匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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……、ああ、もちろん。
(しゃくりあげながらの問いを聞き取り、気遣わしげに相手を見遣る。普段の明るく溌溂とした彼女からはほど遠い、見るだに痛ましい泣き顔、砕け散りそうな涙声。しかし、それでもヴィヴィアンが、その細腕をおずおずと広げるならば。……震えながらも、咽びながらも、気丈な構えを自らほどき、こちらを求めてくれるのならば。
僅かに見開いた双眸を、ふ、と和らげ。──大きく抱き寄せ、包み込む。ぎゅうぎゅうと強く、優しく絞めつけるのは、ギデオンなりの表現だ……まだぐらついていい、すぐに落ちつけなくていい。俺がこうして、外側から支えてやるから、と。)
……ヴィヴィアン、おまえは悪くない。何ひとつ悪くない。
だから、怒るのも、悲しむのも、ごく当たり前のことなんだ。
絶対さ……俺が保証するとも。
(──惨いことだ、と切に思う。暴行された、という事実だけで充分辛い仕打ちだろうに……自分の尊厳を傷つけられた、それに対する怒りというのは、決してただでは抱けない。深い悲しみ、身を切るような屈辱、こんな目に遭わなければならなかった理不尽へのやるせなさ。そういったものの上に、震えながら立って初めて……自分を傷つけた経験や相手に、ようやっと立ち向かえるのだ。その心細さと言ったら。
ヴィヴィアンがこうして竦んでしまうのも、無理からぬ話だろう。聡明な彼女は、真理に辿りつくまでが早く……それに気持ちが追いつかないのも、その隔たりに狼狽えるのも、当然の現象である。──だが、そういったときのために、こうして近しくなったのだ。「役に立たせてくれ」と、冗談めかして囁きながら、愛しい栗毛をひと房すくい、そっと唇を押し当てる。それで少しは宥めてやれただろうか、或いはいつかの晩のように、場所が違うと云われただろうか。いずれにせよ、穏やかなまなざしを相手に向けていたかと思えば。その濡れた頬に軽く手を添えた流れで、小さな顎を促すように上向かせ。──冬の夜気に冷えた唇を、ごく軽く触れ合わせる。二度、三度……四度、或いはそれ以上。ようやく口先で戯れるのをやめた頃には、もう外の喧騒など、ほとんど耳に入らない。ギデオンの全てを向けるのは、ただただ目の前のヴィヴィアンひとり。こつんと額を合わせれば、そっと相手に尋ねてみせて。)
…………。
気分は、どうだ……少し、落ちついたか。
( ──あたたかい、いたくない、こわくない。肺の空気が抜けるほど長く、力強い抱擁に瞳を伏せると。まるで、身体の震えを力づくで止めるかの如く抱きすくめられ、このうっすらとした酸欠が、自分を襲った男のこと、仲間のこと、依頼のこと、村のこと、レクターのこと……考えても今更どうしようも出来ない、しかし考えずにはいられない散らかった思考を諌めて、暖かな腕の中、強ばっていた身体を素直に厚い胸へと甘えさせてくれる。他でもないギデオンが一言、泣いても良いのだ、傷ついても良いのだと認めてくれたそれだけで、これまでずっと直視するのを避け続けてきた心の傷がすっと軽くなり。泣いて、泣いて、その溢れる涙も枯れ果てた頃。明日をも気にせず泣きじゃくったヴィヴィアンの顔は、あちこち真っ赤に腫れ上がり、まったく見られたものじゃないだろうに。弱っている娘を負担に思うどころか、濡れた頤をなぞるギデオンの瞳が、心底愛おしいものを見るように、優しく細められるものだから。 )
……こんなにされたら、落ち着けない
( そう耳元や首筋など、涙で擦っていない場所まで赤く染め上げると、恥ずかしそうに未だ甘い感触の残る唇へと触れると。ぎゅっと再度腕をまわして、「落ち着いたって言っても、今晩は……明日も、ずっと一緒にいてくれるんですよね」 と。──先程の声は聞こえていたと、ちゃんと届きましたと伝えるように。心底安心しきった様子で、小さくはにかむ表情からは、今晩植え付けられた恐怖は薄れ、疲れきったエメラルドには眠気が滲んでいた。しかし、そうしてしばしの微睡みに落ちていったかと思えば、息も荒く飛び起きて。その度に、声もなく啜り泣きながらギデオンに縋り付き、再度浅い眠りにつくこと複数回。質の悪い睡眠に顔色を悪くしたヴィヴィアンの眠りを──ギシリ、と再び妨げたのは、扉の方から響いた人の気配だ。いつの間にか夜が明けていたらしく。とはいえ、ビビが消さないでと強請った燭台の他、堅牢な雨戸から差し込む光の角度から見るに、時刻は未だ早朝と言い表して構わない時分。そんな非常識な時間の訪問者に、浮腫んだ顔をギデオンと見合わせれば。しかし、必要よりそれ以上に警戒心を表さなかったのは、その気配からは、昨晩の男のように己のそれを消そうという意図が見られずに。どちらかと言えば、此方へと声をかけようかどうか迷っているような、扉の前でうろうろと、優柔不断な往復を繰り返しているだけに感じられるそのためで。結局、こちらから動かねば変わりそうもない状況に──……流石に、ビビは未だ扉を開ける勇気はなかったが。結果的に、内側からその扉が開け放たれれば、その向こうにいたのは浅黒い肌をした黒髪の少年。後ろ手に花束を抱えているらしい彼は、自分の倍も背丈のありそうなギデオンを見るなり、逃げようかどうしようかと言った様子で赤い花弁を見え隠れさせると。意を決したように息を飲み、「あの、俺、お見舞いに……姉ちゃんが"病気"だって聞いて……!!」と、どうやらフィオラ村は昨晩の事件をそう片付けたらしい。「姉ちゃん昨日妹たちと遊んでくれてたろ……」ともじもじ俯く少年は、素直にその話を信じたのだろう。「本当はいけないんだけど、"花"を見たら元気になるだろ……?」と気丈に言い募ると、その中心の"がく"まで赤い花をぷるぷると差し出して来て。 )
(──フィオラ村での第二夜は、浅く断続的だった。ヴィヴィアンが悪夢に囚われて飛び起るたび、隣にいるギデオンもまた、つられて自然と目を覚ます。しかし、苦に思うことなどなかった。まっすぐこちらを頼る彼女に、己の体温を貸し与える……それは、ギデオン自身が何より望んだことだからだ。
少しのあいだ宥めれば、ヴィヴィアンはまた、ほんの少しだけ安心したような様子を見せる。そうして、目元を濡らしたまま、再びしばらくの眠りに落ちる。そんな姿が、酷く痛ましくも愛おしく。彼女が寝息を立てはじめてからも、そのまろい額に唇を触れたまま、しばらく背中をとん、とん……と、幼子にするようにあやしてやった。そして時には、薄闇のなかで青い瞳を光らせたまま、ギデオン自身は寝つかないことも多かった。少し考えたかったのだ……この、異様な村に来てからのことを。
フィオラ村は、およそ200年ものあいだ、陸の孤島だった場所だ。当然、王都暮らしをしているギデオンたちにしてみれば、大きな隔たりはあるだろう。大昔の田舎の村の感覚のまま、若い娘に夜這いをするような風習が、残らないでもないのだろう。──だが、それにしては妙だ。生活実態が釣り合っていない。全てが自給自足であるなら、あんなに多くのタペストリーや、夜市での春画本、それにあれだけの料理など、こさえる余力があるだろうか。記録にあるフィオラ村は、狩猟をなりわいにしていたはずだが……農耕、石工、紡績、養蜂と、多岐に亘る産業が随分豊かであることを確認している。だが、大して人口のない村で、いったいどうやって技術を肥やしてきたというのだ? これではまるで、他の田舎の村とそう変わらぬどころか、それより豊かではないか。
そしてその割に、あの時代遅れな感覚だ。生活は富んでいるくせに、倫理観だけは孤島のそれそのままで、外部の影響が流れ込んだ様子がない。ギデオンが殴り飛ばしたあの男は、むらおさクルトに治療されながら、何度も声高に言い募っていた。──「“愛の夜”のはずだろう!」と。祝祭の第二夜は、成人した男女が皆豊かに交わる夜。なのにそれを阻むとは、あの男は正気なのかと、ギデオンに対し、怒りだけでなく……本気の当惑を顕わにしていた。……ギデオンはエデルミラを捜す間、ヴィヴィアンの眠っている家に、防衛魔法をかけていたが。それを強引にこじ開けたのに(彼はこの村の魔核を管理する魔術師のひとりだったらしい)、罪の意識などないらしい。それどころか、あれすらもまた、「なんであんなことをした!?」と、寧ろこちらを咎める始末だ。
クルトとあの蛭女だけは、男の言い分に反応を見せなかったものの。寄り集まっていた他の村人たちは、彼に全くの同感だったようだ。幾つか囁き声が聞こえた──ほら、やっぱり。“御加護”がないよそ者は、“愛”を忘れてしまうんだわ。皆で分かち合うことをしない、なんて冷たい業突く張り。きっと“病気”が進んでいるのよ……。
どうやらフィオラにおいては、食べ物も、男女の肉体も、“分かち合う”のが至上らしい。よそ者の冒険者たちに気持ちよく晩餐を振る舞ってやったように、冒険者たちが“持っている”若い女の体もまた、村に還元されるべきと考えているようである。そしてその考えにないもの、あろうことか反発する者は、真っ向から異常者扱いされる。──しかしなあ、悪いが、俺たちの故郷じゃそれが常識になってるんだ、と。あの斧使いがどうにかとりなしてくれたおかげで、あの場はどうにか治まった。ヴィヴィアンを襲った男と、彼に暴力を振るったギデオン、どちらの罪も手打ちにする、そういう方向にするらしい。
そう取り決められたところで、エデルミラがやっと帰ってきた。見るからにおかしな様子だ、やけに目を見開いて、息も激しく荒げている。すわ何事か、まさかおまえまで──と、周囲の冒険者が尋ねるも。彼女はただ周囲を見るばかりで、何ごとも答えない。かと思えば、不意にクルトをまっすぐ見つめて、「聞きたいことがあるの、」と言いだした。何か別件の、気がかりなことがあるのだが、それはクルトに個人的に確かめたいのだそうだ。──ここでもまた、強烈な違和感が働いた。大型ギルド・デュランダルの女剣士エデルミラは、仮にも総隊長である。複数のギルドの冒険者たちを束ねる、責任ある立場に抜擢された才媛であり……いくらこの村ではそう看做されないからと言って、職務放棄をするような人物ではないはずなのだ。しかし、明らかに言い争いがあったとわかるこの異様な現場に飛び込んで尚、彼女にはそれが見えていないようだった。今は背後の家で休ませているため、この場に本人がいないのもあるが、ヴィヴィアンのことを思いだすそぶりすらない。エデルミラもまた、この村に来てから、だんだんおかしくなっている……その場にいる冒険者たちは、誰もがそう感じていた。
しかしギデオン自身は、今はその件に取り合わないことにした。隊のなかでは自分もベテランの部類であり、責任を受け持つ立場にある。しかし今夜ばかりは、それよりも優先すべきものがあるのだ。──王都から出向したヒーラーがクエスト先で被害に遭って、今後の活動に支障をきたす恐れがある。ならばそれをフォローするのは、彼女の相棒であり、仕事上は上官ともなる、ギデオンの役目だった。私情だけの判断というわけでもない……それを、あの斧使いも汲んでくれたのだろう。目配せをすると、さりげなくも力強く頷いてくれた。今は俺たちがこっちをやる。おまえはそっちを、嬢ちゃんを頼むぜ。俺たちを治してくれるヒーラーが弱っちまったら──パーティーは、全滅もんだ。)
(──そうして、それから数刻後。ヴィヴィアンを宥めながら浅く眠っていたギデオンは、しかしふと覚醒した。今回は、すぐそばの彼女が悪夢に魘されたせいではない。この気配は、部屋の外からするものだ。
軽く身じろぎして隣を見ると、夜明けの薄明りのなか、大きく目を開けているヴィヴィアンと目が合った。この気配の主は、そう悪意のある輩ではなさそうだ……と、彼女もまた、冷静に察知している様子である。しかし流石に、すぐ身動きをとることはできないらしかった。大丈夫だ、と安心させるように肩をさすってから、大きく身を起こし、扉のほうへゆっくりと歩む。魔剣は持たなかった──持たなくていいと考えた。音の軽さからして、この不意の訪問者に見当がついていたからだ。
はたして、ギデオンが出迎えたのは……やはり、フィオラの子どもだった。年の頃は十一、二くらいだろうか。そう射竦めたつもりはなかったが、ギデオン相手に、一瞬怯えたような顔をしたものの。しかしそれでも、部屋の奥をちらと見れば、その顔つきがまっすぐな、覚悟の決まったものに変わった。そうして──お見舞いをしに来たんだ、と。それでこわごわ差し出すのが一輪の花と来たものだから、そのあまりに無垢な思いやりに、思わず毒気を抜かれたような顔を晒す。実際、抜かれはしたのだろう──真夜中に目の当たりにした村の大人どもと、まるきり違うではないか。
直接見舞わせてやりたいところだが、ヴィヴィアンはまだ本調子ではないだろう。「おまえの言葉と一緒に、ちゃんと渡しておく。ありがとうな」と、花の茎を受け取りながら、その黒髪をくしゃりと撫でる。途端、少年はほっとしたように歯の抜けた笑みを浮かべ。「あの! 匂い、花の匂いを吸うと、“病気”が良くなるんだ。姉ちゃんにそう教えてやって!」……などなど、懸命に言い残してから帰っていった。外に出てからは足音を立てないようにしていた辺り、きっと本当に、内緒の善意でここにやって来てくれたのだろう。
扉を閉め、部屋の奥に戻り、ヴィヴィアンのベッドの傍らに腰を落ち着ける。そうして彼女に、「あの子からのお見舞いだとさ」と、その目が醒めるほど真っ赤な花を手渡した。華奢な肩をゆったり撫でさすってやるのは、“俺以外にもおまえの味方がいたな”“この村にも、おまえを想いやってくれる奴はいるんだ”、そう伝えたくてのことだ。
しかし、やがて少しずつ増していく光量のなか。昨日の昼下がり、あんなにも花畑にいたのに、この花に見覚えがないこと……そしてそれどころか、何か妙な気配がすることに気がつくと、ふと軽く眉を顰めて。)
あの子の話じゃ、病気を癒す花らしい。祝祭の最終日の儀式にも使うとか……
…………。………………?
まあ……、……?
とっても綺麗…………
( 振り返ったギデオンから、花を受け取ったヴィヴィアンもまた一瞬。その妙な違和感に首を傾げてはいたのだが、ふと表情が変わったのは、曰く香りに効能を持つらしい花をまじまじと観察し、その切った根元から滲む水分や、花粉に触れ、その成分に致命的な刺激がないことを(彼を疑うわけではないが、素人にとっては見分けが難しいものだ)確認した後のことだった。睡眠不足による判断力低下だけでなく、無垢な好意への油断もあっただろう。未だ薄暗い部屋の中、まるで発光しているようかのような赤い花弁に鼻を惹かれて、その甘やかな香りをたっぷりと吸い込んだその瞬間。それまで燻っていた違和感がぼんやり消え失せ──とはいえ、あくまで初めて見た花に対する、自然な範疇を逸脱しない感動に、うっとりと目元を細めれば。優しく撫でてくれるギデオンに、手の力だけで擦り寄ると、その程よく筋肉の付いた分厚い肩に丸い頭をそっと委ねて。
今この瞬間、ビビを力付けたのは無垢な少年には違いないが、その優しさを受け取れるほどまで回復させてくれたのは、他でもないギデオンの献身によるものだ。昨晩の事件から初めて、やっとその表情をほころばせ。人懐こく、触れた頭をくしゃくしゃと擦りつければ。エデルミラ不調の中、代理でクエストを先導すべきギデオンが何故、こうも付きっきりでビビの面倒を見ていられたのか。──聞けば当然、ギデオン本人はヴィヴィアンのためだと答えるに違いないのだが。それに甘えて、ヒーラーとして、冒険者として、求められているものへと気づかなければ嘘だ。昨晩はこの村自体へ恐怖を覚えていたヴィヴィアンだったが、どこの国でも、時代でも、子供というのは無垢で、何物にも染まっていないまっさらな存在だ。ビビ達現代人から見た"常識"を、この村に一方的に押し付けるのは間違いに違いないのだが。これから、否応なく外部との交流に巻き込まれていくだろう彼らが、酷く衝突し摩耗することくらいは防げるかもしれない。そうして、それまで色濃い疲労を滲ませていたエメラルドを、強い意志に輝かせると、「とってもいい香りですよ、」なんて、未だ少し震える指をギデオンに絡ませ、近づいてきた顔に花の影でキスを強請ったのは、もう一度踏み出すための最後の勇気を分けて欲しかったためで。 )
ギデオンさん、昨晩はごめんなさ……ありがとう、ございました。
この子にもお礼がしたいんですけど……その、ついてきていただけませんか?
(ヴィヴィアンのうっとり安らぐ様子を前に、そっと無言で……いつもどおりの寛いだ顔を被り直す。何も偽るつもりはない。春の雨の日のあの教訓、違和感を見過ごしたせいで大惨事になった記憶を、そう易々と忘れちゃいない。さりとて、あの少年がくれた花を何だか妙に感じたところで、ギデオンのそれは所詮勘である。半面、プロのヒーラーであるヴィヴィアンは、自分自身の専門知識とよくよく照らし合わせることで、きちんと安全を確かめているのだ。その上で、村の子どもの思いやりに救われているのなら……昨夜のあの事件の後なのだ、水を差したいわけもなく。どうせ後で、念のため程度に調査をするつもりでいるのだ。それまでの間、自分が密かに気をつけておけばいいだろう。
故に、相手のおねだりに、甘く穏やかなまなざしを注ぎ。「もちろんいいさ」と返しながら、長い指を絡め直し、その震えごとぎゅうっと包む。朝日の差す中、白い漆喰の塗られたフィオラの家屋の寝室で、今この時間はふたりきり。けれど、一度ここを出たなら、またしばらくは職務を第一にせざるを得なくなるだろう……ヴィヴィアンもそれをわかっている。だからこれは、お互いのためのお守りなのだ、と。)
だが、依頼の報酬は……全部前払いで頼む。
それ以外は……ん……受け付けないぞ……
(──そうして。甘い甘い先貸しを、心行くまでたっぷりと堪能してから……四半刻。さっぱり装いを整えたふたりは、村の広場に顔を出してから、西側にある農場に足を運ぶことになった。
今は祝祭の期間ということで、炊事周りの労働は手出し無用とされている。だから代わりに、井戸水を汲んだり、薪を割ったり、或いは祝祭に関係なく、家屋の修繕に必要な医師や丸太を運んだり……そういった労働をこなして村に奉仕をするというのが、滞在中の務めであった。とはいえ、後の事件があった今は、ギデオンはできるだけヴィヴィアンとともに動きたい。それを踏まえて、今朝はふたりとも、村に幾つかある家畜小屋のひとつを掃除することになったのたった。新米冒険者がよく駆り出される手軽な依頼と同じと思えば、なんだか懐かしいものである。
「アンバルにシジェノを運び入れておくれ……」。ふたりに仕事を命じたのは、この辺りの古い小屋を管理しているらしい、しわくちゃの老人だった。太陽に焼かれた肌は濃い褐色でしみだらけ、数百年物の樹皮のように皴が多く、とうに足腰が曲がっている。数歩歩いてもひと息つくほど衰えている様子だが、それでも仕事をやめようとはしない。ギデオンもヴィヴィアンも、その姿に敬意をもって、積極的に手伝いをしつつ、彼の領分を侵さぬように心がけた。老爺が頻繁に使う聞き馴染みのない語彙は、どうやら村の古語らしい。最初こそ少し困ったが、やがて身振り手振りや雰囲気から、だいたいの意味は汲み取れるようになった。──だからこそ、わかりたくなかったものもある。「あれはおまえのココシュカだろう」。雌鶏たちに餌をやるヴィヴィアンを眺めながら、椅子に座った老人がそう話しかけてきた。ギデオンは、熊手片手に一瞬だけ考えた後、言葉が通じないふりをして聞き流すことにしてみたが。それでも、尚も老人は続けた──「良いヤヤを産みそうだ。産めるだけ産ませておきなさい……」
──さて、その長寿の老人曰く。祝祭三日目を迎える今日は、ラポトと呼ばれる特別な儀式を行うことになるという。詳しいことは掴めなかったが、今朝の村人たちがモロコシ粥を煮ていたのは、それに使うためだったらしい──そういえば、無邪気につまみ食いを挑んだ子どもが、とんでもない剣幕で叱り飛ばされているのを見た。「お前たちも来なさい」と、そう呟く老爺の顔が、どこかおかしな無表情に見えたのは気のせいだろうか。「おまえたちこそ来るべき儀式だ。ヤヤがなくては……意味がない……」。
老人の謎めいた言葉に首を傾げつつ、ふたりで農場を引き払い。朝食にあずかった後は、儀式が始まるその時間まで、冒険者としての本分……この辺りの様々な調査へ、各々乗り出すこととなった。ギデオンとヴィヴィアンは主に、自生している薬草の確認だ。今後の調査でどんな物資を現地調達できるかという、地味だが欠かせぬ任務である。レクターを通じて事前に禁足地帯を確かめ、問題のない箇所を、ヴィヴィアン手動で見て回る──その前に。相棒の望んだとおり、例の少年を探そうか。皮革の鎧に魔剣という、いつもの戦士装束に着替えてから、村の周囲を見渡して。)
あの子ども……具合が悪そうな様子じゃあなかったんだが、昨日の昼も、今朝の朝食でもいなかったはずだ。
……同い年のやつらに聞いてみるか。
ありがとうございます……そう、ですよね!
この時間帯だったら……
(「おにいちゃん?」「お兄ちゃんはすごいのよ」「すごいの!」「“えいゆう”になるんだから!」「なるの!」──美しい金髪を太陽の光に反射させ、その青い目をキラキラと輝かせる彼女たちの存在は、その時のビビにとって、まごうことなき天使に見えた。自ら少年にお礼をしたいと言ったのだ、いつまでも人の多いところは気乗りしないなどと言っているわけにもいかないだろう。そう頭では分かっていても、戦士装束を纏ったギデオンの提案に、気後れしそうな心を奮い立たせようとしたその瞬間。小さく袖を引かれた感覚に振り返れば、そこにいたのは昨日の小さな少女たちだった。自慢の兄の居場所を聞かれると、「今日は“お花畑”に行ってるの!」と屈託がないのは妹の方だ。今日も本当は、ビビを誘いに来てくれたらしい頭に乗る冠には、やはり今朝の花は見当たらない。未だ“ひみつ”の概念が難しい妹の一方で、少しは分別がつくとはいえ姉の方もまだまだ幼い。妹の暴露にわたわたと口を押えながらも──ビビだから、特別よ? と、此方を自然とかがませて。その耳元に顔を寄せると、(潜められていない声はギデオンまで筒抜けだったが。)神妙な調子で教えてくれたのは、ここの村民たちにとって特別な“花”の存在だった。──目覚めるような鮮赤が美しいその花は、この村の名前にもなるほどフィオラの民にとっては大切な、村の始まりから共に歩んできた象徴らしい。今朝の彼はその特別な花だけが咲き乱れる花畑で、数日後に迫った儀式の準備があるのだという。それから二、三やり取りした後ビビが、ごめんね、今日は遊べないのと断ると、少ししょんぼりと頭を下げながらも、「ばいばーい!」と小さな手を振って離れていく姉妹を見送り。無言で隣を見下れば、最早言葉を交わすまでもなく。無言でふたり、速足で向かうのは花畑……ではなく、一昨日から寝泊まりしている例の家屋だった。 )
( ビビ達が勇み足で村を通り過ぎるその間。何人かの村民とすれ違ったが、誰もかれも昨晩の騒動を知らぬわけがないというのに、その挨拶の穏やかなこと。本来、上役が沙汰を下したところで、個人間の感情面では摩擦が残るものだが、急いでいる今、特別煩わされないのは寧ろ有難い。──これが勘違いならばいい。文化や価値観の違いによる衝突はあれど、フィオラの民は基本的に余所者である冒険者たちに友好な態度を見せていた。その上、自らの所有物という概念が薄く、良くも悪くも全てを分かち合わんとする彼らが、それでも決して共有したがらない特別な“花”。病をも直すとされている貴重な“花”、もしその本物を持っていると知られたら。そんな脳裏を占める厄介ごとの予感に、急いで戻ってきた二人を出迎えたのは──……例の家屋の出入口、その土台の隣でひっくりかえって悶える変人教授その人だった。 )
レクターさん!!
どこか……ひゃっ!? ど、どうされたんですか……?
( 思わず駆けつけたヴィヴィアンの腕の中、それまで呼吸も荒く倒れ伏していたレクターはしかし、その視界にギデオンを捉えた途端。勢いよく立ち上がったかと思うと、「いや、」「ちがう」「これは……」と、しどろもどろに後退り始める。その勢いといったら──ガツンッ!! と。自ら背後の大木に勢いよく後頭部を打ち付けた衝撃で、力なく地面に倒れ伏すほど──などと。あまりの奇行に一瞬あっけに取られてしまったが、冷静に状況分析をしている場合ではない。今度こそ完全にのびているレクターに慌てて駆けつけ、その胸元を緩めようとしたビビが、「……? ……5015年版、エ“ッ、本物!?」と、素っ頓狂な声を漏らして。しまった、といった調子で口元を押さえると、ゆっくりとギデオンを振り返り、恐る恐るといった様子で指さしたのは一枚のブロマイドだ。スターである冒険者たちの技がみられる! と当時の子供……もとい、大きなお友達をも魅了したマジカルブロマイド。当然その危険性から一瞬で発禁となった幻のそれを後生大事に抱えていた教授が、目を覚まし。「の、覗きじゃないんだ!」と「信じてくれ! ほら!! 僕はあの足跡をアッ!?」と、自ら推しの足跡にすら興奮する(興奮してたんじゃない、足のサイズが知りたかったんだ!と弁明していた、それはそれでどうかと思う。) 熱狂的ファンだということを本人の前で白状し、顔を真っ赤にして泣き出すのは数分後の話。)
(──ブロマイド文化。ギデオン自身はほとんど興味を持たないそれは、しかしこのトランフォード王国において、大人気を誇る一大ジャンルだ。その興りやら、冒険者ギルドにもたらしてくれた特殊な経済効果やら、かつて爆発した“マジブロブーム”やら、その急激なアングラ化やら……。その辺りについて触れると、レクター以外の社会学者も数人はすっ飛んでくるほど奥深い話になるので、今は一旦省くとするが。とにかく、発禁処分を受けたはずのそれを護符が如く所持する以上、レクターは正真正銘、“マジブロコレクター”のひとりである。そしてそれだけでなく、いや尚恐ろしいことに。……“魔剣使いギデオン・ノース”の、強烈なファンらしいのだ。若い娘ならいざ知らず、三十路を越えた、この大男が。
むろん、憧れや信奉、愛好といった感情に、老若男女の垣根などない。これが稀代の天才アイドル、大人気冒険者のカーティス・パーカーであったなら、ギデオンとは全く違う反応を示してみせたことだろう。齢三つの幼女から、百七歳の老爺まで。輝く笑顔で万人を魅了するプロにかかれば、レクターを拒まぬどころか、“ファンサ”でしっかり応えてみせて、自分を“担当”してくれるファンを、ますます惹き込んだに違いない。──だが、しかし。)
……まさか、おまえ。そっちの気でもあるのか……
(「──違うんです!! そういうのとは違うんです!!!」。日焼けした肌の学者らしからぬ大男が、真っ赤な顔で悲鳴のように言い募っているというのに。対するギデオンの面ときたら、若干後ろに仰け反りながら、露骨なドン引き面であった。
──ギデオン・ノースという人間は、実務畑の生真面目男だ。“推し活”だの“布教”だの、そういった概念とは、四十年間ほとんど無縁で生きてきたようなタイプである。それこそ若い全盛時代は、寄ってくる女に応えて、例のマジカルブロマイドにサインをくれてやったりもしたが……主に魔獣駆除業者である自分たちが持て囃されるのが、正直なところよくわからずに。ほどなくして、有名人と寝たいだけの貪欲な女たちが近寄るようになってくると、“ファンサ”行為は敬遠し、アイリーンやアンといった信頼できる女たちのところへ引っ込むようになっていった。これがジャスパー辺りになると、嬉々として威張り散らし、ギデオンが身を引いた分の人気も逞しくぶんどっていたが。まあこれに関しては、適材適所というやつだろう。
とにかく、ギデオンからすれば、レクターの奇行も動機も、理解の範疇を越えているのだ。女ならまだわかりはするが、これが大男となると、いったいどういった動機でもって、野郎のブロマイドなんぞ大事に抱えているというのだ。俺の尻でも狙っているのかと考えるほうが、おぞましさには変わりないが、よっぽど理解しやすいのである。「違う、違うんだあ、そういうのじゃないんだあ……」と。地に伏し泣き啜る哀れな学者の泣き言を、相棒が優しく寄り添いながら聞きだすに。……どうやらレクターは本当に、ギデオンのことをただ崇め立てているだけらしい。足のサイズを知りたいというのも、本人が万物に向ける好奇心の延長のようだ。
……なんとなく、自分の幼少期に一世を風靡していた音楽隊を思い出す。4,980年代後半から90年代にかけて、国中の若者を虜にし、その後多くの音楽シーンに絶大な影響を与えた、茶髪の青年四人組。その人気は大きな社会現象になり、彼らが踏んでいった後の芝生を毟り取っては感涙する女性までいたとか、そんな話まで伝わっている。「そうです、まさにあれですよ──自分にとっての神が踏みしめた土、転がした石、呼吸した大気、手を触れて開けたドア! それがどんなに尊いものか!!」大きな腕を振り回して熱弁するレクターを前に、若干の理解を進めかけていたギデオンは、しかし強烈な頭の痛さにくらくらと目眩を覚えた。無理だ、俺には理解不能だ。
ついさっきまで、少年がヴィヴィアンのために花泥棒を侵した問題で、酷く深刻になっていたというのに──……なんだ、いったい何なのだこれは。とりあえず、本人は酷く恥じ入っているようだし、もういっそ捨ておいておけばいいだろうか。そう諦めをつけようとして、ふと何気なくそちらに視線を投げかけた瞬間、しかしぎょっと目を瞠る。今まであまり直視せずにやり過ごしてきた例の“マジブロ”に、信じられないものが映っていた。──当時寝ていた女、例の魔法使いのエマと、その女友だちだ。魔法がかかっているのだろう、姿絵の主題である若い頃のギデオンに、時折後ろから細腕を絡みつけるようにして抱きつき、ふたり揃って絵の外に出て行って、また入って来て……を繰り返している。これは当時、彼女らも彼女らで各自ブロマイド化しており、あくまでもコラボ展開として意図されたものであるのだが。当のギデオンは勿論知らない──知らないが、この女たちと寝たことだけは記憶に一応残ってはいる。その相手をまさか、今の恋人であるヴィヴィアンの目に、触れさせたいわけがあろうか。
不意にヴィヴィアンを脇にどけさせ、レクターに顔を突き合わせたかと思えば。「レクター、言い値で買ってやるから、そいつを今すぐ俺に寄越せ」と、息巻くようにとんでもない事を言いだす。“推し”の顔面が接近して一瞬気を失いかけたレクターは、それでもそれを聞くなり必死に気を奮い起こし、「駄目です──これは僕のお守りなんです、幾ら積まれても渡せません!」と、気丈にも言い返すも。今度はギデオンがその胸倉を掴んで脅しつけるものだから、レクターが再び「アアアッ!?!?!?」と顔を赤らめる、酷く珍妙な恐喝となって。)
…………。
( 一人は真っ赤になって泣きながら、もう一人は怒髪天……というより、これは焦燥だろうか? とにかく余裕のない表情を浮かべては、平均よりも体格の良い男が二人、至近距離で額を付き合わせている光景を見せられて。さらりと除け者にされたビビといえば──絶対にうちのブロマイドは見つからないようにしよう、と。レクターのそれに比べれば囁か極まりない、けれど大切にしまい込んだコレクションに想いを馳せて、薄情にも堅い決心をひとり、強く心に決めていた。
とはいえ──本人は認めたがらないだろうが。そもそもギデオンのファンは(ジャスパー程ではないものの)男性も多い。今でもコアなファンはいるし、それこそもう十数年前は若い女性が多かったに違いないが。過去の浮名とは裏腹に、堅実で質実剛健とも言える仕事ぶりは、同年代や少し年下の同性にウケが良く。冒険者ファンとまではいかずとも、好きな冒険者を問われれば、うっすらとギデオン・ノースの名を上げる壮年男性は多いものだ。──レクターは……まあ、その中では少し熱心な方ではあるようだが。半分気を失いかけながらも、健気に宝物を守ろうとするその姿が、同じ人を愛するよしみか、どうにも可哀想になってしまって。仕方なく、「おふたりとも一旦落ち着いて……」とやんわり分け入ったタイミングが最悪だった。
いくら体格が良いとはいえ一般人のレクターが、プロであるギデオンにいつまでも抵抗できる訳がなく。必死に抵抗していた拳から、ひらりと件のそれが落ちたかと思うと。ひらりひらりと男共を弄ぶかの如く風に乗り、ちょうど間のビビの手元に収まる。──そもそも数あるうちに、この手のブロマイドがあることは知識として知っている。「…………そういうこと、」と響いた呟きは、あくまでギデオンの奇行への納得でしか無かったのだが、後ろめたさのある人間にはどう響いただろうか。 )
──誤解だ。
(滅却すべき証拠品が、よりによってヴィヴィアン自身に渡ってしまったその瞬間。ぴたりと止まったギデオンは、即座にス────ンと真顔に陥り、かと思えば口を開いて、淀みなくそう言い切った。その様ときたら、元が精悍な顔立ち故に、如何にも誠実そうである。しかしその分なんというか、アレというか。……窮地に追い込まれた時の詐欺師なりスケコマシなり、そんな連中を思わせること請け合いに違いなく。
背後の大柄なギャラリーも、どうやら同感だったようだ。「エッ!? アレって確か当時のパフォーマンスじゃ、まさか本当にかんk──」と。よく通る甲高い大声を無理やりにでも遮るように、完全ノールックの雷魔法を後ろ手に、バリバリと派手に叩き込む。どうと倒れるレクターの巨躯、しかしそれには全く構わず、相手にもまた構わせず。一度軽く居住まいを正したかと思うと、続きの何事かを言いかけて──ふと口を噤み、俯く。片手を顔付近に持っていったのは、深く深く尚深い眉間の皴を、指先で強く揉みほぐすためだ。そのまま「……」と、いつもの無駄に様になるポーズでしばらく考え込んだかと思えば。ふっとまた、いやに澄みきった顔を上げ、口を開こうとして、しかしまたすぐ言葉に詰まる。「…………、、」と、微妙に下りる長い沈黙。気まずいことこの上ないのに、打開する策が浮かばない。……そのまま顔を逸らしてだんまりを決め込みはじめた辺り、どうやら露骨な動揺ぶりを隠しきれなくなったようだ。
──そもそも。いつぞやの巨人狩りの作戦で、相手がエマと鉢合わせ、ギデオンとの過去のあれやこれやを匂わされたと聞いている。記憶力の良いヴィヴィアンのことだ、彼女の映ったブロマイドを見て、(あ、あの時の。)と気づかぬわけがなかろうに。ぐるぐると苦悶の渦に陥ったギデオンは、どうやら思考回路の幾つかの螺子が、突然弾け飛んだらしい。すんと顔を上げたかと思うと、再び澄んだ目、落ちついた声音で、三度目の正直……のつもりが、盛大なる自爆をかまし。)
・・
10年以上前の話だ。今はこの手の趣味はない……公訴時効にならないか。
レッ、レクターさ……
( ──もうギデオンさんったら、そんな必死になって隠さなくても、演出だって分かってますから。そう言い募ろうとした笑声は、激しい雷の音にかき消される。ギデオンの容赦ない雷撃をくらい、どうと倒れたレクターに駆け寄ろうとして、その進路を強硬に阻まれてしまえば。その常軌を逸した行動自体が、もう完全に後ろめたいことがありましたと自ら白状している状態に他ならず。そのあまりにもな焦燥ぶりに、思わず引きつった表情で相手を見つめ、それからさりげなく教授の様子を伺えば──プスプスと前髪の先を焦がしながらも、どこか嬉しそうにピクピクと悶えている頑丈な御仁に──うん、あれはほっといても良いやつだ、と一息ついて。
そうして、いつまで経っても話出さない恋人に、再度冷めた視線を戻せば。普段の涼しい顔はどこへやら、露骨な動揺に瞳を泳がせていたベテラン剣士は、やっと覚悟を決めたらしい。改めて手元のそれをよく見れば、ビビも見知ったその女性に、ギデオンがこうも狼狽える事情はよく分かる。確かに気持ちの良いものでは無いが、この人の往年の素行などとっくのとうに知ったものだ。何を言われても──ビビと付き合ってもいない過去のこと。特に咎めず、気にしなくていいんですよ、と流してやるつもりでいたというのに。 )
……この手の趣味って、なに……?
( 素直に謝罪すれば(謝罪することでもないのだが)良いものを、情状酌量を狙って自爆しに行ったのはギデオンの方だ。ビビはと言えば、そういえばエマさんが何か言っていたっけと。彼女達と体の関係があったことよりも、ブロマイドに描かれるほどの公然の仲だったことの方へ寂しさが募り、形の良い眉を下げると、小さくない胸を痛めていたというのに。相手の方はもっと別に後暗いことがあるというのだ。他でもないギデオンによって今、ヴィヴィアンは不安に瀕しているのに──不安な時は頼れる恋人兼相棒に聞けば解決する、といった反射に近い信頼も、この時ばかりは最悪な展開を招くばかりで。まさか対複数といった俗な可能性になど思いいたらず、真っ赤な顔でギデオンを見上げて、元気にはねた赤い耳をふるふると頼りなげに振るわせれば。かつて遊び人だった男の黒歴史を、意図せずその口から説明させようとしている、その隣の窓辺。カオスな光景が繰り広げられる一幕の横で。今朝は窓の外からでも伺いしれたはずの例の"花"が、今は幸せそうに倒れているレクターの機転によって、外から雨戸で隠されていることに気がつくのはもう少し後の話。 )
……、…………、
この手のは……この手のだ。
(躊躇いがちな真っ赤な顔に、ふるふる不安げなスカーフ耳。それらを向けられたギデオンときたら、(あ)と顔色を変えたが最後、また気まずそうに顔を逸らし。それでようやく絞り出すのが、この煮え切らない返事とくるのだ──つくづく愚かなものである。こんなことになったのは、普段は気をつけているはずが、時折失念するせいだ。歳相応の知識があるとはいえ、そして今は少しずつ教え込まれているところとはいえ。相手は本質的に、非常に育ちの良い女性であって……遊び呆けていた己と違い、その手の“教養”はまだまっさらなのだと。そんな彼女に、まさかそんな。──意欲旺盛な真相なんぞ、ぶちまけられるわけもなく。
以降のギデオンは、これまで何でも話し合ってきた相棒兼恋人に、どんなに食い下がられたとしても、頑なな態度を崩さず。真冬の山奥にいるというのにだらだら冷や汗をかきながら、「そろそろ仕事にとりかかろう」「今日は薬草調査だったな」なんて、あからさまにも程がある話題逸らしを繰り広げて。そうして、たまたま通りがかった冒険者の誰かしらが、倒れているレクターにぎょっとした反応をすれば。「そうだ、こいつを介抱しないと」なんて、心にもない台詞を調子よくほざいては、教授を屋内に運び込み、目を覚まさせてやるだろう。)
(──さてはて。経緯はともあれ、相棒の治癒魔法の甲斐あって、無事回復したレクターは。微妙な空気が漂っているこちら側に気づくことなく、「アアッ!? あの伝説の雷落としを、生で!? 生で喰らってしまった……!?!?」だのなんだの、理解不能な奇声を上げてひとしきり悶え転がりはじめた。なんというか……一般人にも荒っぽくした罪悪感を抱いていたのだが、元気そうで何よりである。もう少し沈めておいても罰は当たらなかったろうか。
ともかく、そんなレクターに白けた目を向けつつも。「なあ、そもそもどうして俺たちを訪ねに来たんだ?」と。薄々気づいていた事実にギデオンが切り込めば、レクターもはたと奇態を止めた。「そうだ、大事な話があったんです」。ベッドの上に座り直し、真剣な顔でこちらと向き合う。「おふたり、今朝は実地調査に行かれるでしょう? それにあたって、お耳に入れておきたい話があったんですよ。このフィオラ村の禁忌──“骨の結界”についてです」。
民族学者としてはずば抜けて有能な、このレクターの聞き込み曰く。このフィオラ村の周辺には、これまで亡くなった村人の骨をすり潰して粉にしたものが、ぐるりと引いてあるのだという。魔法も込めてあるために、風雨や動植物には荒らされることのない白線なのだが。人に対しては無力そのもので、簡単に踏み荒らせてしまうから、野山を歩くときにはよく気を付けてほしいという話らしい。いや、それは構わないが、何故に人骨を使った魔法陣なんぞ……とおぞましく思いながら訊ねるに。この風習の発端は……200年前のこの村を襲った、とある惨劇なのだそうだ。)
*
(──ビビ君。今からする話は、女性には少しきつい部分があるかもしれない。でも、詳細を知っておくほうが、もしかしたら今後、自分で身を守れるかもしれない。昨日の事件もあったから、僕はどうか、この村の暗い部分を、君にも知っておいてほしいと思う。いいですか? ……ありがとう。それじゃあ、ちょっと話しますね。
……村の語り部が、僕にこっそり聞かせてくれた話によるとね。まず、200年前のフィオラ村は、フィールド家、という一族が支配していたそうなんです。
このフィールド家ってのが、ちょっと横暴な性格でね。王都に卸す皮革製品を作るために、村人を朝から晩まで休むことなく働かせたり、村娘を手籠めにして無理やり子を産ませたり……まあ要するに、やりたい放題だったそうなんですよ。「鞭を惜しむのは、村民を甘やかすことと同義である」とか何とか言って。村人たちは、それでも決して逆らえなかった。元々、フィールド家も含めた彼らは皆、ガリニア本国での迫害を恐れてヴァランガ峡谷に逃げ延びてきた、少数民族のルーツらしい。だからこの村を出たところで、他に行くあてなんてない。そう身の上を諦めて、権力者の横暴を苦々しく思いながらも、受け入れていたそうなんですね。
けれどやがて、それを覆してしまうような、とんでもない事件が起こった。きっかけになったのは、村長家の跡取り息子。──エディ・フィールドという、根暗な性格の、独りぼっちの男でした。
この男が、フィールド家そのものなんて目じゃないくらい、酷かった。端的に言って、異常者なんです。当時のフィオラ村は確かに狩猟を生業にしていたけれども、エディ・フィールドは子どもの頃から、野鳥や狐を残虐にいたぶって遊んでいると噂されていたそうです。そうして大人になると、今度は村の墓を掘り起こすようにさえなった。──死体を、弄ぶんですよ。でも相手は村長家の息子だから、村人たちは何も言えない。
これで調子に乗ったエディ・フィールドは、もっと酷いことに手を染めていった。生きている村娘を攫うようになったんです。それも、フィールド家が元々やっていたようなやり方なんかじゃない。女性を殺して……その生皮を、剥ぎ取るんです。獣から皮をとるみたいに。何に使うかって? チョッキとか、ズボンとか、ランプシェードとか。そういったものに加工するんですよ。村が元々作っていたような、皮革製品そっくりに。そして頻繁に、人皮製品だけを身に纏った異様な姿で──墓場で踊っていたそうです。
こんな異常者をのさばらせるのは、フィオラ村の人たちも、流石に限界だったんでしょうね。男の姿をした畜生を裁くべく、大勢が立ち上がりました。松明を明々と燃やし、弓矢をつがえ、大振りの鉈を掲げて。鬼気迫る顔をした村人たちが、本気で彼を追い詰め、瀕死の傷を負わせました。エディ・フィールドは山奥に逃げ込み、それきり二度と戻らなかったそうです。元々狩猟の村ですからね、野山にはあちこちに罠が仕掛けておいてあります。そのどれかにきっと引っかかったのでしょう。そうでなくとも、ひとりで山をうろつけば、どの道魔獣の餌食です。
村人たちはもちろん死体を捜しましたが、見つかったのは、深い落とし穴のひとつに落ちたような痕跡だけ。必死に這い登ったのか、肝心のエディ・フィールドの姿はなく、辺り一面が血まみれなだけでした。そうこうするうちに大雨が降ってきて、跡を追えなくなったので、村人たちは彼を死んだものと看做し、村に引き上げることにしたそうです。
もちろん、それで終わりじゃありません。彼を生み出した憎き村長家、その一家全体も、勢いでお取り潰しにしました。権力に取り憑かれた一族が、二度と自分たちをいたぶらないように。彼らの遺体は、エディ・フィールドが落ちた穴まで運んで、そこに放り込み、焼いてしまったそうです。これでようやく、残りの村人たち全員に、平穏が訪れた。……誰もが、そう思っていました。
でも、そうじゃない。被害がより大きかったのは、これから先の話です。
おぞましい“皮剥ぎエディ”は、おそらく肉体上は、呆気なく死んだはずでした。けれどもその怨念、フィオラ村の人々への逆恨みは、強く残っていたんです。
──エディ・フィールドを追放した、その年の冬。村長家亡き後の平和を享受していた村に、いきなり怪物がやってきました。
黒い亡霊のような、空飛ぶ巨大な骸骨のような。とにかくそういった、圧倒的に超常の、人など到底敵わぬものが。吹雪の低い唸りとともに、空から襲ってきたんです。
冷たい雪の吹きすさぶなか、突然狙われた村人たちに、成す術などありませんでした。アッと思った次の瞬間には、頭そのものが消し飛ばされたり。怪物が過ぎ去った後の旋毛風で叩きつけられ、それだけで死んでしまったり。それはあまりにも一方的な、惨たらしい仕打ちです。家の中で震えて隠れている母子さえ、怪物は必ず見つけ出し、爪でばらばらに引き裂いていくのです。守ろうと立ちはだかった男は、次の瞬間、ぱっくりとふたつに割られ。逃げ遅れた老人も、谷の岩壁まで撥ね飛ばされました。
当時の村は、数百人ほどの人口を誇っていたと聞いています。しかしそれが、あっという間に、まるで蜘蛛の子を潰すように。宙を飛び回る怪物によって、呆気なく、簡単に、惨殺されていったんです。
どうしてこんな目に遭うのか、わけもわからぬまま死んでいった村人も、数多くいたことでしょう。しかしそうではない村人もいて、彼らの恐怖ときたら、より凄まじいものでした。──だって、ね。声が、同じなんですよ。怪物の唸り声は、エディ・フィールドを大勢で追い立てたとき、奴が血を流しながら喉から迸らせていた、あのおぞましい呻き声……あれにそっくりだったそうです。
奴が復讐しに来たんだと、人々にはわかりました。奴はフィオラ村の人々を皆殺しにするために、怪物に成り果ててまで、地獄の淵から舞い戻って来たのだと。そして自分たちは、それに抗う術などないと。……自分たちが全員死ぬまで、エディ・フィールドの怨念は、決して止まらないのだと。村人たちは、再び運命を諦めるところでした。
しかし結論から言って、救いの手はありました。
村人が半分どころか、四分の三も殺されたころになって。この村に伝わるとある秘薬が、この怪物を退けてくれる突破口だと、誰かが突き止めたそうなんです。
どうしてそんなことがわかったのか、どうしてそんなものが作られていたのか、そこのところは伝わっていません。とにかく、村人たちは秘薬を飲み、たちまち授かった魔力でもって、怪物に対抗しました。亡霊じみた怪物を完全に滅ぼすには至りませんでしたが、それでも深く傷つけ、弱らせることはできました。怪物は憎々し気な声をあげ、村を引き上げていったそうです。異能を授かった村人たちとの闘いは、埒があかないと思ったのでしょう。それでもいずれまた、村の生き残りを狩り尽くすために、襲撃してくるはずでした。
生き残った村人たちに、亡くなった大勢の人々を悼んでいる暇はありません。病が広がらないよう遺体を焼却していたとき、ふと誰かが気がつきました。──この骨を粉にして、秘薬を混ぜたものを、村の結界として張ったらどうか、と。もちろんそれは、禁忌です。遺体を燃やすのも酷いことなのに、その上材料として使うだなんて。あの憎きエディ・フィールドがやったことと何が違うんだ、という反発もありましたが、とにかくやってみることにしました。そうしたら、どうです。戻ってきた怪物は、結界を張ったフィオラ村に入ってこられないじゃありませんか。
ここから、今のフィオラ村の風習が始まりました。亡くなった人を墓地に埋葬するのではなく、火葬して灰にして、怪物から身を守るための結界線になってもらうんです。そして毎年この時期、怪物が去年の傷を回復させて必ず襲ってくるその季節には、村の“英雄”が秘薬を飲み、怪物と戦うんです。怪物を万全なままでい刺せたら、いずれ結界を破られるかもしれない。だから向こうから近づいてきたときに、“英雄”が奴を痛めつけ、またしばらく近寄れないようにする。そういう慣わしが生まれたそうです。
──おふたりとも、察していますね。
そうです。そうなんですよ。そのための英気を養うお祭りが、今催されている。この“祝祭”なんだそうです。
そして、村に伝わる秘薬というのは、そこにある赤い花から作られているもののようです。フィオラ村の人々が、ガリニアにいた頃から大事に大事に栽培してきたという、特別な“花”……。調査隊のなかでいちばん村と親しくなれただろう僕でさえ、その花畑のある場所には案内してもらえませんでした。
そのくらい、この村にとって、この“花”は特別な、神聖なものらしい。元々愛でていただけでなく──冬にやってくる怪物を、この村と二百年もの間因縁がある怪物を、退けてくれるもの。それをおいそれと、村のよそ者のために摘んでいい筈がありません。
もちろん、おふたりのことは疑っちゃいませんよ。ビビ君のことを聞いて、きっと無邪気な村の子どもが、善意で贈ってくれたんでしょう。この“花”の力を借りたら、たちまち元気になれるとか、きっとそんなようなことを言って。
それ自体は、悪かないんです。その子の善意も、おふたりがそれを受け取ったことも。問題は──村の大人たちの目に、それがどう映るか、ということなんですよ。)
*
…………
(………レクターの、彼らしからぬ静かな語りを聞いたのち。彼が別の冒険者に呼ばれ、外に出ていったその後も。ギデオンは長いこと、ヴィヴィアンの隣で押し黙ったまま考えていた。
今聞いた話は、俄かには信じ難い物語だ。エディ・フィールド自体は恐らく実在したのだろうが、逆恨みしたその男が怨霊となって村に戻り、村の人々を一方的に惨殺して回った、などと。はては、村にたまたま不思議な秘薬が伝わっていて、それを飲めば魔力が漲り、怪物を退けることができるようになった、などと。あまりに突飛が過ぎる……というのが、ギデオンの感想だった。全てが事実というわけでなく、事実を元に脚色した伝承。ギデオンが昨夜観たタペストリーや、その前に見た舞台演劇で、似通った話の細部がそれぞれ違っていたことも、その証左になり得るだろう。
──おそらく怨念の怪物というのは、雪山によく沸く魔物、ウェンディゴのことであるはずだ。ギデオンたちもこの村に来る前に、その唸り声を聞いている。フィオラ村の人々は、難民という出自から、トランフォードの魔物の生態に然程明るくなかったのだろう。そうして、エディ・フィールドの死後にたまたま出没したウェンディゴを、彼が化けて出たものだと勘違いしてしまったのだ。
ウェンディゴを退けた秘薬の力というのも、おそらくたまたま伝わっていたわけではない。例の“花”とやらに、人体に宿る聖属性のマナの力を一時的に高めるような効能があったために、村に役立つものとして、その製法が受け継がれていたのだとう。しかし使われてはいいなかったのは、おそらく副作用か何かがあり、その危険性を鑑みてのことだ。──こういう話は、ごまんとある。現代の冒険者ギルドで、ヒーラーがよく煎じてくれるバフ効果のあるポーション……あれと同じものが、国内各地の村々でも古くから作られていて。けれども、その効能や副作用の科学的な把握はなされておらず、それらしい伝承や教訓といった形で、受け継がれたり失われたりする。フィオラに伝わる秘薬というのも、きっとその類いの代物だ。
──その辺りは、別にいい。それよりも、問題なのは。)
……あの子たちは。
自分たちの兄貴が、“英雄になる”って……言ってたよな。
(──副作用か何かがあるために、製法は伝えられながら、使用はされていなかった“秘薬”。そんな危険な代物を、まだ幼いあの少年が、儀式で服用する運命にある。
そう知ってしまった今、何も考えずにいられるわけがあるだろうか。村にとって多重の意義を持つ“花”をこの手に持ってしまったことより、今目の前で進行している状況の方が、ギデオンには余程問題だ。複雑な表情を浮かべた顔で、隣にいる相棒を見つめる。重々しく開いた口は、相手のことを信じ切ってのものだった。)
──この件は、見過ごせない。
薬草調査と並行しながら、俺たちで調べないか……“秘薬”とやらのことを。
……、…………、
この手のは……この手のだ。
(躊躇いがちな真っ赤な顔に、ふるふる不安げなスカーフ耳。それらを向けられたギデオンときたら、(あ)と顔色を変えたが最後、また気まずそうに顔を逸らし。それでようやく絞り出すのが、この煮え切らない返事とくるのだ──つくづく愚かなものである。こんなことになったのは、普段は気をつけているはずが、時折失念するせいだ。歳相応の知識があるとはいえ、そして今は少しずつ教え込まれているところとはいえ。相手は本質的に、非常に育ちの良い女性であって……遊び呆けていた己と違い、その手の“教養”はまだまっさらなのだと。そんな彼女に、まさかそんな。──意欲旺盛な真相なんぞ、ぶちまけられるわけもなく。
以降のギデオンは、これまで何でも話し合ってきた相棒兼恋人に、どんなに食い下がられたとしても、頑なな態度を崩さず。真冬の山奥にいるというのにだらだら冷や汗をかきながら、「そろそろ仕事にとりかかろう」「今日は薬草調査だったな」なんて、あからさまにも程がある話題逸らしを繰り広げて。そうして、たまたま通りがかった冒険者の誰かしらが、倒れているレクターにぎょっとした反応をすれば。「そうだ、こいつを介抱しないと」なんて、心にもない台詞を調子よくほざいては、教授を屋内に運び込み、目を覚まさせてやるだろう。)
(──さてはて。経緯はともあれ、相棒の治癒魔法の甲斐あって、無事回復したレクターは。微妙な空気が漂っているこちら側に気づくことなく、「アアッ!? あの伝説の雷落としを、生で!? 生で喰らってしまった……!?!?」だのなんだの、理解不能な奇声を上げてひとしきり悶え転がりはじめた。なんというか……一般人にも荒っぽくした罪悪感を抱いていたのだが、元気そうで何よりである。もう少し沈めておいても罰は当たらなかったろうか。
ともかく、そんなレクターに白けた目を向けつつも。「なあ、そもそもどうして俺たちを訪ねに来たんだ?」と。薄々気づいていた事実にギデオンが切り込めば、レクターもはたと奇態を止めた。「そうだ、大事な話があったんです」。ベッドの上に座り直し、真剣な顔でこちらと向き合う。「おふたり、今朝は実地調査に行かれるでしょう? それにあたって、お耳に入れておきたい話があったんですよ。このフィオラ村の禁忌──“骨の結界”についてです」。
民族学者としてはずば抜けて有能な、このレクターの聞き込み曰く。このフィオラ村の周辺には、これまで亡くなった村人の骨をすり潰して粉にしたものが、ぐるりと引いてあるのだという。魔法も込めてあるために、風雨や動植物には荒らされることのない白線なのだが。人に対しては無力そのもので、簡単に踏み荒らせてしまうから、野山を歩くときにはよく気を付けてほしいという話らしい。いや、それは構わないが、何故に人骨を使った魔法陣なんぞ……とおぞましく思いながら訊ねるに。この風習の発端は……200年前のこの村を襲った、とある惨劇なのだそうだ。)
*
(──ビビ君。今からする話は、女性には少しきつい部分があるかもしれない。でも、詳細を知っておくほうが、もしかしたら今後、自分で身を守れるかもしれない。昨日の事件もあったから、僕はどうか、この村の暗い部分を、君にも知っておいてほしいと思う。いいですか? ……ありがとう。それじゃあ、ちょっと話しますね。
……村の語り部が、僕にこっそり聞かせてくれた話によるとね。まず、200年前のフィオラ村は、フィールド家、という一族が支配していたそうなんです。
このフィールド家ってのが、ちょっと横暴な性格でね。王都に卸す皮革製品を作るために、村人を朝から晩まで休むことなく働かせたり、村娘を手籠めにして無理やり子を産ませたり……まあ要するに、やりたい放題だったそうなんですよ。「鞭を惜しむのは、村民を甘やかすことと同義である」とか何とか言って。村人たちは、それでも決して逆らえなかった。元々フィオラ村の人々は、ガリニア本国での迫害を恐れ、フィールド家の手引きによってヴァランガ峡谷に逃げ延びてきた、少数民族のルーツらしい。だからこの村を出たところで、他に行くあてなんてない。トランフォードで生きていくなら、フィールド家の元にいなくちゃいけない。そう身の上を諦めて、権力者の横暴を苦々しく思いながらも、受け入れていたそうなんですね。
けれどやがて、それを覆してしまうような、とんでもない事件が起こった。きっかけになったのは、村長家の跡取り息子。──エディ・フィールドという、根暗な性格の、独りぼっちの男でした。
この男が、フィールド家そのものなんて目じゃないくらい、酷かった。端的に言って、異常者なんです。当時のフィオラ村は確かに狩猟を生業にしていたけれども、エディ・フィールドは子どもの頃から、野鳥や狐を残虐にいたぶって遊んでいると噂されていたそうです。そうして大人になると、今度は村の墓を掘り起こすようにさえなった。──死体を、弄ぶんですよ。でも相手は村長家の息子だから、村人たちは何も言えない。
これで調子に乗ったエディ・フィールドは、もっと酷いことに手を染めていった。生きている村娘を攫うようになったんです。それも、フィールド家が元々やっていたようなやり方なんかじゃない。女性を殺して……その生皮を、剥ぎ取るんです。獣から皮をとるみたいに。何に使うかって? チョッキとか、ズボンとか、ランプシェードとか。そういったものに加工するんですよ。村が元々作っていたような、皮革製品そっくりに。そして頻繁に、人皮製品だけを身に纏った異様な姿で──墓場で踊っていたそうです。
こんな異常者をのさばらせるのは、フィオラ村の人たちも、流石に限界だったんでしょうね。男の姿をした畜生を裁くべく、大勢が立ち上がりました。松明を明々と燃やし、弓矢をつがえ、大振りの鉈を掲げて。鬼気迫る顔をした村人たちが、本気で彼を追い詰め、瀕死の傷を負わせました。エディ・フィールドは山奥に逃げ込み、それきり二度と戻らなかったそうです。元々狩猟の村ですからね、野山にはあちこちに罠が仕掛けておいてあります。そのどれかにきっと引っかかったのでしょう。そうでなくとも、ひとりで山をうろつけば、どの道魔獣の餌食です。
村人たちはもちろん死体を捜しましたが、見つかったのは、深い落とし穴のひとつに落ちたような痕跡だけ。必死に這い登ったのか、肝心のエディ・フィールドの姿はなく、辺り一面が血まみれなだけでした。そうこうするうちに大雨が降ってきて、跡を追えなくなったので、村人たちは彼を死んだものと看做し、村に引き上げることにしたそうです。
もちろん、それで終わりじゃありません。彼を生み出した憎き村長家、その一家全体も、勢いでお取り潰しにしました。権力に取り憑かれた一族が、二度と自分たちをいたぶらないように。彼らの遺体は、エディ・フィールドが落ちた穴まで運んで、そこに放り込み、焼いてしまったそうです。これでようやく、残りの村人たち全員に、平穏が訪れた。……誰もが、そう思っていました。
でも、そうじゃない。被害がより大きかったのは、これから先の話です。
おぞましい“皮剥ぎエディ”は、おそらく肉体上は、呆気なく死んだはずでした。けれどもその怨念、フィオラ村の人々への逆恨みは、強く残っていたんです。
──エディ・フィールドを追放した、その年の冬。村長家亡き後の平和を享受していた村に、いきなり怪物がやってきました。
黒い亡霊のような、空飛ぶ巨大な骸骨のような。とにかくそういった、圧倒的に超常の、人など到底敵わぬものが。吹雪の低い唸りとともに、空から襲ってきたんです。
冷たい雪の吹きすさぶなか、突然狙われた村人たちに、成す術などありませんでした。アッと思った次の瞬間には、頭そのものが消し飛ばされたり。怪物が過ぎ去った後の旋毛風で叩きつけられ、それだけで死んでしまったり。それはあまりにも一方的な、惨たらしい仕打ちです。家の中で震えて隠れている母子さえ、怪物は必ず見つけ出し、爪でばらばらに引き裂いていくのです。守ろうと立ちはだかった男は、次の瞬間、ぱっくりとふたつに割られ。逃げ遅れた老人も、谷の岩壁まで撥ね飛ばされました。
当時の村は、数百人ほどの人口を誇っていたと聞いています。しかしそれが、あっという間に、まるで蜘蛛の子を潰すように。宙を飛び回る怪物によって、呆気なく、簡単に、惨殺されていったんです。
どうしてこんな目に遭うのか、わけもわからぬまま死んでいった村人も、数多くいたことでしょう。しかしそうではない村人もいて、彼らの恐怖ときたら、より凄まじいものでした。──だって、ね。声が、同じなんですよ。怪物の唸り声は、エディ・フィールドを大勢で追い立てたとき、奴が血を流しながら喉から迸らせていた、あのおぞましい呻き声……あれにそっくりだったそうです。
奴が復讐しに来たんだと、人々にはわかりました。奴はフィオラ村の人々を皆殺しにするために、怪物に成り果ててまで、地獄の淵から舞い戻って来たのだと。そして自分たちは、それに抗う術などないと。……自分たちが全員死ぬまで、エディ・フィールドの怨念は、決して止まらないのだと。村人たちは、再び運命を諦めるところでした。
しかし結論から言って、救いの手はありました。
村人が半分どころか、四分の三も殺されたころになって。この村に伝わるとある秘薬が、この怪物を退けてくれる突破口だと、誰かが突き止めたそうなんです。
どうしてそんなことがわかったのか、どうしてそんなものが作られていたのか、そこのところは伝わっていません。とにかく、村人たちは秘薬を飲み、たちまち授かった魔力でもって、怪物に対抗しました。亡霊じみた怪物を完全に滅ぼすには至りませんでしたが、それでも深く傷つけ、弱らせることはできました。怪物は憎々し気な声をあげ、村を引き上げていったそうです。異能を授かった村人たちとの闘いは、埒があかないと思ったのでしょう。それでもいずれまた、村の生き残りを狩り尽くすために、襲撃してくるはずでした。
生き残った村人たちに、亡くなった大勢の人々を悼んでいる暇はありません。病が広がらないよう遺体を焼却していたとき、ふと誰かが気がつきました。──この骨を粉にして、秘薬を混ぜたものを、村の結界として張ったらどうか、と。もちろんそれは、禁忌です。遺体を燃やすのも酷いことなのに、その上材料として使うだなんて。あの憎きエディ・フィールドがやったことと何が違うんだ、という反発もありましたが、とにかくやってみることにしました。そうしたら、どうです。戻ってきた怪物は、結界を張ったフィオラ村に入ってこられないじゃありませんか。
ここから、今のフィオラ村の風習が始まりました。亡くなった人を墓地に埋葬するのではなく、火葬して灰にして、怪物から身を守るための結界線になってもらうんです。そして毎年この時期、怪物が去年の傷を回復させて必ず襲ってくるその季節には、村の“英雄”が秘薬を飲み、怪物と戦うんです。怪物を万全なままでい刺せたら、いずれ結界を破られるかもしれない。だから向こうから近づいてきたときに、“英雄”が奴を痛めつけ、またしばらく近寄れないようにする。そういう慣わしが生まれたそうです。
──おふたりとも、察していますね。
そうです。そうなんですよ。そのための英気を養うお祭りが、今催されている。この“祝祭”なんだそうです。
そして、村に伝わる秘薬というのは、そこにある赤い花から作られているもののようです。フィオラ村の人々が、ガリニアにいた頃から大事に大事に栽培してきたという、特別な“花”……。調査隊のなかでいちばん村と親しくなれただろう僕でさえ、その花畑のある場所には案内してもらえませんでした。
そのくらい、この村にとって、この“花”は特別な、神聖なものらしい。元々愛でていただけでなく──冬にやってくる怪物を、この村と200年もの間因縁がある怪物を、退けてくれるもの。それをおいそれと、村のよそ者のために摘んでいい筈がありません。
もちろん、おふたりのことは疑っちゃいませんよ。ビビ君のことを聞いて、きっと無邪気な村の子どもが、善意で贈ってくれたんでしょう。この“花”の力を借りたら、たちまち元気になれるとか、きっとそんなようなことを言って。
それ自体は、悪かないんです。その子の善意も、おふたりがそれを受け取ったことも。問題は──村の大人たちの目に、それがどう映るか、ということなんですよ。)
*
…………
(………レクターの、彼らしからぬ静かな語りを聞いたのち。彼が別の冒険者に呼ばれ、外に出ていったその後も。ギデオンは長いこと、ヴィヴィアンの隣で押し黙ったまま考えていた。
今聞いた話は、俄かには信じ難い物語だ。エディ・フィールド自体は恐らく実在したのだろうが、逆恨みしたその男が怨霊となって村に戻り、村の人々を一方的に惨殺して回った、などと。はては、村にたまたま不思議な秘薬が伝わっていて、それを飲めば魔力が漲り、怪物を退けることができるようになった、などと。あまりに突飛が過ぎる……というのが、ギデオンの感想だった。全てが事実というわけでなく、事実を元に脚色した伝承。ギデオンが昨夜観たタペストリーや、その前に見た舞台演劇で、似通った話の細部がそれぞれ違っていたことも、その証左になり得るだろう。
──おそらく怨念の怪物というのは、雪山によく沸く魔物、ウェンディゴのことであるはずだ。ギデオンたちもこの村に来る前に、その唸り声を聞いている。フィオラ村の人々は、難民という出自から、トランフォードの魔物の生態に然程明るくなかったのだろう。そうして、エディ・フィールドの死後にたまたま出没したウェンディゴを、彼が化けて出たものだと勘違いしてしまったのだ。
ウェンディゴを退けた秘薬の力というのも、おそらくたまたま伝わっていたわけではない。例の“花”とやらに、人体に宿る聖属性のマナの力を一時的に高めるような効能があったために、村に役立つものとして、その製法が受け継がれていたのだろう。しかし使われてはいなかったのは、おそらく副作用か何かがあり、その危険性を鑑みてのことだ。──こういう話は、ごまんとある。現代の冒険者ギルドで、ヒーラーがよく煎じてくれるバフ効果のあるポーション……あれと同じものが、国内各地の村々でも古くから作られていて。けれども、その効能や副作用の科学的な把握はなされておらず、それらしい伝承や教訓といった形で、受け継がれたり失われたりする。フィオラに伝わる秘薬というのも、きっとその類いの代物だ。
──その辺りは、別にいい。それよりも、問題なのは。)
……あの子たちは。
自分たちの兄貴が、“英雄になる”って……言ってたよな。
(──副作用か何かがあるために、製法は伝えられながら、使用はされていなかった“秘薬”。そんな危険な代物を、まだ幼いあの少年が、儀式で服用する運命にある。
そう知ってしまった今、何も考えずにいられるわけがあるだろうか。村にとって多重の意義を持つ“花”をこの手に持ってしまったことより、今目の前で進行している状況の方が、ギデオンには余程問題だ。複雑な表情を浮かべた顔で、隣にいる相棒を見つめる。重々しく開いた口は、相手のことを信じ切ってのものだった。)
──この件は、見過ごせない。
薬草調査と並行しながら、俺たちで調べないか……“秘薬”とやらのことを。
──……この村を襲う"エディ・フィールド"の正体も、ですね!
( 相手の信頼に力強く頷いたビビの一方で、他でもない相棒はしかし、その正体には大体の目星が着いている、というのだ。「僕はもう少し調査を続けます、何か分かればお伝えしますね」と、帰って行ったレクターを見送り。まずは例の花を詳しく分析する準備をしながら、良い先輩の表情をとったギデオンの出すヒントに耳を傾け──ウェンディゴ! と例の唸り声を思い出せば。未だ一昨日のことだというのに、もう随分と長い間この村に滞在していたような気さえしてくる。そうして、すっかりこの村の違和感に飲み込まれていたビビとは違い、いつでも冷静な思考を手放さないベテラン剣士への尊敬の念に、キラキラと大きな瞳を輝かせ、ほぅ……と憧憬の吐息を漏らすと。──相手が"怨霊"などという非現実的なそれでないのなら、それはもう景気よく殴って倒せばいい話だ。レクターの話を聞く間、その青白さを隠せていなかった顔色をパッと赤くほころばせ、ぱちん! と元気よく両手を合わせれば──それじゃあ、今度は私の番ですね、と。鞄の中から得意げに薬草の調査用に持ち込んだ、その性質を調べる試験紙やその他の道具たちを取り出して。 )
( "古代、ガリニアの地を開拓した森の民にとって、蜂蜜は貴重な栄養源であり、(中略)、またそれは時として薬としても扱われた。"(サルトーリ,4962,p.124)
子供達に手を引かれ、そこへ辿り着いたビビの脳内に過ぎったのは、そんないつか読んだ薬学史の本の一文だった。あれから数時間、本来の仕事である薬草の調査と共に、花の成分を分析すれば。その薬効成分となるアルカロイドが、花の蜜部分に多く含まれていると分かったまでは良かったのだが。手持ちの道具だけでこれ以上判断するのは難しく。そもそも花一輪から採取できる量があまりに少なすぎるのだ。これでは身体の大きな人間一人に効果を与える為にどれだけの量が必要か──ああ、だから、子供を使うのか。そんな嫌な結論を頭を振って振り払えば。机上で解けないものは、脚で稼げばいい。そう先にフィールドの探索に当たってくれていたギデオンと合流したのが、半刻程前のことだった。
そうして、それは既に相棒が見当をつけてくれていたか、それともビビと合流してすぐのことだったか。兎に角、こうして村民たちが何か必死に隠しているそれを事も無げに暴くのは、彼らが取るに足らないと放置してきた子供達なのだから皮肉なものだ。着実な交友を築いていてきたビビと──特に本来であれば、自分達になど見向きもしないだろう大人の男性であるギデオンが、自らしゃがんで視線を合わせ、有効な情報の提供者として対等に扱ってくれるそれだけで、聡い子供たちは喜んで村のことを教えてくれるのだ。そうして、今回も案内された別れ際、「はちさんがお仕事しててあぶないから入っちゃダメなんだよ」と、彼らが普段村の大人から言いつけられているだろう忠告を得意げに残して、手を振って離れていく彼らには、その純粋さを利用して騙したようで申し訳ないが──なるほど。そこは、例の花畑ともほど近い、村の外れにある養蜂場。高度な技術のない村で、一輪の花から少ししか取れない蜜を集めるのに、これ以上効率的な方法も無いだろう。)
──……一輪で薄いなら、濃縮すれば良い、か。
どうしましょう、恐らく無人、ってことは無いですよね……
それがな。今日に限っては、例の“ラポト”とやらの準備に、大人は全員駆り出されてるのが確実だ。……絶好の捜査日和だろう?
(相棒の鋭い懸念に、しかしギデオンは片眉を上げ、悠然と軽く微笑む。元々、ギルドの諜報も担うことがあるだけに、この手の裏をとってくるのは自分の得意分野なのだ。……とはいえ、自分たちの姿が長いこと見えなければ、誰かが勘繰りはじめる可能性はあるだろう。あの子どもにしたって、この養蜂場の存在をけろりと教えてくれた以上、こちらのほうの口止めもいつまで守れるかわからない。故に念のため、「30分程度で撤収するのが目安だ」と、計画を擦り合わせつつ。鬱蒼と茂る落葉樹の森の奥、不意に広々と切り拓かれたその場所へ、生い茂る下草を、がさりがさりと踏み分けていく。
斜面を下ったふたりの前に、いよいよそれは、克明にその姿を現した。手前側に広がっているのは、低い木の柵を巡らせた囲いだ。他の村でも似たようなのを幾度となく見たことがある、おそらくは土器の類いを燻すためのスペースだろう。その奥にじっと無言で佇むのは、ずんぐりした大きな蔵と、かなり広々とした立派な平屋。一見何てことのないそれらは、子どもたちの案内がなければ、決してそうとはわからなかったに違いない。──フィオラ村が隠している、“北の”養蜂場だった。)
(──ヴィヴィアンとふたり、本業である薬草調査をあらかた手早く片付けた後。その採取物を記録するついでに紛れて、例の“花”を分析したヴィヴィアンは、蜜の部分に鍵がある、と突き止めてくれた。それを聞いたギデオンは、途端に思い出したのだ。フィオラに来た初日、そして二日目の夕方、老爺と少女から聞いた言葉を。
『よかったら、自慢の蜜菓子をお夜食におつまみくだされ。ええ、ええ、この谷の特産品は、この皮衣だけではないのです。我々の飼うミツバチは、非常に働き者でして……』
『あっちにもお花畑があるのよ、こっちよりもずっとキレイなの……』
──花蜜、蜂蜜、花畑。ギデオンの胸中に、ふと大胆な仮説が浮かぶ。サルトーリの本を読んでこそいなかったものの、かつて蜂蜜が百薬の長とされていた古い文化は、己もまた知っていた。フィオラ村には、養蜂産業と“花”への信仰が存在する。もしも、“秘薬”の材料として……“花”から作る蜂蜜を、使っているのだとしたら?
相棒に引き続き解析を任せ、彼女の傍らには、口の堅さで信用を置ける例の若い槍使いに仕事を与えておくことにして。ギデオンは先に外に繰り出し、まずは再びレクターを探した。養蜂について、既にわかっている情報を聞きだしておこうとしたのだ。──が、しかし。なんと教授は、この村の養蜂場を既に案内されたのだという。「ええ、確かに見ましたよ。村の皆さんが振る舞ってくれたあの蜜菓子、あれに使っている蜂蜜については、僕も気になっていたんです」。──ほら、村の南端の、ちょうどあの辺り。あそこにある建物まで、美人なお姉さんが連れて行ってくれましてね。ええ、黒いフードの、黒髪の……ああ、わかります? あの妖艶なお方です。とにかくあの女性が、他の親父さんたちと一緒に、詳しく解説してくれたんですよ。ええ、ええ! やっぱり高地型養蜂でした! ヒバの蜜桶を横置きにして、こう、ね! ね!? ガリニア高山系のやり方を、きちんと汲んでるんですねえ……!
……大興奮のレクターには悪いようだが。ギデオンはすぐに、その案内はダミーだろうと察しをつけた。“花”については秘密主義なフィオラ村が、そしてあの妙な蛭女が。観察眼の優れたレクター相手に、わざわざ開けっぴろげに、懇切丁寧に見せびらかすということは……それは、おそらく目晦ましだ。学者の純粋な探究心を利用して、自分たちの探られたくないものを日陰にやったに違いない。疑念を抱く者がその情報を知らずにいたならば、きっとそのまま、やりおおせていたのだろう。
ならば次に考えるべきは、“秘薬”に使われていると仮定する蜂蜜を、実際はどこで作っているのかだ。ギデオンとヴィヴィアンが求めているのは物証だ。秘密裏に動く以上、それを捜す時間は少ない。捜索範囲を正確に絞らなければ、何も手掛かりを得られない。
──北だろう、と考える。南にあるという養蜂場で、そのまま秘密裏に生産している可能性は、きっと限りなく薄い。根拠はフィオラのミツバチだ。ギデオンはこれまでに、フィオラの蜜菓子を数個ほど口にしていた。しかしあれらは、菜の花やマリーゴールド、その辺りの単花蜜を使った風味をしていたはずだ。その手の蜂蜜を作りだすミツバチは、巣からせいぜい3キロほどしか飛び回らない。最も手近な場所にある花畑の、特定の花の蜜だけを吸う習性をしているからだ。……ということは、レクターの案内された養蜂場の近くには、普通の花しか咲いていないことになる。そもそもフィオラ村の連中としては、特別な“花”が咲いている一帯に、よそ者を近づけないだろう。把握済みの、南の養蜂場じゃない、それならば。昨日の夕方、少女がふと指し示した“綺麗な花畑”の方角を思い出す。村の大人たちが獣道を登っていった、あの先は。──たしか、村の北端だった。
そこまで考えたギデオンは、しばらく村の北側で動き、村人たちの様子を確かめた。──大人たちは、いることにはいる。だが皆、この後控えているという儀式のほうに集中しきりで、こちらへの警戒は手薄になっているようだ。何人かの子どもたちが暇を持て余しているのが見えた。彼らの家はこの北端側にあるらしい、それならきっと、この辺りの様子について多少は知っているだろう。
そこで初めて、ギデオンはヴィヴィアンを呼びに戻ることにして……道すがら、これから実地調査に行くという五、六人の冒険者たちとすれ違った。案内役の村人も連れて、峡谷のもっと奥の方を確かめて回るらしい。帰りは明日の昼か夕、エデルミラにも報告を上げているというので、ギデオンは何ら構わず、ただ淡々と送り出してしまったが。──まさか、こうして少しずつ。真っ昼間から堂々と、合同クエストの冒険者たちがばらばらに引き裂かれ始めていた、などと。このときはまだ、夢にも思っていなかった。)
…………
……これは……
(──さて、それから半刻後。相棒とふたり、村の北端の養蜂場を訪れたギデオンは、まずは大きな蔵のほうへ踏み込んでみることにした。
重い木の扉を押し開けた先は、一見ごく普通のそれだ。太い梁を渡された空間に、木箱や壺が所狭しと並んでいる。もちろんそれ以外にも、長さを切りそろえた杭や、木の幹の中身をくり抜いた丸太筒。銅製の大鍋に平鍋、壁際には斧やナイフ。柱の釘に掛けられているのは、ミツバチの巣箱を世話するときに頭から被る面布だろう。部屋の片隅には、灰茶色のものが堆く積んである。牛糞と藁を練り混ぜて乾燥させた燃料だ。ゆっくり歩み寄って屈み、手袋越しに感触を確かめた。よく乾いている……だが、そう古いわけでもない。
立ち上がって歩こうとしたとき、からん、と何かが爪先に当たった。拾い上げて確かめてみれば、空気ポンプが背面に取り付けられた、四角い薬缶のようなものだ。──燻煙器だ、とすぐにわかった。小型魔獣を巣穴などから追い出すときにも、同じような道具を使う。そこにあるような保ちのいい燃料を入れ、火の魔素で発火させることで、薬缶の口から煙を噴かすのだ。たしか養蜂においては、蜂を大人しくさせるために使うのではなかったか……。蓋を開けて中身を見ると、しかし入っているのは、茶色い欠片などではなく、何か草木の類いだった。既に酷く萎びている、いったい何の草だろう?
「なあ、これは……」と。別でゆっくり見て回っている相棒に尋ねようと、何気なく振り返った瞬間。しかしギデオンは口を噤んだ。入口からは気がつかなかったそれを、ふと目撃してしまったからだ。相棒に目配せし、歩み寄りながらもう一度見上げた。蔵の奥……梁の上に、檻のような空間がある。単なる二階部分にしては陰鬱に見えるのは……はたして気のせいなのだろうか。)
…………。
……座敷牢、みたいだな。
──……エディが使ってたもの! ……では、ないですよね
なんでこんなところに……
( ギデオンの目配せに天井を見上げると、ビビもまたその異質な格子に目を見開く。咄嗟によぎったのは、先程聞いたばかりの一番新しい"座敷牢"の心当たり。しかし、その作り、手入れのされ方、木の格子の調子などから、すぐさまそれがもっと新しい時代のものだと気がつけば。寧ろその方が余計、エディ以降にもこんなものを利用する人間がいる証左として、良くない兆候だと気がつき顔を顰めると。相棒と二人、無言で顔を見合わせ、階段のような、梯子のような心もとないステップをゆっくりと上って。 )
…………、
( そうして視線と同じ高さになった空間に、人の気配がないことを確認すると、ほっとあからさまに安心を表情に反映させてしまったのは許されたいところ。とはいえ、空いた扉に積もった埃の調子を見るに、決して忘れ去られた遺物、という訳でも無さそうだが──そうして。ここでこの瞬間、その悍ましい光景を目の当たりにする瞬間までは。まだビビはこの村のことを救える、と。愚かにも信じ込んでいたのだった。
現代社会にそぐわない風習や価値観は、長く常世と隔絶されてしまったが故。数日後に差し迫った恐ろしい予感すらも、ウェンディゴに太刀打ちできない村民が、多数のために少ない犠牲を払おうとするのを、外部から来た自分がどうして非難することが出来るだろう。──現代社会と関わりを持ち、これからのフィオラはきっと変われる。その輝かしい未来の始まりに、彼らの目の前で彼らを悩ませた"悪霊"を、ただの魔物へと斬って堕としてやれば、彼らだって喜んでその悲しい風習を取りやめるはずだ、と。
光採りの窓より高い空間は、夕方ともなると人間の視力では太刀打ちできない。仕方なく、腰に吊るした魔導ランプに黒幕を下ろし、手元がほんのりと見える程度に灯すと、古い燭台に溶け残った白い跡が目に映る。他の魔物から作る蝋燭と比べ、明るく無臭で長く使え、蜜蝋より安価な──鯨蝋。魔導ランプと並んでトランフォードの夜を照らす白塊は、二人にとってはこれ以上なく見慣れたそれだが、よその地域との取引が潰えて久しいフィオラにあるわけが無いもの。それ以外にも、5024年のキングストン新聞に、平地にしか分布しないカトブレパスの皮革の財布──そして、それらにも誤魔化しようもない、木製の床に広がったどす黒く夥しい"何か"の染み。一体ここで何があったというのか──本当は、悪い人たちじゃないのだと。何故根拠もなくそんな風に信じ込めたのか。己の甘さを思い知り、ショックの隠しきれない表情でギデオンを振り返ると、ふらふらと青い顔で数歩後ずさって。 )
あっ、あっ……ギデオンさん、これ……
────……、
(今にも倒れそうな相棒を抱き留め、震える肩を撫でさする。大丈夫だ、俺がついている、そう言い聞かせてやりたかった。しかし無言になる辺り、己もやはり、それなりの衝撃を受けてしまっているようだ。だれが想像できるだろう──まさかこのフィオラ村で、二百年も閉ざされていたはずの僻地で、よそ者に対する監禁が行われていたなどと。より残酷なのは、この証拠の数々が、この秘密の養蜂場の蔵のなかにあったことだ。村はわかって隠しているはずだ……エディ・フィールドのような、ひとりの狂った人間による犯行では有り得ない。
しかしその恐ろしさに、ギデオンまでも凍りついてはいられない。相棒に(ここにいろ)と仕草で伝えながら、その手元のランプを引き取り、軋む床板を踏みながらひとり奥へ歩みだす。相棒はそれに震えながらついてきただろうか、それとも己を頼って背後で任せてくれただろうか。いずれにせよ、強張った面持ちで辺りを照らし、先ほど目に入ったひとつひとつを慎重に調べ上げていく。
──蝋燭。古いが、白く艶やかだ。寒村に出回るような、臭くてくすんだそれではない。フィオラ村は間違いなく、どこかで質の良い交易をしていて、それを巧妙に隠してもいる。──新聞。何故こんなものが残っているのか、だれがどんな意図で持ち込んだのか。ぐしゃぐしゃのそれを拾い上げ、元に戻せる程度に皴を伸ばして確かめてみるに。その見開きの片隅に、ふと気になる記事があった……ジョルジュ・ジェローム、48歳、王都在住の有名な魔導技師が、クラウ・ソラス行きの馬車をワーウルフ群に襲われ死亡。なんてことのない内容だろうが、何か引っかかるものを感じながら、今度は別のものに目を向ける。──革財布。もしや、と嫌な想像をながら、折り畳み式のそれを開く。間近に照らし出した瞬間、ギデオンの顔はやはり歪んだ。……きっとこれは、オーダーメイドの品なのだろう。財布の内側に、たしかに“ジョルジュ・ジェローム”と刻印されている。新聞の用途がわかってしまった。拉致監禁した本人に見せつけて、絶望させるためだったのだ。お前は死んだことになっている、だれもおまえを探しに来ない、と。
最後に、床に目を落とす。一面に広がるどす黒い茶褐色の染み、これがジョルジュ・ジェロームのものなら、間違いなく致死量だろう。死体はどこへやったのか……何年前に撒かれた血なのか。血しぶきの向きや擦れている方向を辿って、ぎしり、ぎしり、と奥へ向かう。哀れな魔導技師が襲われたのは、おそらくこの辺り……座敷牢の突き当たり、空の木箱が積み重なった場所だろう。ジェロームが、おそらくは技術を引き出すために誘拐されてしまったほどの、名うての技師なのだとしたら。埃の積もった木箱の淵をなぞってから、僅かに汗の浮いた顔で相棒を振り返る。恐ろしい現場だが、それでも──と。信頼と心配が、織り交ざったまなざしだった。)
……ヴィヴィアン。ここにいた人間が襲われたのは5年以内だ。この辺りの魔素を読めるか。
もしかしたら……手がかりか何かを、どこかに遺している可能性がある。
……………。
( 温かい掌がビビの肩から離れていく感覚に、堪らずその後を追いたくなる弱気をぐっと堪えて。ビビを信用してくれたギデオンに応えるため、ひとり座敷牢の入り口にこくりと留まり、誰かが近づいて来やしないか、倉の入り口の方へと冷静に神経を尖らせる。そうして、一通りの調査を終えた相棒の問いかけに目を見開くと、その大きな瞳を頼りなげに微かに揺らして。読めない人には理解されがたいが──本来、魔素・魔力・魔法というのは、そう万能なものではない。あくまで自然と精霊の気まぐれを読み解き、利用しているに過ぎず、無から有を生み出したり、何の価値もない土塊を金に変えたりすることだってままならない。しかし、他でもない相棒が求めているのはそういうことじゃないだろう。そもそも何故この人は、ビビなら出来るかもしれないと思ったのか。相手の懐に入り込み、手元の証拠品を見せてもらうと──なるほど、と。得体のしれない連中に、何処かもわからぬ場所に閉じ込められて。外から助けも来ないと知った時、自分なら、魔法士なら、魔導技師ジョルジュ・ジェロームなら、限られた体力と魔力でどうするか。──ジェロームは自らも幼少期の事故で片脚を失い、障害のある人々がこれまで通りの生活をおくれるように、自分の意志に合わせて動く魔導義肢の開発に尽力した人物だ。おもむろに座敷の角にしゃがみ込み、窺ったのは明り取りの小窓。この薄暗い空間で、哀れな魔導技師は今が昼か夜かを窺う術だけは持ち合わせていた。ならば、人より機動に不安のある彼は、身を隠しやすい夜中の脱出を試みるはずだ。それには、彼の視界を照らす適度な明かりが必要になる。これは簡単に聞こえるようで、高度な魔素操作を必要とする難しい作業で、今ギデオンが持っているビビの魔導ランプだってチューニングを誤れば、たちまち夜のサリーチェを昼のように照らしあげることになる。(未だに語り草にされているとはいえ、快く笑って許してくれたご近所さんには頭が上がらないことだ。) 閑話休題。
そんな難易度の高い代物を、この粗末な倉で手に入れるにはどうするべきか──……それがこの鯨蝋の蝋燭だったに違いない。原始、魔法使いとは特別に精霊に好かれた者だった。精霊を愛し、精霊に愛され、精霊の理から逸脱しない生活をおくる彼らの生活様式を真似たのが、現代の魔法士に繋がる第一歩になる。彼はそれを模倣しようとしたのだろう。火の精霊は燃やしやすく、すぐには燃え尽きない物質をよく好む。フィオラは養蜂が盛んな村だ。捕まえた魔導技師が、仕事に上質な明かりが必要だと訴えたとして、それは蜂蜜から作られるそれで良かったはずだ。しかし、この燭台に残るのはグランポート産の最上級品の白いそれ。頑固な技師はこれがないと仕事にならないと要求したのだろうか、その言い回しはともあれフィオラの住人は男の要求を呑んだらしい。もうずっと蜂蜜から灯された素朴な火に慣れ切ったフィオラの精霊は、大いにこれを喜んだだろう。その結果、ジェロームの脱出は成功したか? それは、このどす黒い染みを見るに救われないが──「ギデオンさん、ランプを消していただけますか?」そう確信を込めたエメラルドを奥の相棒に差し向けて、元々薄暗かった天井が、更に深い闇に覆われるのを確認すると。『ビビちゃんが精霊さんとおはなしできることは、パパとの秘密にしておこう』そう言ったかつての父の言葉を思い出して──あれは、『精霊さんが悪い人に悪用されたら悲しいでしょう?』と、だから、ギデオンさんなら大丈夫なはずだ、と判断して。周囲を燃やさぬ程度に加減しながら、火の魔法を込めた杖を緩く振るえば。そうして灯された小さな炎に寄ってきた高山の痩せた火の精霊に、「そこの美味しい蝋燭をくれた人のことを教えてくれる?」と、更に豊富な魔力で火を揺らめかせる。はたして、輝く翅を震わせて、床の染みの上で申し訳なさそうに小さく回った精霊が、粗末な格子をすり抜けて──格子の中から必死に手を伸ばして届くかどうかのガラクタの小山にねじ込まれた黒く四角いそれを照らしあげた光景は、ギデオンの様な“見えない”人にはどう映るのだろう。 )
ッ、これは、っと……手帳……?
……ジェロームのもの、みたいですね。
──精霊か、
(“見える”ヴィヴィアンとは違い、ギデオンが捉えられるのは、せいぜい微かな瞬き程度。今、向こうの闇の中で、何かちらちら光ったような……そのくらいぼんやりと、怪訝に認識することしかできない。しかし隣の相棒にかかれば、逆に確信を持った横顔で、その細腕を伸ばす有り様だ。何をしているのか、と問おうとして、しかし自ずと思い当たり、小さく感嘆の声を漏らした。精霊を呼びだすのも、話しかけるのも、協力を仰ぐのも、その明かりが示す何ものかを探るのも。どれも、ギデオンには決して行いようがない──思い浮かびすらしない。今この場にヴィヴィアンがいた、そのおかげで取れた手段だ。
周囲を浮遊する塵のような煌めきに、敬意と感謝を込めてごくささやかに目礼してから。彼女が手に入れたその手がかりを、一緒に覗いて確かめる。ヴィヴィアンの言ったとおり、手帳……のようであるのだが、しかし既製品ではない。切り取った黒染めの革と、不揃いな紙片の束、それらを糸で綴じただけの、ごく粗末な作りをしていた。きっとジェロームは、監禁者であるフィオラ村に内緒でこれを作り出し、密かに所持していたのだろう。おそらくは……絶望の日々の拠り所にするために。
表紙をめくる。字は掠れている、しかし読めないほどではない。最初の数ページに亘っては、例の記事にもあった日付にフィオラ村へと攫われた経緯、及びその耐え難い慟哭が、ぎっしり書き込まれているようだ。何故、どうしてこんなことに、ここはどんな場所なのだ、何故私を捕まえるのだ。工房に、我が家に帰りたい……妻に、幼い我が子に会いたい。余りに痛ましいその独白に、目元を思わず歪ませつつも、更にページをめくっていく。思わず無言で読み入るせいか、紙擦れの音がやけに大きく聞こえる。……)
*
(──段々とわかってきた。どうやらこの村の人々は、私に補助具を作らせたいらしい。それも、蜂蜜を採るための腕をだ。この村の飼う特別な蜂は、隣の平屋の地下にある鍾乳洞に巣をつくる習性だそうだ。天井から吊り下げられた蜂の巣から、蜜の詰まった巣を削り取るには、どうしても高い梯子を使う。それには大きな危険を要する。今まではほとんど僅かな蜜しか採ることができなかった。しかし、地上にいるままでも採れるようになったなら、もっとたくさんの蜂蜜を採れる。そのための腕がほしい。──そんなことのために、馬車に魔獣をけしかけてまで、私を誘拐したのだそうだ。
図面を書いた。村人に材料や工具を用意させた。しかし組み立ては素人であるから、私が監督することになった。外に出る時には、必ず義足を奪われた……。それでも、少しずついろいろも我儘を言い、行動圏や動ける時間帯を増やした。何としてでも帰りたい。もう数週間は過ぎている、妻が心配しているはずだ。そうだ、ナタリーは絶対に、あんな新聞を信じるはずがない。私の葬儀を開いたりしない。私を諦めたりはしない。
私が囚われているのは、森の中にある蔵だ。しかしこの頃は、その隣の平屋に立ち入ることを許されるようになった。そこはいわば工場であった。地下で採ってきた蜂の巣を、遠心分離器にかけ、蜂蜜にし、それをさらに蒸留器や漏斗にかけて、妙な薬に換えている。異様に真っ赤な蜜なので、何の薬かと尋ねたが、それは決して答えてくれない。
今日は平屋に客が来た。間違いなく村の外の人間だ、おそらく貴族か何かの遣いだ、身なりでひと目でそれとわかった。村がつくる妙な蜜薬は、かれらが仕入れているようだ。盗み見ていたら、近くの村人にまた殴られた。右腕まで折られたら、追加の図面さえ書けなくなるというのに……。だが、ひとつ収穫を得た。取引の帳簿は、平屋の北窓の横の、壁板の裏に隠している。いつかここを出る前に、どこの輩がこんなものを買っているのか、絶対に突き止めてみせる。
とうとう鯨蝋が届いた。村人に取り寄せるよう言いつけてから、ずっとずっと待ち詫びていたものだ。火をつけて話しかけると、やはり高山精霊が現れてくれた。魔法で輝く火の精霊だ。彼の明かりなら、素養のある者以外には目に見えない。闇夜に紛れて逃げ出しても、それを気取られないで済む! 決行の日までそばにいてくれるよう、夜は絶えず鯨蝋を灯すことにしよう。精霊は優しいいきものだ。こちらが挫けずに希望を語れば、手を貸してくれるに違いない。
せっかく算段を得たというのに、この頃具合がすぐれない。食事に何か盛られているのか。しかしおかしい、やつらは補助腕のメンテナンスのために私を生かしておきたいはずだ。そのためにわざと複雑な造りにしたし、定期的に起きる魔法陣の収斂不良も私にしか直せぬはずだ。それとも代わりでも見繕ったか。妻は。ナタリーはどうしている。我が子は泣いていないだろうか。精霊が不安がっている。大丈夫だ、と火を灯す。
朦朧としていたら、いななきのような声が聞こえて目が覚めた。馬のそれではない。山羊に似ている。随分辺りを震わせると思ったら、実際に地響きまでした。体に堪えるのでやめてほしい。そんなことを考えていたら、やがて村人がやってきた。定時より随分遅い。皆魔獣狩りか何かをしていたらしかった。ずっとそちらに行ってくれれば良いものを。精霊は隠れてしまった。この村の人間は、彼にきらわれているようだ。
村人と顔を合わせるだけで発疹が止まらない。おそらく何かのアレルギーだ。特に奴らが、「花畑」から帰ってきたときが酷い。そこの花にやられているのか。村人も困っている。生かさず殺さず飼い繋いできたくせに、予想外であるらしい。しかし医者を呼んではくれない。この村の医者はむらおさだけだ。むらおさは私が死んでも構わないと考えているようだ。冗談じゃない。痒い。痒い。皮膚のあちこちが掻き崩れて血まみれだ。痛い。帰りたい。妻に会いたい。私はまだ死んでいない。
熱。咳。喀血。凄まじく衰える。何故。
精霊が出てこなくなった。
むらおさが来た。葬送の句を詠まれた。おまえは特異体質らしい、花の愛を受け付けぬらしい、可哀想なことをした、と。ならばここから出せ。妻と我が子に、最期にひと目だけでも。そう言ったが無駄だった。神はいない。
祈るより憎むが増えた。
どうしてこんな目に遭うのだ。
私が何をした。
痛い 取り除いてほしい
痛い
ナタリー 会いたい
エミール 息子よ
おまえがこれを読んだなら
この忌まわしい谷の魔核を どうか
そうすれば 私は 向こうで )
*
…………。
(手帳には、まだ空白のページが随分とあった。綴じ跡からして、途中で付け足したものだろう。すぐにはこの村を逃げ出せないと悟り、それならいっそと記録を残すことにして……それすらも道半ばのまま。ジョルジュ・ジェロームの迎えた最期が、酷く苦しく孤独だったのは、火を見るよりも明らかだった。
腰元の皮袋の口紐を解き、布を取りだして、ジェロームの日記をくるむ。これが消えたところで、フィオラの人間に気づかれることはないだろう。そのまま、重い面持ちで隣の相棒を見やる。日記帳に刻印入りの財布、このふたつの物証で、この村に憲兵団を踏み込ませるための最低限は揃ったはず。逆に言えば──これ以上、このフィオラ村にいるのは危険だ。だがそれでも、念には念を入れるならば。)
……平屋の方も、確かめてみるか。
……はい、行きましょう。
( ──なんて、惨いことを。ギデオンの肩越しにジェロームの手記を覗き込み、今にも泣き出しそうな表情を堪えて力強く頷けば。目的の見えない醜悪に、強大なドラゴンを相手取るような意気込みで潜った平屋の中は、しかしビビにとっては拍子抜けするほど馴染み深い空間だった。厚い扉をくぐった途端、暑すぎず寒すぎず、適湿で無機質な空気が周囲を取り巻く心地よい感覚。ここの構成員が皆、祭の準備に取り掛かっているからだろう。部屋は暗いのに、微かに響く風の音は空調魔法のそれだ。ポツン、ポツン……と、一定のリズムを打って落ちる薬品が、落ちた先の溶媒とその都度反応して淡く輝き。隣の棚に並ぶのは、乳棒とセットになった白い乳鉢に、清潔に保たれたビーカー、大小の薬匙はピカピカに磨かれて錆ひとつない──"秘薬"の話を聞いた時からあるだろうとは思っていたが、まさかこんなに現代的とは思わない……ここが、紛れもないフィオラの"製薬工場"だった。 )
お祭りは、年に一度、ですよね。
…………。私は薬の方を探ってみるので、ギデオンさんは帳簿を。
( 思わず苦しげに漏らした呟きには、未だまだ心のどこかでフィオラの村民達に悪気はなかったのだと。外界との関わり方を忘れてしまった、ただそれだけで、未だ正しい道に戻れる可能性を信じたかった青い苦悩に満ち溢れて。一年に一度、ただひとりの英雄を生み出すのには過度な規模の工場に、顔を顰めるのを堪えられず。どうやら研究結果を記しているらしいホルダーの棚の方へと、幼い表情をギデオンに見咎められぬよう顔を逸らしたのが数分前の事だった。
そうして手に取った書類の中身は、例の秘薬の投薬実験の結果のようだ。被験者の年齢と性別、それからおおよその身長と体重に──しかし、無機質な文字の羅列の様子がおかしくなるのはそれ以降だった。
40代男/170cm65kg/250cm300kg
50代女/150cm40kg/300cm500kg
10代男/190cm85kg/210cm350kg
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前半の数字は被験者の身長体重だとして、2番目の数字はなんだろう。特別扱い被験者の体格と比例するわけでも無さそうだが──その答えは、何気なく捲った次のページが語ってくれた。フィオラの秘薬を投薬された人間が満月を浴びると起こる現象の全て。鋭く伸びる爪と牙に、次第に分厚い毛皮が背中を破る。本来、将来の形から大きく変わるはずのない人間の骨格、それがバキバキと嫌な音を響かせ、ゆっくりと変貌していく間の断末魔の詳細。その末路の姿は被験者ごとに異なるも──これは紛れもない、『人が魔獣へと変貌する』瞬間の世にも悍ましく信じ難い光景の記録だった。 )
──…なによ、これ
──……何だ、これは。
(同時刻。製薬施設の北窓近くで、ジェロームの手記のとおりに帳簿を見つけたギデオンは、全く同じ呟きを落とした。己の相棒、ヴィヴィアンが、おぞましい悪事の記録を目の当たりにしてしまったように。ギデオンもまた、別の恐ろしい真相に行き着いていたからだ。
──フィオラ村の極秘の帳簿。それは、単に上辺だけ読むならば、ごくごく普通の内容だった。協力費、180,000、ネズベダ市市自連会費。売掛金、3,200,000、ビェクナー商店へ商品32個計上。什器備品費、250,000、フンツェルマン工具店……エトセトラエトセトラ。どれも生真面目な記述ばかりで、よその帳簿とそう変わりないように見える。無論、200年もの間孤立していた筈の村が、こんなに大きな数字での取引を複数交わしていたというのは、まあまあおかしな話であるが。しかし単にそれだけ見れば、他の町なり村なりもやらかしているような悪事だ。引っ張れる罪状は、たかだか脱税や贈賄程度。ギデオンが目を瞠ったのは、もちろんその程度のためではない。……帳簿の摘要欄にある、取引先や納品先を、偶然知っていたせいだ。
──ネズベダ市。そんなもの、トランフォードには存在しない。これはセントグイド以北の湾岸部にいる、悪名高いルーンマフィア、その後援組織を言い換えた隠語なのだ。あの辺りはキーフェンマフィアの勢力が強く、細々住みついているルーン系の犯罪者たちを、一部の貴族が支援して……その見返りに、様々な“事業”をさせていると聞いていた。──フンツェルマン工具店。これは裏社会で悪名高い、“なんでも”つくる工具店の別名義だ。魔導性の鉄の処女、苦悩の梨、ファラリスの牡牛。そういった派手な拷問器具から、或いは一般に購入履歴を残したくない、何てことのない器具工具まで。とにかく、わけありの購入者のためにあらゆる道具を納品する、どす黒い業者である。──そして何より、ビェクナー商店。これは商店とは名ばかりの、極悪貴族の裏稼業の名だ。“ビェクナー商店に糖蜜を発注する”と言えば、それは毒殺の指示を意味する。繋がりのある貴族家同士で、ちょっとした茶会の折に、そういった言葉をそれとなく交わし合い、互いの政局を交換するのだ。とはいえ、ビェクナーの名は無数にある名のひとつに過ぎず。他にも存在する多くの名義が、結局最後にはひとつに行き着くようにできている。悪逆非道の貴族家に──未だ捕まらぬ性悪女狐、ルシル・エルノーの飼い犬のもとに。
ギデオンがこれらの情報を得ていたのは、奇しくも仕事のためだった。かつて王都を騒がせた、インキュバスによるまじない事件。あれの捜査で、ヴィヴィアンと共に憲兵団に協力したとき……かれらが本来部外秘とする極秘資料に目を通していた。この具合の良い頭は、当時入手した情報をしっかり脳裏に焼き付けている。それがまさか、あれから随分と月日が経っているというのに。華やかなダンスホールからは程遠い、山奥の村にいるというのに、再び見るとは思わない。しかし、フィオラ村の帳簿の上には、もはや疑いようもなく、あの資料にも載っていた悪党どもが名を連ねている。
これが意味するのは、ただひとつ。フィオラ村もまた、想像を絶するほどの極悪であるということだ。もはや決して、因習の残る寒村などでは有り得ない。あのエルノーが使うくらいだ、相当のことをしでかしているはずだ。ならば彼らは貴族相手に、いったい何を売っているのか。何を生産しているというのか。──その答えは、青い顔をしたヴィヴィアンが、手元の記録簿で教えてくれた。)
……………………
(しばし、重々しい沈黙を選んだ。相棒に背を向け、頭を抱え、辺りをゆっくり歩きまわって。ふたつの記録を突き合わせることで否応なしに浮かび上がった、考え得る限り最悪の情報。それを事実として飲み込むのに、どうしても時間がかかった。状況を受け入れることは、本来己の得意分野であるはずなのだが。しかし、よもやこれほどまでに、受け入れがたい苦痛になるとは。
無理からぬ話だろう。この世に蔓延る、血も涙もない悪人どもが。──人を、魔獣に、変えているのだ。
ここをすぐに出なければ。呻くような表情で、何度も何度もそう考える。今の自分たちは間違いなく、既に相当まずい状況に陥ってしまっている。だがしかし、状況を冷静に振り返ってみればどうだ。冒険者の仲間たちは、本来の目的であるフィールド一帯の調査のため、散り散りになったところだ。皆武装してはいるだろうが、地の利があるのは圧倒的にフィオラ村のほうにちがいない。それに、ああ、一般人であるレクターとその助手も連れてきてしまっている。彼らのことは絶対に、無事に帰してやらねばならない。──否、ギデオンひとりの本心としては。だれよりも、自分自身よりまず先に、ヴィヴィアンのことを逃がしたかった。ヴィヴィアンと、それにエデルミラ。せめて彼女らふたりと、それにレクターたちだけでよ、他の仲間たちより先に、何なら応援を託せれば……。しかし、この異常な温暖さのせいで忘れそうになっているが。本来、今は真冬の時季だ。山の地熱に守られた峡谷のこちら以外は、吹雪が荒れ狂い、ウェンディゴすら飛び交う世界だ。そうでなくとも、よその人里に出るまでに、魔獣の巣食う山岳地帯を数日かけて抜けねばならない。女性ふたりではとても無理だ、一般人どころか自分たちの身も守りきれない、みすみす死なせに行くようなものだ。だが、他の冒険者たちをすぐに呼び集めるとなると。その時間は、この情報を即座に理解してもらうための算段は。
そう考えていた矢先のことだ。がたり、と外で物音がした。ぱっと顔を上げたギデオンは、そちらを振り向いて一瞬だけ凍りつく。いくらか聞える話し声、何か外壁に荷を下ろしたらしい村人たちが、平屋の中に入るつもりだ。考えるまでもなくヴィヴィアンの手首を引っつかみ、足音を立てぬ大股で、平屋の奥へずんずんと突き進んだ。目指す先は、先程自分が確かめた、空の大きな用具入れ。その戸を素早く引き開き、ヴィヴィアンを先に押し込む。そしてその一瞬だけ、ぎりぎり背後を振り返る。平屋の大きな扉が開き、何か運び込む村人らが見えはじめた。そこで間髪入れず、ギデオンも中に滑り込み、閉ざした狭い空間にヴィヴィアンを掻き抱いく。慎重に息を押し殺す、どうしようもなく心臓が暴れる。扉に空いた細い横穴から、そっと外の様子を窺う──ヴィヴィアンの目線の位置からも見えるだろう。ここからでも、彼らの会話は聞こえるだろうか……奴らは、こちらに来るだろうか。)
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