匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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……………。ギデオンさんが私に甘すぎるんですよ。
( 完成した薬を小瓶に移すと、香りを確認してからまずは小さく舐めてみる。毒性の出る組み合わせではなかったはずだが、万が一に備えて体に異常がないことを確認してから、残りもしっかり飲み干して。拳を握ってみるなど小さく体を動かして、再度末端にしびれ等や、平衡感覚に違和感がないことを確認すれば、良くも悪くも想像通り。浸み込んだ瘴気の全てを取り除くには至らなかったが、それでも随分と体が軽いのは、何より心地よい体温にずっと支えられ、包み込まれて、落ち着く鼓動の響きに身体を委ねることができたからだろう。思えば、この部屋だけに随分と時間を使ってしまった。先程の我儘の件で、図星を指されて漏らした言葉は、悔しさ紛れのそれだったが、恐らく全ての人に向けられる訳ではない、溶けるように甘い仕草や視線。ビビの中にいつの間にか生まれていた、臆面もなくギデオンが“自分に”甘いだなんて言い切れてしまう安心や確信。相手がくれたこの名前も知らぬ関係のお返しには随分と足りないだろうが、今度こそ元気よく飛び跳ねて、己の意志で相手に抱き着けば、これから先、自分が隣にいさせてもらえる限りはずっと、絶対にこの人をこの人が帰りたい場所へ帰すのだという意思を、密やかに心に決めたのだった。 )
うん、うん……ヨシ! えへへ、おかげさまで元気いっぱいです!
ありがとうございます、早く一緒に帰りましょうね!
( そうして覚悟も新たに扉を開けた途端、ぶわりと押し寄せてきたのは、ビビにとってとても馴染み深い大量の書籍の香り。どちらを向いても壁中びっしりと埋められた本棚に、高い天井、大きな資料をたっぷりと広げて見比べられる巨大なテーブルが置かれた空間は、小さめの図書室といっても差し支えないほど立派な書斎で。しかし、振り返ったギデオンにこくりと頷き、その書斎に一歩足を踏み入れた途端。先程薬を飲み終わった後、開放してやった幼竜がヒュッと震えあがったかと思うと、再びビビの肩を駆け下りて腰の袋に潜り込みカタカタと震えだすではないか。今度の部屋も一筋縄ではいかない予感に、己の杖をぎゅっと握りなおし。相棒と視線を交わしてお互い次の部屋へと続く扉、その手掛かりを手分けして探し始めれば、部屋で一番目立つ書き物机の上に、最初のヒントはあっさりと見つかるだおう。 )
……! ギデオンさん、ギデオンさん、
此方にメモが……あおいたいようのほんはどこ? って、この本棚の中から探せってことでしょうか?
(突然の豪雨に襲われ、迷い込んだ不気味な館。案の定真夜中に異変が起こり、ヴィヴィアンを腕の中に抱きしめて凌いだかと思えば、果てしない罠の中に囚われてしまった。だというのに、だ。明るく暖かい温室で、元気を取り戻した相手に抱きつかれている今、ギデオンもまた、先への不安や焦燥感が随分軽くなる思いだった。何があろうと、ヴィヴィアンと一緒ならば、無事にここを出られる。状況を切り抜けられる。そんな明るい確信で、力が漲る気さえしていた。……しかし、結果的にそれは正しかったとしても。あそこまで壮絶な目に遭うことになるなどと──まさかあのふたりと再会することになるなどと──このときはまだ、思ってもいなかったのだ。)
(──さて。回復したヴィヴィアンと次に踏み込んだのは、四方がみっちりと本で埋め尽くされた大部屋だった。あちらを見ても、こちらを見ても、壁は床から天井に至るまで本、本、本、本、本の山だ。おそらく全部で千冊以上もあるだろう。そんな環境で、特定の本を見つけ出さねばならない、などと。いったいどれだけ時間がかかることか──しかも、懸念事項はそれだけではない。ヴィヴィアンも自分も、この部屋に入った時は何も感じなかったというのに、先ほどの暗路の時は怯まなかったサラマンダーが、酷く怯えた様子を見せている。ここには何かある、ならば、やはり一刻も早く“鍵”を探すしかないだろう。)
……そうらしいな。
青い太陽、というのは、俺の知る限りどんなものの異名でもないが……もしかしたら月か、何かの花のことかもしれん。
本のタイトル、装丁、月や花に関する内容かどうか……その辺りに注意して当たってみよう。
(部屋の中央に置かれたテーブル、その卓上にあるヒントの文字列を長い指でなぞりながら、捜索方針をそう導きだすと。相手ともう一度こくりと頷き合い、特に相談しあうでもなしに、互いの受け持つ本棚を片っ端から調べ始めることにする。そうしてすぐに気がついた──どうやら幸い、この書斎の本は分類ごとの整理整頓が為されているらしい。それに気づけば、少しは予想をつけながら調べられるだろうか。
『聖ゲオルクの黄金伝説』『ヴァンダ姫物語』『伏羲と女?──極東の始祖たち』……この辺りは伝説に関する書棚なのだろう。片っ端から軽く引き抜いて装丁を確かめているが、それらしきものはない。『ヴァナルガンド教テロ事件』『6000年の滅亡に備えて我々は何をすべきか?』『親巨派の謀略』……宗教や陰謀論に関する棚のようだ。傾向的にありそうかと思ったが、これもない。『グレンデルに見る弱者男性の心理学』……『冶金魔法大全Ⅰ』『ヒュドラ毒のすべて』……『ハイリングラード戦史』……『ロウェバフォロスはかく語りき』……『緋色姫の憂鬱』『緋色姫の退屈』……『スケルとハティのおにごっこ』……あった、これだ! 幼児向けの絵本の表紙に、二頭の仔狼に飛び掛かられる“青い太陽”が描かれている。正確には、青白い色で描かれた、クレーターのある太陽のような何かだ……神話の狼であるスケルとハティが太陽と月を追うことから、そのふたつを混ぜ合わせたのだろう。ヒントの言葉が平易な言葉で書かれていたのも、本の読者層についてのヒントだったに違いない。
「ヴィヴィアン、あった。こいつだ」と、その本を開いてページを捲りながらそちらに向かおうとする。が、その足が途中でぴたりと止まってしまった。──まさか、と心の中で呻いたのだ。傍に来た相手にも、そのわけを一緒に見せる。本のなかほどに、小さな羊皮紙のメモが挟まっていた。“羊頭の植物はどこ?”」……思わず、忌々しそうな声を漏らして。)
……、まさか……次から次に、この部屋の中で探し物をさせるつもりか。
さっすがギデオンさん! 素敵!
( 頼もしい相棒が歴史及び人文学の書架をひっくり返していた同刻。ビビが調べていたのは、観賞用の草木や薬草等の図録がまとめられた棚で。学生時代に読んだことのあるそれから、こんな時でもなければ、じっくり読みふけりたくなるような珍しいものまで。大量のそれらに埋めていた頭を、相棒の呼び掛けに応じてぴょこりと揺らすと。今ちょうど調べていた図鑑を片手に、不自然に固まった相手へと擦り寄り、その逞しい腕に手をかけ、身長の高い相手の手元を覗き込もうとして。)
わあ…………、あ。
でも、次はすぐに見つかりそうですよ。
( そうして、その相手の手中にあるメモを目にして、終わりの見えない作業に無感動な声を上げたかと思うと。ふと覚えのあるフレーズに、見上げた瞳を丸くしたのは、そのメモに書かれた"羊頭の植物"なる物に大いに心当たりがあったが所以。徐ろに持っていた図録を差し出すと、その表紙に書かれていたのは『トランフォード野草大全』の題と、有名な植物学者バロメッツのスケッチで。しかし、──さあ褒めろ、と言わんばかりの上機嫌で胸を張れたのも束の間。"黄金の右手の謎に迫れ"やら、"人魚の涙を探して""林檎の番人は誰?"……と無限に続く捜し物に、先程まで元気に揺れていたポニーテールは何処か萎びて、ただ無意味に繰り返される行為は、当初持ち合わせていたはずの警戒心さえ忘れさせる。本日数十冊目の外れ本に、とうとう机に頭を突っ伏して、凝り固まった肩や首をいいように伸ばす姿勢は、この瞬間、不測の何かに襲われれば一溜りもない始末で。 )
──……うぅぅう、肩……首、いったい……
もう他の方法探した方がいいでしょうか、際限ないですよ……
……だが現状、先に進む扉が見つからないままだ。温室に戻ったところで、あっちも一本道でしかない。
腹を決めて、地道に探し続けるしか───……!?
(回りくどいヒントしか書かれていない羊皮紙のメモを、あれから何十枚掘り出したことだろう。相方が勘の良いヴィヴィアンだから、まだテンポよく進んではいるものの。探せども探せども、この千冊の本のどれかを順々に棚から引き抜くべく、限られた部屋の四方を行ったり来たりするばかり。ギデオンも流石に疲労が溜まり始めた頃で、行儀悪くも机に腰掛け、うんざりしたようなため息を吐きだす。──無論、こうしていても、サラマンダーのあの怯えようを呑気に忘れたわけではない。若い相棒が自由気ままにストレッチをする間、万一攻撃を受けてもすぐ護りに動けるようにと、己の意見を述べながら、周囲を注意深く見渡す。そこでふと、幸か不幸か、偶然それをすぐに見つけた。赤い髑髏の紋章があしらわれた背表紙、今探している本はまさにあれのことだろう。とはいえ、“本が見つかった”なんて報告は、もう何回もしあってきれいる。今休んでいる相棒に取り立てて伝えるまでもないだろう、そう判断して本棚に近づき、該当の本を今まで通り引き抜く。そうして、今まで何度もしてきたように。本の頁を捲れば出てくる次のメモの内容を読み上げてから、また次の本を探しにかかる──はず、だったのだ。
ギデオンの言葉が途切れたのは、本を棚から引き抜いた瞬間だった。カチリ、と何か留め金の外れた音がしたかと思うと、何やら壁の奥で歯車と魔法陣が発動する仰々しい物音が聞こえて。咄嗟にヴィヴィアンを庇いに下がったギデオン、その目の前で、本の壁と思っていた棚の一つが、まるで引き戸のように動く。その先に続く光景を見て、思わず唖然と立ち尽くしたのも無理からぬ話だろう。──壁が動いた穴の先には、今いる書斎など比較にもならない、巨大な図書館とでもいうべき広大な書架の森が……奥まで見通せぬほど広がっていたのだ。思わず数歩歩み寄って、その空間を覗き込んでみれば、数万冊どころか、数百万冊は収蔵されているのがわかる。そもそも一階建てではなく、吹き抜け式の上階まであるらしい……書架の高さは書斎のそれの数倍で、高いはしごさえ掛けられている。にわかに歯現実を信じられずにいる目を、無言のまま手元のメモに落としてみれば。相変わらずそこには、“ユニコーンはなにがすき?”なる、酷く曖昧なヒントが、憎らしいほど今までどおりな情報量で、あっさりと書かれているだけ。静かに押し寄せる重い絶望感に、ゆっくりと顔を見合わせると。ぐしゃり、と手中のメモを握り潰しながら、気が遠くなる想いを理性で打ち消そうとする、複雑な表情を浮かべて。)
……、とにかく。
次の扉の位置を見つけながら、続けるしかないな──こっちでも。
それはほら……燃やしちゃうとか。
( 幸い着火剤の代わりははたんまりあるし。というのは、あくまで冗談で、果ての無い作業による疲れを、信頼する相棒に甘えて癒しているに過ぎない。やむにやまれず館は燃やしたとしても、人類の叡智の結晶であるそれらを、みすみす目の前で燃やすのは、ビビにとってもできるだけ避けたい事態で。その証拠に、猫のように首の後ろを伸ばしたのを最後に、少しスッキリした表情で作業に戻ろうと顔を上げて、本棚の奥で魔法陣が発動したのを確認すると、ギデオン同様素早い動きで杖を構えたのだが──この時、もし本棚の側から二人の表情を同時に伺うことが叶ったならば、得体の知れない機構への警戒、状況が変わりそうなことへの微かな期待、そして、最悪な方向へ変わった状況への絶望へ、全く同じ経過を辿って変化する表情を楽しむことが出来ただろう。そして──それはそれは立派な図書室を目の前にして。 )
それは、ほら。……やっぱり、燃やしちゃうとか。
( 先程より冗談味の薄れた暴言がやけに響いたような気がした。
そうしてギデオンと顔を見合せ頷き合うと、お互い己の獲物に手をかけて、腰だめになって次の部屋へと突入する。本来、心落ち着ける空間であるはずの図書室には似合わぬ調子であるが──いざ、殿のビビが両足を踏み込んだ途端。ガキン!! と響いた衝撃を鑑みれば、全くの正解だったと言わざるを得ないだろう。本棚一枠分の狭い通路、その死角から襲いかかって来たのは、身の丈3mはゆうに超える巨大な人の頭蓋骨。寸前の衝撃音の正体は、こいつがギデオン目掛けその不揃いな歯を振り下ろしたそれで。それを受け止めたのがギデオンの脇の床にせよ、もしくはその魔剣にせよ。その圧倒的な質量差にゾッとして、叫んだ声と、咄嗟に炸裂させた閃光との反応差を見るに、視力よりも聴覚が発達しているらしいが……果たして。ギョロリとこちらを睨む顔に、背中に汗を感じながら一か八か、もう一度杖を振り上げると、人間には聞こえない周波数の爆音で威嚇して。 )
──目ェ塞いでくださいッ!!
──ッッ!!
(この状況では笑えそうにもない強火の発言に軽口を返そうと、口を開きかけたその瞬間。ぴりりと肌を灼いた殺気に、咄嗟に身を翻し──コンマ数秒前までいたその空を、巨大髑髏が噛み砕く。ギデオンの見開ききった青い目は、目の前の朽ちた生首の実在と襲撃を、にわかには信じられなかった。それまでの戦士人生二十余年で、これほどおぞましい怪物に出くわしたためしはほとんどない。──だが、これは現実だ。迷い込んだ館の奥、いつどうやって出られるかもわからない巨大な書庫のなかで。明らかに狂暴とわかる敵の標的に、自分ひとりでなくヴィヴィアンまでもが数えられている──。果てしない本探しで落ち着いていたギデオンの本能は、緊急事態への警鐘をガンガンと激しく鳴らしはじめ。キリキリキリ、と顎を開いた怪物が、真っ暗な二つの眼窩を再びこちらにぎょろりと向けたその時。
相棒の声を信じて刹那目を閉ざしたものの、髑髏の怪物から凄まじい苦悶の声が迸れば、その隙を逃がさずに相手の手首を引っ掴んで、一目散に走り出す。横幅2メートルの狭い通路を右に、左に、横に、縦に──とにかく距離を取らなければ! とてもじゃないが、魔剣で太刀打ちできる相手ではない、それだけはわかっていた。あの手の怪物には魔素の塊が効かないことが多い、つまりヴィヴィアンの高火力魔法も、ギデオンの雷撃魔法も使えない。そういう敵を叩きのめすために造られた武器、魔槌のみが有効だ……斬ることを強みとしたギデオンの魔剣では戦えない。しかし、走れども走れども。あのおぞましい風貌のどこに鼓膜があるのだろう、怪物は後れを取りながらも、一定の正確さでこちらを追いかけてきているのが、ガチガチと打ち鳴らす歯の音で聞き取れる。これではどんなに逃げ回っても、遅かれ早かれ追い詰められる──そう判断したとき、ギデオンの覚悟ははっきり決まった。迷路のような書架の片隅で立ち止まり、相手の肩を掴んでこちらに向かせると。荒い息を吐きながらも、握りしめていたしわくちゃの羊皮紙……先ほど手に入れた最新のメモを相手の手に押し込め。ガチガチガチガチ、と近づいてくる死の気配を感じ取りながら、相手の緑の双眸をまっすぐに見据えて。)
……っ、ヴィヴィアン。あのわけのわからん怪物は、俺がどうにか引き付ける。ふたりでずっと逃げていてもらちが明かない──おまえが出口を見つけてくれ!
( このとても広い図書室でふたり。あの化物に追われながら書籍を調べるなど、到底不可能だということは、相手に言われずとも分かりきっている。だからこそ、ギデオンの叫びに、あんな相手をどうやってだとか、危険だとかいう言葉たちが、どれだけ空虚で無意味な物かもよく分かってしまい。──嗚呼、いつだってこの人が危険な役目を買って出て、ビビや周囲を守ろうとすることなんて予測できただろうに。ただその分かりきっていた危険な役目を、何故己が先に言い出すことができなかったのか、それだけが猛烈に悔やまれて。相棒の真剣な視線を観念したように見つめ直し、弾かれるように走り出す直前、心底認めたくなさげに頷いたその表情には、これ以上ない悔しさがたっぷりと滲んでいて。 )
ギデオンさ……、……──ッ!!
分かりました、すぐ……すぐに戻ります!
( 大量の本は、周囲の音を吸収する。同じ空間にいるはずだというのに、ギデオンがあの化物を引き付けてくれている音を少し遠くに聞きながら、最初に手にしたのは乙女座神話を取り扱った歴史書。その柘榴を食べるペルセフォネの挿絵の頁から落ちた紙片には、“狼にたべられた女の子”というこれまで通り。終わりの見えないヒントが踊ったかと思うと、手に取る隙もないまま、黒い焼け焦げとなって木製の手摺に何やら文章が焼き付く。
『世界一素敵な人を見つけた! 私の運命の人!』
そんな一説から始まったそれは、禍々しい見た目とは不似合いな、可愛らしい恋の日々を綴ったもののように思えた。──慣れない新天地への不安、そこで素敵な男性と出会った喜び、彼に見せてもらった素敵な世界。次々とヒントを追うたび、白い頁や床、よく磨かれたテーブルに焼き付く節はしかし、その内容が進むにつれて不穏なものとなっていく。
『どうして、剣向けてるの……?』
どうということはない、確かに気分の良いものではないが、よくある純朴な少女が悪い男に遊ばれ捨てられるまでの、どこにでもある陳腐で不快な話……の、はずだった。「ギデオン・ノース……って、」その悪い男の親友、双子剣士の片割れ、親友の暴挙を強く止めなかった薄情な男の名前が、ビビの良く知る相棒のそれでさえなければ。
その瞬間、手に持っていた黙示録の四騎士について書かれた本から、これまで十数枚も集めてきた紙片が、“世界の終わり!!”“世界の終わり!!”“世界の終わり!!”と何十枚、何百枚とバラバラと落ちて、十二年前この館で何が起こったのか、ヘレナの怒り、悲しみ、苦しみが、壁という壁、床という床を黒く染め上げていく。そこでやっと、こんな急を要する事態に、明らかに怪しい文章を読みふけっていた異常性に気が付けば、思わず本を取り落とした瞬間、部屋どころか空間を焼き始めた黒の浸食が更に早まり。──よくわからないけど、これに触れたらまずい。そう語りかけてくる本能に慌てて周囲を見渡せば、奥の部屋に続く扉の前に置かれた騎士の像と同じものが、部屋の各所にあと三つ点在していることに気がつき。取り急ぎ、ビビの一番近くにあったそれを掻き抱いて、ギデオンと髑髏の対峙する半地下部に飛び降りれば、最初から設置されていたものと線対称の位置に据え置きながら、赤い馬の騎士像近くにいるギデオンを振り返って。 )
分かった! 分かりました!!
四騎士ッ……そこの騎士の像とれますか!?
…………ッ、
(ヴィヴィアンを探索に出すや否や、別方向へ抜ける隣の通路に入り込み。荒い息を鎮めながら魔剣を引き抜くと、その切っ先にバチバチと魔素を纏わりつかせる。音の派手さの割に別段大して威力のない、言わば虚仮威しの小技だが……はたしてこの場合は、存分に効果を発揮してくれるようだ。先ほどまでいた通路を駆け抜けた巨大髑髏は、突き当りに激しくぶつかり、周囲を物々しく揺るがした後。ズズズ、と方向を切り替えて──破裂音を響かせているギデオンの方に動きはじめた。そうだ、それでいい。ずっとこちらを追ってくれ──俺にだけ食いつき続けろ。祈るような目を迫りくる怪物に据えてから、ギデオンもまた、踵を返して走り出す。戦士の持久力に飽かせて、本の森を縦横無尽に駆け巡り、ヴィヴィアンのいる辺りから離れた方角へ怪物を引っ張っていく。──まさかその過程で、この異空間のおぞましい真相の一端に彼女が触れているなど、この時は夢にも思わない。
異常が起こったのは、それから十数分後のことだ。半地下の書庫に怪物を引きずり降ろし、上手く誘導して壁にめり込ませたその一瞬。ギデオンもまた、荒い息を吐きながら、上階の壁をじわじわと這いのぼる黒い魔素の塊を見た。いったい何が、と見開いた目を、しかしヴィヴィアンの声が聞こえた方にさっと振り向かせ。考えるより先に、熱く火照った身体を動かす──赤い騎士像を取るより先に、周囲の本棚を引き倒して、間に合わせの障害物を築く。ヴィヴィアンの声が聞こえたなら、怪物は彼女をも再び襲いかねない。案の定、赤黒い闇の眼窩は彼女の方に向こうとしている。その先の最悪の事態は絶対に避けるべく、髑髏の動向に注意しながらも赤い像を抱え上げると、大声で指示を仰ぎ。)
これかっ……どこに置けば──
(──ところが、そうして協力する暇すら、この状況では与えられなかった。物凄い音がしたかと思えば、崩れた本棚を跳ね飛ばしながら、再び髑髏が襲い掛かってきたのだ。ギデオンが咄嗟に飛び退らなければ、いつぞや退治した悪の警察署長同様、頭を噛み砕かれる最期を遂げていただろう。心臓を激しく打たせながら、こめかみの汗を拭う間も惜しみ、魔剣を突き上げて一発。派手な音と光を伴う雷魔法を撃ちあげ、怪物を一瞬怯ませると。赤い騎士像を放り投げ、床を激しく滑らせて、ヴィヴィアンの方に引き渡す。この時、背面の地下の壁にまで黒い浸食が下りてきているのに気付いたが、それには言及しなかった。言えば彼女は、こちらを援護しようとここにとどまってしまうだろう。突破口が見えているなら、相棒に任せた方が早い。そうして出口の開錠さえ果たせれば──彼女だけでも、無事にここを出られるはずだ。そう信じて、喰らいかかってきたしゃれこうべを再び奥に引きつけると。上階の状況を思い出し、望みをかけた助言を叫んで。)
他のも頼むッ──サラマンダーを使え! ……あの黒い魔素のせいで進めない場所も、……ッ……そいつの聖火なら、一瞬は焼き払えるはずだ!
……はいっ!
( 自分の声に気をとられた相棒の背後へ、巨大な骸が喰らい付く。その光景に思わずそちらへと駆け寄ろうとして、勢いよく此方へ滑らされた石像と、真剣な叫び声に自分の役割を思い出させられれば。自らも覚悟を決めた表情で、黒い魔素の降る廊下を再び駆け抜け、件の化物に怯えながらも、勇ましく火を噴くサラマンダーと協力し、とうとう最後の騎士を台座に据えて。そうして響いた開錠の音に──ギデオンさん! と明るい表情で振り返るも、その黒い魔素が今にも、ビビの大事な相棒に迫っていることに気付いてしまえば、今度こそその衝動を抑えることなど出来なかった。その時ビビの視界に映ったのは、ギデオンの逃げ道を塞ぐ目障りな骸と、その遥か頭上に輝く巨大なシャンデリア。その巨大な質量を支えるワイヤーの太いこと──それでも。気味の悪い魔素が、シャンデリアを吊るす天井まで届いて、その根元をジワジワと侵食している今ならば。崩れ行く空間にビビが得意とする火旋風の詠唱が響いて、ミスリル製のワイヤーが物凄い音を立て引きちぎれた瞬間。轟音と共に落下したシャンデリアが、巨大なしゃれこうべを押し潰し、ビビの風魔法による突風が、飛び散る破片からギデオンを守った所までは良かった。しかし、骸による度重なる衝撃と、魔素による浸食も相まって、とどめを刺された半地下の床が崩壊し、空間ごとバラバラと崩壊し始めると。落下地点から離れていたことで、未だ少し残っていた足場を強く蹴ると、ギデオンの方へ手を伸ばして。 )
──ギデオンさん!!
(とうとう追い詰められたギデオンが、飛び散る本で切った額から赤い血を流しながら、覚悟を決めて魔剣を構えたその瞬間。邪悪なものを打ち破るように、高らかな詠唱が響き渡り。思わず見開いた目を上げたそこ、上階の天井から。物凄い量の水晶が──巨大なシャンデリアが──真っ逆さまに降り注ぐ。かくして、ギデオンを喰い殺そうとした死の怪物は、目の前でいとも呆気なく圧壊する最期を遂げた。そこから矢のように飛び散る破片も、突然起こった清かな一陣の風に攫われて、煌めきながら消えていく。魔剣を下ろしたギデオンが、無言で上階の相棒を見上げ、安堵の表情を滲ませながら、ようやく礼を言おうとした……時だった。突然激しく揺れる足元、そして奈落に吸い込まれるようにボロボロと崩れていく床。ガラスの山も、押しつぶされた骸も、周囲に散らばる無数の本も、薙ぎ倒された本棚も、そしてギデオンも。皆、突如始まった大崩落に、為すすべもなく落下し始めた。)
──ッ……──掴まれっ!!
(バランスを取りきれず、振り仰ぎながら落ちていくギデオンは、しかしそれを見た──見てしまった。せっかく出口の鍵を開けた若い相棒が、しかし己の安全など省みず、こちらにまっすぐ飛び出してくる姿を。ギデオンの顔が思わず苦悩で顰められたのは、それでもごく一瞬のことだ。馬鹿、何故こっちに、などと責める言葉は、懸命に手を伸ばすヴィヴィアンの表情を見てしまえば、口を突いて出る筈もなく。故に、力強く呼びかけながら相手の手をがっちりと掴むと、彼女を抱き寄せる勢いでぐるりと反転し、見えぬ地底を睨みつけた。
──腕の中の女性だけは、ヴィヴィアンだけは、己の命に代えてでも、絶対に守らなければ……! その一心が、ギデオンの心の臓を早鐘のように打たせていた。魔法の才能は間違いなく彼女が上だが、このような死線を潜り抜けてきた場数なら、ギデオンのほうが遥かに優る。故に相手を胸元に抱き込み、薄闇を注視し続けて、いよいよ底が見えてきた刹那、青い目をかっと見開くと。掲げた魔剣から次々に雷魔法を撃ち放ち、その反動を利用して、周囲の瓦礫を次々に飛び交う。空中をジグザグに動き、その最中にほんの少しでも停止時間を作ることができるなら、それで勢いを殺していけるはずだ。そうして最後に一発、特大の雷魔法を地底に向かって叩きつけ、落下死一直線だった勢いをどうにか相殺してみせる──そこまでは上手くいったらしい。しかし、大して魔力量のないギデオンでは、それが最後の悪あがきだったようで。真っすぐ叩きつけられずに済んだ身体は、雷魔法の爆発の勢いに乗って横ざまに吹っ飛んでいく。これで落ちても死にはしないが──と、自傷要因になりかねない魔剣をすぐさま放り投げ、ヴィヴィアンの頭や背中をよりいっそう、ぐっと抱え込んだのは、もはやほとんど無意識の動作。はたして天が味方したか、それとも腕のなかのヴィヴィアンが咄嗟の魔法を放ったか。幸いにも危険な落下物の転がっていない地面に、どっと背中を打ち付けると、地底の端までごろごろと転がっていき。他の瓦礫が次々地面に落ちて砕ける音を遠く聞きながら、ギデオンの意識は、暫しの間暗転した。
次に意識が浮上したのは、果たして数十秒後か、それとも数十分後のことか、いずれにせよ、辺りが静まり返った後のことで。未だ頭の奥がずっしりと重いまま、赤く濡れた瞼を震わせつつ、ようやく目を覚まし。)
……
──…………
ギデオンさん、ギデオンさん……!
( ──どれ程の高さから落ちてきたのか、その天井も見えない程の暗闇の底に、相棒の名を呼ぶ女の悲痛な声が響く。その必死に語り掛ける腕の中、ぐったりと気を失ったギデオンを見下ろすヴィヴィアンの表情は、酷い恐怖と深い悔恨に濡れて、大きな緑色の目から零れ落ちる雫が、血の気を失った頬から首筋を流れ落ちて、赤いシャツに染みを広げていく。幸い、着地の寸前に、ビビが放った突風がさらった地面は、危険な破片や金属片こそ二人の周辺には落ちていないが──……こんなもの。あの時、落下しゆく相棒めがけて飛び出したのは完全に無意識で。それが招く結果など一切考慮出来ていなかったどころか、ビビがまごついていた間にギデオンが放った魔法のお陰で何とか生きてはいるものの、自分の考えなしの行動がこの人を危険に貶め、今この瞬間その命の灯さえも脅かしている。どうしようもない自分に対する怒りのまま、その拳を力いっぱい握りしめようとして、思わず顔を顰めたのは、左手に走った激痛のためで。「……ッツ! ……………、」どうやらアドレナリンの放出で気づくのが遅れたが、落下の瞬間。せめて相手の頭だけは守ろうと、ギデオン同様無意識に差し出した左手だけはその仕事を全うして、何より大切なこの人が岩肌むき出しの地面に頭を強かに強打することだけは防いでくれたらしい。青黒く変色して腫れあがり、心臓の鼓動に合わせて、ズキリ、ズキリと主張してくる痛みに、自分の仕事を思い出し幾らか正気を取り戻すと、無事な方の右手でぐしぐしと顔を拭い、白い顔をしたギデオンに向き直る。そうして、繊細な脳細胞に神経を張り巡らせ、祈るような気持ちで、これまでの深い付き合いでギデオンには効くと分かっている自分の魔素を流し込むこと十数分。今度その少しかさついた頬に落ちた雫は、神経を張り詰めたことによる疲れか──……これは、骨までやったかも。時間がたっても治まるどころか、増しゆくばかりの痛みによるものか、兎に角その表情に浮かんでいたのは既に無力な涙ではなかった。それから更に数分後、きつく閉じられていた瞼が震えて、大好きなアイスブルーが覗こうとしたその瞬間──「……! ……ぃ、……ォンか?」その目を凝らしてもよく見えない暗闇の向こう。横たわるギデオンと対角線上であるビビの背後から上がった男の声に、相棒をかばう様にして振り返れば、強い警戒の浮かぶ双眸を暗闇の向こうへと差し向けて。 )
──誰。……この人に近寄らないで、
(──男がそこに現れたのは、本当に偶然のことだった。この呪われた十三年間、彼は一度とて、己を愛する“彼女”から自由になれた試しがない。せめて正気を保つべく親友の名を呟けば、それだけで“彼女”の激しい逆上を買い、ますますきつく縛り上げられた。その“彼女”は今、館に迷い込んだ新たな人間の血を啜るため、どこかを隠れて動き回っている。その間に逃げ出したりしないよう、男は地下深くの“とっておきのばしょ”に幽閉され、魔法の鎖で雁字搦めにされていた──筈だった。それが、不意に弛んだのだ。先ほど、館の多くのフロアが激しく損壊したことで、母体である“彼女”自身も傷を負って弱ったらしい。もっとも、十三年も支配されて弱りきった男には、そんな理屈など想像する由もなかったが。とにかく、封じられていたはずの手足が、ぴくりと動くのに気がついた。己の思うように動ける、そうわかっただけで、起き上がり、歩き出すには充分だった。とはいえ、彼女から本当に逃れられるという望みなど、とうの昔に潰えている。いずれは“彼女”に見つかって連れ戻されるだろう。それまででもいい、この束の間の自由を味わいたい。次はまた何年後になるのかもわからないのだから。──そう思って、目的もなく、真っ暗な地下道をただふらふらとさ迷っていたのだ。
その歩みが静かに止まった。男の濁った琥珀の瞳に、突然、失われたはずの生気が波のように立ち戻った。今や人間とも言えない身に堕ちてしまっている彼は、常人に比べ夜目が利く。だからその視線の先、崩落現場に倒れているひとりの男の横顔を見て、思わず根が生えたように立ち尽くしたのだ。彼の手前では、傷だらけの、特に左手が痛々しく腫れた女が、彼を庇うようにしてこちらを強く睨んでいた。だが男はもう一度、もはや忘我の境地で、彼女の奥にいる見覚えのある男の名を呼ぶ。「──そこに、いるのは……ギデオン……なのか?」。信じられない思いだった。都合の良い夢かと思った。記憶に残る姿より、随分ぼろぼろで、少し老いているようだったが──この十三年間、自分の心を繋ぎ止めてくれていた、自分の親友に違いなかった。)
……敵じゃない。頼む、攻撃しないでくれ。
──そいつと君を、僕にも……手当させてくれ……
(震える声で呼びかけながら、少しずつ近づいて。女の傍らに膝をつき、ぼうっと虚空を眺めている剣士の男を覗き込むと、額に貼り付いた前髪をそっと避けて、その顔を今一度確かめる。間違いない、ギデオンだった。喉が激しく震えて、声にならない嗚咽が漏れる。だが、呑まれる場合ではなかった。ギデオンも、彼の仲間らしいこの娘も、酷く傷ついているようだ。あの物凄い落盤の音を思い出せば、ふたりとも生きているのは奇跡に等しいだろう。「……じっとしていてくれ、」娘の目を見てそう頼み込みながら、骨ばった青白い片手を翳す。途端に手の甲に浮かび上がるのは、禍々しい紫に光る、悪魔の魔法術式だ。だが問題ない──自分の魂を削り取れば、このふたりに代償を支払わせるようなことにはならない。伊達に十三年間も、悪魔の眷属をやっているわけではないのだ。
そうしてギデオンに、次いで彼女に、悪魔ならではの治癒を施す。ギデオンはまだぼうっとしているが、じきに五覚を取り戻すだろう。娘の方も、おそらく温室前にある“例の部屋”で浸食されていたようだが、手の腫れを引かせるついでに、少しは邪気を取り除いてやれただろうか。悪魔の左手を漸く下ろすと、そばに転がっている木片を黒い鉤爪で引っ掻いて火種をつける。やがてパチパチと燃え上がり始めた焚火は、自分の姿を鮮やかに照らし出すだろう。癖のある黒髪、痩せた顔つきとそばかすの散った頬、琥珀色の瞳──そして、真っ赤な血の色に染まった白目と、鋭く尖った狼のような牙、頭から突き出るヤギの角、蹄の足に矢のような尾。どこからどう見てもなり損ないの悪魔だが、自分の心は未だ人間であることを、この娘はわかってくれるだろうか。)
…………君たちは、どうしてここに。
…………、
( 最初は自分たちと同じ、この奇妙な館に囚われた被害者だと思った。しかし、他でもない相棒の名前をはっきりと口にした男に、その正体を図りかね、胸の前で魔杖をしっかりと握ったまま。青年がジリジリと距離を詰めてくるのを許したのは、それでも、その慎重な脚運びに、よくよく見なれた……自分とて叩き込まれた、同業者のそれらしいものを認めたからで。男が何かしようとすれば、すぐにでも杖を振り下ろすつもりで、その膝をつく背中に、疲れきった視線を視線を向けていると、とうとう咽び泣き始めた彼に──……まさか、と。その唐突な天啓に説明をつけようとしたところで、冒険者の勘以上の何物でもない、そんななんの根拠も無い直感だった。──しかし、そんな……有り得ない、考えすぎよ。そう今しがた湧き上がった考えを忘れようと、薄ら微笑みさえ浮かべて、己の眉間に手を伸ばした瞬間。男の手に浮かび上がった術式に、しかし大きく反応しなかったのは、それが本物の悪魔の"それ"だったからだ。ドニーを初めとして、祓魔師達が躍起となって追い縋るこの悪鬼たちは契約を媒介として人間を窮地に陥れる。しかし、それは契約さえしなければ、大きな干渉ができないということでもあって。"この男の命を助けてやる"だろうか、それとも、"この館から助け出してやる"だろうか。どんな魅力的で甘いことを囁かれようと、悪魔との契約の全ては、最悪な結果を免れないことさえ知っていれば、退治こそ困難を極めても、この場を凌ぐくらいは──等と、矢張り味方ではなかった男に落胆し、あれこれと思考を働かせていた時だった。突如、男纏っていた魔素が膨れ上がる感触に──なんで!? 私、なんの契約も……と目を見開き、せめてギデオンだけは守ろうと、相手との間に滑りこもうとして、寧ろはっきりと。その代償を司る式が、ビビやギデオンではなく男の身に降りかかるのを目撃してしまえば──嗚呼、この男は、ギデオンさんの"親友"、十三年前夢魔に囚われたその男じゃないのか? という勘を愈々否定出来なくなってしまうのだった。
これだけ悪魔のことが知れ渡って、その悪性が周知の事実となっても尚、祓魔師の仕事が無くならないのは、悪魔の契約がその代償によって現実を超越し、絶対の不可能を可能にさえするからだ。先程まで重い痛みを放っていた左手が軽い。相性の良いビビの魔素ですら効果の薄かった、ギデオン脈拍も安定して、その安らかな呼吸が、一先ずの窮地が過ぎ去ったことをありありと伝えてくる。それでも念には念を入れて、いつの間にかビビの懐に潜りこんでいた聖幼竜を、ギデオンの番につかせれば、焚火に浮かび上がった男の姿へ言及する前に、まずは深々と頭を下げて。 )
…………助けていただいてありがとうございます。
それは……治療をしながらでも良いですか、貴方の。
( そうして相手の質問に答えようと視線をあげ、その身体のあちこちに鎖の擦れたような長年の痣や、悪い魔素の溜まった箇所を見つけてしまえば、其れを無視して話を進めることなど出来ずなかった。悪魔へと変質しつつある身体に、聖魔法がどう作用するか分からないため、簡易的な応急処置にはなるが。許可を得られれば丁寧に手当をしながら、ここに来た経緯を仲間内でやる状況報告の形式で手短に共有すれば、その最後に気まずそうな表情で首を傾げて。 )
…………貴方は、その。アーロン、さん、なんですか?
(こちらの傷を癒していく娘の、静かながらも明瞭な語り口を聞いて。その無属性の魔素が優しく染み入るのを感じながら、琥珀色の目を一瞬虚空に投げかける。──遠い記憶が、甦る。この聞き馴染みのある報告、そうだ……かつては自分も、陽向を駆け回る冒険者だった。仲間と共に魔獣を倒し、気怠げにすかした悪友と幾度も背中を預け合って。ああ、でも。あの頃の自分たちと少ししか変わらぬ年頃に見えるこの娘に比べて。身体の回復機能を急激に上げたからだろう、再びまどろんでいる彼女の隣の男は……随分歳をとってやつれたように見える。それほどの年月が過ぎたのか。もう随分と、生を失ってきてしまったのか。──薄い点の散った目元を、思わず複雑に翳らせたが。話をすぐにまとめた相手が、おずおずと問いかけてくれば。その気まずそうな顔に、ふっとその空気を和らげるような微笑みを浮かべる。──ともすればそこには、異形に変わりつつあって尚、往年の爽やかさがちらりと仄見えたかもしれない。)
……僕のことはギデオンから? いや、その様子だと……“図書館”のほうで知ったのか。
それなら……そうか。こいつは……僕の名を守ってくれたんだろうな。
(そうしてやんわり認めてから、ぽつぽつと語り始めたのは。自分とギデオンの繋がり、今の自分が何故“こう”なっているかという話で。──自分とギデオンは、同期の剣士同士かつ、駆け出しを支え合う相棒関係だったこと。しかし十三年前、ある事件を引き起こした悪魔との戦いで、全てが狂ってしまったこと。あの時自分は、ギデオンを逃がす代償として、女悪魔に傅く選択を取ったこと。以来、彼女の眷属としてこの“館”に幽閉され、年々悪魔に近づいていること。そう、先ほどふたりを癒した異能も、元は“彼女”から与えられる折檻の傷を癒そうとして身につけたものだ。つまり、ここで過ごして長い自分は、“彼女”の思惑から逸れる術を少しは知っている。眷属の繋がりを持ってしまった自分には無理だが、ギデオンと相手なら出られるかもしれない扉も、幾つか心当たりがある。その話に及んだ時だった──遠い闇のどこかから、地を這うような女の呻き声が、突然長々しく響き渡る。同時に、くぐもるような地響きと揺れが起こり、頭上の鍾乳石がぱらぱらと屑を落とし始めて。「……もう気づかれたか、」と諦めたように笑いながら立ち上がると。再び翳した左手は、横たわるギデオンと傍らのヴィヴィアンの下に、紫色の魔法陣を召喚し。)
──上に飛ばす。青い絨毯の敷かれたフロアのどこかに、誰かが最期に作り上げた、ナナカマドの樹の扉があるはずだ。
その辺りは聖属性が漂っているから、僕以上に、“彼女”も近づくことができない。そこからならきっと無事に出られる……だから、頼む。
そいつを──ギデオンを。ここから、連れ出してやってくれ。
( 十三年前、この館で起きた悍ましい事件の真相。それは信じ難いほど悲惨で救いようが無く、しかし、それを語る目の前の男の風貌を……当時ギデオンと同年代だったはずの男の成れ果てを。この目ではっきり捉えてしまえば信じざるを得ないだろう。──……背中を預けた相棒を失い、罪のない子供を巻き込み、誰より優しいギデオンは、どれだけ深く傷つき、一人助かってしまった自分を何度否定したのだろう。その苦しみの一部でも代わってやれない悔しさに眉尻を下げ、爪の鋭い手を手当する其れを一度止めると。まるで宝物でも触るかのような仕草で、相棒の透き通った金髪の下に浮かんだ汗をそっと拭ってやる。
昨晩から続く事態は決して良いとは言えないが、もしかしたらこれは、事件から十三年たった今も、己の幸せを進んで手放そうとするギデオンを救い出せる好機でもあるのかもしれない。その抑えきれない期待を胸に、エメラルドの瞳を真っ直ぐにアンバーへと差し向ければ、彼の言う"扉"のことを詳しく聞こうとして、突如地鳴りのような唸り声が鳴り響き。咄嗟に杖に手をかけギデオンを庇おうとして、突如現れた魔法陣に反応が遅れた。半ば投げるようにして渡された、相棒の魔剣を何とか受けとめる頃には、二人を守るための障壁も発動し愈々手を出せなくなり、今この場でアーロンも連れて逃げることは叶わない。せめてと言い残そうと張り上げた声でさえ、その後一秒と待たず、勢いよく射出されたせいで、一人地底に残されるアーロンまで届いたかは分からなかった。 )
──……ッハイ、絶対に!!
でも、貴方のことも助けに来ますから……一緒に帰りましょう……!!
( 吹き飛ばされるようにしてたどり着いた上階では、しっかりと相棒に覆いかぶさって、今度こそその衝撃から身を守ることに成功する。それからフロアを駆けずり回り数分か、それとも十数分たっただろうか。アーロンの言う通り、青い絨毯のフロアにナナカマドの樹でできた扉も発見した頃には、意識を取り戻した相棒に、先程その"相棒"にもしたように手早く状況を共有できた。ここが十三年前の館であること、アーロンが生きていたこと、彼が逃がしてくれたこと、その全てが、ギデオンにとって好ましいことだと信じて疑わず、無邪気な笑顔を咲かせ包み隠さずに伝えると、相棒を振り返りながら、ずっと探し求めていた外へと繋がる扉に手をかけて。 )
──……だから、早くギルドに戻って応援を呼んできましょう!
(薄く目を開けても、まだ何も見えなかった。視界はぼんやりと暗く、音もまるで、水中から地上の声を聞こうとするときのように遠い。頭の奥が脈動に合わせてドクドクと痛む一方、きぃん……と静かな耳鳴りもしている。さりとて然程苦痛ではないのは、傍にいる誰かが、先ほどから温かな魔素を流し込んでくれているおかげだろう。混濁した意識では、それがはっきりとヴィヴィアンだとはわからなかったが、この人間には全幅の信頼を寄せて良いと身体が知っているものだから、ただその治療に身を委ねて。しかし、その流れが不意に止んだかと思うと、今度は別の誰かが、同じようでどこか違う治癒の魔素を注ぎはじめる。……待て。この魔素、どこかで。記憶にあるそれとは何かが決定的に変わっているが、これは──この、魔素の、持ち主は。)
……ッ、アーロンッ!
(──瞬間。その名を思い出したギデオンが、叫びながら跳ね起きたのと、出口を見つけたヴィヴィアンが戻ってきたのは、ほとんど同時のことだった。慌てて駆け寄ってきた相棒に支えられるも、まるでうわ言のように“元相棒”の名を呼びながら辺りを見回すのをやめられない。──あいつは、アーロンはどこにいる。ここにいたはずだろう、おまえの次に俺を助けてくれたのはあいつだったろう、あいつは今どこに、無事で……! そんな風に混乱をきたしているものだから、ここが落下した先の地下洞でなく、同じ館の内部とはいえ完全に別の場所であることを、すぐには理解できずにいたようで。ヴィヴィアンにまともに落ちつかせられてから、未だ表情をこわばらせつつも、この状況の説明にようやく耳を傾ける。自分たちが迷い込んでいるこの場所の正体が分かった。ギデオンが十三年前に迷い込んだあの“黒い館”と同一、つまりはとある女悪魔の根城だ。ギデオンの昔の相棒、アーロンもたしかにここに囚われていて、先ほどの崩落でたまたま巡り合うことができた。彼は悪魔の力を得ていたので、ギデオンとヴィヴィアンを逃がすため、魔法陣でここまで飛ばしてくれたという。彼の言っていた出口も既に見つけてある。だから、すぐにここから出られる──。聞けば聞くほど、ギデオンの表情がまったく動じなかったのは、逆に冷え冷えとした恐怖に蝕まれていったからだ。──あの狂った悪魔、ヘレナの巣に、自分たちは飛び込んでいたのか。そんな場所で、ヴィヴィアンを危険に晒したのか。そしてアーロンは、今もそこに囚われていて……悪魔にすら成り果てながら、ヘレナに虐げられていて……それでもなお、自らを犠牲に、再びギデオンを逃がしたのか。あの時と同じことが、また起きようとしているのか。──だが、ヘレナが自分のことを知らない筈がない。おそらくどこかの時点で、こちらの命を狙っていたはずだ。それを、ほかならぬアーロンの介入によって取り逃がした。元々狂っているヘレナが、それでどれほど狂暴になることか。今あいつを置き去りにすればどうなる。悪魔に成り果ててでも、それでもどうにか生きていたとわかったばかりの親友を──今度こそ、どうするつもりだ。
ヴィヴィアンに全身を確認されてから、ふらりと立ち上がったギデオンは。「ああ、そうだな」と、まるでいつも通りの返事をしながら、共に扉に歩み寄ると、そのドアノブをやんわりと奪った。それはさながらいつも通り、マーゴ食堂や職人街でやるような、レディファーストの仕草にでも見えたはずだ──だが、しかし。ヴィヴィアンを先に出してから、自分も軽く外を確かめ。扉の先に広がる世界が、確かに館の敷地ではなく、普段歩いている普通の森であるのを……安全な外の世界になっているのを確かめると。──素早く身を引き、聖木の扉を固く閉ざして、内側から魔法錠をかける。暫しの休みで回復した魔力で築いたそれは、カレトヴルッフの資料室にかかるそれと同じ、如何なる物理魔法も通さない堅牢な性質のものだ。そうして、ヴィヴィアンが駆け戻って扉越しに言い募ってくれば、同じく扉越しに。暗い顔をそっと寄せ、頼み込むように語り掛けるだろう。)
……ヴィヴィアン。悪いが、応援はお前ひとりで呼んでくれ。
俺は、あいつの援護に行く。
( あった、これだ……そこはビビ達二人が入ってきた玄関ロビーより随分小さな、使用人達が使う休憩室とのような空間。その扉はそこへ繋がる勝手口のような簡素な佇まいで。これを作った者も不意に取り込まれた被害者だったろうに、確かな手技で作られた聖木の扉は、こんな状況でも聖なる気を発して、夢魔はもちろん、半分とはいえ悪魔に身を堕としたアーロンも近づくのは叶わないだろう。──しかし、それは正攻法で出る時の話で、この館の主である元凶を倒してしまえば、子供達の呪いも解けて、幾らでも別の出口からアーロンを連れ帰れば良い話だ。そうと決まれば、早く応援を呼んで来なくては。そう意気揚々と、までは流石にいかなくとも、力強い足取りでギデオンを寝かせていた部屋に戻れば、先程サラマンダーと協力して張った強力な結界を順番に解いていく。そうして、その音を警戒し、細い尾をピンと立てていた幼竜が、此方の姿を見てキュイッ! と誇らしげに鳴いて擦り寄ってくるのを、「ありがとう、君がいて良かったわ」と最早定位置となりつつある肩に乗せてやりながら一撫ですれば、その瞬間。部屋の奥から聞こえたギデオンの咆哮に──ギデオンさん! と、お互い顔を見合わせ、すぐ様慌てて駆け寄ることとなって )
──無事です! 大丈夫、アーロンさんは生きてます!!
( 果たして、悪魔に身を堕とした人間が、厳密に無事と言えるかは分からないが──ビビにとって最優先事項は、相棒であるギデオンの身の安全である。一先ず今は相手を落ち着かせるべく、未だ怪我の影響残る身体を大きく捩る相手を、自分の心臓の音を聞かせるようにして、その細い腕の中に囲い込む。そのまま、いつも相手がしてくれるように、透き通った金色の頭をサラサラと撫でながら、相手の早い呼吸に自分のそれを溶け込ませると、その呼吸が深くなるまで、大丈夫、生きてますから、一緒に助けに行きましょう、と言い聞かせ続けて。そうして、相手の呼吸が落ち着いた後も、状況説明をしながら、腕や背中をさりげなく擦り続けた実感として。普段、とても強く冷静な相棒が、想像したよりもずっと酷く消耗していることに気づいて。これは応援を呼びにギルドに戻っても、ギデオンさんは休ませた方が良いかもしれない、なんて。己の不調を棚に上げ、絶対に固辞するだろう相棒を説得する算段を立て始めるも。その直後、まさか相手の方から先に締め出されることになろうとは思いもしなかった。 )
ギデオンさん……!? 駄目! 無茶です!!
開けて! 開けてください!!
( 一瞬、何が起こったか分からなかった。自分の背後で閉じられた扉を呆然と眺めて、理解が追いついた途端、ざあっと青ざめた顔で扉に飛びつく。図書室での記述に間違いがなければ、先程聞こえた声の女、この屋敷の主人は、愛しい男が名を零していたギデオンを酷く恨んで、今度こその命を奪わんとしている。地鳴りと共に吹き出した瘴気の濃度を思い出せば、人間が一人立ち向かうべき相手でないことは確かで。それでも断固反対ではあるが、せめて普段のギデオンであればいざ知らず──ビビの回復魔法で意識を取り戻さない大怪我をしたばかりで、精神的にも最悪に消耗している相手一人でなんて、ヒーラーとしても相棒としても絶対に許可できる訳が無い。そうして聞こえてきた、相棒の良くない覚悟を決めてしまった声に、力なく扉によりかかると、木製の扉が小さく軋む音が虚しく響いた気がした )
せめて、私も連れてってください…………お願い、
( 返答があったか、なかったかはともかくとして、ビビの願いが受け入れられることはとうとうなく。しかし、未だ夜明けの光届かぬ森の奥深く、絶望に濡れ呆然と立ち尽くす女の耳の横で──キュイィ? と。その耐え難く重苦しい空気を霧散させる声を上げたのは幼い火竜だ。先程から薄い舌をチロチロと揺らして、外の空気を堪能していた彼は、共に居た人間の様子がおかしいことに今更気がついたらしい。オロオロともたげた小さな頭を、頭上の木の葉から、夕刻降った雨が残っていたらしい露が穿いて。その濡れた大きな目をパチクリやる幼竜を拭いてやろうとして、何気なくてにとったのは、上等なシルクで織られた瀟洒なハンカチーフ。とても寒かった聖なるあの夜、ギデオンがくれたそれを見て──覇気なく丸まっていた背中がピンとのびて、その緑の瞳に冒険者らしい光が取り戻される。グズグズしている暇はない。あの誰より優しく、どうしようもなく頑固な相棒を自分が助け出すのだ。そうして、まずは冷静にギルドの応援を呼ぶ方法を考えるが、行って戻ってくる時間はとてもないだろう。後片付けは兎も角、やはりギデオンはビビが助け出さなければならない。そうなれば最早応援を頼める相手は一匹しかおらず。不安そうにキョロキョロと首を振る爬虫類に頼んだのは、ここよりも街にほど近い魔木が集まってる地区を燃やしてもらうこと。あの火属性の魔木は建国祭の季節、自らの身体を燃やして次の世代の糧となる性質を持つ。この時期であれば既に次の種は蒔いた後故、今代の木々には悪いが、種の絶滅は避けられるだろうし、季節には早い山火事には、ギルドの誰かが気づいて助けに来てくれるに違いない。そうして今度こそ一人で館に向き直れば、ギデオンが余計な魔法をかけてしまった扉を避けて、その壁にファイヤーボールでお見舞する。どうせならこのまま、上手く炎上してくれないかしらとも期待してみたものの、館自体が生命体なのだからそうもいかない。最早、落胆の表情を隠しもせずに、小さく空いた穴に潜り込めば、どうやら探索するうちに一周してしまっていたらしい。顔を上げたビビの視界に映ったのは、最初にこの館に入ってきた時に目にした広いロビー。コツコツとヒールが床を打つ音を響かせ、その中心に進み出れば、キッと天井を向いて声を張ったその顔に、以前のような恐怖は微塵もなく。 )
──ねえ! ヘレナ……だったかしら、どうせどこかから聞いてるんでしょう?
魔力が足りないんだったら、私のを全部あげるわ──だから、私と取引をしましょう。
(ヴィヴィアンの酷く震える声。それを聞いて尚、ギデオンの決意は頑なに変わらなかった。「お前を信じてる。……頼んだぞ」と、卑怯な言い回しで遠回しに拒絶すれば、あとは相手の声に構わず、くるりと踵を返して走り出す。冷静に考えればわかったろうに──自分のことを誰よりも慕ってくれるヴィヴィアンが、そう大人しく立ち去るわけがないと、自惚れでなく気づけたろうに。しかし、そこまで冷静さを失っていたのは、脳裏で小刻みにフラッシュバックするあの惨劇が、ギデオンの胸を激しく締め付けているせいだった。間に合わなかったあの一瞬。狂暴な夢魔の呪いが閃き、血と悲鳴が砕け散った。ぐったり動かない体、どんなに呼びかけても開かぬ瞼。死人のように青褪めた顔、今にも消えそうなか弱い脈拍。そして、未だに目覚めぬまま、時間ばかりが残酷に過ぎ去っていって──自分ばかりがのうのうと生きている。そんな恐ろしい結末に、相棒を近づかせたい筈がなかった。あの時と同じ絶望に、再び耐えられる心などなかった。13年前、否……20年以上前から続く因縁には、今度こそ自分独りで蹴りをつけなければ。あの時残してきた友をもう一度救いたい、ならば今度は、決して他の誰も巻き込まずに。
そう決意して、ギデオンは再び、無謀な闘いに身を投じていったのだった。襲い来る“館”の怪物に、魔剣一本を翳し、流れる血を振り飛ばしながら。時折不思議な助けを得られたのは、この“館”に縛り付けられた犠牲者の魂が、悪魔を討たんとする者を後押ししていたからだろう。無論、ギデオン本人は知る由もなかったが、アーロンに近づけるならもう何でも良く、貪るようにその力を取り込んだ。けれど──それは着実に、死に赴く階段を下っていくようなもの。この晩、ギデオンは確かに、ヴィヴィアンの恐れる事態へ転落していったのだ。)
(──一方、その頃。一度逃がしかけた獲物が、なんと自ら再び舞い戻ったのを知って。今度こそ逃がすまいと、“彼女”は地獄の呪詛を唱え、その悍ましい手数を増していった。“黒い館”はますます不気味に造り変わり、生き物を蝕む瘴気がどろどろと立ち込めていく。しかしいったいどういうわけか、“あの男”はなかなか倒れそうにない。あの目障りな“娘”の支援を失ったはずなのに、今度は別のなにかから力を借りているらしい。自分の体内でそんな身勝手を許すのは、己の魔力が弱りつつあるせいだと、“彼女”も否応なく気がついていた。──いいや、違う、違う! アーロンさえいてくれるなら、それだけで全てが薔薇色に満たされるはずなのだ! こんなことはあり得ない。他の男と交わらないせいで、彼との愛の巣が暴かれることなど、あっていいはずがない。けれど、大侯爵アスタロトや断罪者アラストルといった第一級の悪魔たちに比べ、所詮己はそこらの夢魔に生まれついた身。どれほど呪詛を重ねようと、本来の夢魔の能力を遥かに逸脱した魔法陣を構築しようと、その地力には限界があった。それが忌まわしくて仕方がなく、“館”の機構を幾重にも増して標的の殺害を急ぐものの、“あの男”とそれを後押しする怨霊たちは、それすら巧みに掻い潜る始末。幾度か危ういことがあり、そのたびに自衛の術を講じる必要に迫られた。そうすると、己の魔力を湯水のように使うせいで、残りの力がどんどん少なくなっていく。 “彼女”は激しい焦燥に駆られた。逆立つ黒い髪を両手で引っ掴み、猫のような目を零れんばかりに剥き、闇の中で怒りの叫び声を上げた。──その時だ。館のどこかに、異物が入り込む感触がしたのは。
聖属性の匂いを感じ、“彼女”の胸に恐怖がせりあがった。──“あの娘”だ! 数時間前、自分の魔力がまだ潤っている時なら着実に殺せたはずの“あの男”を、予想外にも生き延びさせる原因となったヒーラーだ。己の力が尽きつつある今、もし“あの娘”と“あの男”が再び合流してしまったら──また、己の最愛のアーロンに近づかれてしまったら。そう考えるや否や、“彼女”は動いた。“館”の闇を自在に滑り動き、辿り着いた先は、地上のホールの暖炉のなか。最初は姿を現さず、靴音を鳴らして進み出てくる“娘”を観察した。あちこち嗅ぎ回ったからだろう、薄黒く煤に汚れていたが、その目には強い光があり。突然こちらの名を呼んで語り掛けてきたその声にも、“彼女”にはない清廉な響きがあった。──ああ、忌まわしい、大っ嫌いだ! 思わず緑の炎となって燃え上がり、激しい突風を吹かせると、先ほどの“館”の改築で砕け散っていた幾十ものガラスの欠片で“娘”を斬りつけようとする。だが、“娘”が自衛を講じてか、もしくはそんな虚仮威しなどに少しも動じなかったか。とにかく、思ったような効果は得られず、仕方なく手を引くと、炎の姿を取ったまま、不気味な声をホールじゅうに轟かせ。──元は、最愛の人間の男に裏切られた身なのだ。どうしてこんな……自分と違って、人間として生まれつき、最愛の男に愛されてもいる、気に入らない娘の口車に乗るはずがあるだろう。)
取引──あは、取引ですって? 本物の悪魔の私によくもまあ、そんなことが言えたものね! そんな手には乗ってやらない。あんたなんかには絶対にやられない。だからさあ、出て行って、出て行って、出て行って! そうしないなら──殺してやるから!!
( 轟音が鳴り響き、突如緑色の炎が燃え上がったかと思うと、エントランス中にガラス片混じりの暴風が吹き荒ぶ。しかしこれしき、相棒を絶対に助けるというビビの信念を怯ませるには、随分と力不足だったようで。咄嗟の反射で目元だけは庇ったものの、舞い散る破片が、その白い肌を浅く赤く彩るだけで、暖炉の方へ向き直り、毅然と立つヴィヴィアンの姿勢は揺るがない。──嗚呼、可哀想に。そう、ヒステリックに喚き散らす声を耳にして、浮かんだ気持ちは決して皮肉ではなく、同じ色の炎を見つめる瞳は穏やかな色さえ浮かんでいる。──そもそも、図書室で彼女の嘆きを読んだ時から、深く同情してはいたのだ。ひたむきな想いが通じぬ痛みは自分とてよく知っていて、その上、夢魔である彼女は一途に待ち続けることすら叶わず、最後には相手からも不誠実に裏切られる苦しみはいかばかりか──勿論彼女の起こしたことは到底赦されることでは無いが、ギデオンの無事を願う強い強い心の奥で、酷く傷ついた彼女の心もどうにか救ってやれないか、と感じてしまうのは、己のエゴだということもわかっていて。務めて無表情を装いながら、声の聞こえる暖炉に近づくと、無防備に膝を抱えてしゃがみ込んで。 )
貴女を騙すつもりも、貶めるつもりもない。
……約束する、願いを叶えてくれたら、本当に殺してもいいわ。
魔力だって、人間の身体だって……私のモノ全部あげる。だから……お願い、私と契約して。
( そうして、燃え上がる緑の炎を真っ直ぐに見つめ、言い含めるように一言一言ゆっくりと宣言すれば。手が焼けて痛むのも厭わずに、揺れる輪郭を捉えるかのように空中を一撫でし。──彼女の方も、"彼"を籠絡するにあたって、親友のギデオンを殺すのは得策とは言えないだろう。再びギデオンの名を呼べば、ギデオンに不幸が降りかかる……という経験を植え付ける程度が丁度良いはずで。そのギデオンにとっての不幸の材料に、自分は中々"丁度良い"んじゃないか……なんて、内心嘯ける程度には、自分は相棒から十分に心を割いてもらった、冥土の土産はそれだけで良い。そして……出来れば、己の身を進んだ危険に晒すような真似をすれば、代わりに犠牲になろうとする人間が自分の周りにいることを、頑固でどうしようもない相棒に気づいてもらえれば上出来だ。
そうどこか寂しげに揺れていた瞳を閉じれば、次に開いた時には再び力強い光が戻って。深く傷ついている彼女をこれ以上傷つけないよう、数歩離れて両手をあげれば。杖に始まり、腰のナイフ、薬、魔法のローブ……彼女を傷つける、己の身を守る手段を、次々と手放しゆっくりと床に置いていく。そうして最後、コルセットにまで手をかけて、"契約"で人を堕落させる悪魔の本能を擽るだろう一言を投げかけたのは、完全に無意識だった )
(実のところ“彼女”は、この見知らぬヒーラー娘を、酷く恐れていたのだ。何せ、悪魔が最も相手にしたくない人種の特徴を、いくつも兼ね備えているのだから。底なしの強い聖属性を宿し、幾つもの精霊に加護を与えられている。それだけでなく、己の愛する男に愛され、けれどもそれのみを拠りどころとせず、自分自身に強い芯が通っている。──端的に言って、“彼女”とはまるで次元が違う。
ほら、現に。“彼女”が幾ら切りつけようと、あの娘は身じろぎひとつしやしない。それどころか、敵意や嘲りなど窺えない、深甚な色の双眸で、こちらをまっすぐ捉えてくる。エメラルドの視線に縫い留められた“彼女”は、炎の身をびくりと竦ませ、娘が一歩一歩近づいてくるのを、灰の上から呆然と眺めた。何故そんな風にしたのか、“彼女”自身にもわからない。逃げだせば良いものを、或いは迎え撃てば良いものを。しかしヒーラー娘のほうは、ただそこで揺らぐだけの“彼女”に、杖先を向けることもしなかった。それどころか、まるで傷ついた犬猫の前でそうするようにしゃがみ、静かに語りかけてきて。しまいにはその手が、熱に炙られるのにも構わずに、こちらを労わるように伸び。その瞳に、寂しそうな弱みの色すら織り交じる有り様だ。
並の悪魔ならば、そこできっと、“彼女”とは違う反応を示しただろう。相対する人間の娘の、慈愛に満ちた行動や、付け入る隙をみすみす見せるようなまなざしを……挑発や侮辱として受け取り、馬鹿にするなと怒り狂ったか。或いは、悪魔なんぞに馴れ合いを求める大馬鹿者だと、心から笑い飛ばしたか。だが“彼女”は──“ヘレナ”は。人間なんぞに憧れる、悪魔のなり損ないだった。およそ二十年前、地獄の道義に外れるとわかっていながら、それでも“彼”に恋をして以来、ずっと。“彼”と同じになろうと足掻いて、しかしどうしてもできなくて。“彼”と同じでなければ“彼”に愛してもらえない、ならば“彼”の方をいっそ、自分の眷属に変えてしまおうと踏み切って。──ああ、けれど。この黒い館で、どれだけ地獄の異能を振るい、どれだけの人間の魂を喰らおうと。それは結局、ヘレナ自身のいちばんの望みでもなかった。とうに狂っていても、心の底では知っているのだ。このやり方では、アーロンの心など永遠に手に入らないと。そんな痛みを抱える自分に、娘はまるで、人間扱いするかのような労わりを差し向けてみせた。そして言うのだ。──願いを叶えるなら、私の身体をくれてやる。だから契約してくれ、と。)
……どちらが、悪魔かしらね。
(力なく、自嘲気味に呟くが早いか、緑の炎をふっと掻き消し、暖炉をぽつんと闇に沈め。次いで、まだ夜更けの暗さに沈んでいるホールの窓が、一瞬の稲妻でぴかりと光り……ゴロゴロと雷鳴が轟くなか、無防備な娘の視界に、己の影が長く伸びる。娘がこちらを振り返ればそこには、歳の頃がそう変わらない、若い女が立っていることだろう。──艶やかな黒い髪、金色の猫のような瞳、幼げな顔立ち、真っ黒なゴシック調のワンピース。まだ表情は硬く強張っているものの、夢魔としての姿をついに現したのは、この娘をある程度信用することに決めたから……そして虚勢を張るためだ。こつり、こつりと、厚底のヒールを鳴らして、先ほどの彼女のように一歩ずつ歩み寄るのも、対等な関係を自分に言い聞かせるための儀式。そうして、三歩ほどの距離にまで近づいて向き合おうと。長く尖った五指の黒爪、血の契約を交わす時に使うそれを、わかりやすく翳してみせ。)
あたしは、今すぐ力が欲しいの。
だから前払いに、あなたの魔力を。……それで“彼”を今度こそ手に入れた後、あなたの身体もくれるっていうんなら……いいわ。本気で契約してあげる。
──そっちの望みは。
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