。どれもお誂え向きに仰向けなのが、見習い時代に先輩戦士が回してくれた、実習用の低級魔獣にそっくりだ。あれに比べれば随分とでかいが──獣の弱点は、皆同じ。視界にちらつく痙攣を、生の気配を、脅威の兆候と読み替えて。獣の周囲を歩き回り、手頃な場所で立ち止まると、──ずぶり、と。正確な角度、正確な深さで、己の魔剣を沈め込む。
ごく微かな動きだけで、獣の骨格を、内臓を探る。知識どおりだと確信すれば、慣れた動きで前腕を回す。魔狼の動きが明らかに強張るものの、毛皮越しに体重をかけてその身動きを封じ。魔剣の切っ先を掻きまわし、幾つかの太い血管を正確に破る感覚を勝ち取る。後は大きく引き抜いてから、脚でごろりと身体を転がし、晒された額の魔核を滑らせるように削ぐ。獣の口から、ガッ、ハッ、と引き攣れるような呼吸音。知識通りだ──二体目に向かう。こちらは一体目に比べて幾らか小さく、……随分と若く。それだけ内臓や筋肉の跳ね返す力が強い、ということではあるが、そんなもの、ギデオンが身につけてきた二十余年の経験が、一向に意に介さない。すぐに終わらせて三体目。こちらも心臓を崩した後に、やはり真横に身体を倒し、側頭部の魔核を削いだ。このとき、心臓を突いた時点で元に戻っていたのだろう目が、こちらをじっと見上げていたような気もしたが、構わずにただ処理を進める。職業上、目を開けたまま盲いる技術は身につけている。光の反射ではなく、手元の感触や物音、臭いで、目前の事象を見るのだ。その感覚に身を委ねながら、片手半剣ではなくレイピアがあれば、などと冷静に考えた。幅広な刀身では、頭の中身は崩せない……念には念を入れたいのだが。
全ての処理は、ほんの二分もかからずに終わったろうか。幸い辺りには下草が豊富なので、魔剣や装備についた汚れを、ゆっくりと念入りに拭った。感覚的な問題ではなく、経験値による染みついた仕草だ。これを怠ると、意外に渇きの遅かった血でいざというときに滑ってしまい、思い通りに動けないなどという事故が起きやすい。だから時間をかけたのだが……いやに、静かな、ひとときだ。遠く聞こえる悲鳴や喧騒、あれは先ほどの儀式の会場で一斉に“湧いた”魔獣たちのものだろう。遠く轟く唸り声はウェンディゴか。あちらがあちらで潰し合ってくれるならいい、こちらはこちらで仲間を揃えて、レクターや子どもたちとすぐにここを出て行かなければ。そんなことを考えながら、皮手袋の内側で、頬にかかった血を拭う。不意に鼻につく噎せ返るような生臭さに、一瞬思考が停止する。
──そこで初めて、ぱぁぁん、と。それまでも数発は打ちあがっていた魔法火が、ひときわ明るく空に打ち上がったのが、初めてギデオンの耳に届いた。今の音、今の色は! と、途端に思考が切り替わり、はっとヴィヴィアンを振り返る。そこには既に、いつも通りのギデオンの顔があった。魔剣を鞘に収めながら、さっと軽快に駆けつける。そうして同じ方角を見上げてから、隣の相手を見下ろして。)

──どこの隊が、何と?



  • No.800 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-08-03 00:16:57 




 ( 知己の躯を目の前に、同業のギデオンがそうしたように、ビビもまたこの夜に響く鋭い刃物が肉を経つ音の意味をあえて聾唖のようにやり過ごした。ここは危険な敵の陣地で、いつ脅威を取り戻すか分からない今は無力化された大型の魔物が三体。遠方と意思疎通できる魔法を持つビビが連絡、力のあるギデオンが魔物の処理に取り掛かるのは非常に合理的な判断で。 )

現在…………"魔獣"、と交戦中。
負傷者あり。方角は……西の陽動隊です。

 ( 双方夜空を彩り、増援要請を受信すれば。振られた問いかけに所感を挟むと、何か余計なことを言ってしまいそうで、あくまで事務的に努めた返答は何処か少し頑なになる。部隊最大の目標は、護衛対象であるレクターら3名、部隊の全メンバー、それから無事な村民たち──これはもしいるのであれば、だが──全員での脱出だ。調査を主な目的として組んだ少ない人員で、余計なことを考えている暇は無い。一刻も早く、仲間たちの合流すべきだと即座に意見を一致させれば。陽動隊のいる森へと、件の花畑の近くを突っ切ろうとした時だった。
花畑へと通じる斜面の間から、小さく啜り泣く声が聞こえてギデオンと顔を見合わせる。……っ、っく、と微かに震える吐息の出処を探して、警戒しながら低木の間をかきわければ──「あなたたち……! 無事だったのね!」そう声を上げたヴィヴィアンに、わっと泣き声を上げながら飛びついてきたのは、この村に来てから何度もビビを助けてくれた可愛い姉妹の妹の方で。可哀想に、村のあちこちから上がる破壊音に怯え切り、小さな身体を全身ぶるぶると震わせながらすがりついてくる幼い少女は、すっかり憔悴仕切って、小さな手がぎゅう……とビビのローブに皺を作るのが痛ましい。「大丈夫、大丈夫よ……お姉ちゃんたちとっても強いんだから……」一刻も早く安心させてやらねば、と彼女を抱えて立ち上がり、それまで沈黙を保っていた姉の様子も確認しようとしたその瞬間。「あなた達が、村をこわしたの」それまで聞いたことも、見せられたこともない。姉と言えどまだ6つか7つかそこらの幼い少女の瞳と、その声に籠った酷い憎悪にビビの身体がびくりと強ばる。その瞬間、それまで気持ち悪いほど無風だった空間に、ざあっと嫌な風が吹いて、美しく切りそろえられた金の前髪──その間からぎらりと紅い魔核が覗いていた。 )

……っ、


  • No.801 by ギデオン・ノース  2024-08-05 00:19:22 




(──だいきらい。あなたたちみんな、だいきらい。おおうそつきの卑きょう者。
幼い少女がどろどろと吐く、あまりに苛烈な怨嗟の台詞。それを真っ向から向けられたギデオンとヴィヴィアンは、ともに遥かな大人の筈が、根が生えたように動けない。そんな有り様のふたりを前に、幼い少女はなおも続ける。「どうして“エドラ”を連れてきたの。どうして……どうして……“エディのむすめ”を、村に入らせてしまったの」。
突然の思いがけない言葉に、ギデオンの瞳が揺れた。何のことだ、誰のことだ、この子は何を言っている。しかしその狼狽顕わな反応が、ますます気に障ってしまったのだろう。「知らないはずはないでしょ!」と、少女が顔を歪めて叫んだ。
「“エドラ”はわざわいのいみごなの。“エディ”の血を引いてるの。だから生きているだけで、村の守りをこわしてしまうの! それであたしのパパとママは、ちっちゃいころに住んでたおうちを捨ててこなくちゃいけなくなった。だからそのときの“むらおさ”が、赤ん坊だった“エドラ”をころしてくれたはずだった。
なのに“エドラ”が生きてたの。知らんぷりしておとなになって、あなたたちといっしょになって、まるで親切なぼうけんしゃみたいに。でも、“エドラ”は“エドラ”なの。ぜんぶ、ぜんぶ、こわしてしまうの。絶対にあいつのせいよ、あいつを連れてきたあなたたちのせいよ。村に怪物が入ってきたのも、パパやママや、あたしまで、みんなみんなこわれていくのも……!」

──クルトは言っていた。誰かが儀式の祝杯に、魔獣化の秘薬を盛ったと。
──村人は言っていた。ラポトを開催している間に、“あの女”がいなくなったと。

──昨日の村人が言っていた。“あの年増の方は、随分うまくやってくれた”と。
──昨日の仲間たちが言っていた。彼女は随分簡単に、調査に出る許可を出したと。

一昨日のあの真夜中、彼女は随分取り乱していた。
“聞きたいことがあるの”と、クルトに激しく詰め寄りながら。

一昨日のあの夜更け、ギデオンは目撃していた。
その数時間前に、彼女がたったひとり、村の歴史の記された場所にこっそり忍び込んだのを。
己の荷物から取り出した、何ものかを握りしめながら。

思い出せ。あれはなんだった。
月明かりに照らされていたあれは、奇妙な刺繍の縫い込まれたハンカチではなかったか。
あの刺繍、あの紋様は……フィオラの建物に飾られていた、あのタペストリーそっくりだった。
そして、古く、くたびれていて……形見か何かのようだった。

心臓が早鐘を打つ。ギデオンの頑なな理性が叫ぶ。有り得ない。荒唐無稽だ。年代がまるで合わないはずだ。エディ・フィールドが生きていたのは、二百年も昔の話。とっくに死人になっている。
だが、しかし。彼の怨念の権化だというウェンディゴは、その当時から今の今まで、実際に何度も村を襲い続けてきた。月の魔力を得た“英雄”が、何度噛みつき引き裂いても、必ず蘇るその不死性──そうだ、まるで、どこかほかのところにでも心臓があるかのような。
……それが本当だとしたら?

かつてフィオラ村を支配していた、悪逆非道のフィールド家。
その跡取り息子、いかれたエディ・フィールドは、死体の皮を弄んで踊るような男だった。

彼がもし、本人ですら気づかぬうちに……生死の境を曖昧にする禁断の黒魔術を、その身に宿していたとしたら。
ウェンディゴ・エディの本体、心臓、エディ・フィールドの屍が。
未だ白骨化することもなく、どこかに残っているとしたら。

もしもその不滅の死体が、いずれ誰かに見つかったとしたら。
歪んだ性を謳歌する文化に育ったフィオラの娘が、たまたま見つけたとしたら。

山のどこかに横たわる、生きても死んでもいない体と、欲望のまま交わり、孕み。
二百年前のその男の血を、魔力を継いだ、禁忌の娘を産み落としたなら。

その大罪でフィオラを追われた母親が、東へ東へ落ち延びて。
娘を育て、やがては死んで。
名門ギルドがどこも構える併設の孤児院に、彼女が引き取られたとしたら。
かつてのギデオンと同じように、そこで育ち、見習いとなり……やがて冒険者になったなら。

その娘、忌み子エドラの今日の名が、──“エデルミラ”なのだとしたら。)


……──ッ! 伏せろッ!

(──ぎり、ぎり、と引き絞る、殺意に満ちた弦の音。にわかには信じがたい真相気をとられていたギデオンは、しかしその音を聞きつけるなり、我に返って叫びながらヴィヴィアンを内に庇った。途端にびぃん、と矢を放つ音。森の宵闇を切り裂いたそれは、一瞬前までそこにあったヴィヴィアンの顔を貫き損ね。代わりに、ギデオンの纏う鎧を強かに打ち饐えて、その体を容易く倒す。
呪いに強いミスリル鋼は、物理攻撃にも勿論強い。だがそれは、命を奪う一撃を通さないというだけで、衝撃を打ち消すわけではない。ましてや、今ギデオンが食らった弓矢は、実は対ヘイズルーン用の異様な破壊力を持つもの。生身の人体なら文字通りバラバラに砕け散ってしまうほどのそれを、鎧ひとつでどうにか跳ね返したギデオンは、しかし全くダメージを負わないというわけにはいかず。びりびりと、全身が激しく痺れてままならない感触に、それでも相棒とフィオラの幼女を潰さぬよう腕を立てながら、苦し気な呻きを漏らす。
そこに足音も荒く駆けつけたのは、フードを被ったフィオラの男女だ。息を荒げていたそのふたりは、姉妹の名前を口々に叫んだ辺り、ふたりの両親だったのだろう。姉を母親が抱き寄せると同時、弓を背負った父親の方が、動けぬギデオンを蹴り飛ばし。その下にいたヴィヴィアンすらも乱暴に突き飛ばして、彼女の腕に守られていた幼い娘をひったくる。
「よくもうちの子たちを、このよそ者ども、今ここで──!」「そんな場合じゃないでしょう! ああ、この子もやっぱり、早くクルト様にお診せしないと──!」……その言葉を聞いたギデオンは、駄目だ、と必死に伝えようとした。駄目だ。行くな。クルトはもう死んだ、俺が殺した。魔獣に堕ちてしまったからだ──そのトリガーは月光だ。月明かりの下に出たが最後、その子らもきっと同じ運命をたどってしまう。だから頼む、行くな、この森を出るな。闇のなかに隠れていてくれ。ああなってしまわないでくれ……。
ギデオンの必死の思いは、しかし彼らに届かない。再び怯えて泣きはじめた妹の声を最後に、フィオラ村の四人家族が森の向こうへ遠ざかっていく。やがてどこかで、悲鳴、絶叫。辺りの木を薙ぎ倒すような激しい物音がしたかと思うと、魔獣の歪な産声が上がった。それを耳にしてしまった途端、思わず辺りの下草をぐしゃりと掴み、わなわなと顔を俯く。胸に込み上げる苦しさは、血を吐くような罵声となって。)

…………っ、くそ……っ!



  • No.802 by ギデオン・ノース  2024-08-05 00:34:18 




 ( 知己の躯を目の前に、同業のギデオンがそうしたように、ビビもまたこの夜に響く鋭い刃物が肉を経つ音の意味をあえて聾唖のようにやり過ごした。ここは危険な敵の陣地で、いつ脅威を取り戻すか分からない今は無力化された大型の魔物が三体。遠方と意思疎通できる魔法を持つビビが連絡、力のあるギデオンが魔物の処理に取り掛かるのは非常に合理的な判断で。 )

現在…………"魔獣"、と交戦中。
負傷者あり。方角は……西の陽動隊です。

 ( 双方夜空を彩り、増援要請を受信すれば。振られた問いかけに所感を挟むと、何か余計なことを言ってしまいそうで、あくまで事務的に努めた返答は何処か少し頑なになる。部隊最大の目標は、護衛対象であるレクターら3名、部隊の全メンバー、それから無事な村民たち──これはもしいるのであれば、だが──全員での脱出だ。調査を主な目的として組んだ少ない人員で、余計なことを考えている暇は無い。一刻も早く、仲間たちの合流すべきだと即座に意見を一致させれば。陽動隊のいる森へと、件の花畑の近くを突っ切ろうとした時だった。
花畑へと通じる斜面の間から、小さく啜り泣く声が聞こえてギデオンと顔を見合わせる。……っ、っく、と微かに震える吐息の出処を探して、警戒しながら低木の間をかきわければ──「あなたたち……! 無事だったのね!」そう声を上げたヴィヴィアンに、わっと泣き声を上げながら飛びついてきたのは、この村に来てから何度もビビを助けてくれた可愛い姉妹の妹の方で。可哀想に、村のあちこちから上がる破壊音に怯え切り、小さな身体を全身ぶるぶると震わせながらすがりついてくる幼い少女は、すっかり憔悴仕切って、小さな手がぎゅう……とビビのローブに皺を作るのが痛ましい。「大丈夫、大丈夫よ……お姉ちゃんたちとっても強いんだから……」一刻も早く安心させてやらねば、と彼女を抱えて立ち上がり、それまで沈黙を保っていた姉の様子も確認しようとしたその瞬間。「あなた達が、村をこわしたの」それまで聞いたことも、見せられたこともない。姉と言えどまだ6つか7つかそこらの幼い少女の瞳と、その声に籠った酷い憎悪にビビの身体がびくりと強ばる。その瞬間、それまで気持ち悪いほど無風だった空間に、ざあっと嫌な風が吹いて、美しく切りそろえられた金の前髪──その間からぎらりと紅い魔核が覗いていた。 )

……っ、




801: ギデオン・ノース [×]
2024-08-05 00:19:22




(──だいきらい。あなたたちみんな、だいきらい。おおうそつきの卑きょう者。
幼い少女がどろどろと吐く、あまりに苛烈な怨嗟の台詞。それを真っ向から向けられたギデオンとヴィヴィアンは、ともに遥かな大人の筈が、根が生えたように動けない。そんな有り様のふたりを前に、幼い少女はなおも続ける。「どうして“エドラ”を連れてきたの。どうして……どうして……“エディのむすめ”を、村に入らせてしまったの」。
突然の思いがけない言葉に、ギデオンの瞳が揺れた。何のことだ、誰のことだ、この子は何を言っている。しかしその狼狽顕わな反応が、ますます気に障ってしまったのだろう。「知らないはずはないでしょ!」と、少女が顔を歪めて叫んだ。
「“エドラ”はわざわいのいみごなの。“エディ”の血を引いてるの。だから生きているだけで、村の守りをこわしてしまうの! それであたしのパパとママは、ちっちゃいころに住んでたおうちを捨ててこなくちゃいけなくなった。だからそのときの“むらおさ”が、赤ん坊だった“エドラ”をころしてくれたはずだった。
なのに“エドラ”が生きてたの。知らんぷりしておとなになって、あなたたちといっしょになって、まるで親切なぼうけんしゃみたいに。でも、“エドラ”は“エドラ”なの。ぜんぶ、ぜんぶ、こわしてしまうの。絶対にあいつのせいよ、あいつを連れてきたあなたたちのせいよ。村に怪物が入ってきたのも、パパやママや、あたしまで、みんなみんなこわれていくのも……!」

──クルトは言っていた。誰かが儀式の祝杯に、魔獣化の秘薬を盛ったと。
──村人は言っていた。ラポトを開催している間に、“あの女”がいなくなったと。

──昨日の村人が言っていた。“あの年増の方は、随分うまくやってくれた”と。
──昨日の仲間たちが言っていた。彼女は随分簡単に、調査に出る許可を出したと。

一昨日のあの真夜中、彼女は随分取り乱していた。
“聞きたいことがあるの”と、クルトに激しく詰め寄りながら。

一昨日のあの夜更け、ギデオンは目撃していた。
その数時間前に、彼女がたったひとり、村の歴史の記された場所にこっそり忍び込んだのを。
己の荷物から取り出した、何ものかを握りしめながら。

思い出せ。あれはなんだった。
月明かりに照らされていたあれは、奇妙な刺繍の縫い込まれたハンカチではなかったか。
あの刺繍、あの紋様は……フィオラの建物に飾られていた、あのタペストリーそっくりだった。
そして、古く、くたびれていて……形見か何かのようだった。

心臓が早鐘を打つ。ギデオンの頑なな理性が叫ぶ。有り得ない。荒唐無稽だ。年代がまるで合わないはずだ。エディ・フィールドが生きていたのは、二百年も昔の話。とっくに死人になっている。
だが、しかし。彼の怨念の権化だというウェンディゴは、その当時から今の今まで、実際に何度も村を襲い続けてきた。月の魔力を得た“英雄”が、何度噛みつき引き裂いても、必ず蘇るその不死性──そうだ、まるで、どこかほかのところにでも心臓があるかのような。
……それが本当だとしたら?

かつてフィオラ村を支配していた、悪逆非道のフィールド家。
その跡取り息子、いかれたエディ・フィールドは、死体の皮を弄んで踊るような男だった。

彼がもし、本人ですら気づかぬうちに……生死の境を曖昧にする禁断の黒魔術を、その身に宿していたとしたら。
ウェンディゴ・エディの本体、心臓、エディ・フィールドの屍が。
未だ白骨化することもなく、どこかに残っているとしたら。

もしもその不滅の死体が、いずれ誰かに見つかったとしたら。
歪んだ性を謳歌する文化に育ったフィオラの娘が、たまたま見つけたとしたら。

山のどこかに横たわる、生きても死んでもいない体と、欲望のまま交わり、孕み。
二百年前のその男の血を、魔力を継いだ、禁忌の娘を産み落としたなら。

──ギデオンたちが、このヴァランガ峡谷にようやくたどり着いたとき。そこで初めて目にしたのは、打ち捨てられた村の跡だった。
“この村の人々がここで生活をしていたのは、どんなに新しくても数十年前のように思える”。
あの時ギデオンは、そんな感慨を抱いたはずだ。

もしそれが、ほんの四十年ほど前の出来事だったのだとしたら。
“エドラ”が誕生したその時、エディ・フィールドの新しい血が村の内側に生じたことで、村を守る結界が解けてしまったのだとしたら。
生まれながらにウェンディゴを招き入れてしまう、災いの赤子。
その血の源、父親の正体に、村が気がついたのだとしたら。

許されざる大罪……二百年前の狂人の子を産み落とした、という咎でフィオラを追われた母親が、村を飛び出し、東へ東へと落ち延びて。
娘を育て、やがては死んで。
名門ギルドがどこも構える併設の孤児院に、彼女が引き取られたとしたら。
かつてのギデオンと同じように、そこで育ち、見習いとなり……やがて冒険者になったなら。

その娘、忌み子エドラの今日の名が、──“エデルミラ”なのだとしたら。)


……──ッ! 伏せろッ!

(──ぎり、ぎり、と引き絞る、殺意に満ちた弦の音。にわかには信じがたい真相気をとられていたギデオンは、しかしその音を聞きつけるなり、我に返って叫びながらヴィヴィアンを内に庇った。途端にびぃん、と矢を放つ音。森の宵闇を切り裂いたそれは、一瞬前までそこにあったヴィヴィアンの顔を貫き損ね。代わりに、ギデオンの纏う鎧を強かに打ち饐えて、その体を容易く倒す。
呪いに強いミスリル鋼は、物理攻撃にも勿論強い。だがそれは、命を奪う一撃を通さないというだけで、衝撃を打ち消すわけではない。ましてや、今ギデオンが食らった弓矢は、実は対ヘイズルーン用の異様な破壊力を持つもの。生身の人体なら文字通りバラバラに砕け散ってしまうほどのそれを、鎧ひとつでどうにか跳ね返したギデオンは、しかし全くダメージを負わないというわけにはいかず。びりびりと、全身が激しく痺れてままならない感触に、それでも相棒とフィオラの幼女を潰さぬよう腕を立てながら、苦し気な呻きを漏らす。
そこに足音も荒く駆けつけたのは、フードを被ったフィオラの男女だ。息を荒げていたそのふたりは、姉妹の名前を口々に叫んだ辺り、ふたりの両親だったのだろう。姉を母親が抱き寄せると同時、弓を背負った父親の方が、動けぬギデオンを蹴り飛ばし。その下にいたヴィヴィアンすらも乱暴に突き飛ばして、彼女の腕に守られていた幼い娘をひったくる。
「よくもうちの子たちを、このよそ者ども、今ここで──!」「そんな場合じゃないでしょう! ああ、この子もやっぱり、早くクルト様にお診せしないと──!」……その言葉を聞いたギデオンは、駄目だ、と必死に伝えようとした。駄目だ。行くな。クルトはもう死んだ、俺が殺した。魔獣に堕ちてしまったからだ──そのトリガーは月光だ。月明かりの下に出たが最後、その子らもきっと同じ運命をたどってしまう。だから頼む、行くな、この森を出るな。闇のなかに隠れていてくれ。ああなってしまわないでくれ……。
ギデオンの必死の思いは、しかし彼らに届かない。再び怯えて泣きはじめた妹の声を最後に、フィオラ村の四人家族が森の向こうへ遠ざかっていく。やがてどこかで、悲鳴、絶叫。辺りの木を薙ぎ倒すような激しい物音がしたかと思うと、魔獣の歪な産声が上がった。それを耳にしてしまった途端、思わず辺りの下草をぐしゃりと掴み、わなわなと顔を俯く。胸に込み上げる苦しさは、血を吐くような罵声となって。)

…………っ、くそ……っ!



  • No.803 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-08-06 12:48:02 




ッ、ギデオンさ──うっ、ぐ、

 ( 一体何が起こったというのか。否、本当はビビも分かっている。尊敬出来ると思っていた女性の不審な行動を、その悲しい出自を、それを肯定的に語る少女の歪さを、その少女の口から語られる真相の全てを、脳が理解するのを拒むかのように呆然としていた瞬間だった。重い矢が空気を切り裂く音が響いて、いつの間にかビビに覆いかぶさっていたギデオンが、重力のままに崩れ落ち、どさりと地面に膝をつく。その勢いまま横なぎに吹き飛ばされた相棒に、思わず視線を奪われれば、自分も強く後方へ突き飛ばされて、少女を守るようにして倒れ込んだ先が悪かった。剥き出しの木の根に、こめかみを強かに打ち付けてしまい、目の前の光景が白く黒く明滅し。
──あ、ダメ。連れていかないで……そう腕の中の温もりがひったくられる感触に、ぐらぐらと揺れる視界を無理やりあげれば。以前も話した少女たちの母親と、どうやらその父親らしいシルエットに、打ち付けられたばかりの頭が混乱する。──……あれ、この子達のママなら、何で渡しちゃいけないんだっけ。その一瞬の隙が命取りで。もうそれ以降は、それが一瞬のことだったのか、それともビビの意識が混濁していただけだったのか分からない。遠くで上がった咆哮に、やっと後悔しても全て遅く。「ギデオン、さ……」そう掠れた声で相棒を呼びながら、横たえた身体を起こそうとしても、ぐらりと揺れる視界に吐き気が酷くてままならない。そうして耳の上を流れる温かい液体に、ああ、シャツが汚れちゃう……なんて。最早全滅を待つ二人の前に、"彼女"が現れたのは、そんなどうでも良いことを考えていた時だった。 )

──エデル、ミラ……さん、


  • No.804 by ギデオン・ノース  2024-08-07 02:57:09 




(相棒がふたつの名を呼ぶ。ひとつはか弱く縋るように、ひとつは微かに慄くように。ただそれだけで、ギデオンの苦痛の一切が、恐怖と覚悟に塗り替えられた。──何ひとつ、だれひとり、己の相棒すら守れない。そんな無様な有り様を、これ以上許してなるものか。
腹の底から死力を起こす。骨と臓腑の悲鳴を捻じ伏せ、煮え滾るような血を全身に巡らせる。次の瞬間、相手を庇うようにして振り返りざまに剣を抜き、この場にのうのうと現れた裏切り者へまっすぐに突きつけた。ギデオンの息は未だ荒い。怒りと敵意に燃える眼は、相手を激しく睨みつけ、それだけで射殺さんばかりの勢いだ。しかしそれでも、目の前の女……闇のなかから幽霊のように現れた、満身創痍の女剣士は。その凪いだような無表情、いっそ悟りに至ったような面差しを、ひとかけらも崩さない。
──エデルミラ・サレス。そう名乗っていたこの冒険者を、かつてはギデオンも信頼していた。カレトヴルッフの双璧ギルド・デュランダル、その上層部のたっての人事で、大型クエストの総隊長に任命される。そんな地位を手に入れるのは、並大抵のことではない。ましてや女ともなれば、それだけの功を立てるまでに、どれほど血の滲むような努力を注いできたことだろう。そんな立派な傑物が、ギデオンもまた一目置くほどのベテランが、多数の味方の命を預かっていたこの状況で。──己の悲惨な生い立ちと、それ故の故郷への憎悪。そのために全てを投げ捨て、大量の人体破壊に手を染めた。それこそがギデオンにとって、何より許しがたい罪だった。そもそも彼女の正体が、このフィオラ村の一員であったことだとか……黒魔術により誕生した、禁忌の存在だったことだとか……そんな話はどうでもいい。エデルミラはその心根を、私怨のために腐らせて、皆を道連れにしかけているのだ。
「あなたたちを巻き込むつもりはなかったの」エデルミラはそう白々しく宣いながら、こちらの魔剣をものともせずに、ゆっくりと近づいてきた。当然拒絶すべく、怒りを込めて威嚇する。しかし、「あなたに彼女が治せるの?」と、ヴィヴィアンを見て言われれば──暗に言われた申し出に、思わず一瞬固まってしまう。その間にエデルミラが屈み、宣言通り、ヴィヴィアンの頭に手を添えた。割れた唇が呟くのは、狂った女のそれとは思えないほど穏やかな聖呪文だ。……そう言えば、いつかの旅路で彼女本人から聞いていた。女性としてその必要に迫られることが多いから、本来は専門外の治癒魔法も幾つか身につけているのだと。
──あなたたちは何も悪くない。ヴィヴィアンの傷を癒しながら、エデルミラはそう呟いた。悪いのはこの村だと。フィオラの因習と欲望が、彼女の母親の気を狂わせ、村を出て行って何年も経ってからも、凄惨な死に方を選ばせることになったと。エデルミラがフィオラを憎むのは、つまるところ、幼い頃に自死してしまった母親への愛ゆえだった。母を狂わせ、追放し、離れても尚呪った故郷。そんな仇を討ち取るためなら、死んでも惜しくはないのだと。
「ごめんなさい、ふたりとも……」治療を終えた彼女が、ヴィヴィアンの額をそっと撫で、顔を見せずに立ち上がる。「勝手な生き方をしてごめんなさい。でももう、私にはこれしかない。私自身、もう時間があまり残っていないの。──この谷に来てから、体がずっとおかしかった。今ならその理由がわかる。父が私を欲しているのよ。それに、あの花……あれが皆を、フィオラを狂わせてしまうから。あれを絶やしておかないと。絶滅させてしまわないと……」。
──そうして、最後に微笑んでから、エデルミラはいなくなった。遠く聞こえるウェンディゴの呻き声、おそらくそちらに向かったのだろう。彼女が最後に言い残した、「まだ間に合う人たちがいる」という言葉が気になるが、今ばかりは後回しだ。脅威のいなくなった森のなか、今度こそ相棒を己の腕にかき抱く。そうして、既に傷は塞がっているものの、流れていた血がこびりついた前髪をそっと目許から避けながら、「ヴィヴィアン、」と、祈るような声で相手に優しく呼びかけて。)

ヴィヴィアン、ヴィヴィアン……大丈夫か。



  • No.805 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-08-11 17:02:31 




ええ……もう、すっかり……。

 ( 初対面のインパクトはレクターのせいで少し薄れてしまったが、今回の依頼でどんなにビビがエデルミラに憧れ、同性としてその能力の高さを尊敬したか。正気を失ってしまって尚、流れ込む魔力の誠実さに、エデルミラの言葉を借りれば──"まだ間に合う"、そう、未練を感じてしまうのは甘いだろうか。 )

──ギデオンさんっ、
エデルミラさんの治療! …………その、とっても丁寧で。なんと、いうか……本当は悪い人じゃ……いいえ、やったことは間違ってる、分かってます。
……でも、勿論お咎めなし……って訳にはいかないでしょうけど、死のうとする人を止めずに行かせるのは、それは……私たちが殺したってこととじゃないですか!

 ( どうして今こんなことになっているのか。村に来てからのビビは、ずっと仲間たちに迷惑をかけ通しで、先程もその腕からみすみす尊い命を取りこぼしたばかりだ。少女を庇っていたのがギデオンだったら、ああも簡単に彼女を奪われはしなかったのではないか。そう暗い眼差しを一瞬、ぎゅっと力強く瞼の奥に閉じ込めたかと思うと。次の瞬間にはキラキラと大きく瞳を見開いて、熱く逞しい腕の中、往生際悪くギデオンに言い募るヴィヴィアンの思考からは、すっかり己の身の安全の考慮など抜け落ちていて。
冒険者として今するべきことは何か。幾ら治療を受けたとはいえ、強く頭を打ったばかりだ。そうでなくとも、ギデオンへ言い募りながら、そ負傷を治療したビビに西の陽動隊を援護し得る余裕は最早なく。であれば、いち早く既定の合流スポットまで向かい、残りの魔力は仲間の治療に専念するのがベターだろう。そんなことは分かった上で、それ以上のベストを目指す権利が自分にあるものか。今回の作戦で一番未熟な自分に、あるわけが無いことも、これが自分に甘い相棒への甘えだということも分かっていたにも関わらず。もうこれ以上"間に合う"命を取りこぼしたくない、その混乱のまま起き上がれば。相手がこちらを見下ろす心配げな表情も。いつも冷静な判断を下す相手の意見に食い下がるための、罪悪感を煽るその言葉が、どれだけギデオンの心を踏みにじるかも、全て見落としてしまっていて。 )

お願い、ギデオンさん。
私達も花畑に、エデルミラさんを追いましょう。



  • No.806 by ギデオン・ノース  2024-08-12 18:45:26 




…………、

(一瞬、思わず声を失う。真顔のまま固まったのは、思考が何ひとつ働かなくなってしまったせいだ。かすかに揺れる薄花で、相手の翡翠をただただ見返す。そこにあるのはきらめきだけ……まっすぐで聖らかな、彼女の澄みきった信念だけ。それの何に衝撃を受けたというのか。考えられない、わからない。
その膠着状態が、思考回路に見切りをつけさせたのだろう。ふ、と不意に視線を外し、一度静かに顔を伏せる。それから再びそちらを見上げたそのとき、そこにはすっかり、いつもの“ベテラン剣士”がいた。少々険しくなった眉間に、引き結んだ一文字の口、この流れなら当然だろう。「おまえはいつも……、」と呟いた、その低い小言の響きで、相手も思い出すだろうか。ふたりが相棒になりはじめたあの頃、まだしょっちゅう無茶ばかりしていた彼女に、ギデオンはよくこの顔をしていた。)

……俺がどんなに、いろいろ頼み込んだって。おまえはきっと、あいつを救いに……行くんだよな。

(呆れながら白旗を上げたとも、或いは相手の望みを聞き届けたとも、どちらともつかないような、複雑ながらも凪いだ声。それを落としながら、武骨な掌を相手に差し出し。彼女がそれを手に取ったならば、共に立ち上がる手助けをして。
そうしてまずは真っ先に、相手の様子を確かめる。ふらつきはないか、ままならないところはないか。それから今度は、その両頬を縫い留めるように包み込んだ。少しばかり土に汚れてしまった柔肌、けれども血色は悪くはない。視線も危うく揺らぐことはなく、瞳は生気に満ちている。……魔力弁で彼女の魔径に軽く触れる。その生き生きとした感触からしても、あの女は本当に、彼女をしっかり治したようだ。
こつん、と額を触れ合わせ。目を閉じて数秒、無言で相手に祈りを伝える。その間もこの森の向こう、花畑のある方角からは、移動したらしいウェンディゴの凄まじい呻き声がしていた。──あそこに行くのは自殺行為だ。エデルミラだってそのつもりだ。そんな場所にヴィヴィアンを? もうこれ以上、危険な目には遭わせたくないというのに。
それでもギデオンの前身は、彼女の決して揺るがぬ意志にどこまでも忠実だ。両手を下ろし、ゆっくりと目を開け、相手の瞳を覗き込む。そうして温かい吐息と共に、こちらからも懇願を。)

次に、おまえが……少しでも怪我をしたら。今度こそ、そこで終わりだ。
そうすると……約束してくれ。



  • No.807 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-08-14 13:38:40 




…………約束します。
ありがとうギデオンさん、大好きです!

 ( 相手のことをするように、自分のことも大切にする。その約束を決して忘れた訳じゃ無い。しかし、"まだ間に合うかもしれない" そう目の前にぶら下げられた甘い希望に意思が揺らいで、頬に触れた温かな手にはにかんだ娘の声が、寒々しく響いては消えていく。本当に相手が好きならば、ギデオンさんの想いを優先するべきだった。この優しい瞳の震えを、絶対に見落とすべきではなかった。エデルミラさんを助ける方法は、きっとほかにもあったはずだ。そう未来の自分が、何度も後悔することになるとは露知らず。感極まったように相手を抱きしめた腕をそっと離して、腰から提げた杖をひとふりすると、まもなく息を切って花畑へと走り出してしまった。
そうして、黒々とした木々の合間を走る二人に、──林檎のような、桃のような、甘く、噎せ返るように濃密なその香りがその存在を知らしめる。次第に頭上を覆っていた木々が途切れると、ますます香りは強まって、見渡す限りの赤、赤、赤──……視界に映るのは、フィオラの見事な星空と、それをぐるりと切り取る険しいヴァランガ山脈、そして燦然と咲き誇る真っ赤な"花"たち。その危険性を知って尚、天頂にあんぐりと口蓋を開いた満月の下、ほのかに発光するかのような鮮赤に目を奪われると。はっと一瞬遅れて口を塞ぎ、咄嗟にハンカチを生成した水で濡らして相棒にも差し出し、自身はローブのフードを片手で口元へと寄せて。 )

出来るだけ吸わないでください、花粉だけでも何が起こるか…………ッ、

 ( そうして、風が吹くとますます舞い上がる強い香りに目を細め、ぐるりと周囲を見渡した時だった。頭痛がするほど甘美な花の香りの中、むわりと場違いな腐臭が鼻をつく。その身の丈は3mをゆうに超え、最早人間の面影を残すのはその二足歩行のシルエットばかり。その体躯すら骸骨のようにやせ細り、全身から生える長い体毛が、積年の脂と氷に固まってぬらぬらと醜悪に月光を照り返している。ウェンディゴ──もといエディ・フィールドの成れの果て。先程対峙した時よりも、一回り大きくなったかのようなその一撃に咄嗟に横へと飛び退いて、花の花粉に全身を桃色に染めながら振り返れば。──どうやら向こうもこちらを覚えていたらしい。明らかにギデオン目掛け飛びかかってくる知能の高い獣に適切な援護も埒があかず。フィオラの冬空に高らかな詠唱の声音を響かせれば、エディの周辺の花々が勢いよく燃え上がったのは、渾身の炎魔法が弾かれたためで。 )

ギデオンさんッ!!
~~~ッ!! この化物ッ、こっち向きなさいよ!!


  • No.808 by ギデオン・ノース  2024-08-17 18:49:03 




(再び対峙したウェンディゴは、先程よりも明らかにその手強さを増していた。おそらくは、辺りに満ちる闇のマナを吸い上げているせいだろう。すなわち夜明けを迎えぬ限り、ここは奴の独壇場。そう悟ったギデオンが、すんでのところで怪物の爪を躱し、魔剣を構え直したその時。敵の喉元を睨みつけていた薄青い双眸が、はっと大きく見開かれた。──相棒の 炎魔法が弾き飛ばされたその場から、鋭い悲鳴が上がったのだ。
まさかだれかが……エデルミラが伏せていたりでもしたのかと、そう恐れて確かめるも。焼けているのは草花だけで、人の姿は見当たらない。ギデオンが混乱しながら眺めていると、その橙色に輝く破壊は周囲にも広がっていき……それにつられて、絹を裂くような不気味な悲鳴が、ひとつ、またひとつと増えた。──理屈を飛ばして、直感が解をもたらす。断末魔の声を上げているのは、誰かではない……フィオラの“花”だ。
どうやら敵の腐った耳にも、その絶叫は同じく届いてたらしい。そちらをぐるりと振り向くと、鋭い牙の並んだ口を、ぐにゃあと酷く邪悪に歪めた。嗤っている、と気がついたギデオンが、一瞬早くそれに気づいて、すかさず矢のように飛び出すも。怪物はその巨大な手を、月に向かって大きく掲げ──ぐわん、と一気に振り下ろして。)

──……ッ、避けろッ!

(ヴィヴィアンを己の内側に庇って転がったその背後、派手な火柱が空高く噴き上がる。 ──冬の乾燥しきった大気を、闇で強まった怪物の力で、炎に向かって勢いよく煽りつけたらどうなるか、考えるまでもないことだ。安全地帯に逃げ出そうにも、今やギデオンとヴィヴィアンは、フィオラの花畑の真ん中で、激しい業火に囲まれていた。ウェンディゴが嬉々として巻き起こす嫌な風が、また新たな爆炎を立ち上がらせて行く手を阻む。必然、辺りを震わす花の悲鳴も、数百、数千にものぼり、これだけでも頭が割れそうに痛い……花自体に、おそらく闇の魔素か何かの力が宿っているせいだ。熱風に巻かれ、花の悲鳴に圧をかけられ、その鼻や口から思わず血を垂れ流しながら、それでも瞳だけは真剣に、ヴィヴィアンを強く見据える。それはかつての自己犠牲的な陰りではなく、この場をふたりで切り抜けるための、ひたむきな意志によるもので。)

一瞬でいい、守護魔法をかけてくれ……俺があいつの動きを止める!



  • No.809 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-08-27 10:32:06 




……っ、!

 ( ──己の判断ミスが今、こうして他でもないギデオンを流血させるに至っている。もろに熱波を喰らったのだろう。鼻や口からの血だけでは無い、ビビを庇い、その凛々しい表情を赤く上気させたギデオンを目の前にして。最早思考するより早い治癒魔法と共に、請われるがまま施した守護魔法は、ただひたすらに相手の無事を祈るもので、決して愛しい人を死地に向かわせるためのものでは無かった。しかしビビがかけた守護魔法を確認するやいなや、真っ直ぐにウェンディゴへと向かっていくギデオンに、やっと自分の判断が間違っていたこと。自分の思い上がりが相手を傷つけたことに気がつけば、全てを投げ出して悲愴に嘆き沈み込みたくなる思考を、今は無理やりにでも振り払う。──後悔している暇などない、自分が招いた事態だからこそ、無事にギデオンさんを帰さなくては。そう構え直した魔法の杖で、相棒に降りかかる火の粉を丁寧に払いながらぐるりと周囲を見渡せば──見つけた! と、激しくとぐろを巻きながら燃え上がる火炎のその奥に、時たまぐらりとよろめきながら満身創痍で赤い波を掻き分けていくエデルミラを発見すると。ギデオンがウェンディゴを討ち漏らすなど微塵も思わぬ素振りで、危険な魔獣のその隣を真っ直ぐに駆け抜けて。 )

エデルミラさん! ……エデルミラさん!!
お願い、こっちを見てください!!

 ( 今はギデオンに集中しているとはいえ、いつウェンディゴの注目がエデルミラに移るか分からない。ギデオンが魔獣の動きを止めてくれた今のうちに、手負いの女を花の影に隠そうとして。しかし何度呼び掛けても反応がない女剣士に、半ば体当たりするかのような勢いで飛びつくも、ギデオンにそうした時よりは劣るとはいえ、鍛え上げられた隙のない体躯は一瞬小さく揺らいだだけで、その歩みを止めてはくれない。それどころか、ビビを認識するような素振りも見せずに、何やらブツブツとよく分からない呪いのようなものを垂れ流しながら歩き続けるエデルミラに、引き摺られるような形でかじりつけば。最悪なタイミングとは重なるもので、「うわああッ!? 火が!!!」「花が……花が!!」「お前らがやったのか!?」と、正気を失った女剣士と、彼女を止められるずにかかりきりになっているヒーラーの前に現れたのは、各々額や首筋、腕などに赤い魔核を携えた村人達で。「だめっ……!」と、無力な自分に思わずあげたその声は、果たしてエデルミラに掛けたのか、それろも噎せ返るような花の香りと満月の下、その肘から何やら仰々しい腕を伸ばした村人達が、その目から次々に正気の光を失ってその姿にかけたものだったか、 )

……だめっ、だめ!! 止まってよぉ!!


  • No.810 by ギデオン・ノース  2024-08-31 01:59:36 




(「駄目だ、止めろ──火の手を止めろ!」
こちらにようやく引き付けた敵に、魔剣を叩き込むこと暫く。必死なその声がギデオンの耳に届いたのは、先にヴィヴィアンの悲痛な叫びを聞きつけ、振り返った時だった。逆巻く炎の向こう側、異状に気づいて駆けつけたらしいフィオラ村の連中が、まだぞくぞくと森の中から現れている。大事な花畑が炎に呑まれる光景を前に、かれらは本気で悲鳴を上げて、もはや他には目もくれない。めいめい水魔法を繰り出そうとして──掲げられたその手はしかし、先着の同類同様、月に向かって固まってしまう。
思わず己の魔剣を下ろしたギデオンの瞳の奥に、あの光景が鮮烈に甦る。歪む肉、軋む骨、閃く牙──理性を失した、獣の白眼。あのとき、人間をやめたクルトは、双子は、どんな本能を晒したろうか。思わぬ窮地に我を忘れ、「逃げろ!」と叫びながら、駆け出そうとしたそのときだ。ゆらりと背後から近づいた巨影が、ギデオンの背面を強かに横殴りにした。がぃん、と強烈な金属音──爪とミスリルが火花を散らし、鎧の戦士が吹っ飛んでいく。その先は業火の渦、ひときわ激しく燃え盛る場所で。どっと叩きつけられるなり、無数の火の粉が激しく夜空へ舞い上がった。……これまではそこからも魔物に斬りかかっていたギデオンは、しかし今回は立ち上がらない。炎のなかで黒々と、呑み込まれたまま動かない。
ウェンディゴが嗤う。巨躯を満月に伸びあがらせて、どろどろと醜く嗤う。
エデルミラが呪う。傍目には理解不能な使命を帯びているかのように、ぶつぶつと何かを呪う。
村人たちは、もう間に合わない。絶叫しながら苦しみ悶え、皆めりめりと歪んでいく。
やがて彼らが成り果てた、フィオラの“英雄”、禁忌の魔獣。その真っ白に濁った眼が、皆ヴィヴィアンをひたと見つめて。
目の前の柔らかな“肉”に、口を開いた──その時だ。)

──ヴィヴィアン……ッ!

(炎の渦のなかから、文字通り雷のように輝く一筋が飛び出した。それはそのまま、ウェンディゴの胸をまっすぐに貫きざま、魔獣の群れに突っ込んで。ヴィヴィアンとエデルミラににじり寄っていた化け物たち、そのおぞましい首を皆、一太刀で撥ね飛ばす。
荒い息を吐きながら相手を振り返ったのは、もはや金色に熱された鎧を纏うギデオンだ。その肌も髪も、焼かれた痕はどこにもない──彼女の護りは効いていた。流石に全てを無効とする万能の魔法ではないから、物理的な衝撃を一瞬喰らっていただけで、未だ尽きてはいなかった。血走ったせいか紫がかったその双眸で、己の相棒をじっと見据える。純白のローブをはためかせ、栗毛を揺らすヴィヴィアンの、何より鮮やかなエメラルド。相棒となって以来、昼も夜も、幾度となく見つめてきた彼女の瞳。
それは不思議と、酷く静かな一瞬だった。向こうではウェンディゴが苦悶にのたうち回っているし、エデルミラは詠唱をやめず、まだ他にもいる村人たちの成れの果ては、唸りながら近づいてきている。炎はごうごうと勢いを増して、森に燃え移る勢いだ。──それでも、静かに口を開いた。彼女にはまっすぐ届くと、確信しきった声だった。)

……俺が“戦う”。絶対にお前たちを守る。
だから、エデルミラを……“治して”くれ。



  • No.811 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-09-02 22:42:58 




──! ……はいっ!!

 ( 守護魔法の光を煌々と放ち、その鎧を金色に輝かせる相棒に思わず瞳を見開いて。その深い声が雷鳴のように鼓膜を震わせ、信頼に満ちた瞳が此方を射抜くだけで、それまでの絶望が嘘のように晴れていくのだから不思議でならない。何のことはない、この状況を“止める”には少し筋力不足だったかもしれないが、“治す”のは己の得意分野だ。ましてや他でもない相棒に任されたとあっては、それだけでエデルミラに引きずられていた背筋が伸び、熱気に侵されていた呼吸が楽になるようで。
アドレナリン放出で気が大きくなり、暴れる戦士を取り押さえるにはコツがある。それが魔法を使う手合いの場合、まずはその詠唱をとめてやることだ。難しいことはしない、できない。これがお優しい後輩ならばいざ知らず、ビビの場合は物理的にその口へと拳を突っ込んでやるのがやり口だ。相手の唇の動きに耳を傾け、その口が一際大きく開かれる瞬間、振りかぶった拳を相手の下顎目掛けて突き上げる。この時のポイントは、多少の抵抗が入ろうと絶対に拳を開かないこと、でないと指を噛み千切られるからだ。そうして目下の脅威を退ければ、物理アタッカーの場合、次は飛んでくる膝や肘をその辺の硬質な物体──今回は転がっていた補助腕の金具でいなして、相手が自分で繰り出した攻撃の威力で怯んだところを、「えいっ!」と全体重で組み伏せる。そうして繰り出す関節技は少々反則気味な気もするが、力も速度も格上相手に、しかもこれを喰らって尚カレトヴルッフの戦士たちは痛みに失神するまで暴れるのだから此方も手加減していられない。とはいえ、目の前の女剣士の場合はもう少し利口だったらしく。意識を落とす寸前で正気を取り戻したらしい彼女に、「一緒に帰りましょう、エデルミラさん!」と言い募れば。花畑に来てから初めて、話の通じそうな眼の色を浮かべた女剣士に、ついつい気ばかり逸って腕を外すより前にそうしてしまったからだろう。本来曲がる方向とは逆向きにキメられた己の利き腕を見たエデルミラが、「……それは脅迫かしら」と嘯くのを──それもありだな、と少し力を強めてみるも、その女の表情を見て一目で痛みでは支配できぬとわかれば、あっさり開放することにして。
とはいえ、エデルミラの調子が万全だったならば、ビビなど束になったところで適わなかったに違いない。組み伏せられる以前から満身創痍だった女剣士と二人、花の影で肩で息をすること数十秒。当初はビビの剣幕に「それは……」「私だって、」と気圧されていたエデルミラだったが、自分が発動した魔法陣を省みると「いいから逃げて」「あなた達を巻き込みたくはないの」と、再び頑なに首を振り出して。それでも諦めの悪いヴィヴィアンに周囲をぐるりと見渡せば、「貴女が此処に居たらノースさんだって巻き込まれるのよ」と、その言葉で一瞬ビビが怯んだのを見逃さず、隠し持っていた短剣でビビのローブを一際太い花の根に縫い付けてくる早業。そうして、娘が短剣を引き抜こうとする隙に華奢な腕を振り払えば、村民の成れ果てと対峙するギデオンの方へと駆け寄り、「……手伝うわ。だから、早くあの子を連れて逃げて」と。この場で一番強情であるビビの弱点と、そのビビ当人より余程ギデオンの感情を見抜く強かさこそ、彼女がデュランダルの代表としてこの村に来られた証左。しかし、次々と迫りくるかつて村民だった者たちに対し迷いのない剣さばきに、しなやかな身のこなしを一瞬鈍らせたのもまた、力任せに短剣を引き抜き、遥か後方でひっくり返っている、前線の二人より余程非力な娘の叫びで。 )

~~~ッ!! もうやめて!!!
そんな怪我で……ッ、こんな村のためにエデルミラさんが酷い目に合う必要なんかない!!



  • No.812 by ギデオン・ノース  2024-09-12 03:14:43 




(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。

──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。

温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。

──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。

大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへ出て行って尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷の罰はどこまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は、まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。……おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。母との苦しい日々のなかで、母が優しさから隠していたより多くのことを、エデルミラは察していた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすのだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかし陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。…のより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。かれらを今ここで根絶やしにしなければと、そうエデルミラが思いつめたのも、無理のないことだろうに。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれた祈りを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は母の言いつけに背いて、フィオラのやつらのお望みどおり……“悪魔の子”になったのに。)



(「は、はは……」と。魔獣の返り血に染まりきった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。──今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを……フィオラ村の成れの果てを……次々屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、無辜のだれかを守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を拓き、救いに向かう心があると。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それは少しだけ違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしのことも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこかしかの深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか! 
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)



  • No.813 by ギデオン・ノース  2024-09-12 03:43:34 




(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。

──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。

温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。

──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。

大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへと逃げだして尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷からの罰はいつまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は……まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。追われ続ける日々のなかで、母は優しさから多くのことを隠していたが、それでもエデルミラがそれに気づかなかったわけがない。母が自分を身籠ったせいで故郷を追われたらしいことも、自分への愛ゆえに様々な罪悪感に苦しんでいたということも、自分はきちんと知っていた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすせいだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかしかといって、陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。かれらのより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。──そしてまた、自分の異常な父親と、それとまぐわった母の狂気を、知ってしまうことでもあった。
エデルミラの世界は、フィオラ村に来てから粉々に破壊された。村は確かに狂っていたし、様々な罪に手を染めていたが……母も母で、間違いなく異常で、ふしだらで、どうしようもなく罪人だった。たしかに若いころの母は、二百年前に死体を弄んでいた狂人の亡き骸と、黒魔術を通じて番うような女だったのだ。そして自分のなかには、その死体の血が流れている。それもただの死体ではない、異常な人殺しの男の死体、二百年も朽ちない死体だ。そう知ってしまって今、どうしてエデルミラ自身も気が狂わずにいられよう。自分は母の故郷が散々言い続けたとおり、確かにおぞましい忌み子だった。フィオラは悪だ、だが母も悪だ、そしてエデルミラ自身もまた、本当にこの世に生まれてはいけなかった。
……それでも、長年の想いは消えない。村を出てまともな世界を知った母が、自分を愛してくれたのは事実だ。自分がそれを支えにして生きてこられたことも事実だ。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。悪意の塊樽かれらのことは、今ここで根絶やしにしなければ。
……そして同時に、真相を知った己が、母とのあどけない約束なんぞをかなぐり捨てたくなるのも道理だ。想像以上に悍ましい出自だった自分自身のことすらも、もはや一滴の血も残さず、この地上から消し去らなければ。そう思いつめたのも、きっと無理のない話のはずだ。

──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれたあの祈りの純粋さを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は一度、生まれて初めて、母を憎んで。
──そうして、母の故郷のお望みどおり……この手を汚して、“悪魔の子”になったのに。)



(「は、はは……」と。魔獣の帰り血に染まった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。……今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを次々に屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、人を守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を開く人間なのだと。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それはほんの少し違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え声。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこか地下の奥深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか! 
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)




  • No.814 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-09-17 17:53:22 

?
?
?
( ──赤い、赤い大地から伸びた黒い腕が女を捉え、その地の底へと引きずり込まんとする悍ましい光景。頭上には怪しい程に明るい月を湛えたその光景は、まるでこの世の終わりの様で。どこか現実味を放棄した鼓膜を、囂々と響く地鳴りが占拠してそれ以外は何も聞こえず、命からがら女を助け出した男を地獄の番人の凶爪が襲う。発動した魔法陣を中心として、花畑の中心にぽっかりと空いた真っ黒な穴は、その奥からはこの地で散った者達の無念の声をもこだまして、もしここに正気を保った者がいたならば、最早今生に救いはないのだと誰もが覚悟したに違いないその瞬間だった。
それまで、剣士らをいいように蹂躙していた血の触手。ギデオンに切り伏せられて怯んでいたそれが、ぴこん! と、再び鎌首を擡げたかと思うと、手負いの剣士の方へとまっすぐに伸び──その隣で、今にもギデオンを嬲り殺そうとしていたウェンディゴの心臓を貫く。酷い腐敗臭の漂う巨体がどうと倒れたその背後、頭上の月まで届きそうなほど溢れ出ていた触手はその身の色をどす黒い赤から、月より眩しく暖かな聖なる魔素の色に染め、ギデオンとの間に立つその娘のシルエットを柔らかく浮かびあがらせるだろう。 )
?
ギデオンさん!!ご無事ですか!!
?
( ウェンディゴを真っ直ぐに貫いたのち、その金色の指でギデオンの傷口を温かく注いでいった触手がしゅるりと戻っていくのと引き換えに、愛しい相棒のもとへと飛び込んできたヒーラー娘が “それ” を見つけたのは、エデルミラに突き立てられたナイフを力任せに引き抜き、勢い余ってひっくり返っていた時だった。不自然なほど密集した花々の根元に隠されるように刻まれた古代魔法、それ自体は世界中にみられる古代人から続く祝福の息吹だが、しかしそこから溢れる魔素の色に、いち早く女剣士の仕業に気がつけば。複雑な古代魔法の解読と、無念を訴える死者の魂への祈りが間に合ったのは紙一重だった。そこに大層な信念も目的もあったわけじゃない。フィオラ、ひいてはヴァランガを雪崩から守っていた古代の魔法は、花畑に撒かれた死者の無念をも繋ぎ止める枷になっていたらしく。悪魔の子によって解放された罪なき魂たちが、彼ら自身も気づかぬまま、今度は自ら人を殺めようとしているのが心底痛ましかっただけ。しかし、彼らを縛り付ける枷から、彼らを唆す装置へと変貌した古代魔法を読み解く傍ら──彼らの魂が無事にロウェバの御許に辿り着けますように、という娘の祈りは無事願い届けられたらしい、エデルミラが捧げた“悪魔の子”としての彼女の人格と同様の供物を対価として。
そうして、花畑の激闘が収まった頃合いに、「おおーい」と響いたのは、先程救援信号を上げていた陽動隊の声だった。どうやら他の隊の救援を受けられたらしく、今度こそ二度と動かなくなったウェンディゴの死体と燃え上がる花畑、そして満身創痍の三人を見て、重戦士の一人が気絶したエデルミラを預かってくれつつも、説明を求めたそうな表情をぐっと押し込めたのは、とうとうフィオラの頭上の冠雪が激しい音を立て崩れ落ち始めたからで。そうして、「逃げろ!!」という怒号に、ビビもまた“対価”を失って少し軽くなった毛先を揺らし駆け出して。 )


  • No.815 by ギデオン・ノース  2024-09-19 01:51:37 




…………、

(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)

……また、お前に救われたな。

(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓の破壊が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な汁長を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)

……ッ、おまえら、先に行け!!!

(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺し、その背中で仲間に命じる。村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、必死の思いで次々に斬り捨てた。そうしてようやく、仲間が手配した数台の牛車に飛び乗り、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜ける。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も、……ったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれが、この場所にも届くまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせて。)



  • No.816 by ギデオン・ノース  2024-09-19 02:03:17 




…………、

(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)

……また、お前に救われたな。

(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な質量を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)

……ッ、おまえら、手配に回れ!!!

(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺す。その早業に一瞬言葉を失う年若い連中に、丁寧に説明してやる時間も惜しく、怒鳴るような声で命じた。──村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、若い連中や相棒があたっている段取りを信じながら、必死の思いで斬り捨てる。そうしてようやく、出来上がった数台の牛車に飛び乗ると、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜けて。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も……たったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれがこの場所にも迫りくるまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせ。)



  • No.817 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-09-27 00:57:38 




……、

 ( 凍土の緩んだ踏ん張りの効かない獣道を、何度か滑りそうになるのを頼もしい腕に支えられながら走破すると、目の前のはだかる魔法障壁にうっと顔を露骨に歪めれば、相棒もまた同じ気持ちでこちらを見ていたようで。手練の冒険者である彼等ならまず簡単に避けられるだろうと、注意喚起もなしに魔法の火炎を放ったのは、その複雑に入り組んだ魔法式に嫌な見覚えがあった故で。古代魔法を礎に見慣れない土着の式が混ぜこまれた、この数日で見慣れざるを得なかったヴァランガの、フィオラの魔術師が組む魔法障壁は、いとも簡単にビビの火炎を弾いたかと思うとその瞬間、これまた聞き覚えのある品のない笑い声が冒険者たちを取り巻いて。
興奮したような引き笑いと共に、「おや、見覚えのある光景じゃないか」そう隧道の暗闇から顔を出したイシュマは、「悪く思うなよ、こんな狭いところで"英雄"にでも追いつかれたら困るだろう? ましてや君らみたいのは……全く卑しい、いつどこで祝杯をひと舐めなんてしてるかも分からないからね」そう白々しくニヤつきながら、当然のごとく障壁をといて冒険者達を招き入れる気は無いようだ。そうして、その間も障壁に体当たりや攻撃を試す男たちなど目に映らないかのように、目敏くビビの方に向き直ったかと思うと。「ああでも、そうだ……お前、」と「惨めに跪いて命乞いをするなら、お前だけなら助けてやってもいい……」と楽しげに続ける男に、今度こそ"くそったれ!"と、覚えたての罵倒をぶつけてやろうとした瞬間だった。「その余裕があるなら私を通して」と背後から響いたのは、彼女もまたあの地獄の最中をくぐり抜けてきたのだろう。あちこち傷だらけで、数日前の様が嘘のようにやつれた蛭女。彼女が肩で大きく息をして、艶を失った髪をばさりと揺らす間も足元の揺れは続き、残酷な白い塊が刻々と背後に迫ってくる。もはや一刻の猶予もない。この小悪党も身内に思うところはあるのだろうか、彼女のために障壁の規則を書き直す瞬間を狙い杖を構えようとした次の瞬間、その必要性は、あれ程強固に張られ魔法障壁と共に霧散したのだった。
その音は、膨大な雪の塊が全てを薙ぎ払いながら斜面を滑り落ちてくる轟音にかき消されてしまったようだった。揺らいだ障壁を通り抜けた女が、男の腕に飛び込んだかと思うと──ぐらり、と。イシュマの身体は地面に倒れ伏し、そして二度と立ち上がらなかった。雪の白い地面に広がる赤い染み、寸前に迫った轟音の中、確かに届いた女の笑い声。消えた魔法障壁の向こうに次々と冒険者たちが駆け込む中、前のめりに倒れたイシュマの隣から動こうとしない女に、いけない、と。このままでは──と、振り返ったヴィヴィアンの背中を押したのは、強く腕を引いたのは、果たして誰、何だったかを、後にビビはこの時の記憶を思い出すことは叶わないのだった。 )

──……あ、だめ、ッ……


  • No.818 by ギデオン・ノース  2024-09-28 09:23:51 




(あの地下牢でギデオンたちを裏切った後、イシュマと蛭女の間にどんなやり取りがあったのか、それを知る暇はもはやなかった。──トランフォードには古くから、“スカパペツィの掟”という言い伝えが存在する。“災害や魔獣の害で今にも死ぬかもしれないときは、てんでばらばらに逃げなさい”というもので、それは事実、他人を助けようとして逃げきれずに亡くなった、何万人もの犠牲者を悼んだために編み出された教えだった。故に現代の冒険者たちは、人命救助を己が使命としながらも、究極の場合には真っ先にその掟に従う。ギデオンもまた例外ではなく、ただひとり、己の命より大切な相棒ひとりを気にかけるのが精一杯で。相棒をいち早く隧道の奥に押し込み、後の全てを置き去りにして駆け抜けていったそのことは、ずっとずっと後になっても、一度も後悔などしない。かろうじて、轟音のなか高らかに響く狂ったような哄笑が、蛭女の声を聞いた最後になった。
「滅びればいい、こんな村! この世から消えてなくなってしまえばいいわ!」……
──暗く細くせせこましい、崖のなかの一本道。しかしこの中に逃げ込んでも、まだ恐ろしい思いを拭い去ることはできなかった。背後から迫る怒涛の雪は、この狭い空間にさえ押し寄せかねない勢いだ。何より足元の揺れがまだ酷く、天井からばらばらと石くれが降ってくる始末。今より揺れが酷くなったら、頭上の大きな岩の層など、剥がれ落ちてくることだろう。この闇のなかで生き埋めになるわけにはいかない。「気をつけろ!」「こっちだ!」と、互いに口々に呼びかけながら、冒険者たちは出口を目指す。一刻も早く、この闇の先へ。──死の迫る世界の外へ!
そうしてようやく、ギデオンたちは光の中に躍り出た。未だ夜も明けぬ時分であるのに、満月に照らしだされた一面の銀世界は、真昼のような眩さで。目が眩みながらも未だ走り、しんがりを務めるこちらの耳に、しかし遠くから、何か叫び声が聞こえた。ぐっと狭めた目元に片手を翳しながら、そちらの方角を見遣ってみれば。あの斜面のずっと上……護衛班や回収班、そして共に先行して逃げ出していたレクター教授たちが、必死にこちらに手を振っている。何だ、どうした? そう思いながら、ふと振り返ってみたそのとき。思わず唖然としたギデオンとヴィヴィアンの頭上に、巨大な青い影がかかった。
それはこの冬の夜空を背に伸びあがる、真っ白なしぶきの壁。あの長かった崖の上すら乗り越えて、どうっと派手に溢れだした……雪崩の最先端の一波で。
もう間に合わない。そう悟った瞬間、ギデオンは本能で動いた。全ての音が消え失せた、いやにスローな世界のなかで。隣の相棒をぐっと引き寄せ、抱き締め、内側に固く固く庇う。顔色を失いながらも、せめて質量の衝撃から彼女の体を守ろうと、背中を屈めた、その真下。その相棒の杖先が、咄嗟に明るく輝いた瞬間。

──真っ白な濁流が、ふたりをごうっと呑み込んだ。)







(…………)

(……)

(…………)


(……)

(…………)

(……しばらく、眠っていたように思う。正確には、気を失っていたのだろうが。
時さえも凍りついていたかのような、長い長いその時間。ギデオンの体は、全ての生命活動をごくゆっくりと遅らせていた。しかしほどなくして、白く凍りついた睫毛が震え、うっすらと目を開く。瞼が鉛のように重く感じられ、何度か再び閉ざしそうになるものの。視界に満ちている薄ぼんやりとした光に、何故か不思議と縋りつかねばならないような気がして。何度もうとうとと揺れ動きながら、やがて意識が追いついてくるのを待つ。
幾らか目が醒めてくると、やがて全身に冷たさを感じはじめた。肩や背中、腕周りや脹脛が、氷の毛布にきつく圧されているかのようだ。胸から上以外は全身が厚い綿雪に埋まっている、という状況に気づくのは、この数分後のことである。……だがその中にあって、ギデオンの体の芯は、不思議と体温を奪われていなかった。己の吐く息は温かく湿り気があるし、感覚を巡らせてみれば、己の体内、首の後ろから爪先に至るまで、何か心地の良い温かいものが、とくとくと循環しているのを感じる。己の血潮、だけではない。馴染みのあるこれは何だろう……? そこまでぼんやり考えて、はっと弱く息を呑んだ。彼女だ。これは彼女の魔素だ──ヴィヴィアン!
強張った頭を動かし、己の真下に目を向けて。しばらく不安げに揺れ動いていたギデオンの瞳は、しかしほっと、脱力したように落ち着いた。──愛しい娘は、己の腕のなかですやすやと眠り込んでいた。その顔色こそ流石に白いが、唇は薔薇のように赤い……きちんと血が通っている。何よりその力の抜けた表情が、サリーチェの寝室で眺めるいつもの寝顔に、あまりにもそっくりで。「ヴィヴィアン、」と何度か軽く呼びかければ、眉根にうっすら皴が寄るところさえ、いつものそれそのものだ。
思わず口許を綻ばせてしまいながら、もう一度彼女に囁く。確かめずとも、雪に埋まった互いの手と手を今一度握り直したのは……そこでぴったり繋がっている己の魔力弁からも、眠る彼女に呼びかけるためで。)

……ヴィヴィアン、朝だ。起きろ。



  • No.819 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-09-30 14:17:09 




ん、…………おはよ、ございます……?

 ( 分厚い雪に包まれて、少し体温が下がったからだろうか。それまでの場違いな程に心地よかった睡眠を邪魔されると、不快そうに眉根を潜めたヴィヴィアンだったが。大好きな厚みにぎゅっと掌を取られる感覚と、そこから吹き込まれる熱い魔素に、その薄い瞼をうっすらと開けば、先に起きた相棒にしっかりと温められていたその分か、一気に周囲の状況を把握すると、元々大きな眼を溢れんばかりに見開いて。
そうして、かろうじて動く手でギデオンの顔をぺたぺたと「ギデオンさん! 生き、てる……良かった……」そう凍りついた睫毛や、こびりついた霜を払ってやりながらへにゃりと緩んだ笑みを浮かべれば。ヒーラーとして有るまじき、身体の違和感を確認するその前に、ぎゅうっと強く抱きついた肩が震えているのは、寒さのせいだけでは無いだろう。それから二人の身体にかけられたヴェールが少しずつ消えていく感触に、慌てて下半身を掘り起こせば。いつまでも「くすぐったい……!」なんてクスクス戯れ合っている訳にもいかず。元々かなり下山していたレクターらは、無事木陰に逃げ込めたらしい様子が確認できるが、ビビたちと逃げてきた冒険者達は何人か生き埋めになってしまっているのを掘り起こしてやらねばならないだろう。幸い人数分の足は確認出来ているから、さっさとこちらを終わらせたところで、今度は山のような後処理が漏れなく全員を待ち受けているに違いない。しかし、今ビビの心を酷く苛むのはそれではなく、過酷なヴァランガの山肌を、道無き道を進んだところに確かにあった花の里フィオラ。その隠された存在と、歪められた尊い命たち、そして一晩で消え失せた住人たちを思うと素直に喜ぶ気持ちにはなれないが、今だけは生きて帰れたことに深い安堵の息を漏らして。 )

……早く、帰りましょう、ギデオンさん。



  • No.820 by ギデオン・ノース  2024-10-07 01:12:39 




……ああ。

(ヴィヴィアンの複雑な、けれども願いの籠った声音に、同じ湿度の吐息を零し。真っ白な雪の上、立ち上がった相手とともに、崩れた谷を一望する。
──数日前まで壮観だったこのヴァランガ峡谷は、しかし夜明けの薄明りの下、静かに息を引き取っていた。村の旧跡は雪に埋もれ、かつてのキャンプ地だった家屋も木くずのように粉々になり。あの隧道の出入り口に至っては、もはやどこかにあったのかもわからない有り様だ。きっとあの崖の向こう側は、山ひとつがどっと押し寄せた勢いで、もっと完膚なきまでに破壊し尽くされているのだろう。そんな状況を生き延びた今、ギデオンたちがなすべきは、ともに生き延びた仲間たちを助け起こしに行ってやること。だがせめてその前に、と。ふと横を向き、彼女の頭をいつもどおり撫でようとして──ギデオンのその指先が、しかしぴくりと途中で止まる。……愛しい娘の栗毛の軌跡が、途中で断たれていたからだ。
そうだ、あのとき。この谷を滅ぼすべくエデルミラが発動させた、エディ譲りの黒魔術。あれを反転させるため、相手はあの場で最も聖らかであろう依り代、己の髪を差し出した。一切の躊躇なく、自らに刃を当てたのだ。いつもギデオンのなら厳しく戒めるだろうそれも、しかしあの雪崩を生き延びた今朝ばかりは、一瞬の揺らぎの後に、感謝と安堵に負けたらしく。瞼を閉ざしてため息ひとつ、それから再び相手を見つめ。もう一度その小さな頭に、己の骨ばった掌を添えて……そうしてその指先を、後ろの辺りで遊ばせれば。途端にしゅるりと、元々緩んでいたのだろう、髪紐が容易くほどけて。
ふわりと広がった柔い栗毛は、ギデオンの記憶にあるより、やはり幾らか身軽なようだ。しかし、そのひと房ひと房は、山の稜線から昇りはじめたまばゆい朝日に照らされて、黄金色に輝いて見えた。妙に神聖に感じられるのは……きっと昨夜、あんな奇跡を目の当たりにしたせいだろう。──紅き望月闌く夜さり。因習に満ちた花の里、そして怨みで生き永らえる冬山の化け物は、たった一夜で滅びを遂げた。だがしかし、彼らの悪事に巻き込まれた数々の犠牲者たち……ジョルジュ・ジェロームのような無辜の人々の魂は、朝陽の昇ったこの青空に、きっと無事に召されたはずだ。その奇跡をもたらしたのは、他でもないヴィヴィアンである。あの絶望の状況で、怨みの深紅を安らぎの黄金に変え、天に還してやった娘。
……ギデオンには時々、このヒーラー娘がまるで、神話か何かの世界から来たように思えてならない。そのことにうっすらと、ただの感嘆だけではなく、恐れを覚えることがある。──どこかから来たのではなく、どこかへ行ってしまうのではないか。自分が迂闊に目を離せば、彼女はその力のために、世界に奪われるのではないか。馬鹿馬鹿しい妄想かもしれないが、時たま本気でそんな風に感じるからこそ……今だけは。ともにこうして朝を迎え、己のすぐ横に彼女がしっかり立っている、ただそれだけの実感に、心の底からほっとしていて。
口元をやっと緩め、相手の髪を撫でたその手で、耳を優しく擽り……相手の無事を確かめると。「おまえのこれが元通りになるくらいまで、上からたっぷり特別休暇をもぎ取ろう」なんて、冗談めかした囁き声を。それからもう一度、万感の思いを込めて……彼女にそっと顔を寄せ。)

そうだな。ふたりで、うちに帰ろう。



(──こうして。激動のヴァランガ調査は、結局未達で終わりを迎えた。
冒険者たちが目撃した恐ろしい出来事は、後に“フィオラ村事件”として、トランフォードの闇の歴史にその名を連ねることになる。当然のことだろう……人を魔獣に変えてしまう常識外れの劇薬が、この世に生まれ落ちていたのだ。それは随分と後になるまで、様々な問題を国内外に広げるのだが──今はまだ、遠い話。
だからここからしばらく先は、あの事件の後にあったこと、わかったこと、そのいくつかを記していこう。

──調査隊は、無事生還した。何人かは多少の大怪我を負った者もいたのだが、ヒーラーであるヴィヴィアンの底なしの魔力を以て治せないようなものはなく、せいぜいが全治数週間。唯一目覚めさせられなかったのは、己の黒魔術の毒牙にかかった、元リーダーのエデルミラくらいだ。
彼女はあの一夜以来、ずっと昏睡を続けている。憲兵団の魔法医の話では、目覚められないのではなく、目覚めようとしないらしい。エデルミラの魔素に乱れはなく、おそらくは深く心を閉ざしたために身体が追従しているのだと──厄介な呪いを自分自身に掛けたようだと。それでもいずれ喋らせるさ、と。聖バジリオで久々に再会したあの懐かしの諜報員、エドワード・ワーグナーは、恐ろしいほど穏やかに言った。

「──元々、君たちの今回のクエストには、裏で僕らが噛んでいたんだ。アラドヴァルのあの剣士には、僕らに嗅ぎ回られるようなとある疑いが持たれていてね。魔導学院からデュランダルに調査依頼が舞い込んだ時、これはお誂え向きとばかりに、合同クエストを組ませてもらうことにしたのさ。そのほうが、お互いの顔さえ知らないうちの覆面冒険者が上手く紛れ込めるからね……ああ、そうそう。東のほうのギルドには、うちの手の者がいるんだよ。あの辺りはキーフェンマフィアも随分やんちゃをしているから、そうでもしないとやってられない。国を守るって大事だろう?
……とにかく。アラドヴァルのあいつに上手く探りを入れるために、東側からの参加者は、僕らの都合を踏まえての選抜をさせて貰った。で、リーダーにあのエデルミラ・サレスを据えたのは、その様々なしわ寄せの結果だったってわけなんだ。恥ずかしながら、彼女は僕らにとって、完全にマーク外でね。母親とふたりで、何やら迫害されていたらしいのは突き止められていたのだけれど……その加害者が、フィオラ村の差し向けたビェクナー商店だったってことも、サレスが母親を追い詰めた故郷を深く怨んでたってことも、僕らは気づけちゃいなかった。
だからヴァランガ調査の顛末は、もう完全に、憲兵団の大失敗さ。行かせちゃいけない人間を行かせて、そいつが大爆発したことで、君らも含めた一般人を随分巻き込んでしまったし、情報漏洩を防ぐための追跡調でもてんてこ舞いだ。そもそもの調査対象だったアラドヴァルの奴にしたって、今回のせいで強硬手段に移らざるを得なくなった。それじゃあ取り漏らしもあるだろうから、上はもうおかんむりでね。やらかした前任なんて、今ごろルーンの最果てに飛ばされている頃だろうよ。そそう、それで後始末にあてがわれたのが今回の僕ってわけ。フィオラ村の流通を突き止めるのはもちろん、サレスが何をしたか、今までどんな動きをしてたか、全部報告書を出せって話さ。まったく、幾らこの僕が優秀極まりないとはいえ、とんだとばっちりだよねえ……」

──随分と饒舌な、そのエドワードの話によると。フィオラ村の唯一の生存者であるあの少年、イクセルは、現在は憲兵団の関連施設で保護……もとい、監禁されているらしい。
イクセルは山を下るとき、自分ひとりが生き延びてしまったことに、酷く泣き叫んでいたようだ。その幼いながらに凄まじい怒りの矛先は、他に誰あろう、ギデオンたち冒険者にまっすぐに向けられた。──なんでみんなを助けなかった! なんでみんなを見殺しにした! ──俺も村のみんなと一緒に死なせてくれればよかったじゃんか! ──俺が、俺がちゃんと英雄になれば! おまえらが村に来なければ!
イクサルは決して、妹たちはまだ生きているはずだとは一言も言わなかった。途中で雪崩に巻き込まれて意識を失ったギデオンたちとは違い、あの子どもは一晩じゅう、谷の向こうに戻ろうとするのをレクターたちに必死に止められ、涙をはらはら流しながら、故郷が雪崩に呑まれる様を見届けつづけていたらしい。ただでさえまだ幼い子どもにとって、それはどれほど惨い光景だったろう。ヴィヴィアンは特に酷く心を痛めていたが、さりとてできることはなかった。こうして続報を聞けるだけまだありがたいほうで、そもそも事件後の冒険者たちは、同じギルドから参加した者以外との接触を禁じられている。天涯孤独のイクセルは、当然誰とも会えないし、誰のことも、何のことも、知らせてもらえやしない立場だ。
よってあの少年は、今も施設の職員相手に、堅く口を閉ざしている。フィオラ村はどんな村なのか、どんなことをしていたのか。職員たちが遠回しに聞き出そうとしてみても、一言も語らないらしい。当然ではあるだろう……おそらくその調子なら、いつかはきっと、ヴィヴィアンが聴取役として呼ばれることもあるだろうか。その時が来るまでに、少年の孤独な心は、気丈に耐えてくれるだろうか。

……その少年の体を魔導学院が調査して、ひとつ判明したことがある。
フィオラ村の出身であるイクセル少年の体内には、本来は人体にあるはずのない完全未知の成分が、高濃度で蓄積していた。この組成は一説によると、ハリガネムシがカマキリを操る時に注入する、ある特殊な成分に非常によく似た配列らしい。
その解析結果と、ヴィヴィアンが持ちかえった花の成分の調査結果を、憲兵団の監視下で照らし合わせてみたところ。誰もがにわかには信じがたい、だがそうとしか思えない、ある仮説が浮かび上がった。

──フィオラ村のあの“花”の正体は、非常に特異で悪質な、寄生植物なのではないか。
──自他の生きものの体を侵し、その本能を“花”に利のある行動をとるように書き換え。やがて一定以上溜まれば、月の魔力に反応して、その体を凶暴な魔獣のそれへと変えてしまう。そんな恐ろしい作用を持つ、いっそ猛毒とも呼べる花粉を分泌していたのではないか。

そう仮定して振り返るなら、心当たりは様々だ。
──鍾乳洞に巣をつくる、フィオラ村の特別な蜜蜂。本来はどんな蜂も、地上に巣をつくる習性のはずだ。それがフィオラの蜜蜂は、どんな光も差し込まない地下深くに巣を構えていた。あれはおそらく、本来は“花”に洗脳されて受粉を手伝う立場の彼らが、月の光を浴びることで変貌まで遂げてしまわぬよう、夜間は地下に引きこもるように変わっていったのではないか。
──祝祭に参加した最初の宴で卓に出された、あの特別な肉料理。あれはたしか大型魔獣、ヘイズルーンの肉だった。月夜に山々をうろつき回るあの山羊は、何かしらの特殊な酵素を体内に隠し持つらしく、どんな毒草も効果がない。植物であれば皆一様に、美味な乳へと変えてしまう。……だからフィオラの“花”にとって、己の洗脳が一切効かないあの奇妙な草食魔獣は、唯一の天敵だろう。おそらくはそのために、自分の洗脳下にあるもの、特に何度も毒を含んですっかり従順になったものを、月の光をトリガーとして強い魔獣に生まれ変わらせ、“花”を食べにくるヘイズルーンと闘わせるようになったのではないか。本来のフィオラ村が狩猟を生業としていたのも、魔獣化を遂げるまでもなく、ヒトならではの知能や道具で、たびたびやって来るヘイズルーンを屠っていたからなのではないだろうか。
──村の資料館のタペストリーの、ぐるぐる目をした村人たち。あのフィオラ村の祖先たちは、数百年前の世界で迫害を受けたときでさえ、“花”を忘れずに持ち出していた。あの刺繍群の最後でも、“花”はやたらと神聖そうに縫い込まれていた筈だ。きっとそのときから、始まりの祖先の時から、彼らは花粉に毒されて、“花”に魅入られていたのだろう。……そもそもかれらは、どんな理由で迫害を受けていたのか。もしかしたらきっと、ロウェバ教を中心とした宗教弾圧が激しかった大昔に、“花”を崇める異教を掲げていたのではなかろうか。
──それからあの、ジョルジュ・ジェロームの日記に綴られていた凄惨な最期。あれはおそらく彼の体が、フィオラ村の花粉に対してアレルギーを来たしたせいだ。滞在が長くなるにつれ、最初は順応できていたジョルジュ・ジェロームの肉体は、フィオラ村に蔓延している“花”の花粉の異常さに気づき、激しい免疫反応を引き起こすようになったのだろう。ただでさえ他の生物の肉体をそっくり改造してしまうほどをど強力な毒なのだ、相応の苛烈な反応が起こってもおかしくない。
──だとすれば、フィオラ村の人々が行っていたあの近親相姦は、一種の生存戦略的な文化だったのではないか。“花”の毒に侵されて尚生き残れる者たちで子孫を作っていくうちに、“花”に対するある種の免疫、自己破壊には至らないまま“花”を愛でていられる体を、獲得したのではないか。

しかしこの世には無情にも、生物濃縮というメカニズムがある。
毒の海で育った小魚を、それより大きなレモラが食べ。そのレモラをメガロドンが、メガロドンをドラゴンが。そう言った食物連鎖をするうちに、最初は僅かだった毒が、後々の生物の体内にどんどん蓄積されていって、より高濃度になっていく。そして時にその猛毒は、母胎から子へ継がれてしまう。
フィオラ村の人々は、おそらく数百年もの間、あの“花”とともにに生きてきた。その花粉を吸い続けて、何もないわけがない。無自覚に花の守り人となりつづけ、やがてはそれを利益のために悪用しだしたその先に。ただでさえ近親相姦で高め続けた花の毒が、あとはエデルミラが大鍋に盛った僅かな秘薬のひと押しだけで、臨界点を迎えたという可能性が、限りなく高いのだ。
イクセルはあの日、魔獣化の秘薬をとうとう口にしていない。なのにその体には、既にあの“花”の毒が一定程度溜まっているとわかった。だとすればそれは、イクセルが先祖代々、知らずに受け継いできた毒だ。そしてイクセルが将来的に、もしもフィオラのだれかと結婚していたのなら。その息子や娘の体には……イクセルよりも多くの毒が、生来宿っていたはずである。──フィオラ村はきっと、今回の事件がなくとも、いずれ数世代のうちに、皆魔獣化して滅んでいたのだ。
しかしそれでも、かれらの“花”や、彼らがこの世に編み出した秘薬の製法はなくならない。ならばいずれ、連絡の絶えたフィオラ村を、あの取引先のいずれかが訪ねては、遺されたそれを手に入れてしまっただろう。そうなると、もっと恐ろしい大事件が、もっと恐ろしい連中によって引き起こされた未来も有り得る。……結果論でしかないにせよ、今回のヴァランガ調査は、それを防ぐ最後のチャンスをぎりぎり逃がさなかったのだ。

──故に。調査隊が山を下り、通報を入れた後は、然るべき機関、然るべき者たちが、即座に水面下で動きはじめた。
ここ数カ月のヴァランガ地方は、いよいよ厳冬の雪に閉ざされ、もう何者も立ち入れない。だがひとたび春を迎えれば、きっとかつての取引先も再びフィオラに秘薬を求め、その惨劇を知るだろう。タイムリミットはそれまでとばかりに、今日も国内のあちこちで、憲兵団の諜報員が、魔導学院の研究者が、警察の名刑事が、公認協会の古強者が、皆この事件を追っている。互いの顔すら見知らぬ者も多々いるだろうにせよ、しかしその志は、ぶれることなくぴたりとひとつだ。──明日の平和を守りたい。家族や友人、知人、そこらの赤の他人でもいい。誰もが安心して過ごせる日々を、不完全でも愛しい社会を明日も続けていけるよう。日陰のうちに悪を下して、この戦いを乗り越えたい。
ギデオンとヴィヴィアンもまた、キングストンに帰還してからしばらくの連日連夜、私生活を投げ打っての事後処理に奔走した。山のような報告書に、何度も繰り返しの事情聴取、記憶を掘り越してのマッピング、査問会、再現見分、エトセトラエトセトラ。求められる協力をひたすらこなしつづけるうちに、会えない日々、帰れない日々も、何度続いたかわからない。

そうしてようやく、ふたりがそれぞれ帯びた使命を、一度すっかり果たし終え。少なくとも私的には、長かったヴァランガ調査を完了することができたとき。……本当はふたりで、ちょっと良いところに小旅行でもしに行って、お互いを労おうかと計画していたはずだったのだ。しかしふたりとも、いざお互いの顔を見るなり、そんな考えは吹っ飛んだ。
──帰りたい。籠りたい。一刻も早く、サリーチェの家に。
引き合うように抱き締めただけで、それがひしひしと伝わった。互いに同じ思いだった。
半年前にふたりで住みはじめた、あの麗らかなラメット通りの一軒家。今のギデオンとヴィヴィアンにとって、他でもないあの空間こそ……既に思い出がたっぷり詰まった、心安らぐ場所だったのだ。)







(それは、その日の夕暮れどき。聖バジリオ記念病院の真っ白な廊下にも、温かなオレンジの西日が格子状に差しこみはじめ。いよいよ他の見舞客も、ちらほらと帰り支度を始めたころのことである。
ギデオンはひとり、用があった受付からヴィヴィアンの病室に戻っていくところだった。数日ぶりの見舞いだったが、今日は随分長いこと彼女のために居ついている。その上さらにとある申請をしたことで、悪戯っぽい顔をした受付のご婦人には、何やら変化があったのをちゃっかり見抜かれてしまったようだ。こちらの何か言いたいのを自重して綻む口許に、対するギデオンのほうはといえば、なんだか居た堪れない気持ちで視線を僅かに逸らしたが。……今までと違うのは、他人のこういい揶揄うような反応に、上辺ばかりの焦燥感を抱かなくなったことだった。我ながら以前の自分に呆れるようばかりだが、それだけ自分の心境が大きく変化したのだろう。
──後輩ヒーラーのヴィヴィアンと組むようになって一年。ギデオンは最初こそ、彼女の無邪気で獰猛な好意を躱しつづけたはずだった。しかしいつしか彼女に絆され、様々な日々を共有しながら、やがて本当に憎からず想いはじめた……その矢先。あの因縁の悪魔の事件で初めて彼女を失いかけて、そこでようやくギデオンは、それまでの自分の愚かさに気がついたのだ。
あんな思いは、もう二度としたくない──故に今のギデオンは、いっそ腹が据わっている。とある聞き込みをしたことで、ギルドの連中や旧友たちには、最近おまえらいろいろありすぎてもういったい何なんだ、何が何だかわかんねぇよ、と狼狽されてしまったもの。ああ、別にこんな手合いは気にする必要もなかったのだと、そんな当たり前のことに今更のように気がつきながら、ただ淡々と質問を重ね。──その成果をひっさげた上で、今日は彼女を見舞いに来たのだ。)

……ヴィヴィアン、俺だ。

(そうして、馴染み始めた病室の戸をノックしてから声をかければ。内側からの声に慣れた様子で病室に入り、馴染みの丸椅子に腰かけたはいいものの。今日持ち込んだばかりの人気店の焼き菓子が、まだ辺りに馥郁とした甘い香りを漂わせているものだから、甘党ではない己でさえ、思いがけず腹が微かに鳴いてしまう。──そういえば、今日はいち早くここに駆け付けたかったから、朝飯もそこそこに街道の馬車に乗り込んだんだ、と。少しはにかんだように言い訳してみせながら、ふと立ち上がって傍らの棚に歩みより、鉄製の水差しを魔法盤の火にかけて。)

なあ、悪いが。
そこのポットで茶を淹れるから……今日の検査結果の話は、そいつをつまみながらにしないか。



  • No.821 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-08 22:45:24 




……あっ、ええ! もちろん、……。
私の方こそ気が利かなくってごめんなさい。

 ( 私淹れますよ、と立ち上がりかけたのを制されてしまったその代わりに。『オ・フィール・デ・セゾン』のロゴが入った箱を手にとり、しっとり香しいマドレーヌ2つうち、焼き目が綺麗な方をギデオンの皿へと滑り込ませれば。魔法盤の前に立つ頼もしい背中にほうっと見とれてしまうのは、先程2人の関係が明確に変わったばかりだからだ。キングストンから馬車で6時間、貴重な時間を割いて来てくれた相棒……恋人、が、隣でお茶を淹れてくれている。──まだ、暫くここに居てくれるってことだよね、と。子供たちのお見舞いにでも行ってきたのだろうか。一度席を外した後にもう一度帰ってきての、ただの上司部下では有り得ない、明らかな親密さを表す滞在時間に、どこか現実味なく火照った頬を両手でもちりと抑えると。おもむろに振り返ったギデオンに慌てて姿勢を正して、簡素なティーカップをソーサーで受け。 )

──ありがとうございます。
でも、もう随分良くなったんですよ。
今日の検査で先生も退院を考えていいんじゃないかって。

 ( 来週の土曜日でちょうど保険が切り替わるので、手続的に金曜日かな、と付け足したのはあくまで若ヒーラーの浅慮だが。キングストンに2人で帰る。やっと果たせるその約束に退院後のことへ思いを馳せると、普段より少しあどけない印象の目尻を、更にへにゃりと柔らかく下げ。入院中は中々こうしてゆっくり話す時間も取れなかったが、キングストンに帰ればまたギルドで顔を合わせられるだろうし──……もしかして、お休みの日にもデートとかしてもらえちゃったり、して……!! なんて、桜色の小さな爪がついた滑らかな足でとたとたと嬉しそうにシーツを鳴らし、自分に都合の良い妄想に耽ったのもつかの間。本日、ギデオンが来てくれてからというもの、時に乙女らしい葛藤に苛まれながらも、ずっと楽しげにはしゃいでいた表情に少し影が刺したのは、その肝心な帰宅先、ビビの馴染みの下宿先のことを思い出したからで。それまで、御年今年で90だとは思えない矍鑠としたおばあ様が管理していた関係で、好立地にも関わらず女性限定で居心地の良かった下宿先だが。今年の春、とうとう運営を息子さんに譲ることになってから、隣の部屋に男性の入居が決まっていたのだ。未だ挨拶を交わしただけの関係で、決して悪い人物では無いのだが──そう、ごくごく健康的に肉食系な隣人を思い出して、会話に不自然な間が空いてしまったことに気がつくと。「あ、やっぱり美味しい! ありがとうございます、並んだでしょう?」と、一口サイズに割ったマドレーヌを口に含んで見せて。 )

とはいえ、暫くは安静にしてなくちゃいけないみたいなんですけどね…………いえ、随分お部屋開けちゃったからお掃除大変だろうなって、思って。


  • No.822 by ギデオン・ノース  2024-10-09 09:38:32 




……なあ、そのことについてなんだが。

(「そんなでもないさ。暖かくなったしな」なんて雑談に応じていたが、相手が誤魔化した小さな憂いは、しかし決して見逃さなかった。せっかくの綺麗な焼き菓子、自分が言いだして出させたものに、手を付けようとしないまま。いやに真剣な面持ちで慎重に切り出して、相手がきょとんとでもすれば、丸椅子に腰かけたまま、一度きちんと向き直る。「大事な話があるんだ、」と。
──相手と恋仲に踏み切ったのは、つい数時間前の昼下がり。それだというのに、その日の夕方にいきなりこんな持ちかけに及べば、彼女を怯えさせないだろうか。何より社会的に見て、あまりにも性急だろう。四十年生きてきたギデオンの常識は、いっそ蛮行だと自ら厳しく糾弾する。そんな諸々を渦巻かせながら──それでも決して譲れない、もうこれ以上悠長に躊躇ってなどいられない。そう再三風にも考えたから、“これ”をはるばる持ってきたのだ。
棚の上に置いてある自分の革鞄から取り出し、ますは相手の手元に置いて、その目で直接見るようにと促したその紙束は。──絵具ないしは製図用インクで描かれた、建物の図面である。それも、ひとつふたつではない。広々とした間取りが売りのアパートや、前庭の緑豊かなタウンハウス、瀟洒な外観のメゾネット、ゆったりとした一軒家まで。いずれもキングストン市内、それもカレトヴルッフにほど近い立地を誇る、超優良の物件ばかり。しかも各々家賃やら、敷金礼金やら、最寄りの馬車駅への所要時間やら……そんな様々な情報が、いっそ網羅する勢いで細かく記されているあたり。これはもう明らかに、入居希望者に向けて作った、不動産屋の案内だ。
何故こんなものを、と相手に問われるその前に、再びヴィヴィアンの目を間近な距離でじっと見つめる。そのアイスブルーの瞳に込めた熱だけでも、きっと明白に語れたろうが。……他でもないヴィヴィアンから、先ほど大事だと教わったばかりだ。窓辺の夕陽に見守られながら、相手の片手にそっと己の手を重ねると。今一度、その想いをはっきり言葉にしてみせて。)

ヴィヴィアン。
──俺と、一緒に暮らさないか。



  • No.823 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-09 16:12:05 




……、…………?

 ( もしこの時のビビの心象風景を覗くことが出来たならば、それはそれは壮大な宇宙の果てを垣間見ることが出来ただろう。一緒にって、一緒に……ああ、我々は同じ星という宇宙船に同乗している仲間的な……? と、一瞬。あまりの提案にぶっとびかけた思考を何とか地上に戻してくれば、その顔に未だ色濃い困惑を浮かべたまま、「それは、将来的に……ってこと、ですか……ね?」と。それでも、かなり気が早いとは思うのだが、比較的常識的な落とし所を見つけ問いかけてみるも。そうして絞り出した問いかけを否定されてしまえば、再び白い唇を震わせてパクパクと声にならない声をあげ。 )

あ……いえ、その、ごめんなさい、ええっと……驚いちゃって。

 ( そうして、それまで次の一口に進もうとしていた焼き菓子を皿に置き、思い出すのは──20代のうちに子供を産みたいとするじゃない? と、いつか同い年の魔法使いが女子会の名を冠した飲み会でクダを巻いていたうちの一言。別に、DVとまではいかなくても、なんか違うのよねって人と一生生きていくのはお互い不幸だから、子供を産むまでに最低1年は時間を設けたい。じゃあ遅くとも28には結婚するために、生活スタイルが合わなかったら困るから、また1年期限を設けて同棲したとするでしょう? そうしたら付き合った当日に同棲する訳にもいかないから、26
までには結婚を前提としたお付き合いを始めないといけなくて……とまあ、要は意外と時間が無いという、何の個性もへったくれもな年頃女の焦燥混じりの皮算用だったが。目の前の男の提案と比べれば、よっぽどマトモな考えだったと思わざるを得ない。決して嫌だというわけじゃないが、あまりにも──……もしかして何か、ビビの知らない制度的な事情とかがあるのだろうか。それに社会的な常識さえ差し置けば、大好きな相手と、そしてやはり例の下宿に帰らなくていいという安堵が、やっぱり良いかも……と。弱みに付け込まれた思考を血迷わせかけたのを、再度冷静の引き戻してくれたのは皮肉にも、2人の生活を夢見た具体的な妄想の方で。検診的な先生や看護婦さん達の丁寧な治療のおかげで今日び発作を起こすことは無くなれど、未だ免疫機能が弱っているのだろう。本日体調が優れていたのもタイミングが良かっただけで、退院後も度々ただの風邪で熱を出し、数日寝込んで相手に迷惑をかける頃を想像すれば、申し訳なさそうに頭を振り。 )

……いえ、でも、やっぱりすぐに、という訳にはいかないと思うんです。
大分回復したとはいえ……もう大丈夫、大丈夫なんですけど、まだ寝込んじゃって動けない日もあるし……


  • No.824 by ギデオン・ノース  2024-10-11 01:33:50 




だからこそだ。そのあいだ、おまえを助ける奴が必要になってくるだろう?
友人が多いのは知ってるが……夏前のこの時期だ。皆除草依頼だなんだで、あちこち駆り出されっぱなしだろうし……仲良くしてた隣の住人だって、今は地方公演に出てるって話だったよな。

(相手の遠慮がちな声に、しかし想定内と言わんばかりの穏やかな声音をさらりと返す。……その除草依頼だなんだがどの程度降ってくるのか、だれがどれほど王都を離れるクエストに出るのか、上級戦士であるギデオンは、もちろん事前に聞き知っている。それを自分の好きなように都合する暴挙には、流石に及ばないにせよ。その代わり、話の成り行きを静観し、口を“出さない”でおくことならば、いくら重ねても問題はない。それから、相手のお隣のことだって。何かの話題についでに彼女がぽろっと言ったのを、二月だったか三月だったか、当時は軽く聞き流して終わったはずだが。この具合の良い頭は、その必要さえ生じれば、どんな些細な情報もこうしてたちまち掘り起こし、便利に引用してしまう。
愛しい相手に、嘘はつかない。だがその代わりに、ほかの手段を躊躇いもしない。別に酷くはないはずだ──事実を優しくあげつらい、相手の心もとなさを丸裸にしてやるだけで。
もしもこの場にマリアやエリザベスがいたならば、ギデオンのそんな卑怯なふるまいを、決して許しはしなかったろう。しかし今この病室に、哀れなヴィヴィアンは当の己とふたりきり。故にこちらは、じわじわ布石を配しながらも、焦る必要がどこにもない。その腹のうちを気取られぬよう、あくまでごくのんびりと、寛いだ様子を見せながら。相手の手元にある資料に触れ、それにもう一度軽く目をやるふりをしてから、今度は再び相手を見遣る。──急な誘いに竦んでいるなら、今度は少し距離を置き、安心させればいいだろうか。いかにもしおらしく引き下がると、それでも酷く名残惜しそうに、強請るように首を傾げて。)

何も、すぐに引っ越そうってわけじゃない。退院した後、おまえの体調が落ち着くまでは、ゆっくり様子を見るべきだろう。
……それから、おまえの気が向かなかったら、やっぱりやめると言ってもいいんだ。いつだっていい。おまえが嫌だと思うことを、無理強いすることはしない。
……だが、別にそういうわけじゃないのなら。そうだな、ほんの試し程度に、物見遊山で……行ってみないか。




  • No.825 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-12 09:10:07 




…………ギデオンさん、

 ( 手練手管をこまねいて、用意周到に逃げ道を潰しにかかったギデオンの脳内で、この時ビビはどんな反応をしたろうか。あげつらわれる不安要素にか弱く怯え、素直にその腕の中に堕ち往くか。それとも手強く強硬に突っぱねたろうか。しかし、根本からしてギデオンを疑うという機能が未発達なヴィヴィアン本人はと言えば、ギデオンの『だからこそだ』という言葉に、大きな瞳をぱちくりさせたかと思うと。丁寧に並べたてられる"まるで自分事のように真剣に、ビビのことを考えてくれた言葉達"に、次第にもじもじと顔を赤らめ出して。尚も重ねられる"優しい思いやり"に上半身を乗り出すと、太い首に腕を回して力いっぱい抱きついて。 )

嫌なわけないです!!
こんなに真剣に考えてくださるなんて……嬉しい、
ありがとうございます、大好きです!!

 ( そっか、ギデオンさんは忙しいから、私の部屋まで看病に来るのも難しいもんね、という盲信は傍から見ればツッコミどころ満載だろうが。束の間の戯れを楽しみ、ゆっくりとベッドに腰を下ろせば、るんるんぽやぽやと時折、「えへへ」と締りのない笑みを漏らしながら改めて書類を眺めて。──ここはお庭が広いんですね、だとか。キッチンからリビングが見えるの素敵! だとか。賃料や共益費、その他諸々の雑費等の月の予算を正確に読み取ることが出来れば、元々白い顔から更に血の気を失せさせたろう物件たちを楽しげに眺めているのは、ただ単純に読み方がわかっていないだけらしい。途中から相手の肩にくたりと凭れて、ギデオンの補足説明に耳を傾けること暫く。久しぶりにはしゃぎすぎたのだろう、少し眠そうに熱い掌を相手のそれに重ねれば、少し掠れた小さな声をギデオンに聞かせる気があったかは微妙なところで。 )

行ってみたい、けど、本当に甘えちゃっていいのかな……



  • No.826 by ギデオン・ノース  2024-10-13 13:16:08 




(みるみる笑顔を綻ばせたヴィヴィアンに飛びつかれ、思わず──他所だと真顔でいるばかりのギデオンにしては珍しく──白い歯を爽やかに見せ、笑い声をあげてしまう。これだからこの娘は手強い。彼女がまっすぐ寄せてくれるこの信頼感、安心感。そのとびきりの純真さを前にして、どんな邪な心構えも、虚を突かずにいられようか。事実、「俺もだよ」と応えたギデオンのまなざしには、もはや一切の混じり気がなく。ただただ、相手への愛おしさに満ちあふれているのみで。
ふたり睦まじく頭を寄せ合い、資料片手にゆったりと喋って過ごす、寛ぎのひとときののち。夕闇がゆっくりと一日を綴じていくなか、ヴィヴィアンの呼吸は、いつしか酷くゆっくりと落ちつき。その柔らかくしなだれる体も、まるで幼い子どものようにぽかぽかと温もりはじめた。たったそれだけの些細なことに、己の胸がまたぐうっと深く満たされるのを感じつつ。「……いいんだ。俺の本望だよ」と、相手の旋毛に唇を乗せて囁き。
くっついていた体を、相手の傍からそっと引く。彼女がこちらを見上げれば、表情や手振りを使い、ベッドの中にきちんと入り直すよう促して。それですんなりか、渋々か、とにかく相手がそのようにすれば。清潔で柔らかいデュベを、上からたっぷり掛け直してやってから、再び傍らの丸椅子に落ち着き。)

必要なことは、俺がちゃんと済ませておく。だからおまえは、退院するその日まで、ゆっくり休んでいてくれ。
……おまえが一日でも早く元気になることが、俺にとっていちばんの朗報だ。だから、楽しみに待ってる……おやすみ。

(……窓の外の残陽が紫色に沈んでいくのと、相手が瞼を下ろすのと、はたしてどちらが先だったろう。いずれにせよ、愛しい娘が安らかに寝つく、その瞬間を迎えてからも。ギデオンは彼女のさらさらした額を、ずっとなだらかに撫でつづけていた。)



(──それから、しばらく後のことだ。
ヴィヴィアンがついに退院を迎えた。悪魔の害を受けた魔経は既にすっかり回復し、それに伴う体の不調も大方マシになったらしい。それでもまだまだぶり返す恐れはあるので、帰宅数日は安静に、できるだけ動かずにのんびりと休むこと──医師からのその説明に、片眉を上げて彼女を見遣る。な、俺の出番だろう? と、堂々と言わんばかりだ。
ちょっとした一幕もあった。病院側からふと別室に呼び出されたのだが、ご丁寧に弁護士付きで、折り入って何かと思えば。──院長からじきじきに、「聖バジリオの会計係が貴方に不正を犯していた」と告白されたのである。
……今は元気に院内の庭を駆け回る、13年前の悪魔の事件で寝たきりだった子どもたち。その巨額の医療費を、事件に関わった当事者として、ギデオンは払いつづけていた。しかし誰もが与り知らぬうちに、その請求額がいいように水増しされ、抜かれつづけていたのだそうだ。その賠償の差額分は、これから精査した上で、きちんと返金されるという。再三深々と謝罪する院長に動揺し、どうやって判明したのか、とそちらに水を向けてみれば。院長は何故か、ギデオンの横に視線をやった。ギデオンも真横を向いた。……黒革のソファーの上、ちょこんと座ったヴィヴィアンが、如何にもばつが悪そうに、盛大に目を逸らしていた。
──横領事件に気がついたのは、何と他でもない、己の相棒だったのだ。ふとした立ち聞きから横領疑惑に気づいた彼女は、その被害者がギデオンであると知って、いてもたってもいられなくなったらしい。どうにか突き止められないかと奔走するうちに、あの少年たちも探偵団として志願してきたり、ひょんなことから交流を盛った彼らの家族も協力してくれたり、果ては王都のカレトヴルッフも郵便づてに巻き込んだり……と、そこにはなかなかのドラマがあったそうなのだが。ただその過程で無理がたたり、発作を起こしてしまったこともなくはなかったと聞かされて、肝が冷える思いだった。
とはいえ、諸々呑みこんでため息をつけば。「これでおあいこだな」と、一枚の薄い紙を相手にぴらりと示してみせて。──それはヴィヴィアンの入院費の、ギルド保険を適用してなお高額な請求書である(魔弁の再形成には最新医療が使われる以上、致し方のない話だろう)。しかしその支払いの名義は、他でもないギデオン・ノース。ヴィヴィアンに同棲を打診したあの日、病院の受付に寄っていたのは、この手続きをするためだったのだ。
結局己もヴィヴィアンも、変なところで瓜ふたつとしか言いようがない。相手がそうと知らぬところで、相手の事情にがっつりと首を突っ込み、相手の力になりたがる。どれもこれも、相手が好きで好きで仕方がないせいなのだ。それをつくづく思い知り、ついに病院を出てからも、たまらず同時に吹き出せば。ふたり密に手を絡め、またお喋りに花を咲かせて……小径にあふれる木漏れ日のなかへ、のんびりと歩いていった。)

(──さて。聖バジリオのあるケルツェンハイムから、王都キングストンまでは、街道馬車で6時間。病み上がりの人間には、なかなか体に堪える長距離だ。
故にギデオンの提案で、帰りは一泊することにした。場所は宿場町インバートフト、この時季は若々しい川魚が獲れることで有名である。美味しいものには少しばかり関心の高いギデオンも、別にそれを目的としてここに定めた、というわけではないのだが。町の馬車駅で途中下車し、宿の記帳を済ませると、ヴィヴィアンと連れ立って、その隣に連結している料亭に入ることにした。
これがもう少し大通り沿いの店だと、なかなか酒杯の捗る飯を、しかも安い値段で様々に食べ比べできる楽しみがあるのだが。あちらは全国の酒飲みがうきうきと集うせいで、どうにも賑やかすぎるところが難点だ。──その点、こちらの店は良い。川辺に面した東洋風の広い個室で、運が良ければ蛍の光でも眺めながら、ゆっくり静かに舌鼓を打っていられる。何よりこのまま眠くなっても、すぐそこの廊下を進めば、後はベッドに倒れ込めばいいだけだ。
こんな贅沢な造りをしているのも、元はと言えば、昔の貴族が王都に参勤するときに使っていた店だからでな。俺たちのいるまさにこの部屋なんて、昔あのフランシス・ボルドが、ニコロ・デ・ロベルトとの密談でよく使っていたらしい……。そんな話題を披露しながら、相手の注文した魚料理の身をほぐし、骨を除けてからそちらに渡すと。ともに楽しめるようにと頼んだ弱い花酒の杯を呷り、ふうとひと息ついてから、座敷の軒越しに夜空を見上げる。幸いよく晴れていて、手を伸ばせば掴み取れそうな星々が、赤紫色の空にちらちら瞬きはじめていた。──今なら、願いが叶うだろうか。)

……なあ。帰ったら、しばらくおまえの家に通っても構わないか。
料理だったり、洗濯だったり……まあ、後者は俺が直接やるわけにもいかないから、公衆洗場に持って行くことになるだろうが。
ギルドのほうにもまだまだいろんな申請が必要だ。そうなると、書類を出しに行くための人手が……おまえには必要だろ。



  • No.827 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-16 23:34:11 




 ( 今晩の宿をギデオンから、当初夕食付きの宿を取ってあると聞いた時、ビビが想像したのはよくある飲み屋の上に簡素な部屋だけがついた安宿だった。少々階下が騒がしいのは難点だが、それなりに経済的で冒険者には馴染みの深い様式を、キングストンに帰るまでの中休みには丁度良い塩梅だと勝手に納得していたものだから。見知らぬ土地をキョロキョロと、目に映るもの全てを新鮮に楽しんでいたビビの視界に、その客を呼び寄せる気を微塵も感じさせない高級な門構えが飛び込んで来た上、その垂れ下がった幕の奥へと他でもないギデオンにエスコートされてしまえば。素直にぽかんと口を開けて、たっぷり数秒ほど呆けてしまったのも実際仕方の無いことで。
どうやって客を管理しているのか、ギデオンとビビを見るなり帳簿などは一切確認せずに、「いらっしゃいませ」とにこやかに微笑んだ女将に通された室内は、異国のそれでも、一目で上等だとわかる調度で嫌味なく整えられ。そのまま一通りの設備を最低限の言動で説明した後、「ごゆるりと」と、そのスライド式の扉が締められるまで、女将の視線には此方の関係性を勘繰るような色さえ、個人的な感情合切は微塵も浮かべられなかった。最近気が付き始めたのだが、意外と過保護なギデオンのことである。これがただ高級な宿であったら、ビビもどう平等にここの支払いを片付けるかを考えつつ、ごくごく自然に受け入れたろうが。この宿はこれまでビビが慣れ親しんできた首都の高級ホテルともまた違う、酷く、酷くプライベートで、外界の分断を強く感じさせる空間にそわつくも。岩魚をメインにした上等な食事に、ビビ好みの興味深い話題、そして、極めつけに香り高い花酒の香りに包まれると、当初抱いたはずの違和感が次第に霧散しゆくのは、果たして偶然のことだったのだろうか。
独特な作りをしたこの大厦は、一度部屋に入れば完全なプライベート空間として、食事の間からベッドのあるへ部屋、そして贅沢にお湯を張った浴室まで、他の客どころか、従業員とも此方から呼ばない限り顔を合わせることが無い作りになっているらしい。故に食事前に良い香りのする木のバスタブで旅の疲れをゆっくり癒した後は、これも東洋のものらしい白いアイリスが眩しい紺色のガウンのまま、ゆったりと食事を楽しむことにして。 )

それ、は…………、

 ( 花酒の盃をそっと置いた娘の濡れた赤い唇から、ほう……と、心底困ったような吐息が漏れたのは、夜空を見上げたギデオンが問いかけた時だった。『必要なことは、俺がちゃんと済ませておく』その宣言の言葉通りに、病室で迎えたあの日以降、ビビはギデオンからずっと……ずっっっと、世話を焼かれ続けている。自らの行為の後ろめたさに、とうとう取り返せずに諦めた治療費の請求書を始め、インバートフトでの一泊だって、歩くビビの腰にごくごく自然に腕を回して支えながら提案されたその時点では、本当に心配性なんだからと内心笑えていたのに。この宿場町へ、御者の到着を伝える声が響いた時に、己が酷く疲れていることを自覚してしまえば、いっそ恐ろしささえ感じてしまって。
今だって、当然の如く解されてから渡された魚に、流石にここまでされる必要は無いと思う理性だってあるにも関わらず、その宝物を扱うような振る舞いを嬉しく感じてしまう自分に、何か不可逆の恐ろしい変化を感じ取れば。──あくまで、ギデオンさんは病み上がりだから心配してくださっているだけなのに。そう、星を見る男の視線とは裏腹に、植物で編まれた絨毯(?)の上へと、不安げなエメラルドをさ迷わせると。いつの間にか、ガウンから覗くうなじまで桃色に熱を持った肌を、その頬をもちりと首を傾げて押さえれば。ビビより余程酒精には強いだろうに、何やら酷く満足気なギデオンの様子に、困惑に潤んだ瞳をしっとりと向け。 )

ギデオンさんさえ良ければ……構う、ことは、ないですけれど。
あのね、そんなに甘やかされたら、1人で生きていけなくなっちゃいそうで、
それは、その、困るわ……。



  • No.828 by ギデオン・ノース  2024-10-18 00:31:53 




…………。

(『困るようなことなのか』──そんな台詞が、いやに冗談味のない声音が、思わず口を衝きかけたものの。
いつぞやの小さな焚火の傍とはちがって、今宵のギデオンは冷静だった。故にその薄い唇を、かすかに開きかけたそのまま。──違う、だとか、まだ時機でない、だとか。一瞬さ迷った青い視線を、澄んだ星空から庭先の闇へ引き下ろす。そうして、立てた片膝にあずけた手元で、酒杯を揺らすふりに興じてみせることしばらく。……姿勢だけは相手のほうに軽く傾け、如何にも寛いでみせることで。別におかしなことを言ったわけではないのだと、相手を安心させられるだろうか。
幸い辺りの草叢では、初夏の虫がよく鳴いていた。りぃ、りぃ、りぃ、りぃ、りるるる、りりりり……。その絶え間ない弦の音色の美しさは、会話のあいだの静けさを彩るのには充分だ。──ああ、そうか、と。古今の人々がこの一室で夕餉を囲んできたわけが、不意にわかったような気がした。思わずふっと苦笑が漏れる。まさか、こんな形で最後列に加わるとは。……だが結果的に、ここを選んで正解だったというわけだ。
そうして余裕ができて初めて、ようやく膳越しに隣を向いた。今ならようやく落ち着いて眺めていられる、髪を結い上げた軽装美人。そのその湯上りのまろい頬は、尚もいじらしく染まっているし、こちらを見つめるエメラルドときたら、恥じらいの湿り気をとろんと帯びたままである。──その上、あんな殺し文句まで囁いてくるときたのだ。これで病み上がりでなければ、己はどうしていたろうか。
可笑しさに喉を震わせながら、「困るようなことか?」と。今度こそその台詞を、だが随分と軽い口調で投げかけた。あれこれ楽しげに口にするのは、過去の出来事──もとい、思い出。その流れでふと思い出したように、青鈍色のガウンの片側を軽くとはだけさせ。相手にも見えるようにと、首を斜めに傾けて伸ばしながら、己の右肩の古傷を晒し。)

このくらいでそんな顔をしてくれるな。おまえだって、今まで散々俺を助けてくれてたろ。
風邪を引いて倒れてたとき、腰をがっつりやったとき……ああ、それから。
──ここに喰らったやつにしたって、おまえなしじゃ、俺はもうとうに生きていないぞ。



  • No.829 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-19 12:50:48 




ひゃ、~ッ、

 ( 耳を疑うほど情熱的な台詞を吐く目の前の美人は、今日だけではなくここ最近、何故かずっと、ずっと上機嫌に見える。そのままおもむろに、己の前襟をはだける仕草も、あまりに艶然として、何かいけないものでも見てしまったようで。それこそ、今まで何度も治療で見ているだろうに、堪らず悲鳴をあげながら赤い顔をぱっと両手で覆い隠すと。「しま、しまって、ください……」と懇願する声の弱々しいこと。嫌なわけでも、相手が怖い訳でもない。ただひたすらに、己の未熟さが、向けられる視線の甘さが恥ずかしくて。ふたりと外の世界を隔てるものは、薄い紙製の扉一枚だと云うのに、空間の特殊な性質上か、もっと大きな乗り越えられない何かに分断されてしまったかのように感じられて、急に心細い想いにかられると。かといって助けを求められる相手は、今自分を追い詰めている相手しかいないのだから皮肉なものだ。そうして、それまでぴんと背筋を伸ばして、真っ直ぐに座っていた脚を崩し、左手は未だ火照った顔を半分隠したまま、右手でギデオンの襟元をそっと正すと、 )

違うんです……

 ( そう必死に頭を横に振りながら思い浮かぶのは幼い頃、未だ何も知らずに自由に振舞っていた時代のことで。忙しい父を引き止めては、構ってくれなきゃ嫌だと駄々をこねる度、優しい父は表立って嫌な顔をすることはなかったが、どれだけ困らせてきたことだろう。あれから、年月が幾年も流れても、自分が本当に求めるものが幼少期から大して変わっていないことは薄らと自覚している。寂しいのは嫌、毎日無事に帰ってきて欲しい、食事を一緒にとって欲しい、たまには寝るまで手を繋いで一緒にいて欲しい……お金や特別なプレゼントが欲しい訳じゃない。だからこそ、お金で解決できない。忙しい相手に、子供みたいな駄々をこねる自分を想像して、ぞっと顔に集まっていた血の気を一気に散らすと。それまで顔を抑えていた左手も下ろして、両手を胸の横でぐっと握ると、良い言葉が思いついた、と少し満足気な、得意げな表情でギデオンに説明して。 )

私、すっごくワガママだから! 甘やかしちゃダメなんです……!
きっと、もう、どんどん我慢出来なくなって、すっごいお願いしちゃうから……ね? 困るでしょう?


  • No.830 by ギデオン・ノース  2024-10-21 09:50:36 




…………。

(甘やかしちゃ“ダメ”、だなんて──しかもそれを、自分は正しく自覚できたとでも言わんばかりの表情で。先ほどまで愉快気に寛いでいたギデオンの面差しは、ほんの一瞬かすかに曇った。……あれは去年のいつごろだったか。『シャバネ』で聞き込みを終えた後、魔力切れで震える指を、彼女は必死に隠そうとしていた。あのときとどこか同じに見えるのは、はたして己の気のせいだろうか。
薄青い視線を外し、しばし思案を巡らせる。しかし数秒と経たずに、無言の手酌を注いで呷り。杯を置き、ひと息ついたその口で、相手をまっすぐ見つめながら、ごく静かな声を返す。「ああ、そうだな。“困る”、だろうな」。……しかしその目の奥には、文脈にそぐわぬような、優しい光が込められていて。)

……俺は、てっきり。そうやって困らせあうのが許される関係に、なれたものだと思っていたが。
おまえのほうは、違ったか。
……俺の勝手な、思い上がりだったか。

(そうして、相手の答えを待たずして手を伸ばし。絡め取った相手のそれを、卓の上にゆるりと下ろせば、ごくやんわりと、上から重ねる。今から交わすこの話は、ここだけの秘密にするとでも言いたげに──或いは、答えないなんてことは選ばせないというように。)

なあ。俺に、惚れた女の望みのひとつも知らない、なんて不名誉を着せるつもりじゃないのなら。せめてひとつだけ、気兼ねなしのおまえの“ワガママ”を聞かせてくれないか。
……知るだけなら、いいだろう?



  • No.831 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-22 00:33:54 



えっ、と…………、

 ( あれ、なんとか上手く説明できたと思ったのけれど、どうやらギデオンの反応を見るに、酷く深刻な方向へと勘違いさせてしまっているようだ。そう優しいアイスブルーから逃れるように苦笑したエメラルドが、あくまで鈍感に伏せられる。"困らせあうのが許される関係"。これが一時的な体調不良や、何か困った時に頼りあえる関係という意図ならば、ビビもまたギデオンに同意するが──私の"これ"は違うもの。そうへらりと浮かべられた笑みが、しかしぎこちなく強ばったのは、無自覚に引っ込めかけた冷たい指先を、その寸前に捉えられたからで。決して振り払えない程強く握られている訳でも、強く脅されている訳でもない。しかし有無を言わさぬ搦手に、適当な嘘をつくことだって出来ただろうに。"この手の内にいる"時は、逃げられない。どんな嘘も通じない気がしてしまって。 )

……別に、ただ家にひとりでいるのが、……あまり、好きじゃないだけです。
寮と下宿が長いからですかね、落ち着かなくて。
身体が治った後も、私が毎日帰って来て、一緒にいてくださらなきゃやだぁって駄々こねたらどうします?
出張の度に行かないでって拗ねるし、それかついて行くって泣いて聞かないかも……。

 ( なんて、嗚呼嫌だ。結局、言い訳を与えて貰った途端こうして甘えて、こんなのただのあてこすりじゃないか。そう思うと、相手の顔が見れなくなって、ふわふわの前髪の下に目元を隠すと。いつの間にか温かくなっていた指先に微かにぎゅっと力を込めて。 )

ね、それじゃ、"ダメ"なの。"いい子"に待てるように……今から慣れておかなくっちゃ。


  • No.832 by ギデオン・ノース  2024-10-25 01:51:45 




(今にも崩れまいとする、弱々しいのに頑なな声。……その声の持ち主は、果たして本当に目の前の彼女なのだろうか。
ギデオンが知る限りのヴィヴィアン・パチオという娘は、きっと誰もが異口同音に、“太陽のように明るい”と讃えてやまない人物像だ。その燦々と、爛々とした輝きに、この己もまたあてられて、陽向に誘い出されたじはずだ。それほどまでに熱く、眩いはずの彼女が──しかしどうして、今宵はまったくちがっている。
……ちょうど窓の外の夜空の隅にひっそりと浮いている、あの爪痕のように細い三日月。あれが灰色の雲間に隠れ、ただでさえ微かな光がほとんど翳ったのとそっくりに。今のヴィヴィアンは、どこかよそよそしいほど控えめに振る舞いながら、何かに酷く怯えている。──ギデオンにすら、竦んでいる。
そう理解した瞬間、心がすっと静かに凪いだ。「……」と沈黙して答えないまま、己の片手をそっとどける。途端に窓から軽く吹く風、外は幾らか気温が下がってきたようだ。無音で息を吸い込み、吐いて、何も言わずに席を立った。そうして草編の床を踏み、静かに出て行くその先は、部屋の外─なんて、はずもない。
食卓を回って相手の横に来たかと思うと、向かいにゆっくり腰を下ろす。そして衣擦れの音を立て、何事かと相手が見たなら。──両腕を大きく広げたギデオンが、いっそ気取った表情で、何やら待ち構えているだろう。どんなつもりかはそちらが察せと、有無を言わさぬ傲慢な態度だ。それでも流石に補足は必要と思ったか、しばらくぶりに口を開き、何を言いだすかと思えば、)

今おまえの前にいるのは、十六も下の後輩に手をつけた“悪い大人”だ。
常識なんかなぐり捨てて、したいようにすると決めてる。
……そんな男にぴったりなのは、どんな女だと思う?

(──そうして再びわざとらしく、さらに大きく腕を広げる。どら、見ろ、俺の胸はこんなに空いているんだぞ、いったいこれをどうしてくれる、そうひしひしと言わんばかりだ。……それでも相手が躊躇うようなら、如何にも訝し気に首を傾げていたかと思うと。「!」」と、ふと閃いたように、片眉をぐい上げ。「……食事中なのに行儀が悪い、なんて言ってくれるなよ」と、頓珍漢な異議の声を。)



  • No.833 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-26 00:58:20 




( /お世話になっております、ビビの背後です。
本日スマホを! 水没!! させました!!!
一瞬滑らせただけなので無事を祈りたいところなのですが、念のため乾燥中でして、イレギュラーな連絡方法で失礼いたします。
スマホは滑らせるわ、あちらのパスワードは思い出せないわ……あまりに迂闊すぎてお恥ずかしい限りなんですが……
というかパスワードは復活次第すぐに再発行するぞ……、あまりにセキュリティがガバすぎる……。
取り急ぎご報告のみですみません、素敵な本編をありがとうございました。あちらの方もいつも通り楽しく拝読しておりますので、乾燥次第またお返しさせていただきますね。
よろしくお願いいたします! )


  • No.834 by ギデオン・ノース  2024-10-28 00:06:56 




(/遅ればせながら、ご連絡ありがとうございました&こちらの確認が遅れてしまい、申し訳ございませんでした……! こちらでも改めてのお返事まで◎
 背後のほうでも何かイレギュラーがございましたら、どこかしらでしっかりご連絡いたしますね。引き続きのんびり宜しくお願いいたします!)



  • No.835 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-10-29 01:49:31 




…………。

 ( 離れていった温もりに、追い詰められた表情で俯いたのも束の間。隣におろされ直した温もりに顔を上げれば、月光を反射する優しいブルーと目が合って。──この人に相応しくなりたい、必要とされたい。そんな娘の内心を見透かすように、目の前の男はこれ以上なく甘い口実を投げかけてくる。"いい子"なんかでいなくていいと。"いい子"でなくとも、自分は相手に相応しいのだと。これまでずっと重く感じていた鎧を脱がさんとする太陽は、ビビにとってこれ以上なく温かく、容赦なく身を焼くようで。そうして、悪戯っ子のような表情で片眉をあげた相棒の言葉に最後。ふっと小さく破顔した後、その瞳に覚悟を決めるような神妙な光を微かに灯すと。"食事中に席を立たないように。神に感謝して静かにいただきなさい。"と、かつて学院時代に何度も聞いた、そんな些細な言いつけなら、自分にも破れるような気がして。 )

ギデオンさんは、"悪く"……なんか、ない。

 ( そのまま、ただ重力のまま撓垂れ掛かるように、相手の肩に上半身を預けると。「毎日じゃ、なくても良いです……遠征も寂しいけど、大丈夫」そう分厚い肩口にぐりぐりと、丸い額を擦り付けながら漏らした声からは、先程までの強情な色はすっかり消えて失せて。「私、冒険者としての貴方も……好き」と、今更どこか恥ずかし気な告白は、これまで一年間向け続けてきたどの愛の言葉よりも余程小さかったが。大丈夫、ギデオンさんの言いたいことは伝わっている、と相手にもしっかり伝えられるように。それまで相手に肩で塞いでいた視界をゆっくりと上げ、代わりに自ら未だ微かに震える両腕を広い背中へと絡めれば。先程無理に引き出された"ワガママ"とは違う、もっと現実的な、本気で、叶えてもらいたい己の"望み"と真剣に向き合っていたかと思うと、おもむろに。自分でも初めて気づいた結論に、逞しい腕の中、いっそあどけない様子ではにかんで。 )

でも、無理はしないでほしい。身体を大事にして、しっかりお休みもとって……ご飯も、そっちはあまり心配してないけど、ちゃんと食べてね。
それで、その……できれば。できれば、その時、隣にいるのは私がいいなって思うんです……。
……! わたし、あなたの家族に、なりたい……


  • No.836 by ギデオン・ノース  2024-10-29 23:41:09 




(あまりにもいじらしい “ワガママ”の数々に、極めつけがその一言だ。思わず居室の天井を仰ぐようにして仰け反ると、耐えかねたような呻き声を厚い胸板の奥に響かせ。かと思えば、今度はその体躯をぐうと内側に屈め込んで、腕のなかの愛しい娘をきつくきつく抱き締めた。少しばかり苦しいだろうが、こちらとて思い知らせたい。──あまりに大きな幸福感で胸が潰れるということを、こちらは生まれて初めて体感している最中なのだ。)

…………殺し文句にもほどってもんがあるだろう……、

(いっそ白旗を上げるに等しい、情けない恨み言。それをどうにか絞り出すのが、今のギデオンの精一杯で。……実際のところ、もっと他に言うべき台詞、本気の言葉があるのだが、何も用意のない今はただ、腹の底にぐっと押し込めておかねばならない。そのもどかしさの八つ当たりとばかりに、抱き締めた相手ごと大きな体を軽く揺らして、思いの丈を伝えると。しばらくのちにようやく溜飲を下げたらしく、体を離し、見上げさせたその顔は、すっかり満足気に笑んでいて。
「……なあ。すぐにというわけにはいかない、なんて話をしていたが……」と、おもむろに切り出したのは、数日前のあの話だ。無論あのときも腹の内では、のちのちどうにか転がして、ここに持ってくるつもりだったが。きっと今ほどのタイミングは、後にも先にもないはずで。)

明日、王都に帰ったら。一緒に暮らすための準備を、もうすぐにでも始めよう。
もちろん、おまえの体調を見ながら……やれることは、俺がするから。
──お互いこんなに望んでるのに、慎ましく離れておく理由なんて、もうどこにもないだろう?

(そうして、少し乱れた相手の前髪を、愛しそうに顔から避けてやったかと思うと。長いふと房を相手の小さな耳にかけた、その手元を引き戻した時、指にしれっと挟んでいたのは、どこからいつ取り出したのか、どういうわけか折目ひとつも見当たらない、例の書類の幾枚かである。──いったい全体何年前、何のために身につけた手品なんだか。そりゃあ秘密だと言わんばかりの澄まし顔で、これ見よがしに図面をぴらぴら掲げ、自分でも可笑しくなって少し小さく笑ってみせると。
食事をつつきながらもう一度、今度は本気で眺めないか──と、今度は隣り合っての夕餉を、身振りで相手に強請ってみせて。)



  • No.837 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-11-01 18:27:04 




ひゃっ……!!

( 平素、魔獣の脅威から罪のない人々を守る腕に、力強く抱きしめられれば。肺が潰されて呼吸も苦しく、硬い筋肉や関節があちこちにあたって痛むというのに。かえって相手の存在を確かに感じられて、ぴくりとも動けないまま、脳髄が蕩ける様な多幸感に掠れた笑い声がかすかに漏れる。殺し文句だなんて言われてみれば、少し青いことを言ったかも? と、ゆらゆらとした抗議に、今さらじんわりと頬が熱くなる気もするが。ゆっくりと向けられた満足げな笑顔に──ギデオンさんが幸せそうだから良いか、なんて。無自覚故に決めさせてしまった覚悟のことを、よく考えもせずにニコニコと笑っていたその報いか、はたまた単純な旅の疲れか。ようやく慣れた下宿に帰りついたその夜に、体調を崩して高熱を出してしまうと。「……私にも、出来ることはさせてくださいね」とした約束を果たすまでに、随分な日数を要してしまうなど、この時はまだ知る由もなかった。 )


ギデオンさん! おはようございます!

( そうして、件の舘に向かう前から変わらない、愛しの相手を目の前にはしゃぐ元気な挨拶に、しかし普段であれば同時に飛びついてくるだろう娘がそうしなかったのは、自室の扉の前に立ち、裾を揺らしている長いスカートのためで。待望の退院から幾日たっただろうか、一応一昨日の朝には熱も下がっていたというのに、今度は過保護な恋人の説得に時間を費やし、ようやく迎えられた今日である。本当は、どこか東広場あたりで待ち合わせデートと洒落こみたい乙女心もあったのだが、強情なギデオンの首を一日でも早く縦に振らせるため、ドアtoドアの完全送迎を受け入れたという経緯。関係性が変わってからの初デート(が、同棲準備であるという性急さを今は考えないことにして)に早朝からワードローブをひっくりかえせば、そういえば。それなりの例外は複数あれど、普段仕事着で対峙する相手には殆ど私服を見られたことがないことに気が付き。やはり王道に可愛い系か、でも今日は遊びに行くわけじゃないし……と、むき卵の様な眉間に皺を寄せて悩むこと暫く。結局、年相応な、けれど流行のラインが今らしい白地に薄黄緑のストライプが初夏らしい涼やかなワンピースを選択すれば。ギデオンのノックが部屋に響いたのは、以前より少し余裕をもって閉じた釦に、調子の外れた鼻歌を歌いながら髪を結いあげていた時で。普段は揺れる毛先を、綺麗にしまい込んだ後頭部を留めながら、「ごめんなさい、もう少しかかりそうで……」と、相手を部屋に招き入れ、椅子をすすめたのはなにも、「外暑かったですか? どちらにしようか迷ってて」と、テーブルに並べられた白いブリムにレースが付いた可愛らしいボンネットか、赤いリボンが元気に揺れる爽やかなキャノチエかを選ばせるためだけではなく。申し訳なさそうにパタパタと、部屋の奥から冷たい檸檬水のグラスを差し出すと、レースの手袋をつけた手から、小さな金属片もふたつ、はにかみながら座る相手に手渡して。 )

……これ、忘れちゃう前に渡したくて。
此処の鍵と、こっちは私の部屋の合鍵です。ここって大抵誰かしらいるし、もうあとちょっとで必要なくなっちゃいますけど。……ふふ、誰かに渡してみたかったの。


  • No.838 by ギデオン・ノース  2024-11-02 20:23:19 




……ああ、そうか。おまえのほうのは、まだ預かってなかったな。

(すっきりと澄んだ冷水に、乾いた喉をありがたく潤していた矢先。ちゃり、と掌に受け取ったそれを、最初は虚を突かれたように、しかしすぐにもしみじみと嬉しそうに確かめて、やがて懐に仕舞い込む。そうして再び相手を見ながら、気障な格好で椅子にもたれ、如何にも意味ありげな声を。──よくもまあ、“もう”預けてある己のそれは、当時の迂闊な生活事情で相手に頼み込んだのだろうに。
とはいえ。きっとあの頃から既に、自分たちは親密さを少しずつ高めつつあった。そして四カ月経った今、実際関係が変わったからこそ。“相手の部屋の合鍵を、お互い大事に持っている”──そんな密かな状況を、例え刹那のものであろうと、共に心から楽しめるはずだ。
椅子を引いて立ち上がり、ふとそのついでと言わんばかりに、相手の片手を軽く捉える。そうして優雅に吊り上げたのは──どうやら、ターンのおねだりらしい。己もカジュアルなジャケットでめかし込んできたのだが、うら若い恋人の清廉瀟洒な装いに、どうもやはり、男心を随分と擽られていたようだ。
「よく見せてくれ、」なんて、本人は今さら面ばかり取り澄まし、おくびにも出さぬつもりが。その薄青い目ときたら、興味津々に揺れ動き、鍵に向けていたそれより余程、相手を真剣に眺め倒して。はてはふと横を向き、先程相手が示していたふたつの帽子を見比べると。──この頃季節柄見なくなった、いつぞやの贈り物。あれに似たよく似た色のリボンに、無意識に目を吸われれば。気取った顔つきでそれを手に取り、相手の頭にそっと被せ。引いて眺めて、ひとつ頷き、満足そうに唸ってみせて。)

……やっぱりな、よく似合ってる。
今日必要な例の書類は、俺がもう一度見ておくから……あとの準備も、まだゆっくりするといい。



  • No.839 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-11-06 17:31:25 




──……ありがとう、ございます。
そうなの、"赤"は似合うの。

 ( まったく、なんて瞳で人を見つめてくれるのだろう。こちらのことが愛おしくて、大切で堪らない。そんな青い瞳に見つめられると、未だ慣れない心臓が可哀想にのたうち回って。何百回、何千回と練習して身体に染み付いたターンの動きでさえ、沸騰する血液とともにふつふつと蒸発して失せてしまう。それでも、相手の要望通りにもふわふわと、なんとかその場で回ってみせれば。ギデオンのシャツの襟を整えながら、意味深に呟いてみせる癖をして、キャノチエから覗く顔はよっぽど赤く。ぱちりと思わず視線があえば、嬉しそうにはにかんで見せるだろう。
そうして、相手の好意に「だめ、だめ!」と慌ててその腕に縋り付いたかと思うと。「私にも出来ることはさせてって約束したじゃないですか」と膨れながら、相手が手にした書類を覗き込み。立地や部屋数、築年数など出発に前に再度物件のおさらいを。「えっと、この平屋はリビングがサンルームになってるんですね── )

──素敵!!

 ( と、相手の選んだ物件を前に瞳を輝かせたのは何度目か。未だひとつ目の物件だと言うのに、まずは見えてきた瀟洒な外観に声を上げ。前庭の植物に微笑み、重厚な玄関扉に溜息をつくと、今度はそれを開け放った瞬間に飛びこんできた内装に握った拳をぱたぱたと振り──何も、愛しい恋人と住むと思えば、全てが素敵に見えるというだけでは無い。風邪で寝込んでいた数日間、ギデオンにより行われていた厳しい審査の基準など知る由もないが、本当にこの物件が何処を見ても文句の付け所なく素晴らしいのだ。とはいえ脳内は意外と冷静に、確かここは今日見る中でも、一番家賃が高いところだっけ……と、ギルドから貰えるビビの月の給料からは半分でも限界ギリギリ(なんなら更にそこから安くない共益費や、保険料、税金、管理費、その他諸々が追加でかかることをビビはまだ知らない)否、若干オーバーな数字を思い出せば。──此処はあくまで参考に、あとの物件を見る基準にしよう、などと一人勝手に納得しながら、ギデオンの方を振り返って。 )

私ばっかりはしゃいじゃってごめんなさい、ギデオンさんはどこか気になるところありますか?



  • No.840 by ギデオン・ノース  2024-11-13 02:19:12 




そうだな……お互いに、仕事の都合でよく家を空けるだろう?

(「だからやっぱり、妖精除けや敷地回りの防犯陣が、どのくらい管理されてるかどうかだな。俺が朝帰りをする日でも、お前が安心して眠れるような家じゃないと……」。
相手の肩を抱きながら当然のように返した声は、相も変わらず過保護な内容……そうには違いないのだが。しかしギデオンの声も顔も、まるでそれに釣り合わないほど、ゆったりと寛いでいた。実のところ、今この場でいちばんまともに内見に臨んでいるのは、最も若いヴィヴィアンだろう。──遥か歳上のこちらときたら、“相手と家を探して回る”という穏やかなこのひとときに、癒されまくるばかりなのだ。
そんな己の腑抜けぶりを、離れた位置から堪えきれずに笑い続ける者がいた。わざとらしいため息をついてそちらを振り返ってみれば、カウンターキッチンに半ば突っ伏しかけているのは、此度の内見の案内人。不動産屋の営業であり、ギデオンの古馴染みでもある、元冒険者のフェニングである。「──いやあ、っくく、仕事中に申し訳ない。ああ、でもなあ、ギデオンおまえ、本当に随分変わっちまったもんだな……」と。こちらもまた言いぐさに似合わず、酷くしみじみと嬉しそうな声を出すものだから。突然言われたこちらときたら、ヴィヴィアンの顔を見て片眉を軽く上げ、(そうか?)なんてとぼけてみせるが、それがまた随分と、フェニングのツボに入ったらしい。……のちほど、ふとしたタイミングでひとりになったヴィヴィアンに、奴はこっそり囁いていたようだ。──なあ、ビビちゃん、あの堅物を骨抜きにしてやってくれてありがとうな。信じられないかもしれないが、あいつはここ十年ほど、本当ににこりともできなくなっていたんだよ。今のあいつがあんな風になったのは、きっと君のお陰だろうな。──あの馬鹿を、よろしく頼むぜ。
さて、そんな一幕など露知らぬギデオンは、しかしいよいよ真剣に、物件の下調べを考えこむ段に入った。二週間前に同棲を打診し、そこからさらに絞りをかけて、今日見に行くのが全部で三件。そのうちのいったいどれを、はたして彼女が気に入るか、そこのところが問題なのだが。己のヴィヴィアンときたら、どの家にも最大の良さをたちどころに見出して、そのどれにも胸を躍らせてくれるのだ。これではむしろ、こちらが再三迷うくらいだ……と悩んでいた、まさにそのタイミングのこと。
不意に外から戻ってきたフェニングが、「もうひとつ空きが出た。見てみるか?」と言いだした。病み上がりのヴィヴィアンを気遣って駆り出している馬車で、ほんの数分の場所だという。これ以上選択肢を増やすのもどうかと思ったが、見て減るものでもないだろうしと、そこに行ってみることに決めた。ヴィヴィアンを先に馬車へと乗り込ませ、己もあとから座席に座る。フェニングのほうはといえば、外の御者台に座ることにしたらしい──奴なりの気遣いだろう。大人しくこの数分を活用してやろう、とばかりに。「疲れてないか」とまずは相手を労わってから、ごく軽く揺れる馬車のなか、隣の合相手の目元にかかった髪を、優しい手つきで除けてやり。)

──……なあ、どうだった。
どれもいい家ばかりだが……そうだな、決め手が同じくらいの印象だ。
おまえのほうで、もっとこんな家があればいいのに……なんて考えは、湧いてきてるか?



  • No.841 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-11-17 00:21:45 




……! はい……いいえ?

 ( そろそろ次の物件へと移ろうかといった空気の中、一人そっと寄ってきたフェニングのお礼に、思わずふふふと肩をすくめる。怪訝な顔をした相手に──"そのことで" 私、何人の方からお礼をいただいたか分かりませんわ。と囁き返せば。思わず気恥しそうな顔をするくらいには大人で、しかしこうして密かにお礼を伝えずにはいられないほど、ギデオンのことが大切で堪らない、そんな彼らこそが、ギリギリだったギデオンをなんとか踏みとどまらせ、こうしてヴィヴィアンの元へと辿り着かせてくれた様に、この人望溢れる恋人をこれからは自分も大切に支える一人となりたい。先程、どんな家が良いかと問われ、相も変わらず過保護な返答をしてきた相手に、「私だけじゃなくて、ギデオンさんもですよ」と、その時は何気なく答えてしまったが。此方もまた相手の健やかな生活を守りたい、という想いは一途に同じで。 )

もっと、だなんて……どれも、素敵で困っちゃうくらいなのに……!
……そうですね、でも、私もギデオンさんが安心して過ごせるところなら嬉しいです。

 ( 久しぶりの外出に、少しはしゃぎすぎただろうか。優しい指先にそっと首を横に振るも、その眼差しが少し眠そうに凪いでいるのを相手は見逃さないだろう。ギデオンが何かを言う前に、「折角だから、あと一軒だけ」と先回りして甘えながら、こてりと分厚い肩に凭れれば。サスペンションの効いた馬車がラメット通りに着く頃には、いつの間にか少し微睡んでいたようだった。 )

──すご、い、明るい……!

 ( そうして、ギデオンのエスコートで馬車を降りた寝ぼけ眼は、その光景を前にして一瞬にしてキラキラと見開かれた。時刻は午後六時を少し回った夕方の頃。馬車を降りた時点では、豪邸の影になっていて気づかなかったが──「これ、全部一枚のガラスなんですか?」と、思わず駆け寄った窓ガラスから差し込む夕焼けのなんと美しいこと。未だ明かりもつけていないのに、まるで屋外のように明るい室内に「そっか、運河があるから……」と勝手に納得したヴィヴィアンに、「流石だな」と、補足してくれたのはフェニングだ。主にこのトランフォードで、勝手に屋内に入り込み、我が物顔で悪さをする悪性妖精の殆どが、窓の隙間から侵入してくると言われている。故に、トランフォード建築の殆ど全ての窓は非常に小さく、妖精が嫌う金属製の堅牢な窓枠に囲まれるか、鉱物を練り込んで色ガラスがはめられるか。街の中心部にある教会などの、巨大なステンドグラスの輝きもそれはそれで息を飲むほど美しいのだが、この部屋の自然な明るさといったらどうだろう。南側以外の窓はごく必要最低限に絞られているのに対して、水棲の妖精が縄張りを張る運河に面した南側だけは天井まである大きな窓が、外の光を燦々と受けて輝いている。この水棲の妖精の縄張り意識の強さと来たら、アーヴァンク同様ほかの魔物をその水場から蹴散らす上に、アーヴァンクと違って人間の営みには一切興味が無く、多少水源を汚そうが全く気にしないどころか、人間の手が加わった水源の方を好んで生息する──恐らく"水"そのものより、その水が流れるエネルギー、または膨大な水の質量が持つ静止エネルギーを養分としているのでは無いか、というギルバート・パチオの最新論文の内容は、各自気になるものが勝手に読んでくれれば良いのだが──要は運河と非常に相性の良い妖精が、他の悪性妖精からこの家を守ってくれているからこそできる芸当らしい。太陽光はギデオンを脅かす闇の魔素も溜まり辛くしてくれる。これまでの家もどれもこれ以上なく素敵だったのだが、既にポヤポヤと明らかに嬉しそうに目を輝かせながら、ギデオンの元に戻ってくれば。するりと慣れた動きで、再度エスコートの腕に掌をかけて。 )

夕焼けが反射してとっても綺麗よ、ギデオンさんも見て……?
でも、こんなに窓が大きくて冬は寒かったりしないかしら、



  • No.842 by ギデオン・ノース  2024-11-20 01:52:55 




そこのところは大丈夫だろう。
ほら、見てみろ……ペアガラスだ。

(相手の心配そうな声に、しかしこちらが返したのは、その歩み同様にゆったりと落ちついた声。何も遠目で見抜くほど建築に聡いわけじゃない。横にいるフェニングの如何にも誇らしげな顔を見て、軽く見当がついたのだ。そのまま相手を伴って、今一度リビングルームの大窓へ歩み寄る。そしてギデオンの武骨な指が、ふと指し示した窓枠の辺り。なるほどよくよく見てみるに、その分厚さにもかかわらず透明度の高いガラスは、贅沢な複層構造で組み立てられているようだった。しかもその内側、サッシの細い部分には、刻印式の魔法陣が精密に彫り込まれている。魔法の素養のあるヴィヴィアンなら、細い筋を伝う何かが煌めいて視えるだろうか。己はそれが読めずとも、そういった建築様式があるということだけは知識として知っている。「魔素循環式か?」と、背後のフェニングを振り返らぬまま尋ねれば。「はいはい、そうと、ご名答」と、呆れたようなため息が靴音と共に近づいてきた。
──まったく、素晴らしい窓だろう? 夏の遮熱に関してはまあまあといったところだがね、冬の寒さに関しては、やっぱりこいつがピカイチさ。おまえが言ったそのとおり、この内部の空間に溜まった魔素がしっかり防いでくれる仕組みだ。え? こんな素晴らしい匠の業は、いったいだれのものかって? かのサンソヴィーノ大先生さ! そうとも、この一帯の家々の窓は、ラメット通りにゆかりのある御大が手がけていてね。ただあの方は齢九十……いざというときの修繕なんかが気がかり、誰もがそう思うとも。だけどそいつは心配ご無用! 二代目三代目の後継がばっちり技術を継いでいて、サリーチェにある工房からすぐに駆けつけることになってる。更になんとうち経由で、専用保険もしっかり完備。どうだ、これなら安心だろう?
──しかし、はてさて。そんな稀少な物件を、何故こうも一番乗りで案内してくれるのか、そこは是非とも気になるところだ。その辺りに水を向ければ、フェニングは少しばかりばつが悪そうに頬を掻いた。……いやあ、それがねえ。この家に住んでいたのは、地方の名家から上京してきた若いご夫婦だったんだよ。この家を借りてくれていたのは、ほんの数週間だったかな。それがほら、つい先月にさ、王都中央病院の病院ジャック事件、なんてのがあっただろ? ここのすぐ近くにあるのは、あくまでその分院なんだが……地方でずっと暮らしてるじい様ばあ様にゃ、その違いなんざわからんもんでね。やっぱり王都は危険な街だ、可愛い孫娘を住まわせられん、なんて大騒ぎしたらしく。結局そのご夫婦は、実家に無理やり呼び戻されることになったんだ。そんな可哀想な事情じゃ、違約金取るのも忍びなくてさ。幾ら名家出身とはいえ、これから家庭を作るって時に……ねえ……。だからこう、俺がちょっと、いろいろ捏ね繰り回してな、どうにか帰してやったんだ。だけど今度は、大家との兼ね合いがあるだろ。その辺りで会社のお上が、ちょっとまあ、その、だいぶ圧強めでね……。
──なるほど、話が読めた。要はこのフェニング、ギデオンの急な依頼に二つ返事で乗ってきたのは、自分の計上数字が大ピンチだったかららしい。まさに今いるこの家の借り手が急にいなくなったことで、次に宛がうお客探しに血眼になっていたのだ。そんな奴から見たギデオンたちは、ガルムの瓶を背負ったレモラが泳いできたようなものだろう。おそらく、退去後の清掃が終わり、契約関係の整理も一段落ついたのが、つい先ほどのことなのだ。
「ほーお?」とギデオンが眉を上げれば、旧知の男はなんとも情けない顔で、謝罪やら言い訳やらを必死に並べたてはじめたが。それを笑って追い払い、しばらくふたりきりにしてもらうことにした。奴の性格は知っている、幾ら優秀な営業だろうと、強引な押し売りはすまい。それに、ギデオンたちがどの家を選んでもプラスになるのには違いないから、どれも同じ熱心さで紹介してくれていたはずだ。相手と可笑しそうな目を交わし、軽く肩をすくめると。オレンジの光に満ちた明かりをゆっくり歩きまわりながら、一階の広いリビング、その真っ白な漆喰の壁、良く磨かれたクルミの床に、手前の収納たっぷりなカウンターキッチンと、あちこちをよくよく眺め。ふとその視線を相手に戻すと、また静かに歩み寄っては、その肩にそっと手を置いて。)

……まあ、訳あり物件、ってわけだが。家自そのものに問題はないし、奴がああいう事情なんだ、契約の条件は多少融通してくれるだろう。
広さは充分、間取りも良し……問題があるとしたら、寝室が上にあることくらいか。
……階段は、まだ危ないよな。



  • No.843 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-11-22 21:41:11 




 ( 到着時点で既に橙色に燃え上がっていた空は、次第に群青色に傾いて、窓から見える対岸にはポツポツと小さな、しかし暖かな光が輝き始める。ギデオンの言う通り、部屋数や間取りは当初話し合った条件を充分に満たして、素晴らしいリビングだけでなく、そちらを見渡せる開放的なキッチンや水周りも、動線、設備ともに洗練されていてとても使いやすそうだ。物件の"ワケ"にしたって、とうのヴィヴィアンらにとっては全く問題のない事情どころか、先程の話や今日一日の仕事ぶりから察せられるフェニングの懐深さに、すっかり心が傾いてしまった……と言ったら、あまりにも単純だと笑われてしまうだろうか。なんて少し感傷的に下唇を噛んだのは、先程の2人のやり取りに当てられてしまったからか。訳知り顔で片眉をあげるギデオンも、バツが悪そうに肩を竦める古い仲間を、決して責めてたてることはせず、向こうもそれを分かっていて個人的な事情を話したに違いない。それ以前から、先程1軒目でフェニングがヴィヴィアンにだけこっそりと見せてくれた表情を思えば、自分の成績のことだけでなく、彼が本気でギデオンのことを大切に思っていることは明らかで、思わず──いいなぁ……と。不動産屋の方は引退しても尚、信頼しあっているらしい冒険者の男同士に向けた憧憬の視線を、ギデオンはどう捉えたのだろう。一旦古馴染みを遠ざけて、ヴィヴィアンのペースに合わせて部屋を回ってくれた恋人の一瞬の思案顔に何事かと思えば。しかし──まったく、これ以上なく過保護な心配に、ふっと身体の力が抜けてしまって。 )

もう……! 
ずっとこの調子で見張られてたら、私、歩き方も忘れちゃいますよ……!!

 ( そうして、しっかりとした手摺が手頃な高さに、しかも両サイドについた堅牢な階段を2、3軽快に登って見せれば。自分より低くなった相手の額に、思わず唇を寄せようとして。フェニングの存在を既のところで思い出すと、伸ばした掌で愛しい生え際をするりと梳いて流すに留める。「大丈夫、これで転ぶ方が難しいくらいだわ」と、仕方の無い恋人に目を細め、それに──と、「ギデオンさんに甘える口実ができそうで嬉しい」なんて、上半身を屈めて甘く可愛こぶって囁けば。あげた顔に浮かぶ笑顔も悪戯っぽく、そのままぴょいとギデオンの方へと飛び降りて。 )

──……それは流石に冗談ですけど。
ギルドからも近いですし、それにやっぱりこの窓……私、ここが気に入りました!
家賃とかも聞いてみなくちゃだけど、ギデオンさんはいかがですか?



  • No.844 by ギデオン・ノース  2024-11-23 22:22:21 




っくく、随分気が早いな……そう焦らずとも、この家は逃げやしないさ。

(うら若い恋人の愛らしい説得に、さしもの堅物心配性も、その目元をふわりと緩め。相手の腰を抱き寄せながら、無邪気な言葉に喉を鳴らしたかと思えば、愉快そうに苦笑さえする。──とはいえ、そんな風に笑ってみせるギデオンだって、ひと目見た瞬間からこの家を気に入っていることには変わりない。今日一日見て回った他の三軒も良かったが……ここは初めて来たときから、不思議と心が寛ぐのだ。
それは相手と連れ添いながら、広い浴室と立派な設備をよくよく確かめてみたり、勝手口から庭に出てテラスの具合を眺めたりしても、まったく変わりはしなかった。寧ろ己のヴィヴィアンが、家のあちこちを生き生きと歩き回るたび、まだそこにない家具や飾りが目に浮かんでくるようで。……自分の本来の性格上、何度もごく慎重に、現実的に考え直そうとしてみてもいたのだが。しかし冷静になればなるほど、寧ろますますこの家を、ここで思い描ける暮らしを忘れ難くなるようで。
──その奇妙な感覚は、二階にある寝室にふたりで足を踏み入れたとき、いよいよ決定的になった。今はまだ何も置かれていない、がらんどうのベッドルーム……辺りは既に夏の夕闇で薄暗く、部屋がなまじだだっ広い間取りなばかりに、普通ならともすればもの寂しく見えたろう。なのになぜか、その空間を見渡した途端、ギデオンの青い瞳には、この部屋がとても眩く見えた。──ここに大きなベッドを置いて、朝は彼女の横で目覚めて。一日の終わりには、その日あった出来事を相手と喋りあいながら、共に温かな眠りに落ちる。そんなささやかな生活、心の安らぐ人生を、自分はここでヴィヴィアンとずっと紡いでいくのだと。そんな奇妙な確信に、生まれて初めて心を委ね。)

…………。なあ、ヴィヴィアン。
一日で家を決めるなんて、突拍子もない話だろうが……俺ももう、ここ以外が考えられなくなってるところだ。

(床板を軽く軋ませながら、部屋の奥へと歩いていき。今は青みがかって見える真っ白な出窓から、南の空に瞬いている一番星を眺めれば。次に振り向いたそのときには、そばにいる相手の頬にそっと己の掌を添え、そのエメラルドを優しく見つめた。そうして額を触れ合わせ、甘えるように唸るのは……どうやら四十路の男なりの、恋人への相手へのおねだりらしい。今は知人の男の目を盗んでいるのを良いことに、鼻先さえすりつけながら、ぐるぐると喉を鳴らして。)

予備審査は通ってるし、出せる書類はフェニングに渡してるから……後は契約書を取り交わすのと、本審査だけで済む。共益費の交渉は、俺に任せてくれればいい。
それで無事に決まったら……もうすぐにでも、家具を探しに行かないか……



  • No.845 by ヴィヴィアン・パチオ  2024-11-25 02:25:00 




──……いえ、私たちったら、おかしいですね、ふたりとも。
私も、同じ気持ちです。むしろそれだって待ちきれないくらい……!

 ( これまで訪れた3軒だって、どれもこれ以上なく素晴らしかったにも関わらず。この家に足を踏み入れた途端、一つ一つの部屋を見てまわるたび、ここにはテーブルを、あそこにはドレッサーを置いて……と、まるで未来で見てきたかのように、これから訪れるだろう生活の光景が見えたのが自分だけでは無かったと知り。すり、と触れる鼻先に、溢れる幸せをくすりと零せば。目の前には、気持ちの通じあった最愛の相手がいて、これからはずっと一緒に生きていく。そんな向こうしばらくなんの憂いもない幸福に目が眩み、さらりと聞き流してしまった"共益費"というワードが、一悶着を起こすのはまた少しあとのお話。
 「まあ、俺としては有難いよ」と、何を言う前から全てを察したようなフェニングの苦笑に迎えられ。もう時間も遅いから、手続き自体は翌日以降にしよう、と。それからの話の進みも、とびきりぐんと早かった。ふたりの今後を決める本契約の席には、ビビも同席したかったのだが、どうにも体調が優れなかったり、定期検査なりなんだり。結局 事務的なそれは、当初ギデオンが申し出た通り、すっかり相手に任せきりとなってしまえば。やっとそのお願いを口に出来たのは、ギデオンの久々の休日に、兼ねてより約束していた新居用の家具を見に行く前日のことで。サリーチェと比べればずっとこぢんまりとした下宿のソファで、ギデオンの入れてくれたホットミルクをちまちまと舐めながら。相手が夕食の皿を洗ってくれている(退院以後、何度頼みな込みだめ透かしても頑なにやらせて貰えない)のをいいことに、仕事帰りの上着にブラシをかけて終わると、翌日休みの恋人に近づき、そっと背中に抱きついて。 )

ねーえ、ギデオンさん。
もしお荷物じゃなかったらですけど、明日おうちの契約の書類、持ってきてくださいませんか?
それか用事の後、ギデオンさんのお家に寄るとか。
ふたりのことですもん、ちゃんと私も見たいです。


  • No.846 by ギデオン・ノース  2024-11-27 02:33:22 




(皿の水気を切りながら、「うん?」だなんて肩越しに軽くとぼけるも。近頃すっかり板についたヴィヴィアンの甘えぶり、そのぐっとくる近しさに、つい口元を緩めてしまい。ぴかぴかの陶器類を網棚に仕舞い込み、濡れた両手をタオルで拭えば。背後にある流し台にもたれかった格好で、ようやく相手に向き直る。こちらを見上げる無垢な恋人……そのまろやかな額をそっと撫で上げる男の手つきの、如何にも愛おしそうなこと。)

ああ、もちろんいいとも。そう嵩張るもんじゃないし……だが、そうだな。
他にも多少用があるから、ここに戻ってくる前に、一瞬だけ俺の家に寄り道させてくれ。

(「ああ、別に大したことじゃない。引っ越しまでの数日だけ私物を置かせてほしいから、そいつを回収したいんだ」と。意味ありげな表情をわざとらしく気取ったものの、たまらずふっと破願してから、きちんと注釈も言い添えた。──こまごました移動の手間を省きたいんだ。そうしたら、それだけおまえといる時間が長くなるはずだろう……?
こんな甘い台詞を吐けるようになったくらいだ、時の流れとは実に早いものである。実際、あの一軒家を内見したあと、申し込みやら審査やら契約やら入金やら……入居にあたって必要な諸々の手続きは、ギデオンが全て怒涛の勢いで果たしてしまった。となると次は、いよいよ夢の引っ越しだ。それぞれの古い住居をしっかりと引き払いつつ、同時に新居の環境も整えていかねばならない。どんな豪邸であろうとも、まずは最低限、食事と寝起きをするための家具や道具が必要だろう。だからまず、キングトンの東にあるあの街に出掛けよう──と。懐かしの市街馬車に再び並んで乗り込んだのが、相手の下宿でいちゃついた翌日のことである。)


おお、これはまた……
随分良いタイミングだったな。

(──あくる朝。爽やかな初夏の風が吹き渡る空の下、駅に降り立ったギデオンは、辺りの見違えた様子を前に感嘆の声を上げた。無理もない──このキングストン職人街は、つい五ヵ月前にも来たから未だ記憶に新しい。しかし、ヴィヴィアンと共に装備探しをしたあの頃は、もっと下町風情溢れるセピア色をしていたはずだ。
それが今やどうだろう。『ペンテコステ・フェア!』なる横断幕を派手に掲げた通りの向こうは、眩しい陽光を浴びて煌めく、浮かれたお祭りムードであった。どこを見ても人、人、人、そして家具に道具に発明品。そういえば毎年この時期、ここら一帯の職人たちは、聖霊降臨日が近いことにかこつけて大売り出しにかかるのだ。遡ること数十年前、今日のかれらと変わらぬ商魂逞しい職人が、“神は細部に宿る”という匠の世界の信条と、ロウェバ教の説く“聖霊の働き”をものの見事に結び付け、企画を打ち出してみたところ大ヒットしたんだとか。兎にも角にも、要はこのフェアで買った家具にはご加護がついてるなんていう、聖燭祭商戦や復活祭商戦とそう変わらないアレが掲げられているらしく。とはいえまさにそれらと同じで、客にしろ職人にしろ、何かの折に良い売買がしたい、という点で一致するのに変わりなく。元からお祭り騒ぎが好きなトランフォード人たちだ、ペンテコステ本番までの前夜祭と言わんばかりに盛り上がっているわけである。
──ギデオンとヴィヴィアンが家具探しにやって来たのは、実は全く偶然で、そういえばそんなのがやっていたな、という感じなのだが……しかしこれに乗じないなどという手はないだろう。早速辺りのバザールへ繰り出していくその前に、まずは間近なジューススタンドにその足を向けてみる。……そうやらそれそのものが職人と一体化したひとつの発明品らしく、あちこちの魔導具を忙しなく動かしている八面六臂の老人にセールストークをかまされながら、しかし実に美味しそうな果実水を受け取れば。祭りの熱気に渇く喉をのんびりと潤しつつ、先程通りの入り口で貰った会場案内の紙面を広げて。)

一日じゅう見て回れそうだが、この雰囲気にあてあられて疲れてしまうとことだ。
まずは用のあるやつから見に行こう……寝具の店は、この突き当りか。



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