匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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( 今晩の宿をギデオンから、当初夕食付きの宿を取ってあると聞いた時、ビビが想像したのはよくある飲み屋の上に簡素な部屋だけがついた安宿だった。少々階下が騒がしいのは難点だが、それなりに経済的で冒険者には馴染みの深い様式を、キングストンに帰るまでの中休みには丁度良い塩梅だと勝手に納得していたものだから。見知らぬ土地をキョロキョロと、目に映るもの全てを新鮮に楽しんでいたビビの視界に、その客を呼び寄せる気を微塵も感じさせない高級な門構えが飛び込んで来た上、その垂れ下がった幕の奥へと他でもないギデオンにエスコートされてしまえば。素直にぽかんと口を開けて、たっぷり数秒ほど呆けてしまったのも実際仕方の無いことで。
どうやって客を管理しているのか、ギデオンとビビを見るなり帳簿などは一切確認せずに、「いらっしゃいませ」とにこやかに微笑んだ女将に通された室内は、異国のそれでも、一目で上等だとわかる調度で嫌味なく整えられ。そのまま一通りの設備を最低限の言動で説明した後、「ごゆるりと」と、そのスライド式の扉が締められるまで、女将の視線には此方の関係性を勘繰るような色さえ、個人的な感情合切は微塵も浮かべられなかった。最近気が付き始めたのだが、意外と過保護なギデオンのことである。これがただ高級な宿であったら、ビビもどう平等にここの支払いを片付けるかを考えつつ、ごくごく自然に受け入れたろうが。この宿はこれまでビビが慣れ親しんできた首都の高級ホテルともまた違う、酷く、酷くプライベートで、外界の分断を強く感じさせる空間にそわつくも。岩魚をメインにした上等な食事に、ビビ好みの興味深い話題、そして、極めつけに香り高い花酒の香りに包まれると、当初抱いたはずの違和感が次第に霧散しゆくのは、果たして偶然のことだったのだろうか。
独特な作りをしたこの大厦は、一度部屋に入れば完全なプライベート空間として、食事の間からベッドのあるへ部屋、そして贅沢にお湯を張った浴室まで、他の客どころか、従業員とも此方から呼ばない限り顔を合わせることが無い作りになっているらしい。故に食事前に良い香りのする木のバスタブで旅の疲れをゆっくり癒した後は、これも東洋のものらしい白いアイリスが眩しい紺色のガウンのまま、ゆったりと食事を楽しむことにして。 )
それ、は…………、
( 花酒の盃をそっと置いた娘の濡れた赤い唇から、ほう……と、心底困ったような吐息が漏れたのは、夜空を見上げたギデオンが問いかけた時だった。『必要なことは、俺がちゃんと済ませておく』その宣言の言葉通りに、病室で迎えたあの日以降、ビビはギデオンからずっと……ずっっっと、世話を焼かれ続けている。自らの行為の後ろめたさに、とうとう取り返せずに諦めた治療費の請求書を始め、インバートフトでの一泊だって、歩くビビの腰にごくごく自然に腕を回して支えながら提案されたその時点では、本当に心配性なんだからと内心笑えていたのに。この宿場町へ、御者の到着を伝える声が響いた時に、己が酷く疲れていることを自覚してしまえば、いっそ恐ろしささえ感じてしまって。
今だって、当然の如く解されてから渡された魚に、流石にここまでされる必要は無いと思う理性だってあるにも関わらず、その宝物を扱うような振る舞いを嬉しく感じてしまう自分に、何か不可逆の恐ろしい変化を感じ取れば。──あくまで、ギデオンさんは病み上がりだから心配してくださっているだけなのに。そう、星を見る男の視線とは裏腹に、植物で編まれた絨毯(?)の上へと、不安げなエメラルドをさ迷わせると。いつの間にか、ガウンから覗くうなじまで桃色に熱を持った肌を、その頬をもちりと首を傾げて押さえれば。ビビより余程酒精には強いだろうに、何やら酷く満足気なギデオンの様子に、困惑に潤んだ瞳をしっとりと向け。 )
ギデオンさんさえ良ければ……構う、ことは、ないですけれど。
あのね、そんなに甘やかされたら、1人で生きていけなくなっちゃいそうで、
それは、その、困るわ……。
…………。
(『困るようなことなのか』──そんな台詞が、いやに冗談味のない声音が、思わず口を衝きかけたものの。
いつぞやの小さな焚火の傍とはちがって、今宵のギデオンは冷静だった。故にその薄い唇を、かすかに開きかけたそのまま。──違う、だとか、まだ時機でない、だとか。一瞬さ迷った青い視線を、澄んだ星空から庭先の闇へ引き下ろす。そうして、立てた片膝にあずけた手元で、酒杯を揺らすふりに興じてみせることしばらく。……姿勢だけは相手のほうに軽く傾け、如何にも寛いでみせることで。別におかしなことを言ったわけではないのだと、相手を安心させられるだろうか。
幸い辺りの草叢では、初夏の虫がよく鳴いていた。りぃ、りぃ、りぃ、りぃ、りるるる、りりりり……。その絶え間ない弦の音色の美しさは、会話のあいだの静けさを彩るのには充分だ。──ああ、そうか、と。古今の人々がこの一室で夕餉を囲んできたわけが、不意にわかったような気がした。思わずふっと苦笑が漏れる。まさか、こんな形で最後列に加わるとは。……だが結果的に、ここを選んで正解だったというわけだ。
そうして余裕ができて初めて、ようやく膳越しに隣を向いた。今ならようやく落ち着いて眺めていられる、髪を結い上げた軽装美人。そのその湯上りのまろい頬は、尚もいじらしく染まっているし、こちらを見つめるエメラルドときたら、恥じらいの湿り気をとろんと帯びたままである。──その上、あんな殺し文句まで囁いてくるときたのだ。これで病み上がりでなければ、己はどうしていたろうか。
可笑しさに喉を震わせながら、「困るようなことか?」と。今度こそその台詞を、だが随分と軽い口調で投げかけた。あれこれ楽しげに口にするのは、過去の出来事──もとい、思い出。その流れでふと思い出したように、青鈍色のガウンの片側を軽くとはだけさせ。相手にも見えるようにと、首を斜めに傾けて伸ばしながら、己の右肩の古傷を晒し。)
このくらいでそんな顔をしてくれるな。おまえだって、今まで散々俺を助けてくれてたろ。
風邪を引いて倒れてたとき、腰をがっつりやったとき……ああ、それから。
──ここに喰らったやつにしたって、おまえなしじゃ、俺はもうとうに生きていないぞ。
ひゃ、~ッ、
( 耳を疑うほど情熱的な台詞を吐く目の前の美人は、今日だけではなくここ最近、何故かずっと、ずっと上機嫌に見える。そのままおもむろに、己の前襟をはだける仕草も、あまりに艶然として、何かいけないものでも見てしまったようで。それこそ、今まで何度も治療で見ているだろうに、堪らず悲鳴をあげながら赤い顔をぱっと両手で覆い隠すと。「しま、しまって、ください……」と懇願する声の弱々しいこと。嫌なわけでも、相手が怖い訳でもない。ただひたすらに、己の未熟さが、向けられる視線の甘さが恥ずかしくて。ふたりと外の世界を隔てるものは、薄い紙製の扉一枚だと云うのに、空間の特殊な性質上か、もっと大きな乗り越えられない何かに分断されてしまったかのように感じられて、急に心細い想いにかられると。かといって助けを求められる相手は、今自分を追い詰めている相手しかいないのだから皮肉なものだ。そうして、それまでぴんと背筋を伸ばして、真っ直ぐに座っていた脚を崩し、左手は未だ火照った顔を半分隠したまま、右手でギデオンの襟元をそっと正すと、 )
違うんです……
( そう必死に頭を横に振りながら思い浮かぶのは幼い頃、未だ何も知らずに自由に振舞っていた時代のことで。忙しい父を引き止めては、構ってくれなきゃ嫌だと駄々をこねる度、優しい父は表立って嫌な顔をすることはなかったが、どれだけ困らせてきたことだろう。あれから、年月が幾年も流れても、自分が本当に求めるものが幼少期から大して変わっていないことは薄らと自覚している。寂しいのは嫌、毎日無事に帰ってきて欲しい、食事を一緒にとって欲しい、たまには寝るまで手を繋いで一緒にいて欲しい……お金や特別なプレゼントが欲しい訳じゃない。だからこそ、お金で解決できない。忙しい相手に、子供みたいな駄々をこねる自分を想像して、ぞっと顔に集まっていた血の気を一気に散らすと。それまで顔を抑えていた左手も下ろして、両手を胸の横でぐっと握ると、良い言葉が思いついた、と少し満足気な、得意げな表情でギデオンに説明して。 )
私、すっごくワガママだから! 甘やかしちゃダメなんです……!
きっと、もう、どんどん我慢出来なくなって、すっごいお願いしちゃうから……ね? 困るでしょう?
…………。
(甘やかしちゃ“ダメ”、だなんて──しかもそれを、自分は正しく自覚できたとでも言わんばかりの表情で。先ほどまで愉快気に寛いでいたギデオンの面差しは、ほんの一瞬かすかに曇った。……あれは去年のいつごろだったか。『シャバネ』で聞き込みを終えた後、魔力切れで震える指を、彼女は必死に隠そうとしていた。あのときとどこか同じに見えるのは、はたして己の気のせいだろうか。
薄青い視線を外し、しばし思案を巡らせる。しかし数秒と経たずに、無言の手酌を注いで呷り。杯を置き、ひと息ついたその口で、相手をまっすぐ見つめながら、ごく静かな声を返す。「ああ、そうだな。“困る”、だろうな」。……しかしその目の奥には、文脈にそぐわぬような、優しい光が込められていて。)
……俺は、てっきり。そうやって困らせあうのが許される関係に、なれたものだと思っていたが。
おまえのほうは、違ったか。
……俺の勝手な、思い上がりだったか。
(そうして、相手の答えを待たずして手を伸ばし。絡め取った相手のそれを、卓の上にゆるりと下ろせば、ごくやんわりと、上から重ねる。今から交わすこの話は、ここだけの秘密にするとでも言いたげに──或いは、答えないなんてことは選ばせないというように。)
なあ。俺に、惚れた女の望みのひとつも知らない、なんて不名誉を着せるつもりじゃないのなら。せめてひとつだけ、気兼ねなしのおまえの“ワガママ”を聞かせてくれないか。
……知るだけなら、いいだろう?
えっ、と…………、
( あれ、なんとか上手く説明できたと思ったのけれど、どうやらギデオンの反応を見るに、酷く深刻な方向へと勘違いさせてしまっているようだ。そう優しいアイスブルーから逃れるように苦笑したエメラルドが、あくまで鈍感に伏せられる。"困らせあうのが許される関係"。これが一時的な体調不良や、何か困った時に頼りあえる関係という意図ならば、ビビもまたギデオンに同意するが──私の"これ"は違うもの。そうへらりと浮かべられた笑みが、しかしぎこちなく強ばったのは、無自覚に引っ込めかけた冷たい指先を、その寸前に捉えられたからで。決して振り払えない程強く握られている訳でも、強く脅されている訳でもない。しかし有無を言わさぬ搦手に、適当な嘘をつくことだって出来ただろうに。"この手の内にいる"時は、逃げられない。どんな嘘も通じない気がしてしまって。 )
……別に、ただ家にひとりでいるのが、……あまり、好きじゃないだけです。
寮と下宿が長いからですかね、落ち着かなくて。
身体が治った後も、私が毎日帰って来て、一緒にいてくださらなきゃやだぁって駄々こねたらどうします?
出張の度に行かないでって拗ねるし、それかついて行くって泣いて聞かないかも……。
( なんて、嗚呼嫌だ。結局、言い訳を与えて貰った途端こうして甘えて、こんなのただのあてこすりじゃないか。そう思うと、相手の顔が見れなくなって、ふわふわの前髪の下に目元を隠すと。いつの間にか温かくなっていた指先に微かにぎゅっと力を込めて。 )
ね、それじゃ、"ダメ"なの。"いい子"に待てるように……今から慣れておかなくっちゃ。
(今にも崩れまいとする、弱々しいのに頑なな声。……その声の持ち主は、果たして本当に目の前の彼女なのだろうか。
ギデオンが知る限りのヴィヴィアン・パチオという娘は、きっと誰もが異口同音に、“太陽のように明るい”と讃えてやまない人物像だ。その燦々と、爛々とした輝きに、この己もまたあてられて、陽向に誘い出されたじはずだ。それほどまでに熱く、眩いはずの彼女が──しかしどうして、今宵はまったくちがっている。
……ちょうど窓の外の夜空の隅にひっそりと浮いている、あの爪痕のように細い三日月。あれが灰色の雲間に隠れ、ただでさえ微かな光がほとんど翳ったのとそっくりに。今のヴィヴィアンは、どこかよそよそしいほど控えめに振る舞いながら、何かに酷く怯えている。──ギデオンにすら、竦んでいる。
そう理解した瞬間、心がすっと静かに凪いだ。「……」と沈黙して答えないまま、己の片手をそっとどける。途端に窓から軽く吹く風、外は幾らか気温が下がってきたようだ。無音で息を吸い込み、吐いて、何も言わずに席を立った。そうして草編の床を踏み、静かに出て行くその先は、部屋の外─なんて、はずもない。
食卓を回って相手の横に来たかと思うと、向かいにゆっくり腰を下ろす。そして衣擦れの音を立て、何事かと相手が見たなら。──両腕を大きく広げたギデオンが、いっそ気取った表情で、何やら待ち構えているだろう。どんなつもりかはそちらが察せと、有無を言わさぬ傲慢な態度だ。それでも流石に補足は必要と思ったか、しばらくぶりに口を開き、何を言いだすかと思えば、)
今おまえの前にいるのは、十六も下の後輩に手をつけた“悪い大人”だ。
常識なんかなぐり捨てて、したいようにすると決めてる。
……そんな男にぴったりなのは、どんな女だと思う?
(──そうして再びわざとらしく、さらに大きく腕を広げる。どら、見ろ、俺の胸はこんなに空いているんだぞ、いったいこれをどうしてくれる、そうひしひしと言わんばかりだ。……それでも相手が躊躇うようなら、如何にも訝し気に首を傾げていたかと思うと。「!」」と、ふと閃いたように、片眉をぐい上げ。「……食事中なのに行儀が悪い、なんて言ってくれるなよ」と、頓珍漢な異議の声を。)
( /お世話になっております、ビビの背後です。
本日スマホを! 水没!! させました!!!
一瞬滑らせただけなので無事を祈りたいところなのですが、念のため乾燥中でして、イレギュラーな連絡方法で失礼いたします。
スマホは滑らせるわ、あちらのパスワードは思い出せないわ……あまりに迂闊すぎてお恥ずかしい限りなんですが……
というかパスワードは復活次第すぐに再発行するぞ……、あまりにセキュリティがガバすぎる……。
取り急ぎご報告のみですみません、素敵な本編をありがとうございました。あちらの方もいつも通り楽しく拝読しておりますので、乾燥次第またお返しさせていただきますね。
よろしくお願いいたします! )
(/遅ればせながら、ご連絡ありがとうございました&こちらの確認が遅れてしまい、申し訳ございませんでした……! こちらでも改めてのお返事まで◎
背後のほうでも何かイレギュラーがございましたら、どこかしらでしっかりご連絡いたしますね。引き続きのんびり宜しくお願いいたします!)
…………。
( 離れていった温もりに、追い詰められた表情で俯いたのも束の間。隣におろされ直した温もりに顔を上げれば、月光を反射する優しいブルーと目が合って。──この人に相応しくなりたい、必要とされたい。そんな娘の内心を見透かすように、目の前の男はこれ以上なく甘い口実を投げかけてくる。"いい子"なんかでいなくていいと。"いい子"でなくとも、自分は相手に相応しいのだと。これまでずっと重く感じていた鎧を脱がさんとする太陽は、ビビにとってこれ以上なく温かく、容赦なく身を焼くようで。そうして、悪戯っ子のような表情で片眉をあげた相棒の言葉に最後。ふっと小さく破顔した後、その瞳に覚悟を決めるような神妙な光を微かに灯すと。"食事中に席を立たないように。神に感謝して静かにいただきなさい。"と、かつて学院時代に何度も聞いた、そんな些細な言いつけなら、自分にも破れるような気がして。 )
ギデオンさんは、"悪く"……なんか、ない。
( そのまま、ただ重力のまま撓垂れ掛かるように、相手の肩に上半身を預けると。「毎日じゃ、なくても良いです……遠征も寂しいけど、大丈夫」そう分厚い肩口にぐりぐりと、丸い額を擦り付けながら漏らした声からは、先程までの強情な色はすっかり消えて失せて。「私、冒険者としての貴方も……好き」と、今更どこか恥ずかし気な告白は、これまで一年間向け続けてきたどの愛の言葉よりも余程小さかったが。大丈夫、ギデオンさんの言いたいことは伝わっている、と相手にもしっかり伝えられるように。それまで相手に肩で塞いでいた視界をゆっくりと上げ、代わりに自ら未だ微かに震える両腕を広い背中へと絡めれば。先程無理に引き出された"ワガママ"とは違う、もっと現実的な、本気で、叶えてもらいたい己の"望み"と真剣に向き合っていたかと思うと、おもむろに。自分でも初めて気づいた結論に、逞しい腕の中、いっそあどけない様子ではにかんで。 )
でも、無理はしないでほしい。身体を大事にして、しっかりお休みもとって……ご飯も、そっちはあまり心配してないけど、ちゃんと食べてね。
それで、その……できれば。できれば、その時、隣にいるのは私がいいなって思うんです……。
……! わたし、あなたの家族に、なりたい……
(あまりにもいじらしい “ワガママ”の数々に、極めつけがその一言だ。思わず居室の天井を仰ぐようにして仰け反ると、耐えかねたような呻き声を厚い胸板の奥に響かせ。かと思えば、今度はその体躯をぐうと内側に屈め込んで、腕のなかの愛しい娘をきつくきつく抱き締めた。少しばかり苦しいだろうが、こちらとて思い知らせたい。──あまりに大きな幸福感で胸が潰れるということを、こちらは生まれて初めて体感している最中なのだ。)
…………殺し文句にもほどってもんがあるだろう……、
(いっそ白旗を上げるに等しい、情けない恨み言。それをどうにか絞り出すのが、今のギデオンの精一杯で。……実際のところ、もっと他に言うべき台詞、本気の言葉があるのだが、何も用意のない今はただ、腹の底にぐっと押し込めておかねばならない。そのもどかしさの八つ当たりとばかりに、抱き締めた相手ごと大きな体を軽く揺らして、思いの丈を伝えると。しばらくのちにようやく溜飲を下げたらしく、体を離し、見上げさせたその顔は、すっかり満足気に笑んでいて。
「……なあ。すぐにというわけにはいかない、なんて話をしていたが……」と、おもむろに切り出したのは、数日前のあの話だ。無論あのときも腹の内では、のちのちどうにか転がして、ここに持ってくるつもりだったが。きっと今ほどのタイミングは、後にも先にもないはずで。)
明日、王都に帰ったら。一緒に暮らすための準備を、もうすぐにでも始めよう。
もちろん、おまえの体調を見ながら……やれることは、俺がするから。
──お互いこんなに望んでるのに、慎ましく離れておく理由なんて、もうどこにもないだろう?
(そうして、少し乱れた相手の前髪を、愛しそうに顔から避けてやったかと思うと。長いふと房を相手の小さな耳にかけた、その手元を引き戻した時、指にしれっと挟んでいたのは、どこからいつ取り出したのか、どういうわけか折目ひとつも見当たらない、例の書類の幾枚かである。──いったい全体何年前、何のために身につけた手品なんだか。そりゃあ秘密だと言わんばかりの澄まし顔で、これ見よがしに図面をぴらぴら掲げ、自分でも可笑しくなって少し小さく笑ってみせると。
食事をつつきながらもう一度、今度は本気で眺めないか──と、今度は隣り合っての夕餉を、身振りで相手に強請ってみせて。)
ひゃっ……!!
( 平素、魔獣の脅威から罪のない人々を守る腕に、力強く抱きしめられれば。肺が潰されて呼吸も苦しく、硬い筋肉や関節があちこちにあたって痛むというのに。かえって相手の存在を確かに感じられて、ぴくりとも動けないまま、脳髄が蕩ける様な多幸感に掠れた笑い声がかすかに漏れる。殺し文句だなんて言われてみれば、少し青いことを言ったかも? と、ゆらゆらとした抗議に、今さらじんわりと頬が熱くなる気もするが。ゆっくりと向けられた満足げな笑顔に──ギデオンさんが幸せそうだから良いか、なんて。無自覚故に決めさせてしまった覚悟のことを、よく考えもせずにニコニコと笑っていたその報いか、はたまた単純な旅の疲れか。ようやく慣れた下宿に帰りついたその夜に、体調を崩して高熱を出してしまうと。「……私にも、出来ることはさせてくださいね」とした約束を果たすまでに、随分な日数を要してしまうなど、この時はまだ知る由もなかった。 )
ギデオンさん! おはようございます!
( そうして、件の舘に向かう前から変わらない、愛しの相手を目の前にはしゃぐ元気な挨拶に、しかし普段であれば同時に飛びついてくるだろう娘がそうしなかったのは、自室の扉の前に立ち、裾を揺らしている長いスカートのためで。待望の退院から幾日たっただろうか、一応一昨日の朝には熱も下がっていたというのに、今度は過保護な恋人の説得に時間を費やし、ようやく迎えられた今日である。本当は、どこか東広場あたりで待ち合わせデートと洒落こみたい乙女心もあったのだが、強情なギデオンの首を一日でも早く縦に振らせるため、ドアtoドアの完全送迎を受け入れたという経緯。関係性が変わってからの初デート(が、同棲準備であるという性急さを今は考えないことにして)に早朝からワードローブをひっくりかえせば、そういえば。それなりの例外は複数あれど、普段仕事着で対峙する相手には殆ど私服を見られたことがないことに気が付き。やはり王道に可愛い系か、でも今日は遊びに行くわけじゃないし……と、むき卵の様な眉間に皺を寄せて悩むこと暫く。結局、年相応な、けれど流行のラインが今らしい白地に薄黄緑のストライプが初夏らしい涼やかなワンピースを選択すれば。ギデオンのノックが部屋に響いたのは、以前より少し余裕をもって閉じた釦に、調子の外れた鼻歌を歌いながら髪を結いあげていた時で。普段は揺れる毛先を、綺麗にしまい込んだ後頭部を留めながら、「ごめんなさい、もう少しかかりそうで……」と、相手を部屋に招き入れ、椅子をすすめたのはなにも、「外暑かったですか? どちらにしようか迷ってて」と、テーブルに並べられた白いブリムにレースが付いた可愛らしいボンネットか、赤いリボンが元気に揺れる爽やかなキャノチエかを選ばせるためだけではなく。申し訳なさそうにパタパタと、部屋の奥から冷たい檸檬水のグラスを差し出すと、レースの手袋をつけた手から、小さな金属片もふたつ、はにかみながら座る相手に手渡して。 )
……これ、忘れちゃう前に渡したくて。
此処の鍵と、こっちは私の部屋の合鍵です。ここって大抵誰かしらいるし、もうあとちょっとで必要なくなっちゃいますけど。……ふふ、誰かに渡してみたかったの。
……ああ、そうか。おまえのほうのは、まだ預かってなかったな。
(すっきりと澄んだ冷水に、乾いた喉をありがたく潤していた矢先。ちゃり、と掌に受け取ったそれを、最初は虚を突かれたように、しかしすぐにもしみじみと嬉しそうに確かめて、やがて懐に仕舞い込む。そうして再び相手を見ながら、気障な格好で椅子にもたれ、如何にも意味ありげな声を。──よくもまあ、“もう”預けてある己のそれは、当時の迂闊な生活事情で相手に頼み込んだのだろうに。
とはいえ。きっとあの頃から既に、自分たちは親密さを少しずつ高めつつあった。そして四カ月経った今、実際関係が変わったからこそ。“相手の部屋の合鍵を、お互い大事に持っている”──そんな密かな状況を、例え刹那のものであろうと、共に心から楽しめるはずだ。
椅子を引いて立ち上がり、ふとそのついでと言わんばかりに、相手の片手を軽く捉える。そうして優雅に吊り上げたのは──どうやら、ターンのおねだりらしい。己もカジュアルなジャケットでめかし込んできたのだが、うら若い恋人の清廉瀟洒な装いに、どうもやはり、男心を随分と擽られていたようだ。
「よく見せてくれ、」なんて、本人は今さら面ばかり取り澄まし、おくびにも出さぬつもりが。その薄青い目ときたら、興味津々に揺れ動き、鍵に向けていたそれより余程、相手を真剣に眺め倒して。はてはふと横を向き、先程相手が示していたふたつの帽子を見比べると。──この頃季節柄見なくなった、いつぞやの贈り物。あれに似たよく似た色のリボンに、無意識に目を吸われれば。気取った顔つきでそれを手に取り、相手の頭にそっと被せ。引いて眺めて、ひとつ頷き、満足そうに唸ってみせて。)
……やっぱりな、よく似合ってる。
今日必要な例の書類は、俺がもう一度見ておくから……あとの準備も、まだゆっくりするといい。
──……ありがとう、ございます。
そうなの、"赤"は似合うの。
( まったく、なんて瞳で人を見つめてくれるのだろう。こちらのことが愛おしくて、大切で堪らない。そんな青い瞳に見つめられると、未だ慣れない心臓が可哀想にのたうち回って。何百回、何千回と練習して身体に染み付いたターンの動きでさえ、沸騰する血液とともにふつふつと蒸発して失せてしまう。それでも、相手の要望通りにもふわふわと、なんとかその場で回ってみせれば。ギデオンのシャツの襟を整えながら、意味深に呟いてみせる癖をして、キャノチエから覗く顔はよっぽど赤く。ぱちりと思わず視線があえば、嬉しそうにはにかんで見せるだろう。
そうして、相手の好意に「だめ、だめ!」と慌ててその腕に縋り付いたかと思うと。「私にも出来ることはさせてって約束したじゃないですか」と膨れながら、相手が手にした書類を覗き込み。立地や部屋数、築年数など出発に前に再度物件のおさらいを。「えっと、この平屋はリビングがサンルームになってるんですね── )
──素敵!!
( と、相手の選んだ物件を前に瞳を輝かせたのは何度目か。未だひとつ目の物件だと言うのに、まずは見えてきた瀟洒な外観に声を上げ。前庭の植物に微笑み、重厚な玄関扉に溜息をつくと、今度はそれを開け放った瞬間に飛びこんできた内装に握った拳をぱたぱたと振り──何も、愛しい恋人と住むと思えば、全てが素敵に見えるというだけでは無い。風邪で寝込んでいた数日間、ギデオンにより行われていた厳しい審査の基準など知る由もないが、本当にこの物件が何処を見ても文句の付け所なく素晴らしいのだ。とはいえ脳内は意外と冷静に、確かここは今日見る中でも、一番家賃が高いところだっけ……と、ギルドから貰えるビビの月の給料からは半分でも限界ギリギリ(なんなら更にそこから安くない共益費や、保険料、税金、管理費、その他諸々が追加でかかることをビビはまだ知らない)否、若干オーバーな数字を思い出せば。──此処はあくまで参考に、あとの物件を見る基準にしよう、などと一人勝手に納得しながら、ギデオンの方を振り返って。 )
私ばっかりはしゃいじゃってごめんなさい、ギデオンさんはどこか気になるところありますか?
そうだな……お互いに、仕事の都合でよく家を空けるだろう?
(「だからやっぱり、妖精除けや敷地回りの防犯陣が、どのくらい管理されてるかどうかだな。俺が朝帰りをする日でも、お前が安心して眠れるような家じゃないと……」。
相手の肩を抱きながら当然のように返した声は、相も変わらず過保護な内容……そうには違いないのだが。しかしギデオンの声も顔も、まるでそれに釣り合わないほど、ゆったりと寛いでいた。実のところ、今この場でいちばんまともに内見に臨んでいるのは、最も若いヴィヴィアンだろう。──遥か歳上のこちらときたら、“相手と家を探して回る”という穏やかなこのひとときに、癒されまくるばかりなのだ。
そんな己の腑抜けぶりを、離れた位置から堪えきれずに笑い続ける者がいた。わざとらしいため息をついてそちらを振り返ってみれば、カウンターキッチンに半ば突っ伏しかけているのは、此度の内見の案内人。不動産屋の営業であり、ギデオンの古馴染みでもある、元冒険者のフェニングである。「──いやあ、っくく、仕事中に申し訳ない。ああ、でもなあ、ギデオンおまえ、本当に随分変わっちまったもんだな……」と。こちらもまた言いぐさに似合わず、酷くしみじみと嬉しそうな声を出すものだから。突然言われたこちらときたら、ヴィヴィアンの顔を見て片眉を軽く上げ、(そうか?)なんてとぼけてみせるが、それがまた随分と、フェニングのツボに入ったらしい。……のちほど、ふとしたタイミングでひとりになったヴィヴィアンに、奴はこっそり囁いていたようだ。──なあ、ビビちゃん、あの堅物を骨抜きにしてやってくれてありがとうな。信じられないかもしれないが、あいつはここ十年ほど、本当ににこりともできなくなっていたんだよ。今のあいつがあんな風になったのは、きっと君のお陰だろうな。──あの馬鹿を、よろしく頼むぜ。
さて、そんな一幕など露知らぬギデオンは、しかしいよいよ真剣に、物件の下調べを考えこむ段に入った。二週間前に同棲を打診し、そこからさらに絞りをかけて、今日見に行くのが全部で三件。そのうちのいったいどれを、はたして彼女が気に入るか、そこのところが問題なのだが。己のヴィヴィアンときたら、どの家にも最大の良さをたちどころに見出して、そのどれにも胸を躍らせてくれるのだ。これではむしろ、こちらが再三迷うくらいだ……と悩んでいた、まさにそのタイミングのこと。
不意に外から戻ってきたフェニングが、「もうひとつ空きが出た。見てみるか?」と言いだした。病み上がりのヴィヴィアンを気遣って駆り出している馬車で、ほんの数分の場所だという。これ以上選択肢を増やすのもどうかと思ったが、見て減るものでもないだろうしと、そこに行ってみることに決めた。ヴィヴィアンを先に馬車へと乗り込ませ、己もあとから座席に座る。フェニングのほうはといえば、外の御者台に座ることにしたらしい──奴なりの気遣いだろう。大人しくこの数分を活用してやろう、とばかりに。「疲れてないか」とまずは相手を労わってから、ごく軽く揺れる馬車のなか、隣の合相手の目元にかかった髪を、優しい手つきで除けてやり。)
──……なあ、どうだった。
どれもいい家ばかりだが……そうだな、決め手が同じくらいの印象だ。
おまえのほうで、もっとこんな家があればいいのに……なんて考えは、湧いてきてるか?
……! はい……いいえ?
( そろそろ次の物件へと移ろうかといった空気の中、一人そっと寄ってきたフェニングのお礼に、思わずふふふと肩をすくめる。怪訝な顔をした相手に──"そのことで" 私、何人の方からお礼をいただいたか分かりませんわ。と囁き返せば。思わず気恥しそうな顔をするくらいには大人で、しかしこうして密かにお礼を伝えずにはいられないほど、ギデオンのことが大切で堪らない、そんな彼らこそが、ギリギリだったギデオンをなんとか踏みとどまらせ、こうしてヴィヴィアンの元へと辿り着かせてくれた様に、この人望溢れる恋人をこれからは自分も大切に支える一人となりたい。先程、どんな家が良いかと問われ、相も変わらず過保護な返答をしてきた相手に、「私だけじゃなくて、ギデオンさんもですよ」と、その時は何気なく答えてしまったが。此方もまた相手の健やかな生活を守りたい、という想いは一途に同じで。 )
もっと、だなんて……どれも、素敵で困っちゃうくらいなのに……!
……そうですね、でも、私もギデオンさんが安心して過ごせるところなら嬉しいです。
( 久しぶりの外出に、少しはしゃぎすぎただろうか。優しい指先にそっと首を横に振るも、その眼差しが少し眠そうに凪いでいるのを相手は見逃さないだろう。ギデオンが何かを言う前に、「折角だから、あと一軒だけ」と先回りして甘えながら、こてりと分厚い肩に凭れれば。サスペンションの効いた馬車がラメット通りに着く頃には、いつの間にか少し微睡んでいたようだった。 )
──すご、い、明るい……!
( そうして、ギデオンのエスコートで馬車を降りた寝ぼけ眼は、その光景を前にして一瞬にしてキラキラと見開かれた。時刻は午後六時を少し回った夕方の頃。馬車を降りた時点では、豪邸の影になっていて気づかなかったが──「これ、全部一枚のガラスなんですか?」と、思わず駆け寄った窓ガラスから差し込む夕焼けのなんと美しいこと。未だ明かりもつけていないのに、まるで屋外のように明るい室内に「そっか、運河があるから……」と勝手に納得したヴィヴィアンに、「流石だな」と、補足してくれたのはフェニングだ。主にこのトランフォードで、勝手に屋内に入り込み、我が物顔で悪さをする悪性妖精の殆どが、窓の隙間から侵入してくると言われている。故に、トランフォード建築の殆ど全ての窓は非常に小さく、妖精が嫌う金属製の堅牢な窓枠に囲まれるか、鉱物を練り込んで色ガラスがはめられるか。街の中心部にある教会などの、巨大なステンドグラスの輝きもそれはそれで息を飲むほど美しいのだが、この部屋の自然な明るさといったらどうだろう。南側以外の窓はごく必要最低限に絞られているのに対して、水棲の妖精が縄張りを張る運河に面した南側だけは天井まである大きな窓が、外の光を燦々と受けて輝いている。この水棲の妖精の縄張り意識の強さと来たら、アーヴァンク同様ほかの魔物をその水場から蹴散らす上に、アーヴァンクと違って人間の営みには一切興味が無く、多少水源を汚そうが全く気にしないどころか、人間の手が加わった水源の方を好んで生息する──恐らく"水"そのものより、その水が流れるエネルギー、または膨大な水の質量が持つ静止エネルギーを養分としているのでは無いか、というギルバート・パチオの最新論文の内容は、各自気になるものが勝手に読んでくれれば良いのだが──要は運河と非常に相性の良い妖精が、他の悪性妖精からこの家を守ってくれているからこそできる芸当らしい。太陽光はギデオンを脅かす闇の魔素も溜まり辛くしてくれる。これまでの家もどれもこれ以上なく素敵だったのだが、既にポヤポヤと明らかに嬉しそうに目を輝かせながら、ギデオンの元に戻ってくれば。するりと慣れた動きで、再度エスコートの腕に掌をかけて。 )
夕焼けが反射してとっても綺麗よ、ギデオンさんも見て……?
でも、こんなに窓が大きくて冬は寒かったりしないかしら、
そこのところは大丈夫だろう。
ほら、見てみろ……ペアガラスだ。
(相手の心配そうな声に、しかしこちらが返したのは、その歩み同様にゆったりと落ちついた声。何も遠目で見抜くほど建築に聡いわけじゃない。横にいるフェニングの如何にも誇らしげな顔を見て、軽く見当がついたのだ。そのまま相手を伴って、今一度リビングルームの大窓へ歩み寄る。そしてギデオンの武骨な指が、ふと指し示した窓枠の辺り。なるほどよくよく見てみるに、その分厚さにもかかわらず透明度の高いガラスは、贅沢な複層構造で組み立てられているようだった。しかもその内側、サッシの細い部分には、刻印式の魔法陣が精密に彫り込まれている。魔法の素養のあるヴィヴィアンなら、細い筋を伝う何かが煌めいて視えるだろうか。己はそれが読めずとも、そういった建築様式があるということだけは知識として知っている。「魔素循環式か?」と、背後のフェニングを振り返らぬまま尋ねれば。「はいはい、そうと、ご名答」と、呆れたようなため息が靴音と共に近づいてきた。
──まったく、素晴らしい窓だろう? 夏の遮熱に関してはまあまあといったところだがね、冬の寒さに関しては、やっぱりこいつがピカイチさ。おまえが言ったそのとおり、この内部の空間に溜まった魔素がしっかり防いでくれる仕組みだ。え? こんな素晴らしい匠の業は、いったいだれのものかって? かのサンソヴィーノ大先生さ! そうとも、この一帯の家々の窓は、ラメット通りにゆかりのある御大が手がけていてね。ただあの方は齢九十……いざというときの修繕なんかが気がかり、誰もがそう思うとも。だけどそいつは心配ご無用! 二代目三代目の後継がばっちり技術を継いでいて、サリーチェにある工房からすぐに駆けつけることになってる。更になんとうち経由で、専用保険もしっかり完備。どうだ、これなら安心だろう?
──しかし、はてさて。そんな稀少な物件を、何故こうも一番乗りで案内してくれるのか、そこは是非とも気になるところだ。その辺りに水を向ければ、フェニングは少しばかりばつが悪そうに頬を掻いた。……いやあ、それがねえ。この家に住んでいたのは、地方の名家から上京してきた若いご夫婦だったんだよ。この家を借りてくれていたのは、ほんの数週間だったかな。それがほら、つい先月にさ、王都中央病院の病院ジャック事件、なんてのがあっただろ? ここのすぐ近くにあるのは、あくまでその分院なんだが……地方でずっと暮らしてるじい様ばあ様にゃ、その違いなんざわからんもんでね。やっぱり王都は危険な街だ、可愛い孫娘を住まわせられん、なんて大騒ぎしたらしく。結局そのご夫婦は、実家に無理やり呼び戻されることになったんだ。そんな可哀想な事情じゃ、違約金取るのも忍びなくてさ。幾ら名家出身とはいえ、これから家庭を作るって時に……ねえ……。だからこう、俺がちょっと、いろいろ捏ね繰り回してな、どうにか帰してやったんだ。だけど今度は、大家との兼ね合いがあるだろ。その辺りで会社のお上が、ちょっとまあ、その、だいぶ圧強めでね……。
──なるほど、話が読めた。要はこのフェニング、ギデオンの急な依頼に二つ返事で乗ってきたのは、自分の計上数字が大ピンチだったかららしい。まさに今いるこの家の借り手が急にいなくなったことで、次に宛がうお客探しに血眼になっていたのだ。そんな奴から見たギデオンたちは、ガルムの瓶を背負ったレモラが泳いできたようなものだろう。おそらく、退去後の清掃が終わり、契約関係の整理も一段落ついたのが、つい先ほどのことなのだ。
「ほーお?」とギデオンが眉を上げれば、旧知の男はなんとも情けない顔で、謝罪やら言い訳やらを必死に並べたてはじめたが。それを笑って追い払い、しばらくふたりきりにしてもらうことにした。奴の性格は知っている、幾ら優秀な営業だろうと、強引な押し売りはすまい。それに、ギデオンたちがどの家を選んでもプラスになるのには違いないから、どれも同じ熱心さで紹介してくれていたはずだ。相手と可笑しそうな目を交わし、軽く肩をすくめると。オレンジの光に満ちた明かりをゆっくり歩きまわりながら、一階の広いリビング、その真っ白な漆喰の壁、良く磨かれたクルミの床に、手前の収納たっぷりなカウンターキッチンと、あちこちをよくよく眺め。ふとその視線を相手に戻すと、また静かに歩み寄っては、その肩にそっと手を置いて。)
……まあ、訳あり物件、ってわけだが。家自そのものに問題はないし、奴がああいう事情なんだ、契約の条件は多少融通してくれるだろう。
広さは充分、間取りも良し……問題があるとしたら、寝室が上にあることくらいか。
……階段は、まだ危ないよな。
( 到着時点で既に橙色に燃え上がっていた空は、次第に群青色に傾いて、窓から見える対岸にはポツポツと小さな、しかし暖かな光が輝き始める。ギデオンの言う通り、部屋数や間取りは当初話し合った条件を充分に満たして、素晴らしいリビングだけでなく、そちらを見渡せる開放的なキッチンや水周りも、動線、設備ともに洗練されていてとても使いやすそうだ。物件の"ワケ"にしたって、とうのヴィヴィアンらにとっては全く問題のない事情どころか、先程の話や今日一日の仕事ぶりから察せられるフェニングの懐深さに、すっかり心が傾いてしまった……と言ったら、あまりにも単純だと笑われてしまうだろうか。なんて少し感傷的に下唇を噛んだのは、先程の2人のやり取りに当てられてしまったからか。訳知り顔で片眉をあげるギデオンも、バツが悪そうに肩を竦める古い仲間を、決して責めてたてることはせず、向こうもそれを分かっていて個人的な事情を話したに違いない。それ以前から、先程1軒目でフェニングがヴィヴィアンにだけこっそりと見せてくれた表情を思えば、自分の成績のことだけでなく、彼が本気でギデオンのことを大切に思っていることは明らかで、思わず──いいなぁ……と。不動産屋の方は引退しても尚、信頼しあっているらしい冒険者の男同士に向けた憧憬の視線を、ギデオンはどう捉えたのだろう。一旦古馴染みを遠ざけて、ヴィヴィアンのペースに合わせて部屋を回ってくれた恋人の一瞬の思案顔に何事かと思えば。しかし──まったく、これ以上なく過保護な心配に、ふっと身体の力が抜けてしまって。 )
もう……!
ずっとこの調子で見張られてたら、私、歩き方も忘れちゃいますよ……!!
( そうして、しっかりとした手摺が手頃な高さに、しかも両サイドについた堅牢な階段を2、3軽快に登って見せれば。自分より低くなった相手の額に、思わず唇を寄せようとして。フェニングの存在を既のところで思い出すと、伸ばした掌で愛しい生え際をするりと梳いて流すに留める。「大丈夫、これで転ぶ方が難しいくらいだわ」と、仕方の無い恋人に目を細め、それに──と、「ギデオンさんに甘える口実ができそうで嬉しい」なんて、上半身を屈めて甘く可愛こぶって囁けば。あげた顔に浮かぶ笑顔も悪戯っぽく、そのままぴょいとギデオンの方へと飛び降りて。 )
──……それは流石に冗談ですけど。
ギルドからも近いですし、それにやっぱりこの窓……私、ここが気に入りました!
家賃とかも聞いてみなくちゃだけど、ギデオンさんはいかがですか?
っくく、随分気が早いな……そう焦らずとも、この家は逃げやしないさ。
(うら若い恋人の愛らしい説得に、さしもの堅物心配性も、その目元をふわりと緩め。相手の腰を抱き寄せながら、無邪気な言葉に喉を鳴らしたかと思えば、愉快そうに苦笑さえする。──とはいえ、そんな風に笑ってみせるギデオンだって、ひと目見た瞬間からこの家を気に入っていることには変わりない。今日一日見て回った他の三軒も良かったが……ここは初めて来たときから、不思議と心が寛ぐのだ。
それは相手と連れ添いながら、広い浴室と立派な設備をよくよく確かめてみたり、勝手口から庭に出てテラスの具合を眺めたりしても、まったく変わりはしなかった。寧ろ己のヴィヴィアンが、家のあちこちを生き生きと歩き回るたび、まだそこにない家具や飾りが目に浮かんでくるようで。……自分の本来の性格上、何度もごく慎重に、現実的に考え直そうとしてみてもいたのだが。しかし冷静になればなるほど、寧ろますますこの家を、ここで思い描ける暮らしを忘れ難くなるようで。
──その奇妙な感覚は、二階にある寝室にふたりで足を踏み入れたとき、いよいよ決定的になった。今はまだ何も置かれていない、がらんどうのベッドルーム……辺りは既に夏の夕闇で薄暗く、部屋がなまじだだっ広い間取りなばかりに、普通ならともすればもの寂しく見えたろう。なのになぜか、その空間を見渡した途端、ギデオンの青い瞳には、この部屋がとても眩く見えた。──ここに大きなベッドを置いて、朝は彼女の横で目覚めて。一日の終わりには、その日あった出来事を相手と喋りあいながら、共に温かな眠りに落ちる。そんなささやかな生活、心の安らぐ人生を、自分はここでヴィヴィアンとずっと紡いでいくのだと。そんな奇妙な確信に、生まれて初めて心を委ね。)
…………。なあ、ヴィヴィアン。
一日で家を決めるなんて、突拍子もない話だろうが……俺ももう、ここ以外が考えられなくなってるところだ。
(床板を軽く軋ませながら、部屋の奥へと歩いていき。今は青みがかって見える真っ白な出窓から、南の空に瞬いている一番星を眺めれば。次に振り向いたそのときには、そばにいる相手の頬にそっと己の掌を添え、そのエメラルドを優しく見つめた。そうして額を触れ合わせ、甘えるように唸るのは……どうやら四十路の男なりの、恋人への相手へのおねだりらしい。今は知人の男の目を盗んでいるのを良いことに、鼻先さえすりつけながら、ぐるぐると喉を鳴らして。)
予備審査は通ってるし、出せる書類はフェニングに渡してるから……後は契約書を取り交わすのと、本審査だけで済む。共益費の交渉は、俺に任せてくれればいい。
それで無事に決まったら……もうすぐにでも、家具を探しに行かないか……
──……いえ、私たちったら、おかしいですね、ふたりとも。
私も、同じ気持ちです。むしろそれだって待ちきれないくらい……!
( これまで訪れた3軒だって、どれもこれ以上なく素晴らしかったにも関わらず。この家に足を踏み入れた途端、一つ一つの部屋を見てまわるたび、ここにはテーブルを、あそこにはドレッサーを置いて……と、まるで未来で見てきたかのように、これから訪れるだろう生活の光景が見えたのが自分だけでは無かったと知り。すり、と触れる鼻先に、溢れる幸せをくすりと零せば。目の前には、気持ちの通じあった最愛の相手がいて、これからはずっと一緒に生きていく。そんな向こうしばらくなんの憂いもない幸福に目が眩み、さらりと聞き流してしまった"共益費"というワードが、一悶着を起こすのはまた少しあとのお話。
「まあ、俺としては有難いよ」と、何を言う前から全てを察したようなフェニングの苦笑に迎えられ。もう時間も遅いから、手続き自体は翌日以降にしよう、と。それからの話の進みも、とびきりぐんと早かった。ふたりの今後を決める本契約の席には、ビビも同席したかったのだが、どうにも体調が優れなかったり、定期検査なりなんだり。結局 事務的なそれは、当初ギデオンが申し出た通り、すっかり相手に任せきりとなってしまえば。やっとそのお願いを口に出来たのは、ギデオンの久々の休日に、兼ねてより約束していた新居用の家具を見に行く前日のことで。サリーチェと比べればずっとこぢんまりとした下宿のソファで、ギデオンの入れてくれたホットミルクをちまちまと舐めながら。相手が夕食の皿を洗ってくれている(退院以後、何度頼みな込みだめ透かしても頑なにやらせて貰えない)のをいいことに、仕事帰りの上着にブラシをかけて終わると、翌日休みの恋人に近づき、そっと背中に抱きついて。 )
ねーえ、ギデオンさん。
もしお荷物じゃなかったらですけど、明日おうちの契約の書類、持ってきてくださいませんか?
それか用事の後、ギデオンさんのお家に寄るとか。
ふたりのことですもん、ちゃんと私も見たいです。
(皿の水気を切りながら、「うん?」だなんて肩越しに軽くとぼけるも。近頃すっかり板についたヴィヴィアンの甘えぶり、そのぐっとくる近しさに、つい口元を緩めてしまい。ぴかぴかの陶器類を網棚に仕舞い込み、濡れた両手をタオルで拭えば。背後にある流し台にもたれかった格好で、ようやく相手に向き直る。こちらを見上げる無垢な恋人……そのまろやかな額をそっと撫で上げる男の手つきの、如何にも愛おしそうなこと。)
ああ、もちろんいいとも。そう嵩張るもんじゃないし……だが、そうだな。
他にも多少用があるから、ここに戻ってくる前に、一瞬だけ俺の家に寄り道させてくれ。
(「ああ、別に大したことじゃない。引っ越しまでの数日だけ私物を置かせてほしいから、そいつを回収したいんだ」と。意味ありげな表情をわざとらしく気取ったものの、たまらずふっと破願してから、きちんと注釈も言い添えた。──こまごました移動の手間を省きたいんだ。そうしたら、それだけおまえといる時間が長くなるはずだろう……?
こんな甘い台詞を吐けるようになったくらいだ、時の流れとは実に早いものである。実際、あの一軒家を内見したあと、申し込みやら審査やら契約やら入金やら……入居にあたって必要な諸々の手続きは、ギデオンが全て怒涛の勢いで果たしてしまった。となると次は、いよいよ夢の引っ越しだ。それぞれの古い住居をしっかりと引き払いつつ、同時に新居の環境も整えていかねばならない。どんな豪邸であろうとも、まずは最低限、食事と寝起きをするための家具や道具が必要だろう。だからまず、キングトンの東にあるあの街に出掛けよう──と。懐かしの市街馬車に再び並んで乗り込んだのが、相手の下宿でいちゃついた翌日のことである。)
おお、これはまた……
随分良いタイミングだったな。
(──あくる朝。爽やかな初夏の風が吹き渡る空の下、駅に降り立ったギデオンは、辺りの見違えた様子を前に感嘆の声を上げた。無理もない──このキングストン職人街は、つい五ヵ月前にも来たから未だ記憶に新しい。しかし、ヴィヴィアンと共に装備探しをしたあの頃は、もっと下町風情溢れるセピア色をしていたはずだ。
それが今やどうだろう。『ペンテコステ・フェア!』なる横断幕を派手に掲げた通りの向こうは、眩しい陽光を浴びて煌めく、浮かれたお祭りムードであった。どこを見ても人、人、人、そして家具に道具に発明品。そういえば毎年この時期、ここら一帯の職人たちは、聖霊降臨日が近いことにかこつけて大売り出しにかかるのだ。遡ること数十年前、今日のかれらと変わらぬ商魂逞しい職人が、“神は細部に宿る”という匠の世界の信条と、ロウェバ教の説く“聖霊の働き”をものの見事に結び付け、企画を打ち出してみたところ大ヒットしたんだとか。兎にも角にも、要はこのフェアで買った家具にはご加護がついてるなんていう、聖燭祭商戦や復活祭商戦とそう変わらないアレが掲げられているらしく。とはいえまさにそれらと同じで、客にしろ職人にしろ、何かの折に良い売買がしたい、という点で一致するのに変わりなく。元からお祭り騒ぎが好きなトランフォード人たちだ、ペンテコステ本番までの前夜祭と言わんばかりに盛り上がっているわけである。
──ギデオンとヴィヴィアンが家具探しにやって来たのは、実は全く偶然で、そういえばそんなのがやっていたな、という感じなのだが……しかしこれに乗じないなどという手はないだろう。早速辺りのバザールへ繰り出していくその前に、まずは間近なジューススタンドにその足を向けてみる。……そうやらそれそのものが職人と一体化したひとつの発明品らしく、あちこちの魔導具を忙しなく動かしている八面六臂の老人にセールストークをかまされながら、しかし実に美味しそうな果実水を受け取れば。祭りの熱気に渇く喉をのんびりと潤しつつ、先程通りの入り口で貰った会場案内の紙面を広げて。)
一日じゅう見て回れそうだが、この雰囲気にあてあられて疲れてしまうとことだ。
まずは用のあるやつから見に行こう……寝具の店は、この突き当りか。
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