匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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そんな……そんな、大したものじゃないんですけど……採石場がみたい、って……
( ──集団移住、ですか? なにか確信を得たかのようなギデオンに、ビビの脳内を過ぎったのは、いつか大興奮でビビの問いかけに頷いていた、例の大声教授の満面の笑み。元は細い目元をこれでもかと見開き、ぶんぶんと嬉しそうに拳を振り上げたレクター曰く──この村がせいぜいひと冬で滅んだ筈無いと。それにしては、村に残る品々の年代がちぐはぐすぎる、ここの村民はもっと長い、長い時間をかけて。徐々に人口減少したか──もしくは計画的に、どこか違う場所に移住したんじゃないか。「もしそれにお目にかかれるならば、僕は今後の糧が全てそら豆になろうと構わ……やっぱり嫌ァ!」と、勝手にうるさい名物教授は、続けてこうも言っていた。それに、集団移住説だって分の悪い話じゃないはずだと。この村の道具たちは新旧さまざまではあるものの、皮革産業だけでなく、「高い石切りの技術を持つ人達だと思いますよ。それこそ必要に駆られて、居住区を変えるのは訳ないでしょうね」と──採石場跡でも見つけられれば、村に残る石の数と照らし合わせて、彼らが外に出たのか、大きな手がかりになるでしょうな。と、非常にワクワクしているところを申し訳なかったが、その日は既に日が沈みかけていたので、丁重にキャンプにお戻りいただいた次第である。それから、レクターの見張り……もとい、護衛班が交代となり、例の槍使いの所属する班が引き継いだ訳だが、成程。本日辿ったルートは確かに、高い高い崖に沿い、採石場を探すような動きに違いない。
──その会話をしたのは、他でもない自分だったはずなのに。ギデオンの鋭い指摘に目を見張り、キラキラとした尊敬をその瞳に滲ませれば。元々赤い頬をさらに元気に紅潮させたのも束の間。採石場を探して幾許も進まぬうちに、天上から降る白い氷の塊が、みるみるうちに大振りに、横殴りに吹き付け初め。最早これ以上はこちらが遭難する悪天候に、これまでか、と。誰もが思って口にしたくないそれを、一番責任感の強い者が口にしようとしたその寸前だった。雪でけぶった悪い視界に、ずっと右手に捉えてきた険しい岩肌、手前の大きな岩に遮られ、見づらくなった亀裂の奥に、何かゆらりと光ったかと思うと。「レクター様とご同行の方ですね?」「ようこそいらっしゃいました」と、この9日間で聞きなれぬ、どこか幼気な声が吹雪の向こうにりんと響いた。双子だろうか、揃いの皮革のコートを身にまとい、とてもよく似た面立ちの10代半ばと思われる男女は、「今晩はこの猛吹雪です、私たちの村にお越しください」と声を揃えると、人形のように穏やかな笑みを冒険者たちに差し向けるだろう。 )
(突然姿を見せたかと思えば、この吹雪のなか、ゆらりと穏やかに微笑む双子。その声も、見てくれも、まだ年若い子どものはずだが……異人を見つけての振る舞いは、完全に村の年寄りのそれだ。どこか歪なその雰囲気、常人に比べ浮世離れした口ぶりに。ギデオンは一瞬、何かぴりりとざわついて──いつかの豪雨の日を思い出して──無言でかれらを見つめずにいられなかったが。代わりに、隣にいるエデルミラが、「彼、無事なのね」と口を開いた。名前を知っているということはそうだろう、そちらの口ぶりからして酷い状態にはないらしい、と。横殴りの雪をものともせず、ギデオンと一瞬交わしたその視線からは、(今はレクターの保護を優先しましょう)という熟慮が見て取れる。それでギデオンも、この場は一旦、数歩下がっておくことにした。直接顔は見ないものの、ざくざくと雪を踏みしめながら、無意識にヴィヴィアンの傍へ。……相棒には、ギデオンがなんとなく慎重になってしまうのが、吹雪越しでもわかるだろうか。
エデルミラと双子の間で、いくらかやり取りが為された後、すぐに彼女が戻ってきた。やはり先方は、いなくなったと思われていた、この谷の住人らしい。崖の内部にトンネルがあり、そこを抜けた先の場所に、今の村を構えていて……レクターもそこにいるという。そこでエデルミラは、この捜索隊をふたつに分けると言いだした。リーダーである彼女と、ヒーラーのヴィヴィアンは必須。経験の長いギデオンのほかに、数人の中堅や、体力のある若手も欠かせない。そこにあの槍使いが、自分の引率下で起きてしまったことなので、と志願したため、彼も加わることになった。──以上、9名。それ以外の大勢は、アラドヴァルの大ベテランの指揮のもと、谷底の調査本部に帰還である。そこで待っているほかの仲間に、この状況を共有しに行ってもらう必要があるからだ。
帰還組が元来た道を戻るのを、一行は黙って見送った。といっても、彼らはすぐに、白い幕の向こうへと見えなくなってしまったが。ふと振り返れば、例の双子も、物言わずじっと眺めていた。しかしギデオンの視線に気づけば、またにこりと、今度はやけに歳相応に愛らしく見える笑顔を浮かべ。「それでは、ご案内いたします」と、いよいよ踵を返して、崖のほうへと歩きはじめた。)
(──トンネル内部は、きりりと冷え込んでいた。それに静かで、靴音がやけに響く。ランタンを掲げている先頭の双子は、迷いなく、だがゆっくりと進んでいくので、魔法使いの灯す杖明かりを元に、周囲に目を配る余裕があった。頭上に高く高く広がっているだけで、隧道自体は、狭く細い一本道だ。剥き出しの岩肌を見るに、掘削ではなく天然らしい。しかしなるほど、これはレクターの興味を引きそうだなと、傍を歩くヴィヴィアンとふたり、ちらりと視線を見交わす。あの好奇心旺盛な教授のことだ、何か可能性を見出したら、確かめずにいられなかったのだろう。ほんの少し覗くつもりが、奥の奥まで行ってしまったのだ。
やがて不意に出口が見えた。それと同時に、はっきりと違和感を覚えた。──気温が、違う。前方から流れこむ空気が、妙に寒さを欠いている。双子に続いて崖の外に出た一行は、そのわけをすぐに突きつけられ、思わず呆然と立ち尽くした。……トンネルは、それほど長くはなかった筈だ。だというのにこちら側では、あれほどの吹雪が止んでいた。それどころか、真っ黒な夜空が、酷く美しく晴れ渡っている。……満天の星と、やや細い半月。そしてはるか遠くの、真っ白な頂をたたえた雄大な三角の山が、くっきりと見て取れるほどだ。
双子の案内に連れられて、さらに進んだ一行は、また立ち止まることになった。崖沿いの斜面の上から、こちら側の谷底を見下ろすことができるのだが……そこには、冒険者たちの無意識の予想を覆す光景が広がっていたのだ。──暖かな明かりの灯る家々、そしてこの季節だというのに、緑豊かな畑の数々。それが谷底いっぱいに、当たり前のように広がっていた。せいぜい百やそこらとおもっていた村の人口は、どうやら以上あるらしい。……これが本当に、二百年も外界と隔たれてやって来た村なのだろうか。感嘆を隠せぬ冒険者たちに、先頭の双子が再び振り返り、にこりと穏やかに微笑んだ。「ようこそ、私たちの里へ」──それぞれ片手を広げ、迎え入れるような仕草を披露する──「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」。)
( エデルミラの呟きに、「レクター様はご無事です」「"非常に"精力的に過ごされておりますよ」と。その厳かな頷きの中に、不穏なそれだけでは無い、どこか遠い目をした含みを感じ取れば、この場の誰もが覚えのあるだろう疲労感に親近感さえ覚えて。その可愛らしい見た目も相まり、うっかり気を許しかけていたヴィヴィアンだったが。──200年前の大寒波、時を同じくして凶暴な魔獣が村を襲って以降、このトンネルの向こうに住まいを移したのだと。小さなランプひとつで進む道中、「最近はやっと村も落ち着きまして、また交易も再会出来ればなんて考えていたところだったんですよ」などと、気さくな様子で微笑む少年の一方で。先程までずっと先方を行っていたはずの相棒が、それとなくこちらへと近づいてくる動きに気がつけば。──……? 魔獣、落盤……それともこの子達に何か……? と、そのギデオン自身も明文化しきれていない真意こそ読み切れぬまでも、さりげなく"非力なヒーラー"がぐったり疲れた振りをして、その大きな影にもたれると、歩きやすさ優先で収納していた杖を腰に下げ直しておくだろう。
そうして開けた視界の先で、その鮮やかな緑と白い建物のコントラストに目を瞬かせていれば。「驚きましたかな、この街は火山の地熱を利用しているのですよ」と、草の地面を踏みしめながら近づいてきたのは、これまた立派な皮革を纏った男……とも、女とも取れない年寄りで。「「おじいさま!!」」と、それまでの大人らしい態度を一変させ、人懐こく飛びついていく双子を──こらこら、と優しく撫でながら、ゆっくりとこちらを見回した彼は──決して悪気は無いのだろうが、同年代でも男である相手の方を責任者と判断したか、ゆっくりとギデオンの方へと向き直り。「"むらおさ"のクルトと申します。ちょうど祭りの日に貴方達を迎えられて──」と、にこやかに挨拶を仕掛けた時だった。「なんて素晴らしいんだ!!!」と遠く離れた民家から、冬の夜の空気を揺らす最早聞きなれた大音声。その主であるいつの間にかこの村らしい装いを身につけた某学者が、まさにスキップせんという勢いで飛び出てきたかと思うと。ギデオンの後ろにヴィヴィアンを見つけたその途端、それはそれは嬉しそうな表情でこちらへと駆けて来ようとして──しかし。その「ビビ君! ビビ君! 聞いてくれ──……」と、その出処不明の勢いが段々と削がれて行ったのは、少なくともエデルミラ、若しくはギデオンも近い表情はしていたのだろうか。百戦錬磨の冒険者から放たれる鋭い怒気kあれられたらしい。一行の前に歩みでる頃には、どこぞの電気ネズミの如くシワシワに成り果てたレクターは、聞いたこともないような小さな声で、「ごめんなさい」と子供のように囁くと。それはそれは不安そうな表情で「……あの、僕が悪いんだ、彼は罰せられるのかな、」と申し訳なさそうに俯いて、胸の前で所在なさげに指をいじり始める様子は、誰が見てもごくごく健康と言って差し支えないだろう。 )
※些事なのですが、前回のロルに書いた「やや細い半月」は、「やや膨らんだ半月」と読み替えていただければ幸いです(時系列修正や世界観関連の意図によります)。
(ギデオンたち捜索隊が、必死に探し回っていたというのに。人騒がせな学者殿は、どうやら全くの無事だったらしい──現にご覧の恰好である。がくりと項垂れたギデオンが、それはそれはわかりやすく、疲れきった溜息を洩らせば。その意図をしっかり汲んでくれたのだろう、ずん、ずん、ずずん、と三人の強面戦士が進み出て。「おんどれなにしとったんじゃゴラァ!」「カタ悪いことしてんとちゃうぞゴラア!」「落とし前つけんかいィ!」等々、しおしお縮こまる大男を、雛を虐める海鳥宜しく取り囲みながら、大げさに怒鳴る有り様だ。傍目にはまあまあ手荒だが──例の槍使いなど、慌てて止めに入ろうとしていた──一応これはこれで、本人の無事を盛大に祝う冒険者なりの所作である。……ガス抜き? 何のことだろう。
とにかく、レクター本人にはそうして反省してもらう間。ギデオンとエデルミラは、改めて村長クルトに向き直り、再三の礼と挨拶を述べた。──我々は、国内中部の各ギルドから寄り集まった、有志の冒険者パーティーです。長らく調査の行われなかったこの地方の魔獣、植物、鉱石について調べるため……及び、風の噂で無事に暮らしていると聞いた谷の人々の近況を尋ねるため、遥かな山々を踏み越えてまいりました。あの男は、あなたがたのご無事を誰より祈っていた学者です。ご迷惑をおかけしたようで大変に申し訳ない、助けてくださってありがとうございました。手土産を持参しているのですが、そちらは現在、キャンプに残してきた仲間たちの手元にあります。ですので、此度のお礼と正式なご挨拶は、また後ほど改めて。その手前、非常に心苦しいのですが、今夜のところはこちらにひと晩泊めさせていただいても宜しいでしょうか。あちら側は酷い吹雪で、皆帰れそうにないのです。
「どうぞどうぞ、遠慮なくゆっくりしていってくだされ」と。クルトはやはり朗らかに、しかし依然としてギデオンのほうだけを見ながら、家々のほうを指し示してみせた。「村はこれから、6日間続く祭りを催すところなのですよ。第一夜はもう終わってしまいましたが……よそからお客様がお見えになったと知れ渡れば、明日から皆、貴方たちを歓迎しきりになることでしょう。お食事はお済みですかな? ああ、そうですか。よかったら、自慢の蜜菓子をお夜食におつまみくだされ。ええ、ええ、この谷の特産品は、この皮衣だけではないのです。我々の飼うミツバチは、非常に働き者でして……」
かくしてギデオンたち一行は、このヴァランガ峡谷の隠れ里──フィオラに泊まることになった。村の手前に空き家が二軒ほどあるらしく、そこに毛布や薪を運び込んでくれるようだ。先ほどの双子のほか、中年の村人たち数人と顔を合わせた。皆にこやかだったものの、明日からも控えている祝祭の準備で忙しいとのことで、挨拶もそこそこにすぐ引き上げていったのが、なんだか拍子抜けである。しかし元より冒険者たちも、数日続いた緊張状態の野営の末に、吹雪のなかでのレクター捜しと来て、流石に疲れ果てていた。今宵はゆっくり休むべきだろう……ちなみに、余談ながら。既に村人と親しくなったレクターに限っては、先ほどの民家から既に招かれていたらしく、申し訳なさそうに冒険者たちと別れていた。しかしそれを威勢良い声で送り出してやったのは、先ほどのいかついトリオである。無事さえわかれば別に良いのだ。
──ヴィヴィアンとエデルミラの女性陣だけで泊まれるような建物は、特に手配されなかった。しかし流石に、いきなり押しかけてしまった身で贅沢を言うわけにはいくまい。彼女らの許可を得て、アマルツィアの弓使いとギデオンのふたりが、用心も兼ねて相部屋を受け持った。……このとき、エデルミラとは少しだけ、今後の懸念を話し合おうと思っていたところなのだが。顔色があまり良くないのでそっと尋ねてみたところ、どうやら月の障りが突然きてしまったらしい。「レクターを見つけたら、なんか……ほっとしちゃったみたいで……」……今回のクエストは長いから、ちゃんと薬も飲んでたのに、と。責任感からか、こんな時にという苛立ちからか、あるいは純粋に余程体調がすぐれないのか。酷く顔を歪める彼女を、休ませないわけがない。ヴィヴィアンに事情を打ち明け、男にはどうしようもない手助けを彼女に託し。ギデオンたちもまた、ふたりには悪いようだが、梁に布をかけただけの仕切りの向こうで、すぐ寝入ることにした。もっとも、ほんの少しでも物音がすれば、すぐにすうっと目を覚まし。傍に置いている魔剣の柄に手を寄せながら、じっと耳を澄ましてみたが……今夜のところは杞憂のようで。──フィオラでの最初の夜は、何事もなく更けていった。)
(さて、翌朝。冒険者たちが朝食のご相伴にあずかろうとしていたところで、昨夜キャンプ地に帰還した、或いは残してきた仲間たちが、トンネルを通ってこちら側に合流した。これで総勢数十名ものよそ者たちが、谷あいの小さな村にいきなり溢れたわけである。
しかしそれでも、フィオラ村の人々は温かく歓待してくれた。私たちの里にようこそ──心からお待ちしておりました! その純真できらきらとしたまなざし、谷の外から来た人間に興味津々な様子ときたら、元々浮かれやすい冒険者たちを擽るのもわけないことだ。特に若い連中ほど、あっという間に村人たちと打ち解けたようで、「ぼうけんしゃ?」「ほんもののぼうけんしゃ!?」と、子どもたちに群がられていた。レクターなどは言わずもがな、あの陽気なお喋りが朝っぱらから止まりそうにない。その勢いにはフィオラ村の人々さえ若干引き気味であったものの……自分たちの何てことのない話から、谷の周辺の植生などを正確に言い当てるのを見て、酷く興味をそそられたようだ。子どもよりも大人のほうが、レクターによく聞き入っていた。
仲間たちとフィオラの人々が活発に親しみ合うのを見て、エデルミラやアラドヴァルのベテランと共に、暫くこの村に滞在したいと打診した。村人たちの許可を得て、きちんと労働を手伝いながら、ここらのことを聞きだせれば。その方が余程効率よく、ヴァランガ一帯の調査を進めていけるに違いない。村長クルトも、ふたつ返事でそれを了承してくれた。村のおなごたちも喜ぶでしょう──こんなに面構えの良い男たちがやってきて、浮つかぬわけがありますまい。
そんなわけで、まずは手始めに、村人との交流である。仲間たちがすっかり元気に動きだした後、逆に深めの二度寝に及んでいたギデオンは、遅れて参加しようとして……しかしいきなり面食らった。若い冒険者の連中ときたら、見てくれは皆いかつい大男であるくせに、花冠なんぞ乗っけていたのだ。どうしたんだと尋ねてみたら、どうもこの村には年中咲く花畑があるようで、そこの花を摘んだ子どもたちや村娘が、プレゼントにとくれたらしい。「カレトヴルッフのお堅いの! あんたもひとつ被っちゃどうです?」──朗らかなそのお誘いを、しかし丁重にお断りして、まずは相棒の姿を探す。相手は今ごろどうしているだろう。人好きされやすい彼女のことだ……あいつらと同じように、フィオラ村の子どもらに懐かれているところだろうか。)
( ──はなをなふみそ、はなをなふみそ、あかきもちづきたくよさり──
フィオラ村の中心地から少し離れた丘の上。下の村からは見えないが、少し高くなったこちらからはよく村を見渡せる花畑に、村の子供たちの歌声が無邪気に響いている。高い高い冬の空に、不似合いなほどの鮮やかな緑、色とりどりの花々の間でくるくるとはしゃぎまわる子供たちの着物が真っ白に太陽を反射して。時刻はちょうど昼下がり、真上に上った太陽に影らしい影が鳴りを潜める光景にその名を呼べば、自身もまた真っ白なローブを纏った娘がギデオンを振り返るだろう。──それは、ギデオンとエデルミラを休ませて、自分も村民との交流を図るべく、夜の祝祭に向けた準備の輪に加わろうとした時のこと。「思わぬルールがあることもある」と、現代人の不用意なふるまいに対するレクターの忠言を思い出して、己が触れていい物を確認しようとするビビに、しかし村民の男たちの様子は好ましいとは言い難かった。決して悪意を自覚しているわけではない、しかしお手伝いをしたがる子供に向けるような、仕方なさそうな生ぬるい視線。年若いとはいえ、立派な成人であるヴィヴィアンに対して、有益な何かができるとは一切信じていない。その癖、彼女の持つ容姿に好感を隠さぬ不可解な──否。これが少なくともエデルミラら上の世代の女達なら、ごくごく見慣れたそれだということを、個人主義である現代の魔法使い社会で育ったビビが慣れていないだけなのだが──兎も角、うっすらと不快な対応に困惑し立ち尽くすビビの腕を引いたのは、彼らもまた忙しい“大人”とは切り離された存在である、皆よく似通って愛らしい村の“子供”たちだった。その無邪気に振舞うことを義務付けられた存在たちは、大人たちの気の引き方をよくよく心得ているようで。ビビの手を引き美しい花畑の存在を教えてくれると、器用に編み出した花冠を腕にかけて、先程ビビ達を冷たく振り払った大人たちの頭にかけていく。そうすると、先程まであれほど冷たかった大人は皆一様に仕方なさそうに微笑んで、皆一様に微笑ましがる。そうして子供たちはまた次々と冠を増産し始め、いつの間にかビビのように年若い女性たちも花輪作りに加わり始めていた。せっせと冠を作ろうさぼろうと咎められない、なんの責任感もない空間は大人になってまだ浅いビビにはよく覚えのあるそれで。この村における若い女の立ち位置に気が付き始めたヴィヴィアンの不安に、そのよく聞きなれた低い呼び声はとても落ち着くものだった。
ギデオンを一目見て柔らかい笑みを浮かべるビビの頭上で、大ぶりな花輪がふわりと揺れる。ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、それまでビビの膝を占拠していた少女に飛びつかれ、「危ないよ」と苦笑しながら膝をつけば。閉鎖的なコミュニティ故だろうか、ビビに限らぬ互いもよくよくくっつき合ってじゃれ廻っている距離感の近しい子供たちにもみくちゃにされ、仕方なく自ら腕を伸ばして相棒を近寄らせれば。今後の相談をしようとするビビの肩越しに、噂の“冒険者”に興味津々といった子供たちの青い目がキラキラとギデオンを貫くだろう。 )
おはようございます、ギデオンさん。
もう少し休まれてなくて大丈夫ですか?
ああ、もうすっかり大丈夫だ。
(相棒の手に引かれるがまま、彼女の横にしゃがみ込み。話をするよりまず先に、村の子どもたちにごく軽く笑みを向ける。挨拶代わりのつもりだったが──しかしかれらときたら、はわあと大きく息をのんだかと思えば、ヴィヴィアンの肩や背中にますますしがみつくばかり。未だ肩越しにぴょこぴょこと覗いてくるものもいるが、ギデオンと目が合えばはっとしたように固まって、はにかみながら隠れてしまう。ヴィヴィアンにはこのもちもちした団子っぷりだというのに、どうやらギデオン相手には、気軽に懐いてくれないようだ。
苦笑しながらすっかり腰を下ろしたところで、そのきらきらしたまなざしが、どれもギデオンの腰元に注がれるのに気がつけば。鞘に収めた魔剣を見下ろし、次いで再びかれらを見上げ。実にそれっぽく片眉を上げながら──「悪いな。大事な仕事の道具だから、気軽に触らせてはやれないんだ」なんて、如何にも気障ったらしい台詞を。すぐ隣の、ギデオンの上辺も素も知り尽くした相棒には、果たしてどう映っただろう。ともあれ子どもたち相手には、無事に“かっこいい冒険者”を演じることができたらしく。「ほんものだ……!」と興奮したひそひそ声で囁きあい、何かうんうん頷き合ったかと思えば。ぱっとヴィヴィアンから身を離し、今度は野兎よろしく、花畑のなかへ元気いっぱいに駆けだしていった。「あったあ!」と、遠くですぐに掲げたそれは、如何にも手頃な長さの木の枝。おそらく皆で“冒険者ごっこ”でもおっ始めるつもりだろう。王都でも地方でも、おそらくこの国ならどこでも見られるわんぱくな景色──健やかで良いことだ。
さて。大人には分の悪い純真無垢なギャラリーは、こうしてあらかた追い払えただろう。遠くできゃっきゃと上がる笑い声を浴びながら、隣の相手をようやく振り向いたギデオンの表情は、故に酷く満足気なもので。「……流石にあいつらの前で、こんな風にするわけにはいかないからな」なんて、口元を緩めながら、片手を緩く相手に伸ばし。栗毛のいただく花冠を、戯れに優しくいじっては──ほんの一瞬、子どもたちの目を盗んで、薄い唇を重ね合わせる。本当はもっと……先ほどギデオンを振り返る彼女を目にしたあの瞬間、とても言葉では言い表せない感情が湧いたあの瞬間から、もっと深くしてやりたくてたまらない気分だったが。うっかり夢中になったらまずい状況には変わりないし……第一今は、残念なことに、一応仕事中である。それゆえ、名残惜しそうに顔も身体も引き離し。それでも共犯ならではの、悪戯っぽい微笑みを浮かべ。)
──……本当に、よく似合ってる。
ここの花は不思議だな……まるで、ここだけ春みたいだ。
まあ! んっ、ふふ……ええ、ずっと見ていられるくらい……
( きゃははははっ! と楽しそうに駆け出していく子供たちに手を振り、自らもまたギデオンの方へと振り返れば。果たしてそのうっとりとした眼差しは花畑に向けられたものだか、愛しい恋人に向けられているのだかどうだか。つい先程子供たちに向けられた清廉な笑顔と、今自分に向けられている悪戯なそれとのギャップに、満点のファンサービスをもらった子供たちへ、内心ほんのりと嫉妬していたことさえ忘れてしまって。「これね、私が作ったんです」とおもむろに頭上へと手を伸ばすと、その陰に隠れてもう一度。そっと柔らかな唇を触れてそのまま、キラキラと太陽を反射する美しい金色に戴せてやる。そうして吹いた暖かな風に栗色の毛を靡かせ、ゆっくりと草の上に腰を下ろせば。向こうの子供たちは全員分の獲物を手に入れて、いよいよ遊戯にも熱が入ってきた頃合らしい。きゃっきゃと響く聞きなれた宣誓のまじないに、フィオラにも伝わっていたのかと微かに目元を見開けば、視界の端にその小さな青い星型の花が映った途端、何気なく身体が動いていた。ぷつりと茎を摘み取って、自分の指に巻いて輪っかを作ると、むいむいと相手の分厚い左手を我が物顔で引き寄せる。それからその青いリングを薬指にかけようとして、しかし、娘の指に合わせたリングが太い関節に引っかかってしまえば。寸前までにこにこと満足気な笑みを浮かべていた娘のふくれっ面と言ったら。わぁん、とギデオンを前にして気の抜けた声を上げ、もう一度同じ花を探して腰を上げれば。ギデオン越しに見つけたそれに、相手の隣に手をついてぐっと大きく手を伸ばして。 )
だめ、だめ、まって、作り直しますから!
(──ああ、そういえば。子どもの頃の……十かそこらの頃の俺も、他の見習い仲間と一緒に、あんな風に長い長い宣誓式をしたっけな。しかしフィオラの子どもたちは、谷の外を知らぬだろうに、よくあんなのを知ってたもんだ……と。ふわふわした花冠を何ら抵抗なく被ったまま、意識を遠くに飛ばしていたギデオンは、しかしふと、自分の片手が構われているのに気がついた。
なんだ? とそちらを見てみれば、隣に座っているヴィヴィアンが、どうやら花の指輪を嵌めさせようとしているようではないか。しかし見守っているうちに、実ににこにこと楽し気だった娘の顔は、目算を誤ったと気づいたのだろう、三つ四つの幼女のように、わかりやすくふてくされて。それだけでも内心可笑しかったというのに──あどけない嘆きの声まで、素直にあげられてしまうのだ。もうこらえきれるわけがなかろう。
くっくっ……と、喉仏と肩を小刻みに震わせながら、相手の意識が新しい花に向かったのを良いことに、第二関節で引っかかった指輪をいじろうと試みる。上手く緩めれば、きっとこのまま使えるに違いないのだ。しかしそこに、だめ、まって! と。最初こそ声だけで制止していた恋人が、慌てたように振り返って飛びついてくるものだから。「こら、なんでだ──」「別にいいだろ──」と、ギデオンもギデオンで、奪われそうになる左手を遠くに逃がし。ぱっぱっ、ぱっと、戯れの攻防に興じる。この花冠も指輪も、四十の男にがとても似合わぬ可愛らしさだ──本来の自分なら絶対好んでつけやしない。それでもどちらも、ヴィヴィアンがくれたものだから途端に気に入るのではないか。相手の細い手首を奪い、そこから届かぬ遠い先に左手を掲げてみせれば。これ見よがしに指輪を見せて、「これはもう俺のものだろ、」と。上手く嵌まらなかろうが、既にこれを気に入っていて、取り替えたくはないのだと主張を。その念押しを欠かさぬよう、「……いいだろう?」ともう一度、相手に顔を寄せ……今度は鼻先を触れ合わせて甘える。真冬にしては暖かい太陽の下、自分の下にいるヴィヴィアンの顔は青みがかった陰になって、まるで自分がそのなかに囚えたような錯覚さえおぼえる。途端に攻防のことなど忘れ、小花を絡めた左手までゆるやかに戻してくると。骨ばった両掌で、相手の栗毛を包み込むように撫でながら……そのまろい額、つんと高い鼻頭、綺麗な丘を描く瞼に、宥めを込めた唇を触れ。)
──……まだ数日は、ここで真面目に仕事をする必要があるんだ。
慰めに……秘密で持たせてくれ。
……だったら余計に、もっと完璧なのを持ってて欲しかったの!
( いい大人がふたり取っ組み合いの攻防戦の末、硬い膝の上に肘をつき、そうまん丸に膨れて見せたところで、楽しげな男は聞こえているのかいないのか。いよいよ此方を本気で宥めにかかってきた相手に、心底嬉しそうな可愛らしい様に免じて、渋々誤魔化されてやることにすれば。先程から可愛らしい声が紡いでいた宣誓は、第二節と第三節がこんがらがって、いつまでも抜け出せないループに陥ったらしい。「ねえもうきいたー」「うるさい、わすれちゃうじゃんか!」とあちらもじゃれつき始めた気配に、くすりと小さく口元を抑えて、乱れた髪をしゅるりと解けば。どちらが先に戯れ始めたかなど、都合の悪いことはさっさと忘れたらしい。──ギデオンさんがそう来るなら、私も甘えていいよね、とばかりに。上半身をぐうと伸ばして、相手の膝の上をぽかぽかと占拠すると。居心地良いように脚を広げさせ、逞しい腕の檻の中から、キラキラと輝く大きな瞳でギデオンを見上げる。そうして、「ねえ、私もギデオンさんに選んで欲しい」と唇を尖らせると。胸元に手を当てながら、欲深く笑って見せて。 )
……一輪じゃいやよ、指輪はもう持ってるから、冠にして?
俺が編むのか? 俺が?
……しょうがないな……
(当然ながら、花冠だなんて可愛らしい代物なんぞ、少年時代に一度とて作ったことのないギデオンだ。そんな人間のお手製で本当に構わないのか、知らないぞ? なんて問う声は、しかしさほど本気でもなかった。たった今伝えたように、自分自身、ヴィヴィアンの作ったものなら何でも喜んでしまえるからだ。──ついでに言えば、髪を解いたときのあのふわりとした香りに、ギデオンはてきめんに弱い。わかってやっているのだとしたら、相手はとんでもない策士である。
故にやれやれと、呆れるふりをして受け入れてみせれば。膝の間で堂々甘えきるヴィヴィアンの髪を、大きな左手で撫で下ろしてやりながら、右手は自分の花冠を取り外し、目の前であちらこちらに傾け。まずはあらゆる角度から、その構造を注意深く観察する。こういうところに、生来の生真面目さと職人肌が思わず出てしまうのだろう。やがてああ、なるほどな、と片眉を上げれば。(少し持っていてくれ)というように、一旦冠を相手に預け。周囲の草花に目を走らせ、手頃なのを見つけるなり、少しだけ腕を伸ばして、ひとつひとつ摘み取っていく。──作業に集中してはいるが。どうやら、腕のなかにいる相手のことは、片時も離すつもりがないらしい。
そうして材料をある程度揃えれば、少し腰を浮かせて、ゆったりと座り直し。相手を軽く手で押して、自分の胸板にすっかりもたれかかるようにする。無論これは、自分の手元の作業がよく見えるよう協力してもらうだけのこと──別に決して、それにかこつけて相手を堪能する意図はないのだ。だからあくまでも、作業だけは真剣に。まずは土台にする若いトクサを柔らかくほぐし、相手の小さな頭に合わせた円形を形づくる。そうしてお次に、葉っぱの大きさが大きく異なる二種類の下草を、グランドカバー代わりに編み込み。その上から、大小も色も様々な愛らしい花を、しっかり結びこんでいく。その指先に迷いはない──ただ、繊細な作業なので、どうしても時間がかかる。故に、ある程度作業が軌道に乗ったところで。「そういや、」と、これまでののどかな沈黙を、こちらの方から緩やかに破り。)
ここに来る前に、他の連中を見てきたが……皆上手くやってるようだ。クラウ・ソラスの連中は村の男と狩りに行ったらしい。レクターは次々に何か発見しているようでな……報告書が楽しみだ。
おまえのほうでも、子どもたちから何か聞けたか。この辺りの気候だとか……魔獣関連の話だとか。
(当然ながら、花冠だなんて可愛らしい代物なんぞ、少年時代に一度とて作ったことのないギデオンだ。そんな人間のお手製で本当に構わないのか、知らないぞ? なんて問う声は、しかしさほど本気でもなかった。たった今伝えたように、自分自身、ヴィヴィアンの作ったものなら何でも喜んでしまえるからだ。──ついでに言えば、髪を解いたときのあのふわりとした香りに、ギデオンはてきめんに弱い。わかってやっているのだとしたら、相手はとんでもない策士である。
故にやれやれと、呆れるふりをして受け入れてみせれば。膝の間で堂々甘えきるヴィヴィアンの髪を、大きな左手で撫で下ろしてやりながら、右手は自分の花冠を取り外し、目の前であちらこちらに傾け。まずはあらゆる角度から、その構造を注意深く観察する。こういうところに、生来の生真面目さと職人肌が思わず出てしまうのだろう。やがてああ、なるほどな、と片眉を上げれば。(少し持っていてくれ)というように、一旦冠を相手に預け。周囲の草花に目を走らせ、手頃なのを見つけるなり、少しだけ腕を伸ばして、ひとつひとつ摘み取っていく。──作業に集中してはいるが。どうやら、腕のなかにいる相手のことは、片時も離すつもりがないらしい。
そうして材料をある程度揃えれば、少し腰を浮かせて、ゆったりと座り直し。相手を軽く手で押して、自分の胸板にすっかりもたれかかるようにする。無論これは、自分の手元の作業がよく見えるよう協力してもらうだけのこと──別に決して、それにかこつけて相手を堪能する意図はないのだ。だからあくまでも、作業だけは真剣に。まずは土台にする若いトクサを柔らかくほぐし、相手の小さな頭に合わせた円形を形づくる。そうしてお次に、葉っぱの大きさが大きく異なる二種類の下草を、グランドカバー代わりに編み込み。その上から、大小も色も様々な愛らしい花を、しっかり結びこんでいく。その指先に迷いはない──ただ、繊細な作業なので、どうしても時間がかかる。故に、ある程度作業が軌道に乗ったところで。「そういや、」と、これまでののどかな沈黙を、こちらの方から緩やかに破り。)
ここに来る前に、他の連中を見てきたが……皆上手くやってるようだ。クラウ・ソラスの連中は村の男と狩りに行ったらしい。レクターは次々に何か発見しているようでな……報告書が楽しみだ。
おまえのほうでも、子どもたちから何か聞けたか。この辺りの気候だとか……魔獣関連の話だとか。
( しゅるり、しゅるり、と髪に触れる手が心地よくて、そっと花の香りに目を伏せる。花冠なんぞしたことないぞ、と言いながら。甘くビビのおねだりに応えてくれるギデオンに、こうして甘え切ってしまったのは、我ながら自分の常識が伝わらない村に疲れていたのだろう。きゃっきゃと上がる歓声に、時折子供たちのことを見守りながらも、束の間の休息を戯れていたその時。──そうだ、何を弱気になっているのか、と。背後からかかった穏やかな声に、他の冒険者達とは違い、ただ子供たちと遊んでいただけにも見えるヴィヴィアンもまた、情報収集していたに違いないと信じてくれているギデオンに、少し弱気になっていた頭を小さく上げれば。長い脚の間で座りなおして、できうる限りの報告を。 )
魔獣のことは……確かに出るには出るらしいんですが、あの子達には危険だから外に出るなとしか。“英雄”が守ってくれる……みたいなことも言ってましたが、こっちは大人に聞いた方がいいでしょうね。
──でも、気候についてはバッチリですよ! ……なんて、むらおささんの仰っていた通りで、火山の地熱を利用しているんですが、古代魔法をそのまま守り続けているみたいです。
一度解除してしまうと、かけ直しができないので──……ねえ、君たち、本当はあんまり魔核の場所とか知らない人に話しちゃ駄目よ。悪い人もいるんだから。
( そう最後に語り掛けたのは、大の男が自分たちと同じ遊びをしているのが物珍しかったのか、いつの間に二人の周りに戻ってきていた子供たちだ。年中枯れない花畑を調べていたビビの気を引きたかったのか、先程、その仕組みをようようと語ってくれたお調子者と。その隣で「ナイショなのよ」と、村の魔術師が定期的に通う場所まで教えてくれた妹の方は、ビビの膝の上を奪い合い。彼女も彼女で純粋に、年少組の暴露に慌てふためき、「ああっ、ダメダメ! ……忘れてね、ビビ?」とダメ押ししてくれた姉の方は、熟練の職人の顔をして、今やギデオンの手つきにアドバイスをくれている。(どうやらすっかり仲間認定されたらしい)ギデオンとビビがこの村のことを調べに来たということを知れば、未だ冒険者見習いにもなれないような小さな子達だ、あまり要領を得ない点は多々あれど、必死に村での生活のことを教えてくれ。少しずつ日が傾き始めた時分、村を見下ろせるこの丘からだからこそ見えたのだろう。この遅い時間から、村から対角線上にのびる獣道に上っていく村民を見かけて、何があるのかと問いかけたヴィヴィアンに、「あっちにもお花畑があるのよ、こっちよりもずっとキレイなの……」と、教えてくれようとした瞬間だった。下の村から、そろそろ帰って来なさいと声をかけてきたのは姉妹の母親らしい。ビビと同年代か、ひょっとするともっと年若く見える妊婦は、ギデオンに遊んでくれていたことへのお礼を告げると。「本日は広場で御馳走が出ますので、冒険者様たちも宜しければどうぞ」と小さく微笑むだろう。 )
──わあ、それは皆さん喜ばれますね。エデルミラさんも呼んでこなくちゃ。
(少し元気のなかったように思える相棒が、そのいずまいを緩やかに正し、情報共有を始めれば。手を止めたギデオンもまた、真剣に耳を傾け、ひとつひとつをしっかりと頭に刻み込んでいく。たったそれだけの、思えばなんてことないやりとり。けれどもこれは、ふたりが相棒になって以来、幾度となくやってきでいることでもある。故に、ただこうしてなぞるだけでも、互いへの信頼を実感し合う儀式になるのだ──そして毎度のクエスト中、それがどれほどよすがになるか。
彼女は案の定、様々な情報を手に入れてくれていた。村を魔獣から守る“英雄”に……この里ならではの、周辺の吹雪さえ寄せつけない特殊な気候を生み出している、地熱を利用した古代魔法。その魔核の眠っている場所と、管理しに行く魔術師の存在。この丘を登ってくる前、村人たちと交流している他の冒険者の報告も受けたが、そのどれにも、こんな話は含まれていなかった。理由は単純──大人たちは、利害という社会的な都合から、微笑みをもって口を噤む。しかし純真な子どもたちは、全くその限りではないという……ただそれだけのことだ。大人たちが侮って、ヴィヴィアンとともに追いやってしまった存在は、しかしその幼さでは到底信じられぬほど、案外物事をよく見ている。ヴィヴィアンもそれをわかった上で、かれらとの関係を築き上げてくれたのだろう。
ギデオンがヴィヴィアンと戯れ、花遊びにまで興じたのは、これに乗じるためでもあった。フィオラ村のあの独特な雰囲気は、丘の下でも既に見ている。子守と炊事洗濯以外は一切許されぬ女たちに、おそらく中年女性であるからという理由で、まるでいないものかのように扱われているエデルミラ。そんなことが許される環境で育ってきた子どもたちからすれば、若い女性と当たり前話し、親しみ、あまつさえ花遊びに加わりさえするギデオンは、非常に特異な“大人の男”に映ったに違いない。その狙いは案の定大成功で、最初こそ遠巻きになっていた少女たちも、今は楽しそうにギデオンに喋り倒している。
それをよくよく聞き込んでいれば、あっという間に夕暮れ時だ。皆を呼びに来た若い妊婦は、ギデオンたちと挨拶すると、自分の娘たちと手を繋ぎ、ゆっくりと丘を下りはじめた。その背中をじっと見てから、どちらからともなく、ヴィヴィアンと視線を交わす。──これは、調査仕事の範疇じゃないが。このフィオラ村は、やたら妊婦が多いというのは、地味に気になるところだった。おそらくこのフィオラ村で、あのくらいの若い女性は、皆が皆、妊婦であるか、出産したばかりである。田舎はどこも、都市部より遥かに出生率が高いものといったって……あれは流石に異常な数だ。しかしその割に、村全体の人口はそれほどでもないと思えた。村に来る前の予想に比べれば遥かに多かったものの、それでも二百には届かない。──そういえば、あまり老人を見ない。“むらおさ”をはじめとしたごく少数を見かけるのみで、人口の比率に合わない。かれらはどこにいるのだろう? ……)
……ご馳走に御呼ばれする前に、一度あいつとゆっくり話そう。
どんなことでも、できるだけ……共有しておいた方がいい。
(──そうして。相棒に耳打ちしたその通りに、小屋で休みつつ記録をとっているエデルミラの元へ行き。今日の収穫を共有すると、こちらも面白い話を聞けた。──彼女に先に報告しに来て、今はまた外に出ているという、我らのレクター博士曰く。フィオラ村の人々の独特な訛りには、西の大国・ガリニアの影響が直接的にあるそうだ。レクターが話すような、トランフォード国内の地方訛りのそれではない……発音だけでなく、語彙の端々に、大陸西側ならではのものがはっきり残っているという。もしかしたら、あの国に祖を持つ民族なのかもしれない──無論、トランフォード人は遡れば皆そうだが、それにしたってフィオラはどうも、独自のルーツがあるようだ、と。あの教授ったら、また身振り手振り大興奮で、ほんとに大変だったのよ……と苦笑するエデルミラは、どうやら祝祭を欠席するつもりらしかった。ごめんね、体調がまだ良くなくて……どのみちリーダー役は、アラドヴァルのあの人が代役をしてくれているし。ううん、夕飯のことは手配してるから気にしないで。あなたたちも今日はお疲れさま、ゆっくり楽しんできて頂戴。)
(──そんなわけで、あとはすっかり頭を切り替え、フィオラ村の祝祭の第二夜にご招待である。その主催地は、村の中央にある芝生の広場。どこまでも広い緑一色のフィールドを、大小の松明が明々と照らしだし。真っ白な布をかけられたテーブルは、どれも六角形に組まれて……その上には所狭しと、色とりどりのあらゆる馳走が並んでいた。真冬のこの時季だというのに、数十人の冒険者を参加させてくれるのは、随分な太っ腹だと恐縮に思ったが。「この村は、古代魔法のおかげで年中食べ物がありますのよ。だからどうか、ご遠慮なさらないで」と珍しく話しかけてきたのは、黒いフードを被っている、妙齢の美しい女だ。真っ赤な唇を蛭のように蠢かせ、ヴィヴィアンの目を盗むようにして、女はギデオンの手を取った。「出し物もいたしますの。この村に二百年伝わる英雄譚と、それに……」と。そこでギデオンが、さりげなく手を振り払い、ヴィヴィアンに呼びかけて場を辞したにもかかわらず。女はその、長い睫毛に縁どられた目で、ギデオンの項辺りに、そのじりじりとした熱い視線をいつまでも投げかけていた。
──そんな一幕はあったものの。祝祭全体は至って平和に、ごく明るく始まった。冒険者も併せて二百近い人々が、皆一堂に会し、祝杯を挙げたわけである。村の女たちの半数は給仕に忙しくしていたが、流石に客であるヴィヴィアンは、卓に座っていて良いらしい。王都組、ということで隣り合うことのできたふたりは、純粋に食事を楽しみ、周囲の冒険者仲間たちとあれこれ楽しく盛り上がった。──この肉、おそらくヘイズルーンだ。──ヘイズルーン? ──山から山へ渡り歩く、とてつもなく巨きい図体をしたヤギ型の魔獣だよ。あらゆる毒草を食べることができるらしい。──でも、あいつらたしか、並の魔獣じゃ狩れないくらいに強いはずだ。村の人らは、どうやってあれを倒したんだろう? ──そいじゃあ、ちょっと訊いてみようか……
満天の星空の下、宴もたけなわになってくると、酒が入った人々は、村人も冒険者も関係なく寛ぎはじめた。これからは広場の各地で催し物があるらしく、めいめい好きなところに遊びに行く流れらしい。ギデオンも最初こそ、この祭りの雰囲気に乗じて、他所の冒険者たちや村人たちと交流するのに気を割いていたが。──会が自由になったらなったで、また例の、よそから来た若い女性であるヴィヴィアンを避けるような雰囲気が、ちらほらと窺え始めた。そこで、アラドヴァルの代理リーダーにひとこと断りを入れ(もっとも、寧ろ勧められたが)。相棒であるギデオンが、彼女の傍に堂々とつくことにした。職権乱用? 公私混同? なんのことだかさっぱりである。
悲しいかな、男が傍につきさえすれば、フィオラ村の人々も、ヴィヴィアンへの接し方を多少改めるようだ。そのことに顔を顰めつつ、郷に入ったら郷に従え、なんて言葉もあるし、俺たちはいきなりやって来たよそ者の立場だからな……と。「家に帰ったら、ふたりで存分にゆっくりしよう」と、そっと優しく囁いておく。さて、こうして心置きなく、更けていく夜を一緒に過ごすことになったが。この後まもなく、広場の中央にある六角形のステージで、この村ならではの歴史劇が始まるという話らしい(……そういえば、この村はどうも、村のあちこちに六角形があしらわているようだ。家々の形ですらそうだった)。どんな劇なのかと尋ねても、村人たちは皆微笑んで、観てからのお楽しみだよ、と──そう言われては仕方がない。周囲に出されたベンチを見渡し、後方の左隅、程良く中木に隠された空席を見つけると、相棒をそこに連れていき。ふたり並んで腰かけて、ゆったりと椅子の背にもたれれば、なんだか覚えのある状況に、可笑しそうに片眉を上げて。)
……なんだか、いつかを思い出すな。ケバブでもあれば完璧なんだが。
ギデオンさんったら、さっきまで食べてたのに……ケバブは家に帰ったら作ってあげますから、今はハムで我慢してください。
──それとも、なにか賭けますか?
今回も私が勝ちますけど、ッ…………。
( 相変わらず隙のない様子で人をエスコートし、ゆったりと屋外の舞台を観察したかと思えば、次の瞬間。無駄に様になる表情で囁く内容がそれなのだから、思わず吹き出さずにはいられなかった。当時であれば、その整った容姿に誤魔化されていたろう雑談も、ギデオンが素でぼやいていることを知っていれば、今や食べ盛りの相棒がひたすら愛しいだけで。この半年ちょっとで、ねだれば何かしらの食べ物が出てくるようになったポケットから、お手製の燻製ハムを取り出し差し出しかければ。その可愛らしい意地悪の間合いは、明らかに目の前の相手からうつされたそれだ。ニマリと笑ってハムを引っ込め、態とらしくすました表情を浮かべかけたビビの顔にしかし、ぴく、と小さな苦痛が走る。二の腕の柔らかいところを拗られたような小さな、けれど確かな鈍い痛み。──2人の関係も知らずして、生意気な小娘に灸を据えてでもやったつもりだろうか。誰かの蛮行を隣の者も見えただろうに、低い背もたれから振り返ったところで、しらーっと視線を逸らす村民達に──余所者は自分たちの方だ、と。大したことじゃない、自分が我慢すればことが済むと、もし相棒に問いかけられたところで「なんでもない、大丈夫です」と首を振ったのが全て悪夢の始まりだった。
とはいえ、それ以外の雰囲気は和やかなままその劇は始まった。自然の帳を利用して、時折主人公らにあたる魔法の光は、ビビ達が知る一般魔法体系と同じ単純な構造のそれだ。内容も特にこのトランフォードでは珍しくない、昔この村で起こったという英雄による魔獣の討伐譚。討伐される獣が元々村の嫌われ者だったという点については少しグロテスクなものも感じたが、英雄が"良い獣"になって戦ったという話については、神話時代まで遡ればよくある話。成程、英雄が"良い獣"になるための薬が花ならば、この村が花を大切に育てる由来も分かると言うもので。舞台の幕が降りると、最前列で目を輝かせていたレクターが、早速隣の村長の1人を質問攻めにし始めている。他の村民達はのんびりとその場で談笑する者、祝祭の食事に戻る者、そのめいめい穏やかに過ごす雰囲気からは、この催しがそこまで格式高くない、素朴な物なのだと感じ取れるだろう。さて、そんな村民達とは違って、あくまで仕事中であるビビ達はこれからどうしようか。折角ならその美しい花もぜひ見てみたいところだが──と、劇前の囁かな事件などすっかり忘れて周囲を見渡し、ギデオンの腕を引いた娘がぴたりと固まったのは、その視界の先に先程宴に誘ってくれた女性を見つけたからだ。隣にいるのは夫だろうか、先程の娘たちとよく似た金髪の──中年、否。既に初老に近い男が女の腰を抱くと、当然のようにその顔を長く、激しく引き寄せたのを目の当たりにすれば。ギデオンの方へとぱっと逸らした顔は、恥ずかしそうに赤らみ、形の良い眉を困ったように八の字に歪めていて。 )
──っ、あ、うう~っ……この村の人達って、距離感が……ごめんなさい、慣れなくって……
(相手に促されるままそちらを見たギデオンも、一瞬言葉を失った。しかしその原因は、人目を憚らぬ派手な接吻でも、老人と若い娘という怪訝な組み合わせでもない(……あれほど離れてはいないにせよ、己とて、ヴィヴィアンとの歳の差を思えばとやかく言えない立場だろう)。それよりも──自分の記憶違いでなければ。今朝がた、あそこにいる初老の男は……一緒にいる妊婦のことを、三番目の“孫娘”だと紹介していたはずなのだ。
『もうすぐ曾孫が生まれる予定なんだ。それが楽しみで仕方なくてね』と。確かにあのふたりは、目元がとてもよく似ている、と感じたのを覚えている。そのはずの……間違いなく血が繋がっているはずの、祖父と孫が。あんな、まるで……盛りのついたけだもののように。今さら人の営みにそう驚かないギデオンでも、あれは流石に、なんだか異様だと思わずにはいられなかった。常識や風習というものは、ところによってさまざまで、よそから来た人間がそう簡単に否定していいものではない。それでもなんだか。見てはいけないものを見てしまったような、落ちつかない気分に陥ってしまう。
周囲はどうなんだ、と見渡してみても。篝火に照らされた村人たちのなかに、かれらの様子を見咎める者は見当たらない。やはり……どうやら……この村では、当たり前の光景のらしい。それどころか、まるで欲情を移されでもしたかのように、ひと組、またひと組と。妙な戯れに勤しみはじめる男女の姿が、そこここに見えはじめた。そのすべては知らないが、やはり何組かは、実の兄妹や母子のはずだ。客席にいたほとんどがこれでは……開演前の相棒に何かを働いた犯人を、それとなく探ることなどできようか。
仕方なく、ため息をひとつ。相手の肩を軽く抱き、この場からの離脱を促す。レクター博士には今度こそあのしっかりした助手がついているから、今夜のところは大丈夫だろう……そう願いたいところだ。)
……あれは、誰でも驚くさ。
とはいえ、どうにも気まずいな。……あっちへ戻ることにしよう。
(──しかし、その道すがらもまた。よくよく見れば、この村はどこか、ほかの片田舎にあるそれとはわけが違っているらしい、と突きつけられることになった。観光客など取り入れることのない、閉ざされた里だろうに……寧ろ、それだからこそなのか。宴の後に出はじめたあちこちの簡素な露店に、当然の如く並んでいるのだ。──露骨に男のそれを模した彫り物や、男女の営みを表紙に描いたそれ用の指南書、そういった品々が。
こういった不埒な小物は、別にキングストンでも見かけないわけではない。謝肉祭の時期になると、西部の花街のいかがわしいエリアなら、当たり前のように売っている。だがそれですら、一応はちゃんと、風営法に則ったゾーニングを施しているはずだ。青年のギデオンが女を連れて冷やかしに行くことはできても、子どもはそもそも、検問所を通れないようになっている、それは倫理上当たり前のことである。──それが、このフィオラではどうか。今は祝祭の期間だから、と遅起きしている子どもたちにも、そのいかがわしい出店はあっさりと曝け出されていた。それどころか、時折大人が呼び寄せて、指南書を開いて見せてすらいるようだ。都会で暮らす冒険者には、これはなかなか衝撃で。「……なあ」とヴィヴィアンに囁いたのは、おそらく彼女も同じような気分だろうと、そう思ってのことだった。)
……今夜はもう遅い。宴の片づけは、アルマツィアの連中が引き受けることになってるし……俺たちも、これ以上ここに用はないだろう。エデルミラのところに行って、調査書を手伝わないか。ここにいるのは、なんというか……わかるだろ。
……、……ッ!!
( いよいよ乱れ始めた会場を後にして、ほっと息を付けたのも束の間。通りに転び出た二人の視界に飛び込んできたのは、これまた不道徳で信じがたい光景の連続で。労働力としての子宝が、貧しい農村で都市部よりずっと有難がられることは知っている。その結果、直視しがたい“それら”に素朴な信仰が集まることがあるのも──知識としては、持ち得ている。しかし、目の当たりにした衝撃に、思わずギデオンの腕に縋りつけば。こんな通りで密着する男女に向けられる視線は生ぬるく。首都育ちのヴィヴィアンにとって、耳を疑うような声掛けの数々に、じゅわりと緩む涙腺と、優しい恋人の辛抱の甲斐あって、最近は随分なりを潜めていた潔癖がゾワゾワと立ち上がる感覚に。ちょうど相手も気まずそうな相棒の囁きへ、一も二もなくコクコクと勢いよく頷けば。ようやく昨晩の空き家に戻ったところで、エデルミラの姿が見えなかろうと、“少し出てくる”という書置きまで見つければ、再度あの村民達の中を探しに戻る気力など枯れ果てていた。 )
( ──ギシリ、と。乾いた床を踏む音が、暗い天井に微かに響く。慣れない光景の連続に、ぐったりと深い眠りについていたビビがその気配に気が付いたのは、既にその気配へ部屋の侵入を許してしまった後の事だった。あれからギデオンと別れて寝台に潜り、どれ程の時間がたっただろうか。身体の具合からして、日付はとうに変わっているように思えるが、視線を窓の外へと移したところで、未だ黒い宵闇が周囲を満たすだけで窺い知れず。一瞬、エデルミラが帰ってきたのだろうかと甘い希望が思考をよぎるも、それにしては気配の潜め方があまりにお粗末過ぎる。ならば──物取り、だろうか。それにしたって素人同然の身のこなしに、少しの油断もあっただろうか。……ギシリ……ギシリ、と静かに、しかしゆっくりと此方へ近づいてくる気配に、此方は無音で魔杖へと手を伸ばし、此方の荷物へと手を伸ばした途端に、現行犯でひっ捕らえてやるつもりでいたというのに。──……あ、いけない、駄目だ。あろうことか、その人影は、貴重な魔法薬を広げたテーブルを無視したかと思うと、一直線に此方へと向かって来るのだった。
──それからのことは一瞬だった。否、男は尚もゆっくりとビビの横たわるベッドへ忍び寄って来ようとしたのだが、ビビの思考がその目的に気が付いた途端、全てを放棄してフリーズしたのだ。そのうち大きく濡れた眼球に肥え太った月が反射して、男はビビが起きて、自分に視線を向けていることに気付いたらしい。それでも静かに身じろぎもせず、声も上げない娘をどう解釈したのやら。最早足音さえ潜めずに寝台に乗り上げると、「こんばんは、良い夜ですね」と、穏やかな挨拶が余計にビビを混乱させる。月明りに照らされた姿も、美しい金髪に甘くまとまった顔立ちと、言葉を選ばなければ──こんなことをせずとも、異性には困らなそうな容姿をしてはいるのだが、そんなことは問題外で。──こわい、いやだ……逃げなければ、声を出さねばと思うのに。ゆっくりと腹に体重をかけられ、此方を見下ろしてくる大きな影に身体が震えて、はっはっと呼吸さえもがままならず。そんなビビに眉を上げ、「おや、少し寒いでしょうか」と、頬へ触れてくる掌にさえ怖気が走り、はくはくと喉が強張り声も出せない。「大丈夫、すぐに暖まりますから」と胸元へ入れられた手にやっと微かに身を捩って、ひどく震えて掠れ切ったその声も、すぐ近くに肉薄した男にも届かなかったそのように、ぼろりと零れた涙と共に寝具に吸い込まれて掻き消えるはずで。 )
──……ひっ、たすけて……ギデオンさ、
(──ヴィヴィアンの、か細く助けを求める声から……遡ること、数時間前。
「おやすみ」と、彼女の額に軽く唇を触れ、しばらく傍に寄り添ってから、ギデオンはそこを離れた。なかなか戻らぬエデルミラを、探しに行こうと思ったのだ。否、彼女は一度だけ、確かにこの家に帰ってきた。しかしながら、ギデオンとヴィヴィアンにろくに声をかけぬまま、荷物から何かをごそごそ取り出して、すぐにまた出かけて行ってしまったのである。妙にこわばった、あまり余裕のなさそうなあの横顔……。一体何事だろう、と調査書を作りながら相棒と話し合ったが、夜がどんなに更けていっても、彼女は一向に戻ってこないままだった。広場のどこかで仲間と合流しているだけならいい。だが念のため、確かめに行くに越したことはないかもしれない。そう思っていたギデオンの顔を的確に読んでか、「私も様子を見に行きますよ」と、相手が申し出てくれたものの。普段は生き生きと元気なはずの彼女の顔には、しかし拭い去れない疲労が、ぐったりと滲んでいた。──無理もない話だ。相棒はこの十日間、パーティー内の唯一のヒーラーという立場で、仲間の健康管理にただでさえ気を張り続けていた。その矢先に、この村の正面切っては行われない排斥や、あの異様な様子に思い切り中てられる経験……。ヴィヴィアンは酸いも甘いもある程度噛み分けられる大人の女性に違いないが、それでも本質的には、稀有なほど清純である。そんな彼女に──はっきり言ってどこか濁っているこの村の水は、当然合わないはずだろう。故にギデオンは、相手をそっと押しとどめた。「探すだけなら、俺でもできる。ついでにほかにもいろいろ、若い連中や、レクターの様子も確かめておきたいんだ。ここは俺に任せて、おまえは先に休んでおくといい。特にここ数日は、あまり眠り足りていないだろう……?」
──そうして、ほっとした彼女が寝入るのを、しばらくかけて見届けた今。ギデオンはひとり、夜のフィオラ村を淡々と歩いている。中央のほうの家々のあちこちからは、生々しいほどの喘ぎ声がもはやはっきりと聞こえていた。ヴィヴィアンを残してきたのは、やはり正解だったということだ。あちこちに目を走らせるうちに、アラドヴァルのベテラン戦士や、アルマツィアの斧使いを見つけた。互いに歩み寄り、情報共有を開始する。若い連中の所在は、すべて確認済みらしい。何人か……否、十何人もが……ふらふらと村娘の誘いに乗りかけたものの。斧使いがすかさずわざと仕事を振り、本分を思い出させてくれたそうだ。「いやさァ、普通の村なら多少目を瞑るんだが」──古傷のある顔を、ギデオンに向けて顰める──「なんだかよ、ここじゃァよ、そいじゃァ危ねえ気がしてよ」。
それを鼻で嗤ったのは、アラドヴァルのベテラン剣士だった。出向先の女をひとりふたり抱くくらい、別に取り立てて咎められることでもなかろうに。今の時代は、随分とお行儀良くなったもんだなあ? と、異論ありげである。……この十日間、所属ギルドの異なるベテラン組は、それでもそれなりに上手くやってきたつもりだが。なるほど、個々人の感覚の違いから、やはりどうしても一枚岩になれぬ部分もあるようだ。斧使いと顔を見合わせ、「孕ませたら事だからな。若いと暴発しがちだろ」と、あくまでも軽く受け流す。──それより、エデルミラを見てないか? ──エデルミラ? あの女、晩餐にも顔を出さなかったくせに、どこかほっつき歩いてんのか。──……用事がある様子だったんだ。とにかく、おまえたちは見てないんだな。──ああ、いや、あそこじゃねえか。ほら、あの教会みてえなとこ……。
斧使いの視線を辿ると、なるほど、村じゅうにある六角形の建物のなかでも、少し大きな……ステンドグラスが嵌められている建物に、彼女が入っていくところだった。……何故何も、ギデオンたちに共有していないまま、行動を起こしているのだろう。ベテラン仲間たちに軽く手を掲げて別れを示し、「あとはレクターのことだけ頼む」と言い残してから、ギデオンもそこへ向かった。月明かりの下、間近に見上げるその三階建ての建物は、どこかよそ者を受け付けない雰囲気を窺わせる。どうしてここに、村人とあまり交流できていない筈の彼女が、すんなり入っていけたのだろう。少し状況を訝しみながら……ギデオンも扉を押し開け、中へ静かに踏み込んだ。)
(──建物のなかは、異様だった。数歩先はすぐ壁で、左手の方にずっと、細い通路が続いているのだ。どうやら、中央に向かって螺旋状に渦巻いていく造りらしい。そしてその壁には、大小さまざまなタペストリーが、美術品のように飾られていて……これがどうにも、不気味なのだ。冒険者ゆえ暗順応が早いギデオンは、慎重に歩みを進めながら、その刺繍絵をひとつひとつ確かめた。──花を植えている人々の姿、これらはまだ平和でいい。目がぐるぐるとしているところが個人的には薄気味悪いが。しかし、その先に……蛮族か何かがが押し寄せてきて、一斉に虐殺が起こり、人々が逃げ惑った……とでもいうような、凄惨な光景が突如として現れる。そしてその先、嘆き悲しむ顔をした人々が、一輪の花を抱えながら、巨大な骸骨の背中を踏み越えていく様子。途中で落伍者も出た様子からして……これはもしや、数百年前の国全体の史実である、カダヴェル山脈踏破だろうか。やがてその先、ごく普通の……それでも、依然として目がぐるぐるした不気味な人々が、少しずつ暮らしを営んでいく様子の先に。──唐突に。若い女を山中の井戸に閉じ込め、やがてやせ衰えた彼女を引き上げて皮を?ぐ、不気味な男の刺繍が出てきた。どうやらその女の皮で服を縫い、それを纏って喜ぶような、異常な人間であるようだ。惨劇を知った村人たちが嘆き怒る様子、男が追放される様子。だが人々のところにはすぐ、空飛ぶ黒い骸骨のような、不気味な姿の怪物が、吹雪を連れて戻ってきた。再び凄惨な血まみれの光景、噛み砕かれていく老若男女。──だが、そこに。唐突に、花と、蜂と、そして魔獣が、ロウェバ教の聖三位一体宜しく、如何にも神聖そうに登場した。清い光の筋に追いやられる骸骨の怪物。人々が魔獣を崇め、タペストリーは再び、花でいっぱいの平和で美しいものに戻る。しかしやはり人々の目は、ぐるぐると不穏なままだ。それに……至極当たり前のように、男女が性交する様子も、執拗に縫い込まれていた。……なんだか……まるで……今のこの村、そのものじゃなかろうか。このタペストリー群は、もしかせずとも、フィオラ村の歴史を記している品物のだろうか。──そういえば。数時間前、ヴィヴィアンと観たあの舞台劇は。魔獣に成り果てた村いちばんの嫌われ者が、同じく魔獣となった英雄に、討伐される話だった……。
「──面白いでしょう?」しっとりとしたその声は、ギデオンが思わず硬直するほど傍から聴こえた。振り返らずともぞわぞわとわかる、あの蛭のような唇をしたフィオラ村の女が、ギデオンのすぐそばに立っていた。「先祖代々伝わる、大切な刺繍ですの。私たちフィオラの者は、自分たちの物語を編むのが好き。歴史を紡いでいくのが好き……。あなたがた冒険者の武勇伝も、是非知りたいわ。私たちがちゃんと編んで、取り込んで、素晴らしく伝えていくから……」。女の指が、ギデオンの脇腹を撫で、つうと下に降りていく。しなだれかかる疎ましい体温、耳元に湿った吐息。「──……もう。冒険者の皆さまったら、お堅いのね。若い娘たちがとっても期待してたのに、皆引っ込んでしまって……とっても可哀想だったわ。今夜は祝祭の第二夜……“愛の夜”なのよ。こうして出会えた喜びを、溶かし合うはずの夜でしょう? だれもが皆、明日のために、ややこを作るべきでしょう? ──女は、そのための鉢植えなのよ」。
──瞬間。考えるより先に、ギデオンは女を突き飛ばした。転ぶ彼女を微塵も構わず、元来た迷路の道を、数々のぐるぐる目に不気味にみられる通路を、一目散に駆ける、駆ける。建物の外に飛び出てすぐ、ぎょっと振り返るさっきのベテラン仲間たちにも目を繰れずに、まっすぐに駆け戻ったのは……泊まっていた。あの村の端の家。頼む、無事でいてくれ。まさか──何にも巻き込まれてくれるな。)
(ギデオンのその恐れは、しかし扉を開け放てば、現実になろうとしていた。村の男に跨られて動けないヴィヴィアン、そのか細いか細い悲鳴。──ゴッ、と鈍い音がして、彼女から引き剥がされた男が、部屋の端に吹っ飛ばされる。それに構わず、固まっているヴィヴィアンを寝台から抱き起し、「俺だ!」「俺だヴィヴィアン、大丈夫か、無事か!」と、守るように抱きしめる。答えを得たかったわけじゃない──未遂ではあったようだが、それでも無事なわけがない。だが今はもう、これ以上脅かされることはないのだと、己の腕で伝えるつもりが……ギデオン自身もまた、怒りでぶるぶると震えていた。ゆっくり振り返った先、殴り飛ばした村の男は、鼻の頭が折れたのだろう、血を噴きながら「うう」「ううう」と呻いている。……顔全体を陥没させなかっただけ、これでも理性を利かせたほうだ、聞き苦しい文句の声を垂れ流さないでもらいたい。荒い息を吐きながらそうして睨みつけていると、アラドヴァルのベテランと、アルマツィアの斧使い、そしてあのフィオラの女が、息を切らして駆けつけた。冒険者側のふたりは、酷くショックを受けた顔だ。「何があった?」と問う声に、ギデオンは低い声で返した。──俺の相棒に、危害を働いた。それ以上に、わけを説明する必要があるか。……)
(──遠くで、口論の声が聞こえる。アルマツィアの斧使いとアラドヴァルのベテラン剣士、それに駆け付けたほか数名が、この村を離れるかどうかで延々と揉めているのだ。そこに村人たちもやってきて、村人に暴行を働いたギデオンを咎めているような様子だが、そもそもヴィヴィアンに何をしようとしていたのか、と冒険者側の怒りを買い、ますます話がややこしくなった。今ではむらおさのクルトも出てきて、どうにか事態を収束させようとしているらしい。……だが今更、もはや知ったことではない。仲間たちにははっきりと、俺はもうヴィヴィアンの傍を離れない、異論はないな、と、有無を言わさず伝えてある。彼女との個人的な関係はエデルミラ以外の連中にも薄々知られていたものの、これはもう、私情がどうとか、仕事の場だからと弁えるとか、そういう次元ではなくなっているのだ。……そもそも、同じ目に遭ったのが例えばアリアだとしても、決して許してはいけないことである。それが相棒かつ恋人のヴィヴィアンなら、ますますもって許せない、それだけの話なのだ。
──?燭の明かりをつけた、仄暗い部屋の隅。寝台の上に乗り上げ、ヴィヴィアンを抱きしめながら、宥めるように髪を撫でる。外の喧騒が少しでも聞こえてくれば、周囲の毛布を包み込むようにかけ直し……労わりを込めてまた撫でる。これで少しは、あの忌まわしい連中から気分を遠ざけてやれるだろうか。周囲を思い遣る彼女のことだ、自分のせいでクエストがこんなことになってしまった、と自責してしまうかもしれない。その必要はないのだと、きちんと伝えてやるために……旋毛に唇を寄せながら、そっと小声で呟いて。)
……遅くなって、すまなかった。
俺はもう、ここにいる。おまえの傍に、ちゃんといる……明日からも、ずっとそうだ。
……ごめ、ごめんなさい……め、なさい……
( ギデオンが懸念したその通り。やっとひどい緊張状態から抜け出したヴィヴィアンが最初に発したのは、酷く痛々しい自責の念だった。優しい腕と暖かな毛布に、何重に覆い隠して貰って尚、未だ外界から響いてくる男たちの言い争う声に、ぎゅうっと固く身体を縮こませると──もっとうまくできたはず。こんなに大ごとにする必要はなかった、私が我慢できていれば、と。レクターがこれ以上なく楽しみにしていたであろう、そうでなくとも、複数のギルドが関わる大事なクエストを、己が台無しにしてしまった申し訳なさに、心が押しつぶされていき。瞳を閉じれば、今も脳裏によぎる男の影に身体が震えているにも関わらず。深く傷つけられてしまった自尊心が、ギデオンさんを煩わせてはいけないと。分厚い胸板にうずめられた頭を、くしゅ……と小さく横に振らせて。 )
ありがとう、ございます……でも、ギデオンさんは調査に戻ってください。
( いつかシャバネで見せたそれと変わらぬ、己の不調を覆い隠さんとする強情な笑顔。真っ青な顔色、真っ白な唇、もうそれらをギデオンが見逃してくれないことは分かっていても、その中心でギラギラと輝くエメラルドは、自ら己の存在価値を失わせまいとする強迫じみたヒーラーの矜持で。押し倒されるほど肉薄したからこそ感じ取れた、微かな発汗に瞳孔の開き。性的興奮故と片付けるには、些か慢性的に感じ取られたそれに、その手の薬物の存在を懸念できねば──今この場で、己の存在価値はない。そう本気で信じ込む真剣な目の色、情けない震えを押し殺した低い声。このまま抱きしめられていれば負けてしまう。甘い言葉に縋りつきたくなってしまう。強くて、公正で、もっと多くの人を救える“人”を、私一人が独占して良いわけがない。それは意志なんて上等なものじゃない、ぶるぶると震える腕で身体を支えようとする風体が、強いトラウマに晒されたストレスから目を逸らさんとしていることは誰が見ても明白で。 )
……ああそうだ、もし、この村に蛇涎香が蔓延しているとしたら、トランフォードの法律で取り締まることになるんでしょうか?
……これからについては、そうだ。
ただ……あれの取締条約ができたのは、せいぜい100年前やそこらだろ。ここはたしか、200年も外との出入りがなかった、なんて話だから……調査の後に、まずは布告や啓蒙から始めることなるだろうな。
(壊れそうな声で明後日の問いを投げかけてくる、明らかに様子のおかしい相棒を前に。しかしギデオンは、すぐにはその異常を照らしだそうとはしなかった。その代わりに選んだのは、いつもどおりの、低く穏やかな、落ちついた声を落とすこと。──カレトヴルッフのギルドロビー、受注クエストの滞在先、或いはサリーチェの我が家の寝室……そういった場所で、彼女と議論するときの己になってみせることだ。
相棒が今、酷いショック状態に晒されていることは、本人以上に理解しているつもりだった。だからこそ、この痛々しい現実逃避を、一度はすんなり受け入れる。彼女がこの抱擁を少し解きたいと、今はあくまで職業人として振る舞いたいというのであれば、そうさせよう。両腕を大人しく緩め、相手が体を起こせるだけの僅かな距離を空けて、気丈なプライドがそのまま立ち上がれるようにしよう。法や保安の話に目を向けたいというのであれば、喜んでそれに付き合おう。──けれども決して、今寄り添うこと、それ自体まで諦めて譲るつもりはなかった。その証拠に、ギデオンの片手は今も、未だ震えている彼女の後頭部、そのほどかれている柔らかな栗毛を、そっと優しく撫でている。それは宥めるというよりも、習慣めいた手つき。自分が撫でたいから撫でるのだと言わんばかりの、ある意味我儘なそれである。そうやって、こちらがのんびり甘えているような雰囲気さえ醸し出しながら……“あなたは調査に戻って”などという痛々しい願いだけは、さりげなく押し流しておく。──そして、それに、気づかれてしまわぬよう。いつもの彼女がふと持ち出した話題を、いつもの流れに持ち込むそぶりで、やや遠くにまで広げていく。幸か不幸か、こういった方面の知識は、無駄によく蓄えてあるのだ。)
……だが、なあ、そういえば。法を直接知らなくても、介入時点で有罪になった例があったよな。
前にふたりで、ヴァイスミュラーの本を読んだろう? ほら……濁り酒を造ってた村が、調査しに来た税務官と揉めごとになって……あれは、何が適用されたんだったか。告訴不可分の原則か、それとも……
(……別段、こんな風に曖昧に言わずとも。ヴィヴィアンとこれまで楽しく交わしてきた数多の議論、その詳細を、ギデオンはどれも鮮明に記憶している。まさか、忘れるわけがない。──それでも今は、敢えてそれを押し隠す。もう喉まで出かかっているのに、なのに上手く思い出せない……そんな、如何にも自信のない顔で。まるで答えを強請るかのように、ヴィヴィアンの蒼白な顔に、ごく無邪気に問いかけるような面差しを向ける真似を。)
あれは確か、最初は税務官への公務執行妨害で抑留したんですよ。
ただ後の調査でメタノールが検出されて過失致傷に……、…………。
( ビビの頓珍漢もいいところな、なんの脈絡もない発言を、しかしギデオンは真摯に受け止め、咎めることなく返してくれる。あまりの出来事に動揺しているのだと、守り慈しむべきだけの悲鳴として、封殺することも出来ただろうに。──己の声は届いている、聞こえなくなんかない。 この村で過ごした短期間で分からなくなっていた。そんな至極当然のことを、思い出させてくれるギデオンの、ともすれば、あまりにも色気に欠ける返答に心底安心して、今にも泣き出しそうに表情を崩せば。優しい掌に小さく頭を擦りつけ、ゆっくりと顔を上げかけたその瞬間。疲れきって尚、気丈に振舞っていた娘が、ぴたと静かに固まったのは、ギデオンが口にさせてくれたその返答の意味に、少し遅れて気が付き始めたそのためで。──昔からの習慣である濁酒製造が罪に問われると知らずとも、結果的に人を害せば罪になる。それなら今、この状況はどうだろう。彼らにとってこの晩が、誰彼構わず混じり合うのが当然のことだったとして、巻き込まれた己が今、こんなに苦しい思いをしているのは。しっかり拒絶出来なかった自分が悪い、余所者である私が我慢しなければ、そう凝り固まっていた思考が溶けだして初めて。今夜の事件だけでなく、今まであった尊厳が揺らぐような経験の数々に、ようやく自分が深く傷ついていたことに気が付いて、突然にその痛み、恐怖に真っ向から対面することになってしまえば。急に仕事の話をしてみたり、そうかと思えば酷く脅えて泣き出したりと、支離滅裂としか思えない有様をもはや気にする余裕など全くなく。それでも許してくれるに違いない、信頼して止まぬ相棒に、ひいひいと情けない嗚咽を漏らし、顔を真っ赤にしてボロボロと泣き崩れ始めれば、早く──早く抱きしめて、とばかりに、自ら離した腕を広げて強請り。)
私、怒って、いいんですか……? 私は悪く、ない……?
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