匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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もちろんだとも。ふたりで一緒に見舞いに行こう……
(“定位置”にすっぽり収まり、しっとり甘えてくる恋人に、喉を鳴らして微笑んで。少しでも元気を取り戻してくれたことへの安心感を伝えるように、強請られるまま唇を食む──そこまでは、まだ良かったのだ。
けれども、自然と顔を離し、閉ざしていた双眸をゆっくりと開けた瞬間。それまで大人の余裕をたっぷりと湛えていたギデオンの表情は、がちん、と間抜けに固まった。今になって気がついたようだ。己の胸元で、色っぽく目を伏せるヴィヴィアン。彼女を真上から見下せば、そこには酷く……本当に酷く淫靡な光景が……広がっていることに。
思わずそれとなく、非常にそれとなく顔を逸らし。片手の拳を口許にやり、視線を虚空にさ迷わせながら、余計な下心を鎮めようと試みる。男をそそる蠱惑的な女体など、昔散々見飽きたはずだ。ヴィヴィアンのそれが全くの別枠なのは、それはそうだが……だとしても今更何を、何もこんなタイミングで、女を知らなかった十代の頃の感性に戻るような大馬鹿者はないだろう。そんなギデオンの自制もむなしく、肝心要のヴィヴィアン本人が、更なる追い討ちへと及びだす。何やら小さく震えながら、それでもギデオンと指を絡め。何か一生懸命に、言葉を切り出そうとして──か細くも、どこか甘やかな期待の響きを孕んだ声が、ギデオンに問いかける。その異状に思わず顔をそちらへ戻し、動揺甚だしい表情のまま、「ヴィヴィアン……?」と呟けば。──しゅるり、と。やけにはっきりと聞こえた衣擦れの音とともに、ヴェールのようなネグリジェが、中途半端にずり落ちて。ヴィヴィアンの両肩のすべらかな肌が、目に毒なほどあらわになる。
ここまでされれば、流石のギデオンも気づかないわけがない。上気した頬。潤んだ瞳。自ら脱ぐ夜着。彼女が何を求めているのか、“お願い”されるより先に、全身が感じ取ってしまった。……呼吸を忘れる。喉が渇く。普段は冷静な青い瞳は、もうヴィヴィアンから逸らせない。蛹を脱ぎ捨てて蝶になりたがっている娘に、どうして釘付けにならずにいられよう。未だ何も答えられぬまま、ただただ無言で彼女を見つめる、ギデオンの胸の内。未だ稼働する理性が、冷静な声で鋭く囁く。──やめておけ、彼女はまだ怯えているだろう。ふたりとも望んでいながら、そう上手く事が運ばずに、辛い思いをするだけだ。しかし本能もまた、別の思慮深さを込めて囁く。この臆病者。目の前の彼女は今、トラウマを拭い去れないままであっても、自分を求めてくれているじゃないか。自分が応えれば、彼女の望みを叶えてやれる、患う不安を癒してやれる。何を躊躇う必要がある? ……)
………………
(そうした、刹那の逡巡の末。ギデオンは一度目を伏せ、そしてもう一度、ヴィヴィアンと視線を合わせた。この時にはもう、いつもの落ち着いた表情を取り戻し、仄かな微笑みさえ浮かべていて。「……しないよ、」と。ゆったりした声で返しながら、絡めていない方の手を彼女の頬に添え、そっと撫でる。彼女の選択が、滅多にない出来事に直面している不安感や、判断力を鈍らせるアルコールのせいだとしても。一歩先へ踏み出したい、というのも、きっとかねてからの望みだ。ならば、彼女の欲しいだけ……今できるところまで、付き合おうと。腹を決めたが故の、静かな、けれど熱を帯びた声で、そっと“お願い”を促して。)
……それで。俺に、何をしてほしい?
………………ッ、
( ギデオンの穏やかな肯定に覚えたのは、安堵などとは似ても似つかぬ。もはや後戻り出来ぬ(と信じきった)不安と、寧ろ絶望にも近い悍ましい何か。頬を滑る普段は大好きでたまらない温もりも、どこか少し冷たいような、ゴブリンの皮で作った手袋でも被せたような。得体の知れない感触に思えてしまって、頬擦りどころかびくりと小さく固まれば。
しかし、その違和感がこの身体を暴いたならば、それこそビビが望んだ通り。きっと私はこの夜のことを──己が相手のものであることを。きっと忘れずに済むだろう。
そんな自傷に近い確信と、ほぼ同時に促された"お願い"に、いよいよ青ざめた顔へと、精一杯の笑みを浮かべて。相手の逞しい腕の中、たっぷりと焦らすようにして恋人の方へと向き直ると、その片方の膝を跨ぐようにして体重を預ける。そうして、覚えた座り心地の異常な悪さに、やっとその扇情的なランジェリーの装飾の意図に気がつけば。かあっと上がった体温も、この時ばかりは良い方向へと作用したらしい。初めは、悪趣味な飾りへの嘲笑だった吐息が、吐いた分を吸ってと繰り返しているうちに、この場にとても相応しい、しっとりとしたそれへと染まっていく。──……まずはその気にさせろ、と。……と、何気なく思い出したそのフレーズは、いつかグランポートの夜に聞きかじった、ろくでもない女山賊共の講義の一部だ。
そのありがたいご高説に従うではないが、これまで幾度触れてきたか分からぬ唇に吸い付くと。普段は翻弄されるままの動きを、純粋に己が好きだった、気持ちよかった方法を、必死に真似て再現し。そうしているうち、もとより不安定な膝の上、慣れぬ動きに滑り落ちそうになれば、相手の首に腕を回したその瞬間。二人の間でぱさりと薄い布が落ちる音が、激しい水音の間にやけにはっきりと耳についた。
それからたっぷり数十秒後。──やっと汚れた口元を離して、無言で見つめ合うこと数秒間。繋がっていた銀糸がぽたりと胸を直に濡らす感覚に身をよじると。相手の方に倒していた上半身をゆっくりと起こしながら。此方は熱というよりは、純粋な羞恥を感じさせる口振りで、促された願いについて答えて、 )
──……私が誰の、ものなのか。消えない証拠が欲しいんです。
何があっても、……絶対に、忘れられないように。
………………ギデオンさんの手で。パパがぜったい、しないこと。教えて、ください……
──………………、
(その文脈を咥内でじかに味わい、胸の内も頭の奥も熱く爛れていた矢先。耳に届いたのはあまりもの殺し文句で、思わずくらくらと目眩さえ覚えた。──今のが本当に、純真無垢な娘の口から捧げられた台詞だろうか? しかし理性はもちろん、ヴィヴィアンが決して魔性の女などではないことを知っている。いつのまにか彼女の華奢な背を這いまわしていた、己の両掌の下。うら若い恋人の躰は、固く小さく強張って震え、まるでエレンスゲの前に差し出された生け贄の乙女のようだ。……未だ、怖いのだろう。以前語った、昔の恋人との一件が、今なお深く刻み込まれているのだろう。しかしその一方で、“パパが絶対にしないこと”……ギルバートが認めないような深い交わりを、ギデオンとしたいのだ。そのばらばらになりそうな、いじらしい心ごと。手つきを穏やかなそれに変え、そっと彼女を抱きしめる。そうしてまずは、怖がりな娘の頭や背中を、あやすようによしよしと撫で。いつもの“安心できる恋人”の声で──情欲は一度押し込めて──、柔らかな耳朶にそっと囁き。)
……任せろ、忘れられなくしてやる。
でも、そうだな……こういう行為は、信頼や安心感があってこそ楽しいものだ。
だからまずは、おまえの緊張が少し抜けるまで、こうして触れ合うのに慣れよう。……なあ、上だけ脱いでもいいか?
(──おそらく、この情景を傍から見る者があったなら。歳の差があるとはいえ、共に成熟した男女同士。その事の始めが本当にこれなのかと、酷く呆れたことだろう。だがここは、自分たちふたりの我が家。他に人目はなく、大切なのは互いだけ、何を気にする必要もない。恋人の許可を得れば、ごくさりげなく身じろぎしながら、いつものワインレッドのシャツを寛げ。やがては肌着ごと脱ぎ捨ててしまうと、まずはただ、相手と静かに抱き合うのを堪能しはじめる。完全な素肌同士ではないとはいえ、いつもより肌の面積が広いのは確かだ。ヴィヴィアンの体温がじかに伝わるのがギデオンには心地良いが、きっと彼女には、これもまだ刺激的な部類だろう。故に焦らず、急がず。膝の上の彼女をあやすように抱きしめ、とくとくと鳴る心臓同士を近づける。互いの呼吸を同じリズムに近づければ、少しはこの多幸感を分け与えられるだろうか。ヴィヴィアンの様子を見ながら、時折耳や頬にごく軽い口づけを施し、「ここにいるのは俺だよ」「大丈夫だ」「おまえの怖いことはしない。ちゃんとゆっくり、確かめながらやるから……」等々、囁くこと十数分。ようやく強張りが弛んだのを感じて、思わず嬉しそうに微笑めば。今度はまた少しずつ、相手の知識の確認に入る。いつぞやの連れ込み宿で、アイリーンのあのマシンガントークに相槌を打てていたくらいだ……歳相応に物事を知ってはいるだろう。それでも、無駄に経験豊富な自分と、実践面はほぼまっさらだろう彼女で、おそらく常識の範囲が異なる。故にこれは揶揄いではなく、あくまで大事な話なのだと。そんな言葉が白々しく聞こえるほど、楽しそうな声であれこれと会話を繰り広げ。「……そういえば。自分で無柳を慰めたことは?」。酔っ払いにするには聊か迂遠なこの質問も、魔導学院出身で教養のある彼女ならば、と投げかけた者。──別に、本当に大事な確認であって。彼女を虐めるつもりなど、ちっとも、これっぽっちもないのだ。)
──………………、
(その文脈を咥内でじかに味わい、胸の内も頭の奥も熱く爛れていた矢先。耳に届いたのはあまりもの殺し文句で、思わずくらくらと目眩さえ覚えた。──今のが本当に、純真無垢な娘の口から捧げられた台詞だろうか? しかし理性はもちろん、ヴィヴィアンが決して魔性の女などではないことを知っている。いつのまにか彼女の華奢な背を這いまわしていた、己の両掌の下。うら若い恋人の躰は、固く小さく強張って震え、まるでエレンスゲの前に差し出された生け贄の乙女のようだ。……未だ、怖いのだろう。以前も何度か言っていた、昔の恋人との一件が、今なお深く刻み込まれているのだろう。しかしその一方で、“パパが絶対にしないこと”……ギルバートが認めないような深い交わりを、ギデオンとしたいというのも事実なのだ。そのばらばらになりそうな、いじらしい心ごと。手つきを穏やかなそれに変え、そっと彼女を抱きしめる。そうしてまずは、怖がりな娘の頭や背中を、あやすようによしよしと撫で。いつもの“安心できる恋人”の声で──情欲は一度押し込めて──、柔らかな耳朶にそっと囁き。)
……任せろ、忘れられなくしてやる。
でも、そうだな……こういう行為は、信頼や安心感があってこそ楽しいものだ。
だからまずは、おまえの緊張が少し抜けるまで、こうして触れ合うのに慣れよう。……なあ、上だけ脱いでもいいか?
(──おそらく、この情景を傍から見る者があったなら。歳の差があるとはいえ、共に成熟した男女同士。その事の始めが本当にこれなのかと、酷く呆れたことだろう。だがここは、自分たちふたりの我が家。他に人目はなく、大切なのは互いだけ、何を気にする必要もない。恋人の許可を得れば、ごくさりげなく身じろぎしながら、いつものワインレッドのシャツを寛げ。やがては肌着ごと脱ぎ捨ててしまうと、まずはただ、相手と静かに抱き合うのを堪能しはじめる。完全な素肌同士ではないとはいえ、いつもより肌の面積が広いのは確かだ。ヴィヴィアンの体温がじかに伝わるのがギデオンには心地良いが、きっと彼女には、これもまだ刺激的な部類だろう。故に焦らず、急がず。膝の上の彼女をあやすように抱きしめ、とくとくと鳴る心臓同士を近づける。互いの呼吸を同じリズムに近づければ、少しはこの多幸感を分け与えられるだろうか。ヴィヴィアンの様子を見ながら、時折耳や頬にごく軽い口づけを施し、「ここにいるのは俺だよ」「大丈夫だ」「おまえの怖いことはしない。ちゃんとゆっくり、確かめながらやるから……」等々、穏やかな声で囁くこと十数分。ようやく強張りが弛んだのを感じて、思わず嬉しそうに微笑めば。今度はまた少しずつ、相手の知識の確認に入る。いつぞやの連れ込み宿で、アイリーンのあのマシンガントークに相槌を打てていたくらいだ……歳相応に物事を知ってはいるだろう。それでも、無駄に経験豊富な自分と、実践面はほぼまっさらだろう彼女で、おそらく常識の範囲が異なる。故にこれは揶揄いではなく、あくまで大事な話なのだと。そんな言葉が白々しく聞こえるほど、楽しそうな声であれこれと会話を繰り広げ。「……そういえば。自分で無聊を慰めたことは?」。酔っ払いにするには聊か迂遠なこの質問も、魔導学院出身で教養のある彼女ならば、と投げかけたもの。──別に、本当に大事な確認であって。彼女を虐めるつもりなど、ちっとも、これっぽっちもないのだ。)
( "いつも"の優しい声音でかけられた、心強く頼もしい約束に、それまで強ばっていた娘の眼差しが、ゆるりとほのかに和らいだ。とはいえ、こうして少しでも身体から力が抜けたのはほんの一瞬で。ギデオンの請求に押し黙って小さく頷けば、無骨な手が釦を外していく慣れた手つきに、肌着から首を抜く生々しい動き。それら全てから目を離せずに、とうとう素肌のギデオンと目が合うと。この時初めて己が見蕩れていたことに気がついて、その認めがたいはしたなさに、バッと勢い良く顔を逸らしたかと思うと、再び恥ずかしそうに縮み上がってしまう。果たしてギデオンの腕の中、素肌に伝わってくる素肌の感触は、良くも悪くもあまりに刺激的で。相手の耳元ではふはふと、緊張で上がってしまった呼吸を震わせることしばらく。──確かに、最初からギデオンはそう宣言してくれていたのだが。ビビにとっては、これ以上ない食べ頃を差し出したつもりにも関わらず。その姿を前に顔色を帰るどころか、いつも以上に穏やかに、大好きな優しい声でビビが安心するようにと努めてくれる恋人に──ギデオンさんは本当に、私の嫌がることはしないでくれる。ちゃんと私を見てくれるんだ。そうやっと実感が追いついて、強ばっていた身体から徐々に力が抜けていく。その頃には荒ぶっていた心臓もいつの間にか、トクトクと心地よいリズムを穏やかに刻んで。愛しい恋人がくれた口付けを控えめに、けれど少しずつ返せるようになってくる。そうして、相手の肩に頬を寄せ、いつもより少し濃い相手の香りに耽溺していたその時だった。ふと頭上から上がった、穏やかな吐息に顔をあげれば、そのあまりにも純粋で嬉しそうな微笑みに、改めて自分がいかに大切にされているかを思い知り。嬉しいようなむず痒いような、温もりに満ちた多幸感に此方も小さく微笑み返すと、「ありがとう、ギデオンさん……」と、相手からすれば牛歩もいいところだろう此方に合わせてくれた感謝に、今夜二度目となる唇への、今度は甘く触れるだけの口付けを。
──さて、そんな感謝は今すぐに撤回すべきだろうか。流石に未だ安心しきってとはいかないものの、ある程度の落ち着きを持ってギデオンとの愛情表現を楽しんでいれば。徐ろに投げかけられた質問に、最初は一瞬きょとりと首を傾げかけ、「ぶりょ……?、!」と、一拍遅れてその意味に気がつき目を見張る。その無駄に迂遠な言い回しで、あくまで自分は真剣なのだと主張している男の、その明らかに楽しげな視線が憎らしく。──自分で? 自分でって……! と、相手の腕という檻の中、顔を真っ赤にして何も言えず。あー、とかうぅ~、だとか、もじもじ俯いている時点で察して欲しいのだが。楽しげな恋人は此方を見下ろすばかりで、一向に助け舟を寄越す気配がない。とはいえ、ここで強く反発すれば、寧ろ無防備な状態で是認するのと同義で。仕方なくギデオンの膝に手をついて、身体ごと少し前に近づいて、ギデオンの耳元に顔を寄せると、周囲に誰がいる訳でもないのに囁くような声で告げたのは、なんとなく大きな声で答えるのがはばかられたからで。 )
──……いっかい、だけ。
この前、がんばるって、約束したから……でも、よく分からなくって、その……
っくく、そうか……よく分からなかったか。クク……ッ、
(己の恋人は、いったいどこまでいじらしいのだろう。そんな馬鹿丸出しの思考を本気で抱いてしまうほど、今のギデオンはある意味打ちのめされていた。思わず鳴らした笑い声にも、揶揄うような鸚鵡返しにも、しみじみとした幸せの響きが滲み。「ああ、悪い。怒らないでくれ……」なんて、ご機嫌とりの軽いキスにさえ、つい甘ったるさが乗ってしまう。
不慣れなのだろうことは、もちろんある程度予測していた。だが、まさか。初めて及んだのがついこの間で、その動機すら、いつかギデオンに捧げたいから……ふたりの将来のためにそう約束したから……そんな健気で可愛らしいものだとは,さすがに思いもよらない。当然だろう、己の腕の中の娘は、ただでさえ、“その先”を意識して抱き合うだけでも怯えるほど初心なのだ。だというのに、こちらの露知らぬうちに、そんな努力をしてくれていた、などと。それもふたりきりの家だというのに、恥ずかしくてたまらないというように、こしょこしょと耳打ちされて。これだけの爆弾を喰らい、どうして愛おしく思わずにいられよう。
とはいえ、これ以上相手を笑うのは可哀想だ。何より、不慣れなら不慣れで、現実的にどう進めるかをあれこれ考えなくてはならない。故に笑みを落ち着けると、一度膝上の相手をごく緩やかに抱き直し。幼気なまろみのある額にかかった前髪を、そっと目許からよけてやり。「それならまずは、そこで悦くなるのを覚えるところからだな」なんて、涼しい顔であけっぴろげな発言を。
そこから始まったひとときは、まだまだ相手を健全に抱き上げたままの、相も変わらぬ雑談だ。流石にギデオンも鬼ではない……具体的な事を匂わせた途端また身を固くしてしまった娘相手に、それでも即座に手をつけるほど、無様にがっついたりはしない。今夜の観察で、相手が何かと身を固くするのは、トラウマのせいだけでもないことを察していた。純潔な乙女だからこその、未知に対する本能的な恐怖──それも多分にあるのだろう。それを性急に取り払おうとするのではなく。真っ赤な顔で悶える恋人を至近距離で堪能しながら、艶っぽい話題に興じる……これだってなかなかに、趣があって愉しいものだ。
とはいえ、単なる趣味にとどまりもしない。ヴィヴィアンの怖がりな身体を素直にするには、一見遠回りなようだが、精神的なあれこれから取り払うのが最善手だ。その考えから、まずはあれこれと、相手が苦手に思うことを探り出して。そのどれもに、「実はそれはこういうことだ」「そいつについては、こう考えてみないか?」などと、ギデオンなりの新しい視点を丁寧に植え付けていく。
──吊るした円柱を思い浮かべればわかり易いだろう。上から光を当てたとき、それは円形の影を落とす。だが、横から光を当ててみれば、壁に移る影は長方形を描くはずだ。それと全く同じである。一つの物事を見る時、それは必ず、同時に複数の形をしている。どれかひとつの形が、唯一絶対の正解というわけではない。円柱の影は真円だと思う人もいるし、長方形だと見る人もいる。どこから……どの視点から……どの境地からそれを眺めるか。それだけの違いなのだ。
ギデオン・ノースという人材は、この考え方を、普段は仕事で活用している。討伐作戦、中間管理職、内務調査、密偵活動。どんな職務においても、多角的に物事を見て、今回の目的のためにはどの解釈が適切か、それぞれの解釈にどんな利点と欠点があるか、熟慮する才を持っている。故に上層部からは、頭の切れる冒険者、というありがたい評価をいただいているのだが。──まさかお偉方一同も、ギデオンがその能力を、若い恋人との睦みごとにがっつり応用するなどとは……流石に夢にも思うまい。)
……つまり、そんな風になるのは、相手のことを受け入れるためだ。相手の男のことが好きだと、身体が勝手にそうなるんだよ。人体の不思議だな。
だから、焦らなくていい。お前の身体が目覚めるまで……こうして楽しくじゃれ合ってるのも悪くない。……
(──そうして。未だ潔癖な乙女であるヴィヴィアンが、はしたない、浅ましい、不純だと感じてしまう諸々。そのどれもに、魔法学やら人体科学やら、そういった(無駄に)学術的な視点や、恋仲ならではの甘い感情を交えての、ギデオン独自の解釈を述べ、織り込み、塗り替えていく。一見その会話は、酷く下らない猥談でしかないだろうが。それでヴィヴィアンの視野を多少広げられるなら、充分に価値があるはずだ。頻繁に交える冗談や、わざと相手を煽るような白々しい台詞だって、きっと彼女の緊張を解くのに一役買っているだろう。また、会話の折にふとさり気なくあちこち触れて、艶やかな戯れにも少しずつ慣れさせる。状況をよく調べ、分析し、工夫を仕込んでいき、手堅くも大胆に事を運ぶ──クエストに挑むときと同じ、ギデオンの得意な戦法だ。
こうしてじっくり話し込んでいたものだから。ふと気づくと、既にかなり夜遅くなっていた。鈴虫の鳴く窓の外を、恋人共に何とはなしに眺めた後。まだ同時に無言で見つめ合い、どちらからともなくキスをすると、ふと右手をテーブルに翳す。器用に施したその細工は、本来なら野営時に使う、食事の痕跡を一時保存する無属性魔法。要は暗に、洗い物や片付けはいったん後回しにしよう、という意思表示だ。りいりい、と涼やかな音が夜のしじまを満たすなか。相手を穏やかな、けれども少し熱を取り戻した双眸で見つめ。その頬に手を添えて、相手の余裕の確認を。)
…………。
……そろそろ、寝室に移ってみるか。
ギ……ギデオンさんが聞くから、答えたのにぃ……!
( 恋人の意地悪な物言いに、握った拳を振り上げて、ひんひんと真っ赤な顔で抗議していたヴィヴィアンだったが。その当の本人から宥めるように唇を落とされて、気持ちよさそうに目を細めると、紳士的な捕食者の腕の中、ぽやりと幸せそうに微笑んで。
──……ビビの所属していた魔導学院は、その研究部こそ学術的な権威だが。高等部以下の、特に中等部までの学び舎は、幼少期から学院へ通えるような、良家の子女のための社会教育に近い傾向がある。故に──ビビの恩師は、「知識も身を守る術だというのに」と嘆いていたが──少なくともビビの在学時代の女子生徒には、所謂"堕落に繋がる情報"とは切り離された、"良き妻、良き母"になるための教育が施されていた経緯がある。とはいえ、この奔放なトランフォードで、知的好奇心あふれる若く優秀な生徒たちは、それぞれ自由に大人への切符を勝ち取っていくわけだが。根が素直で真面目なビビの心に、貞淑であれという呪いは強く刻み込まれて、それが17の夏、最悪な形で決定打を押しことになる。
そうして、ギデオンの直截な言い回しに、再度カチンと固まったヴィヴィアンだったが。頭脳派であるギデオンの、内容に似合わぬ理論的な言い回しは、皮肉にも学生だった彼女には素直に受け入れやすいもので。これまではしたない、だらしないと恥じてきた行為や現象が、医療人として真面目な知識に繋がると。ビビの中で忌避されて、意識的に興味を向けないようにしていた質問が次々湧いて溢れ出る。時折、"好きな人"だとか、"赤ん坊"だとか、普段ギデオンの声では聞きなれぬ優しい単語に、どぎまぎとしながらも。真面目なものから、馬鹿らしい流言飛語の類まで、ひとつひとつ丁寧に説明してくれるギデオンに心を許しきり、その健全なんだかどうか分からぬ講義を終えれば。──そうか、あれもこれも、全ては動物として、子をうみ育てるため身体の自然な反応で。それなら、私の身体もいつか、絶対にギデオンさんを受け入れる準備を終わらせてくれるんだ。そう思えた途端、温かく神聖な気持ちで満たされる。そうして、食卓に魔法をかけるギデオンの脇で、何気なく己の腹を見下ろしたまま、続けられた質問にこくりと小さく頷けば。跨っていた腰を上げながら、その柔らかい下腹部を愛しげに撫でて、 )
………はい、お願いします。
あの、もし──ギデオンさんは、赤ちゃんが出来たら、嬉しいですか……?
────……、
(その穏やかな問いかけの意味を、すぐには理解しきれぬまま。思わず声を失ったギデオンは、彼女の頬に添えていた手をゆるりと下ろし、ただまじまじと相手を見つめた。目の前のヴィヴィアンは、聖母のような慈愛をたたえて、今何と言ったのか。子どもができたら嬉しいか……だと? 頭の中でそう反芻し、ようやく噛み砕いた途端。ギデオンの青い双眸は、激しく波打つ水面にも似た、深い輝きを帯びはじめ。薄く口を開くものの、そうにも喉が詰まるらしく、視線ばかりが揺れ動く。困ったような表情になるのは、何もヴィヴィアンのせいではない。胸に沸き起こる感激の嵐を、持て余しているだけなのだ。
それでも、結局のところ。「……嬉しいよ、」と。気づけば、口が勝手にそう答えていた。少し震える手を、再び彼女の頬に這わせ。指の腹でそっと目許を撫でながら、ギデオン自身もどこか堪えかねたように目を細めて、もう一度。「嬉しいよ。きっと、この世でいちばん……何よりも嬉しいことだ」と。目を閉じ、項垂れながら頭を寄せて、その思いの深さを彼女に伝えようとする。だが、すぐに物足りなく感じたらしい。太い腕を蜂腰に回し、やや痛いほどに抱きすくめ、その無言の仕草で叫ぶ。好きだ。ヴィヴィアンが、死ぬほど好きだ。
──……齢九つになるかならないかで孤児院に入ったギデオンは、上流階級の生活を知らない。故に、良家の子女が受ける徹底した淑女教育……魔導学院も施すそれを、知識として知ってはいても、目の前の恋人と結びつけるには至らない。だからこそ、より深く突き刺さったのだ。妻になること、母になることを、ヴィヴィアンが強く強く望んでくれているように見えて(あながち間違いでもなかろうが)。閨事を未だ怖がるような娘が、それを経なくては手に入らない筈のものを、ギデオンのためであれば叶えてくれるかもしれないと知って。
青年時代のギデオンは、家庭を持つことにそう積極的ではなかったはずだ。寧ろ自分は父親に向かないだろうと考え、そういった幸福を望むような女性たちとは、自ら距離を置いていた。よって自然に、自分と同類の……暇を快楽で塗り潰したい女たちと、散々遊んでいたわけだが。──今はもう、あの頃とは違う。己の腕の中には、残りの人生を共に過ごしたいと願う、たったひとりの女性がいて。彼女も自分に、子どもができたら嬉しいか、などと、彼女自身の人生にとっても大きなことを問うてくれる。それにどれほど心を動かされることだろう。つくづく自分の人生は、ヴィヴィアンに変えられたのだ。得られないはずの……得ようと思ってもみなかった幸福への道を、こうして与えられている。)
…………。
……現実的な話をすると、“絶対に欲しい”とまではいかないんだ。子どもを身籠れば、俺もしっかり支えるにしたって……どうしてもおまえの負担が大きくなるだろ。
お互い、冒険者としての自分のキャリアもある。だから別に、急いじゃいない。
だが、そう言ってくれたこと自体が……俺は、たまらなく嬉しいよ。
(彼女を抱きしめ、顔を伏せたまま。ようやく気分が落ち着いたらしく、ごくゆったりと補足を行い。それから顔を上げ、少しきまり悪そうに微笑んだのは……この歳になってこの種の感動を知り、圧倒されていたことに対して、どうやら気恥ずかしさを覚えているのだろう。軽く頭を振り、目にかかっていた前髪を払うと。今しがたの素の反応を忘れさせようとするかのように、今度は悪い大人の顔を繕い。不意にヴィヴィアンを掬い、正面からすっくと抱き上げたかと思えば。如何にも頼み込む振りに興じながら、長い脚を捌いてソファー裏に回り、そのまま寝室への階段を登り始め。)
──それに。俺は歳が歳だから、いざ望んでも、そう簡単にできない可能性がある。
となると、何度でも実践することになるし……そのための練習も重ねないとな。悪いが、少し付き合ってくれ。
……良かった、私もうれしいです、
( きつく抱きしめられた腕の中、えへへっ……と甘く喉を震わせると、硬い筋肉の外皮に頬擦りをして、その愛しい気持ちを存分に表す。──そっか、キャリアとかも考えなくちゃ駄目だよね、と。産む当人であるはずのビビより、よっぽど具体的な未来を描いてくれた恋人に、うっとりと目を細めれば。ビビも良い歳をした大人だ。こんなにも好きで好きで堪らないというのに、それだけではままならぬ現実を受け入れはするが、第一声。大人らしい冷静さを取り戻す前のギデオンが、"嬉しい"と、そうはっきり強く抱き締めてくれたことを生涯忘れることは無いだろう。──ギデオンさんも望んでくれる。ただそれだけの確信で、今回のことも、これからどんな困難が振りかかろうと、それだけで自分はどこまでだって真っ直ぐに走っていけるに違いない。
そうして、図らずも父親と対峙するための拠り所を先んじて手にしてしまい、半日以上もビビを取り巻いていた重い不安が取り除かれてしまえば。再度顔を合わせた恋人の顔に浮かぶ表情は、確かに照れ隠しも大いにあったのだろうが。わざと意地の悪い表情を浮かべる恋人の、その可愛らしさにくすくすと声をたて笑う娘の運命はいかばかりか。頼もしい腕に運ばれる間、その太い首へと腕を回し、相手の手があかない事をいいことに、額、目元、鼻先、そして唇へと甘い唇を落として戯れ。魔法のランプの温かな光が照らし出す、居心地のよい寝室の中心に置かれた大きなベッド。その沈み込むように柔らかいシーツの上にそっと下ろされて、やっと。この状況を思い出したかのように、再度少し身体を強ばらせると、口元に手を寄せるのは不安の表れで。ぺたりとその丸い臀部をベッドにつけたまま、頭上に伸びる大きな影目に入らぬように顔を逸らすと、ぷるぷると掻き消えてしまいそうな声で懇願し、 )
……あの、ぅぇ……上から見下ろされると、怖い……かも。ごめんなさ……
(悪戯な恋人を、シーツの海にそっと下ろし。こちらもお返しに、いよいよたっぷりと啄もうとした──そのときだ。ぎしり、と寝台を軋ませながら。ギデオン自身はごく軽く、何てことのない感じで寄ろうとしただけったのだが。ギデオンの視界の下、再び身を固くしたヴィヴィアンの、顔を退けて声を震わせるその様子を見れば、はたと制止して。……静かな驚愕に染まった目を、やがてはふっと優しく和らげ。)
わかった。おまえが謝る必要はないよ、教えてくれてありがとうな。
……これなら、怖くないか?
(浮いていた腰を、ベッドの端に落ち着け。「大丈夫だよ」とあやすように頭を撫でてから、自分もゆっくりと──彼女の様子を見ながら、決して怯ませないように──寝台に乗り上げ。柔らかなデュベを手繰り寄せれば、盛り上げた空洞の中に恋人を誘い込む。きっとこれならいつも通り……ふたりで寝入るときと、そう変わらない距離感のはずだ。そうして恋人が、おずおずとか、安心したようにか、いずれにせよギデオンの隣に潜り込んでくれば。喉を鳴らしながら横向きにそっと抱きしめて、まずは温もりを分け与える時間を。いつものそれと同じようでいて、夜着を隔てないじかな触れ合いは、またトラウマを思い出してしまった彼女に、どのように働くだろう。その甘い石鹸の香りがする旋毛や、いつまでも触っていたくなるような柔らかな耳朶に、今はまだ色気を含まぬ、優しい唇を何度か触れて、“ここにいるのは俺だよ”“お前の嫌なことはしない”と、再三の意思表示を。相手の全身をゆったりと、宥めるように撫でてやり……そうして、昔の恐怖に絡めとられてしまった彼女を取り戻そうとすることしばし。ルームランプの陰になった、穏やかな暗がりの中。ふと恋人と目を合わせると、気づかわしげな声で尋ねて。)
辛い思いはさせたくないから、きつかったらいいんだが。
……ほかに、どんなことが怖い? おまえに思い出させないために……知れる範囲で、知りたくてな。
怖い、こと……
( 心地よい重みのある腕の中、直に触れ合う肌が温かくて、トクトクと響く心臓の音に目を閉じると、眉間に皺を寄せ寄せながら、信用出来る温もりにゆっくりと体重を預けていく。──大丈夫、ギデオンさんは、私の嫌がることは絶対にしない。そう相手の言葉を反芻していれば、気遣わしげに此方を覗き込んできた碧と目が合って、ただそれだけでほっと力が抜けいく。
そうして続けられた質問に、あの暑かった夏の夕刻。大好きだったはずの鳶色は、とうとう一度も此方を見無かったことを思い出す。それは、高等部2年生なる直前の夏休みで。それまでの複数回の失敗を経て、二人の間には良くない焦燥感が漂っていた。半ば義務のようなキスをして、少年の手がビビの肩にかけられる。硬いスプリングの感触を背中に感じ、見上げた少年の影が──やたら大きく、恐ろしいものに見えてしまって。現実と過去、どちらのビビの呼吸もはっはっはっ……と荒く不規則に上がり出す。そんな娘を目の前にして、これまでの少年だったなら、『今日はやめておこうか』と手を引きビビを座らせて、ごくごく自然に話題を切り替えてくれていたはずなのに。その日はなにか苦しげに逡巡したかと思うと、ビビのブラウスに手をかけて──……それがわざとだったかは分からない。ビビが驚いて身体を捩った拍子に、『いい色だね、よく似合ってる』と、いつか彼が褒めてくれたブラウスが、嫌な音をたてて無惨にも千切れ飛ぶ。ビビが呆然としても、最早その手が止まってくれることはなく、一瞬遅れて起き上がろうとするも、それを抑え込むように体重をかけられて身動きが取れない。そこまで記憶をなぞった途端、ぶわりと当時の恐怖が蘇り、ガタガタと身体が震えだし。優しい恋人に"きつかったらいい"と、気遣って貰ったにも関わらず、芋づる式に素の感情が引きずり出されてしまう。思わずギデオンに縋りつこうとして、掴む布がない状況に、えぐえぐと酷い嗚咽を漏らしながら、辛うじて引っかかった鎖骨に震える指をかけると、わあっと子供のように泣きじゃくり、 )
──……おと、布が裂ける音が、怖いです。
ぐっ、て、……重いの、おなかに乗られるのも、こわい。
ここ……っ、手首をすごい力で、私……痛くて、怖くて……!! 何度もやだって、やめてって言ったのに、でも止まってくれな、くて……
( 一体全体、本当にどうしてしまったというのだろう。いくら父親の件があったとはいえ、ギデオンの一言でいとも簡単に引きずり出されてしまう感情に、我ながら困惑が隠せない。年上の恋人に宥められたかどうかして、その大号泣が治まったその後も。まるで感情の堰が壊れてしまったかのような心細い感覚に、冷たくなったしまった鼻を相手の首筋に押し付ける。この先、この人の前で負の感情を抑えられなくなってしまったらどうしよう。早速、そんな心配が的中するかのように、自分がぶち壊してしまった空気に、今日はもう触れて貰えないんじゃないか、という不安が顔を出し、未だ濡れている顔をおずおずと上げると。その薄い唇へと唇を寄せ、「ギデオンさん」と甘えたように鼻を鳴らす。そうして、形の良い眉を八の字に歪め、語弊……でこそもうないが、直接的な表現を避けた故に、己の言葉が余計にみだらな響きを持ったことには無意識で、 )
…………ごめんなさい、私、今日おかしくて……もう触ってもらえないですか……?
…………
(泣きじゃくる相手を胸に抱き、優しく撫でてやりながら。(……やり方を間違えたな)と、静かな後悔に目を伏せる。思い出させたくないと言いつつ、それを予防したい己の都合で、悲惨な当時をなぞらせた。その結果がこの痛ましい涙だ。ヴィヴィアンの持つ記憶は、彼女自身にしか辿れない……過去のものにしたはずの恐怖に、またも独りで立ち向かうに等しい。そんな真似をさせるべきではなかった──己の浅慮による失態だ。今更過ぎる苛立ちに、苦い顔を噛み殺す。
……しかし、実のところ。今ここで吐き出してくれてよかった、などと酷なことを考えて、ほっとした表情を浮かべてしまうのもまた事実。見ての通り、ヴィヴィアンの心の傷は深い。きっとこの先何度でも、昔のことを思い出して震える彼女を、こうして慰めるだろう。それを踏まえれば、こうして一度感情の蓋を取り払えたのは、小さな第一歩かもしれない。本当に憂慮なのだが、ヴィヴィアンはどうも、“ギデオンに嫌われるのではないか”などと考えて、自分の何かしら暗い部分を隠したがる傾向がある。どうかその思い込みに陥ることなく、嫌だったこと、怖かったこと……当時の相手に理解してほしかったこと、それらをこうして吐き出せるなら。それを見守り、聞き届ける立場に、己は喜んでなってみせよう。元より一度ならず、数えきれないほどヴィヴィアンに救われた身だ。寧ろこれくらいさせてくれねば、碌に恩返しが叶わない。撫でて、キスして、抱きしめて。そうすることで彼女が落ち着き、少しでも心が軽くなるのなら。己の胸を、幾らでも貸そう。支える掌があることを、縋る相手がいることを、こうして優しく撫でることで、何度でも思い出させよう。)
(……そうして。十数分か、それ以上か。ようやくヴィヴィアンの嗚咽が止み、ギデオンの肩口ですんすん鼻を鳴らすだけになった頃。相手の身じろぎする気配に、ギデオンも撫でていた手をふと止めて、そっとそちらを見下してみる。こちらを見上げるヴィヴィアンの顔──薄いそばかすの散った目元はびしょびしょに濡れており、鼻の頭は真っ赤っか。おまけに不安げな表情をしていて、見るだに痛ましい、のだが。こんな顔をしていても、いじらしくって可愛いな……などと、ろくでもないことを考える辺り。良心の在り処というものを、己はそろそろ真面目に探すべきかもしれない。そんなことを思いながら、寄せられた唇にこちらもちゅ、と軽く返し。少し掠れた声に名を呼ばれれば、なんだ、というように軽く首を傾げる。──だが次の瞬間、その青い目が虚を突かれたようにぱちくりしたかと思うと。思わず、といった様子で、喉を震わせるように吹き出し。)
……、もう、って。いいのか?
──触って、ほしいのか。
(──けれども二度目は、少し低くした艶やかな声で、相手の欲を確かめるような囁きを。このくらいなら、ヴィヴィアンを怖がらせはしないだろうか。泣き腫らしたことで未だ熱いほっぺたに手を添え、額と額をこつんと合わせる。吐息が触れ合うような距離。とはいえ、心は己の欲望ではなく、ヴィヴィアンの方にあることを、指の腹で目元を撫でるいつもの仕草で伝えようと。)
…………。なあ、ヴィヴィアン。セックスは義務じゃない。だから、おまえのなかに焦りがあるなら……それは忘れてしまっていい。
そういうことをしなくたって、俺はおまえとずっといたいし。そういうことをしなくたって、親父さんにもいつか認められるだろう。
──でも、俺はほら、“それなりに”欲があるから。おまえも望んでくれていて、無理をさせるわけじゃないってんなら。…………
(続きの言葉を濁したところで、いっそ雄弁なだけだろう。相手を見つめるその顔には今、どこか年頃の少年じみた、明るい面差しすら混じっていて。ここに来るときも彼女にくすくす笑われたように、素のギデオンは結構こうだ──歳を重ねて落ち着いたようでいて、若気が大いに残ったままだ。その相手が最愛の女性となれば、そういう欲は尚更起こる。とはいえ、それでも“待て”はできると、大人の方の目つきで語り。相手の髪をひと房掬い、長い指で弄びながら、緑の瞳を覗き込んで。)
忘れられなくしてくれるって……やくそく、したもん……
( ……そんなに、何度も確認される程、己は信じ難い願いをしたろうか。思わずといった調子で目を見開いた恋人に、かっと顔を火照らせて、その固い胸板へと視線を埋めると。もし否定された時用に、言い募ろうと準備していたフレーズも、ごにょごにょと自信なさげに窄んでいく。
確かに、焦る気持ちがないわけじゃない。しかし、ビビが恐れているのは、もはや過去となった悍ましい幻影で。目の前のギデオンは、──ビビが嫌がることは絶対にしないと誓ってくれた。その上、今もこうして、ビビを最優先にしてくれる恋人の深い愛情に。頭上から降りかかる声にも、無邪気な期待が混ざるのを感じ取ってしまえば、これ以上応えずになどいられるだろうか──……と。口を一文字に引き結び、再び頑なな瞳をあげたその時だった。
こちらの毛先を弄ぶ、子供のような無邪気な触れ合い。しかし、その此方を覗き込む表情が、想像するよりずっと大人で、こちらを気遣う暖かいものだと気づいた瞬間。ふっと全身にこもっていた力が緩む。そうして、「……ごめんなさい、ちょっと……無理してたかもしれないです、」と。ついさっきまで張り詰めていた表情を、ふにゃんと崩し。安心しきった様子でギデオンの胸に頭を擦りつければ。──普段、寝る時にそうするように──自分よりずっと大きな掌を握りしめると。切ない掠れ声で囁きながら、握った手をそっと白い腹に導いて、 )
──……だから今晩は、今晩からは、
いつか、のときのために、"練習"させてください……
──……。
……ゆっくり、進めていこうな。
(温かく握り込まれた掌が、そっとそこへ──彼女が愛おしげに撫でた、神聖な場所へ──寄り添うように宛がわれ。一瞬呼吸を忘れたギデオンのまなざしに、ヴィヴィアンの熱がふっと移る。“無理をしていたかも”と大人しく認めた彼女に安堵して、“やっぱり今夜はこのまま眠ろう”、そう促すつもりでいたというのに。こんなにもいじらしく、こんなにも控えめに、それでもギデオンを渇望する……そんな小声を聞いてしまえば。さすがにおうこれ以上は、ギデオンのほうこそ無理をしていられない。
瞼を閉じ、その甘い栗毛に顔を埋め。穏やかな声で返しながら、絡めた相手の掌越しに、すべらかな腹をふわりと撫でる。薄青い目を静かに開け、もう一度相手の視線を絡めとれば。互いの目つきは、ぼんやりと甘い。呼吸も自然と溶け込んで……おそらく鼓動すら、同じ速さでトクトクと打っているのだろう。最早言葉で語らずとも、互いの意志は充分に伝わった。どちらからともなく顔を近づけ、互いの唇を溶け合わせる。絡めたままの掌が、ひそやかに、しめらかに動く。ベッドを覆う白布が、幾筋もの皴を描きだす。
──……最愛の不慣れな娘にゆっくりと手ほどきするのは、ギデオンの想像以上に満ち足りた時間だった。最初のうちこそヴィヴィアンも、まだ恥じらいを捨てきれずに、身を捩って逃げがちだったが。「……ずっと気になっていたんだが、このランジェリーはどうしたんだ?」なんて、白々しいほど明るい声で尋ねたり。猛抗議を喰らってしまえば、くっくっと笑いながらも、ご機嫌とりに抱きしめたり。そうして楽しく戯れながら、合間に妖しい愛情表現を差し挟んでいるうちに。……いつしか互いの顔も吐息も、夜の褥によく似合う、艶やかな色を帯びはじめる。
膨らんだ半月が窓の外へ出て行くまでに、彼女に数回ほど夢を見せた。初心な恋人は少し前まで、自分の身に起きた変化を俄かには信じられず、パニックにすら陥っていたはずだ。それを思えばかなりの進歩で、本当ならこのまま、もう少し踏み込みたいところだが。──今日は、朝からいろいろあった。夜の話では二回も泣いて、体力も削れているだろう。これ以上深く追い求めたところで、キャパオーバーを押し付けてしまうだけとなる可能性が高い。そう引き際を弁えて、息の荒い彼女に顔を寄せる。汗の浮いたまろい額に、労わりのキスを贈りたかった。
このとき初めて、己の息も僅かながら浅いのを自覚し、自嘲気味に苦笑する。……これでもそれなりに、理性を保てていたはずだ。抑制剤を服用しているおかげで、我を忘れてしまうことなく、ただただ奉仕に徹していられた。……だが、もし薬を飲まなければ。もしもこの、薄い膜を張ったような感覚なしに、恋人の姿を直視すれば。そう思うと、やはり末恐ろしいものがある……つくづく自分を野放しにできない。無論、いつかはただありのまま、彼女と睦み合いたいのが本音だ。だが今はまだ、その時ではない。ヴィヴィアンには慣れが必要で、慣れにはどうしても時間がかかる。先を急ぎがちな彼女本人にも、そこのところはわかってもらわなければなるまい。ギデオンはヴィヴィアンが大事だ──決して、事を急いての過ちは犯したくない。
──けれど。今夜自分は、「忘れられなくしてやる」と……消えない証拠をくれてやると、愛しい恋人に約束したのだ。捧げられるままに純潔を摘み取ることは叶わずとも、せめて何か、代わりの何かはないだろうか。そう考えてふと、ヴィヴィアンの白い肌に目を走らせる。今夜のギデオンはそこに何度か唇を寄せていて……それでふと、思いついたのだ。「ヴィヴィアン、」と、まだ存外湿り気の残っていた声で、そっと恋人の名前を呼ぶ。「……キスマークは、知ってるよな」と。その単語を口にして初めて、今からしようとしていることの、あまりもの年甲斐のなさに、多少の恥を覚えたらしい。とはいえ、拭いきれぬ欲を孕んだ声音で。相手の耳に唇を寄せると、薄い腹に手を乗せながら、そっと相手に伺いを立てて。)
……今夜はまだ、ここまでしかできないが。約束通りに……おまえに、痕を残したい。二、三日か、長くても1週間ほどで消えるものだが……俺たちの関係の、証になるようなものだ。
少し、痛むが……耐えてくれるか。
※毎度お手数をお掛けします、随所を微修正しております。
──……。
……ゆっくり、進めていこうな。
(温かく握り込まれた掌が、そっとそこへ──彼女が愛おしげに撫でた、神聖な場所へ──寄り添うように宛がわれ。一瞬呼吸を忘れたギデオンのまなざしに、ヴィヴィアンの熱がふっと移る。“無理をしていたかも”と大人しく認めた彼女に安堵して、“やっぱり今夜はこのまま眠ろう”、そう促すつもりでいたというのに。こんなにもいじらしく、こんなにも控えめに、それでもギデオンを渇望する……そんな小声を聞いてしまえば。さすがにもうこれ以上は、ギデオンのほうこそ無理をしていられない。
瞼を閉じ、その甘い栗毛に顔を埋め。穏やかな声で返しながら、絡めた相手の掌越しに、すべらかな腹をふわりと撫でる。薄青い目を静かに開け、もう一度相手の視線を絡めとれば。互いの目つきは、ぼんやりと甘い。呼吸も自然と溶け込んで……おそらく鼓動すら、同じ速さでトクトクと打っているのだろう。最早言葉で語らずとも、互いの意志は充分に伝わった。どちらからともなく顔を近づけ、互いの唇を溶け合わせる。絡めたままの掌が、ひそやかに、しめやかに動く。ベッドを覆う白布が、幾筋もの皴を描きだす。
──……最愛の不慣れな娘にゆっくりと手ほどきするのは、ギデオンの想像以上に満ち足りた時間だった。最初のうちこそヴィヴィアンも、まだ恥じらいを捨てきれずに、身を捩って逃げがちだったが。「……ずっと気になっていたんだが、このランジェリーはどうしたんだ?」なんて、白々しいほど明るい声で尋ねたり。猛抗議を喰らってしまえば、くっくっと笑いながらも、ご機嫌とりに抱きしめたり。そうして楽しく戯れながら、合間に妖しい愛情表現を差し挟んでいるうちに。……いつしか互いの顔も吐息も、夜の褥によく似合う、艶やかな色を帯びはじめる。
膨らんだ半月が窓の外へ出て行くまでに、彼女に数回ほど夢を見せた。初心な恋人は少し前まで、自分の身に起きた変化を俄かには信じられず、パニックに陥ってすらいたはずだ。それを思えばかなりの進歩で、本当ならこのまま、もう少し踏み込みたいところだが。──今日は、朝からいろいろあった。夜の話では二回も泣いて、体力も削れているだろう。これ以上深く追い求めたところで、キャパオーバーを押し付けてしまうだけとなる可能性が高い。そう引き際を弁えて、息の荒い彼女に顔を寄せる。汗の浮いたまろい額に、労わりのキスを贈りたかった。
このとき初めて、己の息も僅かながら浅いのを自覚し、自嘲気味に苦笑する。……これでもそれなりに、理性を保てていたはずだ。抑制剤を服用しているおかげで、我を忘れてしまうことなく、ただただ奉仕に徹していられた。……だが、もし薬を飲まなければ。もしもこの、薄い膜を張ったような感覚なしに、恋人の姿を直視すれば。そう思うと、やはり末恐ろしいものがある……つくづく自分を野放しにできない。無論、いつかはただありのまま、彼女と睦み合いたいのが本音だ。だが今はまだ、その時ではない。ヴィヴィアンには慣れが必要で、慣れにはどうしても時間がかかる。先を急ぎがちな彼女本人にも、そこのところはわかってもらわなければなるまい。ギデオンはヴィヴィアンが大事だ──決して、事を急いての過ちは犯したくない。
……けれど。今夜自分は、「忘れられなくしてやる」と……消えない証拠をくれてやると、愛しい恋人に約束したのだ。捧げられるままに純潔を摘み取ることは叶わずとも、せめて何か、代わりの何かはないだろうか。そう考えてふと、ヴィヴィアンの白い肌に目を走らせる。今夜のギデオンはそこに何度か唇を寄せていて……それでふと、思いついたのだ。「ヴィヴィアン、」と、まだ存外湿り気の残っていた声で、そっと恋人の名前を呼ぶ。「……キスマークは、知ってるよな」と。その単語を口にして初めて、今からしようとしていることの、あまりもの年甲斐のなさに、多少の恥を覚えたらしい。とはいえ、拭いきれぬ欲を孕んだ声音で。相手の耳に唇を寄せると、薄い腹に手を乗せながら、そっと相手に伺いを立てて。)
……今夜はまだ、ここまでしかしてやれないが。約束通り……おまえに痕を残したい。
二、三日か、長くても1週間ほどで消えるだろう。それでもきっと……俺たちの関係の、証になるようなものだ。
少し、痛むが……耐えてくれるか。
~~ッ、もう絶対着ませんから……!
( 最初に告げられた言葉の通り、優しい年上の恋人は、まるで繊細なラッピングを破かず解いていくかのように、乙女の身体をゆっくりゆっくりと拓いていった。時折、戯れに与えられる意地悪さえも、その言葉に恥入って、普段通りにじゃれあっていたそのうちに。いつの間にか、先程まで抵抗のあった位置へ手が伸びるのを、自然と許してしまう魔法のようだ。
声の出し方、手の置く場所、それら全ての作法を相手によって教えられ。初めて上らされた頂きも、その頂点で此方を優しく抱き締めてくれたギデオンに、甘く甘く褒められながら、余韻の最中ゆっくりと地上に下ろされて、蕩けきった身体は一度でそれを覚え込む。その上更に、それを待ち構えていたかのように、覚えの良さをも愛でる触れ合い音声に──……元来、この相棒に褒められることが、好きで好きで堪らない脳髄さえも、あれ程恐怖に繋がっていたシナプスを、次々と都合よく書き換えていく。そうして、──好き、大好き。と、一方的な奉仕に報いることも叶わずに、うわ言のように呟きながら、何度目も分からぬ恍惚からやっと下りてきた時だった。
ギデオンの熱い薄青が細められ、柔らかな唇が額に触れる。その美しいかんばせに、自嘲的な色が浮かぶのが何故か途方もなく悲しくて。「……ギデオンさん?」と、此方を見つめる顔を両手でそっと包み込めば、端的な質問をしてきた恋人の様子がいよいよおかしく感じられ。その様子をよく見ようと、起き上がりかけた時だった。湿ったシーツに手をついて、ちょうど力を込めた腹筋に、大きな掌がずしりと乗って、熱っぽいギデオンの声が甘ったるく鼓膜を揺らす。その瞬間、──きゅん、きゅんっ、と。明らかにあらぬところから湧いた"ときめき"が、口を通すよりその前に、直接触れている手へと答えてしまえば。身体中を桃色に染め、空いた手で顔を隠してしまって、 )
──ッ!? ………………くだ、さい、ッほしいの、
っく、くくっ……わかった、たっぷりしてやる。
(ああ、駄目だ。この手の遊戯に熟れた身して、本来はもっと色っぽく、悠然と構えてやるつもりでいたのに。それがヴィヴィアン相手となると、結局いつもこうだ……幸せな笑い声を、事あるごとにあげてしまう。しかし今回も今回で、どうしようもない不可抗力だろう。まだ一度も直接触れていないにも拘わらず、そこが切なげに収縮し。それに自分でも気がついて全身をぼっと染め上げるも、すっかり素直さを覚えた口は、ギデオンをまっすぐに求める。そんないじらしい娘のことを、どうして愛しく思わずにいられようか。
思わず力の抜けるような、不思議で優しい充足感に、目尻をくしゃくしゃにして微笑むと。寝台にねそべったまま身悶える恋人に、低い声でしっとりと囁き返し……求められるまま証を刻む。今のこの位置関係であれば、彼女の視界に映りながら覆い被さるわけではないから、怖がらせずに済むのだと学んでいる。ここからいずれは少しずつ、普通のそれにも慣れさせたいところだ……などと、ろくでもない野望まで抱く。何せヴィヴィアンは、こんなにも素直で、呑み込みの早い娘なのだ。きっといつかは、互いの心の望むままに求め合える日が来るだろう。その時まで──今は、まだ。綻びはじめた小さな蕾を、大事に愛でてやるだけだ。)
……なあ、ヴィヴィアン。
(──そうして。薄赤い痕をつけたことで満足したギデオンは今、相手の小さな頭の下に、己の太い腕を回しかけていた。所謂腕枕の状態である。なまじ鍛えている以上、単にそのまま差し込むだけでは、ヴィヴィアンの首の角度が大変なことになるのだが。彼女の下に薄い枕を挟み込み、細かく微調整したことで、あっさり解決したようだ。実のところ、この辺りの手際の良さは、ギデオン自身の過去の経験によるものなのだが……まあ、馬鹿正直に話す必要もあるまい。そんなわけで、彼女の横髪だったり、後れ毛だったり、至る所の柔らかな栗毛を、もう片方の手でなんとはなしに弄びながら。酷く満足気な声で、相手にそっと語りかけ。)
なんだかんだ……すごく、よかったな。
次にするのは、この印が消えた頃にしようか。
……ん、よかった、けど、
( 白い肌に小さく飛んだ赤い星。そこから広がる甘い痺れに、やっとこの人のものになれた気がして。硬いギデオンの腕の中、頭上から降りかかった優しい声へ。うっとり星を撫ぜていた手を、相手の腰にとそっと回すと。その指先に触れた布の感触と、続けられたギデオンの言葉に、未だ少し赤い頬をきょとりと傾げる。
──よかったかどうかと聞かれれば、それは間違いなくよかったに違いない。初めて覚えた感覚は、思い出すだに甘美で快く、ギデオンがしてくれた約束通り、嫌な思いなど少したりともしなかった。しかし、それは大好きな男の手ずから、触れられていたヴィヴィアンにとってはそうだが。未だこうして下履さえも残している男が、"よかった"と思える意味がわからず。今更、自分ばかりが愛でられていた事を自覚して、ぽやぽやとのぼせきっていた顔をしょんぼりと凹ませると。──それでもギデオンの励ましは、しっかりと作用したのだろう。慣れぬ刺激に身体の方は、流石にぐったりと限界を迎えているものの。ベッドに入る前と比べ、随分と余裕の出た表情を恥ずかしそうに赤らめて、むん、と強気に唇を引き結んで見せたかと思えば。顔の横で作った拳に、豊かな胸元が柔らかく形を変えるのも気づかずに、夜のベッドの上には余程似合わぬ爽やかさで、至近距離から意志の強そうなエメラルドグリーンを煌めかせて、 )
私ばっかり気持ちよくなっちゃってごめんなさい……
……"次"は私にも頑張らせてくださいね、フリーダさん達に色々教えてもらったんです!
──おま、お前……何を……あいつらに教わった……??
(“謝る必要なんかない”と、余裕たっぷりに囁きかけたその瞬間。魅惑のポーズをとる恋人の、その恐ろしいたった一言で……ギデオンは見事、恐怖のどん底に陥った。フ、フリ、フリーダ……よりによって、あの山賊どもから……? と。思わずふらりと、既に横になっているのに倒れそうな顔をする。
無理からぬ話ではある。ギデオンたち男性冒険者というのは、野郎だけで寄り集まるなり、くだらない猥談で花を咲かせる生き物なのだが。かの女山賊どもが繰り広げるダーティートーク、あれの強烈なえげつなさに比べれば、本当に赤子同然もいいところだ。「女というのは、あんなに恐ろしい生きものですか……」と、悠久の時を生きてきたはずのギルマスですら、ドン引きしていたほどである。……そんな怪物どもに、俺の恋人が、ヴィヴィアンが、と。最初に脳内を占拠したのは、これからの教育を憂う、遺憾極まりない懸念。しかし次第にふつふつと、“手つかずの無垢を先に穢された”などという、幼い嫉妬が沸き起こる。もっとも、相手が歳相応の知識を有していることは既にわかっていたはずだが、それとこれとは別問題だ。何せギデオンは、彼女らの“色々”がどれほどえぐいか知っている。しかし本来、ヴィヴィアンにその話をして恥じらう様を楽しむのは、この自分であったはずだ。
様々な感情の綯い交ぜになった声で、問いを投げかけたかと思えば。はたしてその答えが、ギデオンの想定内であったにせよ、なかったにせよ。“恋人のそういった知識にあいつらが影響している”という部分が、やはりどうしても許せないと思ったらしく。不意に体を軽く起こし、ヴィヴィアンの片手をぎゅうっと大きく握り込むと。その首に吸い付きながら、掌の内に意識を集め──お前が欲しい、今すぐほしい、と無言で強請るのは魔力弁。一度情事を引き上げたはずが、どうやら延長戦をおっぱじめる気満々のご様子で。相手に何かしら言われれば、「“次”は頑張ってくれるんだろう……?」と、どこか少しだけむくれたような、しかし開き直っても聞こえる、低く妖しい囁きを。)
へっ……!? なに、何って……
( 実のところはというと、頼もしい先輩方に仕込まれたのは、聞けば拍子抜けするような、女が男に捧げられる奉仕の基礎の基礎。しかし、年季の入った大人にとっては児戯の如き戯れも、生粋の純粋培養乙女にとっては非常に難易度の高い質問で。何か怖いものを見たような、気の遠い表情をする恋人を安心させてあげたい気持ちと、酷い羞恥の板挟みになり、かっかと頬を染めながら、小さく小さく縮こまると。──ええい、と。相手の耳元に顔を寄せ、例え掻き消えそうな声だとしても、必死の勇気を振り絞ったというのに。それを耳にした恋人の反応はどうだ。怒るでも安心するでも何かしらの反応もなく、おもむろに姿勢を持ち上げたかと思うと、ぷるぷると握りこまれた小さな拳をわり開かれて。「……ギデオンさん?」と、振り仰ごうとする首元へ、金色の頭が潜り込む。 )
ひっ……あっ、ギデオンさ、これ……!!
( 弱いところに吸いつかれ、擽ったさに身体を捩れば。わり開かれた掌に走る感覚に、はっと潤んだ瞳を見開く。先程同じ男に愛でられた、痺れるほどに甘い感覚。初めて覚えたはずのそれを、しかしビビの身体はどこか覚えがあるかの如く、不慣れながらに飲みこんでいた。その既視感にやっとのことで気が付いて、──まさかと、答えを知っているであろう恋人の側頭をぺたぺた叩くも。首元を震わすむくれた声音が既に答えだ。魔素を直接やり取りすれば、それもうはっきりべったりと、"見える"者には丸わかりの跡がつく。──じゃあ……、パパにも、おじ様にも……!! と、気の遠くなるような羞恥に、今度はこちらが目眩を覚える番で。
しかし、不遜な恋人を叱ろうと、一度身体を離しかけた瞬間だった。ちゅう、と吸いつかれた感覚に、ぶわりと全身が総毛立ち、魔法弁がひとりでに開く感覚が襲う。否、魔法弁は勝手に開いたりなどしない。その快感を知って己が堪らず開いたのだと突きつけられて。身体どころか、自分の意思もままならぬ混乱に、白い足の指先で既に荒れたシーツを更に乱すと。己の浅ましさを認められずに、栗色の頭をいやいやと振るその間にも、求めることに慣れきった弁は、早く早くと続きをねだる有様で。じゃあ止めるかと問われれば、真っ赤な顔をゆっくりと横に振るだろう。 )
ちが、ちがう……!
……私、おこってるんですから! こんな、知らなかったのに……!!
ん……、…………、
(ギデオンの横髪辺りをぺしぺしと咎めてみせる、いとも力ない手つき。しかしそれすら、情欲にますます火を注ぐ燃料なのだということを、相手はわかっているのだろうか。鼻腔を満たす石鹸の香り、不規則に跳ねる柔らかな肢体。這いまわる唇の下、ぶわりと上がる体温や、今はまだ貞淑に……でもどこか堪えるように……ぴくぴくしながら閉ざされている、魔力弁の感触さえ。己をどろどろに蕩かしてしまう、甘い甘い媚薬に他ならない。体中がぼんやりと痺れるような感覚に、酷く満足気に息を吸いこみ、震わせながらまた吐き出す。それだけでさらに慄く相手には悪いようだが、こちらはまさに夢心地だ。
──ギデオンは、未だ知らない。魔力弁を介した直接の魔素交換が、見る者が見てしまえば、どんなに鮮烈な痕を残すか。物体の魔素は幾らか読めるようになったところで、それよりもっと複雑な構造をした人体については、プロの魔法学者や医療従事者と同じ見方ができないのだ。故にその視覚的な影響については、一応無罪と言えなくもないのだが。この行為に伴う、摩訶不思議で……強烈な快感。それがいったい何に似ているかについては、寧ろ知り尽くしていただろう。
ヴィヴィアンとの戯れに暫く溺れていたものの、腕の中から抜け出そうとする動きを察知した瞬間。“嫌だ”“取り上げないでくれ”と。恋人繋ぎをした五指の先に力を籠め、己の掌をぎゅむぎゅむと押し付けた──そのリズム、抑揚。それがどこか、先ほどの遊戯のそれと似通っていたせいだろうか。ギデオンのそれが上手く吸いつき、抗えずにほろりとほどけた、彼女の器官の素直さに。一瞬はたと静止して、身じろぎしながら身を起こし、相手を見下ろす。困ったようにこちらを見上げるのは、一対のエメラルド。しかしその瞳は、混乱に潤みきっていて──思わず、その豊かな胸元に顔を突っ伏す。何を始めたかと思えば、逞しい両肩をぷるぷると震わせているのだ。途端に上がる悲鳴じみた言い訳、これがなんとまあ、彼女はこちらを退かせるつもりだったのかもしれないが、完全なる逆効果で。とうとう耐えきれずに声を上げて笑いだし、腕枕にしていた方の手を引き抜くと。またもぺしぺし叩いてくる手首をごく優しく奪い、下ろさせ。自分の手はまた枕元に戻してきて、相手の頭を撫でてやるのに使いながら。笑みの引ききらぬ悪い顔で、半月越しの今更な自白を。)
知らなかった、か……っくく、そうだよな。
覚えてるか? あの時、お前は“腰を抜かした”なんて言ってたんだ。
もうどれだけおかしくて……可愛くてたまらなかったか。黙ってるのには、ああ、本当に苦労した……
(憤激している可愛い恋人を、そうして意地悪く、笑いの発作の揺り戻しに耐えながら揶揄っては。相手の反抗なり何なりの勢いを、今も絶えず掌中を責め立てる欲張りな感触で、瞬く間に削ぎ落してしまう。──魔力弁が目に見えないのは、肉体上には存在しない特殊器官であるからだ。そんなにも繊細で摩訶不思議な、普通触れ合わない場所を、こうして自分の意志で動かし……相手のそれに食みつかせ、あまつさえ魔素を流し込む。これがどれほど楽しく、満たされる行為であることだろう。最初は余裕たっぷりに優位を楽しんでいたギデオンも、また息が上がり始めると、「なあ、ちゃんと……引き返せるうちに、確認したい。もし本当に嫌なら……」と、思い出したように尋ねるものの。林檎のように真っ赤な顔をした恋人は、弱々しく否と答えるのだから、もうたまらない。無言で唇を奪い、心置きなく彼女の中へ溺れ込んでいく。
──唇が痺れてしまえば、魔力弁に。魔力弁が力尽きれば、再び唇に。そうして飽きずに高め合ううちに、身体じゅうがどんどんと火のように熱くなる。あの月夜の船上や、昨夜過ごしたひとときとは違い、今日はふたりを隔てる物が少ない。そのせいで、彼女より魔法の素養が低いギデオンですら、半月前の彼女と同じ境地に近づけているようだ。パチパチと頭の奥で鳴り続けてやまない火花、それすらも心地好く。もう数時間も、先ほどのそれと似て非なる快楽を、今度はギデオンも一緒に追い求めていた時だった。
彼女をもっと昇り詰めさせたい、という欲望が沸き起こり、ふとあの夜の出来事をもう一度思い出す。あの時の彼女は、まだ睦事を知らぬ身だった……なのにどうして、“腰を抜かした”か。その解に辿り着いた理性は、「あとで散々怒られることになるぞ」と囁きもしたのだが。思いついたら止まれない──試さずにいられない。既に息の荒い彼女を、ますますぴったりと抱き寄せると。密に絡めあった掌中、すっかりほぐれた魔力弁に、己の熱い魔素をたっぷり流し込みながら。──いつぞやの冬、まだ一応は恋仲ではなかったころ。訳ありで呼んだことのあるその愛称を、本人の赤い耳元に。低く掠れた声色で……吐息交じりに囁いて。)
──ビビ……、
──……っ、ひどい、ひどい!
可愛くないもん! いじわる! 全然優しくない!!
( ──何も知らなかったのに。何も知らない、真っ白で綺麗なままだったのに。経験豊富な恋人の手で、否が応もなく染められていく感覚に、羞恥だけでなく、心地よい充足感がビビを満たして。未だ嗤っているギデオンへ、頬を真っ赤にした精一杯の悪口も。相手が此方を強く貪る光景を目の前に、自然と勢いを失ってしまえば。二人きりの闇の中、合わさった唇の隙間から、酷く満足気な笑みが小さく漏れた。
そうして、どれほどたっただろう。唇と掌、両方を使って、丹念に解された熱い身体は、少し加減を変えるだけで、面白いほど反応し、痺れきった唇からは甘く切ない悲鳴が漏れる。それでも、唇ごと食べられるようなキスはまだ良い方で。口内を満たす分厚い舌に、ビビはただ夢心地で貪られていれば良い。しかし、掌を介すそちらの方は、相手のキャパを超えないように、与えられた分だけの快楽を送り返す調整の、気の遠くなるようなもどかしさに、頭がおかしくなりそうだ。我ながらやけに耳につく、甘ったるい嬌声も聞くに絶えずに。こっちにしてとばかりに、薄い唇を何度も何度も啄めば、僅かに身動ぎしたギデオンに、ぼんやりと濡れた瞳を向けたその時だった。
小さな吐息に反応するほど、鋭敏にされた聴覚に、刺激の強すぎる低い囁き。今この瞬間、ビビの身体を貪り尽くす権利を持った男に呼ばれて、蓄積していた快楽が大きなうねりとなって全身を襲う感覚がした。太く逞しい腕の中、柔らかな肢体が激しく跳ねて、見開かれた目の縁からは、生理的な涙がこぼれ落ちる。先程教えこまれたそれよりも、ずっと激しく突き落とされるような感覚に、助けを求められる相手は、その突き落とした張本人しかおらず。咄嗟に回した広い背中に、女の爪痕が微かに残る。そうして、やっと降りてこられた感覚に、ドクドクと暴れる心臓の音を聞きながら、くたりと相手の胸へと持たれると。何が起こったのかよくわかっていない表情で、喉の痛みを感じさせる声で呼ぶのは、他でもない相手の名前で、 )
──……ッ、……ッ?…………?、??、
けほっ、……あ、なに、ギデオ"ンさ、ん"……?
──……ッ、~~ッ、、
(愛情、情欲、好奇心。それらを込めて魔力弁を舐り、耳元に低く囁いてみれば、ヴィヴィアンの反応のどこまでも期待以上なこと。しかし彼女を抱くギデオンは、その甘美な悲鳴を愉しむばかりでもいられなかった。触れ合う素肌全体からぶわりと押し寄せる、温かな快感の波……ただそれだけなら、まだ恍惚とするだけだったが。がっちり絡めた大小の掌、その内側の魔力弁で、理性を飛ばしたヴィヴィアンが、その豊潤なマナをどくどくと、断続的に……数瞬ではあれど……力強く流し込んできたのだ。瞬間、意識がぶっ飛んだ。息すらもできなかった。それまでは、大の男である自分が、自分より若く小柄な娘を、好き勝手に翻弄していた筈なのに。混乱に駆られる意識すらも保てず、ただただ忘我の境地へ追いやられ。全身を甘く激しく駆け巡る感覚に、いとも容易く己を塗り潰されてしまう。
……やがて、数秒後か、数十秒後か。あまりにも活きが良く、それでいてお利口な魔素が、ヴィヴィアン本人の躰の中へ、来た時と同じように素早く戻っていったころ。ギデオンはようやく、堪えていた息を「ッは、」と吐きだし、そこから必死に、荒い呼吸を整えた。今は夏だというのに、肺腑に取り込む空気がひんやりとして感じられる。頭に酸素が行きわたれば、ようやく多少の思考力も戻ってくる。……が、今さっきはあまりに意識を飛ばし過ぎて、正直何も覚えていないに等しい。せいぜいが、何か凄いことが起きていた気がする、くらいのものだ。遅れてやって来た、事後のそれに近い倦怠感に、ただぼんやりとしていると。己の声を呼ぶ声が耳に届き、気怠げに頭を動かしてそちらを見下ろす。小さな栗毛の頭が、ぴとりと己にくっついていた。どうやら彼女も彼女で、感覚の最果てから現世に戻ってきたところらしい。自分と違い、まだ新鮮な混乱をきたしたままでいる様子が、どうにもいじらしく。ふ、と脱力した笑みを漏らすと、何時間もきつく絡めていた手を緩くほどく。先刻まで淫靡な戯れに浸していた筈のそれだが、流石にこちらも疲れたのだろう、魔力弁が静かに口を閉ざしたのが何となく感じられた。そうして、夜気の爽やかさを掌中に感じながら手をもっていき、相手の頭をゆったりと撫でて。)
…………、気持ち……よかったな。
(さてはて、これはどうしたことか。ヴィヴィアンを愛でたり虐めたりするときは、あんなに饒舌になっていた男が、その一言しか絞り出せない有り様だ。別にそういうわけでなくとも、今宵何度も“経験”を積んだ彼女に、喉を痛めてないかとか、具合は平気かとか、真面目にかけてやりたい言葉が、あれこれ思い浮かびはするのだが。しかしいかんせん、この倦怠感が不思議と心地よくて……最低限以上の声が出せそうになかった。それでも、初めてのことだらけで不安だろう彼女を、少しでも安心させようと。相手をごく軽く、衣擦れの音も立ちやしないほど弱く抱きしめ、その旋毛に唇を寄せて。「俺もよかったよ」「頑張ったな」と、ゆっくりと相手に囁く。──しかし、今晩のギデオンは殆ど身体を動かしちゃいないのに、どうにも疲労が強いのか、強い眠気を隠せておらず。実際、相手にその辺りを訊ねられれば、情けないが素直にそうと認めただろう。それでも最後の理性で、いつの間にかベッドの端に押しやっていたデュベを引っ張り上げると、自分とヴィヴィアン、特に相手の方にしっかりと、風邪をひかぬようにかけ。相手の頭にすり、と高い鼻梁を寄せると、心地よさそうに瞼を下ろし。)
明日は……朝の鍛錬は……オフ日だから……
朝まで……ふたりで……ゆっくり……寝よう……
──……! おはようございます!
( 翌朝、ギデオンがベッドの上で目を覚ませば、薄青い瞳が開いたことに気がついて、その顔を心配そうに覗き込んでくる恋人が目に映るだろう。昨晩は初めての経験の連続に、ぐったりと疲れ果てた身体をシーツに沈め。やけに眠たげな男に自分がしたことどころか、そもそもギデオンの調子がおかしいことさえ気づけずに。一見優しい労いの言葉に、やっと愛しい恋人に少しでも応えられた実感が嬉しくて。心地好い眠りへの誘いに、へにゃりと小さくはにかみながら、重い瞼を閉ざしたヴィヴィアンだったが。早朝の薄寒さに──一糸まとわぬ姿というのに、折角かけてもらったブランケットを剥いでしまっているのだから当然である──ともあれ珍しくギデオンより早く目を覚ませば、目の前に晒される無防備な筋肉の凹凸と、ベッタリといつもの数倍濃く擦り付けられた己の痕跡に、朝一番、何とか悲鳴を飲みこんで頭を抱え込んだのは言うまでもない。しかし、一気に覚めた微睡みに、昨晩起きたことをじわじわと実感してくれば、心地好い満足感や、乙女らしい恥じらい、そんなものよりずっと大きく襲うのは、未だ目覚めぬ恋人への心配で。──自慢じゃないが。同棲開始当初、毎朝早くから鍛錬に行くという恋人に、己も連れて行って欲しいと強請った翌朝から、どんなに辛抱強く揺り起こされようと、結局起きられなかった実績を持つヴィヴィアンである。未だ仕事まではまだ随分余裕があるとはいえ、そんな自分が目覚めてギデオンが起きないという異常事態に。思い当たるのは、今この瞬間も相手の全身から放たれる、それはそれは色濃い己の魔素で。魔力酔い、ヒーラーの魔力への拒絶反応、魔法弁緊縮……この一瞬でもザアッと脳裏を過ぎった恐ろしい症例の幾つかに、真っ青になったビビが急遽動いたからか、それとも元々起きていたのか。やっと覗いたギデオンの瞳に、ほっとヒーラーとしての表情が緩む。そうして、己の一糸まとわぬ姿を自覚しているのかいないのか、四つん這いでシーツの間から抜け出すと。白い朝日のその下で、ギデオンの頭の横に手を着く要領で覆いかぶさり、もう片方の手をその肉付きの薄い頬へ伸ばすと、瞼の裏、首筋の脈、その他発汗の有無などを慣れた手付きでぺたぺた確認し始め、)
私、ごめんなさい、こんな、我慢できなくて……体調どこか気持ち悪かったりしないですか……?
(今年の春からヴィヴィアンの愛読書となっている鈍器……こと、『人体における魔素の機能と魔学註解』、その第2編1章曰く。
人体には“恒常性”、ホメオスタシスという性質が宿っている。“肉体はいつも一定の状態にあるべき”という、一種の思想にも似たもので、おそらくは安定した生命活動を至上としているかららしい。体の内外に何かしらの変化が生じると、このホメオスタシスが顔を出し、体を“いつもどおり”に戻そうと、様々な反応を引き起こす。このメカニズムのことを、“恒常性の維持機能”……動的適応能……アロスタシスと呼称する。
アロスタシスには様々なものがある。身近な例でいえば、“暑くて汗をかく”、“寒くて震える”などがそうだ。これらの場合は体温調節が目的だから、“生体恒常性”由来のアロスタシスとなる。……そう、素人にはどうにもややこしいのだが、一口にアロスタシスといっても、医学的便宜上、2種類の別があるらしい。では、“生体恒常性”由来でないほうは何なのかといえば、“魔径恒常性”由来なのだそうだ。魔径というのは医学用語で、魔素が体内を循環する回路のことを指す。つまり、人間が宿す魔素──すなわち魔力にも、恒常性の法則が当てはまることになる。
──昨晩のギデオンは、ヴィヴィアンとの交歓により、体内の魔素が急激に上昇した。ヴィヴィアンが最後に流し込んだ魔素は、そのほとんどが本人の方に戻っていったとはいえ、残滓の量ですら莫大になったからだ。ギデオンは魔力の保有量が生来そう高くはないから、これは体にとって異常事態といえるだろう。ならば必然、強烈なアロスタシスの発動、反動じみた押し戻しを招くことになる……はず、だったのだが。)
………………
(──恒常性、ホメオスタシスには、実は面白い例外……というより、応用の現象がある。肉体の状態を一定に保つ、それを至上とする性質であるはずが、その個体の置かれている環境や活動量次第で、“恒常”の定義が、普通のそれからズレていくことがあるのだ。
生体恒常性の例で言えば、大昔にいた飛脚たちの特異な体がそれだろう。日々長距離を駆けることを生業とする彼らは、普通の人間に比べて心の臓が強くなる。すると、一度に送り出す血液の量が多くなるので、安静にしているときの心拍数がぐんと下がり、常人の半分ほどに落ちるそうだ。血液の総循環量では何も変わっていないだろうが、心拍数という点に着目すれば、これは明らかな“恒常性の変化”であるには違いない。
生活次第で体は変わる。特殊な要因に長く馴染んでいればいるほど、体の方が順応し、“いつもどおり”を書き換える。それと同じ現象が、実はギデオンにも、たった今起こり始めていた。
この1年、何度も何度も馴染んできた、ヴィヴィアンの魔素。数えきれないほど窮地を救ってくれたのを、もはや肉体の方が強く覚え込んだ魔素。その名残が、体中のあちこちにたっぷりと残留し、ギデオン自身の宿す魔素に抱きついて離れない。まるで宿主のヴィヴィアン自身が、普段ギデオンにそうするのとそっくりに。
──ギデオンの体に備わっている魔径恒常性は、それを異常事態であると判定しなかった。寧ろ好ましく感じてすらいるようで、“何だ何だ?”“あ、コレいつものあの娘のじゃん”“じゃあ取り込め取り込め”といった具合に、体内の魔素が覚醒時よりも活発になる始末である。となると当然、その奇妙で不慣れな現象に、肉体が疲弊するのだが。それを認識した脳の方が、とんでもない指令を各所に送り込みはじめた。すなわち、“この魔素何回も貰ってきたけど、なんか今回すげえ爆弾供給来たし、これもうこの先も安定して得られるんじゃね”“じゃあこっちのほうが先方に合わせて変わればトータル得よな、各々よろしく”“いいじゃんいいじゃんやったれやったれ”と。ヴィヴィアンの魔素が次にまた大量補給されれば、もっと上手く取り込めるようにと。──ギデオン自身の体のほうを、作り変えることにしたようだ。)
*
…………ん……
(──まるで泥のように昏々と眠り込んでいた、その果てに。体の方が、“今日のところはまあここまでにしておくか”と、ギデオン本人も与り知らぬ突貫工事を、一度引き上げたからだろう。すぐそばで起きた身じろぎの気配を感じ取れるようになり、ギデオンはそこでようやく、ごく自然に目を覚ました。
……何故かすぐ目の前に、ヴィヴィアンの顔がある。なんだか随分真剣な顔でこちらを見ているな、と知覚することはできたのだが、こちらを心配しているのだと理解するには、ギデオンの頭はまだ酷く寝惚けていて。……なんだ、珍しいな。おまえのほうが、先に起きているなんて……そんなようなことを、呟くまでも至らずにぼんやり考えていたところ。
恋人はさらに身を寄せてきて、ギデオンの顔周りをあちこちぺたぺた触り始めた。最初はただされるがままだったギデオンも、やや困惑しながら「……いや……」「特には……」と返すうちに、視界を占める肌色の多さがやけに多くておかしいことを、少しずつ認識しはじめる。その表情がだんだんと、いつもの──お約束の真顔の──それに戻りだし、やがてはぴたりと、それは見事な硬直と共に完全な理解へ至る。すっかり覚醒したギデオンの視界、愛しい恋人はその瑞々しい肢体を惜しげもなくさらけだしてギデオンに跨り。あろうことか、ギデオンの目の前に魅惑の果実を並べているのだ。何ならそれは、いやに真剣に診断している本人が無自覚なせいで、ギデオンの胸板の上でごく柔く撓んでいるし、彼女が身じろぎするたびにむにむにと弾力を伝えてくる始末だ。そこから無理やり意識を逸らそうと、他の何かに感覚を向けた瞬間……びきり、と眉間の皴が深まった。ギデオンにその自覚はないものの、一晩で何やらいろいろあったらしい体は、主人がぐっすり眠りこけていた間に、例の大事な薬の効果をすっかりどこかへ追いやってしまったらしい。まあ、別にこんな状況でなくとも、生理現象として朝はある程度このようになるのだが……なんかもう、これはもう、いろいろと駄目だろう。思わず苦し気な呻き声を喉から絞り出し、その表情もそれにたがわない色となれば、相手をぎょっとさせてしまうには違いないだろうが。目を閉じながら、安心させるために抱きしめるべく、相手の背中に腕を回しかけ──がちりと空中で制止させれば。その大変珍妙な、中途半端な状態を数秒晒したかと思うと、両腕を力なく下ろしてしまいながら、目覚めたてだというのに疲れた声で自己申告を。)
気持ち悪くはないが……誰かさんのせいで……おかげで……“具合が悪く”は、なってるな。
※神経をモチーフとしていることや漢字そのものの語義などから、「魔径」は誤りであり、「魔経」が正しい語となります。めちゃくちゃ細かいところなのですが、お詫びして訂正申し上げます……
※補足2/リアル生物学の恒常性・その維持機能・動的適応能の解釈を思いっっっきり間違えていたことに今更気がつき頭を抱えているのですが、それっぽいエッセンスとしてふわっと読み流すか、Petuniaにおいてはこのように解釈するということにしていただければと思います…………深くお詫び申し上げます……………………
……ッ!! ごめ、ごめんなさい!!
( 朝の空気で満たされた清々しい寝室に──ひゃあ、とも、きゃあ、とも取れぬ、高い悲鳴が間抜けに響く。それを見たのはグランポートのビーチから史上3回目にもなるが。昨晩さんざん艶冶に戯れておきながら、一向に慣れぬ様子で飛び退くと、拾い上げたデュベに包まりながら、両手で隠した顔をぽぽぽっと勢いよく染め上げる。──そうして、きっとこれまでならば、顔を隠して困ったように震えながら、優しい恋人がビビに何かをに謝って、そっと離れてくれるか、収めてくれるのをただじっと待っていたろう。しかし、男が凡そ朝に"こう"なることなど預かり知らぬ、開花を直前に控えた娘は、相手の体調に問題が無さそうだという安心感と、昨晩を無事乗り越えられたことで、少し気が大きくなっていたらしい。──私のせい、なら……。そうデュベを纏った手を下ろし、自分のせいでそうなったという場所を、揺れる瞳でじっと見つめると。滑りの良い薄手の掛布団がするりと優美な曲線にそって流れ落ち、白いデュベ、白い肌、その間に結局淡い色のそれを覗かせる。そんないっそ何も纏わぬ方が余程破壊力の少なかったであろう有様で、困ったように桃色の唇を数度噛み、濡れた瞳に覚悟の色を浮かべると。二、三度相手の唇に吸い付いて、相手の下半身へと身を屈めながら見せた上目遣いは、これまでギデオン相手に大抵のおねだりを通してきた、自覚と自負のある渾身の表情で、 )
…………、……ギデオンさん。
触って、いい……? "これ"、私のせいなんでしょう?
(てっきり、悲鳴を上げながら飛びのいた後は、「人が心配してたのに!」とぽこすか怒るに違いない、そう踏んでいたものだから。首の後ろを掻きながら気怠げに上半身を起こしたギデオンは、相手のいやに艶めかしい姿から、ごく自然に、さりげなく、ここに紳士極まれりといった具合に、その端整な顔を逸らしてみせた。──だからまさか、向こうから甘い唇を寄せてくるとは思いもよらず。目を大きく瞠り、離れていった相手を唖然とした顔で見下ろして。そうしてひとしきり間抜けな硬直を晒していると、己の恋人はあろうことか、ギデオンの愚直なそれに関心を寄せ──酷く淫らに、強請ってくるのだ。一瞬、飛んだ。思考が。宇宙に。)
────…………
(真っすぐにかち合う、呆然としたターコイズと、意志の強いエメラルド。爽やかな朝陽が窓辺から降り注ぐ、全てが明るい寝室で。どこからかカラドリウスの鳴き声がチュリリリリと聞こえてくる中、話題のそれを真ん中に挟み、男と女が無言でじっと見つめ合う有り様は、実に妙ちきりんである。……これが夜の寝しなであれば、ギデオンは然程迷わず、促してみせたのだろう。閨事への一歩として、また自身の素直な欲望に従って、相手の興味の赴くがままにさせてやったことだろう。しかし今は朝、健全なる晴天の時間、これから一日が始まろうという至極大事な出だしであり、ついでに言えば……というか、そういえば仕事前だ。それを恋人可愛さで台無しにすることを、ギデオンの強靭な理性、もとい鉄骨の逃げ回り精神が、良しとするはずもなく。)
──、“ビビ”、その勉強は後だ。
朝食を作るから、下でシャワーを浴びてこい。……お前のほうこそ、俺のせいでどろどろになってただろう。
(はたして昨夜の名残だろうか。普段は呼ばない相手の愛称を、今度は明らかに子ども扱いする文脈で呼びながら、戒めるような声音で、ぶっきらぼうな命令口調を。しかし、最低で余計な一言をわざわざ付け加えたのは、はたして相手への揶揄いか……或いは、単なる天然によるだろうか。いずれにせよ、“それ”はなしだとはっきり態度で示すように、広い背中を向けながら寝台を降りようとして。)
※ストーリー上は全く重要ではないものの、魔法医学上の考察がある程度固まり、主人公ふたりに対する新解釈も得られたことから、先述のロルに記載した内容の修正も兼ねて共有させていただきます。
・人体の2大要素
ひとつの生命は,肉・骨・神経などからなる物理体こと「生体」と,魔素から成るエネルギー体こと「魔導回路」の2種類の要素から成り立つ.
→魔導回路は生体の上に重なっているが,通常の肉眼には見えない.ただし,魔法的素養があれば,通常のそれとは異なる形で“視認”することができる.
→魔導回路は生体に依存する.魔導回路が急激に弱ることで生体に支障をきたすケースもあるが,魔導回路の自然な弱体化は,生体に悪影響を及ぼさない場合が多い.一方,生体に何らかの弱体化が起こった場合,それが自然であろうと急激であろうと,必ず魔導回路にも影響を及ぼす.人間の生命はまず生体を礎として成り立ち,その更に上に乗っている魔導回路によって応用的な生命活動を行う,ということになる.
→人間の精神は,神経がある生体のほうに比重を置いて依拠している,とするのが一般的な見解である.無論,魔導回路が精神に影響を及ぼすことについての研究も数多く存在するが,今回は割愛する.
・魔導組織
→「魔導細胞」:魔導回路を構成するエネルギー体.生体でいう生体細胞.
→「魔髄」:魔素をつくりだす組織.生体でいう骨髄.
→「魔導脈」:体内に魔素を循環させる組織.生体でいう血管.
→「魔力弁」:体の各所を流動的に流れていて,魔素を吸収・排出する器官.生体でいう口腔.
→「魔経」:魔導細胞のうち,各組織に指令を送るものから成り立つ組織.生体で言う神経であり,実際に脳神経と密接に結びついている.
・恒常性,ホメオスタシス
体の内外で何か変化が生じても,体内環境を一定に保とうとする,人体に備わった性質及び働き.全てのストレス反応の基礎となる.
→「生体恒常性」:生体に関わる恒常性.「体温を維持するため,暑いと汗をかく/寒いと震える」などがある.
→「魔導恒常性」:魔力に関わる恒常性.「魔力量を維持するため,魔力の増減に合わせて魔力弁を開閉する」などがある.
・動的適応能,アロスタシス
体外環境の変化や急なストレスなどにより,恒常性の収束点(目標,定義)を現条件に即したものに変え,それに合わせて生体・魔導回路を変化させる,人体に備わった働き.短期,長期の別がある.また,ホメオスタシスとは違い,原因となる特殊条件がなくなれば消失し得る.
→「生体適応能」:生体に関わる動的適応能.「魔獣と遭遇し,心拍数が急上昇する(短期)」「砂漠に身を置かれた生体が,発汗の代わりに血管の拡大で放熱を行おうとする(短~長期)」「長距離走者の心臓が強化されて安静時の心拍数が半減する(長期)」などがある.
→「魔導適応能」:魔力に関わる動的適応能.「多くの魔力の出入のため,魔導回路が太くなる(短~長期)」「魔力弁が強くなる(長期)」などがある.
・動的適応能過負荷,アロスタティックロード
過剰なアロスタシスに曝され,それが閾値を超えた場合に,肉体・魔導回路がそのストレスに耐えられず,何らかの支障をきたすこと.
→「生体適応能過負荷」:生体に関わる過負荷.「過労により倒れる」「心的ストレスに追い詰められてうつ病をきたす」などがある.
→「魔導適応能過負荷」:魔力に関わる過負荷.「魔力の過剰放出により魔導回路が弱り,そのベースとなる生体にまでストレス症状が及ぶ(=魔力切れ)」などがある.
・可塑性
人体医学・魔法医学における「可塑性」とは,経験や学習により,ホメオスタシス・アロスタシスなどを出力する指令回路が変形し,その形状が保持されることを指す.この性質上,何らかの必要が生じた場合,可塑性→アロスタシス→ホメオスタシス,の順で影響を及ぼすことになる.
→「神経可塑性」:生体の神経(≒シナプス)を書き換えること.一般的な事例で言えば,「生活王の工夫や運動療法などにより,脳卒中患者の後遺症が緩和される」「指を動かす神経細胞が死んでも,リハビリを行うことにより,手首を動かす神経細胞がその機能をも果たすようになることで,指を動かせるようになる」などがある.また.房事にトラウマを持つビビがギデオン相手にそれを寛解させたのも,この神経可塑性によるもの.
→「魔導可塑性」:魔導回路の神経(=魔経)を書き換えること.身近な事例で言えば,「何度も練習することで魔法を行使できるようになる」などがある.また,魔力に乏しいギデオンがビビ相手に自身の魔導脈を適応させはじめたのも,この魔導可塑性によるもの.
・ギデオンの身に起きたこと
ビビの魔素の大量注入は、本来であれば、ギデオンの魔導恒常性の侵害となる。ただしギデオンの魔経は、これまでの学習から自身の魔導回路を書き換えることを選び、魔導適応能の発動を開始した。この際生じた負荷により、一時的に深い睡眠を余儀なくされた。今後、繰り返し魔導適応能を発動することにより、ギデオンの魔導回路の恒常性が変化していく(=負荷が軽減していく)可能性がある。つまりビビのみに限らず、ギデオンの体もまた、相手の影響で大きな変化を遂げている。
……っ、……はぁい。
そうですよ、全部ギデオンさんのせいなんですから、忘れないでくださいね。
( ぶっきらぼうな命令口調に、それまで此方を見つめていた瞳が、くるりと身体ごと逸らされる。乱れきった寝台の上、随分と心許ない格好をした娘は一人残されて。渾身の"かわいい顔"は不発で終わってしまったものの、この顔で駄目な時は本当にどうにもならないと知っている故、不満げに唇を尖らせながらも、素直にアッサリと引き下がる。目の前の恋人の、紳士ぶった冷静な仮面の隙間から、一瞬覗いた葛藤の色。昨晩までその一片も、故意に揺らがすことの出来なかった──と、少なくともビビはそう思いこんでいる──鉄壁の理性を思えば、その隠しきれなかった顔色だけでも充分だ。しかし、それに伴い唱えられた愛称に、昨晩の甘美な悪戯を思い出せば、再びふっと息を詰めさせられた仕返しに。それ迄まとっていたデュベを放り投げると、無防備に向けられた背中へ勢いよく飛びつき、その首筋、耳元へ軽いリップ音を響かせる。そうして、この限りなく幸せな状況を作り上げたのは、ギデオンの責任、もとい選択なのだと言い聞かせれば。相手が動じたかどうだったか、振り落とされでもしない限りは、「階段の下まで連れてって欲しいな~」等と可愛らしく甘えられたのは、やはりまだ寝惚けていた節も大きかったのだろう。
それから、四半時ほどたっただろうか。手段はいずれにしても、たどり着いたバスルームにて。朝起きた時から分かっていたつもりだったが、そこに備え付けられた姿見で、最早ギデオンの痕跡がない所を探す方が難しい己の惨状を目の当たりにしたヴィヴィアン嘆きといったら。いつも通りの装束にかっちりと身を包みながら、ダイニングテーブルに顔を埋めた娘は、彼女が何を怒っているのか要領を得ない恋人に、ここで初めてマジカルキスの視認性を説明することになる。そうして時折、羞恥に染まった頬を、冷たいグラスで冷やしながらも。この一年、嫌々ながらビビの相談に乗ってくれた魔法医はともかく、ギルバートがどう思っただろうか想像するに、しょんぼりと垂れた頭上で揺れる紅い耳までも、心做しか萎びて見える有様で。 )
──……本当に! 本ッ当にギデオンさんのせいですから!!
こんなんじゃパパに会えないじゃない……
──ッ、……お前なあ……
(いつぞやの子トロイト並みの勢い、ではなかったにせよ。わんぱくな恋人が飛びついてきた際の衝撃を、大きく和らげたものがあった。──もはや布一枚も挟んじゃいない、御本人のたわわなそれだ。その感覚がもたらす悩ましい誘惑のほどを、わかっているのかいないのか。当のヴィヴィアンは、それをこちらにぎゅむぎゅむと押し付けながら目いっぱい甘え倒し、寝惚けたことまで囁いてくる有り様だ。全くもって、自由奔放な娘である。
肩越しに相手を振り返ったギデオンは、呆れを隠さぬため息を吐き。ベッドのデュベを引っ張り上げるや否や、彼女の優雅で素晴らしい肢体を、蚕繭宜しくぐるぐる巻きにしてしまった。そうして、くすくす笑いか、不満の抗議か、いずれかの声を聞き流しながら。お望み通り脱衣所に──ちょっと八つ当たり気味に──荒っぽく放り込むなり、ばたん、と強く扉を閉ざす。そこでくるりと背を向けて、再びため息を零しながら、ふと視線を落としたのは……己の臍の下辺り。主人が頑なに被っている気怠げな仮面と裏腹に、やんごとなき何かしらは、引き続き元気いっぱいなままであった。まったく、調子を狂わせてくれるな……と。髪をぐしゃぐしゃ掻きながらキッチンに向かう横顔は、本人の自覚する限りでは、ぐったりと疲れているだけのつもりでいたが。──10年ほど前のギデオンを知っている者が見たなら、きっと。なんだ、随分幸せそうに暮らしているじゃないか……なんて。面白おかしく、しみじみとした声音をもって揶揄ったことだろう。)
(──さてはて。ふたりの暮らす明るい家では、引き続きそんな感想が投げかけられそうな光景が、朝から繰り広げられている。何かといえば、テーブルに顔を突っ伏しながら腹を立てているヴィヴィアンと、新鮮なサラダを深皿に取り分けながらたじたじしているギデオンの図だ。
ヒーラーという職業上、魔法医学を専門分野とする彼女曰く。ギデオンとヴィヴィアンがこのところ嵌まっている、魔力弁を介した交歓は、互いの体にべったりと、キスマークのようなものを塗りつけてしまうらしい。この行為がそのまま、とある界隈では“マジカルキス”と呼ばれているアブノーマルプレイであり……実は欲望に素直な者同士、そうと知らぬまま自然に辿り着いてしまった……なんてことまでは、未だ露知らぬ二人であるが。とにかくこの、互いの魔素が体じゅうに塗りたくられて、見る人が見ればまるわかりになってしまうことが問題なのだ。私たちは魔力弁を使って気持ちいいことをしていますよ、と、自ら周囲に知らしめてしまうわけである。
若い時分は放蕩であったが故に、少々感覚のズレたところがあるギデオンも。それは確かに問題だな……と、気まずそうに口を噤む。ヴィヴィアンと耽るあの行為は、非常に楽しくて仕方がない。しかしだからといって、彼女に恥をかかせても平気というわけがない。それに彼女の父、ギルバートにしてみれば。ギデオンは最早、単なる情事より深く、ヴィヴィアンを染め上げてしまっているのだ。歴然たる歳の差……冒険者歴の違いによる不均衡な力関係……相棒関係を利用した(ように見えても仕方のない)囲い込み……ギデオン自身の若い頃の素行……ヴィヴィアンが初恋の恩師シェリーの娘であるという事実。それらに加えて、今回の意図せぬ公開処刑、とくれば。なるほどなんとまあ、大事なひとり娘が付き合っているという相手の男は、随分な屑野郎である。昨日のように激怒するのも、致し方のないどころか、寧ろ当然の然るべき話だ。
そう、わかりはするものの。全部がこちらのせいだと罵られ、黙っていることができようか。自分の手の内で、昨夜の彼女はあんなに淫らに悦んでいたではないか。第一、昨夜に限らずその前の晩だって、遅くまでずっと楽しく戯れていたではないか。周囲の目の問題は考えなければならないにせよ、それはそれとして、と。相手の皿に焼き立ての目玉焼きとベーコンを滑り込ませながら、自覚のあるきまり悪さに分かりやすく顔を逸らしつつ、ぼそりと小声で言い返し。)
──……、お前だって嵌まってたし……気持ちよさそうにしてただろう。
そっ、そんなこと……そんなこと、……ぅもん……、
( そんなこと、言われるまでもなく自分が思い知っていることで、大体そういうことを言っている訳じゃないのだ。普段は愛しい、これだけの年の差を持ってして、案外余計な一言を黙っていられない恋人の可愛らしさも、今は全くの逆効果だ。真っ赤な頬を膨らませ、「ありがとうございます!」と、ギデオンが目玉焼きを放り込む皿を両手でそっと抑えると。──昨晩に一昨日の番、さらにその前の晩も、前の前の晩も。覚え込んだ快楽を目の前に、無理やりどころか自らもっとと願った記憶があるだけに、相手へと向ける視線や口調が強くなるのは、自分でも八つ当たりだと分かっていて、糾弾する語尾がじわりと弱る。
ところで、ビビはパンのバターはたっぷりと耳の縁まで塗ってから、こんがりときつね色になるまで焼き色をつけたい派なのだが。未だ忙しなくダイニングに立って、香り高い珈琲を入れてくれている恋人の一方で。当たり前のように腰掛けて、"私、怒ってます"と、ゆで卵のような眉間に皺を寄せ、きゅっと吊り上がった目元を恋人に向けながらも、「お願いします!」と、たっぷりバターを塗りたくった白いパンを差し出す娘の、いつものように焼いてもらえると信じて疑わない様は、ここ数ヶ月のギデオンによる甘やかしの賜物で。それ以降も、諦め悪くぷりぷりと口では文句を言い募りながら。ギデオン相手となると、どうしてこうも警戒心が仕事を放棄するのか。しばらくして、はっと"良い言い訳を思いついた!"とばかりに、大きな瞳を輝かせれば。その怒っている当人に向け、どこか褒めてほしそうな節まで感じる、無邪気で自慢げな表情を浮かべて見せて。 )
違うもん。私はっ、……知ってたらしなかったし──……!
ギデオンさんがしてくれること、全部好きになっちゃうんだから、ギデオンさんのせいだもん……ね、そうでしょ?
っく、っくく──ああ、いや、いや。
お前がそう思うなら、それでいいんじゃないか。……なあ?
(ずっとギデオンに怒っていたはずの恋人が、いきなりぱあっと、やけに顔色を明るくしたもんだと思ったら。「ふふん、どうです! 言い返せないでしょう!」なんて言わんばかりのご尊顔で、とんでもない事を堂々と抜かしてくるのだ。ギデオンは一瞬、はたと虚を突かれた顔で静止し……かと思えば次の瞬間、思わず目尻をくしゃりと歪め、口元に拳を当て、明後日の方を向いてしまった。片方の手こそ朝食のために動かし続けているものの、その様子はどこから見ても、笑いを堪える有り様である。
──いやはや全く、本気でどうしてくれるつもりだ。己は曲がりなりに、肉体的にも精神的にも、きちんと成熟した女性を好んでいたはずなのだ。それがどうして、ヴィヴィアンは……いや、無論彼女とて、どちらも充分大人びた、一人前の女性であるが。それにしたって、時々自分の前でだけ、どうしてこうも殺人的にあどけなくなる。己の中の嗜癖の形が、めきめき歪んでいくではないか。責任をとってもらいたいのは、むしろよっぽどこちらの方だ。だというのにこの娘は、こんな得意満面の顔で、途方もない告白を無自覚にかましてみせて──。
そんな愉快さに耐えかねての沈黙も、長く続ければ新たな火種になり得るだろう。喉仏を未だ低く震わせつつ、きちんとそちらに向き直り、“気にするな”というように、ひらひらと手を振って。やけに含みのある言い回しで、相手の言葉を面白そうに肯定すれば、胡乱気なエメラルドの目を向けられるやもしれないが。グリルからきつね色のパンを二枚取り出せば、相手の顔がまたぱああっと無邪気に輝きだすのだから、また必死に発作を堪えて。
……そうして、いよいよ己も食卓につき。簡単な祈りを捧げてから、ふたり一緒に今日もまた、同じ朝餉を取り囲む。他愛ない会話をして、仕事のあれこれを共有して。そんないつも通りの朝を過ごしながら──次はいつ、ヴィヴィアンを抱けるだろうかと。そんな不埒なことを腹の内で考えていたのは、ここだけの秘密である。)
(──さて。それからの数日間は、ごく平和に過ぎていった。先日あれだけの大騒ぎを引き起こしたヴィヴィアンの父、ギルバートだが。やはり帰国時の無理が祟ったらしく、一日のほとんどを眠り通しているらしい。一応はヒーラーなり魔法医なりが、交代制で24時間傍についているとのことで、「心配は全く御無用」とギルマスのお墨付きである。……人件費が随分飛んでいるはずだが、何せ相手がVIP中のVIPだ、カレトヴルッフとしては政治的な意図もあるのだろう。ギルバートが休息している間、代わりに魔導学院と連絡も取ったようで、この騒動の諸々の懸念は、一旦綺麗に保留されたことになる。
それを崩すきっかけをもたらしたのは、隣のマーゴ食堂だ。その日の朝、カレトヴルッフのギルドロビーには、夜明けの酒を残した酔いどれ連中がぐうたらとたむろしており。とうとうマリアに見咎められ、説教役にギデオンも呼ばれて、ふたりしてこんこんと、 “国内最高ギルドに勤める冒険者としての心得”を説き聞かせていた、その真っ最中。「──ちょっとあんたたち、人手足りてる!?」と血相変えて飛び込んできたのは、マーゴ食堂のベテラン従業員こと、ヨルゴスの妻アンドレアだった。「ねえ、大変なの! うちのテッポ爺さんが──リブステーキを5切れも残して帰ったの!」
一体それのどこが大変なのだ、と不思議そうに首を傾げたのは、まだ年若い、二十半ばかそこらの奴らだけだったに違いない。年季の入ったベテランたちは、皆一斉に顔色を変え。酔っぱらっていた親父どもすら、ぎょっと正気を取り戻した。装備は!? 馬は!? ホセのバカは今どこにいる──アリスのパーティーを連れ戻してこい! こんな具合で、“国内最高ギルド”のベテランたち全員が、一気に臨戦態勢である。
騒ぎを聞きつけて医務室から飛んできたヴィヴィアンと、その周りに集った若者たちに、ギデオンのほうからわけを話すことにした。──“マーゴ食堂のテッポ爺さん”というのは、実はカレトヴルッフにとって、恐ろしい占い師なのだ。といっても、本人にその自覚はない。少なくともギデオンが子どもだった30年以上前から、そこらをふらふら浮浪している、ただのぼけた爺さんである。けれども、マーゴ食堂のマーゴ婆さんとは何か縁があるようで。毎日一食、どんなメニューでもただで振る舞って貰えるという温情にあずかっており、ほとんど毎晩マーゴ食堂に通いつめ、隅っこの方の席で、いつも慎ましく日々の食事を楽しんでいた。マーゴ婆さんの懐の広さの素晴らしいことといったらないが、テッポ爺さんもテッポ爺さんで、ぼけていて尚礼儀正しく穏やかな、非常に気のいい人物であるから、食堂の常連であるカレトヴルッフの冒険者たちも、皆彼を気に入っている。ベテランたちで日々代わる代わる、独り者の爺さんの相席をしに行っては、爺さんの痴呆によって上手く噛みあわない頓珍漢な会話を、それでものんびり楽しんで過ごす……そんな伝統があるほどといったら、どれほどの関係か想像がつくだろう。──しかし、問題がただひとつ。歳のわりに健啖家、おまけに店主マーゴさんに対する恩もあって、普段は決してパンくずひとつ食べ残さない爺さんが。それでも「気分が悪くてのう……」などと、何かを残してしまうとき。それはすなわち、“非常に厄介な魔獣が王都付近に出没する”という、揺ぎ無いジンクスがあるのだ。チキンのグリルを残すなら、ステュムパリデスの群れの飛来。フライドポテトを残すなら、大型ヒュドラの毒霧拡散。──そして、リブステーキを4切れでなく、5切れも残したというのなら……それはすなわち、この人口豊かな王都のそばに、ドラゴンが出るということだ。戯けた迷信と思うかもしれないが、ぼけた爺さんの食べ残しがたしかに災いを予言することを、ギデオンたちベテランは皆、その数十年の経験をもって、真実であると知っていた。しかもたちの悪いことに、爺さんの予言というのは、間隔が開けば開くほど、次の被害が大きくなると示す性質を帯びている。ここ4年ほどは毎日欠かさず食べきっていたはずだから……それが久々に破られた、しかもこれまでの法則からして今回はドラゴン、となると。そりゃあもう、ベテランたちが慌てふためくのも無理はない、というわけだ。
この話を聞いて尚、いまいちピンと来ていない若者たちに、本当なのだと告げるが如く。カレトヴルッフのエントランスに、いきなりよそ者が──王軍の伝令兵が飛び込んできた。北の国境警備隊から、国外のドラゴンが侵入したとの報が入り。軍の各所が引き継いでその個体を監視したところ、キングストン近郊の森に降り立った、との話である。詳しく聞くに、ドレイク種──つまり、空陸水全てを駆ける万能型ドラゴンで、黒い胴体、赤い翼、多頭という特徴から、ヴァヴェル竜と目される。途端に、ベテランたちは皆一斉に、「やっぱりか!」と呻き声をあげた。ヴァヴェル竜は土属性のマナと反発する体質ゆえ、地上で少し暴れただけで、大破壊を引き起こす。つまり、並みいるドラゴンたちの中でも、地に足つけて生きている人間が戦うには、非常に分が悪い相手なのだ。一応は外来竜なんだから王軍が処理しろよ……と、誰かが文句をつけようとするも。そこは事態をまとめにきたギルマスが、視線ひとつで黙らせた。カレトヴルッフは王室からの信頼も厚いギルドだが、だからこそ、王軍と揉めてしまうのは宜しくない。体良く現場処理を擦り付けられた感は正直否めないものの、ここはひとつ。職務を果たして恩を売り、今後の切り札にしてしまおう、という目論見である。
そんなこんなで、通常の雑務諸々を返上しての、大掛かりなドラゴン狩りが決定した。と言っても、ギルドを空にしては他の有事に備えられないので、今の人出の半分は、王都に残ることになる。その中で、ベテラン戦士のギデオンはともかく、まだ大怪我から復帰したばかりのヴィヴィアンは、留守番組に回されるものだろう、とてっきり思っていたのだが。「──そうだ、そこのバカップル! お前らも現場に来てくれ!」と、今回の隊長であるヨルゴスに声をかけられ。並んで立っていたふたり仲良く、「「?」」と同時に、自分たちの背後を振り返ったものだから。途端、周囲から一斉に、「──だからそういうところだよ!!」「おめえら以外に誰がいんだよバッキャロウ!!」と、この忙しいのに総突っ込みを喰らうこととなった。何故なのだろう、酷く解せぬ。
──ヨルゴス曰く。今いる、もしくは呼び戻すことのできる魔法使いの面々だけでは、前衛の支援役が到底足りていない。故に、魔力の豊富なヴィヴィアンにも、その体調の許す限りで、どうしても活躍してほしいそうだ。地上の戦力は有り余っているから、いざとなれば肉盾になる戦士どもをしっかり護衛でつけさせる、と真っすぐな目で約束されれば。そこまで言うなら仕方ないか、とギデオンも飲み込んだ。
かくして、己の相棒、ヴィヴィアンにとっては、ほとんど3カ月ぶりの現場仕事である。周囲がやれドラゴン用装備だ、現場に物怖じしない馬だ、非常用の魔法薬だ、解体用の大道具だ、と慌ただしく準備する中。自身もドラゴン用の強靭な皮鎧に身を包んだギデオンは、やはりどうしても心配性が発動してしまうようで。東広場発の出動用馬車が間もなく出発する……という頃になってから、ロビーの人混みの合間を縫って、相棒のそばに行き。……おまえを軽んじるわけじゃないんだが、と、思い悩んだ目を向けて。)
……なあ。医者からはまだ完治を言い渡されてないんだし、復帰戦にしては、今回のはいきなり重過ぎるだろう。
もし少しでも、体調や魔力に思わしくないところがあるなら……ヨルゴスには俺からちゃんと説明して、代案も用意してみせる。だから、今からでも……
──……ギデオンさん。
ご心配ありがとうございます。私は大丈夫ですから、他に言い出し辛い方がいないか確認してあげてください。
( 白くはためく博愛のローブに、しっくりと馴染む古木の杖。久方ぶりの一張羅に背筋を伸ばせば、リスト片手に物資確認をしていたところへ、心配性な相棒の声がかかる。これがかつてのビビならば、そう簡単に"代わり"だなんて侮ってくれるなと、相手の気持ちも気にせず跳ね返ったに違いないが。この一年で、他でもない当の相棒から、冒険者として、人として、認められ求められる経験を与えられた女の顔には、穏やかな余裕がほころんでいる。
確かに未だ医者からは、定期的な診察を求められているものの、それも最近は殆どただの経過観察にほど近い。過保護な相手の心配する気持ちはありがたいが、自らの故郷の有事に引き下がる冒険者がいるものか。それに──それ、私にだけじゃなくて、他の仲間達に全員も聞けますか、と。完治していないのはギデオンの肩も同じ。常に死と危険との隣り合わせ、中小の怪我が日常茶飯事な生業で、完全な健康体で一切の不安を抱えていない者など、この場の何割もいるだろうか。そんな状況下で、ビビ一人の代役なら兎も角、全員分の代案があるのかと──別にビビ自身はそこまで深く考えていた訳では無いが、無意識に相棒の過保護をやんわりと諭せば。「それに、こんなに見張りがいてどうやって無茶するんですか」と苦笑気味に見回したのは、ヨルゴスにつけられた戦士たち。いくら魔法使いよりは人手があるとはいえ、誰の差し金か手厚くつけられた護衛の一人が、「見張りじゃないですよ! ちゃんとお守り致します!」と噴射するのに眉を下げると、自分の身くらい自分で守れるのに……と肩を竦めて見せて。
かくして、最早怒号に近い音頭をあげ、ドラゴン侵入の報せがあった国境付近へと、討伐隊が出立したのと。とある報せがギルドに舞い込んだのは、完全な入れ違いとなった。その情報を持って来たヒーラーは、青い顔して駆け込んでくるなり、手薄になったギルドを見て膝を落とすと、「パチオ氏が……パチオ氏が、病室から失踪されました……!!」と、閑散としたロビーに響いた悲鳴だけが、この後の混沌を虚しく物語っているようだった。 )
( 可哀想に、大魔法使い直々に眠らされ、要人を見逃した張本人となってしまったヒーラーからの一報が、討伐隊に届けられるよりも少し早く。ドラゴンが国境へと侵入した時刻から逆算された地点にて、討伐隊はドラゴンの姿を確認出来ずに、そこから更に10km程も北上した地点でその姿を確認することとなる。ぬらぬらと強烈な色を反射する硬い鱗、ひとたび掲げれば太陽を隠すほどの広い翼。見るもおぞましい多頭はそれぞれ鋭い牙とギョロリと大きな眼球をたたえて、討伐隊を確認した途端、鼓膜が破れそうな大音声で地面を震わせる。
しかし、そんな醜い姿かたちを目の当たりにし、誰からともなく「化物……!!」と、それを漏らした声の主が、もし魔素を感じ取れる魔法使いだったならば。それは異形の魔獣へではなく、その正面にもうひとり。もうもうと上がる土煙の中から現れた男へ向けられたものだったに違いない。振り下ろされた太い尾を魔法でいなして、一頭と一人、化物同士の衝突に開けてしまった森の中。差し込んだ光に、現世のものとは思えない美しい金髪を反射する大魔法使い──ギルバート・パチオその人だ。防戦一方とはいえ、圧倒的な力を誇る魔物相手に立ち回って見せた大魔法使いは、相手の雄叫びに一足遅れて討伐隊に気がつくと。「これはこれは……流石、"国内最高ギルド"の精鋭様方、お早いお着きだ」と。こんな時まで憎たらしい悪態をつきながら。ドラゴンの大音声で、馬車の行き先の地面が崩れ落ちそうになるのを、杖を振るって受け止めようとして、その隙をついたヴァヴェルに横凪に吹き飛ばされる。その瞬間、それまでギルバートによって制御されていた魔素がぶわりと爆発したかと思うと。ぐらりと大地が揺れ、低い地響きが耳をつき、ビキビキと激しく地面が割れる。そうして、勝鬨の如く咆哮を上げたドラゴンは、小癪な魔法使いを片付けたことを悪辣に喜ぶかのように、太い尾を激しく地面に叩きつけると、車輪が外れ横転した馬車から飛び出した冒険者たちを威嚇してみせ。 )
(ギデオンとヴィヴィアンは、今や私生活において恋人同士の関係である。しかしそもそも、こうして仲を深めたきっかけとして、ふたりとも、同じギルドに所属している単独の冒険者なのだ。そして冒険者という職業は、市民のために魔獣を屠る、それこそが最上の使命。故にヴィヴィアンの返した言葉は、この上なく真理を穿つに違いなく。「……そうだな。無茶だけはするなよ、」と。相手の肩に軽く手を置き、一度だけしっかり見つめ合う。そうして、精悍な横顔でヴィヴィアンと別れたそのときには、ギデオンも既に思考を切り替えていた。これより先の自分は、作戦の最前線で攻撃を担う魔剣使い。そして相手もまた、後方支援と救急を担うヒーラーの立場となる。個人的な労わりは、仕事が終わってからでいい。この一山を終えた頃には……きっとふたりで、ヴィヴィアンの父親を見舞いに行ってやれる筈だ。)
(──しかし結論から言えば、ギデオンのその読みは、完全に間違っていた。何といっても、そのギルバート・パチオ本人が、何故か戦場に参上し……あろうことか、先にドラゴンと対峙していたのだ。冒険者たちが状況を把握する間もなく、彼の隙を突いたドラゴンによって、それまで防衛を崩さずにいたギルバートが吹き飛ばされ。こちらもまた、ヴァヴェル竜のもたらす地割れに煽られ、即座に態勢を整え直さねばならなくなった。
「総員──作戦通りに回れ!!」と、ドラゴンの咆哮に押しも押されもせぬ大声を、総隊長ヨルゴスが張り上げる。途端、戦士の援護を受けながら魔法使いが散開。周囲の地形とドラゴンの様子を分析し、後衛拠点を各所に見定め、大きな魔法陣を描いて強固な障壁を構築する。足場の確保も兼ねたこの初動の布陣を、的確に果たせるかどうか。これが今回の作戦の要と言っても過言ではない。
──敵の種類や周辺地形、時間帯や気候条件などにより、多少の変更は存在するが。ドラゴン狩りの作戦には、古来から伝わる王道の筋がある。即ち、陽動攻撃でドラゴンの気を正面に引きながら、後方に回った部隊が、翼、後ろ脚、尻尾の付け根を真っ先に狙い落とすというものだ。空に飛ばれればこちらは手の出しようがないし、仮に飛翔力を奪っても、圧倒的な重量で突進されれば成す術もない。ドラゴンの尻尾に殴り飛ばされる、叩き潰されるというのだって、戦士の死因の最多数という恐るべき脅威となる。しかし、逆にその三点さえ潰せば。胴体のみでも這いずり回り、熱焔を吐き散らす脅威が片付いていないにせよ……基本的な機動力を大幅に下げることができる。故に作戦の初期段階で、翼と後ろ脚と尻尾、まずはその三ヵ所を攻める。首を落としにかかるのは、全てを入念に整えてからだ──そして敵も、それを最も警戒している。
けれどもその作戦は、早くも困難に感じられた。理由は目の前にいるドラゴンの、規格外過ぎる大きさのせいだ。「体高が報告と違う!」と、若い誰かが悲鳴じみた声を上げたが、それを臆病と詰れる者が、はたしてこの場にいるだろうか。何せ敵は──その頭部の大きさだけで、優に大型馬車ほどもあるのだ! しかし仕方がない、とギデオンは苦い顔で分析した。そもそも国境警備隊の防衛ラインを超えられた時点で、このドラゴンはかなりの高度を飛んでいたに違いない。ならばきっと、王軍の担った監視も、遠距離からの途切れ途切れにならざるを得なかった。そうして、これはまずい、と、先に各所の冒険者ギルドに伝令を果たそうとして……きっとそれでも間に合わず、追い抜かれたほどなのだ。王軍の失態は致命的だが、対峙の始まってしまった今、即座に対応をとるしかない。「尾から狙え!」と、開けた森の際を駆けながら、襲撃部隊の隊長として指示を飛ばす。「あの図体なら、離陸前に多少の助走が要る筈だ──その補助におそらく尾を使う! だからまずはそこから狙え!」
──一方。各々の役割を持った戦士と魔法使いが、所定の配置につくなかで。ヨルゴスの指示により、数名のヒーラーがギルバートを捜し出し、森の中から連れ出そうとしていた。一体どれほど化け物じみているのだろう、あの絶望的な横薙ぎを喰らっても咄嗟に障壁を張れたらしく、致命傷を負わずにぴんぴんしているようだが……それでも、肩を貸さねばならぬ程度に身体を痛めている様子だ。「あたしたちを庇おうとしたわね!?」と、彼を知っているらしい中年女性のヒーラーが、治癒魔法を注ぎながらも大激怒していた。「お言葉ですけど、ギルバート! あたしたち皆、あんたひとりに子守されるほどか弱くはなくってよ!」
それにギルバートが、「だったらまず、まともな地固めのできる魔法使いのひとりでも連れてこい」とか、なんとか。相も変わらぬ憎まれ口を叩こうとした、まさにその瞬間。戦場からひときわ強烈な咆哮が轟いたかと思うと、頭上の梢の隙間から見えるほど天高く、太い火柱が噴き上がった。どうやら襲撃部隊が、最初の斬り込みに成功したらしい。ここにいると少々まずいな、とギルバートが指鳴らしをひとつ。途端、詠唱もなく発動した転移魔法により、一行は少し離れた小高い丘に立っていた。
そこからなら、もはや荒れ地と化した森の中の戦闘が良く見える。障壁内にいる魔法使いが、一斉にバフ魔法を放ち。跳躍力も攻撃力も大幅に上がった戦士たちが、一体の巨大な怪物を縦横無尽に翻弄している。周囲には薙ぎ払われた樹々が多数あり、それを魔法使いが的確に浮遊させるので、足場に事欠かないようだ。あの様子なら、ヴァヴェル竜が倒されるのは恐らく時間の問題であろう。そのように、決して楽観ではない分析を下しかけたところで──ギルバートの青灰色の双眸が、強烈な驚きに染まった。
暴れるドラゴンがところ構わず吐き出した火炎放射、それによる周辺の火事を防ごうと。右方の障壁内にいる誰かが、美しい魔素を膨大に練り上げて、巧みにそれを相殺したのだ。まさか、とギルバートが呟く。──それと同時に、嘘だろう、とギデオンも呟く。太い尾と後ろ脚の筋を断たれたことで、周囲を羽虫のように飛び交う戦士たちに怒り心頭だったドラゴンが。膨大な魔素を感じた途端、ヴィヴィアンのいる障壁の方をぎょろりと向いて──急に、制止したかと思えば。……その翼を大きく広げ、不気味な眼状紋をぶわりと浮かび上がらせたのだ。
幾つもの頭全てが、どろどろと薄気味悪い、だがはっきりと喜悦の感じられる唸り声を上げた。ギデオンの皮鎧の内側で、汗と共に吹き出した嫌な予感、それにたがわず。それまで相手取っていた他の冒険者の一切を、一瞬たりともかえりみず──ヴィヴィアンのいる場所に、怪物が前足だけで突進し始めた。いったい何故──ドラゴンの関心は、奴を攻撃する戦士や魔法使いにこそ向けど、延焼を防ぐヒーラーなどには寄せられない筈なのに!
疾風のように駆けながら、紫電の走る魔剣を構え・「ヴィヴィアン!」と必死に叫ぶ、そのひと声に全てを込める。シルクタウン以来、幾度となく共にクエストをこなし、連携してきた経験は──今のギデオンが何を求めるか、きっと彼女にも悟らせるはずだ。)
──……ッ!
( ──撤退! 撤退ッ!! ギョロリとこちらを一斉に振り返ったドラゴンに、ビビのいる右舷が急激に騒がしくなる。怒号の如く上がる指示に、退路を開こうとバタバタ走り出す戦士たち。しかしその瞬間、ビビの中に浮かんだ感情は微かな、しかし確かな苛立ちだった。やけに興奮した表情の頭と、ギラギラと浮き沈みする眼状紋が向けられると同時に、何股にも割れた首の根元に輝いた紅い魔核。やっと見えた弱点を目の前に、自身の実力を過信せず退却出来る観察眼もまた大事な資質ではあるのだが──今此処に居るのが経験も若いこの青年ではなく、ビビの相棒たるギデオンだったなら……! と、真っ直ぐにドラゴンへ向け跳んでいくだろう紫電を、思わずにいられなかった瞬間だった。
遥か遠くから響く、頼もしく大好きな張り慣れた声。その声に込められた信頼に、「ギデオンさん!」と、場違いな程嬉しそうに応えれば、自然と身体が走り出していた。ビビが脳内で描いた"理想の道筋"をなぞるように動く相棒に、相手の意図が手に取るように目に浮かぶ。魔法使いが浮かせた足場を戦士が選ぶのでは無い、ギデオンが跳んだ先、ヴァヴェルの炎を避けた足元に、まるで吸い付くかのように後から足場が組み上がり。己の身の丈の数倍以上はある空中を、まるで地上の如く駆け上がったギデオンが勇ましく魔剣を振り上げたその瞬間。突如、その頭上に黒い雨雲がかかったかと思うと、エメラルドの稲妻が魔剣を穿き、周囲の目を眩ます程の光となって、壮年の戦士がドラゴンの首を一刀両断する光景を焼き付けて。
そうして残ったのは、ヴァヴェルの倒れる轟音と、黒い雨雲がポツポツと地を穿ち、次第に激しい雨となって冒険者たちに降りかかった血の飛沫を洗い流す雨音のみ。未だ信じられないものを見たかのように、胸を上下させる冒険者たちの耳にまず届いたのは、ドラゴンと共に地上へ降り立った相棒の下へ駆け寄るヒーラーの足音で。あまりに自然な動きだったものだから、つい失念していたが、ギデオンが放り出された上空は、羽のない人間が無事でいられる高さではなく。その着地の際、咄嗟に風魔法で衝撃を緩和はしたものの、果たして怪我などはしていないだろうかと、真っ青な顔で駆け寄って、 )
ギデオンさん!!
ご無事ですか!? 強く打ったところは……?
(この数秒。何故か知らないが、ドラゴンがヴィヴィアンに目を奪われ、興奮のあまり他への意識を疎かにした、ほんの数秒。それこそが速戦即決の鍵だと、ふたり同時に信じているのが、彼女のいらえで伝わった。
故にギデオンは、もはや他の何ものも振り返らない。羽虫を払うべくドラゴンが吐き出す炎、ただそれだけに意識を定め、的確に回避しながら、上へ上へと駆け上がる。自分が身を翻した先も、そこから躍り上がる先も、一切確かめる必要はない──必ず、相棒が受け止めてくれる。その信頼が稼ぎ出したのは、時間にしてコンマ数秒。だが、敵の反応に後れを取らせる決定的な数瞬だ。
──とはいえ。こんなにも巨大なドラゴンの首、その根元を一刀のもとに断ち斬るなど、本来ならば不可能のはずだ。ギデオンの剣は片手半剣、それより大きな大剣でさえ刃渡りが足りない敵に、どうやって立ち向かうのか。見ているだれもがそう思ったことだろう、ドラゴンですらせせら笑ったかもしれない。しかしそれでもギデオンは、迷いなく魔剣を振り上げた。強く信じていたからだ──自分の背後で、相棒のヴィヴィアン・パチオが、同じく杖を掲げているのを。いつぞやの夢魔討伐でも披露した合わせ技、それを更に高めたものを、今ここでこそ繰り出せるのを。
相棒が即座に──ギルバートですら目を瞠るほどの速さで──練り上げた、黒い雨雲。その内部で増幅した、ただでさえ豊かな魔素が、翡翠色のいかずちとなってギデオンの魔剣に宿る。そうして、魔素を高める性質を持つ魔法石の恩恵により、更に何倍にも膨れ上がり……激しい輝きを放ちながら、何倍にも凝縮されたその瞬間。ギデオンは渾身の膂力を込めて、己の剣を横薙ぎに振るった。途端、その切っ先から眩い雷光の刃が伸び。本来ならあり得ざる、神々しい大剣に化け、敵の固い鱗に喰い込む。……冒険者たちが一様に唖然とする中、ドラゴンの七つの首が、その一太刀に刎ね飛ばされ。魔獣特有のしぶとい生命力をもたらし得る深紅の魔核も、派手に粉々に砕け散り、その無残な最期を飾り立てる。
──すべてを、しかと見届けるや否や。全身の力を魔剣に乗せていたギデオンは、真っ逆さまに落ちはじめたが。ここでも何ら焦らずに、魔剣を振って重心を操り、受け身をとることに集中した。はたして、それを待ち受けていたかのような横風が、案の定ギデオンを攫い。ドッ、と地面に身を打ったものの、直線落下のそれに比べれば随分と優しいもので。その後も幾らか上手く転がり、しっかりと勢いを殺せば、すぐにしゃんと身を起こし……ドラゴンの死を見届けてから、暗くなった空を見上げる。夏だというのに、どこか春雷を思わせる優しい轟きがくぐもって聞こえた。けれどもそれはすぐに、魔獣の穢らわしい血を流す、禊の雨を連れてきて。……この雨、やけに馴染みのある聖属性の魔素を孕んでいるな、と、相棒の相変わらずの天外っぷりに呆れていれば。そのヴィヴィアン本人が、慌てた様子でこちらに駆け寄ってくるのだ。温い雫を滴らせながら、笑って相手を迎え入れ。)
ああ、まったく大丈夫だ。手厚い援護があったからな。
……それよりも、お前の方だ。目眩や吐き気は? 魔力弁の具合は?
(ギデオン自身も経験したことがあるからだろう。相手を気遣うその声音には、これまでよりも随分と実感がこもっている。しかし今は、彼女に甘い恋人としてよりも、あくまで熟練の冒険者として、自分の動きを助けてくれた仲間を案じているような顔だ。……ちなみにこの間、先ほどまで呆気に取られていた仲間たちが、ヨルゴスの号令により慌てて動き始めていた。首を断ってもすぐに死なない魔獣は多い──特にこれほど大きなドラゴンとなると、念入りな確殺処理が必要になるだろう。しかしギデオンとヴィヴィアンは、すぐに混じる必要はない。魔獣討伐はチーム戦であり、仕留め役を果たした冒険者は、自分たちに異状がないか確かめるのが最優先だ。故に、無事を自覚しきっている自分のことはすっ飛ばし。相棒の小さな顔に手を添えて、瞳を覗き込み、呼吸や唇の色を確かめ、果てはその指先を掬って絡め、体温を確かめにかかる。……傍目にはどう見ても甘ったるい戯れだろうが、あくまでもギデオン自身は、これでも真剣そのものなのだ。)
手厚ッ……わざとじゃないんです、ごめんなさいっ……!!
( うわぁん! と、間の抜けた悲鳴が響いて、それまで冷静に杖を振るっていたヴィヴィアンが、申し訳なさそうにギデオンへと飛びつく。そんな愛しい娘の姿に、思わず目を奪われたのは他でもないギルバートだ。──男の脳裏に蘇ったのは、もう25年以上も昔のこと。やはり危険なドラゴンを前にして──手柄をくれてやるわ、と。娘たちとは違って、自分達は微塵も通じあっていなかった。ずっと巫山戯た奴だと思っていた同期の女、未来の妻に思いっきり吹き飛ばされて。今回のギデオンと同じか、もっと容赦ない高さから叩き落とされるその瞬間に見た、勝利を確信した笑みを浮かべる、シェリーの美しさといったら──「……アレ。ビビちゃんからの一目惚れで、坊やはずっと断ってたのよ」最後には捕まっちゃったけど、と。古い記憶に囚われていたギルバートを引き戻したのは、その肩を支えている旧知のヒーラーだ。──確かこの女も、シェリーと同時期に娘を産んだ人の親だったはずだ。同年代の娘がいる"母親"は……、カノジョは今のヴィヴィアンを見てなんと言うだろう。全くもって、憎らしいことだ。「当然だ。僕の娘が狙った獲物を逃がすわけないだろう」 そもそも、あの男の分際で、ビビちゃんを一度でも振っただなんて身の程知らずな奴め。そう脳内で吐き捨てたつもりだった悪態は、どうやら全て口から漏れていたらしい。不器用な父親に対し呆れた女のため息は、ドラゴン討伐完了の歓声に掻き消されたのだった。 )
お陰様で良好です、
……ギデオンさんも。今は大丈夫でも夜に痛くなったりするんですから、……ほら、ちゃんと見せてください。
( 過保護なギデオンの触診に、うっすらと瞳を細めて好きにされていた娘は、しかしその指をゆるく取られた途端──逃がすものか、といわんばかりの勢いで、反対にその手を握り込む。「座ってやりましょう」と、握り込んだ手を引いて、ドラゴンが倒したちょうど良い木の上に相手を腰掛けさせると。膝や腰等、負担のかかりやすい所をぺたぺたと確認しながら。そういえば、といった調子で首を傾げて見せて、 )
──……それにしても、あのヴァヴェルの動きはなんだったんでしょうか……異常行動で報告しといた方が良さそうですかね……
……わからん。ドラゴン狩りは、俺も何度かしたことがあるんだが……
(相棒の練り上げた黒雲は、やはりとことん優秀らしい。聖属性の土砂降りによって魔獣の血を洗い流し、現場の冒険者全員に加護を付与したかと思えば。あとはあっさり霧散して、視界の良好さを取り戻させる具合である。若い奴らに至っては、「なあ、アレ」「……奇跡だ」「女神だあ……」と。爽やかな青空にかかる大輪の虹を見上げて、馬鹿みたいに惚ける始末だ。
しかし、一方のギデオンは。最初こそ驚いていたものの、(……まあ、ヴィヴィアンだからな)と、あっさり受け入れ。相手に促されるまま倒木に座り、優秀なヒーラーによる診察に身を委ねていた。そうして、相手がふと寄越してきた疑問に、こちらも不思議そうに首を傾げる。──確かに、あのドラゴンの動きは妙だった。ヴィヴィアンに気づいた途端、まるで長年探し求めた獲物を見つけたかのように、あからさまに興奮していた。ギデオンの思い出す限り、あれは彼女の大振りの魔法の発動がきっかけだったように思える。とすると、自分たちが駆けつける直前まで、何故か知らないがギルバートと戦っていたようだから……彼の血を引く娘による、似通った魔素を嗅ぎ当て、先ほどの敵だと誤認したのだろうか。だがそれなら、敵意や憎悪でなく、喜びを見せていたのがわからない。その辺りの考察を、相手にもそのまま漏らしつつ。「……既に人肉を喰っている個体で、それでああなったんだとしたら……外来竜であるだけに、かなり大事になるだろう。そうなると、そうだな。やはりきちんと報告を……」と言いかけた、そのときだ。
「あっ」と、妙な声がした。そちらを振り返ってみれば、声の主はヨルゴスである。ほかのベテラン戦士ふたりとともに、ギデオンの斬り落とし生首のひとつを調査しているところらしい。──討伐リストの一定ランク以上に位置付けられている魔獣は、仕留めた後の調査や記録が固く義務付けられている。個々の冒険者の収集した情報を専門家が分析すれば、今後の被害などを予測し、より備えられるからである。このため、単純な部分は若手に任せ、調査に年季の要る頭部などはベテランが受け持つ、というのは、実によくある分担なのだが。槍でこじ開けたドラゴンの口腔内、それを覗き込む男たちの様子が、なんだかおかしかった。やっているのはおそらく、歯列の確認による種の同定作業だろうに。「なあ、これ……」「いやしかし……」「だとしたらあのときのあれは……」などと言い合いながら、何故か気まずそうに、こちらをちらちら見てくるのだ。一体何事だろう?
ギデオンが腰を浮かせかけたところで、「何だ? 昨今の冒険者は、種の同定もままならないのか」と、高慢に見くだす声が割り入った。少し前にドラゴンの死の一撃を喰らったはずが、いつのまにかけろりとした顔で戻ってきていたギルバートである。「ああ、いや、先代、それなんだけどな……」と、ヨルゴスが慌てて制止するも遅い。杖のひとふりで、ドラゴンの大きな口をさらにがぱりと開けさせた大魔法使いは、しかし。内部に視線を走らせる否や、何故かぴしりと、ぎこちなく固まった。そうして、さらに目を凝らして確認し……まさか、という顔をして、やはりギデオンたちの方を振り向く。やけに混乱した様子である。いよいよギデオンも、ヴィヴィアンと顔を見合わせた。何だ何だ、揃いも揃って本当に何なのだ。
「悪い、ここで待っててくれ」と。相手に一言断りを入れ、ギデオンもいよいよそちらに向かった。さてはて、何がこいつらをそんなに狼狽えさせるのか。熟練たちに入り混じり、自分でもドラゴンの口の中を確かめたギデオンだったが。──先ほどのギルバートよろしく、びしりと綺麗に固まった。ひと目で理解してしまったからだ。何故ギルバートが狼狽したのか。何故ヨルゴスたちが気まずそうにしていたのか。何故ヴィヴィアンが狙われたのか。……何故あのとき、ドラゴンが豹変したのか。
「あんまり、聞きたかないんだけどよ……」と、ヨルゴスがそっと囁いてきた、とんでもない質問に。如何にも居た堪れなさそうに、片手で顔を覆いながら、小さく頷いてやるほかない。ヨルゴスはただ、正しい記録のための判断材料を必要としているのだと、根が真面目なギデオンは理解できてしまうからだ。しかしギデオンの答えを見るや、両脇にいるベテランたちが、堪えきれない大爆笑で妙な発作を起こしだすか、或いは露骨にドン引きするかしはじめ。ヨルゴスもまた、口の端をピクピクと、笑いだしそうに引き攣らせる始末だ。「……まあ一応、若い奴らにはヴァヴェルって体で書かせて、俺が最後にこっそり修正しておくからよ。それでいいよな?」と、一応は真剣さも交えて提案してくれるものだから、もう色々と思考を放棄したくなった。傍にいるギルバートの顔は、とてもじゃないが見られない──どんな顔をして見ればいいのだ。よろよろとヴィヴィアンの元に戻ると、相棒のフォローのおかげでまったく無傷だったはずが、今や満身創痍と言わんばかりの面持ちで。やけにぐったりと、疲労しきった呻きを漏らし。)
……今の件は、あとで話す。ああ、ちょっと、ここでするような話じゃないんだ……
ギデオンさん……?
え……ええ。でも、お顔の色が。こっちおいで……座れます? 横になった方が楽ですか……?
( 討伐した魔獣を確かめてみて、もしあと討伐が一歩遅れていたら、とんでもない被害が出ていただとか。運良く無事だっただけで、予期せぬ脅威を残していただとか。後からゾッとするような真実が判明することはよくあることだ。しかし、戻ってきた相手のあまりの顔色の悪さに、薄い頬をそっと両手で包むと。心做しか力なく丸まった背中を撫でながら、もう片方の手で先程の倒木へと導こうとして、促された相手が素直に腰掛けるか固辞するか、兎に角ギデオンの体調が悪くないことを見届ければ。そろそろビビ達も回収作業に加わらなければなら頃合だった。未だ胃の痛そうな表情をしている相棒を、気遣わしげな表情で見送り、自身もヒーラーとして、今回はベテランの先輩方の下、テキパキと要救護者の手当に当たること半日。あわや首都襲撃という未曾有の危機の収束に、心地よく揺れる馬車の中。疲れきった娘が丸い頭をギデオンの肩に預けて、うつらうつらと船を漕ぎながらキングストンへと辿り着き。ギルドでの簡単な手続きを終えて、暖かなランプがポーチを照らす我が家へと帰りつけたのは、そろそろ日付も変わる深夜の事だった。いつもならば共に帰って来ても、すぐにただいまのキスを強請るところを、かろうじて未だ冒険者の顔を残して相手へと真っ直ぐに向直れば。人目のあるところでは話せ無いだなんて、相当の危険が差し迫っていたのだろうと気を引き締めにかかって、日中のベテラン勢の気まずそうな表情の意味など全く知らずに、むしろ清々しい程真剣な表情で尋ねて見せて。 )
──改めてお疲れ様でした!
さっき、後で話すって仰ってた件って、もう……ここなら大丈夫ですか?
ああ、そんなに……いや、しかし、そうだな。
……とりあえず先に、寛げる格好にならないか。
(あのとき下手に誤魔化したあの一件を、どこまでも清く尋ね直されてしまえば。「そんなに深刻な話じゃないんだ」……一度は弱々しく返しかけたその台詞を、しかし相手にとっては本当にそうだろうかと、有耶無耶に呑み込んで。代わりに疲れの滲む声で、甘えるように首を傾げる。相手の優しさに漬け込む形での先延ばしだから、少々卑怯と言えるだろう。しかし今日の仕事は、肝心の竜退治よりも、寧ろその後が本当に大変だった。まだ日の高いうちに、ベテランのヒーラーがギルバートを強制的に連れて帰っていったそうだが、それに全く気付かなかったほどである。正直、今すぐベッドに倒れ込んで、恋人を抱きしめながら眠りたい…一日の汚れを落とすのも、除染作用のあるギルドのシャワー室でふたりとも済ませているのだ。だが、あの時ギデオンが濁した話を、相手はちゃんと知りたいだろう。だからせめて、今夜はあとはもう寝るだけの状態にしないか、というわけで。
そうして、相手が優しく気遣ってくれたか、訝しみながらも聞き入れてくれたか。何にせよ、洗面所で夜のお手入れをしている恋人を待ちながら、先にゆるい寝間着に着替え、リラックス効果のあるハーブティーを沸かし(尤もこれは、普段のヴィヴィアンがギデオンを気遣って淹れてくれるそれの物真似だ)。一足先に寝室に上がり、本を読みながら相手を待つことしばらく。真夜中を幾らか過ぎ、相手がいよいよ傍にやってくれば、まずは顔を上げ、「今日はお疲れ」と、労わりの軽いキスを交わすだろう。相手が隣に身体を落ち着けたところに、白い湯気の立つカップをそっと渡し、「上手く淹れられたかな」なんて微笑む。……これが幾らか、彼女の気分をマシにしてくれるといいのだが。そうして、相手がすっかり寛いだのを見計らえば。自分も本をテーブルに置き、ベッドランプの明るさを一段階下げ、背後の大きな枕の山に上体を預けきって。眠気の交じった穏やかな声、如何にも何てことのない調子を繕いながら……だがしかし、何とも歯切れの悪い説明を。)
……それでな。さっきの話だが……
今日倒したドラゴンは、実は……ヴァヴェル竜じゃなかったんだ。
見た目が似てるし、王軍の奴らは素人だから、間違えても仕方ないんだが。歯列を見たら……どうも、その、エレンスゲ亜属だったらしい。
( 普段は冷静なギデオンがこんなに狼狽えるなど、本当に一体何があったのだろう。差し出されたハーブティーは、本当は自分が相手に淹れてあげるつもりだったのだが、ギデオンがこのお茶を『精神安定に良い』と感じてくれているのなら、それもまた実に素晴らしいことで。「お疲れ様でした」と相手のキスに軽く答えて、カップに小さく口をつけると「……うん、美味しい。ありがとうございます」と、可愛らしく、あどけなく微笑む恋人へ、再度慈しむように唇を小さく落として。頭の下で緩くまとめていた三つ編みを解きながら、長い長い脚をゆったりと放り出した相手の様子に、なにやら微かな緊張を感じ取ると。空になったグラスをサイドボードに置いてから、ベッドが軋む音をたてながら、ゆっくりとギデオンに向き直る。そうして、相手の目元や頬、髪をすりすりと撫で始めた、寝る前の乾いた温かい掌は、それまでの穏やかな余裕と共に、ギデオンの言葉にぴたりと動きを止めたのだった。 )
エレン、スゲ……、!
( 最初はそれが、どうして問題になるのか分からないといった様子で、きょとりと目を丸くしていた表情が、一瞬なにか気づいたかのように煌めくと、白い頬、耳、首、ゆったりとしたネグリジェから覗く胸元までが、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。言わずと知れたエレンスゲの謎な"嗜好"、冒険者であるビビも勿論知っていて、今日起きたこと全ての合点が一気についてしまう。歳若い女性にとって、己の性事情を知られるなど気持ちの良いものでは全くない上。もとより──処女、ということに、そこはかとない罪悪感を持つヴィヴィアンにとって、数少ないベテラン達とはいえ、その事実を知られてしまった状況は辛い。しかし、彼らがこれ以上なく紳士的な対応をしてくれたことも、続けられた説明から確認して。行き場のない羞恥を、クラクラと目眩のする頭額を相手の分厚い肩に預けると、困ったように眉を八の字にゆがめて、二人きりだからこそ聞こえる小さな声で。前髪がぐしゃぐしゃになるのも厭わず、相手の肩に押し付けて。 )
…………、ギデオン、さん、だけにしか、知られたくなかったのに。
でも、出来るだけ大事にならない様にしてくださったんですよね、ありがとうございます……、はやく、
……早く、ギデオンさんのものにしてね……?
ああ、今からでも……と。
言いたい……ところだな……
(相手の弱々しい恥じらいぶりを、よしよしと頭を撫でて慰めていた矢先。最後に付け加えられた殺人的な一言に、思わずたまらなさそうに呻く──いつものお決まりのパターンだ。よって、その後もやはり同じ。己の太い腕を回しかけ、相手を横からぎゅうぎゅうと、目いっぱい抱きすくめる。羞恥に火照っているヴィヴィアンの体温、このぽやぽやした温かさがたまらない……なんて、相手をぬくぬく堪能しながら。吐息混じりにのっそりと返したのは、なかなかに不甲斐ない台詞だ。──今夜はただでさえ疲れがたまっていたところだし、相手の反応も、想定よりずっと落ち着いていて安堵した……そのせいか。既にとろりと瞼を閉ざしているように、忍び寄ってきた眠気を追い払えそうにない。
しかし別に、それだけが理由というわけでもないのだ……本当だ、と。「一緒に悦くなるには、もう少し慣らしておかないと……」「そもそも、退院してからまだ二ヵ月も経っちゃいない……」等々。相手の旋毛に唇を寄せながら、あれこれ言い訳を挙げ連ね。しかし結局最後には、「……それでも、じきに……貰うとも……」と、愚直すぎる野心まで、馬鹿正直に打ち明ける始末だ。──あなたならいい、あなたのためなら。これまで何度だって、可愛い恋人からそう云われてきた。その責任はいずれしっかりとってもらうし……ギデオンの方もまた、相応の責任をきっちり負う腹積もりでいる。……ああ、そういえば。ヴィヴィアンと暮らすこの家ではなく、敢えてギルドの私書箱宛に出してもらうことにした手紙に、「来週末には」と書かれていたっけな……と。そこでふと、アイスブルーの目を薄く開き。その華奢な背中を撫でさすりながら、腕の中の恋人を見下ろす。もしも相手が、その気配を感じとってか、こちらを無邪気に振り仰いだなら。そのあどけない顔を数秒眺めて、ふ、と幸せそうに微笑み。まろい額にキスを落として、また優しく抱きしめるだろう。)
……なあ、ヴィヴィアン。今夜は……
(……今夜はこうして、喋りながら寝ることにしないか。珍しくギデオンの方から、そう素直に甘えてみせたのは……全てはそう、眠気のせいだ。ギルドでも、クエスト先でも、ラメット通りでも、ギルバートの前でも……来たるべき。その日のときも。相手が惚れてくれた大人の男の顔を、きちんとしてみせるから。だから今夜だけはまだ、「おやすみ」を言い交わして、帳を下ろしてしまいたくない。己よりずっとうら若い恋人にそう強請り、それからしばらくの間、互いにしか聞こえぬほどの小さな声でひそひそと囁きあえば。……程なくして、相手を優しく撫でる手を止め、先に寝息を立てはじめたのは、果たしてどちらだったろう。気づけばふたりとも、ひとつのデュベに仲睦まじくくるまって。月明かりの差し込む下、温かい手を握り合いながら、すやすや眠り込んでいた。)
(かくして、怒涛のドラゴンから一夜明け。カラドリウスの歌声と共に、また新たな朝がやって来る。しゃきっと元気を取り戻してギルドに出勤した二人は、しかしまたすぐ、ギルドの奥の応接室に呼び出されることとなった。……昨日の件でギルドに呼び出されていた、ヴィヴィアンの父ギルバートの元に。なんと王国議会の官僚が、わざわざ訪ねにきたというのだ。
如何にも切れ者という顔つきをした、四十代半ばほどのその男曰く。──今朝早くにガリニア大使館から、「ギルバート・パチオを我が国に戻らせろ」と、相当におかんむりな怒鳴り込みがあったそうだ。なんでも今、帝国側の魔導学院が、ギルバートの置き土産のせいで大変なことになっているらしい。詳しく聞くに、どうやらかの機関は、彼の弾丸帰国を聞きつけた途端、ならば尊重無用とばかりに、構内にある彼の研究室を暴きにかかった。……そして当然、研究守秘の目的でガチガチにかけられていた魔法陣が発動し、惨事を引き起こしたとのことだ。とはいえこれは、帝国の研究者は皆やっている工夫であり(向こうは学界での政治闘争まで激しく、自衛が当たり前の文化である)、何もギルバートが奇人というわけではない。それにどちらかと言えば、ギルバートの組んだ陣を一向に解き明かせない向こうの学者が、皆間抜けという話になる。とはいえ、帝国はメンツ主義。“わざわざ招聘してやったのに、勝手に帰国し、挙句こちらの顔に泥を塗ってきた”として。ギルバート・パチオに対し猛烈に怒り、奴を寄越せと要求しているのだ。
行けば当然危険である。それに、ギルバートにも言い分がある。向こうの魔導学院は、トランフォードからの手紙を長らく握り潰していた。問い質したとてしらを切るだろうにせよ、それは明確な政治的工作。そして他にも……単にこの件が最後の決め手だっただけで、以前からも本当に、いろいろと酷い仕打ちが度重なっていたそうだ。
それはこちらも把握しております、と官僚は苦々しく言った。──しかしこれは、少しでもたがえてしまえば、国事に至る事態なのです。支援は手厚くいたしますので、どうかご理解いただきたい。……それにあなたも、向こうのご本家にまで累が及ぶのは、決して得策ではないでしょう。
それを聞くなり、ギルバートの顔色が悪くなった。どうやらパチオ家は、この国の母体であるガリニア帝国の上流層に、元の血筋があるらしい。あの独立独歩を地で行くようなギルバートでも、人質に取られると弱ってしまうようなものが、愛娘のヴィヴィアン以外にあったのだな……という驚きはさておき。同席しているギルマスからも、責任は取りなさい、と言い添えられる。──本気であちらの学院を抜け出したいなら、相応の後始末はするべきでしょう。なに、こちらも散々迷惑をこうむったんです、やりたくないとは言わせませんよ。
ギルマスの言う“迷惑”とは、昨日出没したドラゴンのことである。あのエレンスゲはどうやら、ギルバートが連れてきてしまったものらしい。帰国時のどこかであの怪物の領空を犯し、それに怒り狂ったドラゴンは、空中に残るギルバートの魔素を執念深く追ってきた。そうして、ギルバートが一時野営した森に降り立ち、彼を探し回っていたのだ。──そしてギルバートの方も、理屈は全くわからないが、自分を負ったドラゴンが付近に来たことを察知した。それでギルドの監視を抜け出し、自分で落とし前をつけようと、冒険者たちより早く駆けつけていたわけである。ドラゴンの位置が推測より北上していたのも、ギルバートが人里から引き離してくれたおかげだった、というわけだ。
──そうだ、昨日のドラゴンの件然り。プライドの高いギルバートは、本来であれば、自分の招いた事態の始末を自分でつけたがる人間だ。そこにギルマスも官僚も、おそらく示し合わせたのだろう、鋭く漬け込むものだから。いろいろ弁を弄していたギルバートも、いよいよ首を縦に振るほかなくなったらしい。……せめて、と彼は弱々しく言った。出発する前に、せめて一度だけ、娘と食事をさせてくれ。……まだろくに、話ができていないんだ。
官僚は頷いた。今夕にでも宮殿の関係者室に顔を出し、そのまま翌朝出発してくれるなら、この後すぐに手配しましょう──まるでこの展開を読んでいたかのような、恐るべき仕事の速さである。一方、突然の事態、それも愛する父親がいかれる帝国に呼び出されていると知って、ヴィヴィアンは動揺している様子が見られた。故にギデオンは、ギルバートにも確認を取って(本人は非常に露骨に嫌そうな顔をしたが)、その食事会に自身も同席したいと言いだす。この話し合いに自分まで呼び出されたのは、おそらくこの動きのためだろう──こちらはギルマスの取り計らいだ。ヴィヴィアンを支えつつ、この機にギルバートと少しでも話しておくこと。これは何も、プライベートな意味だけではない。パチオ父娘の情報をいちばん近くで把握するのは、今後のカレトヴルッフの展望を左右する布石になり得る。……つくづく己の使える御人は、抜け目のないお方である。
そうして、その3時間後。官僚の乗ってきた黒塗りの高級馬車により、一同は政治家御用達の高級料理店に出向いた。随分な大盤振舞だが、「娘と美味い飯を食わせてやるから、やることしっかりやってこい」……という、国からの無言の圧力だろう。このテーブルの背後には、三つ揃えの背広を着た若い男が3人もついていた。彼らはギルバートのガリニア出向のサポートチームだそうで、どれも選りすぐりの人材らしい。彼らの護衛を受けながらガリニアに戻り、現地のトランフォード大使の後援を受けて、帝国の学院を正式に辞職する──これがギルバートの、これから為すべきことである。
とはいえ彼は、ギルバート・パチオという人間。ムール貝の身を取り出しながら、「ビビちゃん、後ろの妙な連中はいないものと思いなさい」なんて、何ら悪びれず宣う始末だ。それに対するヴィヴィアンは、顔色がまだ優れない。先日言っていたように、「パパときちんと話したい」のに、こんなにも急な展開……おまけに敷居の高い店で、複数の政府関係者に見られながらだ、無理もないことだろう。ちゃっかりとゲリュオン牛のフォアグラを堪能していたギデオンは、基本的には親子水入らずにさせようと様子を見ていたのだが。……ほどなくして、異端の天才として世界中で名を馳せているギルバートが、娘を前にした父親としては、壊滅的に口下手とみれば。「そうだ、ヴィヴィアン。カレトヴルッフに入ってからの、お前のいろんな活躍について。俺から親父さんに話しても?」と、あくまでごくさり気なく、会話の糸口に助け舟を出すことにして。
そうして、思えばあっという間に、別れを告げる時間となった。ギデオンとヴィヴィアンは乗合馬車でギルドに戻り、ギルバートとチームメンバーは、このまま公用車で宮殿に赴くのだ。最後はギデオンと男たちも、流石に少し身を引いて、遠くから父娘を見守った。ギルバートとヴィヴィアンは、そこでようやくほんの少し、本当の“親子水入らず”をすることができたようだ。話が終われば、男たちがギルバートの方に行き、ヴィヴィアンがギデオンの方に帰ってきた。彼女を優しく迎え入れ(本当はキスのひとつでも落としたいのを我慢して)、馬車に乗り込むギルバートを眺める。彼はすぐさま車窓を開けて、ヴィヴィアンを名残惜し気に振り返っていた。「……な? 言ったろう。親父さんは、今でもお前のことが大好きだよ」。恋人にそう囁いて。ふたりでそっと手を繋ぎ、遠ざかっていく黒い馬車を、いつまでも見送った。
──パチオ父娘を、ふたりきりにしてやる直前。ギデオンは、荒い息を吐くギルバートから、「僕のビビちゃんを絶対に泣かせるなよ……」と、酷く恨めし気に言いつけられた。……だがあれは、先日よりも少しだけ、自分のことを認めてくれていたような気がするが、はたして思い上がりだろうか。「すぐに帰って来るからな。絶対帰って来るからな!」と何度も息巻く魔法使いは、結局その言い草によって、ギデオンの決意をまたひとつ固めさせたのだ。次に帰国するときには、彼はもっとたまげる羽目になるだろう。呪われるかもしれないが──少しだけ、それが楽しみだ。思わず緩んでいた表情を、どうしたのと隣の恋人に問われれば。なんでもないさ、と今度こそ旋毛にキスを落とし。手を繋いだまま、ふたりでごくのんびりと、爽やかな夏空の下を歩き始めることにした。)
*
(──さて。あのときとは異なる時間、異なる場所で。ベテラン戦士のギデオン・ノースはその日、何とも深刻な問題に頭を悩まされていた。
事の発端は、数時間前まで駆り出されていたオーク狩りのクエストだ。森の中に棲みついている凶暴なグリーンオーク、そいつらを無事狩り尽くしたまでは良かった。問題はその後、帰りの道中に、悪戯好きなピクシーの大群が襲い掛かってきたことで。……基本的に冒険者は、ピクシーには反撃しない。それは彼らの正体が、洗礼を受けずに死んだ子どもの魂と信じられているからだ。だからギデオンたちは、きゃっきゃけらけらと楽しそうな小妖精どもを必死に掻い潜りながら、どうにか帰還したのだが。いくらなんでも、これは流石にやり過ぎだろう……と、鼻を抑えて嘆息する。ギルドロビーに入ってくる連中が、皆目をくわっと剥いてこちらを凝視してくるが、いちいち説明するのも飽きた。……ひと目見て、わかるとおりだ。
──金髪の頭に生えた、黒っぽい三角の耳。脚衣のすぐ上から垂れる、ふさふさした立派な尻尾。手の爪は太く鋭く伸び、指先と掌には黒い肉球がついている。極めつけに、顔の変化はないとはいえど、このあまりにも鋭敏な嗅覚。あのピクシーどもときたら、ギデオンとパーティーメンバーに──犬化魔法、なんてものをかけたのだ。
おかげで既に、臭い酔いが酷い。ジャスパーもレオンツィオも、早々に嘔吐して医務室に引き下がり。そこまではいかないアラン、セオドア、アリアでさえ、ロビーの端のテーブルにぐったりと突っ伏して、その目立つ尻尾も耳も、力なくしょげさせている。彼らの分の報告書を代わりに引き受けているギデオンも、胸のむかつきを抑えられない──辺りが臭くてたまらない。人間でいる時はさほど気にならなかったのだが、冒険者の野郎どもの汗や体臭、装備の臭いが、まさかこんなにも強烈なものだったとは。ギルドのカヴァス犬どもはよく平気だな、慣れの問題なのか……と顔を顰めながら、とにかく急いで書類仕事をやっつけにかかる。近場の別室でやればまだマシかもしれないが、己よりずっと若いセオドアとアリアが、緊急出動に備える義務できちんとロビーに留まっているのだ、自分だけ逃げるわけにはいかないだろう。とはいえ、これは……と。横髪をがしがし掻こうとして、己の変貌した爪を眺め、はあ、と深いため息を。とりあえず書き上げたひとつ目の書類を、カウンターにいるマリアのところへ持って行き。……非常~~~に白けた目つきをもって、無言で受領して貰えば、またすぐに“いつもの”柱のところに戻り、若手たちの書いた報告書を読み込みにかかるだろう。)
※複数個所を修正しております、大意に変化はございません。
ああ、今からでも……と。
言いたい……ところだな……
(相手の弱々しい恥じらいぶりを、よしよしと頭を撫でて慰めていた矢先。最後に付け加えられた殺人的な一言に、思わずたまらなさそうに呻く──いつものお決まりのパターンだ。よって、その後もやはり同じ。己の太い腕を回しかけ、相手を横からぎゅうぎゅうと、目いっぱい抱きすくめる。羞恥に火照っているヴィヴィアンの体温、このぽやぽやした温かさがたまらない……なんて、相手をぬくぬく堪能しながら。吐息混じりにのっそりと返したのは、なかなかに不甲斐ない台詞だ。──今夜はただでさえ疲れがたまっていたところだし、相手の反応も、想定よりずっと落ち着いていて安堵した……そのせいか。既にとろりと瞼を閉ざしているように、忍び寄ってきた眠気を追い払えそうにない。
しかし別に、それだけが理由というわけでもないのだ……本当だ、と。「一緒に悦くなるには、もう少し慣らしておかないと……」「そもそも、退院してからまだ二ヵ月も経っちゃいない……」等々。相手の旋毛に唇を寄せながら、あれこれ言い訳を挙げ連ね。しかし結局最後には、「……それでも、じきに……貰うとも……」と、愚直すぎる野心まで、馬鹿正直に打ち明ける始末だ。──あなたならいい、あなたのためなら。これまで何度だって、可愛い恋人からそう云われてきた。その責任はいずれしっかりとってもらうし……ギデオンの方もまた、相応の責任をきっちり負う腹積もりでいる。……ああ、そういえば。ヴィヴィアンと暮らすこの家ではなく、敢えてギルドの私書箱宛に出してもらうことにした手紙に、「来週末には」と書かれていたっけな……と。そこでふと、アイスブルーの目を薄く開き。その華奢な背中を撫でさすりながら、腕の中の恋人を見下ろす。もしも相手が、その気配を感じとってか、こちらを無邪気に振り仰いだなら。そのあどけない顔を数秒眺めて、ふ、と幸せそうに微笑み。まろい額にキスを落として、また優しく抱きしめるだろう。)
……なあ、ヴィヴィアン。今夜は……
(……今夜はこうして、喋りながら寝ることにしないか。珍しくギデオンの方から、そう素直に甘えてみせたのは……全てはそう、眠気のせいだ。ギルドでも、クエスト先でも、ラメット通りでも、ギルバートの前でも……来たるべき、その日のときも。相手が惚れてくれた大人の男の顔を、きちんとしてみせるから。だから今夜だけはまだ、「おやすみ」を言い交わして、帳を下ろしてしまいたくない。己よりずっとうら若い恋人にそう強請り、それからしばらくの間、互いにしか聞こえぬほどの小さな声でひそひそと囁きあえば。……程なくして、相手を優しく撫でる手を止め、先に寝息を立てはじめたのは、果たしてどちらだったろう。気づけばふたりとも、ひとつのデュベに仲睦まじくくるまって。月明かりの差し込む下、温かい手を握り合いながら、すやすや眠り込んでいた。)
(かくして、怒涛のドラゴン狩りから一夜明け。カラドリウスの歌声と共に、また新たな朝がやって来る。しゃきっと元気を取り戻してギルドに出勤した二人は、しかし再び、ギルドの奥の応接室に呼び出されることとなった。……昨日の件でギルドに呼び出されていた、ヴィヴィアンの父ギルバートの元に。なんと王国議会の官僚が、わざわざ訪ねにきたというのだ。
如何にも切れ者という顔つきをした、四十代半ばほどのその男曰く。──今朝早くにガリニア大使館から、「ギルバート・パチオを我が国に戻らせろ」と、相当におかんむりな怒鳴り込みがあったそうだ。なんでも今、帝国側の魔導学院が、ギルバートの置き土産のせいで大変なことになっているらしい。詳しく聞くに、どうやらかの機関は、彼の弾丸帰国を聞きつけた途端、ならば尊重無用とばかりに、構内にある彼の研究室を暴きにかかった。……そして当然、研究守秘の目的でガチガチにかけられていた魔法陣が発動し、惨事を引き起こしたとのことだ。とはいえこれは、帝国の研究者は皆やっている工夫であり(向こうは学界まで政治闘争が激しく、自衛を講じて当たり前の文化である)、何もギルバートが奇人というわけではない。それにどちらかと言えば、ギルバートの組んだ陣を一向に解き明かせない向こうの学者が、皆間抜けという話になる。とはいえ、帝国はメンツ主義。“わざわざ招聘してやったのに、勝手に帰国し、挙句こちらの顔に泥を塗ってきた”として。ギルバート・パチオに対し猛烈に怒り、奴を寄越せと要求しているのだ。
行けば当然危険である。それに、ギルバートにも言い分がある。向こうの魔導学院は、トランフォードからの手紙を長らく握り潰していた。問い質したとてしらを切るだろうにせよ、それは明確な政治的工作。そして他にも……単にこの件が最後の決め手だっただけで、以前からも本当に、いろいろと酷い仕打ちが度重なっていたそうだ。
それはこちらも把握しております、と官僚は苦々しく言った。──しかしこれは、少しでもたがえてしまえば、国事に至る事態なのです。支援は手厚くいたしますので、どうかご理解いただきたい。……それにあなたも、向こうのご本家にまで累が及ぶのは、期するところではないでしょう。
それを聞くなり、ギルバートの顔色が悪くなった。どうやらパチオ家は、この国の父祖であるガリニア帝国の上流層に、大元の血筋があるらしい。あの独立不羈を地で行くようなギルバートでも、人質に取られれば己を曲げるほどの弱みが、愛娘のヴィヴィアン以外にあったのだな……という驚きはさておき。同席しているギルマスさえも、責任は取りなさい、と言い添えにかかる。──本気であちらの学院を抜け出したいなら、相応の後始末はするべきでしょう。なに、こちらも散々迷惑をこうむったんです、やりたくないとは言わせませんよ。
ギルマスの言う“迷惑”とは、昨日出没したドラゴンのことである。あのエレンスゲはどうやら、ギルバートが連れてきてしまったものらしい。帰国時のどこかであの怪物の領空を犯し、それに怒り狂ったドラゴンは、空中に残るギルバートの魔素を執念深く追ってきた。そうして、ギルバートが一時野営した森に降り立ち、彼を探し回っていたのだ。──そしてギルバートの方も、理屈は全くわからないが、自分を追ったドラゴンが付近に来たことを察知した。それでギルドの監視を抜け出し、自分で落とし前をつけようと、冒険者たちより早く駆けつけていたわけである。ドラゴンの位置が推測より北上していたのも、ギルバートが人里から引き離してくれたおかげだったのだ。
──そうだ、昨日のドラゴンの件然り。プライドの高いギルバートは、本来であれば、自分の招いた事態の始末を自分でつけたがる人間だ。そこにギルマスも官僚も、おそらく示し合わせたのだろう、鋭く漬け込むものだから。いろいろ弁を弄していたギルバートも、いよいよ首を縦に振るほかなくなったらしい。……せめて、と彼は弱々しく言った。出発する前に、せめて一度だけ、娘と食事をさせてくれ。……まだろくに、話ができていないんだ。
官僚は頷いた。今夕にでも宮殿の関係者室に顔を出し、そのまま翌朝出発してくれるなら、この後すぐに手配しましょう──まるでこの展開を読んでいたかのような、恐るべき仕事の速さである。一方、突然の事態、それも愛する父親が怒れる帝国に呼び出されていると知って、ヴィヴィアンは動揺している様子が見られた。故にギデオンは、ギルバートにも確認を取って(本人は非常に露骨に嫌そうな顔をしたが)、その食事会に自身も同席したいと言いだす。この話し合いに自分まで呼び出されたのは、おそらくこの動きのためだろう──こちらはギルマスの取り計らいだ。ヴィヴィアンを支えつつ、この機にギルバートと少しでも話しておくこと。これは何も、プライベートな意味だけではない。パチオ父娘の情報をいちばん近くで把握するのは、今後のカレトヴルッフの展望を左右する布石になり得る。……つくづく己の仕える御人は、抜け目のない方である。
そうして、その3時間後。官僚の乗ってきた黒塗りの高級馬車により、一同は政治家御用達の高級料理店に出向いた。随分な大盤振舞だが、「娘と美味い飯を食わせてやるから、やることしっかりやってこい」……という、国からの無言の圧力だろう。このテーブルの背後には、三つ揃えの背広を着た若い男が3人もついていた。彼らはギルバートのガリニア出向のサポートチームだそうで、どれも選りすぐりの人材らしい。彼らの護衛を受けながらガリニアに戻り、現地のトランフォード大使の後援を受けて、帝国の学院を正式に辞職する──これがギルバートの、これから為すべきことである。
とはいえ彼は、ギルバート・パチオという人間。ムール貝の身を取り出しながら、「ビビちゃん、後ろの妙な連中はいないものと思いなさい」なんて、何ら悪びれず宣う始末だ。それに対するヴィヴィアンは、顔色がまだ優れない。先日言っていたように、「パパときちんと話したい」のに、こんなにも急な展開……おまけに敷居の高い店で、複数の政府関係者に見られながらだ、無理もないことだろう。ちゃっかりとゲリュオン牛のコンフィを堪能していたギデオンは、基本的には親子水入らずにさせようと様子を見ていたのだが。……ほどなくして、異端の天才として世界中で名を馳せているギルバートが、娘を前にした父親としては、壊滅的に口下手とみれば。「そうだ、ヴィヴィアン。カレトヴルッフに入ってからの、お前のいろんな活躍について。俺から親父さんに話しても?」と、あくまでごくさり気なく、会話の糸口に助け舟を出すことにして。
そうして、気づけばあっという間に、別れを告げる時間となった。ギデオンとヴィヴィアンは乗合馬車でギルドに戻り、ギルバートとチームメンバーは、このまま公用車で宮殿に赴くことになる。最後はギデオンと男たちも、流石に脇に身を引いて、父娘を見守ることにした。ギルバートとヴィヴィアンは、そこでようやく、本当の“親子水入らず”をほんの少しできるわけだ。話が終われば、男たちがギルバートの方に向かう代わりに、ヴィヴィアンがギデオンの方に帰ってきた。彼女を優しく迎え入れ(本当はキスのひとつでも落としたいのを我慢して)、馬車に乗り込むギルバートを眺める。彼はすぐさま車窓を開けて、ヴィヴィアンを名残惜し気に振り返っていた。「……な? 言ったろう。親父さんは、今でもお前のことが大好きだよ」。どこかおどけたように、恋人にそう囁いて。こっそり手を絡め合わせ、遠ざかっていく黒い馬車を、いつまでも見送った。
──パチオ父娘を、ふたりきりにしてやる直前。ギデオンは、荒い息を吐くギルバートから、「僕のビビちゃんを絶対に泣かせるなよ……」と、酷く恨めし気に言いつけられた。だがあれは……気のせいだろか。先日よりも少しだけ、自分のことを認めてくれていたように思う。「すぐに帰って来るからな。絶対帰って来るからな!」と何度も息巻く魔法使いは、結局その言い草によって、ギデオンの決意をまたひとつ固めさせたのだ。次に帰国するときには、彼はもっとたまげる羽目になるだろう。呪われるかもしれないが──少しだけ、それが楽しみだ。思わず緩んでいた表情を、どうしたのと隣の恋人に問われれば。なんでもないさ、と今度こそ旋毛にキスを落とすと。手を繋ぎながら、ふたりでごくのんびりと、爽やかな夏空の下を歩き始めることにした。)
*
(──さて。あのときとは異なる時間、異なる場所で。ベテラン戦士のギデオン・ノースはその日、何とも深刻な問題に頭を悩まされていた。
事の発端は、数時間前まで駆り出されていたオーク狩りのクエストだ。森の中に棲みついている凶暴なグリーンオーク、そいつらを無事狩り尽くしたまでは良かった。問題はその後、帰りの道中に、悪戯好きなピクシーの大群が襲い掛かってきたことで。……基本的に冒険者は、ピクシーには反撃しない。それは彼らの正体が、洗礼を受けずに死んだ幼子の魂だと信じられているからだ。だからギデオンたちは、きゃっきゃけらけらと楽しそうな小妖精どもを必死に掻い潜りながら、どうにか帰還したのだが。いくらなんでも、これは流石にやり過ぎだろう……と、鼻を抑えて嘆息する。ギルドロビーに入ってくる連中が、皆目をくわっと剥いてこちらを凝視してくるが、いちいち説明するのも飽きた。……ひと目見て、わかるとおりなのだ。
──金髪の頭に生えた、黒っぽい三角の耳。脚衣のすぐ上から垂れる、ふさふさした立派な尻尾。手の爪は太く鋭く伸び、指先と掌には黒い肉球がついている。極めつけに、顔の変化はないとはいえど、このあまりにも鋭敏な嗅覚。あのピクシーどもときたら、ギデオンとパーティーメンバーに──犬化魔法、なんてものをかけたのだ。
おかげで既に、臭い酔いが酷い。ジャスパーもレオンツィオも、早々に嘔吐して医務室に引き下がり。そこまではいかないアラン、セオドア、アリアでさえ、ロビーの端のテーブルにぐったりと突っ伏して、その目立つ尻尾も耳も、力なくしょげさせている。彼らの分の報告書を代わりに引き受けているギデオンも、胸のむかつきを抑えられない──辺りが臭くてたまらない。人間でいる時はさほど気にならなかったのだが、冒険者の野郎どもの汗や体臭、装備の臭いが、まさかこんなにも強烈なものだったとは。ギルドのカヴァス犬どもはよく平気だな、慣れの問題なのか……と顔を顰めながら、とにかく急いで書類仕事をやっつけにかかる。近場の別室でやればまだマシかもしれないが、己よりずっと若いセオドアとアリアが、緊急出動に備える義務できちんとロビーに留まっているのだ、自分だけ逃げるわけにはいかないだろう。とはいえ、これは……と。横髪をがしがし掻こうとして、己の変貌した爪を眺め、はあ、と深いため息を。とりあえず書き上げたひとつ目の書類を、カウンターにいるマリアのところへ持って行き。……非常~~~に白けた目を向けられながら、無言で受領して貰えば。またすぐ“いつもの”柱のところに戻り、若手たちの書いた報告書を読み込みにかかるだろう。)
ギデオンさん!! ご無事でs──……?
( 依頼に戻ったヴィヴィアンに、その一方が届いたのは、依頼から戻った彼女が、ギルドのシャワー室から上がってすぐのことだった。午前中丸ごとラタトスクの捕縛に、キングストンを駆け回り。やっと東広場まで追い詰めたかと思えば、往生際の悪い悪戯者が、噴水のオブジェのその上によじ登ろうとするものだから、最後はずぶ濡れでの捕物劇から戻って四半時。──あ、ビビはもう聞いた? ギデオンのこと、仕事中に大変な目にあったって、今ロビーにいるわよ。そんな巧妙に笑いを噛み殺した、魔法使いの真剣な表情に騙されて、医務室ではなくロビーにいる時点で大事でないことは分かるだろうに。愛しいギデオンの一大事に、いちもにもなく飛び出せば、背後から響いた吹き出すような音には気づかなかった。
そうして、息を切らしながらギルドロビーに駆け込めば、黒く大きな三角の耳と、ふさふさの尻尾を不機嫌に揺らす恋人の姿に、ビビの大きな目が益々大きく丸く見開かれる。よく見ると爪も少し鋭くなったような……って──えっ、依頼中に大怪我したっ……とは、言って、なかったか、そっか。と、次第に己の早とちりにじわじわと気が付きながら、そのあまりに予想外な光景に瞬きをして。それでもその瞳に、面白がるそれよりも心配の光が優るのは、その真面目な性格ゆえだろう。心配すればいいやら、無事を喜べばいいやら、人間、一瞬で感情が180度近く振れるとフリーズするもので。色々な感情で渋滞を起こしたビビの後頭部で、未だしっとりと乾ききらぬ巻き毛がくりんっ、と間抜けに揺れる。とりあえずは急を要さなそうな雰囲気にほっと息をつきながら、体調に影響は無いのかだとか、いつ戻るのかだとか、諸々気になる質問をしようと。それと同時に適当にまとめた髪を結び直すべく、しゅるりと解きながらおずおずと近づいて。 )
……お疲れ様です、それは、一体何が……?
(ぴくん、と真っ先に反応し、くるりとそちらを向いたのは、毛並み豊かな三角耳だ。次いでその下のギデオン自身も、手元の書類から顔を上げた。非常に険しく狭まっていたはずの目許は、そこにいるのが恋人だとわかるなり、わかりやすくしゅるんとほどけ。己の後ろの大きな尻尾が、無意識に大きくゆらゆら揺れ出すのにも気づかないまま。投げられた問いに答えるべく、「ああ、ヴィヴィアン。それがな……」と、ごく理性的に応じかけた、その時だ。
それまでのギデオンは、ロビーに充満する饐えた悪臭に、あまりにも耐え兼ねて。片手の拳で己の鼻を、きつく押さえ込んでいた。それを下ろしてしまえばどうだ──開放されたギデオンの鼻腔に、暴力的なほど優しい香りが、たちまちふわあと押し寄せて。甘く清らかなホワイトムスク、洗いたての髪の香り。毎晩のように堪能している、己の恋人、ヴィヴィアンの匂い。たとえ平時でさえ、ギデオンの思考力を容易く奪ってしまえるそれを。束ねていたのを解いたことで、より一層濃厚なそれを。今のギデオンが──普段の数千倍もの嗅覚を持ってしまったギデオンが、少しも耐えきれるはずもなく。)
………………
(──気がつけば。大きく一歩踏み出し、相手の細い手首を引いて。ギデオンは真正面から、相手の首元にその鼻先を埋めていた。普段から散々“バカップル”と揶揄われているものの、普段の常識的な彼であれば、流石に人前でここまでの行為には及ばないはずである。それが今や、有無を言わさずといった様子で──或いは、人間から動物に退化したかのような、原始的な様子で。堂々と相手に溺れ、すりりと鼻を擦りつける始末だ。いつもの妬み嫉みの目で事態を眺めていた野郎どもも、流石にごふっと激しく噎せこみ、ぎょっとした目でまじまじ見つめ。カウンターにいた事務員たちも、それはもう鮮やかな二度見三度見をしてしまう──常識人代表ことマリア・パルラの反応は、もちろん言わずもがな。しかし当のギデオンといえば、相手に心底癒されるというように、震える息を吐きだしながら。何かしら反応されれば、わかっているのかいないのか、両の犬耳をぺしょんと伏せて、弱々しく懇願し。)
……ピクシーに……やられたせいで……辺りの臭いが……酷くてな……
悪いがしばらく……こうさせてくれないか……
…………、
( この場で改めて言うまでもなく、ビビはあまり犬という動物が得意では無い。その上、相手が好き好んでなった訳でもない姿を、笑ったり喜んだりしたら悪いと思う気持ちは確かにありはするのだが。此方を見つけた瞬間、嬉しそうに尻尾を振り出す恋人に絆されない人間が、果たして存在するものだろうか。思えば、緩みそうになる表情をなんとか律して、心做しかいつもよりあどけない様子で、此方へと語りかけてくるギデオンに──うん、どうしたの? と、身を乗り出しかけたこの時点で。この先の展開、ヴィヴィアンが、犬化したギデオンに何をされても強く怒れない命運など決まりきっていたようなものだ。 )
ひゃっ……!?
ギデオンさ、だめっ……こんな人前でっ、
( その証拠に、突如強く腕を引かれて、乗り出した身体のバランスを崩し硬い胸板へと飛び込めば。ギデオンによるとんでもない暴挙にさえも、拒絶する声のあまりに説得力のないこと。その聞く方が恥ずかしくなるような甘ったるさに、それまで未だ、二人の体勢に気がついていなかった者たちの視線まで、余計に周囲の関心をかき集めてしまえば。ぺしょんと垂れた素直な耳の形が、完全にトドメとなって、ビビの中で"絶対ギデオンさんを守るモード"のスイッチがONに切り替わる。相手は子供でもなければ、先程まで一人仕事さえしていたという情報など、最早全く意味をなさない。そうか……見た目だけじゃない、こんなところにまで影響があるのか。可哀想に、人間の数千倍とも言われる犬の嗅覚だ、どれだけ辛いだろう。この可愛い恋人を前にして、ぎょっとした目で此方を伺ってくる周囲の視線など、微塵も優先する気にならず。しかし、ヴィヴィアンは構わなくとも、( ビビ関連に至っては既に手遅れ気味ではあるが )ギデオンの名誉には良くなかろうと、「このまま歩ける?」とそっと優しく柱の陰のベンチへと誘導しては。見回してみれば、ギデオンの他にもちらほら同じ状況に陥っている仲間達の姿も垣間見えるが、皆立派な大人なのだ。──それぞれ各自勝手に乗り切るだろうと、ギデオンを前にすると案外ドライな思考を切り替え。未だビビを離したがらない相手にゆっくり向き直ると。もしかすると聴力も敏感になっているのではあるまいかと、金色の頭を優しく撫でながら大きな耳に唇を寄せると、二人にだけ聞こえるような囁き声でそっと伺ってみて、 )
……ギデオンさん、ベンチ、座れます?
匂い、ですよね……、んー、辛いねぇ……。
──午後、どうします? お仕事に影響にある魔法災厄なら、有給でおうち帰れますよ。ここよりは少しマシだと思うんですけど……いっしょに帰る?
(相手に促されるがまま、死角のベンチに座ったまでは良かったものの。今度はこれ幸いとばかりに、己の膝に相手を乗せ、伸びた爪で傷つけぬよう、その柳腰に手を回し。よりぴったりと密着し、可愛い恋人の甘い香りを存分に吸い込み始める有様だ。──にもかかわらず、ごく優しく注がれる、恋人の問いかけに。三角耳をぴくり、と動かし、僅かに顔を上げ、視線を中空に定めれば。挙げられた提案を、しばしぼんやりと思案する様子を見せた末──目を閉じ、ぴたりと耳を伏せて。相手の肩口に埋めた顔を、如何にも“嫌だ”と言わんばかりに、左右に振って擦り付ける。次いでその喉からも、普段とはやや響きの異なる、どこか獣じみた唸り声を。)
……帰らん。そんなことで半休は使わん。
いざというときのお前の看病とか……一緒に魔導家具を見に行くとか……休日を合わせて小旅行に行くとか……ほかにもっと、有意義な使い道があるだろう。
(「それに、若い奴らも頑張って残ってる。なのに年輩の俺が帰るなんてのは……」云々。まったく、理性が残っているんだかいないんだか。体面のことにちゃんと考えが及ぶのであれば、もっと他に気にすべき部分があるだろうに。そこのところは一向に改善する気配のないまま、相手に深く顔を寄せ。ベンチの座椅子と背もたれの間の隙間に垂らした尾を、ゆらゆら、ゆらゆら、大きく振り続けていた、その時だ。
「まったく、寝惚けた真似をしおって……」と、呆れた声を投げかける者がいた。奥の医務室から出てきたらしい、ギルド専属のドクターである。手には何やら食べ物の匂いがする盆らしきものを持っていて、ギデオンは一瞬ぴくりとそちらを見たが、“ヴィヴィアンに比べれば取るに足りん”とでも言わんばかりに、また相手の首元に己の顔を埋めてしまった。それに再び溜息をつきながら、老爺は相手に向き直り、「これを食わせろ」と、気になる盆の中身の披露を。──どうやら、柔らかく煮潰した干し肉を、苦い薬草を混ぜ込んで団子にしたものらしい。「こいつはな、鋭くなり過ぎた嗅覚を鈍くする作用がある。反対に、体表変貌の促進……まあ、偽の毛皮が生えやすくなるって副作用があり得るんだが、臭い酔いに比べりゃあマシだろう。どのみちどっちも、即日か数日以内に消え失せる症状だ。だからビビ、こいつをそのアホタレに食わせて、いい加減目を覚まさせてやれ。わしは他の奴らを見てくる」……そう言って、薬包紙に乗せた肉団子を、相手の掌の上に委ね。今回ばかりはいつもの野次馬でなく、純粋な心配からふたりの様子を覗き見ていた冒険者たちを、「ほれほれ、散れ暇人ども」と、追い払いに行くだろう。)
──そっかぁ、そしたら一緒に頑張りましょう!
私も協力しますから……で、も! ギデオンさんの不調だって、"そんなこと"じゃありませんから、本当に辛かったらちゃんと言うこと!
( ぺたりと倒れたヒコーキ耳に、くしゅくしゅと押し付けられる凹凸の深い顔面。グルグルと身体に響く唸り声すら愛おしくて、寄せられた頭に此方も頬を擦り付けると。ぎゅっと強く抱き締め返して、頭、項、そして周りとは少し質感の違う毛が生えた耳の付け根をクシクシと柔らかく撫でてやる。こんな時まで責任感溢れるところも、非常に魅力的ではあるのだが、無理は絶対にして欲しくない。そう心配そうな表情で、よしよしと相手に言い聞かせ──いいですね? と、青い目と目を合わせ、頷かせようとしたその矢先。協力すると言ったからには、まずはこの鋭い嗅覚だけでもどうにかしてやらねばと対策を考えていたところへ、背後からかかった呆れ声に振り返れば。今日も今日とてだるそうに、尖った顎を突き出す年嵩の魔法医が目に写って。その言葉が、目先の辛さを軽減してやりたいばかりに、患者の拘束から抜け出せない位置に収まった自分に言われているような気がして、気まずそうに首を縮めながら、ホカホカと湿った薬包紙を両手で受け取ると。魔法にかかって犬化した彼らが、まず鋭敏になった嗅覚に苦しむなど、自分は今ギデオンに訴えられて初めて気づいたというのに、この魔法医の経験豊富で、ぶっきらぼうながら患者思いなところが、魔法医として尊敬し、「格好良い、大好き……」なのだと、お礼とともに呟けば。「……上司、上司としてだってハッキリ言わんかい」と、相変わらず人の好意に嫌そうな顔をしてくれる御仁だ。不機嫌そうにそそくさと離れていく細い背中に、──そんなパパじゃないんだから。ギデオンさんだってこんなことじゃ怒らないのに、とクスクス笑って振り返れば。愛しい相手の辛さを減らせる嬉しさに、満面の笑みを浮かべて、まだ暖かい薬包紙ごと、その10cmほど下に零さないよう手を添えると、ギデオンの前に肉団子を差し出して。 )
わぁ! 美味しそうですよ、ギデオンさん!
これで楽になるって、良かったですね……お口、空けられますか? ……はい、あーん、
(相手の朗らかな声かけに、しかしながら。対面するギデオンは、黒い犬耳を真後ろにぴたっと寝かせ、眉間と鼻筋に皴を寄せて──不機嫌な顔を、露骨に真横へ逸らしていた。相手が口元に肉団子を運ぼうにも、唇を堅く結び、目を合わせようにも合わせない。だからといって、何事か尋ねたところで、「…………」とだんまりさえ気込め込んでしまう。──だからこそ、音が目立つ。ぴしゃっ、ぴしゃっ、と。毛筆を強く打ち鳴らすような妙な音に、視線を足元に下げてみれば。それは、先ほどまでご機嫌に揺れていたはずのギデオンの尻尾が、八つ当たりめいたリズムで、床を強く打っている音なのだ。
やがてわふん、と。いったいどこから鳴らしたのか、口を閉じたまま不満げな息を漏らしては。相手が片手に持った団子を無視して、金色の頭を彼女の肩にぐりぐりと擦りつけ。そうして密にかき抱いたまま、ギデオンは動かなくなってしまった。ヴィヴィアンに何か言われても、ぐるるる……と、雷雲にも似た低い唸りを返すのみ。エントランスの方が急に騒がしくなって、クエスト帰りの連中が汗だくで帰還すれば、刺激臭が鼻を刺したのだろう、高い鼻先をヴィヴィアンの髪束の中に、さっと潜り込ませる有り様だ。──そんなに臭いが強いなら、さっさとドクターのくれた薬団子を食べてしまえばよいものを。彼女に再び促され、ようやく少し顔を上げるも。差し出された肉団子を至近距離からじっと眺め、躊躇いがちに口を開ければ……鼻だけでなく、咥内のほうでも、団子に隠された苦い風味を感知してしまったらしい。ぱくん、とあからさまに口を閉ざし、相手の華奢な肩に頭を埋めて、嫌そうな唸り声を響かせる。犬になったベテラン戦士は、どうにもご機嫌斜めのようだ。だがそれは、どちらかといえば──自分自身を気に入らないがゆえなのだ。
ギデオンとて、本当はわかっている。己のこのつまらなぬ嫉妬が、いつぞやの冬の焚火の傍よろしく、すぐに見抜かれてしまうことを。自分の人間として至らぬところが、世界のだれより良く見せたいはずの相手の前で、丸裸になってしまうことを。……とはいえ相手は、当時以上に、ギデオンと親密にしてくれているはずだ。これ以上「愛情表現が足りない」と不満がるのは、それは度が過ぎるというものだろう。それに、それに……四十にもなった男のくせして、若い恋人が他人に向けたちょっとした言葉ひとつで、こんなにも臍を曲げる。それがどれほど幼稚で見苦しい事か、自覚がないわけじゃない。第一、職場でこんな戯れを強いている時点で、全く理性的、常識的と言えないし。なまじ周知の関係である以上、下手すれば、相手も処分に巻き込みかねない。そうだ、全部全部、頭の奥底ではきちんとわかっているのであって──しかし今の、動物的な後退をきたしてしまった精神が。自分の番の言う「格好良い、大好き」が、己の腕の中にありながら他の雄に向けられたこと……それを押し流してくれない。本能的に、相手の首に軽く噛みついて戒めたくなってしまうのを、どうにか人間の理性で抑え込むことに必死で。そうして表に現れるのが、如何にも不機嫌なこの面と、相手を離さぬ大きな体躯。そして、ふわりと逆立ちながら床を打ちまくる尻尾……というわけらしい。)
ギデオンさん……?
これもそんなに嫌な匂いしますか……?
( それは名実ともに、愛しいこの人の物へとなる前のこと。はっきりとカーティスへの敵愾心を見せつけられた前回とは違い、身も心も疑いようも無いほどお互いの色に染まり合って。尚収まりきらぬ、溢れんばかりの感情を、相手に受け止めて貰っているつもりの今だからこそ、まさか相手がまだそれを過剰どころか、不足に感じているなど、不機嫌の原因に思い至るまで、少々時間がかかってしまう。仕方なく、ぷいとそらされてしまった表情の原因を手元のそれへと結びつけ、小さく尖った鼻先をふんふんと震わせれば。鈍い嗅覚に、羊ベースのブイヨンが程よく香ったところで、やっと。鎖骨に響いた不満げな唸り声に、ギデオンの不機嫌、その原因に気がついて。
そうして、拗ねたように打たれる尻尾にも気づいてしまえば、不遜な態度をとりながらも、ビビをがっちり捉えて離さない高めの体温が、もう心底愛おしくって堪らない。──んっ、ふふ…ふ、と耐えかねたように肩を揺らして、「ごめんなさい、ごめんなさいったら、もう、あんまり可愛いんですもの」と、一層低く響いた唸り声に、此方からも強く相手を抱き締め返すと──さて困った。こんなにも深く愛しているのに、まだ足りないだなんて、どうやって伝えたなら良いだろう。よしよしと丸い背中を撫でながら、「ギデオンさんだけなのに、」と、せめてもの利子に旋毛、生え際、耳の付け根……と唇を寄せて。実際、だんまりの恋人と、手元の肉団子を交互に見遣れば。ほっそりと白い手首に、黄金の肉汁が垂れた瞬間が契機だった。肘まで汚しそうな雫をぺろりと舐めて、「ん、やっぱり美味しいですよ」と青い瞳へ視線を合わせれば、そのままギデオンの唇に吸い付いて、香り高い口腔をたっぷりと堪能させることしばらく。お互いの味しかしなくなった口内にゆっくりと離れて、「──……すごい。牙まで生えてるんだ」と、濡れた唇を楽しげに歪めれば。
この時、迂闊な言質を与えてしまったビビの瞳に映っていたのは、本能のままに此方へ縋る幼気で、守り慈しむべき対象だった。 )
ほら、美味しかったでしょう?
だから残りもちゃんと……そうだ、ご褒美があったら頑張れますか?
なんでもひとつ……私に出来ることですけど、お願い聞いてあげるから、ね、あーんって……
………………
(獣に成り下がる魔法というのは、かかってしまった本人を随分素直にするらしい。それまでのわかりやすすぎる不機嫌はもちろんのこと──そこから一転。愛しい恋人から存分に、慈愛たっぷりに構って貰えば、それからのギデオンは、いともすんなり大人しくなってしまった。床に当たり散らしていた大きな尻尾は、ふわ……と静かに動かなくなったし。真後ろに倒した耳も、ぴくぴくしながら立ったかと思うと、やがては心地よさそうに、今度は真横に寝転ぶ始末。険で尖っていたはずのアイスブルーの双眸も、長い長い口づけからようやく顔を離した後には、とろりと穏やかに凪いでいて。そしてその眉間にも、鼻梁にも、皴はすっかり見当たらない。寧ろ完全に、あどけなくなったとすら思うような顔つきである。
故に、相手に促されれば。再三差し出された肉団子に、ぴくん、と反応し、しばしぼんやり見つめた末。その(無駄に良い)顔を寄せ、軽くその匂いを嗅いで──そこじゃなかろうに、まずは相手の細い手首をぺろぺろと舐めてから。そのまま相手の掌に顔を付す形で、ギデオンはごく従順に、団子をはぐはぐ喰らいはじめた。その様子は傍から見れば、逞しいベテラン戦士が、膝上に抱えた乙女に餌付けされている光景なのだが……幸いここは柱の陰。故に安心しきった様子で、いつもは見えない犬歯をちらと覗かせながら、ひと欠片も残さず平らげる。そうして口の周りをぺろりと舐めると、ほんのちょっと顔をしかめ、「……確かに美味いが。やはり苦いな、」なんて、子どもっぽい感想を。それから、胃が動き出すまでのもうしばらくは構わんだろうと言わんばかりに、膝上の相手を抱き直し。再び肩口に顔を埋めたその下、ベンチの隙間から見える尻尾は、すっかりゆらゆらと心地よさげ。──いつものギデオンなら即もたげるだろう、不埒な類いの欲望も、しかし。動物化がまだ抜けず、おまけに彼女手ずからものを食べさせてくれた今となっては……何と完全に、純然たる食欲と甘えたさに負けたようで。)
……褒美……褒美は……お前の美味しい料理がいい。
今年のクリスマスは……お前の焼いたチキンが食べたい。ふたりで、家で……ゆっくりしながら。……いいだろう……?
──……キレイに食べていいこね。苦いのはよく効く証拠ですよ。
( 掌に寄せられていた顔が離れて、それまできゃあきゃあと擽ったさに捩っていた身体を正面に戻すと。ピンク色の舌を覗かせたギデオンが、あまりにあどけなく見えたものだから、ついつい向ける眼差しが、言の葉が、それに相応しいものへと変化する。そうして、ビビのお願いに素直に頑張ってくれた恋人の鼻が楽になることを願って、その高い鼻へと労いの唇を軽く落とすと。再び鼻をくっつけてくる甘えたに、彼が正気に戻ったその時に、今日の振る舞いを思い出して不安になることが無いように。願わくば──もっと普段から甘えてもいいのだと、聡明な相手が気づけるように。ビビからも強く暖かく抱きしめ直すと、汚れてしまった手を洗いに行くのはあとにしよう。先程までギデオンが喜んでいた触れ合いを、再びその美しい毛並みや、薄い肌に落としながら、小指側の手の脇で相手の背中を広くさすれば。ゆらゆらと小さく揺れながら、ギデオンのお願いにくすくすとしっとり喉を鳴らして、 )
……チキンがいいの? ふふ、もちろん、いいですよ。
お肉屋さんに行く日は早く起こしてね 一番若くて立派な一羽を丸ごと買わなきゃいけないから。
味付けは……そうだ、お庭のローズマリー、そろそろお家に入れてあげたいんです、霜が降りたら可哀想だから……
( そうして二人、途中で色の変わった不格好な柱のその影で、来る冬の支度に何気ない会話を交わすことしばらく。時折、気遣わしげに此方を覗いてきたり、うっかり通りがかってしまった仲間たちに、静かな目配せをしながらも、そろそろ薬も効いてくるだろう頃合に、相手の様子を伺おうと腕の力を緩めれば。家に帰らず頑張ると言ったのは、他でもないギデオンだ。思わずこちらまで癒されることとなった体勢から、名残惜しい体温からそっと身体を起こそうとして。 )
──……ん、そろそろ、お鼻のご調子はいかがですか? お仕事頑張れそうですか?
ん……ああ、おかげでだいぶ良くなった。
世話を……かけた、な……
(──あれからどれほど長い間、彼女に甘えていたのだろう。語らいとも微睡みともつかぬ、穏やかなひとときを過ごしたのちに。ギデオンはようやく、のっそりと顔を上げた。その面差しは、未だぼんやりと夢うつつではあるものの。目の前にいる恋人が、相も変わらず慈愛に満ちたまなざしをくれていることに気がつけば、幸せそうに口元を緩め。切り替えるように頭を軽く振り、確かめるように辺りを見回す。そうして、いよいよ復帰するべく腰を上げる、その前に。相手の献身的な介抱に対して、当然の礼を伝えようとした──その時だ。
「……!?!?!?、」と。心優しいヒーラー娘を乗せたままの戦士の体が、やけにぎこちなく、あからさまにがたついた。思わず周囲を二度見三度見し、言葉を失したその顔は、間抜けなほど呆然としている。相手の読み通り、ギデオンの嗅覚は、すっかり狂いがなくなったのだが……それでようやく、我を取り戻したらしく。この状況がおかしすぎることに、今更ながら気がついたようだ。
「……ヴィヴィアン。まさか……ここは……ギルド、なのか……?」と。あまりにもな確認に、相手がそうだと答えても、未だ信じられない様子で固まっていたギデオンだが。廊下の向こうからひょいひょいやってきたベテラン仲間の数人が、こちらをちらっと見たものの、さして気にせず──もう見慣れた光景と言わんばかりに──通り過ぎていくのを見れば、嫌でも理解するほかなかった。肉球のついた片手で思わず顔をがっつり覆い、深々と項垂れて。「わ、るい……悪い。本当にすまない……。なあ、あの、俺は……どのくらい……こうして……?」と、心情がありありと滲む呻き声を絞り出す。
──自業自得の社会的恥辱に打ちのめされた衝撃は、それはもう凄まじい。しかしそれ以上に、理性が戻ってきたからこそ、きちんと気がつくものもある。今のこの位置取り、相手の受け答えの様子、朧気ながら残っている記憶の数々。そして何より、さっきのあいつらの様子からして。己の恋人──否、この場合は“相棒”が、きっとこれ以上ない配慮を施してくれたのだ。故に、今一度心の底から、「ありがとう……」と、先ほどより一層しみじみした謝意を述べ。ようやく少し態勢を直し、どうにかいつも通りの自分に戻ろうと言を繰るものの。やはりまともに目を合わせられず、きまり悪そうなその横顔は、らしくもないほど真っ赤な色で。)
……、残りの……仕事に……行ってくる……
帰りは、そうだな……今日の具合だと、おそらく真夜中くらいだろうから。先に食べて……休んでてくれ……
……?
魔法で状態異常だったんですから、寧ろ頼ってもらわないと困ります。
( 相手にかけられた魔法には、記憶を薄れさせるような効果まであったのだろうか。愕然と周囲を見渡すギデオンを、あくまで心配そうな表情で覗き込めば。顔を隠して項垂れてしまった相棒に、ふっと柔らかく笑いかける。このままもっと甘え上手になってくれれば──……なんて、そんなに上手くはいかないか。「(時間も)そんなに長くないですから、落ち込まないでください」と、ぺしょりと垂れてしまった耳に、微笑ましい笑みが漏れそうになるのを必死で堪えて。その硬い膝からぴょこりと降りれば、確かにそろそろ午後の仕事に取り掛かるには丁度良い時間だ。
ビビとてラタトスクの一件について、盛大に街中を騒がせて回った始末sy……もとい報告書を提出せねば、いい加減カウンター越しの視線が痛いし。色んな意味で気乗りしない書類仕事に、午後を頑張る栄養を補給するべく、恋人の完全無比の美貌を拝めば、恥ずかしそうに赤められた頬の破壊力の高いこと。あまりの可愛さに耐えかね元気いっぱい飛びつけば、此方へと差し出されていた頬へとちゅっとリップ音を響かせて。 )
──……こんなに可愛い人置いて寝てろなんて!
美味しいご飯用意して待ってますから、できるだけ早く帰ってきてね?
( ぎゅうと相手に抱きついたまま、固い胸板に頬擦りをして、上目遣いにおねだりすれば。待っていると宣言したからには、自分の仕事が長引いてしまっては仕方ない。 今度こそぱっと身体を翻し、何度も何度も相棒の方を振り返っては、手をひらひらと振りながら、自分の仕事へと戻っていって。
そんな数刻の宣言通り、仕事を終えて帰ってきたギデオンを出迎えたのは、まるで帰ってくる時間が分かっていたかのように揺れる白い煙と、赤いエプロンを翻し飛びついてくるヒーラー娘で。 )
ギデオンさん!
おかえりなさい、お疲れ様です。
──……、
(見事なほど呆気にとられたギデオンが、数瞬の硬直の後、ようやく何かしら言おうとするも。直前の擦りつきから一転、相手はぱっと、跳ねるように体を離し。その妖精の如く軽やかな動きで、頭上の赤い布耳をぴょこぴょこと揺らしては、何度も何度も名残惜し気に振り返りながら、気づけばとっくに立ち去っていた。後に残っているのときたら、犬耳の四十男の、春風に化かされたような間抜け面だけである。
「………」と、再び顔を覆ってから、柔らかいため息をひとつ。脇に置いていた書類を拾って、ようやくベンチから立ち上がった。今はもう、鼻が歪むような思いはしない。ごく普通に、楽に呼吸をしていられる。しかしこれは、何もドクターの薬団子だけでなく。己の可愛い恋人、彼女の温くて柔らかい躰を、存分に抱きしめて過ごせたからなのだろう。無論、それをギルドでやらかしたのが大問題ではあるのだが……過ぎたことは仕方がないから、仕事ぶりで取り返すべく。頭を振り、それまでの雑念をきっぱりと打ち捨てて。ギデオンもまた、午後のロビーの陽だまりのなかへ歩きだすことにした。)
(──さて、それからの数時間。見た目と手元の変化以外は、取り立てて困ることなどなかった。書類仕事の途中に何度か、昼間のヴィヴィアンとの様子を眺めていた野郎どもから、面白おかしく揶揄われる一幕こそあったけれど。あれはどちらかというと、ギデオンの体面を慮っての振る舞いだ。故にギデオンの方もまた、今後1週間ほどは、朝のロビーで飲んだくれている野郎どもをとやかく言わないことにした。……背後の受付カウンターにいるマリアの視線が、既に背中に突き刺さってやまないにしろ。男には男の付き合いというやつがあるのだ、仕方ないだろう……と。そうやって一時の裏切りの道を選んだ──その報い、なのだろうか。
更に時が経ち、夜半過ぎ。ギルドを引き上げたギデオンは、ようやくラメット通りの自宅に帰り着いた……は、いいのだが。ぱたぱたぱた、と可愛らしく駆け寄ってくる足音の主を、しかしいつもの幸せそうな顔で受け止めることはなく。「……ただいま、」と応えてから、帰宅のキスを相手に落とすも、引き上げたその顔は非常に微妙な面持ちである。……またもや、ひと目見てわかるとおりなのだ。
今のギデオンは、愛用しているワインレッドのシャツと、その下に着る薄い肌着を、何故か片腕に引っ掛けているのだが。何かあったのか、とその胸元を確かめてみればどうだ。申し訳程度に羽織っている革の上着、そのすぐ下は……もふもふと柔らかそうな真っ白い犬の毛に、すっかり覆われているではないか。目線を下に下にさげても、臍の下までふさふさしたまま、おそらくはズボンの下、爪先までこうだというのが見てとれることだろう。どうやら、今夜のたった数時間のうちに。ギデオン本来の人肌が、また随分と様変わりしたらしい。
「……美味そうな匂いだな、」と。相手の反応より早く、疲れた声でいつもどおりを装いながら。まずは己の上着を脱いで、玄関先のフックに掛け、相手を伴って家の中へ歩き出す。リビングの灯りにさらけだされたその上半身は、幅広い肩や大きな背中に至るまで、やはり見事にもっふもふである。……それに、よくよく観察すれば。なんとその掌まで、より犬の足先のそれっぽくなったらしい。ギデオン自身もしかめ面で、にぎにぎと片手の動作確認を見下ろしながら、ソファーの辺りで立ち止まれば。シャツと肌着を肘置きにかけ、どっかりと腰を下ろす。そうして背もたれに体を預け、目を閉ざして天井を仰ぎながら、困ったようなぼやき声を。)
……ドクターの説明を、俺はすっかり忘れてたんだが。こんな風になったのは、ピクシーの魔法と、昼間に貰った薬団子の副作用……その両方の影響らしい。
健康上問題はないそうだが……こう、なあ。自分の身体が大きく変わるってのは、結構変な気分なもんだ……
……あ、ごめんなさい。
あの時もう一度伝えておけば良かったですね、驚いたでしょう。
( あの時、肉団子を食べた前後のギデオンは、確かに記憶を混乱させていた。それまで恋人の帰宅に綻ばせていた表情を、相手の身体に毛が生えた瞬間の動揺を思ってしょんぼりと力なく凹ませれば。ソファの背面に回って、ぐったりとうなだれた頭を抱き締める。そうして、「ドクターが、明日か明後日には治るって」「治らなくても私が治しますから」「だから、怖くないですからね」と、美しい旋毛や耳元に唇を寄せれば。「ちょっと待っててくださいね」と、キッチンに戻って一杯の器を持って引き返したのは、暖かく美味しい食事が、何より相手を力付けると信じ込んでいるからで。普段であれば、仕事帰りに早く食べたいとせっつく相手を、無理やり浴室に追いやるところも、今はまず疲れた相棒を癒してやりたい。そんな、ごくごく当然といった表情で、そのズボンの下までモフモフの膝に腰掛け、もっと座りやすくしろと無言の尻圧で空けたスペースに、ふふん、と満足気におさまれば。相手と同じ高さになった目元を和やかに細めて、器の中身を披露する。丁寧に裏漉しされたキャベツやじゃがいも、そんな優しい色のスープに見え隠れするのはゴロゴロ大きな肉団子。その一口かじれば、じゅわりと溢れ出す肉汁と軟骨の食感がこりこり楽しい団子をすくえば、ふうふうと少し冷ましてから、ギデオンの口へと差し出して。 )
今日は特別、お風呂の前にちょっと味見してくださる?
味覚も敏感になってるだろうから、普段より薄味にしてみたんですけど……どうですか?
もうちょっと濃くても良いかなあって思ってるんですけど……
ああ、いや、すまない。別におまえのせいじゃ……
(献身的な恋人のしょげたような声を聞き、反射的に口を開く。相手の非など何ひとつない──寧ろこれだけで済んだのは、彼女とドクターのおかげだろう。しかしその訂正も、結局最後まで続かなかった。背後からそっと抱きしめられ、その柔らかい唇をあちこちに寄せられた途端。いつもの真面目顔がふわりとほどけ、まだ残っている犬耳までとろんと垂れて……素直に、“待て”に入ったのである。
キッチンに向かった相手の背中を、そのまま肩越しにじっと眺め。ソファーの上に乗せた尾の先をゆらゆら小ぶりに揺らすうちに、やがて彼女が戻ってきた。手元の椀からは白い湯気、おそらくスープの類いだろうか。てっきり隣に腰掛けるものと思っていたギデオンは、相手が堂々と膝に乗り上げ、寧ろ“もっと奥に動いて”と言わんばかりにぐりぐりしてくるものだから、可笑しそうに喉を震わせ。栗毛に唇を触れて、お気に召すよう体勢を変え、腕の中にすっぽりと収めると。ギルドの連中が見れば憤死しそうな距離感で、まずは夜食に歓声を上げる。──如何にも舌触りの良さそうなポタージュは、食材を丁寧に丁寧に裏漉しすることで辿りつける、目にも優しい若葉色。そのなかに浮かぶ大きな大きな肉団子を、相手の匙で差し出されれば。目元を綻ばせながら、鋭い犬歯の生えた口を、大きくぐぁりと開けてみせ。)
──ん……んん……ふ、これは……たまらないな。
軟骨の……触感が……ん、それに、これは……団子が痩せないように、粉をつけて焼いてあるのか。刻み玉ねぎは……ああ……今の俺がこんなだから、避けてくれたんだな。念のために。
このくらいの薄味も、素材の味が生きていて好きだが……多分まだまだ、濃くして平気だ。どうせなら一緒に美味しく食べられるくらいがいい……お前の腕に任せるよ。
(ポタージュの染みた挽肉を頬張り、柔らかく噛み砕くうちに。最初に思わず零れたそれは、幸せによる笑い声だった。
──ヴィヴィアンが己のために料理を作ってくれるのは、遡ればいつかの冬、まだ交際を始めてもいなかった(……と、当人たちだけが本気で思い込んでいた)ころに遡る。最初のそれは温かなポトフで、その目を瞠るような美味しさに、ギデオンはいたく衝撃を受けた。……自分で言うのも憚られるが、我ながら舌は鋭いほうだ。それは幼少期の母が、毎日のように良いものを食べさせてくれたことに始まり。独立後、例のあの事件で一時転落するまでの間、王都で生まれる様々な美食に親しんでいたからである。素人にしてはやけに肥え太った舌を、それこそプロの料理人である、知人のニックも頼るほどで。逆にその分、そこらの屋台飯に満足できないことも、表に出さないが珍しくもなかった。そんな己を、ヴィヴィアンは、ありあわせという食材だけで唸らせてみせたのだ。決め手に違いない隠し味を、思わず真剣に訊ねれば。『……あのね、世界で一番大好きな人に食べてもらえるから、たっっっぷり込めた愛情のおかげかも』。その答えを、数十年前の母とほとんど同じ台詞を聞いて以来、ギデオンはもう、ヴィヴィアンの料理が忘れられない体になった。この味を知らぬ頃には、もう二度と戻れなかった。──そして、今。その世界で唯一の味を、こうしてギデオンのためだけに調整し、味見と言って彼女手ずから食べさせてくれる。何なら肉団子にしてくれたのは、昼間に薬入りのそれを食べ、内心不服に思っていたのを──料理のようで料理でないのが正直むず痒かったのを──察していたからに違いない。口直しをさせてくれたわけだ。裏漉しという調理方法にしろ、今起こっている歯の変化を考慮してのことだろうし。そもそもこの時間は、普段ならば相手はとっくに寝入っている頃合いで、帰りの遅いギデオンのために待っていてくれたのだった。──そういった背後の諸々までわかっていれば、このポタージュを幸せに感じないわけがあるだろうか。ギデオンにとっては誇張抜きに、この世で最高の味だった。一刻も早く、たっぷりと味わわなくては。
──故に。「風呂上がりにこいつが待ってるのか、五分で済ませてこないとな」と。名残惜し気に頭を擦りつけてから、彼女を下ろして立ち上がると。シャワー室に向かったギデオンは、毛だらけの不慣れな体をしっかり洗い、バスタオルを掻き込んだ。それでも湿り気の取れない部分は、ヴィヴィアンの許可のもと、髪を乾かす魔導具の温風で、ふわふわに乾かして。──そうして今一度食卓につき、今度こそ夜食に浸る。餐の供はヴィヴィアンの話だ。本日のラタトスク狩りの面白おかしい大騒動、その顛末を、ふんだんな身振り手振りで聞き知り。ところどころ、相手を揶揄ったり、むくれられたり、褒めたり、手と手を絡め合ったり。そうするうちに職業柄、真面目な討伐案についても話を広げていっていると、あっという間に深夜帯だ。明日は二人とも少し遅い出勤だが、これ以上夜更かしするのは得策ではないだろう。くぁり、と牙を見せつけるような大あくびをひとつ。皿や調理器具の片づけを任せる間に(何せ今は手もおかしいので、いつもどおりとはいかないのだ)、身嗜みや明日の準備を済ませ、寝室のクローゼットから余分な上掛けを持ってくると。至極当たり前のような顔をして、相手の旋毛にキスを落とし。)
それじゃ……抜け毛が酷いかもわからないし、俺は今夜はここで寝るよ。おやすみ。
( ぐわり、と縦に開く大きな歯列。ビビが小さく割って食べる団子を軽く一呑みにする豪快な顎と、逞しい喉元。今日はそれに加え、鋭い牙も微かに覗く口元に、ビビは何度観ても心底惚れ惚れと見蕩れてしまう。その当人であるギデオンの、素人とは思えぬ的確なアドバイスに、先程よりも少し塩気とハーブを加えた黄緑のスープがみるみると減り、あっという間に鍋の底を尽く光景が心底幸せで。少しの眠気も相まって、その晩のビビはふにゃんと蕩けた笑みをずっと浮かべていた。しかし、牙が引っかかるのか、ギデオンの口に少しついたスープを拭ってやったり、申し訳なさそうに片付けを頼んでくる、ぺたんと垂れた耳を撫で回したり。相手にとっては不本意極まりないことだろうが、普段強情な相手が此方へと甘えてくれることが何より嬉しくて、この人のためなら何でもしてあげたいという気持ちに上気せあがっていた頭へと、いきなり冷水をぶっかけたのもまた愛しい愛しい恋人だった。──こんな寒い冬の日に、一人リビングで寝るなんて。相変わらず、自分を粗末に扱う相手に、それまでずっと眉尻を下げ、ぽやぽやと緩んでいた桃色の表情が、すっと悲しげな色に変わる。分厚い毛皮があるとはいえど、それだって早朝に治るかもしれないし、そもそもそういう問題じゃないのだ。ビビにはとことん甘い恋人に、自分がここでヤダヤダと駄々を捏ねれば、寝室に誘導することは決して難しくないだろうが。しかし、それではこの不器用な恋人は、自分を大切にする術を学べぬまま、ビビが居なくなればまた自分を粗末にするに違いない。そう旋毛に落とされた柔らかい感触に、まずはゆっくり頷いてから、特に無理強いするでもなく一歩下がれば。その選択は相手にして欲しくて、あえて強引な二択を迫る。それでも相手が誇示する様なら、寸前までハンドクリームをこねていた手元をゆったり広げ、ふわもことした寝巻きが飾る優美な曲線を相手の目の前に差し出すだろう、 )
……そっか、おやすみなさい。
でもギデオンさん、明日は久しぶりにとってもよく晴れるんですって……今晩はこんなに寒いのに。
ねえ、寒い中ひとりで寝るのと……それとも。明日の午前中いっしょに毛布を干して、明日もポカポカなベッドでいっしょに寝るの、どっちが良いと思います?
……ね、おいで。
……、
(ヴィヴィアンが示してきたふたつの選択肢を前に、ギデオンの瞳が揺れる。その物言いこそ恣意的であれど、最終的にはギデオン自身に委ねてくれているものだから。思考停止したように、ぎこちなく固まりながら。困惑したように目を細めたり、躊躇いがちに薄く口を開いたり。相手に一歩近づこうとしたか、或いは背を向けようとしたか……どちらともつかず身じろぎしては、再び根が生えたように立ち尽くす。その様子はまるで、迷子になった子どものようだ。
──別に、大した話ではない。ここにあるソファーで眠るか、上階のベッドで眠るか。ただそれだけの、ごく些細な、暮らしのなかにありふれた二択を迫られているだけのこと。仮に独り寝を選ぶとして、相手の言うほど寂しい話でもないと、ギデオンは今も本気で思う。今夜は冷えると言ったって、今はこうして上半身裸でいるように、毛皮のおかげで軽く凌げそうであるし。それにもし、抜け毛がデュベに絡みつけば、洗濯の手間が生じてしまうはずだ。単に面倒なだけではない、それだけふたりの時間が減ってしまう……のんびり寛ぐような時間が。なら、余計な家事を減らすに越したことはない。であるからして、単に合理的に考えただけ。状況に合う方法を選ぼうと思っただけだ。それを実際、躊躇いがちに口にする。自分に言い聞かせるように。
けれどそれでも、それを押し通すまではいかない──ヴィヴィアンの問いかけのせいで、何かがぐらついてしまっている。飼い主の元にすぐ駆け寄れない犬のように、ギデオンはまだしばらく、「……」と静かに硬直していた。耳も尾も、ぴくりとも動かない。酷く頼りなげに揺れ動くのは、アイスブルーの双眸だけ。……ソファーか、ベッドか。その二択の間に横たわる、目に見えない、小さいけれど深い溝。それを飛び越えるのが──欲を出すのが、怖かった。それに慣れていないから。否、この半年で素直に貪欲にやってきたつもりが、まだまだだと教えられて、大いに狼狽えてしまっているから。
……目の前の、ヴィヴィアンを見る。優しいエメラルド色の瞳。ギデオンの答えを待ち望んでいる瞳。──ふたりで過ごすほうが、より幸せになれるとしたら。貴方はどうするの。どちらのほうが、良い答えだと思うの。その問いをもう一度、胸の内で聞いたならば。)
…………。
(……やがて。ごくおずおずと、未だ躊躇するように、尾の先を脚の間に仕舞いながら。それでも一歩踏み出して、相手に身を寄せ、唇を近づけ。「聞き方が狡いんだ……」と、参ったような囁きを落とす。耳はすっかり垂れているし、けれどもそのふさふさのしっぽだけは、相手が優しく触れてきたなら、またゆらゆらと、本人の素直な感情をバラしてしまうことだろう。──ああ、くそ、と。至極決まり悪そうに、悔しそうに、ふたりにとって意味ある言葉で言い返しながらその白い手をそっと絡め取り、すべらかな肌を親指の腹で撫で。まろいおでこに、すり、と鼻梁を擦りつける。──誤魔化しようが、なさ過ぎた。)
俺がこんな風になってくのは、完全に……お前のせいだ。
……責任は、取ってもらうぞ。
( 躊躇いながらも、こちらの腕の中を選んでくれたくれた相棒に、うふふ、と酷く満足気喉を震わせると。いい子いい子とその広い背中を撫でさする仕草は、まるで勝利を確信していたかのように、余裕に満ち溢れて見えたかもしれないが。しかし、本当は心の底からほっと安堵に占められていて。相手の頬へと向けようとしていた掌を絡め取られたかと思うと、近づけられた美しい顔に、娘の首があどけなく縮こめられる。なんたって、ギデオンが漏らした言葉の意味は、誰よりビビが一番深く知っていて。その深い深い愛情に、嬉し恥ずかしといった様子で、ぽふりと豊かな白い毛の海に顔を埋めてしまえば。その柔らかな毛並みをくぐもった笑みで湿らせたかと思うと、すぐさま真っ直ぐに見つめ返して、「……もちろん、」光栄です──と続けようとした取り澄ました言葉も、「ギデオンさん、好き……大好きよ」「ずっっっと、いっしょにいてね」と、追いすがって来た強い感情に、かき消されてしまう。こうして、少しずつでもギデオンが、自分を大切にする術を覚えてくれるのが嬉しくて、星の散った大きなエメラルドを幸せいっぱい細めれば。再度、暖かな胸板に身体を寄せ、甘えきった様子で上目遣いにおねだりするも、相手がそれを叶えるべく合わさった掌を離そうとすれば、分かりやすく寂しそうに、その手を相手の頬へと伸ばすだろう。 )
……ね、ベッドまでギデオンさんが連れてって?
──……お姫様の、仰せのままに。
(一度そうすると決めたなら、後はわりと思いきりよく開き直るギデオンだ。毛並みの良い三角耳で、彼女の愛らしい要望を、ぴくんと確かに聞き取れば。片眉をぐいと上げ、如何にも意味ありげな目で相手を見下ろし、気障ったらしい返答を。もはやすっかりいつもの、おどけるときの澄まし顔──今しがた、別に俺は何ともありませんでしたよ、そう言いたげな面である。
それを相手にくすくすと笑われただろうか、或いは余裕たっぷりに慈しまれただろうか。とにかく、手に持ったブランケットで相手をくるみ、その長い脚をさらりと掬って、軽々と抱き上げれば。リビングを出る間際、燭台の灯りの傍に相手を寄せ、代わりにふうと吹き消して貰う。──これは、ふたりがこの形で寝室に向かうときの、お約束の流れだった。仕事柄、共に過ごせぬ夜もあるからこそ、ふたりならではのこういう些細な儀式すら、大事にしたくなるものである。途端に暗くなる室内、薄闇に紛れて相手の額にキスを落とせば。「階段を踏み外すと危ないから、そっちからは駄目だぞ」「こら」なんて、意地悪を言いながら、ゆっくり寝室に上がっていき。
──彼女が洗い物をする間、ヴィヴィアンはこっちで寝るからと、寝室の暖炉の火を先に小さく熾していた。その甲斐あって、室内は既に暖かく、僅かなオレンジ色の光にちらちらと照らされていて、実に心地よさそうだ。その中央に構えたベッドに、相手をそっと横たえると、自分も横に滑り込み。相手を抱き込もうとしたところで、微かな冷気にふと、大窓の方を振り返る。ガラス戸はちゃんと閉まっていたが、防寒仕様のカーテンが少しだけ間をあけていた。そこから、ちらほら、しんしんと──今年初めての雪が見える。ふ、と緩んだ呼吸を吐き、相手にも見えるように毛並み豊かな体をどけ、ふたりでのんびり眺めては。穏やかな声を落とし、相手のほうを振り向いて、その頭をまた大事そうに撫でることしばらく。不意にその手を止めたかと思うと、そんなわけでは有り得ないのは重々わかっているだろうに、揶揄うように唸ってみせて。)
……そういや、斧使いたちが言ってたな。山越えできずにとどまってた雲が、夜の間に雪を降らして行くかもしれないとかなんとか。おまえがこの寒い日に、噴水に飛び込んだなんて聞いたときには心配したが……明日じゃなくてまだ良かったよ。
……ああ、そうか、もしかすると。俺を湯たんぽ代わりにするために、こうしてここに引きずり込んだな?
( 舞い散る雪に輝いて、温かな肉球にうっとりと細められていたエメラルドが、ギデオンの冗談に一瞬大きく見開かれると。白い手に隠された桃色の唇が、くすりと楽しげに歪められる。
──湯たんぽ扱いではなく、自分自身が求められている、と。そう確信して疑わなくなった恋人が愛おしくて。うつ伏せでシーツに肘をつき、上半身を少し起こした体勢のまま、慈愛に満ちた視線をギデオンの方へと投げかければ。何となしに合った視線に、どちらからともなくリップ音が微かに響いた。そうして、深夜に2人、シーツの上で、まるでこちらが仔犬のように、ころりと腹を見せて転がれば。揺れる尻尾へと手を伸ばし、フサフサと触れる感触を楽しみながら、思わせぶりに視線を伏せると。気恥しそうに染まった頬を、雪明りに淡く浮かび上がらせて。 )
……湯たんぽ。とは、思ってなかったですけど、別の下心はちょっとだけ……あった、よ?
( 音を吸収する雪が、今年も静かな季節を連れてくる。暖かな部屋に、パチパチと火が爆ぜる小さな音と、布が擦れる音だけがやけに大きく耳につき。柔らかな腰を相手に重ね、どさくさに紛れて冷えきった足を相手のそれへと絡めれば、ちょうど顔のあたりにふわっふわの白毛が触れて。思わず同じ石鹸の香りが、その下の、確かに違う香りを引き立てるそれへと、うっとり顔を埋めてしまう。そうして、そこで深い呼吸を繰り返すこと暫く、相手の(己よりも幾許か細い気がしてならない)臀部へ、するりと指を這わせれば。尾の付け根で、ぴたりと両手を止めたかと思うと。豊かな胸毛の間から覗く大きな瞳は、とろりとすっかり蕩け切っている。──分かっているのに止められない。そんな、ピクシー達による悪戯による純粋な被害者であるギデオンに、こんなことをお願いすることへの罪悪感。寧ろそれ以上の邪な念は感じさせない、おずおずとしたおねだりのその通り。もし相手から許可が下りれば、普段とは変わってしまったその部分だけを、丹念にもふもふと堪能するのだろうことは、想像に難くないだろう。 )
その……大きな耳も、尻尾も。ギデオンさんに生えてると可愛いな、って思うの。
ごめんなさい、ずっと我慢してたんですけど……触って、みたくて…………おねがい……だめ、……?
(“別の下心はちょっとだけあった”。そう聞かされた瞬間にぴたりと固まってしまったが、果たしてこれは、男の愚かさだけが悪い話と言えるだうか。先ほどまで余裕ありげに緩んでいたギデオンの表情は、相手のあどけない口調と、それにそぐわぬ薫り高い色気にやられ、見事に宇宙色の混乱を描きだす始末である。……ヴィヴィアンの純真無垢と、無垢ゆえの貪欲さ、どちらも知っているからこそ、判断がつきかねた。そんなこちらに気づいているのか、いないのか。或いはこの薄闇のなかだから、こちらが上手く隠し通してしまえるのか。恋人はこちらにすり寄り、逃さぬように足を絡め、胸元の毛皮に深々と顔を埋めて、何やら堪能しはじめていた。酷く満足気に躰を弛緩させる様子が、人肌の温もりを通じて、こちらまでじかに伝わる。ああ、なるほど、これは……そうか。こう、なんだ、たぶん、どうやら、俺を愛玩したかっただけの話らしい。そう結論付けようとしたギデオンのなけなしの理性を、しかし彼女の天然が、無事でおかせる筈もなく。
白魚の指が、するり、と毛皮越しにそこを這う。その微かな、だが余計に敏感にならざるを得ない感触に、再びギデオンの息が止まる。……流石に思わず、背筋の辺りをそわつかせながら、相手を見下ろしてみればどうだ。相手はとろんと蕩けきった目つきで、甘いお菓子を乞う子どものようにねだってくる有り様だ。──どこまでも幼気な、穢れなき欲求。それを湛えたエメラルド色の瞳を前に、「……、」と押し黙らざるを得なくなったギデオンは、それ以上自分の馬鹿な狼狽えようを見られたくなくて、ただ相手の後頭部に手をやり、胸元に軽く抱き寄せる。何も言わないが、決して否定することもしない、つまりはそういうことだ。果たして、胸元の毛を吐息で湿らせた相手が、嬉しそうに尻尾の毛を愛ではじめれば、最初こそギデオンも、ただ好きなようにさせてやっていたものの。……そのじっとした横顔に、まずい、変な気分になってきたぞ、と、一抹の焦りが滲みだす。自分の愚かな勘違いが発端ではあるだろうが……本来あるはずのない神経をつうと撫でられると、こう、どうにも、無視のし難い感覚が立ち昇ってしまうのだ。ぐるる、と耐えかねたように唸りそうになるのを、胸を大きく上下させる深呼吸でどうにか打ち消しにかかるものの。体はいかんせん正直で、相手が妙なまさぐり方をするたびに、ふさふさした大きな尻尾が、びく、びくびく、と勝手に持ち上がってしまう。鳩尾辺りから湧く感触は、ギデオンの知らぬ回路を伝って、ふさふさしたしっぽの根元から先の方へ、波のような揺らぎを勝手に引き起こしてしまう。いや……いや、なんだ、何なのだこれは?
(一周回って腹が立ってきたぞ)と、相手から見えないように逸らしたギデオンの横顔が、不穏な境地に至りはじめた。今日は元々、何事もなければ、ヴィヴィアンをまた夜の楽しみに誘う予定だった。それがピクシーどものせいで大変な一日になり、流石にこの爪、この体では、いつも通りに及ぶのは危ういからと……密かに諦めていたのである。なのに現状はどうだ。いつもとは違う体を、こうして相手に存分に与え、わけのわからん責め苦に苛まれている。……なら自分だって、本格的にまではいかずとも、彼女の体を与えられてもいいではないか。耳を愛でられ始めたところで、きっぱりそう開き直ると、不意にその肉厚な上体を、衣擦れの音とともに起こし。相手がこちらを窺う間、しかしうんともすんとも言わずに、薄闇のどこかにじっと視線を定めたていたかと思えば。次の瞬間、斜め横から相手の上に首を屈め、その桃色の耳を甘噛みする。傷つけぬ程度の力加減、しかしいつもと違う歯は、相手の肌にどう働いたろうか。何度も何度も、唇と牙で小さな可愛い耳を食み、それだけでは物足りなくなれば、いつもよりざらついた舌を犬のように使いだす。仮に相手が藻掻いても、もふもふした腕や胴体で、ごく柔く──本気になれば逃げられる程度に──閉じ込めてしまう始末。ほんの少しだけ溜飲を下げたところで、欲の滲んだ掠れ声を、その耳元に吹き込んで。)
──ずっと、我慢してたんだ。……頼む、いいだろう……?
我慢って……!
( 何を今更我慢など、普段からしたいようにしている癖にと。精一杯の渋面で、キッと恋人を睨んでやれば。ふうふうと上がった呼吸に、赤く染まった顔つきからも、先程までの無邪気な笑顔は消え失せ。体裁だけの顰め面の下、隠しきれない期待の色香が、艶やかに蕩けた翡翠を濡らしている。──ビビの耳など簡単に千切れるだろう鋭い牙に、日ごろ見蕩れて止まぬ頑丈な顎。しかしそれだけならば未だ良い。時折触れる柔らかな唇が、鋭い感触に構えた身体には酷く甘くて。思わず漏れそうになる吐息を必死で詰めれば、耳元で上がる水音に、本気で頭がおかしくなると思った。しかし、この恋人と来たら、こうしてビビの大好きな声で、低く切なく強請ってみせれば、全て許して、叶えてもらえると思っているのが──全くもってその通りなのだから、余計癪に触るというものだ。先程まで、溜まる痺れを逃がしてすら貰えなかった腰を重く上げ、こちらを見下ろす目元に吸い付けば、「……とくべつ、ですからね」と。明日もお仕事なんですから、いつもは駄目ですよ──と、いつも通り流されてやる振りをして、上半身を離すその間際。触れずとも明らかに敏感そう故に、逃がしてやっていた耳の中、その薄いピンク色の膜をぺろりと一舐めしてやれば、溜飲も少しは下がる気がした。
──本当に、本当に静かな夜だ。未だ綻びかけに在る蕾をゆっくり解す、その準備の音だけがやけに響いて。耳を塞いでしまいたいのに出来ないのは、その蕾を愛でるのが己の両手であるからだ。繊細な作業に向かない肉球の代わりに、これまで教えこまれた知識を追って、自分の良いように細い指を動かせば。成程、人が何かと消閑に耽る理由がわかってしまう。時折、こちらをじっと見下ろす相手の腕も使って、しかし、相手からは勝手に触れさせないのは、最初、いつも通りの触れ合いを持つ消極的なビビに、態とらしくその肉球を見せつけてきた意地悪への意趣返しだ。「駄目、見てて」「待て、」と繰り返しながら、次第に近づく感覚にぎゅっと強く瞼を閉じて。そこで初めてヒュオォ……と、遠くの風の音に気がつけば、不意に初雪の肌をくねらせ、高く掲げた腰がゆっくりと揺らめきシーツに落ちた。そうして、浮かんだ玉の雫を拭いながら、今度はギデオンの準備に取り掛かろうと。今度は、その意図をもって、触り心地の良い毛皮をつつ、と鎖骨からゆっくりとなぞっていけば。あるところでぴたりと引っかかった指先に、楽しげな吐息をくすりと漏らすと。長い腕をいっぱい広げて、抱きしめるようにして耳元で囁き返して、 )
──……! ……ちゃんと、いい子で待てたのね、
よくできました……どうぞ、
……いっっっぱい、めしあがれ、
……ッ、
(相手が嫌とは言わなかったこの時点で、ギデオンは既に、今宵の自重の腹積もりなど、すっかり彼方に追いやっていた。胸の内にあるのはただ、その気になってくれた恋人を、くたくたになるまで愛でて……その後ふたりでたっぷり眠り、翌朝目を覚ました彼女に、真っ赤な顔でぽこすかと怒られる、そんな慢心に満ちた妄想だけ。しかしその程度の浅はかもの、たちどころに吹き飛ばされて当然だろう。……この半年間、彼女をじっくり開花させてきたのは、他でもないギデオン自身であるからだ。
初めはそうと気づかずに、いつものように優位を巡って戯れていたはずだ。己の犬耳に仕返しをされ、思わずぞくりと身を震わせれば……まだ手ぬるいな、と虚勢を張るべく、今度はこちらが、“この手じゃあな”なんて、意地悪を返してみせて。けれどこの時には既に、張本人にその自覚があったかどうかは知らないが、彼女の術中に落ちていた。──なら、自分で、ちゃんとやるから。貴方はぜったい、手出ししないで……?
背面にあるナイトランプが、ギデオンの顔を照らしていたなら。その白々しいほど涼し気だった顔に、さっと後悔の色が差し……彼女を傍観しはじめてすぐ、こめかみに汗を浮かせたかと思えば、酷く苦しげに歪みだしたのが、いとも鮮やかに見てとれたことだろう。己の恋人が、うら若く美しい天上の女が、すぐにも覆い被される距離で……綺麗な眉尻を悩まし気に下げ、しっとりとした吐息を零し、己のためにくつろげている。だというのに、ギデオン自身は一切手出しがならないというのだ。この据え膳の御預けは、実に笑えるほど効果覿面だった。最初こそプライドの欠片で、固く口を引き結び、じっと黙り込むだけだったものの。ほどなくして堪えかねたように、「……なあ、ヴィヴィアン、」「ビビ……、」と、落ち着きなく、弱々しく、掠れた声で懇願しだす。前言を無様に翻すことになると重々承知していたが、相手がまだ初心者で、どうしても時間がかかるだけに、もうとんでもなく生殺しで、とても見ていられなくなったのだ。──しかし彼女は、許しさなかった。自分だって恥ずかしい癖に……そんな真っ赤な顔をして、自分の立てる物音にたまらなそうに身を捩るくせに。第一、今してみせていることは、ようやく羽化したばかりの女にとって、まだ随分とハードルが高い代物の筈だ。にもかかわらず、ギデオンが少しでも身を乗り出せば、潤んだエメラルドでさっと射すくめて、「待て、」と。はっはと息を乱しながら、それでも強い意志を込めて、「でも見てて、」なんて言うのだ。
いつもならこんな制約、無駄に良く回る頭と口で、どうにか反故にしてみせただろう(……たぶん、きっと、おそらくは)。しかし今のギデオンには、それは絶対できなかった。このくそったれの犬化魔法のせいなのか……“待て”というコマンドが、まるで呪文のように強力に働き、体が勝手に従ってしまうのだ。かといって、散々に煽り立てられる情欲はまったくそのままでおかれるのだから、相反する本能同士に、頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。「っは……、」と荒い息を零す、物欲しげに薄く開いた口の奥、まるで砂漠でさ迷っているかのように、喉がからからに乾いて辛く。引き攣った呼吸を繰り返せば、それを見かねられたのか、あるいはたまたまのタイミングか、ようやく少しだけ近づくことを許されて、お望みのまま腕を貸すも。それでも肝心の触れ方はさせて貰えず、また下がるよう命じられ。──一度期してしまった分、それをあっさり打ち捨てられたものだから、強烈な切なさと、煮え滾るような苛立たしさが、血潮となって痛いほどに充ち充ちる。だがまだだ……まだ、主人の許しが下りていない。苛々と頭を振り、もう一度頼み込もうと顔を上げるも、それは無駄と知っているが故に、唸りながら取りやめるその横顔は、いっそ滑稽で。手元のシーツを手繰り寄せようとした手は、もっと手応えのある者を求め、ヘッドボードを八つ当たり気味に鷲掴みにする。相手が腰を浮かせるたび、ぎり、ぎりり、と、鈍い音。ギデオンもヴィヴィアンも、どちらも汗だくなくらい夢中であるため気づかないが、たまりかねた鋭い爪が、深い傷痕を刻みつけているのだ。それでも御命令通り、燃えるような眼をその媚態から逸らさない忠実ぶりを示していれば。……終わった彼女が身を起こし、もはや一切取り繕えないギデオンを確かめて、満足気な微笑みを浮かべる。そこでようやく、本当にようやくのことでお許しを出された瞬間、地獄の底から救われたような顔をして。もはや言葉も出ないのか、大きく動いて相手に身を寄せ、頭を摺り寄せるその様は、“……俺が悪かった、”と、代わりに雄弁に物語るだろう。そのまま相手を引き倒し、頸筋に顔を埋めながらも、片手は器用に、抜かりなく、いつもヘッドボードの引き出しに仕舞っているものを取り出す──これだけは、若い時分から自分に叩き込んでいる理性だ。そうして、何度も何度も鼻梁を摺り寄せ、悪かった、お前が欲しい、と再三相手に伝え直してから。ようやく相手に沈み込んで、本懐を遂げるだろう。)
(──しかし結論から言って、やはり今夜のギデオンは間違っていた。健康面の危険を冒した、という意味ではない……今回のこれは、中毒性が強すぎるというか。一度これを知ってしまったら、もう知らなかったころに戻れないような体験だったのだ。
たしか昔、エマだかヘルカだか、その辺りの女に猥談として仕掛けたような気もするが──生物にはそれぞれ、特徴というものがある。とあるシーサーペントは丸一日近く続ける一方で、ヤギのそれは一瞬で終わる。スフィンクスの雄は雌の首を噛んでおくが、これはそうやって大人しくさせておかねば、痛みのあまり襲われるからだ。そして、犬やワーウルフ、フェンリルといった食肉目にもまた、面白い特徴があった。とはいえそれは、傍目から見る分にはというだけのこと。……まさか人の身で当事者になるとは、夢にも思わない。
頭のどこかでは、理性が肝を冷やしていた。明らかにいつもと違う──何か引っかかって全く引き抜けないのも怖いが、こんなに長く続くのもおかしい。まさかそういった部分まで、あの悪戯なピクシーどもに作り変えられたんじゃあるまいな。……けれどもただでさえ、まっただなかにいる男というのは、世界でいちばん知能が下だ。本当に本当に、地の底を抜けるほど下だ。故に今のギデオンは、うっすらと懸念を感じはしながらも。相手を散々旺盛に求めた末、最後の心地良さにぼうっと身を委ねる誘惑に、全く、ちっとも、これっぽっちも、全然、さっぱり、抗えなかった。とはいえ、うつぶせになた相手をこのまま潰し続けてはいけない、という気遣いは働くらしく。背面から相手を抱きかかえ、体を横に寝かせて、蹴散らしていた毛布の山をかけ直すと。以前相手に流し込みつづけるまま、己の毛皮ですっぽり包み、濡れた首筋に唇を寄せ。酷くぼんやりした声音をもって、相手に尋ねることだろう。)
…………ぐあいは……、
……っ、
( めしあがれ、と。そう嘯いた時点で、今晩のビビはギデオンの全てを受け止めるつもりでいた。耳を垂れて、こちらに頭を擦り付けてくる幼気な恋人。自分も本当は相手と深く睦み合う夜が好きだと言うのに、日毎に可愛くない、相手に見られたくない姿を繕えなくなっていく様相に動揺し、呆れられたらと思うと恐ろしくて、最近はこの恋人の腕の中で朝を迎える度、素直じゃない、理不尽な八つ当たりをぶつけてばかりだ。それを先程のお預けで──求めているのは貴方だけじゃない、と。私も貴方と迎える夜が好きなのだ、と見せつけたかったのだが──果たして、勿論その報いを全て受け止める気でいた覚悟は、その後襲った嵐によって粉々に砕かれることとなったのだった。
──どれほど時間が経っただろう。あれからずっと酷使し続けた喉はとうに擦り切れ、分厚い胸板に押し潰された背中は、最早ぴくりとだって動かせない。それでも、いつもギデオンがそうしてくれるように。『ありがとうございます、気持ち良かったです』と、疲れた身体を抱きしめ返したい。その目標だけが、泣き出しそうになるビビの心を健気に支えて。ろくに呼吸も出来ていたのかどうか、相手と繋がりあったまま、シーツに埋められていた視界が、ぐるりと反転したその恐ろしい程の刺激からさえも、声にならない叫びをあげるだけで、辛うじて細い意識は繋ぎ止める。そうして、ぐったりとギデオンにされるがまま、いまだ襲い来る快感に、ひゅうひゅうと荒い吐息を漏らせば。可哀想なほど真っ赤になって、口や目元はとうにぐちゃぐちゃ、あれほど見せたくなかった顔を晒して、最早ギデオンの言葉も聞き取れぬ有様というのに。その相手もぼんやりとした面差しの奥、そこに潜んだギデオンの理性が、なにかに怯えていることに気がつけば。重い、重い腕を持ち上げ、抱擁というにはあまりにか弱い。腕にかかる重力に任せるまま、ほんの微かな力で可愛い恋人を抱き寄せていた。──大丈夫、大丈夫。無責任と言われればその通りだが、そう掠れきった無声音で、少し硬い金髪の頭をぽんぽんと、うわ言のように撫でさすると。閉じかけていた瞳をギデオンに向け、ぽやりと、しかし心配そうに愛しい相手の顔色を確かめて。 )
…………?
…………、
(ごく微かな抱擁の感触、そしてうわ言のような掠れきった囁き声。噛みあっていないと言えば噛みあっていないいらえのはずだが、しかし今はギデオン自身もぐったりしているものだから、いつもの過保護な心配性が頭をもたげることはなく。寧ろ、ただ撫でられるまま目を細め、薄闇のなかの相手を見つめて、心地よい痺れに身も心も委ねる始末だ。そのうち、相手がふと瞼を開けて、とろんとした、それでもこちらを案じるようなまなざしを覗かせてきた。──ふ、と小さな笑み交じりの吐息。可笑しさだとか、愛おしさだとか、おそらくその類いの何かが、思わず零れ出たのだろう。
目を閉じ、体を屈めるようにして。相手の額に鼻梁を寄せ、長い長い息を吐きだす。もはや何を言うのも気怠くて……きっとこうすれば、自分が安堵と満足に浸っているのがわかるはずだと、そう考えて懐き続ける。だがやはり、それでももう少し、安心を伝え直しておこうかと。繋がり合ったままのくせして、まるで幼子を寝かしつけるように、相手の背中に回した手を、ぽん、ぽん、と軽く動かす。先ほどの荒々しい盛りから一転、こうして穏やかな静けさにふたりして沈む時間が、ギデオンは好きだった。いつまでもこうしていたいところだが……しかし今は、夜半の2時か、3時か。とにかく、よく眠るたちである恋人にすれば、これ以上の夜更かしは身体に障ってしまうだろう。明日も仕事があるのだから、ギデオン自身も休まなければ。
そう感じたところで、不意に小さなさざ波が湧き起こり。ぶるり、と身を震わせたかと思うと、本能的に押し付けて、まだ続いていたらしい、最後のひと息を大きく吐き出す。引いていた筈がぶり返してくる、微熱にも似た恍惚の余韻。たまらず呻き声を漏らし、呼吸をごく微かに乱す。いつもの比にならないほどぬかるんでいることも、今のでようやく瘤が消えたことも、確かめずとも感じ取れた。故に、随分と慎重に、間違いのないよう引き抜くと、サイドテーブルに手を伸ばし、ほとんど無意識に後始末に入り。そうして、あらかた──のつもりが、きちんと綺麗に──片付ければ。ごみ箱にくず紙を放って、今度こそ相手を抱きしめ、思考を放棄しようとして。
「……ビビ、」と。何とはなしに、一度だけ名を呼んだ。それに相手が応えたにせよ、応えられなかったにせよ。その汗に濡れたこめかみに、唇を柔く押し当てる。これでデュベを引き上げていなければ、まだ残っている大きなしっぽが、ゆらゆら揺れていたことだろう。相手のあどけない顔を、優しい眼差しで見下ろすと。少し身じろぎし、落ち着ける場所を見つけては、ギデオンもすっかり横たわり、相手の栗毛に顔を埋める。──肉団子の効果が切れたのか、或いは散々求め合ったからか。恋人の香りがいつもより鮮明に感じられ、己の肺腑がたちまちのうちに満たされた。そうして何度も深呼吸を繰り返すうちに、いつしかギデオンも、睡魔の闇に落ちていき。眩しい朝陽が部屋をすっかり照らしきるまで、ほとんどぴくりともしなかった。
──このときのふたりは、まったく知る由もなかったが。実はこの睦みあいこそ、ギデオンにかけられた悪戯魔法を解く鍵だった。人体は元々、普段から微量の魔素を発しているが、ギデオンは濃厚なそれを……天文学的な確率で相性の神懸かっているそれを……ほとんどゼロ距離で、体中の至る場所から、数時間も取り込み続けていたわけだ。故に朝方、ふたりがすっきり目覚めた頃には、犬のような耳もしっぽも、綺麗さっぱり消えていた。歯も爪も元通り、抜け毛ひとつさえ残さずに、ひと晩で無事解決である。……しかし結局、ふたりの寝床は、随分と酷い有り様に成り果てていたものだから。ふたり笑って、シャワーを浴びて、そこでもちょっと戯れたのち。ようやくさっぱり切り替えると、爽やかな朝に向けて、元気に動きだしたのだった。)
(──さて、澄んだ寒さが肌を刺すとある日。ギデオンとヴィヴィアンは、いつもどおりに出勤するなり、エリザベスに声をかけられた。最上階の執務室がお呼び出しとのことである。
はて、いったい何事だろう。ふたりが以前の関係であれば、十中八九、クローズドクエストの拝命に違いないのだが。交際関係にあることを──今はそれにとどまることを──きちんと公表済みであるから。経費周りで問題視されないよう、ふたりきりでの重要任務は迂闊に回されないはずなのだ。「戒告か何かじゃないといいんだが……」なんて言い交わしながら、扉をノックし、押し開けると。そこに待ち受けていた御方は、しかしギルドマスターではなかった。そう言えばかの方は今、王国議会からの招集を受け、中央に登城中である。彼か彼女か、詳しいところは幹部の数人しか知らないのだが、とにかくあの御人が数日ギルドを離れる間、諸々の指揮と判断は、臨時代理に託されている。つまりふたりを呼び出したのは、高級な椅子ににこにこしながら座っている、如何にものんびり屋な──この髭もじゃの、傷だらけの大男である。
向かいのソファーに腰を下ろし、要件を窺ってみるに。どうも代理は、ギデオンとヴィヴィアンに、合同クエストのメンバーとして出張してほしいらしい。来週から約2週間、場所は国内中部のヴァランガ地方。旅費や食費、消耗品費などの類は、きちんと持ってもらえるという。「……いいんですか、」と、ギデオンが困惑気味に訊ねてみれば、「いいのいいの」と、代理は至極のほほんと、(いかつい体躯に全く似合わぬ)温厚な声で答えた。
「君たちが仲睦まじいのは知ってるよ。だけど僕ら幹部にとっては、君たちふたりの冗談みたいな相乗効果のほうが、よっぽど重要なんだよね。トリアイナの不祥事解決、夢魔騒動の捜査、ライヒェレンチの増援、トロイト退治、ドラゴン狩り……他にもいろいろあったろう? とにかく、今までのああいったのと同じような活躍を、またふたりにしてほしいんだ。ビビちゃんだって、もうお医者さんから太鼓判は捺されてるんだって? それなら久々に、少し骨のあるお仕事を担当してみてくれないか」。
どうやら諸々の懸念については、既にギルマスと話し合い、対処方針を固めているらしい。それなら、と頷いて、子細の記されている手元の資料に目を通した。──今回の合同クエストの主催者は、“西の王剣、東の聖剣”……などと双璧扱いされることでお馴染みの、国内東部の大型ギルド・デュランダル。そこが受注したクローズドクエストが、どうやら特殊な内容らしく。せっかくなら周辺の公認ギルドも一緒にやってみませんか、と、カレトヴルッフも誘われたらしい。他にもアラドヴァル、アルマツィア、クラウ・ソラス……この辺りの中型ギルドも、参加が決まっているという。要は、中部地方にある公認ギルドから少しずつ冒険者を募り、皆でひとつのパーティーを築き、デュランダルの受注した遠征に赴くのだ。
その少し面倒な経緯を聞いて、不思議そうな顔をする顔のヴィヴィアンに、ギデオンの方から解説することにした。──今回のような合同クエストは、ライヒェレンチでの掃討作戦とはまた別で、人員の増強よりも、冒険者同士の交流会を意図している。国内の冒険者ギルドは、無論定期的に会合を行っているけれども、同じ現場で汗を流すのはまた違う。知識や技術、人脈が行き交い、よその冒険者同士の横の結束を強められるからだ。主催はだいたい大型ギルドが請け負うもので、うちも頻繁にやっている……カーティスやバルガスが暫く帰ってきていないが、実はあれも、まさに別の合同クエストに駆り出されているところである。こういうのは、通常のクエストとは趣が異なるし、自分たちは呼ばれる側だから、遠征より出張と呼ぶ。東のあちらさんが音頭を取ってくれるのだから、気楽に行って大丈夫ではあるだろう。必要な指示はデュランダルが出してくれる。だから俺たちは、交流に気を割きつつも、ただいつもどおり仕事をこなしに行けばいい。
「そう、そのいつもどおりの活躍というのが、大事なところでね」──臨時代理がここで初めて、目をきらりと光らせた。「ギデオン、お前は言わなくてもわかるだろ。今までどおり、上手に見聞きして、嗅ぎまわって、尋ねて聞いて……そうやって、必要な顔と顔をしっかり繋いできてほしい。根回しの下拵え、お前の得意分野だろ? それで、ビビちゃん。君を選んだのは、君の出身が魔導学院研究部だからだ。今回の仕事には、そのキャリアが役に立つ。行けばわかるから、そこで最大限のことをしてきてくれ。それに、今回の成果次第では──昇格の推薦を取り付けられるかもしれない」。
“昇格”とは言わずもがな、冒険者ランクのことだ。これが上がると、ギルドから安定して支払われる固定給が変わってくるというものである。生活をしていく上で、この安定感の向上というのは、かなり重大なポイントだった。それに、実際はこれ以外にも幾つか必要になるだろうにせよ、幹部からの推薦をしっかり貰えるのであれば。通常の昇格に比べ、必要な諸般の手続きがかなりスムーズになるはずだ。
思わずヴィヴィアンと顔を見合わせ、ふたり同時に頷いた。既に今も、世帯収入は充分にある。しかし所得にかかる税金を加味しても、余裕を持って困るということはない。それに今は、ヴィヴィアンより引退が早いかもしれないギデオンが、これからの働き方を試しつつあるところでもあるのだ。ふたりとも現役でいるうちに、できることはしておくべきだった。
「引き受けます」と、ふたりで答えた。──ヴァランガ出張の決まりである。)
( 荒い呼吸を繰り返すビビの額に、暖かな吐息が吹きかけられる。──嗚呼、よかった、ギデオンさんがわらってる。うれしい、すき、だいすき、と。小さくふにゃりと微笑んで、働かない頭を小さく擦り付ければ。未だ終わらぬ長い責め苦に、身体を捩って逃げ出す体力も、不満の声を漏らす声帯も、余計な全てはついえてしまって。優しく触れる大好きな手に、ひどく満足げな長い呼吸だけが、この状況をまたビビも心より愛しているのだと伝えられているだろうか。ぴったりと深く重なり合って、二人静かに鼓動を合わせる。その幸せに慣れてしまったからだろうか。全てが終わって、部屋の空気が濡れた体をひんやりと撫でれば、たまらない喪失感に白い指先をゆらめかせ、先程まで一つになっていた片割れ、愛しい男を探し求めてしまう。大人の鎧を羞恥と共に剥ぎ取られ、今夜すっかり無防備になってしまった娘の心が、たまらぬ寂しさにぐずぐずと泣き出すその寸前。やっと“ビビの体温”が返され、強張っていた身体を緩ませたところへ呼びかけられれば。既に懇ろとなっていた上瞼と下瞼を大儀そうに引き裂くと、ぐったりと重い首を持ち上げて──場所が違う、とばかりに相手の唇へ、本当に、本当に触れるだけの口づけを。そうして、柔らかい質感を伝えることすらなかったその催促が、果たして叶えられたかどうか。今度こそ瞼と瞼を強く引き閉じれば、深い眠りへと堕ちていったのだった。 )
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また、ギデオンさんとお仕事できるなんて嬉しいです!
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( 大好きな恋人と迎えるけだるい朝も、爽やかな流水の中たわむる時も。ヴィヴィアンにとって、ギデオンと過ごす日々はこれ以上なく幸せで、恋人として満たされていないといえば嘘になる。しかし、何故だろう。もうずっとビビにとって、なにかが満たされていない気持ちがするのは。そんな違和感の正体に気が付いたのは、それから遠くない日のことだった。
付き合い始めた冒険者同士は、同じ仕事を受けさせない。無論、些細な呼吸の合わせ方の差が生死の差になるこの仕事で、此度の様な例外はあるものの。開拓時代とは違うこの現代で、仕方のない不文律はビビとて承知していたはずだ。しかし、仕事の場面においてでも、ギデオンの隣が己ではないこと。それに耐えられる程、己は無欲でも理性的でもなかったらしく。故に件の依頼を打診された際の喜びようといったら、いつか初めてシルクタウンの魔物討伐に繰り出した時もかくやといった勢いで。それからの一週間というもの、暇さえあればヴァランガ一帯の動植物、魔物の分布等、部屋中の書物をひっくり返し、いつにも増して上機嫌な笑顔で、魔物を屠るヒーラーは、少なくともヴァランガへと向かう出発以前から。早速、日々 魔物に脅かされる市民を力づけるという余剰効果を生んだとか、そうでもないとか。
ともかく迎えた出発当日、事前に別の野暮用を済ませて、先に行っててもらったギデオンと東広場で落ち合うと、しれっと腕を絡ませて、今回の主催ギルドであるデュランダルの馬車が通るという街外れの街道へと歩き出す。シルクタウンの時とは違い、今回の依頼は、『ヴァランガにおける空気中に含有する魔素の異常発生及び、それにおける魔物や、有毒・有用植物、及び人類に及ぼす影響の調査。及び博士を含む非戦闘職員の護衛』──とまあ、要は明確な被害者がいない調査の仕事である。それによって、るんるんと鼻歌でも歌いだしそうな──否、実際に人の少ない道では、その何とも言えない歌唱力を披露していた──ヴィヴィアンの上機嫌は留まるところを見せず。その癖、背負った準備の数々は一切手を抜くどころか、一週間でこれ以上なく厳選され切ったそれなのだから始末が悪い。
それからしばらくして約束の時間、約束の場所で待つこと十数分。一本のロングソードを中心とする意匠が入った大型の馬車に、大きく手を振り近寄ると。日焼けた肌が勇ましい三十代前半と思しき大男が、止まった馬車の後ろから、ぬうっとビビの顔より大きな掌を差し出して。「やあお待たせしてしまってすみません。行きしで泥濘にはまってしまって」とガリニア本国のそれを感じさせる、東部らしいはんなりとしたイントネーションで謝罪した男は、その糸目を更に細めて明るい笑顔を浮かべたかと思うと、「はじめまして、私セントグイドで研究者してます、レクターと申します」いやぁ都会の方ってなんというか……皆そうなんです? お二人ともシュッとしていらっしゃるというか、はあもう僕見惚れてしまいます──と、矢継ぎ早にペラペラやり始めたところを、馬車の中から助手らしき青年に咎められ、やっと馬車の荷台へと腰を落ち着けられる。そうしてぐるりと周囲を見渡せば、どうやら泥濘にはまったのは本当らしく、調査地につく前から泥に汚れているデュランダルの冒険者達といえば、なにやら既にぐったりと疲労を顔に滲ませていて。はて、泥濘からの脱出程度でこうもなるとは──……と、首をひねるまでもなく。馬車が動き出してかれこれ十数分、冒険者より余程壮健なレクター博士が一秒たりとも黙らないのである。
さて、改めて。聞くまでもなく自分の身の上から、今回の依頼をするに至った経緯まで全て勢いよく話してくださった氏曰く。もともとヴァランガは今回の様な仰々しい調査を入れるまでもない、ごく普通の、少し魔獣の発生報告の多いトランフォードらしい土地柄だったという。平地が少ない故、大都市の発展には恵まれなかったが、トランフォードの冒険心溢れる先祖のおかげで、小規模ながら狩猟を生業にする小さな集落も存在し、数世代前まではキングストンにも革製品を卸していた記録のあるという。しかし、それがある厳しい冬の年を境に、他の周辺都市から消息を絶って久しく。最近、また商魂たくましい連中が足を踏み入れたところ、近辺でも稀に見ない魔法植物や薬草、鉱石等を見つけたは良いが、狂暴な魔獣のせいで満足に野営もできないといった有様らしい。先月ごろには冬越えに失敗したかと思われていた地域住民の目撃情報も挙げられていて──……僕ァ金銭に興味があるわけじゃないんです! 神話の時代の話と違うんですよ! 有史以降に現れた秘境の民族だなんてこんな浪漫がありますか!? と、人の思考を遮って、元々高い声を更に張り上げたレクター博士は、長年デュランダルのあるトランフォード第二の都市・セントグイドの魔導学院で長年民俗学の研究をしているらしい。耳の真横で高い声を張り上げられて、にこやかだった表情を引き攣らせたヴィヴィアンは、しかし後に、この躁狂な教授と思わず意気投合することになる。自分以外誰も一言も発さない馬車内で、一切気にした様子もなく語り続けて、なまじ魔導学院出身と知られてしまっているヴィヴィアンや、その他ぐったりと寝たふりさえ始めた周辺ギルドの冒険者、果てには今まさに馬車を運転している運転手にさえ、度々たっぷりと自論を語っては、君はどう思います!?等と自由奔放に絡みまくっていた博士だったが。何故か頑なにギデオンにだけは話を振らないどころか、そのチワワの様なむき出しの視線をも合わせようとしないのである。当初は相棒に矢が当たらないことに安堵していたヴィヴィアンでさえ、流石に感じの悪さを感じ始めたその途端。悪路だというのに興奮のあまり立ち上がり、案の定がくんと馬車が揺れたとはずみにふらついて、ビビの相棒の隣に腕をついたかと思うと。シュバッとアルマツィアの弓使いが片眉をあげるほどの素早さで飛びのいて、「あ、あ、ああ……申し訳ない、本当に」と、言葉を失ったかのように座りなおし、それ以降貝のように口を閉じてしまったレクター氏が、冒険者ギデオン・ノースの熱狂的な大ファンであると知ることになるのは、まだしばらく後のお話。
ともかく今は、そうして突如生まれた静かな時間に、やっとギデオンと同年代らしき、デュランダル側の責任者である女剣士が、態とらしく咳ばらいをしたかと思うと、「じゃ、じゃあ……現地でのスケジュールと注意事項を……」と話し始めるという、なんとも締まらない形でヴァランガ合同クエストは始まったのだった。 )
(──トランフォード中部の雄大な山々に囲まれた、白銀の峡谷・ヴァランガ。その入口は、キングストンから馬車で数日、そこから更に山道を徒歩で数日……つまり、王都から実に1週間ほどかけて行軍した先にある。距離にしてみれば案外近いかもしれないが、しかし周辺の山岳の、まるで人類を拒むような険しすぎる地形のせいで、これまで冒険者が立ち入った例は、最古の開拓時代以外にほとんどないと言ってよかった。カレトヴルッフの資料室でも、過去の記録を一応調べてみたものの。それらしい記述ときたら、隣の地方にまつわる文献に一、二行ほど走り書きされていただけだ。
通常、よほどの大隊でも組まない限り、そんな辺鄙な山奥にわざわざ踏み込むことはしない。冒険者は有限の資源だ──どんなに情熱的であろうと、国内全土を松明で照らすことはできない。王都の近辺にさえ日々魔獣が湧く以上、人口密集地の防衛を優先するのは当然のなりゆきで。故にヴァランガのような奥地は、開拓時代に一度踏破したが最後、これまで後回しにされてきたのが実情だった。……しかし今回、それがようやく、破られることになるわけだ。
「200年前の集落の再発見、か……」と。幾日目かの野営の夜、焚火の傍でヴィヴィアンと共に、デュランダルから配られた資料を今一度熟読する。──そこでだれかが暮らしているなら、たしかに実地調査のついでに、確認しなければならないだろう。人口や生活実態、人道的支援の要不要など……本来は憲兵団など、国家に直属している組織が動くべき事案だろうが。如何せんヴァランガ一帯は、長年人が立ち入らなかったせいで、魔獣の凶暴度が大コスタ並みだという報告も上がっている。であればまさに、その道のプロである冒険者たちの出番だろう。周辺の魔獣や魔法植物の生態をつぶさに調べ、危険や対策を検討し。最終的に、いずれ必要な国勢調査も立ち入れるように道を敷く……そのための、いわばプレ調査。それこそが、今回のギデオンたちに課せられた使命であるに違いない。……そのついでに、みょうちきりんな学者どもの護衛も背負わなければならないようだが。小さくため息をついたまさにその瞬間、また遠くから賑やかな声が聞こえてきて、ギデオンは振り返った。向こうのほうの焚火の周りで、今回のクエストのきっかけとなった依頼者──セントグイド魔導学院のレクターが、相も変わらず周りを巻き込んで騒いでいる。何故かギデオンのことだけは直視したがらないあの男は、声も存在感もいやに過剰な人物で、別段嫌うほどではないが、胸の内では警戒していた。魔獣よりも恐ろしいのは、守られる立場にあることをわかっていない民間人。万が一が起こらぬよう、しっかりと目を光らせておかないと、大変なことになるかもしれない。ヴィヴィアンともその辺りをこっそり話し合ってから、腰を上げてテントに戻り。寝ずの番の交代に備えるべく……二分と経たずに眠り込んだ。)
(──それからの道程も、同じような日々が続いた。馬車と別れて山に分け入り、幾つもの峠を越えて、日が落ちる前には必ず野営を構えて休む。幸い天候に恵まれて、旅程は至極順調だ。魔獣の襲撃は一日に数回ほどあったが、この合同パーティーは各ギルドの粒揃いということもあり、スムーズな連携戦を最初から難なくできた。……久々にギデオンと肩を並べて杖を振るったヴィヴィアンが、太陽のように明るい笑顔を生き生き振りまくものだから、それに見惚れる男どもが出ていたことだけ悩ましかったが。ああ、それと。魔剣を振るうギデオンを見たレクターの様子が、やけにおかしくなっていたが……あれはいったい何だったのだろう。よくわからない男である。
──……キングストンを出発してから、九日目。ギデオンたちはついに、その鋭い峡谷の切れ端へと辿り着いた。一行の頭上に広がるは、真っ白な雲との対比が見事な、風の吹きすさぶ青天井。その下、遥か眼下には、雪と岩肌でまだらになったV字型の斜面の底に……なるほど、蟻のようにぽつぽつと、集落らしきものが見える。ここから最低でも2週間、現地調査をするにあたり、まずは村人たちに挨拶と、拠点を構える許可取りをしに行かねばなるまい。パーティーメンバーで事前に話し合った通り、まずはギデオンと、デュランダルの女剣士、ほか数名が行くことになった。このパーティーのリーダーは彼女、エデルミラに違いないのだが、200年間外界と交流しなかった土地となると、女と口を利くことさえ嫌がるかもしれない。そこで立場上、王都のギルドの男性冒険者であるギデオンが、場合によっては代わりを務めるわけである。それにあたり、まずは見てくれをきちんと整え、持参した酒や煙草などの土産品を手荷物として携えれば、いよいよ先方への挨拶に……向かった、つもりだったのだが。
──いなかった。いるはずなのに、いなかった。
この集落を築いたはずの村人たちは、影も形も、人っ子ひとりも……まるで見つからなかったのだ。
全ての家、全ての建物、全ての小屋に声をかけた。だが、返事はこなかった。谷の上からギデオンたちが見つけたのは、どうやら廃墟だったらしい。家々の竈は吹き込んだ枯れ葉に埋もれ、ボロボロのベッドには蜘蛛の巣が張っている。この滅びよう……どうやらこの村の人々がここで生活をしていたのは、どんなに新しくても数十年前のように思える。すっかり崩れた家屋がいくつかあるのも、その証左だろう。だが、暮らしの跡や生活用品、革製品を作る道具はあちこちに大量に残っていて、ある日突然この集落を捨てたようにも思えなかった。……それに、そこそこしっかりと根を張った集落のように見えるのに、墓場がひとつも見当たらないのはどういうことか。風葬や鳥葬をするような村だったのか……? 全員で合流し、村の亡骸を一緒に見て回ったが、詳しいことは一向に分からぬままだ。否、レクター博士は助手とともにあちこち調べて回っているが、生粋の学者であるが故に、結論を急ぐような真似はしたくないご様子である。
……とりあえず、ヒーラーであるヴィヴィアンの確認をもって、この村に病原菌や悪性魔素の類いは蔓延っていないとわかった。であれば次は、比較的綺麗な状態で残っている建物の清掃作業だ。村に残っていた箒で枯れ葉や土埃を掃きだし、入り込んだ草の根を抜くと、冷たい風を凌ぐのに充分な場所となった。しばらくはこの屋内にテントを張り、寝泊まりすることになるだろう。綺麗な沢や可食魔獣は幾つも確認できているから、生活資源も問題ない……この谷を拠点として、周辺の魔素・生態調査に乗り出していくわけだ。
問題はふたつ。この村の人々は、はたしてどこに消えたのか。そしてデュランダルに寄せられた、「地域住民の目撃情報」とは、いったい何だったのか……? 来た道があの険しさだ、周辺には他の集落など存在しない。だが報告書によれば、幻のヴァルンガの民としか思えないような人々を、信頼できる筋の人々が、近くで見かけたはずなのだ。冒険者のように野営慣れした様子でもなく、どこかに帰っていくような様子だったという、それなのに……。何もわからないまま、ヴァルンガ初日の夕陽が落ちた。今夜は各自しっかり休み、明日から調査開始である。この村の薄気味悪さを少しでも払おうとしてか、何人かの冒険者たちが、向こうの大きな焚火の傍で、元気に酒盛りをしていたが。一方のギデオンは、日が暮れてからも建物内の安全確認に奔走していたヴィヴィアンを労うべく、まずは谷の斜面で見つけた甘い木の実をフライパンで煮潰した。そうしてペースト状になったそれを、余っていた山鳥のローストにたっぷり塗り、探し出した相手の前にさりげなく差し出すと。“皆には秘密だぞ”というように片眉を上げながら、その隣にゆったりと腰を下ろして。)
なんというか……つくづく、拍子抜けの開幕になったな。
どうだ、疲れはたまってないか?
わあ、あったかい……ありがとうございます!
( それは最後の廃屋を確認し終わり、壁の補強、防水……これは雪対策のそれだろうか、長い間放置され、溶けかけている魔法をかけ直しながら、朽ちてしまった玄関を潜り抜けた時だった。聞きなれた声に嬉しそうに振り返った娘は、差し出された包みに頬ずりすると、微かに頬を上気させながらその場で小さく飛び跳ね。強く吹いた冷たい風に、絡ませた腕を屋内の方へ引き込むと、少し高くなった床の基礎に並んで腰掛け、秘密の時間を楽しむだろう。相手の問いかけに、「ううん、エデルミラさんってすごい人ね。誰の顔色も見逃さないもの」と、ふいに甘い山鳥に被りつき、大きな瞳をキラキラとこぼれ落ちんばかりに見開くと。相手にも一口食べてみろと差し出しながら、「皆さんすごい人達ばかりで、とっても楽しいです!」と無邪気に足をパタパタとやり。相手の唇へ残った微かなソースをペロリとやると、「それにね──」と口を抑えてクスクスと楽しげに思い出すのは、あの声も存在感も過剰な教授のことだ。
24時間365日──は言い過ぎか。少なくともこの9日間、24時間休まることなく騒がしかった彼曰く、この村の様相は非常に珍妙であるらしい。いや確かに素人目でも首を傾げる部分は多いのだが、村のあちこちで倒壊しかかっている建物や、残る魔法の年代が、新旧様々ちぐはぐであるというのが彼の言で。しかし、ボリューム調節機能が破壊されているとしか思えない癖して、悔しいことに。彼が拾ってきた瓦礫を片手に始めた、考古学における編年概念の授業などは非常に興味深く。斧使いが予報した今夜の吹雪のその前に、割り振られた使えそうな建物の物理的・魔法的な安全の確認に従事する間、重要ながら非常に単調な作業の繰り返しも、見慣れぬ道具の数々に彼の授業を思い出して、お陰で退屈することが一切無かった。ギラギラと剥き出しの瞳を輝かせ、あちこちでガラクタを拾って来ては、学者にとって財産であるはずの知識を、勿体ぶらずに振りまいて、最後には必ず──ありがとう、ありがとう。こんな素晴らしいものに出会えるのも全て皆さんのお陰です! と、度々感動してみせる大男に。その生い立ち上、変人学者には慣れきっている贔屓目を除いても──悪い人じゃない、と絆されつつあるヴィヴィアンだ。ほら、慣れてしまえば、あの村の端から響く歓声も気にならなく──と。そういえば、しばらくレクターの声が聞こえない。あの変人がたまに黙り込む原因の相棒も、今は隣に腰掛けていて。この嫌な予感を伴う違和感に気が付いたようで、無言でふたり視線を合わせて立ち上がると──その手の予感は当たるものだ。すぐさま、「おーい! カレトヴルッフの……なあ! あの学者サン見てないか!?」と、今日のレクター同行班だったはずの槍使いの慌てて駆けてくる様子に、ピリリとその場の空気が凍りつく。意外と広い渓谷だ、闇雲に探しても駄目だろうと、無言で相棒と頷きあうと、まずはテントのある本陣へ駆け出そうとして。 )
っくく、そうか……馬が合うのは良いことだ。
(この九日間、ギデオンたちはいつも以上に真面目に仕事に勤しんだ。このペアでの出動を上が後押ししてくれたのは、それだけ厚い信頼を寄せられているということ……それをふたりとも、よくよく承知していたからだ。
故に、これまでの旅路において。ギデオンもヴィヴィアンも、相手より自分より、周囲の仲間を優先していた。親しいはずの相棒とはきりっと一線を引くどころか、なりゆき上ひと言も会話せずに夜を迎えたことさえある。仕事中なのだから、これがあるべき姿だろうと、大人の顔できちんと弁えていたけれど。さりとて心のどこかでは、旅の疲れも、何だかんだで常に気を抜けないストレスも、同じ場にいる恋人を意識しない努力のために返って生じる恋しさも、我知らず積もりゆくもの。だからこうして、ようやくまともな拠点を構え、ゆっくりと腰を落ち着けたタイミングで。いよいよ始まる本命の調査仕事を前に、まずは少しだけここまでのお互いを労おうとしていたのも。そう罰当たりな話でもない……はず、だったのだ。そのときまでは。
相手の蠱惑的な悪戯に笑い、尚もくすくすと楽しそうなその横顔を、酷く満足そうなアイスブルーの双眸で眺め。顔をぱあっと輝かせながらあれこれ楽し気に語る相手に、後方に手をついてゆったりと寛ぎながら、穏やかに相槌を討つ。そうして過ごしていたギデオンの表情が、しかし相手と全く同じタイミングで、石のように強張った。──立ち上がり、話を聞いて、思わず槍使いを睨みつける。彼を含めたメンバーには、自分やヴィヴィアンやエデルミラがようやく休みを取る前に、充分な休憩を先んじて与えたはずだ。それなのに、用でも足していたのか、或いは何かに気を取られたのか──護衛対象から目を離し、あっさり見失っただと? 未だ調査も始まらぬこの初日から?
心得の足りない仲間に言いつけたいことはいろいろあったが、今そうしても時間の浪費にしかならない。立ち竦む槍使いは一旦無視して──ギデオンの怒りようをわかっているなら、ちゃんとついてくるだろう──ヴィヴィアンとふたり、エデルミラの元に向かおうとした、その瞬間。夜気を切り裂く嫌な唸りが、その場にいる全員の耳をおどろおどろしく震わせた。……言わずもがな、悪霊ウェンディゴの呼び声だ。あの邪悪なものは、ひとりで冬山をさ迷う人間に危害を及ぼす習性を持つ。恐ろしいのはそれだけじゃない……ウェンディゴが鳴いたということは、斧使いたちの言うとおり、今夜は確実にひと吹雪くるということである。姿を消した同行者、これから始まる長い夜、迫る大雪。じわじわと立ち昇り始めた最悪の事態に、ギデオンの頭が目まぐるしく回り始めた。──同行する一般人に被害を出すような事態など、冒険者には許されない。はぐれた学者を見つけ出すには、初動が何よりも肝心だ。ヴィヴィアンをくるりと振り返り、明瞭に指示を出すその声には、最速で行動を起こすべく、相手への信頼が滲んでいた。相手がそれを了解したなら、一目散にリーダーの元へ向かい、捜索隊を編成し。そうして、ヒーラーである相棒もやむを得ず同行させて、博士を捜しに繰り出すだろう。)
──ヴィヴィアン。俺はエデルミラの元にこいつを連れていって、捜索範囲を検討してくる。
おまえは捜索の元気がありそうなやつらを見繕って、すぐに装備を身につけるよう言ってくれ。おまえの判断で今夜は休ませる奴らにも、俺たちの戻りに支障が生じる場合に備えて、ここで相応の準備をさせたい。指示する内容は……この前一緒に確認したあのマニュアルの、あの項目だ。だいたいわかるな?
──はいっ、任せてください!
( 尊敬してやまぬ相棒に、久方ぶりに仕事を任せてもらえて、娘の横顔が酷く誇らしげに光り出す。それでも、この一刻を争う事態の中で、力なく項垂れる槍使いを目の前にして、「大丈夫、皆で探せば絶対見つかりますよ!」と、走りながらも穏やかな笑みを向けずにいられないのは性分だろう。折角、不慮の失敗の原因を追求するという嫌われ役を、ギデオンさんが引き受けててくれたのだ。それぞれ二方向へと向かう別れ際、両拳を顔の横でぎゅっと元気に引き結び、にこりと相手に微笑みかければ、丸まっていた男の背中が微かに伸びたような気がした。──大丈夫、彼とて今回のクエストに選ばれた優秀な冒険者のはずだ。少なくとも、その人の良さは道中でとっくに知っている。きっと、誰より熱心に誠心誠意、己のミスを挽回するだろう。そんな別れ際の数秒で、仲間を鼓舞するヒーラーとして、最大限の力を発揮すれば。その数秒後には、ひらりと赤いマフラーを翻し、石垣を飛び降り遥か下へと消えて行き。それから数分後、エデルミラを連れたギデオンが戻る頃には、前衛後衛バランスよく、今後の交代シフトまでをも考えた完璧な布陣で、捜索開始の指示を迎えただろう。
しかし、そうして始まった捜索は、とても順調とは言い難かった。槍使いの誠実な証言を元にして、エデルミラとギデオンが割り出してくれた捜索範囲は、目を見張るほどの精度だったが。そもそもの面積が大きい上に、これはレクターが動けなくなっていた場合の想定だ。彼自身が興味深いものを前にして、突飛な動きをするのは周知の事実で、そうでなくとも魔獣に追われていれば分からない。もうずっと大きな手がかりを得られないまま、刻々と捜索範囲は広がって行き、ふと睫毛に落ちた白い氷に、うっそりと疲れた視線を夜空に向ければ。最早、魔獣避けや目印に、出立前に焚き付けてきた聖火は随分遠く、目の前に広がる巨大な岸壁と一緒になって、冒険者の心を苛むようで。兎にも角にも、物理的な行き止まりに──ごく一部の冒険者にとっては、踏破可能かもしれないがレクターには無理だろう──焦燥の滲んだ顔でギデオンを見遣れば、高山にして豊かな下生えを踏み、来た道の方へと引き返そうとしたのも詮無いことで。 )
ここを、登る……のは、難しいですよね
……あの図体を上まで引きずり上げるには、相応の装備が要る。
そんなものは持っていなかったはずだ。
(相棒が最速で導き出した、あくまで理性的な諦めに対し。ベテランであるギデオンもまた、決して否とは返さなかった。その薄青いまなざしは、地上から今一度、舐めるように登っていき──優に数百メートルも上で、非常に険しく縫い留められる。……一応、ちょっとした足場になりそうな岩が、ところどころ確認できないわけじゃない。それでも、ここからその地点までは、完全なる断崖絶壁だ。まるで巨人が、自慢の剣のひとつでも大きく振り下ろしたかのように。
そんな地形を、フィールドワークに慣れているとはいえ、民俗学者の一般人がよじ登れるものだろうか。魔法の心得がある人間でさえ、ハーケンが欠かせないはずだ。しかし楔のようなものなど、崖の表面にひとつとて見当たらなかった。仮にレクターが、己独りで登攀に挑んだとしても、打ち込んだそれらを自主回収するのは不可能だろう。──つまり教授は、この上には行けない。いるとしたら、ここから後ろ。ギデオンたちは、どこかで彼を見落としてきたか、まったくの徒労に時間を費やしてしまってきたことになる。
落胆と苛立ちが湧く。横顔を苦々しく歪めずにいられないその脳裏を、いくつもの悲惨なデータがよぎっていく。──公認ギルド教会が、国内の各公認ギルドに定期的に送る季刊誌。そこには様々な統計資料が載っており、時に人命救助も担う冒険者には欠かせない。キングストンを発つ前にも、ヴィヴィアンと寝室でふたり、真剣に読み込んできたそれら曰く。遭難というのは基本、72時間以内に助けられるかどうかが肝要だ。その刻限を過ぎてしまうと、生きていられる確率ががくんと落ち込むからである。──そしてたとえば、冬の野山で雪庇を踏み抜くなどして、雪の中に埋まった場合。命のタイムリミットは、その72時間どころか、僅か20分弱にまで縮まる、というデータが出ている。そこから更に15分経てば、生存率はもはや4割以下。……今回の場合、レクターを見失ったという報告を受けてから、既に2時間が経過していた。もしも彼が、自分たちの見立てた捜索範囲からほど遠い地点での滑落なり生き埋めなりで、この厳しい寒さのなか、身動きが取れなくなっていたら。──捜索隊の呼びかけに応えないのは、既に……“応えられない状態“に、陥っているせいだとしたら。
……間違ってもそんなことにならないよう、護衛対象である教授自身にも、事前に口酸っぱく言い聞かせていたはずだ。絶対に俺たちから離れるな、と。それがいったい何故──と。そこでふと、あの大柄で陽気な男の、とめどなく溢れて止まらない知的好奇心を思い出した。目を大きく見開くなり、背後のヴィヴィアンを咄嗟に振り返る。「──教授は、何と言っていた?」緊迫した声で尋ねる意味が、相棒にもわかるだろうか。「村に残ってる建物や魔法について、編年学的におかしい、だからこそ面白い、って……大興奮だったって話だよな?」
──愚かにも、見落としていた。直前までレクターと共にいたのが、例の若い槍使いであること、それにとらわれ過ぎていた。彼はあくまで、本格的な学問に携わったことのない冒険者。ならば、レクターはきっと──自分と同じく魔導学院出身であるヴィヴィアンにこそ、より剥きだしの本心をぶちまけていたはずだ。己の飽くなき探究心、あれやこれやと枚挙にいとまがない仮説。そのなかに、レクターの行動を予測できるヒントが隠れている可能性がある。──彼はそこらの凡人とは違う、だからこそ、行動を読める希望がある。いよいよ降雪が増してきた中、やむを得ず切り上げてしまう前にと、相手に力強く問いかけ。)
──祠、禁足地、何でもいい。教授は何か言ってなかったか。『この村がこういうことなら、ここにはあれがあるかもしれない、逆にないかもしれない』なんて……推測を立てていなかったか。
そんな……そんな、大したものじゃないんですけど……採石場がみたい、って……
( ──集団移住、ですか? なにか確信を得たかのようなギデオンに、ビビの脳内を過ぎったのは、いつか大興奮でビビの問いかけに頷いていた、例の大声教授の満面の笑み。元は細い目元をこれでもかと見開き、ぶんぶんと嬉しそうに拳を振り上げたレクター曰く──この村がせいぜいひと冬で滅んだ筈無いと。それにしては、村に残る品々の年代がちぐはぐすぎる、ここの村民はもっと長い、長い時間をかけて。徐々に人口減少したか──もしくは計画的に、どこか違う場所に移住したんじゃないか。「もしそれにお目にかかれるならば、僕は今後の糧が全てそら豆になろうと構わ……やっぱり嫌ァ!」と、勝手にうるさい名物教授は、続けてこうも言っていた。それに、集団移住説だって分の悪い話じゃないはずだと。この村の道具たちは新旧さまざまではあるものの、皮革産業だけでなく、「高い石切りの技術を持つ人達だと思いますよ。それこそ必要に駆られて、居住区を変えるのは訳ないでしょうね」と──採石場跡でも見つけられれば、村に残る石の数と照らし合わせて、彼らが外に出たのか、大きな手がかりになるでしょうな。と、非常にワクワクしているところを申し訳なかったが、その日は既に日が沈みかけていたので、丁重にキャンプにお戻りいただいた次第である。それから、レクターの見張り……もとい、護衛班が交代となり、例の槍使いの所属する班が引き継いだ訳だが、成程。本日辿ったルートは確かに、高い高い崖に沿い、採石場を探すような動きに違いない。
──その会話をしたのは、他でもない自分だったはずなのに。ギデオンの鋭い指摘に目を見張り、キラキラとした尊敬をその瞳に滲ませれば。元々赤い頬をさらに元気に紅潮させたのも束の間。採石場を探して幾許も進まぬうちに、天上から降る白い氷の塊が、みるみるうちに大振りに、横殴りに吹き付け初め。最早これ以上はこちらが遭難する悪天候に、これまでか、と。誰もが思って口にしたくないそれを、一番責任感の強い者が口にしようとしたその寸前だった。雪でけぶった悪い視界に、ずっと右手に捉えてきた険しい岩肌、手前の大きな岩に遮られ、見づらくなった亀裂の奥に、何かゆらりと光ったかと思うと。「レクター様とご同行の方ですね?」「ようこそいらっしゃいました」と、この9日間で聞きなれぬ、どこか幼気な声が吹雪の向こうにりんと響いた。双子だろうか、揃いの皮革のコートを身にまとい、とてもよく似た面立ちの10代半ばと思われる男女は、「今晩はこの猛吹雪です、私たちの村にお越しください」と声を揃えると、人形のように穏やかな笑みを冒険者たちに差し向けるだろう。 )
(突然姿を見せたかと思えば、この吹雪のなか、ゆらりと穏やかに微笑む双子。その声も、見てくれも、まだ年若い子どものはずだが……異人を見つけての振る舞いは、完全に村の年寄りのそれだ。どこか歪なその雰囲気、常人に比べ浮世離れした口ぶりに。ギデオンは一瞬、何かぴりりとざわついて──いつかの豪雨の日を思い出して──無言でかれらを見つめずにいられなかったが。代わりに、隣にいるエデルミラが、「彼、無事なのね」と口を開いた。名前を知っているということはそうだろう、そちらの口ぶりからして酷い状態にはないらしい、と。横殴りの雪をものともせず、ギデオンと一瞬交わしたその視線からは、(今はレクターの保護を優先しましょう)という熟慮が見て取れる。それでギデオンも、この場は一旦、数歩下がっておくことにした。直接顔は見ないものの、ざくざくと雪を踏みしめながら、無意識にヴィヴィアンの傍へ。……相棒には、ギデオンがなんとなく慎重になってしまうのが、吹雪越しでもわかるだろうか。
エデルミラと双子の間で、いくらかやり取りが為された後、すぐに彼女が戻ってきた。やはり先方は、いなくなったと思われていた、この谷の住人らしい。崖の内部にトンネルがあり、そこを抜けた先の場所に、今の村を構えていて……レクターもそこにいるという。そこでエデルミラは、この捜索隊をふたつに分けると言いだした。リーダーである彼女と、ヒーラーのヴィヴィアンは必須。経験の長いギデオンのほかに、数人の中堅や、体力のある若手も欠かせない。そこにあの槍使いが、自分の引率下で起きてしまったことなので、と志願したため、彼も加わることになった。──以上、9名。それ以外の大勢は、アラドヴァルの大ベテランの指揮のもと、谷底の調査本部に帰還である。そこで待っているほかの仲間に、この状況を共有しに行ってもらう必要があるからだ。
帰還組が元来た道を戻るのを、一行は黙って見送った。といっても、彼らはすぐに、白い幕の向こうへと見えなくなってしまったが。ふと振り返れば、例の双子も、物言わずじっと眺めていた。しかしギデオンの視線に気づけば、またにこりと、今度はやけに歳相応に愛らしく見える笑顔を浮かべ。「それでは、ご案内いたします」と、いよいよ踵を返して、崖のほうへと歩きはじめた。)
(──トンネル内部は、きりりと冷え込んでいた。それに静かで、靴音がやけに響く。ランタンを掲げている先頭の双子は、迷いなく、だがゆっくりと進んでいくので、魔法使いの灯す杖明かりを元に、周囲に目を配る余裕があった。頭上に高く高く広がっているだけで、隧道自体は、狭く細い一本道だ。剥き出しの岩肌を見るに、掘削ではなく天然らしい。しかしなるほど、これはレクターの興味を引きそうだなと、傍を歩くヴィヴィアンとふたり、ちらりと視線を見交わす。あの好奇心旺盛な教授のことだ、何か可能性を見出したら、確かめずにいられなかったのだろう。ほんの少し覗くつもりが、奥の奥まで行ってしまったのだ。
やがて不意に出口が見えた。それと同時に、はっきりと違和感を覚えた。──気温が、違う。前方から流れこむ空気が、妙に寒さを欠いている。双子に続いて崖の外に出た一行は、そのわけをすぐに突きつけられ、思わず呆然と立ち尽くした。……トンネルは、それほど長くはなかった筈だ。だというのにこちら側では、あれほどの吹雪が止んでいた。それどころか、真っ黒な夜空が、酷く美しく晴れ渡っている。……満天の星と、やや細い半月。そしてはるか遠くの、真っ白な頂をたたえた雄大な三角の山が、くっきりと見て取れるほどだ。
双子の案内に連れられて、さらに進んだ一行は、また立ち止まることになった。崖沿いの斜面の上から、こちら側の谷底を見下ろすことができるのだが……そこには、冒険者たちの無意識の予想を覆す光景が広がっていたのだ。──暖かな明かりの灯る家々、そしてこの季節だというのに、緑豊かな畑の数々。それが谷底いっぱいに、当たり前のように広がっていた。せいぜい百やそこらとおもっていた村の人口は、どうやら以上あるらしい。……これが本当に、二百年も外界と隔たれてやって来た村なのだろうか。感嘆を隠せぬ冒険者たちに、先頭の双子が再び振り返り、にこりと穏やかに微笑んだ。「ようこそ、私たちの里へ」──それぞれ片手を広げ、迎え入れるような仕草を披露する──「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」。)
( エデルミラの呟きに、「レクター様はご無事です」「"非常に"精力的に過ごされておりますよ」と。その厳かな頷きの中に、不穏なそれだけでは無い、どこか遠い目をした含みを感じ取れば、この場の誰もが覚えのあるだろう疲労感に親近感さえ覚えて。その可愛らしい見た目も相まり、うっかり気を許しかけていたヴィヴィアンだったが。──200年前の大寒波、時を同じくして凶暴な魔獣が村を襲って以降、このトンネルの向こうに住まいを移したのだと。小さなランプひとつで進む道中、「最近はやっと村も落ち着きまして、また交易も再会出来ればなんて考えていたところだったんですよ」などと、気さくな様子で微笑む少年の一方で。先程までずっと先方を行っていたはずの相棒が、それとなくこちらへと近づいてくる動きに気がつけば。──……? 魔獣、落盤……それともこの子達に何か……? と、そのギデオン自身も明文化しきれていない真意こそ読み切れぬまでも、さりげなく"非力なヒーラー"がぐったり疲れた振りをして、その大きな影にもたれると、歩きやすさ優先で収納していた杖を腰に下げ直しておくだろう。
そうして開けた視界の先で、その鮮やかな緑と白い建物のコントラストに目を瞬かせていれば。「驚きましたかな、この街は火山の地熱を利用しているのですよ」と、草の地面を踏みしめながら近づいてきたのは、これまた立派な皮革を纏った男……とも、女とも取れない年寄りで。「「おじいさま!!」」と、それまでの大人らしい態度を一変させ、人懐こく飛びついていく双子を──こらこら、と優しく撫でながら、ゆっくりとこちらを見回した彼は──決して悪気は無いのだろうが、同年代でも男である相手の方を責任者と判断したか、ゆっくりとギデオンの方へと向き直り。「"むらおさ"のクルトと申します。ちょうど祭りの日に貴方達を迎えられて──」と、にこやかに挨拶を仕掛けた時だった。「なんて素晴らしいんだ!!!」と遠く離れた民家から、冬の夜の空気を揺らす最早聞きなれた大音声。その主であるいつの間にかこの村らしい装いを身につけた某学者が、まさにスキップせんという勢いで飛び出てきたかと思うと。ギデオンの後ろにヴィヴィアンを見つけたその途端、それはそれは嬉しそうな表情でこちらへと駆けて来ようとして──しかし。その「ビビ君! ビビ君! 聞いてくれ──……」と、その出処不明の勢いが段々と削がれて行ったのは、少なくともエデルミラ、若しくはギデオンも近い表情はしていたのだろうか。百戦錬磨の冒険者から放たれる鋭い怒気kあれられたらしい。一行の前に歩みでる頃には、どこぞの電気ネズミの如くシワシワに成り果てたレクターは、聞いたこともないような小さな声で、「ごめんなさい」と子供のように囁くと。それはそれは不安そうな表情で「……あの、僕が悪いんだ、彼は罰せられるのかな、」と申し訳なさそうに俯いて、胸の前で所在なさげに指をいじり始める様子は、誰が見てもごくごく健康と言って差し支えないだろう。 )
※些事なのですが、前回のロルに書いた「やや細い半月」は、「やや膨らんだ半月」と読み替えていただければ幸いです(時系列修正や世界観関連の意図によります)。
(ギデオンたち捜索隊が、必死に探し回っていたというのに。人騒がせな学者殿は、どうやら全くの無事だったらしい──現にご覧の恰好である。がくりと項垂れたギデオンが、それはそれはわかりやすく、疲れきった溜息を洩らせば。その意図をしっかり汲んでくれたのだろう、ずん、ずん、ずずん、と三人の強面戦士が進み出て。「おんどれなにしとったんじゃゴラァ!」「カタ悪いことしてんとちゃうぞゴラア!」「落とし前つけんかいィ!」等々、しおしお縮こまる大男を、雛を虐める海鳥宜しく取り囲みながら、大げさに怒鳴る有り様だ。傍目にはまあまあ手荒だが──例の槍使いなど、慌てて止めに入ろうとしていた──一応これはこれで、本人の無事を盛大に祝う冒険者なりの所作である。……ガス抜き? 何のことだろう。
とにかく、レクター本人にはそうして反省してもらう間。ギデオンとエデルミラは、改めて村長クルトに向き直り、再三の礼と挨拶を述べた。──我々は、国内中部の各ギルドから寄り集まった、有志の冒険者パーティーです。長らく調査の行われなかったこの地方の魔獣、植物、鉱石について調べるため……及び、風の噂で無事に暮らしていると聞いた谷の人々の近況を尋ねるため、遥かな山々を踏み越えてまいりました。あの男は、あなたがたのご無事を誰より祈っていた学者です。ご迷惑をおかけしたようで大変に申し訳ない、助けてくださってありがとうございました。手土産を持参しているのですが、そちらは現在、キャンプに残してきた仲間たちの手元にあります。ですので、此度のお礼と正式なご挨拶は、また後ほど改めて。その手前、非常に心苦しいのですが、今夜のところはこちらにひと晩泊めさせていただいても宜しいでしょうか。あちら側は酷い吹雪で、皆帰れそうにないのです。
「どうぞどうぞ、遠慮なくゆっくりしていってくだされ」と。クルトはやはり朗らかに、しかし依然としてギデオンのほうだけを見ながら、家々のほうを指し示してみせた。「村はこれから、6日間続く祭りを催すところなのですよ。第一夜はもう終わってしまいましたが……よそからお客様がお見えになったと知れ渡れば、明日から皆、貴方たちを歓迎しきりになることでしょう。お食事はお済みですかな? ああ、そうですか。よかったら、自慢の蜜菓子をお夜食におつまみくだされ。ええ、ええ、この谷の特産品は、この皮衣だけではないのです。我々の飼うミツバチは、非常に働き者でして……」
かくしてギデオンたち一行は、このヴァランガ峡谷の隠れ里──フィオラに泊まることになった。村の手前に空き家が二軒ほどあるらしく、そこに毛布や薪を運び込んでくれるようだ。先ほどの双子のほか、中年の村人たち数人と顔を合わせた。皆にこやかだったものの、明日からも控えている祝祭の準備で忙しいとのことで、挨拶もそこそこにすぐ引き上げていったのが、なんだか拍子抜けである。しかし元より冒険者たちも、数日続いた緊張状態の野営の末に、吹雪のなかでのレクター捜しと来て、流石に疲れ果てていた。今宵はゆっくり休むべきだろう……ちなみに、余談ながら。既に村人と親しくなったレクターに限っては、先ほどの民家から既に招かれていたらしく、申し訳なさそうに冒険者たちと別れていた。しかしそれを威勢良い声で送り出してやったのは、先ほどのいかついトリオである。無事さえわかれば別に良いのだ。
──ヴィヴィアンとエデルミラの女性陣だけで泊まれるような建物は、特に手配されなかった。しかし流石に、いきなり押しかけてしまった身で贅沢を言うわけにはいくまい。彼女らの許可を得て、アマルツィアの弓使いとギデオンのふたりが、用心も兼ねて相部屋を受け持った。……このとき、エデルミラとは少しだけ、今後の懸念を話し合おうと思っていたところなのだが。顔色があまり良くないのでそっと尋ねてみたところ、どうやら月の障りが突然きてしまったらしい。「レクターを見つけたら、なんか……ほっとしちゃったみたいで……」……今回のクエストは長いから、ちゃんと薬も飲んでたのに、と。責任感からか、こんな時にという苛立ちからか、あるいは純粋に余程体調がすぐれないのか。酷く顔を歪める彼女を、休ませないわけがない。ヴィヴィアンに事情を打ち明け、男にはどうしようもない手助けを彼女に託し。ギデオンたちもまた、ふたりには悪いようだが、梁に布をかけただけの仕切りの向こうで、すぐ寝入ることにした。もっとも、ほんの少しでも物音がすれば、すぐにすうっと目を覚まし。傍に置いている魔剣の柄に手を寄せながら、じっと耳を澄ましてみたが……今夜のところは杞憂のようで。──フィオラでの最初の夜は、何事もなく更けていった。)
(さて、翌朝。冒険者たちが朝食のご相伴にあずかろうとしていたところで、昨夜キャンプ地に帰還した、或いは残してきた仲間たちが、トンネルを通ってこちら側に合流した。これで総勢数十名ものよそ者たちが、谷あいの小さな村にいきなり溢れたわけである。
しかしそれでも、フィオラ村の人々は温かく歓待してくれた。私たちの里にようこそ──心からお待ちしておりました! その純真できらきらとしたまなざし、谷の外から来た人間に興味津々な様子ときたら、元々浮かれやすい冒険者たちを擽るのもわけないことだ。特に若い連中ほど、あっという間に村人たちと打ち解けたようで、「ぼうけんしゃ?」「ほんもののぼうけんしゃ!?」と、子どもたちに群がられていた。レクターなどは言わずもがな、あの陽気なお喋りが朝っぱらから止まりそうにない。その勢いにはフィオラ村の人々さえ若干引き気味であったものの……自分たちの何てことのない話から、谷の周辺の植生などを正確に言い当てるのを見て、酷く興味をそそられたようだ。子どもよりも大人のほうが、レクターによく聞き入っていた。
仲間たちとフィオラの人々が活発に親しみ合うのを見て、エデルミラやアラドヴァルのベテランと共に、暫くこの村に滞在したいと打診した。村人たちの許可を得て、きちんと労働を手伝いながら、ここらのことを聞きだせれば。その方が余程効率よく、ヴァランガ一帯の調査を進めていけるに違いない。村長クルトも、ふたつ返事でそれを了承してくれた。村のおなごたちも喜ぶでしょう──こんなに面構えの良い男たちがやってきて、浮つかぬわけがありますまい。
そんなわけで、まずは手始めに、村人との交流である。仲間たちがすっかり元気に動きだした後、逆に深めの二度寝に及んでいたギデオンは、遅れて参加しようとして……しかしいきなり面食らった。若い冒険者の連中ときたら、見てくれは皆いかつい大男であるくせに、花冠なんぞ乗っけていたのだ。どうしたんだと尋ねてみたら、どうもこの村には年中咲く花畑があるようで、そこの花を摘んだ子どもたちや村娘が、プレゼントにとくれたらしい。「カレトヴルッフのお堅いの! あんたもひとつ被っちゃどうです?」──朗らかなそのお誘いを、しかし丁重にお断りして、まずは相棒の姿を探す。相手は今ごろどうしているだろう。人好きされやすい彼女のことだ……あいつらと同じように、フィオラ村の子どもらに懐かれているところだろうか。)
( ──はなをなふみそ、はなをなふみそ、あかきもちづきたくよさり──
フィオラ村の中心地から少し離れた丘の上。下の村からは見えないが、少し高くなったこちらからはよく村を見渡せる花畑に、村の子供たちの歌声が無邪気に響いている。高い高い冬の空に、不似合いなほどの鮮やかな緑、色とりどりの花々の間でくるくるとはしゃぎまわる子供たちの着物が真っ白に太陽を反射して。時刻はちょうど昼下がり、真上に上った太陽に影らしい影が鳴りを潜める光景にその名を呼べば、自身もまた真っ白なローブを纏った娘がギデオンを振り返るだろう。──それは、ギデオンとエデルミラを休ませて、自分も村民との交流を図るべく、夜の祝祭に向けた準備の輪に加わろうとした時のこと。「思わぬルールがあることもある」と、現代人の不用意なふるまいに対するレクターの忠言を思い出して、己が触れていい物を確認しようとするビビに、しかし村民の男たちの様子は好ましいとは言い難かった。決して悪意を自覚しているわけではない、しかしお手伝いをしたがる子供に向けるような、仕方なさそうな生ぬるい視線。年若いとはいえ、立派な成人であるヴィヴィアンに対して、有益な何かができるとは一切信じていない。その癖、彼女の持つ容姿に好感を隠さぬ不可解な──否。これが少なくともエデルミラら上の世代の女達なら、ごくごく見慣れたそれだということを、個人主義である現代の魔法使い社会で育ったビビが慣れていないだけなのだが──兎も角、うっすらと不快な対応に困惑し立ち尽くすビビの腕を引いたのは、彼らもまた忙しい“大人”とは切り離された存在である、皆よく似通って愛らしい村の“子供”たちだった。その無邪気に振舞うことを義務付けられた存在たちは、大人たちの気の引き方をよくよく心得ているようで。ビビの手を引き美しい花畑の存在を教えてくれると、器用に編み出した花冠を腕にかけて、先程ビビ達を冷たく振り払った大人たちの頭にかけていく。そうすると、先程まであれほど冷たかった大人は皆一様に仕方なさそうに微笑んで、皆一様に微笑ましがる。そうして子供たちはまた次々と冠を増産し始め、いつの間にかビビのように年若い女性たちも花輪作りに加わり始めていた。せっせと冠を作ろうさぼろうと咎められない、なんの責任感もない空間は大人になってまだ浅いビビにはよく覚えのあるそれで。この村における若い女の立ち位置に気が付き始めたヴィヴィアンの不安に、そのよく聞きなれた低い呼び声はとても落ち着くものだった。
ギデオンを一目見て柔らかい笑みを浮かべるビビの頭上で、大ぶりな花輪がふわりと揺れる。ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、それまでビビの膝を占拠していた少女に飛びつかれ、「危ないよ」と苦笑しながら膝をつけば。閉鎖的なコミュニティ故だろうか、ビビに限らぬ互いもよくよくくっつき合ってじゃれ廻っている距離感の近しい子供たちにもみくちゃにされ、仕方なく自ら腕を伸ばして相棒を近寄らせれば。今後の相談をしようとするビビの肩越しに、噂の“冒険者”に興味津々といった子供たちの青い目がキラキラとギデオンを貫くだろう。 )
おはようございます、ギデオンさん。
もう少し休まれてなくて大丈夫ですか?
ああ、もうすっかり大丈夫だ。
(相棒の手に引かれるがまま、彼女の横にしゃがみ込み。話をするよりまず先に、村の子どもたちにごく軽く笑みを向ける。挨拶代わりのつもりだったが──しかしかれらときたら、はわあと大きく息をのんだかと思えば、ヴィヴィアンの肩や背中にますますしがみつくばかり。未だ肩越しにぴょこぴょこと覗いてくるものもいるが、ギデオンと目が合えばはっとしたように固まって、はにかみながら隠れてしまう。ヴィヴィアンにはこのもちもちした団子っぷりだというのに、どうやらギデオン相手には、気軽に懐いてくれないようだ。
苦笑しながらすっかり腰を下ろしたところで、そのきらきらしたまなざしが、どれもギデオンの腰元に注がれるのに気がつけば。鞘に収めた魔剣を見下ろし、次いで再びかれらを見上げ。実にそれっぽく片眉を上げながら──「悪いな。大事な仕事の道具だから、気軽に触らせてはやれないんだ」なんて、如何にも気障ったらしい台詞を。すぐ隣の、ギデオンの上辺も素も知り尽くした相棒には、果たしてどう映っただろう。ともあれ子どもたち相手には、無事に“かっこいい冒険者”を演じることができたらしく。「ほんものだ……!」と興奮したひそひそ声で囁きあい、何かうんうん頷き合ったかと思えば。ぱっとヴィヴィアンから身を離し、今度は野兎よろしく、花畑のなかへ元気いっぱいに駆けだしていった。「あったあ!」と、遠くですぐに掲げたそれは、如何にも手頃な長さの木の枝。おそらく皆で“冒険者ごっこ”でもおっ始めるつもりだろう。王都でも地方でも、おそらくこの国ならどこでも見られるわんぱくな景色──健やかで良いことだ。
さて。大人には分の悪い純真無垢なギャラリーは、こうしてあらかた追い払えただろう。遠くできゃっきゃと上がる笑い声を浴びながら、隣の相手をようやく振り向いたギデオンの表情は、故に酷く満足気なもので。「……流石にあいつらの前で、こんな風にするわけにはいかないからな」なんて、口元を緩めながら、片手を緩く相手に伸ばし。栗毛のいただく花冠を、戯れに優しくいじっては──ほんの一瞬、子どもたちの目を盗んで、薄い唇を重ね合わせる。本当はもっと……先ほどギデオンを振り返る彼女を目にしたあの瞬間、とても言葉では言い表せない感情が湧いたあの瞬間から、もっと深くしてやりたくてたまらない気分だったが。うっかり夢中になったらまずい状況には変わりないし……第一今は、残念なことに、一応仕事中である。それゆえ、名残惜しそうに顔も身体も引き離し。それでも共犯ならではの、悪戯っぽい微笑みを浮かべ。)
──……本当に、よく似合ってる。
ここの花は不思議だな……まるで、ここだけ春みたいだ。
まあ! んっ、ふふ……ええ、ずっと見ていられるくらい……
( きゃははははっ! と楽しそうに駆け出していく子供たちに手を振り、自らもまたギデオンの方へと振り返れば。果たしてそのうっとりとした眼差しは花畑に向けられたものだか、愛しい恋人に向けられているのだかどうだか。つい先程子供たちに向けられた清廉な笑顔と、今自分に向けられている悪戯なそれとのギャップに、満点のファンサービスをもらった子供たちへ、内心ほんのりと嫉妬していたことさえ忘れてしまって。「これね、私が作ったんです」とおもむろに頭上へと手を伸ばすと、その陰に隠れてもう一度。そっと柔らかな唇を触れてそのまま、キラキラと太陽を反射する美しい金色に戴せてやる。そうして吹いた暖かな風に栗色の毛を靡かせ、ゆっくりと草の上に腰を下ろせば。向こうの子供たちは全員分の獲物を手に入れて、いよいよ遊戯にも熱が入ってきた頃合らしい。きゃっきゃと響く聞きなれた宣誓のまじないに、フィオラにも伝わっていたのかと微かに目元を見開けば、視界の端にその小さな青い星型の花が映った途端、何気なく身体が動いていた。ぷつりと茎を摘み取って、自分の指に巻いて輪っかを作ると、むいむいと相手の分厚い左手を我が物顔で引き寄せる。それからその青いリングを薬指にかけようとして、しかし、娘の指に合わせたリングが太い関節に引っかかってしまえば。寸前までにこにこと満足気な笑みを浮かべていた娘のふくれっ面と言ったら。わぁん、とギデオンを前にして気の抜けた声を上げ、もう一度同じ花を探して腰を上げれば。ギデオン越しに見つけたそれに、相手の隣に手をついてぐっと大きく手を伸ばして。 )
だめ、だめ、まって、作り直しますから!
(──ああ、そういえば。子どもの頃の……十かそこらの頃の俺も、他の見習い仲間と一緒に、あんな風に長い長い宣誓式をしたっけな。しかしフィオラの子どもたちは、谷の外を知らぬだろうに、よくあんなのを知ってたもんだ……と。ふわふわした花冠を何ら抵抗なく被ったまま、意識を遠くに飛ばしていたギデオンは、しかしふと、自分の片手が構われているのに気がついた。
なんだ? とそちらを見てみれば、隣に座っているヴィヴィアンが、どうやら花の指輪を嵌めさせようとしているようではないか。しかし見守っているうちに、実ににこにこと楽し気だった娘の顔は、目算を誤ったと気づいたのだろう、三つ四つの幼女のように、わかりやすくふてくされて。それだけでも内心可笑しかったというのに──あどけない嘆きの声まで、素直にあげられてしまうのだ。もうこらえきれるわけがなかろう。
くっくっ……と、喉仏と肩を小刻みに震わせながら、相手の意識が新しい花に向かったのを良いことに、第二関節で引っかかった指輪をいじろうと試みる。上手く緩めれば、きっとこのまま使えるに違いないのだ。しかしそこに、だめ、まって! と。最初こそ声だけで制止していた恋人が、慌てたように振り返って飛びついてくるものだから。「こら、なんでだ──」「別にいいだろ──」と、ギデオンもギデオンで、奪われそうになる左手を遠くに逃がし。ぱっぱっ、ぱっと、戯れの攻防に興じる。この花冠も指輪も、四十の男にがとても似合わぬ可愛らしさだ──本来の自分なら絶対好んでつけやしない。それでもどちらも、ヴィヴィアンがくれたものだから途端に気に入るのではないか。相手の細い手首を奪い、そこから届かぬ遠い先に左手を掲げてみせれば。これ見よがしに指輪を見せて、「これはもう俺のものだろ、」と。上手く嵌まらなかろうが、既にこれを気に入っていて、取り替えたくはないのだと主張を。その念押しを欠かさぬよう、「……いいだろう?」ともう一度、相手に顔を寄せ……今度は鼻先を触れ合わせて甘える。真冬にしては暖かい太陽の下、自分の下にいるヴィヴィアンの顔は青みがかった陰になって、まるで自分がそのなかに囚えたような錯覚さえおぼえる。途端に攻防のことなど忘れ、小花を絡めた左手までゆるやかに戻してくると。骨ばった両掌で、相手の栗毛を包み込むように撫でながら……そのまろい額、つんと高い鼻頭、綺麗な丘を描く瞼に、宥めを込めた唇を触れ。)
──……まだ数日は、ここで真面目に仕事をする必要があるんだ。
慰めに……秘密で持たせてくれ。
……だったら余計に、もっと完璧なのを持ってて欲しかったの!
( いい大人がふたり取っ組み合いの攻防戦の末、硬い膝の上に肘をつき、そうまん丸に膨れて見せたところで、楽しげな男は聞こえているのかいないのか。いよいよ此方を本気で宥めにかかってきた相手に、心底嬉しそうな可愛らしい様に免じて、渋々誤魔化されてやることにすれば。先程から可愛らしい声が紡いでいた宣誓は、第二節と第三節がこんがらがって、いつまでも抜け出せないループに陥ったらしい。「ねえもうきいたー」「うるさい、わすれちゃうじゃんか!」とあちらもじゃれつき始めた気配に、くすりと小さく口元を抑えて、乱れた髪をしゅるりと解けば。どちらが先に戯れ始めたかなど、都合の悪いことはさっさと忘れたらしい。──ギデオンさんがそう来るなら、私も甘えていいよね、とばかりに。上半身をぐうと伸ばして、相手の膝の上をぽかぽかと占拠すると。居心地良いように脚を広げさせ、逞しい腕の檻の中から、キラキラと輝く大きな瞳でギデオンを見上げる。そうして、「ねえ、私もギデオンさんに選んで欲しい」と唇を尖らせると。胸元に手を当てながら、欲深く笑って見せて。 )
……一輪じゃいやよ、指輪はもう持ってるから、冠にして?
俺が編むのか? 俺が?
……しょうがないな……
(当然ながら、花冠だなんて可愛らしい代物なんぞ、少年時代に一度とて作ったことのないギデオンだ。そんな人間のお手製で本当に構わないのか、知らないぞ? なんて問う声は、しかしさほど本気でもなかった。たった今伝えたように、自分自身、ヴィヴィアンの作ったものなら何でも喜んでしまえるからだ。──ついでに言えば、髪を解いたときのあのふわりとした香りに、ギデオンはてきめんに弱い。わかってやっているのだとしたら、相手はとんでもない策士である。
故にやれやれと、呆れるふりをして受け入れてみせれば。膝の間で堂々甘えきるヴィヴィアンの髪を、大きな左手で撫で下ろしてやりながら、右手は自分の花冠を取り外し、目の前であちらこちらに傾け。まずはあらゆる角度から、その構造を注意深く観察する。こういうところに、生来の生真面目さと職人肌が思わず出てしまうのだろう。やがてああ、なるほどな、と片眉を上げれば。(少し持っていてくれ)というように、一旦冠を相手に預け。周囲の草花に目を走らせ、手頃なのを見つけるなり、少しだけ腕を伸ばして、ひとつひとつ摘み取っていく。──作業に集中してはいるが。どうやら、腕のなかにいる相手のことは、片時も離すつもりがないらしい。
そうして材料をある程度揃えれば、少し腰を浮かせて、ゆったりと座り直し。相手を軽く手で押して、自分の胸板にすっかりもたれかかるようにする。無論これは、自分の手元の作業がよく見えるよう協力してもらうだけのこと──別に決して、それにかこつけて相手を堪能する意図はないのだ。だからあくまでも、作業だけは真剣に。まずは土台にする若いトクサを柔らかくほぐし、相手の小さな頭に合わせた円形を形づくる。そうしてお次に、葉っぱの大きさが大きく異なる二種類の下草を、グランドカバー代わりに編み込み。その上から、大小も色も様々な愛らしい花を、しっかり結びこんでいく。その指先に迷いはない──ただ、繊細な作業なので、どうしても時間がかかる。故に、ある程度作業が軌道に乗ったところで。「そういや、」と、これまでののどかな沈黙を、こちらの方から緩やかに破り。)
ここに来る前に、他の連中を見てきたが……皆上手くやってるようだ。クラウ・ソラスの連中は村の男と狩りに行ったらしい。レクターは次々に何か発見しているようでな……報告書が楽しみだ。
おまえのほうでも、子どもたちから何か聞けたか。この辺りの気候だとか……魔獣関連の話だとか。
(当然ながら、花冠だなんて可愛らしい代物なんぞ、少年時代に一度とて作ったことのないギデオンだ。そんな人間のお手製で本当に構わないのか、知らないぞ? なんて問う声は、しかしさほど本気でもなかった。たった今伝えたように、自分自身、ヴィヴィアンの作ったものなら何でも喜んでしまえるからだ。──ついでに言えば、髪を解いたときのあのふわりとした香りに、ギデオンはてきめんに弱い。わかってやっているのだとしたら、相手はとんでもない策士である。
故にやれやれと、呆れるふりをして受け入れてみせれば。膝の間で堂々甘えきるヴィヴィアンの髪を、大きな左手で撫で下ろしてやりながら、右手は自分の花冠を取り外し、目の前であちらこちらに傾け。まずはあらゆる角度から、その構造を注意深く観察する。こういうところに、生来の生真面目さと職人肌が思わず出てしまうのだろう。やがてああ、なるほどな、と片眉を上げれば。(少し持っていてくれ)というように、一旦冠を相手に預け。周囲の草花に目を走らせ、手頃なのを見つけるなり、少しだけ腕を伸ばして、ひとつひとつ摘み取っていく。──作業に集中してはいるが。どうやら、腕のなかにいる相手のことは、片時も離すつもりがないらしい。
そうして材料をある程度揃えれば、少し腰を浮かせて、ゆったりと座り直し。相手を軽く手で押して、自分の胸板にすっかりもたれかかるようにする。無論これは、自分の手元の作業がよく見えるよう協力してもらうだけのこと──別に決して、それにかこつけて相手を堪能する意図はないのだ。だからあくまでも、作業だけは真剣に。まずは土台にする若いトクサを柔らかくほぐし、相手の小さな頭に合わせた円形を形づくる。そうしてお次に、葉っぱの大きさが大きく異なる二種類の下草を、グランドカバー代わりに編み込み。その上から、大小も色も様々な愛らしい花を、しっかり結びこんでいく。その指先に迷いはない──ただ、繊細な作業なので、どうしても時間がかかる。故に、ある程度作業が軌道に乗ったところで。「そういや、」と、これまでののどかな沈黙を、こちらの方から緩やかに破り。)
ここに来る前に、他の連中を見てきたが……皆上手くやってるようだ。クラウ・ソラスの連中は村の男と狩りに行ったらしい。レクターは次々に何か発見しているようでな……報告書が楽しみだ。
おまえのほうでも、子どもたちから何か聞けたか。この辺りの気候だとか……魔獣関連の話だとか。
( しゅるり、しゅるり、と髪に触れる手が心地よくて、そっと花の香りに目を伏せる。花冠なんぞしたことないぞ、と言いながら。甘くビビのおねだりに応えてくれるギデオンに、こうして甘え切ってしまったのは、我ながら自分の常識が伝わらない村に疲れていたのだろう。きゃっきゃと上がる歓声に、時折子供たちのことを見守りながらも、束の間の休息を戯れていたその時。──そうだ、何を弱気になっているのか、と。背後からかかった穏やかな声に、他の冒険者達とは違い、ただ子供たちと遊んでいただけにも見えるヴィヴィアンもまた、情報収集していたに違いないと信じてくれているギデオンに、少し弱気になっていた頭を小さく上げれば。長い脚の間で座りなおして、できうる限りの報告を。 )
魔獣のことは……確かに出るには出るらしいんですが、あの子達には危険だから外に出るなとしか。“英雄”が守ってくれる……みたいなことも言ってましたが、こっちは大人に聞いた方がいいでしょうね。
──でも、気候についてはバッチリですよ! ……なんて、むらおささんの仰っていた通りで、火山の地熱を利用しているんですが、古代魔法をそのまま守り続けているみたいです。
一度解除してしまうと、かけ直しができないので──……ねえ、君たち、本当はあんまり魔核の場所とか知らない人に話しちゃ駄目よ。悪い人もいるんだから。
( そう最後に語り掛けたのは、大の男が自分たちと同じ遊びをしているのが物珍しかったのか、いつの間に二人の周りに戻ってきていた子供たちだ。年中枯れない花畑を調べていたビビの気を引きたかったのか、先程、その仕組みをようようと語ってくれたお調子者と。その隣で「ナイショなのよ」と、村の魔術師が定期的に通う場所まで教えてくれた妹の方は、ビビの膝の上を奪い合い。彼女も彼女で純粋に、年少組の暴露に慌てふためき、「ああっ、ダメダメ! ……忘れてね、ビビ?」とダメ押ししてくれた姉の方は、熟練の職人の顔をして、今やギデオンの手つきにアドバイスをくれている。(どうやらすっかり仲間認定されたらしい)ギデオンとビビがこの村のことを調べに来たということを知れば、未だ冒険者見習いにもなれないような小さな子達だ、あまり要領を得ない点は多々あれど、必死に村での生活のことを教えてくれ。少しずつ日が傾き始めた時分、村を見下ろせるこの丘からだからこそ見えたのだろう。この遅い時間から、村から対角線上にのびる獣道に上っていく村民を見かけて、何があるのかと問いかけたヴィヴィアンに、「あっちにもお花畑があるのよ、こっちよりもずっとキレイなの……」と、教えてくれようとした瞬間だった。下の村から、そろそろ帰って来なさいと声をかけてきたのは姉妹の母親らしい。ビビと同年代か、ひょっとするともっと年若く見える妊婦は、ギデオンに遊んでくれていたことへのお礼を告げると。「本日は広場で御馳走が出ますので、冒険者様たちも宜しければどうぞ」と小さく微笑むだろう。 )
──わあ、それは皆さん喜ばれますね。エデルミラさんも呼んでこなくちゃ。
(少し元気のなかったように思える相棒が、そのいずまいを緩やかに正し、情報共有を始めれば。手を止めたギデオンもまた、真剣に耳を傾け、ひとつひとつをしっかりと頭に刻み込んでいく。たったそれだけの、思えばなんてことないやりとり。けれどもこれは、ふたりが相棒になって以来、幾度となくやってきでいることでもある。故に、ただこうしてなぞるだけでも、互いへの信頼を実感し合う儀式になるのだ──そして毎度のクエスト中、それがどれほどよすがになるか。
彼女は案の定、様々な情報を手に入れてくれていた。村を魔獣から守る“英雄”に……この里ならではの、周辺の吹雪さえ寄せつけない特殊な気候を生み出している、地熱を利用した古代魔法。その魔核の眠っている場所と、管理しに行く魔術師の存在。この丘を登ってくる前、村人たちと交流している他の冒険者の報告も受けたが、そのどれにも、こんな話は含まれていなかった。理由は単純──大人たちは、利害という社会的な都合から、微笑みをもって口を噤む。しかし純真な子どもたちは、全くその限りではないという……ただそれだけのことだ。大人たちが侮って、ヴィヴィアンとともに追いやってしまった存在は、しかしその幼さでは到底信じられぬほど、案外物事をよく見ている。ヴィヴィアンもそれをわかった上で、かれらとの関係を築き上げてくれたのだろう。
ギデオンがヴィヴィアンと戯れ、花遊びにまで興じたのは、これに乗じるためでもあった。フィオラ村のあの独特な雰囲気は、丘の下でも既に見ている。子守と炊事洗濯以外は一切許されぬ女たちに、おそらく中年女性であるからという理由で、まるでいないものかのように扱われているエデルミラ。そんなことが許される環境で育ってきた子どもたちからすれば、若い女性と当たり前話し、親しみ、あまつさえ花遊びに加わりさえするギデオンは、非常に特異な“大人の男”に映ったに違いない。その狙いは案の定大成功で、最初こそ遠巻きになっていた少女たちも、今は楽しそうにギデオンに喋り倒している。
それをよくよく聞き込んでいれば、あっという間に夕暮れ時だ。皆を呼びに来た若い妊婦は、ギデオンたちと挨拶すると、自分の娘たちと手を繋ぎ、ゆっくりと丘を下りはじめた。その背中をじっと見てから、どちらからともなく、ヴィヴィアンと視線を交わす。──これは、調査仕事の範疇じゃないが。このフィオラ村は、やたら妊婦が多いというのは、地味に気になるところだった。おそらくこのフィオラ村で、あのくらいの若い女性は、皆が皆、妊婦であるか、出産したばかりである。田舎はどこも、都市部より遥かに出生率が高いものといったって……あれは流石に異常な数だ。しかしその割に、村全体の人口はそれほどでもないと思えた。村に来る前の予想に比べれば遥かに多かったものの、それでも二百には届かない。──そういえば、あまり老人を見ない。“むらおさ”をはじめとしたごく少数を見かけるのみで、人口の比率に合わない。かれらはどこにいるのだろう? ……)
……ご馳走に御呼ばれする前に、一度あいつとゆっくり話そう。
どんなことでも、できるだけ……共有しておいた方がいい。
(──そうして。相棒に耳打ちしたその通りに、小屋で休みつつ記録をとっているエデルミラの元へ行き。今日の収穫を共有すると、こちらも面白い話を聞けた。──彼女に先に報告しに来て、今はまた外に出ているという、我らのレクター博士曰く。フィオラ村の人々の独特な訛りには、西の大国・ガリニアの影響が直接的にあるそうだ。レクターが話すような、トランフォード国内の地方訛りのそれではない……発音だけでなく、語彙の端々に、大陸西側ならではのものがはっきり残っているという。もしかしたら、あの国に祖を持つ民族なのかもしれない──無論、トランフォード人は遡れば皆そうだが、それにしたってフィオラはどうも、独自のルーツがあるようだ、と。あの教授ったら、また身振り手振り大興奮で、ほんとに大変だったのよ……と苦笑するエデルミラは、どうやら祝祭を欠席するつもりらしかった。ごめんね、体調がまだ良くなくて……どのみちリーダー役は、アラドヴァルのあの人が代役をしてくれているし。ううん、夕飯のことは手配してるから気にしないで。あなたたちも今日はお疲れさま、ゆっくり楽しんできて頂戴。)
(──そんなわけで、あとはすっかり頭を切り替え、フィオラ村の祝祭の第二夜にご招待である。その主催地は、村の中央にある芝生の広場。どこまでも広い緑一色のフィールドを、大小の松明が明々と照らしだし。真っ白な布をかけられたテーブルは、どれも六角形に組まれて……その上には所狭しと、色とりどりのあらゆる馳走が並んでいた。真冬のこの時季だというのに、数十人の冒険者を参加させてくれるのは、随分な太っ腹だと恐縮に思ったが。「この村は、古代魔法のおかげで年中食べ物がありますのよ。だからどうか、ご遠慮なさらないで」と珍しく話しかけてきたのは、黒いフードを被っている、妙齢の美しい女だ。真っ赤な唇を蛭のように蠢かせ、ヴィヴィアンの目を盗むようにして、女はギデオンの手を取った。「出し物もいたしますの。この村に二百年伝わる英雄譚と、それに……」と。そこでギデオンが、さりげなく手を振り払い、ヴィヴィアンに呼びかけて場を辞したにもかかわらず。女はその、長い睫毛に縁どられた目で、ギデオンの項辺りに、そのじりじりとした熱い視線をいつまでも投げかけていた。
──そんな一幕はあったものの。祝祭全体は至って平和に、ごく明るく始まった。冒険者も併せて二百近い人々が、皆一堂に会し、祝杯を挙げたわけである。村の女たちの半数は給仕に忙しくしていたが、流石に客であるヴィヴィアンは、卓に座っていて良いらしい。王都組、ということで隣り合うことのできたふたりは、純粋に食事を楽しみ、周囲の冒険者仲間たちとあれこれ楽しく盛り上がった。──この肉、おそらくヘイズルーンだ。──ヘイズルーン? ──山から山へ渡り歩く、とてつもなく巨きい図体をしたヤギ型の魔獣だよ。あらゆる毒草を食べることができるらしい。──でも、あいつらたしか、並の魔獣じゃ狩れないくらいに強いはずだ。村の人らは、どうやってあれを倒したんだろう? ──そいじゃあ、ちょっと訊いてみようか……
満天の星空の下、宴もたけなわになってくると、酒が入った人々は、村人も冒険者も関係なく寛ぎはじめた。これからは広場の各地で催し物があるらしく、めいめい好きなところに遊びに行く流れらしい。ギデオンも最初こそ、この祭りの雰囲気に乗じて、他所の冒険者たちや村人たちと交流するのに気を割いていたが。──会が自由になったらなったで、また例の、よそから来た若い女性であるヴィヴィアンを避けるような雰囲気が、ちらほらと窺え始めた。そこで、アラドヴァルの代理リーダーにひとこと断りを入れ(もっとも、寧ろ勧められたが)。相棒であるギデオンが、彼女の傍に堂々とつくことにした。職権乱用? 公私混同? なんのことだかさっぱりである。
悲しいかな、男が傍につきさえすれば、フィオラ村の人々も、ヴィヴィアンへの接し方を多少改めるようだ。そのことに顔を顰めつつ、郷に入ったら郷に従え、なんて言葉もあるし、俺たちはいきなりやって来たよそ者の立場だからな……と。「家に帰ったら、ふたりで存分にゆっくりしよう」と、そっと優しく囁いておく。さて、こうして心置きなく、更けていく夜を一緒に過ごすことになったが。この後まもなく、広場の中央にある六角形のステージで、この村ならではの歴史劇が始まるという話らしい(……そういえば、この村はどうも、村のあちこちに六角形があしらわているようだ。家々の形ですらそうだった)。どんな劇なのかと尋ねても、村人たちは皆微笑んで、観てからのお楽しみだよ、と──そう言われては仕方がない。周囲に出されたベンチを見渡し、後方の左隅、程良く中木に隠された空席を見つけると、相棒をそこに連れていき。ふたり並んで腰かけて、ゆったりと椅子の背にもたれれば、なんだか覚えのある状況に、可笑しそうに片眉を上げて。)
……なんだか、いつかを思い出すな。ケバブでもあれば完璧なんだが。
ギデオンさんったら、さっきまで食べてたのに……ケバブは家に帰ったら作ってあげますから、今はハムで我慢してください。
──それとも、なにか賭けますか?
今回も私が勝ちますけど、ッ…………。
( 相変わらず隙のない様子で人をエスコートし、ゆったりと屋外の舞台を観察したかと思えば、次の瞬間。無駄に様になる表情で囁く内容がそれなのだから、思わず吹き出さずにはいられなかった。当時であれば、その整った容姿に誤魔化されていたろう雑談も、ギデオンが素でぼやいていることを知っていれば、今や食べ盛りの相棒がひたすら愛しいだけで。この半年ちょっとで、ねだれば何かしらの食べ物が出てくるようになったポケットから、お手製の燻製ハムを取り出し差し出しかければ。その可愛らしい意地悪の間合いは、明らかに目の前の相手からうつされたそれだ。ニマリと笑ってハムを引っ込め、態とらしくすました表情を浮かべかけたビビの顔にしかし、ぴく、と小さな苦痛が走る。二の腕の柔らかいところを拗られたような小さな、けれど確かな鈍い痛み。──2人の関係も知らずして、生意気な小娘に灸を据えてでもやったつもりだろうか。誰かの蛮行を隣の者も見えただろうに、低い背もたれから振り返ったところで、しらーっと視線を逸らす村民達に──余所者は自分たちの方だ、と。大したことじゃない、自分が我慢すればことが済むと、もし相棒に問いかけられたところで「なんでもない、大丈夫です」と首を振ったのが全て悪夢の始まりだった。
とはいえ、それ以外の雰囲気は和やかなままその劇は始まった。自然の帳を利用して、時折主人公らにあたる魔法の光は、ビビ達が知る一般魔法体系と同じ単純な構造のそれだ。内容も特にこのトランフォードでは珍しくない、昔この村で起こったという英雄による魔獣の討伐譚。討伐される獣が元々村の嫌われ者だったという点については少しグロテスクなものも感じたが、英雄が"良い獣"になって戦ったという話については、神話時代まで遡ればよくある話。成程、英雄が"良い獣"になるための薬が花ならば、この村が花を大切に育てる由来も分かると言うもので。舞台の幕が降りると、最前列で目を輝かせていたレクターが、早速隣の村長の1人を質問攻めにし始めている。他の村民達はのんびりとその場で談笑する者、祝祭の食事に戻る者、そのめいめい穏やかに過ごす雰囲気からは、この催しがそこまで格式高くない、素朴な物なのだと感じ取れるだろう。さて、そんな村民達とは違って、あくまで仕事中であるビビ達はこれからどうしようか。折角ならその美しい花もぜひ見てみたいところだが──と、劇前の囁かな事件などすっかり忘れて周囲を見渡し、ギデオンの腕を引いた娘がぴたりと固まったのは、その視界の先に先程宴に誘ってくれた女性を見つけたからだ。隣にいるのは夫だろうか、先程の娘たちとよく似た金髪の──中年、否。既に初老に近い男が女の腰を抱くと、当然のようにその顔を長く、激しく引き寄せたのを目の当たりにすれば。ギデオンの方へとぱっと逸らした顔は、恥ずかしそうに赤らみ、形の良い眉を困ったように八の字に歪めていて。 )
──っ、あ、うう~っ……この村の人達って、距離感が……ごめんなさい、慣れなくって……
(相手に促されるままそちらを見たギデオンも、一瞬言葉を失った。しかしその原因は、人目を憚らぬ派手な接吻でも、老人と若い娘という怪訝な組み合わせでもない(……あれほど離れてはいないにせよ、己とて、ヴィヴィアンとの歳の差を思えばとやかく言えない立場だろう)。それよりも──自分の記憶違いでなければ。今朝がた、あそこにいる初老の男は……一緒にいる妊婦のことを、三番目の“孫娘”だと紹介していたはずなのだ。
『もうすぐ曾孫が生まれる予定なんだ。それが楽しみで仕方なくてね』と。確かにあのふたりは、目元がとてもよく似ている、と感じたのを覚えている。そのはずの……間違いなく血が繋がっているはずの、祖父と孫が。あんな、まるで……盛りのついたけだもののように。今さら人の営みにそう驚かないギデオンでも、あれは流石に、なんだか異様だと思わずにはいられなかった。常識や風習というものは、ところによってさまざまで、よそから来た人間がそう簡単に否定していいものではない。それでもなんだか。見てはいけないものを見てしまったような、落ちつかない気分に陥ってしまう。
周囲はどうなんだ、と見渡してみても。篝火に照らされた村人たちのなかに、かれらの様子を見咎める者は見当たらない。やはり……どうやら……この村では、当たり前の光景のらしい。それどころか、まるで欲情を移されでもしたかのように、ひと組、またひと組と。妙な戯れに勤しみはじめる男女の姿が、そこここに見えはじめた。そのすべては知らないが、やはり何組かは、実の兄妹や母子のはずだ。客席にいたほとんどがこれでは……開演前の相棒に何かを働いた犯人を、それとなく探ることなどできようか。
仕方なく、ため息をひとつ。相手の肩を軽く抱き、この場からの離脱を促す。レクター博士には今度こそあのしっかりした助手がついているから、今夜のところは大丈夫だろう……そう願いたいところだ。)
……あれは、誰でも驚くさ。
とはいえ、どうにも気まずいな。……あっちへ戻ることにしよう。
(──しかし、その道すがらもまた。よくよく見れば、この村はどこか、ほかの片田舎にあるそれとはわけが違っているらしい、と突きつけられることになった。観光客など取り入れることのない、閉ざされた里だろうに……寧ろ、それだからこそなのか。宴の後に出はじめたあちこちの簡素な露店に、当然の如く並んでいるのだ。──露骨に男のそれを模した彫り物や、男女の営みを表紙に描いたそれ用の指南書、そういった品々が。
こういった不埒な小物は、別にキングストンでも見かけないわけではない。謝肉祭の時期になると、西部の花街のいかがわしいエリアなら、当たり前のように売っている。だがそれですら、一応はちゃんと、風営法に則ったゾーニングを施しているはずだ。青年のギデオンが女を連れて冷やかしに行くことはできても、子どもはそもそも、検問所を通れないようになっている、それは倫理上当たり前のことである。──それが、このフィオラではどうか。今は祝祭の期間だから、と遅起きしている子どもたちにも、そのいかがわしい出店はあっさりと曝け出されていた。それどころか、時折大人が呼び寄せて、指南書を開いて見せてすらいるようだ。都会で暮らす冒険者には、これはなかなか衝撃で。「……なあ」とヴィヴィアンに囁いたのは、おそらく彼女も同じような気分だろうと、そう思ってのことだった。)
……今夜はもう遅い。宴の片づけは、アルマツィアの連中が引き受けることになってるし……俺たちも、これ以上ここに用はないだろう。エデルミラのところに行って、調査書を手伝わないか。ここにいるのは、なんというか……わかるだろ。
……、……ッ!!
( いよいよ乱れ始めた会場を後にして、ほっと息を付けたのも束の間。通りに転び出た二人の視界に飛び込んできたのは、これまた不道徳で信じがたい光景の連続で。労働力としての子宝が、貧しい農村で都市部よりずっと有難がられることは知っている。その結果、直視しがたい“それら”に素朴な信仰が集まることがあるのも──知識としては、持ち得ている。しかし、目の当たりにした衝撃に、思わずギデオンの腕に縋りつけば。こんな通りで密着する男女に向けられる視線は生ぬるく。首都育ちのヴィヴィアンにとって、耳を疑うような声掛けの数々に、じゅわりと緩む涙腺と、優しい恋人の辛抱の甲斐あって、最近は随分なりを潜めていた潔癖がゾワゾワと立ち上がる感覚に。ちょうど相手も気まずそうな相棒の囁きへ、一も二もなくコクコクと勢いよく頷けば。ようやく昨晩の空き家に戻ったところで、エデルミラの姿が見えなかろうと、“少し出てくる”という書置きまで見つければ、再度あの村民達の中を探しに戻る気力など枯れ果てていた。 )
( ──ギシリ、と。乾いた床を踏む音が、暗い天井に微かに響く。慣れない光景の連続に、ぐったりと深い眠りについていたビビがその気配に気が付いたのは、既にその気配へ部屋の侵入を許してしまった後の事だった。あれからギデオンと別れて寝台に潜り、どれ程の時間がたっただろうか。身体の具合からして、日付はとうに変わっているように思えるが、視線を窓の外へと移したところで、未だ黒い宵闇が周囲を満たすだけで窺い知れず。一瞬、エデルミラが帰ってきたのだろうかと甘い希望が思考をよぎるも、それにしては気配の潜め方があまりにお粗末過ぎる。ならば──物取り、だろうか。それにしたって素人同然の身のこなしに、少しの油断もあっただろうか。……ギシリ……ギシリ、と静かに、しかしゆっくりと此方へ近づいてくる気配に、此方は無音で魔杖へと手を伸ばし、此方の荷物へと手を伸ばした途端に、現行犯でひっ捕らえてやるつもりでいたというのに。──……あ、いけない、駄目だ。あろうことか、その人影は、貴重な魔法薬を広げたテーブルを無視したかと思うと、一直線に此方へと向かって来るのだった。
──それからのことは一瞬だった。否、男は尚もゆっくりとビビの横たわるベッドへ忍び寄って来ようとしたのだが、ビビの思考がその目的に気が付いた途端、全てを放棄してフリーズしたのだ。そのうち大きく濡れた眼球に肥え太った月が反射して、男はビビが起きて、自分に視線を向けていることに気付いたらしい。それでも静かに身じろぎもせず、声も上げない娘をどう解釈したのやら。最早足音さえ潜めずに寝台に乗り上げると、「こんばんは、良い夜ですね」と、穏やかな挨拶が余計にビビを混乱させる。月明りに照らされた姿も、美しい金髪に甘くまとまった顔立ちと、言葉を選ばなければ──こんなことをせずとも、異性には困らなそうな容姿をしてはいるのだが、そんなことは問題外で。──こわい、いやだ……逃げなければ、声を出さねばと思うのに。ゆっくりと腹に体重をかけられ、此方を見下ろしてくる大きな影に身体が震えて、はっはっと呼吸さえもがままならず。そんなビビに眉を上げ、「おや、少し寒いでしょうか」と、頬へ触れてくる掌にさえ怖気が走り、はくはくと喉が強張り声も出せない。「大丈夫、すぐに暖まりますから」と胸元へ入れられた手にやっと微かに身を捩って、ひどく震えて掠れ切ったその声も、すぐ近くに肉薄した男にも届かなかったそのように、ぼろりと零れた涙と共に寝具に吸い込まれて掻き消えるはずで。 )
──……ひっ、たすけて……ギデオンさ、
(──ヴィヴィアンの、か細く助けを求める声から……遡ること、数時間前。
「おやすみ」と、彼女の額に軽く唇を触れ、しばらく傍に寄り添ってから、ギデオンはそこを離れた。なかなか戻らぬエデルミラを、探しに行こうと思ったのだ。否、彼女は一度だけ、確かにこの家に帰ってきた。しかしながら、ギデオンとヴィヴィアンにろくに声をかけぬまま、荷物から何かをごそごそ取り出して、すぐにまた出かけて行ってしまったのである。妙にこわばった、あまり余裕のなさそうなあの横顔……。一体何事だろう、と調査書を作りながら相棒と話し合ったが、夜がどんなに更けていっても、彼女は一向に戻ってこないままだった。広場のどこかで仲間と合流しているだけならいい。だが念のため、確かめに行くに越したことはないかもしれない。そう思っていたギデオンの顔を的確に読んでか、「私も様子を見に行きますよ」と、相手が申し出てくれたものの。普段は生き生きと元気なはずの彼女の顔には、しかし拭い去れない疲労が、ぐったりと滲んでいた。──無理もない話だ。相棒はこの十日間、パーティー内の唯一のヒーラーという立場で、仲間の健康管理にただでさえ気を張り続けていた。その矢先に、この村の正面切っては行われない排斥や、あの異様な様子に思い切り中てられる経験……。ヴィヴィアンは酸いも甘いもある程度噛み分けられる大人の女性に違いないが、それでも本質的には、稀有なほど清純である。そんな彼女に──はっきり言ってどこか濁っているこの村の水は、当然合わないはずだろう。故にギデオンは、相手をそっと押しとどめた。「探すだけなら、俺でもできる。ついでにほかにもいろいろ、若い連中や、レクターの様子も確かめておきたいんだ。ここは俺に任せて、おまえは先に休んでおくといい。特にここ数日は、あまり眠り足りていないだろう……?」
──そうして、ほっとした彼女が寝入るのを、しばらくかけて見届けた今。ギデオンはひとり、夜のフィオラ村を淡々と歩いている。中央のほうの家々のあちこちからは、生々しいほどの喘ぎ声がもはやはっきりと聞こえていた。ヴィヴィアンを残してきたのは、やはり正解だったということだ。あちこちに目を走らせるうちに、アラドヴァルのベテラン戦士や、アルマツィアの斧使いを見つけた。互いに歩み寄り、情報共有を開始する。若い連中の所在は、すべて確認済みらしい。何人か……否、十何人もが……ふらふらと村娘の誘いに乗りかけたものの。斧使いがすかさずわざと仕事を振り、本分を思い出させてくれたそうだ。「いやさァ、普通の村なら多少目を瞑るんだが」──古傷のある顔を、ギデオンに向けて顰める──「なんだかよ、ここじゃァよ、そいじゃァ危ねえ気がしてよ」。
それを鼻で嗤ったのは、アラドヴァルのベテラン剣士だった。出向先の女をひとりふたり抱くくらい、別に取り立てて咎められることでもなかろうに。今の時代は、随分とお行儀良くなったもんだなあ? と、異論ありげである。……この十日間、所属ギルドの異なるベテラン組は、それでもそれなりに上手くやってきたつもりだが。なるほど、個々人の感覚の違いから、やはりどうしても一枚岩になれぬ部分もあるようだ。斧使いと顔を見合わせ、「孕ませたら事だからな。若いと暴発しがちだろ」と、あくまでも軽く受け流す。──それより、エデルミラを見てないか? ──エデルミラ? あの女、晩餐にも顔を出さなかったくせに、どこかほっつき歩いてんのか。──……用事がある様子だったんだ。とにかく、おまえたちは見てないんだな。──ああ、いや、あそこじゃねえか。ほら、あの教会みてえなとこ……。
斧使いの視線を辿ると、なるほど、村じゅうにある六角形の建物のなかでも、少し大きな……ステンドグラスが嵌められている建物に、彼女が入っていくところだった。……何故何も、ギデオンたちに共有していないまま、行動を起こしているのだろう。ベテラン仲間たちに軽く手を掲げて別れを示し、「あとはレクターのことだけ頼む」と言い残してから、ギデオンもそこへ向かった。月明かりの下、間近に見上げるその三階建ての建物は、どこかよそ者を受け付けない雰囲気を窺わせる。どうしてここに、村人とあまり交流できていない筈の彼女が、すんなり入っていけたのだろう。少し状況を訝しみながら……ギデオンも扉を押し開け、中へ静かに踏み込んだ。)
(──建物のなかは、異様だった。数歩先はすぐ壁で、左手の方にずっと、細い通路が続いているのだ。どうやら、中央に向かって螺旋状に渦巻いていく造りらしい。そしてその壁には、大小さまざまなタペストリーが、美術品のように飾られていて……これがどうにも、不気味なのだ。冒険者ゆえ暗順応が早いギデオンは、慎重に歩みを進めながら、その刺繍絵をひとつひとつ確かめた。──花を植えている人々の姿、これらはまだ平和でいい。目がぐるぐるとしているところが個人的には薄気味悪いが。しかし、その先に……蛮族か何かがが押し寄せてきて、一斉に虐殺が起こり、人々が逃げ惑った……とでもいうような、凄惨な光景が突如として現れる。そしてその先、嘆き悲しむ顔をした人々が、一輪の花を抱えながら、巨大な骸骨の背中を踏み越えていく様子。途中で落伍者も出た様子からして……これはもしや、数百年前の国全体の史実である、カダヴェル山脈踏破だろうか。やがてその先、ごく普通の……それでも、依然として目がぐるぐるした不気味な人々が、少しずつ暮らしを営んでいく様子の先に。──唐突に。若い女を山中の井戸に閉じ込め、やがてやせ衰えた彼女を引き上げて皮を?ぐ、不気味な男の刺繍が出てきた。どうやらその女の皮で服を縫い、それを纏って喜ぶような、異常な人間であるようだ。惨劇を知った村人たちが嘆き怒る様子、男が追放される様子。だが人々のところにはすぐ、空飛ぶ黒い骸骨のような、不気味な姿の怪物が、吹雪を連れて戻ってきた。再び凄惨な血まみれの光景、噛み砕かれていく老若男女。──だが、そこに。唐突に、花と、蜂と、そして魔獣が、ロウェバ教の聖三位一体宜しく、如何にも神聖そうに登場した。清い光の筋に追いやられる骸骨の怪物。人々が魔獣を崇め、タペストリーは再び、花でいっぱいの平和で美しいものに戻る。しかしやはり人々の目は、ぐるぐると不穏なままだ。それに……至極当たり前のように、男女が性交する様子も、執拗に縫い込まれていた。……なんだか……まるで……今のこの村、そのものじゃなかろうか。このタペストリー群は、もしかせずとも、フィオラ村の歴史を記している品物のだろうか。──そういえば。数時間前、ヴィヴィアンと観たあの舞台劇は。魔獣に成り果てた村いちばんの嫌われ者が、同じく魔獣となった英雄に、討伐される話だった……。
「──面白いでしょう?」しっとりとしたその声は、ギデオンが思わず硬直するほど傍から聴こえた。振り返らずともぞわぞわとわかる、あの蛭のような唇をしたフィオラ村の女が、ギデオンのすぐそばに立っていた。「先祖代々伝わる、大切な刺繍ですの。私たちフィオラの者は、自分たちの物語を編むのが好き。歴史を紡いでいくのが好き……。あなたがた冒険者の武勇伝も、是非知りたいわ。私たちがちゃんと編んで、取り込んで、素晴らしく伝えていくから……」。女の指が、ギデオンの脇腹を撫で、つうと下に降りていく。しなだれかかる疎ましい体温、耳元に湿った吐息。「──……もう。冒険者の皆さまったら、お堅いのね。若い娘たちがとっても期待してたのに、皆引っ込んでしまって……とっても可哀想だったわ。今夜は祝祭の第二夜……“愛の夜”なのよ。こうして出会えた喜びを、溶かし合うはずの夜でしょう? だれもが皆、明日のために、ややこを作るべきでしょう? ──女は、そのための鉢植えなのよ」。
──瞬間。考えるより先に、ギデオンは女を突き飛ばした。転ぶ彼女を微塵も構わず、元来た迷路の道を、数々のぐるぐる目に不気味にみられる通路を、一目散に駆ける、駆ける。建物の外に飛び出てすぐ、ぎょっと振り返るさっきのベテラン仲間たちにも目を繰れずに、まっすぐに駆け戻ったのは……泊まっていた。あの村の端の家。頼む、無事でいてくれ。まさか──何にも巻き込まれてくれるな。)
(ギデオンのその恐れは、しかし扉を開け放てば、現実になろうとしていた。村の男に跨られて動けないヴィヴィアン、そのか細いか細い悲鳴。──ゴッ、と鈍い音がして、彼女から引き剥がされた男が、部屋の端に吹っ飛ばされる。それに構わず、固まっているヴィヴィアンを寝台から抱き起し、「俺だ!」「俺だヴィヴィアン、大丈夫か、無事か!」と、守るように抱きしめる。答えを得たかったわけじゃない──未遂ではあったようだが、それでも無事なわけがない。だが今はもう、これ以上脅かされることはないのだと、己の腕で伝えるつもりが……ギデオン自身もまた、怒りでぶるぶると震えていた。ゆっくり振り返った先、殴り飛ばした村の男は、鼻の頭が折れたのだろう、血を噴きながら「うう」「ううう」と呻いている。……顔全体を陥没させなかっただけ、これでも理性を利かせたほうだ、聞き苦しい文句の声を垂れ流さないでもらいたい。荒い息を吐きながらそうして睨みつけていると、アラドヴァルのベテランと、アルマツィアの斧使い、そしてあのフィオラの女が、息を切らして駆けつけた。冒険者側のふたりは、酷くショックを受けた顔だ。「何があった?」と問う声に、ギデオンは低い声で返した。──俺の相棒に、危害を働いた。それ以上に、わけを説明する必要があるか。……)
(──遠くで、口論の声が聞こえる。アルマツィアの斧使いとアラドヴァルのベテラン剣士、それに駆け付けたほか数名が、この村を離れるかどうかで延々と揉めているのだ。そこに村人たちもやってきて、村人に暴行を働いたギデオンを咎めているような様子だが、そもそもヴィヴィアンに何をしようとしていたのか、と冒険者側の怒りを買い、ますます話がややこしくなった。今ではむらおさのクルトも出てきて、どうにか事態を収束させようとしているらしい。……だが今更、もはや知ったことではない。仲間たちにははっきりと、俺はもうヴィヴィアンの傍を離れない、異論はないな、と、有無を言わさず伝えてある。彼女との個人的な関係はエデルミラ以外の連中にも薄々知られていたものの、これはもう、私情がどうとか、仕事の場だからと弁えるとか、そういう次元ではなくなっているのだ。……そもそも、同じ目に遭ったのが例えばアリアだとしても、決して許してはいけないことである。それが相棒かつ恋人のヴィヴィアンなら、ますますもって許せない、それだけの話なのだ。
──?燭の明かりをつけた、仄暗い部屋の隅。寝台の上に乗り上げ、ヴィヴィアンを抱きしめながら、宥めるように髪を撫でる。外の喧騒が少しでも聞こえてくれば、周囲の毛布を包み込むようにかけ直し……労わりを込めてまた撫でる。これで少しは、あの忌まわしい連中から気分を遠ざけてやれるだろうか。周囲を思い遣る彼女のことだ、自分のせいでクエストがこんなことになってしまった、と自責してしまうかもしれない。その必要はないのだと、きちんと伝えてやるために……旋毛に唇を寄せながら、そっと小声で呟いて。)
……遅くなって、すまなかった。
俺はもう、ここにいる。おまえの傍に、ちゃんといる……明日からも、ずっとそうだ。
……ごめ、ごめんなさい……め、なさい……
( ギデオンが懸念したその通り。やっとひどい緊張状態から抜け出したヴィヴィアンが最初に発したのは、酷く痛々しい自責の念だった。優しい腕と暖かな毛布に、何重に覆い隠して貰って尚、未だ外界から響いてくる男たちの言い争う声に、ぎゅうっと固く身体を縮こませると──もっとうまくできたはず。こんなに大ごとにする必要はなかった、私が我慢できていれば、と。レクターがこれ以上なく楽しみにしていたであろう、そうでなくとも、複数のギルドが関わる大事なクエストを、己が台無しにしてしまった申し訳なさに、心が押しつぶされていき。瞳を閉じれば、今も脳裏によぎる男の影に身体が震えているにも関わらず。深く傷つけられてしまった自尊心が、ギデオンさんを煩わせてはいけないと。分厚い胸板にうずめられた頭を、くしゅ……と小さく横に振らせて。 )
ありがとう、ございます……でも、ギデオンさんは調査に戻ってください。
( いつかシャバネで見せたそれと変わらぬ、己の不調を覆い隠さんとする強情な笑顔。真っ青な顔色、真っ白な唇、もうそれらをギデオンが見逃してくれないことは分かっていても、その中心でギラギラと輝くエメラルドは、自ら己の存在価値を失わせまいとする強迫じみたヒーラーの矜持で。押し倒されるほど肉薄したからこそ感じ取れた、微かな発汗に瞳孔の開き。性的興奮故と片付けるには、些か慢性的に感じ取られたそれに、その手の薬物の存在を懸念できねば──今この場で、己の存在価値はない。そう本気で信じ込む真剣な目の色、情けない震えを押し殺した低い声。このまま抱きしめられていれば負けてしまう。甘い言葉に縋りつきたくなってしまう。強くて、公正で、もっと多くの人を救える“人”を、私一人が独占して良いわけがない。それは意志なんて上等なものじゃない、ぶるぶると震える腕で身体を支えようとする風体が、強いトラウマに晒されたストレスから目を逸らさんとしていることは誰が見ても明白で。 )
……ああそうだ、もし、この村に蛇涎香が蔓延しているとしたら、トランフォードの法律で取り締まることになるんでしょうか?
……これからについては、そうだ。
ただ……あれの取締条約ができたのは、せいぜい100年前やそこらだろ。ここはたしか、200年も外との出入りがなかった、なんて話だから……調査の後に、まずは布告や啓蒙から始めることなるだろうな。
(壊れそうな声で明後日の問いを投げかけてくる、明らかに様子のおかしい相棒を前に。しかしギデオンは、すぐにはその異常を照らしだそうとはしなかった。その代わりに選んだのは、いつもどおりの、低く穏やかな、落ちついた声を落とすこと。──カレトヴルッフのギルドロビー、受注クエストの滞在先、或いはサリーチェの我が家の寝室……そういった場所で、彼女と議論するときの己になってみせることだ。
相棒が今、酷いショック状態に晒されていることは、本人以上に理解しているつもりだった。だからこそ、この痛々しい現実逃避を、一度はすんなり受け入れる。彼女がこの抱擁を少し解きたいと、今はあくまで職業人として振る舞いたいというのであれば、そうさせよう。両腕を大人しく緩め、相手が体を起こせるだけの僅かな距離を空けて、気丈なプライドがそのまま立ち上がれるようにしよう。法や保安の話に目を向けたいというのであれば、喜んでそれに付き合おう。──けれども決して、今寄り添うこと、それ自体まで諦めて譲るつもりはなかった。その証拠に、ギデオンの片手は今も、未だ震えている彼女の後頭部、そのほどかれている柔らかな栗毛を、そっと優しく撫でている。それは宥めるというよりも、習慣めいた手つき。自分が撫でたいから撫でるのだと言わんばかりの、ある意味我儘なそれである。そうやって、こちらがのんびり甘えているような雰囲気さえ醸し出しながら……“あなたは調査に戻って”などという痛々しい願いだけは、さりげなく押し流しておく。──そして、それに、気づかれてしまわぬよう。いつもの彼女がふと持ち出した話題を、いつもの流れに持ち込むそぶりで、やや遠くにまで広げていく。幸か不幸か、こういった方面の知識は、無駄によく蓄えてあるのだ。)
……だが、なあ、そういえば。法を直接知らなくても、介入時点で有罪になった例があったよな。
前にふたりで、ヴァイスミュラーの本を読んだろう? ほら……濁り酒を造ってた村が、調査しに来た税務官と揉めごとになって……あれは、何が適用されたんだったか。告訴不可分の原則か、それとも……
(……別段、こんな風に曖昧に言わずとも。ヴィヴィアンとこれまで楽しく交わしてきた数多の議論、その詳細を、ギデオンはどれも鮮明に記憶している。まさか、忘れるわけがない。──それでも今は、敢えてそれを押し隠す。もう喉まで出かかっているのに、なのに上手く思い出せない……そんな、如何にも自信のない顔で。まるで答えを強請るかのように、ヴィヴィアンの蒼白な顔に、ごく無邪気に問いかけるような面差しを向ける真似を。)
あれは確か、最初は税務官への公務執行妨害で抑留したんですよ。
ただ後の調査でメタノールが検出されて過失致傷に……、…………。
( ビビの頓珍漢もいいところな、なんの脈絡もない発言を、しかしギデオンは真摯に受け止め、咎めることなく返してくれる。あまりの出来事に動揺しているのだと、守り慈しむべきだけの悲鳴として、封殺することも出来ただろうに。──己の声は届いている、聞こえなくなんかない。 この村で過ごした短期間で分からなくなっていた。そんな至極当然のことを、思い出させてくれるギデオンの、ともすれば、あまりにも色気に欠ける返答に心底安心して、今にも泣き出しそうに表情を崩せば。優しい掌に小さく頭を擦りつけ、ゆっくりと顔を上げかけたその瞬間。疲れきって尚、気丈に振舞っていた娘が、ぴたと静かに固まったのは、ギデオンが口にさせてくれたその返答の意味に、少し遅れて気が付き始めたそのためで。──昔からの習慣である濁酒製造が罪に問われると知らずとも、結果的に人を害せば罪になる。それなら今、この状況はどうだろう。彼らにとってこの晩が、誰彼構わず混じり合うのが当然のことだったとして、巻き込まれた己が今、こんなに苦しい思いをしているのは。しっかり拒絶出来なかった自分が悪い、余所者である私が我慢しなければ、そう凝り固まっていた思考が溶けだして初めて。今夜の事件だけでなく、今まであった尊厳が揺らぐような経験の数々に、ようやく自分が深く傷ついていたことに気が付いて、突然にその痛み、恐怖に真っ向から対面することになってしまえば。急に仕事の話をしてみたり、そうかと思えば酷く脅えて泣き出したりと、支離滅裂としか思えない有様をもはや気にする余裕など全くなく。それでも許してくれるに違いない、信頼して止まぬ相棒に、ひいひいと情けない嗚咽を漏らし、顔を真っ赤にしてボロボロと泣き崩れ始めれば、早く──早く抱きしめて、とばかりに、自ら離した腕を広げて強請り。)
私、怒って、いいんですか……? 私は悪く、ない……?
……、ああ、もちろん。
(しゃくりあげながらの問いを聞き取り、気遣わしげに相手を見遣る。普段の明るく溌溂とした彼女からはほど遠い、見るだに痛ましい泣き顔、砕け散りそうな涙声。しかし、それでもヴィヴィアンが、その細腕をおずおずと広げるならば。……震えながらも、咽びながらも、気丈な構えを自らほどき、こちらを求めてくれるのならば。
僅かに見開いた双眸を、ふ、と和らげ。──大きく抱き寄せ、包み込む。ぎゅうぎゅうと強く、優しく絞めつけるのは、ギデオンなりの表現だ……まだぐらついていい、すぐに落ちつけなくていい。俺がこうして、外側から支えてやるから、と。)
……ヴィヴィアン、おまえは悪くない。何ひとつ悪くない。
だから、怒るのも、悲しむのも、ごく当たり前のことなんだ。
絶対さ……俺が保証するとも。
(──惨いことだ、と切に思う。暴行された、という事実だけで充分辛い仕打ちだろうに……自分の尊厳を傷つけられた、それに対する怒りというのは、決してただでは抱けない。深い悲しみ、身を切るような屈辱、こんな目に遭わなければならなかった理不尽へのやるせなさ。そういったものの上に、震えながら立って初めて……自分を傷つけた経験や相手に、ようやっと立ち向かえるのだ。その心細さと言ったら。
ヴィヴィアンがこうして竦んでしまうのも、無理からぬ話だろう。聡明な彼女は、真理に辿りつくまでが早く……それに気持ちが追いつかないのも、その隔たりに狼狽えるのも、当然の現象である。──だが、そういったときのために、こうして近しくなったのだ。「役に立たせてくれ」と、冗談めかして囁きながら、愛しい栗毛をひと房すくい、そっと唇を押し当てる。それで少しは宥めてやれただろうか、或いはいつかの晩のように、場所が違うと云われただろうか。いずれにせよ、穏やかなまなざしを相手に向けていたかと思えば。その濡れた頬に軽く手を添えた流れで、小さな顎を促すように上向かせ。──冬の夜気に冷えた唇を、ごく軽く触れ合わせる。二度、三度……四度、或いはそれ以上。ようやく口先で戯れるのをやめた頃には、もう外の喧騒など、ほとんど耳に入らない。ギデオンの全てを向けるのは、ただただ目の前のヴィヴィアンひとり。こつんと額を合わせれば、そっと相手に尋ねてみせて。)
…………。
気分は、どうだ……少し、落ちついたか。
( ──あたたかい、いたくない、こわくない。肺の空気が抜けるほど長く、力強い抱擁に瞳を伏せると。まるで、身体の震えを力づくで止めるかの如く抱きすくめられ、このうっすらとした酸欠が、自分を襲った男のこと、仲間のこと、依頼のこと、村のこと、レクターのこと……考えても今更どうしようも出来ない、しかし考えずにはいられない散らかった思考を諌めて、暖かな腕の中、強ばっていた身体を素直に厚い胸へと甘えさせてくれる。他でもないギデオンが一言、泣いても良いのだ、傷ついても良いのだと認めてくれたそれだけで、これまでずっと直視するのを避け続けてきた心の傷がすっと軽くなり。泣いて、泣いて、その溢れる涙も枯れ果てた頃。明日をも気にせず泣きじゃくったヴィヴィアンの顔は、あちこち真っ赤に腫れ上がり、まったく見られたものじゃないだろうに。弱っている娘を負担に思うどころか、濡れた頤をなぞるギデオンの瞳が、心底愛おしいものを見るように、優しく細められるものだから。 )
……こんなにされたら、落ち着けない
( そう耳元や首筋など、涙で擦っていない場所まで赤く染め上げると、恥ずかしそうに未だ甘い感触の残る唇へと触れると。ぎゅっと再度腕をまわして、「落ち着いたって言っても、今晩は……明日も、ずっと一緒にいてくれるんですよね」 と。──先程の声は聞こえていたと、ちゃんと届きましたと伝えるように。心底安心しきった様子で、小さくはにかむ表情からは、今晩植え付けられた恐怖は薄れ、疲れきったエメラルドには眠気が滲んでいた。しかし、そうしてしばしの微睡みに落ちていったかと思えば、息も荒く飛び起きて。その度に、声もなく啜り泣きながらギデオンに縋り付き、再度浅い眠りにつくこと複数回。質の悪い睡眠に顔色を悪くしたヴィヴィアンの眠りを──ギシリ、と再び妨げたのは、扉の方から響いた人の気配だ。いつの間にか夜が明けていたらしく。とはいえ、ビビが消さないでと強請った燭台の他、堅牢な雨戸から差し込む光の角度から見るに、時刻は未だ早朝と言い表して構わない時分。そんな非常識な時間の訪問者に、浮腫んだ顔をギデオンと見合わせれば。しかし、必要よりそれ以上に警戒心を表さなかったのは、その気配からは、昨晩の男のように己のそれを消そうという意図が見られずに。どちらかと言えば、此方へと声をかけようかどうか迷っているような、扉の前でうろうろと、優柔不断な往復を繰り返しているだけに感じられるそのためで。結局、こちらから動かねば変わりそうもない状況に──……流石に、ビビは未だ扉を開ける勇気はなかったが。結果的に、内側からその扉が開け放たれれば、その向こうにいたのは浅黒い肌をした黒髪の少年。後ろ手に花束を抱えているらしい彼は、自分の倍も背丈のありそうなギデオンを見るなり、逃げようかどうしようかと言った様子で赤い花弁を見え隠れさせると。意を決したように息を飲み、「あの、俺、お見舞いに……姉ちゃんが"病気"だって聞いて……!!」と、どうやらフィオラ村は昨晩の事件をそう片付けたらしい。「姉ちゃん昨日妹たちと遊んでくれてたろ……」ともじもじ俯く少年は、素直にその話を信じたのだろう。「本当はいけないんだけど、"花"を見たら元気になるだろ……?」と気丈に言い募ると、その中心の"がく"まで赤い花をぷるぷると差し出して来て。 )
(──フィオラ村での第二夜は、浅く断続的だった。ヴィヴィアンが悪夢に囚われて飛び起るたび、隣にいるギデオンもまた、つられて自然と目を覚ます。しかし、苦に思うことなどなかった。まっすぐこちらを頼る彼女に、己の体温を貸し与える……それは、ギデオン自身が何より望んだことだからだ。
少しのあいだ宥めれば、ヴィヴィアンはまた、ほんの少しだけ安心したような様子を見せる。そうして、目元を濡らしたまま、再びしばらくの眠りに落ちる。そんな姿が、酷く痛ましくも愛おしく。彼女が寝息を立てはじめてからも、そのまろい額に唇を触れたまま、しばらく背中をとん、とん……と、幼子にするようにあやしてやった。そして時には、薄闇のなかで青い瞳を光らせたまま、ギデオン自身は寝つかないことも多かった。少し考えたかったのだ……この、異様な村に来てからのことを。
フィオラ村は、およそ200年ものあいだ、陸の孤島だった場所だ。当然、王都暮らしをしているギデオンたちにしてみれば、大きな隔たりはあるだろう。大昔の田舎の村の感覚のまま、若い娘に夜這いをするような風習が、残らないでもないのだろう。──だが、それにしては妙だ。生活実態が釣り合っていない。全てが自給自足であるなら、あんなに多くのタペストリーや、夜市での春画本、それにあれだけの料理など、こさえる余力があるだろうか。記録にあるフィオラ村は、狩猟をなりわいにしていたはずだが……農耕、石工、紡績、養蜂と、多岐に亘る産業が随分豊かであることを確認している。だが、大して人口のない村で、いったいどうやって技術を肥やしてきたというのだ? これではまるで、他の田舎の村とそう変わらぬどころか、それより豊かではないか。
そしてその割に、あの時代遅れな感覚だ。生活は富んでいるくせに、倫理観だけは孤島のそれそのままで、外部の影響が流れ込んだ様子がない。ギデオンが殴り飛ばしたあの男は、むらおさクルトに治療されながら、何度も声高に言い募っていた。──「“愛の夜”のはずだろう!」と。祝祭の第二夜は、成人した男女が皆豊かに交わる夜。なのにそれを阻むとは、あの男は正気なのかと、ギデオンに対し、怒りだけでなく……本気の当惑を顕わにしていた。……ギデオンはエデルミラを捜す間、ヴィヴィアンの眠っている家に、防衛魔法をかけていたが。それを強引にこじ開けたのに(彼はこの村の魔核を管理する魔術師のひとりだったらしい)、罪の意識などないらしい。それどころか、あれすらもまた、「なんであんなことをした!?」と、寧ろこちらを咎める始末だ。
クルトとあの蛭女だけは、男の言い分に反応を見せなかったものの。寄り集まっていた他の村人たちは、彼に全くの同感だったようだ。幾つか囁き声が聞こえた──ほら、やっぱり。“御加護”がないよそ者は、“愛”を忘れてしまうんだわ。皆で分かち合うことをしない、なんて冷たい業突く張り。きっと“病気”が進んでいるのよ……。
どうやらフィオラにおいては、食べ物も、男女の肉体も、“分かち合う”のが至上らしい。よそ者の冒険者たちに気持ちよく晩餐を振る舞ってやったように、冒険者たちが“持っている”若い女の体もまた、村に還元されるべきと考えているようである。そしてその考えにないもの、あろうことか反発する者は、真っ向から異常者扱いされる。──しかしなあ、悪いが、俺たちの故郷じゃそれが常識になってるんだ、と。あの斧使いがどうにかとりなしてくれたおかげで、あの場はどうにか治まった。ヴィヴィアンを襲った男と、彼に暴力を振るったギデオン、どちらの罪も手打ちにする、そういう方向にするらしい。
そう取り決められたところで、エデルミラがやっと帰ってきた。見るからにおかしな様子だ、やけに目を見開いて、息も激しく荒げている。すわ何事か、まさかおまえまで──と、周囲の冒険者が尋ねるも。彼女はただ周囲を見るばかりで、何ごとも答えない。かと思えば、不意にクルトをまっすぐ見つめて、「聞きたいことがあるの、」と言いだした。何か別件の、気がかりなことがあるのだが、それはクルトに個人的に確かめたいのだそうだ。──ここでもまた、強烈な違和感が働いた。大型ギルド・デュランダルの女剣士エデルミラは、仮にも総隊長である。複数のギルドの冒険者たちを束ねる、責任ある立場に抜擢された才媛であり……いくらこの村ではそう看做されないからと言って、職務放棄をするような人物ではないはずなのだ。しかし、明らかに言い争いがあったとわかるこの異様な現場に飛び込んで尚、彼女にはそれが見えていないようだった。今は背後の家で休ませているため、この場に本人がいないのもあるが、ヴィヴィアンのことを思いだすそぶりすらない。エデルミラもまた、この村に来てから、だんだんおかしくなっている……その場にいる冒険者たちは、誰もがそう感じていた。
しかしギデオン自身は、今はその件に取り合わないことにした。隊のなかでは自分もベテランの部類であり、責任を受け持つ立場にある。しかし今夜ばかりは、それよりも優先すべきものがあるのだ。──王都から出向したヒーラーがクエスト先で被害に遭って、今後の活動に支障をきたす恐れがある。ならばそれをフォローするのは、彼女の相棒であり、仕事上は上官ともなる、ギデオンの役目だった。私情だけの判断というわけでもない……それを、あの斧使いも汲んでくれたのだろう。目配せをすると、さりげなくも力強く頷いてくれた。今は俺たちがこっちをやる。おまえはそっちを、嬢ちゃんを頼むぜ。俺たちを治してくれるヒーラーが弱っちまったら──パーティーは、全滅もんだ。)
(──そうして、それから数刻後。ヴィヴィアンを宥めながら浅く眠っていたギデオンは、しかしふと覚醒した。今回は、すぐそばの彼女が悪夢に魘されたせいではない。この気配は、部屋の外からするものだ。
軽く身じろぎして隣を見ると、夜明けの薄明りのなか、大きく目を開けているヴィヴィアンと目が合った。この気配の主は、そう悪意のある輩ではなさそうだ……と、彼女もまた、冷静に察知している様子である。しかし流石に、すぐ身動きをとることはできないらしかった。大丈夫だ、と安心させるように肩をさすってから、大きく身を起こし、扉のほうへゆっくりと歩む。魔剣は持たなかった──持たなくていいと考えた。音の軽さからして、この不意の訪問者に見当がついていたからだ。
はたして、ギデオンが出迎えたのは……やはり、フィオラの子どもだった。年の頃は十一、二くらいだろうか。そう射竦めたつもりはなかったが、ギデオン相手に、一瞬怯えたような顔をしたものの。しかしそれでも、部屋の奥をちらと見れば、その顔つきがまっすぐな、覚悟の決まったものに変わった。そうして──お見舞いをしに来たんだ、と。それでこわごわ差し出すのが一輪の花と来たものだから、そのあまりに無垢な思いやりに、思わず毒気を抜かれたような顔を晒す。実際、抜かれはしたのだろう──真夜中に目の当たりにした村の大人どもと、まるきり違うではないか。
直接見舞わせてやりたいところだが、ヴィヴィアンはまだ本調子ではないだろう。「おまえの言葉と一緒に、ちゃんと渡しておく。ありがとうな」と、花の茎を受け取りながら、その黒髪をくしゃりと撫でる。途端、少年はほっとしたように歯の抜けた笑みを浮かべ。「あの! 匂い、花の匂いを吸うと、“病気”が良くなるんだ。姉ちゃんにそう教えてやって!」……などなど、懸命に言い残してから帰っていった。外に出てからは足音を立てないようにしていた辺り、きっと本当に、内緒の善意でここにやって来てくれたのだろう。
扉を閉め、部屋の奥に戻り、ヴィヴィアンのベッドの傍らに腰を落ち着ける。そうして彼女に、「あの子からのお見舞いだとさ」と、その目が醒めるほど真っ赤な花を手渡した。華奢な肩をゆったり撫でさすってやるのは、“俺以外にもおまえの味方がいたな”“この村にも、おまえを想いやってくれる奴はいるんだ”、そう伝えたくてのことだ。
しかし、やがて少しずつ増していく光量のなか。昨日の昼下がり、あんなにも花畑にいたのに、この花に見覚えがないこと……そしてそれどころか、何か妙な気配がすることに気がつくと、ふと軽く眉を顰めて。)
あの子の話じゃ、病気を癒す花らしい。祝祭の最終日の儀式にも使うとか……
…………。………………?
まあ……、……?
とっても綺麗…………
( 振り返ったギデオンから、花を受け取ったヴィヴィアンもまた一瞬。その妙な違和感に首を傾げてはいたのだが、ふと表情が変わったのは、曰く香りに効能を持つらしい花をまじまじと観察し、その切った根元から滲む水分や、花粉に触れ、その成分に致命的な刺激がないことを(彼を疑うわけではないが、素人にとっては見分けが難しいものだ)確認した後のことだった。睡眠不足による判断力低下だけでなく、無垢な好意への油断もあっただろう。未だ薄暗い部屋の中、まるで発光しているようかのような赤い花弁に鼻を惹かれて、その甘やかな香りをたっぷりと吸い込んだその瞬間。それまで燻っていた違和感がぼんやり消え失せ──とはいえ、あくまで初めて見た花に対する、自然な範疇を逸脱しない感動に、うっとりと目元を細めれば。優しく撫でてくれるギデオンに、手の力だけで擦り寄ると、その程よく筋肉の付いた分厚い肩に丸い頭をそっと委ねて。
今この瞬間、ビビを力付けたのは無垢な少年には違いないが、その優しさを受け取れるほどまで回復させてくれたのは、他でもないギデオンの献身によるものだ。昨晩の事件から初めて、やっとその表情をほころばせ。人懐こく、触れた頭をくしゃくしゃと擦りつければ。エデルミラ不調の中、代理でクエストを先導すべきギデオンが何故、こうも付きっきりでビビの面倒を見ていられたのか。──聞けば当然、ギデオン本人はヴィヴィアンのためだと答えるに違いないのだが。それに甘えて、ヒーラーとして、冒険者として、求められているものへと気づかなければ嘘だ。昨晩はこの村自体へ恐怖を覚えていたヴィヴィアンだったが、どこの国でも、時代でも、子供というのは無垢で、何物にも染まっていないまっさらな存在だ。ビビ達現代人から見た"常識"を、この村に一方的に押し付けるのは間違いに違いないのだが。これから、否応なく外部との交流に巻き込まれていくだろう彼らが、酷く衝突し摩耗することくらいは防げるかもしれない。そうして、それまで色濃い疲労を滲ませていたエメラルドを、強い意志に輝かせると、「とってもいい香りですよ、」なんて、未だ少し震える指をギデオンに絡ませ、近づいてきた顔に花の影でキスを強請ったのは、もう一度踏み出すための最後の勇気を分けて欲しかったためで。 )
ギデオンさん、昨晩はごめんなさ……ありがとう、ございました。
この子にもお礼がしたいんですけど……その、ついてきていただけませんか?
(ヴィヴィアンのうっとり安らぐ様子を前に、そっと無言で……いつもどおりの寛いだ顔を被り直す。何も偽るつもりはない。春の雨の日のあの教訓、違和感を見過ごしたせいで大惨事になった記憶を、そう易々と忘れちゃいない。さりとて、あの少年がくれた花を何だか妙に感じたところで、ギデオンのそれは所詮勘である。半面、プロのヒーラーであるヴィヴィアンは、自分自身の専門知識とよくよく照らし合わせることで、きちんと安全を確かめているのだ。その上で、村の子どもの思いやりに救われているのなら……昨夜のあの事件の後なのだ、水を差したいわけもなく。どうせ後で、念のため程度に調査をするつもりでいるのだ。それまでの間、自分が密かに気をつけておけばいいだろう。
故に、相手のおねだりに、甘く穏やかなまなざしを注ぎ。「もちろんいいさ」と返しながら、長い指を絡め直し、その震えごとぎゅうっと包む。朝日の差す中、白い漆喰の塗られたフィオラの家屋の寝室で、今この時間はふたりきり。けれど、一度ここを出たなら、またしばらくは職務を第一にせざるを得なくなるだろう……ヴィヴィアンもそれをわかっている。だからこれは、お互いのためのお守りなのだ、と。)
だが、依頼の報酬は……全部前払いで頼む。
それ以外は……ん……受け付けないぞ……
(──そうして。甘い甘い先貸しを、心行くまでたっぷりと堪能してから……四半刻。さっぱり装いを整えたふたりは、村の広場に顔を出してから、西側にある農場に足を運ぶことになった。
今は祝祭の期間ということで、炊事周りの労働は手出し無用とされている。だから代わりに、井戸水を汲んだり、薪を割ったり、或いは祝祭に関係なく、家屋の修繕に必要な医師や丸太を運んだり……そういった労働をこなして村に奉仕をするというのが、滞在中の務めであった。とはいえ、後の事件があった今は、ギデオンはできるだけヴィヴィアンとともに動きたい。それを踏まえて、今朝はふたりとも、村に幾つかある家畜小屋のひとつを掃除することになったのたった。新米冒険者がよく駆り出される手軽な依頼と同じと思えば、なんだか懐かしいものである。
「アンバルにシジェノを運び入れておくれ……」。ふたりに仕事を命じたのは、この辺りの古い小屋を管理しているらしい、しわくちゃの老人だった。太陽に焼かれた肌は濃い褐色でしみだらけ、数百年物の樹皮のように皴が多く、とうに足腰が曲がっている。数歩歩いてもひと息つくほど衰えている様子だが、それでも仕事をやめようとはしない。ギデオンもヴィヴィアンも、その姿に敬意をもって、積極的に手伝いをしつつ、彼の領分を侵さぬように心がけた。老爺が頻繁に使う聞き馴染みのない語彙は、どうやら村の古語らしい。最初こそ少し困ったが、やがて身振り手振りや雰囲気から、だいたいの意味は汲み取れるようになった。──だからこそ、わかりたくなかったものもある。「あれはおまえのココシュカだろう」。雌鶏たちに餌をやるヴィヴィアンを眺めながら、椅子に座った老人がそう話しかけてきた。ギデオンは、熊手片手に一瞬だけ考えた後、言葉が通じないふりをして聞き流すことにしてみたが。それでも、尚も老人は続けた──「良いヤヤを産みそうだ。産めるだけ産ませておきなさい……」
──さて、その長寿の老人曰く。祝祭三日目を迎える今日は、ラポトと呼ばれる特別な儀式を行うことになるという。詳しいことは掴めなかったが、今朝の村人たちがモロコシ粥を煮ていたのは、それに使うためだったらしい──そういえば、無邪気につまみ食いを挑んだ子どもが、とんでもない剣幕で叱り飛ばされているのを見た。「お前たちも来なさい」と、そう呟く老爺の顔が、どこかおかしな無表情に見えたのは気のせいだろうか。「おまえたちこそ来るべき儀式だ。ヤヤがなくては……意味がない……」。
老人の謎めいた言葉に首を傾げつつ、ふたりで農場を引き払い。朝食にあずかった後は、儀式が始まるその時間まで、冒険者としての本分……この辺りの様々な調査へ、各々乗り出すこととなった。ギデオンとヴィヴィアンは主に、自生している薬草の確認だ。今後の調査でどんな物資を現地調達できるかという、地味だが欠かせぬ任務である。レクターを通じて事前に禁足地帯を確かめ、問題のない箇所を、ヴィヴィアン手動で見て回る──その前に。相棒の望んだとおり、例の少年を探そうか。皮革の鎧に魔剣という、いつもの戦士装束に着替えてから、村の周囲を見渡して。)
あの子ども……具合が悪そうな様子じゃあなかったんだが、昨日の昼も、今朝の朝食でもいなかったはずだ。
……同い年のやつらに聞いてみるか。
ありがとうございます……そう、ですよね!
この時間帯だったら……
(「おにいちゃん?」「お兄ちゃんはすごいのよ」「すごいの!」「“えいゆう”になるんだから!」「なるの!」──美しい金髪を太陽の光に反射させ、その青い目をキラキラと輝かせる彼女たちの存在は、その時のビビにとって、まごうことなき天使に見えた。自ら少年にお礼をしたいと言ったのだ、いつまでも人の多いところは気乗りしないなどと言っているわけにもいかないだろう。そう頭では分かっていても、戦士装束を纏ったギデオンの提案に、気後れしそうな心を奮い立たせようとしたその瞬間。小さく袖を引かれた感覚に振り返れば、そこにいたのは昨日の小さな少女たちだった。自慢の兄の居場所を聞かれると、「今日は“お花畑”に行ってるの!」と屈託がないのは妹の方だ。今日も本当は、ビビを誘いに来てくれたらしい頭に乗る冠には、やはり今朝の花は見当たらない。未だ“ひみつ”の概念が難しい妹の一方で、少しは分別がつくとはいえ姉の方もまだまだ幼い。妹の暴露にわたわたと口を押えながらも──ビビだから、特別よ? と、此方を自然とかがませて。その耳元に顔を寄せると、(潜められていない声はギデオンまで筒抜けだったが。)神妙な調子で教えてくれたのは、ここの村民たちにとって特別な“花”の存在だった。──目覚めるような鮮赤が美しいその花は、この村の名前にもなるほどフィオラの民にとっては大切な、村の始まりから共に歩んできた象徴らしい。今朝の彼はその特別な花だけが咲き乱れる花畑で、数日後に迫った儀式の準備があるのだという。それから二、三やり取りした後ビビが、ごめんね、今日は遊べないのと断ると、少ししょんぼりと頭を下げながらも、「ばいばーい!」と小さな手を振って離れていく姉妹を見送り。無言で隣を見下れば、最早言葉を交わすまでもなく。無言でふたり、速足で向かうのは花畑……ではなく、一昨日から寝泊まりしている例の家屋だった。 )
( ビビ達が勇み足で村を通り過ぎるその間。何人かの村民とすれ違ったが、誰もかれも昨晩の騒動を知らぬわけがないというのに、その挨拶の穏やかなこと。本来、上役が沙汰を下したところで、個人間の感情面では摩擦が残るものだが、急いでいる今、特別煩わされないのは寧ろ有難い。──これが勘違いならばいい。文化や価値観の違いによる衝突はあれど、フィオラの民は基本的に余所者である冒険者たちに友好な態度を見せていた。その上、自らの所有物という概念が薄く、良くも悪くも全てを分かち合わんとする彼らが、それでも決して共有したがらない特別な“花”。病をも直すとされている貴重な“花”、もしその本物を持っていると知られたら。そんな脳裏を占める厄介ごとの予感に、急いで戻ってきた二人を出迎えたのは──……例の家屋の出入口、その土台の隣でひっくりかえって悶える変人教授その人だった。 )
レクターさん!!
どこか……ひゃっ!? ど、どうされたんですか……?
( 思わず駆けつけたヴィヴィアンの腕の中、それまで呼吸も荒く倒れ伏していたレクターはしかし、その視界にギデオンを捉えた途端。勢いよく立ち上がったかと思うと、「いや、」「ちがう」「これは……」と、しどろもどろに後退り始める。その勢いといったら──ガツンッ!! と。自ら背後の大木に勢いよく後頭部を打ち付けた衝撃で、力なく地面に倒れ伏すほど──などと。あまりの奇行に一瞬あっけに取られてしまったが、冷静に状況分析をしている場合ではない。今度こそ完全にのびているレクターに慌てて駆けつけ、その胸元を緩めようとしたビビが、「……? ……5015年版、エ“ッ、本物!?」と、素っ頓狂な声を漏らして。しまった、といった調子で口元を押さえると、ゆっくりとギデオンを振り返り、恐る恐るといった様子で指さしたのは一枚のブロマイドだ。スターである冒険者たちの技がみられる! と当時の子供……もとい、大きなお友達をも魅了したマジカルブロマイド。当然その危険性から一瞬で発禁となった幻のそれを後生大事に抱えていた教授が、目を覚まし。「の、覗きじゃないんだ!」と「信じてくれ! ほら!! 僕はあの足跡をアッ!?」と、自ら推しの足跡にすら興奮する(興奮してたんじゃない、足のサイズが知りたかったんだ!と弁明していた、それはそれでどうかと思う。) 熱狂的ファンだということを本人の前で白状し、顔を真っ赤にして泣き出すのは数分後の話。)
(──ブロマイド文化。ギデオン自身はほとんど興味を持たないそれは、しかしこのトランフォード王国において、大人気を誇る一大ジャンルだ。その興りやら、冒険者ギルドにもたらしてくれた特殊な経済効果やら、かつて爆発した“マジブロブーム”やら、その急激なアングラ化やら……。その辺りについて触れると、レクター以外の社会学者も数人はすっ飛んでくるほど奥深い話になるので、今は一旦省くとするが。とにかく、発禁処分を受けたはずのそれを護符が如く所持する以上、レクターは正真正銘、“マジブロコレクター”のひとりである。そしてそれだけでなく、いや尚恐ろしいことに。……“魔剣使いギデオン・ノース”の、強烈なファンらしいのだ。若い娘ならいざ知らず、三十路を越えた、この大男が。
むろん、憧れや信奉、愛好といった感情に、老若男女の垣根などない。これが稀代の天才アイドル、大人気冒険者のカーティス・パーカーであったなら、ギデオンとは全く違う反応を示してみせたことだろう。齢三つの幼女から、百七歳の老爺まで。輝く笑顔で万人を魅了するプロにかかれば、レクターを拒まぬどころか、“ファンサ”でしっかり応えてみせて、自分を“担当”してくれるファンを、ますます惹き込んだに違いない。──だが、しかし。)
……まさか、おまえ。そっちの気でもあるのか……
(「──違うんです!! そういうのとは違うんです!!!」。日焼けした肌の学者らしからぬ大男が、真っ赤な顔で悲鳴のように言い募っているというのに。対するギデオンの面ときたら、若干後ろに仰け反りながら、露骨なドン引き面であった。
──ギデオン・ノースという人間は、実務畑の生真面目男だ。“推し活”だの“布教”だの、そういった概念とは、四十年間ほとんど無縁で生きてきたようなタイプである。それこそ若い全盛時代は、寄ってくる女に応えて、例のマジカルブロマイドにサインをくれてやったりもしたが……主に魔獣駆除業者である自分たちが持て囃されるのが、正直なところよくわからずに。ほどなくして、有名人と寝たいだけの貪欲な女たちが近寄るようになってくると、“ファンサ”行為は敬遠し、アイリーンやアンといった信頼できる女たちのところへ引っ込むようになっていった。これがジャスパー辺りになると、嬉々として威張り散らし、ギデオンが身を引いた分の人気も逞しくぶんどっていたが。まあこれに関しては、適材適所というやつだろう。
とにかく、ギデオンからすれば、レクターの奇行も動機も、理解の範疇を越えているのだ。女ならまだわかりはするが、これが大男となると、いったいどういった動機でもって、野郎のブロマイドなんぞ大事に抱えているというのだ。俺の尻でも狙っているのかと考えるほうが、おぞましさには変わりないが、よっぽど理解しやすいのである。「違う、違うんだあ、そういうのじゃないんだあ……」と。地に伏し泣き啜る哀れな学者の泣き言を、相棒が優しく寄り添いながら聞きだすに。……どうやらレクターは本当に、ギデオンのことをただ崇め立てているだけらしい。足のサイズを知りたいというのも、本人が万物に向ける好奇心の延長のようだ。
……なんとなく、自分の幼少期に一世を風靡していた音楽隊を思い出す。4,980年代後半から90年代にかけて、国中の若者を虜にし、その後多くの音楽シーンに絶大な影響を与えた、茶髪の青年四人組。その人気は大きな社会現象になり、彼らが踏んでいった後の芝生を毟り取っては感涙する女性までいたとか、そんな話まで伝わっている。「そうです、まさにあれですよ──自分にとっての神が踏みしめた土、転がした石、呼吸した大気、手を触れて開けたドア! それがどんなに尊いものか!!」大きな腕を振り回して熱弁するレクターを前に、若干の理解を進めかけていたギデオンは、しかし強烈な頭の痛さにくらくらと目眩を覚えた。無理だ、俺には理解不能だ。
ついさっきまで、少年がヴィヴィアンのために花泥棒を侵した問題で、酷く深刻になっていたというのに──……なんだ、いったい何なのだこれは。とりあえず、本人は酷く恥じ入っているようだし、もういっそ捨ておいておけばいいだろうか。そう諦めをつけようとして、ふと何気なくそちらに視線を投げかけた瞬間、しかしぎょっと目を瞠る。今まであまり直視せずにやり過ごしてきた例の“マジブロ”に、信じられないものが映っていた。──当時寝ていた女、例の魔法使いのエマと、その女友だちだ。魔法がかかっているのだろう、姿絵の主題である若い頃のギデオンに、時折後ろから細腕を絡みつけるようにして抱きつき、ふたり揃って絵の外に出て行って、また入って来て……を繰り返している。これは当時、彼女らも彼女らで各自ブロマイド化しており、あくまでもコラボ展開として意図されたものであるのだが。当のギデオンは勿論知らない──知らないが、この女たちと寝たことだけは記憶に一応残ってはいる。その相手をまさか、今の恋人であるヴィヴィアンの目に、触れさせたいわけがあろうか。
不意にヴィヴィアンを脇にどけさせ、レクターに顔を突き合わせたかと思えば。「レクター、言い値で買ってやるから、そいつを今すぐ俺に寄越せ」と、息巻くようにとんでもない事を言いだす。“推し”の顔面が接近して一瞬気を失いかけたレクターは、それでもそれを聞くなり必死に気を奮い起こし、「駄目です──これは僕のお守りなんです、幾ら積まれても渡せません!」と、気丈にも言い返すも。今度はギデオンがその胸倉を掴んで脅しつけるものだから、レクターが再び「アアアッ!?!?!?」と顔を赤らめる、酷く珍妙な恐喝となって。)
…………。
( 一人は真っ赤になって泣きながら、もう一人は怒髪天……というより、これは焦燥だろうか? とにかく余裕のない表情を浮かべては、平均よりも体格の良い男が二人、至近距離で額を付き合わせている光景を見せられて。さらりと除け者にされたビビといえば──絶対にうちのブロマイドは見つからないようにしよう、と。レクターのそれに比べれば囁か極まりない、けれど大切にしまい込んだコレクションに想いを馳せて、薄情にも堅い決心をひとり、強く心に決めていた。
とはいえ──本人は認めたがらないだろうが。そもそもギデオンのファンは(ジャスパー程ではないものの)男性も多い。今でもコアなファンはいるし、それこそもう十数年前は若い女性が多かったに違いないが。過去の浮名とは裏腹に、堅実で質実剛健とも言える仕事ぶりは、同年代や少し年下の同性にウケが良く。冒険者ファンとまではいかずとも、好きな冒険者を問われれば、うっすらとギデオン・ノースの名を上げる壮年男性は多いものだ。──レクターは……まあ、その中では少し熱心な方ではあるようだが。半分気を失いかけながらも、健気に宝物を守ろうとするその姿が、同じ人を愛するよしみか、どうにも可哀想になってしまって。仕方なく、「おふたりとも一旦落ち着いて……」とやんわり分け入ったタイミングが最悪だった。
いくら体格が良いとはいえ一般人のレクターが、プロであるギデオンにいつまでも抵抗できる訳がなく。必死に抵抗していた拳から、ひらりと件のそれが落ちたかと思うと。ひらりひらりと男共を弄ぶかの如く風に乗り、ちょうど間のビビの手元に収まる。──そもそも数あるうちに、この手のブロマイドがあることは知識として知っている。「…………そういうこと、」と響いた呟きは、あくまでギデオンの奇行への納得でしか無かったのだが、後ろめたさのある人間にはどう響いただろうか。 )
──誤解だ。
(滅却すべき証拠品が、よりによってヴィヴィアン自身に渡ってしまったその瞬間。ぴたりと止まったギデオンは、即座にス────ンと真顔に陥り、かと思えば口を開いて、淀みなくそう言い切った。その様ときたら、元が精悍な顔立ち故に、如何にも誠実そうである。しかしその分なんというか、アレというか。……窮地に追い込まれた時の詐欺師なりスケコマシなり、そんな連中を思わせること請け合いに違いなく。
背後の大柄なギャラリーも、どうやら同感だったようだ。「エッ!? アレって確か当時のパフォーマンスじゃ、まさか本当にかんk──」と。よく通る甲高い大声を無理やりにでも遮るように、完全ノールックの雷魔法を後ろ手に、バリバリと派手に叩き込む。どうと倒れるレクターの巨躯、しかしそれには全く構わず、相手にもまた構わせず。一度軽く居住まいを正したかと思うと、続きの何事かを言いかけて──ふと口を噤み、俯く。片手を顔付近に持っていったのは、深く深く尚深い眉間の皴を、指先で強く揉みほぐすためだ。そのまま「……」と、いつもの無駄に様になるポーズでしばらく考え込んだかと思えば。ふっとまた、いやに澄みきった顔を上げ、口を開こうとして、しかしまたすぐ言葉に詰まる。「…………、、」と、微妙に下りる長い沈黙。気まずいことこの上ないのに、打開する策が浮かばない。……そのまま顔を逸らしてだんまりを決め込みはじめた辺り、どうやら露骨な動揺ぶりを隠しきれなくなったようだ。
──そもそも。いつぞやの巨人狩りの作戦で、相手がエマと鉢合わせ、ギデオンとの過去のあれやこれやを匂わされたと聞いている。記憶力の良いヴィヴィアンのことだ、彼女の映ったブロマイドを見て、(あ、あの時の。)と気づかぬわけがなかろうに。ぐるぐると苦悶の渦に陥ったギデオンは、どうやら思考回路の幾つかの螺子が、突然弾け飛んだらしい。すんと顔を上げたかと思うと、再び澄んだ目、落ちついた声音で、三度目の正直……のつもりが、盛大なる自爆をかまし。)
・・
10年以上前の話だ。今はこの手の趣味はない……公訴時効にならないか。
レッ、レクターさ……
( ──もうギデオンさんったら、そんな必死になって隠さなくても、演出だって分かってますから。そう言い募ろうとした笑声は、激しい雷の音にかき消される。ギデオンの容赦ない雷撃をくらい、どうと倒れたレクターに駆け寄ろうとして、その進路を強硬に阻まれてしまえば。その常軌を逸した行動自体が、もう完全に後ろめたいことがありましたと自ら白状している状態に他ならず。そのあまりにもな焦燥ぶりに、思わず引きつった表情で相手を見つめ、それからさりげなく教授の様子を伺えば──プスプスと前髪の先を焦がしながらも、どこか嬉しそうにピクピクと悶えている頑丈な御仁に──うん、あれはほっといても良いやつだ、と一息ついて。
そうして、いつまで経っても話出さない恋人に、再度冷めた視線を戻せば。普段の涼しい顔はどこへやら、露骨な動揺に瞳を泳がせていたベテラン剣士は、やっと覚悟を決めたらしい。改めて手元のそれをよく見れば、ビビも見知ったその女性に、ギデオンがこうも狼狽える事情はよく分かる。確かに気持ちの良いものでは無いが、この人の往年の素行などとっくのとうに知ったものだ。何を言われても──ビビと付き合ってもいない過去のこと。特に咎めず、気にしなくていいんですよ、と流してやるつもりでいたというのに。 )
……この手の趣味って、なに……?
( 素直に謝罪すれば(謝罪することでもないのだが)良いものを、情状酌量を狙って自爆しに行ったのはギデオンの方だ。ビビはと言えば、そういえばエマさんが何か言っていたっけと。彼女達と体の関係があったことよりも、ブロマイドに描かれるほどの公然の仲だったことの方へ寂しさが募り、形の良い眉を下げると、小さくない胸を痛めていたというのに。相手の方はもっと別に後暗いことがあるというのだ。他でもないギデオンによって今、ヴィヴィアンは不安に瀕しているのに──不安な時は頼れる恋人兼相棒に聞けば解決する、といった反射に近い信頼も、この時ばかりは最悪な展開を招くばかりで。まさか対複数といった俗な可能性になど思いいたらず、真っ赤な顔でギデオンを見上げて、元気にはねた赤い耳をふるふると頼りなげに振るわせれば。かつて遊び人だった男の黒歴史を、意図せずその口から説明させようとしている、その隣の窓辺。カオスな光景が繰り広げられる一幕の横で。今朝は窓の外からでも伺いしれたはずの例の"花"が、今は幸せそうに倒れているレクターの機転によって、外から雨戸で隠されていることに気がつくのはもう少し後の話。 )
……、…………、
この手のは……この手のだ。
(躊躇いがちな真っ赤な顔に、ふるふる不安げなスカーフ耳。それらを向けられたギデオンときたら、(あ)と顔色を変えたが最後、また気まずそうに顔を逸らし。それでようやく絞り出すのが、この煮え切らない返事とくるのだ──つくづく愚かなものである。こんなことになったのは、普段は気をつけているはずが、時折失念するせいだ。歳相応の知識があるとはいえ、そして今は少しずつ教え込まれているところとはいえ。相手は本質的に、非常に育ちの良い女性であって……遊び呆けていた己と違い、その手の“教養”はまだまっさらなのだと。そんな彼女に、まさかそんな。──意欲旺盛な真相なんぞ、ぶちまけられるわけもなく。
以降のギデオンは、これまで何でも話し合ってきた相棒兼恋人に、どんなに食い下がられたとしても、頑なな態度を崩さず。真冬の山奥にいるというのにだらだら冷や汗をかきながら、「そろそろ仕事にとりかかろう」「今日は薬草調査だったな」なんて、あからさまにも程がある話題逸らしを繰り広げて。そうして、たまたま通りがかった冒険者の誰かしらが、倒れているレクターにぎょっとした反応をすれば。「そうだ、こいつを介抱しないと」なんて、心にもない台詞を調子よくほざいては、教授を屋内に運び込み、目を覚まさせてやるだろう。)
(──さてはて。経緯はともあれ、相棒の治癒魔法の甲斐あって、無事回復したレクターは。微妙な空気が漂っているこちら側に気づくことなく、「アアッ!? あの伝説の雷落としを、生で!? 生で喰らってしまった……!?!?」だのなんだの、理解不能な奇声を上げてひとしきり悶え転がりはじめた。なんというか……一般人にも荒っぽくした罪悪感を抱いていたのだが、元気そうで何よりである。もう少し沈めておいても罰は当たらなかったろうか。
ともかく、そんなレクターに白けた目を向けつつも。「なあ、そもそもどうして俺たちを訪ねに来たんだ?」と。薄々気づいていた事実にギデオンが切り込めば、レクターもはたと奇態を止めた。「そうだ、大事な話があったんです」。ベッドの上に座り直し、真剣な顔でこちらと向き合う。「おふたり、今朝は実地調査に行かれるでしょう? それにあたって、お耳に入れておきたい話があったんですよ。このフィオラ村の禁忌──“骨の結界”についてです」。
民族学者としてはずば抜けて有能な、このレクターの聞き込み曰く。このフィオラ村の周辺には、これまで亡くなった村人の骨をすり潰して粉にしたものが、ぐるりと引いてあるのだという。魔法も込めてあるために、風雨や動植物には荒らされることのない白線なのだが。人に対しては無力そのもので、簡単に踏み荒らせてしまうから、野山を歩くときにはよく気を付けてほしいという話らしい。いや、それは構わないが、何故に人骨を使った魔法陣なんぞ……とおぞましく思いながら訊ねるに。この風習の発端は……200年前のこの村を襲った、とある惨劇なのだそうだ。)
*
(──ビビ君。今からする話は、女性には少しきつい部分があるかもしれない。でも、詳細を知っておくほうが、もしかしたら今後、自分で身を守れるかもしれない。昨日の事件もあったから、僕はどうか、この村の暗い部分を、君にも知っておいてほしいと思う。いいですか? ……ありがとう。それじゃあ、ちょっと話しますね。
……村の語り部が、僕にこっそり聞かせてくれた話によるとね。まず、200年前のフィオラ村は、フィールド家、という一族が支配していたそうなんです。
このフィールド家ってのが、ちょっと横暴な性格でね。王都に卸す皮革製品を作るために、村人を朝から晩まで休むことなく働かせたり、村娘を手籠めにして無理やり子を産ませたり……まあ要するに、やりたい放題だったそうなんですよ。「鞭を惜しむのは、村民を甘やかすことと同義である」とか何とか言って。村人たちは、それでも決して逆らえなかった。元々、フィールド家も含めた彼らは皆、ガリニア本国での迫害を恐れてヴァランガ峡谷に逃げ延びてきた、少数民族のルーツらしい。だからこの村を出たところで、他に行くあてなんてない。そう身の上を諦めて、権力者の横暴を苦々しく思いながらも、受け入れていたそうなんですね。
けれどやがて、それを覆してしまうような、とんでもない事件が起こった。きっかけになったのは、村長家の跡取り息子。──エディ・フィールドという、根暗な性格の、独りぼっちの男でした。
この男が、フィールド家そのものなんて目じゃないくらい、酷かった。端的に言って、異常者なんです。当時のフィオラ村は確かに狩猟を生業にしていたけれども、エディ・フィールドは子どもの頃から、野鳥や狐を残虐にいたぶって遊んでいると噂されていたそうです。そうして大人になると、今度は村の墓を掘り起こすようにさえなった。──死体を、弄ぶんですよ。でも相手は村長家の息子だから、村人たちは何も言えない。
これで調子に乗ったエディ・フィールドは、もっと酷いことに手を染めていった。生きている村娘を攫うようになったんです。それも、フィールド家が元々やっていたようなやり方なんかじゃない。女性を殺して……その生皮を、剥ぎ取るんです。獣から皮をとるみたいに。何に使うかって? チョッキとか、ズボンとか、ランプシェードとか。そういったものに加工するんですよ。村が元々作っていたような、皮革製品そっくりに。そして頻繁に、人皮製品だけを身に纏った異様な姿で──墓場で踊っていたそうです。
こんな異常者をのさばらせるのは、フィオラ村の人たちも、流石に限界だったんでしょうね。男の姿をした畜生を裁くべく、大勢が立ち上がりました。松明を明々と燃やし、弓矢をつがえ、大振りの鉈を掲げて。鬼気迫る顔をした村人たちが、本気で彼を追い詰め、瀕死の傷を負わせました。エディ・フィールドは山奥に逃げ込み、それきり二度と戻らなかったそうです。元々狩猟の村ですからね、野山にはあちこちに罠が仕掛けておいてあります。そのどれかにきっと引っかかったのでしょう。そうでなくとも、ひとりで山をうろつけば、どの道魔獣の餌食です。
村人たちはもちろん死体を捜しましたが、見つかったのは、深い落とし穴のひとつに落ちたような痕跡だけ。必死に這い登ったのか、肝心のエディ・フィールドの姿はなく、辺り一面が血まみれなだけでした。そうこうするうちに大雨が降ってきて、跡を追えなくなったので、村人たちは彼を死んだものと看做し、村に引き上げることにしたそうです。
もちろん、それで終わりじゃありません。彼を生み出した憎き村長家、その一家全体も、勢いでお取り潰しにしました。権力に取り憑かれた一族が、二度と自分たちをいたぶらないように。彼らの遺体は、エディ・フィールドが落ちた穴まで運んで、そこに放り込み、焼いてしまったそうです。これでようやく、残りの村人たち全員に、平穏が訪れた。……誰もが、そう思っていました。
でも、そうじゃない。被害がより大きかったのは、これから先の話です。
おぞましい“皮剥ぎエディ”は、おそらく肉体上は、呆気なく死んだはずでした。けれどもその怨念、フィオラ村の人々への逆恨みは、強く残っていたんです。
──エディ・フィールドを追放した、その年の冬。村長家亡き後の平和を享受していた村に、いきなり怪物がやってきました。
黒い亡霊のような、空飛ぶ巨大な骸骨のような。とにかくそういった、圧倒的に超常の、人など到底敵わぬものが。吹雪の低い唸りとともに、空から襲ってきたんです。
冷たい雪の吹きすさぶなか、突然狙われた村人たちに、成す術などありませんでした。アッと思った次の瞬間には、頭そのものが消し飛ばされたり。怪物が過ぎ去った後の旋毛風で叩きつけられ、それだけで死んでしまったり。それはあまりにも一方的な、惨たらしい仕打ちです。家の中で震えて隠れている母子さえ、怪物は必ず見つけ出し、爪でばらばらに引き裂いていくのです。守ろうと立ちはだかった男は、次の瞬間、ぱっくりとふたつに割られ。逃げ遅れた老人も、谷の岩壁まで撥ね飛ばされました。
当時の村は、数百人ほどの人口を誇っていたと聞いています。しかしそれが、あっという間に、まるで蜘蛛の子を潰すように。宙を飛び回る怪物によって、呆気なく、簡単に、惨殺されていったんです。
どうしてこんな目に遭うのか、わけもわからぬまま死んでいった村人も、数多くいたことでしょう。しかしそうではない村人もいて、彼らの恐怖ときたら、より凄まじいものでした。──だって、ね。声が、同じなんですよ。怪物の唸り声は、エディ・フィールドを大勢で追い立てたとき、奴が血を流しながら喉から迸らせていた、あのおぞましい呻き声……あれにそっくりだったそうです。
奴が復讐しに来たんだと、人々にはわかりました。奴はフィオラ村の人々を皆殺しにするために、怪物に成り果ててまで、地獄の淵から舞い戻って来たのだと。そして自分たちは、それに抗う術などないと。……自分たちが全員死ぬまで、エディ・フィールドの怨念は、決して止まらないのだと。村人たちは、再び運命を諦めるところでした。
しかし結論から言って、救いの手はありました。
村人が半分どころか、四分の三も殺されたころになって。この村に伝わるとある秘薬が、この怪物を退けてくれる突破口だと、誰かが突き止めたそうなんです。
どうしてそんなことがわかったのか、どうしてそんなものが作られていたのか、そこのところは伝わっていません。とにかく、村人たちは秘薬を飲み、たちまち授かった魔力でもって、怪物に対抗しました。亡霊じみた怪物を完全に滅ぼすには至りませんでしたが、それでも深く傷つけ、弱らせることはできました。怪物は憎々し気な声をあげ、村を引き上げていったそうです。異能を授かった村人たちとの闘いは、埒があかないと思ったのでしょう。それでもいずれまた、村の生き残りを狩り尽くすために、襲撃してくるはずでした。
生き残った村人たちに、亡くなった大勢の人々を悼んでいる暇はありません。病が広がらないよう遺体を焼却していたとき、ふと誰かが気がつきました。──この骨を粉にして、秘薬を混ぜたものを、村の結界として張ったらどうか、と。もちろんそれは、禁忌です。遺体を燃やすのも酷いことなのに、その上材料として使うだなんて。あの憎きエディ・フィールドがやったことと何が違うんだ、という反発もありましたが、とにかくやってみることにしました。そうしたら、どうです。戻ってきた怪物は、結界を張ったフィオラ村に入ってこられないじゃありませんか。
ここから、今のフィオラ村の風習が始まりました。亡くなった人を墓地に埋葬するのではなく、火葬して灰にして、怪物から身を守るための結界線になってもらうんです。そして毎年この時期、怪物が去年の傷を回復させて必ず襲ってくるその季節には、村の“英雄”が秘薬を飲み、怪物と戦うんです。怪物を万全なままでい刺せたら、いずれ結界を破られるかもしれない。だから向こうから近づいてきたときに、“英雄”が奴を痛めつけ、またしばらく近寄れないようにする。そういう慣わしが生まれたそうです。
──おふたりとも、察していますね。
そうです。そうなんですよ。そのための英気を養うお祭りが、今催されている。この“祝祭”なんだそうです。
そして、村に伝わる秘薬というのは、そこにある赤い花から作られているもののようです。フィオラ村の人々が、ガリニアにいた頃から大事に大事に栽培してきたという、特別な“花”……。調査隊のなかでいちばん村と親しくなれただろう僕でさえ、その花畑のある場所には案内してもらえませんでした。
そのくらい、この村にとって、この“花”は特別な、神聖なものらしい。元々愛でていただけでなく──冬にやってくる怪物を、この村と二百年もの間因縁がある怪物を、退けてくれるもの。それをおいそれと、村のよそ者のために摘んでいい筈がありません。
もちろん、おふたりのことは疑っちゃいませんよ。ビビ君のことを聞いて、きっと無邪気な村の子どもが、善意で贈ってくれたんでしょう。この“花”の力を借りたら、たちまち元気になれるとか、きっとそんなようなことを言って。
それ自体は、悪かないんです。その子の善意も、おふたりがそれを受け取ったことも。問題は──村の大人たちの目に、それがどう映るか、ということなんですよ。)
*
…………
(………レクターの、彼らしからぬ静かな語りを聞いたのち。彼が別の冒険者に呼ばれ、外に出ていったその後も。ギデオンは長いこと、ヴィヴィアンの隣で押し黙ったまま考えていた。
今聞いた話は、俄かには信じ難い物語だ。エディ・フィールド自体は恐らく実在したのだろうが、逆恨みしたその男が怨霊となって村に戻り、村の人々を一方的に惨殺して回った、などと。はては、村にたまたま不思議な秘薬が伝わっていて、それを飲めば魔力が漲り、怪物を退けることができるようになった、などと。あまりに突飛が過ぎる……というのが、ギデオンの感想だった。全てが事実というわけでなく、事実を元に脚色した伝承。ギデオンが昨夜観たタペストリーや、その前に見た舞台演劇で、似通った話の細部がそれぞれ違っていたことも、その証左になり得るだろう。
──おそらく怨念の怪物というのは、雪山によく沸く魔物、ウェンディゴのことであるはずだ。ギデオンたちもこの村に来る前に、その唸り声を聞いている。フィオラ村の人々は、難民という出自から、トランフォードの魔物の生態に然程明るくなかったのだろう。そうして、エディ・フィールドの死後にたまたま出没したウェンディゴを、彼が化けて出たものだと勘違いしてしまったのだ。
ウェンディゴを退けた秘薬の力というのも、おそらくたまたま伝わっていたわけではない。例の“花”とやらに、人体に宿る聖属性のマナの力を一時的に高めるような効能があったために、村に役立つものとして、その製法が受け継がれていたのだとう。しかし使われてはいいなかったのは、おそらく副作用か何かがあり、その危険性を鑑みてのことだ。──こういう話は、ごまんとある。現代の冒険者ギルドで、ヒーラーがよく煎じてくれるバフ効果のあるポーション……あれと同じものが、国内各地の村々でも古くから作られていて。けれども、その効能や副作用の科学的な把握はなされておらず、それらしい伝承や教訓といった形で、受け継がれたり失われたりする。フィオラに伝わる秘薬というのも、きっとその類いの代物だ。
──その辺りは、別にいい。それよりも、問題なのは。)
……あの子たちは。
自分たちの兄貴が、“英雄になる”って……言ってたよな。
(──副作用か何かがあるために、製法は伝えられながら、使用はされていなかった“秘薬”。そんな危険な代物を、まだ幼いあの少年が、儀式で服用する運命にある。
そう知ってしまった今、何も考えずにいられるわけがあるだろうか。村にとって多重の意義を持つ“花”をこの手に持ってしまったことより、今目の前で進行している状況の方が、ギデオンには余程問題だ。複雑な表情を浮かべた顔で、隣にいる相棒を見つめる。重々しく開いた口は、相手のことを信じ切ってのものだった。)
──この件は、見過ごせない。
薬草調査と並行しながら、俺たちで調べないか……“秘薬”とやらのことを。
……、…………、
この手のは……この手のだ。
(躊躇いがちな真っ赤な顔に、ふるふる不安げなスカーフ耳。それらを向けられたギデオンときたら、(あ)と顔色を変えたが最後、また気まずそうに顔を逸らし。それでようやく絞り出すのが、この煮え切らない返事とくるのだ──つくづく愚かなものである。こんなことになったのは、普段は気をつけているはずが、時折失念するせいだ。歳相応の知識があるとはいえ、そして今は少しずつ教え込まれているところとはいえ。相手は本質的に、非常に育ちの良い女性であって……遊び呆けていた己と違い、その手の“教養”はまだまっさらなのだと。そんな彼女に、まさかそんな。──意欲旺盛な真相なんぞ、ぶちまけられるわけもなく。
以降のギデオンは、これまで何でも話し合ってきた相棒兼恋人に、どんなに食い下がられたとしても、頑なな態度を崩さず。真冬の山奥にいるというのにだらだら冷や汗をかきながら、「そろそろ仕事にとりかかろう」「今日は薬草調査だったな」なんて、あからさまにも程がある話題逸らしを繰り広げて。そうして、たまたま通りがかった冒険者の誰かしらが、倒れているレクターにぎょっとした反応をすれば。「そうだ、こいつを介抱しないと」なんて、心にもない台詞を調子よくほざいては、教授を屋内に運び込み、目を覚まさせてやるだろう。)
(──さてはて。経緯はともあれ、相棒の治癒魔法の甲斐あって、無事回復したレクターは。微妙な空気が漂っているこちら側に気づくことなく、「アアッ!? あの伝説の雷落としを、生で!? 生で喰らってしまった……!?!?」だのなんだの、理解不能な奇声を上げてひとしきり悶え転がりはじめた。なんというか……一般人にも荒っぽくした罪悪感を抱いていたのだが、元気そうで何よりである。もう少し沈めておいても罰は当たらなかったろうか。
ともかく、そんなレクターに白けた目を向けつつも。「なあ、そもそもどうして俺たちを訪ねに来たんだ?」と。薄々気づいていた事実にギデオンが切り込めば、レクターもはたと奇態を止めた。「そうだ、大事な話があったんです」。ベッドの上に座り直し、真剣な顔でこちらと向き合う。「おふたり、今朝は実地調査に行かれるでしょう? それにあたって、お耳に入れておきたい話があったんですよ。このフィオラ村の禁忌──“骨の結界”についてです」。
民族学者としてはずば抜けて有能な、このレクターの聞き込み曰く。このフィオラ村の周辺には、これまで亡くなった村人の骨をすり潰して粉にしたものが、ぐるりと引いてあるのだという。魔法も込めてあるために、風雨や動植物には荒らされることのない白線なのだが。人に対しては無力そのもので、簡単に踏み荒らせてしまうから、野山を歩くときにはよく気を付けてほしいという話らしい。いや、それは構わないが、何故に人骨を使った魔法陣なんぞ……とおぞましく思いながら訊ねるに。この風習の発端は……200年前のこの村を襲った、とある惨劇なのだそうだ。)
*
(──ビビ君。今からする話は、女性には少しきつい部分があるかもしれない。でも、詳細を知っておくほうが、もしかしたら今後、自分で身を守れるかもしれない。昨日の事件もあったから、僕はどうか、この村の暗い部分を、君にも知っておいてほしいと思う。いいですか? ……ありがとう。それじゃあ、ちょっと話しますね。
……村の語り部が、僕にこっそり聞かせてくれた話によるとね。まず、200年前のフィオラ村は、フィールド家、という一族が支配していたそうなんです。
このフィールド家ってのが、ちょっと横暴な性格でね。王都に卸す皮革製品を作るために、村人を朝から晩まで休むことなく働かせたり、村娘を手籠めにして無理やり子を産ませたり……まあ要するに、やりたい放題だったそうなんですよ。「鞭を惜しむのは、村民を甘やかすことと同義である」とか何とか言って。村人たちは、それでも決して逆らえなかった。元々フィオラ村の人々は、ガリニア本国での迫害を恐れ、フィールド家の手引きによってヴァランガ峡谷に逃げ延びてきた、少数民族のルーツらしい。だからこの村を出たところで、他に行くあてなんてない。トランフォードで生きていくなら、フィールド家の元にいなくちゃいけない。そう身の上を諦めて、権力者の横暴を苦々しく思いながらも、受け入れていたそうなんですね。
けれどやがて、それを覆してしまうような、とんでもない事件が起こった。きっかけになったのは、村長家の跡取り息子。──エディ・フィールドという、根暗な性格の、独りぼっちの男でした。
この男が、フィールド家そのものなんて目じゃないくらい、酷かった。端的に言って、異常者なんです。当時のフィオラ村は確かに狩猟を生業にしていたけれども、エディ・フィールドは子どもの頃から、野鳥や狐を残虐にいたぶって遊んでいると噂されていたそうです。そうして大人になると、今度は村の墓を掘り起こすようにさえなった。──死体を、弄ぶんですよ。でも相手は村長家の息子だから、村人たちは何も言えない。
これで調子に乗ったエディ・フィールドは、もっと酷いことに手を染めていった。生きている村娘を攫うようになったんです。それも、フィールド家が元々やっていたようなやり方なんかじゃない。女性を殺して……その生皮を、剥ぎ取るんです。獣から皮をとるみたいに。何に使うかって? チョッキとか、ズボンとか、ランプシェードとか。そういったものに加工するんですよ。村が元々作っていたような、皮革製品そっくりに。そして頻繁に、人皮製品だけを身に纏った異様な姿で──墓場で踊っていたそうです。
こんな異常者をのさばらせるのは、フィオラ村の人たちも、流石に限界だったんでしょうね。男の姿をした畜生を裁くべく、大勢が立ち上がりました。松明を明々と燃やし、弓矢をつがえ、大振りの鉈を掲げて。鬼気迫る顔をした村人たちが、本気で彼を追い詰め、瀕死の傷を負わせました。エディ・フィールドは山奥に逃げ込み、それきり二度と戻らなかったそうです。元々狩猟の村ですからね、野山にはあちこちに罠が仕掛けておいてあります。そのどれかにきっと引っかかったのでしょう。そうでなくとも、ひとりで山をうろつけば、どの道魔獣の餌食です。
村人たちはもちろん死体を捜しましたが、見つかったのは、深い落とし穴のひとつに落ちたような痕跡だけ。必死に這い登ったのか、肝心のエディ・フィールドの姿はなく、辺り一面が血まみれなだけでした。そうこうするうちに大雨が降ってきて、跡を追えなくなったので、村人たちは彼を死んだものと看做し、村に引き上げることにしたそうです。
もちろん、それで終わりじゃありません。彼を生み出した憎き村長家、その一家全体も、勢いでお取り潰しにしました。権力に取り憑かれた一族が、二度と自分たちをいたぶらないように。彼らの遺体は、エディ・フィールドが落ちた穴まで運んで、そこに放り込み、焼いてしまったそうです。これでようやく、残りの村人たち全員に、平穏が訪れた。……誰もが、そう思っていました。
でも、そうじゃない。被害がより大きかったのは、これから先の話です。
おぞましい“皮剥ぎエディ”は、おそらく肉体上は、呆気なく死んだはずでした。けれどもその怨念、フィオラ村の人々への逆恨みは、強く残っていたんです。
──エディ・フィールドを追放した、その年の冬。村長家亡き後の平和を享受していた村に、いきなり怪物がやってきました。
黒い亡霊のような、空飛ぶ巨大な骸骨のような。とにかくそういった、圧倒的に超常の、人など到底敵わぬものが。吹雪の低い唸りとともに、空から襲ってきたんです。
冷たい雪の吹きすさぶなか、突然狙われた村人たちに、成す術などありませんでした。アッと思った次の瞬間には、頭そのものが消し飛ばされたり。怪物が過ぎ去った後の旋毛風で叩きつけられ、それだけで死んでしまったり。それはあまりにも一方的な、惨たらしい仕打ちです。家の中で震えて隠れている母子さえ、怪物は必ず見つけ出し、爪でばらばらに引き裂いていくのです。守ろうと立ちはだかった男は、次の瞬間、ぱっくりとふたつに割られ。逃げ遅れた老人も、谷の岩壁まで撥ね飛ばされました。
当時の村は、数百人ほどの人口を誇っていたと聞いています。しかしそれが、あっという間に、まるで蜘蛛の子を潰すように。宙を飛び回る怪物によって、呆気なく、簡単に、惨殺されていったんです。
どうしてこんな目に遭うのか、わけもわからぬまま死んでいった村人も、数多くいたことでしょう。しかしそうではない村人もいて、彼らの恐怖ときたら、より凄まじいものでした。──だって、ね。声が、同じなんですよ。怪物の唸り声は、エディ・フィールドを大勢で追い立てたとき、奴が血を流しながら喉から迸らせていた、あのおぞましい呻き声……あれにそっくりだったそうです。
奴が復讐しに来たんだと、人々にはわかりました。奴はフィオラ村の人々を皆殺しにするために、怪物に成り果ててまで、地獄の淵から舞い戻って来たのだと。そして自分たちは、それに抗う術などないと。……自分たちが全員死ぬまで、エディ・フィールドの怨念は、決して止まらないのだと。村人たちは、再び運命を諦めるところでした。
しかし結論から言って、救いの手はありました。
村人が半分どころか、四分の三も殺されたころになって。この村に伝わるとある秘薬が、この怪物を退けてくれる突破口だと、誰かが突き止めたそうなんです。
どうしてそんなことがわかったのか、どうしてそんなものが作られていたのか、そこのところは伝わっていません。とにかく、村人たちは秘薬を飲み、たちまち授かった魔力でもって、怪物に対抗しました。亡霊じみた怪物を完全に滅ぼすには至りませんでしたが、それでも深く傷つけ、弱らせることはできました。怪物は憎々し気な声をあげ、村を引き上げていったそうです。異能を授かった村人たちとの闘いは、埒があかないと思ったのでしょう。それでもいずれまた、村の生き残りを狩り尽くすために、襲撃してくるはずでした。
生き残った村人たちに、亡くなった大勢の人々を悼んでいる暇はありません。病が広がらないよう遺体を焼却していたとき、ふと誰かが気がつきました。──この骨を粉にして、秘薬を混ぜたものを、村の結界として張ったらどうか、と。もちろんそれは、禁忌です。遺体を燃やすのも酷いことなのに、その上材料として使うだなんて。あの憎きエディ・フィールドがやったことと何が違うんだ、という反発もありましたが、とにかくやってみることにしました。そうしたら、どうです。戻ってきた怪物は、結界を張ったフィオラ村に入ってこられないじゃありませんか。
ここから、今のフィオラ村の風習が始まりました。亡くなった人を墓地に埋葬するのではなく、火葬して灰にして、怪物から身を守るための結界線になってもらうんです。そして毎年この時期、怪物が去年の傷を回復させて必ず襲ってくるその季節には、村の“英雄”が秘薬を飲み、怪物と戦うんです。怪物を万全なままでい刺せたら、いずれ結界を破られるかもしれない。だから向こうから近づいてきたときに、“英雄”が奴を痛めつけ、またしばらく近寄れないようにする。そういう慣わしが生まれたそうです。
──おふたりとも、察していますね。
そうです。そうなんですよ。そのための英気を養うお祭りが、今催されている。この“祝祭”なんだそうです。
そして、村に伝わる秘薬というのは、そこにある赤い花から作られているもののようです。フィオラ村の人々が、ガリニアにいた頃から大事に大事に栽培してきたという、特別な“花”……。調査隊のなかでいちばん村と親しくなれただろう僕でさえ、その花畑のある場所には案内してもらえませんでした。
そのくらい、この村にとって、この“花”は特別な、神聖なものらしい。元々愛でていただけでなく──冬にやってくる怪物を、この村と200年もの間因縁がある怪物を、退けてくれるもの。それをおいそれと、村のよそ者のために摘んでいい筈がありません。
もちろん、おふたりのことは疑っちゃいませんよ。ビビ君のことを聞いて、きっと無邪気な村の子どもが、善意で贈ってくれたんでしょう。この“花”の力を借りたら、たちまち元気になれるとか、きっとそんなようなことを言って。
それ自体は、悪かないんです。その子の善意も、おふたりがそれを受け取ったことも。問題は──村の大人たちの目に、それがどう映るか、ということなんですよ。)
*
…………
(………レクターの、彼らしからぬ静かな語りを聞いたのち。彼が別の冒険者に呼ばれ、外に出ていったその後も。ギデオンは長いこと、ヴィヴィアンの隣で押し黙ったまま考えていた。
今聞いた話は、俄かには信じ難い物語だ。エディ・フィールド自体は恐らく実在したのだろうが、逆恨みしたその男が怨霊となって村に戻り、村の人々を一方的に惨殺して回った、などと。はては、村にたまたま不思議な秘薬が伝わっていて、それを飲めば魔力が漲り、怪物を退けることができるようになった、などと。あまりに突飛が過ぎる……というのが、ギデオンの感想だった。全てが事実というわけでなく、事実を元に脚色した伝承。ギデオンが昨夜観たタペストリーや、その前に見た舞台演劇で、似通った話の細部がそれぞれ違っていたことも、その証左になり得るだろう。
──おそらく怨念の怪物というのは、雪山によく沸く魔物、ウェンディゴのことであるはずだ。ギデオンたちもこの村に来る前に、その唸り声を聞いている。フィオラ村の人々は、難民という出自から、トランフォードの魔物の生態に然程明るくなかったのだろう。そうして、エディ・フィールドの死後にたまたま出没したウェンディゴを、彼が化けて出たものだと勘違いしてしまったのだ。
ウェンディゴを退けた秘薬の力というのも、おそらくたまたま伝わっていたわけではない。例の“花”とやらに、人体に宿る聖属性のマナの力を一時的に高めるような効能があったために、村に役立つものとして、その製法が受け継がれていたのだろう。しかし使われてはいなかったのは、おそらく副作用か何かがあり、その危険性を鑑みてのことだ。──こういう話は、ごまんとある。現代の冒険者ギルドで、ヒーラーがよく煎じてくれるバフ効果のあるポーション……あれと同じものが、国内各地の村々でも古くから作られていて。けれども、その効能や副作用の科学的な把握はなされておらず、それらしい伝承や教訓といった形で、受け継がれたり失われたりする。フィオラに伝わる秘薬というのも、きっとその類いの代物だ。
──その辺りは、別にいい。それよりも、問題なのは。)
……あの子たちは。
自分たちの兄貴が、“英雄になる”って……言ってたよな。
(──副作用か何かがあるために、製法は伝えられながら、使用はされていなかった“秘薬”。そんな危険な代物を、まだ幼いあの少年が、儀式で服用する運命にある。
そう知ってしまった今、何も考えずにいられるわけがあるだろうか。村にとって多重の意義を持つ“花”をこの手に持ってしまったことより、今目の前で進行している状況の方が、ギデオンには余程問題だ。複雑な表情を浮かべた顔で、隣にいる相棒を見つめる。重々しく開いた口は、相手のことを信じ切ってのものだった。)
──この件は、見過ごせない。
薬草調査と並行しながら、俺たちで調べないか……“秘薬”とやらのことを。
──……この村を襲う"エディ・フィールド"の正体も、ですね!
( 相手の信頼に力強く頷いたビビの一方で、他でもない相棒はしかし、その正体には大体の目星が着いている、というのだ。「僕はもう少し調査を続けます、何か分かればお伝えしますね」と、帰って行ったレクターを見送り。まずは例の花を詳しく分析する準備をしながら、良い先輩の表情をとったギデオンの出すヒントに耳を傾け──ウェンディゴ! と例の唸り声を思い出せば。未だ一昨日のことだというのに、もう随分と長い間この村に滞在していたような気さえしてくる。そうして、すっかりこの村の違和感に飲み込まれていたビビとは違い、いつでも冷静な思考を手放さないベテラン剣士への尊敬の念に、キラキラと大きな瞳を輝かせ、ほぅ……と憧憬の吐息を漏らすと。──相手が"怨霊"などという非現実的なそれでないのなら、それはもう景気よく殴って倒せばいい話だ。レクターの話を聞く間、その青白さを隠せていなかった顔色をパッと赤くほころばせ、ぱちん! と元気よく両手を合わせれば──それじゃあ、今度は私の番ですね、と。鞄の中から得意げに薬草の調査用に持ち込んだ、その性質を調べる試験紙やその他の道具たちを取り出して。 )
( "古代、ガリニアの地を開拓した森の民にとって、蜂蜜は貴重な栄養源であり、(中略)、またそれは時として薬としても扱われた。"(サルトーリ,4962,p.124)
子供達に手を引かれ、そこへ辿り着いたビビの脳内に過ぎったのは、そんないつか読んだ薬学史の本の一文だった。あれから数時間、本来の仕事である薬草の調査と共に、花の成分を分析すれば。その薬効成分となるアルカロイドが、花の蜜部分に多く含まれていると分かったまでは良かったのだが。手持ちの道具だけでこれ以上判断するのは難しく。そもそも花一輪から採取できる量があまりに少なすぎるのだ。これでは身体の大きな人間一人に効果を与える為にどれだけの量が必要か──ああ、だから、子供を使うのか。そんな嫌な結論を頭を振って振り払えば。机上で解けないものは、脚で稼げばいい。そう先にフィールドの探索に当たってくれていたギデオンと合流したのが、半刻程前のことだった。
そうして、それは既に相棒が見当をつけてくれていたか、それともビビと合流してすぐのことだったか。兎に角、こうして村民たちが何か必死に隠しているそれを事も無げに暴くのは、彼らが取るに足らないと放置してきた子供達なのだから皮肉なものだ。着実な交友を築いていてきたビビと──特に本来であれば、自分達になど見向きもしないだろう大人の男性であるギデオンが、自らしゃがんで視線を合わせ、有効な情報の提供者として対等に扱ってくれるそれだけで、聡い子供たちは喜んで村のことを教えてくれるのだ。そうして、今回も案内された別れ際、「はちさんがお仕事しててあぶないから入っちゃダメなんだよ」と、彼らが普段村の大人から言いつけられているだろう忠告を得意げに残して、手を振って離れていく彼らには、その純粋さを利用して騙したようで申し訳ないが──なるほど。そこは、例の花畑ともほど近い、村の外れにある養蜂場。高度な技術のない村で、一輪の花から少ししか取れない蜜を集めるのに、これ以上効率的な方法も無いだろう。)
──……一輪で薄いなら、濃縮すれば良い、か。
どうしましょう、恐らく無人、ってことは無いですよね……
それがな。今日に限っては、例の“ラポト”とやらの準備に、大人は全員駆り出されてるのが確実だ。……絶好の捜査日和だろう?
(相棒の鋭い懸念に、しかしギデオンは片眉を上げ、悠然と軽く微笑む。元々、ギルドの諜報も担うことがあるだけに、この手の裏をとってくるのは自分の得意分野なのだ。……とはいえ、自分たちの姿が長いこと見えなければ、誰かが勘繰りはじめる可能性はあるだろう。あの子どもにしたって、この養蜂場の存在をけろりと教えてくれた以上、こちらのほうの口止めもいつまで守れるかわからない。故に念のため、「30分程度で撤収するのが目安だ」と、計画を擦り合わせつつ。鬱蒼と茂る落葉樹の森の奥、不意に広々と切り拓かれたその場所へ、生い茂る下草を、がさりがさりと踏み分けていく。
斜面を下ったふたりの前に、いよいよそれは、克明にその姿を現した。手前側に広がっているのは、低い木の柵を巡らせた囲いだ。他の村でも似たようなのを幾度となく見たことがある、おそらくは土器の類いを燻すためのスペースだろう。その奥にじっと無言で佇むのは、ずんぐりした大きな蔵と、かなり広々とした立派な平屋。一見何てことのないそれらは、子どもたちの案内がなければ、決してそうとはわからなかったに違いない。──フィオラ村が隠している、“北の”養蜂場だった。)
(──ヴィヴィアンとふたり、本業である薬草調査をあらかた手早く片付けた後。その採取物を記録するついでに紛れて、例の“花”を分析したヴィヴィアンは、蜜の部分に鍵がある、と突き止めてくれた。それを聞いたギデオンは、途端に思い出したのだ。フィオラに来た初日、そして二日目の夕方、老爺と少女から聞いた言葉を。
『よかったら、自慢の蜜菓子をお夜食におつまみくだされ。ええ、ええ、この谷の特産品は、この皮衣だけではないのです。我々の飼うミツバチは、非常に働き者でして……』
『あっちにもお花畑があるのよ、こっちよりもずっとキレイなの……』
──花蜜、蜂蜜、花畑。ギデオンの胸中に、ふと大胆な仮説が浮かぶ。サルトーリの本を読んでこそいなかったものの、かつて蜂蜜が百薬の長とされていた古い文化は、己もまた知っていた。フィオラ村には、養蜂産業と“花”への信仰が存在する。もしも、“秘薬”の材料として……“花”から作る蜂蜜を、使っているのだとしたら?
相棒に引き続き解析を任せ、彼女の傍らには、口の堅さで信用を置ける例の若い槍使いに仕事を与えておくことにして。ギデオンは先に外に繰り出し、まずは再びレクターを探した。養蜂について、既にわかっている情報を聞きだしておこうとしたのだ。──が、しかし。なんと教授は、この村の養蜂場を既に案内されたのだという。「ええ、確かに見ましたよ。村の皆さんが振る舞ってくれたあの蜜菓子、あれに使っている蜂蜜については、僕も気になっていたんです」。──ほら、村の南端の、ちょうどあの辺り。あそこにある建物まで、美人なお姉さんが連れて行ってくれましてね。ええ、黒いフードの、黒髪の……ああ、わかります? あの妖艶なお方です。とにかくあの女性が、他の親父さんたちと一緒に、詳しく解説してくれたんですよ。ええ、ええ! やっぱり高地型養蜂でした! ヒバの蜜桶を横置きにして、こう、ね! ね!? ガリニア高山系のやり方を、きちんと汲んでるんですねえ……!
……大興奮のレクターには悪いようだが。ギデオンはすぐに、その案内はダミーだろうと察しをつけた。“花”については秘密主義なフィオラ村が、そしてあの妙な蛭女が。観察眼の優れたレクター相手に、わざわざ開けっぴろげに、懇切丁寧に見せびらかすということは……それは、おそらく目晦ましだ。学者の純粋な探究心を利用して、自分たちの探られたくないものを日陰にやったに違いない。疑念を抱く者がその情報を知らずにいたならば、きっとそのまま、やりおおせていたのだろう。
ならば次に考えるべきは、“秘薬”に使われていると仮定する蜂蜜を、実際はどこで作っているのかだ。ギデオンとヴィヴィアンが求めているのは物証だ。秘密裏に動く以上、それを捜す時間は少ない。捜索範囲を正確に絞らなければ、何も手掛かりを得られない。
──北だろう、と考える。南にあるという養蜂場で、そのまま秘密裏に生産している可能性は、きっと限りなく薄い。根拠はフィオラのミツバチだ。ギデオンはこれまでに、フィオラの蜜菓子を数個ほど口にしていた。しかしあれらは、菜の花やマリーゴールド、その辺りの単花蜜を使った風味をしていたはずだ。その手の蜂蜜を作りだすミツバチは、巣からせいぜい3キロほどしか飛び回らない。最も手近な場所にある花畑の、特定の花の蜜だけを吸う習性をしているからだ。……ということは、レクターの案内された養蜂場の近くには、普通の花しか咲いていないことになる。そもそもフィオラ村の連中としては、特別な“花”が咲いている一帯に、よそ者を近づけないだろう。把握済みの、南の養蜂場じゃない、それならば。昨日の夕方、少女がふと指し示した“綺麗な花畑”の方角を思い出す。村の大人たちが獣道を登っていった、あの先は。──たしか、村の北端だった。
そこまで考えたギデオンは、しばらく村の北側で動き、村人たちの様子を確かめた。──大人たちは、いることにはいる。だが皆、この後控えているという儀式のほうに集中しきりで、こちらへの警戒は手薄になっているようだ。何人かの子どもたちが暇を持て余しているのが見えた。彼らの家はこの北端側にあるらしい、それならきっと、この辺りの様子について多少は知っているだろう。
そこで初めて、ギデオンはヴィヴィアンを呼びに戻ることにして……道すがら、これから実地調査に行くという五、六人の冒険者たちとすれ違った。案内役の村人も連れて、峡谷のもっと奥の方を確かめて回るらしい。帰りは明日の昼か夕、エデルミラにも報告を上げているというので、ギデオンは何ら構わず、ただ淡々と送り出してしまったが。──まさか、こうして少しずつ。真っ昼間から堂々と、合同クエストの冒険者たちがばらばらに引き裂かれ始めていた、などと。このときはまだ、夢にも思っていなかった。)
…………
……これは……
(──さて、それから半刻後。相棒とふたり、村の北端の養蜂場を訪れたギデオンは、まずは大きな蔵のほうへ踏み込んでみることにした。
重い木の扉を押し開けた先は、一見ごく普通のそれだ。太い梁を渡された空間に、木箱や壺が所狭しと並んでいる。もちろんそれ以外にも、長さを切りそろえた杭や、木の幹の中身をくり抜いた丸太筒。銅製の大鍋に平鍋、壁際には斧やナイフ。柱の釘に掛けられているのは、ミツバチの巣箱を世話するときに頭から被る面布だろう。部屋の片隅には、灰茶色のものが堆く積んである。牛糞と藁を練り混ぜて乾燥させた燃料だ。ゆっくり歩み寄って屈み、手袋越しに感触を確かめた。よく乾いている……だが、そう古いわけでもない。
立ち上がって歩こうとしたとき、からん、と何かが爪先に当たった。拾い上げて確かめてみれば、空気ポンプが背面に取り付けられた、四角い薬缶のようなものだ。──燻煙器だ、とすぐにわかった。小型魔獣を巣穴などから追い出すときにも、同じような道具を使う。そこにあるような保ちのいい燃料を入れ、火の魔素で発火させることで、薬缶の口から煙を噴かすのだ。たしか養蜂においては、蜂を大人しくさせるために使うのではなかったか……。蓋を開けて中身を見ると、しかし入っているのは、茶色い欠片などではなく、何か草木の類いだった。既に酷く萎びている、いったい何の草だろう?
「なあ、これは……」と。別でゆっくり見て回っている相棒に尋ねようと、何気なく振り返った瞬間。しかしギデオンは口を噤んだ。入口からは気がつかなかったそれを、ふと目撃してしまったからだ。相棒に目配せし、歩み寄りながらもう一度見上げた。蔵の奥……梁の上に、檻のような空間がある。単なる二階部分にしては陰鬱に見えるのは……はたして気のせいなのだろうか。)
…………。
……座敷牢、みたいだな。
──……エディが使ってたもの! ……では、ないですよね
なんでこんなところに……
( ギデオンの目配せに天井を見上げると、ビビもまたその異質な格子に目を見開く。咄嗟によぎったのは、先程聞いたばかりの一番新しい"座敷牢"の心当たり。しかし、その作り、手入れのされ方、木の格子の調子などから、すぐさまそれがもっと新しい時代のものだと気がつけば。寧ろその方が余計、エディ以降にもこんなものを利用する人間がいる証左として、良くない兆候だと気がつき顔を顰めると。相棒と二人、無言で顔を見合わせ、階段のような、梯子のような心もとないステップをゆっくりと上って。 )
…………、
( そうして視線と同じ高さになった空間に、人の気配がないことを確認すると、ほっとあからさまに安心を表情に反映させてしまったのは許されたいところ。とはいえ、空いた扉に積もった埃の調子を見るに、決して忘れ去られた遺物、という訳でも無さそうだが──そうして。ここでこの瞬間、その悍ましい光景を目の当たりにする瞬間までは。まだビビはこの村のことを救える、と。愚かにも信じ込んでいたのだった。
現代社会にそぐわない風習や価値観は、長く常世と隔絶されてしまったが故。数日後に差し迫った恐ろしい予感すらも、ウェンディゴに太刀打ちできない村民が、多数のために少ない犠牲を払おうとするのを、外部から来た自分がどうして非難することが出来るだろう。──現代社会と関わりを持ち、これからのフィオラはきっと変われる。その輝かしい未来の始まりに、彼らの目の前で彼らを悩ませた"悪霊"を、ただの魔物へと斬って堕としてやれば、彼らだって喜んでその悲しい風習を取りやめるはずだ、と。
光採りの窓より高い空間は、夕方ともなると人間の視力では太刀打ちできない。仕方なく、腰に吊るした魔導ランプに黒幕を下ろし、手元がほんのりと見える程度に灯すと、古い燭台に溶け残った白い跡が目に映る。他の魔物から作る蝋燭と比べ、明るく無臭で長く使え、蜜蝋より安価な──鯨蝋。魔導ランプと並んでトランフォードの夜を照らす白塊は、二人にとってはこれ以上なく見慣れたそれだが、よその地域との取引が潰えて久しいフィオラにあるわけが無いもの。それ以外にも、5024年のキングストン新聞に、平地にしか分布しないカトブレパスの皮革の財布──そして、それらにも誤魔化しようもない、木製の床に広がったどす黒く夥しい"何か"の染み。一体ここで何があったというのか──本当は、悪い人たちじゃないのだと。何故根拠もなくそんな風に信じ込めたのか。己の甘さを思い知り、ショックの隠しきれない表情でギデオンを振り返ると、ふらふらと青い顔で数歩後ずさって。 )
あっ、あっ……ギデオンさん、これ……
────……、
(今にも倒れそうな相棒を抱き留め、震える肩を撫でさする。大丈夫だ、俺がついている、そう言い聞かせてやりたかった。しかし無言になる辺り、己もやはり、それなりの衝撃を受けてしまっているようだ。だれが想像できるだろう──まさかこのフィオラ村で、二百年も閉ざされていたはずの僻地で、よそ者に対する監禁が行われていたなどと。より残酷なのは、この証拠の数々が、この秘密の養蜂場の蔵のなかにあったことだ。村はわかって隠しているはずだ……エディ・フィールドのような、ひとりの狂った人間による犯行では有り得ない。
しかしその恐ろしさに、ギデオンまでも凍りついてはいられない。相棒に(ここにいろ)と仕草で伝えながら、その手元のランプを引き取り、軋む床板を踏みながらひとり奥へ歩みだす。相棒はそれに震えながらついてきただろうか、それとも己を頼って背後で任せてくれただろうか。いずれにせよ、強張った面持ちで辺りを照らし、先ほど目に入ったひとつひとつを慎重に調べ上げていく。
──蝋燭。古いが、白く艶やかだ。寒村に出回るような、臭くてくすんだそれではない。フィオラ村は間違いなく、どこかで質の良い交易をしていて、それを巧妙に隠してもいる。──新聞。何故こんなものが残っているのか、だれがどんな意図で持ち込んだのか。ぐしゃぐしゃのそれを拾い上げ、元に戻せる程度に皴を伸ばして確かめてみるに。その見開きの片隅に、ふと気になる記事があった……ジョルジュ・ジェローム、48歳、王都在住の有名な魔導技師が、クラウ・ソラス行きの馬車をワーウルフ群に襲われ死亡。なんてことのない内容だろうが、何か引っかかるものを感じながら、今度は別のものに目を向ける。──革財布。もしや、と嫌な想像をながら、折り畳み式のそれを開く。間近に照らし出した瞬間、ギデオンの顔はやはり歪んだ。……きっとこれは、オーダーメイドの品なのだろう。財布の内側に、たしかに“ジョルジュ・ジェローム”と刻印されている。新聞の用途がわかってしまった。拉致監禁した本人に見せつけて、絶望させるためだったのだ。お前は死んだことになっている、だれもおまえを探しに来ない、と。
最後に、床に目を落とす。一面に広がるどす黒い茶褐色の染み、これがジョルジュ・ジェロームのものなら、間違いなく致死量だろう。死体はどこへやったのか……何年前に撒かれた血なのか。血しぶきの向きや擦れている方向を辿って、ぎしり、ぎしり、と奥へ向かう。哀れな魔導技師が襲われたのは、おそらくこの辺り……座敷牢の突き当たり、空の木箱が積み重なった場所だろう。ジェロームが、おそらくは技術を引き出すために誘拐されてしまったほどの、名うての技師なのだとしたら。埃の積もった木箱の淵をなぞってから、僅かに汗の浮いた顔で相棒を振り返る。恐ろしい現場だが、それでも──と。信頼と心配が、織り交ざったまなざしだった。)
……ヴィヴィアン。ここにいた人間が襲われたのは5年以内だ。この辺りの魔素を読めるか。
もしかしたら……手がかりか何かを、どこかに遺している可能性がある。
……………。
( 温かい掌がビビの肩から離れていく感覚に、堪らずその後を追いたくなる弱気をぐっと堪えて。ビビを信用してくれたギデオンに応えるため、ひとり座敷牢の入り口にこくりと留まり、誰かが近づいて来やしないか、倉の入り口の方へと冷静に神経を尖らせる。そうして、一通りの調査を終えた相棒の問いかけに目を見開くと、その大きな瞳を頼りなげに微かに揺らして。読めない人には理解されがたいが──本来、魔素・魔力・魔法というのは、そう万能なものではない。あくまで自然と精霊の気まぐれを読み解き、利用しているに過ぎず、無から有を生み出したり、何の価値もない土塊を金に変えたりすることだってままならない。しかし、他でもない相棒が求めているのはそういうことじゃないだろう。そもそも何故この人は、ビビなら出来るかもしれないと思ったのか。相手の懐に入り込み、手元の証拠品を見せてもらうと──なるほど、と。得体のしれない連中に、何処かもわからぬ場所に閉じ込められて。外から助けも来ないと知った時、自分なら、魔法士なら、魔導技師ジョルジュ・ジェロームなら、限られた体力と魔力でどうするか。──ジェロームは自らも幼少期の事故で片脚を失い、障害のある人々がこれまで通りの生活をおくれるように、自分の意志に合わせて動く魔導義肢の開発に尽力した人物だ。おもむろに座敷の角にしゃがみ込み、窺ったのは明り取りの小窓。この薄暗い空間で、哀れな魔導技師は今が昼か夜かを窺う術だけは持ち合わせていた。ならば、人より機動に不安のある彼は、身を隠しやすい夜中の脱出を試みるはずだ。それには、彼の視界を照らす適度な明かりが必要になる。これは簡単に聞こえるようで、高度な魔素操作を必要とする難しい作業で、今ギデオンが持っているビビの魔導ランプだってチューニングを誤れば、たちまち夜のサリーチェを昼のように照らしあげることになる。(未だに語り草にされているとはいえ、快く笑って許してくれたご近所さんには頭が上がらないことだ。) 閑話休題。
そんな難易度の高い代物を、この粗末な倉で手に入れるにはどうするべきか──……それがこの鯨蝋の蝋燭だったに違いない。原始、魔法使いとは特別に精霊に好かれた者だった。精霊を愛し、精霊に愛され、精霊の理から逸脱しない生活をおくる彼らの生活様式を真似たのが、現代の魔法士に繋がる第一歩になる。彼はそれを模倣しようとしたのだろう。火の精霊は燃やしやすく、すぐには燃え尽きない物質をよく好む。フィオラは養蜂が盛んな村だ。捕まえた魔導技師が、仕事に上質な明かりが必要だと訴えたとして、それは蜂蜜から作られるそれで良かったはずだ。しかし、この燭台に残るのはグランポート産の最上級品の白いそれ。頑固な技師はこれがないと仕事にならないと要求したのだろうか、その言い回しはともあれフィオラの住人は男の要求を呑んだらしい。もうずっと蜂蜜から灯された素朴な火に慣れ切ったフィオラの精霊は、大いにこれを喜んだだろう。その結果、ジェロームの脱出は成功したか? それは、このどす黒い染みを見るに救われないが──「ギデオンさん、ランプを消していただけますか?」そう確信を込めたエメラルドを奥の相棒に差し向けて、元々薄暗かった天井が、更に深い闇に覆われるのを確認すると。『ビビちゃんが精霊さんとおはなしできることは、パパとの秘密にしておこう』そう言ったかつての父の言葉を思い出して──あれは、『精霊さんが悪い人に悪用されたら悲しいでしょう?』と、だから、ギデオンさんなら大丈夫なはずだ、と判断して。周囲を燃やさぬ程度に加減しながら、火の魔法を込めた杖を緩く振るえば。そうして灯された小さな炎に寄ってきた高山の痩せた火の精霊に、「そこの美味しい蝋燭をくれた人のことを教えてくれる?」と、更に豊富な魔力で火を揺らめかせる。はたして、輝く翅を震わせて、床の染みの上で申し訳なさそうに小さく回った精霊が、粗末な格子をすり抜けて──格子の中から必死に手を伸ばして届くかどうかのガラクタの小山にねじ込まれた黒く四角いそれを照らしあげた光景は、ギデオンの様な“見えない”人にはどう映るのだろう。 )
ッ、これは、っと……手帳……?
……ジェロームのもの、みたいですね。
──精霊か、
(“見える”ヴィヴィアンとは違い、ギデオンが捉えられるのは、せいぜい微かな瞬き程度。今、向こうの闇の中で、何かちらちら光ったような……そのくらいぼんやりと、怪訝に認識することしかできない。しかし隣の相棒にかかれば、逆に確信を持った横顔で、その細腕を伸ばす有り様だ。何をしているのか、と問おうとして、しかし自ずと思い当たり、小さく感嘆の声を漏らした。精霊を呼びだすのも、話しかけるのも、協力を仰ぐのも、その明かりが示す何ものかを探るのも。どれも、ギデオンには決して行いようがない──思い浮かびすらしない。今この場にヴィヴィアンがいた、そのおかげで取れた手段だ。
周囲を浮遊する塵のような煌めきに、敬意と感謝を込めてごくささやかに目礼してから。彼女が手に入れたその手がかりを、一緒に覗いて確かめる。ヴィヴィアンの言ったとおり、手帳……のようであるのだが、しかし既製品ではない。切り取った黒染めの革と、不揃いな紙片の束、それらを糸で綴じただけの、ごく粗末な作りをしていた。きっとジェロームは、監禁者であるフィオラ村に内緒でこれを作り出し、密かに所持していたのだろう。おそらくは……絶望の日々の拠り所にするために。
表紙をめくる。字は掠れている、しかし読めないほどではない。最初の数ページに亘っては、例の記事にもあった日付にフィオラ村へと攫われた経緯、及びその耐え難い慟哭が、ぎっしり書き込まれているようだ。何故、どうしてこんなことに、ここはどんな場所なのだ、何故私を捕まえるのだ。工房に、我が家に帰りたい……妻に、幼い我が子に会いたい。余りに痛ましいその独白に、目元を思わず歪ませつつも、更にページをめくっていく。思わず無言で読み入るせいか、紙擦れの音がやけに大きく聞こえる。……)
*
(──段々とわかってきた。どうやらこの村の人々は、私に補助具を作らせたいらしい。それも、蜂蜜を採るための腕をだ。この村の飼う特別な蜂は、隣の平屋の地下にある鍾乳洞に巣をつくる習性だそうだ。天井から吊り下げられた蜂の巣から、蜜の詰まった巣を削り取るには、どうしても高い梯子を使う。それには大きな危険を要する。今まではほとんど僅かな蜜しか採ることができなかった。しかし、地上にいるままでも採れるようになったなら、もっとたくさんの蜂蜜を採れる。そのための腕がほしい。──そんなことのために、馬車に魔獣をけしかけてまで、私を誘拐したのだそうだ。
図面を書いた。村人に材料や工具を用意させた。しかし組み立ては素人であるから、私が監督することになった。外に出る時には、必ず義足を奪われた……。それでも、少しずついろいろも我儘を言い、行動圏や動ける時間帯を増やした。何としてでも帰りたい。もう数週間は過ぎている、妻が心配しているはずだ。そうだ、ナタリーは絶対に、あんな新聞を信じるはずがない。私の葬儀を開いたりしない。私を諦めたりはしない。
私が囚われているのは、森の中にある蔵だ。しかしこの頃は、その隣の平屋に立ち入ることを許されるようになった。そこはいわば工場であった。地下で採ってきた蜂の巣を、遠心分離器にかけ、蜂蜜にし、それをさらに蒸留器や漏斗にかけて、妙な薬に換えている。異様に真っ赤な蜜なので、何の薬かと尋ねたが、それは決して答えてくれない。
今日は平屋に客が来た。間違いなく村の外の人間だ、おそらく貴族か何かの遣いだ、身なりでひと目でそれとわかった。村がつくる妙な蜜薬は、かれらが仕入れているようだ。盗み見ていたら、近くの村人にまた殴られた。右腕まで折られたら、追加の図面さえ書けなくなるというのに……。だが、ひとつ収穫を得た。取引の帳簿は、平屋の北窓の横の、壁板の裏に隠している。いつかここを出る前に、どこの輩がこんなものを買っているのか、絶対に突き止めてみせる。
とうとう鯨蝋が届いた。村人に取り寄せるよう言いつけてから、ずっとずっと待ち詫びていたものだ。火をつけて話しかけると、やはり高山精霊が現れてくれた。魔法で輝く火の精霊だ。彼の明かりなら、素養のある者以外には目に見えない。闇夜に紛れて逃げ出しても、それを気取られないで済む! 決行の日までそばにいてくれるよう、夜は絶えず鯨蝋を灯すことにしよう。精霊は優しいいきものだ。こちらが挫けずに希望を語れば、手を貸してくれるに違いない。
せっかく算段を得たというのに、この頃具合がすぐれない。食事に何か盛られているのか。しかしおかしい、やつらは補助腕のメンテナンスのために私を生かしておきたいはずだ。そのためにわざと複雑な造りにしたし、定期的に起きる魔法陣の収斂不良も私にしか直せぬはずだ。それとも代わりでも見繕ったか。妻は。ナタリーはどうしている。我が子は泣いていないだろうか。精霊が不安がっている。大丈夫だ、と火を灯す。
朦朧としていたら、いななきのような声が聞こえて目が覚めた。馬のそれではない。山羊に似ている。随分辺りを震わせると思ったら、実際に地響きまでした。体に堪えるのでやめてほしい。そんなことを考えていたら、やがて村人がやってきた。定時より随分遅い。皆魔獣狩りか何かをしていたらしかった。ずっとそちらに行ってくれれば良いものを。精霊は隠れてしまった。この村の人間は、彼にきらわれているようだ。
村人と顔を合わせるだけで発疹が止まらない。おそらく何かのアレルギーだ。特に奴らが、「花畑」から帰ってきたときが酷い。そこの花にやられているのか。村人も困っている。生かさず殺さず飼い繋いできたくせに、予想外であるらしい。しかし医者を呼んではくれない。この村の医者はむらおさだけだ。むらおさは私が死んでも構わないと考えているようだ。冗談じゃない。痒い。痒い。皮膚のあちこちが掻き崩れて血まみれだ。痛い。帰りたい。妻に会いたい。私はまだ死んでいない。
熱。咳。喀血。凄まじく衰える。何故。
精霊が出てこなくなった。
むらおさが来た。葬送の句を詠まれた。おまえは特異体質らしい、花の愛を受け付けぬらしい、可哀想なことをした、と。ならばここから出せ。妻と我が子に、最期にひと目だけでも。そう言ったが無駄だった。神はいない。
祈るより憎むが増えた。
どうしてこんな目に遭うのだ。
私が何をした。
痛い 取り除いてほしい
痛い
ナタリー 会いたい
エミール 息子よ
おまえがこれを読んだなら
この忌まわしい谷の魔核を どうか
そうすれば 私は 向こうで )
*
…………。
(手帳には、まだ空白のページが随分とあった。綴じ跡からして、途中で付け足したものだろう。すぐにはこの村を逃げ出せないと悟り、それならいっそと記録を残すことにして……それすらも道半ばのまま。ジョルジュ・ジェロームの迎えた最期が、酷く苦しく孤独だったのは、火を見るよりも明らかだった。
腰元の皮袋の口紐を解き、布を取りだして、ジェロームの日記をくるむ。これが消えたところで、フィオラの人間に気づかれることはないだろう。そのまま、重い面持ちで隣の相棒を見やる。日記帳に刻印入りの財布、このふたつの物証で、この村に憲兵団を踏み込ませるための最低限は揃ったはず。逆に言えば──これ以上、このフィオラ村にいるのは危険だ。だがそれでも、念には念を入れるならば。)
……平屋の方も、確かめてみるか。
……はい、行きましょう。
( ──なんて、惨いことを。ギデオンの肩越しにジェロームの手記を覗き込み、今にも泣き出しそうな表情を堪えて力強く頷けば。目的の見えない醜悪に、強大なドラゴンを相手取るような意気込みで潜った平屋の中は、しかしビビにとっては拍子抜けするほど馴染み深い空間だった。厚い扉をくぐった途端、暑すぎず寒すぎず、適湿で無機質な空気が周囲を取り巻く心地よい感覚。ここの構成員が皆、祭の準備に取り掛かっているからだろう。部屋は暗いのに、微かに響く風の音は空調魔法のそれだ。ポツン、ポツン……と、一定のリズムを打って落ちる薬品が、落ちた先の溶媒とその都度反応して淡く輝き。隣の棚に並ぶのは、乳棒とセットになった白い乳鉢に、清潔に保たれたビーカー、大小の薬匙はピカピカに磨かれて錆ひとつない──"秘薬"の話を聞いた時からあるだろうとは思っていたが、まさかこんなに現代的とは思わない……ここが、紛れもないフィオラの"製薬工場"だった。 )
お祭りは、年に一度、ですよね。
…………。私は薬の方を探ってみるので、ギデオンさんは帳簿を。
( 思わず苦しげに漏らした呟きには、未だまだ心のどこかでフィオラの村民達に悪気はなかったのだと。外界との関わり方を忘れてしまった、ただそれだけで、未だ正しい道に戻れる可能性を信じたかった青い苦悩に満ち溢れて。一年に一度、ただひとりの英雄を生み出すのには過度な規模の工場に、顔を顰めるのを堪えられず。どうやら研究結果を記しているらしいホルダーの棚の方へと、幼い表情をギデオンに見咎められぬよう顔を逸らしたのが数分前の事だった。
そうして手に取った書類の中身は、例の秘薬の投薬実験の結果のようだ。被験者の年齢と性別、それからおおよその身長と体重に──しかし、無機質な文字の羅列の様子がおかしくなるのはそれ以降だった。
40代男/170cm65kg/250cm300kg
50代女/150cm40kg/300cm500kg
10代男/190cm85kg/210cm350kg
・
・
・
前半の数字は被験者の身長体重だとして、2番目の数字はなんだろう。特別扱い被験者の体格と比例するわけでも無さそうだが──その答えは、何気なく捲った次のページが語ってくれた。フィオラの秘薬を投薬された人間が満月を浴びると起こる現象の全て。鋭く伸びる爪と牙に、次第に分厚い毛皮が背中を破る。本来、将来の形から大きく変わるはずのない人間の骨格、それがバキバキと嫌な音を響かせ、ゆっくりと変貌していく間の断末魔の詳細。その末路の姿は被験者ごとに異なるも──これは紛れもない、『人が魔獣へと変貌する』瞬間の世にも悍ましく信じ難い光景の記録だった。 )
──…なによ、これ
──……何だ、これは。
(同時刻。製薬施設の北窓近くで、ジェロームの手記のとおりに帳簿を見つけたギデオンは、全く同じ呟きを落とした。己の相棒、ヴィヴィアンが、おぞましい悪事の記録を目の当たりにしてしまったように。ギデオンもまた、別の恐ろしい真相に行き着いていたからだ。
──フィオラ村の極秘の帳簿。それは、単に上辺だけ読むならば、ごくごく普通の内容だった。協力費、180,000、ネズベダ市市自連会費。売掛金、3,200,000、ビェクナー商店へ商品32個計上。什器備品費、250,000、フンツェルマン工具店……エトセトラエトセトラ。どれも生真面目な記述ばかりで、よその帳簿とそう変わりないように見える。無論、200年もの間孤立していた筈の村が、こんなに大きな数字での取引を複数交わしていたというのは、まあまあおかしな話であるが。しかし単にそれだけ見れば、他の町なり村なりもやらかしているような悪事だ。引っ張れる罪状は、たかだか脱税や贈賄程度。ギデオンが目を瞠ったのは、もちろんその程度のためではない。……帳簿の摘要欄にある、取引先や納品先を、偶然知っていたせいだ。
──ネズベダ市。そんなもの、トランフォードには存在しない。これはセントグイド以北の湾岸部にいる、悪名高いルーンマフィア、その後援組織を言い換えた隠語なのだ。あの辺りはキーフェンマフィアの勢力が強く、細々住みついているルーン系の犯罪者たちを、一部の貴族が支援して……その見返りに、様々な“事業”をさせていると聞いていた。──フンツェルマン工具店。これは裏社会で悪名高い、“なんでも”つくる工具店の別名義だ。魔導性の鉄の処女、苦悩の梨、ファラリスの牡牛。そういった派手な拷問器具から、或いは一般に購入履歴を残したくない、何てことのない器具工具まで。とにかく、わけありの購入者のためにあらゆる道具を納品する、どす黒い業者である。──そして何より、ビェクナー商店。これは商店とは名ばかりの、極悪貴族の裏稼業の名だ。“ビェクナー商店に糖蜜を発注する”と言えば、それは毒殺の指示を意味する。繋がりのある貴族家同士で、ちょっとした茶会の折に、そういった言葉をそれとなく交わし合い、互いの政局を交換するのだ。とはいえ、ビェクナーの名は無数にある名のひとつに過ぎず。他にも存在する多くの名義が、結局最後にはひとつに行き着くようにできている。悪逆非道の貴族家に──未だ捕まらぬ性悪女狐、ルシル・エルノーの飼い犬のもとに。
ギデオンがこれらの情報を得ていたのは、奇しくも仕事のためだった。かつて王都を騒がせた、インキュバスによるまじない事件。あれの捜査で、ヴィヴィアンと共に憲兵団に協力したとき……かれらが本来部外秘とする極秘資料に目を通していた。この具合の良い頭は、当時入手した情報をしっかり脳裏に焼き付けている。それがまさか、あれから随分と月日が経っているというのに。華やかなダンスホールからは程遠い、山奥の村にいるというのに、再び見るとは思わない。しかし、フィオラ村の帳簿の上には、もはや疑いようもなく、あの資料にも載っていた悪党どもが名を連ねている。
これが意味するのは、ただひとつ。フィオラ村もまた、想像を絶するほどの極悪であるということだ。もはや決して、因習の残る寒村などでは有り得ない。あのエルノーが使うくらいだ、相当のことをしでかしているはずだ。ならば彼らは貴族相手に、いったい何を売っているのか。何を生産しているというのか。──その答えは、青い顔をしたヴィヴィアンが、手元の記録簿で教えてくれた。)
……………………
(しばし、重々しい沈黙を選んだ。相棒に背を向け、頭を抱え、辺りをゆっくり歩きまわって。ふたつの記録を突き合わせることで否応なしに浮かび上がった、考え得る限り最悪の情報。それを事実として飲み込むのに、どうしても時間がかかった。状況を受け入れることは、本来己の得意分野であるはずなのだが。しかし、よもやこれほどまでに、受け入れがたい苦痛になるとは。
無理からぬ話だろう。この世に蔓延る、血も涙もない悪人どもが。──人を、魔獣に、変えているのだ。
ここをすぐに出なければ。呻くような表情で、何度も何度もそう考える。今の自分たちは間違いなく、既に相当まずい状況に陥ってしまっている。だがしかし、状況を冷静に振り返ってみればどうだ。冒険者の仲間たちは、本来の目的であるフィールド一帯の調査のため、散り散りになったところだ。皆武装してはいるだろうが、地の利があるのは圧倒的にフィオラ村のほうにちがいない。それに、ああ、一般人であるレクターとその助手も連れてきてしまっている。彼らのことは絶対に、無事に帰してやらねばならない。──否、ギデオンひとりの本心としては。だれよりも、自分自身よりまず先に、ヴィヴィアンのことを逃がしたかった。ヴィヴィアンと、それにエデルミラ。せめて彼女らふたりと、それにレクターたちだけでよ、他の仲間たちより先に、何なら応援を託せれば……。しかし、この異常な温暖さのせいで忘れそうになっているが。本来、今は真冬の時季だ。山の地熱に守られた峡谷のこちら以外は、吹雪が荒れ狂い、ウェンディゴすら飛び交う世界だ。そうでなくとも、よその人里に出るまでに、魔獣の巣食う山岳地帯を数日かけて抜けねばならない。女性ふたりではとても無理だ、一般人どころか自分たちの身も守りきれない、みすみす死なせに行くようなものだ。だが、他の冒険者たちをすぐに呼び集めるとなると。その時間は、この情報を即座に理解してもらうための算段は。
そう考えていた矢先のことだ。がたり、と外で物音がした。ぱっと顔を上げたギデオンは、そちらを振り向いて一瞬だけ凍りつく。いくらか聞える話し声、何か外壁に荷を下ろしたらしい村人たちが、平屋の中に入るつもりだ。考えるまでもなくヴィヴィアンの手首を引っつかみ、足音を立てぬ大股で、平屋の奥へずんずんと突き進んだ。目指す先は、先程自分が確かめた、空の大きな用具入れ。その戸を素早く引き開き、ヴィヴィアンを先に押し込む。そしてその一瞬だけ、ぎりぎり背後を振り返る。平屋の大きな扉が開き、何か運び込む村人らが見えはじめた。そこで間髪入れず、ギデオンも中に滑り込み、閉ざした狭い空間にヴィヴィアンを掻き抱いく。慎重に息を押し殺す、どうしようもなく心臓が暴れる。扉に空いた細い横穴から、そっと外の様子を窺う──ヴィヴィアンの目線の位置からも見えるだろう。ここからでも、彼らの会話は聞こえるだろうか……奴らは、こちらに来るだろうか。)
……ギデオンさん、まずはウェンディゴを、……!?
( 二つの資料を照らし合わせて。声も無く項垂れてしまった相棒に寄り添うと、その目を真っ直ぐに覗き込む。"ネズベタ市"に"フンツェルマン"工具店、それらの単語には、ギデオンから少々の注釈をいただいたものの、ビビとて今のこの状況が最悪なものであるということは正しく理解している。しかし……いや、だからこそだろうか。ギデオンの苦悩とは裏腹に、改めて──やはり数日後の儀式は絶対に止めなければ、とビビの心は決まっていた。みすみすあの優しい少年を魔獣になどしない。将来、可愛い姉妹達に酷い罪を背負わせない。彼、彼女らには自由な世界を生きる権利があって、未だに信じ難いフィオラの罪は、今の大人世代で精算されねばならない。そう大きなエメラルドを真っ直ぐに煌めかせて──まずはウェンディゴを、『倒しに行きましょう!』と、ぎゅっと拳を握りかけた瞬間だった。外から聞こえてきた物音に、相棒によって考えるより早く用具入れに押し込まれると。外から聞こえてきた会話の内容に目を見開くこととなるのだった。
「首尾はどうだ、冒険者たちの誘導は上手くいったか」まずそう口を開いた男は、この数日間レクターの調査に振り回され……もとい、付き添っていた村の青年だ。「大方な。今頃、地下洞窟で"冒険"中じゃないか──……ただ、あの若い女ともう一人……ギデオン・ノース、といったか。ああ、昨晩イシュマを殴ったやつだ。あの二人の姿が見当たらない」そう答えた男の方も何度か姿を見た覚えがあるが、どうやら男達は用具入れの侵入者に気づいたわけではないらしい。さっさと必要な物を手に入れて、不用心に離れて行こうとする背中に──しかし、ビビら二人の表情は晴れない。今、誘導って……地下洞窟……? そう小さく頭を動かして、ギデオンと目を合わせると、相棒の顔色を見るにビビの聞き間違いでは無さそうだ。続いて「レクターもいい加減うるさいが……アイツは何時でも構わない。まずは冒険者の方を仕留めるんだ」そう耳にしたその瞬間。「極力女の方には見られるなよ、泣かれると萎える」「そういえばあの年増の方は随分うまく──」と。扉の閉まる音と共に続いたそれは、全くもって耳に入らずに。未だ用具入れの中、真っ青な顔色で掻き消えてしまいそうな呟きをポツリと。 )
…………私、地下洞窟の入口を探してきます。
ギデオンさんは、どこか、安全なところに……
──馬鹿を言うな。
おまえを一人にするわけがないだろう。
(相棒の無謀な提案を、鋭い小声でぴしゃりと遮り。腕のなかで震える娘、その大きなエメラルドを、今ばかりはきつく睨みつける。そんな薄情なことは言ってくれるな、悪手中の悪手でしかないだろう。そう言い含めようとしたところで、しかしふと……何か思い至ったように、その険しい表情をほどいて。
暗く狭い、箱の中。一瞬、考え込むような沈黙を差し挟んだギデオンは、しかしその口から不意に、温かい息を零した。次いで何をするのかと思えば、元々腕のなかにいるヴィヴィアンを、そっと間近に抱き寄せる始末だ。そうしてまずは、“大丈夫だ”、と体温で伝え。相手の恐れを宥めるように、後頭部を撫で下ろしてから。小さな旋毛にキスを落としたその唇を、相手の耳元に寄せていき……「約束しただろう、」と、低く弱々しい声で囁く。──それは半ば、自分自身にも言い聞かせるための台詞。あの夜明けの病室で味わった、恐怖、祈り、安堵、敗北。もう決して、同じ過ちを繰り返すわけにいかない。故に、こいねがうようにして、今度は優しく相手の瞳を覗き込み。)
お互い、二度と会えなくなりかねない真似はしない。……あのとき、そう決めたよな。
だから、絶対に──ふたりとも、必ず無事で、この村を脱出しよう。
……そのための作戦を立てないと。
っでも……!!
う、…………そう、ですよね。ごめんなさい。
( ギデオンの鋭い睨んだ視線に、勢い余って言い募るも、そっと優しく抱き寄せられて、穏やかな口調で語りかけられれば。はっと目を見開いたのは、自分がいつかのギデオンと同じことをしようとしていたことに気づいたためで。もはやもうフィオラははっきりと、こちらに害を加え始めた。幸いと言うべきかどうか、ビビは彼らに脅威としても認識されていない故に、ならば自分が──と思う気持ちは、決して動揺から来るそれだけではなかったのだが。何より大切なギデオンを守りたい、その気持ちがためだけに、仲間の救出の可能性を下げる発言をしてしまった。そしてそれはギデオンの冒険者としての矜恃を傷つけるものだったと、分厚く硬い胸板にしょんぼりと小さく額を預ければ。覚悟を決めるかのように、ぎゅううっと一度強く抱き締めてから、すっかりいつもの様子で勢いよく顔を上げ。 )
はいっ! 絶対全員で……ふたりで、おうちに帰りましょうね。
( そう言い募る途中でぴょこりと小さく背伸びして、その唇へ短く甘く吸いつくと。えへへ、と小さくはにかんで、最後にもう一度軽いハグを。そうして、外の安全を確認しながら、ゆっくりと一歩踏み出すと──目的はこれ以上の被害者を出さずに、フィオラの蛮行を止めること。ならば最前の行動は──そう真剣に悩む振りをして、さり気なく口元を隠すのは、治療室の約束をギデオンが覚えていてくれたことが嬉しくて、場違いに緩んでしまう表情を隠しているつもりで。 )
──まずはやっぱり地下洞窟を見つけたいところですけど、私達が勘づいたって知られるのは良くない、ですよね?
夕方の……ラポトには参加した方が良いでしょうか。
(吹雪のベールが覆い隠す陸の孤島に閉じ込められ、仲間たちは皆敵の術中。そんな状況に、先ほどまでは重苦しい絶望感さえ漂っていたはずだ。しかし今はどうだろう。ヴィヴィアンと今一度抱き合い、元気になったその表情を眺めるだけで、己の胸の内にみるみる希望が湧き上がってくるのを感じる。それは不思議なようでいて、しかし思えば納得するものでもあった。戦闘職である自分に対し、相棒の役職はヒーラーだ。彼女の無邪気な明るさは、いつだって味方を癒し、悪しきものを力強く薙ぎ払ってくれる。
現に今、「そうだな……」と。箱の中から外に出て、周囲の製薬設備を眺め渡したギデオンは、その横顔を随分と前向きなそれに変えていた。相棒の問いに立ち止まり、顎に手を添えながら、真剣に思案する。窓から差し込む日の光は、先ほどよりいくらか弱い──夕刻が近づいている。儀式までそう時間がない、夜を迎えれば洞窟組の救援も困難になる、しかし慎重さは必要だ。)
全面的に欠席するのは、間違いなく悪手だろう。だが、ラポトはおそらく、この村独自のやりかたの儀式だ。そうなると、宗教的な理由にかこつけて何を強いられるかもしれない。諸々の用意だって、いつも村がしている以上、何かを盛られても気づけない可能性がある。
だから……タイミングを読んで遮ってくれる“協力者”が、必要になるだろうな。
(──ギデオンとヴィヴィアンが、最終的に目指すもの。それはこのフィオラ村、ひいてはヴァランガ峡谷を、無事に脱出することだ。
これが自分たちふたりだけなら、きっとそう難しくはなかった。しかし今回は状況が違う。共にクエストに臨む仲間たちと、守るべき一般人の同行者が味方にいる。そうして頭数が多ければ多いほど、意思の統一が難しくなり、動きも目立ち易くなる……何においても危険度が跳ね上がる。それでも見捨てるわけにはいかない、必ず一緒に助かってみせる、それが冒険者として当然の考えというものだ。
それに、かれら身内だけではない。村の子どもらもまた、救いたい対象だった。大人たちがどんな悪事に手を出しているにせよ、まだ無邪気なあの子たちに、親世代の罪を背負わせる道理などあるだろうか。それにヴィヴィアンの推察どおり、数日後に控える別の“儀式”で、“ウェンディゴ・エディ”を退ける目的で、あの少年が魔獣化の薬を飲まされてしまうのだとしたら。何も知らぬ子どもたちが、ある日突然、忌まわしい因習の犠牲になっているのだとしたら……。それはやはり、知ってしまった責任のある立場として、絶対に食い止めてやるべきことだ。
村を出た後の危険のことを考えても、ウェンディゴを先に倒しておく選択肢は有効だ。少なくとも、子どもたちを儀式から遠ざけられる確率が上がるだろう。彼らをすぐに連れ出すのは正直なところ厳しいが、だが敵はあの魔物だけでない……いつ刺されるかわからない恐ろしさだけで言えば、今いるフィオラ村の人々のほうが、ギデオンには遥かに恐ろしい。故に手を入れるなら、まずは村のほうからだ。
──そこでギデオンが提案したのは、真っ先にこのフィオラ村の弱点を突くような作戦だった。フィオラ村はおそらく、顧客である貴族に命じられるからというだけではなく、自分たち自身の意志で、この峡谷にとどまっている。それはおそらく、例の“花”が、そしてその蜜を採る蜂が、この土地に根付いているからだ。だとすれば、“花”と“蜂”に何かトラブルが起きたとき、村はよそ者どころじゃなくなる。それに、あの“骨の結界”。あれが崩れればウェンディゴが入り込みやすくなるという話であるから、もしそれが乱されたと聞き知ったなら、その修繕に奔走することになるだろう。故に、上手く虚実を織り交ぜれば、自分たちの動きやすいように村を操ることができる。
しかしこの多面的な情報戦は、ギデオンとヴィヴィアンだけでは到底手が足りない、という問題がある。離れ離れになればなんとかなるかもしれないが、それでは互いを守れない。村に残っている冒険者としてはエデルミラがいるだろうが、ギデオンは今の時点で、彼女を戦力から除外していた。一応、身内ではある……が、正直なところ、信頼はできない。この村に来てからというもの、彼女は様子がおかしかった。それに昨夜のクルトとの会話や、先ほどの村人たちが口走っていた件もある。もしかしたら、冒険者たちがあっという間にバラバラに分かれてしまったことさえ、報告を受ける彼女の側に作為があった可能性は否めない。
だから自分たちには、どうしても別の協力者が必要だ。特に、村からの信頼を既に勝ち取っているような。──例えばその賑やかさで、村人たちすら呆然とさせ、全く警戒されないような。)
……まずは、レクターを探しに行こう。あいつも薄々、この村の発展の仕方がおかしいことは察しているはずだ。
(吹雪のベールが覆い隠す陸の孤島に閉じ込められ、仲間たちは皆敵の術中。そんな状況に、先ほどまでは重苦しい絶望感さえ漂っていたはずだ。しかし今はどうだろう。ヴィヴィアンと今一度抱き合い、元気になったその表情を眺めるだけで、己の胸の内にみるみる希望が湧き上がってくるのを感じる。それは不思議なようでいて、しかし思えば納得するものでもあった。戦闘職である自分に対し、相棒の役職はヒーラーだ。彼女の無邪気な明るさは、いつだって味方を癒し、悪しきものを力強く薙ぎ払ってくれる。
現に今、「そうだな……」と。箱の中から外に出て、周囲の製薬設備を眺め渡したギデオンは、その横顔を随分と前向きなそれに変えていた。相棒の問いに立ち止まり、顎に手を添えながら、真剣に思案する。窓から差し込む日の光は、先ほどよりいくらか弱い──夕刻が近づいている。儀式までそう時間がない、夜を迎えれば洞窟組の救援も困難になる、しかし慎重さは必要だ。)
全面的に欠席するのは、間違いなく悪手だろう。だが、ラポトはおそらく、この村独自のやりかたの儀式だ。そうなると、宗教的な理由にかこつけて何を強いられるかもしれない。諸々の用意だって、いつも村がしている以上、何かを盛られても気づけない可能性がある。
だから……タイミングを読んで遮ってくれる“協力者”が、必要になるだろうな。
(──ギデオンとヴィヴィアンが、最終的に目指すもの。それはこのフィオラ村、ひいてはヴァランガ峡谷を、無事に脱出することだ。
これが自分たちふたりだけなら、きっとそう難しくはなかった。しかし今回は状況が違う。共にクエストに臨む仲間たちと、守るべき一般人の同行者が味方にいる。そうして頭数が多ければ多いほど、意思の統一が難しくなり、動きも目立ち易くなる……何においても危険度が跳ね上がる。それでも見捨てるわけにはいかない、必ず一緒に助かってみせる、それが冒険者として当然の考えというものだ。
それに、かれら身内だけではない。村の子どもらもまた、救いたい対象だった。大人たちがどんな悪事に手を出しているにせよ、まだ無邪気なあの子たちに、親世代の罪を背負わせる道理などあるだろうか。それにヴィヴィアンの推察どおり、数日後に控える別の“儀式”で、“ウェンディゴ・エディ”を退ける目的で、あの少年が魔獣化の薬を飲まされてしまうのだとしたら。何も知らぬ子どもたちが、ある日突然、忌まわしい因習の犠牲になっているのだとしたら……。それはやはり、知ってしまった責任のある立場として、絶対に食い止めてやるべきことだ。
村を出た後の危険のことを考えても、ウェンディゴを先に倒しておく選択肢は有効だ。少なくとも、子どもたちを儀式から遠ざけられる確率が上がるだろう。彼らをすぐに連れ出すのは正直なところ厳しいが、村にとっての脅威を先に排除しておけば、次に村に踏み込むまでの間、子どもたちの運命はおそらく保留されるだろう。しかし、ギデオンたちにとっての敵は、何もあの魔物だけでない……いつ刺されるかわからない恐ろしさだけで言えば、今そばにいるフィオラ村の人々のほうが、己には遥かに恐ろしい。故に手を入れるなら、まずは村のほうからだ。
──そこでギデオンが提案したのは、真っ先にこのフィオラ村の弱点を突くような作戦だった。フィオラ村はおそらく、顧客である貴族に命じられるからというだけではなく、自分たち自身の意志で、この峡谷にとどまっている。それはおそらく、例の“花”が、そしてその蜜を採る蜂が、この土地に根付いているからだ。だとすれば、“花”と“蜂”に何かトラブルが起きたとき、村はよそ者どころじゃなくなる。それに、あの“骨の結界”。あれが崩れればウェンディゴが入り込みやすくなるという話であるから、もしそれが乱されたと聞き知ったなら、その修繕に奔走することになるだろう。故に、上手く虚実を織り交ぜれば、自分たちの動きやすいように村を操ることができる。
しかしこの多面的な情報戦は、ギデオンとヴィヴィアンだけでは到底手が足りない、という問題がある。離れ離れになればなんとかなるかもしれないが、それでは互いを守れない。村に残っている冒険者としてはエデルミラがいるだろうが、ギデオンは今の時点で、彼女を戦力から除外していた。一応、身内ではある……が、正直なところ、信頼はできない。この村に来てからというもの、彼女は様子がおかしかった。それに昨夜のクルトとの会話や、先ほどの村人たちが口走っていた件もある。もしかしたら、冒険者たちがあっという間にバラバラに分かれてしまったことさえ、報告を受ける彼女の側に作為があった可能性は否めない。
だから自分たちには、どうしても別の協力者が必要だ。特に、村からの信頼を既に勝ち取っているような。──例えばその賑やかさで、村人たちすら呆然とさせ、全く警戒されないような。)
……まずは、レクターを探しに行こう。あいつも内心、この村がおかしいことに気がついているはずだ。
──はいっ!
( それはただでさえ行動の読めない村民を、さらに撹乱するという危険な作戦。しかしそんな大胆な作戦も、この人が言うならできるのだろう。そんな信頼溢れる瞳を輝かせ、ぴんとたった赤い耳を元気に震わせ頷き、村の方へと探し歩けば。儀式の直前とはいえ、先程も村の男達が訪れたばかりだ。悪いことに村からこちら側には、この隠された養蜂場以外にめぼしいものは何も無く、ここで見つかれば言い訳ができない。故に二人が村から養蜂場への最短ルートを避けるように、村への帰路を少し遠回りしても尚。その聞きなれた大音声のお陰で、話題の相手はすぐに見つかり。
そうして戻った小屋へと軽い防音魔法を施し、養蜂場で見聞きしたそれを伝えると、さしもの名物教授も流石に驚いた様子を隠せない様子で。しかし、ふと何か逡巡した様子で唇を噛むと「……なら、こちらはお役にたちそうでしょうか」と、広げてくれたのは"採掘場"の名を冠した──「地下洞窟の地図じゃないですか!?」そんなビビの声には誇らしそうに胸を張るくせして、ギデオンがそれを覗き込もうとすれば居心地悪そうにそわつくのだから難儀な御仁だ。「ひっ、いやまあお二人のお話を聞く限り、巧妙に嘘をつかれてる可能性ははぁっ、でも一応こうなる前に聞いたものですよ……」と時折。具体的にはギデオンが身動きする度、声を裏返していたものだから。ギデオンがその作戦を発した途端、とうとうフリーズしたかの如く動かなくなってしまった教授に、まさか仕事中のギデオンの生声に感極まってしまったかと心配したビビは悪くないはずだ。とはいえ、これでも一応この分野では無視できない影響力を誇るレクター教授は。(決して推しのご尊顔の良さにうち震えていただけではなく、)いくら複数の村民達が犯罪に手を染めてるとはいえ。おそらく無関係な村民達も代々大切にして来た、結界への信頼を揺るがすような大それた行為に息を飲んでいたらしい。「……でも、それしか、ないんですね」と苦しそうに頷いてくれたレクターに、ギデオンと視線を合わせて頷き合うと。夕方の儀式に向け小屋の外から声がかかったのは、大方の作戦を共有し終わったその時だった。 )
(村の地下洞窟の地図。それは願ってもみなかった、他の冒険者仲間たちを捜し出すための道しるべだ。しかもレクター教授は何と、こんな状況に陥る前から、村の最長老の老婆に聞き込みをして作ったという。先方の記憶力の信憑性やら、当時の状況と変わっている可能性やら、そういった問題はあるにせよ。少なくとも、今のフィオラ村を動かしている世代の恣意に汚染されていない情報……そう捉えられることだけは、この上ない僥倖で。
小屋の外に出る直前、ぽん、とレクターの肩に手をやる。そうして、びくっと縮こまった大男の目をまっすぐに覗き込み、「よくやってくれた」と、熱を込めて囁いておく。それはギデオンなりの──“推し”やら何やらといった文化に、てんで疎い朴念仁の──真心からの労いだったが。はたしてレクター教授ときたら、先ほどまでは深刻に張りつめていたその顔を、途端にぼわっと薔薇色に染める始末だ。……出てきた三人を見た村人が、非常に露骨な困惑顔を晒していたのは、主にそのせいだろう。まあそれはそれで、彼と一緒にギデオンたちも、今までの話し合いを深く突っ込まれずに済むことに繋がってくれたのだが。このレクターという男、つくづく珍妙な幸運をもたらしてくれるものである。)
(……しかしながら。その後の三人、そして後から合流したレクターの助手たちを待ち受けていたものは、そんな愉快な時間ではなかった。寧ろ、このフィオラ村でこれまで眺めてきたなかで、最も忌まわしく悍ましい──最悪の因習だ。
フィオラ村の祝祭第三夜の儀式、“ラポト”。それはまず、村の家々を、松明を掲げた参列者が練り歩くことに始まった。何をするのかと思ったら、その家々のいずれかに住む年老いた三人の男女を、輿に乗せて運び出すのだ。苔むした岩のような老婆、枯れ木のように痩せた老爺、そして古木のような農夫。最後のひとりは、今朝方ギデオンとヴィヴィアンが世話になった、あの農夫の老人である。彼らは皆、何か薬でも飲んだかのように、痺れて動けない様子をしている。……この時点でレクターは、「まさか」と小さく口走ったが。確信が持てないために、何も言いだせなかった様子だ。
輿を担いだ村人たちは、更に山道を練り歩き、フィオラ村を見渡せる崖の麓の辺りまで来た。ここでほとんどの村人は待機し、輿を担ぐ者たちだけが、崖の上まで登っていく。傾いていく熱した鉄球のような夕陽、その嫌に真っ赤な日差しが、不気味に山肌を照りつけて。崖上の人々の様子、そしてその真下で待ち構える、斧やこん棒を構えた男たちの様子を、ぎらぎらと浮かび上がらせる。
ここに来て、ようやくギデオンも、今から何が行われるのかを本能的に察してしまった。今更この場を離れられない──「ヴィヴィアン、」と、無性音で隣の相棒に呼びかける。そうして、答えを待たず、その顔を見ずに、相手を横から引き寄せて、“それ”を直接見てしまわぬよう、己の胸元に抱こうとしたのと。三人の老人が、崖上から次々に軽々と放り投げられ、あっという間に重力に吸い込まれていき──見るも無残に地面へとぶつかったのが、ほとんど同時のことだった。
それからの光景を、ギデオンは血走った目で見つめ続けた。──散らばって尚不気味に蠢く、まだ死にきれない老人たち。その周囲に、各々道具を掲げた男たちが群がり、それを一斉に振り下ろしていく。生々しい音の数々。周囲の村人たちの間で、まだ年若い者が息をのむ気配。「目を逸らすな」「いつかはおまえたちも、俺だってああなるんだぞ」と、幾つか鋭い囁きが起こる。……やがて、頭に黒布を巻いた中年の女性が近づいた。もはや残骸でしかない老人たちの頭部に、手に持った鍋の中身を塗り付けていく。何かと思えば、今朝がた煮ていた、モロコシ粥の残りのようだ。あれはたしか、日中出かけていた村人たちが、儀式の一環だと言って、魔獣用の罠の餌に供えていたのではなかったか。
──棄老文化。それは、各々詳細こそ違えど、世界各地に存在している、人類共通の恐ろしい儀式である。しかしいずれの類型でも、本来ならば、食うに困った貧しい村が、仕方なく口減らしを図るために行うだけのもののはずだ。今や富んだトランフォード、そうでなくとも年中農作物の獲れるフィオラ村で、わざわざ老人を殺す意味など、いったいどこにあるというのか。……そして、それだけではない。後から聞いた話によれば、ここまでの単なる老人殺しであれば、民俗学者のレクターも、知識としては聞き覚えがあるようなものだったらしい。しかし、フィオラ村が異常なのは、更にここから先だった。
静まり返った参列者たち、やがてそのなかから、幾人かの女性たちが進み出る。何かと思えば、その服を脱ぎ、恥らいもなく上裸を晒していく。それも、皆で美しく、声をより合わせて歌いながら。<はなをなふみそ、はなをなふみそ、あかきもちづきたくよさり>……。子どもたちが歌っていたそれよりもどこか暗い、不気味な調べのなかで。女たちはひとりずつ列になり、頭に黒布を巻いている、あの中年女の前に立つ。そうして、何が始まるのかと思えば。その中年女が、老爺ふたりの遺体に近づき、躊躇いなくその手を突っ込み。掌を血に染めたかと思えば、順番に待つ女の腹に、どんどん塗り付けはじめたのだ。──適当に、ではない。それはまるで、そっとするほど真っ赤な、見覚えのある“花”の形にそっくりだった。それを見下ろした女たちは、だれもが心底嬉しそうに微笑み、また参列者たちのなかへ戻っていく。よくよく見れば、彼女たちのほとんどが、少し、あるいは明らかに、腹が大きくなっているのが、松明の灯りでわかった。多くは妊娠しているのか。──殺された老人の血で、胎の赤子を祝福するのか。
隣にいるヴィヴィアンを、ギデオンは絶対に絶対に離そうとしなかった。周囲の村人たちから、まるで促すような嫌な視線を感じ取りはしていたものの。それでも決して譲らぬと、その全身が放つ気配で、無言の気迫で拒み続けた。──『ヤヤがなくては、意味がない』。そこで殺された老人が、今朝がたギデオンに言っていた、あの妙な台詞を思いだす。『あれはおまえの雌鶏だろう。良い卵を産みそうだ、産めるだけ産ませておきなさい』。……こういうことだったのか、と遅まきながら理解して、悍ましさに腸が煮えそうになる。
察するに。ラポトというのは、元は棄老に始まったはずが、今では老人の輪廻転生をもたらすための儀式になっていったのだろう。それも、この男尊女卑が当たり前のフィオラ村では、男だけに限る話。血を塗りたくる係の女は、ともに殺されたはずの老婆を、まるで省みる気配がない。ともかく、殺された老爺たちの血は、今生きている女たちの腹に、フィオラ村にとって神聖な“花”の形で纏わりつく。そうして、その胎内の“卵”に宿る、と信じられているようだった。老いた体を壊して捨て去り、赤子の体に乗り移ることで、再びフィオラの男になる。実際に、そんなことを祈るような歌が、あちこちから上がっている。──冗談じゃない。そんな悍ましい儀式のなかに、己のヴィヴィアンを連ねさせるものか。その輪廻転生はどうせただの信仰だろう、それでもそんな不気味なものに、彼女を巻き込ませるものか。
傍にだれかが来た。視線を向ければ、むらおさのクルトである。傍らには蛭女、そして初日にギデオンたちを迎えた、あの十代半ばの双子たち。彼らの肩越しに、鼻が歪んだままの男、イシュマの面も目に入った。砂利を踏む足音がする。方向と距離からして、斧やこん棒を持っていた、儀式の下手人たちだろう。気がつけば日が落ちていた。薄闇が忍び寄り、松明の火がやけに鋭く爆ぜるなか、いつのまにか四方の村人たちにじっと見つめられている。その娘にも参加させろ、その腹に血を塗らせろ。そんな無言の視線の圧が、ギデオンたちにのしかかる。それでもギデオンは、明確な言葉は出さずに、クルトを激しく睨み続けた。十秒か、二十秒か。斧を持ち直すかずかな音がして、思わず魔剣の柄に手をかける。……そのときだ。
「あのお、」と。唐突に、場違いなほど雰囲気の違う、よく通る声が上がった。レクターではない、その助手だ。「あのー、皆さん。今の、聞こえませんでした? 何か、魔物の唸り声……みたいなものが、したような」。
クルトの顔色がさっと変わった。「魔物? どんなだ。どんな声だ?」。辺りに張りつめていた、じっとりと重い緊張感も、突然その湿度を失い、嘘のように引いていく。助手に詰め寄る村人たちに、ほら、と彼が促せば。確かに遠くから、夜気を切り裂くおどろおどろしい唸り声が、ほんのかすかに聞こえてきた。参列者たちが動揺し始める。どうして──まだ準備が──英雄が──まさか、あいつら。
「静かに!」と、クルトが大きな、落ちついた声で呼びかける。今夜はもう日が沈んだが、“骨の守り人”たちは、今から巡回に出掛けること。儀式を急ぐことはない、急いては事を仕損じる。しかし、皆今宵は家から出ぬように。厳重に守りを固め、女子どもは男たちに従いなさい……。
そんなこんなで有耶無耶になり、ラポトはあっさりお開きとなった。慌てた様子で村に戻る人々、その隙を縫うようにして、ちらと助手のほうを見る。一瞬だけこちらを見た助手は、軽く頷きかけてきた。あの会合の場にはいなかったはずだが、やはり狙ってギデオンたちを助けてくれた様子だ。儀式を前に未だ顔色の悪いレクターは、彼が支えてくれるようだった。
ならば、こちらはこちらで、と。ヴィヴィアンの様子を確かめようとしたギデオンに、ふとあの蛭女が近づいてくる。「あら、そう構えないで」……なんだか、嫌に優しい声音だ。「昨晩の事件があって、私たちも学んでいるのよ。よそから来た人に、うちのやり方の無理強いはしない。安心して、私が代わりに皆に言い聞かせてやるわ」。
当然、信じられるわけもないものの。村の中では権力者らしいこの女が、ギデオンとヴィヴィアンを未だじろじろ見る連中を追い払ってくれることは、正直なところにありがたい。故に、今回だけはギデオンも、彼女に合わせて歩いていくことにした。無論その手は、ヴィヴィアンの片手をしっかりと握っている。周囲に目をやる蛭女の目が、時折すうっとそちらを見るが、すぐに他所へと逸らされる。
忌まわしいラポトの跡地を後にして、谷底に戻る道すがら。柔らかなヴィヴィアンの手を、今一度強く握り込む。……震えが起こりそうなのを、奮い立つことで抑えたかったのかもしれない。斧やこん棒を振り上げる村人たち、その凄惨な顔つきが、未だ脳裏にこびりついている。フィオラ村は……この村の人間は、あんなことをしてしまえる連中であることが、ギデオンには恐ろしかった。自分がどうなるか、ではない。──あの残虐さが、ヴィヴィアンに及ぶこと。それを、何より恐れていたのだ。)
(──まだその時でない筈なのに、この谷にウェンディゴが出た、という緊急事態。しかし実のところ、その正体は、ギデオンとヴィヴィアンが仕掛けておいた罠である。
養蜂場から遠回りをして帰るとき、ギデオンが生木を削り、ヴィヴィアンが魔法をかけて、高木に掲げた“嘘笛”。それは野営時の冒険者が、他の魔獣を近寄らせぬよう夜通し吊るしておく、風を受けて鳴く道具だ。ひとつの場所に二日も滞在していれば、夕方の山にどんな風が吹き渡るか、冒険者であるギデオンたちが把握、計算するのは容易い。まさかフィオラ村も、特定の風を受け、時間差でウェンディゴそっくりに鳴く笛があるなどと、夢にも思わないだろう。
そこに後は、ほんの少し後押しをすればいいだけ。事前に打ち合わせているギデオンとレクター、そして後から事情を共有した助手と、重ねるように一芝居打ち、村の周囲の“骨の結界”が乱れているというような噂を、それとなく流しておく。その方向はあまりにも様々で、ひと晩で回りきるのは土台無理な話だ。そう判断したクルトは、翌朝の巡回も計画し始めた様子だった。
これで、今宵から明日の朝にかけて、幾らかこちらに余裕ができた。その間に、ギデオンたちは巡回の薄い方角に出て、地下洞窟の中にいる仲間たちを捜す……その予定、だったのだが。
ここに来て、こちら側の計画も変更すると言いだしたのは、他でもないギデオンだ。自分がもう一度、念には念を重ねて、村人たちの動向を確かめてくる。その間、レクターと助手は、ヴィヴィアンのそばについていてほしい。情報を掴みに行くのは自分だけで充分だ、寧ろ複数人で動いたら怪しまれてしまうだろう、と。
それは結局のところ、己の大事な相棒を、これ以上村人の目に触れさせたくないという、ギデオン自身の深い恐れのせいだった。恐怖は目を曇らせる、判断力を奪ってしまう。少し考えれば、決して彼女から離れない、という昼間の誓いを思いだせたろうに。事態を安全に動かすためには、自分が多少の危険を呑めばいい、と。──そんな無謀を推し進めた結果、ギデオンは自らの身で、その過ちを思い知ることになったのだ。)
(──鈍痛がする。吐きそうな気分で、それでもぐらぐらと不安定に、己の意識が浮上する。ギデオンは薄目を開けた。石のように起き上がれないまま、霞む目で辺りを見れば。松明に照らされたそこは、ぐるりを杭で閉ざされた、薄暗い牢のような場所だった。
……何故、自分はここにいる。自分はたしか、ヴィヴィアンたちを小屋に待機させてから、村の様子を見に行って……。ああ、そうだ。“具合が悪いというものだから、ラポトのあいだも村に残した、あのエデルミラという女がいない”。そんな話を小耳に挟み、事情を知っているはずのクルトの元に、向かおうとしていたはずだ。そこから、何が……。
ずきり、と鋭い痛みが走る。顔を顰めながら起き上がろうとして、やはり力が動かない。頭をずらせば、後ろの部分が湿っているのが、感触でかろうじてわかっら。……そうだ、あのとき。がつん、といきなり後頭部に衝撃を喰らったのだ。思わずよろめいたその隙に、さらに何かを嗅がされて、そこで意識を落とされてしまった。図られたのか、村人に。だとしたら──だとしたら、ヴィヴィアンは!
胸の奥を恐怖が刺す、今にも飛び出そうと、まずは起き上がろうとする。だがしかし、自由にならない。あのとき嗅がされた薬のせいか、吐き気と頭痛、並のように押し寄せる朦朧とする意識のために、石床に這い蹲ったまま動けない。泡を吹き零しながら、それでももがこうと試みる。時間の感覚がまるでない、ここには窓が見当たらない、あれからどれだけ経った、ヴィヴィアンは、レクターたちは! その焦燥に胃の腑を焼かれる、なのに体が言うことを聞かない。
そうして、手負いの獣じみたギデオン以外は何も動かぬ、この静まり返った空間に。──やがて、こつり、と足音が響いた。)
( 「──あら、もう起きていらっしゃるの? さすが冒険者様ですわね」そこは昼間に確認した座敷牢とはまた違う、冷たく暗い石牢の中。ぐったりと項垂れたギデオンの前にしゃがみ込んだ女は、その蛭のような唇を歪めて笑った。こんなところに閉じ込めておきながら、手にしているのはお湯を張った小さな手桶に、清潔に見える真っ白なタオル、反対の手には救急箱すらぶら下げて。ずっと欲しかったものが手に入った、そんな満足気な笑みを浮かべると、もしギデオンがその手錠ごと身動きをして、けたたましい金属音を響かせようと全く動じることはなく。相手を見下ろすその視線には、うっとりと慈しみさえ感じさせるだろう。
「その傷、痛むでしょう……丁重にお連れしてって言ったのに」そう色っぽく吐息を漏らして、はじめた手当をギデオンが大人しく受けようと、はたまた荒く拒否しようと。女の顔に浮かぶ表情は、まるで待望のペットに噛まれた子供のように明るく、嬉々とした色に濡れ。「あの可愛らしい方を案じていらっしゃるのでしょう」と嗤うと、続けて──お気づきですわね?と、骨の結界をもって尚、毎年ウェンディゴの襲撃があること。その襲撃を逸らすために"儀式"で"英雄"が作られること。その薬の材料に必要な大量の血液のために、冒険者たちは受け入れられたことなどを、くすくすと上機嫌に語ってみせ。「特に魔力をたっぷり含んだ血液は貴重だわ」と、暗にビビの安全を人質に艶めかしくギデオンにしなだれかかると。「ああ、ごめんなさい! でもきっとそんな恐ろしいことにはなりませんわね。だって、あんなに愛らしい方だもの。血液にしてしまうには惜しいって、誰だってそう思うでしょう?」なんて。目敏く獲物の弱みを見抜き、執念深くとうとう爪をかけた女の敗因は、そんな"愛らしく""可愛らしい"カレトヴルッフのヒーラーを侮ったていたことだった。 )
──ギデオンさん! ご無事ですか!?
( 魔法使いにあるまじき。その魔法の杖を女の頚椎へと物理的に振り下ろしたヒーラーが、気を失って倒れる蛭女の肢体を床に横たえる手つきといったら、普段の彼女を知る人間から見れば、些か乱暴……と言うよりは、倒れる相棒を目の前に気遣う余裕もなかったのかもしれない。夕刻の悍ましい儀式の悪意から、相手に庇ってもらった結果。本来ビビが背負うはずだった分まで、相手に多大な精神的負担を負わせていたと気がついたのは、事が起きてしまった後だった。
帰ってこない相棒を探し歩くうち、"所有者"が失せた隙を狙ったイシュマに見つかってしまったのは、今となっては僥倖だった。「あの男なら儀式を見て逃げ出したよ」 だなどと、絶対にありえない嘘でビビを追い詰めた気になって、態々自ら顛末を知っていると白状してくれるなんて有難いことだ。昨晩、眠れずにいたところ、ギデオンが少し分けてくれた魔力の煌めきは、彼がまだ生きていることを力強く示して。それだけで、イシュマを目の前にして再び硬直してしまった身体も、熱く解けていくようだった。──己の身さえ守れない、無能な娘に悦びの表情を隠さない男の腕にすがりつき。「……っせめて、人のいないところで、」と精一杯惨めで可哀想な様子で囁いてやれば。あとは拍子抜けするほど簡単だった。共同生活を主とするフィオラには、人目につかずことにおよべるような場所など殆どない。男が嬉々としてビビを連れ込もうとしたのは、昼間に訪れたばかりの製薬工場の地下フロアで。当然、彼処は彼処で勝手に動いているらしい蛭女とすれ違えば。──彼女がギデオンさんの失踪に関わっているんじゃないか、と思い及んだのはただの女の勘だったが。案の定、囚われの恋人の姿を発見し、それもぐったりと地面に這いつくばらせている蛮行を目にすれば。別部屋のイシュマが睡眠魔法で文字通り"おねんね"しているのに対して、尾行した女への対処が雑なそれになったのは許されたいところだ。
そうして、蛭女を床に打ち捨て、掻き抱いたギデオンごと聖魔法の温かな光で部屋の中を照らし出すと。恐怖、不安、安心それら全てで滲む涙目を堪えて、ふるふると震えながらギデオンの顔を覗き込むと、その手足を拘束する枷に気が付き顔をゆがめて、 )
……逃げましょう、立てま……、…………。
鍵、どこにあるか分かりますか?
──ヴィ、ヴィアン……
(ギデオンの薄青い目に、ようやく確かな焦点が取り戻されて。見慣れた相手のかんばせを、一瞬ただただ見つめ返すと、問いかけには答えぬまま、掠れた声で呆然とその名を呼ぶ。数秒の静けさ、牢内を照らす火影だけが小さくパチパチと爆ぜる音。やがて追いついてきた情動に、ぐしゃりとその顔を歪めたかと思うと、愛しい恋人の肩口に、己の額を強く強く押し当てる。──ああ、無事だったのか。無事でいてくれたのか。
目を閉じ、引き攣る息を吐いて。普段は広く大きな背中を、今ばかりは情けなく震わせる。そうして、決して都合の良い幻ではなく、現実だと確かめるために、こちらも相手を抱き締めようと両腕を広げかけて。しかしがちゃん、と無粋な金属音に、それは呆気なく阻まれた。動きを止めたギデオンが、今さら気づいて見下ろしたのは、両の手首の太い手錠だ。視線を滑らせていった先、足首のそれぞれにまで、似たようなものを嵌められていた。さらにこちらの鎖は、石床に半分埋まった太い輪っかのようなものに繋がれているらしい……悪意を感じるほど、がっちりと、この村に縫い留めるかのように。
いつもならこんなもの、相棒のヴィヴィアンの誰より強火な攻撃魔法が、簡単に断ち切ってしまえるはず。しかし本人がその気配を見せず、鍵の在り処を尋ねるということは、と。拘束具の表面を確かめたギデオンも、遅れてその材質に気づき、忌まわしそうに悪態をついた。──絶魔鉄! 特殊な鉱石から精錬される、魔法を通さない金属だ。フィオラ村ではこんなものまで生産していたというのか……これを断つ道具は、人外の魔族が作った特殊な道具でなければならないはずだ。無論そんなものは辺りを見回しても見当たらないし、かといって、鍵の在り処をギデオンは知らなう。さっと視線を向けた先、そこにはあの蛭女が気絶したままでいるものの。仮に自由のきくヴィヴィアンがその全身を検めたところで、この牢を開けた鍵ひとつしか見つからないことだろう。万一ギデオンに奪われて、逃がすことのないようにするためだ。
ちゃりり、と鎖を鳴らしながら、己の態勢を立て直し。短く鋭い深呼吸をひとつ、精神と思考を落ち着けて、状況を打破する手を冷静に考える。そうして、不意に腰元の手袋を、繋がれたままの手で器用に解いたかと思えば。中から掻くように取り出したのは……いつぞやの船上でヴィヴィアンがくれた、深い藍色の包みの中身だ。魔法陣を編み込まれた純白の貝殻は、ギデオンが倒れたときに少しひび割れてしまっていたが。それでもそのおかげで、そこからヴィヴィアンの聖の魔素が流れ出し……そうして目覚めさせてくれた分、今は空になっていた。今度はそこに、己の得意の雷魔法を器用に注ぎ込んでいく。効果自体は僅かなもの、しかし相性の良いヴィヴィアンの魔素に少しでも促されれば、途端に派手に増幅されて再生されることだろう。もう一度それを包みに入れ、相手のほうに転がすと。相棒の目を真剣に見つめたギデオンの瞳には、先ほどまでとは全く違う、力強い光があった。)
……ヴィヴィアン、悪い。この錠の鍵と、俺の魔剣を探し出してくれ。いざとなったらこれを使っうんだ。袋越しでも、おまえの魔素には間違いなく反応するだろう。
──……助けに来るのが遅くなってしまってごめんなさい。
もう大丈夫ですからね!
( あんな儀式を見せつけられたその直後、こんなに乱暴な方法で拉致されて、どれだけ恐ろしい想いをしただろう。そう伝わってくる切ない震えをごくごく自然な意味でとらえると。相手の代わりにもう一度、広げた腕で広い背中全体を撫でさすり、最後にもう一度胸の空気が抜けるほど強くぎゅうぅっと力強く抱きしめる。それからゆっくりと身体を起こしながら、そっと相手の様子を覗き込む表情は、頼もしい相棒、愛しい恋人の無事な姿を目の前にして。これ以上なく分かりやすいほど輝いて、未だ予断を許さぬ状況に、安易な笑みこそ浮かべぬものの、キラキラと素直な使命感に燃えていた。
そうして、なにやらギデオンが腰の袋をごそごそやるのを、容赦なく隣の蛭女の衣服をひっくり返しながら振り返れば。自分の方が身動きとれぬ様をして、身を守るのに有効な術をこちらに寄こしてこようとするギデオンに一度は強く抵抗して。それでも、遠征の荷物の隙間にでもねじ込んでもらえればと贈った玩具が、他でもない相手の懐から出てきた時点で、心底嬉しく思ってしまったビビにはそもそもが分の悪い勝負だ。最終的に──お前が使うんだから意味があるんだろう、俺が使ったって威力が出ないといった趣旨の完全な正論に押し切られて、複雑な表情で藍色の包みを受け取れば。「すぐに戻ります」と、未だ気を失っている女を担ぎ上げ、しぶしぶその場を離れたかと思うと、それこそ玩具を投げてもらった大型犬の如き速度で舞い戻ってきたのは、製薬工場となっている上階に人の気配を感じたためで。ぐったりと項垂れている女の身柄は、早々にイシュマと同じ部屋に押し込んで、外から軽くバリケードで塞いでおく。そうして、ふたつの探し物のうち魔剣なんて目立つもの、この短時間で処分できているわけがなく、慣れ親しんだ魔素を辿ればたちまちガラクタの奥に押し込まれていたのを発見できたのはよかったが、しかし、問題はごくごく小さな鍵の方で。ひとつの部屋に、ふたつのドレッサー、みっつのテーブルに、キャビネットはよっつほどひっくり返したところで。焦って周囲を見渡したビビの視界に映ったそれは、鮮やかなオレンジ色が可愛らしい、しかし、その存在感は全く可愛らしくない手斧だった。──昔どこかで聞いたことがある気がする。学院で受けた授業中の与太話の類だっただろうか。絶魔鉄は非常に取り扱いの難しい、加工するには特殊な道具を必要とする鉱物で、それ故に。鍵のような複雑な構造を作るのは難しいのだと。だから絶魔鉄の手錠で拘束されたら、(別の物質で構成されているはずの)鍵穴を狙えよ──なんて、そんな機会があるものか笑ったのはいつのことだったか。 )
……ギデオンさん、これは“鍵”です。いいですね?
…………………、
(……ずりり、ずり……、ずりりり。何か重たい金属を引きずる音、それを何の気なしに振り返ったギデオンは、しかしその精悍な面差しを、一気に真顔へ陥らせた。相手がどこまでも凛と言い放つ台詞にも、「……」と無言しか返さずに。その薄青い双眸は、物騒な“それ”をガン見である。
──斧、斧か。そう来たか。いやたしかに、非常用として建物や船に備え付けるそれを、“マスターキー”と呼ぶことには呼ぶだろうが……と。そんな生産性のない独り言が、脳裏をぐるぐる駆け巡るのを、いったい誰が咎められよう。
己の状態を今一度見下ろす。両脚の枷はまだいい、鎖が随分長いから、最悪の場合はそれを引きずって歩くことになるだけだろう。──問題は、両手首の手錠。鎖が極端に短い上、その鎖が、石床の輪と繋がった長い鉄棒に接続されてしまっている。おそらくは、牢内での行動を制限するためのものだ。鉄棒の角度は好きなように変えられても、その長さより遠くへは行くことができない仕様。つまり、ここから脱出するには……ただでさえ短い手錠の鎖、その鉄の棒とも繋がった部分を、正確に、寸分違わず、破壊する必要がある。仮に万が一、斧を振り下ろす先がほんの少しでもずれてしまえば。そこにあるのは当然……ギデオン自身の、素肌の手首だ。
──それでも、迷っている暇はない。思考停止、もとい思考を切り替えて、「まず足から頼む」と相棒に促す。鎖を最大限伸ばし、そこに刃先が振り下ろされれば、派手な金属音とともに、すぐさま片脚が自由になることだろう。次はもう片方を──と、その寸前で。しかし不意に掌を掲げ、相棒に“待った”をかける。相手を見たギデオンのこめかみには、わかりやすぎるほどにだらだら冷や汗が伝っていた。
……指示した場所と、斧のは先が振り下ろされた場所、それが大きくずれている気がするのを、はたして看過していいものだろうか。今はまだ予行演習、ならば“本番”前にできるだけ精度を上げさせたいとばかりに。冷静さを取り繕った硬い声音で、相棒に再度指示を出して。)
……ヴィヴィアン。こっちの鎖も、今のと同じ長さのところで打ってみてくれないか。
ああ、そうだ、その位置……“同じところ”を、正確に、そうだ。
同じ長さ……ですね、わかりました……
( キィン──!! と再び派手な金属音が響いて。今度の一撃は、なんと見事に右脚の鍵を貫いて、パカリと無傷でギデオンの脚を解放してみせる。しかし、二人の浮かべる表情が真っ青に浮かない色をしているのは、目安にしたはずの左の鎖は凡そ10cmはたっぷり残っているからだ。こちらはこちらで、走って鎖が揺れようと幅の広い足枷がすね当てになり、揺れる鎖の衝撃から守ってくれる中々どうして絶妙なバランスではあるのだが──「け、結果オーライということで……」と、冷や汗を拭うヴィヴィアンの、その斧の握り方はまだ悪くない。寧ろ意外なことに剣術の経験を感じさせる綺麗なフォームがあるからこそ、その誤差ですんでいるというべきか。しかし、絶望するべきは一朝一夕でどうにもならない、打撃武器を使うには純粋な腕力、筋力の不足で。斧を振りあげれば、その重さで後ろによろめき、そのまま振り下ろせば後は重力に従うだけで、軌道の微調整などままならない。──やはり本物の鍵を探してくるべきか。もしくは、イシュマに見つかる直前に、コンタクトが取れた仲間たちの中に手先の器用なハーフフットがいたような……。そう顔を上げかけたその瞬間。階上で何か重いものが激しく叩きつけられる轟音が響いたかと思うと、高く響いた悲鳴にギデオンと顔を見合わせて。 )
……!?
わ、わたし様子を見てきま……
──いや、駄目だ! こっちを先にやってくれ。
(不穏な天井を見上げていた青い目をさっと戻し、相手の言葉を鋭く遮る。松明に照らされたその横顔が必死なのは、もはや覚悟を決めたからだ。今ここには、ギデオンが知る限り最も腕利きのヒーラーがいる。ならば仮に事故が起きても、どうということはないだろう。
故に、畳みかけるように。「ひとりで勝手に動いた俺が、結局はこのざまだ。尚更、お前を独りでは……」行かせられない、と囁きかけた、その刹那。──しかし、今度は足元から。惨く突き上げるような衝撃が、いきなりふたりに襲い掛かって。
ごごごごご、と唸りを上げる、まるで大地が制御を失ったかのような大地震。その真っ只中のギデオンは、繋がれた手を咄嗟に伸ばすと、ヴィヴィアンを両腕の輪の中に庇い込んんで。鉄の縛めの忌々しさに呻き声をあげながら、それでも相手を守るように、彼女ごと地面に伏せる。……その合間にも、上階の人々の悲鳴と、“何か”が暴れ狂う気配は、ますます酷さを増すようだ。
翻弄されるだけの時間は、たっぷり数十秒ほども続いていただろうか。それがようやく収まってからも、未だ辺りへの警戒で、しばらく防御魔法の準備を漲らせていたものの。ひとまずは問題ない、と見て取ると、ようやくそれを解きながら、両の腕の肘を立て、真下の相棒を見下ろして。……は、は、と荒いままの息。その真剣な横顔には、窮地を潜り抜けたばかりの強張った色が差している。だというのに、こちらを見上げる大きなエメラルドを見た途端、勝手に箍が外れたらしく。前触れもなく首を屈めて、相手の唇を獣のようにさっと食んでは、またすぐに引き離し、その目を再び覗き込み。)
──……、怪我は、ないか。
っ!? ……な、ないでしゅっ、ありがとうございます、もう離して!!!
( グラグラと激しく揺れる大地に、あっとギデオンを庇おうとして、反対に自分が強く引き倒されてしまえば。自由に動けないギデオンの上に何かが崩れてきたらと思うと気が気でなくて、せめて両腕を廻してギデオンの後頭部を強く抱き締める。そうして強い揺れが収まると、まずはギデオンの無事の確認と──なんで、ここで自分が庇っちゃうんですか!? と。相手が大事だからこそ、自分のことを大事にしてください、そう強く強くお願いするつもりでいた言葉は──突如、近づいてきた唇に全て飲み込まれてしまって。出口を薄い唇に覆われて、すっかり行き場を失ってしまった感情は、ギデオンさんが無事でよかった。好き。だめ、怒らなくちゃ……でも、とっても格好良かった、大好き、すき、と。甘くだらしなく蕩け出していき。その上、奪うなら奪うでゆっくり味わってくれればまだ良いものを、当然この緊急事態にすぐさま身体を離されて、うっとりと潤んだエメラルドに、その首まで上気せあがった顔色をバッチリはっきり見られてしまえば。その後、見事に手錠のど真ん中を射抜いた一撃の鋭さには、明らかな私情も乗っていたに違いない。
そうしてどこかぽこぽこと、場に削ぐわない甘い棘が残った口調で(緊急事態だと言うのに、だからやめて欲しいのだ)「私はあの二人を見てきます、ギデオンさんは脱出経路の確認を」と、自分で築いたバリケードを木端微塵に吹き飛ばせば。その間も頭上のフロアから断続的に轟音が響いてグラグラと地面が揺れる度、どこかの配管が外れたのだろうか。逃げ場のない地下に大量の水が流れ込み、二人の足元に段々と水の膜が張り始めると。大人二人を引きずりながら、相棒の方を確かめて。 )
ギデオンさん……階段は!?
──駄目だ、崩れた煉瓦で塞がってる!
(相棒の呼ぶ声に、ギデオンのほうもまた、ばしゃばしゃと水を蹴りながら暗い通路を駆け戻る。背後から引き戻して間近に突き合わせたその顔は、深刻に張りつめていて。「周囲の構造まで脆くなっているから、下手に魔法で破れないんだ。それならいっそ、他の天井部分のどこかをぶち抜いてみるほうが……」、と。そう言いながら見上げたはいいが、しかしはたして、この狭い通路のどこを選べばいいというのだろう。相棒が言っていたとおり、ここがあの製薬施設の地下なのであれば、地上にある大掛かりな実験器具が降ってこないとも限らない。もし壁の厚い部分を撃ち崩してしまったら、地上階そのものが崩落してくる恐れもある。とはいえ、このままここに留まっていれば、この足元の水嵩がどんどん増していくばかりだ。耳に届く飛沫の音も、先ほどより明らかに勢いを増している。──時間がない!
策を練ろうと燃えるような目を再び戻したギデオンは、ふとその視線を、相棒が引きずっている村人たちの、気を失った面にとどめて。今や踝の辺りまで来た水をざぶざぶ鳴らして歩み寄ると、相棒からふたりを引き取り、まずは男、ついで女の頬を(こちらばかりは申し訳程度に加減を選んで)、乱暴に二、三はたく。はたして目を覚ましたふたりは、拘束されていたはずのギデオン、そして無抵抗に連れ込まれたはずのヴィヴィアンに見下ろされることで、あからさまに狼狽したが。──先ほど大地震が起きて、この地下フロアの出口が塞がってしまったこと。どこからか配管の水が流れ込み、危険な状態になっていること。それらを相次いで説明すれば、ギデオンたちの反抗に取り合っている場合ではない、と飲み込んでくれたようだ。
「非常用の隠し通路があるの、」と、蛭女が震えながら言った。おそらく水が苦手なのか、じわじわと上がる水面に向ける目に、はっきり恐れが浮かんでいる。「万一の時のために、村の魔導師しか解けない鍵がかかっていて……でも、ここよりも低まったところに。だから、急がないと──通れなくなるわ!」
──かくして四人は、今やあちこちから水が激しく噴き出す地下を、死に物狂いで駆け抜けた。蛭女の先導した先、確かに鉄格子のあるそこは、ほんの少し階段で下る構造になっているせいで、既にかなりの水嵩のようだ。「開けてくれ、早く!」と命じ、先に水に飛び込んだ魔導師イシュマが、必死にぶつぶつやる間。ヴィヴィアンと蛭女を先に扉に近づけ、自分は背後を振り返って、時間稼ぎの魔法を起こす。せいぜい二秒やそこらしか保たぬ、無属性の魔法障壁。それでいい、この数秒の間だけ、こちらに来る水を押し返せるなら。しかし、いよいよ飛沫が派手になったことで、通路の松明の幾つかが次々にかき消され、地下通路の視界が不安定になりはじめた。明かりがなくなれば命とりだ──頼む、早く、一秒でも早く!
そうして、ついにがしゃんと扉が開き。イシュマ、蛭女が我先に滑り込み、次にヴィヴィアンを行かせようとしたところで──再びがしゃん、と。無情な音を立てて閉まり、魔法の錠が自動的にかかった扉を、一瞬呆然と見つめてしまう。次にその奥に目を向ければ……そこにはその鼻柱同様に顔全体を歪めて嗤う、イシュマの醜い面があった。「……何を、してる……開けてくれ、」と。体の奥が凍てつくような怒りに震えながら言い募れば。「いやなに、気を利かせてやろうと思ったまでだ」と、イシュマが厭らしいとぼけ面で返す。「おまえたち、相手とだけ番いたいって言うんだろう? そこの女、そう、おまえだよ。おまえも他の男なんざ、お構いなしだっていうんだろう? なら、この際お望みどおりにしてやるさ。──せいぜいここで、最後の“愛の夜”を楽しんでいけばいい!」
──激しい怒りで叫びながら、思わず雷魔法を叩きつけようとして。しかし水に浸かったこの状況では、ギデオンのその必殺技は、自分はおろか、ヴィヴィアンまでをも巻き込みかねないことに気づくと、ぎりぎりで制御してしまう。高笑いするイシュマの声。剥き出しの悪辣な笑みを、最後にこちらに差し向けてから、蛭女の肘の辺りを掴み、我先に通路の奥へと逃げだしはじめた。蛭女は何度か、動揺した様子でこちらと扉を振り返ったものの……高い水嵩に蒼白な顔で慄き、何も考えられないような様子だ。
──かくしていなくなった、フィオラ村のふたり。残されたギデオンたちの前に立ちはだかるのは、あの連中にしか解き明かせない魔法陣を込められ、無情なまでに閉ざされた、黒々とした鉄格子だ。がしゃん、がしゃしゃん、と。無駄とわかりながら何度もそれを揺さぶって、数秒も経たずにがくりと項垂れたかと思えば。やがて他方を向き、煮える怒りを振り絞るような、激しい罵り声をあげて。)
──畜生、くそったれ!
~~~ッ!!
( この時ビビが口汚く罵らなかったその理由は、ただ隣のギデオンのように自然と出てくる罵倒の語彙が足りなかったそれだけで。その証拠に、鉄格子を強く揺らすギデオンの手を、怒りのあまりに痛めてしまわぬようそっと優しく絡めとると。一歩鉄格子へと近づいて、「"くそったれ"ーっ!」と、公私共に尊敬慕う相棒の語彙を拝借し、最早とっくに姿の見えなくなった通路に虚しく響かせてみせる。そうして、かけられた魔法錠を解析することごく数秒、「……できなくは無いかもしれないですけど、ここが水没する方が早いです!」と早々に見切りをつけて、ザバザバと水深の浅い方へとステップを昇れば。腰の杖を引き抜いて、短い詠唱とともに耐冷魔法をギデオンから順に施すと。焦りに下唇を噛みながらも相変わらず、天井がダメなら下を抜けば良い! という思考の単純明快なこと。どうもシリアスになりきれない、明るい声で提案したかと思うと。極めつけには、ドドドド……と今もどこかで水の流れる空間に、ぷしゅんっとどこか間の抜けたタイミングで小さくくしゃみの音を響かせて。 )
やっぱり天井を抜きますか?
それとも…………。ッ、レクター教授の地図!
地下の採石場って、この下にも繋がってませんでしたっけ……?
……!
このフロア、東はどっちだ。地上からはどのくらい下ってきた……!?
(隣の相棒がくるくると繰り出した、あまりに様々な諸々に。それまで深刻な面持ちをしていたはずのギデオンは、しかし虚を突かれた間抜け面を、ポカンと晒す有り様である。
──とはいえ、状況が状況だ。すぐに我に返るなり、冷たさの失せた地下水を掻き分けて、彼女に近づこうとしたところで。しかしフッと、辺りの明度が一段階暗くなり、思わず瞠った目で辺りを見回す。廊下に掲げられた松明が、ひとつ、またひとつと消えていくところだった。地下水の派手な飛沫が、いよいよその高さにまでかかるようになったせいだ。
「時間がない、」と鋭く呟き、相手の背中を押すように動かして、重い水の中をざぶりざぶりと突き進む。その道中、相棒のくれた情報から考察するに。この地下フロアはそのほとんどが、例の地下洞窟の真上にある。そして問題は、その地下の空間がどのくらいの高さなのか、それが全くわからないこと。下手に床に大穴を開ければ、吸い出される水と一緒に、ギデオンたちも真っ逆さまに落下してしまいかねない。真っ暗闇の中で重力に逆らった経験は、一応以前にもないわけではないが……ほんの少しでも間違えば、硬い鍾乳石に叩きつけられる、或いは石柱に貫かれる、そんな最期を遂げてしまうのが関の山。──故に、できるだけ正確な位置で、安全を確保しながら排水を試す必要がある。
そうしていよいよ辿り着いたそこは、先ほどまでギデオンが囚われていた牢だった。既に水嵩は随分と高く、天井すれすれに浮いて泳がねばならないほどになっていたが。しかしここにはちょうど、囚人を拘束するための鎖を繋ぎ留めておく金具が、天井にもついている。かえって今こそ手が届くその取っ手を掴んでいれば、地下水がどっと流れ出る時の勢いを、幾らか耐えきれるはずだ。
「ヴィヴィアン、」と相手を呼び、一瞬その顔を真剣に見つめれば。相手の腰を水中で抱き寄せ、天井の取っ手をがっしりと掴む。と同時に、ついに松明の火が全て地下水に飲み込まれ、辺りが真っ暗に塗り潰された。それでも相手を強く抱きしめ、荒い息を整えながら。またどこかで、どっと壁を破って噴き出した地下水がふたりに迫るその直前に、濡れた耳元に囁いて。)
──……、ヴィヴィアン、やってくれ!
~ッ、はい!!
( "猫の子と冒険者にとって、自由落下など問題では無い"
そんな冒険者を主人公とした物語の一文に、無邪気に目を輝かせたのは何年前のことだったか。ギデオンの眼差しにこくりと強く頷き、喉を反らして大きく息を吸い込むと。──最悪なのは、中途半端な穴に腕や片脚だけが引っかかり、部屋を満たす水圧に、上にも下にも身動き取れなくなってそこで窒息することだ。故に冷たい水の中、腰に回された腕を支えに杖を構えたヴィヴィアンは、その一撃を全く遠慮しなかったのだが──……ッ、水中じゃ、火属性の魔法は……! そう、真っ直ぐに狙った部屋の隅、放った火炎はその脆くなった床を撃ち抜くどころか、みるみるうちに小さくなって、最後はぷすん、と消えてなくなってしまって。その一撃に肺の酸素を全て使い果たしたビビの表情が、酷く苦しげに歪み出す。
ううん、……一度でダメならもう一度やるまでよ──としかし、顔を上げた先には最早、吸える空気などろくに残っておらず。酸欠の脳みそはいとも簡単に絶望し、軽いパニックを引き起こす。苦しい、怖い、死にたくない……! その一心で、必死にギデオンに縋りつけば、その腕からぽろりと杖を取り落としたのは、この時ばかりは"幸い"といえただろうか。目の前で相棒の得意魔法が掻き消えて、縋りつかれるギデオンにもそのパニックはありありと伝わるだろう。一瞬後の死に直面し、思考停止に陥ったヴィヴィアンを……絶対に、この人は絶対にビビを救ってくれるのだ。刻々とリミットの迫る水瓶の中、どんなやり取りがあったのかは二人にしか分からない。しかし、ギデオンのお陰で少し冷静を取り戻した娘の指先に触れたのは、冷たく硬い──いつか聖夜にも手に触れた相棒の魔剣で。その瞬間、暗い水に満たされた部屋にまるで灯りがともったかのように、鋭い光が一線。二人の視界を照らしたかと思うと、コンマ数秒遅れてドォン!! と激しい雷音が部屋を揺らして──続いたのは激しく水が流れ出す轟音だった。そうして地下洞窟へと繋がる空間へと放り出されたヴィヴィアンは、未だギデオンに抱きしめ抱えられている。そのことをしっかりと確認したあと、酷い酸欠にフッと意識を暗転させた。 )
……ッ、か、はッ…………!!
(あれから数分後。ギデオンが地下の池からざばりと身を引き上げたとき、先に岸辺に横たえたヴィヴィアンは、既にぐったりと動かなかった。──咄嗟に人工呼吸を施すが、水を吐いたヴィヴィアンは、それでも少し朦朧としてから、すぐに瞼を閉ざしてしまい。ぞっとしながら脈や呼吸を確かめて、しかしすぐに、それらは安定し始めたようだと……ただ体力を奪われて気を失っているだけだとわかって、ようやく小さくひと息をつく。相手の濡れた前髪をそっと目元から除けてやると、辺りを見回す余裕も出てきた。本来なら真っ暗なはずのこの場所は、しかし今も、柔く光る己の魔剣が明々と照らし出している。……ヴィヴィアンの込めた魔力が、今も内部で循環しつづけている証拠だ。
──あの時。杖を失い、激しいパニックに駆られてしまったヴィヴィアンを前に、ギデオンの判断は早かった。一か八か賭けるしかない、ここで溺れ死ぬのをただ待つよりはマシのはずだ、と。ヴィヴィアンを説得し、天井から手を離して、ふたりで真っ暗な水に沈み込んだその瞬間。自分たちふたりの体に、絶縁魔法……雷魔法の対となる無属性の加護を張り巡らせれば、その直後にヴィヴィアンが、ギデオンの抜いた魔剣にありったけのエネルギーを注いだ。元より相性の良いヴィヴィアンの魔素、それが増幅したとなれば、どんなに分厚い石の層も粉々に砕かれるのみ。とはいえ、ドドドド、と迸る大量の水の勢いに引き込まれ、彼女もろとも穴の底へ落ちてゆくのは免れない。──しかしここでも頼りになるのが、ヴィヴィアンの膨大な魔力で強化されたギデオンの剣。思うままにそれを振るえば、激しい魔法が反動をつけ、落下先を意のままに選ばせてくれた。──そうやって狙い定めた、地下の深い池に落ち。石の淵へと這い上がって、今に至るわけである。
ギデオン自身も、荒らげていた息をゆっくりと落ち着けて。今も輝く魔剣を手に取り、辺りを照らすように掲げる。洞窟のあちら側では、上のフロアに溜まっていた地下水が滝のように降り注いでいた。とはいえ、ここは充分に広い。高低差もあるから、ギデオンたちがいるこの場所が、再び水底に沈む……なんてことはないだろう。──ならば次に確かめるべきは、ここに瘴気が溜まっていないかどうか。己の指先を拭ってから、ごく小さな魔法火を灯す。野営時に使うそれは、きちんとした道具や、ヒーラーが用いる魔法ほど正確ではないにせよ、辺りの空気を調べるための簡易的な指標になる。炎の色は濃い橙、特に問題はなさそうだ。ほっとして魔法火を消し、再び隣の相棒を見下ろす。今はまだ耐冷魔法が効いているからいいものの、時間が経てば濡れた衣服で体を冷やしてしまうだろう。火を熾してやりたいが、燃料は持ち合わせていない……辺りに何かないだろうか。
そうして再び魔剣を巡らせ、別の方角を確かめて、はっと鋭く息をのむ。──ふたりの後方、この洞窟の一番高いところに、何か巨大な……壺のような異質なものが、不気味にぶら下がっていた。耳を澄ませばかすかに聞こえる、わんわんとした嫌な音……もしやこれは、無数の羽音か。身構えるギデオンの脳裏に、ふとジョルジュ・ジェロームの手記の一文が蘇る──『この村の飼う特別な蜂は、隣の平屋の地下にある鍾乳洞に巣をつくる習性だそうだ』。そうか、あれがその蜂の巣か。フィオラ村が崇め立てる「花」の蜜、人を魔獣に変える秘薬の材料。それがこんな、真っ暗な闇の中で作られていたというのか。
……ということは、と。一度ヴィヴィアンを振り返ったギデオンは、念の為の防護魔法を彼女に慎重に施してから、剣の温かな灯りを頼りに、ひとり洞窟へ歩み出した。蜂の巣のすぐ真下まで来てみれば、果たして足元の石床はどうだ。真上の蜜が何十年と滴りつづけたせいだろう、血のように真っ赤な、半透明のまだらな層が広がっている。不気味なそれを避けながら、さらに周辺を確かめれば……あった。蜂たちを燻す時に使う燃料、その足しにする藁が、壁際の木箱の中に隠されていた。手で触れてみた限り、幸いほとんど湿気ていない。
それを箱ごと拝借し、ヴィヴィアンのそばへ戻る過程で、ふと魔剣が反応を示した。かたかたと引きつける方を見てみれば、一体なんたる偶然か──あるいは、互いの宿した魔素による必然か。水の流れの溜まったところに、ヴィヴィアンの杖が浮いていた。それも大事に拾い上げると、すぐに戻った池の淵で、まずは彼女を抱き上げる。ここは駄目だ、あの蜂の巣の辺りからあまりにも目につきやすい。万が一のためにと、周囲から隠れた横穴に落ち着いた。
そうして彼女をそっと下ろすと、穴の手前に木箱を置き、魔剣の切っ先でバラバラに砕く。あとは燃やしやすいように整え、己の魔法火を慎重に移すだけ。──ほどなくして、小さな焚き火がパチパチと小気味良く爆ぜ。ふたりの隠れている空間を、ささやかに暖めはじめた。)
(──脱いだ衣服の水気を絞り、そばの手頃な石筍に引っ掛けて。次にヴィヴィアンを抱き起こすと、そのシャツやコルセット、ブーツや脚衣までをも剥ぎ取って、いずれもしっかり絞りきる。恋人同士とは言えど、相手には悪い気もするが、この非常時に風邪をひかせるほうが悪手だ。そうして今度は、下着姿になった相手を、己の胸によりかからせて。床で寝ているよりずっと広範囲の面が、炎の暖気に当たるようにと調整しながら、己の体温も分け与える。
そのひとときの間にも、近くのつらら石から滴っている雫の音のリズムによって、おおよその経過時間を測る。──地下室の異常に気づいた村人が、自分たちの大事な蜂を確かめに来るまで、どのくらいかかるだろう。大回りをして地上のどこかから洞窟に入るはずだから、どんなに厳しく見積っても、二時間ほどにはなるはずだが……。そもそも、ギデオンがあの蛭女の手下どもに倒されてから、どれほどの時が過ぎたのか。レクターは、仲間たちは無事だろうか。儀式はいったい何日後だった、あの少年が秘薬を飲むまであとどのくらいだ。──だが、それでも。たった今死にかけた自分たちとて、今ここで少しでも休み、態勢を立て直さねば、生きてこの谷を出られなくなる。
……はたしてどのくらいの間、そうして過ごしていただろう。ぴちょん、ぴちょんと響く水音を聞き漏らさぬ以外、意識を薄めて休んでいたギデオンは、ふと身動ぎを感じとって、うっそりと下を見た。とうに乾いて温もりを取り戻したヴィヴィアンの身体、そこに少しずつ意識を通いだしたのを感じる。すっかり元気を取り戻した時に気恥ずかしい思いをさせぬように、と、傍に干していた相手のローブを引き寄せ、その身体にそっとかければ。栗毛に軽く唇を触れ、「……目が覚めたか、」と穏やかに呼びかけて。)
──……ギデオンさん、はい、ここは……、っ!?
( ひゃあぁっ!? と。パチパチと暖かな火だけが爆ぜる空間に、どこか間の抜けた平和な悲鳴が響き渡る。なんで、なんで下着なの!? と、かけられたローブを掻き抱いくことで、かえって白くまろい腹、その豊かな胸部を覆う清廉な白まで際どく覗かせていることを、混乱中の娘は気づかない。そのままの様子で周囲を見渡し、未だ乾かぬ石筍の衣服に、やっと状況を把握すると。「……あ、そっ、か。ご、ごめんなさいっ……びっくり、しちゃって……」と一応、納得はするものの、項垂れる肌が首の根元まで紅いのは、ただ炎に照らされているそのためだけではないだろう。
あれからどれくらい時間が経ったのか。服の乾き次第を見るに、それほど長時間気を失っていたわけでは無さそうだが──火属性の魔法が水に弱いだなんて、魔道学院の一年生だって知っている基礎の基礎だというのに。産まれ持った魔力量にあかして甘く見ていた。あまつさえ簡単にパニックに陥り、大切なギデオンのことまで酷い危険に晒すなんて。そんな情けない自分のことを、背後の相棒はこんなにも優しく気遣ってくれているのに──そんなことを言う権利もなければ、言っている事態でもない。そんなことは分かりきったその上で、心の準備もせずにこうして肌を晒していることが心の底から恥ずかしくて堪らず。そしてまた、それを恥ずかしいと思ってしまう自分も、意識過剰で、幼稚で、本当に恥ずかしくてたまらないのだ。とっくに乾いていた筈の背中を、しっとり羞恥に湿らせて、こんな時に何を思い出しているのかと謗られれば、フィオラの前にビビの自尊心が崩壊してしまうに違いない。故に、酷く赤面しているだろうそれを相手に見られないように、ローブで身体の前面を隠しながら小さく小さく丸まれば。むしろ無防備なうなじや背中を晒すだけになるのも気付かず、小さな膝に赤い顔を埋めて。様々な羞恥に小さく震えながら、今にも消え失せてしまいそうなか細い声を絞り出して、 )
その……さっきのことも、ごめん、なさい…………。
どこか……痛んだりとか、ご気分は…………
平気だ──と、言いたいところだが。
盛られた毒が、少し厄介な手合いだったみたいでな……悪いが、もう一度診てもらえるか。
(ぱっと慌てふためいて、そろそろ辺りを見回して、しおしおへなへなと真っ赤な羞恥に項垂れて。いつも以上にいじらしい相手の様子をぼんやりと眺めるうちに、思わずふっと、気の抜けたような穏やかな笑みを浮かべてしまう。そうして背後の石壁にもたれ、目を閉じて答える声は、微かに疲れつつ寛いだもの。──実際、さほど深刻ではない。冒険者の常として、念のため程度の報告に努めているだけなのだ。
ヒーラーという職業は、どんな傷でも病でも、たちまち癒せると思われがちだ。しかし実際には、治せるものと治せないもの、治しやすいものと治しにくいものとの別がある。そのなかでも、毒を受けての症状は、比較的に治しにくい……というより、治しづらいもの。これは毒という原因成分が、その種類次第では、一般的な治癒魔法が効きにくいということもあるし。或いは一歩間違えれば、そのケースには不適切な体内作用を安易に活性化させることで、寧ろ重症化を招くリスクも孕んでしまうからである。
故に最初の段階は、浅く広くしか治せぬ代わりに、毒の作用を劇化させることがまずない、万能解毒魔法を施す(たしか、かのシスター・レインが確立させたものであったか)。大抵の毒はそれで治る。しかし強い毒、珍しい毒であった場合は、もちろんそれでは収まらない。しかし一旦は症状の進行を和らげられているはずなので、その間に毒の成分や作用を特定。より適切な治癒魔法なり薬草なりを処方して、寛解に繋げていく……それが昨今の定石なのだ、と。以前ヴィヴィアンに、サリーチェの寝室で微睡みながらそう教わった。
彼女が地下に駆け付けたときにギデオンを包み込んだのも、まずはあのレイン式解毒魔法と、それから通常の治癒魔法だったのだろう。ふたつを同時に施すのは並のヒーラーの業ではないが、少なくともギデオンが後頭部に負っていた傷は、完全に塞がっている。あれでだいぶ和らいだ上、当時はギデオンもアドレナリンが出まくっていたから、もうすっかり良くなったものと思い込んでしまっていた。──しかし今、この地下洞窟でゆっくり落ちついてみればどうだ。村人に盛られた毒は、どうやらまだまだしぶとく残っていたらしい。うっすらと続く吐き気に、ごくごく軽度の意識混濁、びりびり残る手足の痺れ(ヴィヴィアンの杖を拾うとき、少しばかり苦労していた)。試しに己の掌をぼんやりと眺めてみれば、実際指先が白っぽく変色しているのだから、何やら妙な毒である。後は倦怠感があるが、これは一瞬程度であれど、重い水に振り回されたからかもしれない。とはいえどれも、耐えられない、動けないほどではない……ないのだが。「そういうのも、きちんと隠さず報告すること!」「“我慢できる”は、“問題ない”とイコールではないんですよ」と、これも相棒に教わったことだ。
故に瞼を下ろしたまま、それでもきちんと、自分の自覚する症状を説明しては。相手が近づけば大人しく身を委ね、しかしほとんど無意識に、その手や頭に軽く触れ。もはや体に沁み込んだ、いつもの習慣めいた……それよりはしょうしょうぎこちのない手つきで、ごくかすかに撫でる仕草をするだろう。)
……おまえが謝ることなんてない。
寧ろおまえがいてくれたおかげで、あそこから脱出できたんだ……ありがとうな。
…………、
( ──あ、ごめんなさい、もちろんです、と。自分の症状を教えてくれたギデオンに、それまでの恥じらいぶりはどこへやら。くるりと振り返って、相手の脚の間に膝をつき、首筋の脈や顔色、瞳孔の開きなどをじっと丁寧に確認すれば。とろんと気だるげな視線をこちらに向けて、ぎこちなく触れてくれる相棒の甘言に、涙を耐えがたそうに下唇を噛み。 )
──……こちら、こそ。
私も、ギデオンさんがいなかったら、絶対脱出なんてできませんでした、ありがとうございます。
( そうして、欲しい言葉を的確に与えてくれる相棒に、これが自分だったらどう返されるのが嬉しいだろうと。ついまたうっかり謝ってしまいそうになるのを飲みこんで、その冷たい掌を上からそっと包み込み、小さく控えめに頬擦りすれば。大好きな掌に、堪らずちゅう、と丸い唇を押し付けた後、迷いのない手つきで治療を始める娘の表情からは、必要以上の緊迫感や後暗さなどはすっかり消え失せてしまっていた。
解析の結果も、不幸中の幸いと言うべきか。盛られた薬は物理的な身体の動きと、理性の働きを少し鈍らせるためだけの麻酔にも使われる弱いそれらしく。ヴァランガで取れるのだろう珍しい植物の組成こそ慣れないが、これならビビの魔法で一時間もせずに浄化できるだろう。それでも、少しでも効率よく排出させるため、たっぷりと煮立たせたお湯を冷まして飲ませ、指先や耳などの身体の末端に、魔力のめぐりを良くする軟膏を真剣な表情で塗りこめば。最後に再度、最適な治療魔法に杖をふり、胸元や首筋、長く太い指先などをぺたぺたと、ビビの魔素が正常に巡るのを確認すれば。ほっと安心した反動だろう。ぺたりと相手の太腿にお尻をつけると、かすかに小さく震える腕を相手に回して、ぎゅっと強く抱きついて。 )
ごめん、なさい……安心したら、思い出してしまって。
少しだけ、こうさせて……?
…………。
……“少し”でいいのか?
(相手の声にうっそりと目を覚まし、そちらを見ようと身じろぎをしたものの。未だぼんやりしているギデオンの視界には、鼻先が軽く触れるほど近くに、栗色の小さな頭が深くうずまっているばかり。今のヴィヴィアンがどんな表情を浮かべているのか、それを直接この目で確かめる術はないようだ。……それでも、じかに伝わるその震え、酷くか細いその声を聞けば。今のヴィヴィアンがどんな気分か、ギデオンに何を求めているのか、感じ取るのには充分で。
焚火にちらちら照らされ横顔に、優しい気配を忍ばせながら。一度返事を保留したまま、背後の岩により深く身を預け、相手を軽く抱き直す。そうして、こちらにすっかりもたれかかれるようにしてやりながら、そのさらさらした華奢な背中を、ぽん、ぽん、とあやすこと数度。笑うような吐息と共に、ごく穏やかに喉を鳴らして。──ほとんど素肌同士で密着している今、いつも閨で使う台詞をそのまんま持ち出すのは、いささか不謹慎ではあるだろう。しかし今はあくまでも、ただ労わりを込めたつもりだ。心行くまですがっていい、おまえのおかげでこうして回復しているんだから、そのための俺だろう、とと。そう伝えるつもりで、ポニーテールの毛先に指先を戯れさせたり、背中を大きくさすったりして、相手をゆっくり宥め続けることしばらく。何とはなしに上を見上げ……地上や地下の人間たちの殺し合いなど露知らぬ地下洞窟、その鍾乳石の稀有なきらめきを眺めながら。やはり語るのはどこまでも、何てことのない愛の言葉で。)
──……旅立ってから、もう随分長く発ったような気がするな。
家に帰ったら何を食べたい? ニックの店でテイクアウトしていくのもいいし……普段お前がよく作ってくれてるんだ、俺に作れるものでいいなら、そっちの手もある。
( 背中を滑る大きな掌、低く震える太い喉。頭上から語りかけられる口調でさえも、その甘く穏やかな文脈は、明らかにビビを励まさんとする文脈にも関わらず──こんなときまで、食べ物の話ばっかりなんだから、と。きっと無意識なのだろう、本気で頼りになる恋人の表情を浮かべた相手の、どうしようもない可愛げに、思わず小さく吹き出せば。いつの間にか震えも止まり、それまで襲われていた恐怖も、すっかりどこかへ消え失せてしまうのだから不思議でならない。そうして、前髪が擦れる音をたて、伏せていた顔をくしゃりとあげれば、未だ少し色の薄い唇にちゅっと小さく吸い付いて。 )
──……ギデオンさんがいい。
( そうして、少し冷たい唇に、己の体温を移すよう何度も、何度も丹念に口付けていたその間。たべたいもの、たべたいもの……と素直に思考を巡らせれば、脳内に浮かぶのは、カトブレパスのステーキにチョリソーのポトフ、それからキャベツのミートボールスープ……それら全てを、美味しそうに平らげる恋人の姿ばかりなのだから仕方がない。蜜月の唇が少し離れたその隙に、ぽつりと掠れた吐息を震わせて、「ギデオンさんの、食べたいものがいい」そう回していた腕を地面について、ゆっくりと身体を起こしていきながら、足りなかった言葉を付け足し繰り返すと。相手の頬を両手でそっと包み込み、愛おしそうに微笑んで。 )
ギデオンさんが美味しそうに食べてるところが見たい。ね、いいでしょう? 何が食べたい……?
…………、
(最初に吸い付かれたその時は、相手の可愛らしい甘えにたっぷり応える気でいたというのに。柔い熱を何度も押し当てられるうちに、相手の背を擦っていたギデオンの手つきは、次第に眠気を帯びるかの如く、緩慢なそれへ成り果てていく。……そして実際、今やどうだ。相手に微笑まれたその時にはもう、目元がぼんやりと寛いで、反応も随分鈍い。最初の愛しい語弊を揶揄う気すら起こせずにいる。ただただ、心地が良いせいだ──相手の温もりに巻かれることが。
故に、相手の指の腹が目元を優しく撫で下ろす仕草に、無言で身を委ねながら。たべたいもの……たべたいもの……と、奇しくも同じ思考回路をとろとろと巡らせて。やがて今度は相手の手をやんわりと取り、その小さな掌の内側に、薄い唇を含ませる。そうして、特に何とはなしに親指の根元のふわふわした丘を食みながら。やがて甘えた小声を吹き込む──「ウルスストロガノフがいい、」と。)
前に……ほら。
ふたりで、グランポートのあの通りを……ぶらついたろ……
(「あの時に看板で見かけて、ずっと気になっていたんだ……ウルス料理が……」と。そうは言ってくれるものの、しかしなかなかの要求である。ウルスという魔牛の一種は、カトブレパスほど強い臭みはないものの。海水で締めると美味くなる、というかなり風変わりな品種で、それ故扱いが難しいのだ。締める際の技術はもちろん、それ以上に、牛と海の二つの風味をバランスよく纏め上げるのが、大層至難の業という。おまけに、当時ふたりで眺めたのは、夏向けのさっぱりしたメニューだったはず。それを、今は冬場だから、体が温まるシチューがいい、なんて、言外に強請ってのけている。──しかしそれでも、ヴィヴィアンならできるだろう、と。或いは自分のためにしてくれるだろう、と。そんな贅沢な信頼と甘えを、ひと息に寄せたものらしい。その後もしばらく、「本場だと、アーケロンの甲羅を器にして食うらしい……」だの、「ショールムの卵で綴じる地方もあるとか……ないとか……」だの。こちらは流石にオプションではなく、以前何気に調べ尽くしていた飽くなき探究心の成果、それをただただ吐き出しているだけなのだが。何にせよ、そういった話を相手がこうして聞いてくれる、それに心底満たされるらしく……ぐるぐると喉を鳴らし続ける有り様で。)
んっ、ギデオンさ、擽ったい……!
( 普段は悠久の石灰水だけが静かに滴下する地下洞窟に、くすくすと軽やかな笑い声がこだまする。魔法で活性化された免疫が、少しずつ仕事を始めたのだろう。横たわる体躯を大儀そうに弛緩させ、口寂しさに人の掌を食むギデオンの姿は、これ以上なく可愛らしいというのに、そのおねだりの内容は全くもって可愛くないのが彼らしい。それでも、否、それだからこそと言うべきか。ビビの我儘に気を使う事なく、本気で食べたいものを答えてくれた距離感が嬉しくて、自然と満面の笑みを浮かべると。未だ素直にポソポソと、その飽くなき探究心の結果を披露しているギデオンに、思わず愛おしさが爆発し、「……じゃあ、早く帰って練習しなくちゃ」と、そのなだらかな眉間、こめかみ、そして再度唇にそれぞれ深く、小さく唇を落とす。そうして、いつまでもそうしている訳にもいかず、名残惜しそうに身体を起こすと乾いた岩場に膝をつき、引き寄せたローブを今度は相手にかけてやりながら。もう一方の形良い金の頭に添えた手を、そっと自分の膝に導いて。 )
──……そのためにも。
少ししたら起こしますから、今度はギデオンさんが休んでください。
…………
(本来のギデオンならば……責任感も無謀さも、等しく強いギデオンならば。今この最悪の状況で、これ以上自分のために休む時間をとるなどと、到底考えなかっただろう。地上の魔窟、フィオラ村には、まだ一般の同行者を置いてきたままにしている。頼りのはずの仲間たちも、ほとんどが行方不明で、無事かどうかわかっていない。それに先ほど、ギデオンたちがいた地下牢の真上では妙な異変が起きていた。あれについても未詳のままだ。それに何より──そうだ、あのとき、一度大きな地震があった。今いるここは鍾乳洞、先ほどよりも余程危険な環境と言える。頭上にいくつも連なっている、あの幾つものつらら石……あれがいつ、次の大揺れで崩れ落ちてくることか。
それでも、そんな差し迫った状況下で。それでも己のヴィヴィアンが──ここで休め、と告げたのだ。それだけでギデオンには、一切が充分だった。まるで全身の細胞が彼女に従うかのように、とろりと意識が溶けていき。巡り始めた免疫が、隠れていた疲労感をひとつひとつ抱きとめていく。結局、そういうことだった。ギデオンの体の状態は、ヒーラーである相棒こそが、最も正確に把握している。そして、どんな状況にあろうと……ヴィヴィアンの傍で休息するなら、彼女が大丈夫と言うのなら。その瞬間は世界でいちばん安全なのだと、己も信じきっている。
故に、小声でただ一言、「……助かる、」とだけ呟いたギデオンは、その頭を相棒の膝に委ね、静かな眠りに落ちていった。時間にしておよそ十数分……何も起こらぬ十数分。巨悪を前にした戦士にとって、それがどれほどありがたいひとときであったことだろう。ただ身を休める、それだけのことが──この先に待ち受ける死闘で、どれほど多くの生死を分けたことだろう。)
(それから、数時間ほど後のこと。地上に出たギデオンとヴィヴィアンは、真夜中を迎えたフィオラ村の端に舞い戻り、闇に隠れた建物の上で、じっと“その時”を待っていた。とはいえ今は、自分たちふたりきりで戦っているわけではない。遠く近く、様々な場所で。これまで一緒にやって来た冒険者仲間たちもまた、秘密裏の作戦にあたっている最中である。
──あの後。ふと優しく揺り動かされて目を覚ましたギデオンは、ふたりの元に小さな精霊が訪ねて来たことを知った。しばらく前にヴィヴィアンが火のマナを分け与えた、あの痩せた火の精である。彼女はどうも、飢えを癒してくれたヴィヴィアンに、余程深く感謝したらしい。地下洞窟をさ迷っている仲間たちの元へ次々に導く、という恩返しをしてくれたのだ。
全員ではないにせよ、冒険者たちは再び集い、その結束を改めて固めた。互いにこれまでのいきさつを話し、持っている情報を交換し、諸々を判断すれば、皆の目的はただひとつ──この恐ろしいフィオラ村を、一刻も早く脱出すること。しかし、それには問題があった。まず、まだ合流できていない仲間たちが複数いるという状況。次に、同行者のレクターたちを、未だ村に残していること。それに、自分たちの運命をつゆ知らぬだろう村の子どもらを、決して見捨ててはいけない。最後に何より……この峡谷そのものが、非常に険しい土地であること。ヴァランガは陸の孤島だ。件のウェンディゴ以外にも、凶暴凶悪な大型魔獣が数え切れぬほど跋扈している。下手に措置に飛び出したところで、生きて帰れるとは限らない──そこに迷い込んだのが、冒険者でさえなかったら。
覚悟を決めた顔ぶれによって、部隊が再編制された。仲間を見つける捜索隊、レクターや子どもたちを外へ連れ出す救出隊。物資を確保する回収隊に、各隊を守る護衛隊、それからこれらすべてを助けるための陽動隊だ。このうちギデオンとヴィヴィアンが引き受けたのは、レクターたちと子どもたちを外に連れ出す、最小単位の救出隊。もうしばらくすれば、陽動隊が騒ぎを起こし、フィオラ村の注意を引く手筈となっている。その隙に彼らの元へ駆けつけ、護衛隊と共に脱出する作戦だ。
時は真夜中。空には不気味な黒雲が蔓延り、低く速く流れていた。月明かりは一切ない──しかし代わりに、村のあちこちには、おどろおどろしく燃え盛る大きな松明が据えられている。儀式を前に、フィオラ村は様変わりしていた。清廉な白い家々の並ぶ牧歌的な風景は、今や魔獣の彫り物や、男女の肉体を模した彫像、ヘイズルーンの肋骨などで飾り立てられ、見るだにおぞましい様相である。屋根の上に隠れているギデオンたちの眼下を行くのは、不気味な魔獣面をつけたフィオラ村の大人たちだ。……儀式が間もなく始まろうとしている。子どもたちとレクターたちは、今はあの、厳重に警備された建物の中に──あの不気味なタペストリーとともに、閉じ込められているのだろう。そしていざその時になったなら、あちらのあの舞台に。エディ・フィールドの伝説が演じられていた、あのステージに引きずり出されるはずだ。そばにある“鉄の処女”は、おそらくフンツェルマン工具店から仕入れたミートミンサーに違いない。
レクターと助手たちが、無理やりあれに入れられて、“英雄”の贄とされる前に。惨い宿命を負わせるべきでない子どもたちが、舞台の台座で秘薬を呷らされる前に。──ギデオンが、ヴィヴィアンが、戻ってきた冒険者たちが、かれらを救わなくてはならない。)
……ヴィヴィアン、
(──しかし、そのような状況下でも。相棒を再び危険に晒すことを、恐れていないと言えば嘘だ。
馬鹿げているのは百も承知。ギデオンもヴィヴィアンも、冒険者という職業をしている以上、多少の危険はとうの昔に覚悟している立場である。市民を守るためとなれば、それはなおのこと当然となるし……自分だけ安全圏に下げられるような仕打ちは、寧ろこの上なく忌み嫌うだろう。そうわかっているはずなのに、恐ろしさは打ち消せなかった。今のギデオンは独りではない──故に強く、故に弱い。もしも己の大切な片割れに、取り返しのつかないことが起こったら。その時自分は、後悔せずにいられるだろうか。危険性を知っていながら愚かな思考放棄をしたと、己を呪わずにいられるだろうか。13年前のあのときも、以前の春先のあの時も、ギデオンは実際に判断を間違えたのだ。今回は違う、などという確証がどこにある。
そんな暗い考えを、今一度振り払おうとするかのように。相棒の名を小さく呼び、そっとその手を絡み取る。それ以上何を言うでもなく、相手の顔を見るでもない。依然その目は、地上の成り行きを監視するまま。それでもその手元だけは、相手の温かく柔らかなそれを、今一度……言葉にできぬ祈りを伝えようとするかのように、ただ力強く握って。)
ギデオンさん──
( 作戦開始を待つ宵闇の中。優しく、というよりは縋るようにと表現する方が近い様子で握られた掌に、自嘲のような笑みが頑なに漏れる。この村に来てからというもの、それなりに強く、頼れるヒーラーのつもりでいた、そんな不遜な自己評価は、あまりにも呆気なく打ち砕かれた。杖を振り上げる訳にいかない相手を前に、じわりじわりと追い詰められていった己の一方で、今はこうしてビビに縋ってくる相手や、ほかの経験豊富な仲間達のなんと頼もしかったことか。──私はまだまだ残念なくらいに未熟だ。それでも、こうして杖をしっかりと握り、すべきことを見据えた時くらいはどうか、 )
──信じてください。
( こちらもまた祈るように漏らした掠れ声をかき消すように、作戦開始の鏑矢が響いたその瞬間。ヒーラーとして、相棒として、自らが役に立つことを証明しなければ。そんなどうでも良いことを一心に、この時、誰より大事なギデオンの表情を顧みなかったことを、酷く後悔することになるとは夢にも思っていなかった。
捜索隊が残りの仲間を見つけた合図を皮切りに、陽動隊の爆破が村を──厳密には、儀式がとり行われる舞台から見て、村の方向にある森を揺らす。幾ら悪習の隠れ里といえど、何も知らない子供達にとっては大切な故郷だ。村自体の存続を脅かす権利は冒険者達にはない。あくまで一瞬、儀式に関わる連中の視線を逸らせれば良い。続いて養蜂場の方角、花畑の方角と作戦通りに衝撃音が響いて、焦った村民たちが慌てて儀式を進めんと、"英雄"になる少年を建物から引っ張りだしかけたところを、ひらりと屋根から舞い降りて警備ごと眠らせ、少年、レクターの助手、そしてレクター本人を発見出来たところまでは良かったのだが。まずビビが少年、ギデオンがレクターの縄を解いてやらんと近づくと、最初に硬い縄から開放されたレクターが叫んだのだ。「──ウェンディゴが来ます!!」陽動が陽動でおさまらず、本当に結界が破られてしまった──そうレクターが二の句を次ぐ前に、五人の上に長い角をもった影がさす。ゆうに3mを越す毛むくじゃらの躯体が、助手の縄に手をかけていたギデオンを狙うのを咄嗟に杖で庇おうとして、その杖ごと木製の壁に激しく叩きつけられる。咄嗟に魔法で受身をとった故に大きな損傷は免れたビビの視界に、大きく丸い満月が毒々しいほど輝いて、ウェンディゴ──もとい、フィオラのエディを照らしていた。 )
ギデオンさん危ないッ…………!!
──……ッ!
(囚われの民俗学者が、何事かを訴えんと必死に唸っていた理由。それは猿轡を外した途端、いつにも増して懸命な大音声で知らしめられて。しかしギデオンが振り向かぬうちに、今度はヴィヴィアンの悲鳴が上がる。レクターのそれよりもさらに緊迫したその声色、瞬時に全てが理解できた。差し迫る敵の威力も、彼女の次の行動も──自分が、何をすべきかも。
身を翻して伸ばした片腕。それは大切な相棒……ではなく、手前にいた村の少年を引っ掴み、ふたりでどっと地面に伏せた。瞬間、鞭のようにしなる巨腕が頭上をぶんと掠めていって、その先にいたヴィヴィアンを襲う。彼女がその杖崎に聖の魔素を集めたことで、目論見通り、闇属性の塊であるウェンディゴの気を引いたのだ。情け容赦ない一撃が、己の相棒を吹き飛ばした。耳に届く破壊音、常人ならば即死だろう。だが、己の相棒ならきっと……こちらが子どもを引き受けたことで、己の魔法を自衛だけに注ぎきれたならきっと。今はそれ以上考えず、湧きあがるものを押し殺して、次の行動へと駆ける。魔物がひとつ挙動を起こした、その隙を逃がす暇はない。ウェンディゴの一撃を逃れたレクターたちの元へ行き、「先に逃げろ!」と怒鳴りながら、子どもを彼らに押し付けた。小屋まで行けば仲間がいる、そこから無事に脱出できる、頼むから先に行ってくれ、俺たちのことを思うなら! そう肩越しに言い捨てて、振り返らずに走り出す。腰の魔剣をすらりと引き抜く、強張った顔で詠唱する、宙へと高く躍り上がる。
異形の怪物が振り向いた。腐った獣のような巨体、ぐぱりと開いた不気味な下顎。真っ暗闇の眼窩ふたつが、ギデオンをぎょろりと見据える。──ヴァランガのウェンディゴ、“エディ・フィールド”の成れの果て。その悍ましく醜い面に、ギデオンは渾身の力で、魔剣の一撃を叩き込んだ。作戦前にヴィヴィアンが掛けてくれた聖魔法と、己自身の雷魔法……ふたつを幾重にも掛け合わせ、ドラゴンすら倒す代物だ。バリバリというすさまじい音とともに、絶叫が谷にこだました。すぐに着地したギデオンは、険しい顔で振り返り、敵の様子を見届ける。……覚悟してはいたものの、流石は200年もフィオラを呪う死に損ないといったところか。今の攻撃程度では、奴を焼き切れはしなかったらしく、地に堕ちた屍もどきが苦悶の声を上げている。
それに構わず、先ほどの破壊で生まれた瓦礫の山を駆け登ると。「ヴィヴィアン、ヴィヴィアン!」と必死に呼びかけ、木材をどけていきながら。やはり無事ではあったらしい相棒の、逆さまで半分埋まっていた上半身を掘り起こす。そのどこかあどけない顔を見た瞬間、安堵でがくりと来そうになったが、緊迫感でどうにか持ちこたえ。大きく息を震わせながら、「逃げるぞ、」と、囁きかけた……しかし、その瞬間だった。
──どこからか、ウェンディゴとは別の呻き声が上がった。だが何故だろう、異形の魔物のそれよりも、はっきりと何かがおかしい。はっと振り返ったギデオンが、ヴィヴィアンを支え起こしながら瓦礫の下を見下ろせば。儀式のためにここに集い、先ほどまではウェンディゴに恐れをなして逃げ惑っていた筈の、フィオラ村の人々が、何故かまたここに戻ってきている。……どうして皆、あんなにぼうっと突っ立って、夜空をまっすぐ見上げているのだ。一様に虚ろな顔が、満月の光を受けて不気味に白く輝くほどだ。なのにその両目も口も、まるで憑かれでもしたかのように、異常に虚ろな様子をしている……。ギデオンも空を見上げた。ヴァランガの満月は、標高が高いせいなのだろうか、圧を感じるほどに大きい。その端にかかっていた薄雲がすっかり消えて、月球の輝きがいよいよ最高に達した途端。──ぐちゃっ、ばきっ、めりめり、と。思わず総毛立つような、受付難い不気味な音が、不意にふたりの耳に届いた。苦しみ悶えるウェンディゴではない、あれの起こす物音ではない。それにまるで注意を向けないフィオラの大人たち、かれらが首を傾げたり、突然激しく痙攣したり、そういった異常な挙動を見せるたびに起こる音だ。──いや、まさかアレは、何だ。人間であるはずの、あいつらの体が、形が……。
もうこれ以上見ていられないと判断し、相棒の方を振り向く。今のギデオンがその顔に浮かべているのは、“ヴィヴィアンを危険に晒した”という先ほどのそれとは違う……全く別次元の、心底覚える恐怖だった。)
……ヴィヴィアン。
ここを、ふたりで。──死に物狂いで、脱出するぞ。
──あ、あ……いや、そんな……!!!
( 未知の症例を目の前にして、その行為は医療人としての本能だった。どんな情報が治療に繋がるか分からない。その一片の変化も見逃さぬように大きく目を見開いたが故に、あまりに信じ難く悍ましい光景に固まっていたビビを、相棒の声が冷静……とまではいかないが、放心状態から引き戻してくれる。──いま、今、目の前で何が起こった? 確かに得体の知れないところはありつつも、昨日まではごく普通に会話を交わし、共に晩餐についた人間の形が、ビビの目の前でバキバキメキメキボキボキと音をたて──「……ぅ、ぇッ」ギデオンの強い力に腕を引かれながら、先程の光景を思い出してしまって、逆流した胃の腑の中身をビチャビチャと地面に叩きつける。 )
──ダメ!!!
教授たちをッ……さっきの子も! 小屋に行かなくちゃ……!!
( 幾らこちらを敵視して悪意に満ちた鉾を向けようと、ただの一般人が警戒モードの冒険者にとって脅威の欠片にもなりはしない。あくまで人間を相手取るつもりだった小屋の配置人数では、レクターらを守って脱出するには心許ない。しかし、本気で焦っているようで、そんな甘いことを言えたのも、ギデオンの背後に守られて、その先にゆらりと蠢く影を目にしていなかったからに違いない。 )
あれ、は……むらおさ……!!
彼なら、何か知って……、…………?
(人体のメタモルフォーゼ。それ自体は、実は特段珍しい話ではない。たちの悪い妖精、或いはマナに満ち満ちた精霊。そういった人外の手によって、ヒトは案外簡単に変貌を遂げる。ギデオン自身も、以前ピクシーに襲われて犬化したことがあるくらいだし、ヴィヴィアンの父ギルバートがいつまでも若々しいのは、偉大なる精霊の寵愛によるものだ。だが、それと魔獣化は違う。金貨を溶かして鍵に作り変えることはできても、肉を生み出すことはできない。それと同じで、ヒトが魔獣になることも、魔獣がヒトになることも、そのルーツの違いからして、本来完全に有り得ないのだ。
一説によると、魔獣の父祖は、かつて古代世界を滅ぼした四巨人のひとり、“死の巨人”だとされている。その者が一度地上を滅ぼしてから大地に斃れたその骸……その背骨が、やがて今日のカダヴェル山脈として聳え立つようになった。しかしその骨髄は今も尚生きていて、新たな血を造りだし、その一滴一滴が魔獣の命を生んでいる。だから魔獣は皆一様に、深紅の魔核を持っている──。もっともらしいこの論は、無論あくまでも伝承の域を出ない。しかしそれでも、多くの魔獣がカダヴェル山脈を生息地とし、そこから大陸じゅうに広がっていったのは、歴史的な真実だ。それから、普通の動物にはない肉体強度や魔力、不死性、そういったものを生まれ持つのも本当だ。──だからやはり、魔獣というのは、我々とは父祖が異なる生きものであるのだろう。我々と魔獣は、違う血が流れている。我々と魔獣の間には、絶対の垣根が存在する。その一線は、決して揺らぐことがない。
この世界の多くが信じるその常識を、ギデオンも信じていた。だがしかし、それならば。──今目の前をやって来るあの老人、その額に輝く赤は……何なのだ。)
……クルト……
貴、様……
(思わず声が低く震える。ヴィヴィアンを己の背後に庇いながら、それでも目の前の光景を、思わず愕然と見つめてしまう。ふたりは今、村人たちの異変を前に、儀式の祭壇から逃げ出してきたところだった。しかし小屋までまだ遠いうちに、ギデオンが不意に“それ”を見つけ、ふたりで立ち止まったのだ。──小屋へと続く道の向こう、月光に照らされて……痙攣しながら歩んでくる人物。それはこのフィオラ村の長、老人のクルトであった。どういうわけか儀式の場にはいなかった彼は、しかし今、首を直角にぼっきりと傾け、肩や肘を発作的に跳ね上げ、時に上半身を左右にゆらゆら振りながら、ふらふらこちらに歩いてきている。そこに首長など風格などなく、白い礼服は血や泥でぼろぼろだ。
より近づいてきたクルト、その額には、やはり魔核としか言いようがないものが、間違いなく出現していた。そしてその顔面は、何故かしわくちゃに、脂汗をいっぱいに浮かべながら笑っている有り様で。苦し気な目尻から血の涙が流れた瞬間、「ころしてくれ、」と、絞り出すようにクルトが言った。「ころしてくれ、ころしてくれ……ころしてくれ、」。べしゃり、と老爺が地面に落ちる。倒れるというよりは、己の体を地面に激しく打ち付けるような勢いで、ギデオンは咄嗟にヴィヴィアンの腕を掴み、助けるなと無言で叫んだ。「……だれかが、我々の祝杯に……蜜を……! ああ、絶対に……あの腐れ娘が……」あの穏やかさが嘘のように罵るクルト、その額を見開いた目で見据える。割れて血の噴いたそこは、深紅の石がめきめきと体積を増しはじめていた。「──嫌だ、嫌だ! 英雄になるのは、わしではない……わしの孫たちでもない! そうなるくらいなら、頼む……頼む……、」
──それが、人間クルトの言い残した最期の台詞だった。あまりの有り様に立ち尽くすふたりの前で、老爺の肉体はあっという間にぼこぼこと膨れ上がり、醜いけだものへ変貌していく。──それも、そこらの狼ではない。額に真っ赤な魔核を宿す、見上げるほどに巨大な魔狼だ。)
──ッ、ヴィヴィアン、走れ!
(ほんの一瞬。ゆらりと頭をもたげた獣が、最早人間としての自我を感じぬ、無表情な灰色の目で、こちらを見つめた次の瞬間。──むらおさだった巨大な魔狼は、いきなりこちらに、剣山のような牙の生え並ぶ口をぐばりと晒して噛みついてきた。その喉奥へ反射的に雷魔法を叩き込み、躊躇いなく魔剣を薙いで、生々しい両まなこを一太刀に切りつける。悲鳴を上げたけだものが一歩飛び退り、頭を振り回すその間、相棒の背中を強く押し、いつになく真剣に叫んだ。考える暇も、言い争う暇もない──人から魔獣に堕ちたクルトが、どんな動きをしてくるものか、ギデオンにはまるで読み切れない。故に逃亡が先決だ、そう相棒に伝えようとして。──しかし、物凄い速さで迫ってきた爪音を聞きつけ、はっと振り向いたときだった。突然巨大な満月を背に躍り上がった二頭の獣、互いに瓜二つの……まるで双子のようにそっくりな、若くしなやかな姿の魔狼が。クルトの警戒に全神経をとがらせていたギデオン、その喉元めがけてまっすぐに飛び掛かり。)
──ッ!!
( 真っ直ぐにこちらへと向かってきた双狼の牙は、既にギデオンの喉笛へと肉薄し、爆破魔法ではギデオンの頭ごと爆破の衝撃に巻き込みかねない。咄嗟に杖に魔素を込めて振り抜けば、クルトが変貌したそれより質量がないことは幸いだった。ギャンッと吹き飛ばされていく一頭に──これならいける、と杖を握り直すも。しかし、すぐさま飛びかかってくるだろうと構えていたもう一頭が、吹き飛ばされた姉狼を庇うように立ち塞がるの目にした途端、絶対に二人で帰るんだ、と息巻いていたビビの心は、その光景に否応がなく揺さぶられて。──なぜ飛びついて来た方が姉の方で、庇った方が弟だと分かったのか。それは、今ならフィオラの"花"の意匠だとわかる、特徴的なブローチをそれぞれ胸元と髪飾りにつけていた、その全く同じ位置に輝く紅い魔核のためでもあるのだが。たった数日、思い出になるほどの交流があった訳でもない。しかし、意図してお互いを寄せて似ているように見せかけて、案外二人を見ていれば、その性格はそうでも無さそうなことはすぐ分かった。村の子供たちからも人気のある、明るく勇ましい姉の方。男尊女卑のこの村で、女性陣の中に交じって仕事をする姿も度々見かけた、おっとりとした弟の方。その面影を目の当たりにしてしまったその瞬間、さきほど姉狼を殴り飛ばした掌がじんと痛んで、身体が動かなくなってしまったビビを助けるのは、やはりギデオンの一声で。
──ヴィヴィアン、と。唯一の肉親である父も含めて、その名でビビを呼ぶのは、かけがえのない相棒で、愛しい恋人でもある相手だけだ。今は焦燥を滲ませつつも、低く凛としたその声に、はっと杖を握り直せば。ぐったりと地に伏せていた姉狼が立ち上がり、三頭の目が此方に向くのを見逃さず、得意の閃光魔法を叩きつけ。 )
ギデオンさん、目を──
(魔素の高まりが爆ぜるとともに、辺りを満たす一瞬の静寂。そして一拍遅れての、きぃん……と押し寄せる強い耳鳴り。籠手を嵌めた手の甲を、やがて目元からゆっくりと外す。あのやるかやられるかの状況で、ギデオンがそんなにも悠長に自衛していられたのは、偏に相棒への信頼ゆえだ。
──はたして。ギデオンとヴィヴィアンから十歩ほど離れた先、無関心な満月が冷たく見下ろす夜道の上には、三頭のけだものたちが泡を吹いて転がっていた。低木ほどもあろう四肢がぴくぴくしてはいるものの、あの目玉の奥の奥まで、相当派手に喰らったのだろう。これでは当分動けまい……そう、当分、今しばらくは。──今後絶対に、ではない。いつまた動きはじめるのか、数時間後か、数十分後か、それは誰にもわからない。ヴァランガ地方でギデオンたちが見た、あの凶暴な魔獣たち同様、こちらに強い攻撃性を示したこの狼擬きたちが……今後ギデオンを、ヴィヴィアンを、仲間たちを、行きずりの誰かを、再び襲わぬとは限らない。
右手の魔剣を握り直す。小さく、無音で息を吸う。一度目を閉じ、指先まで速やかに無心の感覚を巡らせた。それでいて、「ヴィヴィアン、」と、今度はどこか優しい声で、相棒に呼びかけて。)
今の閃光弾を見て、後ろの森の……余裕のあるどこかの班が、応答信号を打ち上げるはずだ。
……そいつを探していてくれ。
(それだけ静かに言いきれば、後はごくごくいつも通りに、戦士の広い背中を向けて。ざわ、と下草を踏み分けながら、その一帯に歩み寄る。今ギデオンの足元には、無力化された魔獣が三頭。どれもお誂え向きに仰向けなのが、見習い時代に先輩戦士が回してくれた、実習用の低級魔獣にそっくりだ。あれに比べれば随分とでかいが──獣の弱点は、皆同じ。視界にちらつく痙攣を、生の気配を、脅威の兆候と読み替えて。獣の周囲を歩き回り、手頃な場所で立ち止まると、──ずぶり、と。正確な角度、正確な深さで、己の魔剣を沈め込む。
ごく微かな動きだけで、獣の骨格を、内臓を探る。知識どおりだと確信すれば、慣れた動きで前腕を回す。魔狼の動きが明らかに強張るものの、毛皮越しに体重をかけてその身動きを封じ。魔剣の切っ先を掻きまわし、幾つかの太い血管を正確に破る感覚を勝ち取る。後は大きく引き抜くついでに、そのまま魔核を削ぎ落した。獣の口から、ガッ、ハッ、と引き攣れるような呼吸音。手順通りだ──二体目に向かう。こちらは一体目に比べて幾らか小さく、……随分と若く。それだけ内臓や筋肉の跳ね返す力が強い、ということではあるが、そんなもの、ギデオンが身につけてきた二十余年の経験が、一向に意に介さない。すぐに終わらせて三体目。こちらは心臓を崩した後に、完全な別作業として側頭部の魔核を剥ぐ。このとき、心臓を突いた時点で元に戻っていたのだろう目が、こちらをじっと見上げていたような気もしたが、構わずにただ処理を進める。職業上、目を開けたまま盲いる技術は身につけている。光の反射ではなく、手元の感触や物音、臭いで、目前の事象を見るのだ。その感覚に身を委ねながら、片手半剣ではなくレイピアがあれば、などと冷静に考えた。幅広な刀身では、頭の中身は崩せない……念には念を入れたいのだが。
全ての処理は、ほんの二分もかからずに終わったろうか。幸い辺りには下草が豊富なので、魔剣や装備についた汚れを、ゆっくりと念入りに拭った。感覚的な問題ではなく、経験値による染みついた仕草だ。これを怠ると、意外に渇きの遅かった血でいざというときに滑ってしまい、思い通りに動けないなどという事故が起きやすい。だから時間をかけたのだが……いやに、静かな、ひとときだ。遠く聞こえる悲鳴や喧騒、あれは先ほどの儀式の会場で一斉に“湧いた”魔獣たちのものだろう。遠く轟く唸り声はウェンディゴか。あちらがあちらで潰し合ってくれるならいい、こちらはこちらで仲間を揃えて、レクターや子どもたちとすぐにここを出て行かなければ。そんなことを考えながら、皮手袋の内側で、頬にかかった血を拭う。不意に鼻につく血の臭いに、一瞬思考が停止する。
──そこで初めて、ぱぁぁん、と。それまでも数発は打ちあがっていた魔法火が、ひときわ明るく空に打ち上がったのが、初めてギデオンの耳に届いた。今の音、今の色は! と、途端に思考が切り替わり、はっとヴィヴィアンを振り返る。そこには既に、いつも通りのギデオンの顔があった。魔剣を鞘に収めながら、さっと軽快に駆けつける。そうして同じ方角を見上げてから、隣の相手を見下ろして。)
──どこの隊が、何と?
(魔素の高まりが爆ぜるとともに、辺りを満たす一瞬の静寂。そして一拍遅れての、きぃん……と押し寄せる強い耳鳴り。籠手を嵌めた手の甲を、やがて目元からゆっくりと外す。あのやるかやられるかの状況で、ギデオンがそんなにも悠長に自衛していられたのは、偏に相棒への信頼ゆえだ。
──はたして。ギデオンとヴィヴィアンから十歩ほど離れた先、無関心な満月が冷たく見下ろす夜道の上には、三頭のけだものたちが泡を吹いて転がっていた。低木ほどもあろう四肢がぴくぴくしてはいるものの、あの目玉の奥の奥まで、相当派手に喰らったのだろう。これでは当分動けまい……そう、当分、今しばらくは。──今後絶対に、ではない。いつまた動きはじめるのか、数時間後か、数十分後か、それは誰にもわからない。ヴァランガ地方でギデオンたちが見た、あの凶暴な魔獣たち同様に。こちらに強い攻撃性を示したこの狼擬きたちが……今後ギデオンを、ヴィヴィアンを、仲間たちを、行きずりの誰かを、再び襲わぬとは限らない。
右手の魔剣を握り直す。小さく、無音で息を吸う。一度目を閉じ、指先まで速やかに無心の感覚を巡らせた。それでいて、「ヴィヴィアン、」と、今度はどこか優しい声で、相棒に呼びかけて。)
今の閃光弾を見て、後ろの森の……余裕のあるどこかの班が、応答信号を打ち上げるはずだ。
……そいつを探していてくれ。
(それだけ静かに言いきれば、後はごくごくいつも通りに、戦士の広い背中を向けて。ざわ、と下草を踏み分けながら、その一帯に歩み寄る。今ギデオンの足元には、無力化された魔獣が三頭。どれもお誂え向きに仰向けなのが、見習い時代に先輩戦士が回してくれた、実習用の低級魔獣にそっくりだ。あれに比べれば随分とでかいが──獣の弱点は、皆同じ。視界にちらつく痙攣を、生の気配を、脅威の兆候と読み替えて。獣の周囲を歩き回り、手頃な場所で立ち止まると、──ずぶり、と。正確な角度、正確な深さで、己の魔剣を沈め込む。
ごく微かな動きだけで、獣の骨格を、内臓を探る。知識どおりだと確信すれば、慣れた動きで前腕を回す。魔狼の動きが明らかに強張るものの、毛皮越しに体重をかけてその身動きを封じ。魔剣の切っ先を掻きまわし、幾つかの太い血管を正確に破る感覚を勝ち取る。後は大きく引き抜いてから、脚でごろりと身体を転がし、晒された額の魔核を滑らせるように削ぐ。獣の口から、ガッ、ハッ、と引き攣れるような呼吸音。知識通りだ──二体目に向かう。こちらは一体目に比べて幾らか小さく、……随分と若く。それだけ内臓や筋肉の跳ね返す力が強い、ということではあるが、そんなもの、ギデオンが身につけてきた二十余年の経験が、一向に意に介さない。すぐに終わらせて三体目。こちらも心臓を崩した後に、やはり真横に身体を倒し、側頭部の魔核を削いだ。このとき、心臓を突いた時点で元に戻っていたのだろう目が、こちらをじっと見上げていたような気もしたが、構わずにただ処理を進める。職業上、目を開けたまま盲いる技術は身につけている。光の反射ではなく、手元の感触や物音、臭いで、目前の事象を見るのだ。その感覚に身を委ねながら、片手半剣ではなくレイピアがあれば、などと冷静に考えた。幅広な刀身では、頭の中身は崩せない……念には念を入れたいのだが。
全ての処理は、ほんの二分もかからずに終わったろうか。幸い辺りには下草が豊富なので、魔剣や装備についた汚れを、ゆっくりと念入りに拭った。感覚的な問題ではなく、経験値による染みついた仕草だ。これを怠ると、意外に渇きの遅かった血でいざというときに滑ってしまい、思い通りに動けないなどという事故が起きやすい。だから時間をかけたのだが……いやに、静かな、ひとときだ。遠く聞こえる悲鳴や喧騒、あれは先ほどの儀式の会場で一斉に“湧いた”魔獣たちのものだろう。遠く轟く唸り声はウェンディゴか。あちらがあちらで潰し合ってくれるならいい、こちらはこちらで仲間を揃えて、レクターや子どもたちとすぐにここを出て行かなければ。そんなことを考えながら、皮手袋の内側で、頬にかかった血を拭う。不意に鼻につく噎せ返るような生臭さに、一瞬思考が停止する。
──そこで初めて、ぱぁぁん、と。それまでも数発は打ちあがっていた魔法火が、ひときわ明るく空に打ち上がったのが、初めてギデオンの耳に届いた。今の音、今の色は! と、途端に思考が切り替わり、はっとヴィヴィアンを振り返る。そこには既に、いつも通りのギデオンの顔があった。魔剣を鞘に収めながら、さっと軽快に駆けつける。そうして同じ方角を見上げてから、隣の相手を見下ろして。)
──どこの隊が、何と?
( 知己の躯を目の前に、同業のギデオンがそうしたように、ビビもまたこの夜に響く鋭い刃物が肉を経つ音の意味をあえて聾唖のようにやり過ごした。ここは危険な敵の陣地で、いつ脅威を取り戻すか分からない今は無力化された大型の魔物が三体。遠方と意思疎通できる魔法を持つビビが連絡、力のあるギデオンが魔物の処理に取り掛かるのは非常に合理的な判断で。 )
現在…………"魔獣"、と交戦中。
負傷者あり。方角は……西の陽動隊です。
( 双方夜空を彩り、増援要請を受信すれば。振られた問いかけに所感を挟むと、何か余計なことを言ってしまいそうで、あくまで事務的に努めた返答は何処か少し頑なになる。部隊最大の目標は、護衛対象であるレクターら3名、部隊の全メンバー、それから無事な村民たち──これはもしいるのであれば、だが──全員での脱出だ。調査を主な目的として組んだ少ない人員で、余計なことを考えている暇は無い。一刻も早く、仲間たちの合流すべきだと即座に意見を一致させれば。陽動隊のいる森へと、件の花畑の近くを突っ切ろうとした時だった。
花畑へと通じる斜面の間から、小さく啜り泣く声が聞こえてギデオンと顔を見合わせる。……っ、っく、と微かに震える吐息の出処を探して、警戒しながら低木の間をかきわければ──「あなたたち……! 無事だったのね!」そう声を上げたヴィヴィアンに、わっと泣き声を上げながら飛びついてきたのは、この村に来てから何度もビビを助けてくれた可愛い姉妹の妹の方で。可哀想に、村のあちこちから上がる破壊音に怯え切り、小さな身体を全身ぶるぶると震わせながらすがりついてくる幼い少女は、すっかり憔悴仕切って、小さな手がぎゅう……とビビのローブに皺を作るのが痛ましい。「大丈夫、大丈夫よ……お姉ちゃんたちとっても強いんだから……」一刻も早く安心させてやらねば、と彼女を抱えて立ち上がり、それまで沈黙を保っていた姉の様子も確認しようとしたその瞬間。「あなた達が、村をこわしたの」それまで聞いたことも、見せられたこともない。姉と言えどまだ6つか7つかそこらの幼い少女の瞳と、その声に籠った酷い憎悪にビビの身体がびくりと強ばる。その瞬間、それまで気持ち悪いほど無風だった空間に、ざあっと嫌な風が吹いて、美しく切りそろえられた金の前髪──その間からぎらりと紅い魔核が覗いていた。 )
……っ、
(──だいきらい。あなたたちみんな、だいきらい。おおうそつきの卑きょう者。
幼い少女がどろどろと吐く、あまりに苛烈な怨嗟の台詞。それを真っ向から向けられたギデオンとヴィヴィアンは、ともに遥かな大人の筈が、根が生えたように動けない。そんな有り様のふたりを前に、幼い少女はなおも続ける。「どうして“エドラ”を連れてきたの。どうして……どうして……“エディのむすめ”を、村に入らせてしまったの」。
突然の思いがけない言葉に、ギデオンの瞳が揺れた。何のことだ、誰のことだ、この子は何を言っている。しかしその狼狽顕わな反応が、ますます気に障ってしまったのだろう。「知らないはずはないでしょ!」と、少女が顔を歪めて叫んだ。
「“エドラ”はわざわいのいみごなの。“エディ”の血を引いてるの。だから生きているだけで、村の守りをこわしてしまうの! それであたしのパパとママは、ちっちゃいころに住んでたおうちを捨ててこなくちゃいけなくなった。だからそのときの“むらおさ”が、赤ん坊だった“エドラ”をころしてくれたはずだった。
なのに“エドラ”が生きてたの。知らんぷりしておとなになって、あなたたちといっしょになって、まるで親切なぼうけんしゃみたいに。でも、“エドラ”は“エドラ”なの。ぜんぶ、ぜんぶ、こわしてしまうの。絶対にあいつのせいよ、あいつを連れてきたあなたたちのせいよ。村に怪物が入ってきたのも、パパやママや、あたしまで、みんなみんなこわれていくのも……!」
──クルトは言っていた。誰かが儀式の祝杯に、魔獣化の秘薬を盛ったと。
──村人は言っていた。ラポトを開催している間に、“あの女”がいなくなったと。
──昨日の村人が言っていた。“あの年増の方は、随分うまくやってくれた”と。
──昨日の仲間たちが言っていた。彼女は随分簡単に、調査に出る許可を出したと。
一昨日のあの真夜中、彼女は随分取り乱していた。
“聞きたいことがあるの”と、クルトに激しく詰め寄りながら。
一昨日のあの夜更け、ギデオンは目撃していた。
その数時間前に、彼女がたったひとり、村の歴史の記された場所にこっそり忍び込んだのを。
己の荷物から取り出した、何ものかを握りしめながら。
思い出せ。あれはなんだった。
月明かりに照らされていたあれは、奇妙な刺繍の縫い込まれたハンカチではなかったか。
あの刺繍、あの紋様は……フィオラの建物に飾られていた、あのタペストリーそっくりだった。
そして、古く、くたびれていて……形見か何かのようだった。
心臓が早鐘を打つ。ギデオンの頑なな理性が叫ぶ。有り得ない。荒唐無稽だ。年代がまるで合わないはずだ。エディ・フィールドが生きていたのは、二百年も昔の話。とっくに死人になっている。
だが、しかし。彼の怨念の権化だというウェンディゴは、その当時から今の今まで、実際に何度も村を襲い続けてきた。月の魔力を得た“英雄”が、何度噛みつき引き裂いても、必ず蘇るその不死性──そうだ、まるで、どこかほかのところにでも心臓があるかのような。
……それが本当だとしたら?
かつてフィオラ村を支配していた、悪逆非道のフィールド家。
その跡取り息子、いかれたエディ・フィールドは、死体の皮を弄んで踊るような男だった。
彼がもし、本人ですら気づかぬうちに……生死の境を曖昧にする禁断の黒魔術を、その身に宿していたとしたら。
ウェンディゴ・エディの本体、心臓、エディ・フィールドの屍が。
未だ白骨化することもなく、どこかに残っているとしたら。
もしもその不滅の死体が、いずれ誰かに見つかったとしたら。
歪んだ性を謳歌する文化に育ったフィオラの娘が、たまたま見つけたとしたら。
山のどこかに横たわる、生きても死んでもいない体と、欲望のまま交わり、孕み。
二百年前のその男の血を、魔力を継いだ、禁忌の娘を産み落としたなら。
その大罪でフィオラを追われた母親が、東へ東へ落ち延びて。
娘を育て、やがては死んで。
名門ギルドがどこも構える併設の孤児院に、彼女が引き取られたとしたら。
かつてのギデオンと同じように、そこで育ち、見習いとなり……やがて冒険者になったなら。
その娘、忌み子エドラの今日の名が、──“エデルミラ”なのだとしたら。)
……──ッ! 伏せろッ!
(──ぎり、ぎり、と引き絞る、殺意に満ちた弦の音。にわかには信じがたい真相気をとられていたギデオンは、しかしその音を聞きつけるなり、我に返って叫びながらヴィヴィアンを内に庇った。途端にびぃん、と矢を放つ音。森の宵闇を切り裂いたそれは、一瞬前までそこにあったヴィヴィアンの顔を貫き損ね。代わりに、ギデオンの纏う鎧を強かに打ち饐えて、その体を容易く倒す。
呪いに強いミスリル鋼は、物理攻撃にも勿論強い。だがそれは、命を奪う一撃を通さないというだけで、衝撃を打ち消すわけではない。ましてや、今ギデオンが食らった弓矢は、実は対ヘイズルーン用の異様な破壊力を持つもの。生身の人体なら文字通りバラバラに砕け散ってしまうほどのそれを、鎧ひとつでどうにか跳ね返したギデオンは、しかし全くダメージを負わないというわけにはいかず。びりびりと、全身が激しく痺れてままならない感触に、それでも相棒とフィオラの幼女を潰さぬよう腕を立てながら、苦し気な呻きを漏らす。
そこに足音も荒く駆けつけたのは、フードを被ったフィオラの男女だ。息を荒げていたそのふたりは、姉妹の名前を口々に叫んだ辺り、ふたりの両親だったのだろう。姉を母親が抱き寄せると同時、弓を背負った父親の方が、動けぬギデオンを蹴り飛ばし。その下にいたヴィヴィアンすらも乱暴に突き飛ばして、彼女の腕に守られていた幼い娘をひったくる。
「よくもうちの子たちを、このよそ者ども、今ここで──!」「そんな場合じゃないでしょう! ああ、この子もやっぱり、早くクルト様にお診せしないと──!」……その言葉を聞いたギデオンは、駄目だ、と必死に伝えようとした。駄目だ。行くな。クルトはもう死んだ、俺が殺した。魔獣に堕ちてしまったからだ──そのトリガーは月光だ。月明かりの下に出たが最後、その子らもきっと同じ運命をたどってしまう。だから頼む、行くな、この森を出るな。闇のなかに隠れていてくれ。ああなってしまわないでくれ……。
ギデオンの必死の思いは、しかし彼らに届かない。再び怯えて泣きはじめた妹の声を最後に、フィオラ村の四人家族が森の向こうへ遠ざかっていく。やがてどこかで、悲鳴、絶叫。辺りの木を薙ぎ倒すような激しい物音がしたかと思うと、魔獣の歪な産声が上がった。それを耳にしてしまった途端、思わず辺りの下草をぐしゃりと掴み、わなわなと顔を俯く。胸に込み上げる苦しさは、血を吐くような罵声となって。)
…………っ、くそ……っ!
( 知己の躯を目の前に、同業のギデオンがそうしたように、ビビもまたこの夜に響く鋭い刃物が肉を経つ音の意味をあえて聾唖のようにやり過ごした。ここは危険な敵の陣地で、いつ脅威を取り戻すか分からない今は無力化された大型の魔物が三体。遠方と意思疎通できる魔法を持つビビが連絡、力のあるギデオンが魔物の処理に取り掛かるのは非常に合理的な判断で。 )
現在…………"魔獣"、と交戦中。
負傷者あり。方角は……西の陽動隊です。
( 双方夜空を彩り、増援要請を受信すれば。振られた問いかけに所感を挟むと、何か余計なことを言ってしまいそうで、あくまで事務的に努めた返答は何処か少し頑なになる。部隊最大の目標は、護衛対象であるレクターら3名、部隊の全メンバー、それから無事な村民たち──これはもしいるのであれば、だが──全員での脱出だ。調査を主な目的として組んだ少ない人員で、余計なことを考えている暇は無い。一刻も早く、仲間たちの合流すべきだと即座に意見を一致させれば。陽動隊のいる森へと、件の花畑の近くを突っ切ろうとした時だった。
花畑へと通じる斜面の間から、小さく啜り泣く声が聞こえてギデオンと顔を見合わせる。……っ、っく、と微かに震える吐息の出処を探して、警戒しながら低木の間をかきわければ──「あなたたち……! 無事だったのね!」そう声を上げたヴィヴィアンに、わっと泣き声を上げながら飛びついてきたのは、この村に来てから何度もビビを助けてくれた可愛い姉妹の妹の方で。可哀想に、村のあちこちから上がる破壊音に怯え切り、小さな身体を全身ぶるぶると震わせながらすがりついてくる幼い少女は、すっかり憔悴仕切って、小さな手がぎゅう……とビビのローブに皺を作るのが痛ましい。「大丈夫、大丈夫よ……お姉ちゃんたちとっても強いんだから……」一刻も早く安心させてやらねば、と彼女を抱えて立ち上がり、それまで沈黙を保っていた姉の様子も確認しようとしたその瞬間。「あなた達が、村をこわしたの」それまで聞いたことも、見せられたこともない。姉と言えどまだ6つか7つかそこらの幼い少女の瞳と、その声に籠った酷い憎悪にビビの身体がびくりと強ばる。その瞬間、それまで気持ち悪いほど無風だった空間に、ざあっと嫌な風が吹いて、美しく切りそろえられた金の前髪──その間からぎらりと紅い魔核が覗いていた。 )
……っ、
801: ギデオン・ノース [×]
2024-08-05 00:19:22
(──だいきらい。あなたたちみんな、だいきらい。おおうそつきの卑きょう者。
幼い少女がどろどろと吐く、あまりに苛烈な怨嗟の台詞。それを真っ向から向けられたギデオンとヴィヴィアンは、ともに遥かな大人の筈が、根が生えたように動けない。そんな有り様のふたりを前に、幼い少女はなおも続ける。「どうして“エドラ”を連れてきたの。どうして……どうして……“エディのむすめ”を、村に入らせてしまったの」。
突然の思いがけない言葉に、ギデオンの瞳が揺れた。何のことだ、誰のことだ、この子は何を言っている。しかしその狼狽顕わな反応が、ますます気に障ってしまったのだろう。「知らないはずはないでしょ!」と、少女が顔を歪めて叫んだ。
「“エドラ”はわざわいのいみごなの。“エディ”の血を引いてるの。だから生きているだけで、村の守りをこわしてしまうの! それであたしのパパとママは、ちっちゃいころに住んでたおうちを捨ててこなくちゃいけなくなった。だからそのときの“むらおさ”が、赤ん坊だった“エドラ”をころしてくれたはずだった。
なのに“エドラ”が生きてたの。知らんぷりしておとなになって、あなたたちといっしょになって、まるで親切なぼうけんしゃみたいに。でも、“エドラ”は“エドラ”なの。ぜんぶ、ぜんぶ、こわしてしまうの。絶対にあいつのせいよ、あいつを連れてきたあなたたちのせいよ。村に怪物が入ってきたのも、パパやママや、あたしまで、みんなみんなこわれていくのも……!」
──クルトは言っていた。誰かが儀式の祝杯に、魔獣化の秘薬を盛ったと。
──村人は言っていた。ラポトを開催している間に、“あの女”がいなくなったと。
──昨日の村人が言っていた。“あの年増の方は、随分うまくやってくれた”と。
──昨日の仲間たちが言っていた。彼女は随分簡単に、調査に出る許可を出したと。
一昨日のあの真夜中、彼女は随分取り乱していた。
“聞きたいことがあるの”と、クルトに激しく詰め寄りながら。
一昨日のあの夜更け、ギデオンは目撃していた。
その数時間前に、彼女がたったひとり、村の歴史の記された場所にこっそり忍び込んだのを。
己の荷物から取り出した、何ものかを握りしめながら。
思い出せ。あれはなんだった。
月明かりに照らされていたあれは、奇妙な刺繍の縫い込まれたハンカチではなかったか。
あの刺繍、あの紋様は……フィオラの建物に飾られていた、あのタペストリーそっくりだった。
そして、古く、くたびれていて……形見か何かのようだった。
心臓が早鐘を打つ。ギデオンの頑なな理性が叫ぶ。有り得ない。荒唐無稽だ。年代がまるで合わないはずだ。エディ・フィールドが生きていたのは、二百年も昔の話。とっくに死人になっている。
だが、しかし。彼の怨念の権化だというウェンディゴは、その当時から今の今まで、実際に何度も村を襲い続けてきた。月の魔力を得た“英雄”が、何度噛みつき引き裂いても、必ず蘇るその不死性──そうだ、まるで、どこかほかのところにでも心臓があるかのような。
……それが本当だとしたら?
かつてフィオラ村を支配していた、悪逆非道のフィールド家。
その跡取り息子、いかれたエディ・フィールドは、死体の皮を弄んで踊るような男だった。
彼がもし、本人ですら気づかぬうちに……生死の境を曖昧にする禁断の黒魔術を、その身に宿していたとしたら。
ウェンディゴ・エディの本体、心臓、エディ・フィールドの屍が。
未だ白骨化することもなく、どこかに残っているとしたら。
もしもその不滅の死体が、いずれ誰かに見つかったとしたら。
歪んだ性を謳歌する文化に育ったフィオラの娘が、たまたま見つけたとしたら。
山のどこかに横たわる、生きても死んでもいない体と、欲望のまま交わり、孕み。
二百年前のその男の血を、魔力を継いだ、禁忌の娘を産み落としたなら。
──ギデオンたちが、このヴァランガ峡谷にようやくたどり着いたとき。そこで初めて目にしたのは、打ち捨てられた村の跡だった。
“この村の人々がここで生活をしていたのは、どんなに新しくても数十年前のように思える”。
あの時ギデオンは、そんな感慨を抱いたはずだ。
もしそれが、ほんの四十年ほど前の出来事だったのだとしたら。
“エドラ”が誕生したその時、エディ・フィールドの新しい血が村の内側に生じたことで、村を守る結界が解けてしまったのだとしたら。
生まれながらにウェンディゴを招き入れてしまう、災いの赤子。
その血の源、父親の正体に、村が気がついたのだとしたら。
許されざる大罪……二百年前の狂人の子を産み落とした、という咎でフィオラを追われた母親が、村を飛び出し、東へ東へと落ち延びて。
娘を育て、やがては死んで。
名門ギルドがどこも構える併設の孤児院に、彼女が引き取られたとしたら。
かつてのギデオンと同じように、そこで育ち、見習いとなり……やがて冒険者になったなら。
その娘、忌み子エドラの今日の名が、──“エデルミラ”なのだとしたら。)
……──ッ! 伏せろッ!
(──ぎり、ぎり、と引き絞る、殺意に満ちた弦の音。にわかには信じがたい真相気をとられていたギデオンは、しかしその音を聞きつけるなり、我に返って叫びながらヴィヴィアンを内に庇った。途端にびぃん、と矢を放つ音。森の宵闇を切り裂いたそれは、一瞬前までそこにあったヴィヴィアンの顔を貫き損ね。代わりに、ギデオンの纏う鎧を強かに打ち饐えて、その体を容易く倒す。
呪いに強いミスリル鋼は、物理攻撃にも勿論強い。だがそれは、命を奪う一撃を通さないというだけで、衝撃を打ち消すわけではない。ましてや、今ギデオンが食らった弓矢は、実は対ヘイズルーン用の異様な破壊力を持つもの。生身の人体なら文字通りバラバラに砕け散ってしまうほどのそれを、鎧ひとつでどうにか跳ね返したギデオンは、しかし全くダメージを負わないというわけにはいかず。びりびりと、全身が激しく痺れてままならない感触に、それでも相棒とフィオラの幼女を潰さぬよう腕を立てながら、苦し気な呻きを漏らす。
そこに足音も荒く駆けつけたのは、フードを被ったフィオラの男女だ。息を荒げていたそのふたりは、姉妹の名前を口々に叫んだ辺り、ふたりの両親だったのだろう。姉を母親が抱き寄せると同時、弓を背負った父親の方が、動けぬギデオンを蹴り飛ばし。その下にいたヴィヴィアンすらも乱暴に突き飛ばして、彼女の腕に守られていた幼い娘をひったくる。
「よくもうちの子たちを、このよそ者ども、今ここで──!」「そんな場合じゃないでしょう! ああ、この子もやっぱり、早くクルト様にお診せしないと──!」……その言葉を聞いたギデオンは、駄目だ、と必死に伝えようとした。駄目だ。行くな。クルトはもう死んだ、俺が殺した。魔獣に堕ちてしまったからだ──そのトリガーは月光だ。月明かりの下に出たが最後、その子らもきっと同じ運命をたどってしまう。だから頼む、行くな、この森を出るな。闇のなかに隠れていてくれ。ああなってしまわないでくれ……。
ギデオンの必死の思いは、しかし彼らに届かない。再び怯えて泣きはじめた妹の声を最後に、フィオラ村の四人家族が森の向こうへ遠ざかっていく。やがてどこかで、悲鳴、絶叫。辺りの木を薙ぎ倒すような激しい物音がしたかと思うと、魔獣の歪な産声が上がった。それを耳にしてしまった途端、思わず辺りの下草をぐしゃりと掴み、わなわなと顔を俯く。胸に込み上げる苦しさは、血を吐くような罵声となって。)
…………っ、くそ……っ!
ッ、ギデオンさ──うっ、ぐ、
( 一体何が起こったというのか。否、本当はビビも分かっている。尊敬出来ると思っていた女性の不審な行動を、その悲しい出自を、それを肯定的に語る少女の歪さを、その少女の口から語られる真相の全てを、脳が理解するのを拒むかのように呆然としていた瞬間だった。重い矢が空気を切り裂く音が響いて、いつの間にかビビに覆いかぶさっていたギデオンが、重力のままに崩れ落ち、どさりと地面に膝をつく。その勢いまま横なぎに吹き飛ばされた相棒に、思わず視線を奪われれば、自分も強く後方へ突き飛ばされて、少女を守るようにして倒れ込んだ先が悪かった。剥き出しの木の根に、こめかみを強かに打ち付けてしまい、目の前の光景が白く黒く明滅し。
──あ、ダメ。連れていかないで……そう腕の中の温もりがひったくられる感触に、ぐらぐらと揺れる視界を無理やりあげれば。以前も話した少女たちの母親と、どうやらその父親らしいシルエットに、打ち付けられたばかりの頭が混乱する。──……あれ、この子達のママなら、何で渡しちゃいけないんだっけ。その一瞬の隙が命取りで。もうそれ以降は、それが一瞬のことだったのか、それともビビの意識が混濁していただけだったのか分からない。遠くで上がった咆哮に、やっと後悔しても全て遅く。「ギデオン、さ……」そう掠れた声で相棒を呼びながら、横たえた身体を起こそうとしても、ぐらりと揺れる視界に吐き気が酷くてままならない。そうして耳の上を流れる温かい液体に、ああ、シャツが汚れちゃう……なんて。最早全滅を待つ二人の前に、"彼女"が現れたのは、そんなどうでも良いことを考えていた時だった。 )
──エデル、ミラ……さん、
(相棒がふたつの名を呼ぶ。ひとつはか弱く縋るように、ひとつは微かに慄くように。ただそれだけで、ギデオンの苦痛の一切が、恐怖と覚悟に塗り替えられた。──何ひとつ、だれひとり、己の相棒すら守れない。そんな無様な有り様を、これ以上許してなるものか。
腹の底から死力を起こす。骨と臓腑の悲鳴を捻じ伏せ、煮え滾るような血を全身に巡らせる。次の瞬間、相手を庇うようにして振り返りざまに剣を抜き、この場にのうのうと現れた裏切り者へまっすぐに突きつけた。ギデオンの息は未だ荒い。怒りと敵意に燃える眼は、相手を激しく睨みつけ、それだけで射殺さんばかりの勢いだ。しかしそれでも、目の前の女……闇のなかから幽霊のように現れた、満身創痍の女剣士は。その凪いだような無表情、いっそ悟りに至ったような面差しを、ひとかけらも崩さない。
──エデルミラ・サレス。そう名乗っていたこの冒険者を、かつてはギデオンも信頼していた。カレトヴルッフの双璧ギルド・デュランダル、その上層部のたっての人事で、大型クエストの総隊長に任命される。そんな地位を手に入れるのは、並大抵のことではない。ましてや女ともなれば、それだけの功を立てるまでに、どれほど血の滲むような努力を注いできたことだろう。そんな立派な傑物が、ギデオンもまた一目置くほどのベテランが、多数の味方の命を預かっていたこの状況で。──己の悲惨な生い立ちと、それ故の故郷への憎悪。そのために全てを投げ捨て、大量の人体破壊に手を染めた。それこそがギデオンにとって、何より許しがたい罪だった。そもそも彼女の正体が、このフィオラ村の一員であったことだとか……黒魔術により誕生した、禁忌の存在だったことだとか……そんな話はどうでもいい。エデルミラはその心根を、私怨のために腐らせて、皆を道連れにしかけているのだ。
「あなたたちを巻き込むつもりはなかったの」エデルミラはそう白々しく宣いながら、こちらの魔剣をものともせずに、ゆっくりと近づいてきた。当然拒絶すべく、怒りを込めて威嚇する。しかし、「あなたに彼女が治せるの?」と、ヴィヴィアンを見て言われれば──暗に言われた申し出に、思わず一瞬固まってしまう。その間にエデルミラが屈み、宣言通り、ヴィヴィアンの頭に手を添えた。割れた唇が呟くのは、狂った女のそれとは思えないほど穏やかな聖呪文だ。……そう言えば、いつかの旅路で彼女本人から聞いていた。女性としてその必要に迫られることが多いから、本来は専門外の治癒魔法も幾つか身につけているのだと。
──あなたたちは何も悪くない。ヴィヴィアンの傷を癒しながら、エデルミラはそう呟いた。悪いのはこの村だと。フィオラの因習と欲望が、彼女の母親の気を狂わせ、村を出て行って何年も経ってからも、凄惨な死に方を選ばせることになったと。エデルミラがフィオラを憎むのは、つまるところ、幼い頃に自死してしまった母親への愛ゆえだった。母を狂わせ、追放し、離れても尚呪った故郷。そんな仇を討ち取るためなら、死んでも惜しくはないのだと。
「ごめんなさい、ふたりとも……」治療を終えた彼女が、ヴィヴィアンの額をそっと撫で、顔を見せずに立ち上がる。「勝手な生き方をしてごめんなさい。でももう、私にはこれしかない。私自身、もう時間があまり残っていないの。──この谷に来てから、体がずっとおかしかった。今ならその理由がわかる。父が私を欲しているのよ。それに、あの花……あれが皆を、フィオラを狂わせてしまうから。あれを絶やしておかないと。絶滅させてしまわないと……」。
──そうして、最後に微笑んでから、エデルミラはいなくなった。遠く聞こえるウェンディゴの呻き声、おそらくそちらに向かったのだろう。彼女が最後に言い残した、「まだ間に合う人たちがいる」という言葉が気になるが、今ばかりは後回しだ。脅威のいなくなった森のなか、今度こそ相棒を己の腕にかき抱く。そうして、既に傷は塞がっているものの、流れていた血がこびりついた前髪をそっと目許から避けながら、「ヴィヴィアン、」と、祈るような声で相手に優しく呼びかけて。)
ヴィヴィアン、ヴィヴィアン……大丈夫か。
ええ……もう、すっかり……。
( 初対面のインパクトはレクターのせいで少し薄れてしまったが、今回の依頼でどんなにビビがエデルミラに憧れ、同性としてその能力の高さを尊敬したか。正気を失ってしまって尚、流れ込む魔力の誠実さに、エデルミラの言葉を借りれば──"まだ間に合う"、そう、未練を感じてしまうのは甘いだろうか。 )
──ギデオンさんっ、
エデルミラさんの治療! …………その、とっても丁寧で。なんと、いうか……本当は悪い人じゃ……いいえ、やったことは間違ってる、分かってます。
……でも、勿論お咎めなし……って訳にはいかないでしょうけど、死のうとする人を止めずに行かせるのは、それは……私たちが殺したってこととじゃないですか!
( どうして今こんなことになっているのか。村に来てからのビビは、ずっと仲間たちに迷惑をかけ通しで、先程もその腕からみすみす尊い命を取りこぼしたばかりだ。少女を庇っていたのがギデオンだったら、ああも簡単に彼女を奪われはしなかったのではないか。そう暗い眼差しを一瞬、ぎゅっと力強く瞼の奥に閉じ込めたかと思うと。次の瞬間にはキラキラと大きく瞳を見開いて、熱く逞しい腕の中、往生際悪くギデオンに言い募るヴィヴィアンの思考からは、すっかり己の身の安全の考慮など抜け落ちていて。
冒険者として今するべきことは何か。幾ら治療を受けたとはいえ、強く頭を打ったばかりだ。そうでなくとも、ギデオンへ言い募りながら、そ負傷を治療したビビに西の陽動隊を援護し得る余裕は最早なく。であれば、いち早く既定の合流スポットまで向かい、残りの魔力は仲間の治療に専念するのがベターだろう。そんなことは分かった上で、それ以上のベストを目指す権利が自分にあるものか。今回の作戦で一番未熟な自分に、あるわけが無いことも、これが自分に甘い相棒への甘えだということも分かっていたにも関わらず。もうこれ以上"間に合う"命を取りこぼしたくない、その混乱のまま起き上がれば。相手がこちらを見下ろす心配げな表情も。いつも冷静な判断を下す相手の意見に食い下がるための、罪悪感を煽るその言葉が、どれだけギデオンの心を踏みにじるかも、全て見落としてしまっていて。 )
お願い、ギデオンさん。
私達も花畑に、エデルミラさんを追いましょう。
…………、
(一瞬、思わず声を失う。真顔のまま固まったのは、思考が何ひとつ働かなくなってしまったせいだ。かすかに揺れる薄花で、相手の翡翠をただただ見返す。そこにあるのはきらめきだけ……まっすぐで聖らかな、彼女の澄みきった信念だけ。それの何に衝撃を受けたというのか。考えられない、わからない。
その膠着状態が、思考回路に見切りをつけさせたのだろう。ふ、と不意に視線を外し、一度静かに顔を伏せる。それから再びそちらを見上げたそのとき、そこにはすっかり、いつもの“ベテラン剣士”がいた。少々険しくなった眉間に、引き結んだ一文字の口、この流れなら当然だろう。「おまえはいつも……、」と呟いた、その低い小言の響きで、相手も思い出すだろうか。ふたりが相棒になりはじめたあの頃、まだしょっちゅう無茶ばかりしていた彼女に、ギデオンはよくこの顔をしていた。)
……俺がどんなに、いろいろ頼み込んだって。おまえはきっと、あいつを救いに……行くんだよな。
(呆れながら白旗を上げたとも、或いは相手の望みを聞き届けたとも、どちらともつかないような、複雑ながらも凪いだ声。それを落としながら、武骨な掌を相手に差し出し。彼女がそれを手に取ったならば、共に立ち上がる手助けをして。
そうしてまずは真っ先に、相手の様子を確かめる。ふらつきはないか、ままならないところはないか。それから今度は、その両頬を縫い留めるように包み込んだ。少しばかり土に汚れてしまった柔肌、けれども血色は悪くはない。視線も危うく揺らぐことはなく、瞳は生気に満ちている。……魔力弁で彼女の魔径に軽く触れる。その生き生きとした感触からしても、あの女は本当に、彼女をしっかり治したようだ。
こつん、と額を触れ合わせ。目を閉じて数秒、無言で相手に祈りを伝える。その間もこの森の向こう、花畑のある方角からは、移動したらしいウェンディゴの凄まじい呻き声がしていた。──あそこに行くのは自殺行為だ。エデルミラだってそのつもりだ。そんな場所にヴィヴィアンを? もうこれ以上、危険な目には遭わせたくないというのに。
それでもギデオンの前身は、彼女の決して揺るがぬ意志にどこまでも忠実だ。両手を下ろし、ゆっくりと目を開け、相手の瞳を覗き込む。そうして温かい吐息と共に、こちらからも懇願を。)
次に、おまえが……少しでも怪我をしたら。今度こそ、そこで終わりだ。
そうすると……約束してくれ。
…………約束します。
ありがとうギデオンさん、大好きです!
( 相手のことをするように、自分のことも大切にする。その約束を決して忘れた訳じゃ無い。しかし、"まだ間に合うかもしれない" そう目の前にぶら下げられた甘い希望に意思が揺らいで、頬に触れた温かな手にはにかんだ娘の声が、寒々しく響いては消えていく。本当に相手が好きならば、ギデオンさんの想いを優先するべきだった。この優しい瞳の震えを、絶対に見落とすべきではなかった。エデルミラさんを助ける方法は、きっとほかにもあったはずだ。そう未来の自分が、何度も後悔することになるとは露知らず。感極まったように相手を抱きしめた腕をそっと離して、腰から提げた杖をひとふりすると、まもなく息を切って花畑へと走り出してしまった。
そうして、黒々とした木々の合間を走る二人に、──林檎のような、桃のような、甘く、噎せ返るように濃密なその香りがその存在を知らしめる。次第に頭上を覆っていた木々が途切れると、ますます香りは強まって、見渡す限りの赤、赤、赤──……視界に映るのは、フィオラの見事な星空と、それをぐるりと切り取る険しいヴァランガ山脈、そして燦然と咲き誇る真っ赤な"花"たち。その危険性を知って尚、天頂にあんぐりと口蓋を開いた満月の下、ほのかに発光するかのような鮮赤に目を奪われると。はっと一瞬遅れて口を塞ぎ、咄嗟にハンカチを生成した水で濡らして相棒にも差し出し、自身はローブのフードを片手で口元へと寄せて。 )
出来るだけ吸わないでください、花粉だけでも何が起こるか…………ッ、
( そうして、風が吹くとますます舞い上がる強い香りに目を細め、ぐるりと周囲を見渡した時だった。頭痛がするほど甘美な花の香りの中、むわりと場違いな腐臭が鼻をつく。その身の丈は3mをゆうに超え、最早人間の面影を残すのはその二足歩行のシルエットばかり。その体躯すら骸骨のようにやせ細り、全身から生える長い体毛が、積年の脂と氷に固まってぬらぬらと醜悪に月光を照り返している。ウェンディゴ──もといエディ・フィールドの成れの果て。先程対峙した時よりも、一回り大きくなったかのようなその一撃に咄嗟に横へと飛び退いて、花の花粉に全身を桃色に染めながら振り返れば。──どうやら向こうもこちらを覚えていたらしい。明らかにギデオン目掛け飛びかかってくる知能の高い獣に適切な援護も埒があかず。フィオラの冬空に高らかな詠唱の声音を響かせれば、エディの周辺の花々が勢いよく燃え上がったのは、渾身の炎魔法が弾かれたためで。 )
ギデオンさんッ!!
~~~ッ!! この化物ッ、こっち向きなさいよ!!
(再び対峙したウェンディゴは、先程よりも明らかにその手強さを増していた。おそらくは、辺りに満ちる闇のマナを吸い上げているせいだろう。すなわち夜明けを迎えぬ限り、ここは奴の独壇場。そう悟ったギデオンが、すんでのところで怪物の爪を躱し、魔剣を構え直したその時。敵の喉元を睨みつけていた薄青い双眸が、はっと大きく見開かれた。──相棒の 炎魔法が弾き飛ばされたその場から、鋭い悲鳴が上がったのだ。
まさかだれかが……エデルミラが伏せていたりでもしたのかと、そう恐れて確かめるも。焼けているのは草花だけで、人の姿は見当たらない。ギデオンが混乱しながら眺めていると、その橙色に輝く破壊は周囲にも広がっていき……それにつられて、絹を裂くような不気味な悲鳴が、ひとつ、またひとつと増えた。──理屈を飛ばして、直感が解をもたらす。断末魔の声を上げているのは、誰かではない……フィオラの“花”だ。
どうやら敵の腐った耳にも、その絶叫は同じく届いてたらしい。そちらをぐるりと振り向くと、鋭い牙の並んだ口を、ぐにゃあと酷く邪悪に歪めた。嗤っている、と気がついたギデオンが、一瞬早くそれに気づいて、すかさず矢のように飛び出すも。怪物はその巨大な手を、月に向かって大きく掲げ──ぐわん、と一気に振り下ろして。)
──……ッ、避けろッ!
(ヴィヴィアンを己の内側に庇って転がったその背後、派手な火柱が空高く噴き上がる。 ──冬の乾燥しきった大気を、闇で強まった怪物の力で、炎に向かって勢いよく煽りつけたらどうなるか、考えるまでもないことだ。安全地帯に逃げ出そうにも、今やギデオンとヴィヴィアンは、フィオラの花畑の真ん中で、激しい業火に囲まれていた。ウェンディゴが嬉々として巻き起こす嫌な風が、また新たな爆炎を立ち上がらせて行く手を阻む。必然、辺りを震わす花の悲鳴も、数百、数千にものぼり、これだけでも頭が割れそうに痛い……花自体に、おそらく闇の魔素か何かの力が宿っているせいだ。熱風に巻かれ、花の悲鳴に圧をかけられ、その鼻や口から思わず血を垂れ流しながら、それでも瞳だけは真剣に、ヴィヴィアンを強く見据える。それはかつての自己犠牲的な陰りではなく、この場をふたりで切り抜けるための、ひたむきな意志によるもので。)
一瞬でいい、守護魔法をかけてくれ……俺があいつの動きを止める!
……っ、!
( ──己の判断ミスが今、こうして他でもないギデオンを流血させるに至っている。もろに熱波を喰らったのだろう。鼻や口からの血だけでは無い、ビビを庇い、その凛々しい表情を赤く上気させたギデオンを目の前にして。最早思考するより早い治癒魔法と共に、請われるがまま施した守護魔法は、ただひたすらに相手の無事を祈るもので、決して愛しい人を死地に向かわせるためのものでは無かった。しかしビビがかけた守護魔法を確認するやいなや、真っ直ぐにウェンディゴへと向かっていくギデオンに、やっと自分の判断が間違っていたこと。自分の思い上がりが相手を傷つけたことに気がつけば、全てを投げ出して悲愴に嘆き沈み込みたくなる思考を、今は無理やりにでも振り払う。──後悔している暇などない、自分が招いた事態だからこそ、無事にギデオンさんを帰さなくては。そう構え直した魔法の杖で、相棒に降りかかる火の粉を丁寧に払いながらぐるりと周囲を見渡せば──見つけた! と、激しくとぐろを巻きながら燃え上がる火炎のその奥に、時たまぐらりとよろめきながら満身創痍で赤い波を掻き分けていくエデルミラを発見すると。ギデオンがウェンディゴを討ち漏らすなど微塵も思わぬ素振りで、危険な魔獣のその隣を真っ直ぐに駆け抜けて。 )
エデルミラさん! ……エデルミラさん!!
お願い、こっちを見てください!!
( 今はギデオンに集中しているとはいえ、いつウェンディゴの注目がエデルミラに移るか分からない。ギデオンが魔獣の動きを止めてくれた今のうちに、手負いの女を花の影に隠そうとして。しかし何度呼び掛けても反応がない女剣士に、半ば体当たりするかのような勢いで飛びつくも、ギデオンにそうした時よりは劣るとはいえ、鍛え上げられた隙のない体躯は一瞬小さく揺らいだだけで、その歩みを止めてはくれない。それどころか、ビビを認識するような素振りも見せずに、何やらブツブツとよく分からない呪いのようなものを垂れ流しながら歩き続けるエデルミラに、引き摺られるような形でかじりつけば。最悪なタイミングとは重なるもので、「うわああッ!? 火が!!!」「花が……花が!!」「お前らがやったのか!?」と、正気を失った女剣士と、彼女を止められるずにかかりきりになっているヒーラーの前に現れたのは、各々額や首筋、腕などに赤い魔核を携えた村人達で。「だめっ……!」と、無力な自分に思わずあげたその声は、果たしてエデルミラに掛けたのか、それろも噎せ返るような花の香りと満月の下、その肘から何やら仰々しい腕を伸ばした村人達が、その目から次々に正気の光を失ってその姿にかけたものだったか、 )
……だめっ、だめ!! 止まってよぉ!!
(「駄目だ、止めろ──火の手を止めろ!」
こちらにようやく引き付けた敵に、魔剣を叩き込むこと暫く。必死なその声がギデオンの耳に届いたのは、先にヴィヴィアンの悲痛な叫びを聞きつけ、振り返った時だった。逆巻く炎の向こう側、異状に気づいて駆けつけたらしいフィオラ村の連中が、まだぞくぞくと森の中から現れている。大事な花畑が炎に呑まれる光景を前に、かれらは本気で悲鳴を上げて、もはや他には目もくれない。めいめい水魔法を繰り出そうとして──掲げられたその手はしかし、先着の同類同様、月に向かって固まってしまう。
思わず己の魔剣を下ろしたギデオンの瞳の奥に、あの光景が鮮烈に甦る。歪む肉、軋む骨、閃く牙──理性を失した、獣の白眼。あのとき、人間をやめたクルトは、双子は、どんな本能を晒したろうか。思わぬ窮地に我を忘れ、「逃げろ!」と叫びながら、駆け出そうとしたそのときだ。ゆらりと背後から近づいた巨影が、ギデオンの背面を強かに横殴りにした。がぃん、と強烈な金属音──爪とミスリルが火花を散らし、鎧の戦士が吹っ飛んでいく。その先は業火の渦、ひときわ激しく燃え盛る場所で。どっと叩きつけられるなり、無数の火の粉が激しく夜空へ舞い上がった。……これまではそこからも魔物に斬りかかっていたギデオンは、しかし今回は立ち上がらない。炎のなかで黒々と、呑み込まれたまま動かない。
ウェンディゴが嗤う。巨躯を満月に伸びあがらせて、どろどろと醜く嗤う。
エデルミラが呪う。傍目には理解不能な使命を帯びているかのように、ぶつぶつと何かを呪う。
村人たちは、もう間に合わない。絶叫しながら苦しみ悶え、皆めりめりと歪んでいく。
やがて彼らが成り果てた、フィオラの“英雄”、禁忌の魔獣。その真っ白に濁った眼が、皆ヴィヴィアンをひたと見つめて。
目の前の柔らかな“肉”に、口を開いた──その時だ。)
──ヴィヴィアン……ッ!
(炎の渦のなかから、文字通り雷のように輝く一筋が飛び出した。それはそのまま、ウェンディゴの胸をまっすぐに貫きざま、魔獣の群れに突っ込んで。ヴィヴィアンとエデルミラににじり寄っていた化け物たち、そのおぞましい首を皆、一太刀で撥ね飛ばす。
荒い息を吐きながら相手を振り返ったのは、もはや金色に熱された鎧を纏うギデオンだ。その肌も髪も、焼かれた痕はどこにもない──彼女の護りは効いていた。流石に全てを無効とする万能の魔法ではないから、物理的な衝撃を一瞬喰らっていただけで、未だ尽きてはいなかった。血走ったせいか紫がかったその双眸で、己の相棒をじっと見据える。純白のローブをはためかせ、栗毛を揺らすヴィヴィアンの、何より鮮やかなエメラルド。相棒となって以来、昼も夜も、幾度となく見つめてきた彼女の瞳。
それは不思議と、酷く静かな一瞬だった。向こうではウェンディゴが苦悶にのたうち回っているし、エデルミラは詠唱をやめず、まだ他にもいる村人たちの成れの果ては、唸りながら近づいてきている。炎はごうごうと勢いを増して、森に燃え移る勢いだ。──それでも、静かに口を開いた。彼女にはまっすぐ届くと、確信しきった声だった。)
……俺が“戦う”。絶対にお前たちを守る。
だから、エデルミラを……“治して”くれ。
──! ……はいっ!!
( 守護魔法の光を煌々と放ち、その鎧を金色に輝かせる相棒に思わず瞳を見開いて。その深い声が雷鳴のように鼓膜を震わせ、信頼に満ちた瞳が此方を射抜くだけで、それまでの絶望が嘘のように晴れていくのだから不思議でならない。何のことはない、この状況を“止める”には少し筋力不足だったかもしれないが、“治す”のは己の得意分野だ。ましてや他でもない相棒に任されたとあっては、それだけでエデルミラに引きずられていた背筋が伸び、熱気に侵されていた呼吸が楽になるようで。
アドレナリン放出で気が大きくなり、暴れる戦士を取り押さえるにはコツがある。それが魔法を使う手合いの場合、まずはその詠唱をとめてやることだ。難しいことはしない、できない。これがお優しい後輩ならばいざ知らず、ビビの場合は物理的にその口へと拳を突っ込んでやるのがやり口だ。相手の唇の動きに耳を傾け、その口が一際大きく開かれる瞬間、振りかぶった拳を相手の下顎目掛けて突き上げる。この時のポイントは、多少の抵抗が入ろうと絶対に拳を開かないこと、でないと指を噛み千切られるからだ。そうして目下の脅威を退ければ、物理アタッカーの場合、次は飛んでくる膝や肘をその辺の硬質な物体──今回は転がっていた補助腕の金具でいなして、相手が自分で繰り出した攻撃の威力で怯んだところを、「えいっ!」と全体重で組み伏せる。そうして繰り出す関節技は少々反則気味な気もするが、力も速度も格上相手に、しかもこれを喰らって尚カレトヴルッフの戦士たちは痛みに失神するまで暴れるのだから此方も手加減していられない。とはいえ、目の前の女剣士の場合はもう少し利口だったらしく。意識を落とす寸前で正気を取り戻したらしい彼女に、「一緒に帰りましょう、エデルミラさん!」と言い募れば。花畑に来てから初めて、話の通じそうな眼の色を浮かべた女剣士に、ついつい気ばかり逸って腕を外すより前にそうしてしまったからだろう。本来曲がる方向とは逆向きにキメられた己の利き腕を見たエデルミラが、「……それは脅迫かしら」と嘯くのを──それもありだな、と少し力を強めてみるも、その女の表情を見て一目で痛みでは支配できぬとわかれば、あっさり開放することにして。
とはいえ、エデルミラの調子が万全だったならば、ビビなど束になったところで適わなかったに違いない。組み伏せられる以前から満身創痍だった女剣士と二人、花の影で肩で息をすること数十秒。当初はビビの剣幕に「それは……」「私だって、」と気圧されていたエデルミラだったが、自分が発動した魔法陣を省みると「いいから逃げて」「あなた達を巻き込みたくはないの」と、再び頑なに首を振り出して。それでも諦めの悪いヴィヴィアンに周囲をぐるりと見渡せば、「貴女が此処に居たらノースさんだって巻き込まれるのよ」と、その言葉で一瞬ビビが怯んだのを見逃さず、隠し持っていた短剣でビビのローブを一際太い花の根に縫い付けてくる早業。そうして、娘が短剣を引き抜こうとする隙に華奢な腕を振り払えば、村民の成れ果てと対峙するギデオンの方へと駆け寄り、「……手伝うわ。だから、早くあの子を連れて逃げて」と。この場で一番強情であるビビの弱点と、そのビビ当人より余程ギデオンの感情を見抜く強かさこそ、彼女がデュランダルの代表としてこの村に来られた証左。しかし、次々と迫りくるかつて村民だった者たちに対し迷いのない剣さばきに、しなやかな身のこなしを一瞬鈍らせたのもまた、力任せに短剣を引き抜き、遥か後方でひっくり返っている、前線の二人より余程非力な娘の叫びで。 )
~~~ッ!! もうやめて!!!
そんな怪我で……ッ、こんな村のためにエデルミラさんが酷い目に合う必要なんかない!!
(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへ出て行って尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷の罰はどこまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は、まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。……おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。母との苦しい日々のなかで、母が優しさから隠していたより多くのことを、エデルミラは察していた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすのだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかし陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。…のより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。かれらを今ここで根絶やしにしなければと、そうエデルミラが思いつめたのも、無理のないことだろうに。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれた祈りを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は母の言いつけに背いて、フィオラのやつらのお望みどおり……“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の返り血に染まりきった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。──今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを……フィオラ村の成れの果てを……次々屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、無辜のだれかを守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を拓き、救いに向かう心があると。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それは少しだけ違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしのことも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこかしかの深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへと逃げだして尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷からの罰はいつまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は……まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。追われ続ける日々のなかで、母は優しさから多くのことを隠していたが、それでもエデルミラがそれに気づかなかったわけがない。母が自分を身籠ったせいで故郷を追われたらしいことも、自分への愛ゆえに様々な罪悪感に苦しんでいたということも、自分はきちんと知っていた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすせいだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかしかといって、陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。かれらのより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。──そしてまた、自分の異常な父親と、それとまぐわった母の狂気を、知ってしまうことでもあった。
エデルミラの世界は、フィオラ村に来てから粉々に破壊された。村は確かに狂っていたし、様々な罪に手を染めていたが……母も母で、間違いなく異常で、ふしだらで、どうしようもなく罪人だった。たしかに若いころの母は、二百年前に死体を弄んでいた狂人の亡き骸と、黒魔術を通じて番うような女だったのだ。そして自分のなかには、その死体の血が流れている。それもただの死体ではない、異常な人殺しの男の死体、二百年も朽ちない死体だ。そう知ってしまって今、どうしてエデルミラ自身も気が狂わずにいられよう。自分は母の故郷が散々言い続けたとおり、確かにおぞましい忌み子だった。フィオラは悪だ、だが母も悪だ、そしてエデルミラ自身もまた、本当にこの世に生まれてはいけなかった。
……それでも、長年の想いは消えない。村を出てまともな世界を知った母が、自分を愛してくれたのは事実だ。自分がそれを支えにして生きてこられたことも事実だ。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。悪意の塊樽かれらのことは、今ここで根絶やしにしなければ。
……そして同時に、真相を知った己が、母とのあどけない約束なんぞをかなぐり捨てたくなるのも道理だ。想像以上に悍ましい出自だった自分自身のことすらも、もはや一滴の血も残さず、この地上から消し去らなければ。そう思いつめたのも、きっと無理のない話のはずだ。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれたあの祈りの純粋さを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は一度、生まれて初めて、母を憎んで。
──そうして、母の故郷のお望みどおり……この手を汚して、“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の帰り血に染まった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。……今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを次々に屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、人を守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を開く人間なのだと。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それはほんの少し違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え声。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこか地下の奥深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
?
?
?
( ──赤い、赤い大地から伸びた黒い腕が女を捉え、その地の底へと引きずり込まんとする悍ましい光景。頭上には怪しい程に明るい月を湛えたその光景は、まるでこの世の終わりの様で。どこか現実味を放棄した鼓膜を、囂々と響く地鳴りが占拠してそれ以外は何も聞こえず、命からがら女を助け出した男を地獄の番人の凶爪が襲う。発動した魔法陣を中心として、花畑の中心にぽっかりと空いた真っ黒な穴は、その奥からはこの地で散った者達の無念の声をもこだまして、もしここに正気を保った者がいたならば、最早今生に救いはないのだと誰もが覚悟したに違いないその瞬間だった。
それまで、剣士らをいいように蹂躙していた血の触手。ギデオンに切り伏せられて怯んでいたそれが、ぴこん! と、再び鎌首を擡げたかと思うと、手負いの剣士の方へとまっすぐに伸び──その隣で、今にもギデオンを嬲り殺そうとしていたウェンディゴの心臓を貫く。酷い腐敗臭の漂う巨体がどうと倒れたその背後、頭上の月まで届きそうなほど溢れ出ていた触手はその身の色をどす黒い赤から、月より眩しく暖かな聖なる魔素の色に染め、ギデオンとの間に立つその娘のシルエットを柔らかく浮かびあがらせるだろう。 )
?
ギデオンさん!!ご無事ですか!!
?
( ウェンディゴを真っ直ぐに貫いたのち、その金色の指でギデオンの傷口を温かく注いでいった触手がしゅるりと戻っていくのと引き換えに、愛しい相棒のもとへと飛び込んできたヒーラー娘が “それ” を見つけたのは、エデルミラに突き立てられたナイフを力任せに引き抜き、勢い余ってひっくり返っていた時だった。不自然なほど密集した花々の根元に隠されるように刻まれた古代魔法、それ自体は世界中にみられる古代人から続く祝福の息吹だが、しかしそこから溢れる魔素の色に、いち早く女剣士の仕業に気がつけば。複雑な古代魔法の解読と、無念を訴える死者の魂への祈りが間に合ったのは紙一重だった。そこに大層な信念も目的もあったわけじゃない。フィオラ、ひいてはヴァランガを雪崩から守っていた古代の魔法は、花畑に撒かれた死者の無念をも繋ぎ止める枷になっていたらしく。悪魔の子によって解放された罪なき魂たちが、彼ら自身も気づかぬまま、今度は自ら人を殺めようとしているのが心底痛ましかっただけ。しかし、彼らを縛り付ける枷から、彼らを唆す装置へと変貌した古代魔法を読み解く傍ら──彼らの魂が無事にロウェバの御許に辿り着けますように、という娘の祈りは無事願い届けられたらしい、エデルミラが捧げた“悪魔の子”としての彼女の人格と同様の供物を対価として。
そうして、花畑の激闘が収まった頃合いに、「おおーい」と響いたのは、先程救援信号を上げていた陽動隊の声だった。どうやら他の隊の救援を受けられたらしく、今度こそ二度と動かなくなったウェンディゴの死体と燃え上がる花畑、そして満身創痍の三人を見て、重戦士の一人が気絶したエデルミラを預かってくれつつも、説明を求めたそうな表情をぐっと押し込めたのは、とうとうフィオラの頭上の冠雪が激しい音を立て崩れ落ち始めたからで。そうして、「逃げろ!!」という怒号に、ビビもまた“対価”を失って少し軽くなった毛先を揺らし駆け出して。 )
…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓の破壊が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な汁長を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、先に行け!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺し、その背中で仲間に命じる。村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、必死の思いで次々に斬り捨てた。そうしてようやく、仲間が手配した数台の牛車に飛び乗り、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜ける。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も、……ったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれが、この場所にも届くまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせて。)
…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な質量を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、手配に回れ!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺す。その早業に一瞬言葉を失う年若い連中に、丁寧に説明してやる時間も惜しく、怒鳴るような声で命じた。──村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、若い連中や相棒があたっている段取りを信じながら、必死の思いで斬り捨てる。そうしてようやく、出来上がった数台の牛車に飛び乗ると、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜けて。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も……たったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれがこの場所にも迫りくるまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせ。)
……、
( 凍土の緩んだ踏ん張りの効かない獣道を、何度か滑りそうになるのを頼もしい腕に支えられながら走破すると、目の前のはだかる魔法障壁にうっと顔を露骨に歪めれば、相棒もまた同じ気持ちでこちらを見ていたようで。手練の冒険者である彼等ならまず簡単に避けられるだろうと、注意喚起もなしに魔法の火炎を放ったのは、その複雑に入り組んだ魔法式に嫌な見覚えがあった故で。古代魔法を礎に見慣れない土着の式が混ぜこまれた、この数日で見慣れざるを得なかったヴァランガの、フィオラの魔術師が組む魔法障壁は、いとも簡単にビビの火炎を弾いたかと思うとその瞬間、これまた聞き覚えのある品のない笑い声が冒険者たちを取り巻いて。
興奮したような引き笑いと共に、「おや、見覚えのある光景じゃないか」そう隧道の暗闇から顔を出したイシュマは、「悪く思うなよ、こんな狭いところで"英雄"にでも追いつかれたら困るだろう? ましてや君らみたいのは……全く卑しい、いつどこで祝杯をひと舐めなんてしてるかも分からないからね」そう白々しくニヤつきながら、当然のごとく障壁をといて冒険者達を招き入れる気は無いようだ。そうして、その間も障壁に体当たりや攻撃を試す男たちなど目に映らないかのように、目敏くビビの方に向き直ったかと思うと。「ああでも、そうだ……お前、」と「惨めに跪いて命乞いをするなら、お前だけなら助けてやってもいい……」と楽しげに続ける男に、今度こそ"くそったれ!"と、覚えたての罵倒をぶつけてやろうとした瞬間だった。「その余裕があるなら私を通して」と背後から響いたのは、彼女もまたあの地獄の最中をくぐり抜けてきたのだろう。あちこち傷だらけで、数日前の様が嘘のようにやつれた蛭女。彼女が肩で大きく息をして、艶を失った髪をばさりと揺らす間も足元の揺れは続き、残酷な白い塊が刻々と背後に迫ってくる。もはや一刻の猶予もない。この小悪党も身内に思うところはあるのだろうか、彼女のために障壁の規則を書き直す瞬間を狙い杖を構えようとした次の瞬間、その必要性は、あれ程強固に張られ魔法障壁と共に霧散したのだった。
その音は、膨大な雪の塊が全てを薙ぎ払いながら斜面を滑り落ちてくる轟音にかき消されてしまったようだった。揺らいだ障壁を通り抜けた女が、男の腕に飛び込んだかと思うと──ぐらり、と。イシュマの身体は地面に倒れ伏し、そして二度と立ち上がらなかった。雪の白い地面に広がる赤い染み、寸前に迫った轟音の中、確かに届いた女の笑い声。消えた魔法障壁の向こうに次々と冒険者たちが駆け込む中、前のめりに倒れたイシュマの隣から動こうとしない女に、いけない、と。このままでは──と、振り返ったヴィヴィアンの背中を押したのは、強く腕を引いたのは、果たして誰、何だったかを、後にビビはこの時の記憶を思い出すことは叶わないのだった。 )
──……あ、だめ、ッ……
(あの地下牢でギデオンたちを裏切った後、イシュマと蛭女の間にどんなやり取りがあったのか、それを知る暇はもはやなかった。──トランフォードには古くから、“スカパペツィの掟”という言い伝えが存在する。“災害や魔獣の害で今にも死ぬかもしれないときは、てんでばらばらに逃げなさい”というもので、それは事実、他人を助けようとして逃げきれずに亡くなった、何万人もの犠牲者を悼んだために編み出された教えだった。故に現代の冒険者たちは、人命救助を己が使命としながらも、究極の場合には真っ先にその掟に従う。ギデオンもまた例外ではなく、ただひとり、己の命より大切な相棒ひとりを気にかけるのが精一杯で。相棒をいち早く隧道の奥に押し込み、後の全てを置き去りにして駆け抜けていったそのことは、ずっとずっと後になっても、一度も後悔などしない。かろうじて、轟音のなか高らかに響く狂ったような哄笑が、蛭女の声を聞いた最後になった。
「滅びればいい、こんな村! この世から消えてなくなってしまえばいいわ!」……
──暗く細くせせこましい、崖のなかの一本道。しかしこの中に逃げ込んでも、まだ恐ろしい思いを拭い去ることはできなかった。背後から迫る怒涛の雪は、この狭い空間にさえ押し寄せかねない勢いだ。何より足元の揺れがまだ酷く、天井からばらばらと石くれが降ってくる始末。今より揺れが酷くなったら、頭上の大きな岩の層など、剥がれ落ちてくることだろう。この闇のなかで生き埋めになるわけにはいかない。「気をつけろ!」「こっちだ!」と、互いに口々に呼びかけながら、冒険者たちは出口を目指す。一刻も早く、この闇の先へ。──死の迫る世界の外へ!
そうしてようやく、ギデオンたちは光の中に躍り出た。未だ夜も明けぬ時分であるのに、満月に照らしだされた一面の銀世界は、真昼のような眩さで。目が眩みながらも未だ走り、しんがりを務めるこちらの耳に、しかし遠くから、何か叫び声が聞こえた。ぐっと狭めた目元に片手を翳しながら、そちらの方角を見遣ってみれば。あの斜面のずっと上……護衛班や回収班、そして共に先行して逃げ出していたレクター教授たちが、必死にこちらに手を振っている。何だ、どうした? そう思いながら、ふと振り返ってみたそのとき。思わず唖然としたギデオンとヴィヴィアンの頭上に、巨大な青い影がかかった。
それはこの冬の夜空を背に伸びあがる、真っ白なしぶきの壁。あの長かった崖の上すら乗り越えて、どうっと派手に溢れだした……雪崩の最先端の一波で。
もう間に合わない。そう悟った瞬間、ギデオンは本能で動いた。全ての音が消え失せた、いやにスローな世界のなかで。隣の相棒をぐっと引き寄せ、抱き締め、内側に固く固く庇う。顔色を失いながらも、せめて質量の衝撃から彼女の体を守ろうと、背中を屈めた、その真下。その相棒の杖先が、咄嗟に明るく輝いた瞬間。
──真っ白な濁流が、ふたりをごうっと呑み込んだ。)
*
(…………)
(……)
(…………)
(……)
(…………)
(……しばらく、眠っていたように思う。正確には、気を失っていたのだろうが。
時さえも凍りついていたかのような、長い長いその時間。ギデオンの体は、全ての生命活動をごくゆっくりと遅らせていた。しかしほどなくして、白く凍りついた睫毛が震え、うっすらと目を開く。瞼が鉛のように重く感じられ、何度か再び閉ざしそうになるものの。視界に満ちている薄ぼんやりとした光に、何故か不思議と縋りつかねばならないような気がして。何度もうとうとと揺れ動きながら、やがて意識が追いついてくるのを待つ。
幾らか目が醒めてくると、やがて全身に冷たさを感じはじめた。肩や背中、腕周りや脹脛が、氷の毛布にきつく圧されているかのようだ。胸から上以外は全身が厚い綿雪に埋まっている、という状況に気づくのは、この数分後のことである。……だがその中にあって、ギデオンの体の芯は、不思議と体温を奪われていなかった。己の吐く息は温かく湿り気があるし、感覚を巡らせてみれば、己の体内、首の後ろから爪先に至るまで、何か心地の良い温かいものが、とくとくと循環しているのを感じる。己の血潮、だけではない。馴染みのあるこれは何だろう……? そこまでぼんやり考えて、はっと弱く息を呑んだ。彼女だ。これは彼女の魔素だ──ヴィヴィアン!
強張った頭を動かし、己の真下に目を向けて。しばらく不安げに揺れ動いていたギデオンの瞳は、しかしほっと、脱力したように落ち着いた。──愛しい娘は、己の腕のなかですやすやと眠り込んでいた。その顔色こそ流石に白いが、唇は薔薇のように赤い……きちんと血が通っている。何よりその力の抜けた表情が、サリーチェの寝室で眺めるいつもの寝顔に、あまりにもそっくりで。「ヴィヴィアン、」と何度か軽く呼びかければ、眉根にうっすら皴が寄るところさえ、いつものそれそのものだ。
思わず口許を綻ばせてしまいながら、もう一度彼女に囁く。確かめずとも、雪に埋まった互いの手と手を今一度握り直したのは……そこでぴったり繋がっている己の魔力弁からも、眠る彼女に呼びかけるためで。)
……ヴィヴィアン、朝だ。起きろ。
ん、…………おはよ、ございます……?
( 分厚い雪に包まれて、少し体温が下がったからだろうか。それまでの場違いな程に心地よかった睡眠を邪魔されると、不快そうに眉根を潜めたヴィヴィアンだったが。大好きな厚みにぎゅっと掌を取られる感覚と、そこから吹き込まれる熱い魔素に、その薄い瞼をうっすらと開けば、先に起きた相棒にしっかりと温められていたその分か、一気に周囲の状況を把握すると、元々大きな眼を溢れんばかりに見開いて。
そうして、かろうじて動く手でギデオンの顔をぺたぺたと「ギデオンさん! 生き、てる……良かった……」そう凍りついた睫毛や、こびりついた霜を払ってやりながらへにゃりと緩んだ笑みを浮かべれば。ヒーラーとして有るまじき、身体の違和感を確認するその前に、ぎゅうっと強く抱きついた肩が震えているのは、寒さのせいだけでは無いだろう。それから二人の身体にかけられたヴェールが少しずつ消えていく感触に、慌てて下半身を掘り起こせば。いつまでも「くすぐったい……!」なんてクスクス戯れ合っている訳にもいかず。元々かなり下山していたレクターらは、無事木陰に逃げ込めたらしい様子が確認できるが、ビビたちと逃げてきた冒険者達は何人か生き埋めになってしまっているのを掘り起こしてやらねばならないだろう。幸い人数分の足は確認出来ているから、さっさとこちらを終わらせたところで、今度は山のような後処理が漏れなく全員を待ち受けているに違いない。しかし、今ビビの心を酷く苛むのはそれではなく、過酷なヴァランガの山肌を、道無き道を進んだところに確かにあった花の里フィオラ。その隠された存在と、歪められた尊い命たち、そして一晩で消え失せた住人たちを思うと素直に喜ぶ気持ちにはなれないが、今だけは生きて帰れたことに深い安堵の息を漏らして。 )
……早く、帰りましょう、ギデオンさん。
……ああ。
(ヴィヴィアンの複雑な、けれども願いの籠った声音に、同じ湿度の吐息を零し。真っ白な雪の上、立ち上がった相手とともに、崩れた谷を一望する。
──数日前まで壮観だったこのヴァランガ峡谷は、しかし夜明けの薄明りの下、静かに息を引き取っていた。村の旧跡は雪に埋もれ、かつてのキャンプ地だった家屋も木くずのように粉々になり。あの隧道の出入り口に至っては、もはやどこかにあったのかもわからない有り様だ。きっとあの崖の向こう側は、山ひとつがどっと押し寄せた勢いで、もっと完膚なきまでに破壊し尽くされているのだろう。そんな状況を生き延びた今、ギデオンたちがなすべきは、ともに生き延びた仲間たちを助け起こしに行ってやること。だがせめてその前に、と。ふと横を向き、彼女の頭をいつもどおり撫でようとして──ギデオンのその指先が、しかしぴくりと途中で止まる。……愛しい娘の栗毛の軌跡が、途中で断たれていたからだ。
そうだ、あのとき。この谷を滅ぼすべくエデルミラが発動させた、エディ譲りの黒魔術。あれを反転させるため、相手はあの場で最も聖らかであろう依り代、己の髪を差し出した。一切の躊躇なく、自らに刃を当てたのだ。いつもギデオンのなら厳しく戒めるだろうそれも、しかしあの雪崩を生き延びた今朝ばかりは、一瞬の揺らぎの後に、感謝と安堵に負けたらしく。瞼を閉ざしてため息ひとつ、それから再び相手を見つめ。もう一度その小さな頭に、己の骨ばった掌を添えて……そうしてその指先を、後ろの辺りで遊ばせれば。途端にしゅるりと、元々緩んでいたのだろう、髪紐が容易くほどけて。
ふわりと広がった柔い栗毛は、ギデオンの記憶にあるより、やはり幾らか身軽なようだ。しかし、そのひと房ひと房は、山の稜線から昇りはじめたまばゆい朝日に照らされて、黄金色に輝いて見えた。妙に神聖に感じられるのは……きっと昨夜、あんな奇跡を目の当たりにしたせいだろう。──紅き望月闌く夜さり。因習に満ちた花の里、そして怨みで生き永らえる冬山の化け物は、たった一夜で滅びを遂げた。だがしかし、彼らの悪事に巻き込まれた数々の犠牲者たち……ジョルジュ・ジェロームのような無辜の人々の魂は、朝陽の昇ったこの青空に、きっと無事に召されたはずだ。その奇跡をもたらしたのは、他でもないヴィヴィアンである。あの絶望の状況で、怨みの深紅を安らぎの黄金に変え、天に還してやった娘。
……ギデオンには時々、このヒーラー娘がまるで、神話か何かの世界から来たように思えてならない。そのことにうっすらと、ただの感嘆だけではなく、恐れを覚えることがある。──どこかから来たのではなく、どこかへ行ってしまうのではないか。自分が迂闊に目を離せば、彼女はその力のために、世界に奪われるのではないか。馬鹿馬鹿しい妄想かもしれないが、時たま本気でそんな風に感じるからこそ……今だけは。ともにこうして朝を迎え、己のすぐ横に彼女がしっかり立っている、ただそれだけの実感に、心の底からほっとしていて。
口元をやっと緩め、相手の髪を撫でたその手で、耳を優しく擽り……相手の無事を確かめると。「おまえのこれが元通りになるくらいまで、上からたっぷり特別休暇をもぎ取ろう」なんて、冗談めかした囁き声を。それからもう一度、万感の思いを込めて……彼女にそっと顔を寄せ。)
そうだな。ふたりで、うちに帰ろう。
(──こうして。激動のヴァランガ調査は、結局未達で終わりを迎えた。
冒険者たちが目撃した恐ろしい出来事は、後に“フィオラ村事件”として、トランフォードの闇の歴史にその名を連ねることになる。当然のことだろう……人を魔獣に変えてしまう常識外れの劇薬が、この世に生まれ落ちていたのだ。それは随分と後になるまで、様々な問題を国内外に広げるのだが──今はまだ、遠い話。
だからここからしばらく先は、あの事件の後にあったこと、わかったこと、そのいくつかを記していこう。
──調査隊は、無事生還した。何人かは多少の大怪我を負った者もいたのだが、ヒーラーであるヴィヴィアンの底なしの魔力を以て治せないようなものはなく、せいぜいが全治数週間。唯一目覚めさせられなかったのは、己の黒魔術の毒牙にかかった、元リーダーのエデルミラくらいだ。
彼女はあの一夜以来、ずっと昏睡を続けている。憲兵団の魔法医の話では、目覚められないのではなく、目覚めようとしないらしい。エデルミラの魔素に乱れはなく、おそらくは深く心を閉ざしたために身体が追従しているのだと──厄介な呪いを自分自身に掛けたようだと。それでもいずれ喋らせるさ、と。聖バジリオで久々に再会したあの懐かしの諜報員、エドワード・ワーグナーは、恐ろしいほど穏やかに言った。
「──元々、君たちの今回のクエストには、裏で僕らが噛んでいたんだ。アラドヴァルのあの剣士には、僕らに嗅ぎ回られるようなとある疑いが持たれていてね。魔導学院からデュランダルに調査依頼が舞い込んだ時、これはお誂え向きとばかりに、合同クエストを組ませてもらうことにしたのさ。そのほうが、お互いの顔さえ知らないうちの覆面冒険者が上手く紛れ込めるからね……ああ、そうそう。東のほうのギルドには、うちの手の者がいるんだよ。あの辺りはキーフェンマフィアも随分やんちゃをしているから、そうでもしないとやってられない。国を守るって大事だろう?
……とにかく。アラドヴァルのあいつに上手く探りを入れるために、東側からの参加者は、僕らの都合を踏まえての選抜をさせて貰った。で、リーダーにあのエデルミラ・サレスを据えたのは、その様々なしわ寄せの結果だったってわけなんだ。恥ずかしながら、彼女は僕らにとって、完全にマーク外でね。母親とふたりで、何やら迫害されていたらしいのは突き止められていたのだけれど……その加害者が、フィオラ村の差し向けたビェクナー商店だったってことも、サレスが母親を追い詰めた故郷を深く怨んでたってことも、僕らは気づけちゃいなかった。
だからヴァランガ調査の顛末は、もう完全に、憲兵団の大失敗さ。行かせちゃいけない人間を行かせて、そいつが大爆発したことで、君らも含めた一般人を随分巻き込んでしまったし、情報漏洩を防ぐための追跡調でもてんてこ舞いだ。そもそもの調査対象だったアラドヴァルの奴にしたって、今回のせいで強硬手段に移らざるを得なくなった。それじゃあ取り漏らしもあるだろうから、上はもうおかんむりでね。やらかした前任なんて、今ごろルーンの最果てに飛ばされている頃だろうよ。そそう、それで後始末にあてがわれたのが今回の僕ってわけ。フィオラ村の流通を突き止めるのはもちろん、サレスが何をしたか、今までどんな動きをしてたか、全部報告書を出せって話さ。まったく、幾らこの僕が優秀極まりないとはいえ、とんだとばっちりだよねえ……」
──随分と饒舌な、そのエドワードの話によると。フィオラ村の唯一の生存者であるあの少年、イクセルは、現在は憲兵団の関連施設で保護……もとい、監禁されているらしい。
イクセルは山を下るとき、自分ひとりが生き延びてしまったことに、酷く泣き叫んでいたようだ。その幼いながらに凄まじい怒りの矛先は、他に誰あろう、ギデオンたち冒険者にまっすぐに向けられた。──なんでみんなを助けなかった! なんでみんなを見殺しにした! ──俺も村のみんなと一緒に死なせてくれればよかったじゃんか! ──俺が、俺がちゃんと英雄になれば! おまえらが村に来なければ!
イクサルは決して、妹たちはまだ生きているはずだとは一言も言わなかった。途中で雪崩に巻き込まれて意識を失ったギデオンたちとは違い、あの子どもは一晩じゅう、谷の向こうに戻ろうとするのをレクターたちに必死に止められ、涙をはらはら流しながら、故郷が雪崩に呑まれる様を見届けつづけていたらしい。ただでさえまだ幼い子どもにとって、それはどれほど惨い光景だったろう。ヴィヴィアンは特に酷く心を痛めていたが、さりとてできることはなかった。こうして続報を聞けるだけまだありがたいほうで、そもそも事件後の冒険者たちは、同じギルドから参加した者以外との接触を禁じられている。天涯孤独のイクセルは、当然誰とも会えないし、誰のことも、何のことも、知らせてもらえやしない立場だ。
よってあの少年は、今も施設の職員相手に、堅く口を閉ざしている。フィオラ村はどんな村なのか、どんなことをしていたのか。職員たちが遠回しに聞き出そうとしてみても、一言も語らないらしい。当然ではあるだろう……おそらくその調子なら、いつかはきっと、ヴィヴィアンが聴取役として呼ばれることもあるだろうか。その時が来るまでに、少年の孤独な心は、気丈に耐えてくれるだろうか。
……その少年の体を魔導学院が調査して、ひとつ判明したことがある。
フィオラ村の出身であるイクセル少年の体内には、本来は人体にあるはずのない完全未知の成分が、高濃度で蓄積していた。この組成は一説によると、ハリガネムシがカマキリを操る時に注入する、ある特殊な成分に非常によく似た配列らしい。
その解析結果と、ヴィヴィアンが持ちかえった花の成分の調査結果を、憲兵団の監視下で照らし合わせてみたところ。誰もがにわかには信じがたい、だがそうとしか思えない、ある仮説が浮かび上がった。
──フィオラ村のあの“花”の正体は、非常に特異で悪質な、寄生植物なのではないか。
──自他の生きものの体を侵し、その本能を“花”に利のある行動をとるように書き換え。やがて一定以上溜まれば、月の魔力に反応して、その体を凶暴な魔獣のそれへと変えてしまう。そんな恐ろしい作用を持つ、いっそ猛毒とも呼べる花粉を分泌していたのではないか。
そう仮定して振り返るなら、心当たりは様々だ。
──鍾乳洞に巣をつくる、フィオラ村の特別な蜜蜂。本来はどんな蜂も、地上に巣をつくる習性のはずだ。それがフィオラの蜜蜂は、どんな光も差し込まない地下深くに巣を構えていた。あれはおそらく、本来は“花”に洗脳されて受粉を手伝う立場の彼らが、月の光を浴びることで変貌まで遂げてしまわぬよう、夜間は地下に引きこもるように変わっていったのではないか。
──祝祭に参加した最初の宴で卓に出された、あの特別な肉料理。あれはたしか大型魔獣、ヘイズルーンの肉だった。月夜に山々をうろつき回るあの山羊は、何かしらの特殊な酵素を体内に隠し持つらしく、どんな毒草も効果がない。植物であれば皆一様に、美味な乳へと変えてしまう。……だからフィオラの“花”にとって、己の洗脳が一切効かないあの奇妙な草食魔獣は、唯一の天敵だろう。おそらくはそのために、自分の洗脳下にあるもの、特に何度も毒を含んですっかり従順になったものを、月の光をトリガーとして強い魔獣に生まれ変わらせ、“花”を食べにくるヘイズルーンと闘わせるようになったのではないか。本来のフィオラ村が狩猟を生業としていたのも、魔獣化を遂げるまでもなく、ヒトならではの知能や道具で、たびたびやって来るヘイズルーンを屠っていたからなのではないだろうか。
──村の資料館のタペストリーの、ぐるぐる目をした村人たち。あのフィオラ村の祖先たちは、数百年前の世界で迫害を受けたときでさえ、“花”を忘れずに持ち出していた。あの刺繍群の最後でも、“花”はやたらと神聖そうに縫い込まれていた筈だ。きっとそのときから、始まりの祖先の時から、彼らは花粉に毒されて、“花”に魅入られていたのだろう。……そもそもかれらは、どんな理由で迫害を受けていたのか。もしかしたらきっと、ロウェバ教を中心とした宗教弾圧が激しかった大昔に、“花”を崇める異教を掲げていたのではなかろうか。
──それからあの、ジョルジュ・ジェロームの日記に綴られていた凄惨な最期。あれはおそらく彼の体が、フィオラ村の花粉に対してアレルギーを来たしたせいだ。滞在が長くなるにつれ、最初は順応できていたジョルジュ・ジェロームの肉体は、フィオラ村に蔓延している“花”の花粉の異常さに気づき、激しい免疫反応を引き起こすようになったのだろう。ただでさえ他の生物の肉体をそっくり改造してしまうほどをど強力な毒なのだ、相応の苛烈な反応が起こってもおかしくない。
──だとすれば、フィオラ村の人々が行っていたあの近親相姦は、一種の生存戦略的な文化だったのではないか。“花”の毒に侵されて尚生き残れる者たちで子孫を作っていくうちに、“花”に対するある種の免疫、自己破壊には至らないまま“花”を愛でていられる体を、獲得したのではないか。
しかしこの世には無情にも、生物濃縮というメカニズムがある。
毒の海で育った小魚を、それより大きなレモラが食べ。そのレモラをメガロドンが、メガロドンをドラゴンが。そう言った食物連鎖をするうちに、最初は僅かだった毒が、後々の生物の体内にどんどん蓄積されていって、より高濃度になっていく。そして時にその猛毒は、母胎から子へ継がれてしまう。
フィオラ村の人々は、おそらく数百年もの間、あの“花”とともにに生きてきた。その花粉を吸い続けて、何もないわけがない。無自覚に花の守り人となりつづけ、やがてはそれを利益のために悪用しだしたその先に。ただでさえ近親相姦で高め続けた花の毒が、あとはエデルミラが大鍋に盛った僅かな秘薬のひと押しだけで、臨界点を迎えたという可能性が、限りなく高いのだ。
イクセルはあの日、魔獣化の秘薬をとうとう口にしていない。なのにその体には、既にあの“花”の毒が一定程度溜まっているとわかった。だとすればそれは、イクセルが先祖代々、知らずに受け継いできた毒だ。そしてイクセルが将来的に、もしもフィオラのだれかと結婚していたのなら。その息子や娘の体には……イクセルよりも多くの毒が、生来宿っていたはずである。──フィオラ村はきっと、今回の事件がなくとも、いずれ数世代のうちに、皆魔獣化して滅んでいたのだ。
しかしそれでも、かれらの“花”や、彼らがこの世に編み出した秘薬の製法はなくならない。ならばいずれ、連絡の絶えたフィオラ村を、あの取引先のいずれかが訪ねては、遺されたそれを手に入れてしまっただろう。そうなると、もっと恐ろしい大事件が、もっと恐ろしい連中によって引き起こされた未来も有り得る。……結果論でしかないにせよ、今回のヴァランガ調査は、それを防ぐ最後のチャンスをぎりぎり逃がさなかったのだ。
──故に。調査隊が山を下り、通報を入れた後は、然るべき機関、然るべき者たちが、即座に水面下で動きはじめた。
ここ数カ月のヴァランガ地方は、いよいよ厳冬の雪に閉ざされ、もう何者も立ち入れない。だがひとたび春を迎えれば、きっとかつての取引先も再びフィオラに秘薬を求め、その惨劇を知るだろう。タイムリミットはそれまでとばかりに、今日も国内のあちこちで、憲兵団の諜報員が、魔導学院の研究者が、警察の名刑事が、公認協会の古強者が、皆この事件を追っている。互いの顔すら見知らぬ者も多々いるだろうにせよ、しかしその志は、ぶれることなくぴたりとひとつだ。──明日の平和を守りたい。家族や友人、知人、そこらの赤の他人でもいい。誰もが安心して過ごせる日々を、不完全でも愛しい社会を明日も続けていけるよう。日陰のうちに悪を下して、この戦いを乗り越えたい。
ギデオンとヴィヴィアンもまた、キングストンに帰還してからしばらくの連日連夜、私生活を投げ打っての事後処理に奔走した。山のような報告書に、何度も繰り返しの事情聴取、記憶を掘り越してのマッピング、査問会、再現見分、エトセトラエトセトラ。求められる協力をひたすらこなしつづけるうちに、会えない日々、帰れない日々も、何度続いたかわからない。
そうしてようやく、ふたりがそれぞれ帯びた使命を、一度すっかり果たし終え。少なくとも私的には、長かったヴァランガ調査を完了することができたとき。……本当はふたりで、ちょっと良いところに小旅行でもしに行って、お互いを労おうかと計画していたはずだったのだ。しかしふたりとも、いざお互いの顔を見るなり、そんな考えは吹っ飛んだ。
──帰りたい。籠りたい。一刻も早く、サリーチェの家に。
引き合うように抱き締めただけで、それがひしひしと伝わった。互いに同じ思いだった。
半年前にふたりで住みはじめた、あの麗らかなラメット通りの一軒家。今のギデオンとヴィヴィアンにとって、他でもないあの空間こそ……既に思い出がたっぷり詰まった、心安らぐ場所だったのだ。)
*
(それは、その日の夕暮れどき。聖バジリオ記念病院の真っ白な廊下にも、温かなオレンジの西日が格子状に差しこみはじめ。いよいよ他の見舞客も、ちらほらと帰り支度を始めたころのことである。
ギデオンはひとり、用があった受付からヴィヴィアンの病室に戻っていくところだった。数日ぶりの見舞いだったが、今日は随分長いこと彼女のために居ついている。その上さらにとある申請をしたことで、悪戯っぽい顔をした受付のご婦人には、何やら変化があったのをちゃっかり見抜かれてしまったようだ。こちらの何か言いたいのを自重して綻む口許に、対するギデオンのほうはといえば、なんだか居た堪れない気持ちで視線を僅かに逸らしたが。……今までと違うのは、他人のこういい揶揄うような反応に、上辺ばかりの焦燥感を抱かなくなったことだった。我ながら以前の自分に呆れるようばかりだが、それだけ自分の心境が大きく変化したのだろう。
──後輩ヒーラーのヴィヴィアンと組むようになって一年。ギデオンは最初こそ、彼女の無邪気で獰猛な好意を躱しつづけたはずだった。しかしいつしか彼女に絆され、様々な日々を共有しながら、やがて本当に憎からず想いはじめた……その矢先。あの因縁の悪魔の事件で初めて彼女を失いかけて、そこでようやくギデオンは、それまでの自分の愚かさに気がついたのだ。
あんな思いは、もう二度としたくない──故に今のギデオンは、いっそ腹が据わっている。とある聞き込みをしたことで、ギルドの連中や旧友たちには、最近おまえらいろいろありすぎてもういったい何なんだ、何が何だかわかんねぇよ、と狼狽されてしまったもの。ああ、別にこんな手合いは気にする必要もなかったのだと、そんな当たり前のことに今更のように気がつきながら、ただ淡々と質問を重ね。──その成果をひっさげた上で、今日は彼女を見舞いに来たのだ。)
……ヴィヴィアン、俺だ。
(そうして、馴染み始めた病室の戸をノックしてから声をかければ。内側からの声に慣れた様子で病室に入り、馴染みの丸椅子に腰かけたはいいものの。今日持ち込んだばかりの人気店の焼き菓子が、まだ辺りに馥郁とした甘い香りを漂わせているものだから、甘党ではない己でさえ、思いがけず腹が微かに鳴いてしまう。──そういえば、今日はいち早くここに駆け付けたかったから、朝飯もそこそこに街道の馬車に乗り込んだんだ、と。少しはにかんだように言い訳してみせながら、ふと立ち上がって傍らの棚に歩みより、鉄製の水差しを魔法盤の火にかけて。)
なあ、悪いが。
そこのポットで茶を淹れるから……今日の検査結果の話は、そいつをつまみながらにしないか。
……あっ、ええ! もちろん、……。
私の方こそ気が利かなくってごめんなさい。
( 私淹れますよ、と立ち上がりかけたのを制されてしまったその代わりに。『オ・フィール・デ・セゾン』のロゴが入った箱を手にとり、しっとり香しいマドレーヌ2つうち、焼き目が綺麗な方をギデオンの皿へと滑り込ませれば。魔法盤の前に立つ頼もしい背中にほうっと見とれてしまうのは、先程2人の関係が明確に変わったばかりだからだ。キングストンから馬車で6時間、貴重な時間を割いて来てくれた相棒……恋人、が、隣でお茶を淹れてくれている。──まだ、暫くここに居てくれるってことだよね、と。子供たちのお見舞いにでも行ってきたのだろうか。一度席を外した後にもう一度帰ってきての、ただの上司部下では有り得ない、明らかな親密さを表す滞在時間に、どこか現実味なく火照った頬を両手でもちりと抑えると。おもむろに振り返ったギデオンに慌てて姿勢を正して、簡素なティーカップをソーサーで受け。 )
──ありがとうございます。
でも、もう随分良くなったんですよ。
今日の検査で先生も退院を考えていいんじゃないかって。
( 来週の土曜日でちょうど保険が切り替わるので、手続的に金曜日かな、と付け足したのはあくまで若ヒーラーの浅慮だが。キングストンに2人で帰る。やっと果たせるその約束に退院後のことへ思いを馳せると、普段より少しあどけない印象の目尻を、更にへにゃりと柔らかく下げ。入院中は中々こうしてゆっくり話す時間も取れなかったが、キングストンに帰ればまたギルドで顔を合わせられるだろうし──……もしかして、お休みの日にもデートとかしてもらえちゃったり、して……!! なんて、桜色の小さな爪がついた滑らかな足でとたとたと嬉しそうにシーツを鳴らし、自分に都合の良い妄想に耽ったのもつかの間。本日、ギデオンが来てくれてからというもの、時に乙女らしい葛藤に苛まれながらも、ずっと楽しげにはしゃいでいた表情に少し影が刺したのは、その肝心な帰宅先、ビビの馴染みの下宿先のことを思い出したからで。それまで、御年今年で90だとは思えない矍鑠としたおばあ様が管理していた関係で、好立地にも関わらず女性限定で居心地の良かった下宿先だが。今年の春、とうとう運営を息子さんに譲ることになってから、隣の部屋に男性の入居が決まっていたのだ。未だ挨拶を交わしただけの関係で、決して悪い人物では無いのだが──そう、ごくごく健康的に肉食系な隣人を思い出して、会話に不自然な間が空いてしまったことに気がつくと。「あ、やっぱり美味しい! ありがとうございます、並んだでしょう?」と、一口サイズに割ったマドレーヌを口に含んで見せて。 )
とはいえ、暫くは安静にしてなくちゃいけないみたいなんですけどね…………いえ、随分お部屋開けちゃったからお掃除大変だろうなって、思って。
……なあ、そのことについてなんだが。
(「そんなでもないさ。暖かくなったしな」なんて雑談に応じていたが、相手が誤魔化した小さな憂いは、しかし決して見逃さなかった。せっかくの綺麗な焼き菓子、自分が言いだして出させたものに、手を付けようとしないまま。いやに真剣な面持ちで慎重に切り出して、相手がきょとんとでもすれば、丸椅子に腰かけたまま、一度きちんと向き直る。「大事な話があるんだ、」と。
──相手と恋仲に踏み切ったのは、つい数時間前の昼下がり。それだというのに、その日の夕方にいきなりこんな持ちかけに及べば、彼女を怯えさせないだろうか。何より社会的に見て、あまりにも性急だろう。四十年生きてきたギデオンの常識は、いっそ蛮行だと自ら厳しく糾弾する。そんな諸々を渦巻かせながら──それでも決して譲れない、もうこれ以上悠長に躊躇ってなどいられない。そう再三風にも考えたから、“これ”をはるばる持ってきたのだ。
棚の上に置いてある自分の革鞄から取り出し、ますは相手の手元に置いて、その目で直接見るようにと促したその紙束は。──絵具ないしは製図用インクで描かれた、建物の図面である。それも、ひとつふたつではない。広々とした間取りが売りのアパートや、前庭の緑豊かなタウンハウス、瀟洒な外観のメゾネット、ゆったりとした一軒家まで。いずれもキングストン市内、それもカレトヴルッフにほど近い立地を誇る、超優良の物件ばかり。しかも各々家賃やら、敷金礼金やら、最寄りの馬車駅への所要時間やら……そんな様々な情報が、いっそ網羅する勢いで細かく記されているあたり。これはもう明らかに、入居希望者に向けて作った、不動産屋の案内だ。
何故こんなものを、と相手に問われるその前に、再びヴィヴィアンの目を間近な距離でじっと見つめる。そのアイスブルーの瞳に込めた熱だけでも、きっと明白に語れたろうが。……他でもないヴィヴィアンから、先ほど大事だと教わったばかりだ。窓辺の夕陽に見守られながら、相手の片手にそっと己の手を重ねると。今一度、その想いをはっきり言葉にしてみせて。)
ヴィヴィアン。
──俺と、一緒に暮らさないか。
……、…………?
( もしこの時のビビの心象風景を覗くことが出来たならば、それはそれは壮大な宇宙の果てを垣間見ることが出来ただろう。一緒にって、一緒に……ああ、我々は同じ星という宇宙船に同乗している仲間的な……? と、一瞬。あまりの提案にぶっとびかけた思考を何とか地上に戻してくれば、その顔に未だ色濃い困惑を浮かべたまま、「それは、将来的に……ってこと、ですか……ね?」と。それでも、かなり気が早いとは思うのだが、比較的常識的な落とし所を見つけ問いかけてみるも。そうして絞り出した問いかけを否定されてしまえば、再び白い唇を震わせてパクパクと声にならない声をあげ。 )
あ……いえ、その、ごめんなさい、ええっと……驚いちゃって。
( そうして、それまで次の一口に進もうとしていた焼き菓子を皿に置き、思い出すのは──20代のうちに子供を産みたいとするじゃない? と、いつか同い年の魔法使いが女子会の名を冠した飲み会でクダを巻いていたうちの一言。別に、DVとまではいかなくても、なんか違うのよねって人と一生生きていくのはお互い不幸だから、子供を産むまでに最低1年は時間を設けたい。じゃあ遅くとも28には結婚するために、生活スタイルが合わなかったら困るから、また1年期限を設けて同棲したとするでしょう? そうしたら付き合った当日に同棲する訳にもいかないから、26
までには結婚を前提としたお付き合いを始めないといけなくて……とまあ、要は意外と時間が無いという、何の個性もへったくれもな年頃女の焦燥混じりの皮算用だったが。目の前の男の提案と比べれば、よっぽどマトモな考えだったと思わざるを得ない。決して嫌だというわけじゃないが、あまりにも──……もしかして何か、ビビの知らない制度的な事情とかがあるのだろうか。それに社会的な常識さえ差し置けば、大好きな相手と、そしてやはり例の下宿に帰らなくていいという安堵が、やっぱり良いかも……と。弱みに付け込まれた思考を血迷わせかけたのを、再度冷静の引き戻してくれたのは皮肉にも、2人の生活を夢見た具体的な妄想の方で。検診的な先生や看護婦さん達の丁寧な治療のおかげで今日び発作を起こすことは無くなれど、未だ免疫機能が弱っているのだろう。本日体調が優れていたのもタイミングが良かっただけで、退院後も度々ただの風邪で熱を出し、数日寝込んで相手に迷惑をかける頃を想像すれば、申し訳なさそうに頭を振り。 )
……いえ、でも、やっぱりすぐに、という訳にはいかないと思うんです。
大分回復したとはいえ……もう大丈夫、大丈夫なんですけど、まだ寝込んじゃって動けない日もあるし……
だからこそだ。そのあいだ、おまえを助ける奴が必要になってくるだろう?
友人が多いのは知ってるが……夏前のこの時期だ。皆除草依頼だなんだで、あちこち駆り出されっぱなしだろうし……仲良くしてた隣の住人だって、今は地方公演に出てるって話だったよな。
(相手の遠慮がちな声に、しかし想定内と言わんばかりの穏やかな声音をさらりと返す。……その除草依頼だなんだがどの程度降ってくるのか、だれがどれほど王都を離れるクエストに出るのか、上級戦士であるギデオンは、もちろん事前に聞き知っている。それを自分の好きなように都合する暴挙には、流石に及ばないにせよ。その代わり、話の成り行きを静観し、口を“出さない”でおくことならば、いくら重ねても問題はない。それから、相手のお隣のことだって。何かの話題についでに彼女がぽろっと言ったのを、二月だったか三月だったか、当時は軽く聞き流して終わったはずだが。この具合の良い頭は、その必要さえ生じれば、どんな些細な情報もこうしてたちまち掘り起こし、便利に引用してしまう。
愛しい相手に、嘘はつかない。だがその代わりに、ほかの手段を躊躇いもしない。別に酷くはないはずだ──事実を優しくあげつらい、相手の心もとなさを丸裸にしてやるだけで。
もしもこの場にマリアやエリザベスがいたならば、ギデオンのそんな卑怯なふるまいを、決して許しはしなかったろう。しかし今この病室に、哀れなヴィヴィアンは当の己とふたりきり。故にこちらは、じわじわ布石を配しながらも、焦る必要がどこにもない。その腹のうちを気取られぬよう、あくまでごくのんびりと、寛いだ様子を見せながら。相手の手元にある資料に触れ、それにもう一度軽く目をやるふりをしてから、今度は再び相手を見遣る。──急な誘いに竦んでいるなら、今度は少し距離を置き、安心させればいいだろうか。いかにもしおらしく引き下がると、それでも酷く名残惜しそうに、強請るように首を傾げて。)
何も、すぐに引っ越そうってわけじゃない。退院した後、おまえの体調が落ち着くまでは、ゆっくり様子を見るべきだろう。
……それから、おまえの気が向かなかったら、やっぱりやめると言ってもいいんだ。いつだっていい。おまえが嫌だと思うことを、無理強いすることはしない。
……だが、別にそういうわけじゃないのなら。そうだな、ほんの試し程度に、物見遊山で……行ってみないか。
…………ギデオンさん、
( 手練手管をこまねいて、用意周到に逃げ道を潰しにかかったギデオンの脳内で、この時ビビはどんな反応をしたろうか。あげつらわれる不安要素にか弱く怯え、素直にその腕の中に堕ち往くか。それとも手強く強硬に突っぱねたろうか。しかし、根本からしてギデオンを疑うという機能が未発達なヴィヴィアン本人はと言えば、ギデオンの『だからこそだ』という言葉に、大きな瞳をぱちくりさせたかと思うと。丁寧に並べたてられる"まるで自分事のように真剣に、ビビのことを考えてくれた言葉達"に、次第にもじもじと顔を赤らめ出して。尚も重ねられる"優しい思いやり"に上半身を乗り出すと、太い首に腕を回して力いっぱい抱きついて。 )
嫌なわけないです!!
こんなに真剣に考えてくださるなんて……嬉しい、
ありがとうございます、大好きです!!
( そっか、ギデオンさんは忙しいから、私の部屋まで看病に来るのも難しいもんね、という盲信は傍から見ればツッコミどころ満載だろうが。束の間の戯れを楽しみ、ゆっくりとベッドに腰を下ろせば、るんるんぽやぽやと時折、「えへへ」と締りのない笑みを漏らしながら改めて書類を眺めて。──ここはお庭が広いんですね、だとか。キッチンからリビングが見えるの素敵! だとか。賃料や共益費、その他諸々の雑費等の月の予算を正確に読み取ることが出来れば、元々白い顔から更に血の気を失せさせたろう物件たちを楽しげに眺めているのは、ただ単純に読み方がわかっていないだけらしい。途中から相手の肩にくたりと凭れて、ギデオンの補足説明に耳を傾けること暫く。久しぶりにはしゃぎすぎたのだろう、少し眠そうに熱い掌を相手のそれに重ねれば、少し掠れた小さな声をギデオンに聞かせる気があったかは微妙なところで。 )
行ってみたい、けど、本当に甘えちゃっていいのかな……
(みるみる笑顔を綻ばせたヴィヴィアンに飛びつかれ、思わず──他所だと真顔でいるばかりのギデオンにしては珍しく──白い歯を爽やかに見せ、笑い声をあげてしまう。これだからこの娘は手強い。彼女がまっすぐ寄せてくれるこの信頼感、安心感。そのとびきりの純真さを前にして、どんな邪な心構えも、虚を突かずにいられようか。事実、「俺もだよ」と応えたギデオンのまなざしには、もはや一切の混じり気がなく。ただただ、相手への愛おしさに満ちあふれているのみで。
ふたり睦まじく頭を寄せ合い、資料片手にゆったりと喋って過ごす、寛ぎのひとときののち。夕闇がゆっくりと一日を綴じていくなか、ヴィヴィアンの呼吸は、いつしか酷くゆっくりと落ちつき。その柔らかくしなだれる体も、まるで幼い子どものようにぽかぽかと温もりはじめた。たったそれだけの些細なことに、己の胸がまたぐうっと深く満たされるのを感じつつ。「……いいんだ。俺の本望だよ」と、相手の旋毛に唇を乗せて囁き。
くっついていた体を、相手の傍からそっと引く。彼女がこちらを見上げれば、表情や手振りを使い、ベッドの中にきちんと入り直すよう促して。それですんなりか、渋々か、とにかく相手がそのようにすれば。清潔で柔らかいデュベを、上からたっぷり掛け直してやってから、再び傍らの丸椅子に落ち着き。)
必要なことは、俺がちゃんと済ませておく。だからおまえは、退院するその日まで、ゆっくり休んでいてくれ。
……おまえが一日でも早く元気になることが、俺にとっていちばんの朗報だ。だから、楽しみに待ってる……おやすみ。
(……窓の外の残陽が紫色に沈んでいくのと、相手が瞼を下ろすのと、はたしてどちらが先だったろう。いずれにせよ、愛しい娘が安らかに寝つく、その瞬間を迎えてからも。ギデオンは彼女のさらさらした額を、ずっとなだらかに撫でつづけていた。)
(──それから、しばらく後のことだ。
ヴィヴィアンがついに退院を迎えた。悪魔の害を受けた魔経は既にすっかり回復し、それに伴う体の不調も大方マシになったらしい。それでもまだまだぶり返す恐れはあるので、帰宅数日は安静に、できるだけ動かずにのんびりと休むこと──医師からのその説明に、片眉を上げて彼女を見遣る。な、俺の出番だろう? と、堂々と言わんばかりだ。
ちょっとした一幕もあった。病院側からふと別室に呼び出されたのだが、ご丁寧に弁護士付きで、折り入って何かと思えば。──院長からじきじきに、「聖バジリオの会計係が貴方に不正を犯していた」と告白されたのである。
……今は元気に院内の庭を駆け回る、13年前の悪魔の事件で寝たきりだった子どもたち。その巨額の医療費を、事件に関わった当事者として、ギデオンは払いつづけていた。しかし誰もが与り知らぬうちに、その請求額がいいように水増しされ、抜かれつづけていたのだそうだ。その賠償の差額分は、これから精査した上で、きちんと返金されるという。再三深々と謝罪する院長に動揺し、どうやって判明したのか、とそちらに水を向けてみれば。院長は何故か、ギデオンの横に視線をやった。ギデオンも真横を向いた。……黒革のソファーの上、ちょこんと座ったヴィヴィアンが、如何にもばつが悪そうに、盛大に目を逸らしていた。
──横領事件に気がついたのは、何と他でもない、己の相棒だったのだ。ふとした立ち聞きから横領疑惑に気づいた彼女は、その被害者がギデオンであると知って、いてもたってもいられなくなったらしい。どうにか突き止められないかと奔走するうちに、あの少年たちも探偵団として志願してきたり、ひょんなことから交流を盛った彼らの家族も協力してくれたり、果ては王都のカレトヴルッフも郵便づてに巻き込んだり……と、そこにはなかなかのドラマがあったそうなのだが。ただその過程で無理がたたり、発作を起こしてしまったこともなくはなかったと聞かされて、肝が冷える思いだった。
とはいえ、諸々呑みこんでため息をつけば。「これでおあいこだな」と、一枚の薄い紙を相手にぴらりと示してみせて。──それはヴィヴィアンの入院費の、ギルド保険を適用してなお高額な請求書である(魔弁の再形成には最新医療が使われる以上、致し方のない話だろう)。しかしその支払いの名義は、他でもないギデオン・ノース。ヴィヴィアンに同棲を打診したあの日、病院の受付に寄っていたのは、この手続きをするためだったのだ。
結局己もヴィヴィアンも、変なところで瓜ふたつとしか言いようがない。相手がそうと知らぬところで、相手の事情にがっつりと首を突っ込み、相手の力になりたがる。どれもこれも、相手が好きで好きで仕方がないせいなのだ。それをつくづく思い知り、ついに病院を出てからも、たまらず同時に吹き出せば。ふたり密に手を絡め、またお喋りに花を咲かせて……小径にあふれる木漏れ日のなかへ、のんびりと歩いていった。)
(──さて。聖バジリオのあるケルツェンハイムから、王都キングストンまでは、街道馬車で6時間。病み上がりの人間には、なかなか体に堪える長距離だ。
故にギデオンの提案で、帰りは一泊することにした。場所は宿場町インバートフト、この時季は若々しい川魚が獲れることで有名である。美味しいものには少しばかり関心の高いギデオンも、別にそれを目的としてここに定めた、というわけではないのだが。町の馬車駅で途中下車し、宿の記帳を済ませると、ヴィヴィアンと連れ立って、その隣に連結している料亭に入ることにした。
これがもう少し大通り沿いの店だと、なかなか酒杯の捗る飯を、しかも安い値段で様々に食べ比べできる楽しみがあるのだが。あちらは全国の酒飲みがうきうきと集うせいで、どうにも賑やかすぎるところが難点だ。──その点、こちらの店は良い。川辺に面した東洋風の広い個室で、運が良ければ蛍の光でも眺めながら、ゆっくり静かに舌鼓を打っていられる。何よりこのまま眠くなっても、すぐそこの廊下を進めば、後はベッドに倒れ込めばいいだけだ。
こんな贅沢な造りをしているのも、元はと言えば、昔の貴族が王都に参勤するときに使っていた店だからでな。俺たちのいるまさにこの部屋なんて、昔あのフランシス・ボルドが、ニコロ・デ・ロベルトとの密談でよく使っていたらしい……。そんな話題を披露しながら、相手の注文した魚料理の身をほぐし、骨を除けてからそちらに渡すと。ともに楽しめるようにと頼んだ弱い花酒の杯を呷り、ふうとひと息ついてから、座敷の軒越しに夜空を見上げる。幸いよく晴れていて、手を伸ばせば掴み取れそうな星々が、赤紫色の空にちらちら瞬きはじめていた。──今なら、願いが叶うだろうか。)
……なあ。帰ったら、しばらくおまえの家に通っても構わないか。
料理だったり、洗濯だったり……まあ、後者は俺が直接やるわけにもいかないから、公衆洗場に持って行くことになるだろうが。
ギルドのほうにもまだまだいろんな申請が必要だ。そうなると、書類を出しに行くための人手が……おまえには必要だろ。
( 今晩の宿をギデオンから、当初夕食付きの宿を取ってあると聞いた時、ビビが想像したのはよくある飲み屋の上に簡素な部屋だけがついた安宿だった。少々階下が騒がしいのは難点だが、それなりに経済的で冒険者には馴染みの深い様式を、キングストンに帰るまでの中休みには丁度良い塩梅だと勝手に納得していたものだから。見知らぬ土地をキョロキョロと、目に映るもの全てを新鮮に楽しんでいたビビの視界に、その客を呼び寄せる気を微塵も感じさせない高級な門構えが飛び込んで来た上、その垂れ下がった幕の奥へと他でもないギデオンにエスコートされてしまえば。素直にぽかんと口を開けて、たっぷり数秒ほど呆けてしまったのも実際仕方の無いことで。
どうやって客を管理しているのか、ギデオンとビビを見るなり帳簿などは一切確認せずに、「いらっしゃいませ」とにこやかに微笑んだ女将に通された室内は、異国のそれでも、一目で上等だとわかる調度で嫌味なく整えられ。そのまま一通りの設備を最低限の言動で説明した後、「ごゆるりと」と、そのスライド式の扉が締められるまで、女将の視線には此方の関係性を勘繰るような色さえ、個人的な感情合切は微塵も浮かべられなかった。最近気が付き始めたのだが、意外と過保護なギデオンのことである。これがただ高級な宿であったら、ビビもどう平等にここの支払いを片付けるかを考えつつ、ごくごく自然に受け入れたろうが。この宿はこれまでビビが慣れ親しんできた首都の高級ホテルともまた違う、酷く、酷くプライベートで、外界の分断を強く感じさせる空間にそわつくも。岩魚をメインにした上等な食事に、ビビ好みの興味深い話題、そして、極めつけに香り高い花酒の香りに包まれると、当初抱いたはずの違和感が次第に霧散しゆくのは、果たして偶然のことだったのだろうか。
独特な作りをしたこの大厦は、一度部屋に入れば完全なプライベート空間として、食事の間からベッドのあるへ部屋、そして贅沢にお湯を張った浴室まで、他の客どころか、従業員とも此方から呼ばない限り顔を合わせることが無い作りになっているらしい。故に食事前に良い香りのする木のバスタブで旅の疲れをゆっくり癒した後は、これも東洋のものらしい白いアイリスが眩しい紺色のガウンのまま、ゆったりと食事を楽しむことにして。 )
それ、は…………、
( 花酒の盃をそっと置いた娘の濡れた赤い唇から、ほう……と、心底困ったような吐息が漏れたのは、夜空を見上げたギデオンが問いかけた時だった。『必要なことは、俺がちゃんと済ませておく』その宣言の言葉通りに、病室で迎えたあの日以降、ビビはギデオンからずっと……ずっっっと、世話を焼かれ続けている。自らの行為の後ろめたさに、とうとう取り返せずに諦めた治療費の請求書を始め、インバートフトでの一泊だって、歩くビビの腰にごくごく自然に腕を回して支えながら提案されたその時点では、本当に心配性なんだからと内心笑えていたのに。この宿場町へ、御者の到着を伝える声が響いた時に、己が酷く疲れていることを自覚してしまえば、いっそ恐ろしささえ感じてしまって。
今だって、当然の如く解されてから渡された魚に、流石にここまでされる必要は無いと思う理性だってあるにも関わらず、その宝物を扱うような振る舞いを嬉しく感じてしまう自分に、何か不可逆の恐ろしい変化を感じ取れば。──あくまで、ギデオンさんは病み上がりだから心配してくださっているだけなのに。そう、星を見る男の視線とは裏腹に、植物で編まれた絨毯(?)の上へと、不安げなエメラルドをさ迷わせると。いつの間にか、ガウンから覗くうなじまで桃色に熱を持った肌を、その頬をもちりと首を傾げて押さえれば。ビビより余程酒精には強いだろうに、何やら酷く満足気なギデオンの様子に、困惑に潤んだ瞳をしっとりと向け。 )
ギデオンさんさえ良ければ……構う、ことは、ないですけれど。
あのね、そんなに甘やかされたら、1人で生きていけなくなっちゃいそうで、
それは、その、困るわ……。
…………。
(『困るようなことなのか』──そんな台詞が、いやに冗談味のない声音が、思わず口を衝きかけたものの。
いつぞやの小さな焚火の傍とはちがって、今宵のギデオンは冷静だった。故にその薄い唇を、かすかに開きかけたそのまま。──違う、だとか、まだ時機でない、だとか。一瞬さ迷った青い視線を、澄んだ星空から庭先の闇へ引き下ろす。そうして、立てた片膝にあずけた手元で、酒杯を揺らすふりに興じてみせることしばらく。……姿勢だけは相手のほうに軽く傾け、如何にも寛いでみせることで。別におかしなことを言ったわけではないのだと、相手を安心させられるだろうか。
幸い辺りの草叢では、初夏の虫がよく鳴いていた。りぃ、りぃ、りぃ、りぃ、りるるる、りりりり……。その絶え間ない弦の音色の美しさは、会話のあいだの静けさを彩るのには充分だ。──ああ、そうか、と。古今の人々がこの一室で夕餉を囲んできたわけが、不意にわかったような気がした。思わずふっと苦笑が漏れる。まさか、こんな形で最後列に加わるとは。……だが結果的に、ここを選んで正解だったというわけだ。
そうして余裕ができて初めて、ようやく膳越しに隣を向いた。今ならようやく落ち着いて眺めていられる、髪を結い上げた軽装美人。そのその湯上りのまろい頬は、尚もいじらしく染まっているし、こちらを見つめるエメラルドときたら、恥じらいの湿り気をとろんと帯びたままである。──その上、あんな殺し文句まで囁いてくるときたのだ。これで病み上がりでなければ、己はどうしていたろうか。
可笑しさに喉を震わせながら、「困るようなことか?」と。今度こそその台詞を、だが随分と軽い口調で投げかけた。あれこれ楽しげに口にするのは、過去の出来事──もとい、思い出。その流れでふと思い出したように、青鈍色のガウンの片側を軽くとはだけさせ。相手にも見えるようにと、首を斜めに傾けて伸ばしながら、己の右肩の古傷を晒し。)
このくらいでそんな顔をしてくれるな。おまえだって、今まで散々俺を助けてくれてたろ。
風邪を引いて倒れてたとき、腰をがっつりやったとき……ああ、それから。
──ここに喰らったやつにしたって、おまえなしじゃ、俺はもうとうに生きていないぞ。
ひゃ、~ッ、
( 耳を疑うほど情熱的な台詞を吐く目の前の美人は、今日だけではなくここ最近、何故かずっと、ずっと上機嫌に見える。そのままおもむろに、己の前襟をはだける仕草も、あまりに艶然として、何かいけないものでも見てしまったようで。それこそ、今まで何度も治療で見ているだろうに、堪らず悲鳴をあげながら赤い顔をぱっと両手で覆い隠すと。「しま、しまって、ください……」と懇願する声の弱々しいこと。嫌なわけでも、相手が怖い訳でもない。ただひたすらに、己の未熟さが、向けられる視線の甘さが恥ずかしくて。ふたりと外の世界を隔てるものは、薄い紙製の扉一枚だと云うのに、空間の特殊な性質上か、もっと大きな乗り越えられない何かに分断されてしまったかのように感じられて、急に心細い想いにかられると。かといって助けを求められる相手は、今自分を追い詰めている相手しかいないのだから皮肉なものだ。そうして、それまでぴんと背筋を伸ばして、真っ直ぐに座っていた脚を崩し、左手は未だ火照った顔を半分隠したまま、右手でギデオンの襟元をそっと正すと、 )
違うんです……
( そう必死に頭を横に振りながら思い浮かぶのは幼い頃、未だ何も知らずに自由に振舞っていた時代のことで。忙しい父を引き止めては、構ってくれなきゃ嫌だと駄々をこねる度、優しい父は表立って嫌な顔をすることはなかったが、どれだけ困らせてきたことだろう。あれから、年月が幾年も流れても、自分が本当に求めるものが幼少期から大して変わっていないことは薄らと自覚している。寂しいのは嫌、毎日無事に帰ってきて欲しい、食事を一緒にとって欲しい、たまには寝るまで手を繋いで一緒にいて欲しい……お金や特別なプレゼントが欲しい訳じゃない。だからこそ、お金で解決できない。忙しい相手に、子供みたいな駄々をこねる自分を想像して、ぞっと顔に集まっていた血の気を一気に散らすと。それまで顔を抑えていた左手も下ろして、両手を胸の横でぐっと握ると、良い言葉が思いついた、と少し満足気な、得意げな表情でギデオンに説明して。 )
私、すっごくワガママだから! 甘やかしちゃダメなんです……!
きっと、もう、どんどん我慢出来なくなって、すっごいお願いしちゃうから……ね? 困るでしょう?
…………。
(甘やかしちゃ“ダメ”、だなんて──しかもそれを、自分は正しく自覚できたとでも言わんばかりの表情で。先ほどまで愉快気に寛いでいたギデオンの面差しは、ほんの一瞬かすかに曇った。……あれは去年のいつごろだったか。『シャバネ』で聞き込みを終えた後、魔力切れで震える指を、彼女は必死に隠そうとしていた。あのときとどこか同じに見えるのは、はたして己の気のせいだろうか。
薄青い視線を外し、しばし思案を巡らせる。しかし数秒と経たずに、無言の手酌を注いで呷り。杯を置き、ひと息ついたその口で、相手をまっすぐ見つめながら、ごく静かな声を返す。「ああ、そうだな。“困る”、だろうな」。……しかしその目の奥には、文脈にそぐわぬような、優しい光が込められていて。)
……俺は、てっきり。そうやって困らせあうのが許される関係に、なれたものだと思っていたが。
おまえのほうは、違ったか。
……俺の勝手な、思い上がりだったか。
(そうして、相手の答えを待たずして手を伸ばし。絡め取った相手のそれを、卓の上にゆるりと下ろせば、ごくやんわりと、上から重ねる。今から交わすこの話は、ここだけの秘密にするとでも言いたげに──或いは、答えないなんてことは選ばせないというように。)
なあ。俺に、惚れた女の望みのひとつも知らない、なんて不名誉を着せるつもりじゃないのなら。せめてひとつだけ、気兼ねなしのおまえの“ワガママ”を聞かせてくれないか。
……知るだけなら、いいだろう?
えっ、と…………、
( あれ、なんとか上手く説明できたと思ったのけれど、どうやらギデオンの反応を見るに、酷く深刻な方向へと勘違いさせてしまっているようだ。そう優しいアイスブルーから逃れるように苦笑したエメラルドが、あくまで鈍感に伏せられる。"困らせあうのが許される関係"。これが一時的な体調不良や、何か困った時に頼りあえる関係という意図ならば、ビビもまたギデオンに同意するが──私の"これ"は違うもの。そうへらりと浮かべられた笑みが、しかしぎこちなく強ばったのは、無自覚に引っ込めかけた冷たい指先を、その寸前に捉えられたからで。決して振り払えない程強く握られている訳でも、強く脅されている訳でもない。しかし有無を言わさぬ搦手に、適当な嘘をつくことだって出来ただろうに。"この手の内にいる"時は、逃げられない。どんな嘘も通じない気がしてしまって。 )
……別に、ただ家にひとりでいるのが、……あまり、好きじゃないだけです。
寮と下宿が長いからですかね、落ち着かなくて。
身体が治った後も、私が毎日帰って来て、一緒にいてくださらなきゃやだぁって駄々こねたらどうします?
出張の度に行かないでって拗ねるし、それかついて行くって泣いて聞かないかも……。
( なんて、嗚呼嫌だ。結局、言い訳を与えて貰った途端こうして甘えて、こんなのただのあてこすりじゃないか。そう思うと、相手の顔が見れなくなって、ふわふわの前髪の下に目元を隠すと。いつの間にか温かくなっていた指先に微かにぎゅっと力を込めて。 )
ね、それじゃ、"ダメ"なの。"いい子"に待てるように……今から慣れておかなくっちゃ。
(今にも崩れまいとする、弱々しいのに頑なな声。……その声の持ち主は、果たして本当に目の前の彼女なのだろうか。
ギデオンが知る限りのヴィヴィアン・パチオという娘は、きっと誰もが異口同音に、“太陽のように明るい”と讃えてやまない人物像だ。その燦々と、爛々とした輝きに、この己もまたあてられて、陽向に誘い出されたじはずだ。それほどまでに熱く、眩いはずの彼女が──しかしどうして、今宵はまったくちがっている。
……ちょうど窓の外の夜空の隅にひっそりと浮いている、あの爪痕のように細い三日月。あれが灰色の雲間に隠れ、ただでさえ微かな光がほとんど翳ったのとそっくりに。今のヴィヴィアンは、どこかよそよそしいほど控えめに振る舞いながら、何かに酷く怯えている。──ギデオンにすら、竦んでいる。
そう理解した瞬間、心がすっと静かに凪いだ。「……」と沈黙して答えないまま、己の片手をそっとどける。途端に窓から軽く吹く風、外は幾らか気温が下がってきたようだ。無音で息を吸い込み、吐いて、何も言わずに席を立った。そうして草編の床を踏み、静かに出て行くその先は、部屋の外─なんて、はずもない。
食卓を回って相手の横に来たかと思うと、向かいにゆっくり腰を下ろす。そして衣擦れの音を立て、何事かと相手が見たなら。──両腕を大きく広げたギデオンが、いっそ気取った表情で、何やら待ち構えているだろう。どんなつもりかはそちらが察せと、有無を言わさぬ傲慢な態度だ。それでも流石に補足は必要と思ったか、しばらくぶりに口を開き、何を言いだすかと思えば、)
今おまえの前にいるのは、十六も下の後輩に手をつけた“悪い大人”だ。
常識なんかなぐり捨てて、したいようにすると決めてる。
……そんな男にぴったりなのは、どんな女だと思う?
(──そうして再びわざとらしく、さらに大きく腕を広げる。どら、見ろ、俺の胸はこんなに空いているんだぞ、いったいこれをどうしてくれる、そうひしひしと言わんばかりだ。……それでも相手が躊躇うようなら、如何にも訝し気に首を傾げていたかと思うと。「!」」と、ふと閃いたように、片眉をぐい上げ。「……食事中なのに行儀が悪い、なんて言ってくれるなよ」と、頓珍漢な異議の声を。)
( /お世話になっております、ビビの背後です。
本日スマホを! 水没!! させました!!!
一瞬滑らせただけなので無事を祈りたいところなのですが、念のため乾燥中でして、イレギュラーな連絡方法で失礼いたします。
スマホは滑らせるわ、あちらのパスワードは思い出せないわ……あまりに迂闊すぎてお恥ずかしい限りなんですが……
というかパスワードは復活次第すぐに再発行するぞ……、あまりにセキュリティがガバすぎる……。
取り急ぎご報告のみですみません、素敵な本編をありがとうございました。あちらの方もいつも通り楽しく拝読しておりますので、乾燥次第またお返しさせていただきますね。
よろしくお願いいたします! )
(/遅ればせながら、ご連絡ありがとうございました&こちらの確認が遅れてしまい、申し訳ございませんでした……! こちらでも改めてのお返事まで◎
背後のほうでも何かイレギュラーがございましたら、どこかしらでしっかりご連絡いたしますね。引き続きのんびり宜しくお願いいたします!)
…………。
( 離れていった温もりに、追い詰められた表情で俯いたのも束の間。隣におろされ直した温もりに顔を上げれば、月光を反射する優しいブルーと目が合って。──この人に相応しくなりたい、必要とされたい。そんな娘の内心を見透かすように、目の前の男はこれ以上なく甘い口実を投げかけてくる。"いい子"なんかでいなくていいと。"いい子"でなくとも、自分は相手に相応しいのだと。これまでずっと重く感じていた鎧を脱がさんとする太陽は、ビビにとってこれ以上なく温かく、容赦なく身を焼くようで。そうして、悪戯っ子のような表情で片眉をあげた相棒の言葉に最後。ふっと小さく破顔した後、その瞳に覚悟を決めるような神妙な光を微かに灯すと。"食事中に席を立たないように。神に感謝して静かにいただきなさい。"と、かつて学院時代に何度も聞いた、そんな些細な言いつけなら、自分にも破れるような気がして。 )
ギデオンさんは、"悪く"……なんか、ない。
( そのまま、ただ重力のまま撓垂れ掛かるように、相手の肩に上半身を預けると。「毎日じゃ、なくても良いです……遠征も寂しいけど、大丈夫」そう分厚い肩口にぐりぐりと、丸い額を擦り付けながら漏らした声からは、先程までの強情な色はすっかり消えて失せて。「私、冒険者としての貴方も……好き」と、今更どこか恥ずかし気な告白は、これまで一年間向け続けてきたどの愛の言葉よりも余程小さかったが。大丈夫、ギデオンさんの言いたいことは伝わっている、と相手にもしっかり伝えられるように。それまで相手に肩で塞いでいた視界をゆっくりと上げ、代わりに自ら未だ微かに震える両腕を広い背中へと絡めれば。先程無理に引き出された"ワガママ"とは違う、もっと現実的な、本気で、叶えてもらいたい己の"望み"と真剣に向き合っていたかと思うと、おもむろに。自分でも初めて気づいた結論に、逞しい腕の中、いっそあどけない様子ではにかんで。 )
でも、無理はしないでほしい。身体を大事にして、しっかりお休みもとって……ご飯も、そっちはあまり心配してないけど、ちゃんと食べてね。
それで、その……できれば。できれば、その時、隣にいるのは私がいいなって思うんです……。
……! わたし、あなたの家族に、なりたい……
(あまりにもいじらしい “ワガママ”の数々に、極めつけがその一言だ。思わず居室の天井を仰ぐようにして仰け反ると、耐えかねたような呻き声を厚い胸板の奥に響かせ。かと思えば、今度はその体躯をぐうと内側に屈め込んで、腕のなかの愛しい娘をきつくきつく抱き締めた。少しばかり苦しいだろうが、こちらとて思い知らせたい。──あまりに大きな幸福感で胸が潰れるということを、こちらは生まれて初めて体感している最中なのだ。)
…………殺し文句にもほどってもんがあるだろう……、
(いっそ白旗を上げるに等しい、情けない恨み言。それをどうにか絞り出すのが、今のギデオンの精一杯で。……実際のところ、もっと他に言うべき台詞、本気の言葉があるのだが、何も用意のない今はただ、腹の底にぐっと押し込めておかねばならない。そのもどかしさの八つ当たりとばかりに、抱き締めた相手ごと大きな体を軽く揺らして、思いの丈を伝えると。しばらくのちにようやく溜飲を下げたらしく、体を離し、見上げさせたその顔は、すっかり満足気に笑んでいて。
「……なあ。すぐにというわけにはいかない、なんて話をしていたが……」と、おもむろに切り出したのは、数日前のあの話だ。無論あのときも腹の内では、のちのちどうにか転がして、ここに持ってくるつもりだったが。きっと今ほどのタイミングは、後にも先にもないはずで。)
明日、王都に帰ったら。一緒に暮らすための準備を、もうすぐにでも始めよう。
もちろん、おまえの体調を見ながら……やれることは、俺がするから。
──お互いこんなに望んでるのに、慎ましく離れておく理由なんて、もうどこにもないだろう?
(そうして、少し乱れた相手の前髪を、愛しそうに顔から避けてやったかと思うと。長いふと房を相手の小さな耳にかけた、その手元を引き戻した時、指にしれっと挟んでいたのは、どこからいつ取り出したのか、どういうわけか折目ひとつも見当たらない、例の書類の幾枚かである。──いったい全体何年前、何のために身につけた手品なんだか。そりゃあ秘密だと言わんばかりの澄まし顔で、これ見よがしに図面をぴらぴら掲げ、自分でも可笑しくなって少し小さく笑ってみせると。
食事をつつきながらもう一度、今度は本気で眺めないか──と、今度は隣り合っての夕餉を、身振りで相手に強請ってみせて。)
ひゃっ……!!
( 平素、魔獣の脅威から罪のない人々を守る腕に、力強く抱きしめられれば。肺が潰されて呼吸も苦しく、硬い筋肉や関節があちこちにあたって痛むというのに。かえって相手の存在を確かに感じられて、ぴくりとも動けないまま、脳髄が蕩ける様な多幸感に掠れた笑い声がかすかに漏れる。殺し文句だなんて言われてみれば、少し青いことを言ったかも? と、ゆらゆらとした抗議に、今さらじんわりと頬が熱くなる気もするが。ゆっくりと向けられた満足げな笑顔に──ギデオンさんが幸せそうだから良いか、なんて。無自覚故に決めさせてしまった覚悟のことを、よく考えもせずにニコニコと笑っていたその報いか、はたまた単純な旅の疲れか。ようやく慣れた下宿に帰りついたその夜に、体調を崩して高熱を出してしまうと。「……私にも、出来ることはさせてくださいね」とした約束を果たすまでに、随分な日数を要してしまうなど、この時はまだ知る由もなかった。 )
ギデオンさん! おはようございます!
( そうして、件の舘に向かう前から変わらない、愛しの相手を目の前にはしゃぐ元気な挨拶に、しかし普段であれば同時に飛びついてくるだろう娘がそうしなかったのは、自室の扉の前に立ち、裾を揺らしている長いスカートのためで。待望の退院から幾日たっただろうか、一応一昨日の朝には熱も下がっていたというのに、今度は過保護な恋人の説得に時間を費やし、ようやく迎えられた今日である。本当は、どこか東広場あたりで待ち合わせデートと洒落こみたい乙女心もあったのだが、強情なギデオンの首を一日でも早く縦に振らせるため、ドアtoドアの完全送迎を受け入れたという経緯。関係性が変わってからの初デート(が、同棲準備であるという性急さを今は考えないことにして)に早朝からワードローブをひっくりかえせば、そういえば。それなりの例外は複数あれど、普段仕事着で対峙する相手には殆ど私服を見られたことがないことに気が付き。やはり王道に可愛い系か、でも今日は遊びに行くわけじゃないし……と、むき卵の様な眉間に皺を寄せて悩むこと暫く。結局、年相応な、けれど流行のラインが今らしい白地に薄黄緑のストライプが初夏らしい涼やかなワンピースを選択すれば。ギデオンのノックが部屋に響いたのは、以前より少し余裕をもって閉じた釦に、調子の外れた鼻歌を歌いながら髪を結いあげていた時で。普段は揺れる毛先を、綺麗にしまい込んだ後頭部を留めながら、「ごめんなさい、もう少しかかりそうで……」と、相手を部屋に招き入れ、椅子をすすめたのはなにも、「外暑かったですか? どちらにしようか迷ってて」と、テーブルに並べられた白いブリムにレースが付いた可愛らしいボンネットか、赤いリボンが元気に揺れる爽やかなキャノチエかを選ばせるためだけではなく。申し訳なさそうにパタパタと、部屋の奥から冷たい檸檬水のグラスを差し出すと、レースの手袋をつけた手から、小さな金属片もふたつ、はにかみながら座る相手に手渡して。 )
……これ、忘れちゃう前に渡したくて。
此処の鍵と、こっちは私の部屋の合鍵です。ここって大抵誰かしらいるし、もうあとちょっとで必要なくなっちゃいますけど。……ふふ、誰かに渡してみたかったの。
……ああ、そうか。おまえのほうのは、まだ預かってなかったな。
(すっきりと澄んだ冷水に、乾いた喉をありがたく潤していた矢先。ちゃり、と掌に受け取ったそれを、最初は虚を突かれたように、しかしすぐにもしみじみと嬉しそうに確かめて、やがて懐に仕舞い込む。そうして再び相手を見ながら、気障な格好で椅子にもたれ、如何にも意味ありげな声を。──よくもまあ、“もう”預けてある己のそれは、当時の迂闊な生活事情で相手に頼み込んだのだろうに。
とはいえ。きっとあの頃から既に、自分たちは親密さを少しずつ高めつつあった。そして四カ月経った今、実際関係が変わったからこそ。“相手の部屋の合鍵を、お互い大事に持っている”──そんな密かな状況を、例え刹那のものであろうと、共に心から楽しめるはずだ。
椅子を引いて立ち上がり、ふとそのついでと言わんばかりに、相手の片手を軽く捉える。そうして優雅に吊り上げたのは──どうやら、ターンのおねだりらしい。己もカジュアルなジャケットでめかし込んできたのだが、うら若い恋人の清廉瀟洒な装いに、どうもやはり、男心を随分と擽られていたようだ。
「よく見せてくれ、」なんて、本人は今さら面ばかり取り澄まし、おくびにも出さぬつもりが。その薄青い目ときたら、興味津々に揺れ動き、鍵に向けていたそれより余程、相手を真剣に眺め倒して。はてはふと横を向き、先程相手が示していたふたつの帽子を見比べると。──この頃季節柄見なくなった、いつぞやの贈り物。あれに似たよく似た色のリボンに、無意識に目を吸われれば。気取った顔つきでそれを手に取り、相手の頭にそっと被せ。引いて眺めて、ひとつ頷き、満足そうに唸ってみせて。)
……やっぱりな、よく似合ってる。
今日必要な例の書類は、俺がもう一度見ておくから……あとの準備も、まだゆっくりするといい。
──……ありがとう、ございます。
そうなの、"赤"は似合うの。
( まったく、なんて瞳で人を見つめてくれるのだろう。こちらのことが愛おしくて、大切で堪らない。そんな青い瞳に見つめられると、未だ慣れない心臓が可哀想にのたうち回って。何百回、何千回と練習して身体に染み付いたターンの動きでさえ、沸騰する血液とともにふつふつと蒸発して失せてしまう。それでも、相手の要望通りにもふわふわと、なんとかその場で回ってみせれば。ギデオンのシャツの襟を整えながら、意味深に呟いてみせる癖をして、キャノチエから覗く顔はよっぽど赤く。ぱちりと思わず視線があえば、嬉しそうにはにかんで見せるだろう。
そうして、相手の好意に「だめ、だめ!」と慌ててその腕に縋り付いたかと思うと。「私にも出来ることはさせてって約束したじゃないですか」と膨れながら、相手が手にした書類を覗き込み。立地や部屋数、築年数など出発に前に再度物件のおさらいを。「えっと、この平屋はリビングがサンルームになってるんですね── )
──素敵!!
( と、相手の選んだ物件を前に瞳を輝かせたのは何度目か。未だひとつ目の物件だと言うのに、まずは見えてきた瀟洒な外観に声を上げ。前庭の植物に微笑み、重厚な玄関扉に溜息をつくと、今度はそれを開け放った瞬間に飛びこんできた内装に握った拳をぱたぱたと振り──何も、愛しい恋人と住むと思えば、全てが素敵に見えるというだけでは無い。風邪で寝込んでいた数日間、ギデオンにより行われていた厳しい審査の基準など知る由もないが、本当にこの物件が何処を見ても文句の付け所なく素晴らしいのだ。とはいえ脳内は意外と冷静に、確かここは今日見る中でも、一番家賃が高いところだっけ……と、ギルドから貰えるビビの月の給料からは半分でも限界ギリギリ(なんなら更にそこから安くない共益費や、保険料、税金、管理費、その他諸々が追加でかかることをビビはまだ知らない)否、若干オーバーな数字を思い出せば。──此処はあくまで参考に、あとの物件を見る基準にしよう、などと一人勝手に納得しながら、ギデオンの方を振り返って。 )
私ばっかりはしゃいじゃってごめんなさい、ギデオンさんはどこか気になるところありますか?
そうだな……お互いに、仕事の都合でよく家を空けるだろう?
(「だからやっぱり、妖精除けや敷地回りの防犯陣が、どのくらい管理されてるかどうかだな。俺が朝帰りをする日でも、お前が安心して眠れるような家じゃないと……」。
相手の肩を抱きながら当然のように返した声は、相も変わらず過保護な内容……そうには違いないのだが。しかしギデオンの声も顔も、まるでそれに釣り合わないほど、ゆったりと寛いでいた。実のところ、今この場でいちばんまともに内見に臨んでいるのは、最も若いヴィヴィアンだろう。──遥か歳上のこちらときたら、“相手と家を探して回る”という穏やかなこのひとときに、癒されまくるばかりなのだ。
そんな己の腑抜けぶりを、離れた位置から堪えきれずに笑い続ける者がいた。わざとらしいため息をついてそちらを振り返ってみれば、カウンターキッチンに半ば突っ伏しかけているのは、此度の内見の案内人。不動産屋の営業であり、ギデオンの古馴染みでもある、元冒険者のフェニングである。「──いやあ、っくく、仕事中に申し訳ない。ああ、でもなあ、ギデオンおまえ、本当に随分変わっちまったもんだな……」と。こちらもまた言いぐさに似合わず、酷くしみじみと嬉しそうな声を出すものだから。突然言われたこちらときたら、ヴィヴィアンの顔を見て片眉を軽く上げ、(そうか?)なんてとぼけてみせるが、それがまた随分と、フェニングのツボに入ったらしい。……のちほど、ふとしたタイミングでひとりになったヴィヴィアンに、奴はこっそり囁いていたようだ。──なあ、ビビちゃん、あの堅物を骨抜きにしてやってくれてありがとうな。信じられないかもしれないが、あいつはここ十年ほど、本当ににこりともできなくなっていたんだよ。今のあいつがあんな風になったのは、きっと君のお陰だろうな。──あの馬鹿を、よろしく頼むぜ。
さて、そんな一幕など露知らぬギデオンは、しかしいよいよ真剣に、物件の下調べを考えこむ段に入った。二週間前に同棲を打診し、そこからさらに絞りをかけて、今日見に行くのが全部で三件。そのうちのいったいどれを、はたして彼女が気に入るか、そこのところが問題なのだが。己のヴィヴィアンときたら、どの家にも最大の良さをたちどころに見出して、そのどれにも胸を躍らせてくれるのだ。これではむしろ、こちらが再三迷うくらいだ……と悩んでいた、まさにそのタイミングのこと。
不意に外から戻ってきたフェニングが、「もうひとつ空きが出た。見てみるか?」と言いだした。病み上がりのヴィヴィアンを気遣って駆り出している馬車で、ほんの数分の場所だという。これ以上選択肢を増やすのもどうかと思ったが、見て減るものでもないだろうしと、そこに行ってみることに決めた。ヴィヴィアンを先に馬車へと乗り込ませ、己もあとから座席に座る。フェニングのほうはといえば、外の御者台に座ることにしたらしい──奴なりの気遣いだろう。大人しくこの数分を活用してやろう、とばかりに。「疲れてないか」とまずは相手を労わってから、ごく軽く揺れる馬車のなか、隣の合相手の目元にかかった髪を、優しい手つきで除けてやり。)
──……なあ、どうだった。
どれもいい家ばかりだが……そうだな、決め手が同じくらいの印象だ。
おまえのほうで、もっとこんな家があればいいのに……なんて考えは、湧いてきてるか?
……! はい……いいえ?
( そろそろ次の物件へと移ろうかといった空気の中、一人そっと寄ってきたフェニングのお礼に、思わずふふふと肩をすくめる。怪訝な顔をした相手に──"そのことで" 私、何人の方からお礼をいただいたか分かりませんわ。と囁き返せば。思わず気恥しそうな顔をするくらいには大人で、しかしこうして密かにお礼を伝えずにはいられないほど、ギデオンのことが大切で堪らない、そんな彼らこそが、ギリギリだったギデオンをなんとか踏みとどまらせ、こうしてヴィヴィアンの元へと辿り着かせてくれた様に、この人望溢れる恋人をこれからは自分も大切に支える一人となりたい。先程、どんな家が良いかと問われ、相も変わらず過保護な返答をしてきた相手に、「私だけじゃなくて、ギデオンさんもですよ」と、その時は何気なく答えてしまったが。此方もまた相手の健やかな生活を守りたい、という想いは一途に同じで。 )
もっと、だなんて……どれも、素敵で困っちゃうくらいなのに……!
……そうですね、でも、私もギデオンさんが安心して過ごせるところなら嬉しいです。
( 久しぶりの外出に、少しはしゃぎすぎただろうか。優しい指先にそっと首を横に振るも、その眼差しが少し眠そうに凪いでいるのを相手は見逃さないだろう。ギデオンが何かを言う前に、「折角だから、あと一軒だけ」と先回りして甘えながら、こてりと分厚い肩に凭れれば。サスペンションの効いた馬車がラメット通りに着く頃には、いつの間にか少し微睡んでいたようだった。 )
──すご、い、明るい……!
( そうして、ギデオンのエスコートで馬車を降りた寝ぼけ眼は、その光景を前にして一瞬にしてキラキラと見開かれた。時刻は午後六時を少し回った夕方の頃。馬車を降りた時点では、豪邸の影になっていて気づかなかったが──「これ、全部一枚のガラスなんですか?」と、思わず駆け寄った窓ガラスから差し込む夕焼けのなんと美しいこと。未だ明かりもつけていないのに、まるで屋外のように明るい室内に「そっか、運河があるから……」と勝手に納得したヴィヴィアンに、「流石だな」と、補足してくれたのはフェニングだ。主にこのトランフォードで、勝手に屋内に入り込み、我が物顔で悪さをする悪性妖精の殆どが、窓の隙間から侵入してくると言われている。故に、トランフォード建築の殆ど全ての窓は非常に小さく、妖精が嫌う金属製の堅牢な窓枠に囲まれるか、鉱物を練り込んで色ガラスがはめられるか。街の中心部にある教会などの、巨大なステンドグラスの輝きもそれはそれで息を飲むほど美しいのだが、この部屋の自然な明るさといったらどうだろう。南側以外の窓はごく必要最低限に絞られているのに対して、水棲の妖精が縄張りを張る運河に面した南側だけは天井まである大きな窓が、外の光を燦々と受けて輝いている。この水棲の妖精の縄張り意識の強さと来たら、アーヴァンク同様ほかの魔物をその水場から蹴散らす上に、アーヴァンクと違って人間の営みには一切興味が無く、多少水源を汚そうが全く気にしないどころか、人間の手が加わった水源の方を好んで生息する──恐らく"水"そのものより、その水が流れるエネルギー、または膨大な水の質量が持つ静止エネルギーを養分としているのでは無いか、というギルバート・パチオの最新論文の内容は、各自気になるものが勝手に読んでくれれば良いのだが──要は運河と非常に相性の良い妖精が、他の悪性妖精からこの家を守ってくれているからこそできる芸当らしい。太陽光はギデオンを脅かす闇の魔素も溜まり辛くしてくれる。これまでの家もどれもこれ以上なく素敵だったのだが、既にポヤポヤと明らかに嬉しそうに目を輝かせながら、ギデオンの元に戻ってくれば。するりと慣れた動きで、再度エスコートの腕に掌をかけて。 )
夕焼けが反射してとっても綺麗よ、ギデオンさんも見て……?
でも、こんなに窓が大きくて冬は寒かったりしないかしら、
そこのところは大丈夫だろう。
ほら、見てみろ……ペアガラスだ。
(相手の心配そうな声に、しかしこちらが返したのは、その歩み同様にゆったりと落ちついた声。何も遠目で見抜くほど建築に聡いわけじゃない。横にいるフェニングの如何にも誇らしげな顔を見て、軽く見当がついたのだ。そのまま相手を伴って、今一度リビングルームの大窓へ歩み寄る。そしてギデオンの武骨な指が、ふと指し示した窓枠の辺り。なるほどよくよく見てみるに、その分厚さにもかかわらず透明度の高いガラスは、贅沢な複層構造で組み立てられているようだった。しかもその内側、サッシの細い部分には、刻印式の魔法陣が精密に彫り込まれている。魔法の素養のあるヴィヴィアンなら、細い筋を伝う何かが煌めいて視えるだろうか。己はそれが読めずとも、そういった建築様式があるということだけは知識として知っている。「魔素循環式か?」と、背後のフェニングを振り返らぬまま尋ねれば。「はいはい、そうと、ご名答」と、呆れたようなため息が靴音と共に近づいてきた。
──まったく、素晴らしい窓だろう? 夏の遮熱に関してはまあまあといったところだがね、冬の寒さに関しては、やっぱりこいつがピカイチさ。おまえが言ったそのとおり、この内部の空間に溜まった魔素がしっかり防いでくれる仕組みだ。え? こんな素晴らしい匠の業は、いったいだれのものかって? かのサンソヴィーノ大先生さ! そうとも、この一帯の家々の窓は、ラメット通りにゆかりのある御大が手がけていてね。ただあの方は齢九十……いざというときの修繕なんかが気がかり、誰もがそう思うとも。だけどそいつは心配ご無用! 二代目三代目の後継がばっちり技術を継いでいて、サリーチェにある工房からすぐに駆けつけることになってる。更になんとうち経由で、専用保険もしっかり完備。どうだ、これなら安心だろう?
──しかし、はてさて。そんな稀少な物件を、何故こうも一番乗りで案内してくれるのか、そこは是非とも気になるところだ。その辺りに水を向ければ、フェニングは少しばかりばつが悪そうに頬を掻いた。……いやあ、それがねえ。この家に住んでいたのは、地方の名家から上京してきた若いご夫婦だったんだよ。この家を借りてくれていたのは、ほんの数週間だったかな。それがほら、つい先月にさ、王都中央病院の病院ジャック事件、なんてのがあっただろ? ここのすぐ近くにあるのは、あくまでその分院なんだが……地方でずっと暮らしてるじい様ばあ様にゃ、その違いなんざわからんもんでね。やっぱり王都は危険な街だ、可愛い孫娘を住まわせられん、なんて大騒ぎしたらしく。結局そのご夫婦は、実家に無理やり呼び戻されることになったんだ。そんな可哀想な事情じゃ、違約金取るのも忍びなくてさ。幾ら名家出身とはいえ、これから家庭を作るって時に……ねえ……。だからこう、俺がちょっと、いろいろ捏ね繰り回してな、どうにか帰してやったんだ。だけど今度は、大家との兼ね合いがあるだろ。その辺りで会社のお上が、ちょっとまあ、その、だいぶ圧強めでね……。
──なるほど、話が読めた。要はこのフェニング、ギデオンの急な依頼に二つ返事で乗ってきたのは、自分の計上数字が大ピンチだったかららしい。まさに今いるこの家の借り手が急にいなくなったことで、次に宛がうお客探しに血眼になっていたのだ。そんな奴から見たギデオンたちは、ガルムの瓶を背負ったレモラが泳いできたようなものだろう。おそらく、退去後の清掃が終わり、契約関係の整理も一段落ついたのが、つい先ほどのことなのだ。
「ほーお?」とギデオンが眉を上げれば、旧知の男はなんとも情けない顔で、謝罪やら言い訳やらを必死に並べたてはじめたが。それを笑って追い払い、しばらくふたりきりにしてもらうことにした。奴の性格は知っている、幾ら優秀な営業だろうと、強引な押し売りはすまい。それに、ギデオンたちがどの家を選んでもプラスになるのには違いないから、どれも同じ熱心さで紹介してくれていたはずだ。相手と可笑しそうな目を交わし、軽く肩をすくめると。オレンジの光に満ちた明かりをゆっくり歩きまわりながら、一階の広いリビング、その真っ白な漆喰の壁、良く磨かれたクルミの床に、手前の収納たっぷりなカウンターキッチンと、あちこちをよくよく眺め。ふとその視線を相手に戻すと、また静かに歩み寄っては、その肩にそっと手を置いて。)
……まあ、訳あり物件、ってわけだが。家自そのものに問題はないし、奴がああいう事情なんだ、契約の条件は多少融通してくれるだろう。
広さは充分、間取りも良し……問題があるとしたら、寝室が上にあることくらいか。
……階段は、まだ危ないよな。
( 到着時点で既に橙色に燃え上がっていた空は、次第に群青色に傾いて、窓から見える対岸にはポツポツと小さな、しかし暖かな光が輝き始める。ギデオンの言う通り、部屋数や間取りは当初話し合った条件を充分に満たして、素晴らしいリビングだけでなく、そちらを見渡せる開放的なキッチンや水周りも、動線、設備ともに洗練されていてとても使いやすそうだ。物件の"ワケ"にしたって、とうのヴィヴィアンらにとっては全く問題のない事情どころか、先程の話や今日一日の仕事ぶりから察せられるフェニングの懐深さに、すっかり心が傾いてしまった……と言ったら、あまりにも単純だと笑われてしまうだろうか。なんて少し感傷的に下唇を噛んだのは、先程の2人のやり取りに当てられてしまったからか。訳知り顔で片眉をあげるギデオンも、バツが悪そうに肩を竦める古い仲間を、決して責めてたてることはせず、向こうもそれを分かっていて個人的な事情を話したに違いない。それ以前から、先程1軒目でフェニングがヴィヴィアンにだけこっそりと見せてくれた表情を思えば、自分の成績のことだけでなく、彼が本気でギデオンのことを大切に思っていることは明らかで、思わず──いいなぁ……と。不動産屋の方は引退しても尚、信頼しあっているらしい冒険者の男同士に向けた憧憬の視線を、ギデオンはどう捉えたのだろう。一旦古馴染みを遠ざけて、ヴィヴィアンのペースに合わせて部屋を回ってくれた恋人の一瞬の思案顔に何事かと思えば。しかし──まったく、これ以上なく過保護な心配に、ふっと身体の力が抜けてしまって。 )
もう……!
ずっとこの調子で見張られてたら、私、歩き方も忘れちゃいますよ……!!
( そうして、しっかりとした手摺が手頃な高さに、しかも両サイドについた堅牢な階段を2、3軽快に登って見せれば。自分より低くなった相手の額に、思わず唇を寄せようとして。フェニングの存在を既のところで思い出すと、伸ばした掌で愛しい生え際をするりと梳いて流すに留める。「大丈夫、これで転ぶ方が難しいくらいだわ」と、仕方の無い恋人に目を細め、それに──と、「ギデオンさんに甘える口実ができそうで嬉しい」なんて、上半身を屈めて甘く可愛こぶって囁けば。あげた顔に浮かぶ笑顔も悪戯っぽく、そのままぴょいとギデオンの方へと飛び降りて。 )
──……それは流石に冗談ですけど。
ギルドからも近いですし、それにやっぱりこの窓……私、ここが気に入りました!
家賃とかも聞いてみなくちゃだけど、ギデオンさんはいかがですか?
っくく、随分気が早いな……そう焦らずとも、この家は逃げやしないさ。
(うら若い恋人の愛らしい説得に、さしもの堅物心配性も、その目元をふわりと緩め。相手の腰を抱き寄せながら、無邪気な言葉に喉を鳴らしたかと思えば、愉快そうに苦笑さえする。──とはいえ、そんな風に笑ってみせるギデオンだって、ひと目見た瞬間からこの家を気に入っていることには変わりない。今日一日見て回った他の三軒も良かったが……ここは初めて来たときから、不思議と心が寛ぐのだ。
それは相手と連れ添いながら、広い浴室と立派な設備をよくよく確かめてみたり、勝手口から庭に出てテラスの具合を眺めたりしても、まったく変わりはしなかった。寧ろ己のヴィヴィアンが、家のあちこちを生き生きと歩き回るたび、まだそこにない家具や飾りが目に浮かんでくるようで。……自分の本来の性格上、何度もごく慎重に、現実的に考え直そうとしてみてもいたのだが。しかし冷静になればなるほど、寧ろますますこの家を、ここで思い描ける暮らしを忘れ難くなるようで。
──その奇妙な感覚は、二階にある寝室にふたりで足を踏み入れたとき、いよいよ決定的になった。今はまだ何も置かれていない、がらんどうのベッドルーム……辺りは既に夏の夕闇で薄暗く、部屋がなまじだだっ広い間取りなばかりに、普通ならともすればもの寂しく見えたろう。なのになぜか、その空間を見渡した途端、ギデオンの青い瞳には、この部屋がとても眩く見えた。──ここに大きなベッドを置いて、朝は彼女の横で目覚めて。一日の終わりには、その日あった出来事を相手と喋りあいながら、共に温かな眠りに落ちる。そんなささやかな生活、心の安らぐ人生を、自分はここでヴィヴィアンとずっと紡いでいくのだと。そんな奇妙な確信に、生まれて初めて心を委ね。)
…………。なあ、ヴィヴィアン。
一日で家を決めるなんて、突拍子もない話だろうが……俺ももう、ここ以外が考えられなくなってるところだ。
(床板を軽く軋ませながら、部屋の奥へと歩いていき。今は青みがかって見える真っ白な出窓から、南の空に瞬いている一番星を眺めれば。次に振り向いたそのときには、そばにいる相手の頬にそっと己の掌を添え、そのエメラルドを優しく見つめた。そうして額を触れ合わせ、甘えるように唸るのは……どうやら四十路の男なりの、恋人への相手へのおねだりらしい。今は知人の男の目を盗んでいるのを良いことに、鼻先さえすりつけながら、ぐるぐると喉を鳴らして。)
予備審査は通ってるし、出せる書類はフェニングに渡してるから……後は契約書を取り交わすのと、本審査だけで済む。共益費の交渉は、俺に任せてくれればいい。
それで無事に決まったら……もうすぐにでも、家具を探しに行かないか……
──……いえ、私たちったら、おかしいですね、ふたりとも。
私も、同じ気持ちです。むしろそれだって待ちきれないくらい……!
( これまで訪れた3軒だって、どれもこれ以上なく素晴らしかったにも関わらず。この家に足を踏み入れた途端、一つ一つの部屋を見てまわるたび、ここにはテーブルを、あそこにはドレッサーを置いて……と、まるで未来で見てきたかのように、これから訪れるだろう生活の光景が見えたのが自分だけでは無かったと知り。すり、と触れる鼻先に、溢れる幸せをくすりと零せば。目の前には、気持ちの通じあった最愛の相手がいて、これからはずっと一緒に生きていく。そんな向こうしばらくなんの憂いもない幸福に目が眩み、さらりと聞き流してしまった"共益費"というワードが、一悶着を起こすのはまた少しあとのお話。
「まあ、俺としては有難いよ」と、何を言う前から全てを察したようなフェニングの苦笑に迎えられ。もう時間も遅いから、手続き自体は翌日以降にしよう、と。それからの話の進みも、とびきりぐんと早かった。ふたりの今後を決める本契約の席には、ビビも同席したかったのだが、どうにも体調が優れなかったり、定期検査なりなんだり。結局 事務的なそれは、当初ギデオンが申し出た通り、すっかり相手に任せきりとなってしまえば。やっとそのお願いを口に出来たのは、ギデオンの久々の休日に、兼ねてより約束していた新居用の家具を見に行く前日のことで。サリーチェと比べればずっとこぢんまりとした下宿のソファで、ギデオンの入れてくれたホットミルクをちまちまと舐めながら。相手が夕食の皿を洗ってくれている(退院以後、何度頼みな込みだめ透かしても頑なにやらせて貰えない)のをいいことに、仕事帰りの上着にブラシをかけて終わると、翌日休みの恋人に近づき、そっと背中に抱きついて。 )
ねーえ、ギデオンさん。
もしお荷物じゃなかったらですけど、明日おうちの契約の書類、持ってきてくださいませんか?
それか用事の後、ギデオンさんのお家に寄るとか。
ふたりのことですもん、ちゃんと私も見たいです。
(皿の水気を切りながら、「うん?」だなんて肩越しに軽くとぼけるも。近頃すっかり板についたヴィヴィアンの甘えぶり、そのぐっとくる近しさに、つい口元を緩めてしまい。ぴかぴかの陶器類を網棚に仕舞い込み、濡れた両手をタオルで拭えば。背後にある流し台にもたれかった格好で、ようやく相手に向き直る。こちらを見上げる無垢な恋人……そのまろやかな額をそっと撫で上げる男の手つきの、如何にも愛おしそうなこと。)
ああ、もちろんいいとも。そう嵩張るもんじゃないし……だが、そうだな。
他にも多少用があるから、ここに戻ってくる前に、一瞬だけ俺の家に寄り道させてくれ。
(「ああ、別に大したことじゃない。引っ越しまでの数日だけ私物を置かせてほしいから、そいつを回収したいんだ」と。意味ありげな表情をわざとらしく気取ったものの、たまらずふっと破願してから、きちんと注釈も言い添えた。──こまごました移動の手間を省きたいんだ。そうしたら、それだけおまえといる時間が長くなるはずだろう……?
こんな甘い台詞を吐けるようになったくらいだ、時の流れとは実に早いものである。実際、あの一軒家を内見したあと、申し込みやら審査やら契約やら入金やら……入居にあたって必要な諸々の手続きは、ギデオンが全て怒涛の勢いで果たしてしまった。となると次は、いよいよ夢の引っ越しだ。それぞれの古い住居をしっかりと引き払いつつ、同時に新居の環境も整えていかねばならない。どんな豪邸であろうとも、まずは最低限、食事と寝起きをするための家具や道具が必要だろう。だからまず、キングトンの東にあるあの街に出掛けよう──と。懐かしの市街馬車に再び並んで乗り込んだのが、相手の下宿でいちゃついた翌日のことである。)
おお、これはまた……
随分良いタイミングだったな。
(──あくる朝。爽やかな初夏の風が吹き渡る空の下、駅に降り立ったギデオンは、辺りの見違えた様子を前に感嘆の声を上げた。無理もない──このキングストン職人街は、つい五ヵ月前にも来たから未だ記憶に新しい。しかし、ヴィヴィアンと共に装備探しをしたあの頃は、もっと下町風情溢れるセピア色をしていたはずだ。
それが今やどうだろう。『ペンテコステ・フェア!』なる横断幕を派手に掲げた通りの向こうは、眩しい陽光を浴びて煌めく、浮かれたお祭りムードであった。どこを見ても人、人、人、そして家具に道具に発明品。そういえば毎年この時期、ここら一帯の職人たちは、聖霊降臨日が近いことにかこつけて大売り出しにかかるのだ。遡ること数十年前、今日のかれらと変わらぬ商魂逞しい職人が、“神は細部に宿る”という匠の世界の信条と、ロウェバ教の説く“聖霊の働き”をものの見事に結び付け、企画を打ち出してみたところ大ヒットしたんだとか。兎にも角にも、要はこのフェアで買った家具にはご加護がついてるなんていう、聖燭祭商戦や復活祭商戦とそう変わらないアレが掲げられているらしく。とはいえまさにそれらと同じで、客にしろ職人にしろ、何かの折に良い売買がしたい、という点で一致するのに変わりなく。元からお祭り騒ぎが好きなトランフォード人たちだ、ペンテコステ本番までの前夜祭と言わんばかりに盛り上がっているわけである。
──ギデオンとヴィヴィアンが家具探しにやって来たのは、実は全く偶然で、そういえばそんなのがやっていたな、という感じなのだが……しかしこれに乗じないなどという手はないだろう。早速辺りのバザールへ繰り出していくその前に、まずは間近なジューススタンドにその足を向けてみる。……そうやらそれそのものが職人と一体化したひとつの発明品らしく、あちこちの魔導具を忙しなく動かしている八面六臂の老人にセールストークをかまされながら、しかし実に美味しそうな果実水を受け取れば。祭りの熱気に渇く喉をのんびりと潤しつつ、先程通りの入り口で貰った会場案内の紙面を広げて。)
一日じゅう見て回れそうだが、この雰囲気にあてあられて疲れてしまうとことだ。
まずは用のあるやつから見に行こう……寝具の店は、この突き当りか。
──……! はい!!
いまの……今のままで、置くスペース足りますか!?
床下もあるんですよ実は……、
( 向こうが慣れてきたそのように、ビビもまた相手から向けられる熱量にやっと慣れてきた今日この頃。悪い意味では決してなく、寧ろ相手の好意を疑わず、全力で返せることが心底幸せで仕方がない。そんな満面の笑顔で、まったくどれ程の大荷物を想像しているのか、見る方がつられるほど上機嫌に、パタパタと部屋の片付けに向き直ると。
翌日、もとより紳士な年上の相手である。催促される前から忘れていた訳ではなかろうが、ペンテコステフェアに湧く賑やかな通りを、本格的に歩き出すその寸前。周囲を見渡そうとした恋人の数歩に付き合わず、何事かと振り返るだろうギデオンにぷくりと頬を膨らませると、片手を差し出し、いつかは誤魔化されたエスコートを強請れるくらいには、互いに気持ちを通じ合わせていた。 )
わあ……!
とってもいい香り……!!
( 逞しい腕に引かれ重厚な木造の扉を潜ると、そこには色とりどりの織物が、広い壁一面に敷き詰められた色鮮やかな空間が広がっていた。出入口の正面、素晴らしい作りのカウンターの脇には、後入れの細工などの客の要望にその場で答えられるようにだろうか。無骨な道具とおが屑の舞う小さな作業スペースが設けられ、爽やかな木の香りが心地よく鼻腔を満たしてくれる。カウンターの脇から向こうを覗けば、外からは分からなかったが、奥は半地下のような作りで非常に広く、成程、見るだけでは分からないマットレスの寝心地を試せる空間になっているらしい。カウンターに広げられた、ベッド自体の装飾や、無数にわたるヘッドボードのカタログを見るに、基本的には顧客や部屋に合わせたオーダーを聞いてくれる店のようだが、一部既に組み立てられた廉価品も取り扱っているらしく。店の端に置かれた"たっぷり収納付き"やら、"脚は取り外し可能"などのポップが貼られたベッド群に目をやれば、思わずくすりと笑ってしまったのは──"魔獣の爪でも傷つかない"だなんて、一般家庭には到底必要ないであろう売り文句が面白かったからで。次第に、二人のドアベルの響き聞きつけたらしい恰幅の良い女将さんは、エプロンの木屑を叩きながら出てくると、「いらっしゃいませ、本日はどんなご用事で?」と、座面にクッションが張られている訳でもないのに座りやすい、これまた素晴らしい椅子に二人を通してくれるだろう。 )
(ギデオンとヴィヴィアンが半年ぶりに訪れた、キングストン職人街。ここで働く連中は、鑿・槌・鉋はお手の物……しかし人間相手となると、どうにも不器用なやつらが多い。そんな難儀な人種にとって、店と客の間を取り持つ女将がたの存在は、まさにかけがえのないものだろう。そしてそれは、客にとっても同じこと──良い買い物をしたいときは、その店の女主人と話し込むに限るのだ。
故にギデオンとヴィヴィアンも、ふたり並んで席につくと、向かいに座ったマダム・メーラーに、早速事情を打ち明けた。──今月からの交際で同棲生活を始めるにあたり、寝具を買い替えることにした。ギデオンは五、六時間、ヴィヴィアンは八時間以上眠るのが習慣で、仕事はともに冒険者だ。ただ、先々の暮らしを考え、いずれ別業種に変えることを検討している。そうすると今よりは家に居つくようになるから、日々の睡眠以外でも、暖炉のある寝室でゆっくり寛ぐのに使いたい。予算はおよそこのくらい、搬入先はこの地区で、この日までに誂えられれば……。
四十男と若い娘の、しかもやたらと勢いの良いカップル。そう見て取れたはずであるが、しかし流石はマダム・メーラー。眉ひとつ動かさずにヒアリングを取りまとめると、にこりと笑って席を立った。「セミオーダーがよろしいですわね。それでもまずは念のため、おふたりのお体を測りましょう……ええ、ええ、あちらにある計測用のマットレスにも横たわっていただきますよ。必要な数字が揃えば、お好みにぴったりのものをスムーズに探せますでしょ?」)
……面白いな。まさかここまで測られるとは……
(──さて、それから十五分後。女将の寄越した計測データの紙を手にしたギデオンは、カーテンに仕切られた計測室から戻ってくると、思わずそんな声を漏らした。ギデオンの身長、体重、両腕を広げた幅はもちろん、筋肉のつきかたや重心の移し方まで、眼をかっ開いた真剣な様子の女将に、これでもかというほど確かめられまくったのだ。先に出ていたヴィヴィアンも、おそらくは同じように、しかし男のギデオンよりはもう少し手心を加えて計測されていたのだろう。
ふたりの手元の紙には今、各種の身体データのほかに、この店にあるマットレスやヘッドボードの簡易カタログが載っている。女将が赤丸をつけたのは、「この品番の商品が合うだろうから是非試して」という指示らしい。最初はそのガイドのままに、女将による丁寧な案内を受けていたふたりだが。途中でドアベルの音が増え、お針子たちの出迎えでは対応が間に合わなくなると、とうとうマダム・メーラーもそちらに赴かざるを得ず。しばらくの間、ギデオンたち自身で好きに見て回るようにと頼まれた。どの道頃合いだったろう──案内の様子からして、ギデオンたちがふたりきりでもゆっくり探したいことを薄々察していたはずだ。
半階上のあのブースで聞き取りを行っている女将の声を聞きながら、ようやく相手を振り返り、片眉をぐいと上げると。今はまだほかに客のない、魔法灯で如何にも居心地よく照らされた店内を、相手と腕を絡めながらゆったりと歩いて回る。マットレスの寝心地は幾つか軽く試したから、そろそろベッドフレームのほうも見繕いはじめようか。のんびりと喉を鳴らしながら、各商品に据えられた番号札と案内紙を見比べては、顔を軽く傾けて隣の相手に相談し。)
……寝室を広く見せるなら、低いものがいいんだろうが。ある程度の高さがある方が、普段使いにはいいんだろう。
サイズはどのくらいがいいと思う? ゆったり眠るには、クイーンサイズだと少し手狭に思えてな……
( 快適な生活とは、得てして非常に物入りなものである。ましてや新たな生活準備に対し、ビビとてある程度の出費は勿論想定していたのだが。他でもない恋人の口からさらりと述べられた今回の予算に、内心穏やかでいられなかったこともまた確かな事実で。今をときめく勤続数十年のベテラン剣士と、やっと新人扱いが抜けてきたばかりの若手ヒーラー。その収入に大きな隔たりがあるのは至極当然の道理で、質の良い生活を享受する権利がある相手を、自分の低い生活レベルに付き合わせるのはただの自己満足に過ぎないとも強く思う。その上、ギルド運営の中心に深く食いこんでいる有能な上司が、後輩ヒーラーが出せる予算など大体把握した上で提示していることも頭では理解しているつもりだし、特に身体を休めるベッドは冒険者である二人にとって何より大切な資本になる等々……。要はここは意識して物分り良く振舞ったのだったが──帰ったらもう一度話し合わなくちゃ、と。己の甘さに唇を噛んだ娘とって、更に大きな衝撃が待ち受けているのはまだ一旦別のお話。 )
私も、もう少し大きい方が良いと思います。
その方が帰ってくる時間がバラバラでも、お互いを起こさずに住みますし……
( 結局、なんだかんだ浮かれているのは此方も同じ。当たり前のように、ひとつのベッドで寝てくれるらしいギデオンに、えへえへと纏わり着くと。「……でも、二人とも元気な日はくっついて寝てもいいですか……?」と耳打ちした薔薇色の頬や、キラキラと輝くエメラルドのいっそ残酷なレベルで無邪気なこと。これから数ヶ月にわたって、相手を酷く苦しめることなど微塵も分かっていない顔をして、強請るようにこてりと首を傾げれば。高さ順に並べられたベッドの群れに駆け寄り、一番高いそれにぴょいと浅く腰掛ける。そうして少し浮いた踵をぷらぷらと、楽しげにギデオンを見上げては、「これくらい高い方が沢山収納できないですか?」と、あの広い住宅に対して妙に所帯染みた思考はご愛嬌。少しでもじっとしていられないのか、すぐさま今度は低いそれに腰掛け、余った脚を億劫そうに折りたためば。ふんふんと丸い頭を小さく揺らして相談を。 )
今はどちらも分厚いマットがあるから低い方が良く見えますけど、薄いマットを敷いたら高い方もそんなに圧迫感なくないですか?
脚が細い……床が見える物ならもっと広く見えるかも……?
────……、
(“頼れる恋人、ギデオン・ノース”。己よりずっと若い彼女にきっと相応しいそれを、自分はここ数週間、努めて演じ続けたつもりだ。だがしかし、ピュアを煮詰めたような娘のとんでもない発言に、一度びきんとひびが入れば。辺り一面に展示されている素晴らしいベッドフレームを、彼女が熱心に眺める間……ギデオンのほうはと言えば、その場にじっと佇んだまま、大きな片手で険しい顔を覆い隠して。
……ああ、そうだよな。収納のことも、ちゃんと考えておかないと。それで……そうか。ヴィヴィアンのほうも、俺と眠るのが嫌じゃないと。それどころか、むしろたまにはくっついて寝たいと。普段は遠慮してすらいると。そうか。なるほど。抱いてもいいか。
──なんて本音は、しかしまだ言えやしない。なまじ恋仲になったからこそ、下手な冗談に聞こえないせいだ。それに何より聖バジリオの、あの担当医からのお達し……退院してまだ数日の、相手の体が第一だろう。
故に何とも歯痒そうに、一度眉間の深い皴をぎりぎりとより極めたものの。ようやく顔を上げたかと思えば、その面は今度はス──ンと、酷く冷静に凪いでいた。やがてこの先何年かギデオンを眺めるうちに、彼女も気づきはじめるだろうか。……この慎重居士の魔剣使いが、もはや盛大に開き直ると決めたときの面である。)
いや、マットもフレームも、しっかりしたものを選んでおくほうがいい。
二階に運び上げるのに一苦労だろう? だから──最低、五年は保たせてみせないと。
(まったく、何が“保たせる”だ。その意味深な物言いの訳を自分からは明かさずに、相手の手を取り立ち上がらせて、別のコーナーに連れていく。どうやらそこは、彼女が今までそれとなく避けてくれていたであろう、この店の最高級品が並んでいる一角らしく。仮に相手に見上げられても、そこにある男の横顔は、まったく揺るぎやしないままで。
ヘッドボードにさりげない引き出しがついているものをふと見つければ、「これなんかは便利そうだな」と、はたまた何を常備するつもりなのやら。ともかくそのベッドの、どっしりとした脚の太さをいたく気に入ってしまった様子で。先にベッドに深く腰掛け、その据わり心地に(ほう)という顔で見下ろすと。ふと相手に顔を戻し、緩く腕を広げては、当たり前のように誘って。)
これに合わせるマットレスは、やっぱり……ほら。この店独自の、『メーラースプリング』ってのが、いちばんフィットするらしい。
……ほら、お前も、こっちに来てみろ。
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