匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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ですから…………いえ、そしたらヤドリギの蔓を1mほど、あったらで大丈夫ですから。お仕事、頑張ってくださいね。
( ですから、そんなこと気にしなくっていいんです。それよりご無理はなさらないでくださいね──と、心の中を洗いざらい吐き出せたらどれだけ良いだろう。物分りの良い振りをした口振りとは裏腹に、愚直なまでの心配を隠しきれない表情で、ずしりと重みのある鍵束を受け取れば。当の本人が、報酬を支払わない方が気がかりだと云うのだから仕方ない。渋々と口にした薬草は、先の仕事中、渓谷の木々にこれでもかと巻きついていた、この後も調査に戻るならば、難なく手に入るだろうそれを。──よく使うもの、と言われただけで、入手難易度は指定されていないのだから、これくらいの忖度は許されるだろう。
そうして、託された信頼を大切そうにしまい込んだ別れ際、相手が記憶を失っているなど露知らず。すっかり見慣れた頼もしい色を取り戻してしまった頬に手を伸ばすと。ちょうど迎えに出てきてくれた村民に促され、重厚な木の扉をくぐるその寸前。未だ相棒が此方を見送っているだろうことを疑わない様でくるりと後ろを振り返れば、先程ギデオンに伸ばした掌にそっと口付けを落として。その溢れんばかりの愛情を、満面の笑みで最愛の人へと放り投げる。
──はたして数日後か、数週間後か。その半年以上懲りない深い愛情は、件の爪痕の件を処理して、やっと帰りついた男の疲弊を。明るく暖かな部屋の光景と、一応は自宅から持ち込んだ鍋に入った、地味豊かなクラムチャウダーの香り、そして少し悪戯っぽい小さな笑い声となって取り巻くだろう。 )
──おかえりなさい、お疲れ様でした!
…………お夕飯、自分のを作りすぎちゃった分は仕方ないですよね?
コマッタナー、腐る前に食べてくださる方がいたら嬉しいんですけど。
(その日最後に見たヴィヴィアンの姿は、まさに祝福の乙女そのもの。三段階で重ね掛けしたたっぷりの愛らしさに、手練れと名高いはずの戦士は、いとも呆気なく挙動不審に陥った。──しかし、ヴィヴィアンの凶悪な小悪魔っぷりに気を取られてばかりだったが。本当は、ふたりのやりとりをその場で見ていた村人の中年女性が、(あらあらあら!)とほっぺに手を添え、大いににこにこしていたことこそ、警戒するべきだったのだ。
何せ翌日以降、ギデオンは村中から、やけにわくわくきらきらした目を向けられることになってしまった。“魔剣使いの隊長と、マドンナヒーラーの恋物語”……そんな噂映えする話が、火の手より早く広まっていたせいである。出処は言うまでもない、そして後のことはむべなるかな。独身三十路の斡旋官には、グールのようにじっとりした目で一日中僻まれるわ。高ランクの魔獣とあって大隊を連れてきたホセに、腹の底から大笑いされ、何なら追加のあれやこれやを村人たちにぶちまけられるわ。挙句、目を爛々と輝かせる村長に、「呑もうじゃないか!」と追い回されて、せっかくの珍酒を──また記憶を失くしたらと思うととてもその気になれやせずに──辞退する羽目になるわ。甘い祝福の代償として、大型魔獣と戦うより余程大変な目に遭ったのだが、それはまた別の話。)
(さて、それから数日後。ギデオンが1週間ぶりに帰ると、王都はそのあちこちが、色とりどりの美しい蝋燭で飾られるようになっていた。──光のミサ、聖燭祭の日の装いである。
この日はどこもかしこも、冬の終わりと春の訪れを、それぞれの形で祈ることに忙しい。各家庭では、去年のクリスマスに使ったものを焚き上げるのが一般的だ。農村では豊穣の祈祷を舞い、魔法を込めて田畑を耕す。街中には炊き出しの屋台が並んで、きび粥と焼きソーセージが貧民にまで振る舞われる。太陽のクレープや色鮮やかな占い蝋燭は、若い世代に大人気の品だ。しかし、どこより多忙を極めるのは、ロウェバ正教の教会だろう。信徒のための祝別式やら、赤ん坊の洗礼式やら、厳かなミサやらが、たった一日に詰まっている。故に、道々で通り過ぎる教会は、普段の数倍ほどごった返し、シスターたちがくるくると独楽鼠のように働いていた。
しかし、ギデオンにとってのこの日は、実用的な意味でとてもありがたいタイミングだった。無論、美味いものを安く食べられるから、というのもあるが……それより何より、ギルドから特別手当が支給されるからである。ボーナス制度は、少なくともトランフォード王国においては6月・12月の夏冬二回が基本だが、冒険者業界には少々特例が存在していた。誰もが休みたいために人手不足となる季節、例えばクリスマスから年末年始。そこで規定以上に、要はみっちりクエストをこなせば、「よく働いてくれたね」ということで、余分な給金と少しの休暇を追加で恵んでもらえるわけである。そのタイミングは往々にして古い慣習に由来しており、聖燭祭の日というのも、古代ガリニアの奉公人の給料日だったからとか。とにかくこの制度のおかげで、毎月ある場所へ大金を支払っているギデオンでも、少しは懐を温めることができた。元々財布の紐は固いし、銀行での積み立てもきっちり行っているのだが、それでも払えども払えども終わりのない生活に、日々ストレスを感じないわけがない。──だからたまには、贅沢を楽しむことにしようか、と。そんな気分になったのは、しかし実のところ。喜ぶ顔を見たいだれかのことを、無意識に思い浮かべていたせいだろう。)
(──ところが、だ。その本人、ヴィヴィアンに、ようやく再会できたというのに。彼女を見下すギデオンの顔は、物言いたげに固くなっていた。他でもない原因は、二人の間でほかほかと湯気を立てる、如何にも美味そうな白い鍋。この優しくも独特な香り、今度は新しくシーフードで攻めてきたらしい。ちゃんとああ言ったのに、おまえはまたそうやって、見え透いた嘘までついて──と。呆れ果てるのは目つきまでにとどめれば、はあ、と小さなため息をひとつ。正直、「鍵? 預かってないわよ」とマリアに言われた時点で、なんとなく予想はついていたのもある。──故に、先手を打ってあるのだ。)
作り過ぎたってったって、最初からそのつもりだったろう……
……まあ、料理に罪はない。皿を出してくれ、夕飯にしよう。
(そうして案外すんなり受け入れながら、フェンリルのファーコートを脱ぎ、壁の突起にかけに行く。戦士装束は業者に預けてきたのだろう、あらわになったのは珍しい黒セーターの装いで。窓の外で降り始めた粉雪をちらと見遣ると、持って帰ってきた買い物袋を、どさりと机上に置いておく。中身はソーセージやクレープなど、今日の祝祭で出ていたものだ──相手も食べたかもしれないが、少し良いのを見繕ってきたので、それで手打ちにして貰おう。次いで、己の鞄から何か取り出し、棚の上に並べだす。ひとつは麻で縛ったヤドリギ、ひとつは何やら小さな小瓶。ヒーラー職である相手には、その中身がすぐにでもわかるだろうか。敢えて自分からは触れないまま、土産は以上とばかりに水場へ向かうと、氷のように冷たい水で両手をしっかり洗いつつ、背中越しに語りかけ。)
……風邪の噂で、例のトロイトを倒す時に随分奮発したと聞いてな。
ヒーラー手製の栄養食を賄ってもらうんだ、お代にはまだ足りないだろうが……受け取っておいてくれ。
※推敲洩れにつき、細部を微修正いたします/
(その日最後に見たヴィヴィアンの姿は、まさに祝福の乙女そのもの。三段階で重ね掛けしたたっぷりの愛らしさに、手練れと名高いはずの戦士は、いとも呆気なく挙動不審に陥った。──しかし、ヴィヴィアンの凶悪な小悪魔っぷりに気を取られてばかりだったが。本当は、ふたりのやりとりをその場で見ていた村人の中年女性が、(あらあらあら!)とほっぺに手を添え、大いににこにこしていたことこそ、警戒するべきだったのだ。
何せ翌日以降、ギデオンは村中から、やけにわくわくきらきらした目を向けられることになってしまった。“魔剣使いの隊長と、マドンナヒーラーの恋物語”……そんな噂映えする話が、火の手より早く広まっていたせいである。出処は言うまでもない、そして後のことはむべなるかな。独身三十路の斡旋官には、グールのようにじっとりした目で一日中僻まれるわ。高ランクの魔獣とあって大隊を連れてきたホセに、腹の底から大笑いされ、何なら追加のあれやこれやを村人たちにぶちまけられるわ。挙句、目を爛々と輝かせる村長に、「呑もうじゃないか!」と追い回されて、せっかくの珍酒を──また記憶を失くしたらと思うととてもその気になれやせずに──辞退する羽目になるわ。甘い祝福の代償として、大型魔獣と戦うより余程大変な目に遭ったのだが、それはまた別の話。)
(さて、それから数日後。ギデオンが1週間ぶりに帰ると、王都はそのあちこちが、色とりどりの美しい蝋燭で飾られるようになっていた。──光のミサ、聖燭祭の日の装いである。
この日はどこもかしこも、冬の終わりと春の訪れを、それぞれの形で祈ることに忙しい。各家庭では、去年のクリスマスに使ったものを焚き上げるのが一般的だ。農村では豊穣の祈祷を舞い、魔法を込めて田畑を耕す。街中には炊き出しの屋台が並んで、きび粥と焼きソーセージが貧民にまで振る舞われる。太陽のクレープや色鮮やかな占い蝋燭は、若い世代に大人気の品だ。しかし、どこより多忙を極めるのは、ロウェバ正教の教会だろう。信徒のための祝別式やら、赤ん坊の洗礼式やら、厳かなミサやらが、たった一日に詰まっている。故に、道々で通り過ぎる教会は、普段の数倍ほどごった返し、シスターたちがくるくると独楽鼠のように働いていた。
しかし、ギデオンにとってのこの日は、実用的な意味でとてもありがたい祝日だった。無論、美味いものを安く食べられるから、というのもあるが……それより何より、ギルドから特別手当が支給されるからである。ボーナス制度は、少なくともトランフォード王国においては6月・12月の夏冬二回が基本だが、冒険者業界には少々特例が存在していた。誰もが休みたいために人手不足となる季節、例えばクリスマスから年末年始。そこで規定以上に、要はみっちりクエストをこなせば、「よく働いてくれたね」ということで、余分な給金と少しの休暇を追加で恵んでもらえるわけだ。そのタイミングは往々にして古い慣習に由来しており、聖燭祭が選ばれているのも、古代ガリニアの奉公人の給料日だったからとか。とにかくこの制度のおかげで、毎月ある場所へ大金を支払っているギデオンでも、少しは懐を温めることができた。元々財布の紐は固いし、銀行での積み立てもきっちり行っているのだが、それでも払えども払えども終わりのない生活に、日々ストレスを感じないわけがない。──だからたまには、贅沢を楽しむことにしようか、と。そんな気分になったのは、しかし実のところ。喜ぶ顔を見たいだれかのことを、無意識に思い浮かべていたせいだろう。)
(──ところが、だ。その本人、ヴィヴィアンに、ようやく再会できたというのに。彼女を見下すギデオンの顔は、物言いたげに固くなっていた。他でもない原因は、二人の間でほかほかと湯気を立てる、如何にも美味そうな白い鍋。この優しくも独特な香り、今度は新しくシーフードで攻めてきたらしい。ちゃんとああ言ったのに、おまえはまたそうやって、見え透いた嘘までついて──と。呆れ果てるのは目つきまでにとどめれば、はあ、と小さなため息をひとつ。正直、「鍵? 預かってないわよ」とマリアに言われた時点で、なんとなく予想はついていた。──故に、先手を打ってあるのだ。)
作り過ぎたってったって、最初からそのつもりだったろう……
……まあ、料理に罪はない。皿を出してくれ、夕飯にしよう。
(そうして案外すんなり受け入れながら、フェンリルのファーコートを脱ぎ、壁の突起にかけに行く。戦士装束は業者に預けてきたのだろう、あらわになったのは珍しい黒セーターの装いで。窓の外で降り始めた粉雪をちらと見遣ると、持って帰ってきた買い物袋を、どさりと机上に置いておく。中身はソーセージやクレープなど、今日の祝祭で出ていたものだ──相手も食べたかもしれないが、少し良いのを見繕ってきたので、それで手打ちにして貰おう。次いで、己の鞄から何か取り出し、棚の上に並べだす。ひとつは麻で縛ったヤドリギ、ひとつは何やら小さな小瓶。ヒーラー職である相手には、その中身がすぐにでもわかるだろうか。土産は以上とばかりに水場へ向かうと、氷のように冷たい水で両手をしっかり洗いつつ、背中越しに語りかけ。)
……風邪の噂で、例のトロイトを倒す時に随分奮発したと聞いてな。
ヒーラー手製の栄養食を賄ってもらうんだ、お代にはまだ足りないだろうが……受け取っておいてくれ。
えー?なんのことか分からないデスー…………、っ!?
( やけに素直に引き下がったギデオンに、ビビもまたエプロンを外しながら、好奇心溢れる笑顔でお土産を確かめようとしたその瞬間。──ドスッ、と。情け容赦一切なく、手を洗う相棒の背中へ飛びついた娘の鋭さといったら、先日対峙した親……とまではいかずとも、子トロイトくらいの勢いはあったかもしれない。なんで、どうしてこれがここに……と。じわじわ追いついてくる理解に、こんな高価なものを……、という多大な遠慮だけではなく、どうしようもない歓喜が湧き上がってくるのもまた事実で。 )
──……足りないだなんて。これじゃ、毎晩作りに来ても間に合わないですよ……
( ──……そうだ、「いっしょに、くらします……?」と。当時はこんな、私利私欲に溢れた提案はしていなかったはずだ。そんな正しく"寝言"が、むにゃむにゃと朝の空気に溶け込んだ、あれからおおよそ半年後──キングストンサリーチェ区、ラメット通り8番地。
ギデオンとビビが共に暮らし始めた、心地よい我が家のその二人の寝室に、──カラン、カラン……と響くのは、キングストン市民に朝を告げる鐘の音だ。天気は夏の始まりを告げるような鮮やかな快晴。眩しい朝日をたっぷり取り込む大きな窓辺からは、清々しい朝の空気が吹きこんで。普段からビビと仲の良いカラドリウスが、可愛らしく朝の訪れを歌っている。
そんな気持ちの良い朝の一幕に、それはもう全くもって不似合いな、険しい表情をしているヴィヴィアンはといえば。ベッドの上で、それまで自由に伸ばしきっていた四肢を億劫そうに丸めて、先日夏用に変えたばかりのブランケットを緩慢な動きで頭から被ったかと思うと、そのままぴくりとも動かなくなる。そうして、周囲が呼吸が辛くはないのだろうかと不安になる出で立ちのまま、再度すやすやと健やかな寝息を立て始めるだろう。 )
がふッ、
(背後から突進してきた獰猛な娘の勢いに、思わず噎せこんで壁に手を突く。そのまま盛大に面食らっていたものの、どうやら後頭部をぐりぐり押し付けてくる様子からして、相棒は感極まっているらしい。細腕の中で振り返り、仕方なく頭を撫でると、こちらを見上げてきたかんばせには、戸惑い、遠慮、喜び、愛しさ──様々な無垢の感情が、これでもかというほど詰まっていて。思いがけず満たされるのを感じ、ギデオンも喉を鳴らしながら、乱れた栗毛を整えてやる。そうだ、この顔が見たかった。自分のために何か買うより、こうして相棒を喜ばせるほうが、たまのボーナスの使い道もよっぽど有意義だ。)
……そんなことはしなくていいから、また時々、家の世話を頼まれてくれ。
大家の爺さん、どうも入院が長引きそうでな。クエストに出られないのは困るから、おまえがこうして引き受けてくれて、正直とても助かってる。ありがとうな。……
(そう穏やかに呟いて、二言三言会話してから。「せっかくの料理が冷める前にいただこう」と、彼女と共に食卓につく。そうして、暖炉の火や窓の雪を眺めながら、またふたり、穏やかな夕食のひとときを楽しんで。)
(それから月日が流れ、春になり、あの事件を生き延びて──更に夏。キングストンサリーチェ区、ラメット通り8番地。
ベテラン戦士の朝は早い。夜明け前に目を覚まし、薄暗がりの中、まずは少しだけ隣の恋人を眺めて過ごす。すよすよと寝息を立てる横顔は、何より心安らぐものだ。柔らかな栗毛にそっと唇を落とすと、ひとり静かにベッドを抜け出す。階下に降りて、フルーツやシリアルなどの軽い朝食、それから身支度──ここまでで15分。扉をしっかり施錠し、徒歩数分の公園に辿り着いたら、準備運動に15分、次のメニューに1時間かける。ワークアウトの内容は、日によって、或いは体調次第で変える習慣だ。そこらに備え付けられた共用器具を使っての、懸垂や重量挙げといった筋トレか……持ってきた重いウェアを纏い、背中に土嚢を、腰に魔剣を吊り下げ、サリーチェ一帯を走り込むか。いずれにせよ、最後には必ず魔剣の素振り、これをみっちり1時間やり込む。その基礎には、四半世紀以上経った今でも、恩師シェリーの教えを忘れずに取り込んでいる。そうしてクールダウンがてら、朝市の方へ遠回りして我が家に帰り。シャワーを浴びて汗を流したら、ここでようやく、恋人を起こしに行く時間だ。
とはいえ、ヴィヴィアンは寝起きが悪い。応答を得られたとて、険しい顔でいやいやとぐずることが多々。この日もそうだったので、仕方なく笑いながら撫で、先にカーテンと窓を開けておく。明るい日差しと爽やかな空気がたっぷりと寝室を満たせば、じきに自然と目覚めるだろう。
もう少し寝かせておく間に、再び1階に降り、ふたり分の朝食の調理へと取り掛かろうか。市場で買ってきた朝獲れ野菜を軽く切ってボウルに入れ、オリーブオイルと塩を揉み込み、ヴィヴィアン作り置きの茹で鳥やゆで卵も和え、食べ応えのあるサラダに。油を敷いたフライパンには、卵を二つ、ベーコンを5枚乗せて、魔導コンロの弱火にかけ、ジュウジュウと焼きつける。その間、パン切りナイフでパンを切り出し、フルーツジャムをたっぷり塗って、真っ白な皿に並べよう。棚からカップをふたつ取り出したら、買い置きの穀物とヨーグルトをよそい、仕上げに蜂蜜を回しかける。揃いのグラスには冷たい牛乳、片方にはギルド支給の大豆粉を溶かすのを忘れない。ここでようやく、目玉焼きと焼きベーコンを作っていたコンロの火を止め、蓋をして中身を蒸らす。栄養満点な朝食の完成だ──しかし。いつもならこの頃には、ギデオンの立てる様々な物音を聞きつけたヴィヴィアンが、上からぽやぽや降りてくるはず。ところが今朝は、まだ随分お眠なのか、ギデオンが階段を見上げても、一向にその気配がない。昨晩は遅くまで、例のあれを──手を繋ぐだけのいかがわしい戯れを──楽しんでいたからだろう。しかし、今朝はふたりとも出勤日だ……キングストンじゅうに響き渡る、爽やかな朝の鐘も鳴った。そろそろ起こしてやらなければ。)
(再び二階の寝室に上がり、寝室を確かめてみると。広々としたベッドの上には、こんもりしたブランケットの山が生じていた。あれは疑いようもなく、愛しい恋人の寝姿だ。ドアの木枠に軽くもたれ、一度笑み交じりに「ヴィヴィアン、」と優しく呼んでみたものの。案の定、奇妙な布の山はぴくりとも動かない。ゆったりと傍に歩いていき、ぎしり、とベッドの端に腰掛ける。するとチュリリリ、と賑やかな声が。そちらを見遣ってみれば、先ほど大きく開けた窓の枠に、“いつもの”雄のカラドリウスがとまっていた。忙しなく頭を動かしながら、ギデオンとヴィヴィアンを交互に見つめ、ぴょんぴょんと窓辺を跳ね、こてんと不思議そうに首を傾げて──その様子はいかにも、“あの子、まだ起きないの?”“もう起きる時間じゃないの?”と言わんばかり。彼女手ずから餌を貰い、すっかり懐いたこの聖鳥も、ヴィヴィアンの目覚めを今か今かと待ち詫びているらしい。緑豊かなサリーチェでは食べるものに困らぬだろうに、毎朝欠かさず、彼女に甘えにやってくるのだ。
小鳥に向けて、「寝坊助だよな」と困ったように笑ってみせると。今度こそ恋人に向き直り、その肩のあたりに手を置く。そうして軽く揺り動かしながら、「ヴィヴィアン、」ともう一度、柔らかな声を落として。)
……ヴィヴィアン、朝だ。
今朝は一緒に出勤するんだろ? 支度もあるんだし、そろそろ食事を摂らないと。
んー…………、
( 深く落ちた意識の頭上、分厚い幕の向こうから、愛しい人の声が聞こえる。初夏の青い風が頬を撫で、薄いブランケットを透過した朝日が眩しくて。心地よい眠りから引きずり上げられる感覚に、枕へと顔を埋めて抵抗するも。"一緒に出勤"という甘い誘いをかけられてしまえば、渋々とはいえ、たちまちに意識を浮上させてしまうのだから、御し易いことこの上ない。そうして、「……ん、いっしょ、いく」と、未だ殆ど開かぬ目元を擦りながらも、緩慢な動きで上半身を持ち上げ起こせば。肌触りの良いネグリジェが、その優美な曲線をなぞるように、さらりと滑って内腿に溜まる。そうして、真っ白なシーツにぺたりと尻をつき、未だ夢の中のような深い呼吸を繰り返すこと数秒間。
──よほど深い眠りに落ちていたのだろう。段々と覚醒しゆく感覚に、昨晩、意識を失う直前まで唇を吸われていたのが、ごくごく鮮明に思い出されて。未だ甘く痺れているような気がする唇に手を伸ばし、何も塗っていない桃色の花弁を、ふに、と柔らかく押し潰せば。ギデオンの中に己の魔素が流れていることを確認しては、くすくすと小さくはにかみながら、ぽやんと蕩けた瞳をギデオンに向け、 )
おはよう、ございます。
……昨日、いっぱいキスしてもらった、から……まだ感触が残ってるみたいなの……嬉しい、
────……、朝っぱらから……随分な攻撃だな。
(寝起きほやほやの相手の発言に、唸るような呻き声を漏らしたかと思えば。ため息交じりに言いながら、太い腕を回しかけ、問答無用で抱き込んで、そのまま一緒にどさりと背面へ倒れ込む。──あどけない物言いに、しどけない寝間着姿に、今の色っぽい仕草と表情。おまけにあんな台詞まで吐かれて、頭にがつんと喰らわない男などいるだろうか。今のギデオンはまだ、薬を──冒険者が本来クエスト時に用いる抑制剤を──服用しているからいいが、うっかり薬を切らした時にこんな一撃を喰らってはたまらない、と。朝の爽やかな明るさに不似合いな、いっそ毒々しいほどの純真無垢を、横向きにぎゅうぎゅうと抱きしめることで叱りつけ。旋毛に何度も唇を押し当て、背中をまさぐるようにさすり、こちらなりの反撃を。気が済むまでそうしてから、緩めた腕の中の相手を覗き込めば、優しい声音でようやく「おはよう」と。結局、唇の端にどうしても微笑が乗ってしまうあたり、自分はどこまでも恋人に甘いようだ。)
……なあ。今日は基本、報告書をまとめたり、幾つか決裁を回したりするくらいで……何事もなければ内勤なんだ。
久々におまえの夕飯を食べたいんだが……何なら強請れる?
ひゃっ……!
( 思わず回し掛けられた腕に、すり、と頬を微かに寄せようとして、なすすべもなく逞しい腕の中に抱き込まれてしまえば。これがせめていつも通りならば、旋毛に触れる感触と、己の発言の意味深さに気づいて、真っ赤になって暴れ出しただろうに。未だ寝惚けた娘は、ただ与えられた温もりに、えへへぇ、と嬉しそうに抱き締め返してくる始末。逞しい腕が緩んで、やっと見えた大好きな顔にも、とろんと蕩けきった笑顔を向けるそんな体たらくの癖をして。──可愛いなあ、と。朝ごはんの前から夕飯の話をしている恋人への愛しさに、くすくすと口元を抑えて、その薄い頬へと手を伸ばせば、 )
きょうは……昨日の残りのお肉をマリネにしようかと思ってたんですけど、赤ワインがあるのでローストビーフにしてもいいですし……
ガーリックもそろそろ使い切っちゃいたいので、ステーキでも……ただステーキにはちょっと心許ないので、折角ソース作るならオムレツも作りましょうか──……あ、ギデオンさん。卵っていくつ残ってました……?
( と、そこまで。段々と冴えてくる思考と同時に口を働かせたところで、はっと大きく目を見開けば。「朝ごはん! できたから呼んでくれたんですよね?」ギデオンがビビの料理を褒めてくれるように、ビビもまたギデオンのシンプルな素材の一番美味しいタイミングを逃さない料理が大好きなのだ。──冷めちゃったら勿体ない! と、相手の腕の中から跳ね上がろうとして、その腕から解放されれば。慌てて階段を下ろうとしてから一瞬引き返し、ギデオンと共に朝を告げてくれたカラドリウスへ、瑞々しい苺を咥えさせ。元気よく広がった巻き毛を揺らしながら、いつも通りの満面の笑みでギデオンの元へと飛んでくるだろう。 )
毎朝ありがとうございます! ギデオンさんの朝ごはん大好き──……あ、もちろんギデオンさんのことも大好きです!
(こちらに優しく触れながら、ごく穏やかなゆったりした声音で、あれがいいかな、これがいいかな……と、今夜のご馳走の候補を幾つも挙げていく。毎度時間にして数秒ほどではあるけれども、愛しい恋人のその姿が、ギデオンはたまらなく好きで。こちらも自然と目元を和らげ、形の良い頭を撫で返しながら、耳を傾けていたところ、しかし。はっと、ついに完全に目覚めた彼女が跳ね起き、ベッドから飛び出していけば、目を瞬いて半身を起こす。そうしてぱたぱた、ぱたぱたと、元気に駆け回る恋人を、じっと青い目で眺めていると。また思い出したように己の方へ飛び込んできた温もりを受け止め、その犬のような溌溂ぶりに、思わず笑い声をあげて。まだきりっと結い上げられていない、無邪気さをたっぷり含んだふわふわの栗毛の頭を、くしゃくしゃに撫でてやるだろう。)
──っくく、ああ、知ってるとも。俺もだよ。
さあ、下に降りて食べよう。今日は天気もいい……のんびり歩くにはもってこいだ。
(そうしてふたり、今日一日の仕事の話をあれこれ楽しく共有しながら、新鮮な朝餉を済ませれば。諸々の片付けに身支度、そしてしっかり戸締りをして、手を繋いだまま歩き出す。先ほど話題にしたとおり、今朝は気持ち良いほどの快晴。街路樹の並ぶラメット通りは、豊かな緑が目に優しく、吸い込む大気もごく爽やかだ。この2ケ月ですっかり並んだ通勤路を、あの家の窓が好きだ、あそこのドアノッカー素敵ですよね、なんて話しながら進んでいけば。花壇に水をやっていた老婦人が、「相変わらず仲良しだこと」とじょうろ片手にくすくす笑い。学校へと我先に駆けだしていた子どもたちが、曲がり角でききっと立ち止まって、元気いっぱいの挨拶を。“きんじょのきれいなヒーラーおねえさん”に、きらきらと目を輝かせる様は、見ていて非常に微笑ましいものだ。古魔導具屋の旦那が重い荷物を持ち上げようとしていたので、ギデオンがすっと手伝えば、旦那は「ありがとよ!」と朗らかに笑い、次いでやはり、ヴィヴィアンを見るなりにへらと相好を崩すだろうか。「治安の良い街とは知っているが……うっかり盗られないようにしないと」などとm冗談交じりに抜かしては。繋いだ手で恋人を軽く引き寄せ、再び旋毛にキスを落とす。これでも実はそれなりに人目を気にするギデオンだが、ラメット通りは例外らしい──近隣住民とは良い関係を築いている。互いの生活をそれとなく知っているので、もはや隠し立てする必要はないと開き直っているようだ。
そうして石畳の道を、時折大きな街道を渡りながら、王都の中心部まで歩いていき。いよいよギルド本舎が見え出した辺りで、しかし何やら異変を聞きつけ、ヴィヴィアンとふたり、はたと顔を見合わせた。誰だか知らないが、男が喚いているようだ……音の方向からして、まさに自分たちの勤める建物の中でだろうか。料金を踏み倒しに来た、たちの悪い依頼者か何かか? カレトヴルッフは国内最高峰ギルドと謳われるだけあって、例年高い顧客満足度を誇るが、悪質なクレーマーが全くつかないわけではない。今日のもまたそういった手合いだろうか、随分長く騒いでいるようだ。今ごろ出勤している筈のマリアなりカーティスなりがまだ収められていない辺り、かなり厄介な奴らしいな……などと言い交わしながら、いざエントランスを潜り抜けてみると。そこで目にした目を疑う光景に、ヴィヴィアンと手を繋いだまま、思わず呆気に取られて立ち尽くしてしまうだろう。)
────……!?
(こちらに優しく触れながら、ごく穏やかなゆったりした声音で、あれがいいかな、これがいいかな……と、今夜のご馳走の候補を幾つも挙げていく。毎度時間にして数秒ほどではあるけれども、愛しい恋人のその姿が、ギデオンはたまらなく好きで。こちらも自然と目元を和らげ、形の良い頭を撫で返しながら、耳を傾けていたところ、しかし。はっと、ついに完全に目覚めた彼女が跳ね起き、ベッドから飛び出していけば、目を瞬いて半身を起こす。そうしてぱたぱた、ぱたぱたと、元気に駆け回る恋人を、じっと青い目で眺めていると。また思い出したように己の方へ飛び込んできた温もりを受け止め、その犬のような溌溂ぶりに、思わず笑い声をあげて。まだきりっと結い上げられていない、無邪気さをたっぷり含んだふわふわの栗毛の頭を、くしゃくしゃに撫でてやるだろう。)
──っくく、ああ、知ってるとも。俺もだよ。
さあ、下に降りて食べよう。今日は天気もいい……のんびり歩くにはもってこいだ。
(そうしてふたり、今日一日の仕事の話をあれこれ楽しく共有しながら、新鮮な朝餉を済ませれば。諸々の片付けに身支度、そしてしっかり戸締りをして、手を繋いだまま歩き出す。先ほど話題にしたとおり、今朝は気持ち良いほどの快晴。街路樹の並ぶラメット通りは、豊かな緑が目に優しく、吸い込む大気もごく爽やかだ。この2ケ月ですっかり馴染んだ通勤路を、あの家の窓が好きだ、あそこのドアノッカー素敵ですよね、なんて話しながら進んでいけば。花壇に水をやっていた老婦人が、「相変わらず仲良しだこと」とじょうろ片手にくすくす笑い。学校へと我先に駆けだしていた子どもたちが、曲がり角でききっと立ち止まって、元気いっぱいの挨拶を。“きんじょのきれいなヒーラーおねえさん”に、きらきらと目を輝かせる様は、見ていて非常に微笑ましいものだ。古魔導具屋の旦那が重い荷物を持ち上げようとしていたので、ギデオンがすっと手伝えば、旦那は「ありがとよ!」と朗らかに笑い、次いでやはり、ヴィヴィアンを見るなりにへらと相好を崩すだろうか。「治安の良い街とは知っているが……うっかり盗られないようにしないと」などと冗談交じりに抜かしては。繋いだ手で恋人を軽く引き寄せ、再び旋毛にキスを落とす。これでも実はそれなりに人目を気にするギデオンだが、ラメット通りは例外らしい──近隣住民とは良い関係を築いている。互いの生活をそれとなく知っているので、もはや隠し立てする必要はないと開き直っているようだ。
そうして石畳の道を、時折大きな街道を渡りながら、王都の中心部まで歩いていき。いよいよギルド本舎が見え出した辺りで、しかし何やら異変を聞きつけ、ヴィヴィアンとふたり、はたと顔を見合わせる。誰だか知らないが、男が喚いているようだ……音の方向からして、まさに自分たちの勤める建物の中でだろうか。料金を踏み倒しに来た、たちの悪い依頼者か何かか? カレトヴルッフは国内最高峰ギルドと謳われるだけあって、例年高い顧客満足度を誇るが、悪質なクレーマーが全くつかないわけではない。今日のもまたそういった手合いだろうか、随分長く騒いでいるようだ。今ごろ出勤している筈のマリアなりカーティスなりがまだ収められていないところを見るに、かなり厄介な奴らしいな……などと言い交わしながら、いざエントランスを潜り抜けてみると。そこで目にしたまさかの光景に、ヴィヴィアンと手を繋いだまま、思わず呆気に取られて立ち尽くしてしまうだろう。)
────……!?
──ん、なあに?
( 愛しい恋人の言った通り、今日のラメット地区は非常に気持ちの良い朝で。サラサラと音を立て流れる水路沿いを、涼し気な木漏れ日を潜り抜け。──おはようございます、いい朝ですねと、ご近所さん達への挨拶をにこやかに返しながら歩くことしばらく。隣の恋人からふいに引かれた腕に、背後から人でも来てただろうかと、無防備に振り返れば。真正面から至近距離で食らってしまった台詞の甘さといったら。普段ビビの迂闊を叱りつけてくるギデオンだが、その本人だって2ヶ月前のあの病室での時間から、その蕩けてしまいそうな甘い言葉で、何度ビビを苦しめたことか。思わず何も返せずに、ぽぽぽっと頬を染めた若い娘にも、周囲の視線はあたたかく。そのご近所さんのご好意に甘えて、小さく手を引き返すと、相手の耳に顔を寄せる振りをして、その愛しい耳朶に唇を落としてやる。そんな、バカップルもいいところな小競り合いを繰り返していた報いだろうか。 )
( ──その瞬間、ビビが感じたのは確かに強い"殺気"だった。
未だ路上にいた時分、尋常でない怒号に、頼もしい相棒と顔を見合せ、ロビーに続く扉を足早に潜れば。奥の来客用ソファの周辺には、入口から見えるだけで3名もの若手冒険者が倒れ伏し。その周辺で揉めているのは……あれは、ギルドのベテラン勢と──……「パパ!?」と、半ば叫ぶようなビビの声に振り返ったのは、顎くらいの長さで金髪を切りそろえた、20代半ばから後半ほどに見える青年。──パパ!? と、別の意味で驚いたような視線を向けてくる若手勢はともかくとして。"パパ"と呼ばれた青年──改め、五十路もとうに迎えた大魔法使いギルバート・パチオは、ビビの声にぱっと此方を振り返ったかと思うと。その突飛な行動を制限しようとしたかつての同僚を振り払い、真っ直ぐに娘の方へと駆けてくる。そうして、「ビビちゃん、怪我は!? 危篤って……!?」と、一応隣に見えているはずのギデオンになど目もくれず、娘の華奢な両肩に手をかけて、その無事を確認しようとしたその時だった。
ビビの前では形無しだが、一応これでも世紀の大魔法使いと名を馳せたギルバートである。娘の身体中にベッタリと染み付いて、誤魔化しが効かない程の色を放っている魔素を見落とすわけがあるだろうか。長く豊かな睫毛に縁取られた灰青の瞳を、漠然と見開いた父親に対し、少し恥ずかしそうにはにかむ娘の温度差ときたら。今更、娘の片手が何かに繋がっていることに気がついた父親が、その繋げられた"その先"の男。ギデオン・ノースにもまた、愛しい娘の魔素がたっぷりと移っていることに気がついたのが一巻の終わり。──その瞬間。部屋の温度が一気に下がったかと思うと、ロビーの手前で大人しく寛いでいた猟犬たちが、歯茎を剥いて唸りだし、一定以上の実力を持つ冒険者たちの顔色ががらりと変わる。その中心で、深い疲労と激しい怒りに我を忘れた大魔法使いの、俯いて影になった顔の中。やたら目だけがギラギラと輝いて、なにやらブツブツ呪詛を吐き始める形相は、それが殆ど娘と同じパーツで構成されているなど俄には信じられぬ有様だ。周囲の視線も気にせずに、大の男が嗚咽する醜態は、その容姿も相まって謎の見応えを感じさせ──パパやめて! 子供は黙っていなさい! と、そこだけ聞き取ればありがちな親子喧嘩も。その瞬間、周囲の木材に石材、ランプの火……そしてその場の空気に至るまで、金属以外の全てがギルバートの味方をするかのように、メキメキと変形しゆく騒動に、先程のベテラン達や、未だ奥の部屋にいた幹部達も飛び出てくる大騒動となって。
結局、後になって話を聞いてみれば。ギルバートは当初、明らかに焦燥しきってはいたものの、必要書類を持って大人しくカウンターを訪れていたらしい。事情が事情なのだから、最初から顔見知りの幹部に話を通せば良いものを。己がマスター代理時代に作った規則に則って、冒険者の親族としてその情報開示を大人しく待つあたりが真面目というか、不器用というか。しかし、そこへ顔の良い兄ちゃんと見て絡みにかかったのが、最初に倒れていた問題児達らしく。よせば良いものを、相手に恥をかかせるつもりで、おっとうっかりぃ──なんて、硬い装備を身につけた肩をぶつけにかかり、みるも惨めに弾き返され派手にすっ転べば、そこに降りかかるのが、ベテラン勢にはおなじみの、ギルバートが他人に向けるゴミを見るような視線である。どうやらビビ達が最初に聞いた怒号は問題児たちの方であったらしく、飛びかかって来ようとする男共を、魔法で床に叩きつけ。すわ何事かと飛び出たベテラン達の胃痛の程たるや。元より性格が終わっていると評されて久しい、その上最悪に気が立っている瞬間である。事情を説明するその間にも、"わざと"問題児たちの意識を留めたまま、起き上がれぬよう床に押し付け辱めていた、というのが、ビビ達が最初に見た光景の真相であるらしい。
とはいえ、愛しい娘と手を繋ぎ、明らかに深い関わりを持っている四十路の男を目の前にして。周りに迷惑だからせめて外で、というビビの懇願も袖にして。そのビビには半分ほども理解出来得ぬ罵詈雑言を、ギデオンに浴びせかけた挙句。周囲を巻き込んでの暴挙の果てに、「ビビちゃんは騙されてるんだ。今すぐこの色情魔を──」と、娘の腕まで振り払った瞬間。とうとうビビの頭の中で何かが壊れる音がした。「……うるさい、もう黙ってよ」と、冷たく響いた声にギルバートの動きがビクリと止まり。「何も知らない癖に」「色情魔はどっちよ」と、普段温和な娘のものとは思えぬ声音に、ギルバートどころか、娘がいる父親達の表情が青ざめていく。「……ビ、ビビちゃ」と伸ばされたギルバートの腕は無惨にも叩き落とされ、「触らないで。あちこちにベタベタ跡つけて気持ち悪いのよ」と、その一撃だけで、世紀の大魔法使いにとって二度と立ち上がれぬダメージだというのに、ビビの追撃は止まらない。ぶるぶると震える父親を鼻で笑い、見せつけるように、恋人の腕をとった娘の吐き捨てるような言葉がトドメとなって。ここ数日、ろくに眠れていなかった大魔法使いは、冷たい床に撃沈したのだった。 )
都合の良い時だけ、いまさら父親面しないでよ。
さようなら! 私はギデオンさんがいればいいもの。
……どうも、先代。お久しぶりです──
(朝からたっぷりいちゃつきながら出勤したふたりを、唖然と立ち尽くさせたのは。──長らく行方の知れなかったヴィヴィアンの父、ギルバート・パチオその人だった。ギデオンが最後に見かけたのは20年近く前だというのに、どういうわけかその姿は、当時そのままの若々しさだ。無様に這いつくばるギルドの若造どもを、冷ややかに見くだす顔つきも、まるで現役時代からそのまま持ってきたかのようである。周囲はただ慄くばかりで、ギルバートの狼藉を誰も止められずにいるらしい。
とはいえ、ギデオンの立ち直りは比較的早かった。信じられないものを見る目を寄越してきたギルバートに対し、さっと社交用の、涼やかな仮面を取り繕って。いきなり、しかも全く予期せぬタイミングになったとはいえ、一応“相手方”の親に挨拶する機会となったわけだ、きちんとこなしておくべきだろう──と、しれっとした態度で告げる。しかしその片手ときたら、未だヴィヴィアンと繋いだまま。別段何もおかしなところはありませんよとばかりに、堂々と開き直っている始末だ。
──当然、ギルバートの逆鱗に触れぬわけがない。天文学的に膨大な魔力が、限界を超えて高まりに高まり、あわや大惨事か、というところで。奥の部屋からすっ飛んできた現ギルマスが、どうにか彼を宥めすかし、諫めてくれたからいいものの。こちらを激しく睨めつけたままの大魔法使いは、ならば今度は口先で、とばかりに、ギデオンに激しく息巻く。「失礼。“私”の記憶が正しければ、ギデオン、貴様はとうに四十も超えているのではなかったか?」「何故そのような老いぼれが。“私”の娘の手をとっている?」「この不埒者が。恥も常識も母親の胎に忘れてきたかね。ならば今すぐその手を離し、見習い時代からやり直すといい。“私”がじきじきに、骨の髄から叩き直してやる」「──ああ、だから! いいからさっさと、僕の娘から手を離せと言っているんだ!」
しかし当のギデオンはと言えば、ああ、懐かしいなあ、くらいの呑気な感慨に浸っていた。威嚇のためだろう“代理”時代の口調から、だんだんと素の口調になっていくのも、微笑ましさを感じさせる。他人が言うならば地雷だろう発言も、ギルバートだけは例外だ。何せかの20年前、ギデオンは彼の素の姿をばっちり目撃していた。幼い愛娘ヴィヴィアンを前に、だらしなく目尻を垂らし、目に入れても痛くないと言わんばかりにでれでれに可愛がっていた、愛情深いあの横顔。あれを見ていれば、こうして鋭く噛みつかれたところで、まあそうなるよなあ、くらいのものだ。まだうら若い二十代の娘が、四十の男と懇ろにしていると知れば、心配するのは親として当然。ギルバートのこの反応は、何ら間違ってはいない。
──だが、仮に。生きているか死んでいるかもまるで知らない人間なので、あり得ない話ではあるが。仮にギデオンの父親が、交際相手のヴィヴィアンをこのように貶しつけたら、ギデオンはきっと黙っちゃいない。それはヴィヴィアンも同じこと──つまり、たった今、目の前で。真横のギデオンも目を瞠るほどに、娘は父親を突き放したのだ。冷たく、刺々しく、普段の温厚さや人当たりの良さが、まるで全くの別人かのように。哀れギルバートは、強いショックと極度の疲労で気を失い。ギルマスが命じるまでもなく、慌てて周囲のベテランが介抱しに駆けつけた。その間もヴィヴィアンは、ギデオンの腕に取りついたまま、それを冷ややかに見くだすのみだ──奇しくも、最初に見たギルバートそっくりの顔つきである。己の愛しい恋人は、建国祭しかり、本気で怒ると非常に恐ろしくなることを、ギデオンは知っている。だがこの豹変は、あの時の比ではない……庇われたはずのギデオンが狼狽えるほどに苛烈だ。いったいこれはどういうわけか、とギデオンが目を瞬いていると。騒ぎを聞きつけたのだろう、医務室からようやくドクターが駆けつけた。彼はまず倒れているギルバートを見、次にギデオンとヴィヴィアンを見、両者を二度見三度見し。そうして、しわくちゃの手で頭を抱え、深々とため息をついて。「お前ら全員、なーにやっとるんだ……」と、まだ何も手をつけぬうちから、疲れ切った声を絞り出すのだった。)
(──それから小一時間後。カレトヴルッフのギルドロビーは平常運転を取り戻したが、ギデオンとヴィヴィアンはその中にいなかった。ギルバート・パチオの突然の帰還を受け、その応対を優先するよう命じられたのだ。ヴィヴィアンは嫌がったが、「必要な情報共有を済ませておかないと、あの男、ゴネますよ」とギルマスに言われれば、渋々といった様子で従うことにしたらしい。どうやら本当に、父親との関わりを最小限に済ませたいようである。ギデオンの見立てでは、何もさっきの一幕だけでこうはならない気がするのだが。パチオ父娘の間には、いったい何があったのだろうか。
とにかく、そういった事情によって。ギルドの応接室には今、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。ギデオンとヴィヴィアンが並んで座る向かいの席には、相変わらずこちらを睨みつけてくるギルバートと、それを横から諫めに諫める現ギルマス。また倒れられてはかなわない、と後ろに控えるドクターに、記録係として呼び出され、白い目を向けてくるマリア。壁際にもたれているのは、ヨルゴスをはじめとした数人の戦士や魔法使い、いずれも手練れのベテランだ。全員がギルバートの知己であり、いざというときに彼を取り押さえる役目なのだが、あのにやけ面はどちらかというと、面白そうな状況を確かめに来た野次馬だろう。その他、ギルドの重鎮も複数名、周囲のソファーにずらりと腰掛け、威厳ある態度でじっと座している。これから重大な作戦会議でも始めるかのようだが、もちろんそういうわけではない。面子と空気が異常なだけだ。
さてまずは、ヴィヴィアンが危篤に至った経緯の説明、及び今の体調の共有がなされた。ギデオンと臨んだフェンリル狩りの最中に悪魔に襲われ、その身体を苗床にされた──と聞いて。真向いのギルバートは、早速頭に血をのぼらせ、素早く立ち上がったのだが。ヴィヴィアンが一言「パパ」と言えば、それだけでびくりと震え、またすごすごと着席したのだから、先ほどのやりとりが余程堪えたものらしい。──そうして、全身の魔力弁の破壊、という重傷を負った後、聖バジリオに3週間ほど入院したことを説明する。危篤だったのは最初の数日間のみで、その後はひたすら回復とリハビリに努め、その甲斐あって無事退院。キングストンに戻った後は、こちらのドクターがカルテを引き継ぎ、慎重に経過観察中。本格的なクエストには未だドクターストップがかかっているものの、訓練合宿に参加できる程度には回復したし、比較的に負担の少ない仕事にも、段階的に復帰している。後遺症も今のところ見当たらないので、予後は至って順調。遅くとも秋までには、医師として完治を言い渡せるだろう、という言葉が、ドクターより言い添えられた。要は、ヴィヴィアンの危篤の話は、今や解決済みなのである。
反対にギルマスが知りたがったのは、ギルバートの帰還の経緯だ。ギルバートはひとり娘ヴィヴィアンを溺愛している。それが何故、2ヵ月近くもかかってから帰ってくることになったのか。──次のギルバートの言葉は、一同を驚かせた。彼が手紙を受け取ったのは、なんとわずか1週間前のことだそうだ。当時のギルバートは、遥か北西にあるガリニア帝国の魔導学院に誘致されていた。ギルドもそれを知っていて、そこに手紙を出したはずである。しかしギルバートはその時、ガリニアの学院の命令で、遥か極北のルーンにまで、フィールドワークに出てしまっていた。数週間ほどでまたガリニアに戻るはずが、現地の精霊に気に入られ、戻るのに散々苦労したという(ヴィヴィアンの言った「あちこちにベタベタ痕つけて」とは、その精霊が施した“妖精のキスマーク”なるものらしい。道理でギデオンには見えないわけだ)。そうしてどうにか帰還すると、今度は学院の様子がおかしい。ギルバートの私書箱のものを勝手にどこかへやったと宣い、探せと言ってもはぐらかす。痺れをきらしたギルバートが、魔法を駆使してとうとう探し出すと、そのなかにはカレトヴルッフからの手紙、しかも開封の痕があるものが。赤字で「緊急」と書かれた封筒をしているのだから、学院はすぐにギルバートを呼び戻すべきだろうに、彼らはそれを怠り、あまつさえ勝手に中身を盗み見たわけだ。「あの連中、僕に研究を中止してほしくなかったんだ。自国の利益のためだけに、僕の娘の危機を知らせず、手紙の隠蔽まで図っていたんだよ。許しがたいことだ」と、ギルバートは忌々し気に吐き捨てた。「馬鹿なことを。国際法に触れるのを恐れて、燃やす勇気もなかった癖に。見ろ、連中が長らくのらりくらりしたせいで、こんなに帰りが遅くなった。誰があそこに勤めるものか。僕は二度と戻る気はない」──。
口で言えば簡単だが、実際はそうもいかない。ギルバートは小国であれば国賓として迎えられるほどの、世界的な大魔法使いだ。心情は察して余りあるものの、向こうでの研究を投げ捨ててきたままとなると、最悪国際問題である。至急優先すべきは、まずギルバートの身辺整理だろうという話になった。とにかく、こっちの魔導学院に戻ってもらい、そこを介して正式に辞職する手続きが必要だ。しかしその前にと、ドクターが口を挟んだ。まずはしっかり休養しろ、下手すりゃお前さん死ぬぞ、と。大陸の最果て・ルーンから、遥か南のトランフォードまで、その距離は実に千里以上。それをたった1週間で戻ってくるというのは、到底人間のなせる業ではない。精霊の加護によって見た目が老いないというギルバートだが、その身体には相当無理が来ているはずだ。故にまずは、ギルドが宿を手配して、しばらくそこに滞在してもらう。そうして体調が戻り次第、そこから魔導学院に出向き、諸々必要な手続きを処理する──そういう話にまとまった。
それで終われば平和だが、そうはいかないからこの面子である。最後に再び、ギデオンとヴィヴィアンの関係について触れる段になったとき、周囲が固く見守る中、ギデオンは居住まいを正し、真剣な顔で切り出した。二ヶ月ほど前から、娘さんとお付き合いしております。彼女の予後を見守るために、今はサリーチェの家で同棲もしています、と。──そこからはもう、大変だった。再び怒髪天を突いたギルバートと、業を煮やしたヴィヴィアンの、火花を散らしての親子喧嘩だ。先ほどはヴィヴィアンの冷ややかさに怯みきっていたでいたギルバートも、可愛い娘が不埒な男と同棲までしていると聞けば、断固として譲らないことに決めたらしい。しかも彼は、ギデオンの若い頃を知っている。不特定多数の若い女と、散々遊んでいた時代──言い逃れようのない遊び人だった時代をだ。「ビビちゃんはこいつに弄ばれてるんだ!!」「ずっと傍にいなかったくせに、知ったような口きかないでよ!!」。結局最後には、ギルバートかヴィヴィアンのどちらかが部屋を飛び出してしまったことで、この会合は打ち切りとなった。いつもは決して動じないギルマスが、後ろのドクターと全く同じ様子で、頭を抱え込んでいる。無論、娘のいる重鎮たちが、当のギルバートより余程酷く胃を痛めて呻いていたのは、言うまでもない話だ。)
(──その日の夕方。例の会合の後、一旦自分の仕事に戻ったギデオンは、ギルドの医務室に足を運んでいた。ヴィヴィアンはこのところ、ドクターの手伝いという形でヒーラーの仕事に復帰し、調薬作業を任されている。何事もなければそこで作業しているはずで、しかしそろそろ引き上げ時だ。もう夕方の17時、シフトのひとつの区切りである。ギデオン自身も、本来ならもっと捌かねばならぬ筈の書類を、「俺らがやるから」と幹部たちに取り上げられ、部屋を追い出された後だった。仕事はいいから、それよりまずは、ビビちゃんの様子を見てやってくれ。あれは相当来てるだろ、おまえが話を聞いてやれよ──と。普段は散々、ようやく彼女と付き合い始めたギデオンのことをからかってくる連中だが、今日のところは純粋な気遣いらしい。ならば素直に甘えよう、ということで、退勤の誘いをかけに来たのである。医務室の扉をノックし、軽く声をかけてから、慣れた様子で中に入ると。ドクターに軽く頭を下げてから、「お疲れ」と、相手の方に向き直って。)
こっちの仕事が片付いたから、少し早いが迎えに来た。
まだ少しかかりそうなら、適当に暇をつぶすが……
※ギルバートの帰国の経緯のみ、若干修正しております。
……どうも、先代。お久しぶりです──
(朝からたっぷりいちゃつきながら出勤したふたりを、唖然と立ち尽くさせたのは。──長らく行方の知れなかったヴィヴィアンの父、ギルバート・パチオその人だった。ギデオンが最後に見かけたのは20年近く前だというのに、どういうわけかその姿は、当時そのままの若々しさだ。無様に這いつくばるギルドの若造どもを、冷ややかに見くだす顔つきも、まるで現役時代からそのまま持ってきたかのようである。周囲はただ慄くばかりで、ギルバートの狼藉を誰も止められずにいるらしい。
とはいえ、ギデオンの立ち直りは比較的早かった。信じられないものを見る目を寄越してきたギルバートに対し、さっと社交用の、涼やかな仮面を取り繕って。いきなり、しかも全く予期せぬタイミングになったとはいえ、一応“相手方”の親に挨拶する機会となったわけだ、きちんとこなしておくべきだろう──と、しれっとした態度で告げる。しかしその片手ときたら、未だヴィヴィアンと繋いだまま。別段何もおかしなところはありませんよとばかりに、堂々と開き直っている始末だ。
──当然、ギルバートの逆鱗に触れぬわけがない。天文学的に膨大な魔力が、限界を超えて高まりに高まり、あわや大惨事か、というところで。奥の部屋からすっ飛んできた現ギルマスが、どうにか彼を宥めすかし、諫めてくれたからいいものの。こちらを激しく睨めつけたままの大魔法使いは、ならば今度は口先で、とばかりに、ギデオンに激しく息巻く。「失礼。“私”の記憶が正しければ、ギデオン、貴様はとうに四十も超えているのではなかったか?」「何故そのような老いぼれが。“私”の娘の手をとっている?」「この不埒者が。恥も常識も母親の胎に忘れてきたかね。ならば今すぐその手を離し、見習い時代からやり直すといい。“私”がじきじきに、骨の髄から叩き直してやる」「──ああ、だから! いいからさっさと、僕の娘から手を離せと言っているんだ!」
しかし当のギデオンはと言えば、ああ、懐かしいなあ、くらいの呑気な感慨に浸っていた。威嚇のためだろう“代理”時代の口調から、だんだんと素の口調になっていくのも、微笑ましさを感じさせる。他人が言うならば地雷だろう発言も、ギルバートだけは例外だ。何せかの20年前、ギデオンは彼の素の姿をばっちり目撃していた。幼い愛娘ヴィヴィアンを前に、だらしなく目尻を垂らし、目に入れても痛くないと言わんばかりにでれでれに可愛がっていた、愛情深いあの横顔。あれを見ていれば、こうして鋭く噛みつかれたところで、まあそうなるよなあ、くらいのものだ。まだうら若い二十代の娘が、四十の男と懇ろにしていると知れば、心配するのは親として当然。ギルバートのこの反応は、何ら間違ってはいない。
──だが、仮に。生きているか死んでいるかもまるで知らない人間なので、あり得ない話ではあるが。仮にギデオンの父親が、交際相手のヴィヴィアンをこのように貶しつけたら、ギデオンはきっと黙っちゃいない。それはヴィヴィアンも同じこと──つまり、たった今、目の前で。真横のギデオンも目を瞠るほどに、娘は父親を突き放したのだ。冷たく、刺々しく、普段の温厚さや人当たりの良さが、まるで全くの別人かのように。哀れギルバートは、強いショックと極度の疲労で気を失い。ギルマスが命じるまでもなく、慌てて周囲のベテランが介抱しに駆けつけた。その間もヴィヴィアンは、ギデオンの腕に取りついたまま、それを冷ややかに見くだすのみだ──奇しくも、最初に見たギルバートそっくりの顔つきである。己の愛しい恋人は、建国祭しかり、本気で怒ると非常に恐ろしくなることを、ギデオンは知っている。だがこの豹変は、あの時の比ではない……庇われたはずのギデオンが狼狽えるほどに苛烈だ。いったいこれはどういうわけか、とギデオンが目を瞬いていると。騒ぎを聞きつけたのだろう、医務室からようやくドクターが駆けつけた。彼はまず倒れているギルバートを見、次にギデオンとヴィヴィアンを見、両者を二度見三度見し。そうして、しわくちゃの手で頭を抱え、深々とため息をついて。「お前ら全員、なーにやっとるんだ……」と、まだ何も手をつけぬうちから、疲れ切った声を絞り出すのだった。)
(──それから小一時間後。カレトヴルッフのギルドロビーは平常運転を取り戻したが、ギデオンとヴィヴィアンはその中にいなかった。ギルバート・パチオの突然の帰還を受け、その応対を優先するよう命じられたのだ。ヴィヴィアンは嫌がったが、「必要な情報共有を済ませておかないと、あの男、ゴネますよ」とギルマスに言われれば、渋々といった様子で従うことにしたらしい。どうやら本当に、父親との関わりを最小限に済ませたいようである。ギデオンの見立てでは、何もさっきの一幕だけでこうはならない気がするのだが。パチオ父娘の間には、いったい何があったのだろうか。
とにかく、そういった事情によって。ギルドの応接室には今、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。ギデオンとヴィヴィアンが並んで座る向かいの席には、相変わらずこちらを睨みつけてくるギルバートと、それを横から諫めに諫める現ギルマス。また倒れられてはかなわない、と後ろに控えるドクターに、記録係として呼び出され、白い目を向けてくるマリア。壁際にもたれているのは、ヨルゴスをはじめとした数人の戦士や魔法使い、いずれも手練れのベテランだ。全員がギルバートの知己であり、いざというときに彼を取り押さえる役目なのだが、あのにやけ面はどちらかというと、面白そうな状況を確かめに来た野次馬だろう。その他、ギルドの重鎮も複数名、周囲のソファーにずらりと腰掛け、威厳ある態度でじっと座している。これから重大な作戦会議でも始めるかのようだが、もちろんそういうわけではない。面子と空気が異常なだけだ。
さてまずは、ヴィヴィアンが危篤に至った経緯の説明、及び今の体調の共有がなされた。ギデオンと臨んだフェンリル狩りの最中に悪魔に襲われ、その身体を苗床にされた──と聞いて。真向いのギルバートは、早速頭に血をのぼらせ、素早く立ち上がったのだが。ヴィヴィアンが一言「パパ」と言えば、それだけでびくりと震え、またすごすごと着席したのだから、先ほどのやりとりが余程堪えたものらしい。──そうして、全身の魔力弁の破壊、という重傷を負った後、聖バジリオに3週間ほど入院したことを説明する。危篤だったのは最初の数日間のみで、その後はひたすら回復とリハビリに努め、その甲斐あって無事退院。キングストンに戻った後は、こちらのドクターがカルテを引き継ぎ、慎重に経過観察中。本格的なクエストには未だドクターストップがかかっているものの、訓練合宿に参加できる程度には回復したし、比較的に負担の少ない仕事にも、段階的に復帰している。後遺症も今のところ見当たらないので、予後は至って順調。遅くとも秋までには、医師として完治を言い渡せるだろう、という言葉が、ドクターより言い添えられた。要は、ヴィヴィアンの危篤の話は、今や解決済みなのである。
反対にギルマスが知りたがったのは、ギルバートの帰還の経緯だ。ギルバートはひとり娘ヴィヴィアンを溺愛している。それが何故、2ヵ月近くもかかってから帰ってくることになったのか。──次のギルバートの言葉は、一同を驚かせた。彼が手紙を受け取ったのは、なんとわずか1週間前のことだそうだ。ギルバートはトランフォードの魔導学院に雇われている教授だが、ここ数年前は、遥か北西にあるガリニア帝国の魔導学院にも誘致され、トランフォードの学院からそちらに出向する形をとっていた。ギルドもそれを知っていて、学院の私書箱宛に手紙を出したはずである。しかし当時のギルバートは、ガリニアの学院の命令で、遥か極北のルーンにまでフィールドワークに出掛けていた。数週間ほどすればまたガリニアに戻るはずが、現地の精霊に気に入られ、なかなか戻れなかったらしい(ヴィヴィアンの言った「あちこちにベタベタ痕つけて」とは、その精霊が施した“妖精のキスマーク”なるものだという。道理でギデオンには見えないわけだ)。そうこうするうちに、学院の雇っている犬橇隊が補給物資を届けに来たが、そのひとりがどういうわけか、こんなところに来るはずもない知人。義理堅い性格の彼が渡してきたのは、なんとカレトヴルッフからの手紙、しかも赤字で「緊急」と書かれた封筒に入ったものだ。本来ガリニアの学院は、これを大至急ギルバートに届けるべきであったのに、それを怠っていたらしい。それに気づいた知人が、どうにか手紙を持ち出して、ギルバートを必死に捕まえに来たのである。「学院の連中は、僕に研究を中止してほしくなかったんだ。自国の利益のためだけに、僕の娘の危機を知らせず、隠し通そうとしらを切っていた。許しがたいことだ」と、ギルバートは忌々し気に吐き捨てた。「馬鹿なことを。国際法に触れるのを恐れて、燃やす勇気もなかった癖に。見ろ、連中が長らくのらりくらりしたせいで、こんなに帰りが遅くなった。誰があそこに勤めるものか。僕は二度と戻る気はない」──。
口で言えば簡単だが、実際はそうもいかない。ギルバートは小国であれば国賓として迎えられるほどの、世界的な大魔法使いだ。心情は察して余りあるものの、向こうでの研究を投げ捨ててきたままとなると、最悪国際問題である。至急優先すべきは、まずギルバートの身辺整理だろうという話になった。とにかく、こっちの魔導学院に戻ってもらい、そこを介して正式に辞職する手続きが必要だ。しかしその前にと、ドクターが口を挟んだ。まずはしっかり休養しろ、下手すりゃお前さん死ぬぞ、と。大陸の最果て・ルーンから、遥か南のトランフォードまで、その距離は実に千里以上。それをたった1週間で戻ってくるというのは、到底人間のなせる業ではない。精霊の加護によって見た目が老いないというギルバートだが、その身体には相当無理が来ているはずだ。故にまずは、ギルドが宿を手配して、しばらくそこに滞在してもらう。そうして体調が戻り次第、そこから魔導学院に出向き、諸々必要な手続きを処理する──そういう話にまとまった。
それで終われば平和だが、そうはいかないからこの面子である。最後に再び、ギデオンとヴィヴィアンの関係について触れる段になったとき、周囲が固く見守る中、ギデオンは居住まいを正し、真剣な顔で切り出した。二ヶ月ほど前から、娘さんとお付き合いしております。彼女の予後を見守るために、今はサリーチェの家で同棲もしています、と。──そこからはもう、大変だった。再び怒髪天を突いたギルバートと、業を煮やしたヴィヴィアンの、火花を散らしての親子喧嘩だ。先ほどはヴィヴィアンの冷ややかさに怯みきっていたでいたギルバートも、可愛い娘が不埒な男と同棲までしていると聞けば、断固として譲らないことに決めたらしい。しかも彼は、ギデオンの若い頃を知っている。不特定多数の若い女と、散々遊んでいた時代──言い逃れようのない遊び人だった時代をだ。「ビビちゃんはこいつに弄ばれてるんだ!!」「ずっと傍にいなかったくせに、知ったような口きかないでよ!!」。結局最後には、ギルバートかヴィヴィアンのどちらかが部屋を飛び出してしまったことで、この会合は打ち切りとなった。いつもは決して動じないギルマスが、後ろのドクターと全く同じ様子で、頭を抱え込んでいる。無論、娘のいる重鎮たちが、当のギルバートより余程酷く胃を痛めて呻いていたのは、言うまでもない話だ。)
(──その日の夕方。例の会合の後、一旦自分の仕事に戻ったギデオンは、ギルドの医務室に足を運んでいた。ヴィヴィアンはこのところ、ドクターの手伝いという形でヒーラーの仕事に復帰し、調薬作業を任されている。何事もなければそこで作業しているはずで、しかしそろそろ引き上げ時だ。もう夕方の17時、シフトのひとつの区切りである。ギデオン自身も、本来ならもっと捌かねばならぬ筈の書類を、「俺らがやるから」と幹部たちに取り上げられ、部屋を追い出された後だった。仕事はいいから、それよりまずは、ビビちゃんの様子を見てやってくれ。あれは相当来てるだろ、おまえが話を聞いてやれよ──と。普段は散々、ようやく彼女と付き合い始めたギデオンのことをからかってくる連中だが、今日のところは純粋な気遣いらしい。ならば素直に甘えよう、ということで、退勤の誘いをかけに来たのである。医務室の扉をノックし、軽く声をかけてから、慣れた様子で中に入ると。ドクターに軽く頭を下げてから、「お疲れ」と、相手の方に向き直って。)
こっちの仕事が片付いたから、少し早いが迎えに来た。
まだ少しかかりそうなら、適当に暇をつぶすが……
( 医務室で丸まっていた娘の頭上に降ってきたのは、「おい、今日は棚卸しなんだ。キリキリ働いて貰わにゃ困るぞ」と、平静を保ったこの部屋の主である魔法医の声。棚卸しなんて昨夕は一切言っていなかったにも関わらず、今朝の一件を受け、急遽用意してくれたのだろう。薬品一覧のインクを乾かしながら入ってきたドクターは、応接室を飛び出したシーツお化けを優しく慰めてはくれない代わりに、その小さく覗いた赤い目にも言及しない。そんな暖かくも心地よい距離感に「おじさまがパパだったら良かったのに……」と嘯いたのは、完全にただの甘えだったが。「止さんか、わしゃまだ命が惜しいんだ」と本気で嫌そうに首を振る姿がおかしくて。1g単位で発生する数字の処理に忙殺されていると、余計なことを考えずに済むのがありがたかった。 )
あ……お疲れ様です、えっと……
( そうして無心で薬品の残量を数え続けること数時間。小さな怪我は無数にあれど、酷い怪我人は誰も出ず、あれ以降いやに平和な一日が過ぎようとしている。厳かなノックとともに現れたギデオンに、まだしばらくはかかりそうだと断りを入れようとして──「……その棚が終わったら帰っていいぞ」と。わざと此方を振り返らない背中に、しばらく言葉を失って言い返すことができないほど、己は疲れきっていたらしい。不器用ながら優しいドクターのおかげで、半日ごく心穏やかに過ごしたつもりでいたのだが──やはり無意識に気を張っていたのだろう。普段であれば、さては残業代を独り占めするつもりですね、とかなんとか。最後まで残ってその仕事を終わらせるのだが、今日はその気遣いに素直に甘えさせてもらえば。「お疲れ様です、お先に失礼します!」と、頭を下げる勢いでさえ、この特にビビの変化へ聡い2人の前ではただただ虚しいだけだった。
恋人と並ぶ帰り際、ごく自然に腕を絡めた内心。いつもならギデオンへの愛しさと、今日の夕飯のメニューで埋まっている思考も。『どう考えたって釣り合わんだろう』そう昼間に何度も繰り返された声が、何度も何度も思い起こされれば。相手の腕に額をつけるようにして小さく項垂れ、まずは自分の身内の暴挙に対する謝罪を。)
──ギデオンさん、朝は……うちの父がすみませんでした。
私といるの……嫌になったり、してないですか?
──……してないよ。
するわけがないだろう?
(決してこちらを振り返らずにいてくれるドクターの背に、ギデオンももう一度頭を下げ、ふたりで帰路についてしばらく。きゅっと身を寄せてきた恋人が、小さな声でぽつりと漏らした声を聞けば、思わず歩みを止めて、きょとんとした顔つきを。嫌になる? 俺が? ヴィヴィアンといることが……? まったく予想だにしていなかった、というように、その薄青い目を瞬いていたものの。相手の表情からその心情を察するに至れば、目元をふっと和らげて。一言簡潔に告げながら、ごく軽く肩を抱き、己の薄い唇をまろい額に押し当てる。それから距離を戻すと、もう一度言い聞かせつつ、小さな頭を優しく撫でて。相手のことを穏やかに見つめ、自分の言葉が届いたのをしっかりと確かめてから。またゆっくりと、歩調を合わせて歩き出すだろう。)
……親父さんについても、俺は何とも思っちゃいない。
口ぶりこそ過激な人だが、あの人はただ……おまえのことを本気で心配しているだけだ。ましてや、長い旅路で疲れ果てていただろうし、冷静じゃいられなかったろうさ。
落ち着いたらまた、ゆっくり挨拶しに行きたいと思ってる。……大事なことだろう?
(──この和やかな口ぶりから、ヴィヴィアンにも伝わるだろうか。どれほど罵られようと、ギデオンがギルバートを嫌うことなど有り得ないと。
確かに少年時代は、初恋の恩師シェリーを横から掻っ攫っていく(ように感じた)あの男に、煮えるような激情を抱くことはあった。……けれどそれも、幸せそうに笑うシェリーを見れば、悔しいことに、自ずと薄れていったのだ。あんなに自然な顔をするシェリーを、ギデオンは見たことがなかった。彼女はいつも豪快に笑うが……そこには時たま、翳りが差す。それこそ自分が惹かれはじめたきっかけではあったけれど、彼女に幸せであってほしいという想いだって本物で、自分がそうしてやりたいと思ったことが、己の初恋の始まりで。──けれど、彼女の抱える何かしらを吹き飛ばしたのは、ギデオンではなく、あの捻くれ者の男だった。普段の皮肉っぽさに似合わぬ、熱烈でまっすぐな口説き文句を幾度も贈るギルバートを見て。……この男なら仕方あるまいと、ギデオンは静かに身を引いた。当時の自分には、男として勝負に出るには、何もかも足りていなかったし。何よりシェリーの翳りが、少しずつ少しずつほどけていくのを目の当たりにすれば、それを掻き乱したくないとも思った。事実シェリーは、あの男の妻になってから、輝かんばかりに幸せになって──それも、ほんの一瞬で、唐突に終わってしまったけれど。20年前のあの日、愛娘ヴィヴィアンをめいっぱい愛でるギルバートを見て、己の過去の決断は、やはり間違っていなかったとギデオンは確信した。シェリーはすぐに世を去ってしまったが、それでもギルバートは、自分が認めるに足る男だったのだと。シェリーを、シェリーの大事な忘れ形見を、心から愛し抜いていると。
──だからこそ、わからないのだ。今朝の、当のヴィヴィアンが、あそこまで苛烈にギルバートを拒絶した理由が。可愛い恋人は、去年の春からずっと己を熱烈に好いてくれているが……それにしたって、ギデオンに対する侮辱、それだけであれほど強い反応を示すものではないだろう。ギデオンとて、パチオ家の事情を添う詳しく知っているわけではないから……この父娘の間には、きっと何か、問題があるのだ。ギデオンはそれを知りたかった。恋人であるヴィヴィアンの力になるためにも。──あの男にシェリーを預けた、少年の頃の自分のためにも。
ふと周囲を軽く見渡す。夏は日没が遅いので、まだ街灯もついちゃいないが、辺りは既に仕事終わりの人々がごった返している。この辺りが特に賑やかなのは、カフェやらパン屋やら、それらを合わせたより遥かに多い、スタンド型の屋台やら……とにかく、手軽に食事を楽しめる店々が豊富だからだ。それこそ、サリーチェのような落ち着いた住宅街に居を持つ人々が、手軽に夕餉を済ませていくエリア、それがこの商店街なのである。そのことを思いだすと、ラメット通りに続くいつもの道に入る前に、賑やかな横道の方にくいと頭を傾げ。気分転換に軽いデートをしようと、恋人を誘ってみて。)
……なあ。朝はああ言ったが……俺もお前も、今日は正直、いつも通りって気分じゃないだろう。
せっかく便利な場所に住んでるんだ。何か美味そうなのを買って帰って、一緒にゆっくり過ごすほうに時間を割かないか。
んっ……ありがとうございます、そうしましょうか。
( 普段、自分の手料理を心から喜んでくれるギデオンに夕食を振る舞う時間は、ビビにとっても幸福で、実に満たされる時間ではあるのだが、精神的に疲れきったところへ、今日ばかりは相手の提案はありがたく。しかもそれを、ビビだけに判断を仰ぐのではなく、"俺も"と一緒に責任をもってくれる、そういうさり気ない気遣いをしてくれるところが好きなのだ。そもそも、"一緒にいるのが嫌になった"なんてギデオンが言うわけが無いというのに、我ながら弱りきって面倒臭い質問をちゃんと返してくれるところも。ビビは一言も父を庇っていないというのに、此方の内心をしっかりと見抜いて。理不尽なことで侮辱されたギデオンには、その権利があるというのに──ビビの大好きな人を絶対に悪く言わない。その上で己との未来にしっかりと言及してくれるところも。その全てがビビにとって都合が良くて、甘くて、ともすれば頼りきってしまいたくなりそうで。暖かい触れ合いに潤みそうになる涙腺を──嗚呼、いけない、と。大好きなこの人に、ちゃんと"釣り合う大人"ならなければと。これまで周囲に、ギデオン本人に、何度も何度も諌められて尚、"この気持ちに年の差なんて"と意に介さなかった忠告を、ギルバートに言われた途端、強く意識してしまっているのは無自覚だった。)
( 大振りなブロッコリーにプリプリのエビ、卵をたっぷり使ったポテトサラダに、シャリアピンソースが馨しい、薄切りローストビーフをたっぷりはさんだホットサンド。それから、薄くスライスした玉ねぎが溢れんばかりのコブサラダ……周囲の客層を鑑みてか、少し割高なそれらを買い込めば。気の利く恋人は、狭いイートインエリアの空席を探してくれようとするかもしれないが、ビビが「おうちで食べたい……」と首を振れば。再び二人、閑静な住宅街を並んで歩き、居心地の良い我が家見えてくる頃には、気分転換の甲斐あって、俯きがちだった顔にも、うふふ、と僅かながら笑顔が帰って来たようで。当たり前のように、ギデオンとの将来を描いてみせるも。それを良しとしない父のことを思い出すと、また直ぐに力なく瞼を伏せてしまい、 )
──なんか、こういうの……いいですね。
おじいちゃんとおばあちゃんになっても、お外でデートとか出来たら素敵ですよね……、
……なら、今のうちに良い散歩ルートを探しておこう。
足腰をしっかりさせておくためには、毎日出掛ける必要があるだろうからな……5、6個は見繕いたいところだ。
(おどけたように片眉を上げ、意欲を示してみせながらも、その声音には(おや)という響きが少なからず入り混じる。──己の恋人、ヴィヴィアンは、普段は明るく元気溌溂な女性だ。それでも時には、建国祭で、マーゴ食堂で、冬の宿で、春の医務室で……力なく落ち込むところも、見たことがないわけではない。けれども、今のこの萎れようは、そのどれらとも違って見えた。随分感傷的になっているようだ……今朝のギルバートとのやりとりが、余程堪えているのだろうか。ならば、それに寄り添ってこそ恋人だろうと、胸の内で密かに決意を固めておく。綺麗ごとを抜かしているが、所詮正体は下心。──これを機に、より自分を頼るようになってくれれば、それに勝ることはない。
鍵を回し、玄関扉を開け、リビングに荷物を置く。今日は少し晩酌もしようか、と話し、ならば先に軽くシャワーを済ませておこうかと、順に浴室に行くことに決め。先にヴィヴィアンに浴びさせる間、買ってきた夕食を新しく家の皿によそい、ソファーの前のローテーブルに並べておく。ちゃんと夕食をとるときはダイニングテーブルにつく習慣だが、今夜のような場合は、隣にならんでくっつきながら飯をつつくのが良いだろう。
自分個人の私物をおさめている棚から幾つか酒瓶を持ち出し、それとは別に、氷室に入れてある果実水の小瓶なども適当に取り出す。ヴィヴィアンは酒に強いほうではないから、自分と同じ杯を渡しては駄目だろう。度数が低めで、尚且つ飲みやすいものとなると……と。顎に手を当てて暫し思案したかと思えば、ヴィヴィアンが以前、赤いトッピングの乗った洋梨のムースを作ってくれたのを思い出し、キッチンの棚をも探る。──そうして、軽く手に取った銀色のシェイカーに、ピンクのリキュール、オレンジ色や黄色のジュース、真っ赤なシロップ、最後に砕いた氷を入れ。軽くシェイクし、ショートグラスに注ぎ入れたのは、所謂ピーチ・ブロッサム。いつだったか、酒場のバーテンダーが作っていたときの見よう見真似のカクテルだ。他にもいろいろ思い出したから、強請られれば作れるようにと、思い思いの酒や果実水、カットフルーツの類いを、取り出しやすい場所にストックしておいたところで。ちょうど彼女も、湯浴みを終えてきたらしい。ほかほかしているその姿に、思わず表情を緩めながら。濡れた旋毛にキスを落とすと、その片手に冷たいグラスを渡す。そうして耳元に囁いてから、自分もすぐに浴室へ向かって。)
食前酒だ。先にゆっくりしててくれ……5分で浴びてくる。
※毎度お手数をお掛けします、細部に拘って一部分のみ変更しております。
……なら、今のうちに良い散歩ルートを探しておこう。
足腰をしっかりさせておくためには、毎日出掛ける必要があるだろうからな……5、6個は見繕いたいところだ。
(おどけたように片眉を上げ、意欲を示してみせながらも、その声音には(おや)という響きが少なからず入り混じる。──己の恋人、ヴィヴィアンは、普段は明るく元気溌溂な女性だ。それでも時には、建国祭で、マーゴ食堂で、冬の宿で、春の医務室で……力なく落ち込むところも、見たことがないわけではない。けれども、今のこの萎れようは、そのどれらとも違って見えた。随分感傷的になっているようだ……今朝のギルバートとのやりとりが、余程堪えているのだろうか。ならば、それに寄り添ってこそ恋人だろうと、胸の内で密かに決意を固めておく。綺麗ごとを抜かしているが、所詮正体は下心。──これを機に、より自分を頼るようになってくれれば、それに勝ることはない。
鍵を回し、玄関扉を開け、リビングに荷物を置く。今日は少し晩酌もしようか、と話し、ならば先に軽くシャワーを済ませておこうかと、順に浴室に行くことに決め。先にヴィヴィアンに浴びさせる間、買ってきた夕食を新しく家の皿によそい、ソファーの前のローテーブルに並べておく。ちゃんと夕食をとるときはダイニングテーブルにつく習慣だが、今夜のような場合は、隣にならんでくっつきながら飯をつつくのが良いだろう。
自分個人の私物をおさめている棚から幾つか酒瓶を持ち出し、それとは別に、氷室に入れてある果実水の小瓶なども適当に取り出す。ヴィヴィアンは酒に強いほうではないから、自分と同じ杯を渡しては駄目だろう。度数が低めで、尚且つ飲みやすいものとなると……と。顎に手を当てて暫し思案したかと思えば、グラスを手に取り、掌の上で軽く冷やす。魔力に乏しいギデオンだが、複数の属性の魔素を微調整することだけは得意で、こういった小技はいろいろと身につけていた。そうしてしっかり冷たくなったグラスに、ダークレッドのカシスリキュールと砕いた氷を入れ。次いで、氷に当たらぬよう気を遣いながら、金色のシャンパンを注ぎ。ゆったりとステアすることですぐにも完成させたのは、すっきりした透明な赤が美しい、所謂キール・ロワイヤル。いつだったか、酒場のバーテンダーが作っていたときの見よう見真似のカクテルだ。他にもいろいろ思い出したから、強請られれば作れるようにと、思い思いの酒や果実水、カットフルーツの類いを、取り出しやすい場所にストックしておいたところで。ちょうど彼女も、湯浴みを終えてきたらしい。ほかほかしているその姿に、思わず表情を緩めながら。濡れた旋毛にキスを落とすと、その片手に冷たいグラスを渡す。そうして耳元に囁いてから、自分もすぐに浴室へ向かって。)
食前酒だ。先にゆっくりしててくれ……5分で浴びてくる。
っ……ちゃ、んと、温まってきてください、
( おもむろに落とされた唇と、耳元へ吹き込まれた低い声に、ぴくりと背筋が微かに震え、相手を諌める声が切なく詰まる。浴室へと向かうギデオンの背後で、薄手のネグリジェの胸元の合わせをかき寄せ、ゆるゆるとソファへと沈み込めば。火照った体に冷たいカクテルが心地よく、入浴後の乾ききった空きっ腹に、いつもよりずっと酒精がよくまわる。シャワーを浴びてる時からずっと──馬鹿なことを考えている自覚はある。行為だけ真似たところで大人になれるわけでも、問題が解決するわけでもない。それでも……名実共に貴方のものにして、手遅れにして欲しいのだと頼んだら、優しい恋人は応えてくれるだろうか。──なんて、今までずっと怯えて先延ばしにしてきたのは自分だろうに、いざ疑われれば証が欲しいだなんて、あまりに自分勝手がすぎるだろう。投げやりな思考はしまい込み、ギデオンが出てくるまでにいつも通りに戻らなければ。そう立ち上がった瞬間、ネグリジェの下で肌に滑る頼りない違和感は、ビビが下宿を出る際に、隣の女優志望から貰ったそれが原因だ。成程、装飾性に全振りしたそれは、補正機能という意味での実用性には劣るに違いない。肝心な部分の締め付けは足らずに、その代わり華奢な装飾があちこち触れて擽ったいそれを、馬鹿なことを考えた報いに違いだと力なく笑って。そうだ、なにかつまめるものでも──と、あっさり思考を切り替えてしまったものだから、その問題の下着の存在感は、うっかり本当に思考の彼方へと葬り去られてしまったのだった。
八百屋の主人からもらった真っ赤でつるりとしたトマト。何やら珍しい品種なのだと、自慢げな彼にオマケで貰って持て余していたそれに、取っておきのブッラータを添えて、透き通ったオリーブオイルに、胡椒を少々。それから、トマトの代わりに桃を割って、塩気のある生ハムを加えたもうひと皿を準備し始めたところで、背後から浴室の扉が開く音がして。中から出てきたらしい恋人を振り返らずに、僅かに上がった温度で確認すると、早く準備を終えてしまおうと、床下収納を探るべく前屈みとなって。 )
あっおかえりなさい、もうすぐなのでちょっと待っててくださいね………
ん、わかっ──……………………、…………、………………………………、
(さてはて。無駄に女慣れした態度と、妙なところで鈍い性格を併せ持つギデオンは、先ほどのやりとりのろくでもない艶めかしさに、それはもう無自覚であった。──だが、そんなさしもの大間抜けでも。髪にタオルを掻き込みながらほかほか戻ってきた矢先、この光景をでんと突きつけられてしまえば。流石にがつんと目を覚まし、思わず声も失って立ち尽くすというものだ。
見事に固まるギデオンの眼前、そのうら若い恋人ははたして如何様か。──ごく普通に身を屈め、ごく軽く……まろい尻を突き出している格好である。真顔に陥るギデオンの頭の片隅、かろうじて冷静な部分は、……いや、あれは床下の乾物か何かを取り出しているんだろう、と自動で分析するのだが。しかしいかんせん、丈の短い薄手のネグリジェと、本人の長くしなやかなスタイルが合わさって、悪魔的なコンビネーションを奏でているものだから。──まさに据え膳、そうとしか捉えようがない。どうにか平常心になろうとするも、それでもどうしても視線を逸らせず、吸い込まれるのは……先ほどからちらちらと見え隠れしている、清廉な彼女らしからぬ煽情的なランジェリーのせいだ。ところどころに小さな真珠のあしらわれた、ほとんど紐と言ってもよいそれは、明らかに実用性以外の目的で編まれた品に違いない。そう──男の欲を、掻き立てるためだけに。
なら。これは……誘って……いるのか? と。抑制剤がまだ効いているはずなのに……否、効いているからこそ、我を忘れて貪りつかずに済んでいるのだろうが……酷く都合の良い方へ、己の愚考を傾けかけては。いや、いやいやと。険しい顔を片手で覆い、力強く目を瞑って、(馬鹿なことを)と振り払う。そんなわけがない、思い出せ、今までだってこういうことは散々あったはずだ。多分これは何かの偶然の連鎖のせいであって、ヴィヴィアン自身はきっとそのつもりなどない。彼女は純真だ──グランポートのあの浜辺でも、ほんの少し戯れに揺すり上げただけで、心底震え上がっていたではないか。あんな初心な生娘が、突然その気になって、こんな露骨な色仕掛けをけしかけてくるわけがあるまい。第一、己の可愛い恋人は、父親とのあの一件で、今日はすこぶる弱っている。その矢先に、まかり間違ってもこの俺が……支えになるべき存在が、新たな問題で彼女を圧迫して良いわけがないだろう。ギデオン・ノース、おまえのほうが良い歳した大人なんだ。冷静になれ、余裕を持て──と。まさか相手も同様の痩せ我慢をしているとはつゆ知らず、どうにか己を宥めつけると。「……待ってる、」とようやく告げながら、相手にくるりと背を向けて、先にソファーに腰を下ろす。そうして小さくため息をつき、ぐったりと背をもたれながら栓を抜いたのは、先ほどのカクテルを作るときに封を切ったシャンパンのボトル。ギデオン自身はこれじゃ酔えないが、冷たいスパークリングを喉に流し込めば、もう少し頭を冷やせるはずだ。とくとく、とワイングラスにそれを注ぎ切ったところで、ようやく戻ってきた相手を振り返り、「美味そうだな」と微笑みかける。──多分、おそらく、いつもどおりの落ち着いた自分を振る舞えているはずだ。)
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