匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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…………、
(一瞬、思わず声を失う。真顔のまま固まったのは、思考が何ひとつ働かなくなってしまったせいだ。かすかに揺れる薄花で、相手の翡翠をただただ見返す。そこにあるのはきらめきだけ……まっすぐで聖らかな、彼女の澄みきった信念だけ。それの何に衝撃を受けたというのか。考えられない、わからない。
その膠着状態が、思考回路に見切りをつけさせたのだろう。ふ、と不意に視線を外し、一度静かに顔を伏せる。それから再びそちらを見上げたそのとき、そこにはすっかり、いつもの“ベテラン剣士”がいた。少々険しくなった眉間に、引き結んだ一文字の口、この流れなら当然だろう。「おまえはいつも……、」と呟いた、その低い小言の響きで、相手も思い出すだろうか。ふたりが相棒になりはじめたあの頃、まだしょっちゅう無茶ばかりしていた彼女に、ギデオンはよくこの顔をしていた。)
……俺がどんなに、いろいろ頼み込んだって。おまえはきっと、あいつを救いに……行くんだよな。
(呆れながら白旗を上げたとも、或いは相手の望みを聞き届けたとも、どちらともつかないような、複雑ながらも凪いだ声。それを落としながら、武骨な掌を相手に差し出し。彼女がそれを手に取ったならば、共に立ち上がる手助けをして。
そうしてまずは真っ先に、相手の様子を確かめる。ふらつきはないか、ままならないところはないか。それから今度は、その両頬を縫い留めるように包み込んだ。少しばかり土に汚れてしまった柔肌、けれども血色は悪くはない。視線も危うく揺らぐことはなく、瞳は生気に満ちている。……魔力弁で彼女の魔径に軽く触れる。その生き生きとした感触からしても、あの女は本当に、彼女をしっかり治したようだ。
こつん、と額を触れ合わせ。目を閉じて数秒、無言で相手に祈りを伝える。その間もこの森の向こう、花畑のある方角からは、移動したらしいウェンディゴの凄まじい呻き声がしていた。──あそこに行くのは自殺行為だ。エデルミラだってそのつもりだ。そんな場所にヴィヴィアンを? もうこれ以上、危険な目には遭わせたくないというのに。
それでもギデオンの前身は、彼女の決して揺るがぬ意志にどこまでも忠実だ。両手を下ろし、ゆっくりと目を開け、相手の瞳を覗き込む。そうして温かい吐息と共に、こちらからも懇願を。)
次に、おまえが……少しでも怪我をしたら。今度こそ、そこで終わりだ。
そうすると……約束してくれ。
…………約束します。
ありがとうギデオンさん、大好きです!
( 相手のことをするように、自分のことも大切にする。その約束を決して忘れた訳じゃ無い。しかし、"まだ間に合うかもしれない" そう目の前にぶら下げられた甘い希望に意思が揺らいで、頬に触れた温かな手にはにかんだ娘の声が、寒々しく響いては消えていく。本当に相手が好きならば、ギデオンさんの想いを優先するべきだった。この優しい瞳の震えを、絶対に見落とすべきではなかった。エデルミラさんを助ける方法は、きっとほかにもあったはずだ。そう未来の自分が、何度も後悔することになるとは露知らず。感極まったように相手を抱きしめた腕をそっと離して、腰から提げた杖をひとふりすると、まもなく息を切って花畑へと走り出してしまった。
そうして、黒々とした木々の合間を走る二人に、──林檎のような、桃のような、甘く、噎せ返るように濃密なその香りがその存在を知らしめる。次第に頭上を覆っていた木々が途切れると、ますます香りは強まって、見渡す限りの赤、赤、赤──……視界に映るのは、フィオラの見事な星空と、それをぐるりと切り取る険しいヴァランガ山脈、そして燦然と咲き誇る真っ赤な"花"たち。その危険性を知って尚、天頂にあんぐりと口蓋を開いた満月の下、ほのかに発光するかのような鮮赤に目を奪われると。はっと一瞬遅れて口を塞ぎ、咄嗟にハンカチを生成した水で濡らして相棒にも差し出し、自身はローブのフードを片手で口元へと寄せて。 )
出来るだけ吸わないでください、花粉だけでも何が起こるか…………ッ、
( そうして、風が吹くとますます舞い上がる強い香りに目を細め、ぐるりと周囲を見渡した時だった。頭痛がするほど甘美な花の香りの中、むわりと場違いな腐臭が鼻をつく。その身の丈は3mをゆうに超え、最早人間の面影を残すのはその二足歩行のシルエットばかり。その体躯すら骸骨のようにやせ細り、全身から生える長い体毛が、積年の脂と氷に固まってぬらぬらと醜悪に月光を照り返している。ウェンディゴ──もといエディ・フィールドの成れの果て。先程対峙した時よりも、一回り大きくなったかのようなその一撃に咄嗟に横へと飛び退いて、花の花粉に全身を桃色に染めながら振り返れば。──どうやら向こうもこちらを覚えていたらしい。明らかにギデオン目掛け飛びかかってくる知能の高い獣に適切な援護も埒があかず。フィオラの冬空に高らかな詠唱の声音を響かせれば、エディの周辺の花々が勢いよく燃え上がったのは、渾身の炎魔法が弾かれたためで。 )
ギデオンさんッ!!
~~~ッ!! この化物ッ、こっち向きなさいよ!!
(再び対峙したウェンディゴは、先程よりも明らかにその手強さを増していた。おそらくは、辺りに満ちる闇のマナを吸い上げているせいだろう。すなわち夜明けを迎えぬ限り、ここは奴の独壇場。そう悟ったギデオンが、すんでのところで怪物の爪を躱し、魔剣を構え直したその時。敵の喉元を睨みつけていた薄青い双眸が、はっと大きく見開かれた。──相棒の 炎魔法が弾き飛ばされたその場から、鋭い悲鳴が上がったのだ。
まさかだれかが……エデルミラが伏せていたりでもしたのかと、そう恐れて確かめるも。焼けているのは草花だけで、人の姿は見当たらない。ギデオンが混乱しながら眺めていると、その橙色に輝く破壊は周囲にも広がっていき……それにつられて、絹を裂くような不気味な悲鳴が、ひとつ、またひとつと増えた。──理屈を飛ばして、直感が解をもたらす。断末魔の声を上げているのは、誰かではない……フィオラの“花”だ。
どうやら敵の腐った耳にも、その絶叫は同じく届いてたらしい。そちらをぐるりと振り向くと、鋭い牙の並んだ口を、ぐにゃあと酷く邪悪に歪めた。嗤っている、と気がついたギデオンが、一瞬早くそれに気づいて、すかさず矢のように飛び出すも。怪物はその巨大な手を、月に向かって大きく掲げ──ぐわん、と一気に振り下ろして。)
──……ッ、避けろッ!
(ヴィヴィアンを己の内側に庇って転がったその背後、派手な火柱が空高く噴き上がる。 ──冬の乾燥しきった大気を、闇で強まった怪物の力で、炎に向かって勢いよく煽りつけたらどうなるか、考えるまでもないことだ。安全地帯に逃げ出そうにも、今やギデオンとヴィヴィアンは、フィオラの花畑の真ん中で、激しい業火に囲まれていた。ウェンディゴが嬉々として巻き起こす嫌な風が、また新たな爆炎を立ち上がらせて行く手を阻む。必然、辺りを震わす花の悲鳴も、数百、数千にものぼり、これだけでも頭が割れそうに痛い……花自体に、おそらく闇の魔素か何かの力が宿っているせいだ。熱風に巻かれ、花の悲鳴に圧をかけられ、その鼻や口から思わず血を垂れ流しながら、それでも瞳だけは真剣に、ヴィヴィアンを強く見据える。それはかつての自己犠牲的な陰りではなく、この場をふたりで切り抜けるための、ひたむきな意志によるもので。)
一瞬でいい、守護魔法をかけてくれ……俺があいつの動きを止める!
……っ、!
( ──己の判断ミスが今、こうして他でもないギデオンを流血させるに至っている。もろに熱波を喰らったのだろう。鼻や口からの血だけでは無い、ビビを庇い、その凛々しい表情を赤く上気させたギデオンを目の前にして。最早思考するより早い治癒魔法と共に、請われるがまま施した守護魔法は、ただひたすらに相手の無事を祈るもので、決して愛しい人を死地に向かわせるためのものでは無かった。しかしビビがかけた守護魔法を確認するやいなや、真っ直ぐにウェンディゴへと向かっていくギデオンに、やっと自分の判断が間違っていたこと。自分の思い上がりが相手を傷つけたことに気がつけば、全てを投げ出して悲愴に嘆き沈み込みたくなる思考を、今は無理やりにでも振り払う。──後悔している暇などない、自分が招いた事態だからこそ、無事にギデオンさんを帰さなくては。そう構え直した魔法の杖で、相棒に降りかかる火の粉を丁寧に払いながらぐるりと周囲を見渡せば──見つけた! と、激しくとぐろを巻きながら燃え上がる火炎のその奥に、時たまぐらりとよろめきながら満身創痍で赤い波を掻き分けていくエデルミラを発見すると。ギデオンがウェンディゴを討ち漏らすなど微塵も思わぬ素振りで、危険な魔獣のその隣を真っ直ぐに駆け抜けて。 )
エデルミラさん! ……エデルミラさん!!
お願い、こっちを見てください!!
( 今はギデオンに集中しているとはいえ、いつウェンディゴの注目がエデルミラに移るか分からない。ギデオンが魔獣の動きを止めてくれた今のうちに、手負いの女を花の影に隠そうとして。しかし何度呼び掛けても反応がない女剣士に、半ば体当たりするかのような勢いで飛びつくも、ギデオンにそうした時よりは劣るとはいえ、鍛え上げられた隙のない体躯は一瞬小さく揺らいだだけで、その歩みを止めてはくれない。それどころか、ビビを認識するような素振りも見せずに、何やらブツブツとよく分からない呪いのようなものを垂れ流しながら歩き続けるエデルミラに、引き摺られるような形でかじりつけば。最悪なタイミングとは重なるもので、「うわああッ!? 火が!!!」「花が……花が!!」「お前らがやったのか!?」と、正気を失った女剣士と、彼女を止められるずにかかりきりになっているヒーラーの前に現れたのは、各々額や首筋、腕などに赤い魔核を携えた村人達で。「だめっ……!」と、無力な自分に思わずあげたその声は、果たしてエデルミラに掛けたのか、それろも噎せ返るような花の香りと満月の下、その肘から何やら仰々しい腕を伸ばした村人達が、その目から次々に正気の光を失ってその姿にかけたものだったか、 )
……だめっ、だめ!! 止まってよぉ!!
(「駄目だ、止めろ──火の手を止めろ!」
こちらにようやく引き付けた敵に、魔剣を叩き込むこと暫く。必死なその声がギデオンの耳に届いたのは、先にヴィヴィアンの悲痛な叫びを聞きつけ、振り返った時だった。逆巻く炎の向こう側、異状に気づいて駆けつけたらしいフィオラ村の連中が、まだぞくぞくと森の中から現れている。大事な花畑が炎に呑まれる光景を前に、かれらは本気で悲鳴を上げて、もはや他には目もくれない。めいめい水魔法を繰り出そうとして──掲げられたその手はしかし、先着の同類同様、月に向かって固まってしまう。
思わず己の魔剣を下ろしたギデオンの瞳の奥に、あの光景が鮮烈に甦る。歪む肉、軋む骨、閃く牙──理性を失した、獣の白眼。あのとき、人間をやめたクルトは、双子は、どんな本能を晒したろうか。思わぬ窮地に我を忘れ、「逃げろ!」と叫びながら、駆け出そうとしたそのときだ。ゆらりと背後から近づいた巨影が、ギデオンの背面を強かに横殴りにした。がぃん、と強烈な金属音──爪とミスリルが火花を散らし、鎧の戦士が吹っ飛んでいく。その先は業火の渦、ひときわ激しく燃え盛る場所で。どっと叩きつけられるなり、無数の火の粉が激しく夜空へ舞い上がった。……これまではそこからも魔物に斬りかかっていたギデオンは、しかし今回は立ち上がらない。炎のなかで黒々と、呑み込まれたまま動かない。
ウェンディゴが嗤う。巨躯を満月に伸びあがらせて、どろどろと醜く嗤う。
エデルミラが呪う。傍目には理解不能な使命を帯びているかのように、ぶつぶつと何かを呪う。
村人たちは、もう間に合わない。絶叫しながら苦しみ悶え、皆めりめりと歪んでいく。
やがて彼らが成り果てた、フィオラの“英雄”、禁忌の魔獣。その真っ白に濁った眼が、皆ヴィヴィアンをひたと見つめて。
目の前の柔らかな“肉”に、口を開いた──その時だ。)
──ヴィヴィアン……ッ!
(炎の渦のなかから、文字通り雷のように輝く一筋が飛び出した。それはそのまま、ウェンディゴの胸をまっすぐに貫きざま、魔獣の群れに突っ込んで。ヴィヴィアンとエデルミラににじり寄っていた化け物たち、そのおぞましい首を皆、一太刀で撥ね飛ばす。
荒い息を吐きながら相手を振り返ったのは、もはや金色に熱された鎧を纏うギデオンだ。その肌も髪も、焼かれた痕はどこにもない──彼女の護りは効いていた。流石に全てを無効とする万能の魔法ではないから、物理的な衝撃を一瞬喰らっていただけで、未だ尽きてはいなかった。血走ったせいか紫がかったその双眸で、己の相棒をじっと見据える。純白のローブをはためかせ、栗毛を揺らすヴィヴィアンの、何より鮮やかなエメラルド。相棒となって以来、昼も夜も、幾度となく見つめてきた彼女の瞳。
それは不思議と、酷く静かな一瞬だった。向こうではウェンディゴが苦悶にのたうち回っているし、エデルミラは詠唱をやめず、まだ他にもいる村人たちの成れの果ては、唸りながら近づいてきている。炎はごうごうと勢いを増して、森に燃え移る勢いだ。──それでも、静かに口を開いた。彼女にはまっすぐ届くと、確信しきった声だった。)
……俺が“戦う”。絶対にお前たちを守る。
だから、エデルミラを……“治して”くれ。
──! ……はいっ!!
( 守護魔法の光を煌々と放ち、その鎧を金色に輝かせる相棒に思わず瞳を見開いて。その深い声が雷鳴のように鼓膜を震わせ、信頼に満ちた瞳が此方を射抜くだけで、それまでの絶望が嘘のように晴れていくのだから不思議でならない。何のことはない、この状況を“止める”には少し筋力不足だったかもしれないが、“治す”のは己の得意分野だ。ましてや他でもない相棒に任されたとあっては、それだけでエデルミラに引きずられていた背筋が伸び、熱気に侵されていた呼吸が楽になるようで。
アドレナリン放出で気が大きくなり、暴れる戦士を取り押さえるにはコツがある。それが魔法を使う手合いの場合、まずはその詠唱をとめてやることだ。難しいことはしない、できない。これがお優しい後輩ならばいざ知らず、ビビの場合は物理的にその口へと拳を突っ込んでやるのがやり口だ。相手の唇の動きに耳を傾け、その口が一際大きく開かれる瞬間、振りかぶった拳を相手の下顎目掛けて突き上げる。この時のポイントは、多少の抵抗が入ろうと絶対に拳を開かないこと、でないと指を噛み千切られるからだ。そうして目下の脅威を退ければ、物理アタッカーの場合、次は飛んでくる膝や肘をその辺の硬質な物体──今回は転がっていた補助腕の金具でいなして、相手が自分で繰り出した攻撃の威力で怯んだところを、「えいっ!」と全体重で組み伏せる。そうして繰り出す関節技は少々反則気味な気もするが、力も速度も格上相手に、しかもこれを喰らって尚カレトヴルッフの戦士たちは痛みに失神するまで暴れるのだから此方も手加減していられない。とはいえ、目の前の女剣士の場合はもう少し利口だったらしく。意識を落とす寸前で正気を取り戻したらしい彼女に、「一緒に帰りましょう、エデルミラさん!」と言い募れば。花畑に来てから初めて、話の通じそうな眼の色を浮かべた女剣士に、ついつい気ばかり逸って腕を外すより前にそうしてしまったからだろう。本来曲がる方向とは逆向きにキメられた己の利き腕を見たエデルミラが、「……それは脅迫かしら」と嘯くのを──それもありだな、と少し力を強めてみるも、その女の表情を見て一目で痛みでは支配できぬとわかれば、あっさり開放することにして。
とはいえ、エデルミラの調子が万全だったならば、ビビなど束になったところで適わなかったに違いない。組み伏せられる以前から満身創痍だった女剣士と二人、花の影で肩で息をすること数十秒。当初はビビの剣幕に「それは……」「私だって、」と気圧されていたエデルミラだったが、自分が発動した魔法陣を省みると「いいから逃げて」「あなた達を巻き込みたくはないの」と、再び頑なに首を振り出して。それでも諦めの悪いヴィヴィアンに周囲をぐるりと見渡せば、「貴女が此処に居たらノースさんだって巻き込まれるのよ」と、その言葉で一瞬ビビが怯んだのを見逃さず、隠し持っていた短剣でビビのローブを一際太い花の根に縫い付けてくる早業。そうして、娘が短剣を引き抜こうとする隙に華奢な腕を振り払えば、村民の成れ果てと対峙するギデオンの方へと駆け寄り、「……手伝うわ。だから、早くあの子を連れて逃げて」と。この場で一番強情であるビビの弱点と、そのビビ当人より余程ギデオンの感情を見抜く強かさこそ、彼女がデュランダルの代表としてこの村に来られた証左。しかし、次々と迫りくるかつて村民だった者たちに対し迷いのない剣さばきに、しなやかな身のこなしを一瞬鈍らせたのもまた、力任せに短剣を引き抜き、遥か後方でひっくり返っている、前線の二人より余程非力な娘の叫びで。 )
~~~ッ!! もうやめて!!!
そんな怪我で……ッ、こんな村のためにエデルミラさんが酷い目に合う必要なんかない!!
(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへ出て行って尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷の罰はどこまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は、まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。……おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。母との苦しい日々のなかで、母が優しさから隠していたより多くのことを、エデルミラは察していた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすのだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかし陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。…のより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。かれらを今ここで根絶やしにしなければと、そうエデルミラが思いつめたのも、無理のないことだろうに。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれた祈りを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は母の言いつけに背いて、フィオラのやつらのお望みどおり……“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の返り血に染まりきった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。──今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを……フィオラ村の成れの果てを……次々屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、無辜のだれかを守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を拓き、救いに向かう心があると。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それは少しだけ違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしのことも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこかしかの深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへと逃げだして尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷からの罰はいつまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は……まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。追われ続ける日々のなかで、母は優しさから多くのことを隠していたが、それでもエデルミラがそれに気づかなかったわけがない。母が自分を身籠ったせいで故郷を追われたらしいことも、自分への愛ゆえに様々な罪悪感に苦しんでいたということも、自分はきちんと知っていた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすせいだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかしかといって、陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。かれらのより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。──そしてまた、自分の異常な父親と、それとまぐわった母の狂気を、知ってしまうことでもあった。
エデルミラの世界は、フィオラ村に来てから粉々に破壊された。村は確かに狂っていたし、様々な罪に手を染めていたが……母も母で、間違いなく異常で、ふしだらで、どうしようもなく罪人だった。たしかに若いころの母は、二百年前に死体を弄んでいた狂人の亡き骸と、黒魔術を通じて番うような女だったのだ。そして自分のなかには、その死体の血が流れている。それもただの死体ではない、異常な人殺しの男の死体、二百年も朽ちない死体だ。そう知ってしまって今、どうしてエデルミラ自身も気が狂わずにいられよう。自分は母の故郷が散々言い続けたとおり、確かにおぞましい忌み子だった。フィオラは悪だ、だが母も悪だ、そしてエデルミラ自身もまた、本当にこの世に生まれてはいけなかった。
……それでも、長年の想いは消えない。村を出てまともな世界を知った母が、自分を愛してくれたのは事実だ。自分がそれを支えにして生きてこられたことも事実だ。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。悪意の塊樽かれらのことは、今ここで根絶やしにしなければ。
……そして同時に、真相を知った己が、母とのあどけない約束なんぞをかなぐり捨てたくなるのも道理だ。想像以上に悍ましい出自だった自分自身のことすらも、もはや一滴の血も残さず、この地上から消し去らなければ。そう思いつめたのも、きっと無理のない話のはずだ。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれたあの祈りの純粋さを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は一度、生まれて初めて、母を憎んで。
──そうして、母の故郷のお望みどおり……この手を汚して、“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の帰り血に染まった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。……今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを次々に屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、人を守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を開く人間なのだと。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それはほんの少し違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え声。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこか地下の奥深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
?
?
?
( ──赤い、赤い大地から伸びた黒い腕が女を捉え、その地の底へと引きずり込まんとする悍ましい光景。頭上には怪しい程に明るい月を湛えたその光景は、まるでこの世の終わりの様で。どこか現実味を放棄した鼓膜を、囂々と響く地鳴りが占拠してそれ以外は何も聞こえず、命からがら女を助け出した男を地獄の番人の凶爪が襲う。発動した魔法陣を中心として、花畑の中心にぽっかりと空いた真っ黒な穴は、その奥からはこの地で散った者達の無念の声をもこだまして、もしここに正気を保った者がいたならば、最早今生に救いはないのだと誰もが覚悟したに違いないその瞬間だった。
それまで、剣士らをいいように蹂躙していた血の触手。ギデオンに切り伏せられて怯んでいたそれが、ぴこん! と、再び鎌首を擡げたかと思うと、手負いの剣士の方へとまっすぐに伸び──その隣で、今にもギデオンを嬲り殺そうとしていたウェンディゴの心臓を貫く。酷い腐敗臭の漂う巨体がどうと倒れたその背後、頭上の月まで届きそうなほど溢れ出ていた触手はその身の色をどす黒い赤から、月より眩しく暖かな聖なる魔素の色に染め、ギデオンとの間に立つその娘のシルエットを柔らかく浮かびあがらせるだろう。 )
?
ギデオンさん!!ご無事ですか!!
?
( ウェンディゴを真っ直ぐに貫いたのち、その金色の指でギデオンの傷口を温かく注いでいった触手がしゅるりと戻っていくのと引き換えに、愛しい相棒のもとへと飛び込んできたヒーラー娘が “それ” を見つけたのは、エデルミラに突き立てられたナイフを力任せに引き抜き、勢い余ってひっくり返っていた時だった。不自然なほど密集した花々の根元に隠されるように刻まれた古代魔法、それ自体は世界中にみられる古代人から続く祝福の息吹だが、しかしそこから溢れる魔素の色に、いち早く女剣士の仕業に気がつけば。複雑な古代魔法の解読と、無念を訴える死者の魂への祈りが間に合ったのは紙一重だった。そこに大層な信念も目的もあったわけじゃない。フィオラ、ひいてはヴァランガを雪崩から守っていた古代の魔法は、花畑に撒かれた死者の無念をも繋ぎ止める枷になっていたらしく。悪魔の子によって解放された罪なき魂たちが、彼ら自身も気づかぬまま、今度は自ら人を殺めようとしているのが心底痛ましかっただけ。しかし、彼らを縛り付ける枷から、彼らを唆す装置へと変貌した古代魔法を読み解く傍ら──彼らの魂が無事にロウェバの御許に辿り着けますように、という娘の祈りは無事願い届けられたらしい、エデルミラが捧げた“悪魔の子”としての彼女の人格と同様の供物を対価として。
そうして、花畑の激闘が収まった頃合いに、「おおーい」と響いたのは、先程救援信号を上げていた陽動隊の声だった。どうやら他の隊の救援を受けられたらしく、今度こそ二度と動かなくなったウェンディゴの死体と燃え上がる花畑、そして満身創痍の三人を見て、重戦士の一人が気絶したエデルミラを預かってくれつつも、説明を求めたそうな表情をぐっと押し込めたのは、とうとうフィオラの頭上の冠雪が激しい音を立て崩れ落ち始めたからで。そうして、「逃げろ!!」という怒号に、ビビもまた“対価”を失って少し軽くなった毛先を揺らし駆け出して。 )
…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓の破壊が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な汁長を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、先に行け!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺し、その背中で仲間に命じる。村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、必死の思いで次々に斬り捨てた。そうしてようやく、仲間が手配した数台の牛車に飛び乗り、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜ける。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も、……ったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれが、この場所にも届くまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせて。)
…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な質量を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、手配に回れ!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺す。その早業に一瞬言葉を失う年若い連中に、丁寧に説明してやる時間も惜しく、怒鳴るような声で命じた。──村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、若い連中や相棒があたっている段取りを信じながら、必死の思いで斬り捨てる。そうしてようやく、出来上がった数台の牛車に飛び乗ると、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜けて。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も……たったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれがこの場所にも迫りくるまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせ。)
……、
( 凍土の緩んだ踏ん張りの効かない獣道を、何度か滑りそうになるのを頼もしい腕に支えられながら走破すると、目の前のはだかる魔法障壁にうっと顔を露骨に歪めれば、相棒もまた同じ気持ちでこちらを見ていたようで。手練の冒険者である彼等ならまず簡単に避けられるだろうと、注意喚起もなしに魔法の火炎を放ったのは、その複雑に入り組んだ魔法式に嫌な見覚えがあった故で。古代魔法を礎に見慣れない土着の式が混ぜこまれた、この数日で見慣れざるを得なかったヴァランガの、フィオラの魔術師が組む魔法障壁は、いとも簡単にビビの火炎を弾いたかと思うとその瞬間、これまた聞き覚えのある品のない笑い声が冒険者たちを取り巻いて。
興奮したような引き笑いと共に、「おや、見覚えのある光景じゃないか」そう隧道の暗闇から顔を出したイシュマは、「悪く思うなよ、こんな狭いところで"英雄"にでも追いつかれたら困るだろう? ましてや君らみたいのは……全く卑しい、いつどこで祝杯をひと舐めなんてしてるかも分からないからね」そう白々しくニヤつきながら、当然のごとく障壁をといて冒険者達を招き入れる気は無いようだ。そうして、その間も障壁に体当たりや攻撃を試す男たちなど目に映らないかのように、目敏くビビの方に向き直ったかと思うと。「ああでも、そうだ……お前、」と「惨めに跪いて命乞いをするなら、お前だけなら助けてやってもいい……」と楽しげに続ける男に、今度こそ"くそったれ!"と、覚えたての罵倒をぶつけてやろうとした瞬間だった。「その余裕があるなら私を通して」と背後から響いたのは、彼女もまたあの地獄の最中をくぐり抜けてきたのだろう。あちこち傷だらけで、数日前の様が嘘のようにやつれた蛭女。彼女が肩で大きく息をして、艶を失った髪をばさりと揺らす間も足元の揺れは続き、残酷な白い塊が刻々と背後に迫ってくる。もはや一刻の猶予もない。この小悪党も身内に思うところはあるのだろうか、彼女のために障壁の規則を書き直す瞬間を狙い杖を構えようとした次の瞬間、その必要性は、あれ程強固に張られ魔法障壁と共に霧散したのだった。
その音は、膨大な雪の塊が全てを薙ぎ払いながら斜面を滑り落ちてくる轟音にかき消されてしまったようだった。揺らいだ障壁を通り抜けた女が、男の腕に飛び込んだかと思うと──ぐらり、と。イシュマの身体は地面に倒れ伏し、そして二度と立ち上がらなかった。雪の白い地面に広がる赤い染み、寸前に迫った轟音の中、確かに届いた女の笑い声。消えた魔法障壁の向こうに次々と冒険者たちが駆け込む中、前のめりに倒れたイシュマの隣から動こうとしない女に、いけない、と。このままでは──と、振り返ったヴィヴィアンの背中を押したのは、強く腕を引いたのは、果たして誰、何だったかを、後にビビはこの時の記憶を思い出すことは叶わないのだった。 )
──……あ、だめ、ッ……
(あの地下牢でギデオンたちを裏切った後、イシュマと蛭女の間にどんなやり取りがあったのか、それを知る暇はもはやなかった。──トランフォードには古くから、“スカパペツィの掟”という言い伝えが存在する。“災害や魔獣の害で今にも死ぬかもしれないときは、てんでばらばらに逃げなさい”というもので、それは事実、他人を助けようとして逃げきれずに亡くなった、何万人もの犠牲者を悼んだために編み出された教えだった。故に現代の冒険者たちは、人命救助を己が使命としながらも、究極の場合には真っ先にその掟に従う。ギデオンもまた例外ではなく、ただひとり、己の命より大切な相棒ひとりを気にかけるのが精一杯で。相棒をいち早く隧道の奥に押し込み、後の全てを置き去りにして駆け抜けていったそのことは、ずっとずっと後になっても、一度も後悔などしない。かろうじて、轟音のなか高らかに響く狂ったような哄笑が、蛭女の声を聞いた最後になった。
「滅びればいい、こんな村! この世から消えてなくなってしまえばいいわ!」……
──暗く細くせせこましい、崖のなかの一本道。しかしこの中に逃げ込んでも、まだ恐ろしい思いを拭い去ることはできなかった。背後から迫る怒涛の雪は、この狭い空間にさえ押し寄せかねない勢いだ。何より足元の揺れがまだ酷く、天井からばらばらと石くれが降ってくる始末。今より揺れが酷くなったら、頭上の大きな岩の層など、剥がれ落ちてくることだろう。この闇のなかで生き埋めになるわけにはいかない。「気をつけろ!」「こっちだ!」と、互いに口々に呼びかけながら、冒険者たちは出口を目指す。一刻も早く、この闇の先へ。──死の迫る世界の外へ!
そうしてようやく、ギデオンたちは光の中に躍り出た。未だ夜も明けぬ時分であるのに、満月に照らしだされた一面の銀世界は、真昼のような眩さで。目が眩みながらも未だ走り、しんがりを務めるこちらの耳に、しかし遠くから、何か叫び声が聞こえた。ぐっと狭めた目元に片手を翳しながら、そちらの方角を見遣ってみれば。あの斜面のずっと上……護衛班や回収班、そして共に先行して逃げ出していたレクター教授たちが、必死にこちらに手を振っている。何だ、どうした? そう思いながら、ふと振り返ってみたそのとき。思わず唖然としたギデオンとヴィヴィアンの頭上に、巨大な青い影がかかった。
それはこの冬の夜空を背に伸びあがる、真っ白なしぶきの壁。あの長かった崖の上すら乗り越えて、どうっと派手に溢れだした……雪崩の最先端の一波で。
もう間に合わない。そう悟った瞬間、ギデオンは本能で動いた。全ての音が消え失せた、いやにスローな世界のなかで。隣の相棒をぐっと引き寄せ、抱き締め、内側に固く固く庇う。顔色を失いながらも、せめて質量の衝撃から彼女の体を守ろうと、背中を屈めた、その真下。その相棒の杖先が、咄嗟に明るく輝いた瞬間。
──真っ白な濁流が、ふたりをごうっと呑み込んだ。)
*
(…………)
(……)
(…………)
(……)
(…………)
(……しばらく、眠っていたように思う。正確には、気を失っていたのだろうが。
時さえも凍りついていたかのような、長い長いその時間。ギデオンの体は、全ての生命活動をごくゆっくりと遅らせていた。しかしほどなくして、白く凍りついた睫毛が震え、うっすらと目を開く。瞼が鉛のように重く感じられ、何度か再び閉ざしそうになるものの。視界に満ちている薄ぼんやりとした光に、何故か不思議と縋りつかねばならないような気がして。何度もうとうとと揺れ動きながら、やがて意識が追いついてくるのを待つ。
幾らか目が醒めてくると、やがて全身に冷たさを感じはじめた。肩や背中、腕周りや脹脛が、氷の毛布にきつく圧されているかのようだ。胸から上以外は全身が厚い綿雪に埋まっている、という状況に気づくのは、この数分後のことである。……だがその中にあって、ギデオンの体の芯は、不思議と体温を奪われていなかった。己の吐く息は温かく湿り気があるし、感覚を巡らせてみれば、己の体内、首の後ろから爪先に至るまで、何か心地の良い温かいものが、とくとくと循環しているのを感じる。己の血潮、だけではない。馴染みのあるこれは何だろう……? そこまでぼんやり考えて、はっと弱く息を呑んだ。彼女だ。これは彼女の魔素だ──ヴィヴィアン!
強張った頭を動かし、己の真下に目を向けて。しばらく不安げに揺れ動いていたギデオンの瞳は、しかしほっと、脱力したように落ち着いた。──愛しい娘は、己の腕のなかですやすやと眠り込んでいた。その顔色こそ流石に白いが、唇は薔薇のように赤い……きちんと血が通っている。何よりその力の抜けた表情が、サリーチェの寝室で眺めるいつもの寝顔に、あまりにもそっくりで。「ヴィヴィアン、」と何度か軽く呼びかければ、眉根にうっすら皴が寄るところさえ、いつものそれそのものだ。
思わず口許を綻ばせてしまいながら、もう一度彼女に囁く。確かめずとも、雪に埋まった互いの手と手を今一度握り直したのは……そこでぴったり繋がっている己の魔力弁からも、眠る彼女に呼びかけるためで。)
……ヴィヴィアン、朝だ。起きろ。
ん、…………おはよ、ございます……?
( 分厚い雪に包まれて、少し体温が下がったからだろうか。それまでの場違いな程に心地よかった睡眠を邪魔されると、不快そうに眉根を潜めたヴィヴィアンだったが。大好きな厚みにぎゅっと掌を取られる感覚と、そこから吹き込まれる熱い魔素に、その薄い瞼をうっすらと開けば、先に起きた相棒にしっかりと温められていたその分か、一気に周囲の状況を把握すると、元々大きな眼を溢れんばかりに見開いて。
そうして、かろうじて動く手でギデオンの顔をぺたぺたと「ギデオンさん! 生き、てる……良かった……」そう凍りついた睫毛や、こびりついた霜を払ってやりながらへにゃりと緩んだ笑みを浮かべれば。ヒーラーとして有るまじき、身体の違和感を確認するその前に、ぎゅうっと強く抱きついた肩が震えているのは、寒さのせいだけでは無いだろう。それから二人の身体にかけられたヴェールが少しずつ消えていく感触に、慌てて下半身を掘り起こせば。いつまでも「くすぐったい……!」なんてクスクス戯れ合っている訳にもいかず。元々かなり下山していたレクターらは、無事木陰に逃げ込めたらしい様子が確認できるが、ビビたちと逃げてきた冒険者達は何人か生き埋めになってしまっているのを掘り起こしてやらねばならないだろう。幸い人数分の足は確認出来ているから、さっさとこちらを終わらせたところで、今度は山のような後処理が漏れなく全員を待ち受けているに違いない。しかし、今ビビの心を酷く苛むのはそれではなく、過酷なヴァランガの山肌を、道無き道を進んだところに確かにあった花の里フィオラ。その隠された存在と、歪められた尊い命たち、そして一晩で消え失せた住人たちを思うと素直に喜ぶ気持ちにはなれないが、今だけは生きて帰れたことに深い安堵の息を漏らして。 )
……早く、帰りましょう、ギデオンさん。
……ああ。
(ヴィヴィアンの複雑な、けれども願いの籠った声音に、同じ湿度の吐息を零し。真っ白な雪の上、立ち上がった相手とともに、崩れた谷を一望する。
──数日前まで壮観だったこのヴァランガ峡谷は、しかし夜明けの薄明りの下、静かに息を引き取っていた。村の旧跡は雪に埋もれ、かつてのキャンプ地だった家屋も木くずのように粉々になり。あの隧道の出入り口に至っては、もはやどこかにあったのかもわからない有り様だ。きっとあの崖の向こう側は、山ひとつがどっと押し寄せた勢いで、もっと完膚なきまでに破壊し尽くされているのだろう。そんな状況を生き延びた今、ギデオンたちがなすべきは、ともに生き延びた仲間たちを助け起こしに行ってやること。だがせめてその前に、と。ふと横を向き、彼女の頭をいつもどおり撫でようとして──ギデオンのその指先が、しかしぴくりと途中で止まる。……愛しい娘の栗毛の軌跡が、途中で断たれていたからだ。
そうだ、あのとき。この谷を滅ぼすべくエデルミラが発動させた、エディ譲りの黒魔術。あれを反転させるため、相手はあの場で最も聖らかであろう依り代、己の髪を差し出した。一切の躊躇なく、自らに刃を当てたのだ。いつもギデオンのなら厳しく戒めるだろうそれも、しかしあの雪崩を生き延びた今朝ばかりは、一瞬の揺らぎの後に、感謝と安堵に負けたらしく。瞼を閉ざしてため息ひとつ、それから再び相手を見つめ。もう一度その小さな頭に、己の骨ばった掌を添えて……そうしてその指先を、後ろの辺りで遊ばせれば。途端にしゅるりと、元々緩んでいたのだろう、髪紐が容易くほどけて。
ふわりと広がった柔い栗毛は、ギデオンの記憶にあるより、やはり幾らか身軽なようだ。しかし、そのひと房ひと房は、山の稜線から昇りはじめたまばゆい朝日に照らされて、黄金色に輝いて見えた。妙に神聖に感じられるのは……きっと昨夜、あんな奇跡を目の当たりにしたせいだろう。──紅き望月闌く夜さり。因習に満ちた花の里、そして怨みで生き永らえる冬山の化け物は、たった一夜で滅びを遂げた。だがしかし、彼らの悪事に巻き込まれた数々の犠牲者たち……ジョルジュ・ジェロームのような無辜の人々の魂は、朝陽の昇ったこの青空に、きっと無事に召されたはずだ。その奇跡をもたらしたのは、他でもないヴィヴィアンである。あの絶望の状況で、怨みの深紅を安らぎの黄金に変え、天に還してやった娘。
……ギデオンには時々、このヒーラー娘がまるで、神話か何かの世界から来たように思えてならない。そのことにうっすらと、ただの感嘆だけではなく、恐れを覚えることがある。──どこかから来たのではなく、どこかへ行ってしまうのではないか。自分が迂闊に目を離せば、彼女はその力のために、世界に奪われるのではないか。馬鹿馬鹿しい妄想かもしれないが、時たま本気でそんな風に感じるからこそ……今だけは。ともにこうして朝を迎え、己のすぐ横に彼女がしっかり立っている、ただそれだけの実感に、心の底からほっとしていて。
口元をやっと緩め、相手の髪を撫でたその手で、耳を優しく擽り……相手の無事を確かめると。「おまえのこれが元通りになるくらいまで、上からたっぷり特別休暇をもぎ取ろう」なんて、冗談めかした囁き声を。それからもう一度、万感の思いを込めて……彼女にそっと顔を寄せ。)
そうだな。ふたりで、うちに帰ろう。
(──こうして。激動のヴァランガ調査は、結局未達で終わりを迎えた。
冒険者たちが目撃した恐ろしい出来事は、後に“フィオラ村事件”として、トランフォードの闇の歴史にその名を連ねることになる。当然のことだろう……人を魔獣に変えてしまう常識外れの劇薬が、この世に生まれ落ちていたのだ。それは随分と後になるまで、様々な問題を国内外に広げるのだが──今はまだ、遠い話。
だからここからしばらく先は、あの事件の後にあったこと、わかったこと、そのいくつかを記していこう。
──調査隊は、無事生還した。何人かは多少の大怪我を負った者もいたのだが、ヒーラーであるヴィヴィアンの底なしの魔力を以て治せないようなものはなく、せいぜいが全治数週間。唯一目覚めさせられなかったのは、己の黒魔術の毒牙にかかった、元リーダーのエデルミラくらいだ。
彼女はあの一夜以来、ずっと昏睡を続けている。憲兵団の魔法医の話では、目覚められないのではなく、目覚めようとしないらしい。エデルミラの魔素に乱れはなく、おそらくは深く心を閉ざしたために身体が追従しているのだと──厄介な呪いを自分自身に掛けたようだと。それでもいずれ喋らせるさ、と。聖バジリオで久々に再会したあの懐かしの諜報員、エドワード・ワーグナーは、恐ろしいほど穏やかに言った。
「──元々、君たちの今回のクエストには、裏で僕らが噛んでいたんだ。アラドヴァルのあの剣士には、僕らに嗅ぎ回られるようなとある疑いが持たれていてね。魔導学院からデュランダルに調査依頼が舞い込んだ時、これはお誂え向きとばかりに、合同クエストを組ませてもらうことにしたのさ。そのほうが、お互いの顔さえ知らないうちの覆面冒険者が上手く紛れ込めるからね……ああ、そうそう。東のほうのギルドには、うちの手の者がいるんだよ。あの辺りはキーフェンマフィアも随分やんちゃをしているから、そうでもしないとやってられない。国を守るって大事だろう?
……とにかく。アラドヴァルのあいつに上手く探りを入れるために、東側からの参加者は、僕らの都合を踏まえての選抜をさせて貰った。で、リーダーにあのエデルミラ・サレスを据えたのは、その様々なしわ寄せの結果だったってわけなんだ。恥ずかしながら、彼女は僕らにとって、完全にマーク外でね。母親とふたりで、何やら迫害されていたらしいのは突き止められていたのだけれど……その加害者が、フィオラ村の差し向けたビェクナー商店だったってことも、サレスが母親を追い詰めた故郷を深く怨んでたってことも、僕らは気づけちゃいなかった。
だからヴァランガ調査の顛末は、もう完全に、憲兵団の大失敗さ。行かせちゃいけない人間を行かせて、そいつが大爆発したことで、君らも含めた一般人を随分巻き込んでしまったし、情報漏洩を防ぐための追跡調でもてんてこ舞いだ。そもそもの調査対象だったアラドヴァルの奴にしたって、今回のせいで強硬手段に移らざるを得なくなった。それじゃあ取り漏らしもあるだろうから、上はもうおかんむりでね。やらかした前任なんて、今ごろルーンの最果てに飛ばされている頃だろうよ。そそう、それで後始末にあてがわれたのが今回の僕ってわけ。フィオラ村の流通を突き止めるのはもちろん、サレスが何をしたか、今までどんな動きをしてたか、全部報告書を出せって話さ。まったく、幾らこの僕が優秀極まりないとはいえ、とんだとばっちりだよねえ……」
──随分と饒舌な、そのエドワードの話によると。フィオラ村の唯一の生存者であるあの少年、イクセルは、現在は憲兵団の関連施設で保護……もとい、監禁されているらしい。
イクセルは山を下るとき、自分ひとりが生き延びてしまったことに、酷く泣き叫んでいたようだ。その幼いながらに凄まじい怒りの矛先は、他に誰あろう、ギデオンたち冒険者にまっすぐに向けられた。──なんでみんなを助けなかった! なんでみんなを見殺しにした! ──俺も村のみんなと一緒に死なせてくれればよかったじゃんか! ──俺が、俺がちゃんと英雄になれば! おまえらが村に来なければ!
イクサルは決して、妹たちはまだ生きているはずだとは一言も言わなかった。途中で雪崩に巻き込まれて意識を失ったギデオンたちとは違い、あの子どもは一晩じゅう、谷の向こうに戻ろうとするのをレクターたちに必死に止められ、涙をはらはら流しながら、故郷が雪崩に呑まれる様を見届けつづけていたらしい。ただでさえまだ幼い子どもにとって、それはどれほど惨い光景だったろう。ヴィヴィアンは特に酷く心を痛めていたが、さりとてできることはなかった。こうして続報を聞けるだけまだありがたいほうで、そもそも事件後の冒険者たちは、同じギルドから参加した者以外との接触を禁じられている。天涯孤独のイクセルは、当然誰とも会えないし、誰のことも、何のことも、知らせてもらえやしない立場だ。
よってあの少年は、今も施設の職員相手に、堅く口を閉ざしている。フィオラ村はどんな村なのか、どんなことをしていたのか。職員たちが遠回しに聞き出そうとしてみても、一言も語らないらしい。当然ではあるだろう……おそらくその調子なら、いつかはきっと、ヴィヴィアンが聴取役として呼ばれることもあるだろうか。その時が来るまでに、少年の孤独な心は、気丈に耐えてくれるだろうか。
……その少年の体を魔導学院が調査して、ひとつ判明したことがある。
フィオラ村の出身であるイクセル少年の体内には、本来は人体にあるはずのない完全未知の成分が、高濃度で蓄積していた。この組成は一説によると、ハリガネムシがカマキリを操る時に注入する、ある特殊な成分に非常によく似た配列らしい。
その解析結果と、ヴィヴィアンが持ちかえった花の成分の調査結果を、憲兵団の監視下で照らし合わせてみたところ。誰もがにわかには信じがたい、だがそうとしか思えない、ある仮説が浮かび上がった。
──フィオラ村のあの“花”の正体は、非常に特異で悪質な、寄生植物なのではないか。
──自他の生きものの体を侵し、その本能を“花”に利のある行動をとるように書き換え。やがて一定以上溜まれば、月の魔力に反応して、その体を凶暴な魔獣のそれへと変えてしまう。そんな恐ろしい作用を持つ、いっそ猛毒とも呼べる花粉を分泌していたのではないか。
そう仮定して振り返るなら、心当たりは様々だ。
──鍾乳洞に巣をつくる、フィオラ村の特別な蜜蜂。本来はどんな蜂も、地上に巣をつくる習性のはずだ。それがフィオラの蜜蜂は、どんな光も差し込まない地下深くに巣を構えていた。あれはおそらく、本来は“花”に洗脳されて受粉を手伝う立場の彼らが、月の光を浴びることで変貌まで遂げてしまわぬよう、夜間は地下に引きこもるように変わっていったのではないか。
──祝祭に参加した最初の宴で卓に出された、あの特別な肉料理。あれはたしか大型魔獣、ヘイズルーンの肉だった。月夜に山々をうろつき回るあの山羊は、何かしらの特殊な酵素を体内に隠し持つらしく、どんな毒草も効果がない。植物であれば皆一様に、美味な乳へと変えてしまう。……だからフィオラの“花”にとって、己の洗脳が一切効かないあの奇妙な草食魔獣は、唯一の天敵だろう。おそらくはそのために、自分の洗脳下にあるもの、特に何度も毒を含んですっかり従順になったものを、月の光をトリガーとして強い魔獣に生まれ変わらせ、“花”を食べにくるヘイズルーンと闘わせるようになったのではないか。本来のフィオラ村が狩猟を生業としていたのも、魔獣化を遂げるまでもなく、ヒトならではの知能や道具で、たびたびやって来るヘイズルーンを屠っていたからなのではないだろうか。
──村の資料館のタペストリーの、ぐるぐる目をした村人たち。あのフィオラ村の祖先たちは、数百年前の世界で迫害を受けたときでさえ、“花”を忘れずに持ち出していた。あの刺繍群の最後でも、“花”はやたらと神聖そうに縫い込まれていた筈だ。きっとそのときから、始まりの祖先の時から、彼らは花粉に毒されて、“花”に魅入られていたのだろう。……そもそもかれらは、どんな理由で迫害を受けていたのか。もしかしたらきっと、ロウェバ教を中心とした宗教弾圧が激しかった大昔に、“花”を崇める異教を掲げていたのではなかろうか。
──それからあの、ジョルジュ・ジェロームの日記に綴られていた凄惨な最期。あれはおそらく彼の体が、フィオラ村の花粉に対してアレルギーを来たしたせいだ。滞在が長くなるにつれ、最初は順応できていたジョルジュ・ジェロームの肉体は、フィオラ村に蔓延している“花”の花粉の異常さに気づき、激しい免疫反応を引き起こすようになったのだろう。ただでさえ他の生物の肉体をそっくり改造してしまうほどをど強力な毒なのだ、相応の苛烈な反応が起こってもおかしくない。
──だとすれば、フィオラ村の人々が行っていたあの近親相姦は、一種の生存戦略的な文化だったのではないか。“花”の毒に侵されて尚生き残れる者たちで子孫を作っていくうちに、“花”に対するある種の免疫、自己破壊には至らないまま“花”を愛でていられる体を、獲得したのではないか。
しかしこの世には無情にも、生物濃縮というメカニズムがある。
毒の海で育った小魚を、それより大きなレモラが食べ。そのレモラをメガロドンが、メガロドンをドラゴンが。そう言った食物連鎖をするうちに、最初は僅かだった毒が、後々の生物の体内にどんどん蓄積されていって、より高濃度になっていく。そして時にその猛毒は、母胎から子へ継がれてしまう。
フィオラ村の人々は、おそらく数百年もの間、あの“花”とともにに生きてきた。その花粉を吸い続けて、何もないわけがない。無自覚に花の守り人となりつづけ、やがてはそれを利益のために悪用しだしたその先に。ただでさえ近親相姦で高め続けた花の毒が、あとはエデルミラが大鍋に盛った僅かな秘薬のひと押しだけで、臨界点を迎えたという可能性が、限りなく高いのだ。
イクセルはあの日、魔獣化の秘薬をとうとう口にしていない。なのにその体には、既にあの“花”の毒が一定程度溜まっているとわかった。だとすればそれは、イクセルが先祖代々、知らずに受け継いできた毒だ。そしてイクセルが将来的に、もしもフィオラのだれかと結婚していたのなら。その息子や娘の体には……イクセルよりも多くの毒が、生来宿っていたはずである。──フィオラ村はきっと、今回の事件がなくとも、いずれ数世代のうちに、皆魔獣化して滅んでいたのだ。
しかしそれでも、かれらの“花”や、彼らがこの世に編み出した秘薬の製法はなくならない。ならばいずれ、連絡の絶えたフィオラ村を、あの取引先のいずれかが訪ねては、遺されたそれを手に入れてしまっただろう。そうなると、もっと恐ろしい大事件が、もっと恐ろしい連中によって引き起こされた未来も有り得る。……結果論でしかないにせよ、今回のヴァランガ調査は、それを防ぐ最後のチャンスをぎりぎり逃がさなかったのだ。
──故に。調査隊が山を下り、通報を入れた後は、然るべき機関、然るべき者たちが、即座に水面下で動きはじめた。
ここ数カ月のヴァランガ地方は、いよいよ厳冬の雪に閉ざされ、もう何者も立ち入れない。だがひとたび春を迎えれば、きっとかつての取引先も再びフィオラに秘薬を求め、その惨劇を知るだろう。タイムリミットはそれまでとばかりに、今日も国内のあちこちで、憲兵団の諜報員が、魔導学院の研究者が、警察の名刑事が、公認協会の古強者が、皆この事件を追っている。互いの顔すら見知らぬ者も多々いるだろうにせよ、しかしその志は、ぶれることなくぴたりとひとつだ。──明日の平和を守りたい。家族や友人、知人、そこらの赤の他人でもいい。誰もが安心して過ごせる日々を、不完全でも愛しい社会を明日も続けていけるよう。日陰のうちに悪を下して、この戦いを乗り越えたい。
ギデオンとヴィヴィアンもまた、キングストンに帰還してからしばらくの連日連夜、私生活を投げ打っての事後処理に奔走した。山のような報告書に、何度も繰り返しの事情聴取、記憶を掘り越してのマッピング、査問会、再現見分、エトセトラエトセトラ。求められる協力をひたすらこなしつづけるうちに、会えない日々、帰れない日々も、何度続いたかわからない。
そうしてようやく、ふたりがそれぞれ帯びた使命を、一度すっかり果たし終え。少なくとも私的には、長かったヴァランガ調査を完了することができたとき。……本当はふたりで、ちょっと良いところに小旅行でもしに行って、お互いを労おうかと計画していたはずだったのだ。しかしふたりとも、いざお互いの顔を見るなり、そんな考えは吹っ飛んだ。
──帰りたい。籠りたい。一刻も早く、サリーチェの家に。
引き合うように抱き締めただけで、それがひしひしと伝わった。互いに同じ思いだった。
半年前にふたりで住みはじめた、あの麗らかなラメット通りの一軒家。今のギデオンとヴィヴィアンにとって、他でもないあの空間こそ……既に思い出がたっぷり詰まった、心安らぐ場所だったのだ。)
*
(それは、その日の夕暮れどき。聖バジリオ記念病院の真っ白な廊下にも、温かなオレンジの西日が格子状に差しこみはじめ。いよいよ他の見舞客も、ちらほらと帰り支度を始めたころのことである。
ギデオンはひとり、用があった受付からヴィヴィアンの病室に戻っていくところだった。数日ぶりの見舞いだったが、今日は随分長いこと彼女のために居ついている。その上さらにとある申請をしたことで、悪戯っぽい顔をした受付のご婦人には、何やら変化があったのをちゃっかり見抜かれてしまったようだ。こちらの何か言いたいのを自重して綻む口許に、対するギデオンのほうはといえば、なんだか居た堪れない気持ちで視線を僅かに逸らしたが。……今までと違うのは、他人のこういい揶揄うような反応に、上辺ばかりの焦燥感を抱かなくなったことだった。我ながら以前の自分に呆れるようばかりだが、それだけ自分の心境が大きく変化したのだろう。
──後輩ヒーラーのヴィヴィアンと組むようになって一年。ギデオンは最初こそ、彼女の無邪気で獰猛な好意を躱しつづけたはずだった。しかしいつしか彼女に絆され、様々な日々を共有しながら、やがて本当に憎からず想いはじめた……その矢先。あの因縁の悪魔の事件で初めて彼女を失いかけて、そこでようやくギデオンは、それまでの自分の愚かさに気がついたのだ。
あんな思いは、もう二度としたくない──故に今のギデオンは、いっそ腹が据わっている。とある聞き込みをしたことで、ギルドの連中や旧友たちには、最近おまえらいろいろありすぎてもういったい何なんだ、何が何だかわかんねぇよ、と狼狽されてしまったもの。ああ、別にこんな手合いは気にする必要もなかったのだと、そんな当たり前のことに今更のように気がつきながら、ただ淡々と質問を重ね。──その成果をひっさげた上で、今日は彼女を見舞いに来たのだ。)
……ヴィヴィアン、俺だ。
(そうして、馴染み始めた病室の戸をノックしてから声をかければ。内側からの声に慣れた様子で病室に入り、馴染みの丸椅子に腰かけたはいいものの。今日持ち込んだばかりの人気店の焼き菓子が、まだ辺りに馥郁とした甘い香りを漂わせているものだから、甘党ではない己でさえ、思いがけず腹が微かに鳴いてしまう。──そういえば、今日はいち早くここに駆け付けたかったから、朝飯もそこそこに街道の馬車に乗り込んだんだ、と。少しはにかんだように言い訳してみせながら、ふと立ち上がって傍らの棚に歩みより、鉄製の水差しを魔法盤の火にかけて。)
なあ、悪いが。
そこのポットで茶を淹れるから……今日の検査結果の話は、そいつをつまみながらにしないか。
……あっ、ええ! もちろん、……。
私の方こそ気が利かなくってごめんなさい。
( 私淹れますよ、と立ち上がりかけたのを制されてしまったその代わりに。『オ・フィール・デ・セゾン』のロゴが入った箱を手にとり、しっとり香しいマドレーヌ2つうち、焼き目が綺麗な方をギデオンの皿へと滑り込ませれば。魔法盤の前に立つ頼もしい背中にほうっと見とれてしまうのは、先程2人の関係が明確に変わったばかりだからだ。キングストンから馬車で6時間、貴重な時間を割いて来てくれた相棒……恋人、が、隣でお茶を淹れてくれている。──まだ、暫くここに居てくれるってことだよね、と。子供たちのお見舞いにでも行ってきたのだろうか。一度席を外した後にもう一度帰ってきての、ただの上司部下では有り得ない、明らかな親密さを表す滞在時間に、どこか現実味なく火照った頬を両手でもちりと抑えると。おもむろに振り返ったギデオンに慌てて姿勢を正して、簡素なティーカップをソーサーで受け。 )
──ありがとうございます。
でも、もう随分良くなったんですよ。
今日の検査で先生も退院を考えていいんじゃないかって。
( 来週の土曜日でちょうど保険が切り替わるので、手続的に金曜日かな、と付け足したのはあくまで若ヒーラーの浅慮だが。キングストンに2人で帰る。やっと果たせるその約束に退院後のことへ思いを馳せると、普段より少しあどけない印象の目尻を、更にへにゃりと柔らかく下げ。入院中は中々こうしてゆっくり話す時間も取れなかったが、キングストンに帰ればまたギルドで顔を合わせられるだろうし──……もしかして、お休みの日にもデートとかしてもらえちゃったり、して……!! なんて、桜色の小さな爪がついた滑らかな足でとたとたと嬉しそうにシーツを鳴らし、自分に都合の良い妄想に耽ったのもつかの間。本日、ギデオンが来てくれてからというもの、時に乙女らしい葛藤に苛まれながらも、ずっと楽しげにはしゃいでいた表情に少し影が刺したのは、その肝心な帰宅先、ビビの馴染みの下宿先のことを思い出したからで。それまで、御年今年で90だとは思えない矍鑠としたおばあ様が管理していた関係で、好立地にも関わらず女性限定で居心地の良かった下宿先だが。今年の春、とうとう運営を息子さんに譲ることになってから、隣の部屋に男性の入居が決まっていたのだ。未だ挨拶を交わしただけの関係で、決して悪い人物では無いのだが──そう、ごくごく健康的に肉食系な隣人を思い出して、会話に不自然な間が空いてしまったことに気がつくと。「あ、やっぱり美味しい! ありがとうございます、並んだでしょう?」と、一口サイズに割ったマドレーヌを口に含んで見せて。 )
とはいえ、暫くは安静にしてなくちゃいけないみたいなんですけどね…………いえ、随分お部屋開けちゃったからお掃除大変だろうなって、思って。
……なあ、そのことについてなんだが。
(「そんなでもないさ。暖かくなったしな」なんて雑談に応じていたが、相手が誤魔化した小さな憂いは、しかし決して見逃さなかった。せっかくの綺麗な焼き菓子、自分が言いだして出させたものに、手を付けようとしないまま。いやに真剣な面持ちで慎重に切り出して、相手がきょとんとでもすれば、丸椅子に腰かけたまま、一度きちんと向き直る。「大事な話があるんだ、」と。
──相手と恋仲に踏み切ったのは、つい数時間前の昼下がり。それだというのに、その日の夕方にいきなりこんな持ちかけに及べば、彼女を怯えさせないだろうか。何より社会的に見て、あまりにも性急だろう。四十年生きてきたギデオンの常識は、いっそ蛮行だと自ら厳しく糾弾する。そんな諸々を渦巻かせながら──それでも決して譲れない、もうこれ以上悠長に躊躇ってなどいられない。そう再三風にも考えたから、“これ”をはるばる持ってきたのだ。
棚の上に置いてある自分の革鞄から取り出し、ますは相手の手元に置いて、その目で直接見るようにと促したその紙束は。──絵具ないしは製図用インクで描かれた、建物の図面である。それも、ひとつふたつではない。広々とした間取りが売りのアパートや、前庭の緑豊かなタウンハウス、瀟洒な外観のメゾネット、ゆったりとした一軒家まで。いずれもキングストン市内、それもカレトヴルッフにほど近い立地を誇る、超優良の物件ばかり。しかも各々家賃やら、敷金礼金やら、最寄りの馬車駅への所要時間やら……そんな様々な情報が、いっそ網羅する勢いで細かく記されているあたり。これはもう明らかに、入居希望者に向けて作った、不動産屋の案内だ。
何故こんなものを、と相手に問われるその前に、再びヴィヴィアンの目を間近な距離でじっと見つめる。そのアイスブルーの瞳に込めた熱だけでも、きっと明白に語れたろうが。……他でもないヴィヴィアンから、先ほど大事だと教わったばかりだ。窓辺の夕陽に見守られながら、相手の片手にそっと己の手を重ねると。今一度、その想いをはっきり言葉にしてみせて。)
ヴィヴィアン。
──俺と、一緒に暮らさないか。
……、…………?
( もしこの時のビビの心象風景を覗くことが出来たならば、それはそれは壮大な宇宙の果てを垣間見ることが出来ただろう。一緒にって、一緒に……ああ、我々は同じ星という宇宙船に同乗している仲間的な……? と、一瞬。あまりの提案にぶっとびかけた思考を何とか地上に戻してくれば、その顔に未だ色濃い困惑を浮かべたまま、「それは、将来的に……ってこと、ですか……ね?」と。それでも、かなり気が早いとは思うのだが、比較的常識的な落とし所を見つけ問いかけてみるも。そうして絞り出した問いかけを否定されてしまえば、再び白い唇を震わせてパクパクと声にならない声をあげ。 )
あ……いえ、その、ごめんなさい、ええっと……驚いちゃって。
( そうして、それまで次の一口に進もうとしていた焼き菓子を皿に置き、思い出すのは──20代のうちに子供を産みたいとするじゃない? と、いつか同い年の魔法使いが女子会の名を冠した飲み会でクダを巻いていたうちの一言。別に、DVとまではいかなくても、なんか違うのよねって人と一生生きていくのはお互い不幸だから、子供を産むまでに最低1年は時間を設けたい。じゃあ遅くとも28には結婚するために、生活スタイルが合わなかったら困るから、また1年期限を設けて同棲したとするでしょう? そうしたら付き合った当日に同棲する訳にもいかないから、26
までには結婚を前提としたお付き合いを始めないといけなくて……とまあ、要は意外と時間が無いという、何の個性もへったくれもな年頃女の焦燥混じりの皮算用だったが。目の前の男の提案と比べれば、よっぽどマトモな考えだったと思わざるを得ない。決して嫌だというわけじゃないが、あまりにも──……もしかして何か、ビビの知らない制度的な事情とかがあるのだろうか。それに社会的な常識さえ差し置けば、大好きな相手と、そしてやはり例の下宿に帰らなくていいという安堵が、やっぱり良いかも……と。弱みに付け込まれた思考を血迷わせかけたのを、再度冷静の引き戻してくれたのは皮肉にも、2人の生活を夢見た具体的な妄想の方で。検診的な先生や看護婦さん達の丁寧な治療のおかげで今日び発作を起こすことは無くなれど、未だ免疫機能が弱っているのだろう。本日体調が優れていたのもタイミングが良かっただけで、退院後も度々ただの風邪で熱を出し、数日寝込んで相手に迷惑をかける頃を想像すれば、申し訳なさそうに頭を振り。 )
……いえ、でも、やっぱりすぐに、という訳にはいかないと思うんです。
大分回復したとはいえ……もう大丈夫、大丈夫なんですけど、まだ寝込んじゃって動けない日もあるし……
だからこそだ。そのあいだ、おまえを助ける奴が必要になってくるだろう?
友人が多いのは知ってるが……夏前のこの時期だ。皆除草依頼だなんだで、あちこち駆り出されっぱなしだろうし……仲良くしてた隣の住人だって、今は地方公演に出てるって話だったよな。
(相手の遠慮がちな声に、しかし想定内と言わんばかりの穏やかな声音をさらりと返す。……その除草依頼だなんだがどの程度降ってくるのか、だれがどれほど王都を離れるクエストに出るのか、上級戦士であるギデオンは、もちろん事前に聞き知っている。それを自分の好きなように都合する暴挙には、流石に及ばないにせよ。その代わり、話の成り行きを静観し、口を“出さない”でおくことならば、いくら重ねても問題はない。それから、相手のお隣のことだって。何かの話題についでに彼女がぽろっと言ったのを、二月だったか三月だったか、当時は軽く聞き流して終わったはずだが。この具合の良い頭は、その必要さえ生じれば、どんな些細な情報もこうしてたちまち掘り起こし、便利に引用してしまう。
愛しい相手に、嘘はつかない。だがその代わりに、ほかの手段を躊躇いもしない。別に酷くはないはずだ──事実を優しくあげつらい、相手の心もとなさを丸裸にしてやるだけで。
もしもこの場にマリアやエリザベスがいたならば、ギデオンのそんな卑怯なふるまいを、決して許しはしなかったろう。しかし今この病室に、哀れなヴィヴィアンは当の己とふたりきり。故にこちらは、じわじわ布石を配しながらも、焦る必要がどこにもない。その腹のうちを気取られぬよう、あくまでごくのんびりと、寛いだ様子を見せながら。相手の手元にある資料に触れ、それにもう一度軽く目をやるふりをしてから、今度は再び相手を見遣る。──急な誘いに竦んでいるなら、今度は少し距離を置き、安心させればいいだろうか。いかにもしおらしく引き下がると、それでも酷く名残惜しそうに、強請るように首を傾げて。)
何も、すぐに引っ越そうってわけじゃない。退院した後、おまえの体調が落ち着くまでは、ゆっくり様子を見るべきだろう。
……それから、おまえの気が向かなかったら、やっぱりやめると言ってもいいんだ。いつだっていい。おまえが嫌だと思うことを、無理強いすることはしない。
……だが、別にそういうわけじゃないのなら。そうだな、ほんの試し程度に、物見遊山で……行ってみないか。
…………ギデオンさん、
( 手練手管をこまねいて、用意周到に逃げ道を潰しにかかったギデオンの脳内で、この時ビビはどんな反応をしたろうか。あげつらわれる不安要素にか弱く怯え、素直にその腕の中に堕ち往くか。それとも手強く強硬に突っぱねたろうか。しかし、根本からしてギデオンを疑うという機能が未発達なヴィヴィアン本人はと言えば、ギデオンの『だからこそだ』という言葉に、大きな瞳をぱちくりさせたかと思うと。丁寧に並べたてられる"まるで自分事のように真剣に、ビビのことを考えてくれた言葉達"に、次第にもじもじと顔を赤らめ出して。尚も重ねられる"優しい思いやり"に上半身を乗り出すと、太い首に腕を回して力いっぱい抱きついて。 )
嫌なわけないです!!
こんなに真剣に考えてくださるなんて……嬉しい、
ありがとうございます、大好きです!!
( そっか、ギデオンさんは忙しいから、私の部屋まで看病に来るのも難しいもんね、という盲信は傍から見ればツッコミどころ満載だろうが。束の間の戯れを楽しみ、ゆっくりとベッドに腰を下ろせば、るんるんぽやぽやと時折、「えへへ」と締りのない笑みを漏らしながら改めて書類を眺めて。──ここはお庭が広いんですね、だとか。キッチンからリビングが見えるの素敵! だとか。賃料や共益費、その他諸々の雑費等の月の予算を正確に読み取ることが出来れば、元々白い顔から更に血の気を失せさせたろう物件たちを楽しげに眺めているのは、ただ単純に読み方がわかっていないだけらしい。途中から相手の肩にくたりと凭れて、ギデオンの補足説明に耳を傾けること暫く。久しぶりにはしゃぎすぎたのだろう、少し眠そうに熱い掌を相手のそれに重ねれば、少し掠れた小さな声をギデオンに聞かせる気があったかは微妙なところで。 )
行ってみたい、けど、本当に甘えちゃっていいのかな……
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