匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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はい……
( 冷静を保とうとするギデオンのその指示に、まず真っ先に湧いたのは他でもないビビの同期達だった。見事訓練参加を引き当てて、お目当ての水着にありつけただけで留まらず、それを間近で見ていいんですか、ありがとうございます! 余裕ある大人ってすげえ! といった次第である。わっと湧いた同期連中の周囲に、他の連中までわらわらと集まる潔い光景のその一方で、肝心のビビの方はと云えば。これがあの病院の昼下がりの以前であれば、けろっとせいぜい頬を膨らませていた程度だっただろうが。この1ヶ月で、相手の愛情を求めるがまま、甘やかされ切った乙女心は、ギデオンの分かり辛い反応にみるみるしぼんで、丸い頭がしょんぼりと垂れる。──やはり、この無駄な贅肉のせいだろうか。ここ暫くビビなりに食事制限を頑張ったりもしたのだが……いつも大切にしてくれるけど、リズと比べて見苦しく思ったのかな。そうして思い出されたのは、丁度1年前。この街に来る直前にビビがした質問に、思いっ切り顔を顰めた相棒の姿で。──水着は好かん──……そうだ、何故忘れていたんだろう。あの時よりもずっと大好きになった相手から、可愛くないと思われているかもしれない事実が耐えられず、形の良い眉を頼りなく下げれば。書類を受け取りながら、微かに潤んだ瞳でギデオンを見上げて。 )
…………あの。やっぱり……可愛く、……ない?
……私、はしたない、ですか?
!?!?!?
なっ……いや……違…………
(蚊の鳴くような震え声に、思わずぎくりと二度見すれば。いつもは元気に跳ねているはずが、みるみる萎れゆくポニーテールに……こちらを頼りなげな上目遣いで見上げてくる、憂いを含んだエメラルド。──己の反応が彼女を傷つけた、そう理解するには明らか過ぎて。思わず引き攣った顔でぎこちない否定に走るも、その頃周囲には既に、美貌の娘の鑑賞権……もとい、資料を求めてやって来た野次馬の壁がわんさかと。まさかそのど真ん中で、可愛くないどころかクリティカルヒットだった、などと馬鹿正直に吐くわけにいくまい。故に、苦虫を民潰したような顔で「…………」と続きを言い淀んでいれば、「あーあー」とやけに通る声が。そちらを振り向いてみれば、やけに面白そうな顔で進み出てきたのは、仲間の野郎どもに引きずられてやって来た弓使いの青年、アランだ。普段の彼は非常に大人しい性質で、無邪気に戯れる相手と言えば、歳上同期であるヴィヴィアンくらいのものなのだが。「ビビをこーんなに悲しませて。ギデオンさん、良心ってものがないんですか??」だの、「可愛い彼女がこんなに悲しそうにしてるのに、言うべき言葉はないのかなあ!」だの。ビビの肩を軽く抱いて、ぽんぽんと慰めながらも、普段は控えめに落ち着いている面が、ギデオンに向けられた今はあからさまに愉快気である。──この若い青年とギデオンは、ちょっとした縁がある……というか。13年前の事件時に唯一無事に保護できた少年がこのアランで、孤児だった彼をその後カレトヴルッフで引き取り、見習い時代もしばしば面倒を見ていたのだが。まさか、その弟分に手を噛まれるとは思いもよらない。「何なんだお前……」と、眉間の皴を揉みほぐしながら呻けば、「そっちこそその醜態は何なんですか」と、にべもなくご尤もな言い様。更にその頃には、ヴィヴィアンに見惚れるのを一旦やめてこちらに注目した若い野次馬どもから、「そうだそうだ!」「男気見せろよギデオン先生!」「ビビ囲っといてそりゃあナシだろ!」「そんなんなら俺らが付き合いてえよ!」「このヘタレ!」「間抜け!」「臆病者!」と、まあ喧しいこと喧しいこと──いやおい、最後の方の野郎は、どこかマリアの影響を感じなくもなかったのだが、気のせいか。「うるせえ、散れガキ共!」と、ビビに渡したはずの書類をひったくって雑にばらまき、ついでに虚仮威しの雷魔法を放てば。うぎゃーと悲鳴を上げた青年たちは、口々に「パワハラ!」「パワハラ!」と叫びながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていく次第。
──そうして落ち着いたテント内で。日傘を差したまま無言で佇むリズの手前、ゴーレムよろしくぎこちない動きで支柱を直そうと試みるも、「ねえ」と話しかけられて再びへし折ったバルガスと。(どいつもこいつも……ワシの目の前でリア充を爆発させおって……)とでも言いたげに、こめかみに青筋を立てているスヴェトラーナの横。ようやく相手に向き直り、一度きちんと見下して。それでもやがて耐えかねたように、口元に手を当てながらふいと顔を逸らせば。ようやく本音を絞り出したのは、その端整な横顔の耳朶を、らしくもなく染めながらとなって。)
……はしたなくない。似合ってるさ。……似合い過ぎて………………困ってるんだ。
( 素肌の肩にアランの腕が触れた瞬間、元々曇っていたビビの表情が微かに強ばったことに気がついた人間は、果たしてこの中にいただろうか。決してアランを嫌っている訳でもなければ、同期の中でも特別仲の良い、信頼している相手だというのに、トラウマのある身体は敏感に反応する。それでも、自分のために言い募ってくれることには感謝して、潤んだ瞳を彼らに向けるも。此方を向いていたはずの視線が、一斉に空中を彷徨い出すのだから、相変わらず同期達との疎外感が拭えない。そうしているうちにギデオンの雷が落ちて、再び静かになったテントの中。その赤い耳朶が目に映った瞬間、ビビの胸をいっぱいにしたのは、愛されているという実感と、年の離れた相棒へのどうしようもない愛しさで。 )
ほんと? えへ、嬉しい……ギデオンさんにそう思って欲しくて選んだの、
( 今回、人目も憚らずに相棒に抱きついたのは、ここ最近、ずっと人目のないところで甘やかされていた弊害。ついでに、その柔らかい双丘をこれでもかと押し付けたのは完全に無意識だった。素肌に直接触れるのでさえも、相手が違えばこんなにも安心しきって。分厚い肩に頬擦りをして甘えれば、相手の耳朶に砂糖よりも甘い愛情の原液を垂れ流す。ここ半日触れ合えてなかった恋人を心ゆくまで堪能したか、それとも相手から引き剥がされたか。身体を離して、デコルテまでふんわりと薔薇色に染めた水着姿をもう一度相手に見せれば、なんの悪気なくいつも通りの笑顔で好意を爆発させる有様で。 )
ギデオンさんもお似合いで、とってもとってもカッコイイです! ……大好き!!
~~~~~~ッ!
(しゅんと萎れていた恋人の顔が、ぱあっと薔薇色に咲いたのを見て。まずい、と思った時には遅い。純真無垢に抱きついてきたかと思えば、これでもかとばかりに懐っこく甘え倒され。がちりと固まったギデオンの表情が、みるみる険しさを増していく。何も不快なわけではない──無論不快なわけがない。シャツを前開きにしているせいでじかに触れあってしまった場所に、決して意識を向けるまいと、それはもう必死なだけだ。故に、ふっと天を仰いだかと思うと、顔を片手で覆い隠し。不安から解き放たれたヴィヴィアンが、これ幸いと甘えまくるのを止めもせず……かといって、余裕たっぷりに応えてやるわけでもなく。(テンションダイアゴナルは動水圧に対し45°で……)だの、(ウェッジ法はワンマン法と縦列法の応用により人口エディーを作り出し……)だの、自分も編纂に関わった救助マニュアルの内容を、心の中で連綿と諳んじ。──そうして、付近の手頃な連れ込み宿の脳内検索を振り切ること数回目。ようやく恋人が身を離せば、少し弱々しく微笑みながら、「……俺もだよ」とその頭を撫でてやることにして。しかし、案にそれは、(仕事があるから、またあとでな)という意味合いをこめたもの。それを難なく察した相手が、素直に陽向の中へ戻っていくのを見届ければ。ぐしゃりと横髪を掻き上げた後、力尽きたように砂浜にしゃがみ込み、盛大なため息を吐くだろう。ああ、スヴェトラーナの視線が痛い。ようやく現着したリーダーことジャスパーにも、「何してんだお前?」と訝し気に尋ねられる有り様だ。ギデオンはそれに答えず、疲れた顔で立ち上がり、必要な仕事の話に入ろうとしたのだが。「こやつ、ついさっきまでビビに抱きつかれていたんじゃよ」と、ジト目のスヴェトラーナにあっさりネタばらしされてしまえば。その後しばらく、やたら刺々しく殺気立ったジャスパーに、仕事にかこつけた嫌味のあれこれをネチネチかまされるのだった。)
(さて、その空騒ぎから四半刻後。いよいよカレトヴルッフによる、今年度の水難救助訓練が始まった。10時から15時まで、昼食を挟んでのがっつりした二部構成──それが連続複数日。いずれも15時以降は、慰労を兼ねての自由時間ということになっている。
若い青年連中たちや、そうでなくても某双子のような遊びに全力投球の奴らは、その自由時間こそ最大のお目当なのだが。それは思い切り楽しんでいいから、そこまではちゃんと集中しような──ということで。前座の訓練自体は、非常に真剣な雰囲気で進行していくことになった。今回はグランポートの厚意により、市の消防隊から必要機材も借り出している。故に、泳法や潜水法のほか、救助ボートの設営要領や、操船技術の訓練なども組み込まれて……いるのは、まあ結構な事なのだが。この大真面目な訓練初日に、実はとんでもない大問題が発覚した。──天下のカレトヴルッフに所属する身でありながら、若い連中の過半数が、ろくに泳げなかったのだ。
王都の河川はそのほとんどが汚く、泳ぐには適さない。故に、幼い頃に身につける機会を得られなかったのは、仕方ないと言えば仕方ない話だ。が、これでは市民の救助どころか、手前が溺れかねない案件。それはまずいということで、初日浅瀬に留まり、泳法訓練をみっちり詰め込むことになった。
ジャスパーが青年たちに荒っぽく指導する横、女性陣の中では抜群に泳げるカトリーヌが、手取り足取り……時々腰とり、泳ぎを教えているのだが。序盤の救助デモンストレーションでとんでもない撃沈を披露していたエリザベスが、どうも一向に浮力を得られない。とうとう見かねたらしい幼馴染のバルガスが、個人指導につきはじめ。これをきっかけに、各々のレベルに合わせての小グループ指導が、あちこちで自然と始まった。
サポート役のギデオンは、溺れているものがいないか、近くの岩礁の上から随時確認していたのだが。「それは私がやりますから、あなたも指導に」と声をかけてきたのは、先ほど遅れて参上した、我らがギルドマスターだ。銀髪を後頭部で束ねているエルフ族出身の頭領は、アロハシャツにサーフパンツ、いつもは銀縁眼鏡なところを色付きサングラス……という、存外浮かれた格好であらせられたが、そのひんやりとした落ち着きぶりは平時と何ら変わりない。ありがたく拝命して、ギルマスが引きずりだしてきたレオンツィオを(※夏のビーチが嫌で堂々バックレようとしていたのを、ギルマス得意の索敵魔法でとうとう炙りだされたらしい)同じく海中に引きずり込みながら、ギデオンもコーチ側に回ることにして。
──それから数時間後、間もなく本日の訓練終了の時刻だろうか。その頃には、元々泳げなかった者も、随分長く浮いていられるようになったらしい。調子に乗って沖に出る者も現れ始めたが、引率側としては、これがいちばん危うく感じる事態でだった。救助訓練に参加しておいて、自分が正真正銘の要救助者側に回ったら元も子もない。いいから一旦浜に上がれ、と声をかけて回るうちに、デレクが受け持っていたグループ──ヴィヴィアンのいる辺りにも、波を掻き分けて近づいていき。)
( 今回水難救助訓練に参加した若手達の中で、元々泳ぐことができたのは、優等生バルガスに、漁師町出身のビビの同期が2人のみ。それでも、腐っても冒険者であるビビ達は、少し正しいフォームを教われば、なんとか泳ぎ始められたのだが──大変だったのは、リズを筆頭とした少数の事務員達だ。足がつかない高さになった途端、笑顔で沈んでいく備品担当に、波に流されて砂浜を転がる経理受付──極めつけに、休憩から戻ってきたエリザベスが、皆が固まって練習している辺りより、ずっと砂浜側で足を縺れさせたかと思うと。見事に顔から着水し、そのまま自分の腰より低い水位で溺れ出したのを目撃したバルガスの表情といったら。その長身で虚無顔の彼女を釣り上げて、「ごめん、もうリズちゃんは泳げなくてもいいと思う」と、項垂れた人気者の目は、今まで見たことない程虚ろだったという。
それでも、ギデオンやジャスパーら、用意周到なベテラン勢の手厚いサポートの甲斐あって。とうとう最後の一人が浮いた時の事務方の歓喜たるや。疲れきって力む力も無くなったらしい看板娘が、ゆっくりと波に揺られたのは、訓練終了時間間際、苦節4時間目のことだった。突如わっと上がった歓声に周囲を見渡したビビの顔が、親友の勇姿(?)の奥に、此方へと向かってくるギデオンを見つけた途端、あまりにも分かりやすくぱあぁっと輝く。ビビ本人はぐんぐんと進んでいるつもりで、相棒と離れていた距離の4分の1程度の距離で落ち合うと。もう心の底から楽しくって仕方がないという興奮を隠す様すらなく、水飛沫よりキラキラと輝く笑顔をギデオンに向け。その指示に必死に砂浜側へと水を蹴りながら、はふはふと顔を真っ赤にしながら言い募って。 )
──ギデオンさん、ギデオンさん! あ、お疲れ様です!
あの……あのねっ、あっちの岩場の方に、すっごく綺麗な洞穴があるって、デレクさんが言ってたんです!
後で一緒に見に行きましょ、ね、青く光ってるんですって……っ!
(この辺りの監督役たるデレク、そして補佐役のバルガスに、周囲の皆の無事を(特に、疲れた様子のエリザベスが無言で波間に消えないかを)逐一確認しつつ、陸へ戻るよう指示した矢先。ばしゃばしゃばしゃ! と立ち昇った、元気の良い水音に振り向けば。濡れ髪のヴィヴィアンが、嬉しそうに、けれども飛沫の派手さの割にじわじわと、こちらへ泳いでくるところ。周囲の若手からすれば、それはいかにも、愛らしい人魚が寄りついていく光景に見えたというのだが──ギデオンの視点から見れば、飼い主を見つけた喜びに尻尾を振りたくりながら駆けてくる、大型犬そのもので。たまらず吹き出しつつ、こちらも軽く、けれども難なく距離を稼いで泳ぎ寄ると、「楽しんでるみたいだな」と声をかけ。そしてそのキラキラ輝く笑顔を、横で共に、浜へゆっくりと戻りながら見下して──ああ、連れてきてよかったな、と青い目を穏やかに細める。ヴィヴィアンはこの前ようやく、通常の運動が少しずつ解禁されたばかりだ。それなのにすぐ、全身運動たる水泳に臨ませるのはどうだろうかと、内心心配していたのだが……相手の顔を見れば、全ては一目瞭然だ。少しも辛そうなところがなく、むしろこれ以上ないくらい歓びに満ち溢れ、いつものように一生懸命に全てを楽しみきっていて。こんなにはしゃいでくれるなら、仕事以外でもこういうのに連れ出してみようかと。興奮しきりな相手の言葉に相槌を打ち、「ああ、夕食の後にでも行こうか」なんて返事をした、ちょうどその時だ。
「波が来るぞー!」と、背後から聞こえてきたデレクの声に振り向けば。上にまあまあ高く、横はどこまでも広い一波が、沖の方からざざざざと、爽やかな音を立ててこちらに迫りくるところ。「ぎゃー!?」「無理無理無理無理!」「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!」「大丈夫だから手を繋げ!」と、泳ぎに不慣れで大騒ぎする事務員たちや、それを頼もしく守りに入るデレクやバルガスを尻目に。ギデオンもヴィヴィアンの手を水中でするりと絡めとり、落ちついた声で指示を出し。)
──波に巻かれると危険だ。直前で潜ってやり過ごすぞ。
はいっ! 去年来た時もすっごく綺麗でしたけど……
こんな素敵なビーチで泳げるなんて!
連れてきてくださってありがとうございます……!
( それまで水中をゆっくりかき分けていたギデオンが、ヴィヴィアンを見つけた途端、勢いよく其方へと泳ぎ寄り。満面の笑みを浮かべたヴィヴィアンは、当たり前のように、2人だけの思い出を口にする。岸に向かって肩を並べ、仲睦まじく泳ぎ出した2人の関係の変化に、ほぞを噛む者、温かい視線をおくる者、はたまた呆れた視線を寄越す者。海から陸から集まる視線達から、2人を覆い隠すかの如く、その大波は立ち上がった。──次々襲い来る波には決して立ち向かわず、乗り越えられそうならば身を任せ、それが難しそうなら潜ってやり過ごす。頭では分かっていても、そのあまりの大きさに冷えた肝が、頼もしい声と暖かい指に霧散する。相棒の指示にこくりと頷き、絡められた指を握り返しながら固く瞼を閉じると、崩れた波が水面を叩いて、細かい泡に砕け散った音が頭上を通り過ぎて行く。水でくぐもった聴覚でそれを捉えて──「ぷはぁっ、」と。顔にかかった髪を掻き上げようとして気が付く。どうやら強い波に髪紐が流されてしまったらしい。波が大きく打ち寄せれば、その分引く波も大きいもの。支えるものを無くして広がった髪に気を取られた瞬間に、砂浜側にいるギデオンとの距離が開いたことに気がつけば、ビビの顔からサッと血の気が引いて。冷静になればまた次の波が押し寄せた際に、それと共に戻って来れると分かっただろうに。あの延々と続く水平線へと押し流されてしまうのではないか、という恐怖から繋いでいた手を力強く引けば。頼りな気なか細い声で恋人を呼んで、砂浜での触れ合いなど戯れに過ぎなかったと思い知らせるかの様に、その長い腕、脚、全身を使い、その広い背中に縋りつこうとして。 )
──っ、ひゃ……やぁッ、ギデオンさん! 離さないでっ……
(水上にざばりと顔を出してすぐ、まずは相手の、次に周囲の連中の無事を確認する。──どうやらデレクの班も、問題なく凌げたようだ。先ほど大騒ぎしていた奴らは、結局皆があの大波に運ばれ、浅瀬にすんなり一番乗り。無論、その水深ですら溺れる危険性は充分にあるわけだが、先に浜に上がっていた仲間が迎えに来てくれているから、後は託して大丈夫だろう。まだインサイドにいる残りの数人も、元々すぐに泳ぎを覚えた連中ばかりだし、それでもデレクがしっかり目を配ってくれている様子。いちばん心配だったエリザベスも、バルガスがぴったり寄り添い、陸の方へ誘導している。これで顔の見えない者はいない、ギデオンたちより後ろを泳ぐ者もない。安全よし──と、軽く頷きかけたところで。)
ッ!? なっ、おい、ヴィヴィアッ……
(──よりによって、こういう時のパニック症状に後から陥ってしまったのは、いちばん近くにいたヴィヴィアンだ。ギデオンは無論、彼女とがっちり手を繋いで離さずにいたのだが……それでも海に不慣れな娘は、ほんの少しでも潮に流されたことで、ギデオンがどこか遠くに行ってしまうと錯覚してしまったらしい。ぐん、と思いのほか強い力でギデオンの手を引いた恋人は、不安げに鳴きながらこちらに必死に縋りつき、その全身で絡みついてくる始末。──踏ん張りの利く陸とは違い、ここは足場のない海の上。柔らかな果実やしっとりした素肌をいくら甘美に押し付けられようが、一緒に沈み、肺に空気のないヴィヴィアンだけが溺れる可能性への警鐘のほうが、ギデオンの頭の中でガンガンと鳴り響き。故に、いくら声をかけても一向に無駄だと判断したその瞬間──唐突に、ざぶんと海中に潜り込んで。
一方、その頃。浜や浅瀬にいた仲間たちからも、パニックに駆られるヴィヴィアンと、それを宥めようと四苦八苦するギデオンの様子は、よくよく見えていたようだ。あれ大丈夫なんでしょうか……と、経理受付が心配そうに呟いたところで、「お、ちょうどよい教材だ」と明るい声を上げたのがカトリーヌ。教材?? と周囲の若い面々が一斉に首を傾げれば、「まあ見てろ。今からギデオンが、溺れた要救助者が縋りついてきたときの対応を見せてくれるはずだ」と、ニカッと歯を見せて笑うだろう。「──入水救助は難しいんだ。溺れかけてる要救助者は、ああやって頭が真っ白になって、助けに来た奴にしがみついちまう。中には、救助者の頭を水中に沈めてでも自分が浮かび上がろうとする要救助者もいるんだよ。ビビはそうなっちゃいないけど……でも寸前みたいなもんだな。それで助けようとしてるギデオンまで溺れちゃあ報われないだろ? だから、ああいうときは──ほら」。
カトリーヌがちゃっかり解説している、まさにその通りのことを、彼らの視線の先にいるギデオンは実現していた。水への不安が高まっている者は、救助者が故意に沈めば、それにもついていこうとはしない──その性質を利用して、ヴィヴィアンの手脚の拘束を少しでも弛ませれば。彼女の背面に回ってざばあっと顔を出し、煌めく雫を飛び散らせ。そのまま後ろから、彼女の胸の下に両腕を回し、己に背をもたれさせながら、しっかりと抱きかかえて。ギデオンが視界から消えて不安だろう恋人の耳元に口を寄せ、「大丈夫だ」と、穏やかな低い声を繰り返し聞かせるのだ。大丈夫──大丈夫だ、俺はここにいる。離れていかない、一緒にいる、おまえは流されやしない、俺が一緒だから大丈夫だ。だからほら、ゆっくり息を吸って──吐いて。そうだ、できてるぞ。肺に空気を入れれば、そう慌てるようなことにならない。だからもう一度、ゆっくり、そうだ。……な? 落ち着いてきただろう。
それは確かに、水難救助のまさに理想的なモデルではあった。しかし問題は、歳の差こそあるものの、ギデオンとヴィヴィアンは双方ともに美男美女……おまけに、現に恋人同士だと知れ渡っていることで。要するに、晴れ渡る空の下で煌めくエメラルドグリーンの海で、ギデオンがヴィヴィアンを後ろ抱きしている光景は、やたら絵になる様だったのだ。純粋なアリアなどは、真っ赤な顔を両手で覆い隠しながらも、そろそろと開いた指の間から、やたら官能的な救助風景をばっちり眺めてしまっているし。浜辺でたむろ座りをしていたマルセルとフェルディナンドに至っては、棒飴を咥えながら、(──あれ)(──もしかして)((──女の子がそこで溺れてりゃ、俺ら合法でああいうハグができるんでね?))などと、ろくでもない閃き顔を並べ立てては、背後に立つギルマスから、「おまえたち、お見通しですからね」と、氷のように冷ややかな釘を刺されているだろう。)
……ッ、……!!
( ──苦しい、怖い、身体が沈む。ごぼごぼと口に入る海水に、噎せかえって呼吸もままならず。自分の手がバシャバシャと水を掻く音が、かえって気持ちを焦らせる。いつの間にかギデオンの姿も見えなくなって、沖にひとりぽっち。取り残されてしまったんだ──という錯覚に、「ぅ~~~うぇっ、……げほ、ッ」と。とうとう貴重な酸素を嗚咽して沈みかけたその寸前、ギデオンの胸がヴィヴィアンの身体を抱き留めた。──ギデオンと出会って、これ以上安心する場所はないと、執拗く教えこまれた腕の中。耳元に吹き込まれる頼もしい声に……ひっ、ひっ、と高速に震え上がっていた呼吸が、じわじわと落ち着き。未だ声にならない返事の代わりに、こくこくと必死に首を振る。そうして徐々に平静を取り戻し、滲んだ涙を拭ってみれば、そこはただの凪いだ穏やかな浜辺で。カトリーヌの為になる講座のお陰で、浜辺中の視線がこちらに集中していることに気がついてしまい。一人溺れて騒いだ羞恥に、かあっと顔に血が登る。それどころじゃないというのに、身体は救出されても尚、頭は未だ動揺しているようで。まるで赤子のようにギデオンに抱き締められているのが、恥ずかしくって堪らず。未だぐったりと震える身体をよじると、逞しい腕から抜け出そうとして。 )
……ギデオンさ、も、だいじょぶ……ありがとう、ございました、もう1人で泳げます……
ん、
(相手のはっとした様子に、こちらもようやく浜辺の観衆に気がつき、抜け出していく相手を無理に引き留めることはなく。彼女が先に泳ぎだす間、ふと再び沖を振り返る。海は読めないものとはいえ、大した風もないというのに、先ほどの緩やかな大波は奇妙だった。海底に妙な魔獣でも潜んでいるのだろうか……後で有識者に尋ねるべきか。そう考えながらギデオンも海から上がり、ヴィヴィアンの少し後から温かい砂を踏んで。タオルを持ったアリアやリズが彼女を優しく出迎える横、ギデオンの元へやって来たのは、仏頂面のジャスパーだ。個人的にそりが合わない間柄ではあるものの、奴の顔色を見れば、同じ懸念に至っているのが見て取れた。「しばらく出てくる。こいつらを充分休ませておけよ」──言い方こそ粗暴だが、当然異論などあるはずもなく。「了解」と頷き、暫くの監督責任を引き受けることにして。
昼下がりも過ぎつつある今、それでも頭上の南国の空は、まだまだ明るさを保っている。待ちに待った遊びの時間が、たっぷりとあるわけだが……訓練初日からがっつり泳法をやり込んだだけあり、体力馬鹿と名高いさしもの冒険者たちも、あまり泳ぐ気にはならないようだ。パラソルの下で涼む者、持ち込んだ敷布の上で日焼けがてら微睡む者、寝ているうちに砂風呂に埋め込まれる者、それぞれ過ごし方は様々で。少し元気のある者はのんびり潮干狩りをしているし、疲れなど知らぬデレクとカトリーヌは、岩礁の辺りで海ウサギを追い込んで遊んでいる。全員の無事良し──今回の看護役である中年女性のヒーラーによれば、怪我人や体調不良者も特に出ていない。その確認を取ったころにはジャスパーが戻ってきて、ギルマスほか少数のベテランに、地元住民への聞き込みの成果を共有した。この辺りのビーチには、時々悪戯好きの馬の魔獣……エッヘ・ウーシュカが出るそうだ。「なんだ、それなら平気だな」という反応が大半だったものの、それは熟練ゆえの構え。若い連中は初めて見るだろうし、夕飯のときに念のため共有するか、という方向性に落ちつけば、そこから先の役割分担にも自然と話が及んで。──そうして監督責任からようやく解き放たれれば、まずは近場の海の家へ冷たいものを買いに出かけ。すぐにビーチに戻ってくれば、赤紫に落ちつき始めた空の下、今度は恋人の姿を探す。立場上、自分の職務を果たさざるを得なかったわけだが……晴れて自由になった今は、彼女のことが気がかりだ。やがて落ち着いた場所にその背中を見つければ、後ろから声をかけつつ、ごく自然に隣に座り。シロップのかかった夏氷を差し出し、自分のそれにも木の匙を差し入れながら、穏やかに話しかけるだろう。)
……今日はずいぶん泳いだな。洞窟探検は明日にするか? ……
( 海で溺れかけた友人を、暖かなタオルで優しく包み込む。狩りをせずとも生きていけるようになったこの現代で、何故運動神経の悪さは未だ嘲笑の対象足り得るのか。人前で運痴を晒す痛みを知っているリズはこの時、どうやってビビを慰めようか、結構真剣に考えていたのだが。真っ赤な顔をして項垂れていた友人は、ゆっくりと顔を上げたかと思うと第一声、「~~~ッ、ギデオンさん超カッコよかったぁ……やっぱり好き……」と。……まあ全くもって心配のし甲斐がないことである。
そうして訪れた、待ちに待った自由時間。いつもより冷たい目をしたエリザベスを宥め透かし、アリアも誘って再度波打ち際に繰り出した乙女3人の──……その遥か後方。穏やかな笑顔で腕組みをしたバルガスが、10m程の間隔を守って、ずっと着いて来るのは気のせいだろうか。最初はまったり綺麗な貝殻を集めたり、仲間の潮干狩りを冷やかしたりと、穏やかに砂浜を楽しんでいたものの。これだけ美しい海を目の前にして、最初は冷たい水で足を洗う程度だったのが、次第にお互い水を掛け合っては逃げ惑い、結局本格的な水遊びとなってしまう。終始後方で腕を組んでいたバルガスは、きゃっきゃと上がる楽しげな声に、フラフラと誘われてきた青年達を追い払いはするものの、とうとう最後までこちらに声をかけて来ることはなく、真夏の太陽はあっという間に、西の空へと傾いていくのだった。 )
……ギデオンさん!
( まず最初に体力の限界が訪れたのはエリザベスだった。撥条が切れたかのように動かなくなった彼女を、すかさずバルガスが回収に来て。それからアリアも、彼女の同期との約束があるとかで、すっかりひとりぽっち、一気に手持ち無沙汰になってしまい。赤紫に染まる水平線をぼんやりと眺めていたその時。背後からかけられた声に振り返れば、ちゃっかり美味しそうな物を手にしているギデオンに小さく吹き出して。遊び相手が居なくなってしまった寂しさと、訓練の疲れからだろうか。大好きな恋人の姿に安心すると共に、どうにも甘えたい気分になってしまう。そこへ相手の口から、ずっと一日楽しみにしていた予定の延期を提案されれば、どうにも我慢ならなくなってしまって。隣に座ろうとしたギデオンの腕の間に、少し強引にでも納まると、「あーん、」と相手手ずからの給餌を強請ってみせる。──……シャクシャクと甘い氷を噛み締めながら、ギデオンの肩に頭を預け、前方に腕を伸ばしてぐっと伸びを。そうしてたっぷり相手に甘え倒してからやっと、己の体力の限界に素直に頷きつつも、温かな肩、もしくは腕にぐりぐりと頭を押し付ければ。明らかに眠そうな表情でしっとりと低い掠れ声を漏らして、肩越しにその青い瞳を覗き込み。 )
……んー、うん、そうする、
でも、ギデオンさんとは一緒にいたい……いいでしょ?
(ぐりぐりと潜り込んできた栗色の頭に、一瞬動きを止めて驚いた様子を見せつつも。これでよし、と言わんばかりのご満悦な様子や、甘えん坊を全開にした堂々たるおねだりが、なんだか無性に可笑しくて。「負けたよ」と仕方なさそうに喉を震わせ、背後の単子葉植物の根元に心地よく背をもたれると、大きな雛鳥の口に氷菓を運んでやることにする。しゃくしゃくしゃく──腕の中から、嬉しそうに氷を噛み砕く音。それがじかに伝わってくるだけでこんなにも満たされるのだから、つくづく不思議なものだ。2度、3度と夏氷を食べさせ、同じ匙でごく自然に自分の分も堪能しながら、遥か視線の先、黒々とした水平線に沈みつつある真っ赤な夕日を、心地よい思いで眺め。ふと、己に擦りつきながら眠たげに見上げてきた瞳を見つめ返せば。穏やかな笑みを返しながら、その形の良い頭を宥めるように撫でてやり。)
いい、と言ってやりたいところだがな。プライベートじゃなくて、ギルドでの旅行だから……“不純異性交遊”は禁止だ。
それに実のところ、今日はこの後、明日からのカリキュラムを組みなおす会議が入りそうでな。どの道、探検もデートも、明日以降にさせてくれると助かる。
(──歳の差のある交際関係の、世知辛いところである。不純異性交友が禁止と言ったって、熾烈な抽選を勝ち抜いたカップルや、そうでなくともこの特別なシチュエーションを出会いの場に……と目論む輩は、こっそり隠れて盛り上がるに決まっている。しかしそれはあくまでも、若気の至りが許される世代の話。ヴィヴィアンはそちら側であれど、生憎ギデオンはそうではない。立場や責任を放り出して恋人にかまければ、下の世代に示しがつかないし、責任者仲間にも申し訳がないのだ、と。相変わらず生真面目で理性的な一線を引きつつも──どこかでデートはするつもりだ、とさりげなく明かしたのは、甘えたい気分の相手に、甘い飴をやりたいからで。少し解け始めた氷菓を掻き集めてまた頬張り、甘味に目を細めながら、相手にももうひと口運び。)
だから、今日甘えるなら今のうちだ。夕餉の場所に引き上げるまで、まだ少し時間がある。
……!
何があったんですか?
( 一体自分はいつの間に、こんなに甘やかされ慣れてしまっていたのだろう。先程のおねだりを当然受け入れられるもの疑っていなかった自分に気が付いて、おっとり目を伏せはにかむと。(与えられた一口はしっかりちゃっかり頬張ってから、)ギデオンの長い長い脚の間、預けていた姿勢を立て直し、するりと膝立ちになって向き直る。──短くは無い合宿の間、そりゃ小さな相談、すり合わせ等は無数にあるだろうが。合宿2日目、それも訓練初日から重めの会議など、何かあったに違いない。すわ魔物か不審者かと、すっかり眠気の抜け落ちた真剣な表情でギデオンを見下ろして、最近益々艶っぽい頬をそっと撫でると、愛しさ余って不意打ちのようにシロップの唇を柔く食む。そうして、すぐにゆっくりと離した顔には、冒険者らしい真剣な危機感が滲む一方で、放っておくとすぐ働きすぎる恋人を心配する眼差しも多分に含んで。「お仕事頑張り過ぎて、無理しちゃダメですよ」なんて。今や素直にお節介を焼ける立場が心地よくて、少し硬い金髪に絡んだ砂を梳いてやりながら。満面に浮かべられた女神イドゥンを思わせるその無邪気な笑顔と、続けて漏らされた聞きようによっては意味深にも捉えられなくもないこの発言が、誘惑どころか、学生時代に耳にタコを作った単語への懐古と、相手に対するこれ以上ない信頼と安心によってもたらされていることを、ギデオンは、この1ヶ月で嫌という程思い知らされているはずだ、 )
──それにしても。不純異性交遊なんて久しぶりに聞きました……"不純"なことなんて何もしないのにね、
大したことじゃない。今日は泳ぎ一筋になったから、その分の帳尻合わせと……ほら、一緒に海から上がるとき、変な大波があっただろ。それがどうも……この辺りに出る魔獣の仕業じゃないか、って話になってな。
(物事に敏いヴィヴィアンは、ギデオンのなんてことない一言から、何か訳ありと読み抜いたようだ。感心したように小さく喉を震わせると、手に持っていた氷菓の器を脇に置き。空いた右手を相手の下ろし髪に伸ばし、なんとはなしにもてあそびながら、とりたてて秘匿でもない、けれど若手連中には未だ為されていないだろう、明日以降に係る事情説明を。「──大コスタ近くのと違って、こっちのウーシュカは人を喰わない。それでも念には念を、ってことで、調査やら何やらの打ち合わせをする予定だ。トリアイナの連中も、わざわざ情報提供に来てくれるつもりらしい」と。……しかし、そんな仕事の話なぞよりも。己が相手の髪に戯れるように、ヴィヴィアンが己の頬を撫でてくれる、その心地良さの方が、今のギデオンには余程大きくて。思わず青い目をとろりと細めれば、そのせいだろうか、次の瞬間甘やかな不意打ちが。一瞬の驚きも、すぐにこちらからの無我の応えにとって代わり。やがて離れていく顔を、ぼんやりとした目で見つめ返せば……そこにはヴィヴィアンの、いかにも真剣な心配顔。けれども、どこか満足げでもあることまで、その口元から読み取れて。──ああ、俺にあれこれ言えるようになったのが嬉しいのか。そう気がついて目を笑ませると、「わかった」と素直に頷き。己の髪を梳く優しい手つきに、微睡むように目を閉閉じた。
──せっかくこのビーチの名物、宝石のように真っ赤な夕陽が、今にも海のかなたに沈みかけているというのに。ヴィヴィアンは背を向け、ギデオンは目を閉じて、互いだけに夢中なこの有り様だ。せっかく買ってきた氷菓の残りだって、ふたりの横で、とっくに生温い液体へと成り果てている。けれども、ヴィヴィアンはともかく、食に目がないと密かに有名なあのギデオンさえも、それに構う様子がなく。……先ほどから、ビーチの用具類を片付けつつもふたりの逢瀬をチラチラ盗み見ていた、青年冒険者たちの何人かときたら。「……あ、アレ……ほんとに付き合ってんだ……」だとか、「つーか、前まで言ってた『別に付き合ってない』っての、アレもアレであの時はほんとだったんだ……」だとか。揃って遠い目を虚空に投げて呟いては、砂浜に崩れ落ちるのだった。
──しかし、ギデオンもギデオンで。ふとヴィヴィアンが漏らした言葉の走りに、顔を起こしたかと思えば。その結びを聞いた途端、酷く酷く切なげな、遠い眼差しを浮かべる羽目になるだろう。『“不純”なんてこと、何もしないのに』──そうか、そうだろう、相手はそうに違いない。だがこちらは大いに違う。それこそ良心が痛むくらいに、“不純”な自制に身に覚えがある。いっそここでそう告解できれば、どれほど気が楽になることか。とはいえ、相手の発言は誘惑でも無知でもなく、無垢の信頼(……またの名を、ギデオンの自業自得)からくるものだとわかってもいるものだから。複雑な表情を一瞬ぐるぐると浮かべたのち、今はまだぐっと沈黙を選び。ほとんど素肌の背中や、珍しく髪を結い上げていない後頭部を、大きな掌で抱き寄せたかと思えば。言い知れぬ歯痒さを晴らすように、相手の唇をたっぷりと──先ほどよりも少々深く奪い返し。やがて相手を間近に見上げ、悪戯っぽく口角を緩めるだろう。)
…………、こういうののことを言うんだろう。
ウーシュカって……溶解薬のストックとか、んっ……──
( 長い指が栗色の毛束を弄ぶ、その何気ない手付きさえ、ギデオンの仕草はビビが大切で仕方がないといった風情が溢れて。ビビが自分で巻くよりよっぽど美しいカールがぷわりと揺れるのだから、自分は1本の毛の先まですっかりギデオンに惚れ込んでいるらしい。此方の忠告に素直に頷いた相棒へ、まるで子供を褒めるかのように再度、その頬へと触れるだけの口付けを落とせば。静かに瞼を閉じる恋人とは対象に、紅い夕日を受けて煌めく美しい顔を鑑賞するのに忙しかったものだから。この美しい人をより引き立てるための照明や、周囲の反応になど目を向ける余裕なんて微塵もなく。
そうして、その意味までもは読み取れなくも、ギデオンの表情が複雑に揺れたことに気がついて。先程の魔獣疑惑と結びつければ、ゆっくりと真面目さを取り戻さんとした唇を、今度は相手から奪われて。立てていた膝から力が抜ける。深い口付けに、気がつけば砂の上にぺたりと腰を下ろして、ギデオンの胸に抱きつき──好き、好き、大好き、と此方からも与えられるがままに貪った。そうしてゆっくり離れていくギデオンに、とろりと溶けた瞳で微笑み返そうとした時だった。恥ずかしいとも、なんとも思わず喜んでいただける行為を揶揄されると、恥ずかしそうに眉を八の字に曲げ、かあっと顔を赤らめて。 )
──……キスって、"不純"なんですか……?
──やり方次第だ。……
(何かと純真無垢な相手を揶揄うこと……それ自体は、ギデオンの目論見通り、成功するにはしたのだろう。しかし問題は、ヴィヴィアン相手の勝負となると、最後には必ず敗けるのを、すっかり忘れていたことで。たった今の、いかにも純真な乙女らしいおずおずとした問いかけが……しかし、どれほど凄まじい破壊力を叩きだしたか。当のヴィヴィアン本人は、少しもわかっていないに違いない。
思わず言葉を失っているギデオンの顔は、若い娘を弄ぶ、悪い大人の愉快気なそれから一転。一見すうと落ちついたようでいて、この夏初めて見せる獣性が、その色を立ちのぼらせていた。──そうか、今のキスさえも、彼女にとっては淫らなうちには入らないのか。ならそのまま、あれもこれもいいことなのだと思わせながら、何とは言わずともどんどん教え込んでいこうか。それとも、いけない、“不純”なことだとわからせてしまった上で。それでも強請らずにはいられないよう、身も心もどろどろに堕としきってしまおうか………。普段は理知的な薄花色を宿しているはずの双眸は、今やざわざわと瞳孔が開いたために、その色合いを濃く深め。曖昧に応える声も、妙に低く掠れて、どこか渇きじみた気配が熱気のように絡みつく。頭の奥の理性は、まだその時ではない、今踏み出しても余計に辛抱がきつくなるだけだと、はっきり告げてはいるものの、夢の中のようにぼんやりとくぐもって聞こえない。ただ欲しい──ヴィヴィアンが、欲しい。恋仲になって尚、己の中にはまだまだ満たしきれていない深い欲が眠っていたのだと。そうはっきり書いた顔で、相手を無言で見つめ上げ。一度だけ、相手の背中と腰に手を添え直して、ごく軽く揺すり上げるような動作をしてから。少し前の平和な一幕とは反対に、今度はこちらが雛鳥になったかのように、口を開けて甘露を求め。)
あ……
( ──だって、この真面目で優しい相棒がする事が、褒められたことじゃない、不純なものだとは思いもしなかったのだ。強く長い手脚の檻の中、その身を縮こまらせたヴィヴィアンを串刺しにする薄花の瞳。この美しくも恐ろしい輝きに、シルクタウンの夜に見た、獲物を前にしたワーウルフを思い出す。普段はただ嬉しいだけの触れ合いが、背中に触れるギデオンの掌が火傷しそうに熱くて、恐ろしい瞳に射抜かれた身体は硬直して、冷たい汗が止まらない。──ハグやキスは良くて、それ以上は怖いって……その間に一体なんの根拠があるんです? いつかそう呆れた顔をしていた親友の話を、聞き流したバチが当たったのだ──この一ヶ月、与えられるまま許されるまま、ただのキスだからと、その幸福をいいように貪り、何度も何度も強請った記憶が甦り。発光しそうなほどに赤面し、涙目で首を振るヴィヴィアンはしかし、親友の真意を強かに誤解している。──ハグやキスと、それ以上の行為。そのどちらも、恋人同士に関係であるお互いが許すならば、何を躊躇うことがあるのか、という初心な親友の背中を押してやらんとする発言に──流石のリズもこの24歳児の初心さを甘く見ていたのだろう──寸前のギデオンの囁きも相まって、ビビの中でハグやキスでさえも、はしたない、浅ましい行為に成り果てていく。可哀想にガチガチに固まった身体を揺すりあげられ、「ひゃッ、」と小さく震え上がると。甘く開いた唇を、それが淫らな事だと知ってしまった今、素直に許容できる訳があるだろうか。しかし、必死に相手の唇を両手で覆い隠したところで、教えこまれた幸せを忘れられる訳もまた無く。自分で拒絶しておきながら、モジモジと数度言い淀んだヴィヴィアンが、やっとの決心で潤んだエメラルドをギデオンに向けたのと、「おーい、そろそろ引き上げるってぇ」と、どこからとも無く、間の抜けた集合がかかるのがほぼ同時だった。 )
──……だっ駄目! …………その、今はギルドの旅行中だから!
……、だから…………帰ったら、して、ください……
(ぱふ、と口を塞がれた途端。暗い欲の火が点いていたギデオンの青い瞳は、靄がみるみる晴れていくように、澄んだ明るさを取り戻す。そうして、戸惑ったようにぱしぱしと瞬きながら、もう一度相手を見つめ直せば──可哀そうに、ヴィヴィアンの真っ赤な顔は、明らかに酷いショックを受けていて。触れている体もゴルゴンに睨まれたように強張り、あのゆったりとした安心感、ギデオンへの全幅の信頼感が、どこかに引っ込んでしまっている。挙句、集合の呼び声とほとんど同時に絞り出されたその声は、決して甘やかなお預けなどには聞こえず。寧ろ、怖くて蹲るような……問題を先送りするような……それでもこちらを想って無理に背伸びするような──か細く震える、痛々しいもので。
──ギデオンの理性が、急速にその本来の冷たさを取り戻し。かえって己の肝を、突き落とすように冷やしていく。……いったい何故、忘れていたのか。マリアが言っていたではないか、彼女は男とのそういった行為にトラウマがあるようだと。『その……、私、あんまり "こういうこと"……に、いい思い出がなくて……』。去年の冬、彼女自身も、目を潤ませながらそう打ち明けてくれていた。だというのに、自分は何を……ヴィヴィアンに何を。──そう、結局のところ、このひと月の親密な戯れで、すっかり油断や誤解をしていたのは、ギデオンもまた同じ。相棒関係になって一年、恋人同士として同棲を始めて一カ月。ほんのそこらの浅さの関係で、互いの人生経験の違いがそう簡単に擦り合わせられるなど……傲慢甚だしい思い上がりだったのだ。)
……、悪い。怖がらせるつもりじゃなかった……本当にすまない。
(ギデオンの身体から、男の仄暗い獣性も、恋人を傷つけた恐怖による強張りも、一度すうっと抜け落ちて。自然に俯いてから再び面を緩く上げれば、そこにはいつものギデオンが……このひと月彼女と親密に接してきた、温かな、絶対に安心できる恋人として求められていた時の顔が、取り戻されているだろう。彼女の竦んだエメラルドを優しく覗き込み、集合の声を少し無視してでも、相手の熱い頬に柔らかく手を添えて、潤んだ目元を拭う素振りをしてみせたのは。ここを決して間違ってはいけない、軽く見てはいけないと、強く直感していたからだ。)
……俺は、おまえが大事だ。無理はしなくていい……別に、変に諦めるわけじゃない。
このことはちゃんと……後で、ゆっくり話をしよう。
(──本来なら、後日と言わず今ここで、きちんと話し合いたいのだが、状況のせいでそうもいかない。だから兎に角、相手の拒絶にがっかりしたりなどしていないこと、寧ろきちんとヴィヴィアンの気持ちを待って臨みたいこと、それよりも前に、もっと大切な部分を確かめあいたいことなどを、最低限伝えれば。「おふたりさーん、」と聞こえてきた声に、一度そちらをもどかしげに振り返ってから、やむを得ず、相手に手を貸しながら立ち上がり。合流する道すがら、相手の手を軽く握り込み、自分の心は相手とともにあることを、無言でもう一度念押しする慎重ぶりで。──はたして、人だかりのすぐそばまで行けば。ベンチで休んでいたエリザベスが(隣には当然かつ番犬のようにバルガスが控えていた)、何を感じたかこちらを振り向き。ヴィヴィアンの様子を見て訝し気に眉を顰めたかと思うと、彼女とずっと過ごしていたギデオンのほうに、疑念顕わな目を向けてきた。それを臆さずまっすぐに受け止め、寧ろ意図を込めた視線を送り返せば。──その頼み込むようなまなざしを、聡明な彼女はきちんと読み取ったのだろう。ただでさえ冷めている瞳が、明らかに数段階冷え込んだかと思えば。すい、とギデオンから逸らした顔は、もうヴィヴィアンにのみその意識を向けており。「──女子の馬車は先に発つようです、行きましょう」と、ごく自然に彼女を引き取り、もとい……ギデオンから離したのだった。)
(──2日目の晩餐も、グランポート市の厚意による温かなご馳走が供された。初日の夜のご当地名物フルコースとは違い、今日は温かな郷土料理が中心。昔ながらの鍋や煮物を皆でつついて楽しんで、控えめながら酒盛りもして。それが終われば、各々のコテージに引き上げ、明日に向けての就寝準備だ(とはいえ、ギルマスやジャスパー、ギデオンなどの引率組が宿泊する中央の大コテージは、夜半まで明かりが点いているのだろう)。
総勢40人の合宿参加者の中で、女子の割合は三分の一。よって、ベッドが8つあるコテージが2棟割り当てられているものの、片方のコテージは、実質的にはその半数しか使われない。──それを良いことに、自分の彼氏なり、良い雰囲気になった相手なりを連れ込む、お盛んな娘たちがいるらしく。カレトヴルッフの前代三人娘こと、フリーダ、リッリ、エスメラルダの独身三十路冒険者たちが、妹分たるヴィヴィアンらの棟に転がり込んできたのは、表向きはまあ、そういった事情によるもので。
「開けろ、キングストン市警だー!」と豪快に笑う女槍使いエスメラルダは、既に片手に酒瓶を掲げ、ご機嫌の酔いどれっぷり。乱暴にドアを叩かれたことで出迎えたエリザベスは、「ここに被疑者はおりません」と、きっぱり冷ややかに締め出そうとしたのだが。「まあまあ、昨夜は一応早寝しよっかってなってできなかったしさ。せっかくだから女子会しようよ??」と、ちゃっかりフット・イン・ザ・ドアをかましてくるのが、女魔法使いフリーダ。「ごめんねぇ、このふたり言いだしたら聞かなくて……」と、ふたりの後ろで申し訳なさそうに、その実したたかに上目遣いで頼み込んでくるのが、女精霊使いリッリ──いずれも、業績の上でも同世代の男たちに引けを取らず、実際プライベートでも男に「あ?」と返して見せる、手練れの先輩方である。ため息をついたエリザベスが仕方なく中に引き入れれば、先輩方はずかずかと中に入り込み、さっそく実家のような寛ぎっぷりを発揮し始め。「なんだ、カティもう寝てんじゃん! 起きろよ! あんなんじゃ飲み足りないだろうがよー!」と、エスメラルダがベッドでぼんぼん飛び跳ねて起こしにかかるものの、腹を出したままいびきをかいているカトリーヌは、それこそゴーレムが降ってこない限り起きないような爆睡っぷりだ。他にこのコテージに居るのは、ヴィヴィアンとアリアのふたり。他にも4人ほど同室の娘がいるはずなのだが、彼女らは宵闇に紛れて逢引に走っている頃だ──まったくトランフォード人らしくて結構なことである。とにかく、カトリーヌが健やかに寝ている今、先輩方の言う“女子会”とやらは、前代・現役のカレトヴルッフ三人娘が、ごろごろできるラグの上で仲良く向き合う形となり。ジャスパーを操……誉めそやすことで上手いことつまみをせしめてきたフリーダが、レモラのちちこ(心臓を甘辛いタレで煮込んだもので、なかなかの高級品なのだという)を嗜みながらヴィヴィアンに水を向けたのは、ごくごく自然な流れでのことで。)
──それで、ビビちゃん。アイツとはどうなの? どのくらいいってるの??
( どうやら正気を取り戻したようなギデオンの謝罪に、ヴィヴィアンの表情にほっとあどけない安堵が滲む。しかし遅れて、恋人として"当然"の触れ合いに応えられなかったことを痛感した途端。……嗚呼、ギデオンさんに捨てられたらどうしよう、と。優しい恋人を信じたいにも関わらず、7年前のトラウマが蘇り、どうしようもなく涙が滲む。それをギデオンの大きな手が拭ってくれて、その後も……欲しい言葉、欲しい温もり、ヴィヴィアンが望むもの全てを与えてくれる大人な恋人に、己の未熟さを痛感するばかり。ごめんなさい、ごめんなさい、ギデオンさんが嫌な訳じゃないの、本当に貴方のことが世界一好きなんです……そう伝えたいことは沢山あるのに、ショックで震え上がった声帯は未だ仕事をしてくれず。並んで歩く集合場所までの短い間、ただ優しい言葉にこくこくと頷くだけで、徐ろに立ち上がったリズに引き取られるまで、とうとう大好きなはずの恋人の顔を見ることも、温かい手を握り返すことも叶わなかった。 )
──どのくらい、って……。
~~っ、その! ギデオンさんも、私と……"そういうこと"、したいと思いますか!?
( ──待って待ってどういうこと!? 寧ろまだしてないの!? そんな叫びから始まった女子会は、最初からフルスロットルで始まった。「はぁ~、もうギデオンの激ヤバ性癖が聞けると思って来たのになぁ」と、ワイングラスを傾けたフリーダを、「本人は真面目なので面白がらないであげてください」と諭したリズの膝の上。よく通る先輩の叫び声に吃驚して縮こまったヴィヴィアンが、スンスンと親友の膝に涙の染みを作っている。その小刻みに震える頭を優しく撫でて、「ごめんなさいねぇ。ほら、いつも手がかからない後輩が悩んでるって聞いたら、力になってあげたくなるじゃない?」と、最早此処に来た真意を隠さないリッリの物言いが逆に心地よくて顔を上げると、その横でずっとハラハラと此方を伺っていたらしいアリアが、腫れ上がって明日に響きそうな瞼を冷やしてくれて。それにうぅ~っと甘えた声を上げれば、それまでずっとカトリーヌに構っていたエスメラルダがベッドから降りて来て「それで、ビビは何をそんなに悩んでるんだ?」と、その真面目な顔にまたポロリと涙が零れてしまった。
何を、と問われれば──結局、己の未熟さ故にギデオンに見捨てられるのが怖いのだ。優しい恋人は絶対にそんな事しない……と、7年前だってそう思っていたその結果がどうだったか。──友達だと思っていた同級生の視線が、成長期と共に此方の身体にばかり注がれるようになり。親切だと思っていた同僚が、一度仕事中の事故で触れ合ってしまってから、ニヤニヤと何度も擦り寄ってくる。そして、誰より優しいと信じていた、大好きだった少年は、嫌がるビビを暴こうとして止まってくれなかった。そんな……そんな、本来は穏やかでまともだった筈の彼らを狂わせる、"何か"が、あの虚ろでギラギラと光る瞳が怖くて怖くて堪らない。──それを子供なのだと、人生の楽しみを知らないと笑われようと、我を忘れるような快楽など要らない。大好きな人と手を繋ぎ、ただ抱き着いて、たまに口付けられるだけで良かったし、同棲して一ヶ月。手を出してこない恋人に、もしや相手もそうなのではなかろうかと、身勝手に都合の良い妄想へと逃げた挙句。結局、他でもないギデオンがやはりそれ以上を望むというなら、自分はどうすれば良いのだろう。ギデオンのためなら、痛みも恐怖もきっと我慢してみせるという想いはあるが、それで彼が今まで関わってきた素晴らしい女性達に勝てるだろうか。ビビの知らない"何か"がギデオンを狂わせて、やっぱり他の娘がいいと言われたらどうしよう。
──そんなヴィヴィアンの支離滅裂な泣き言を、「それギデオンに言ったことあんの?」と遮ったのは、いつの間にか目を覚ましていたカトリーヌだ。フリーダのちちこをつつこうとして、ピシャリとやられた手を擦りながら欠伸を漏らした女剣士の一言に、それまで静かに相槌を打ってくれていた周囲も一気に爆発する。決して女が安心して過ごせるとは言いきれない世間への呪詛から、ビビへの同情。話がギデオンの不甲斐なさを責める方向性へ行った時は、慌てて話題を逸らそうとして、何故か自分がやたら可愛がられたり。最後には──これだけ歳の離れた娘と付き合ってるんだもの。経験値の差なんて織り込み済みでしょうから、私も本人に相談するのが一番いいと思う、と始めたフリーダが、「それに、案外シてみたらハマっちゃったりしてね」なんてやたら美しいウィンクを飛ばす頃には、全員良い感じに酔いも回って時刻も日を跨いていて。話題は自然と、"実践"で使えそうな技の講習に移っていく始末だった。
そんな女子会及び宴会の後、誰のものとも分からないベッドに入り込んで、今日のことを振り返る。──相手に相談しろ、なんて。全員いとも簡単に言ってくれるが、それが恥ずかしいといったらないのに。…………明日。少なくとも、今日も態度は謝らなくちゃ。タイミングがあったらいいのだけど、と胸中の不安にころりと寝返りを打った先。何かが指先に触れたのを確認すると、全く誰が持ち込んだのやら、先程の"夜の講義"で教科書として使われた小説に、顔を真っ赤にしてシーツに潜り込んだ。 )
(──ヴィヴィアンの様子が非常に気にかかったものの、あの後のギデオンは、頭を切り替えねばならなかった。夕食後の会議に同席したトリアイナのメンバーから、明日の天候を懸念する声が上がったのだ。数時間前の美しい夕焼けを思い返す限り、とてもそんな風には思えなかったが……そもそもキングストンとグランポートでは、緯度も地形も大きく異なる。ここで長く暮らしている冒険者が言うのだから、きっとその通りになるのだろう。
従って、予定していた打ち合わせのほか、予め用意していた雨天時の代替案を確認する作業が入り……その話し合いが膨らんで、あっという間に夜が更けていき。俺たちもそろそろ寝よう、とお開きになったところで、小さくため息をつきながら、ようやく窓の外に目を向ける。宵闇の向こう、まだ小さな明かりがついているのは、ヴィヴィアンやエリザベスが泊まっている女子用のコテージだ。……あの後、彼女は大丈夫だったろうか。やはり今からでも、様子を見に行くべきだろうか。こういう問題は、時間を置けば置くほど修復が難しくなることが多い。しかし、今の段階で下手に顔を合わせたところで、まだ怖がらせてしまう段階ではないだろうか──。
深刻な顔で悩んでいたギデオンの横を、何やら震えながら通り過ぎていく者がいた。外から帰ってきたレオンツィオだ。「おお怖……」などと呟いているので、どうした? と気軽に尋ねれば。「──スヴェータがさ、コテージに戻れないっていうんだよ。あいつのとこ、今はフリーダたちが上がり込んで好き勝手してるらしい。エリザベスたちからすりゃ、山賊に襲撃されたようなもんだよな」、と。……お前、スヴェトラーナといったいどうなってるのか、そろそろいい加減……と、吐かせたい気持ちも山々だったものの。それより何より、ギデオンの顔は、微妙な表情できゅっと硬くなってしまう。──カレトヴルッフのほとんどの男たちにとって、前代カレトヴルッフ三人娘は、今や非常に恐ろしい、下手な魔獣よりよっぽど相手にしたくない存在である。彼女らが巣食っているかと思うと、ヴィヴィアンを連れ出すべきかと悩んでいた考えも、みるみる小さく萎んでいくほどで。……まあ、フリーダやリッリやエスメラルダは、あれでもなんだかんだ、気立ての良い女たちだ。今のヴィヴィアンには、寧ろ同性の先輩たる彼女らの方が、よっぽど上手に寄り添ってくれるかもしれない。ヴィヴィアンが悩みを打ち明けているだろう場面に、当の自分が顔を出しては野暮だ……そう、決して、あそこに顔を出せば袋叩きにされるだろう可能性に、恐れをなしているわけではなく。そんなギデオンなりの配慮は、結果的には一応正解していたものの。女性陣のいるコテージにて、「不甲斐ない」「腑抜けだ」「ヘタレだ」と散々に罵られていたのは、当然ではあっただろう。)
(さて、あくる朝。トリアイナの予言通り、早朝の共同パトロールを終えた頃には、天気が崩れ始めていた。雨天時の水難救助訓練も、需要があるにはあるのだが……泳ぎ慣れない若手が多く居るから、やめるに越したことはない。結局、ジャスパーの口から早々に訓練中止を言い渡し。皆で近くの公民館に引き上げる段になると、本格的な土砂降りが始まった。いよいよ今日一日は、昨晩準備した講義の段取りをなぞっていくことになる。
──ヴィヴィアンと顔を合わせる機会は、朝から何度かありはした。しかしそういう場面に限って、どちらかが声をかけられるものだ。一度しっかり目を合わせ、(後でな)と口パクで伝えたが、昨夜の件を気にかけていることは、あれで無事に伝わっただろうか。生憎その後のギデオンは、他の講師役のサポートや、自分自身が教壇に立っての講釈。その他、明日以降の消防局との連携に、時間を割かねばならなくなり。ヴィヴィアンもヴィヴィアンで、若手として手伝いに駆り出されるなどして、忙しく過ごすこととなった。
ようやくそのタイミングを得たをのは、自由時間もとっくに始まり、皆がそれぞれのコテージに引き上げた夕食後。明日への会議を早めに終わらせ、引率の立場を堂々と返上してから、黒い音物の傘を差して、まだしとしとと降り続く雨の中へ歩き出す。目指す先は女性陣のコテージ、ヴィヴィアンの泊まっている棟だ。雨音を考慮して少々強めにノックすれば、顔を出したのは新人ヒーラーのアリア。「ヴィヴィアンを借りたいんだが、今出られそうか」と尋ねれば、若い娘はまん丸い目でギデオンを見上げてからこくりと頷き、先輩を呼びに中へ戻っていくだろう。そうして出てきた相手と、しっかりと目を合わせ。……しかし、ソファーの陰からにょっきり顔を出し、何やら野次馬面でこちらを見ているカトリーヌやスヴェトラーナを、一度ちらりと憚ると。軽く顔を傾けながら、表向きの用事を伝え。)
明日の訓練中、俺たちだけで抜け出す用事が入りそうなんだ……ギルマスじきじきの指令でな。
そのことで、ちょっと向こうで打ち合わせがしたい。
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