刑事A 2022-01-18 14:27:13 |
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アダムス医師
( __暫くして重たい語調ながら此処最近の身体の不調を訴えられると、軽く頷きつつ鞄から出した聴診器を耳にあて。『発作の後に起きる痛みなら身体に無理な力が入った為とも考えられますが、そうじゃない時にもある痛みは精神的なもの以外に心臓に何らかの症状が出ている可能性もあります。』そこまで言ってから『失礼しますね。』と一言断りを入れワイシャツの下から直接素肌にチェストピースを当てる。先ずは胸に、そこから下に降り鳩尾付近から肋骨の横まで、鼓膜に届く音に注意を払い。ややして静かに聴診器を抜きそれを消毒した後に鞄に戻すと相手に向き直り。『…軽いものですが心雑音があるようです。ただ、今の段階では診断を下す事は出来ません。先程の発作が尾を引いている可能性もあるからです。』真剣な、けれども変な恐怖は与えぬ様穏やかな声色のまま、規則正しい心音の中に度々混じった雑音を指摘し。『近い内に大学病院で検査をしてもらった方が良いですね。それと、』この場所では心電図などの詳しい検査は出来ない。今の相手には必要な検査だとしつつも、一度言葉を切り相手の手を取り『不整脈を調べるのはエバンズさん自身も出来る事なので、1日に数回、手首のこの位置で脈を測って下さい。15秒間、規則正しい感覚で脈を打っているか。もし感覚がちぐはくな様なら、もう15秒__その後は必ず病院に行くように。』簡単な不整脈の確認方法を教え、一先ずは精神的なものでは無い病気の話をするが、ワシントンに来て気を張り続けて居る事が大きな要因になっている可能性が極めて高いとも思っていた。『…悪夢を見る頻度は、レイクウッドに居た時と比べて変わりましたか?』と、夜の問い掛けを )
( 肌に触れるひやりとした感覚を感じるのは久しぶりの事の様に感じた。ソファの背凭れに身体を預け、特段の抵抗も見せる事なくゆっくりと呼吸を繰り返す。相手が聴診器を外すと軽くワイシャツの裾を整えつつも“大学病院での検査”という言葉には、少しばかり嫌そうな表情を浮かべて。「大学病院は待ち時間が長い。…不味いと思ったら行く、」大勢の患者が集まる大学病院は待ち時間が長く、精密な検査などを行えばあっという間に半日過ぎてしまう事があると難色を示しつつ、受診を先延ばしにするような常套句とも言える言葉で答えて。鳩尾辺りを軽く摩ったものの其処に触れただけでは心臓の音までは分からない。続いた問い掛けには「……睡眠薬を服用する回数は増えた、」と答えて。レイクウッドでは睡眠薬を飲む回数がかなり減っていたのだ。夢見が悪く魘される事は多々あったが、自然と眠れていた______特に相手のいる暖かい布団では。しかしワシントンに戻って数ヶ月後から眠りにくくなり、睡眠薬を使う事が増えた。だからと言って深い眠りで悪夢を見ないという訳でもなく、魘されて目を覚ます事も多々あった。事件が起きた直後に通っていたのは今と同じ通勤路。事件の数日後、妹を失った事実を受け入れられないまま重い身体を引き摺って署へと向かい、記者たちに囲まれたのと同じ道だという事を時折思い出しそうになる。あの事件に関する記憶が、ワシントンには未だ鮮明に残り続けている事を思い知らされた。 )
アダムス医師
( 案の定の顔を見せた相手に小さく溜め息を吐く。“待ち時間が長い”も“不味いと思ったら”も最早相手のお決まりの台詞だ。『何だろうと不整脈が確認された場合は必ず行って下さい。』今回ばかりは大目に見る、で帰す事はしないと今一度同じ言葉を繰り返しつつ、鞄から取り出したのは白く小粒の錠剤が2週間分入った袋。『…鎮痛剤です。安定剤や睡眠薬と服用しても大丈夫な軽いものですが、依存性が0な訳では無い。無闇矢鱈に飲まないように。』それを相手に手渡し、何度も聞いたであろう注意事項を告げてから少しばかり思案する間を空ける。相手の目下に鎮座し続けている隈は濃く纏まった睡眠をとる事が困難な状態にあるのはわかるのだが、どうしてもその何もが“此処”に来た事による悪化だと思わざるを得ないのだ。だからと言って睡眠薬を強い物に変える事は出来ない。『__本来なら睡眠薬を飲まずに眠れるのが一番です。薬をこれ以上強いものに変えるのも、それだけ副作用が大きくなり起きている時間帯に支障をきたす。』副作用の事を考えると、相手にとってのベストな強さ、量は今処方している物だ。『…眠る前に好きな音楽をかけたりアロマも時には効果を発揮します。とは言え、貴方にとっては気休めでしか無く症状がそれでおさまるとは思えないのも事実、』告げられる事はありふれた療法で、けれど本来相手に一番効果的なのはそれじゃないとも思う。言葉を切り、相手を真っ直ぐに見詰め少しだけ表情を緩めると『…貴方が話したいと思った時、今回の様に電話を下さい。それは私だけではなく、きっと貴方の周りに居る人達も皆そう思っている筈です。』暗に“誰かに頼れ”と。それこそ難しい事だろうが、これが大切な事だと思うからこそで )
( 少しの期間であっても鎮痛剤を処方して貰えたのは有難い事だった。痛みが強い時、仕事中に痛みが起きた時などに重宝するだろうと思えば、無闇に飲みすぎないようにという念押しに大人しく頷いて。本部の刑事課のフロアに居る時、其処で通報の電話が鳴るのを聞いた時、或いはセシリアと食事をしたレストランの近くを通った時______日常のふとした瞬間に、過去の記憶が湧き上がるような不安感を感じる事があった。“あの時”に自分が居た場所に居るのだから、記憶が直結して思い出す事が増えるのは当然の事と言えるだろう。体調が優れない時は尚更、署内でフラッシュバックを起こす事だけはしないようにと気を張っている。誰かに頼るように、と暗に告げる相手の言葉に対して「…レイクウッドは、案外恵まれてたのかもな。」と言葉を紡いでから、軽く肩を竦めて見せる。手を差し伸べ、1人で背負わなくて良いのだと寄り添ってくれるミラーの存在。町は穏やかで、自分の事をよく理解している馴染みの医者もすぐ近くにいた。思えば、気を張りすぎる事も言いようのない不安を抱えたままでいる事も、今と比べれば格段に少なかったと言えよう。「_____悪いが、朝まで此処で休ませて貰っても良いか、」と相手に尋ねる。身体には重たさが残っていて、今家まで戻るのは辛い状態。ペットボトルの水で唇を湿らせると再び身体を横たえて。 )
アダムス医師
( 相手が落とした呟き、レイクウッドを離れた事に対する後悔の色こそ見えなかったが懐かしむ様な色は僅かにチラついた気がした。『__離れた理由をあれこれ探るつもりはありませんが、戻りたいと思った時はその気持ちに蓋をしないように。…貴方は心の声より頭で考える事を優先しがちだ。確りと考え決める事はとても大切ですが、心を蔑ろにして良い事にはなりません。』長い年月、片時も傍を離れず見守った…と言う訳では無いが主治医として少なからず心を寄せて来た。その中で見えた相手は理性的で、自身の優先順位がとても低いのだ。次いだ望みには直ぐに頷く事で許可を返し。『勿論ですよ。…まさか医者の目の前でソファで一夜を過ごせると思っていないですよね?ベッドで寝て下さい。』身体を横たえた相手を見、次はそこでは駄目だと首を横に振る。相手が遠慮無くベッドに行ける様にと僅かに片眉を上げ続けたのは、“医者と患者”を強調したそれで )
( 医者として“口煩い”のは変わらないと、渋々ながらも一度横になったソファから身体を起こすとベッドへと向かった。朝には幾分体調も落ち着いていて、痛みが強なったり発作が酷くなったりした時には直ぐに病院に掛かるよう釘を刺す相手に何度か頷いて、また連絡すると約束するとホテルまでタクシーを呼び家へと戻ってから出社する事となり。______その少し後。痛みが強い時にと飲んでいた、アダムス医師から貰った薬もあと数日分を残すのみになった頃、レイクウッドから本部に出張で来る署員が居ると警視正から聞かされた。一緒に働いて居たとはいえ、名前と顔が一致していない者も多いため、誰が来るにせよ久しぶりの再会を待ち遠しく思う、なんて感情とは無縁で普段通りに専用の執務室でパソコンに向かっていて。 )
サラ・アンバー
( __警視正からワシントン本部に出張の命令を出されたのが一週間前の事。一番最初の気持ちは“何故ミラーじゃない”だった。エバンズが此処を去り既に半年以上が経過していて、その間ミラーは一度だって彼と会ってない筈なのだから、長くバディとして組んでいた彼女に声が掛かっても良い筈__と。気持ちの公私混同を認めながらも勿論命令に背ける事も無くワシントンに飛んだのが今日この日。__“本部”と言うだけあり建物は大きく中で働く署員の数もレイクウッドと比べ物にならない程。皆が何処か忙しなく動いていて、田舎から此処に不妊した刑事は慣れる迄に相当な時間が掛かるだろうというのが第一印象だ。警視正に紹介され刑事課のフロアに居る署員に挨拶を済ませた後、執務室に相手が居ると教えられ扉をノックする。中から入室の許可が出れば静かに扉を開け半年ぶりの相手をその目に映し『…お久し振りです、警部補。』と、挨拶をして )
( ノックの音に入室の許可を出し顔を上げると、其処に立っていたのはよく見知った刑事だった。「______レイクウッドからの出張要員はお前だったのか、…アンバー。」出張に来るのがミラーなら何かしら事前に連絡があると思っていたため、今回は顔と名前の一致していない男性署員が来るだろうという想定から外れ、ある意味思いがけない人物の来訪。彼女なら当然覚えがあった。ミラーと仲が良かったと思いつつ、記憶にあった名前を呼び。半年ぶりというのは、懐かしさを覚える程ではないが久しい感覚はあるもの。相手自身に大きく変わった様子は見られないと思いながらも「…レイクウッドは変わりないか。」と尋ねて。 )
サラ・アンバー
( 相手が署員の顔と名前を覚えるのを苦手とする事は知っていた。だからこそ“ミラーの友人の刑事”くらいの認識があれば良い方だと思って居ただけに確りと自身の名がその口から出れば失礼ながらも少しの驚きの色を瞳の奥にチラつかせ。『はい。…当たり前ですが、大きい所ですね。想像していた以上の広さでした。』頷きつつ、後ろ手に扉を閉めて中に入れば少し迷った後に相手の座るデスクの反対側に鎮座する椅子に腰掛けて。半年振りの相手はパッと見変わった様子は無い様に思えた。容姿が変わった訳でも、表情が柔らかくなった訳でも無い。相変わらず眉間に皺を寄せパソコンの画面から顔を上げない所もある意味懐かしい。それでも“レイクウッド”の事を問われればまだ相手の中に僅か残る懐かしさがあるのではと口角を緩め。『新しい警部補が赴任して来て、とても忙しくなったくらいです。後は…ミラーが、恐らく過去一番とも言える大きな事件を担当しました。』相手が去った後、後任として新しい警部補が地方から来た。相手より10以上年上の男性で、それなりの経験があるからこそ警部補になった筈なのだが、これまた少しばかり__否、大分厄介な人物だ。仕事と言う仕事の殆どを署員達に押し付け、何処をふらふらほっつき歩いているのかなかなか姿を見せない。かと思えば明らかに警部補の確認漏れの様な事も署員のせいにしてくる始末。お陰で署員達は朝から晩まで気を休める事も無く働き、兎に角忙しいの一言に尽きるのだ。愚痴の一つでも言いたいのを堪え、聞かれてはいないがミラー個人の担当した仕事の話も最後に付け足して )
( 相手の言う通り、地方の署で働いている刑事たちにとっては本部はかなり、想像以上に大きく感じられるものだろうと頷く。長年働いていた自分でさえ、数年ぶりに戻って改めてその規模を実感したのだから。相手の訴える忙しさは“良い忙しさ”なのか“追い込まれる程の忙しさ”なのか自分では判断が付かないが、上が変わったからと言って其処まで環境が変わる程の業務量ではなかった筈だ。少なくとも人手不足という訳ではなく、事件に余裕を持って刑事を割けるだけの人員は居た訳で。続いた言葉は思いがけないもので、相手に視線を向けた。“過去一番とも言える大きな事件”_____離れている以上、ミラーから連絡を貰う義理も無ければ其れを待ち望んでいる訳でもない。むしろ相手と関わりを持つ事を未だ何処かで恐れ、連絡をしていないのも自分だ。けれど、それ程の大きな出来事があれば、相手なら連絡をしてくると思ったのだ。しかし今は本部のワシントンの警部補とレイクウッドの刑事。そういう関係でもないと思い直せば「……大きな事件を任されるのは、刑事として信頼されている証だ。積み重ねてきたものが評価されているんだろう、」と答えて。 )
サラ・アンバー
( 言葉の頭に少しの間が空いた事、相手の顔が画面から持ち上がった事で事件の話を彼女から直接聞いていない事を察した。__けれど不思議だ。ミラーならば真っ先に相手に報告をしても良い筈なのに。__と、そこまで思って矢張り何かしらの壁が出来たまま2人は離れたのでは無いかと疑った。ミラーはあの事件、刑事として犠牲者を最小限に抑える為の最善の選択をし、他の署員達からも労われた。けれどそれを誇る事は出来なかったに違いない。相手の言葉に頷きつつも『…何だか少し心配で、』と、切り出す。『無理に頑張りすぎて、何時か動けなくなってしまうんじゃないかって。』実際此処最近でミラーから悩み相談をされた事も無いし、疲れ果てた様子を見た訳でも無い。忙しい業務の中、アシュリーも入れた3人でご飯も何度も食べに行き、特別変わった様子は無い様に思えるのだが、何故かわからない、小さな不安の芽が顔を出している気がするのだ。『理由は無いんですけどね。』と、軽く微笑んでから一度視線を下方に落とす。そうやって数十秒、意を決した様に顔を上げ相手を見ると『__警部補、』と呼び掛けた後『…何で、レイクウッドを離れたんですか?』相手がこうして根掘り葉掘り聞かれるのを好まないとわかっていながらも、あの急なタイミングでワシントンに来た理由を知りたいのだと )
( ミラーが無理をしている時、普段と同じように振る舞っているつもりの行動や表情のふとした所から、心の中に押し留めようと躍起になっている感情を垣間見る事があった。今は顔を見ていない為、其れを察するのは不可能だったがいつも近くにいる同僚であり友人の相手が“不安”を口にするのだから、事件が何かしらの影をミラーに落としているのだろうと思えた。かと言って、相手にアドバイスする事も出来なければ、自分が何か連絡を取るべき立場でもない。「……1人で背負い込み過ぎる事があるからな、」とだけ告げるも、呼びかけられれば再び相手へと視線を向ける。続いた問いは何度も周囲から聞かれたもので、少しばかりうんざりしたような、其れでいて少しばかり表情を緩めるようにして溜め息を吐くと「______そればかり聞かれる、」とひと言。「…レイクウッドには長く留まり過ぎた、それだけだ。本部に戻るにはちょうど良いタイミングだったんだ、ひとつの場所に長く留まるのは得意じゃない。」と答えて。 )
サラ・アンバー
( 相手の言う通り“1人で背負い込み過ぎる”事があるのは間違いのない事。けれどそんなミラーが何かあった時、相手には真っ先に相談している姿を度々目撃していた。だからこそ今回相手がミラーからの連絡を受けていないと言う事は、壁云々では無くそもそも“不安”は杞憂だった可能性もある。そればかりは彼女に聞いた訳でも、心の内を正確に読み取る事が出来る訳でも無い為何とも言えないのだが__『そうですね、』本当に駄目になった時、ミラーはきっと相手を頼ると、そう今も信じているからこそ、ただ頷くだけで。此方の問い掛けは案の定様々な人達から受けた質問と同じだったらしい。その表情を見て少しだけ困った様に微笑み返すも、“調度良いタイミングだった”との言葉には疑問を抱かざるを得ない。ミラーが数日の入院と数日の自宅療養をしている正にその時に相手は赴任の準備をしていたのだから。『……ミラーには何も言わず、ですか?』思わずそう問うて、ハッとした様に僅か背を正す。『すみません、警部補の決断に異を唱える訳でも、責めてる訳でも無いんです。ただ__、』再び視線を僅かに下方へ落とし、先程質問した時同様少しの時間を空けて意を決した様に相手を見詰め『…ミラーと距離を置こうとしてるように思えて。』あくまでも憶測。けれど相手の言う“長く留まり過ぎた”の裏に隠した何か__ミラーが関係している何かがある気がしたのだ )
( ______レイクウッドに長く留まり過ぎた、というのは嘘偽りのない本心だ。だからこそ、環境を変えなければならないと思い異動に踏み切った。少しばかり訝しむような問いに相手を見つめたものの、直ぐにハッとした様子で言葉を重ねる様子に小さく息を吐く。もう少し具体的に説明するとしたら、長く留まり過ぎて“周囲に影響が出るのを避けるために”去った、と言うのが正しいだろう。「……半年前にミラーを襲った犯人の動機は、あいつから聞いたか?」暫しの間を置いて、其れだけ相手に尋ねる。相手を襲った犯人は相手自身に恨みや敵意があったわけではなかった、其れこそがレイクウッドを離れ_______ミラーから離れる決断をした理由なのだが、目の前の相手はどこまでをミラーから聞いているだろうか。 )
サラ・アンバー
( 相手には相手の思う事があり、それは他者が__それもただの部下である自分が無闇矢鱈に引っ掻き回し詮索する事では無いのかもしれない。だが、例えそうであっても相手に向けるミラーの確かな想いを知っている。2人にしか結ぶ事の出来なかったであろう信頼や絆を少なからず近くで見て来た。だからだろうか、彼女以上に相手の異動は純粋な疑問として胸に燻り続けたのだ。__上司に対して出過ぎた言葉であった事は百も承知。流れる沈黙の合間に刻む秒針の音が大きく聞こえる中、返って来たのが問い掛けなれば一度瞬き。『…いえ、何も。』と、首を横に振る。嫌な記憶を呼び覚ます薬を打たれた事は聞いていたが、それならば尚更事件そのものをなるべく思い出させない様にするべきだと思い、何も聞く事をしなかった。そうしてミラーもまた何も話さなかったのだ。『あの事件の事は何も聞いていません。ただ犯人は2人組で、まだ捕まっていないと言う事は知っています。』詳細は知らぬまま、今尚逃げ続けている犯人の行方を追う為に敷かれた検問がその範囲を拡大し、レイクウッドからは勿論、近隣の署からも捜査官が出ている、と言う事だけは報告されていた )
( 相手の返答に軽く頷くと背凭れへと一度身体を預ける。真っ直ぐに相手と視線を重ね、暫しの沈黙の後。「______ミラーに薬を打ったのは、アナンデール事件の遺族だった。」そう静かに言葉を紡ぐ。「…つまり、俺への復讐に“利用“されたんだ。本来向けられるべきじゃない悪意に傷付けられた。……お前の言う通り、犯人は捕まってない。近くに居れば、また標的にされて危害を加えられるリスクがある。」だから、離れたのだ。周囲との関わりを断ち、自分以外に害が及ばぬように。「此の事をあいつに話して、どんな答えが返って来るか……親しいなら想像に容易いだろう、」そう言って少しだけ笑って見せる。返って来る言葉は間違いなく”私は大丈夫“なのだ。自分に向けられるべきではない悪意を向けられ傷付けられても、薬物を打たれるような恐ろしい経験をしても、これからもそのリスクが付き纏うと言っても、きっと相手は”大丈夫“だと言う。再び背凭れから身体を起こすと「…此の話は此処限りだ。元気にやっていたとでも言っておいてくれ、」と付け加えて。 )
サラ・アンバー
( 何も知らない、と首を横に振った直後。酷く真剣な色を宿した碧眼と視線が重なった。そうして静かに語られるあの日の事件の詳細。__思わず彷徨った視線は数秒相手を捉える事が出来なかった。動揺を落ち着かせる為に無意識に右手親指の爪先で人差し指の腹を軽く掻き、胸に落とす様に数回小さく頷き、そうやって漸く相手と視線を合わせ直した時、何とも言えない痛みが胸中を支配した。それは相手の言う通り、本来傷付かなくて良い筈の悪意に傷付けられたミラーを思って。今尚“あの事件”から許されない相手を思って。そうして__知ってしまった“優しさ”を思って、だ。何時だったかミラーが言った事があった。“エバンズさんは不器用で、だけどとっても優しい人”だと。その時は納得出来なかった。優しいは兎も角、何時も冷静で書類のミス一つせず何でも器用に熟すエリートだと思って居たからだ。__けれど今目前に居る相手は違う。ミラーを、周りを、巻き込まない為に自分自身から遠ざけるのは“不器用な優しさ”なのではないだろうか。その優しさにきっとミラーは直ぐに気が付き一番近くで見て来た。『__“大丈夫”と、ミラーはきっとそう言いますね。』ほぼ100%と言える答えはきっと相手の考えと同じだろう。レイクウッドに居ても尚見る機会の少ない相手の笑みを見て、それがまた無性に切なくなる。此処だけの話、に素直に頷いては『警部補の言う通りに、』と、ミラーにも他の署員にも何も言わない事を約束して )
( 自分の語った理由に、相手は何を思っただろうか。レイクウッドを去ると決めたきっかけを言葉にしたのは初めてだった。自分の決断を称賛して欲しい訳でも、憐れんで欲しい訳でもない。言うなれば_______ミラーと親しい彼女に、相手を傷付ける目的で、或いは蔑ろにして選んだ道ではない事を、今更ながら言い訳のように知って欲しいと思ってしまったのかもしれない。「…それも、理由のひとつだというだけだ。元々本部に戻る事は考えていた。今の肩書きのまま本部に戻れる、そのタイミングも後押しになった、」と、あくまであの事件はきっかけのひとつでしかなく、事件がなくともこのタイミングで本部に戻る事を決めていた可能性はあると付け加えて。「…人手が足りないような事があれば、警視正に相談してくれ。本部から応援を派遣する事もできる。」先ほど相手が言っていたレイクウッドの状況に対して、此方から応援の刑事を送る対応も出来ると告げると、再びパソコンへと視線を戻して。 )
サラ・アンバー
( 一概にそうだとは言えないが特に男性とっては昇進は大切な事。“警部補”のまま居られる事が出来るのはかなり良い条件で勿論その付け足しにも納得が出来る。加えて相手は元々本部の人なのだから何時か戻る事があっても実際は不思議じゃない。ただ__その余りに不器用な優しさを、今回ばかりはミラーが確りと気付き受け止める事が出来たかどうかは疑問が残る所。一度は頷き、納得を胸には落としつつも『……同僚ではありますが、ミラーの友人として。…彼女の“大丈夫”は以外と当てになります。』と、微笑む。それこそ他者が聞けば確信など何も無いそれ。その言葉で相手が納得し心変わりをした結果レイクウッドに戻って来るとは少しも思わないのだが、ただ、伝えたかった。再びパソコンに視線を落とす相手を見、少しだけ考える間を空ける。『__だったら、』と先の言葉の後『応援には警部補を指名しますね。』そんな権限は無いにも関わらず一つの戯言を。その時の表情はほんの少しだけ、冗談や戯れを言う時のミラーの笑顔に似ていただろうか )
( 自分がレイクウッドの応援に派遣されるというのは何とも可笑しな光景だと思えば「其れは勘弁してくれ、」と答えて。かつての部下に小さな真実の1つを打ち明けた所で何が変わる訳でもない。その後も滞在中は時折顔を合わせ二言三言交わしたものの、やがて彼女はレイクウッドへと帰って行った。________それから更に数ヶ月。本部に戻ってから間もなく1年が経とうかという頃になると、身体の不調はより顕著なものになっていた。締め付けられるような痛みを感じる事も増え、ふとした瞬間に視界が眩む事もあった。---その日は、少し前にワシントンで起きた事件について今後の捜査方針についての会議が開かれ、会議室には捜査関係者となる警視以下の刑事たちが集められた。目を落としていた資料の文字が急に歪んだ事で数度瞬き、鳩尾を締め付けるような胃痛にも近い感覚を感じると静かに息を吐く。途中から話の内容は所々しか意識を向ける事が出来なくなったものの、程なく会議は終了して。刑事たちがパソコンや資料を纏めて席を立ち部屋を出ていく中、立ち上がればバランスを崩し転倒する事件があると思った。せめて不審に思われぬようにと資料に目を落とし考え込む素振りを。その裏、徐々に浅く上擦りそうになる呼吸を必死に押し留める事しか出来ずにいて。 )
ロイド・デイビス
( __相手が座る席の斜め後ろの席、そこに腰掛け会議終了と同時に立ち上がり他の署員同様部屋を出ようとするのだが。__ふ、と視線を向けた先の相手はパソコンや書類を纏める事もせずやや俯き加減のまま動かない。手元には先程説明にあった事件の資料があり、何やら腑に落ちない箇所でもあり確かめているのかと横を通り過ぎる際に視線を向け。__その表情までは見る事が叶わなかったが、何処か微妙な点に置いて違和感を感じた。その違和感が何かを説明する事は出来ないのだが、そのまま相手を残し部屋を出る事を選ばなければ少し怪しむ様に腰を折り『…警部補?』と、声を掛けて )
( せめて他の上司や署員が全員この場所を去った後であれば良かったのだが、今異変に気付かれては不味い事になる。徐々にざわめきが遠くなっていく気配を感じていたのだが、不意にすぐ近くで自分を呼ぶ声が聞こえた。僅かに肩が震えたものの、その声は聞き覚えのある声で。しかし、痛みが強まるのと同時に背中を僅かに丸めると、浅い息が吐き出される。平静を装っておくのはもう不可能だ。首筋には汗が浮かび、徐々に背中は浅く上下する。部下の前で_____と思いはするのだが、この状況では相手に助けを求めるより他はなかった。「……っ、鞄を、持って来て貰えないか、…」辛うじてそう言葉を紡ぐと、執務室に置かれている鞄を此処へ持って来て欲しいと頼む。アダムス医師から受け取った鎮痛剤は既に使い切ってしまったものの、定期的に病院で処方される薬はその中に入っている。署内で酷い発作を起こす事だけは避けたかった。 )
ロイド・デイビス
( 呼び声に返った来たのは何時もの凛としたものとは掛け離れた懸命に絞り出す震え声。表情こそ見えぬものの噛み締められているのだろう歯の間から漏れる苦しげな息遣いと、浅く上下する背中が今置かれて居る状況の重大さを物語っており。『…直ぐに、』頷くや否や、足早に会議室を出て警部補専用執務室へと向かう。__デスクの横に置かれた鞄を持ち部屋を出れば、何故警部補の鞄を?と不思議に思っているのだろう此方を見る数名の署員達の視線を感じ、それに軽く微笑み再び足早に会議室へと戻り。中には部屋を出る前と同じ体勢の相手が居て、一拍程の考えた、とも言えない間の後に扉を施錠すると『…持って来ましたよ。何が必要ですか?』明らかに様子の可笑しい相手の前に鞄を置き、冷静に、中から取り出す物が何なのかの確認をしつつ、此方の声が届いているのだろうかと軽く肩を揺すって )
( 乱雑にネクタイを緩めたものの、このままやり過ごす事が出来る程度の不調ではなかった。辛うじて押さえ付けるようにしてペースを保っていた呼吸には狂いが生じ始め、視界は嫌な揺れ方をしている。相手が戻って来て、鞄が視界の端に入ると開けるように頼む。中には処方薬と書かれた袋に入ったままの錠剤がある筈だ。しかし痛みが強く、其れを言葉にする事ができないまま縋るように相手の手首を掴んでいて。「_____っ、は……ッ、」署内で此処までの体調不良を引き起こすのは滅多にない事だったが、直ぐに落ち着くとも思えない状況に焦りばかりが募り呼吸が上手く出来なくなって行き。 )
ロイド・デイビス
( 鞄を置いたそのタイミングで手首を掴まれると、予想していなかった事に驚いた様に目を丸くし相手を見る。身体に襲い掛かる何かに耐えようとしているのか、それとも行くなと行動で示されているのか__何方かを読み取る事は出来ぬものの男性の無意識下で掴まれる強さはなかなかのもので、血管が押さえ付けられる様な重い痛みに一瞬ぴくりと眉が微動する。けれど振り払う事はしなければ要望通りに鞄を開け__“何”に対する答えは無かったが中を覗けば“今の相手”が望むものなど簡単に察する事が出来た。白い袋には“処方箋”の文字。中からは既に何度も服用しているのだろう数の少なくなった錠剤が出て来て、次は怪しむ様に眉が寄せられる。病気だったのか、と言う疑問を胸にシートから薬を取り出し__『…警部補、ちょっと、』手首を掴む手を軽く引き剥がす様に引き、それが叶うならば会議室に備え付けられているウォーターサーバーから水を持って来ようと )
( 言葉で伝える事が出来ずとも、鞄を開いた相手は直ぐに自分が求めている物が何か察したようだった。一度手が離れ、相手はウォーターサーバーから水を汲んで戻ってきた。しかし呼吸はすっかり乱れ、直ぐに錠剤を飲み込む事は出来そうになく。痛みと息苦しさに徐々に思考は働かなくなっていき、呼吸を正しいペースに戻すきっかけも掴めなくなっていく中、不意に手のひらが背中へと添えられた。落ち着かせようと背中を摩るその手は側に居たデイビスのものだと分かっていた筈なのに、曖昧な意識の中では“彼女”のものだと錯覚してしまった。彼女の声に意識を向け、背中を摩る手のリズムに呼吸を合わせれば楽になれる。“大丈夫”と優しく語りかける言葉と心音は苦痛を和らげてくれる。「……ッ、は…ミラー、っ……」思わず彼女の名前が唇から溢れ、縋るように相手の片方の腕を緩く掴んだものの、その過ちには気付かない。正常な呼吸に戻る糸口を必死に探りながら波が引く事を願い続けて。 )
ロイド・デイビス
( 薬を望む事は出来てもその後それを飲み込む事が出来なければ恐らく相手に襲い掛かる苦しみは消えない。けれど無理矢理飲ませた所で結局は咳き込み全て吐き出してしまう未来しか見えなければ、少しでも落ち着く様にと背を擦る事しか今の段階で出来る事は無く。__ふいに先程よりも弱い力で腕を掴まれ、視線を向ける。痛みや苦しみに耐える力加減では無く今度はそれが“縋り”によるものだとわかったのは、相手の震える唇から絞り出された“名前”を聞いたから。“ミラー”が誰なのかはわからないが間違い無く意識が曖昧になっているのは確かで。もし“ミラー”がこの署内に、或いは近くに居るのならば今直ぐ呼んで来たいが生憎パッと思い付く署員の中にその名前の人は居らず、仮に居たとしても今の状態の相手を1人残し離れる事が最善とも思えない。『…警部補、』今一度呼んだ名前は先程よりも小さく、続けて『…大丈夫ですよ。』と口にしたものの、薬を飲めていない状態でどれだけの時間が経過すれば落ち着くのかもわからず、“大丈夫”を繰り返しながら背を擦り続ける時間だけが流れて )
( 狂った呼吸を必死に繰り返しながら、背中を摩る掌に意識を向ける。いつからだろうか、少なくともミラーが近くに居るようになってから、過去に意識が引き摺り込まれないように_____少しでも早く苦痛から解放される為の糸口を探る為、背中を摩る感覚に呼吸のペースを合わせる事で正常な呼吸を取り戻そうとするようになった。徐々に肺に届く深い呼吸が出来るようになると、曖昧になっていた思考が働き始める。やがてかなりの時間を要しながらも呼吸が落ち着くと、僅かに身じろいで薬を手にして相手が持って来たウォーターサーバーの紙コップで其れを飲み込んで。身体には酷い倦怠感が残り、首筋も汗に濡れているがなんとか意識を飛ばす事なく、落ち着く事が出来た。会議が終わってから1時間以上経過しているだろうか。相手を付き合わせた事にも申し訳なさが募り「______悪かった、」と少し掠れた声で告げる。「……戻らないと怪しまれるな、」とは言ったものの、身体は未だ辛い。一時的に酸欠状態に陥った事によるものか、手も小刻みに震えていた。 )
ロイド・デイビス
( __長い時間を掛けて相手の呼吸が安定したものに戻ると人知れず安堵の息を飲み込む。薬が確りと胃に落ちた事をこの目で確認し謝罪に対して軽く首を振る事で答えては、徐に斜め前の席に腰掛けて。『これだけ広い署内でたかだか2人の姿が数時間見えないくらい、誰も気付きませんよ。』どう見ても紙コップを握る指先は震えていてまだ万全の調子では無い事くらい誰が見てもわかる。戻る必要など無いと肩を竦め、聞く人が聞けば適当にも聞こえる返事を返すも、一応の言い訳は忍ばせておくつもりか、『もし万が一何か言われたら、俺の報告書がわかり難いから注意してた、とでも言えば大丈夫です。』と。続いて殆ど空になったであろう紙コップを一瞥し『…まだ飲みますか?』必要ならば再度持って来る、と受け取る為手を伸ばして )
( 自分の報告書について注意をしていた事にして構わないというのは、此方を気遣った相手の優しさだ。手を差し出されると紙コップを相手に渡し「…頼む、」と答えて。相手がウォーターサーバーで水を汲んでいる間、この状況をどう説明すべきかと途端に冷静になる自分が居た。到底正常ではない過呼吸に苛まれ、常用している薬の存在にも相手は気付いただろう。以前本部に居た時には隠し通す事が出来ていたが、全てを見られた今となってはどうする事も出来ない。口止めをすべきか、或いは少し体調が悪かっただけだと誤魔化すべきか、そんな不毛な事を考えている間に相手は水の入った紙コップを手に戻って来ていて、礼を述べると其れをひと口飲んで。重い倦怠感に身体は横になりたいと訴えるが、背凭れに深く身体を預けるに留める。「_____朝から、あまり調子が良くなかったんだ。」暫しの沈黙の後に紡いだのは、言い訳とも取れる言葉。誰に責められたわけでも無いのだが、自分自身の不甲斐なさから、つい口を突いた言葉だった。 )
ロイド・デイビス
( 水を汲む僅かな時間の間、紛れもなく考えていたのは相手と同じこの状況に関してだ。__相手のあんな状態を見たのは初めてだし、薬だって市販薬では無く明らかに病院で処方されている物だとわかる。頻繁的に起きる症状なのか、本来は救急車を呼ばなければならない程なのか。__頭を駆け巡る思考は相手の手に水が渡った事で急停止した。僅か伺う様に表情を盗み見るも、長く落ちた前髪の奥の瞳は倦怠感を滲ませている。先と同じく相手の斜め前に腰を下ろし__何かを問い掛けた訳でも無いのに唐突に落とされた言葉に一つ瞬く。その言葉を聞き届け軽く2、3頷くと『…寒くなって来てますもんね。』決めたのは相手の症状に追求しない事。けれど『でも少し驚きました。今日は珍しく落ち着いてるし、早めに帰っても問題無さそうですよ。』少しの心配を覗かせるくらいは良い筈だ。そう言葉にして漸く緩く微笑むと、続いて思い出したとばかりに再度閉じ掛けた口を開き『…そうだ。俺、ミラーさんの事呼んで来ましょうか?何処の課に居るか教えて貰えれば、』それは何も知らないからこその純粋な親切心。相手はきっと“ミラー”を探していると思っているからこその申し出で )
( 相手が先程の一件について深く追求して来なかった事に密かに安堵する。本来ならきちんと説明して、迷惑を掛けた事を謝罪すべきなのだろうが、自分の抱えているものを部下という立場の相手に全て打ち明けるのはどうしても気が乗らなかった。しかし、不意に相手の口から出た名前に驚きから思わず身体が固まる。相手は彼女の事を知らないのだから、その名前が出る筈がないのだ。その上、文脈を考えればまるで自分がミラーを探していたかのような______そこまで考えて、意識が朦朧としていた先程の状況を思い出す。誤って相手の名前を呼んだのだろうか。記憶にはないが、この状況に陥った時に側に居たのはいつも彼女だったことには間違いない。「……ミラーは此処には居ない。」と、ひと言答えて首を振る。「…意識が混濁していたのかもしれない。気を遣わせて悪かった、」その名前を自分が呼んだのだとすれば、それは意識の混濁によるもので深い意味はないと告げるに留めて。「______もう大丈夫だ、仕事に戻ってくれ。もう少し休んだら俺も戻る、」未だ気怠さを湛えた瞳を相手に向けると、もう自分の仕事に戻って欲しいと告げて。 )
ロイド・デイビス
__あ、そう…なんですか、?
( 記憶にある中では刑事課に【ミラー】と言う署員は居なかった様に思うがこれだけ広いのだ、別の課には居て相手はその人を呼んだ可能性があると考えたのだが、どうやらそもそもその名前の人は居ないらしい。では誰を__可能性としては極めて低いが、人で無いのなら愛犬か何かの名前でも呼んだのかと取り敢えず頷きはするものの、心底納得した訳では無い事はきょとんとした表情と曖昧な語調で直ぐに伝わっただろう。結果的に此方がそれ以上何か言う前に仕事に戻る様にと言われれば再び頷く他なく。立ち上がり一礼してから扉を開ける前。『…警部補、』と相手の名前を呼ぶと『俺で良ければ何時でも呼んで下さい。鞄くらい何度でも持って来ますから。』僅かにはにかむ様な笑みを浮かべつつ、勿論鞄の事だけでは無くどんな理由でも、との言葉を含ませてから今度こそ会議室を出る為の一礼をして )
( レイクウッドを離れてもう数ヶ月で1年が経とうというのに、未だ無意識にミラーの名前を呼んでいたとは。思っていた以上に彼女に寄り掛かり、支えられていた事を今更ながら改めて実感して小さく息を吐く。本部に戻ったのはあくまで自分の意志だ。しっかりしなければと自分に言い聞かせ、会議室を出ていく相手に視線を向けていたものの。不意に名前を呼ばれ、手助けの申し出を受けると「…あぁ、助かる、」と素直に言葉を紡いで。その親切心は有り難く受け取っておこうと。今回の一件で相手には要らぬ手間を掛けさせた訳だが、何かあった時に少しでも手を差し伸べてくれる存在というのは心強い。相手が会議室を出て行くのを見送ると、その後少し会議室に留まり大丈夫そうだと判断すると刑事課のフロアへと戻って行き。 )
ロイド・デイビス
( __刑事課フロアへと戻り再び仕事を始めてから凡そ30分程が経ち、遅れて会議室を出た相手が警部補執務室に入って行くのを見た。ある程度調子を回復させたのだろうと胸に安堵を落とし残りの仕事を片付ける。__それから特別捜査に呼び出される事も無くデスクワークを続け、気が付くと時刻は夜の6時を回った頃になっていた。普段の忙しさは何処へやら、比較的落ち着いている今日、早上がりの出来そうな署員達は仕事を終わらせ帰宅していてフロアに残るのは後数人。己もまた同じで提出しなければならない書類を提出した後帰ろうと席を立ちジョーンズの元へ向かうと、パソコンの画面を見詰めている彼女の横から『お疲れ様です、頼まれていたものが出来上がりました。』と、声を掛けつつ、手にしていた数枚の書類を手渡して。不備が無いかを確認して貰う間、視線を流したのは警部補執務室。何時の間にか窓から漏れていた光は消えていて知らない間にエバンズは帰ったのだろうか。彼女からOKが出れば再び視線を相手へと向け。後は自席に戻り帰るだけなのだが__『……“ミラーさん”ってご存知ですか?』口をついた唐突にも取れる問い掛けは意識の混濁が見られたエバンズが口にした名前。物凄く気になるかと言われればそうでは無いのだが、スッキリはしないのだ。些か詮索し過ぎかとは思うものの、相手に聞けば何かわかるかと思っての事で )
クレア・ジョーンズ
( 相手から書類を受け取ると目を通しておくと笑顔で返答したのだが、一拍の間を置いて思いがけない名前が不意に相手の口から出た事に驚いて相手に視線を向ける。「えぇ、知ってるけど…」と答えたものの、新人として配属された時からずっと本部にいるデイビスとレイクウッドのミラーとの共通点は何かと暫し考える。年齢は同じくらいか彼の方が少し上だろうか。すぐに浮かんだのは当然“ベル・ミラー”だった訳だが、少し考えてからこの署にも“ミラー”という名前の署員がいた事を思い出して「…あ、もしかして総務のミラーさんの事?私たち刑事課が直接関わる事はあまりないけど…情報セキュリティ関係の事に詳しい人よね。」と、覚えている限りの情報を告げる。「ミラーさんがどうかした?」と尋ねて。 )
ロイド・デイビス
( エバンズは“此処には居ない”と言った“ミラー”を相手は知っていると言う。総務課の人達の顔を思い浮かべるも、当然ながら全員を思い出す事など出来る筈も無く正直な所ピンとは来ない。__何故彼はあの時一度は探していたその人を、急に居ない等と言ったのか、彼自身が言っていた通り記憶の混濁を考え、そこでこれ以上の詮索を辞める。少なくとも“ミラー”は存在して居て想像していた犬では無い可能性の方が格段に高くなったから。口角を持ち上げる様に笑みを浮かべ問い掛けに関して軽く首を振ると『いえ、警部補が探してたみたいだから少し気になって。』上司と部下の他愛無い会話の中の特別じゃない事、と言うニュアンスで答えた後。『でも、総務課に居るなら俺が態々探すまでも無いですね。』緩い笑みのまま軽く肩を竦めて見せて )
クレア・ジョーンズ
( “警部補が探していた”という言葉に思わず目を瞬く。彼が探していたのなら、やはり一番に思い浮かんだ彼女である可能性が格段に高い。しかし、彼女の事を探している、だなんて、あのエバンズが言うだろうか。『アルバートが?…それなら、多分本部には居ない人だわ。以前勤務していたレイクウッドにいた刑事じゃないかしら。よく一緒に捜査をしていたから、少なくとも総務課のミラーさんよりは近いはずよ。』詳細については言及しなかったもののあくまで事実だけを伝えて、以前の署に居た人物の可能性が高いと伝えて。しかし、確かに相手はエバンズにとって以前から知る部下で、珍しく相性も比較的良いように見えるのだが、自分のプライベートな話をするとは考えにくい。『……貴方に、“ミラー”を探してるって言ったの?』首を傾げつつ、尋ねて。 )
ロイド・デイビス
( 相手のその言葉で漸く“此処には居ない”の本当の意味を理解し、同時に納得した。以前勤務していた署に居た署員の名前だったのならどう頑張った所であの時自分が呼んで来れる筈が無い。何故か無性に気になってしまった“謎”が無事解決した事でスッキリと家に帰れると、いっそ清々しい気持ちさえ覚えた所なのだが__どうやら一度は解決したと思っていた“謎”が相手に移ってしまったらしい。不思議そうに首を傾けどうにも腑に落ちていない様子に勿論放って『お先に失礼します。』なんて帰れる筈も無く。しかし返事にはとてつもなく困った。正確に言えば“ミラーの名前を呼んだ”だけで直接探していると言われた訳でも、連れて来てくれと言われた訳でも無い。加えてあの時彼は明らかに倒れても可笑しくない程に調子が悪そうだったものだから、それを相手に伝えても良いのかわからなかったのだ。『……あ、いや__直接探してるとは言われなかったんですけど、』何と答えるべきか、僅かに視線を逸らす様に相手の横の壁を見ながら言い淀む事数秒。上手い誤魔化しを見付ける事は出来ず、『…多分、俺とミラーさんを勘違いしたんだと思います。』“意識が混濁していた”と言った彼の言葉を思い出しそれに乗っかる形の返答をしつつも、普通ならば此処に居ない相手と勘違いする筈も無く、更なる疑問をまた生み出すだけだと気が付くと暫しの沈黙の後『……少し調子が悪そうに見えて、』明らかに“少し”では無かったのだが、これが出来る限りの返答で )
クレア・ジョーンズ
( 彼女が此処に居ない事を、当然エバンズは誰よりも理解している。例え暗闇の中だったとしても、性別も背格好も何もかもが違う相手をミラーと混同する事など“通常では”あり得る筈がない。その違和感は直ぐに、相手の言葉によって解消される事になる。相手は“少し”調子が悪そうだったと言葉を選んだが、側に居る人物をミラーと混同する程体調を崩した所に、相手が居合わせたと言う事だろう。『そうだったのね。…此の所急に寒くなったから、』相手をあまり心配させないようにと、重くなり過ぎないように紡いだ言葉は奇しくも相手と同じもの。同時に朦朧とした中で名前を呼ぶほど、やはり彼にとってミラーは大切な存在なのではないかと、やるせない気持ちになる。エバンズが本部移動を決めた理由は知っている。不器用な彼だからこそ、ミラーを大切に思うからこその決断だと分かっているが、彼自身の心を蔑ろにした決断だ。実際本部に移動してきてから1年ほど。エバンズとミラーが接点を持っている様子は見られないし、顔色が良くないと感じる事も増えて来た。再び目の前の相手へと視線を向けると『アルバートが探していた人の事は心配しないで。貴方から聞いた事も本人には言わないから。…また声を掛けてあげて。あの人、あんな顔だけど貴方の事は好きだと思うわ。』と告げる。今回の件については此方でなんとかするし、相手から聞いたと話したりはしないと約束して。そうして、少し悪戯っぽく笑うと懲りずに彼に”構ってあげて欲しい”と伝えておき。 )
ロイド・デイビス
( 上手い返しが出来た訳でも、確りと誤魔化せた訳でも無かったが相手は根掘り葉掘り聞いて来る事はせずただ納得した様子を見せただけだった。けれど相手が一言紡いだ言葉は己がエバンズに掛けたそれと同じもの。嗚呼、きっと“全て”を理解した上での納得なのだろうと直感的に感じると、『__本当に。初雪も近いかもしれませんね。』同意する様に頷くと同時、その動作と共に持ち上げた瞼の奥の瞳に何処か柔らかな色を宿して。__あの会議室で調子の悪いエバンズを見付けたのが自分では無く相手だったら。もしかしたら彼はもう少し弱音を吐く事が出来て、何かが違ったのかもしれない。ふ、とそんな“たられば”が浮かんだ正にその時。落とされたのは此方の気持ちを汲んだ約束と、悪戯な“お願い”。その言葉と笑みに一度瞬き、直ぐに破顔すると『好意を持たれてる顔では無かったと思いますけど、もしそれが本当なら…警部補は常に“誤解”と戦うはめになりそうです。』皮肉などでは無く、言うなればまるで上司と少しの言葉の遣り取りをする様に。それから悪戯な色宿る瞳を見詰め、所謂安堵の溜め息を小さく吐くと『…ジョーンズさんって良い人ですね。』今感じた気持ちのそのままを言葉に、軽く頭を下げて )
クレア・ジョーンズ
( 彼の周りが少しでも暖かければ良いと思うのは、ずっと側で彼を見て来たからこその勝手な思い入れだろうか。相手が言うように、彼は誤解されやすい。けれど本当は優しい人なのだ。続いた相手の言葉には『______そうよ、今気付いたの?』と悪戯に笑みを浮かべて返事をする。『引き止めてごめんなさい。気を付けて帰ってね。』遅くまで話し込んでしまったと思えばそう言って彼を解放し、書類をデスク上に置かれたトレーに入れて。---エバンズが去ったレイクウッドには未だ一度も行けていない。デイビスから聞いたことを横流しするつもりはないが、少し彼女と話がしたいと思い時計を見上げると、スマートフォンを開いて“ベル・ミラー”の電話番号を押していて。 )
( __犯人の自白を引き出す事が出来、一件の事件捜査を無事に終わらせた今日。身体の疲れは然程感じていないものの、ご飯を作って食べる事が無性に面倒に感じてしまい近くのお店で中華をテイクアウトし食べ終えたのがついさっきの事。特別興味のそそられる番組も無く、適当に流しているだけのニュースの情報を聞きながらソファに深く座り、膝掛けのじんわりとした温もりを感じながら何か温かい飲み物でも、と思った矢先。テーブルに置いてあるスマートフォンが震え着信を知らせた。前のめりでそれを手にすれば、画面には此処暫く顔も見ていない、声も聞いていない【クレア・ジョーンズ】の名前があり。近々誰か応援に来ると言う話も聞いていない為、それ関係の話では無いだろうが何かあったのだろうかと通話ボタンを押し「…お疲れ様です、ミラーです。」携帯を耳に、再度背凭れに背を預ける形で電話に出て )
クレア・ジョーンズ
( 数コールの後に相手の声が聞こえると『もしもし、ベルちゃん?こんな時間に急にごめんなさい。ちょっと声が聴きたくなっちゃって…用事がある訳じゃないんだけど、』と告げて。用もなく電話をするには少し遅い時間だと分かっているだけに、声には少し申し訳なさが滲む。都合が悪ければまた掛け直すと付け足しつつ、『最近レイクウッドに行けてないから、どうしてるかなと思っていたの。』と続ける。エバンズは早々に署を後にしているため、この電話を聞かれる事もない。電気の消えている執務室に視線を向けつつ、相手の近況を尋ねて。 )
( 電話の向こうから聞こえる声は少しの申し訳なさを滲ませていて、“こんな時間”に釣られる様に壁掛け時計を半無意識に一瞥するも、用事の有無に関わらず例えどんな時間であれ相手と話をする事が出来るのならば何の問題も無いのだ。「私も声が聞きたかったです。だから、…嬉しい。」片手で膝掛けを少し引き上げつつ懐かしいその声を噛み締める様にはにかみ。続いた近況への問い掛けには緩めた口角をそのままに「何も変わらずですよ。」と、先ずは相手に余計な心配を掛けない様にと問題無い事を伝える。数ヶ月前に起きた事件の事も、エバンズの事も、何も口にはせぬまま「…強いて言えば、以前クレアさんと一緒に食べたベーグルのお店。あそこに新商品が出たくらいです。」彼女が初めてレイクウッドに応援に来た日に食べたお店の話題を持ち出し、少しだけ悪戯に笑って見せて )
クレア・ジョーンズ
( 相手の声色は落ち着いたもので、元気にやっているようだと安心する。『あ、あのお店?美味しかったわよね、またレイクウッドに行った時連れて行ってね。ワシントンにもテイクアウト専門のベーグルショップが出来てね、今期間限定でりんごとサツマイモのジャムが出ていて…もう2回食べちゃった。』相手と一緒に食べたベーグルショップの話題が出ると、また食べに行きたいと言いつつワシントンにできた店の話をして笑う。『ベルちゃんが本部に来た時には連れて行ってあげるわね。近くの公園のベンチで食べるのがお気に入りなの、』他愛のない話をしてから『仕事はどう?困ってる事はない?』と尋ねて。 )
( “勿論です”と目前に相手は居ないながら大きく頷くのだが、まさかワシントンにも似た様なお店が出来ていたなんて。「絶対美味しいやつじゃないですか、それ。今年はもう間に合わないかもしれないけど来年もし行く事があれば是非お願いします。」出来たての全粒粉の香り立つモッチリとした弾力あるベーグルに仄かな酸味やコクのあるジャムが合わさり絶妙な旨味を産む__想像しただけで美味しい事間違い無しのそれに少しだけ羨ましそうな声色で返事をしては、何時になるか、そもそも果たしてこの先本部に行く事があるのかもわからない中で敢えて“来年”と口にして。テレビは何時しかニュース番組から良くわからないバラエティ番組に替わっていた。伸ばした手でリモコンを掴み違うチャンネル番号を押し再度別のニュース番組に切り替える。「事件そのものの数は特別増えていない筈なんですけど、新しい警部補が来てから倍忙しくなった気がします。…勿論悪い人じゃないんですよ。でも__皆エバンズさんの仕事ぶりを知ってるから、」心底困り果てている愚痴では無いものの、日々業務に追われる事は確か。此処で漸くエバンズの名前を出すと少しだけ困った様に笑いつつ「…エバンズさんは元気ですか?」と、彼の調子を問うて )
クレア・ジョーンズ
( 本部への応援は様々な地方の署から派遣されるため機会としてはあまり多くないだろう。前回の応援も別の女性刑事が来ていたし、ある意味競争率が高い枠のかもしれないが。『また最新のベーグル情報を仕入れたら連絡するわね、』と悪戯に笑って。---“忙しい”という言葉を、やり取りのあったレイクウッドの刑事たちから今年に入りよく聞くようになった。『そうなの…アルバートの働き方はやり過ぎだったとしても、警部補が1人変わっただけでそこまで負担が増えるっていうのも困った話よね。あの人だって他の刑事の仕事を奪ってまで働いていた訳じゃないし…新しい人、サボりぐせがあるのかしらね。』彼ほど仕事に熱心なタイプではなかったとしても、元々1人で賄う役職。其処が入れ替わっただけで、そこまで負担が増えるというのは明らかに可笑しいと、困ったような口調で答えて。『…いつも通り、毎日パソコンと睨めっこしてるわ。』肩を竦めつつ、そう述べるに留める。先ほど聞いたばかりの話では、体調を崩している事がある様子だったが欠勤するような重篤なものではないし、相手を心配させてしまうだろう。『_____アルバートとは連絡は取ってる?』それとなく相手に尋ねて。 )
__ずっと電気も点いてるし執務室に居るって思い込んでたけど、実際は抜け出して散歩でもしてるのかも。…なんて。忙しいのは本当ですけど、音を上げる程では無いんです。だから、あまり心配しないで下さいね。
( 何方の警部補も執務室に閉じ篭り用事のある時にしか出て来ない印象だが、相手と決定的に違うのは“捜査に出ない”と言う所。本当に丸一日籠城を決め込んで居るのだからその間に書類の数枚の確認くらい出来る筈だと他の署員から文句の飛ぶ気持ちもわかるのだ。けれど現段階では何もかもが機能しなくなっている訳では無い。余計な心配を掛けぬ様敢えて冗談を口にしながらも、まだまだやれるのだと言う意思表示は確りと伝え。約1年が経った今も尚、どうやら彼の働き方は変わっていない様だ。眉間に皺を寄せた難しい顔でパソコンを見詰め、此方が話し掛けても顔すら上げない時がある。数え切れないくらい見て来たその表情をたった1年会わないだけで忘れる筈も無く鮮明に思い出せるものだから、胸の奥が小さく痛み、それに気が付かない振りをして微笑むと「良いんだか悪いんだか、ですね。」と肩を竦め。次いだ問い掛けには言葉が詰まった。この1年、たったの一度だって相手に連絡をした事は無かった。その理由は自分でもわからない。声を聞いたらまた会いたい気持ちが溢れ出し泣き言を言ってしまうから、確り1人でもやれているから何も心配いらないと暗に伝えたかったから、変に強がってしまったから__もしかしたら思い浮かぶ理由のそのどれもが正解なのかもしれない。ただ、“1年”と言う年月が思いのほか長くて、何かが変わってしまった様にすら思えたのだ。「……いえ、」と、一言答えてまた口を噤む。途端に重たい空気が自身の周りを漂い、それを払拭する為に立ち上がると、膝掛けをソファの端に畳み携帯は耳に付けたままキッチンへ。愛用のマグカップにスティックコーヒーの粉を入れケトルにお湯を沸かしながら「…エバンズさんの事、気にならない訳じゃないんです。ただ、何を話せば良いのか急にわからなくなっちゃって。」その場に立ったまま、表情は笑顔こそなれど困った様に声量は落ちて )
クレア・ジョーンズ
( 彼の居なくなったレイクウッドで、泣き言を言わず一刑事としてしっかりやらなければと気を張っている、というのはあるのだろう。忙しくはしているもののあまり心配しないで欲しいという言葉には少し困ったように1人微笑んだものの、破綻するほどの状況ではないのだから今は相手の言葉を尊重してそれに従い見守ろうと。---やはり相手とエバンズは連絡を取り合う事はしていないらしい。“何を話せば良いか分からない”というのは、お互いがお互いを思うからこそ、2人ともが抱えているぎこちなさのように思えた。「……きっと、アルバートも同じ事を思っているわ。本当はベルちゃんに話したい事がたくさんある筈だもの。』心細く辛い状況に陥った時、無意識ながら相手の名前を呼んでいたのだと伝えられたら、2人の向き合い方は変わるだろうか。本当は相手を守る為に本部に戻ったのだと伝えられたら______きっと彼はそれを良しとしない為自分の口から伝える事はないが、本当は相手の事がずっと心の内にあるのだという事だけでも伝えたかった。『レイクウッドでの2人を見て、すごく嬉しかったの。アルバートもすごくベルちゃんに心を開いているのが分かって……こっちではベルちゃんみたいな人が居ないから、少し寂しそう、…なんて。そんな事言ったらきっと怒られちゃうわね。…だいたい不器用過ぎるのよ。あの人なりの優しさなんて、忘れちゃうくらい時間が経ってから気付くの。言葉にもしないし、顔にも出さないんだから。』彼なりの正義を貫く時、彼はそれを一切顔にも出さず、ただ静かに水面下で事を進める。相手を大切に想うからこをワシントンへとやってきたエバンズの事を思い、つい途中からは言葉に力が入ってしまい、思わず自分を落ち着かせようと深く息を吐く。すれ違っている2人を見るのは酷くもどかしくて、言葉に力が入ってしまうのだ。 )
__私に話したい事、…もっと客観的に周りを見て冷静に捜査しろ。とかですかね、
( 彼が自分に話したい事なんて。好き好んで世間話に花を咲かせるタイプでも無いし、相手と違って何処のお店の何が美味しいなんて話は余程暇であっても絶対にして来ないだろう。彼がもしこの距離で話したい事があるとすればそれは“仕事の事”だろうと少しおどけた様に答えるも、数秒後には真顔に戻る。持ち上げた筈の口角は思いの外重くまるで自分の表情筋では無い様な感覚だった。お湯が沸いた事でケトルの電源が切れ、マグカップに注ぐ事で出来上がったコーヒーを片手に再びソファに座り直す。その行動も半無意識の中。だからこそコーヒーは真っ黒のままで、苦いまま。マグカップに口を付ける事をせず目前のテーブルに置き電話口の相手の言葉を静かに聞くのだが、途中から明らかに声色も声量も変わり、感情の昂りが感じられたものだからその珍しさに一度瞬き。同時に酷く優しい思い遣りが流れ込んで来た気がした。彼を思い、己を思ってくれるその優しさは何時だって素直なまでに真っ直ぐに届く。「………エバンズさんに誇れる刑事になりたいんです。」沢山の時間を掛けて漸く話始めた声は僅かに震える。「1人でも確りやれてるんだなって思って欲しい。…でも、このまま連絡をしないで、何時かもっと長い年月が経って、…エバンズさんに会いたいっていう気持ちも、大好きって気持ちも…っ、もし、全部無くなったら……、」それは、とてつもなく恐ろしい事。問題無いのだと思っていて欲しい、けれど本当は会いたくて連絡がしたい、でも今更何を話せば良いのか。複雑に絡み付く様々な思いは何時しか身動きが取れない程にきつく結ばれる物になっていた。言葉尻が萎みそれ以上を飲み込む形で息を吐く。そうして深呼吸の後に薄く唇を開くと「…以前の私だったらさっさと飛行機に飛び乗って、今頃もうワシントンでエバンズさんにベーグルの差し入れしてる筈なのに。」空気を変える為の少しの冗談を交えた言葉を。嗚呼、何時からこんなにウダウダとネガティブに考え何もかもに足踏みする様になってしまったのか )
クレア・ジョーンズ
( 相手の中にも様々な思いや葛藤がある事を知る。心配を掛けないように、刑事として1人でもやっていけるということを暗に伝えるために、連絡をしないまま1年が経とうとしているのだ。『…自分の気持ちを押し殺す必要はないと思うわ。ちょっとした近況を報告するだけでも、アルバートも安心出来るんじゃないかしら。地域の署の報告書が上がって来ると、時々レイクウッドの資料に目を通しているのを見るもの。』彼も、レイクウッドに心を寄せていることは間違いないと伝える。お互いに気を遣いすぎてぎこちなく距離が離れて行ってしまうのは寂しい事だ。『_____今すぐに、とは言わないけれど、自分の心に従って動くべきよ。ベルちゃんはそれが得意でしょう?“頭より先に身体が動く”って、前にアルバートも言っていたもの。…ちょっと失礼ね、』心を固く縛り付けて自制する必要はない。相手は心の向くままに行動する事が出来るのだから、その伸びやかな自分らしさを失って欲しくはないと。いつか彼が可笑しそうに相手の話をした事を思い出して、その言葉を伝える。彼は心で感じたままに動ける、生き生きとした相手の事を少し羨ましく思っていたのかもしれないと思いつつ、彼らしい言い回しに少し首を傾げて笑って。『でも、ベルちゃんの話をしている時、楽しそうだった。』と付け加えて。 )
( __そうだ。何も連絡をしない事が相手に心配を掛けない唯一の方法な訳では無い。様々な事件を確りと解決して日々を充実して過ごして居ると話せば彼はそれだけで安心出来る筈。__“確りと解決して”に自分で言って少しの引っ掛かりを覚えたのだがそれには直ぐに蓋をする。「…私が思ってる以上に此処の事を気にしてくれていたんですね。」此処から送られる報告書を見ていた事は勿論知る由が無い為に、初めて知ったその事実を深く胸に落とす事となり。続けて紡がれたアドバイスの中に、相手と彼との話の中に出た聞く人が聞けば失礼だと感じる一言があったのだが、勿論己はそうは思わない。寧ろすんなりと頷く事が出来るもので、同時に矢張り無性に懐かしさを覚えた。自然と口元には笑みが浮かび、何処か呆れた表情の彼の顔がハッキリと思い出されるものだから、「…エバンズさんがそう言うなら、きっと私の得意な事の一つです。」何だか全く素直な返事では無いが、その声色の柔らかさや微妙に照れ隠しの様な感じは伝わるだろうか。そうして現金な事に、それだけで心が満たされる。己も相手と彼の話をしている今、とても楽しいのだから。「…ワシントンに遊びに行った時、3人でご飯が食べたいです。」今度は素直な迄に要望を口にしつつ、僅かはにかんで )
クレア・ジョーンズ
( 電話の向こうから聞こえる相手の声が少し柔らかくなった事に安堵すると静かに微笑みを浮かべる。『勿論。引きずってでもベーグル屋さんに行って、3人で公園ランチにしましょう。ディナーもね。』と、相手の言葉に大きく頷きつつ悪戯に笑って告げる。ワシントンで、3人で食事が出来たらとても楽しいだろう。『…レイクウッドでも、また3人で食事をしたいわよね。』一方で、エバンズがワシントンにいる今相手の気持ちを考えるとそれを望むべきではないのかもしれないが、そんな言葉が落ちる。『ワシントンから私とアルバートで応援に行けば良いのよね。機会を狙ってみるわ、』と付け加えて。 )
( 相手の口から出た予想外の荒っぽい言葉にギョッとしたのは自然な事だろう。これがエバンズやダンフォードの言葉なら__何て言うのは偏見かもしれないが“引き摺ってでも”なんて聞くとは思わなかったのだ。相手の姿とその言葉のアンバランスさを考え次には思わず堪えきれなかった笑みが溢れ。「エバンズさん細身だけど身長は高いからなぁ、私達2人掛りなら連れて行けますかね?」体重こそ体格の良い男性と比べると軽いかもしれないが、その分彼は高身長だ。悪戯な言葉に乗っかる様に戯言の心配を態とらしく口にし、またクスクスと笑って。果たして“レイクウッドで”彼と会う事は出来るのだろうか。__相手から受け取った沢山の温かい言葉で小さな気持ちの芽が発芽していた。それは素直な迄の“近くに居たい”と言う気持ち。そんな気持ちを見透かした様に付け足された言葉は所謂希望で、「2人が揃って来てくれるならとっても頼もしいです、本当に。…ホテルがとれなかったら私の家に泊まって下さいね。」心底安心出来る事だとしみじみと。続けて観光地でも無いレイクウッドでホテルがとれないなど基本的には有り得ないとわかっていながら悪戯に笑う。3人でお喋りをしながら夜を過ごす、朝が来る事すら惜しいと思える、きっと楽しく素敵な時間だろうと簡単に想像出来てしまうのだ )
( 2人がまた近々再会する事を約束して電話を切ったのが、もう数ヶ月前の事。---きっかけは妹の命日だっただろうか。数年ぶりに“あの日”を当時と同じ場所で迎えるのは、思った以上にきついものがあった。普段通る道や署内でのふとした瞬間に些細な記憶が甦り、その全てが当時を鮮明なまでに思い出させた。あの日を過ぎさえすればと耐えていたものの、命日を過ぎて、世間からあの事件に関する記事や報道が消えても、一度崩れた其れは元に戻らなかった。眠る事ができず浅い眠りに落ちても悪夢に魘される。発作が酷くなり、大学病院で処方される薬では殆ど効果を感じられなくなっていた。身体に強い痛みを感じる事も増え、人目のない所で必死に痛みをやり過ごし、市販の鎮痛剤を流し込んだ。沼に徐々に足を取られ、沈み込みそうになるのを必死に耐えているような感覚と言うべきか。目眩や身体の痛みで捜査に集中できない事もあり、自分でもかなり状態が悪い事は理解していた。しかし誰に助けを求める事もなく、警部補として今求められる仕事を黙々と続けて。---その日も、執務室で報告書に目を通している最中、鳩尾に痛みが走りジャケットの下で痛む部分に手を添え、力を入れて抑えることで痛みが落ち着くのを待った。数分で幾許か痛みは落ち着いたものの、首筋に浮かんだ汗をハンカチで軽く抑えて。 )
警視正
( __此処数週間の間で、相手の顔色の悪さが目に見えて酷いものになっていたのは気が付いていた。“妹の命日”を過ぎて立て直す可能性に賭けていたが流石に限界だと言う判断を降す事になったのが今朝の事。比較的落ち着いてるお昼前、相手が警部補執務室に居るのを確認して扉を叩く。返事の後に部屋に入り一番初めに目に留まったのは矢張り青白いその顔で、僅かに眉を微動させた後『…少し話があるんだが、今良いか?』と、切り出して )
( ノックの後に扉が開き、入って来たのは警視正だった。彼とは以前本部に居た時にも関わっており、レイクウッドのウォルター警視正とも顔馴染み。本部でも同じように警視正として働けるよう取り計らってくれた人物だ。相手の表情を見て、あまり良い話では無さそうだと感じる。少し背筋を正しつつ、此の所の捜査の進みの遅さを指摘される可能性を考えながらも「はい、」と頷く事で相手の言葉を促して。 )
警視正
( 此方の語調の真剣さを感じ取ったのか僅か姿勢を正した相手に『楽にして構わない。』と、一言告げると何からどう切り出すべきかと思案する。難しそうに少しばかり表情を顰めたものの、結果的に回りくどい言い方をした所で何にもならないと思えば相手の碧眼を真っ直ぐに見据えた後『__隣接しているFBI訓練生のアカデミーはわかるな?急ではあるが、君には来週の頭からそこの座学専門の教官職に就いてもらう事が決まった。』提案や要望では無く、あくまでも決定事項なのだと言うニュアンスでそう告げる。ほぼ間違い無く拒否してくるだろうとは思うものの、一先ず相手の返事を待つ間を空けて )
( 警視正の口から紡がれた言葉は到底想像出来るはずもない、大きな衝撃を与えるものだった。「______、」思わず絶句した、と言っても良い間が空き視線が重なったまま時が止まった後、冷静になれと自分自身に言い聞かせ相手の言葉を反芻する。“FBIアカデミーの座学専門の教官職”_____大勢の教官が訓練生を育て一人前にして現場に送り出している事は当然知っているし、その仕事に対して敬意も持っている。しかし、自分が教官の立場に立つというのは一体どういう事か。教官は皆FBIアカデミーに属し、本部や地方の署の“刑事課”からも外れた独立した存在だ。つまり彼らは“教官”として後進の育成に注力するのであって、“刑事”ではないのだ。「………刑事を、辞めろと言う事ですか、?」言葉になった第一声は其れだった。教官になれ、と言われれば聞こえは良いが、刑事として在り続けたいと思う者にとって其れはクビを宣告されるようなものではないか。「経験を買って、警部補として本部に迎えてくださったんじゃないんですか、」思わず責めるような言葉が漏れて。 )
警視正
( 案の定驚愕に見開かれた瞳と視線が交わる。その状態で互いに見詰め合ったまま暫しの時が流れ、程なくして絞り出す様に落とされた第一声は普段冷静な相手からは珍しく困惑がありありと滲むもので。けれど此処で情に流され曖昧な返事をする様な事があってはならない。一切視線を逸らす事無く『そうだ。』と、頷きと共に滔々と言い切り。冷静になれ、と抑えつけているのだろう感情の隙間からどうしたって納得のいかない気持ちが流れるのを感じたのは、次いで紡がれた責める様な色宿る言葉を聞いたから。刑事を辞めろとは断言したが、相手の考えているだろう理由とは異なる。それだけは確り説明しなければならないと言葉を聞き届けた後、『…その通りだ。君だから警部補の役職のまま此処に呼んだ。』先ずは相手の言葉を肯定し。『昔同様、捜査の進め方も報告書の出来も皆に見習って欲しいくらいだ。仕事のやり方に問題があっての話じゃない。__限界だろう?その身体で、この先も刑事として居続けるのが難しいと言う事は君自身が一番良くわかっている筈だ。』この異動は刑事としての相手の仕事振りに失望した訳でも、能力が劣っていると思った訳でも無く、ただ心身の状態を客観的に見ての事なのだと )
( 相手は仕事ぶりに問題があっての事ではないと言った。続いた言葉には思わず一度固く目を閉じる。結局、レイクウッドに異動する事になったあの時と同じではないか。抗えない心身の不調が、自分の望む道を歩けないように足を引っ張る。「______未だやれます。欠勤をして迷惑を掛けるような事はなかった筈です。」と、心身の不調を理由に仕事を請け負えなかったり、スケジュールを長期で変更せざるを得なかったりと言った周囲への影響は無かったと訴える。---しかし“自分が耐える”事で仕事が滞りなく進む、という状況が失われつつあるのは感じていた。薬を飲んでさえいれば概ね日中の仕事に支障はなかったのだが、此の所はその限りではない。痛みや目眩に集中力を遮断されることもあり、限界が近い事を頭の片隅で感じていたのは警視正の言う通りなのだ。それでも。それでも、刑事で無ければ意味がない。 )
警視正
( この決定事項が相手の心をどれだけ絶望に落とすかを察する事が出来ない程、愚かでは無い。自分の意思とは関係無しに襲い来る不調を“今は駄目だ”とコントロールする事が出来ていれば相手は今も昔もこんなに苦しんだりはしない筈だ。余りのやるせなさに固く瞳を閉じた相手と同じタイミングで僅か視線を床へと落とし再び持ち上げる。そうして紡がれた案の定の訴えを退ける様に首を横に振ると『…自分がどんな顔をしてるか知っているか?、署員の中にも君の様子が可笑しい事に気付いてる者が出て来てる。…“隠し通す事”も“耐える事”も、もう限界の筈だ。』決定は覆らないとばかりの厳しい言葉を続け。『君が“刑事”に拘る理由を知らない訳じゃない。だが、今無理をしてどうなる?教官として身体を労りながら、回復した後にまた刑事に戻れば良い。無理が祟ってこの先二度と戻れなくなったら、それこそだろ。』相手はまだ若い。今ならまだ“刑事”としての未来が完全に無くなった訳じゃないのだと、後半はまるで言い聞かせる様な語調に変わっていて )
( 体調が優れなくても仕事中は平静を装い、なんとか隠し通せていると思っていた。しかしその裏で、異変に気付いている署員も居たらしい。初めから何もかもが中途半端だったのだ、捜査も、自分の弱みを隠し通す事も、満足に出来ていなかった。言い聞かせるように紡がれる警視正の言葉に、現時点でその決定が覆る事はないのだろうと思い知らされる。警視正は“今なら再び刑事に戻れる可能性はある”と言ったが、果たしてどれほどの時間が掛かるだろうか。拒否出来ない命令なのだと理解すれば、心に重くのし掛かるのは絶望や深い自己嫌悪に近い感情だった。再び鳩尾に鈍い痛みが走ると細くゆっくりと息を吐き出し、相手へと視線を持ち上げる。「______そんなに、酷い顔をしていますか。」周りから見て自分がどんな顔をしていたかなど、知る由もない。ただ、あの事件が起きた日の少し前から体調がかなり悪化しているのは自分でも当然分かっていた。 )
警視正
君が思ってる以上には、な。
( 互いに譲る事無く長い時間押し問答が続く事も想定しての通告だったのだが、何を言った所で決定が覆る事が無い事を感じ取ったのだろう。ただ一言だけそう言葉にした相手にほんの僅か表情を緩めつつ答える。何時見ても青白い顔をし、時には痛みや苦しみに耐えているのか眉間に皺を寄せ動かない姿、目眩に襲われているのだろう立ったばかりなのに不自然に座り直す姿を目撃した時もあったのだ。『必要な物は全て向こうに揃っているから、私物だけ持って行くと良い。』と、面倒な準備諸々が無い事を説明した後、『…何かあれば、何時でも連絡してくれ。出来る限り力になると約束する。』こんな気休めにすらならない言葉で相手の心が穏やかになるとは思わないものの、空白の時間があるとは言え長く見て来た部下だ、思う所は当然あるようで )
( 警視正からのたったひと言で、一瞬にして自分を取り巻く環境は激変する。この刑事課に、もう自分の居場所はないと言うことだ。「______…分かりました、」上からの正式な命令を拒否する事は出来ない。諦めの乗った声色ながらそう答え、また執務室を片付けなければならないのかとデスクに視線を落として。---刑事として働く時間はあっという間に終わりを迎えた。署員が出勤しない日曜日の内に執務室を後任に引き払い、1人刑事課を後にする。ジョーンズには状況を話し度々の異動で迷惑を掛ける事を詫びたものの、彼女は少し眉を下げつつも微笑んで“また直ぐに戻って来て、身体を大切にね。”と応じた。---FBIアカデミーで教官として働くようになると当然捜査に赴く事はなくなり、此れまでの働き方とは一変した。数十人の訓練生を前に、教室の中で時に椅子に座ったまま捜査について話し、提出されるリポートなどに目を通す。本部の刑事たちと顔を合わせる事もなければ、今ワシントンでどんな事件が起きているかと言った情報も全く入ってこなくなった。同時に無理を押して現場を回る事もなくなったもののそれだけで体調が上向く事もない。感情には蓋をして、求められる仕事をこなすべく授業をするばかりの毎日が続いて。 )
( __“不器用な彼の優しさは忘れてしまうくらい時間が経ってから気が付く”。ジョーンズと電話をした日からその事がずっと頭の片隅にあった。そうしてその言葉が示す所に気が付いたのが数ヶ月前。__相手が何の相談も無しに急に本部への異動を決めた時、その理由がわからず、ただ余りに大き過ぎる悲しみと喪失感に泣いて縋っただけだった。だが、今ならちゃんとわかる。不器用で優しい相手が精一杯守ろうとしてくれた結果なのだと。犯人の動機は“相手と近い者を傷付ける事で、アナンデール事件の時同様再び守れなかったと言う追い体験をさせる事”。そしてその犯人は逃走したまま捕まっていない。再び狙われ危険が訪れる事を危惧し、相手は全てから離れる事を選んだのだ。それがわかった時、自分の気持ちの事ばかりで、相手の心に少しも寄り添えていなかったと自分自身への不甲斐無さでいっぱいになった。__常に抱え続ける沢山の気持ちの中、スマートフォンの画面に映される相手の名前を見詰める。時刻は夜の9時前、この時間ならば相手はまだ眠っていないだろうと思うのだが、簡単な事の筈なのにどう言う訳か指が動かない。画面を見詰めるだけの時間がそれから10分程。ふ、と一つ息を吐き、意を決するかの様な気持ちで漸く相手の名前を押すとそれに続きコール音が鳴り。3コールで出なければ電話を切り、間違えたのだとメッセージを残そうと決めて )
( 仕事を終えホテルの部屋に戻ると、ジャケットだけをソファの背もたれへと掛けワイシャツのまま肘掛けに頭を乗せ横になる。倦怠感がいつも付いて回り、部屋に戻ると夕食も食べず横になって休む事が多くなっていた。不意にスマートフォンが着信を知らせ、画面を見ると表示されていたのは此処1年ほど見ることのなかったミラーの名前。暫しその画面を見つめた後、3回目のコール音がなり終わったタイミングで通話ボタンを押す。「_____随分久しぶりにお前の名前を見た、」1年以上も連絡を取っていなかった相手との電話なのだが、第一声は其れだった。 )
( 聞き慣れている筈の呼び出し音が今日はまるで違う音に聞こえた。実際はそんな事無いのに本来抱かなくて良い筈の緊張のせいだろうか。2コール目の呼び出し音が終わり、3コール目の呼び出し音が鳴る直前に切る準備として終了ボタンに指を近付ける。その音の鳴り終わりを聞き届け__反射的に指が離れ、慌てて携帯を耳に付けたのは此処1年以上聞いていなかった相手の声が聞こえたから。久し振り過ぎる電話だと言うのに第一声は何とも相手らしい言葉で、思わず安堵の息が漏れる。「__私は昨日も見たよ。」何度も何度も相手に電話をかけようとして、その度に沢山の理由を掲げ辞めてきたのだ。「でも、エバンズさんの声は随分久し振りに聞いた。」懐かしい声の筈なのに、頭も、心も、相手の声を確りと覚えている。「……」何を話せば良いのか__言葉がぎこちなく止まり、少しの間の後「…今、電話出来る?」その問い掛けは本来電話を掛ける前の確認の筈なのだが、それに気が付いたのはもう告げた後の事で )
( 耳元で聞こえる相手の声は、久しぶりながら不思議と懐かしさは感じなかった。レイクウッドで働いている、まだその延長線上に居るような感覚。相手の問い掛けに対して「…あぁ。もう部屋に戻ってる、」と答え、外出先ではない為問題ないと伝える。「______変わりなくやってるか?」レイクウッドで相手は変わらず事件に奔走しているのだろうかと尋ねて。 )
__良かった。
( 事前連絡も無しに唐突に掛けた電話だったが、その返事で早急に通話終了にならない事を知る。再び人知れず安堵の息を漏らし身体の力を抜く様にソファの背凭れに体重を預けては、続けられた問い掛けに軽く頷きつつ「うん、何も問題無いよ。署員も皆元気だから心配しないでね。」間髪入れずに変わった事は無いと告げた後、「エバンズさんの方は?やっぱり本部は忙しい?」極当たり前に相手の本部での日常を尋ねる。それは勿論、相手は今刑事では無く教官であると言う事を知らないからこその問い掛けで。軽く足を組み、電話越しの懐かしい声に集中して )
( 随分食い気味な返答だと少し笑ったものの「それなら良い、」と頷いて。相手からの問いに少しの間が空いたのは、なんの疑いもなく此方での仕事について尋ねられ、どう答えるべきか一瞬迷ったから。「_____あぁ、事件は格段に多い。その分刑事も人数がいるから忙殺されるほどでは無いけどな、」と、警部補として勤務していた時の状況を告げる。今はもう刑事ではないなんて、あまりに情け無く相手に言える筈もなかった。天井を見つめながら、この1年で自分を取り巻く環境が大きく変わった事を改めて感じさせられる。声は1年前と変わらないのに、今は飛行機が必要な距離に相手はいるのだから。相手からの問いに答えたきり、何かを尋ねる事もなく暫しの沈黙が流れて。 )
( 此方の問い掛けの後僅かに空いた間。その後の答えは凡そ予測出来たもので、矢張り都会の本部ともなれば起きる事件は勿論の事、地方の署から来る報告書諸々の数も多いのだろうと少し困った様に笑い。「それなら良かったけど、無理はしないでね。」掛ける言葉は1年前から何も変わらない相手の身を案じるもの。__その後また少し流れた沈黙。ふ、と一瞬チラつく不可思議な感覚を覚えた。それは記憶や物理的なものでは無い、もっと、言葉に出来ない言うなれば直感。何故だろう、言葉にされた訳でも表情から読み取った訳でも無いが相手は“何か”を心に閉じ込めている気がしたのだ。「……何かありましたか?」無意識な敬語と努めて穏やかな声色で沈黙を破ると、その答えを待って )
( 相手に問い掛けられ、何故か“隠し通すのも限界だ”と言った警視正の言葉を思い出した。些細な所から異変に気付かれ、結局中途半端に隠し通せなくなるのでは二の舞だ。全てに蓋をして表向きを上手く取り繕っていれば、警部補の立場を失う事にはならなかったかもしれない、と。「______いや、何もない。」相手の問い掛けに対して、一度は隠し通す事を選ぶと「…数ヶ月前に、アンバーが来た。レイクウッドは忙しいらしいな。」と、話を変え相手に訊ねて。 )
( 少しの沈黙を置いて返って来た返事はそれ以上を問えないものだった。“何も無い”が嘘か本当かは現段階で判断出来ないのだから「そっか、」と小さな違和感を宿したまま頷き。話がレイクウッドへと移る事で記憶は数ヶ月前の本部応援の頃まで遡る。「アンバーが自ら志願しての応援だったんだよ。当たり前だけど本部は広いって言ってた。」警視正から本部に応援を派遣すると言う話が出た時、己は挙手しなかったが代わりにアンバーが珍しく“行きたい”と申し出たのだ。__そして帰って来たアンバーは本部での仕事の事や初めて訪れたワシントンの事を嬉々として話したが、他は話す事無く相手との“約束”は確りと守っていた。足先が冷たくなりほんのりと部屋が寒くなっている事に気が付くと一度立ち上がり部屋の隅の電気ヒーターを点ける。小さな機械音が鳴り程なくして部屋は温まるだろう。再びソファに戻ると「…そうなの。こう、何て言うか…新しい警部補が来たんだけど私も含めた皆が上手く馴染めなくてね。仕事が効率良く回らないのが忙しい原因なのかもしれないけど、もう1年になる訳だしそろそろ慣れるとは思う。だから、此方は大丈夫だよ。」その通りだと肯定はしつつも、相手に余計な心配をさせぬ様言葉は選んで )
( レイクウッドに居た頃にはやや控えめな印象を受けたアンバーが自ら望んで本部に来たと知り軽く頷きつつ「本部が特別だと言うつもりはないが、経験を重ねるのは刑事としての成長に繋がる。」と彼女の選択を肯定する言葉を選んで。「気遣い上手だとクレアも喜んでた、」ジョーンズが彼女を褒めていた事を伝えつつ、レイクウッドに新しく赴任したという警部補は誰だったかと思い出そうとするのだが、自分の顔見知りの刑事ではなかったはずだと考える。「…効率よく課が回るよう手配するのも仕事だと思うけどな、」ちくりと皮肉を言いつつ、相手が“此方は大丈夫”と告げるたびに、安堵する気持ちと共に何故かレイクウッドが遥か彼方、手の届かない所にあるような気がしてしまうのは自分が後ろ向きになっているからだろうか。また暫しの沈黙が続いた後「_______ミラー、」と相手の名前を呼ぶ。自分の惨めな状況を相手に話すつもりなどなかったのに、どういうわけか喉まで言葉が出かかっているのだ。 )
__私も、応援の機会があれば志願してみようかな。
( “あの時”は公私混同を含む沢山の複雑な気持ちが邪魔をして出来なかったが、今なら本部に応援に行っても確り仕事が出来る気がした。「そう言えば、数ヶ月前にクレアさんとも電話したの。今度ご飯に行く約束も出来たんだ、」相手の口からジョーンズの名前が出た事で表情が緩まる。彼女と話した相手に関する話は勿論伏せたまま、言葉の端々に楽しさを滲ませ。__再び訪れた少しの沈黙の後。僅か落ちた様に感じる声量で名前を呼ばれると「…どうしたの、エバンズさん。」と、先程問い掛けた時と同じ、柔らかく穏やかな声色で意識的に相手の名前を同じ様に呼ぶ事で先の言葉を紡げる様にと )
( ジョーンズの話が出ると、相手の声色が弾むのが電話越しにも分かった。不自然だったであろう呼び掛けにも、相手の返答は穏やかなものだった。「______刑事課を離れた。今は、……もう刑事じゃない、」たっぷりの時間を要して、漸くそう言葉を紡ぐ。“刑事ではない”という現実は、言葉にする事でより現実味を増して重くのし掛かった。本部での警部補という立場を、たった1年しか務め上げる事が出来ずに降りる結果となった事はあまりにも情けがない。またズキリと痛みが走り、浅く息を吐き出す事で其れをやり過ごす。僅かに身体の向きを変えると「…1年で降ろされたんじゃ、世話は無いよな。」自分自身を嘲笑するかのようにそんな言葉を紡いで。 )
( 促しの後の間は長く、それでもその間相手の言葉を急かす事はせず落ち着いたタイミングで話せる様にと待ったのだが。__漸く振り絞る様に紡がれたのは想像を遥かに超える事。刑事じゃない、とは一体どう言う意味だ。何かがあって休職をしている訳でも、調子が悪くて療養している訳でも無く言葉通り“辞めた”と言う事なのか。余りに衝撃的な事実に息を飲むばかりで言葉は出ず、今度は此方が沈黙を落とす事となり。同時に先程の問い掛けへの答えは、相手がまだ“警部補”として本部に居た時の様子を話したのだと察する。浅く吐き出された息の後、自嘲気味続けられた言葉でそれが相手自身の意思では無かったのだろう事に気が付くと、「___理由を聞いても良い?、」一度深く息を吐き出しソファの上で背筋を正し、恐らく上からの命令で相手が何を言った所で覆る事は無く今の状況なのだろうが、何があったのかは知りたいと、拒否の道も作った上での問い掛けを続けて )
( 体調を崩し上層部からの強制的なストップが掛かった。根本の原因を言えばそうなるのだろうが、理由としては求められる仕事を満足にこなせなくなったからに他ならない。「______求められるだけの成果を上げられなかった。上からの命令だ、」言葉少なにそうとだけ答えると、体調の悪化について触れる事はせず「…今はFBIアカデミーに所属してる。毎日座学の担当だ。」と現在の仕事を告げて。本来であれば銃器の扱い方や実践的な捜査を行う授業などもある訳だが、其れらは担当していないためひたすら座学の講義を行う日々なのだ。 )
( 相手の刑事としての優秀さを約2年間近で見て来た。自分自身の不調を薬で抑え込み全ての捜査に私情を挟む事無く全力で挑み、被害者や遺族に誠心誠意向き合うその姿を見て、憧れ、相手の様な刑事になりたくて此処まで来た。その相手が“求められるだけの成果を上げられなかった”だなんて。何かの食い違いがあったか余っ程の理由があったと考えるのが普通だ。__FBIアカデミーの座学担当になれば捜査に出る事は勿論無い。時間を問わず急な呼び出しがある事も、夜中まで仕事をする事もほぼ無いだろう。つまり、相手には十分身体を労る時間が取れると言う事だ。無言のまま相手の紡ぐ言葉を脳内で繰り返し、何があったかの想像をした結果__全身の血の気が引くのを感じた。襲うのはとてつもない恐怖。それは薬も効果を発揮せず、一時の“長期療養”などではもう無理な程に、相手の身体も心も限界だと言う事ではないのか。「…っ、」だとすれば、相手はどれ程の苦しみを長い間1人耐えて来たのか。そうして相手が最も嫌がる“体調のせい”で刑事を降ろされた今、どれ程の絶望と無力感の中に居るのか。何も知らなかった。勿論知った所で己が上の決定を覆せる訳でも無ければ何か出来た訳でも無い、けれど心が痛いのだ。「……エバンズさんの、望む仕事じゃないよね、」視界が歪んだのは心が震えたから。同時に唇も震え、漸く紡ぐ言葉も震える。相手の身体も、心も、心配で堪らなかった )
( 耳に当てたスマートフォンから聞こえた相手の声は小さく震えていた。自分が刑事である事に拘る、その理由を知っているからこそ此方の状況に心を寄せてくれているのだろうか。自分の代わりに、悲しみ、悔しがり、哀れんでくれているのだろうか。「……望む仕事では無いな、」暫し考えた後に、素直に相手の言葉を肯定する。刑事として現場に立ち、事件を解決する事こそが自分の望む道だというのに、今は其れすら叶わない。「______全てが中途半端だったんだ。もっと遣り様があった。…今更後悔しても、刑事に戻れる訳じゃないけどな、」無理をするなら、もっと完璧にこなして見せなければならなかった。誰にも気付かれないように。無気力にソファに横になったまま天井を見つめ、深く溜め息を吐く。「暫くは今の仕事をこなすしかない。頃合いを見計らってもう一度打診してみる、」冷静に先を見据え“前向き”に受け止めているかのような、物分かりの良い言葉を紡ぐのは、そうとでも言っておかなければ、歩みを止め本当に全てが潰えてしまいそうだから。全てが辛いのだと、子供が喚くように黒くドロドロしたものを吐き出してしまいそうだからだ。そこに本心はない。「お前も、無理はするなよ。」と、表向きだけ取り繕われてやけに”綺麗な“言葉を紡いで。 )
__“遣り様”?
( やけに素直な肯定に感じた僅かな違和感、それを追尾する間も無く淡々と続けられる言葉の中にあった一言、それを聞くや否や唇の震えがピタリと止まった。「遣り様って何ですか…?」もう一度唇の震えが戻るとしたらそれは悲しみからでは無いだろう。「エバンズさんの言う遣り様って、つまり“もっと上手く隠す”事…?」自分でもわかる程に声量は落ちスマートフォンを持つ指先に力が籠る。まるで何処か他人事の様にさえ聞こえる、余りに冷静で明らかに心に蓋をした“前だけを見据えた”言葉も、此方を気遣う言葉も、そんなものは現段階で一言だって聞きたく無い。「__それが本心じゃない事くらい顔を見なくたってわかります。…そんな綺麗な言葉じゃなくて、心にある“本当の言葉”を聞かせて。」揺れる心を抑え告げたのは極めて真剣な色宿る言葉で )
______もっと上手く隠し通せていれば、刑事課を離れる事にはならなかった。
( 相手の言葉に被せるようにして、其の憶測を肯定する言葉を紡ぐ。限界だと気付かれさえしなければ、周囲に異変を察知させなければ、刑事では居られたのだ。「刑事でなければ、何の為に立っているのか分からない。捜査に行かなくなっても、1日中座ったま講義をしても、何も変わらない。苦しいままだ、」仕事が変わっても身体が楽になる訳でもなく、気持ちばかりが落ちて行く。蓋をしていたものが溢れていくのか言葉を紡ぐごとに感情が乗ってしまう。「自分でも、満足に捜査が出来なくなってる事くらい分かっていた。成果も上げられず、それでも刑事でいさせて欲しいなんて、言える訳がない、…っ」誰にも言えずにつかえていた、内側に押し留めていた汚い気持ちが、ボロボロと零れ落ちていく。吐き出す息が震え、スマートフォンを持つ手に力が籠って。 )
( 相手が選ぶ道は、選べる道は、何時だって“隠す事”。自らの心に分厚い氷を張りその上から重たい蓋をする。そうやって懸命に立ち続けても尚、相手の前には高い壁が立ちはだかり、傷だらけになりやっとの思いでその壁を超えたとしても次は無情にも足元が崩れる。相手は何も悪く無い。不調に繋がる何もかもは全て“あの事件の犯人”が招いた事だ。苦しむべきはたった1人しか居ないのに。__何も言える筈が無い。何を言っても相手の心を楽になんて出来ない事が今回ばかりはわかるのだ。ただ、悔しくて涙が止まらない。噛み締めた奥歯が軋み、痛むのも気が付けないくらいに悔しい。電話越しの相手の息が震え、余りに大きく渦巻く感情が溢れ出しているのがわかる。「…私は今、っ…腸が煮えくり返るくらい腹立たしいし、泣き喚きたいくらい悔しい…!、でも…ッ、本当に悔しくて泣きたいのはエバンズさんの方だって、……何で、っ、エバンズさんばっかりがこんなに苦しい思いしなきゃいけないんだろうね
……っ、」ボロボロと堰を切った様に流れる涙に邪魔されながら、僅かに俯く。相手ばかり、相手ばかりが何故こんな思いをしなければならないのか。物分りの良い振りも、諦めも、何もかも相手には必要無い。責めたい人を責め、言いたい事を言えば良いと思った。例えどれ程汚い言葉であってもその全てを聞き届けたいとさえ思うのだ )
( 自分一人では泣く事が出来なかった。どれ程苦しくても、絶望に叩き落とされても、ただ耐える事に必死で心に蓋をして、涙を流すだけの余裕が無いと言うべきか。けれど、相手が側に居る時だけは______相手が涙を流す時だけは、自然と泣く事が出来るのだ。悔しいと涙を流す相手の声を聞きながら、涙が溢れるのを感じた。「忘れている筈だったのに、些細な事で当時の記憶が蘇る…っ、動きたいのに、身体が言う事を聞かない…いつまで経っても一歩も進めない自分に、心底嫌気が差す、」事件を起こし、多くの人を絶望に突き落とした本当に責められるべき存在は一生失われ戻る事はない。その状況から、いつしかやり切れない気持ちの矛先は自分へと向くようになってしまった。葛藤を口にしながらも、紡がれるのは自分自身への嫌悪。雁字搦めになったまま、苦しいのだと訴える。長く身体の調子が優れない事は心身を消耗させ、暗い深みへと徐々に身体ごと引きずり込まれていくような感覚だった。 )
( 吐き出す息が震え、喉の奥で言葉が引っ掛かるのを聞いて涙を流せている事がわかった。その事には安堵するがだからと言って相手の苦しみが綺麗さっぱり無くなった訳では無い。震える唇から紡がれる言葉は全て“自己嫌悪”で、動きたくとも動けない葛藤の中身動きが取れず立ち尽くして居るのがわかるものだから、そうでは無いのだと、一生このまま何て事は絶対に無いのだと、今の相手に例え届かなくとも伝えたかった。「…エバンズさんの望む道は必ず敷かれます。ずっとこのままな筈が無い。ずっとエバンズさんだけが苦しい筈が無い。っ…そんな事、絶対にあっちゃ駄目だから、」スマートフォンを持たない片手を強く握り締め昂る感情を抑え付けながら、言葉を繰り返す。「エバンズさんはちゃんと進めてるよ。そうは思えないだろうけど、私が知ってる。__今はね、エバンズさんの嫌いな“休憩中”なだけ。休憩には必ず終わりが来るから、そしたらその時……、」“その時”。後に続けようとした言葉を思わず飲み込んだのは、相手が本部に異動した理由を知っているから。けれど、これが“心に正直”な気持ちなのだとしたら、「…近くに居たい。___戻って来て、エバンズさん…。」心からの想いが言葉に乗り、漸く小さな音として放たれた。そのまま少しの沈黙が落ちて )
( 相手の素直で真っ直ぐな言葉に、返事をする事は出来なかった。自らの意志でレイクウッドを離れたのに、1人で抱え切れなくなったものを相手に支えて貰う為に______苦しさを少しでも薄れさせる為に、レイクウッドに戻るのはあまりに身勝手だ。自分が戻って、またミラーに危害が及んだらどうする。「…レイクウッドに戻れば、……少しは楽になるんだろうな、」本部と違って刑事として仕事を続けられるかもしれないし、事件の頃に見ていた景色を見る事もない、側で寄り添ってくれる相手がいる。けれど。「______今は、未だ戻れない。」静かに紡いだ言葉は非情なものだと思われるだろうか。自分が楽になれても、またミラーが苦しむような事になれば自分で自分を許せなくなる。「…お前と話せて良かった、」暫しの間を置いて、幾らか気持ちが落ち着くとそう告げてソファから起き上がり。 )
( __そう、苦しみの全てが無くなる訳では無いがレイクウッドに戻れば何かが変わるかもしれない。此処でなら本部程の忙しさも無いのだからと警視正は再び相手を刑事に戻すかもしれないし、相手の主治医であるアダムス医師も居る。相手は嫌がるかもしれないが定期的に病院に通い、薬だけじゃなく別の方法も取り入れながらまた働く事が出来る様になる可能性だって大いにあるのだから。相手もそれをわかっている。わかっていながら、それでも首を縦には振らなかった。けれど。「__…エバンズさんが本部に戻った本当の理由、私知ってるよ。」電話を終わらせようとする言葉尻に被せる様にしてそう告げる。今本当に苦しいのは相手なのだから、他の誰の事を考えるのでは無く、相手自身の心を一番に優先して良い筈なのに相手はそれをしない。理由を言う事も無く水面下で守り抜こうとするのだ。「…私は、何時だって遅いね。守られてる事に気付きもしないで、ただ泣くだけで、何も見えてなかった。…“大丈夫”に何の根拠も無いのにね、」ぽつ、ぽつ、と話すのは相手が隠し通そうとした真実。静かな部屋の中で、時計の針の音と、電気ヒーターの僅かな機械音だけが響いて )
( 相手の口から思い掛けない言葉が紡がれると、思わず沈黙が生まれる。異動を決めたきっかけについて相手には話していないのだ。「……本部異動は自分の為だ、」と、此れ迄も説明してきた理由を重ねるも、相手がまるで全てを知っているかのように言葉を続けるものだから、後に続く言葉が無くなる。アンバーもジョーンズも、相手には言わないと言っていた筈だが、何処から其れが相手に伝わったのか。何にせよ”隠し通す“事が下手になっているのは間違いない。「______俺が嫌だったんだ。お前を守ろうとか、崇高な事を考えた訳じゃない。」暗にあの一件がきっかけになった事は認めつつも、あくまで自分の為に動いたのだという主張は崩さずに告げる。「…だから、未だワシントンを離れるつもりはない。」今はこの場所で、例えそれが望まないものであったとしても目の前の仕事だけをこなさなければならないと。 )
( 例え相手が“自分の為”に決めた異動であったとしても、結果的に守られた事は事実だ。相手がそれを頑なに認めなくとも。犯人も捕まっていない今、“私は大丈夫”だと言う以外の言葉が見付からない中で相手の心を変える事はきっと出来ない。「__私は、私の見えない所でエバンズさんが苦しんでるのが嫌だ…、」余りに小さく落ちた言葉は再び震える。「私の見えない所で泣いてるのも嫌だし、私の見えない所で耐えてるのも嫌だ。でも…っ、1人で全部背負って“隠される”のはもっと嫌…。“隠す”なら、私の目の前で隠して…!」嫌だ、嫌だ、と何もを否定するまるで我儘な子供の様に相手がたった1人で頑なに貫く気持ちや負の感情を隠す事を嫌がり。__以前は気持ちを隠される事の全てが嫌だった。けれど相手の中に染み付いたその“癖”はそう簡単に変えられるものでは無い事を知った。ましてや不器用で優しい相手なのだから、人に弱みを見せる事を良しとしない相手なのだから、尚更。それならば、せめて己の前で、と思うのだ。相手が隠し通そうとする“本当の気持ち”を全て掬い上げて吐き出して欲しいと、一緒に寄り添い、一緒に解決策を考えたいと、そう思うのだ )
( 相手の目の前で隠したのでは、其れは隠した事にはならないと少し笑う。「それじゃあ隠せていないのと同じだろう、」と言いつつも、自分が必死になって蓋をしようとしている様々な感情を素直に受け止めてくれる存在というのはとても大切なものに思えた。「_______次に会う事があったら…その時は話を聞いてくれ、」今はこんなにも離れているが、もしまたレイクウッドか、或いはワシントンで会うことがあったら、その時は自分が胸の内に溜めた様々な感情を聞いて欲しいと、そう告げて。 )
( 相手の言う通りそれでは隠した事にはならない。けれど「…それで良いの。」と静かに微笑む。相手からすれば全く以て納得も理解も出来ない言葉だろう。“隠し通せなかったから”刑事じゃなくなったと言うのに。勿論悔しさや悲しさは少しも薄れる事無く胸中に吹き荒れる。でももし、相手が確りと不調を隠して今も尚刑事で居たとしたら__きっとそう遠くない未来に身体も心も壊れ刑事はおろか、二度と立ち上がる事が出来ない所まで堕ちていただろう。隠した心は、見なかった振りをした気持ちは、何時か絶対に何らかの形で別の負を連れて来る。わかっては居るのだ。__“次に会う事があったら”と相手から言葉にされた事で一度瞬く。それは今の電話を切る締め括りの言葉で、相手からすれば“次に”は“何時か機会があったら”と言うニュアンスだったのかもしれない。それでも。今の相手を残し電話を切り、“次”をただ黙って待つなど出来る筈が無い。途端に心にあった“何か”が一瞬にして消失し、何かを考えるより早く手はノートパソコンの電源を点けていた。そして調べるのは一番早いワシントン空港行きの便と明後日の内に戻って来れる帰りの便。「__全部聞く。エバンズさんが話したい事、どんな気持ちも全部聞くから…“待ってて”。」全身の血が沸き立つ様な感覚を覚える中、最後に告げた言葉の本当の意味を、相手はきっとわからないだろうがそれで良いのだ )
( “次に会う事があったら”というのは、謂わば社交辞令のつもりだった。自分は未だワシントンを離れる事はせず刑事課にも戻らない。相手は相手でレイクウッドで忙しくしており、本部に応援に来たとしても顔を合わせるだけの時間があるか定かではないし、前回レイクウッドから刑事が派遣された事を思うと次の機会はそもそも暫く先だろう。また会う事があったら、その時には落ち着いて自分の気持ちを整理し、感情を打ち明ける事が出来るだろうか。先の事と割り切っているからこそ「……あぁ、待ってる。」と、素直な言葉を紡いで電話を切り。---次の日も講義の為に部屋を出る前、テーブルの上に置かれた処方薬の袋と市販の鎮痛剤の箱の中からそれぞれ錠剤を取り出し、水で流し込んだ。処方薬は効果を感じず飲まない事もあったが、気休めの為にも朝は飲むようにしている。モチベーションも何も無いに等しいのだが、此れから捜査員になる訓練生たちに対して私情を挟んだ適当な講義をする訳にもいかない。深く息を吐くとホテルの部屋を出て講義のためにアカデミーへと向かい、夕方までの複数回の座学を淡々とこなして行くだろう。 )
( __相手との電話を切ったその瞬間、瞳にはある意味闘志の様なものが宿った。まるで難解な事件を捜査する時の様な至極真剣な表情でパソコンの画面を見詰め、時間の計算をする。タイミングの良い事に明日明後日と連休で最低でも明後日の内にレイクウッドに戻って来る事が出来れば良いのだ。祈る様な気持ちで画面を上から下まで見、奇跡的に求める時間ピッタリの空きを見付けた時にはその場で飛び上がりたい程の嬉しさを覚えた。勿論小さなガッツポーズで抑えたが。往復の航空券をとってしまえばもう此方のもの。次にやる事は相手の住んでる所を特定する事で、それはジョーンズに電話をして理由を話せば彼女は何処か嬉しそうな声色で快く教えてくれた。レイクウッドの時の様にてっきり何処かを借りて住んでいると思っていたが、1年経った今もホテルに住んでいるらしく、再びパソコンの画面に向き合い同じホテルの部屋の空きを確認すれば、相手の泊まる部屋と同じ階に残り2部屋だけの空きがあり、迷い無くそこを予約する。これでワシントンに飛ぶ準備は全て整ったと言えよう。__翌日、本当に必要な最低限の物だけを鞄にワシントンに降り立ったのは午後5時を過ぎた頃。空港からワシントン市内へタクシーに乗り、本部の近くにあるホテルに到着したのは午後6時30分前。チェックインを済ませ何も待てないとばかりに相手の部屋の前に立つと、この時間、アカデミーの教官ならば既に戻って来ているだろうと考え一度深く息を吐き出した後、扉を2度ノックして )
( その日も講義を終え18時にはホテルに戻る。帰宅時間は刑事として働いていた頃よりもかなり早くなったが、だからと言って夜の時間を有効に使えている訳でも、休んだからといって調子が上向くこともない。ジャケットをソファの背凭れに掛け、ソファに身体を横たえる。身体が重たく、横になりたいと思う事が増えたのは間違いない。数十分後、不意にドアがノックされ目を開ける。清掃は数日間隔で日中に頼んでいるがこの時間に来る事は無いはずだし、ルームサービスも当然頼まない。自分が長く部屋を借りているのは従業員も知っている為、用があれば受付で声を掛けられる筈なのだが。身体を起こすと、そのまま入り口へと向かいドアを開けて________其処に立っていた相手と視線が重なり、思わず息を飲んだ。何故相手が此処に居るのか、少し大人びたようにも見える相手の緑色の瞳が此方を見上げている。昨日声を聞いたのが1年以上ぶりの事。確かに“待っている”とは言ったが、飛行機に乗らなければならないこの場所までレイクウッドからやって来たというのか。「_______どうして、…」紡いだ言葉は驚愕のあまりそれ以上は続かなかった。 )
( ノックをしてから数秒後。中から僅かな物音が聞こえ続いてまるで隔てていた壁の様にさえ感じられるドアが開いた。__己が此処に居る状況を飲み込めていないのだろう、驚愕をありありと宿した碧眼と緑眼が静かに重なり、やがて漸くと言った言葉が相手の唇の隙間を縫った。1年以上見ていなかった相手は最後に別れた時よりも痩せている様に感じられ、目下の隈も顔色の悪さも比べ物にならない程酷い。一目見ただけで不調がわかる程だ。“どうして”への返事など決まっているではないか。「…話を聞きに来ました。」昨晩電話越しに相手が言った事、その約束通りに来たのだと。相手を見上げたまま、視界が歪んだ。一度感情を落ち着かせる為に浅く息を吐き、それから浮かべたのは正しく泣き笑いの柔らかな笑顔で )
( “話を聞きにきた”と相手は言うが、その為だけに飛行機に乗って、遠く離れたワシントンまで来たと言うのか。相手の浮かべる表情に胸が苦しくなるのは何故だろうか。「……入れ、」と、部屋の中へと促すと扉を閉める。温かいものを飲もうと思って沸かしておいた湯をマグカップに入れインスタントのコーヒーを溶かすと相手へと差し出す。まだ状況に頭が追い付いていなかったものの、もうひとつのマグカップを出して同じくコーヒーを入れソファへと腰を下ろすと、コーヒーをひと口口に含んでから相手に視線を向ける。「……本当に、話を聞く為だけに此処まで来たのか?」そう尋ねつつ、背凭れへと背中を預け息を吐き出す。「_____お前の行動力を見くびっていた、」と、今一度まっすぐに相手を瞳に映して。 )
( 会いたいと、所望し続けた相手が今は目の前に居る。涙で潤んだ瞳には相手のその碧眼がやけにキラキラと輝いて見えた。__促されるまま部屋に入り差し出されたマグカップを受け取る。湯気のたつコーヒーを一口飲めば途端に胃は優しい温かさの中に沈み、内側から静かに身体を温めてくれる様だった。相手がソファに座った事で、少しの間を空けて己も隣へと控え目に腰掛けると、此処まで来た理由の確認に間髪入れず頷き。「そうだよ。…“待ってて”って言ったでしょ。」己の発したその言葉と、受け取った相手の認識は間違い無く時間のズレがあっただろうがお構い無しだ。柔らかくはにかんだ笑顔のままに「エバンズさんも知っての通り、頭より先に身体が動いたの。」何時かの日、ジョーンズと電話をした時に言われた言葉を思い出し表情を少しだけ悪戯なものに変えて。__手を伸ばせば届く距離に相手は居る。「……どうしても、会いたかった。」と、心が求めたままの素直な言葉は、ほんの少しだけ震えて )
( 漠然と、相手と再会するのはもっとずっと後の事だと思っていた。それなのに今相手は自分の目の前にいて、1人で淡々と暮らしていた部屋には懐かしい穏やかな空気が流れているのだ。相手の言葉に軽く頷き「考えなしに行動するのは、お前の得意技だったな。」と、皮肉めいた返答を。こうした何気ないやり取りさえ、随分久しぶりで懐かしさと心地良さを感じる気がした。僅かに震える言葉を聴きながら「______そうか、」とだけ静かに答えて手元のマグカップを見つめる。相手が手を伸ばせば届く距離にいるのが不思議な感覚だった。「…夕食は食べたのか?ルームサービスで良ければ頼め、外に出れば店は色々ある。」長旅で疲労もあるだろうと思えば、夕食が未だなら好きに頼んで構わないと告げて。 )
( 返って来た皮肉は此処1年聞かなかったもの。皮肉を聞かされて嬉しい、だなんて他者が聞けば怪訝な表情を浮かべる事間違い無しでどうかしていると思うかもしれないが、とんでも無い程の喜びと懐かしさが胸中を渦巻いているのは紛れもない事実。「久し振りに褒められた。」相手からすればそれは100%褒め言葉では無かっただろうに、都合の良い解釈で満足そうな笑みを浮かべ。相手の言葉でそう言えば夕飯を食べていなかった事を思い出す。ギリギリの飛行機に乗り、部屋に戻る事もせずに真っ先に此処に来たのだから。「…まだ。折角だから__」お言葉に甘えてルームサービスのメニューを見てみようとマグカップを目前のテーブルに置き__そこに処方箋の袋と鎮痛剤の箱を見付けた。1年前から確かに相手が飲み続けている物で、きっと此処数ヶ月は確りと効果を発揮しなかった物。胸が痛み、メニューに伸びた手が止まる。僅かの沈黙を置いて身体の位置を戻すと隣に座る相手を見詰め。「__ご飯は後にする。…今は、こうしていたい、」徐に伸ばした手は相手の目元に。濃く色を付ける隈を一度親指の腹で撫でた後、静かに腕を下ろすのと同時に相手の肩付近に凭れる様にして額を軽くくっ付けて )
( 相手の視線がテーブルに向き、動きが止まった事に気付き追うようにテーブルへと視線を向ける。相手が訪ねて来るなどとは微塵も思っていなかった為、朝部屋を出た時のまま処方薬と鎮痛剤をテーブルに置いたままだった事に遅れて気付いたものの、今更慌てて隠すような事でもないだろう。目元を撫でる感覚に僅かに目を細めたものの、優しいその感触は少し気持ちを落ち着かせた。相手が側に居てくれれば、少しは穏やかに眠る事が出来るかもしれないという淡い期待が顔を覗かせると、肩口に額を寄せる相手に「______今夜、此処に居てくれないか、」と、思わず小さく尋ねていた。相手に迷惑を掛けるとか、弱い姿を見られたくないとか、其れを二の次に考えてしまう程に“穏やかな眠り”を欲していた。ワシントンに来てからというもの、無限に続くのではないかと錯覚する程に長い夜を1人で耐え続けてきたのだ。 )
( 処方箋の袋の中は安定剤だろう。これはレイクウッドに居た時から飲むのを何度も見ていた。けれど市販の鎮痛剤は身体の何処かが痛む為に飲んでいるもの__。肩口に額をあて仄かに香る柔軟剤の匂いを感じるものの、此処はホテルだから当然か。記憶にある香りとは違った。そんな中、まるで溢れ落ちる様にして紡がれたのは相手からは珍しい望みの言葉。静かに額を離し持ち上げた顔には笑みが浮かんでおり。「…勿論。帰れって言われても居座るつもりだった。」相手から言われなくともそのつもりだったのだと、相変わらずの強引さでそう告げてから「飛行機は明日の夕方の便だから、朝までずっと此処に居る。」と、今一度ハッキリとした言葉で返事をし。__「…身体、痛い?」唐突な問い掛けは鎮痛剤の箱を見たから。相手を真っ直ぐに見詰める緑の瞳には心配と真剣な色が揺蕩っていて )
( 相手が夜側に居てくれると思うだけで、幾らか不安が和らぐのを感じた。不意に投げ掛けられた問いには少し返答に迷ったものの「______偶にな、」と答えるに留めて。実際に身体の痛みは慢性的に起きるようになっていて、その痛みをやり過ごすのにかなり時間が掛かる事もあった。痛みが強ければ強いほど、息が浅くなり身体も強張るため鎮痛剤を手放す事はできなくなっていたのだが、アダムス医師と話をして以降その事は誰にも打ち明けては居ない。それ以上詳細を語る事はせず、テーブルの上に置かれたメニューを手に取り相手に渡すと、夕食を頼むように促す。薬を見つけて躊躇はしたのだろうが、相手も空腹だろう。「好きな物を頼め、今日は奢ってやる。」と告げて。 )
( “偶に”と相手は言ったがその前に空いたほんの僅かの間と、その後詳細を語る事をしなかった事で恐らく“頻繁に”である事を察するも、相手がそれ以上を語らないのならば今は深く追求する事はしないと小さく頷くに留め。一度は手に取る筈だったルームサービスのメニュー表が相手の手から渡された。それを受け取り「…エバンズさんに奢って貰うの久し振り。ご馳走になります。」と此処に来てから何度も実感する懐かしさを再び胸に素直に奢ってもらう事を決めるとソファの背凭れに凭れつつページを捲り。朝食と昼食の箇所は飛ばし“夕食”と書かれた中には肉系は勿論、サラダやスープなど比較的軽く食べれる物やスナック類もある。お腹は確かに減っているもののガッツリ食べたい気分でも無ければ、ロールパン2つが付属としてついてるマッシュルームのポタージュと、お決まりと言えよう彩りの良いサラダを選びフロントに注文をする。その際“スプーンとフォークを2人分”との言葉は忘れない。ややしてドアがノックされ頼まれた物が運び込まれて来ると、スプーンとフォークを相手に差し出す様に目前へ。「…一緒に食べよ。」そう言って微笑む。全てを2人分頼まなかったのは、恐らく相手は食欲が余り無いのだろうと察したからで )
( 此の所は夕食も取らずソファで横になったまま眠ってしまう事も度々あった為、きちんとした食事を部屋で取るのは少し久しぶりの事のように思えた。差し出されたスプーンとフォークを受け取ると、湯気の立つスープを器に掬う。スプーンで口に運んだ其れは暖かく胃に落ち、優しい味わいが口に広がりほっと息をつく。調子が悪く食欲がない日が続いていたものの、スープであれば無理なく食べられそうだと思えば「______身体が温まる、」と告げて相手の方へと器を押しやって。スープをゆっくりと口に運びつつドレッシングの掛かった鮮やかなサラダに視線を向けると、相手は自分と食事をする時いつもこうしたサラダを頼んでいる気がして「…相変わらず、カラフルな野菜が好きなんだな。」と、何処となく呆れたような不思議そうな声色で言葉を落として。 )
( 要らない、と拒否されなかった事に安堵した。例え僅かでも食べ物を摂取出来ればそれだけで栄養は身体を回り、気休めであったとしても微力な原動力となる筈だから。押しやられた器からスープを掬い一口飲めばマッシュルームの良い香りが鼻腔を擽り、濃厚な、それでいて優しい味が身体を包み込む様に胃に落ちた。「__本当、温まるね。」と、相手の言葉を肯定してからもう一口。こうして相手と食事を共にするのは1年振りの事で、懐かしい反面不思議な切なさもあるのだ。「…エバンズさんが次レイクウッドに来た時は、ポトフを作る。味、まだ覚えてる?」器を見ながら告げた一言、それは暗に再びレイクウッドで相手との再会を心待ちにしているというもので。ロールパンの1つを相手のお皿に勝手に置くと、続いて細く切られた赤いパプリカにフォークを突き刺し。持ち上げた顔に浮かべるのは少しの悪戯な笑み。「今回はワザと。」相手の反応を見て“してやったり”は些か子供じみていただろうか。それからやけに幸せに感じる時間の中で食事を続けて )
( 相手が作ったポトフの味を忘れる筈は無かった。甘いホットミルクの味も。その2つは、自分が絶望に落ち込んでいる時やどうしようもなく苦しさを感じた時に心身を温め、光の方へと持ち上げてくれたものなのだ。「_____あぁ、楽しみにしてる、」と相手と視線は重ねないながら素直な言葉を紡ぐと、スープを口に運んで。“わざと”と言うことは、自分に指摘される事を分かっていてサラダを選んだと言うことか。相手の思考はよく分からないと呆れたように首を傾げつつも、穏やかな夕食の時を楽しんで。---ズキリ、とまた鳩尾が痛んだのは食後の紅茶を入れようとポットの方へと向かった時だった。ワイシャツの上から鳩尾を軽く抑え浅く息を吐き出す。相手に心配を掛けないようにとは思うのだが、この強い痛みは何事もなかったかのようにやり過ごすのがいつも難しい。軽く唇を噛むとポットの置かれた棚に片手を着いて、ゆっくりと息を吐き。 )
( __量こそは決して多くは無かったが、恐らく普段余り食事をしていないだろう相手が少しでも何かを胃に入れる事が出来たのは喜ばしい事。空いた皿をテーブルの端に寄せ食後の紅茶スペースを確保した丁度その時、棚に手を着く音と不自然に止まった動きを敏感に感じ取り頭を其方に向け。果たしてそこにはやや背を折る形で鳩尾に手を当てたまま動かない相手の姿が。発作が起きてる時や、目眩に襲われてる時とは違う雰囲気に脳裏を過ぎったのは鎮痛剤の箱で。「…エバンズさん、」後ろから静かに声を掛け相手の隣へ。「紅茶は後にしよう。…大丈夫だから。」ゆっくりとした呼吸を意識的に繰り返す様子と押さえている箇所を見て痛む場所がわかると、相手の背中を一度だけ軽く撫でた後、その手を添えソファに座る様にと促して。背凭れに背中を預け、身体を倒す様な形で座った相手の隣に腰掛け「…失礼します、」と前置きの謝罪を一言。ワイシャツの下のボタン2つを外し中に手を滑り込ませる形で直接素肌の上から鳩尾に掌を当てると、「__“手当て”。」と、文字通りの言葉でその行動の意味を説明した後。何も心配無い、直ぐに楽になる、と言いたげに微笑みながら「…人の温もりはきっと痛みを和らげる。」その手を動かす訳でも無く、ただ己の持つ熱を痛む部分に浸透させるかの如く宛てがい続けて )
( 痛みに耐えようとすると必然的に呼吸は浅くなる。痛みを逃すように意識的にゆっくりと細く息を吐き出すのだが、不意に相手に呼び掛けられると、促されるままにソファへと腰を下ろして。ボタンの隙間から手が差し込まれ素肌に触れると僅かに身体が震えたものの、その温かさにやがて強張った身体からほんの少し力が抜ける。しかし鳩尾から背中に掛けて広がるような痛みに息を詰まらせると「______痛い、…」と言葉が漏れる。此の痛みが引き金となって発作が起こる事もある為なんとか落ち着かせたいのだが、直ぐには治らない。「水を一杯くれ、」と相手に告げると、テーブルの上に置かれた処方薬と鎮痛剤の箱を開けて中の錠剤を取り出して。 )
( 普段気丈に振る舞う相手が痛みや苦しみを言葉にするのは余っ程の時。身体が強張り鳩尾から広がる痛みに耐える事は出来ないのだろう、薬を飲む為の水を所望されれば頷きつつワイシャツの中から手を引き立ち上がり。薬を飲んだとて今直ぐにその効果が発揮され楽になる訳では無い、その間の相手の苦しみを思うとどうしたって胸は痛むのだ。伏せられているグラスに水を半分程入れて相手の元に戻るとそれを差し出し再び隣に腰掛けて。「……」錠剤を飲み込んだのを確認してから「…病院行った?」と、問い掛けるのだが凡その答えはわかる。__こんな時、相手の主治医であるアダムス医師が近くに居てくれたら。相手の事を確りと知る彼ならば適切な処置が出来て、きっともっと相手は楽で居られる時間が増える筈なのに。相手を取り巻く環境が優しいものであればと、相手が偽る事の無い気持ちのままで居られる場所であるならばと、願わずにはいられないのに )
( 処方薬と鎮痛剤、それぞれを水で流し込むとソファに身体を預けるようにして楽な姿勢を探す。「_____薬が無くなると困るから病院には行ってる、…いつも飲んでいる薬と同じものを処方されるだけだけどな、」診て貰っているとは言っても、ワシントンの医者は積極的に診察をしようとはしない。初めて罹った時に、以前処方されていた薬として伝えて以降同じものを処方されるばかりの事務的な対応。痛みについては、以前アダムス医師が来た時に話したきり、ワシントンの医者に相談する事はしていなかった。痛みが引くのを待ちつつ、結局横になるのが楽で肘掛けへと頭を乗せて。 )
( 結局診察をしてもらった所で、相手の事を良く知らぬ医者では何時かの日の様に日中の業務や生活にも支障をきたす様な強い安定剤や鎮痛剤を処方する可能性がある。本来は今の状態を確りと検査し適切な薬を飲み、新たに症状として出現した痛みも調べて欲しい所なのだが、相手の事だ、きっと心を許した医師にしか相談はしないだろう。__レイクウッドにさえ居れば。結局は全てそこに繋がる思考を“たられば”を言った所で無理なのだとストップさせ、横になった相手の先程勝手に外したワイシャツのボタン2つを付けてから、「…久々に顔を合わせた部下からのお願い。痛みの原因だけはちゃんと調べて貰って。」と、病院嫌いの相手には難しいとは思いつつもそう告げ、今度はワイシャツの上から相手の鳩尾付近を左右に往復させる様に軽く撫でて。「…少ししたら起こすから、眠って構わないよ。」そう声を掛けたのは、幾ら刑事であった時よりやる事が減ったとは言え仕事をして帰って来てる相手が疲れて無い筈がないと思ったから。加えて痛みに耐えるのは疲労を伴う。邪魔にならぬ様、反対側のソファへと座り直して )
( 病院に行っても結局はストレスだとか精神的なものだと言われるのだろうとたかを括っている。アダムス医師には以前、脈拍に乱れがないかを確認するようにと言われたのだが、手首に指先を押し当てた所で明瞭に脈動を感じる訳でもなく直ぐに辞めてしまった。相手がソファを離れるとそのまま目を閉じるのだが、なかなか寝付けずに苦しげな息が漏れる。身体は辛いのだが、眠る事を拒んでいるような感覚。睡眠薬を飲まなければ寝付く事が出来なそうだと思えば暫くして目を開け「…睡眠薬の瓶を取ってくれないか、」と相手に頼んで。普段の処方薬に加えて鎮痛剤と睡眠薬、どう考えても薬に頼り過ぎているのだが今はそれ以外に苦痛を取り除く為の最善策が思い当たらない。 )
( 眠る為に目を閉じた相手だったが然程時間を置かずして目を開け、睡眠薬を所望した。テーブルの端に置かれている薬瓶の中にあるのが目的のそれだとわかるものの、相手は数分前に処方薬と鎮痛剤を服用したばかりでその上睡眠薬まで__は流石に短時間の内に薬を体内に入れ過ぎる事になる。相手自身も飲み過ぎだと言う事はわかっているだろう、“駄目だ”と突っぱねる事は簡単だが、今苦しむ相手に掛ける言葉としては余りに酷に感じられ一瞬の間が空き。目を開けてる相手と視線を重ねた数秒後、「…今は睡眠薬じゃなくて、此方を選んで。」徐にソファから立ち上がると横になる相手の傍らに膝を着く形で腰を折り、そう声を掛ける。それから幾らか伸びた様に感じられる前髪が邪魔にならぬよう軽く払ってから、両手で相手の片手を柔らかく包み込み、甲を静かに撫でて。“これ”が薬の代わりになり同じ眠りを齎すなんて烏滸がましい事を言うつもりは無いが、それでも人の温もりの力を信じたかった。大丈夫だと、そう言葉にはせずただ手の甲を撫でる親指をゆっくりと動かしながら、先程飲んだ鎮痛剤が効き、相手の身体を襲う痛みがとれる事を願って )
( 薬に頼り過ぎている事は感じていた。身体の不調が重なる度に、その場しのぎに薬を摂取する事で“今”の苦痛を和らげる。其れが後々に何かしらの良くない影響を与える事も分かっていながら、楽になりたいと願ってしまうのだ。相手が手の甲を撫でると、包み込まれたそのぬくもりに一度視線を向けた後、何を言い返す事もせず少ししてゆっくりと目を閉じる。全く寝付けずにいたはずが、少しばかり心がほぐれるのか僅かな眠気をきっかけに時間を掛けて、やがて浅い眠りに落ちていて。---微睡みの中で薄らと夢を見た。現実と区別の付かなくなるような恐ろしいものではなかったものの、遠くで色々な声が聞こえる。現場で聞いた刑事たちの怒声や打ちひしがれる遺族の声、飛び交う記者たちの声、妹の声。全て記憶によって作り出されているもので、このまま眠りが深くなれば鮮明な記憶と共に映像を伴った夢が生まれるのだろう。其処に沈む事を拒むように僅かに眉間に皺が寄り、小さく息を吐き出したものの目は開かない。誰の物とも分からない“人殺し!”という叫びがやけに鮮明に聞こえたのと同時に強い痛みに襲われ息が詰まる。「______っ、゛…ッ、!」声にならないくぐもった叫びと共に意識が浮上するのだが、あまりに痛みが強く上手く息が吸えない。ソファから身体を起こそうと反射的に身体を動かし、バランスを崩すと床へと崩れる。床に手をつき鳩尾辺りを握り締めたまま呼吸は徐々に上擦り、少し骨張った背中は浅く上下を始める。今まで幾度となく襲われた痛みと苦しさ。「……ッミラ、…!」思わず相手の名前を呼んだものの、この苦痛がすぐにやまない事は理解している。首筋には汗が浮かび、身体を支えている腕は小刻みに震えながら、懸命に浅くなる呼吸を繰り返して。 )
( 瞳が重なり一度柔らかく微笑めば、後は眠りに堕ちる相手の様子を静かに見守るだけ。1時間後くらいに起こせば鎮痛剤が効果を発揮している頃かと眠りを邪魔せぬ様にゆっくりと包み込んでいた手を離すのだが。__「…ッ!」相手の瞳が閉じられてから然程の時間経たず、静かだった部屋に喉の奥に引っ掛かる様な張り付く重い呼吸音が響いた。同時に眠っていた筈の相手が身動ぎをし、続いて起き上がろうとしたのだろう、その身体はバランスを崩しソファから床へと落ちる。反射的に出た腕は相手の身体を支えるには至らず、背中を丸め懸命に呼吸を繰り返す相手から呼ばれた名前で、ハッとした様に再び中途半端に伸びた手を相手を抱き竦める形で背中に回し。「、此処に居る…!大丈夫っ、」無意識の内に呼んだ名前かもしれない。それでもそれが確かに己の名前なれば決して離れる事は無いと伝えたいのだ。鳩尾辺りを握り締める相手の手を上から握り、懸命に背中を擦りながら「痛いね…っ、もう直ぐ薬が効く。あと少し、ほんの少しで楽になれるから、」と、耳元で声が届く様にと伝え続けて )
( 強い痛みは呼吸を阻害する。ワシントンに来てからというもの、自分でも気付かない程に少しずつ心身を蝕まれいつしか強い痛みに襲われるようになっていた。刑事を辞める事になった直接的な原因とも言えよう。痛みが発作を引き起こす、或いは発作が痛みを引き起こす事もあった。今はただ、息を吸うのも辛いほどの強い痛みが身体の中心にあって、一気に背中に汗をかくのを感じた。此れが肉体的な痛みなのか、精神的に痛みを感じているだけなのかも判断できないのだ。「_____っ、は…ぁ、゛……」必然的に浅くなる呼吸の所為で頭が回らなくなると、現在と過去の記憶が入り乱れ混乱する。明らかにレイクウッドに居た頃よりも状態はかなり悪い。相手の呼び掛けに答える事のないまま、呼吸は乱れ徐々に身体には痙攣が生じ始めていて。 )
( 相手の様子から此方の声が全く届いていない事がわかった。首筋の汗はあっという間に背中にまで広がりワイシャツを湿らせ、喘ぐ様な呼吸は肺に空気が届いていないのが一目でわかる程に殆ど意味を成して無い。やがて腕の震えが身体全体の震えに変わりおさまる事の無い痙攣を引き起こせば、その明らかに不味い状況に心臓が嫌な音を立てる。__レイクウッドに居た頃よりも遥かに状態が悪いではないか。__鳩尾付近を握る相手の手から己の手を離し、両腕で相手の身体を押さえつける様にして抱き竦めるのだが腕の中でも痙攣は止まる事無く、ふつふつと湧き上がる恐怖はやがて“死”へ直結する。「…もう、いいよ…ッ…!」思わず感情が溢れ出すままに溢した言葉は震えた。「もういい…っ!戻ろう…エバンズさん…。」そうして一度音となった言葉は止まらない。「私が全部何とかするっ、二度とエバンズさんの目の前で誰にも傷付けられないし、エバンズさんの痛みももう一度一緒に持つ…!レイクウッドに戻ればアダムス医師も助けてくれるから…っ、」いち部下に出来る事など限られ、FBIである以上傷付かない事は難しく、何も約束など出来るものでは無いが、それでも今はそんな事を考えている場合では無かった。痙攣を繰り返し、まともに呼吸すら出来なくなっている相手がただこの場に崩れ落ちてしまわない様に、絶望に染まってしまわない様に。「…じゃないと…っ……死んじゃう…!」このまま此処に居続けては__。考えたくも無い余りに恐ろしい未来が先程から顔を覗かせ続ける気がして視界が滲み、相手を抱き竦める腕に力が籠る。1年近く相手が苦しむ姿を見ていなかったせいか、記憶にある以上に状態が悪い事がわかってしまったからか、ただ、怖くて怖くて堪らないのだ )
( 相手に抑え付けられるようにして抱き竦められながらも、身体は自分の意思に反して痙攣を続けていた。それがようやく治ったのは数分後の事。ゆっくりと身体の震えが落ち着くのと同時に、耐え難い痛みもまた静かに波が引くように落ち着いて行き、力が入り強張っていた身体がようやく緩むと相手に体重を預けて。弱みを見せる事が出来ていた存在の居なくなったワシントンで、1年以上たった1人で苦しさを押し留めて来た。医者に助けを求めるでもなく、声を上げる事もせずただ懸命に痛みを堪えて。そのまま1人で居れば、その大き過ぎる負担に目を瞑り“気付かずに”後戻りの出来ない所まで堕ちていたかもしれないが、相手が来た事で再び痛みに気付いてしまったのだ。相手が”死“を連想する程に酷い状態なのだと、ぼんやりとした意識の中で感じて。現に刑事を辞める事を余儀なくされるほどに壊れ掛けていたと言うのに、”耐える“以外の選択肢が浮かばなかった。今の自分がどれほど堕ちているか、相手に言われるまで客観的に見つめる事も出来ていなかったのだ。______楽になりたい。相手やアダムス医師のように信頼できる存在が側に居る所へ戻りたい。刑事として働きたい______相手の言葉をきっかけに、胸の内にはそんな願望が沸々と湧き上がって来ているのだが、それを言葉にする事は酷く難しい。その選択は、責任感もなく私利私欲だけで全てを投げ出しているように思えてしまう。言葉を紡げぬまま、縋るように相手の背中へと回した腕に力が籠り。 )
( 長い長い時間を掛けて抱き竦めていた相手の身体の痙攣が治まり、それと同時に強張りが解ける様に此方に凭れる身体を今度は押さえ付けるのでは無く優しく__しかし決して崩れてしまわない様に抱き締める。痛みと苦しみに耐えた背中は解放された今も汗に濡れ、“どれ程”だったかを伝えて来る様で胸が痛む。その背中を優しく上下に擦りながらどれ程の時間そうしたか。酷い倦怠感に襲われているだろう相手がまたもう少しだけ落ち着くのを待ってから背中に回した腕を解き、けれど完璧に身体を離す事は無く互いに床に座り込んだ体勢のままに、相手の冷えた頬に手を伸ばす。遥かに痩せ、顔色の悪い窶れて見える顔を見てまた酷く胸が痛むのだが、頬を一度撫でてからその手を降ろし次は熱を産む様にと肩を何度も優しく擦りながら「__此処には私達しか居ない、エバンズさんが何を言っても私しか聞いてないから。…1年間、胸の中に溜めた沢山の事、私に教えて。」相手の瞳を真っ直ぐに見詰めつつ、たった1人溜め込んで来た事を話して欲しいと。「…エバンズさんは、今何を思っていますか?」自らの気持ちの優先順位を一番下にまで下げ、終いには無かった事にまでしてしまう。そんな相手だからこそ、“心の内の吐き出し”は、“痛みの認識”は、絶対に必要なのだ。それは昔からずっと思い続けている事で、何も怖く無いと僅かに微笑みながら促しの言葉を疑問形として紡いで )
( 正面から見詰めた相手は、以前と変わらない若葉色の瞳に自分を映している。憐れむような、慈しむような、労るような、そんな色を宿して。自分では内に溜め込むばかりのどす黒い物を相手に促されて吐き出すという経験を此れまで幾度しただろうか。「_______楽になりたい、」そのたったひと言を発するのには酷く時間を要した。「でも、後戻りは出来ない。…自分で決めた事を自分の都合で投げ出すなんて……責任感の欠片も無い人間がやる事だ、」いつも、但し相手の前でだけ、つかえていた言葉の後に秘めていた気持ちが言葉となってボロボロと溢れ出す。自分でも整理できていなかった思いが言葉になり、そこでようやく痛みに気がつくのだ。「だけど、辛くて仕方がない。何もかも_______刑事でなければ意味がないのに、この有様だ。」結局は、楽になりたいと願う気持ちと、ワシントンで踏ん張らなければならないという思いが交互に浮かんでは消えるばかり。行動に結び付く結論には至らず、幾度となく飲み込んできた思いで。 )
( 躊躇い、葛藤、その中で長い時間を要しながらも“楽になりたい”と相手自身が言葉にした事に酷く安堵した。心の内に確かにあるその思いを聞き届けて一度大きく頷く。それからその一言が切っ掛けとなった様にボロボロと溢れ落ちる思いの数々を最後まで聞き届けてから再び真っ直ぐに相手を見詰めると「後戻りじゃない、“進む道を選び直す”の。」それは聞く人が聞けば屁理屈かもしれないが己にとっては前向きな言葉。「今道を変えても誰もエバンズさんの事を責任感の無い人だなんて思わない。それは、本部もレイクウッドもエバンズさんがどんな人かを知ってるから。…被害者や遺族に真剣に向き合って、最後まで事件解決にベストを尽くす__エバンズさん自身が築き上げた信頼は、そんな簡単に揺らいだりしないよ。…それでも何か言う人が居るなら、それは無視したって良い。そんな言葉は聞く必要無い。」例え相手自身が自分を“責任感が無い”と思ったとしても、決してそんな事は無いのだと。語り掛ける様に、そうして最後にはやけに真剣で珍しく断定的な強い言葉で締め。再び表情を穏やかに緩ませては「…何も諦めて無くて良かった。」と、例え今何処に行く事も出来ず足踏み状態だったとしても、自暴自棄になってる訳でもない、虚無に囚われてしまっている訳でもない、“楽になりたい”も“刑事である事”にも相手の中から決して消えた訳では無い、先ずはその事に安心した様に微笑み。「一緒に考えよう。直ぐに答えは出ないかもしれないけど、信頼出来る医師の居るレイクウッドに戻って、尚且つ刑事で居られる方法が絶対にある。」相手の片手を両の手で包み込む様に握り締め、己は何も諦めていない事を今一度言葉にした後。瞳を閉じそのまま僅かに身体を前に倒す事で相手との距離をもう少し詰め額同士を軽く合わせると、「…だから、離れて行かないで、」静かに言葉にしたそれは物理的な距離だけでは無く“心の距離”。直ぐに額を離し緑眼に相手を映せば「__エバンズさんが関係する事で私が傷付くと思うなら、離れる事じゃなくて、側に居る事で私を守って。」珍しく余りに真っ直ぐな願望を口にして。それは言葉だけを切り取れば傲慢で我儘なそれなれど、今の相手に届く言葉としては適切だと思った。“私は大丈夫”、“傷付いても構わない”、それでは相手が誰にも言わず本部に戻る決断をしたその理由を、不安を、恐怖を、拭えないと思ったからで )
( レイクウッドに戻りたいという思いは、確かに自分の中に芽生えていた。しかし自分の意思で、周囲に害が及ばないようにと離れる決意をした以上手放しに戻る訳にはいかないという思いは強く、相手の言葉に直ぐに頷くことは出来ずに。不意に相手の額が寄せられ、直ぐ近くで声がした。それが物理的な距離の事を言っている訳では無いことは理解できたのだが、同時に続いた相手の言葉は自分が想定していた物とは違っていた。自分の所為で相手に危害が加わる恐れがある、だから相手の側には居られないと告げた場合相手は、自分を犠牲にするのも厭わないという覚悟と共に大丈夫だと言い張ると思っていた。けれど相手が紡いだのは、それよりもずっと自分に寄り添う優しい言葉。自分が抱える不安を理解した上で、近くに居て良いのだと促すような。その言葉に何故か酷く安堵し「______守れるだけの体力が戻ったらな、」と、小さく掠れた声ながら何処か今の状況を冗談めかすようにそう告げて。 )
( 相手は戻るとも、戻らないとも、明確な返事はしなかった。それだけ今回の決断は大きく重たいものなのだろう。それがわかるからこそ逸る気持ちを抑え、確りとした基盤が出来上がり、相手自身が心から“戻る”と頷ける時を今はまだ待つべきなのだろうと、相手の心身の不調を思う不安はあれど返事を急かす事はせず「なら、それまで私も頑張らなきゃだね。」紡がれた小さな冗談に乗っかる形で自身を鼓舞する決意と共に頷きつつ「__まずは体力回復の為に十分な睡眠をとらなくちゃ。勿論、此処で2人一緒に。」相手の背後のベッドに視線を移動させ、少しだけ悪戯に笑って見せて )
( 今は未だレイクウッドに戻る決断をする事は出来ない。それでも相手が暗に“待つ”と伝えてくれている事は安心に繋がった。相手に支えられながら身体を起こし、力を入れた事でズキリと鈍い痛みが走ったものの薬が効果を発揮しているのか強い痛みが引き起こされる事はなかった。ベッドに身体を横たえると小さく息を吐き出す。1人のベッドは酷くひんやりとして、幾度となく目を覚ますのだが相手が隣に居るだけで温もりを感じる事ができて気分が落ち着くのを感じた。相変わらず眠るのは怖い。けれど今は相手の体温に身体を預けるようにして、穏やかな眠りを求めて。 )
( __1年振りに相手の隣に身を寄せる様にして横になる。長い長い時間の筈だったのに、不思議とその温もりを思い出せるのはそれだけ特別だからだろうか。背中越しにも伝わるゆっくりとした呼吸は心を穏やかにさせ、柔らかな柔軟剤の香りは安らぎを連れて来る。遠慮がちに伸ばした手で眠りを邪魔せぬくらいの控え目な動作で以て相手の背中を撫でながら、ふ、と一瞬脳裏を過ぎったのは“最期に見た少女の顔”。続けて何時の日か相手に見せて貰った写真の中で微笑む【セシリア・エバンズ】の優しい顔が浮かび、思わずきつく瞳を閉じてから動かしていた手を止め相手の背中に静かに額をくっつけて。「__…私は、何時だって遅いね、」至極小さな呟きは相手を起こさぬ様冷たい空気の中に散る程のもの。何時も__遅いのだ。相手の優しさに気が付くのも、相手の痛みに気が付くのも。誰かを失う苦しさや切なさ、不甲斐無さ、罪悪感、どれもこれも何時だって、相手が先に経験する。「…大丈夫なんかじゃなかったのに、私はそれしか言えなくて__でもきっと、またそう言う。…ごめんね、」ぽつり、ぽつり、と溢れる言葉の最後は謝罪。額を僅かにくっつけたまま再び手を動かし背を撫でながら、やがて瞼は降り浅い眠りへと落ちて行き )
( 1年ぶりの相手の体温は、ワシントンに来てからというもの1人では感じる事のなかった落ち着きをもたらした。睡眠薬を飲まなければ寝付けなくなっていたものの、久しぶに薬に頼る事なく眠る事が出来たのだ。気持ち的に落ち着いたからと言って直ぐに全てが改善するという事はなく、夜中に幾度となく目を覚ましたものの、その度に隣に居る相手の姿とその温もりに程なく落ち着きを取り戻す事ができ、短い眠りを何度も繰り返しながらも朝を迎えて。普段であれば夜中に悪夢で目を覚ますだけではなく、そのまま発作が収まるまでに長い時間を要する為、短い眠りを繋げただけでも身体は少しばかり楽になっているような気がして。出勤時間は刑事として働いていた頃よりも遅い。警視正らの計らいによって午後からの講義を担当する事が多いため、今までより2時間ほどは朝に時間があるのだ。目を覚ましたものの少し身動ぎをしただけで、布団の中の温もりに包まれたままでいて。 )
( 相手の背中に控え目に身を寄せた状態で深い深い眠りの中、夢も見なかった様に思う。__ふ、と意識が浮上し重たい瞼を持ち上げれば部屋の中には柔らかな光が射し込んでいて朝を迎えた事を寝起きのぼんやりとした頭が理解した。同時に今布団の中では1人では無い事を、そうしてこの温もりがもう数時間後には無くなってしまう事を思い出し細く吐き出した息の後、すぐ目前にある相手の背中を数秒見詰めてから徐に少しだけ上半身を起こして。「……」静かな朝を邪魔する気は無いのだが、欲してしまった温もりは今よりもう少し大きいもの。無言のまま片腕を相手の背後から前に回し、それと同時に頭だけを横になる相手の肩付近へ乗せる。全体重を掛けて乗っかっている訳では無いのだから、久々に相手と迎えた朝なのだから、とやけに自分に甘い言い訳を潜ませつつ、頬擦りをする様な、頭を押し付ける様な、そんな子供じみた動作を数回繰り返した後、にんまりとした笑顔のまま動かなくなり )
( 布団の中で相手が身動ぐのを感じた直後、不意に背中に温もりが宿る。相手が背後から此方を抱き竦めるような態勢になっている事を理解したものの、何か声を発する事はしなかった。暫くそのまま横になっていたものの、やがて「_____いつもより随分よく眠れた、」とポツリと言葉を落として。浅い眠りを繰り返したものではあるのだが、睡眠薬を飲んで眠る日々よりも少なくともまとまった睡眠を取る事が出来たと言えよう。少し寝返りを打つ形で仰向けになり相手の方へと視線を向けると「……何時の便だ、」と相手の予定を尋ねて。 )
( その体勢のまま目を閉じ一方的な温もりを得る事数分。ふいに少し掠れても聞こえる相手の声と共にこの触れ合いに終止符が打たれれば静かに身体を離すと同時に「__良かった。これでレイクウッドに戻る理由がまた1つ出来た筈。」と、僅か冗談めいた声色で返事をしつつ、次いで問われた問い掛けに枕元の置時計を確認してから顔を向け「…1時過ぎ。遅くても1時間前には空港に居たいから__私の方が先に出るかもしれないね。」この部屋で相手と話せる時間も後少し。ベッドから降り足元の少しひんやりとした空気を掻く様にして歩きつつ、ケトルにお湯を沸かすと、伏せられているマグカップ2つにそれぞれコーヒーを淹れて。__余りに突然過ぎる訪問なのだからあっという間に終わりを迎えるもの。マグカップの中の黒を見詰め、次にほんの僅か垂らしたミルクが渦を巻くのを見、その香りを引き連れて戻って来ると「…どうぞ、」とマグカップの1つを相手に差し出し己は近くの椅子に腰掛けて。朝の柔らかな光を受け、相手の姿を目に焼き付ける。次、何時会えるかなんてわからないのだから。熱い黒を喉に流し込みながら、出発迄の時間を少しでも幸せで、優しいものに出来ればと )
( 相手の返答に頷きつつ差し出されたマグカップを受け取る。部屋に戻ってものんびりと自分の時間を楽しむ事はほとんどなく、ただ横になっているものだから、こうして温かいコーヒーを朝から楽しむというのは久しぶりな気がした。「……そういうのを、弾丸旅行っていうんだろうな。」と紡いだのは、まさに“弾丸”という言葉がぴったりな行程だから。ただ、自分に会うという目的の為だけにワシントンに来てくれた事には感謝以外の気持ちは無い。たった1日足らずの時間であっても、相手の明るさと優しさに触れ、沈んでいた心は少しばかり立て直した気がするのだ。「…少し早めに出て、土産物でも買ってやろうか?」ふと、そんな提案をする。ホテルの近くにはワシントン土産を売る広めの売店があり、空港まで送ることはできないにせよ部屋を出る時間を30分程早めれば土産を買うだけの時間はある。物珍しいラインナップではないかもしれないが、この地域ならではのお菓子やグッズには相手も興味があるかもしれないと。 )
意外と悪くないよ。…このホテルから引越しする時は教えてね。次会う時、何も知らないで此処に来て、会えなかった、なんて事になったら大変。
( コーヒーを啜りながら正に言葉通りの行程に小さく笑う。航空券を買ったその時から此処に来る迄とんでもない勢いと進む時間の速さではあったが“苦”だとは僅かも感じなかった。相手がレイクウッドに戻って来るのはまだ先の話になるかもしれない、それでも再びこのワシントンまで会いに来る事を約束するかの様な言葉を選び再びコーヒーを一口啜り。__穏やかに流れる時間の中で、相手の珍しくも感じられる申し出に一度瞬く。何かを奢って貰う事が珍しいのでは無く、相手の口から出た“土産物”と言う単語が珍しく感じたのだ。その響きを一度咀嚼してから遠慮無く小さく頷くと「…欲しい、」とはにかみつつ素直な返事をして。相手と共に居られる時間がまた少しだけ有意義なものになる事に嬉しさを滲ませ「デスクワークの合間に食べるお菓子なんかが良いかなぁ。」緩んだ頬のまま、マグカップの残りのコーヒーを飲み干して )
______下手すれば通報が入って、本部の刑事たちに事情を聞かれるな。
( 自分が居ないホテルの部屋に突然見知らぬ女性が訪ねてくると言うのは宿泊客にとっては恐ろしい状況。通報されて本部の刑事たちがやってくる可能性もあると肩を竦めて見せ。相手の返答に頷くと、コーヒーを飲み切って立ち上がる。準備を整えて刑事の頃と変わらないワイシャツとジャケットに袖を通し、コートを羽織って講義に使う資料などが入った鞄を手にすると、準備を済ませた相手と共に部屋を出て。今夜仕事を終えて戻って来ても、相手はもう部屋には居ないと頭の片隅で考えつつ、ホテルから程近い店へと。ゆっくり店内を見た事はなかったのだが、売り場は広くお菓子や食材、ポストカード、オリジナルグッズなど様々な土産物が並んでいた。好きなものを選べとばかりに相手を促しつつ、相手が手にするものを横で眺めて。 )
__そっか、エバンズさんの行方がわからなくなってもそれなら会える可能性があるのか。“アルバート・エバンズさんのお部屋だと思って”って言えば連れて行って貰えるかも。
( 相手が想像した宿泊客にとっての恐ろしい状況は、最悪此方からすれば吉。冗談めいた語調ながは警察官としては到底アウトな発言と共に軽く眉毛を上げた笑みで締め。___都会の土産物店は矢張り大きく様々な種類のお土産が棚一面に鎮座していた。“I Love ワシントン”なんて書かれたキーホルダーを一度は手に取るものの、同じ国内で別に感情が揺れる事もなければ直ぐにそれを元の位置に戻し、次の棚へ。その棚には絵画をモチーフにした様々な文房具が売っていて、丁度来年使う手帳を切らしていると思えば、直感的に惹かれた表面に日傘をさす女性の淡い絵が描かれている手帳を手に取り隣に居る相手に「…これにしようかな。」と、見せて。それから隣にある棚、お菓子が売られているそこで足が止まると、ワシントンでは有名なソフトシェルクラブ味のスナックを見付け「…美味しそう、」と、手に取り控え目に相手を見上げて )
( 相手が手にしたのは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに展示されている絵画をモチーフにした手帳。ワシントンらしさもあり普段使いにもちょうど良い。同意を示すように頷きつつ、手帳とスナックを受け取る。「他には良いのか?」と尋ねつつ、レジに向かう途中に動物のイラストが缶に描かれた、チェリー入りのチョコレートを見つければ其れも手に取る。ドライチェリーをチョコレートでコーティングしたそれは、ひと口サイズで仕事のちょっとした合間に食べるのにも適しているだろう。レジで会計を済ませ、ワシントン土産だということが一目で分かるデザインの袋に入ったそれを相手に手渡すと「…駅まで送る。」と、直ぐ近くの駅前までは送ると伝えて。 )
( 相手が会計を済ませている間、様々な種類のチョコレートが鎮座する棚の前で再び足を止める。中でも真っ先に目に止まったのはココアパウダーの降り掛かったアーモンドチョコ。“口溶け滑らかなビターチョコレートを使用”とパッケージに書かれているそれは物凄く美味しそうに思えて隣のレジでひっそりと買えば、己が強請ったお土産を手渡されると同時に「ありがとう、大切にするね。…これ、お返しって言う訳では無いけど美味しそうだったから。」お礼の言葉と共にアーモンドチョコの入った小振りの紙袋を相手に手渡して。__空港に直結する電車が通る大きな駅なだけあり、付近は人通りが多かった。中に入って電車乗ってしまえばもうそこからはたった1人。隣に相手は居ない。途端に手に持つ荷物やお土産袋がずっしりと重たく感じ、それに比例する様に足取りも重くなる。わかりやすい程に視線は下方に落ち、前へと進む歩みもそのペースを落とす。相手との距離が空いても尚、小走りで駆け寄る事もしなければ無言のまま、空港の入口付近でその歩みは完全に止まるだろう )
( 思いがけず相手から紙袋を差し出されると数度瞬き、中身が昔自分が好物だと言ったアーモンドチョコレートだと気付くと「…悪いな、」と答えつつ其れを受け取って。---駅の入り口まで向かい、相手の乗る便に十分余裕を持って空港に着く電車が数本電光掲示板に表示されているのを見ると、焦らなくて良さそうだと相手を振り返る。しかし直ぐ側を歩いていると思っていた相手は自分より少し後ろで足を止めていて、纏う空気に先ほどまでの明るさはない。今回は相手が自分の為にワシントンまで来てくれたとはいえ、レイクウッドとワシントンはそう簡単に行き来出来る距離ではない。あの頃のように“また明日”と別れる訳にはいかず、次にいつ会えるかも分からないのだ。俯く相手に歩み寄り、軽く頭に手を乗せる。「_____会えて良かった。…刑事に戻れるように、もう少し模索してみる、」と、前向きな言葉を告げて。レイクウッドに戻る事は、今は未だ約束できない。それでも「……側で守れるように、体調を整えないとな。」と、少し表情を緩めて。 )
( 賑わう人々の声や駅内のアナウンスが右から左に流れる。相手は今日から仕事で自分は明日から仕事__つまり絶対に間に合う電車には、飛行機には乗ってレイクウッドに戻らなくちゃいけないのに、頭ではわかっているが気持ちが着いて来ない。俯いたまま何とか気持ちを立て直そうと深呼吸を数回繰り返したその時、落とした視界の中に相手の革靴の先が映り、続いて頭に骨張った温かな手が乗せられれば静かに頭を持ち上げて。余りに懐かしい、けれども酷く安心出来る手。今は昔に感じられる事だが、相手が柔らかく髪の毛を撫でてくれた時は、とても幸せな気持ちになれたのだ。そうして掛けられた言葉は此方を安心させようとしているのか、とても前向きなもの。その言葉に少しばかり安心した様にはにかみつつ「私も会えて良かった。__エバンズさんの部下として仕事が出来る日を楽しみにしてます、」と。その言葉は出会った時と、過ごして来た日々の中と、何も変わる事の無い素直な感情で。お別れのハグを、と思ったのだが此処は人目が多い。相手はこう言う所で例え別れのハグだとしても躊躇するのではと思えば、握手を求める様に片手を出し「あんまりにも無理ばっかりして、なかなか此方に来なかったら…私が先に本部に異動願いを出すから。私の行動力がどれ程のものか、今回の件でわかったでしょ。」少しだけおどけて見せたのは、泣き出しそうな気持ちを隠す最後の強がり。別れのその時、相手の中に残る己の表情はやっぱり笑顔が良いと思うから )
( 差し出された相手の手を素直に握り返しつつ、続けられた言葉には苦笑する。相手自身が豪語するように、相手の行動力は今回の件で実証済みだ。モタモタしていると本当に相手が移動願いを出し、ワシントンへやって来るかもしれない。安心してレイクウッドに戻る事が出来る日が来れば、という思いはあるのだが危険因子が取り除かれていない今、戻る選択は出来ないという気持ちは揺らいでいなかった。「早まるなよ、同じタイミングで俺が異動になったら困るだろう。」と、肩を竦めておき。______相手を見ていると、刑事として捜査に邁進していた日々を思い出してしまう。ワシントンには相手のような“相棒”も居なければ、刑事として捜査に関わる事も今は出来ていない。まずは刑事の立場を取り戻す事が先決だと気持ちを立て直しつつ、電車の発車時刻が近付いているのを見ると「_____もう行け。気を付けて帰れよ。……こっちから応援してる、」と告げて、構内へと促し。 )
( 互いに重なった手が離れ、最後の熱が消える。肩に掛けたボストンバッグを持ち直し、真っ直ぐに相手を見詰めて浮かべるのは笑顔。掛けられた言葉の別れの切なさに感情が揺さぶられない様に深呼吸で立て直しては、「__次は定期的に連絡するから。ちゃんと出てね。」今回は電話一本掛けるのに1年掛かったが今度はそんな事になったりしない。「…またね、エバンズさん。」敢えて“またね”と言う言葉を選び最後の最後まで“次の再会”を印象付けてから軽く一礼をして背を向けて。__1年振りの相手との再会はあっという間に終わった。飛行機の時間には確りと間に合い、無事にレイクウッドに到着した時に相手とホテルを教えてくれたクレアにメッセージを送れば、それからはまた何時もの日常に戻り、数日後には回って来た事件の捜査に奔走して )
アーロン・クラーク
( __相手がミラーと再会した日から凡そ一週間後の今日。相手が泊まるホテルの部屋の中で相変わらず高そうなスーツを身に纏い1人ソファに座りながら寛ぐ。相手が此処ワシントンに異動になった事、刑事を辞めて今はFBIアカデミーで教官をしている事は既に知っている。長い足を器用に組み換えて、仕事終わりの相手が戻って来るのを今か今かと心待ちにするその表情は普段より少しばかり幼くも感じられるもので )
( 相手がレイクウッドに戻り、あっという間にワシントンでの日常が戻った。相手と会った事で幾らか沈んでいた気持ちは立て直した部分があるものの、変わらず体調は良くない上にやりがいを持って仕事に取り組めている訳でもない。決まった時間に現在の職場であるFBIアカデミーに向かい、複数コマの講義を担当する。講義後の雑談には当然付き合う事をせず、質問がある学生にだけ対応して教官室に戻る事の繰り返しで。---その日も最後の講義を終えて帰路に着くと20時前に部屋に戻る。ネクタイを緩めつつ扉を開けて部屋に足を踏み入れ、視界の端に綺麗に磨き上げられた革靴が映った。其処で漸くハッとして顔を上げれば、どういう訳だろうか、部屋のソファで寛ぐのは自分が最も嫌悪する男。「______っ、…」此処にいる筈の無い姿に言葉を失い、その後何故彼が部屋に入れたのか、そもそも何故此の場所を______自分がワシントンに居てこのホテルを拠点にしている事を知っているのかと遅れて疑問が湧き起こり。「……どうしてお前が居る、」と、距離を取ったまま辛うじてひと言だけ言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
( 廊下を歩く至極小さな足音と気配が部屋の扉の前で止まった事を敏感に感じ取るや否や、口角が歪に持ち上がる。続けて鍵が解錠され扉が開き__嗚呼、漸くだ。誰よりも、何よりも愛している相手が今目の前に居て此方を真っ直ぐに見て居る。驚愕に縁取られた瞳が思う事は様々なれど今態々丁寧にその疑問に答える気は無かった。ソファから立ち上がり、立ち竦む相手との距離を大きな歩幅であっという間に詰めてしまうと、伸ばした手は相手の後頭部と腰を支える様に回し__抵抗される前に、何かを言う前に、外の空気を含んだ冷たい唇を啄む様に己の唇を合わせると、同時に相手の腰を強く引き寄せ更なる密着と拘束を選びつつ、再会を喜ぶには少しばかり乱暴な、欲を抑える事を知らぬ様な、そんな荒っぽい口付けを角度を変え、何度も、何度も繰り返して )
( 何も言わぬままに相手が立ち上がったのを見て警戒こそしたものの、部屋の外に飛び出すような事は当然しない。身体に力が入っただけだったのだが、相手は大きな歩幅であっという間に自分の目の前にやって来ると、そのまま身体を引き寄せられて。抵抗できない程の強い力で腰と後頭部を固定され、自分よりも体温の高い相手の唇が重なる。いつか、ミラーの名前を出した事に腹を立てた相手が自分を力尽くで抑え付けるため、お前は支配されているのだと刻み込むかのごとく唇を奪われた事があった。其れと同じような______まるで毒蛇に巻き付かれ身体が麻痺する毒を牙から流し込まれる獲物のような状態で。抵抗するように相手の腕を掴むのだが、1年以上が経ち相手との力の差は更に開いたような気さえする程に、自分よりも体格の良い相手の身体はびくともしない。酸素を求めるように口を開くも、相手の口付けから逃れる事が出来ないままに苦しげな表情を浮かべて。 )
アーロン・クラーク
( 腕を掴まれ抵抗と呼ぶには余りに弱々しいその行動にはかえって健気さすら感じるもの。苦しさに耐えきれなくなった相手の唇が酸素を求める様に薄く開いたのを感じ、まるで“良い子だ”とばかりに一度だけ舌先で優しく下唇をなぞるのだが勿論解放する気はさらさら無い。熱く湿った自身の舌先を相手の口内に押し込み、そのまま歯列をなぞる様に何度も何度も深い口付けを繰り返し、相手の身体がその場に崩れ落ちてしまわぬ様に確りと抱き支え。__元から相手は細身だったが、この1年でその体格は更に痩せた様に思える。口付けに集中しながらも頭の片隅でそんな事を考えつつ、腰にあてた手を撫でる様に緩く動かす。やがてたっぷりの時間を掛けて相手を堪能すると、満足したとばかりに後頭部の拘束を解き顔を離し。その際互いを繋ぐ銀の糸を舌で断ち切ると、己の唇を軽く舐めた後『__会いたかったですよ、警部補。』何とも清々しい笑顔で一方的な再会を喜んで )
( 相手の熱が移るようにして、徐々に思考は正常に働かなくなる。何故こんな状況に陥っているのか、何故相手はこの場所を探り当て部屋の中にまで上がり込んでいるのか。この男の好きに等させて良いはずが無いのだが、上手く力が入らずに成す術もないまま少しずつ相手の腕に体重が掛かる。そんな“最悪な状況”がどれほど続いただろうか。やがて相手の顔が離れ、この状況にそぐわない爽やかな笑顔と共に紡がれた言葉に嫌悪感を露わにすると、腰を支えたままの相手の腕を振り払い。「______どういうつもりだ。何で此処を知ってる!、」僅かに声を荒げつつ再び距離を取ると、相手を睨み付けながら手の甲で唇を拭い。 )
アーロン・クラーク
( 腕を振り払われ、再び距離を取り睨み付けられようとも此方の表情は笑顔から変わらない。それはそうだろう、どれ程嫌悪感を向けられた所で“会えた”と言う事実だけが全てなのだから。『その仕草唆られますねぇ。』手の甲で唇を拭うその一瞬の仕草にうっそりと目を細め相変わらずの台詞と共にさも当たり前の様に再びソファに腰掛けると、此処は相手の泊まる部屋だと言うのに隣に座れとばかりにポンポンと自身の横を叩き。『どうって__今のキスの事でしたら、再会の挨拶と言った所でしょうか。貴方の事で知らない事なんて俺には無いんですよ。因みにこれ、』相手の疑問に答える気になったのか、一つ一つやけにゆったりと話しながら、スーツの内ポケットから取り出したのは“FBI”と書かれた警察手帳。勿論これが偽装の物だと言う事は相手には直ぐにバレるだろうが、生憎ホテルの従業員やその他“一般人”に見破れる物では無い。再びポケットにしまいつつ『便利な物ですね。』なんて悪びれた様子も無く笑った後、『本当はもう少し早く会いに来る予定だったんですけど、予定外の仕事に追われてしまって。…でもまぁ、結果的に“今”で良かったかもしれません。』随分とまぁ、ペラペラと良く回る口で休み無く言葉にしながら相手の頭の天辺から足の先までを一度軽く流し見て )
( この男に何を言った所で暖簾に腕押しである事を改めて突き付けられると、眉間に皺を寄せたままそれ以上の言及をする事はなく。手にしたFBIの警察手帳、偽装した其れを使いホテルに侵入したのだろう。「偽造容疑で逮捕されるぞ、」今の自分にその権限はないものの、あまり乱用していてはいずれ足がついて罪に問われる事になると告げて。相手が仕事に追われていようが無かろうが知った事ではない。そもそも会いにくる必要など無いわけで、今が良いタイミングだとも思わない。相手の言葉を無視しつつ、ドアの近くから奥のクローゼットの方へと移動するとジャケットを脱いでベッドの端に置き、ネクタイをハンガーに引っ掛ける。「何でも良いが、此処は俺の部屋だ。帰ってくれ。」と告げつつ、休みたいのだと相手を追い払う仕草をして。 )
アーロン・クラーク
( そんなヘマはしない自信があるものの、確かに相手の言う通り余りに乱用してしまえば何処かで思わぬミスに繋がるかもしれない。だが__『これを使うのは貴方の前だけなんで心配はご無用ですよ。それに__“今の”貴方では何にせよ俺を罪に問う事は出来ないですしね。』相変わらずの謎の自信を滲ませつつジャケットを脱ぐ後ろ姿を見詰めながら何とも意味深な言葉を紡ぎ。案の定相手は久し振りの交流を楽しむ気は欠片も無いらしい。己を追い払わんばかりの言葉にも仕草にも何処吹く風で『泊まらせて下さい。』と、どんな返事が返って来るかわかりきっているお願いを一つ。それから再びソファから立ち上がると、ベッドの脇に居る相手の背後まで歩み、徐に片腕を掴み。『…さっきで俺との力の差はわかったでしょう?このまま無理矢理ベッドに押し倒されるか、何も無く一緒に眠るか、選んで下さい。』絶対的に何方も選びたくないであろう選択肢を堂々と掲げ、腕を掴む指先にほんの僅か力を込めて )
( 相手はまるで、自分の現状を全て知っているかのような口振りで自信を滲ませた。否、ホテルまで突き止める程の執着を持つ此の男の事、本当に自分が教官となった事実や其の経緯まで知っていても可笑しくはないと今は思えた。「_____ふざけるのも大概にしろ。」泊まらせろという言葉には眉を顰め、ひと言言い返す。何が悲しくて此の男を自分の部屋に泊めなければならないのか。此れまでにも散々苦しめられて来たと言うのに。しかし相手はいつも、自分がより選びたくない選択肢を持ち掛けて思い通りに事を進めようとする、それが常套手段なのだ。「泊めない。部屋は他に幾らでもあるだろう、もう帰ってくれ。」と、取り合う様子を見せずに相手の腕を振り払おうと。 )
アーロン・クラーク
__これは少し想定外でした。そんなにも俺に抱かれたかったんですね。
( この二者選択、何方も相手にとっては不愉快極まりない選択であろうが何方か選ばなければならないのなら100%後者を選ぶと思っていたのだ。だからこそ再び帰れと言われ腕を振り払おうとする抵抗に何処か驚いた、それでも至極満足そうに口角を持ち上げ何とも都合の良い解釈の元__相手の腕を掴む手に更に力を込め距離を詰めると同時、勢いのまま相手を柔らかなベッドの上に乱暴に押し倒しあろう事かその腹の上に跨って。『残念ながら部屋は何処も満室だったんです。クリスマスが近いからですかねぇ。』そんな危うい体勢のまま、律儀に返したのは少し前の返事。見下ろした相手は矢張り1年前より遥かに窶れていて、何処か病的にも見える。加えて身体につく肉も薄く体重も最後に会った時より減っているだろう。刑事を辞めた__辞めさせられた理由に絡んでいるのは一目瞭然で、暫し上から不躾に見下ろしたまま、ややして楽しむ様に抵抗はさせながらも相手の頬を緩く撫で、その指を首筋に、そのままワイシャツのボタンを上から一つ一つ外していき。『酷い事はしないので、良い子にして下さいね。』と声を掛けるのだが、この状況が相手からすれば“酷い事”である事は華麗に無視で )
( 何でも思い通りになると余裕の笑みを浮かべて選択肢を突き付ける相手に、そもそも泊める気は無いと主張しただけの事。それなのに腕を掴む力が強まり、気付けば一瞬で視界は反転していた。相手は都合の良い解釈で、折角提示した妥協案を自分が無視したと受け取ったのだろう。「____っ、分かった!ベッドでも何でも使って良い、だから触るな、!」一切悪びれる様子も無くワイシャツのボタンを外す相手の手を掴み、背に腹はかえられないと許可を出す。そうでもしなければこの男の事、何をされるか分かった物ではない。此方を見下ろす相手を下から睨みつけたまま、相手の腕を掴む事で牽制して。 )
アーロン・クラーク
( 焦らす様に至極ゆっくりとした、それでいて優雅な所作で以てボタンを静かに外していく中。上から2つ目のボタンが外れ3つ目に指が掛かった所で相手から投げやりではあるものの泊まりの許可と共に静止が入れば、その指先は直ぐにピタリと止まり。__『……』此方を睨み付ける相手の碧眼には強い嫌悪感と鋭さが宿っている。力では到底叶わないとわかっている己に組み敷かれ、ろくな抵抗も出来ない中で白い喉を晒しながらもその瞳に揺らぎは無い。絶対的に不利な状況下なのに。この“どうにでも出来る感”と、その中で見せる相手の瞳に思わず背中の産毛が逆立つ様な加虐心が生まれ、小さく喉を鳴らす。けれど選択肢を与えた以上、相手が選んだ以上、無かった事にするのは“ルール違反”であろう。ふつふつと湧き上がる熱を笑顔の裏に隠し僅か身体を折り相手の耳元に唇を近付けると『__“一緒に”寝るんですからね。』相手の嫌がる単語を強調しつつ、再び静かに持ち上げた顔。その瞳には歪な光はもう無く、そこで漸く相手の上から退けて。向かうは備え付けの小型冷蔵庫。扉を開け何時買って来たのか中から小さなボトルワインを取り出しては『…貴方も飲みますか?』と、少し前の出来事など何も無かったかのように振り返って )
( わざわざ“一緒に”と強調して来る相手の底意地の悪さを感じながらも、身体が離れると、外されたボタンを留め直し手早くも乱雑にワイシャツを整えベッドから離れる。仕方無く許可を出すずっと前から我が物顔で部屋を使っているではないかと苛立ちを募らせつつ「_____いい。」と答えて。冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを出して固いキャップを開けると、睡眠薬を飲み込む。此れを水では無くワインで流し込めば、夢を見ないほどの深い眠りに身を委ね朝を迎える事が出来るだろうか、と一瞬考える。薬が効くまでには暫し時間が掛かる。動ける内に休む支度を整えようと、ソファで寛ぐ相手を置いて浴室に向かうと施錠した上でシャワーを浴びて。---時間にして20分程、髪をタオルで拭いつつ浴室を出ると1人用の座椅子に身体を預ける。眠気は未だ無いものの、身体が怠い。横目に相手に視線を向けると「……一杯くれ、」と、結局少しのアルコールを身体に入れる気になったのか空のグラスを相手に差し出し。 )
アーロン・クラーク
( 断られればそれ以上を勧める事無く自身の分のワインをグラスに注ぎ一口。揺れる赤は特別高価な物では無いがそこまで安い物でも無い。本来ならチーズか何かを摘みながら飲みたいものであるが、生憎少し嗜む程度にすると決めていた為買っては来なかったのだ。ミネラルウォーターで睡眠薬を流し込む様子を横目に、その後浴室へと向かう背中を見詰めるも、遠く鍵を施錠する音が聞こえると面白そうに喉の奥で1人クツクツと笑い。__それから相手が戻って来る迄の間、結局ボトルの中の赤は当初の予定とは変わり半分程まで無くなっていた。身体はほんの僅か熱を帯びるものの思考回路はハッキリしていて“酔っている”とは余り言えない状態。そんな中で座椅子に座った相手が気が変わったのか一度は断ったワインを望めば『俺の前で意識を失う事になりますよ。』と、先程の睡眠薬の話と絡めつつも、勿論断る事は無く差し出されたグラスにワインを半分程注いで。__シャワーあがりの相手が引き連れる仄かな石鹸の香りは何故か酷く落ち着けるもの。まだ湿っている焦げ茶の髪を見ながらまた一口赤を啜り、『……前にも言いましたけど、俺と何処か遠い所に行きません?』溢れた、と言っても自然な程に出た言葉は以前お墓の前でした話と同じもの。なれど何の脈略も無く、また、今は答えが想像出来るもので )
( 異常に効き目が強く出る事がある為、薬とアルコールの併用はするなと言うのが通説だが、効き目を感じにくい薬の効果が増強されるならば願ったり叶ったりではないか。相手の言葉に反応する事はなく、グラスを受け取り注がれたワインを口にする。芳醇な香りが鼻に抜け、喉を通った赤は熱を持って胃に落ちる。---相手が紡いだ言葉は、普段のように芝居掛かったものではなくて極自然なトーンで此方に届いた。以前も彼から同じ提案をされた事がある。互いに傷を負い、一向に前にも進めずもがき苦しみ続ける_____其れは、此処を離れたからと言って変わるだろうか。其れに、やはり相手と自分は立場が違い過ぎるのだ。少なからず薬やアルコールも影響しているだろうか、先ほど迄の嫌悪や鋭さが抜けた碧眼を相手へと流すように向ける。「______遠くへ逃げたからと言ってどうなる、過去は消えない。……俺とお前は同じじゃない。時間を掛けても分かり合う事は出来ない。」と、言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
どうにもなりませんよ。過去は着いて回るし、痛みは消えない。__その中で、俺は貴方が欲しいんです。誰にも邪魔をされない所に行きたい。
( 矢張り相手からの返事はNO。それを聞き届けてから再びグラスにワインを注ぎ入れ揺れる赤の水面を見詰める紫暗の瞳は何処となく暗く濁り。『それに__、』繋ぎ言葉の後に持ち上げた顔。普段の時と変わらぬニコニコとした人当たりの良さそうな笑顔で『貴方は今刑事じゃないでしょ。』と。『此処に居ても、例えレイクウッドに戻ったとしても、その身体ではもう刑事に戻るのは不可能だ。貴方自身が一番良くわかっている筈です。…貴方は刑事じゃなく、望むなら俺も今の仕事を辞めても良い。互いに刑事でも犯罪者でも無いなら問題は一つ解決でしょう?』酔ってはいないものの、少なからず身体を巡るアルコールが存在を消す訳では無い。普段もそうであるが、今日はより一段と饒舌で、けれど紡ぐ言葉の中の何処にも相手の気持ちは含まれておらず )
……例え誰にも邪魔されない所に行ったとしても、お前の物にはならない。
( 相手の主張は何の脈絡もないもののように思えた。遠い場所に行ったとしても、其れが自分を“手に入れる”事に繋がるのだろうか。そもそも此方の気持ちも無視して手中に収めようとしているだけでは無いかと思えば、相手の抱く願望が叶う事はないと断っておき。やはり相手は自分が刑事で無くなった事も把握していたようだった。何とか刑事に戻る道を模索しながらも体調は思うように上向かない、そんな中で紡がれた“刑事に戻るのは不可能”という言葉は、気持ちを更に沈ませるものだった。「______何者でもない俺たちが一緒にいて、傷口を舐め合ってどうなる。」自分たち2人が一緒に居る意味を見出せないと、饒舌に喋る相手に言い返す。彼が語るのは唯の夢物語だ、自分はワシントンを、刑事という肩書を捨てる事は選べない。少しずつぼんやりとしてきた頭でワインを呷り。 )
アーロン・クラーク
__頑固ですねぇ、少し試してみればいいのに。…そうだ、実は俺の家は此方にもあるんです。試しに数週間一緒に暮らしてみません?
( どんな提案をした所で相手が首を縦に振る事は無い筈なのに。諦め悪くまるで“お試し期間”を設ける様な提案を続けながらグラスの中の赤を呷る姿を見、至極自然な動作で以て次なる赤を注ぎ入れ。『難しく考え過ぎなんですよ。理由が欲しいなら幾らでもあげますけど__…貴方が離れればミラーが誰かに傷付けられる事も無い、彼女のこれからの幸せを遠くから願える。刑事じゃなければ“あの事件”の事で責められる事も無い。後はそうですねぇ……貴方が苦しんでる時、“遺族”である俺から何時だって“許す”と言って貰えるとかはどうですか?』足を組み替えつつ、一つ、二つ、と挙げる“理由”の中には相手がワシントンに来た大きな理由もまた含まれていて。アルコールが入りほんのりと朱に染まった相手の顔。このまま長く話し続けていたら睡眠薬の効果も相俟って意識が落ちるのも時間の問題だろうか、と。相手を愛おしいと思うその気持ちの中に、同じくらい傷付き苦しんで欲しい__涙を流すその表情を見たいと言う気持ちもあるのだ。そんな事を1人静かに考えながら、時折視線が交わるとニッコリと微笑んで見せて )
______お前は本当によく口が回るな、
( 相手の提案に眉間に皺を寄せるも、全てを聞き終えて紡いだのはそんな言葉だった。試しに一緒に暮らしてみないかという誘いは無視したまま、ワインを呷る。自分がNoと言えないように周りを固めて逃げ道を無くすのが相手の遣り口だが、探偵でも雇っているのかと言いたくなる程に情報を熟知しており、此方が拒否する間を与えないとばかりに言葉を重ねる。薬と酔いとで少しずつ思考が緩慢になる中、嫌悪や拒絶よりも先に心底器用な男だという呆れが勝ったというべきか。「…もう良いか、そろそろ休みたい。」そう告げると、グラスの中身を飲み干しカラになった其れをテーブルに置く。この熱が、覚めない深い眠りへと誘ってくれれば良いと淡い期待を抱きつつ立ち上がり。くらりと視界が揺れたものの、そのままベッドへと向かい布団の中に潜り込む。薬は効果を発揮したようで、小さな寝息が聞こえ始めるのに時間は掛からず。 )
アーロン・クラーク
( ゆったりとした熱に侵されているのか、此方が挙げた“理由”に嫌悪を表す事無く碧眼に良く見せる鋭さも無い。それ所か早々に話を切りあげ1人さっさとベッドに入ってしまえば思わずソファの上でぐるりと頭を反転させその様子を見。__掛け布団が僅かに上下し始めるのと、小さな小さな寝息が聞こえ始めたのはそれから程なくしてだった。アルコールと睡眠薬が効いたとは言え、余りに早いその就寝に最早放置を食らった気さえして思わず苦笑いが漏れ。『…仕方の無い人ですねぇ、』と、溢した独り言は勿論相手には届かない。グラスに残ったワインを飲み干し相手が眠っているのを確認してから静かに部屋を出て向かうは一階のフロント。相手に相談も許可取りも無く勝手に決めた“居候生活”は、明日の朝言えば良いか、と。24時間待機して居るフロントの女性に相手の隣の部屋を何泊の指定無しでとって貰うと、お礼と共にある程度の現金を前払いしてから再び“相手の”部屋に戻り。__これで全て済んだとばかりに満足気にスーツを脱ぐと、持って来ていた鞄から上下黒の薄手のスウェットに着替え、寝支度を整えた後、何の躊躇いも無く相手の横に潜り込み。瞳を閉じはするものの、長年の癖は早々抜けない。眠る事は無く、時折浅い浅い所に意識を落とす事こそあれど、再び直ぐに覚醒する。そんな夜を過ごして )
( 相手の話を受け流し、さっさと1人眠りに着いた訳だが其れが長く続く筈もない。相手が布団に入って1時間ほど。夢を見た事で静かな眠りは打ち破られる。やけに鮮やかな赤が視界に広がるのと同時に、身体は跳ね上がるようにして覚醒していた。リアルな夢に呼吸が乱れるのと同時に、またあの強い痛みが身体に走り鳩尾を抑えたまま起こした上半身を前に折り曲げる。「_____っ、…は…!」深く息が吸えない。布団の中には相手の体温を感じるのだが、痛みで身体が強張り苦しさが募る。鎮痛剤をとサイドテーブルに手を伸ばしたのだが、昨夜は相手が居たため就寝準備を整えて眠る事をしなかった。錠剤の箱は鞄に入れたままになっている事を思い出し、其れを取るべくベッドを抜け出すのだが鞄までのほんの数メートルの距離が今はとても遠く感じた。鳩尾を抑える手に力を込めて床に蹲ったまま、痛みの波が僅かでも落ち着く瞬間を願ってゆっくりと細い息を吐き出して。 )
アーロン・クラーク
( __隣で眠る相手の呼吸音に乱れが生じ、その身体が勢い良く起き上がった事で閉じていた瞼を静かに持ち上げる。時間にして凡そ1時間、お酒と睡眠薬の力を借りても尚、ものの1時間程しか落ち着いた眠りの中に身を委ねられなかったのかと他人事の様に溜め息を一つ吐き出すのだが、遠い過去に己も同じ経験をした。医師から処方された睡眠薬の量を守らず倍を強いお酒で飲み干した時ですら悪夢は朝まで眠らせてくれなかったのだ。“懐かしい”と、そう感じた心は果たして正常か。そんな記憶をぼんやりと手繰り寄せていた矢先、まるで何かを欲する様に相手はベッドを抜け出すのだがその身体は床に蹲る体勢のまま動く事をしない。枕元の間接照明を点けてベッドの上から相手を見下ろし、どんな状況かわかっていながら『__何してるんですか?』と、余りに呑気な言葉を掛ける。勿論苦しみに耐えている相手が確りとその言葉を聞き取れたとは僅かも思わないのだが、手を差し伸べる事も無く暫くの間苦しむ姿を眺め。ややして伸ばした手で相手の焦げ茶の髪をくしゃくしゃと撫で回すと、『…何が欲しいです?』凡その見当は付くものの、こんな状態であっても相手の口から言わせようと思うのかそう問い掛け、そこで漸くベッドから降りて相手の横にしゃがみ込んで )
( 日に日に強まっているようにすら感じる身体の痛みは、行動を制限する。不意に髪に触れる手の感覚を感じて、相手の声がすぐ近くで聞こえた。過去と現在の区別が付かなくなる程に混乱している訳では無い為、相手に頼んで薬を取ってもらうのが最適な手段だという事は考えられた。「_______鎮痛剤の、箱を取ってくれ…っ、鞄に入ってる、」紡いだ言葉は支離滅裂な訳でもなく冷静なものだったが、痛みが強まると思考が途切れそうになる。これ程の痛みを市販の鎮痛剤だけでどうにか出来るとも思わないし、可能ならモルヒネでも打って欲しいとさえ思うのだが、今は少しでも楽になる手段が其れしかないのだ。蹲った床はひんやりと冷たく身体の熱を奪う。ベッドの上のブランケットを引き寄せて、ゆっくりと呼吸を繰り返し。 )
アーロン・クラーク
( 相手が所望したのは鎮痛剤の箱。鳩尾を握り締めている所を見るとそこに走る痛みを取り除きたいのか、はたまた消えない悪夢から解放される為の安定剤を求めていると察しはついていたがどうやら今回は前者だったよう。痛みの合間合間に身体を強張らせる相手の顔は覗き込みたくとも床に邪魔されている。今一度柔らかな焦げ茶を撫で回してからゆっくりと立ち上がると、ソファの端に無造作に置かれている相手の鞄の中から目的の鎮痛剤を、続いて冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持って再び相手の横に床に膝をつく形でしゃがみ込み。『__持って来ましたよ。』と声を掛けるのだが、その錠剤も水も此方の手の中。痛みに耐え苦しむ相手を目の前にしても渡す事をしないと、次の瞬間には何を思ったかやけに歪に口角を持ち上げ。『欲しいですよね、これ。だったら口を開けて下さい。』そう言うや否や、徐に錠剤を上下の歯で軽く咥え、この後の展開を想像させがら意地悪く見せ付けて )
( 睡眠薬はしっかりと効いている筈で、だからこそ身体は未だ眠りたいのだと怠さと眠気を訴えている。鳩尾を軽く摩り呼吸を浅く繰り返しつつ、相手の声に顔を上げるのだが水も錠剤も此方に差し出されては居なかった。この男は手放しに優しさを振り撒くような人間ではないと思い出す。行動の裏には何かと理由があるのだ。錠剤はあろう事か相手が咥えていて、その愉快そうな表情からも相手が何をしようとしているかは想像が付いた。しかし此の痛みが取り除けるのなら、背に腹は変えられないと震える唇を開いて。 )
アーロン・クラーク
( 色恋沙汰には滅法鈍感な相手だが、流石に此処まで見せれば例え痛みや眠気で朦朧とする意識なれど嫌でも次の展開を想像出来たのだろう。少しの間の後震える唇が薄く開けば満足気に頷き片手を相手の後頭部へ。そのまま顔を近付け相手の想像通り唇を触れ合わせた後咥えていた錠剤を器用に相手の口内に押し込むと、同時に軽く舌を吸って__終わり。散々好き放題する予定は最初から無かったかのようにあっさりと顔を離し、小振りな物なれど異物を飲み込むのに何も無しは苦しいだろうと直ぐに水を差し出して。そんな欲望とは逆の珍しい優しさはまだ続く。まるで言う事を聞いた褒美だとばかりに相手が確りと薬を飲み込んだのを見届けてから、徐に背中と膝下に腕を回し、上に掛かるブランケットごといとも簡単に相手を抱き抱える。それから労わる様な優しさで極力振動の無い様に相手をベッドに降ろすと掛け布団を掛け、自身も隣に身を横たえて。『目を閉じて、もう一度一緒に眠りましょう。』眠りの淵に誘う様に、相手の髪を撫でながら再び寝息が聞こえるその時まで手を休める事は無く )
( 身体を強張らせ身構えていたものの、一度唇が重なり錠剤が押し込まれると相手は直ぐに身体を離した。そうして水の入ったペットボトルを渡されると、促されるままに薬を飲み込んで。抵抗出来ない状況下で相手に自由を奪われなかった安堵と、薬を飲めた事で此の痛みも落ち着くだろうという安堵。更に相手に身体を持ち上げられ布団の中に戻れば、直ぐ近くに感じる体温に、身体は従順にも安心し僅かばかり力が抜けて。誰かが側に居る、という状況は時に苦痛を和らげる。それが相手であっても、温もりと共に髪を撫でる手に自然と緊張は解けやがて眠りに落ちていて。 )
アーロン・クラーク
( 身体の何と正直な事か。与えられる温もりに相手の身体は強張りを解き続いて再び寝息が聞こえる。伏せられた瞼、長い睫毛、先程確りと己の要求をのんだ唇、痩せた頬__順番に人差し指を触れさせ満足した所で手を離すとその手を布団の中にしまい込み。__それから数時間後、軽い眠りに落ちていた意識が浮上し時間を確認すればまだ早朝の4時を少し過ぎた所。隣の相手は眠っている。まだ起きるには早い時間帯ながらも2度寝が出来そうな感じでも無いと思えば、一度控え目な欠伸をしてから静かにベッドから降りて。朝の冷たい空気は遠慮無く足元から身体全体を包み、僅かに眉を寄せ。備え付けられているエアコンを点け部屋の温度が暖まるまでの間、ケトルにお湯を沸かしコーヒーをいれつつ、相手が次起きる時は再び悪夢に魘された時か、それとも自然と目が覚めたもう少し後か、とソファに腰掛け遠目から盛り上がる布団を見詰める時間を過ごして )
( 誰かの体温は冷えた身体を温め、安心して眠る事が出来る。二度目の眠りは薬の力も借りて深く、静かなものだった。---夢を見はしたものの、飛び起きる程に鮮明な夢ではなかった。けれど不安感のようなものがじわじわと胸の内に広がり、少し首筋に汗をかいていて。朝の5時ごろになってふと目を覚ますと隣に相手は居ない。強い痛みも落ち着いていたが、倦怠感は身体に纏わりつく。コーヒーの匂いがする事でソファの方へと視線を向けると、相手は其処に座っていた。相手が近くにいる事に少し慣れたのか、相手に向けるその瞳に敵意や嫌悪は余り無い。「……睡眠薬が必要なら使え、」と言葉を紡いだのは、相手も自分と同じように過去の記憶に苛まれ眠れない事を知っているからで。 )
アーロン・クラーク
( 規則正しく上下に微動していた掛け布団が大きく持ち上がり、寝起きの相手と視線が交わったのはコーヒーを飲み干して少し経ってからの事。褪せた碧眼には寝起きである事と夜中に苦しんだ分の倦怠感が纏わりついていて心做しかぼんやりと朧気に見える。『おはようございます。』と、口にした朝の挨拶に返って来たのが此方を気遣う申し出であれば、以前世間話程度の会話の中で出た此方の睡眠情報を覚えて居たのかと一拍程の間の後に喉の奥でくつくつと低く笑い。『記憶力が良いのも考えものですね。それ、俺の弱みになり兼ねないので内緒でお願いしますよ。』小さく肩を竦め、それでも何処か嬉しそうな様子でそんな戯言と共に暗に睡眠薬は飲まないと示すと、もう一度ケトルにお湯を沸かす為に立ち上がり__『そうだ、』と振り返る。『昨晩貴方が寝た後に決めたんですけど、暫くの間此処に居候する事にしました。』何故この部屋を使う相手に先に許可を取らないのか、そもそも勝手に決める事自体可笑しな話なのだが最早決定事項なのだとばかりに相手に背を向け、今度こそケトルにお湯を沸かし相手の分のコーヒーを作って )
( 相手は自分よりもずっと心の傷や本心を隠すのが上手い。確かな絶望が纏わりついている筈なのに、常に過去の翳りなど誰にも勘付かせないような振る舞い。そんな掴みどころがなく翻弄されてばかりの相手の弱みを握れるのなら願ってもない事だと肩を竦める。「…勝手に決めるな。居候しても何のメリットも無いだろう、」勝手に“決めた”と言い切る相手に呆れたように溜息を吐きつつ却下するが、この男が決めた事は大抵の場合、思い通りになるまで周囲を歪めてでも突き通す事は知っている。重たい身体を起こしソファへと移動すると背凭れに身体を預け_____ちょうど淹れたてのコーヒーが差し出されれば奇妙な物でも見るように相手に視線を向けて。自分の行動を先読みしているようなタイミングだと思いつつもカップを受け取ると熱いコーヒーを口にして。 )
アーロン・クラーク
( 案の定相手は此方の身勝手な決定事項に拒否を突き付けて来たのだが、そんな柔らかな拒否で覆る程のものでは無い。右から左に聞き流しながらも“損得”の話の所にだけは反応を示し。『貴方と一緒に暮らせる、これがメリットです。まぁ、貴方にとってのメリットはわかりませんけどね。』相手と一緒に過ごす事が出来るのならば、例え電気も水道も通ってない森の奥でも、それこそ言葉の通じない異国でも構わない。隣に、相手が居れば。何の躊躇いも無く此方のメリットをあげはするが、嫌われている自覚はあるものだから、一度は相手側のメリットを保留とし__コーヒーを手渡し、相手がそれを飲んだタイミングで腰を折り目線の高さを近付ける。『ねぇ、警部補。俺と一緒に過ごすメリットを考えて下さいよ、1つで良いですから。』そうして楽しそうな笑顔で強請ったのは相手を悩ますものだろう。何か答えるまで此処から動かないとばかりに )
( 相手の言葉には眉を顰めたまま「俺にお前と過ごすメリットなんてある筈がないだろ、」と言い返す。相手と共に暮らすというのは自分が一人の時間を持てず心穏やかに過ごせなくなるだけだ。しかし続いた相手の言葉と共に視線が直ぐ近くで交わると嫌そうな表情を浮かべる。メリットなど無いと幾ら説明しても相手は納得しないだろうし、離れろと言っても距離を取る事をしないものだから眉間に深い皺を寄せたまま「______寒くない、」とたった一言ぶっきらぼうに答えて。1人で部屋に居る時、布団の中に居る時に感じる寒さを相手が部屋にいるだけで感じなくなる。其れは不安や恐怖心を軽減する上ではメリットとも言えるかもしれないと、無い理由の中から絞り出して。 )
アーロン・クラーク
( 本当は宿泊費を前払いし、確りとこの部屋の隣の部屋を取ったのだがそれは勿論内緒。言ってしまえば問答無用で部屋を追い出されるか此方が出て行かないのならば相手自身が隣の部屋に閉じ籠ると言い出しても可笑しくはない。ニコニコと危険性などまるで持ち合わせて無いです、なんて爽やかな笑顔を振り撒きながら返事を待つ事果たしてどれ程の時間が経ったか。たっぷりと空いた間の後、無理矢理絞り出したと言っても過言では無いたった一言の返事に思わず至近距離で瞬く。“寒くない”なんて__『…まったく。暖を取れるのがメリットだって言うなら、“湯たんぽ”を抱えてたって良い訳だ。』やれやれとあからさまに肩を竦め背筋を正しては、態とらしく溜め息を一つ吐き出し。けれど機嫌を損ねた訳では無い。時刻はまだ朝の6時前。相手の為にいれた筈のコーヒーを取り上げるとそれをテーブルに置き直し『仕事は午後からでしょ。まだ起きる時間としては早すぎます。…“湯たんぽ”代わりになってあげますよ。』珍しく小さな皮肉を口にし、刹那、ソファに座る相手を夜中の時の様に軽々と抱き上げるとそのままベッドに逆戻りを決め込んで )
( 相手を満足させるような返答をしたかった訳では無いため、溜め息混じりの相手の反応にもつれない態度を崩す事はなかった。しかし不意に口から離したマグカップを奪われると驚いた表情を浮かべ、続いて急に身体が持ち上げられると息を飲む。バランスを崩さないよう咄嗟に相手の肩を掴み、そうして直ぐに離す。「っ、おい!降ろせ!」と抗議の声を上げたものの、ベッドまでの距離はそう遠くない。程なくベッドに降ろされると相手を睨んだのだが、相手はどうやら自分の仕事が午後からであるという事まで知っているらしい。確かに起きるのは早い時間である事には間違いないのだが_______相手に抱き竦められるような状態は寧ろ落ち着かない。暫くは相手の“拘束”から逃れようと相手の腕の中で抵抗を示していたものの、体温の低い身体が温められれば自然と眠気は再びやって来て。 )
アーロン・クラーク
( 至近距離での抗議の声も勿論無視。それ所か身体を持ち上げたその一瞬、咄嗟に己の肩を掴んだその行動に満足気な笑顔すら浮かべる始末で。ベッドに降ろしてからも続く抵抗は細身のその身体を抱き竦める事で簡単にいなす。『逃れられないのは貴方が一番良くわかってるでしょう。早く寝ないと酷い事しちゃいますよ。』緩く瞳を閉じたまま物騒な事を言うのだが声色は穏やかなまま。やがて腕の中の抵抗が弱まると『…良い子ですね。』直ぐ真横にある相手の柔らかな髪の毛を一度だけ撫で『__次の貴方の休み、デートしましょうよ。貴方の気に入りそうな場所捜しておきますから。』うとうとの微睡む相手に聞こえていようがいまいが、返事の有無すらも別に必要無い。まるで“恋人同士”の様な戯れを望みつつ、再び相手が目を覚ます時までその体温を感じたままで居て )
( 相手と居る事に安らぎを感じて居なくても、身体は正直に温もりを求めその体温に不安が和らぐのを感じる。相手の言葉には何も返事をしないまま、いつしか眠りに落ちていた。朝の“二度寝”はどういう訳か穏やかなもので、夢を見る事も苦しさに意識が引き上げられることもなく9時頃に目を覚まして。「______、」相手は一睡もしていなかったのだろう、目を覚ましてふと相手の方に視線を向ければ此方を見ている相手と目が合い気まずさを感じる事となった。何も言わぬまま相手の腕の中から抜け出し、備え付けの簡単なクローゼットを開け仕事用のワイシャツを取り出して。 )
アーロン・クラーク
( __二度寝から目覚めた相手が仕事の準備を済まし部屋を出るのを見届ける。夜迄ずっとこの部屋に居るか、もしくは出掛けたとしても相手より先に帰って来るのだからと半ば強引に預かったカードキーが手の中で冷たさを帯び、1人になった部屋は途端にひんやりとした空気を引き連れて来たものの此方とてやる事がある。身だしなみを整えホテルを出ると向かう先はワシントン市内にあるもう一つの住処。そこでこの先の生活に必要そうなスーツや下着などの衣類、スキンケア用品、お気に入りのワインボトルも数本、その他様々な物を大きなスーツケースとボストンバッグに詰め込み再び“相手の部屋”に戻って来て。相手が仕事から戻って来ればドアを開け何時もと変わらぬ笑顔で出迎える事だろう。__そんな日々を数日。途中にあった相手の仕事休みの日には“デート”と称して公園に連れ出し意味も無く散歩もした。__夜、珍しく深い眠りに落ちていたのだが、それはある意味前兆。深い眠りは必然的に悪夢を連れて来るもので、久し振りに見たその夢は矢張り“あの事件”の繰り返し。血に染まる床には何十人もの教諭と園児が折り重なる様に倒れていて皆瞳に光は無い。弟のルーカスは絶え絶えの息と共に何度も血を吐き出し、今にも光の消え失せそうな瞳から涙を流す。違ったのはその場に相手が居た事。あの時の年齢の相手では無く、今の見慣れた姿の相手。何も言う事無く冷たい瞳で多くの遺体を、ルーカスを、ただ見下ろしている。『…っ、!』喉に息が引っ掛かると同時に意識が覚醒した。指先が冷たく呼吸が苦しい。無意識に隣に視線をやれば眠る相手が居て、少しの間見詰めた後に静かにベッドから抜け出す。グラスに赤ワインを注ぎ入れ一口飲むのだが冷たい空気とは裏腹に体内は灼熱の如く熱いのだ。ふつふつと湧き上がる感情に明確な答えは出せず、ただ苛立ちの様な、溢れ出そうと渦を巻くもどかしい何かがひたすらに感情を乱す。酷く不愉快なそれを逃す術が無く、ギリ、と奥歯を噛み締めた後自身の感情を制御出来ぬまま、まだ半分程中身の入ってるワインボトルを何の加減も無しに床に叩き付け。物凄い音と共に砕けた硝子の破片は散らばり、中の赤は水溜まりの様に広がる。細く荒い息を繰り返しながら、その場に立ち尽くしたままで )
( 意味も無く公園に連れ出され嫌々相手の外出に付き合わされる事はあったのだが、相手が側に居る事に徐々に慣れて来ている自分が居た。体調は変わらず良くなかったが、1人で眠っている時よりも温かく、少し安心して眠る事が出来るようになっていた。濃く目の下に住み着いていたクマは少しばかり薄くなっただろうか。---その日も相手の側で眠っていて、相手がベッドを抜け出す動きに僅かながら眠りが浅くなったのだが_______突然響いた激しい衝撃音に一気に意識が引き上げられた。悪夢に魘されていた時だったら其の音が銃声と重なり、フラッシュバックに襲われていても可笑しくない程の音だった。飛び起きるようにしてベッドに身体を起こし音の出処を探れば、直ぐに相手が立ち尽くしている事に気づいた。足元にはワインのボトルが粉々に割れ、未だ中身が入っていたのだろう、赤がじわじわと広がっている。「_____ッ、…クラーク、」彼の表情は俯き気味で読み取れないものの、浅い呼吸に肩が上下している事に気付く。彼が取り乱した様子を見せる事など滅多にない。何があったのかと相手の名前を呼び、ベッドから立ち上がり。怪我をしないようにガラスの破片を片付ける必要があるが、相手は明らかに様子が可笑しい。悪い夢に、普段抑圧している過去の記憶が引き出されたのか。「……ベッドに戻ってろ、水を持ってく。」先ずは少し相手を落ち着かせ、フラッシュバックが起きないようにする必要がある。記憶を押し留めようと必死に呼吸を繰り返している時、全てを飲み込むように過去の記憶が首を擡げる苦しさはよく知っている。自分の安定剤を飲ませて落ち着かせるべきかと考えながら相手に近付くと、一度ベッドに戻るように促して。 )
アーロン・クラーク
( 床に散らばるボトルの破片は、あの日何発もの銃弾を受け粉々に散った窓硝子と同じ。水溜まりの様に広がる赤は遺体から流れ出るドス黒い血と同じ。呼吸が苦しい中、何処か夢現の様な気持ちすら覚える中床を見詰めていたのだが、この音で相手が目を覚まさない訳が無い。案の定起きた相手に名前を呼ばれると漸く顔を上げ『__嗚呼、すみません、起こしちゃいましたね。手を滑らせてしまって。』薄い笑みを携えこの惨事の説明をするのだが、“手を滑らせた”くらいではボトルはこんなに粉々になったりはしない。明らかに故意的に叩き付けた事は直ぐにバレるだろうが別に構わなかった。浅く息を吐き出しながら、ベッドに戻れと言う相手に拒否する様に軽く首を左右に振り__距離が縮まった事でより鮮明に相手の碧眼を捉える事が出来る様になった、刹那。再び湧き上がるドス黒い感情は理性を失わせる。更に距離を縮める為に踏み出した足は、スリッパのお陰で怪我こそしなかったものの飛び散った破片を踏み付けた。そうして腕は相手の胸ぐらへと伸び、加減を知らぬ勢いで掴み掛かると、暗紫の虹彩に珍しく苛立ちの色を浮かばせながら『__…何で助けられなかったんですか、』と。それは余りに脈略の無いもの。そうして夢に引っ張られ思わず溢れた、と言うのが正しい様な静けさで )
( 相手は取り繕うようにいつもの笑顔を貼り付けたものの、明らかに手を滑らせただけでの惨事ではないだろう。遣り場のない感情を抱えて、或いは脳裏に焼きついた残酷な記憶の残像を何とか消し去るため、自らワインボトルを叩き付けた、というのが正しい解釈な気がした。しかし相手の言葉に大きく反応する事はせず、小さく頷く事で受け流し。破片を片付けようと近付いたものの、相手の足は割れたガラスを踏み付け、バキ、と鈍い音が鳴る。スリッパを履いているとはいえ怪我をする恐れがあると思えば「…おい、気を付けろ_______」と言葉を紡いだのだが、不意に胸ぐらを掴まれ引き寄せられると首元が僅かに締まり強制的に相手と視線が重なる。「……っ、」突然の事に息を飲み、相手の暗い瞳を見つめ返す事しか出来ずにいると紡がれたのは過去に対する問い。夢を見た事により、過去と現在を混同しているのか、或いは過去に意識が引っ張られ其の怒りを抑える事が出来なかったのか。どちらにせよその瞳にはやるせない苦しさと苛立ちと、様々な感情が渦巻いている。「_____悪かった、」今の自分が目の前の相手に言える事はそれだけだ。静かにその言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
__悪かった?…謝罪一つで死んだ人が戻って来るとでも、
( 碧眼と暗紫が至近距離で交わり、続いて静かに謝罪が落とされたのだが結局今この状況で相手が何を言葉にしたって駄目なのだ。日頃気味の悪いくらいに相手を褒め愛を囁く同じ唇で、冷たく棘の纏った言葉を吐き捨てる。胸ぐらを掴む指先に更に力が篭もり息苦しさは少しも治まりを見せていないものの、発作にまでは繋がらない。その繋がらないギリギリのラインで踏み留まったまま、感情に任せて僅か相手を引き寄せ、その反動で次は斜め後ろにあったソファへと押し倒すと『貴方が幾ら謝罪をした所で誰も戻らない。セシリアさんも、ルーカスも、誰も。__冗談じゃない。何が安定剤だ、鎮痛剤だ。自分だけ楽になろうなんてよくもまぁ、そんな事が出来ますね。』相手を真上から睨み付ける様な瞳で肩で息をしながら怒りに任せた言葉を饒舌に紡ぐ。それは相手に向けたもの、自殺した犯人に向けたもの、そうして、自分自身に向けたもの。ただ、今は相手を苦しめたかった。この部屋で出会った時から相手が度々痛みを訴える箇所、鳩尾付近を加減の知らぬ力で以て上から押さえるとそのまま体重を掛ける。痛みも、苦しみも、余す事無くその身で受けろとでも言うかのように、ただ相手の苦痛に歪む顔を、絶望に染まる瞳を、懇願を聞きたいと )
( 相手が紡いだのは、ずっと前から、幾度と無く遺族や記者に掛けられた言葉だ。謝罪をした所で居なくなった人間は二度と戻って来ない_______そんな事は痛いほどに分かっているというのに。「っ、亡くなった人が二度と戻らない事は分かってる!それでも…謝る以外に、今は何も出来ない…!」視界が反転し背中に衝撃が走り表情を歪める。此方を見下ろす相手の瞳を見つめ返し、今となっては幾ら過去を後悔し懺悔しても、それ以外に行動に移せる事がないのだと訴えて。“自分だけが楽になろうだなんて”_____その言葉は相手が以前からまるで呪いのように自分に掛けていた言葉だ。あれほど苦しんだ被害者たちを見捨てておきながら、今尚自分だけが楽になろうと薬に頼る事を相手は責めた。反論出来ぬまま困惑したような怯えたような色を携えた瞳で相手を見上げていたものの、相手の手が鳩尾に掛かり、其方に意識が向いた一瞬。強い力で押さえ付けられるのと同時に激痛が走り身体が大きく跳ねる。「______っ、ぐ…ッあ゛、!」声にならない悲鳴が漏れ相手を引き剥がそうと暴れるのだが、相手はびくともしない。酷い痛みは当然呼吸を浅いものに変え、痛みから逃れようとしても相手は其れを許さなかった。断続的に鋭い痛みが身体を引き裂くように走り、額には脂汗が滲む。相手を見上げていた瞳はゆらゆらと不安定に揺らぎ、身体には震えが生じ始めていた。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾を押さえ付けた瞬間に相手の身体は大きく跳ねたものの、その僅かな逃げすらも許さないとばかりに更なる体重を掛け片腕一本でその身体をソファに縫い付ける。どれ程の痛みが身体を駆け巡っているのかはわからないが鎮痛剤を欲していた程だ、物理的な衝撃が加わってる今は何も無い時よりも何倍も強い痛みであろう。薄い唇からひっきりなしに漏れるくぐもった悲鳴と懸命に逃れようとするその抵抗、次第に浅くなる呼吸が証明で。『痛いですよね?助けて欲しいですよね?でもルーカスは貴方の何倍も痛かったし、助けて欲しかった筈だ!貴方が…ッ、…何で何もしなかったんですか!』そんな相手を見下ろしながら昂る感情は語気を強めさせる。普段の飄々とした余裕綽々な態度とは違い、感情のままに責め立てる言葉の数々は熱を持つ。__あの日、相手は決して“何もしなかった”訳では無いだろう。人質全員を救う為に出来る事を懸命に考え、どうにか犯人を落ち着かせようとだってした筈だ。夢に見た、冷たい瞳で遺体を見下ろすだけの相手では無かった筈なのに、あの日の記憶にあるのはつんざく様な銃声と、叫び声と、血の赤。そして倒れる弟の姿だけなのだ。『__ねぇ、警部補。“助けて”って言わないんですか?痛いの、もう嫌でしょ?』脳裏を過ぎる過去の記憶と、先程見た夢。ぐちゃぐちゃに混ぜ合わさり脳を支配する。大きく肩で息をしながらも、語調だけは普段の柔らかなものに戻るのだが、紡ぐ内容は一見優しさや救いに見える歪んだもの。鳩尾から手を離す事無く、反対の手で頬を優しく撫でて )
( 激しい痛みの中でもがいている状況下で紡がれる相手の言葉は、心を掻き乱し絶望を誘う。あの事件で犠牲となった相手の弟は、セシリアは、大勢の罪なき人々は、銃弾を受け痛みの中で命を落とした。この耐え難い痛みをもっても尚、自分は命を落とす事は無いというのに、一体どれほどの苦痛だっただろう。感情の籠った相手の声、“遺族”の怒りと言葉。其れを身に浴びながら、身体を痛め付けられる。痛みによって呼吸はすっかり浅く意味を成さないものになっていて、痛いと何度も訴えるも絶え絶えに紡がれた言葉を相手が聞き入れる事はない。_______まるで拷問だ。痛みによって生理的な涙が目尻の端から溢れ、震える唇で言葉を紡ごうとするのだが浅い呼吸に阻害され上手く言葉が紡げなかった。「_____っも、やめ……ッ痛い、____助けて、くれ…っ、!」骨が軋むほどの圧力に、心臓を鷲掴みにでもされているような痛みが襲う。パニックの一歩手前と言っても良いだろう、絶え絶えに言葉を紡ぎ、恐怖からか酸素が不足しているからか身体は震え、相手の腕に掛けた指先は冷え切って。 )
アーロン・クラーク
( 相手の瞳から涙が流れたのを見て満足そうに口角を持ち上げる。頬を撫でていた指先で溢れるその涙を何度も拭いながら、与えられる痛みから逃れたいと言葉にならぬ声で必死で懇願するのを聞き届け、そこで漸く鳩尾から手を離すと『__仕方無いですね。』と、態とらしく肩を竦め。相手は浅くなった呼吸を懸命に繰り返しながら小さく小刻みに身体を震わせている。痛みからから、苦しみからか、恐怖からか__何であれ“自分が与えた”絶望で変わる相手の姿を見るのは何とも言えない優越感の様なものを感じるのだ。悪夢によって呼び覚まされた過去は次に残虐性を呼び、相手に向く。痛めつけたいと、本心からそう思った筈なのに今はその気持ちがすっかり散り、満足したのだろうか、悪夢の記憶も何もかも、何処か清々しい気分だ。『…可哀想に、痛かったですよね。でももう大丈夫。痛い事は何も無いですよ。』相手に痛みを与えた当事者であるのにまるで無関係な人の様な言葉を優しく紡ぎながら先程体重を掛けた鳩尾付近を優しく撫でる。二重人格を疑われても可笑しくは無い程の感情の変化なのだが、知った事では無い。背後では未だ片付けていない硝子の破片が飛び散り赤が広がっているのだが、意識の中には無い。ただ、目の前の相手に優しく語り掛けるだけで )
( 鳩尾を強く圧迫していた手が漸く離れたものの、痛みが直ぐに引くことはない。「っ、は…ッあ、…は……っ、」喘ぐような浅い苦しげな呼吸が落ち着かぬまま、まるで他人事な言葉と共に再び相手の手が添えられると条件反射的に怯えたように身体が跳ねるのだが、再び強く押さえ付けられる事はなかった。しかし其れでも与えられた苦痛と恐怖は明確に刻み込まれ、涙の膜が張った瞳にはありありと恐怖が浮かんでいて。今すぐ相手と距離を取りたいと思いはするものの、痛みに身体が強張って上手く動けない上に身体を動かそうとするだけで鋭い痛みが走る。何事も無かったかのように優しく語り掛けてくる相手は人の心を持たぬ悪魔か。____否、先ほどはあれ程人間的に感情を露わにしていたのだ。事件の遺族たちに思いを寄せ、あれほど感情的にやり場のない怒りを表に出す相手を見たのは初めてだった。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾を撫でた時に反射的に跳ねた身体、それは与えた恐怖と痛みを素直に感じた証。此方を見上げる涙に潤む瞳が恐怖一色に染まったのを見て心底満足そうに微笑むと『__俺、貴方のその目が一番好きです。』苦しむ相手に今掛ける言葉としては到底場違いな事を、まるで恍惚とした甘ったるい語調で送った後『後始末はきちんと俺がするので眠って構いませんよ。カーペットは…弁償ですね。』未だ小さく震える相手の身体の下に手を入れ痛みに気遣う事無く簡単に抱き抱えると、床で粉々になっている瓶を避ける事もせずに踏み付けながらベッドまで向かいそこに相手を優しく降ろして。『おやすみなさい、警部補。』汗で張り付く前髪を軽く払ってやってから言葉通り散らばった大きめの破片を摘み上げる様に片付けつつ、残りは明日相手が仕事に行っている間に掃除をして貰おうと思案して )
( 恐怖と苦痛に晒された直後、其処に突き落とした相手自身の手で眠りを促されベッドへと降ろされる。恍惚とした表情で紡がれた言葉_____相手が何を考えているのか、自分に向ける感情のどれが本物なのか、何一つ分からない。上擦った呼吸が落ち着くのにはかなりの時間を要し、けれど呼吸が正常なものに戻るとどっと襲う疲労によって眠りに引き摺り込まれる。暫くは相手の動きを警戒していたものの、やがて眠りに落ちていて。---何度も目を覚まし、迎えた翌朝。昨晩の一件を経て痛みは普段以上に強く、体調は当然良くない。この状態で仕事に行かなければならない事は憂鬱だった。床にはまだワインボトルの破片とワインが溢れている。相手を避けるように口もきかぬままに仕事へ向かったものの、学生からは顔色が悪い事を指摘され、ふとした瞬間に襲う強い痛みをやり過ごす事に意識が向いた。彼が居ると思うと真っ直ぐにホテルの部屋に帰る気にもならず、最後の講義を終えても教官室に残ったままで。 )
アーロン・クラーク
( ___朝、最高に機嫌の悪い相手が終始無言で仕事へと向かった後、ホテルの責任者に昨晩の騒動の謝罪と汚したカーペット代を弁償し部屋を元通り綺麗な状態に戻して貰ったのが数時間前の事。綺麗な部屋で今度は至極穏やかな気持ちのままマグカップの中の紅茶を啜って居たものの、本来相手が帰って来る時間になっても一向に部屋の扉が開く事は無い。__昔、そう言えば似た様な事があったと思い出した。あの日は確か相手を部屋に置いて自身が出掛けたのだ。そして帰って来た時相手はもう居なかった。たった一言“家出ですか?”と送った記憶がある。『__仕方ないですねぇ、』誰に宛てるでも無い独り言の様な呟きは直ぐに後を追った紅に消える。中身を飲み干し一息着いてから立ち上がると身支度を整えホテルを出て。__向かった先は相手が勤めるFBIアカデミー。既に殆どの生徒は帰宅していて擦れ違う人は数える程。確りとセットした髪型では無い、降ろしっぱなしの髪ながら特別変装をする事も人目を気にする事も無く普段と変わらぬ飄々とした表情で廊下を進み、やがて相手が居るだろう教官室の前で止まると扉を二度ノックし。中からの返事を待たず扉を開ける。『__わからない箇所があるので聞きに来ました。』相手を瞳に捉えそんな戯言を紡ぎながら扉を閉め、ツカ、ツカ、と目前に歩み寄ると、少しばかり顔を近付ける様にして『まだ機嫌直らないんですか?』と、まるで此方には何の非も無く相手が勝手に不機嫌になっているとでも言うかのような問い掛けを )
( 夜になってようやく痛みが和らいでは来たものの、昨晩の相手の暴挙によって体調が悪化した事は間違いない。もう殆ど済んではいるのだが、明日の講義に向けた準備に敢えて時間を掛けて教官室で作業を続けていた。---普段であれば相手の革靴の音には耳敏く気付くのだが、此処が大勢の学生が行き交う校内だった事もあり、相手の気配を察知する事は出来なかった。ノックの音に顔を上げ_____相手の雰囲気が普段と違った為、一瞬学生かとさえ思ったのだが。直ぐに其れが相手だと気付けば其の表情には警戒の色が浮かぶ。「作業が終わってないだけだ、_____わざわざ来る必要は無いだろう。」と告げて。 )
アーロン・クラーク
( 警戒心の滲む瞳でぶっきらぼうに告げられた言葉に一度視線を相手の手元に落とす。広げられた資料をザッと見てから『__要領の良い貴方なら直ぐに終わるでしょう。』と、肩を竦めるも相手の腕を取り身勝手に帰宅を促さないのは気紛れか。ニコニコと何処かご機嫌な色さえ纏いながら相手から離れるも1人帰る事はしない。先程迄学生の誰かが座って居たのだろう席に腰掛け、既に授業は終わっている為何も書かれていない少しばかり白く濁る黒板を見詰めては『…懐かしい気分にでも浸ろうかと思いましてね。』と、相手を迎えに来た、とは別の理由を答え。『貴方は忘れてしまったかもしれませんが、俺も一応FBIだったんですよ。ちゃんと此処を卒業もしたし別に違法な手を使った訳じゃない。』聞かれてもいない事を饒舌に話し始めたのは機嫌が良いからか。背筋を伸ばし席に腰掛けるでも無く、少しばかり気を緩めているのか頬杖すらつきながら『__俺がもしあのままFBIだったら…貴方の部下だったら、今頃どうなってたんでしょうね。』珍しく“タラレバ”を落として )
( 珍しく相手は、無理矢理に自分を従わせる事はしなかった。言葉を無視したまま明日以降の講義に向けた準備を黙々と続けていたものの、不意に紡がれた言葉に一度視線だけを持ち上げる。今となっては“犯罪者”である相手も、かつては確かにFBIの捜査官を志した学生だったのだ。一体どういう心境の変化があって道を踏み外したのかは分からないが、あの事件が彼を歪めてしまった事は間違いない事実であろう。直接的な被害者以外に幾人もの間接的な被害者を生んでいる事は当然分かっている。相手のように人生を狂わされた遺族や、全てを崩壊させられた当事者が大勢居る。其の事に対しては当然罪悪感があった。暫しの沈黙の後「_____其の立場を自ら手離したのはお前の判断だ。」とだけ答えて。幾らたらればを言った所で、そもそも望んでFBIを離れたのは相手なのだから未来は変わらないと。 )
アーロン・クラーク
__相変わらず“らしい”返事ですね。
( 返って来たのは寄り添いでも何でも無い言葉。なれどこの件に関しては少しも寄り添いなど欲しくは無いし寧ろこの遣り取りが心地良いとさえ思う程で。__それから凡そ1時間程が経ち、ホテルに戻りたくないと言う理由で悪足掻きの如く時間を掛けていたのだろう準備が嫌でも終わりを迎える頃。廊下ではもう足音や話し声はすっかり聞こえなくなっており、此処を出るのは調度良い時間帯だろうと思えば『…そろそろ帰りましょう。部屋はもう綺麗だし、今日は酷い事しないって約束しますから。』と、後者に置いては全く信憑性の欠片も無い言葉と共に立ち上がり結局は相手の返事など無視でホテルへと連れ帰り。__部屋の中は昨晩の騒動を感じさせぬ程綺麗になっていた。血を吸った様に真っ赤だったカーペットは新品の物に取り替えられていて、ガラスの破片も勿論無い。別のワインも用意されている程だ。部屋をぐるりと見回しその完璧さに当事者ながら満足そうに頷いては、さっさとスーツを脱ぎ部屋着に着替え。約半日程誰も居なかった部屋はひんやりとしている。『…“湯たんぽ”必要じゃないですか?』くるりと振り返り至極楽しそうに笑いつつ、数日前に相手が言った“メリット”の必要性を問うて )
( 明日の講義の準備をしている、と言い張ってアカデミーの教官室に泊まり込む訳にも行かない。結局相手と共にホテルの部屋に戻る事となり、渋々ながらも其れに従って。---“寒さ”は心身を不安定にする。身体の冷えは不調を引き起こすし、不安を煽られる事もあるのだ。相手の言う“湯たんぽ”は、謂わば“添い寝”のことを指しているというのは直ぐに理解でき「______要らない。」と一蹴して。其の後シャワーを浴びて身支度を整えると日付が変わる頃にベッドへと入る。昨晩の出来事が尾を引いて、1日あまり体調が良くなかったため今夜は早く休もうと考えて。 )
アーロン・クラーク
( 返って来る返事は100%の確率でわかっていた為『素直じゃないですねぇ。』と肩を竦めるだけで終わらせる。相手がシャワーを浴びた後に立て続けに浴室へと姿を消し戻って来た時には既に相手はベッドに横になっている状態で、掛け布団が僅か盛り上がっていた。その白い山を遠目に数秒見詰めてから何を言う事も無く再び浴室へと戻ると、傷みの無い金髪に生温い風を当て根元から確りと乾かして。__時刻はまだ日付けが変わってから然程経ってはいない。特別眠気も無い今、布団に入った所で結局天井を見詰める暇な時間を過ごす事になると思えば、眠る相手に近付きまだ少し湿っている様にも感じられる焦げ茶の髪に軽く指を通した後、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しソファへと身を沈めると、暇潰しとばかりに世界情勢や経済なんかのニュースをスマートフォンで読み進めて )
( 相手が浴室へと向かい扉が閉まる音を聞いてから目を閉じる。やがて戻って来た相手が自分の髪に触れた所迄は辛うじて意識があったものの、程なくして眠りに落ちていて。---しかし、穏やかな眠りは長くは続かない。元々体調が良くなかった事も影響してか、酷く鮮明な夢を見た。静寂に沈んだ幼稚園の一室、辺りは血の海で大勢が折り重なるようにして倒れている。その場に立っているのは自分だけで、他には誰も居ない。靴の先に何かが当たり視線を落とした先には妹が倒れていて______思わず伸ばした手で、指先で彼女の髪を撫でた感覚があまりに鮮明だった。彼女はひと目で命が無いと分かる青白い顔をし、美しい若葉色の瞳は闇を湛え暗く色褪せていて。それはいつか見た、あの写真と同じ姿だ。---血の匂いがした気がして、彼女の暗い瞳や髪に触れた感覚があまりに鮮明で、あの日の感情が呼び起こされた。妹をこんな形で失うなんて、側に居たのに助けられなかったなんて、彼女が今後二度と自分に向かって微笑み掛ける事がないなんて______あの日に感じた絶望と恐怖が襲い、飛び起きた時には呼吸は狂い涙が溢れていた。同時に飛び起きた反動で強い痛みが走り、思わず鳩尾を抑えて蹲る。痛みと恐怖と、どうしようもない不安。「_____っ、う゛…ッはぁ……あ、セシリア、っ……」思わず妹の名前を口にしたものの、浅くしか呼吸が出来ない事で息が苦しい。心臓を鷲掴みにされるような強い痛みのせいで身体を起こす事が出来ず、感情を掻き乱され涙が止まらなかった。 )
アーロン・クラーク
( __暇潰し予定だったスマホ弄りに何時しか熱中し目の奥の重たい怠さを覚えた頃。眠りに落ちる事は無くともそろそろ身体を休めた方が良いだろうと立ち上がった調度その時。呼吸にあわせて微動するだけだった白い布団が跳ね除けられる様に勢い良く捲り上がり、続けて飛び起きた相手の悲痛な嗚咽が静かだった部屋にやけに大きく響いた。真っ白なベッドの上で身体を丸め蹲る相手は明らかに悪夢に魘され目を覚まし、襲い来る過去の記憶や痛みに耐えようにも為す術が無くなっている状態だとひと目でわかる程。狂いそうな呼吸を懸命に抑え付け落ち着こうとする段階はすっとばした様だ。『__警部補、』やれやれと態とらしく肩を竦め近付き、名前を呼ぶと同時に特別な労り無く相手の身体を抱き起こすも、そこで漸く碧眼から止め処無い涙が溢れている事に気が付く。泣きじゃくる、と言う表現が間違いでは無い状態に何処か困った様に笑うと『そんなに泣いたら明日大変な事になりますよ。』勿論の事狼狽える訳でも無くまるで世間話をする時の様な語調で語り掛けつつ、それでも抱き起こした相手の身体を自身に凭れ掛からせる様にして軽く後頭部に手を添えて )
( 上手く力の入らない身体を相手に抱き起こされ、それに抵抗することもなく凭れ掛かるように相手に体重を預ける。胸が張り裂けそうな、と表現すべきか。言いようのない感情が胸の内に渦巻き、一時的なものであろうが少しでも気を緩めればこれまで何とか耐えて来たものが崩れ去ってしまいそうな恐怖感があった。妹の優しい笑顔を覚えていたいのに、血に塗れて思い出したくない姿ばかりが脳裏に焼き付いて離れない。つい先ほど触れたような気さえする柔らかな茶髪も、緑色の瞳も、見ることは叶わない。嗚咽を漏らしながが、どうしようもない喪失感を埋めたくて思わず縋り付くようにして相手の肩口へと自ら顔を埋める。今こうして身体が密着し体温を感じることの出来る距離が唯一、空虚な心を落ち着かせてくれるかもしれないと思った。喘ぐような呼吸は治らず、涙は相手の肩を濡らすばかり。強い痛みをなんとか逃がそうとするのだが一向に楽にならず、小刻みに身体を震わせながら相手に身体を寄せ。 )
アーロン・クラーク
( 鎮痛剤を服用していない状態で痛みがそんな簡単に治る筈も無く、脳裏に焼き付く過去の残像が消える筈も無い。正しく絶望の中に居る相手が今縋れる唯一の相手は目の前に居る自分だけだと言う優越感は気分を昂らせるには申し分無し。相手の碧眼から溢れ落ちる涙が肩を濡らし感じるその冷たさすらもまた気分の昂りを助長させるものだから、幾分も優しくなれるだろう。『可哀想な警部補。__俺にどうして欲しいですか?貴方がちゃんと自分の口で言えたら、叶えてあげますよ。』縋る様に身を寄せてくる相手の背中をまるで子供をあやす時の様にポン、ポン、と一定の感覚で軽く叩きながら耳元に唇を寄せて紡ぐは甘美な言葉。甘い毒を纏ったその言葉は今相手を甘やかす為だけに向けられ、痛みと苦しみの中、涙声で落とされるであろう要望をゆるりと口角持ち上げたまま静かに待つ事として )
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