刑事A 2022-01-18 14:27:13 |
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( 吹き抜ける風の音よりも、自身の心臓の音よりも、固い地面に落ちた拳銃の重たい音は大きく響いた。相手が所持している銃は今放ったやつのみだと言う事は知っている。つまり丸腰の状態だ。何方かに拳銃を向けられても対抗する手段が無いのだ。もっと慎重に周りを見るべきだった。もっと__。薄く開いた唇が“エバンズさん”と相手の名前を呼ぶよりも先に、首筋に極僅かな痛みが走った。思わず息を飲み身体を強ばらせるがその後に続くものは無く、恐らく針の先端が少しだけ皮膚を突き抜けたものによる痛みだと、頭の何処か、やけに客観的な自分が分析する。__相手の言葉に男は頷く事も、首を横に振る事もしなかった。ただ一言、『だったらそこから飛び降りろ。』と、相手の背後の闇を顎でしゃくる様に示して。__絶句したのは今度は此方の方。この男は何を言っているのだ。「っ、無視して!」首筋の注射もお構い無しにそう声を張れば、それに被せる様に至近距離で『黙れ!!』と男の怒声が響き、鼓膜が乱暴に揺さぶられ )
( 飛び降りろ、と言う言葉に思わず指し示された先に視線を向けるが、遠くに町の明かりが見えるものの闇が広がるばかり。当然此処は屋上で飛び降りようものなら待ち受けるのは間違いなく死のみだ。その要求を受けて初めて、此れが恐らく自分を標的にした、自分に対する恨みを持っている人間による犯行だと気が付いた。矛先が自分なら尚更、相手が巻き込まれるべき事件ではない。「______待ってくれ、話を聞かせて欲しい。目的は何だ。望むのは、俺の“死”か?、」両手を上げたまま、目的を尋ねる。今撃たれたら応戦する術はない。同時に相手の首筋ギリギリの所に突き付けられている注射器もまた、刺されてしまえばどうする術もないのだ。犯人を刺激しないよう考えながら言葉を紡いで。 )
( 相手と同じく己もまたこれが“衝動的な事件”では無かった事に気が付いた。そもそも最初から悲鳴も銃声も無かった、恐らく自分達__相手を此処に呼ぶ為の口実で、署に電話を掛けて来たのは男の隣に佇んだままの女性だろう。相手に対する恨みで嫌でも一番最初に浮かんでしまうのは“あの事件”だ。そうと決まった訳では無いものの、思わず一度固く瞳を閉じ。__“望み”を問われた男は冷めた目で相手を見詰め『確かに死を持って償って欲しいとは思うが、』と冷静な口調と共に頷くも、途中で言葉を切る。そして再び口を開くと『それ以上にもう一度思い出して欲しい、あの時の絶望を。お前は“また”救えなかった。』言葉尻に嘲笑を滲ませ、あろう事かミラーの首筋にその細い針を躊躇いなく突き刺すや否や、中の液体を全て流し込み、追って来れない様にとミラーの身体を相手の方に突き飛ばして。__“救えなかった”その言葉が鼓膜を揺らした刹那、首筋には皮膚を、肉を突き破る先程よりも鈍く強い痛みが走り、間髪入れずに何かが体内に流し込まれる。不味い、そう思い抵抗しようとするがもう既に後の祭り。勢い良く突き飛ばされた身体はバランスを崩し地面に崩れる。後ろで注射器が地面に落ちる音、2人の逃げる足音、乱暴に閉まる扉の音が聞こえた )
( 絶望を思い出せと目の前の男は言う。絶望など嫌というほど味わっていると言うのに。そうして“また、救えなかった”という言葉の意味を理解して背筋が凍るような気がした。恐らく元から、過去の絶望を思い出させる為に______成す術もなく大勢を見殺しにした無力で無様なあの日を追体験させるために、ミラーを標的にしたのだ。「ッ、やめろ!!!!」思わず叫んだものの、注射器の中身は既に相手の体内に流し込まれ、支えを失った相手の身体は突き飛ばされていた。本当はこの場を走り去る2人を逃す事なく逮捕すべきなのだが、今は自分1人しかいない。相手を放置する選択など出来る筈もなく、相手の身体を抱き止めると首元を抑える。打たれた薬が何か分からない。麻薬の類か、即効性のある毒薬や自分が以前打たれたのと同じような薬の可能性もある。「______ミラー、大丈夫だ。直ぐに病院に連れて行く。」そう言って、まずはビルを出なければと。 )
( 何だ、何を打たれた。直ぐに解毒なり何なりしなければ手遅れになる様な劇薬なのか、それとももっと別の__。頭の中で警告音が響き、その裏側で様々な状況を考えようと冷静を努める事が出来たのは凡そ数十秒の間だけだった。途端に世界が一変したかの様に何の音も聞こえなくなり、その中で一瞬酷く耳障りな耳鳴りが聞こえた瞬間。頭の中に流れ込んで来たのは“過去の記憶”。濁流の様に押し寄せるその光景は、灯りの無い暗く湿った地下室。パイプベッド、ロープ、そうして__「…ッ、離して!!!」意思とは関係なく双眸からは大粒の涙が溢れ、恐怖から身体がガクガクと震えた。四肢の何処にも力は入らないのに、今自分を抱き留めているのが相手だと理解出来ず、懸命に逃れようと身を捩り、相手の腕に爪を立て、荒い呼吸を繰り返す。まともに呼吸が出来ない、息が苦しい、けれど“逃げなければ”。それが薬がもたらした“記憶”と“幻覚”だと認識出来ぬまま、まるで今起きている事の様に、頭も身体も思い込んでいて )
( _____嗚呼、この薬を打たれた時の恐怖を自分はよく知っている。相手の様子を見て、瞬時にそう思った。生命に危機が及ぶような毒薬で無かった事には安堵したものの、この薬が打たれた者にどう作用し、どんな苦しみが待ち受けているか、それを思うと胸が締め付けられるような気がした。本当なら味わわなくて良いはずの苦しみを相手に経験させている。自分でも抗えないままに記憶が強制的に引き出され、恐怖に支配されるあの恐ろしい感覚を今相手が感じているのだ。犯人の目論見通り、自分は“また”、助ける事が出来なかった______彼等の恨みとは関係のない筈の相手を犠牲にしたのだ。---暴れる相手に突き離されるほどの体格ではないため、その身体を離す事はしなかった。ガタガタと震える相手を抱き竦め、頭を肩口に押さえ付けるように後頭部を支えた。「っ、…ミラー、少しだけ辛抱してくれ。大丈夫だ、安心して良い。直ぐに楽になる。」屋上を吹き抜ける冷たい風で相手が冷えないよう、片手で身体を抱き竦めたままの状態で上着を脱ぐと相手の肩に其れを掛ける。相手は自分が過去の記憶に襲われている時、確かにいつも“大丈夫”だと声を掛けてくれていた。朦朧とした中、遠くで聞こえる声を思い出しながら声を掛け、相手の背中を摩って。 )
( 記憶と認識出来ぬ記憶は次から次に呼び覚まされ溢れ出す。__痛かった。何度も注射を打たれた腕は青黒く変色し、どんなに暴れ抵抗しても体格差から逃れる事は出来ない。それは正に“今”と同じ状況。己を落ち着かせようとする言葉も、体温も、今は何も届かずただ“帰りたい”と逃げる為に取った次なる抵抗とばかりに重たい口を開け相手の肩口に歯を立て__力を込め噛み付く、と表すその前。どんな事をしてでも逃げて、“約束”を果たさなければと思ったその瞬間、流れ込む記憶が変わった。鼻腔を擽るのは優しい柔軟剤の香りと、血の匂い。「…エバンズさんッ!!、」そう叫び、後頭部を支える手に一瞬僅か力が抜けたのを感じて勢い良く顔を上げると、先程迄は相手から逃れようと躍起になっていたのに、今度は決して離れないとばかりに震え何の力も入らぬ手を伸ばし相手の冷たい頬へ。「駄目、っ…駄目…待って、」駄目、嫌、と繰り返し頬を撫で、ボロボロと涙を溢す瞳には恐怖と絶望を宿す。やがて頬にあった手は下へと下がり相手の胸元へ。懸命に押さえようとするその姿は心臓マッサージをしているかのような、或いは止血をしているかのような、そんな動作ながら明らかに恐怖におかされ錯乱状態なのが見て取れるだろう。「や、だ…ぁっ」最終的に子供のように泣きじゃくり、相手の胸元の服を握り締めたまま、嗚咽を繰り返して )
( 相手の様子が変わった事で、襲い来る記憶に波がある事に気が付いた。自分を認識したものの“今”を見ている訳ではない。恐らく様子から察するに自分が撃たれて瀕死の怪我を負った時の記憶だろうか。胸元を抑える相手の手を掴み、心臓の場所へと誘うと鼓動の音を認識させるように押し当てる。「ミラー、俺は此処に居る。なんともない。お前は約束を果たしただろう、_____思い出せる筈だ。」相手が見ているのは過去の悪夢だと伝えるように静かに言葉を紡ぐと背中を摩り続ける。過去に堕ちてしまっても、ふとした瞬間に相手の声が届く事があった。何がきっかけで今に引き戻されるかは分からない、だからこそ声を掛け続け、一瞬でも今に戻るきっかけを作らなければならないのだ。 )
( ふいに手を取られ、それが先程宛がった箇所よりも少しだけ上へと移動した事で掌に規則正しく刻む鼓動を感じる事が出来た。その鼓動はまるで体内を流れる血液の如く静かに上へと昇りやがて己の心臓に届いた__気がした。釣られて頭を持ち上げ握られていない方の手を相手の顔の前へ。「…血……、血が…っ、止まらないの……!私、血液型が同じだから…早く、ッ、」幾ら止血する為傷口を圧迫しても流れ出る血は止まらず、相手の命の光すらも流れ出る。自身の手は真っ赤に染まり鉄の重い匂いが鼻腔から消えない。何もかもが幻覚であり記憶なのに、錯乱したまま“相手”に“相手”を助ける様にと言うのだが。揺らぐ緑眼に褪せた碧眼が映ったその一瞬、動きが止まった。そうして緑の虹彩に光がちらつく。“思い出せる”とは。「__エバンズ…さん……。」自然と唇を震わせたのは相手の名前。先程の過去の相手への叫び声では無く、目の前の相手を呼ぶ名前。そのまま荒い呼吸を繰り返しながらも、至近距離で真っ直ぐに見上げ続けて )
( 自分が撃たれて意識を失っていた時。相手は今と同じような事を救急隊員に告げていたのか、或いはそんな気持ちを抱えたまま無事を願っていてくれたのか。相手の“恐ろしい”と感じる記憶の中に自分が居るからこそ、大丈夫なのだと安心させたかった。ふと視線が重なった瞬間、相手の瞳に宿る色が確かに変わった気がした。いつも自分が相手の緑色の瞳を道標に意識を引き戻されるように、自分の瞳もまた、きっとそれと同じ役割を果たしたのだろう。自分の名前を呼ぶ声に頷くと相手の瞳を見つめたまま「______あぁ、俺は此処に居る。大丈夫だ、何も心配しなくて良い。」と答えて。背中を摩る手は止めぬまま、相手が落ち着くのを待った。 )
( __暗い空の下でも何故かわかる相手の瞳の色。その色を認識した途端に脳内を支配していた“記憶”がまるで突風に吹かれ散ったかの様に綺麗さっぱり無くなった。そうして己を安心させようとする声が届く。背中を擦る手の温もりも、寒くない様にと掛けてくれた上着の優しさも、全て。力の入らぬ腕を持ち上げ今一度相手の頬に震える指先を触れさせる。自身の手も、相手の頬も、寒空の下に在った為冷たく熱を感じる事は出来なかったが今はそれに恐怖したりはしない。べったりと塗れていた真っ赤な血も勿論無い。「……エバンズさん…、」再度相手の名前を呟き、此処に確りと存在していると言う事を自身の胸の内に落としてから「…ん、」大丈夫と言う合図か、相手の言葉に対する頷きか、小さく声を漏らし額を相手の肩口に、今度は自らくっつけては徐々に身体から力を抜いていき、それと同時に長い時間を掛けて震えが治まっていき )
( 相手が少しばかり落ち着いた事に安堵すると、僅かにずり落ちた上着を再び肩に掛け直しスマートフォンを取り出す。何かあれば連絡して構わないと言われておきながら一度も掛けた事のなかった番号______アダムス医師へと電話を掛けた。遅い時間の為一度掛けて出なければ別の手段を探そうと思ったものの、数コールのうちに彼の声が聞こえた。深夜の突然の電話に対する謝罪と共に現状を伝えれば、“日常的に薬を飲むなどしておらず薬剤自体にあまり耐性のない人の場合、薬が効果を発揮しやすい事があるため念の為病院で経過観察を行うのも一案だ”とアドバイスを貰う。必要であれば病床は手配すると伝えられ、この後向かう旨を伝えて電話を切った。床に落ちたままの拳銃を拾い上げ、「立てるか?」と相手に尋ねる。そして相手の身体を支えながら立ち上がると相手と共に屋上を後にした。相手から鍵を受け取り、相手を助手席に座らせると自分は運転席へと回る。車のエンジンを掛けると「病院に向かう。辛くなったら言ってくれ、」と告げて相手の冷えた手の甲を一度優しく撫でて。 )
( 車内、普段ならば自分が運転席で相手が助手席なのだが今は逆だ。こんな指先の震えた手でハンドルなど握れる訳も無いし、足にもまだ確りとした力が入る訳じゃない。けれど何故かその反対の場所が無性に不安になり思わず細く息を吐き出す。理由など無い。もしかしたら普段何とも思わない事に妙に敏感になり、感情が揺れるのは未だ体内に残るあの謎の薬物のせいなのかもしれない。相手からの気遣いの言葉に小さく頷きシートベルトを締めるのだが、車が走り出してから数分も経たずして呼吸に僅かな乱れが混じり始めた。窓の外の暗い空、一定間隔で流れる街灯の明かり、時折擦れ違う対向車__何も怖い事は無い、普段見慣れた筈の景色。過去の嫌な記憶が呼び覚まされている訳でも無いのに胸の奥が嫌な熱さを帯び、それとは逆に指先は冷たくなる。「っ、エバンズさん…!」思わずシートベルトから身を乗り出して隣の相手に縋る様に手を伸ばせば、「入院は嫌、っ、」と、まだ医者と会ってそう言われた訳でも無いのに拒絶を表して )
( 胸の内を掻き乱す恐怖心に波がある事は知っていた。だからこそ相手に名前を呼ばれると、近くにあったコーヒーショップの駐車場へと車を一度停めた。当然店は既に閉まっていて駐車場は暗い。入院は嫌だと言う相手に視線を向けると、少しでも落ち着くならと伸ばされた手に自分の手を軽く重ねた。「…お前はどうしたい?医者は経過観察の為に病床を用意する事は出来ると言っていた。薬がどう作用するか分からない。病院に居た方が安心出来る、」万が一の事を考えて数日であっても入院した方が良いのではないかと言いながらも「嫌なら無理に入院しろとは言わない。」と付け足して。ただ自分が居ない間、相手を1人にしておくことが不安だったのだ。 )
( 車が停まったのは暗いコーヒーショップの駐車場。此処へは捜査の合間の休憩にも訪れた事のある場所で、重なった相手の手の仄かな熱にほぅと安堵の息を吐き出す。たったそれだけ、たったそれだけの事で酷く安心出来た。此方の意思を尊重してくれるその問い掛けに暫し俯き答えるまで時間を要する。何故かはわからないが入院と言う響きには恐怖があるのだ。しかし、だからと言って家に戻り何かをしたい訳でも無い。「__エバンズさんは?」たっぷりの時間の後、顔を上げての第一声は相手への問い掛け。足りない言葉を付け足す様に「エバンズさんは、病院に居る?」と。それは些か幼くも感じられる問い掛けだっただろうか。ただ、今は相手が視界に映らない所に行ってしまうのが無性に恐ろしかった )
( 相手の問い掛けに頷くと「…お前が眠るまで、側にいる。」と答えて。相手が眠りに落ちるまでは側にいるつもりだったが、その後にはやらなければならない事が山積している。相手の事を警視正に報告し、逃げた2人について調べなければならない。電話が鳴るまで自分たちがやっていた仕事も早めに終わらせる必要があった。相手が何も気にせず、怖がる事なく身体を休める事ができるようにやるべき事があるのだ。「ずっと病院に居る事は出来ないが…見舞いには行く。」と、相手が不安にならないように告げて。 )
( “眠るまで”の後は__一瞬眉が下がるのだが
、続けてお見舞いには来てくれるとの言葉に静かに頷く。恐怖や不安が無くなった訳では無くただ単に影を潜めているだけであっても、今この瞬間は少し落ち着いていた。だからこそ刑事としてこの後相手がやらなければならない様々な事があるのも当然理解出来て。「…なるべく早く寝る、」と、ほんの僅か、口角が緩む程度の微笑みではあるがそう答え。それは暗に入院に同意すると言う事。今一度自身を落ち着かせる様に深呼吸をした後は背凭れに体重を掛け座り直し、病院に着くまでの道すがら、時折隣で運転をする相手に視線を向けて )
( 僅かながら相手が微笑みを浮かべたのを見ると、少し表情を緩めて頷いて。医療体制が整った場所で信頼出来る医師が側に居る状態であれば、あの恐ろしい薬に対する不安も幾らばかりか拭う事が出来る。自分の所為で辛い思いをさせている相手が“守られている”状態であって欲しいと思った。赤信号で車が止まると助手席の相手に視線を向け様子を確認していたものの、此方を見る相手と視線が重なると前方に視線を戻す事が何度か繰り返され_____病院に着くと、当然時間外ではあるもののアダムス医師の診察室に通された。首筋の針の痕を確認すると、軽く消毒をして「…薬物の影響には波があります。特に恐怖心を増大させたり、過去の記憶を強制的に引き出すような強い効果は、薬が薄まっても些細な事がきっかけで引き起こされる事がある。自分では大丈夫だと思っても、完全に薬が抜けるまできちんと様子を見た方が良いでしょう。」と告げて。「薬の併用で思わぬ副作用が起きる事があるので、鎮静剤や睡眠薬は使えません。何かあればナースコールで知らせてください。」注意事項を伝えると、空いている個室へと案内されて。相手が看護師に連れられて着替えなどを済ませている間、1人病室の椅子に座って屋上での出来事を思い返す。中年の男と女、2人の関係性は分からないが自分に対する恨みを持っている人間_____” あの時の絶望を思い出せ。お前は“また”救えなかった。“と男は言った。アナンデール事件の関係者である事は間違いないが、何処から2人を特定するべきか。薬はクラークに使われた事もあるものの為、ある程度流通している薬物の類だろう。この時既に、その考え自体に蓋をしていたものの、自分は相手の側に居るべきではないという思いは心の片隅に生まれていた。 )
( 病院着に袖を通しながらアダムス医師からの薬物の説明について考えた。睡眠薬を飲む事が出来ないと言う事は、夜中にあの恐怖が襲って来ても通り過ぎるまでひたすらに耐え抜くしか方法が無いと言う事。どれ程で恐怖から解放されまた眠りにつけるのかがわからない。例えナースコールを押した所で鎮静剤も使えない以上看護師にはどうする事も出来ないだろう。__それは酷く絶望的な事のように思え、背中に嫌な汗が流れたのを感じた。けれどこの恐怖を相手は経験し、そうして眠れない夜の日々を過ごしている。己を安心させようと微笑みながら『きっと直ぐに元に戻れます。』と、励まし病室を出て行った看護師に軽くお礼を言い、相手の傍に歩み寄ると「__エバンズさん。」と名前を呼ぶ。まさか自分から離れる事を考えているなど、想像出来る筈が無かった。「…眠るのが怖い、」先程は早く寝ると言ったが、医師の説明を聞き、真っ白の病室に来れば心細さは再び顔を出すもので、素直なまでに恐怖を訴えつつ、それでもその身はベッドに横たえて )
( 相手に名前を呼ばれると思考を止めて顔を上げる。紡がれたのは素直な恐怖心だった。自分ではどうしようもないあの感覚______まるで蛇が首を擡げるかのように突如として沸き起こる恐怖心。一度記憶の渦に突き落とされて仕舞えば自分で感情をコントロールすることはできない。その恐怖を知っているからこそ、相手の気持ちはよく分かった。「____なるべく気持ちが落ち着く事を考えて寝た方が良い。…お前はそういうのが得意だろう、」暫し考えた後に紡いだのは、1つの小さなアドバイス。心配せず眠れと言う事は出来るが、薬を打たれている相手に対してそれは余りにも無責任だ。それなら、今相手が出来る、なるべく心を穏やかに休む事が出来る提案を。相手は感受性が豊かだ。美しい物や楽しい事、日常の中に潜む些細な喜びを見つけるのが人一倍得意ならば、これまでに重ねて来た”其れ等“を、今自分の為に使って欲しい。相手の気分が和らぐ事を、と考えたものの何せ自分は感受性など持ち合わせていないに等しい。何が綺麗だとか、楽しかったとか、そういった話題は一向に思い付かない上に話し下手なのだ。「………まだデスクには、シャチの人形を飾ってるのか、」かなりの間を置いて尋ねたのは、いつだったか相手がデスクに飾ると言っていたぬいぐるみの話題。唐突にそんな問い掛けをすると、自分で言っておきながら曖昧な表情を浮かべて。 )
( 真っ白の掛け布団をお腹の位置まで引き上げ、軽く身体を横にして相手の方を見る。相手は己の恐怖心に“大丈夫”とは言わなかった。そう言わずに小さな解決への糸口を口にし夜の恐怖に向き合う術を提示してくれる。「__此処は病院じゃなくて私の家で、私が眠った後、隣でエバンズさんも一緒に寝てくれる。それで、朝起きたら2人でコーヒーを飲んでから海を見に行くの、」“気持ちが落ち着く事”と考えて、浮かんだのは、現実的に有り得る事ではあるものの、今この瞬間を切り取れば妄想のそれ。楽しいも、幸せも、落ち着くも、何時だって相手が側に居る時だった。__ふいに突拍子も無い話題に一度瞬く。その話題を出した相手は、相手自身が何とも曖昧な表情を浮かべていて、別にこの話題を話したかった訳でも、勿論シャチのぬいぐるみが欲しい訳でも無いだろう。きっと己が不安にならない様に、悪い事を考えない様に、そんな不器用な優しさから話し下手にも関わらず出してくれた話題。胸の奥が暖かく幸せに包まれた。「…飾ってるよ。疲れたなって思った時、あれを触ると癒されるんだ。」小さく首を縦に肯定を表してから、「私が職場に戻るまでの間、エバンズさんに貸してあげる。」相手は絶対にシャチのぬいぐるみに癒しを求めたりしないだろうが、そう言いながら少し笑って )
( 相手が口にしたのは、何気ない日常だった。相手の家に泊まることも、一緒に出掛けることも、この2年の間に気付けば自然な事になっていた。この場所が心地良くて、相手の優しさに寄り掛かり過ぎていたのかもしれないと、病室の白いベッドに横になる相手を見て、頭の片隅にそんな思いが芽生えた。ぬいぐるみの話をわざわざ持ち出したのは、相手が嬉しそうに其れを見せて来た記憶があったから。おしゃれなカフェの彩りの良いサラダやケーキに海、_____相手の好きな物は少ししか知らないが、笑顔の記憶ばかりなのだ。相手が笑顔になっていたものの話をしようと思った。相手の返答には軽く頷いただけでそれ以上話を膨らめようとする訳でもなかったが、続いた言葉には怪訝な表情を浮かべ「俺には必要ない、」と答えて。ぬいぐるみをデスクに飾って仕事をするなんて、周囲から気が狂ったのかと思われても可笑しくはない。それでも相手の表情が和らぐのを見ると少しばかり安堵して。 )
( 案の定相手は怪訝な表情で拒否を示した。元から答えはわかっていたのだからそれ以上押す気は無く、ただ、他の人が見れば機嫌を損ねてしまったのか、或いは怒らせてしまったかとも取れるその眉間に少し皺の寄った表情が不思議と好きだと、今何の脈略も無しに感じた。呆れた様な表情も、少しだけ微笑む様に緩まる表情も、寝起きの何処かぼんやりとした表情も、見慣れている筈の数々が何故か頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、__やがて薬の影響で錯乱状態にあった疲労も相まって瞼が重く落ちる感覚に、数回抗うのだが、意識は眠りの底に追いやられる。無意識の内に伸ばした手は勿論相手に届く筈は無く、再び白いシーツの上に落ち、それと同時に瞼も完全に閉じられた。最後に見えたのは此方を見る褪せた碧。その色がやけに濃く残った気がしたが、そのまま静かに寝息をたて始めて )
( 相手が眠りに落ちても暫くは、真っ白なベッドの中で寝息を立てる相手の姿を椅子に座ったまま見つめていた。十数分後、ようやく立ち上がると布団越しに相手の肩を軽く撫で、静かに病室を後にした。---とっくに日付を跨いだ深夜だったが、警視正に報告のメールを入れるとそのままの足で暑へと戻る。真っ暗な執務室に明かりを灯し、まずは現場に残された注射器の指紋照合と薬物特定の為、鑑識への依頼の手配を。そしてあの2人を特定するため、遺族として取材を受けるなどして過去の新聞や記事に顔写真が載っていないかを照合する。あのビルの監視カメラの映像は日中に______と作業をしているうちに外が明るくなり、夜が明けた事に気付く。長時間同じ姿勢でいた為肩が重たく、眼鏡を外して一度立ち上がり身体を軽く動かすと、眠気覚しにコーヒーを淹れようと給湯室に向かい。早朝のフロアはシンとしてひんやりとした空気が感じられる。熱いコーヒーを手に、ブラインド越しに窓の外を見ると朝焼けと共にちらほらと犬の散歩をする人やジョギングをする人の姿が見えた。それは余りにも穏やかで平和な光景に思えた。______相手は、こう言う日常を生きるべきなのだ。明るく穏やかな場所で日常を紡いで行く、あの笑顔を誰にも奪われる事なく。昨晩のように、暗闇の中で恐怖にもがくのはあまりにも酷だ。コーヒーをひと口啜り、やけに凪いだ心は”相手を此方側に引き摺り込むべきではない“と訴える。あれは、自分と行動を共にしていなければ起きなかった悲劇。初めて彼女に過去を打ち明けた時には、寄り掛かり過ぎるのが怖いと言った筈なのに、いつしか支えて貰う事が当然のように彼女に身を預けていた。薬を打たれ、錯乱して恐怖に怯える相手の姿を思い出すと胸が締め付けられる。彼女が危険に晒されるまで決断出来なかったのは、おそらくあまりにこの場所が_____相手の側にいる事が心地良かったからだ。これ以上の危険が及ぶ前に全てを本来あるべき均衡に戻さなければならない。マグカップを持ったままデスクに戻ると、再びパソコンへと向かい。 )
( __唐突に意識が引っ張られ、布団を跳ね除ける様にして目を覚ましたのは夜中の2時過ぎの事。夢を見た。辺りは暗闇に染まっていて、己から数メートル離れた所に相手が立って居る。互いに向き合う形なのに何故か相手の表情は霞み上手く認識が出来ない。“エバンズさん”そう名前を呼ぶのに相手はその場に立ち尽くしたまま。もう一度名前を呼び近付こうとするのだが何故か相手との距離は離れる一方。相手はその場から動かず、己は確かに歩み寄ってるのに少しも近付けないのだ。病室は暗く、眠る前迄確かに話をしていた筈の相手は居ない。“眠るまで側に居る”と言われていたのだから今の状況は当たり前と言えば当たり前なのに頭の天辺から爪先までを支配する恐怖心が正常な思考も、今と夢の境も何もを奪い去る。「__何処、っ…!」ベッドから転げ落ちる形で床を這った丁度その時、巡回に来ていた看護師が己の姿を発見した。ナースコールが押され数人の看護師が来るが勿論鎮静剤は打てず、最早拘束にも似た形で再びベッドに戻され__そこからの意識は無い。次に目を覚ましたのはカーテンから光が射し込む時間帯。頭も身体もやけに重いが波は今おさまっているのだろう、酷い恐怖心は無く少しの喉の乾きを感じながらもぼんやりと天井を見詰めて。__出勤して来た警視正が相手の元を訪れたのは午前9時過ぎ。執務室の扉を開け、パソコンを見詰める相手に『昨晩はご苦労だった。』と声を掛けて )
( 相手が夜中どんな恐怖を味わったか、離れている今感じ取る事はできなかった。不意に執務室のドアが開き顔を上げると警視正の姿。夜中遅い時間帯に連絡した事を謝罪しつつ「少しの間の入院で、薬が完全に抜けるまでの経過観察をすると聞いています。______このような事態を招き申し訳ありません。」と告げて。そして一瞬の間を空けた後に「…折り入ったご相談があるのですが。」と言葉を続けて。---警視正と共に会議室へと移動して扉を閉めると、向かい合って座り、本部へと異動ができないかと切り出した。「…過去の事件の所為で、ひとつの場所に長く留まり過ぎると色々な弊害がある。今回の犯人も然り、記者たちもそうです。今が潮時だと考えました、」昨日の一件で、本部に戻るなら今がそのタイミングだと感じた。「レイクウッドを離れて……本部で、刑事としての職責を果たしたいと考えています。」本部からもかつて異動の打診があった事を思えば、役職に拘らなければ不可能ではない筈だ。異動できるのならば一刑事としてでも構わない、と。 )
警視正
医師の元で入院出来るなら安心だろう。…お前もミラーも生きている。今回はそれで良い。
( 命の危機に直結する薬で無かった事が救い。加えて入院している病院には相手も何だかんだで信頼している【アダムス医師】が居るのだから問題無いだろうと頷きつつ、続けられた謝罪には強く咎める事はせずに軽く相手の肩を叩き。__執務室では無く会議室に移動までしてする話とは、と一瞬表情が険しくなった警視正は、相手が話し始めた事でこの場所を選んだ理由を理解した。刑事課フロアに居る署員達に今は万が一でも聞かれたく無いのだろう。深く吐き出した息と共に『……そうか…、』と呟いた後、暫し何と答えるべきか思案する間が空くのだが、役職を失ってでも異動したいと言う相手の気持ちに迷いや躊躇いは無く、ならば誰が何を言った所で結局は本人の意識が残る。『…本部への異動願いは勿論受け取るし、必要ならば私が向こうの警視正に話しても構わない。だが__、』“ミラーには言ったのか?”と言う問い掛けは続かなかった。直感的にミラーはこの事を知らないと思ったからだ。『…いや、何でも無い。お前がそれを望むなら応援する。』結局首を振り話の続きを無かった事にすると、何処に居ても、と激励の言葉を送り )
( 警視正は何かを言い掛けたものの、言葉を続ける事はせずに頷いた。相手から本部の警視正へと話を通して貰うのが正規のルートで一番早く人事が進むだろうと思えば「助かります、」と答えて、相手から話をしてもらう事を頼み。「本部から取り寄せたい資料があります。必要があればその捜査の為に本部に行って、警視正にお話します。」今回の件に関連してアナンデール事件の資料を取り寄せたいと思っていた為、その為の出張と称して人事異動に関する話を直接する事も出来ると伝えて。 )
警視正
( 相手の中では既に未来の道筋が決まっている。誰にも__ミラーにも相手を止める事は出来ないだろうと根拠の無い確信があった。『昼までには警視正に伝えておく。』と、頷きつつ一度手元に視線を落としてから再び相手を見。『…エバンズ、』名前を呼んだその表情は酷く真剣なもの。『お節介かもしれないが、変な別れ方だけはするな。』“誰と”とは敢えて口にはしないが相手はきっとわかるだろう。__レイクウッドに来たばかりの相手は常に威圧的な空気を纏い他者を寄せつけなかった。誰にも頼らず、弱みを見せず、人知れず痛みに耐える。そんな相手が唯一心を開いた様に思えたのがミラーだった。互いに寄り添い、時にぶつかり、それでもこうして長く一緒に居たのはお互いがお互いを必要だと感じていたからの筈。相手が本部に異動したからと言って二度と会えない訳では無いし、同じ国内だ、飛行機に乗れば済む話。けれど不思議とそんな簡単な事では無い気がした )
( 昼までには本部の警視正に異動について打診してくれるという相手に感謝を述べたものの、真剣な声色でよぶ止められると相手に視線を向ける。相手が告げたのは恐らく、長年パートナーとしてバディを組んで来たミラーの事だろう。「______ミラーに、必要のない敵意が向くことを避けたいんです。自分の近くに居るというだけで、今回のように危害を加えられるリスクがある。長くレイクウッドで行動を共にしすぎました。……勿論説明はします。でも、其れを正直に話したら彼女は“自分は大丈夫”だというでしょう。」暫しの間を置いて言葉を紡ぐと少し困ったように微笑を浮かべる。「要らない脅威に対して、自分の身を犠牲にして欲しくないんです。」とつけたして。 )
警視正
( 相手の言う事は間違い無いと思った。ミラーは間違い無く“大丈夫”と口にし続けるだろう。お互いに相手が目の前から居なくなる恐怖を角度こそ違えど抱く筈なのに、擦れ違う。不器用で、けれど人一倍優しい相手が“このやり方”でミラーを守ろうとするのならば__『…わかった。私からは以上だ。』今度こそ首を縦に振りそれ以上何かを言う事はしなかった。ただ、相手があんな風に困った様に笑う、その表情は暫くの間脳裏から離れる事はないだろう。__会議室を出て午前中の仕事を終わらせた後、ワシントンにあるFBI本部に電話をした警視正は、そこの警視正に相手の異動の話を打診した。過去にも話が出ていた事や、相手の刑事としての有能さを知っていた為返って来たのは二つ返事の“YES”。その他諸々詳しい事は相手が“出張”で出向いた時に話すだろうとそれ以上は何も言わず。__時刻は昼12時丁度。再び執務室を訪れた警視正は相手を会議室に呼ぶなり『…異動の件だが、席は空けておくから何時でも構わないそうだ。此方でやり残した事を済ませてから行くといい。』と、告げて )
( その後、時間を縫って入院している相手の元に定期的に顔を出しつつも、逃げた犯人についての捜査を進めた。捜査と並行して一泊二日の日程で本部へと足を運び、本部の警視正と異動後のポジションや仕事の開始時期などについて話をするなど水面下で準備を進めるうちに、レイクウッドを離れる決意は固いものになっていた。レイクウッド署の警部補としてやるべき仕事を整えつつ、本部の警視正と取り交わした異動の日が近付いてくると他の刑事が出勤しない休日に執務室の整理に取り掛かる為署に向かい。---ダンボール箱を組み立て、先ずは必要な資料や書籍類を詰めていく。2年という歳月は短いながらも、部屋をまっさらな状態に戻すには骨の折れる月日だと改めて実感する。使っていたマグカップなども割ないように梱包するものの、周囲にバレないように荷造りをするのは不可能だと思えるほど部屋は段ボールや詰める為に引き出しや棚から取り出した私物でいっぱいになった。 )
( __体内を流れる薬物は点滴の効果もあって徐々に薄まり、思ってる以上に早い退院許可が降りたのが一昨日の事。その旨を警視正に報告すれば念の為に後数日は自宅療養をし、その後、職場復帰を果たしても良いとの命令が。正直な所1日でも早く捜査に戻りたかったのだがこればっかりは仕方が無い。__2日入院し、自宅に戻ったその日は日曜日だった。薬を打たれてから一度も署に戻っていない為にノートパソコンはデスクの上。これでは我が身に起きた事件のあれこれを調べる事も出来ないと家を出たのがお昼過ぎの事。警備員に警察手帳を見せて署に入り、誰も居ない__と思っていた刑事課フロアに足を踏み入れ真っ直ぐにデスクに向かう予定の足はピタリと止まった。警部補専用の執務室から何やら物音が聞こえるからだ。この部屋を使うのは基本的にエバンズただ1人、けれども彼は休日の筈。怪しむ様に表情を真剣なものに変え、足音をたてぬ様に扉へと近付き、小さな深呼吸の後ノックも無く扉を開け放ち__「……え、」思わず間抜けな声が漏れたが、それは驚きから出るものだ。まるで空き巣にでも入られたかの様な散らかり様、その中心にこの部屋の主が立っている。状況を理解出来ぬまま「…エバンズさん…?」と、目前の相手を認識しているものの、語尾に疑問符のつくトーンで名前を呼び )
( 不意に扉が開く音がして驚いて振り返ると、そこには此処に居る筈のない相手の姿。驚きに見開かれた瞳。「______ミラー、」相手の名前を口にしたものの、相手はこの部屋の中を、そしてそこに居る自分を確かに目に映しており、今更どうこう言い訳出来る状況ではないと直ぐに理解した。「…身体はもう良いのか?」少しして普段となんら変わらない口調で相手の体調を尋ねる。そうして相手と同じように部屋の中を見回し「2年でも、意外と物は増えるものだな。」なんて、普段しもしない世間話のように呟いた。何故自分がこの部屋を整理しているのか、それを相手に伝える決定的な言葉を紡ぐ事を無意識ながら避けたかったのかもしれない。 )
( 相手もまた驚きを表情に。驚愕を乗せた緑と碧が暫く重なり、少しして普段と変わりない口調で紡がれた体調を気遣う言葉に「…うん、後数日で仕事に復帰出来る、」と答えたものの、その声色には未だ思考が追い付かない事がありありと浮かぶ戸惑いが見え隠れしていて。__嗚呼、空き巣が“可愛らしい”だなんて不謹慎にも思えてしまう程だ。こんなの誰がどう見ても所謂“異動の準備”ではないか。けれど、だとしても、何故。こんな余りに急過ぎるしそんな話一度も聞いてない。混乱する頭で何も考える事が出来ない中、相手から視線を外す様に向けた先、明らかに割れ物を──マグカップを包んでいる事が伺える形をした新聞紙がダンボールの上にあるのを見付けた途端、息が詰まりそうな感覚を覚えた。指先に血が通っていないと思える程冷たくなり、心臓が嫌な音を立てる。「__…大掃除なら、まだ早いんじゃない…?」認めたくないし、何も聞きたくないし、こんな光景も見たくない。思わず震えた唇が辛うじて紡いだのは、わかっていながら態と外した問い。自分は今どんな顔をしているだろうか。冗談を言う時みたく、意地悪に笑えているのだろうか )
( 大掃除、というワードに相手に視線を向け「…この時期に大掃除はしない、」と、少し困ったように表情を緩める。相手との間に暫しの沈黙があり、箱詰めした荷物に視線を落としたものの隠し通せる事でもないと観念すれば「________本部に異動する事になった。」と、荷造りの理由を告げた。本当は“なった”のではなく“した”という表現が正しいのだが、少しの後ろめたさがあったためにその言い回しは選べなかった。「……相談も無く悪い、」1人でその決定を下した事を相手は良く思わないだろうと謝罪を述べつつ「次の金曜日に発つ。其れまでに残っている仕事は全て済ませていく。」と告げて。つまりレイクウッドの警部補として仕事をするのはあとたったの5日間という事だった。 )
( “大掃除”を肯定してくれていたらどれ程救われたか。今一番聞きたくなかった言葉は鋭利な刃物となって胸に突き刺さる。2年一緒に居るのだ、2年一緒に居て相手の一番近くでその姿を見て心に触れて来た。今回の本部への異動は上からの命令では無く相手自身が望んだからと言う事は容易く想像出来るのに。「……」何も言わず__何も言えず足元に視線を落としたままで居たものの、相手は謝罪に続き更なる残りの期限迄もを口にした。「っ、聞きたくない!」弾かれる様に顔を上げ、思わず荒らげた声は想像以上に大きく震えたのだが、その緑の瞳にはなみなみとした涙が溜まっていて。「……何で…?」そう口にした途端、大粒の涙が頬を滑った。「…私が…ミスしたから…?…犯人は必ず捕まえるし、次は絶対、完璧にやるから…だから…っ、!」それは後から後から止まる事知らぬ様に流れ続ける。嗚咽に邪魔されながら、懸命に行かないで欲しいと、嫌だと、まるで駄々をこねる子供の様に首を左右に振って )
( 相手は何もミスなどしていない。今回の件を引き起こしたのは紛れもなく自分なのだから。「……ミラー、…」泣きじゃくる相手を見て困ったように相手の名前を落とすと、相手の所為ではないと首を振る。「______レイクウッドには長く留まり過ぎた。お前の所為じゃない。…俺が、ようやく本部に戻る決断をしただけだ。」ひとつの場所に長く留まると、過去の事件が自分の足元に影を落とし様々な弊害を招く事は理解していた筈なのに。今回の事件が本部に戻る決定打になった事は、当然ミラーには言うつもりはない。自分の所為で、或いは、自分さえ我慢すれば、と相手が思ってしまう事は避けたかった。「いつか戻るつもりでは居た。今なら、本部でも警部補の役職で働かせて貰える。______それに、お前も一人前の刑事になった。」と、2年捜査を共にした事で、相手も1人でやっていけるだけの技術は身に付けていると告げて。 )
( “何時か”が来る事は以前一度本部行きの話が出た時から覚悟していた。覚悟はしていた、が。余りに突然過ぎる。そんな素振り一つ見せず、己が自宅療養している間にこんなにも__もう何を言っても止める事が出来ない所まで話が進み、相手の気持ちが揺らぐ事は無いと嫌でもわかってしまう。加えて“警部補”の役職のまま異動出来るなんて好条件でしかない。そもそも相手は望んでレイクウッドに来た訳では無かったのだから__と、自分に言い聞かせる沢山の事を思うのだが、そんなもので心を保てるのならば最初からこんなに泣きじゃくったりなどしない。少しでも気を抜けば子供の様に声を上げ泣き崩れてしまうであろう今、喉の奥は締め付けられ抑えきれない嗚咽が繰り返し唇の隙間から漏れる。床に落ちる涙は散らかった新聞紙を濡らしたが、勿論そんな事に気を止める事が出来る状態では無い。__そんな中、最後に紡がれたそれが更に涙腺を緩める結果を招いた。初めて言われた“一人前”の言葉。それを、今、このタイミングで言うのか。認められた事が嬉しくてたまらない筈なのに、今だけは素直に喜べない。「…まだ…っ、全然足りない…!」一人前なんかじゃない、相手が居ない所で1人ではやれない、それはFBI捜査官としては甘えだろう、けれど飲み込む事は出来なかった。此処で立ち尽くし泣き続けた所で、相手が異動を取り消す事は無いだろうし、荷造りが終わらないだけ。わかってはいてもどうすれぱ良いのかわからなかった )
( 相手が涙を溢す姿を見ても尚、その決断が揺らぐ事はなかった。今相手にとってこの別れが辛く悲しいものだったとしても、今離れておけばこの先相手の生きる道に暗い影は落ちない。その為の別れだという思いがあるからだろう。涙ながらに言い返す相手の言葉には、普段通りの様子で少し肩を竦める。「一人前は言い過ぎだな、…1人でもやっていけるだけの、刑事としての礎は築けているだろう。」あくまでも“普段通り”を振る舞うことで、嘆き悲しむような事ではないと相手に感じて欲しかったのかもしれない。そうして真っ直ぐに相手と向かい合うと「…ミラー。もう決めた事だ、俺は本部に戻る。______お前は刑事としてまだ伸びる。ただ、この先捜査を担う上で、ひとつひとつの事件や遺族、被害者に心を寄せすぎて自滅する事だけは避けろ。」と、決意と共に相手への助言を贈り。止めていた手を再び動かし始めると、デスクの上に積まれた捜査資料のファイルがダンボールの中に詰められて行き。 )
( 此方がどれ程涙を溢し行かないでと訴えた所で相手の決断は変わらない。何処までも冷静に言葉を紡ぎ“別れ”は揺るがないのだと嫌でも示して来る。__その中でふいに空気が変わったのは相手が“一人前”の話題に対して少しばかり肩を竦めた“何時も通り”の反応をしたから。それでわかった。何時までも此処で嘆き悲しむより、どうしたってこの決断を覆す事が出来ないのならば、残り共に居られる時間をどれ程有意義なものにするかが大切なのだと。鼻を啜り、「…言い過ぎでは無い…、」と、至極小さな小さな声で再び言い返しては、未だポロポロと流れる涙は止められぬものの真っ赤な瞳を真っ直ぐに相手に向け「…エバンズさんが、私を育てた事を誇れる様な、そんな刑事になります。」助言に対して確りと頷いた後、決意とも取れる言葉を告げ。それから再び荷造りを再開した相手の姿を暫し見詰め、ややしてその場にしゃがみ込むと何も言わずダンボールの空いてる所に必要であろう書類を詰め、手伝いを始めて )
( ____5日という期間は当然ながら瞬く間に過ぎて行った。相手にも手伝ってもらい荷詰めをした箱は、もう此方で使わない物だけ先にワシントンへと送り、数箱が執務室には残った。月曜日には執務室の異変に気付いた署員たちの間でエバンズの異動が囁かれ始め、本人の言質を取った者によってその噂は瞬く間に広がった。あまりに急な事で、送別の食事会や花束はどうするのかと慌てたような話題が湧き起こったのだが、当の本人は普段と変わらず仕事を進めるばかり。サラやアシュリーは相手を心配して声を掛けた。---最終勤務日となる金曜日。家の引き渡しの立ち合いの為に普段より1時間ほど遅れてスーツケースを持って出勤すると、特に普段と変わった風でもなく執務室へと姿を消す。新しく確認が必要な報告書は、次にこの席に座る警部補の担当となる為書類は別のトレイに入れる事となり、エバンズの確認待ちの書類よりも多くなっていた。執務室にはパソコンを除いて私物はなくなり、がらんとした部屋の隅にスーツケースが置かれているだけ。そんな部屋の中で、パソコンに向き合いいつもと変わらない業務を行って。 )
( __心此処に在らず、が正直な5日間の過ごし方だった。幾ら残りの時間を有意義なものにしようと決めた所で矢張り寂しさは勝つのだから、こればっかりは仕方が無い事だ。瞬く間に時は過ぎて今日はもう相手が“レイクウッド署の警部補”で居る最後の日。明日から幾ら待ったって相手が出勤して来る事は無く、執務室には新しく赴任して来る警部補が居座るだろう。もう、顔を見て話をする事も、食事をする事も、共に捜査をする事も無くなる。鼻の奥がツンとした痛みを帯び、目頭が熱くなり思わず泣き出してしまいそうな気持ちになるのだが、寸前の所で堪えたのは、笑顔で何の心配も要らないと送り出すと決めたから。__給湯室で、相手のマグカップでは無い予備のカップにコーヒーを淹れ、執務室の扉を叩く。入室の許可の後部屋に入れば、嫌でもスーツケースとすっかり殺風景になった室内が視界に映り、それにもまた酷く心を揺さぶられた。「お疲れ様です。」そう言って相手の前にマグカップを置き、一つ息を吐いてから「…最後だね、」と切り出す。その後に言葉は続かず、眉の下がった、何処か困った様にも見える笑みを浮かべて )
( 部屋に入って来たのは相手だった。手にしていたのは自分の物ではないマグカップだったが、温かな珈琲の香りを引き連れていつものようにデスクに置かれるとひと言礼を言い、其れを口に運んだ。「……そうだな、」と答えたものの「自分でも余り実感が湧いてない。」と続けて。この後夜の便でワシントンへと向かい、週明けからは本部で警部補として働く。古巣に戻るのだから仕事に対する心配は然程ないものの、レイクウッドが最後だと言われると此方もまた自分にとっては思い出深い場所となっている為か、妙な気分だった。「_____赴任してきた時に想定していた以上に、濃い2年間だった。」コーヒーを飲み小さく息を吐き出すと、そう言葉を紡ぐ。「静かな町だが、事件も多かった。本来予定にはなかった、新人を育てるという仕事も発生したしな。…レイクウッドでの事を思い出そうとすると、お前の顔が散らつくだろうな。」少し冗談めかしたものの、間違いなくこの2年の記憶の中で相手が占める割合が高い。「…まぁ、そう悪くない2年だった、」と付け足しては相手と視線を重ねて。 )
( こうしてコーヒーを啜る姿を見るのも最後。目に映る何もかもが最後なのだと此方は嫌でも実感してしまう。何時も以上に何処と無く饒舌に話し始める相手の言葉を聞きながら、その全てを聞き逃さない様言葉を挟む事無く一つ一つに相槌を打ち。途中に出た“新人”の単語には小さく笑みを浮かべ漸く口を開く。「私もまさか“警部補”と初めての殺人の捜査をすると思わなかったよ。__顔と名前を覚えるのが苦手なエバンズさんの記憶に残れるなら、それだけで自分を誇れる。」前者は遠い思い出を呼び覚ます様に、後者は少しだけ冗談を滲ませて。__視線が重なった事で相手のもつ褪せた碧眼を真っ直ぐに捉えた。嗚呼、この瞳を見る事も、もう叶わないのだと。そう思った瞬間に思わず視界が歪むもそれを誤魔化す様に一つ軽く咳払いをし。「最も聞きたい言葉はそれかも。」“悪くなかった”は、相手にのみ“良かった”と捉える事が出来ると勝手に思っている。此処に来る事は本意では無かっただろう、“新人教育”もした、何度命の危険に晒されたかもわからない。けれど、何もかもを引っ括めそれでも“悪くない2年”だったのなら、これ程嬉しい事は無い。「__ハグしたい。」揺れる瞳で、それでも小さく笑いながらそう強請って )
( 相手とこの執務室で何度も他愛のない会話をし、何度も温かい飲み物を手渡して貰ったと、扉の近くに立つ相手を見て思う。はじめは全くと言って良いほど役に立たない新人刑事だったが、いつしか相手と共に捜査に向かうのが自然な事になっていた。相手の運転する車で現場に向かうまでの心地の良い静寂と、車窓を流れるレイクウッドの景色。ワシントンのような都会ではない為高層のビルも少なく、時に移動の間は静かに休息を取れる時間でもあった、食事に連れ出された事も、互いの家で眠った事も何度もある。______レイクウッドでの日々は、いつだって相手が隣に居たと改めて思いながら相手の若葉色の瞳を見つめていた。「……執務室でする事じゃない、と言いたい所だが…最後だからな、」相手の要望に対して肩を竦めてそう答え、デスクから立ち上がり応じると、「…世話になったな、」と軽く相手の肩を叩いた。 )
( これが、このささやかな触れ合いが、温もりが、最後だとわかるからこそ相手の肩口に額を押し付ける様にして奥歯を噛み締める。そうしなければ再び“行かないで”とみっともなく縋ってしまいそうだった。「…それは、私の方、」息を整える合間に懸命に紡ぐ言葉は途切れる。「…無理はしないで、もし何かあれば何時だって電話して。朝でも夜中でも、私は少しも迷惑だって思わないから、…それから、なるべくでいいからご飯もちゃんと食べて__、」伝えたい事は山の様にあるのだ。何時もよりも早口で、まるで母親の様に言葉を並べ立てる中、それがお節介だと気が付くと何処か困った様に微笑みつつ顔を上げて。一歩後ろに下がり相手から離れると、泣き出してしまいそうながら、それでも見せた笑顔で「…エバンズさんが直属の上司で、私は幸せでした。」と、この2年間のありったけの感謝と共に頭を下げ、相手との最後の別れを締め括り )
( その後飛行機の時間に向けて執務室を出ると署員から要らないと言った小さな花束を渡され、苦手な拍手を浴びる事となった。“しっかりやれ”とミラーにも別れの挨拶を告げてレイクウッド署を後にしたのがもうかなり前の事になる________
レイクウッドを離れてからの日々は、目まぐるしく過ぎて行った。長く働いていた古巣に戻っての仕事。いざ本部に身を置けば環境に馴染むのは早かった。いくつもの報告書が上がって来ては其れに目を通す日々。人口の多いワシントンでは事件も頻発し、殺人事件の捜査に当たり現場に赴く事も多々あった。都会特有の忙しなさとも表現されるのかもしれないが、仕事に没頭していられる本部の空気感は昔から嫌いではなかった。
---しかし、体調が思わしくない事が増えたのは半年ほど経ってからの事。本部に移動してからは大学病院で薬を処方して貰っていたものの、きちんとした診察を定期的に受けているわけではない。夜中の不眠や夢見の悪さに加えて、日中の目眩や息苦しさにも時折襲われるようになっていた。相談をする相手として思い浮かんだのは、レイクウッドにいるアダムス医師だった。スマートフォンに登録されている名前を暫し見つけて悩んだ後に、発信のボタンを押すと電話を掛けた。 )
( エバンズがレイクウッドを去ってから一ヶ月目迄は物凄い時の流れの遅さに襲われた。頭の片隅には常に相手の存在が在り、集中しなければと仕事に没頭しても執務室の扉が開く度有りもしない希望が頭を擡げた。その部屋から出て来るのは、遠くの町から赴任して来た新しい警部補だと言うのに。給湯室で相手の分のコーヒーも、と考えた時には思わず自分の未練がましさに苦笑いしたものだ。
___相手が去ってから二ヶ月後、レイクウッド近郊の比較的治安の良い田舎町で爆弾事件が起こった。犯人は逮捕出来たものの、1人の幼い少女が犠牲になった。被害者となった姉妹はそれぞれ身体に爆弾を巻き付けられ、爆弾処理班数名と、幼い姉妹を安心させる為にそこに残ったミラーは、先ず妹の爆弾を解除出来た事に安堵したのだが、次は姉の方を…と言う所でタイマーが作動したのだ。残り時間は数十秒。耳に付けた無線からは退避命令の怒号が聞こえ、為す術が無かった。妹の方だけでも助けられたのは奇跡だと、そう労われたが、その事件を切っ掛けにミラーの中で何かの糸が切れたのは確かだった。__その後、本部からクレアが休暇で訪れ、他愛の無い話をし、“何時も通り”笑顔で別れたのが最後。その間、エバンズからの連絡も無く、何故かミラーが電話を掛ける事も無かった )
( __ふいにスマートフォンが着信を知らせ、画面を見るとそこには“アルバート・エバンズ”の名前。余りに珍しい人からの電話に一瞬明日はサイクロンでも来るのでは、と医師らしからぬ事を考えたアダムスだったが、直ぐに通話ボタンを押すなり『…エバンズさん、どうしました?』と問い掛けつつ、電話口から聞こえる僅かな呼吸音に異変が無いかを聞き分ける為集中し )
( レイクウッドでの事件については注視していたもののその事件について詳細を知る事は出来ず、本来相手に危害が加わる事がないようにという思いで離れた以上此方から連絡をする事もなかったため状況は知らぬままだった。---電話に出たアダムス医師の第一声に「…突然連絡して申し訳ない。少し相談したい事がある、」と告げて。「______ここ半年程は薬の効きも良かったんだが、此の所余り調子が良くない。夢見が悪くて眠りが浅い所為か、日中にも支障が出て困ってる、…目眩や息苦しさを軽減したいんだが、何か対策は出来ないか?」と尋ねて。普段であれば病院を受診して直接相談する所だが、レイクウッドの病院に行くのは容易では無い。新しく薬を処方して貰うにしても、相手の見立てを大学病院の医師に伝える方が安心だと思ったのだ。今過呼吸に苦しんでいるという様子ではないものの、呼吸には少しばかり苦しさが混ざり、声のトーンは全体的に普段よりも疲労が感じられるもので。 )
アダムス医師
( 珍しい相手からの電話は、これまた珍しい内容だった。どんなに体調が悪くても“自分の事”であるならば電話など掛けて来る事も無い筈なのに。声に滲む疲労感からそんなにも容態が悪いのかと表情は険しくなり、手元にある手帳を開くと告げられた不調を走り書き。『__薬の効果が少し弱まってる可能性も考えられますね。同じ薬を長く服用し続けると、どうしたって身体が慣れてしまいます。…強さはそのままで、少し種類を変えてみるのも有りですが。…本来なら直ぐ様子を見たい所なのですが、今ワシントンに居まして。明日以降時間を空けられそうなら一度病院に来て下さい。直接様子を見て診断をしたい、』2日前から短い出張で此処ワシントンに来て居た。まさか相手も同じ所に居るとは思わない為、そう言葉にして )
( 長く同じ薬を服用すると効果が弱まるという言葉には納得できた。実際レイクウッドを離れてからは同じ薬を処方して貰うばかりで、半年以上其れを服用しているのだから。相手がちょうどワシントンに居るタイミングだった事には驚いたが、そうして続いた言葉に相手にきちんと異動の事を話していなかった事に気付く。「_____報告をしていなかったな。半年前に、レイクウッドからワシントンの本部に移った。今はワシントンに住んでるんだ、病院には顔を出せない。」と説明して。 )
アダムス医師
( 病院嫌いの相手だが、こうして電話を掛けて来たと言う事は“行きたくない”と逃げ回る状態でも無いのだろうとの見解での言葉だったのだが、そもそも気持ちの問題では無く物理的な距離の問題で病院に行く事が出来ない状況だとは思わなかった。“あの事件”を目の当たりにして体調を崩す事となった場所にもう一度戻るだなんて。レイクウッドに居た時は発作の起きる回数も減った様に思えてたし、何より側に居たミラーには相手自身心を開けていた筈だ。僅かに吐き出した息の後『__少し話をしませんか?』と、提案する。驚きに言葉を紡ぐ時間が掛かったのだが、良いか悪いか今相手と自分は同じ所に居る。泊まっているホテルも本部から比較的近い位置にある為、今日これからの時間互いに空ける事が出来れば体調を見る事も可能なのだ。『本部の近くにレストランがあったでしょう。そこで夕食でも、』片手でネクタイを外しつつ、果たして相手はこの提案を受けるか。再度デスクに置かれている時計を一瞥して )
( 心に負った傷の元凶とも言える場所に戻る事を自分の口から彼に伝える事に、一切の気不味さがなかったと言えば嘘になる。それでも自身の不調について相談をするなら矢張り相手だと思い電話を掛ける事を決断したのだ。---電話口から聞こえた相手の提案は思いがけないものだった。同じ場所にいる今だからこそ、直接会って話が出来るというのは分かるのだが。「…医師と患者がディナーか?」と怪訝さを全面に押し出した返答をしたものの、相手と直接話ができる機会というのは今後多くはないだろう。この機会に会って話をしておくのも良いかもしてないと思えば「_____分かった。20時半くらいになりそうだ、其れからでも構わないか?」と尋ねて。 )
アダムス医師
( 見えなくとも相手が怪訝な表情を浮かべたのだろう事は電話口から聞こえる声色でわかった。確かに医師と患者がプライベートでディナーを共にすると言う話は余り聞かぬ上に、自身もこれ迄患者と2人きりで食事をした事は無い。けれど相手はある意味“特別”だ。『あそこは美味しいらしいですよ。』と、答えになっていない答えを僅かな笑みと共に返して。断られる可能性も十分にあった誘いだったが、この先の距離の事を考え今を逃せば、と言う思いになったのだろう、了承の返事が来れば『えぇ、勿論。…では、また後程。』相手の空ける事の出来る時間帯で構わないと頷きつつ一度電話を切り。__時刻は20時半少し前。先にレストランに到着し中に入るも、相手の姿はまだ無い。入口付近が見える窓際の席に座り、メニューを持って来たウェイターに人を待っている旨を伝えた後は、窓の外を通り過ぎる車や人を何となしに見詰めていて )
( 夕食の約束があるというのは自身にとっては珍しい事だった。仕事を終わらせて署を出ると、本部から程近い場所にあるレストランへと向かう。店に入ると窓際の席に見慣れた姿があるのに気付き、待ち合わせだと伝えてテーブルへと歩み寄った。「悪い、遅くなった。」と、約束の時間に少し遅れた事を謝罪しつつ席につくと、診察室意外の場所でこうして向かい合う事は無かったと思い「…外で会うのは違和感があるな、」と告げて。今は落ち着いているのか苦しげな様子は見られない。ウェイターが持って来たメニューを受け取り開くと「食事は任せる。」と、相手の嗜好に合わせる事を伝えて。 )
アダムス医師
( 暗い夜道、車が行き交い街灯の下を暖かそうな上着に身を包む人達が足早に過ぎ去る。比較的田舎であるレイクウッドとは違い此処ワシントンは彼方此方に都会の色が見える。__カラン、と扉を開ける際に鳴るベルの音が店内に響き、其方を見れば待ち人である相手の姿が。目前に座り開口一番紡がれた謝罪に穏やかに微笑んでは『私も今さっき来たばかりですよ。』と、首を振り。向かい合う相手の顔色はそこまで酷いものでは無く、言葉の端々に苦しげな呼吸音も感じられない。“今は”まだ落ち着いているのだと判断し開かれたメニューに視線を落としたまま『本当に。…けれど、外でなら会ってくれる事がわかりました。』先ずは肯定を。けれど続けた言葉は、来いと言ってもなかなか病院に現れない相手に向けた少しの意地悪と珍しい揶揄いが含まれていて。メニューには“有機栽培した野菜”を推す文字がでかでかと主張をする。ペラペラとページを捲り、丁度戻って来たウェイターに『…この野菜たっぷりの煮込みハンバーグを2つ、』と、野菜も摂れ、尚且つ確りと肉の栄養も摂れる食事を頼み。軽い会釈と共にウェイターが去ったのを確認した後相手に視線を向けると『…驚きました。此処に来てもう半年だなんて、』先程電話で少し聞いた報告を話として持ち出して )
( 注文する料理を決めるという作業を相手に任せると、メニューを閉じてグラスに注がれた冷えた水を飲む。“外でなら”という言葉には相手らしからぬ皮肉が込められていて「______そうだな、此処ならいざという時逃げられるだろう。」と、まるで隙あらば相手が自分を病院に幽閉しようとしているかのような言い方で返事をして。洒落たレストランで彩りの良い野菜を頼む人間を自分はもう1人知っていると思いながら、相手がメニューを閉じるのを見ていた。「…あぁ、気付けばもう半年だ。レイクウッドには長く留まり過ぎた、」目の前に仕事をこなしているうちに、あっという間に季節が進んでいたというのが正直な体感。本部に戻るには適切なタイミングだったのだと答えて。「ワシントンに出張だなんて、医者が珍しいな。」相手がレイクウッドを離れている事も珍しいと続けて。 )
アダムス医師
__私がそんな危ない人に見えているのなら、仕事のし過ぎですね。
( 此方の軽い皮肉に返って来たのもまた皮肉。何時だって相手はこうして皮肉を口にし病院も、治療も、入院も嫌がる。けれど調子の悪さを抑える薬は欲しいと__全く以て“厄介な患者”ではあるのだが見放す気はさらさら無いのだ。相手と同じ様にグラスに注いだ水を一口飲み『…何だかんだでずっと居るんだと思って居ましたが、矢張り此処で働くのが良いですか?』傍から見た感じではあの場所で、ミラーの隣で、この先も長く長く続く日々を過ごして行くのだと勝手に思って居ただけに“長く留まり過ぎた”と言う言葉は少しの違和感を覚えた。深く踏み込み過ぎる事はしないものの、今一度問い掛けて。話が此方に移れば少しだけ笑みを浮かべ『医者同士の会合ですよ。正直な所、喜んで出たいものではありませんが…これも仕事と言う事で。』少しだけ声を潜めた返事を。そのタイミングでウェイターが湯気のたつ煮込みハンバーグを2つ持って来た。それぞれの目の前に置かれたそれは素揚げされた野菜が沢山入っていて、ハンバーグも肉厚な俵型。ロールパン2つと小皿に入ったこれまた有機栽培のサラダも一緒に付いて来て )
( どうやら相手も、病院を出ると饒舌に“人間らしく”なるようだ。相手の言う通り、望まぬ異動ではあったもののレイクウッドは比較的気に入った町だった。ワシントンの本部と比べると静かで穏やかな町、署の規模としても人が多過ぎる事も、かと言って人手不足に悩む事もなく働きやすい場所だった。「…ひとつの場所に長く留まっていると、所謂“招かれざる客”も集まって来るだろう。」其れは記者であり、自分に恨みを持つ者であり_____そう言った輩を引き連れている以上、定期的に環境を変えなければコントロールが効かなくなる。ミラーの件を打ち明けた訳では無かったが、今回の異動に少なからず周囲への影響を避けたいという思いがあった事は認めて。運ばれて来たのは野菜がたっぷりと入った料理とサラダ、ロールパン。自分にしてみれば随分と豪勢な夕食で、暫し湯気の立つ皿を眺めていたものの「……医者らしい夕食だな、」と、栄養素や健康を気にする医者のイメージ通りの選択だと偏見を。「会合なら、場所は直ぐそこの大学病院か?其処の医者に薬の処方だけ頼んでる、」本部に程近い場所にある大きな大学病院で定期的に薬を出して貰っている事を告げた。精神的な要因が絡んだ症例については相手のような専門の医師が居ないらしく、少し離れた病院に行かなければならない為診察は受けていないのだと。 )
アダムス医師
( 相手の言う事は最もだった。“そう言う事”に執着する人間達は此方が想像もしない様な驚く程の嗅覚で群がる。__あの日、ミラーの身体から薬物を抜く処置をしながら彼女も“招かれざる客”の被害を受けたのだろうと直感的に思っていた。そうして今回の本部への異動の“詳細”をきっとミラーには伝えていないのだろうとも。軽く頷き言葉を肯定しつつ、小さくちぎったロールパンを咀嚼してから『…無責任に聞こえるかもしれませんが、私は貴方も、ミラーさんも、何方もが“望む”場所で幸せになって欲しいと思います。』微笑みを携えた、それでいて口調はとても優しく真剣なそれ。“望む場所”は言葉通りの国や州の話では無い。“誰の隣”か、ではあるのだが懸命に周りを巻き込まんとしている相手の心には今はまだ上手く届かないだろうと思えば直接的な言葉は避け。__濃厚ながら後味のスッキリとしたデミグラスソースを絡めて食べるハンバーグは絶品だった。野菜も程良い食感が残る柔らかさで美味。『デザートはチョコと生クリームのBIGパフェにする予定なのですが、』あからさまな医者への偏見にはニコニコとした笑みのままに、本気か冗談か、そんな戯言を紡ぎつつ。『えぇ、そうですよ。…本来なら薬を処方するその都度診察は受けてもらいたい所なのですが、専門的な医師が居ない以上どうしたって難しい。…今回の様に、薬の効果が弱まっている可能性がある中で同じ薬を服用し続ける事は、エバンズさんの心にも身体にも負担になります。』専門的な医師不足は深刻な問題でもあると、少しばかり眉を寄せ。それから少し考える間を空ける。『……食事の後、部屋に来てもらう事は可能ですか?そこでなら少しの診察は出来ます。』一つの提案は、場所を変えるもの。相手の返事を待つ時間、グラスの水を一口飲んで )
( “望む場所で幸せになる”______相手の紡いだ言葉は、酷く難しい事に感じた。自分が“何処で”生きて行くか、何が幸せなのか。其れを探るのは容易な事ではない。普段からあまり量を食べる方では無く、少しの不調を引きずっている為全てを食べ切る事は出来なかったものの、十分な栄養は摂る事が出来ただろう。パフェ、という単語が目の前の相手から出るのは違和感があり「…ヨーグルトかフルーツしか食べない訳じゃないんだな、」と告げておき。この後の相手の提案に少し目を瞬かせると「構わないが……良いのか、仕事でもないのに。」と答える。学会で来ているのに診察まで提案してくるとは、相手もまたかなりのお人好しだ。 )
アダムス医師
( 案の定相手は言葉を返して来る事は無かった。自分自身が何処に居たいのか、何をしたいのか、そう言った“気持ち”に酷く疎い__否、望む気持ちに蓋をし続けた結果、“本当”がわからなくなってしまっている。そんな印象をずっと感じていた。加えて相手は“幸せになる”と言う事を当たり前の様に選択肢から除外する。大勢の人達を、妹を、救えなかったそんな自分が幸せになどなって良い筈が無いと。“あの事件”は決して相手のせいでは無い。確かに大勢の犠牲者を出したが罪を償うべきなのはあの時あの場に居た犯人ただ1人。その事をきっと相手の近くに居る人達は何度も何度も言い続けて来ただろう。けれどその場で事件を担当した相手はそんな簡単に気持ちを切り替えれるものでも無いし、割り切れるものでも無い。だからこそ誰でも無く“相手自身”が“自分を許す”事が必要なのだ。それ以上多くを語る事はせずに『実は何方も余り好んでは食べないんですよ。』と、これまた嘘か本当か。結局パフェの話をしておきながらデザートを頼む事はしなかった。少しばかり__否、結構突拍子も無い提案に返って来た答えは控え目なYES。此方の様子を伺う様な雰囲気に『このまま貴方を診ずに帰ったら、その後が気になって仕事も手に付かなくなります。』あくまでも此方が診たいのだと言う事を滲ませつつ、『…しかし、今日診たからまた後一年後で構わない、なんて話にはなりません。少なくとも一ヶ月に一度はきちんと医者に診て貰わないと。…隣町まで足を運ぶ事は難しいですか?』隣の街の病院にならばカウンセラーを兼任する医者が居る為、本来定期的にそこまで行って欲しい。けれど、そもそも同じ街に居たって病院に来なかった相手が態々ある程度の時間を掛けて診察を受けに行くとも思えずに )
( 普段であれば、食事の帰りに診察をして体調を確認したいと言われても必要ないと突っぱねて居ただろう。唐突なその提案を飲む気になったのは、ワシントンに来てからというものきちんと身体の具合を診てくれる医者が近くに居ない為貴重な機会だと思った事と、薬の処方などについて相手の判断を仰ぎたいと思う程度には調子が良くない日が続いていたからだった。しかし定期的に隣町の病院まで足を運ぶべきだという相手の言葉には顔を顰める。「そこまで暇じゃない。毎月隣町まで行くのは面倒だ、」と拒否して。食後に頼んだホットコーヒーを飲みつつ「精神科はこの辺りに幾つもクリニックがあるが、あの空気は好きじゃない。」と不服そうに、あくまで精神科単体のクリニックには掛かりたくないと告げて。 )
アダムス医師
( この食事の後の診察には応じてくれるものの、定期的に病院には行きたくないと言われてしまえば、案の定考えていた通りの返事に思わず苦笑し小さく肩を竦め。『そう言われると思っていました。』こうなった相手はテコでも動かない。“面倒”を高々と掲げ、ならば数ヶ月に一度なら…と言った妥協案すらも頑固な迄に口にはしない筈。__逃げ回る相手を彼女ならば、と脳裏に過ぎったのは紛れも無くバディとして多くの時間を共にし自分自身も信頼の置けるミラーの姿で。相手がコーヒーを頼んだ時に一緒に頼んだのは茶葉の味が濃く染み出たダージリン。ミルクも砂糖も入れる事の無い紅を啜り、考える事数十秒。『…医者に診てもらえとは言いましたが、居心地の悪い所に長く居座るのは良くない事です。とは言え、貴方にあった薬を処方しなければならないのは絶対。…少なくとも一年に一度は此方で学会があります。回数的には全く足りていませんが、その時は例えどれだけ忙しかったとしても私と会って様子を確認させて欲しい。』かなり、とてつもなく妥協した案を伝える。“それから”と、続けた先、まだ要求はあるらしく『もし万が一薬が変わった時は飲む前に電話を下さい。大学病院の医師を信じていない訳ではありませんが、“強い薬”を飲めば良いと言う程貴方の症状は簡単じゃない。』真剣な表情で相手を真っ直ぐに見据え、何時かの日、普段服用しているものとは違う薬を飲んだ相手の身に何が起きたかを覚えているからこその忠告を )
( いつも自分からしてみれば大袈裟なほど受診や静養を促してくる相手の事。何が何でも医師の診察を受けるように、と言われるかと思ったものの相手は妥協案を示してくれたようだった。「…学会の度に俺の診察もセットじゃ、業務が立て込み過ぎだ。」と、相手の言葉に対してYesともNoとも答えずにそうとだけ言って。薬については有難い提案だった。医師によって自分の状態をどう診断して、どういう目的で薬を処方するか分からない。身体に合わない薬や必要以上に身体機能を低下させるような薬を避ける為にも、薬が変わった時には電話をする事を約束して。---そろそろレストランを出ようと相手と共に席を立った時。不意に視界が大きく揺らいだ気がして、一瞬テーブルに手をつく。特段自分の行動に言及する事はなく、小さく息を吐き出すと身体を立て直した。 )
アダムス医師
( かなり譲った妥協案なのだから、そこはYESの返事一択の筈だと困った様に微笑むが、薬の件に関して約束をしてくれたのならば今回ばかりは良しとする。__食事も済ませ互いに頼んだ飲み物も飲み干した。既に時刻は21時半を過ぎていて、店内にちらほらと居た他の客の姿も見えない。比較的遅い時間までやっているこの店だが、既にラストオーダーは終わっていて後20分やそこらで閉店となるだろう。『久々の再会です、此処は私に。』と、一言。そのままレジで会計を済ませる筈だったのだがその一瞬、相手の手が不自然にテーブルにつき、その身体を支える役目を果たしたのを見逃さなかった。ものの数秒で体勢を立て直し、まるで何事も無かったかの様に振る舞うつもりだろうが。『…2人分をカードで、』支払いを済ませるや否や、先ずは相手と共にレストランを出て駐車場に停めておいた車に乗り込む。相手が助手席に座ったのを見て問答無用でその手を取ると、手首に親指を押し付け脈拍をはかり。『__不整脈は出ていませんね。』一定の感覚で脈打つのを確認し、手首を離せば『何時から調子悪かったんですか?』と、問い掛けつつホテルまで車を走らせて )
( 流石は医者と言うべきか、相手はほんの僅かな異変に目敏く気が付いたようだった。スムーズに会計を済ませるや否や有無を言わさず相手の車の助手席へと連れられ、車内で脈拍を測られる。食事中から無理をしていた訳ではないのだが、立ち上がったあの一瞬の目眩が引き金となったようだった。「_____ずっと具合が悪かった訳じゃない、」とだけ答えると背凭れに身体を預けて。車窓を流れる街路灯の灯りを瞳に映しつつ、自分の意に反して少しずつ上擦り始める呼吸を押さえ付けるように浅く呼吸を繰り返して。今発作が起きて終えば、効きが悪くなっている薬を飲んだところで落ち着くまでにどれくらい掛るか分からない。一度目を閉じると自分の呼吸に意識を向けながらホテルまでの道のりをやり過ごして。 )
アダムス医師
( 何だかんだと皮肉を口にしながら食事をしていた相手の呼吸音に異常こそ無かったし、顔色も酷く悪かった訳では無い、そうなると相手の言う通り最初から具合の悪さを抱えて居た訳では無く、恐らく急に立ち上がった時の一瞬の目眩だったのだろう。しかし今は違う。その目眩が引き金となり明らかに先程迄の落ち着いた呼吸音では無くなっているし、それを無理矢理押さえつけ様としているものだから身体に力が入っている事もわかる。懸命に耐える相手に時折様子を伺う様な視線を向けながら数分で到着したホテルの駐車場に車を停め。『部屋は直ぐです。』此処で発作が起きてしまえば、出来る処置も限られる。普段より遅い歩みの相手と共にホテル内を移動し、エレベーターに乗り込めば5階のボタンを押し。静かな機械音を響かせ上へと上がる箱の中で、相手の斜め後ろに立ちその首筋にうっすらと汗が滲んでいるのが確認出来た。箱の扉が開き部屋迄の道のりは長くは無かったが、歩く事さえしんどいだろう。やがて廊下の奥の部屋に辿り着くと鍵で扉を開ける。相手を促す様にソファに座らせ、再度脈を測ってから『__エバンズさん、』と名前を呼び、確りと此方を見る事が出来るか、その焦点があっているかの確認を )
( 必死に酷い発作が起きないようにと呼吸を押さえ付けていたものの、その甲斐もなく徐々に呼吸は肩が上下するような苦しげなものへと変わっていく。いつのまにか車は駐車場に停まっていて、相手に身体を支えられながらせめてホテルの部屋まではと身体が力を失わないように力を入れた。暗かった部屋に明かりが灯り、足元は柔らかな絨毯の感覚に変わる。そうして綺麗なビロードのソファに身体を預けると、少しでも呼吸が楽になるようにと僅かに震えのある指先でネクタイを解き乱雑に首元を緩めて。呼び掛けられた事で目を開けて相手へと視線を向けるものの、瞳は苦しげに揺らいでいるだろう。ゆっくりと繰り返す事を意識していた呼吸はそれに逆らい徐々に浅いものに変わっていて、ソファの肘置きについた手に力が籠る。「……っは、ぁ____っは、……苦しい、…」背中が浅く上下して、額を肘置きに押し付けると未だ呼吸が完全に狂ってしまう事に抗いながら背中を丸めて。 )
アダムス医師
( 此方の呼び掛けに顔を上げた相手の瞳は苦しげに揺らいでは居るものの、焦点が合わない訳でも過去を彷徨って居る訳でも無い。その事を確認して今はまだ声が届くと判断すれば、絨毯に膝を着く体勢で相手の背中に片手を添え。『…ゆっくり呼吸をして、…大丈夫です。“過去”では無く“今”を考えられるものを思い浮かべて下さい。最近食べた物でも、見た景色でも、貴方が一番最初に思い出す事の出来るものを、一個ずつ、思い出して。』まるでメトロノームが一定の間隔で音を鳴らす様に、狂い掛けている呼吸を元の位置に戻す様に、背中を軽く叩きながら静かに語り掛ける。呼吸が苦しくてパニック状態になると人は元に戻ろうと懸命に呼吸をする。けれどそれが上手くいかないと、更に恐怖心は倍増し余計に何も判断をする事が出来なくなる。“呼吸をする”と言う事に意識を向け過ぎると余計に発作が酷くなる時、考えなければいけない事は全く別の事だ。何か違う事を考え、何か違う事に意識を向け、そうしている内に人の身体の何と不思議な事か、自然と呼吸の仕方を思い出す。__その様子を静かに見守りながら、この先の治療方針を考えて )
( “過去ではなく今に目を向ける”______苦しさの中で届いた言葉は、自分にとって難しい提案だった。気を抜けば事件の記憶や妹の姿に引っ張られて深い後悔が渦巻く暗い所に引きずり込まれてしまう。懸命に“今”の記憶を探るのだが、ワシントンでは仕事に没頭するばかりでそれ以外の記憶は殆どない。記憶の中を彷徨っている内に喉に息が引っ掛かり、呼吸は乱れを引き起こす。「_____っ、は…ぁ、」思わず縋るように相手の腕を掴んだものの、ペースの狂った呼吸は息ができなくなってしまうのではないかという恐怖心を誘った。---過去に引き摺り込まれそうなぎりぎりの狭間で、相手の静かな言葉に誘われふと脳裏を過ったのはいつか見たステンドグラスの鮮やかな色。その色はレイクウッドを離れる時に贈られた小さな花束の記憶へと繋がる。花を貰って喜ぶようなタイプでもなければ寧ろ移動するのに邪魔だとさえ思ったのだが、ワシントンに着いてから少し萎れた花を適当な瓶に入れて眺めたのだ。マグカップに入った紅茶の色、手渡された缶コーヒー、車窓を流れる緑。なんとか思い出す事の出来る景色は全てレイクウッドのものだった。一瞬、自然と肺に届いた細い呼吸が、狂いを徐々に元に戻す手助けをする。首筋には酷く汗をかいていて、唇から僅かに掠れた音が漏れるものの、過去に沈み込んでしまわないように相手の腕を掴んだままで居て。 )
アダムス医師
( 相手が“今”を見るのが苦手な事は知って居た。それが難無く出来て居るのならば、過去の罪悪感や罪の意識に縛られる事無くもう少し楽に生きる事が出来ている筈だから。けれど自力で絡み付く恐怖や発作から脱する為には必要な事。まるで縋る様に掴まれた腕に視線を落とし一度背中から手を離すとその相手の手の甲を撫でる。数回撫でてから次は肩を擦る様に掌を移動させ『必ず戻れますよ。』と声を掛け。__長い時間を掛けて木枯らしが吹く様な不安定だった呼吸が幾らか元に戻った頃、静かに立ち上がり簡易冷蔵庫から新品のミネラルウォーターを取り出すとキャップを緩めてから相手に手渡す。『…もう少し落ち着いたら、少し診察をしましょうか。』と穏やかな口調で切り出しつつ、再度相手の肩を軽く擦ってから近くに置いておいた自身の鞄を開け、中から数種類の錠剤が入った袋や常に持ち歩いている聴診器何かを取り出して )
( 呼吸が狂わないように押さえ付ける事ではなく、自分が“今”の記憶として思い出す事が出来ると気付いたレイクウッドの記憶を呼び起こす事に意識を向ける。どれ程の時間を要したか、やがて呼吸の乱れは収まり後には酷い倦怠感と疲労だけが残った。相手の手を掴んでいた指先からようやく力が抜け、手が離れて。ソファの肘置きに頭を預けた状態のまま、ゆっくりと呼吸を繰り返し不足していた酸素を取り込む事に務める。しかし胸の奥か鳩尾か、発作に苦しんだ後には重たい痛みが残る事が増え身体を起こす事が億劫だった。反対にその痛みから不調が引き起こされる事もあった。「……時々、身体に痛みが出る。それがきつい、」と、僅かに掠れて疲労を含んだ声で告げて。此れまで、体調が思わしくない時には倦怠感や目眩、呼吸がし辛いような感覚を感じる事があった。しかし最近はそれに加えて身体の痛みが出る事があったのだ。ストレスが掛かっている事によるものか、日中にその症状が出ると仕事にも支障を来たしてしまう。ワシントンには、自身が過去のトラウマと不調に苦しんでいる事を知る者は少ない。誰かに縋る事も出来ない。大きな署で気を張っている事は、気付かぬ内に少なからず身体に良くない影響を与えるようだった。 )
アダムス医師
( __暫くして重たい語調ながら此処最近の身体の不調を訴えられると、軽く頷きつつ鞄から出した聴診器を耳にあて。『発作の後に起きる痛みなら身体に無理な力が入った為とも考えられますが、そうじゃない時にもある痛みは精神的なもの以外に心臓に何らかの症状が出ている可能性もあります。』そこまで言ってから『失礼しますね。』と一言断りを入れワイシャツの下から直接素肌にチェストピースを当てる。先ずは胸に、そこから下に降り鳩尾付近から肋骨の横まで、鼓膜に届く音に注意を払い。ややして静かに聴診器を抜きそれを消毒した後に鞄に戻すと相手に向き直り。『…軽いものですが心雑音があるようです。ただ、今の段階では診断を下す事は出来ません。先程の発作が尾を引いている可能性もあるからです。』真剣な、けれども変な恐怖は与えぬ様穏やかな声色のまま、規則正しい心音の中に度々混じった雑音を指摘し。『近い内に大学病院で検査をしてもらった方が良いですね。それと、』この場所では心電図などの詳しい検査は出来ない。今の相手には必要な検査だとしつつも、一度言葉を切り相手の手を取り『不整脈を調べるのはエバンズさん自身も出来る事なので、1日に数回、手首のこの位置で脈を測って下さい。15秒間、規則正しい感覚で脈を打っているか。もし感覚がちぐはくな様なら、もう15秒__その後は必ず病院に行くように。』簡単な不整脈の確認方法を教え、一先ずは精神的なものでは無い病気の話をするが、ワシントンに来て気を張り続けて居る事が大きな要因になっている可能性が極めて高いとも思っていた。『…悪夢を見る頻度は、レイクウッドに居た時と比べて変わりましたか?』と、夜の問い掛けを )
( 肌に触れるひやりとした感覚を感じるのは久しぶりの事の様に感じた。ソファの背凭れに身体を預け、特段の抵抗も見せる事なくゆっくりと呼吸を繰り返す。相手が聴診器を外すと軽くワイシャツの裾を整えつつも“大学病院での検査”という言葉には、少しばかり嫌そうな表情を浮かべて。「大学病院は待ち時間が長い。…不味いと思ったら行く、」大勢の患者が集まる大学病院は待ち時間が長く、精密な検査などを行えばあっという間に半日過ぎてしまう事があると難色を示しつつ、受診を先延ばしにするような常套句とも言える言葉で答えて。鳩尾辺りを軽く摩ったものの其処に触れただけでは心臓の音までは分からない。続いた問い掛けには「……睡眠薬を服用する回数は増えた、」と答えて。レイクウッドでは睡眠薬を飲む回数がかなり減っていたのだ。夢見が悪く魘される事は多々あったが、自然と眠れていた______特に相手のいる暖かい布団では。しかしワシントンに戻って数ヶ月後から眠りにくくなり、睡眠薬を使う事が増えた。だからと言って深い眠りで悪夢を見ないという訳でもなく、魘されて目を覚ます事も多々あった。事件が起きた直後に通っていたのは今と同じ通勤路。事件の数日後、妹を失った事実を受け入れられないまま重い身体を引き摺って署へと向かい、記者たちに囲まれたのと同じ道だという事を時折思い出しそうになる。あの事件に関する記憶が、ワシントンには未だ鮮明に残り続けている事を思い知らされた。 )
アダムス医師
( 案の定の顔を見せた相手に小さく溜め息を吐く。“待ち時間が長い”も“不味いと思ったら”も最早相手のお決まりの台詞だ。『何だろうと不整脈が確認された場合は必ず行って下さい。』今回ばかりは大目に見る、で帰す事はしないと今一度同じ言葉を繰り返しつつ、鞄から取り出したのは白く小粒の錠剤が2週間分入った袋。『…鎮痛剤です。安定剤や睡眠薬と服用しても大丈夫な軽いものですが、依存性が0な訳では無い。無闇矢鱈に飲まないように。』それを相手に手渡し、何度も聞いたであろう注意事項を告げてから少しばかり思案する間を空ける。相手の目下に鎮座し続けている隈は濃く纏まった睡眠をとる事が困難な状態にあるのはわかるのだが、どうしてもその何もが“此処”に来た事による悪化だと思わざるを得ないのだ。だからと言って睡眠薬を強い物に変える事は出来ない。『__本来なら睡眠薬を飲まずに眠れるのが一番です。薬をこれ以上強いものに変えるのも、それだけ副作用が大きくなり起きている時間帯に支障をきたす。』副作用の事を考えると、相手にとってのベストな強さ、量は今処方している物だ。『…眠る前に好きな音楽をかけたりアロマも時には効果を発揮します。とは言え、貴方にとっては気休めでしか無く症状がそれでおさまるとは思えないのも事実、』告げられる事はありふれた療法で、けれど本来相手に一番効果的なのはそれじゃないとも思う。言葉を切り、相手を真っ直ぐに見詰め少しだけ表情を緩めると『…貴方が話したいと思った時、今回の様に電話を下さい。それは私だけではなく、きっと貴方の周りに居る人達も皆そう思っている筈です。』暗に“誰かに頼れ”と。それこそ難しい事だろうが、これが大切な事だと思うからこそで )
( 少しの期間であっても鎮痛剤を処方して貰えたのは有難い事だった。痛みが強い時、仕事中に痛みが起きた時などに重宝するだろうと思えば、無闇に飲みすぎないようにという念押しに大人しく頷いて。本部の刑事課のフロアに居る時、其処で通報の電話が鳴るのを聞いた時、或いはセシリアと食事をしたレストランの近くを通った時______日常のふとした瞬間に、過去の記憶が湧き上がるような不安感を感じる事があった。“あの時”に自分が居た場所に居るのだから、記憶が直結して思い出す事が増えるのは当然の事と言えるだろう。体調が優れない時は尚更、署内でフラッシュバックを起こす事だけはしないようにと気を張っている。誰かに頼るように、と暗に告げる相手の言葉に対して「…レイクウッドは、案外恵まれてたのかもな。」と言葉を紡いでから、軽く肩を竦めて見せる。手を差し伸べ、1人で背負わなくて良いのだと寄り添ってくれるミラーの存在。町は穏やかで、自分の事をよく理解している馴染みの医者もすぐ近くにいた。思えば、気を張りすぎる事も言いようのない不安を抱えたままでいる事も、今と比べれば格段に少なかったと言えよう。「_____悪いが、朝まで此処で休ませて貰っても良いか、」と相手に尋ねる。身体には重たさが残っていて、今家まで戻るのは辛い状態。ペットボトルの水で唇を湿らせると再び身体を横たえて。 )
アダムス医師
( 相手が落とした呟き、レイクウッドを離れた事に対する後悔の色こそ見えなかったが懐かしむ様な色は僅かにチラついた気がした。『__離れた理由をあれこれ探るつもりはありませんが、戻りたいと思った時はその気持ちに蓋をしないように。…貴方は心の声より頭で考える事を優先しがちだ。確りと考え決める事はとても大切ですが、心を蔑ろにして良い事にはなりません。』長い年月、片時も傍を離れず見守った…と言う訳では無いが主治医として少なからず心を寄せて来た。その中で見えた相手は理性的で、自身の優先順位がとても低いのだ。次いだ望みには直ぐに頷く事で許可を返し。『勿論ですよ。…まさか医者の目の前でソファで一夜を過ごせると思っていないですよね?ベッドで寝て下さい。』身体を横たえた相手を見、次はそこでは駄目だと首を横に振る。相手が遠慮無くベッドに行ける様にと僅かに片眉を上げ続けたのは、“医者と患者”を強調したそれで )
( 医者として“口煩い”のは変わらないと、渋々ながらも一度横になったソファから身体を起こすとベッドへと向かった。朝には幾分体調も落ち着いていて、痛みが強なったり発作が酷くなったりした時には直ぐに病院に掛かるよう釘を刺す相手に何度か頷いて、また連絡すると約束するとホテルまでタクシーを呼び家へと戻ってから出社する事となり。______その少し後。痛みが強い時にと飲んでいた、アダムス医師から貰った薬もあと数日分を残すのみになった頃、レイクウッドから本部に出張で来る署員が居ると警視正から聞かされた。一緒に働いて居たとはいえ、名前と顔が一致していない者も多いため、誰が来るにせよ久しぶりの再会を待ち遠しく思う、なんて感情とは無縁で普段通りに専用の執務室でパソコンに向かっていて。 )
サラ・アンバー
( __警視正からワシントン本部に出張の命令を出されたのが一週間前の事。一番最初の気持ちは“何故ミラーじゃない”だった。エバンズが此処を去り既に半年以上が経過していて、その間ミラーは一度だって彼と会ってない筈なのだから、長くバディとして組んでいた彼女に声が掛かっても良い筈__と。気持ちの公私混同を認めながらも勿論命令に背ける事も無くワシントンに飛んだのが今日この日。__“本部”と言うだけあり建物は大きく中で働く署員の数もレイクウッドと比べ物にならない程。皆が何処か忙しなく動いていて、田舎から此処に不妊した刑事は慣れる迄に相当な時間が掛かるだろうというのが第一印象だ。警視正に紹介され刑事課のフロアに居る署員に挨拶を済ませた後、執務室に相手が居ると教えられ扉をノックする。中から入室の許可が出れば静かに扉を開け半年ぶりの相手をその目に映し『…お久し振りです、警部補。』と、挨拶をして )
( ノックの音に入室の許可を出し顔を上げると、其処に立っていたのはよく見知った刑事だった。「______レイクウッドからの出張要員はお前だったのか、…アンバー。」出張に来るのがミラーなら何かしら事前に連絡があると思っていたため、今回は顔と名前の一致していない男性署員が来るだろうという想定から外れ、ある意味思いがけない人物の来訪。彼女なら当然覚えがあった。ミラーと仲が良かったと思いつつ、記憶にあった名前を呼び。半年ぶりというのは、懐かしさを覚える程ではないが久しい感覚はあるもの。相手自身に大きく変わった様子は見られないと思いながらも「…レイクウッドは変わりないか。」と尋ねて。 )
サラ・アンバー
( 相手が署員の顔と名前を覚えるのを苦手とする事は知っていた。だからこそ“ミラーの友人の刑事”くらいの認識があれば良い方だと思って居ただけに確りと自身の名がその口から出れば失礼ながらも少しの驚きの色を瞳の奥にチラつかせ。『はい。…当たり前ですが、大きい所ですね。想像していた以上の広さでした。』頷きつつ、後ろ手に扉を閉めて中に入れば少し迷った後に相手の座るデスクの反対側に鎮座する椅子に腰掛けて。半年振りの相手はパッと見変わった様子は無い様に思えた。容姿が変わった訳でも、表情が柔らかくなった訳でも無い。相変わらず眉間に皺を寄せパソコンの画面から顔を上げない所もある意味懐かしい。それでも“レイクウッド”の事を問われればまだ相手の中に僅か残る懐かしさがあるのではと口角を緩め。『新しい警部補が赴任して来て、とても忙しくなったくらいです。後は…ミラーが、恐らく過去一番とも言える大きな事件を担当しました。』相手が去った後、後任として新しい警部補が地方から来た。相手より10以上年上の男性で、それなりの経験があるからこそ警部補になった筈なのだが、これまた少しばかり__否、大分厄介な人物だ。仕事と言う仕事の殆どを署員達に押し付け、何処をふらふらほっつき歩いているのかなかなか姿を見せない。かと思えば明らかに警部補の確認漏れの様な事も署員のせいにしてくる始末。お陰で署員達は朝から晩まで気を休める事も無く働き、兎に角忙しいの一言に尽きるのだ。愚痴の一つでも言いたいのを堪え、聞かれてはいないがミラー個人の担当した仕事の話も最後に付け足して )
( 相手の言う通り、地方の署で働いている刑事たちにとっては本部はかなり、想像以上に大きく感じられるものだろうと頷く。長年働いていた自分でさえ、数年ぶりに戻って改めてその規模を実感したのだから。相手の訴える忙しさは“良い忙しさ”なのか“追い込まれる程の忙しさ”なのか自分では判断が付かないが、上が変わったからと言って其処まで環境が変わる程の業務量ではなかった筈だ。少なくとも人手不足という訳ではなく、事件に余裕を持って刑事を割けるだけの人員は居た訳で。続いた言葉は思いがけないもので、相手に視線を向けた。“過去一番とも言える大きな事件”_____離れている以上、ミラーから連絡を貰う義理も無ければ其れを待ち望んでいる訳でもない。むしろ相手と関わりを持つ事を未だ何処かで恐れ、連絡をしていないのも自分だ。けれど、それ程の大きな出来事があれば、相手なら連絡をしてくると思ったのだ。しかし今は本部のワシントンの警部補とレイクウッドの刑事。そういう関係でもないと思い直せば「……大きな事件を任されるのは、刑事として信頼されている証だ。積み重ねてきたものが評価されているんだろう、」と答えて。 )
サラ・アンバー
( 言葉の頭に少しの間が空いた事、相手の顔が画面から持ち上がった事で事件の話を彼女から直接聞いていない事を察した。__けれど不思議だ。ミラーならば真っ先に相手に報告をしても良い筈なのに。__と、そこまで思って矢張り何かしらの壁が出来たまま2人は離れたのでは無いかと疑った。ミラーはあの事件、刑事として犠牲者を最小限に抑える為の最善の選択をし、他の署員達からも労われた。けれどそれを誇る事は出来なかったに違いない。相手の言葉に頷きつつも『…何だか少し心配で、』と、切り出す。『無理に頑張りすぎて、何時か動けなくなってしまうんじゃないかって。』実際此処最近でミラーから悩み相談をされた事も無いし、疲れ果てた様子を見た訳でも無い。忙しい業務の中、アシュリーも入れた3人でご飯も何度も食べに行き、特別変わった様子は無い様に思えるのだが、何故かわからない、小さな不安の芽が顔を出している気がするのだ。『理由は無いんですけどね。』と、軽く微笑んでから一度視線を下方に落とす。そうやって数十秒、意を決した様に顔を上げ相手を見ると『__警部補、』と呼び掛けた後『…何で、レイクウッドを離れたんですか?』相手がこうして根掘り葉掘り聞かれるのを好まないとわかっていながらも、あの急なタイミングでワシントンに来た理由を知りたいのだと )
( ミラーが無理をしている時、普段と同じように振る舞っているつもりの行動や表情のふとした所から、心の中に押し留めようと躍起になっている感情を垣間見る事があった。今は顔を見ていない為、其れを察するのは不可能だったがいつも近くにいる同僚であり友人の相手が“不安”を口にするのだから、事件が何かしらの影をミラーに落としているのだろうと思えた。かと言って、相手にアドバイスする事も出来なければ、自分が何か連絡を取るべき立場でもない。「……1人で背負い込み過ぎる事があるからな、」とだけ告げるも、呼びかけられれば再び相手へと視線を向ける。続いた問いは何度も周囲から聞かれたもので、少しばかりうんざりしたような、其れでいて少しばかり表情を緩めるようにして溜め息を吐くと「______そればかり聞かれる、」とひと言。「…レイクウッドには長く留まり過ぎた、それだけだ。本部に戻るにはちょうど良いタイミングだったんだ、ひとつの場所に長く留まるのは得意じゃない。」と答えて。 )
サラ・アンバー
( 相手の言う通り“1人で背負い込み過ぎる”事があるのは間違いのない事。けれどそんなミラーが何かあった時、相手には真っ先に相談している姿を度々目撃していた。だからこそ今回相手がミラーからの連絡を受けていないと言う事は、壁云々では無くそもそも“不安”は杞憂だった可能性もある。そればかりは彼女に聞いた訳でも、心の内を正確に読み取る事が出来る訳でも無い為何とも言えないのだが__『そうですね、』本当に駄目になった時、ミラーはきっと相手を頼ると、そう今も信じているからこそ、ただ頷くだけで。此方の問い掛けは案の定様々な人達から受けた質問と同じだったらしい。その表情を見て少しだけ困った様に微笑み返すも、“調度良いタイミングだった”との言葉には疑問を抱かざるを得ない。ミラーが数日の入院と数日の自宅療養をしている正にその時に相手は赴任の準備をしていたのだから。『……ミラーには何も言わず、ですか?』思わずそう問うて、ハッとした様に僅か背を正す。『すみません、警部補の決断に異を唱える訳でも、責めてる訳でも無いんです。ただ__、』再び視線を僅かに下方へ落とし、先程質問した時同様少しの時間を空けて意を決した様に相手を見詰め『…ミラーと距離を置こうとしてるように思えて。』あくまでも憶測。けれど相手の言う“長く留まり過ぎた”の裏に隠した何か__ミラーが関係している何かがある気がしたのだ )
( ______レイクウッドに長く留まり過ぎた、というのは嘘偽りのない本心だ。だからこそ、環境を変えなければならないと思い異動に踏み切った。少しばかり訝しむような問いに相手を見つめたものの、直ぐにハッとした様子で言葉を重ねる様子に小さく息を吐く。もう少し具体的に説明するとしたら、長く留まり過ぎて“周囲に影響が出るのを避けるために”去った、と言うのが正しいだろう。「……半年前にミラーを襲った犯人の動機は、あいつから聞いたか?」暫しの間を置いて、其れだけ相手に尋ねる。相手を襲った犯人は相手自身に恨みや敵意があったわけではなかった、其れこそがレイクウッドを離れ_______ミラーから離れる決断をした理由なのだが、目の前の相手はどこまでをミラーから聞いているだろうか。 )
サラ・アンバー
( 相手には相手の思う事があり、それは他者が__それもただの部下である自分が無闇矢鱈に引っ掻き回し詮索する事では無いのかもしれない。だが、例えそうであっても相手に向けるミラーの確かな想いを知っている。2人にしか結ぶ事の出来なかったであろう信頼や絆を少なからず近くで見て来た。だからだろうか、彼女以上に相手の異動は純粋な疑問として胸に燻り続けたのだ。__上司に対して出過ぎた言葉であった事は百も承知。流れる沈黙の合間に刻む秒針の音が大きく聞こえる中、返って来たのが問い掛けなれば一度瞬き。『…いえ、何も。』と、首を横に振る。嫌な記憶を呼び覚ます薬を打たれた事は聞いていたが、それならば尚更事件そのものをなるべく思い出させない様にするべきだと思い、何も聞く事をしなかった。そうしてミラーもまた何も話さなかったのだ。『あの事件の事は何も聞いていません。ただ犯人は2人組で、まだ捕まっていないと言う事は知っています。』詳細は知らぬまま、今尚逃げ続けている犯人の行方を追う為に敷かれた検問がその範囲を拡大し、レイクウッドからは勿論、近隣の署からも捜査官が出ている、と言う事だけは報告されていた )
( 相手の返答に軽く頷くと背凭れへと一度身体を預ける。真っ直ぐに相手と視線を重ね、暫しの沈黙の後。「______ミラーに薬を打ったのは、アナンデール事件の遺族だった。」そう静かに言葉を紡ぐ。「…つまり、俺への復讐に“利用“されたんだ。本来向けられるべきじゃない悪意に傷付けられた。……お前の言う通り、犯人は捕まってない。近くに居れば、また標的にされて危害を加えられるリスクがある。」だから、離れたのだ。周囲との関わりを断ち、自分以外に害が及ばぬように。「此の事をあいつに話して、どんな答えが返って来るか……親しいなら想像に容易いだろう、」そう言って少しだけ笑って見せる。返って来る言葉は間違いなく”私は大丈夫“なのだ。自分に向けられるべきではない悪意を向けられ傷付けられても、薬物を打たれるような恐ろしい経験をしても、これからもそのリスクが付き纏うと言っても、きっと相手は”大丈夫“だと言う。再び背凭れから身体を起こすと「…此の話は此処限りだ。元気にやっていたとでも言っておいてくれ、」と付け加えて。 )
サラ・アンバー
( 何も知らない、と首を横に振った直後。酷く真剣な色を宿した碧眼と視線が重なった。そうして静かに語られるあの日の事件の詳細。__思わず彷徨った視線は数秒相手を捉える事が出来なかった。動揺を落ち着かせる為に無意識に右手親指の爪先で人差し指の腹を軽く掻き、胸に落とす様に数回小さく頷き、そうやって漸く相手と視線を合わせ直した時、何とも言えない痛みが胸中を支配した。それは相手の言う通り、本来傷付かなくて良い筈の悪意に傷付けられたミラーを思って。今尚“あの事件”から許されない相手を思って。そうして__知ってしまった“優しさ”を思って、だ。何時だったかミラーが言った事があった。“エバンズさんは不器用で、だけどとっても優しい人”だと。その時は納得出来なかった。優しいは兎も角、何時も冷静で書類のミス一つせず何でも器用に熟すエリートだと思って居たからだ。__けれど今目前に居る相手は違う。ミラーを、周りを、巻き込まない為に自分自身から遠ざけるのは“不器用な優しさ”なのではないだろうか。その優しさにきっとミラーは直ぐに気が付き一番近くで見て来た。『__“大丈夫”と、ミラーはきっとそう言いますね。』ほぼ100%と言える答えはきっと相手の考えと同じだろう。レイクウッドに居ても尚見る機会の少ない相手の笑みを見て、それがまた無性に切なくなる。此処だけの話、に素直に頷いては『警部補の言う通りに、』と、ミラーにも他の署員にも何も言わない事を約束して )
( 自分の語った理由に、相手は何を思っただろうか。レイクウッドを去ると決めたきっかけを言葉にしたのは初めてだった。自分の決断を称賛して欲しい訳でも、憐れんで欲しい訳でもない。言うなれば_______ミラーと親しい彼女に、相手を傷付ける目的で、或いは蔑ろにして選んだ道ではない事を、今更ながら言い訳のように知って欲しいと思ってしまったのかもしれない。「…それも、理由のひとつだというだけだ。元々本部に戻る事は考えていた。今の肩書きのまま本部に戻れる、そのタイミングも後押しになった、」と、あくまであの事件はきっかけのひとつでしかなく、事件がなくともこのタイミングで本部に戻る事を決めていた可能性はあると付け加えて。「…人手が足りないような事があれば、警視正に相談してくれ。本部から応援を派遣する事もできる。」先ほど相手が言っていたレイクウッドの状況に対して、此方から応援の刑事を送る対応も出来ると告げると、再びパソコンへと視線を戻して。 )
サラ・アンバー
( 一概にそうだとは言えないが特に男性とっては昇進は大切な事。“警部補”のまま居られる事が出来るのはかなり良い条件で勿論その付け足しにも納得が出来る。加えて相手は元々本部の人なのだから何時か戻る事があっても実際は不思議じゃない。ただ__その余りに不器用な優しさを、今回ばかりはミラーが確りと気付き受け止める事が出来たかどうかは疑問が残る所。一度は頷き、納得を胸には落としつつも『……同僚ではありますが、ミラーの友人として。…彼女の“大丈夫”は以外と当てになります。』と、微笑む。それこそ他者が聞けば確信など何も無いそれ。その言葉で相手が納得し心変わりをした結果レイクウッドに戻って来るとは少しも思わないのだが、ただ、伝えたかった。再びパソコンに視線を落とす相手を見、少しだけ考える間を空ける。『__だったら、』と先の言葉の後『応援には警部補を指名しますね。』そんな権限は無いにも関わらず一つの戯言を。その時の表情はほんの少しだけ、冗談や戯れを言う時のミラーの笑顔に似ていただろうか )
( 自分がレイクウッドの応援に派遣されるというのは何とも可笑しな光景だと思えば「其れは勘弁してくれ、」と答えて。かつての部下に小さな真実の1つを打ち明けた所で何が変わる訳でもない。その後も滞在中は時折顔を合わせ二言三言交わしたものの、やがて彼女はレイクウッドへと帰って行った。________それから更に数ヶ月。本部に戻ってから間もなく1年が経とうかという頃になると、身体の不調はより顕著なものになっていた。締め付けられるような痛みを感じる事も増え、ふとした瞬間に視界が眩む事もあった。---その日は、少し前にワシントンで起きた事件について今後の捜査方針についての会議が開かれ、会議室には捜査関係者となる警視以下の刑事たちが集められた。目を落としていた資料の文字が急に歪んだ事で数度瞬き、鳩尾を締め付けるような胃痛にも近い感覚を感じると静かに息を吐く。途中から話の内容は所々しか意識を向ける事が出来なくなったものの、程なく会議は終了して。刑事たちがパソコンや資料を纏めて席を立ち部屋を出ていく中、立ち上がればバランスを崩し転倒する事件があると思った。せめて不審に思われぬようにと資料に目を落とし考え込む素振りを。その裏、徐々に浅く上擦りそうになる呼吸を必死に押し留める事しか出来ずにいて。 )
ロイド・デイビス
( __相手が座る席の斜め後ろの席、そこに腰掛け会議終了と同時に立ち上がり他の署員同様部屋を出ようとするのだが。__ふ、と視線を向けた先の相手はパソコンや書類を纏める事もせずやや俯き加減のまま動かない。手元には先程説明にあった事件の資料があり、何やら腑に落ちない箇所でもあり確かめているのかと横を通り過ぎる際に視線を向け。__その表情までは見る事が叶わなかったが、何処か微妙な点に置いて違和感を感じた。その違和感が何かを説明する事は出来ないのだが、そのまま相手を残し部屋を出る事を選ばなければ少し怪しむ様に腰を折り『…警部補?』と、声を掛けて )
( せめて他の上司や署員が全員この場所を去った後であれば良かったのだが、今異変に気付かれては不味い事になる。徐々にざわめきが遠くなっていく気配を感じていたのだが、不意にすぐ近くで自分を呼ぶ声が聞こえた。僅かに肩が震えたものの、その声は聞き覚えのある声で。しかし、痛みが強まるのと同時に背中を僅かに丸めると、浅い息が吐き出される。平静を装っておくのはもう不可能だ。首筋には汗が浮かび、徐々に背中は浅く上下する。部下の前で_____と思いはするのだが、この状況では相手に助けを求めるより他はなかった。「……っ、鞄を、持って来て貰えないか、…」辛うじてそう言葉を紡ぐと、執務室に置かれている鞄を此処へ持って来て欲しいと頼む。アダムス医師から受け取った鎮痛剤は既に使い切ってしまったものの、定期的に病院で処方される薬はその中に入っている。署内で酷い発作を起こす事だけは避けたかった。 )
ロイド・デイビス
( 呼び声に返った来たのは何時もの凛としたものとは掛け離れた懸命に絞り出す震え声。表情こそ見えぬものの噛み締められているのだろう歯の間から漏れる苦しげな息遣いと、浅く上下する背中が今置かれて居る状況の重大さを物語っており。『…直ぐに、』頷くや否や、足早に会議室を出て警部補専用執務室へと向かう。__デスクの横に置かれた鞄を持ち部屋を出れば、何故警部補の鞄を?と不思議に思っているのだろう此方を見る数名の署員達の視線を感じ、それに軽く微笑み再び足早に会議室へと戻り。中には部屋を出る前と同じ体勢の相手が居て、一拍程の考えた、とも言えない間の後に扉を施錠すると『…持って来ましたよ。何が必要ですか?』明らかに様子の可笑しい相手の前に鞄を置き、冷静に、中から取り出す物が何なのかの確認をしつつ、此方の声が届いているのだろうかと軽く肩を揺すって )
( 乱雑にネクタイを緩めたものの、このままやり過ごす事が出来る程度の不調ではなかった。辛うじて押さえ付けるようにしてペースを保っていた呼吸には狂いが生じ始め、視界は嫌な揺れ方をしている。相手が戻って来て、鞄が視界の端に入ると開けるように頼む。中には処方薬と書かれた袋に入ったままの錠剤がある筈だ。しかし痛みが強く、其れを言葉にする事ができないまま縋るように相手の手首を掴んでいて。「_____っ、は……ッ、」署内で此処までの体調不良を引き起こすのは滅多にない事だったが、直ぐに落ち着くとも思えない状況に焦りばかりが募り呼吸が上手く出来なくなって行き。 )
ロイド・デイビス
( 鞄を置いたそのタイミングで手首を掴まれると、予想していなかった事に驚いた様に目を丸くし相手を見る。身体に襲い掛かる何かに耐えようとしているのか、それとも行くなと行動で示されているのか__何方かを読み取る事は出来ぬものの男性の無意識下で掴まれる強さはなかなかのもので、血管が押さえ付けられる様な重い痛みに一瞬ぴくりと眉が微動する。けれど振り払う事はしなければ要望通りに鞄を開け__“何”に対する答えは無かったが中を覗けば“今の相手”が望むものなど簡単に察する事が出来た。白い袋には“処方箋”の文字。中からは既に何度も服用しているのだろう数の少なくなった錠剤が出て来て、次は怪しむ様に眉が寄せられる。病気だったのか、と言う疑問を胸にシートから薬を取り出し__『…警部補、ちょっと、』手首を掴む手を軽く引き剥がす様に引き、それが叶うならば会議室に備え付けられているウォーターサーバーから水を持って来ようと )
( 言葉で伝える事が出来ずとも、鞄を開いた相手は直ぐに自分が求めている物が何か察したようだった。一度手が離れ、相手はウォーターサーバーから水を汲んで戻ってきた。しかし呼吸はすっかり乱れ、直ぐに錠剤を飲み込む事は出来そうになく。痛みと息苦しさに徐々に思考は働かなくなっていき、呼吸を正しいペースに戻すきっかけも掴めなくなっていく中、不意に手のひらが背中へと添えられた。落ち着かせようと背中を摩るその手は側に居たデイビスのものだと分かっていた筈なのに、曖昧な意識の中では“彼女”のものだと錯覚してしまった。彼女の声に意識を向け、背中を摩る手のリズムに呼吸を合わせれば楽になれる。“大丈夫”と優しく語りかける言葉と心音は苦痛を和らげてくれる。「……ッ、は…ミラー、っ……」思わず彼女の名前が唇から溢れ、縋るように相手の片方の腕を緩く掴んだものの、その過ちには気付かない。正常な呼吸に戻る糸口を必死に探りながら波が引く事を願い続けて。 )
ロイド・デイビス
( 薬を望む事は出来てもその後それを飲み込む事が出来なければ恐らく相手に襲い掛かる苦しみは消えない。けれど無理矢理飲ませた所で結局は咳き込み全て吐き出してしまう未来しか見えなければ、少しでも落ち着く様にと背を擦る事しか今の段階で出来る事は無く。__ふいに先程よりも弱い力で腕を掴まれ、視線を向ける。痛みや苦しみに耐える力加減では無く今度はそれが“縋り”によるものだとわかったのは、相手の震える唇から絞り出された“名前”を聞いたから。“ミラー”が誰なのかはわからないが間違い無く意識が曖昧になっているのは確かで。もし“ミラー”がこの署内に、或いは近くに居るのならば今直ぐ呼んで来たいが生憎パッと思い付く署員の中にその名前の人は居らず、仮に居たとしても今の状態の相手を1人残し離れる事が最善とも思えない。『…警部補、』今一度呼んだ名前は先程よりも小さく、続けて『…大丈夫ですよ。』と口にしたものの、薬を飲めていない状態でどれだけの時間が経過すれば落ち着くのかもわからず、“大丈夫”を繰り返しながら背を擦り続ける時間だけが流れて )
( 狂った呼吸を必死に繰り返しながら、背中を摩る掌に意識を向ける。いつからだろうか、少なくともミラーが近くに居るようになってから、過去に意識が引き摺り込まれないように_____少しでも早く苦痛から解放される為の糸口を探る為、背中を摩る感覚に呼吸のペースを合わせる事で正常な呼吸を取り戻そうとするようになった。徐々に肺に届く深い呼吸が出来るようになると、曖昧になっていた思考が働き始める。やがてかなりの時間を要しながらも呼吸が落ち着くと、僅かに身じろいで薬を手にして相手が持って来たウォーターサーバーの紙コップで其れを飲み込んで。身体には酷い倦怠感が残り、首筋も汗に濡れているがなんとか意識を飛ばす事なく、落ち着く事が出来た。会議が終わってから1時間以上経過しているだろうか。相手を付き合わせた事にも申し訳なさが募り「______悪かった、」と少し掠れた声で告げる。「……戻らないと怪しまれるな、」とは言ったものの、身体は未だ辛い。一時的に酸欠状態に陥った事によるものか、手も小刻みに震えていた。 )
ロイド・デイビス
( __長い時間を掛けて相手の呼吸が安定したものに戻ると人知れず安堵の息を飲み込む。薬が確りと胃に落ちた事をこの目で確認し謝罪に対して軽く首を振る事で答えては、徐に斜め前の席に腰掛けて。『これだけ広い署内でたかだか2人の姿が数時間見えないくらい、誰も気付きませんよ。』どう見ても紙コップを握る指先は震えていてまだ万全の調子では無い事くらい誰が見てもわかる。戻る必要など無いと肩を竦め、聞く人が聞けば適当にも聞こえる返事を返すも、一応の言い訳は忍ばせておくつもりか、『もし万が一何か言われたら、俺の報告書がわかり難いから注意してた、とでも言えば大丈夫です。』と。続いて殆ど空になったであろう紙コップを一瞥し『…まだ飲みますか?』必要ならば再度持って来る、と受け取る為手を伸ばして )
( 自分の報告書について注意をしていた事にして構わないというのは、此方を気遣った相手の優しさだ。手を差し出されると紙コップを相手に渡し「…頼む、」と答えて。相手がウォーターサーバーで水を汲んでいる間、この状況をどう説明すべきかと途端に冷静になる自分が居た。到底正常ではない過呼吸に苛まれ、常用している薬の存在にも相手は気付いただろう。以前本部に居た時には隠し通す事が出来ていたが、全てを見られた今となってはどうする事も出来ない。口止めをすべきか、或いは少し体調が悪かっただけだと誤魔化すべきか、そんな不毛な事を考えている間に相手は水の入った紙コップを手に戻って来ていて、礼を述べると其れをひと口飲んで。重い倦怠感に身体は横になりたいと訴えるが、背凭れに深く身体を預けるに留める。「_____朝から、あまり調子が良くなかったんだ。」暫しの沈黙の後に紡いだのは、言い訳とも取れる言葉。誰に責められたわけでも無いのだが、自分自身の不甲斐なさから、つい口を突いた言葉だった。 )
ロイド・デイビス
( 水を汲む僅かな時間の間、紛れもなく考えていたのは相手と同じこの状況に関してだ。__相手のあんな状態を見たのは初めてだし、薬だって市販薬では無く明らかに病院で処方されている物だとわかる。頻繁的に起きる症状なのか、本来は救急車を呼ばなければならない程なのか。__頭を駆け巡る思考は相手の手に水が渡った事で急停止した。僅か伺う様に表情を盗み見るも、長く落ちた前髪の奥の瞳は倦怠感を滲ませている。先と同じく相手の斜め前に腰を下ろし__何かを問い掛けた訳でも無いのに唐突に落とされた言葉に一つ瞬く。その言葉を聞き届け軽く2、3頷くと『…寒くなって来てますもんね。』決めたのは相手の症状に追求しない事。けれど『でも少し驚きました。今日は珍しく落ち着いてるし、早めに帰っても問題無さそうですよ。』少しの心配を覗かせるくらいは良い筈だ。そう言葉にして漸く緩く微笑むと、続いて思い出したとばかりに再度閉じ掛けた口を開き『…そうだ。俺、ミラーさんの事呼んで来ましょうか?何処の課に居るか教えて貰えれば、』それは何も知らないからこその純粋な親切心。相手はきっと“ミラー”を探していると思っているからこその申し出で )
( 相手が先程の一件について深く追求して来なかった事に密かに安堵する。本来ならきちんと説明して、迷惑を掛けた事を謝罪すべきなのだろうが、自分の抱えているものを部下という立場の相手に全て打ち明けるのはどうしても気が乗らなかった。しかし、不意に相手の口から出た名前に驚きから思わず身体が固まる。相手は彼女の事を知らないのだから、その名前が出る筈がないのだ。その上、文脈を考えればまるで自分がミラーを探していたかのような______そこまで考えて、意識が朦朧としていた先程の状況を思い出す。誤って相手の名前を呼んだのだろうか。記憶にはないが、この状況に陥った時に側に居たのはいつも彼女だったことには間違いない。「……ミラーは此処には居ない。」と、ひと言答えて首を振る。「…意識が混濁していたのかもしれない。気を遣わせて悪かった、」その名前を自分が呼んだのだとすれば、それは意識の混濁によるもので深い意味はないと告げるに留めて。「______もう大丈夫だ、仕事に戻ってくれ。もう少し休んだら俺も戻る、」未だ気怠さを湛えた瞳を相手に向けると、もう自分の仕事に戻って欲しいと告げて。 )
ロイド・デイビス
__あ、そう…なんですか、?
( 記憶にある中では刑事課に【ミラー】と言う署員は居なかった様に思うがこれだけ広いのだ、別の課には居て相手はその人を呼んだ可能性があると考えたのだが、どうやらそもそもその名前の人は居ないらしい。では誰を__可能性としては極めて低いが、人で無いのなら愛犬か何かの名前でも呼んだのかと取り敢えず頷きはするものの、心底納得した訳では無い事はきょとんとした表情と曖昧な語調で直ぐに伝わっただろう。結果的に此方がそれ以上何か言う前に仕事に戻る様にと言われれば再び頷く他なく。立ち上がり一礼してから扉を開ける前。『…警部補、』と相手の名前を呼ぶと『俺で良ければ何時でも呼んで下さい。鞄くらい何度でも持って来ますから。』僅かにはにかむ様な笑みを浮かべつつ、勿論鞄の事だけでは無くどんな理由でも、との言葉を含ませてから今度こそ会議室を出る為の一礼をして )
( レイクウッドを離れてもう数ヶ月で1年が経とうというのに、未だ無意識にミラーの名前を呼んでいたとは。思っていた以上に彼女に寄り掛かり、支えられていた事を今更ながら改めて実感して小さく息を吐く。本部に戻ったのはあくまで自分の意志だ。しっかりしなければと自分に言い聞かせ、会議室を出ていく相手に視線を向けていたものの。不意に名前を呼ばれ、手助けの申し出を受けると「…あぁ、助かる、」と素直に言葉を紡いで。その親切心は有り難く受け取っておこうと。今回の一件で相手には要らぬ手間を掛けさせた訳だが、何かあった時に少しでも手を差し伸べてくれる存在というのは心強い。相手が会議室を出て行くのを見送ると、その後少し会議室に留まり大丈夫そうだと判断すると刑事課のフロアへと戻って行き。 )
ロイド・デイビス
( __刑事課フロアへと戻り再び仕事を始めてから凡そ30分程が経ち、遅れて会議室を出た相手が警部補執務室に入って行くのを見た。ある程度調子を回復させたのだろうと胸に安堵を落とし残りの仕事を片付ける。__それから特別捜査に呼び出される事も無くデスクワークを続け、気が付くと時刻は夜の6時を回った頃になっていた。普段の忙しさは何処へやら、比較的落ち着いている今日、早上がりの出来そうな署員達は仕事を終わらせ帰宅していてフロアに残るのは後数人。己もまた同じで提出しなければならない書類を提出した後帰ろうと席を立ちジョーンズの元へ向かうと、パソコンの画面を見詰めている彼女の横から『お疲れ様です、頼まれていたものが出来上がりました。』と、声を掛けつつ、手にしていた数枚の書類を手渡して。不備が無いかを確認して貰う間、視線を流したのは警部補執務室。何時の間にか窓から漏れていた光は消えていて知らない間にエバンズは帰ったのだろうか。彼女からOKが出れば再び視線を相手へと向け。後は自席に戻り帰るだけなのだが__『……“ミラーさん”ってご存知ですか?』口をついた唐突にも取れる問い掛けは意識の混濁が見られたエバンズが口にした名前。物凄く気になるかと言われればそうでは無いのだが、スッキリはしないのだ。些か詮索し過ぎかとは思うものの、相手に聞けば何かわかるかと思っての事で )
クレア・ジョーンズ
( 相手から書類を受け取ると目を通しておくと笑顔で返答したのだが、一拍の間を置いて思いがけない名前が不意に相手の口から出た事に驚いて相手に視線を向ける。「えぇ、知ってるけど…」と答えたものの、新人として配属された時からずっと本部にいるデイビスとレイクウッドのミラーとの共通点は何かと暫し考える。年齢は同じくらいか彼の方が少し上だろうか。すぐに浮かんだのは当然“ベル・ミラー”だった訳だが、少し考えてからこの署にも“ミラー”という名前の署員がいた事を思い出して「…あ、もしかして総務のミラーさんの事?私たち刑事課が直接関わる事はあまりないけど…情報セキュリティ関係の事に詳しい人よね。」と、覚えている限りの情報を告げる。「ミラーさんがどうかした?」と尋ねて。 )
ロイド・デイビス
( エバンズは“此処には居ない”と言った“ミラー”を相手は知っていると言う。総務課の人達の顔を思い浮かべるも、当然ながら全員を思い出す事など出来る筈も無く正直な所ピンとは来ない。__何故彼はあの時一度は探していたその人を、急に居ない等と言ったのか、彼自身が言っていた通り記憶の混濁を考え、そこでこれ以上の詮索を辞める。少なくとも“ミラー”は存在して居て想像していた犬では無い可能性の方が格段に高くなったから。口角を持ち上げる様に笑みを浮かべ問い掛けに関して軽く首を振ると『いえ、警部補が探してたみたいだから少し気になって。』上司と部下の他愛無い会話の中の特別じゃない事、と言うニュアンスで答えた後。『でも、総務課に居るなら俺が態々探すまでも無いですね。』緩い笑みのまま軽く肩を竦めて見せて )
クレア・ジョーンズ
( “警部補が探していた”という言葉に思わず目を瞬く。彼が探していたのなら、やはり一番に思い浮かんだ彼女である可能性が格段に高い。しかし、彼女の事を探している、だなんて、あのエバンズが言うだろうか。『アルバートが?…それなら、多分本部には居ない人だわ。以前勤務していたレイクウッドにいた刑事じゃないかしら。よく一緒に捜査をしていたから、少なくとも総務課のミラーさんよりは近いはずよ。』詳細については言及しなかったもののあくまで事実だけを伝えて、以前の署に居た人物の可能性が高いと伝えて。しかし、確かに相手はエバンズにとって以前から知る部下で、珍しく相性も比較的良いように見えるのだが、自分のプライベートな話をするとは考えにくい。『……貴方に、“ミラー”を探してるって言ったの?』首を傾げつつ、尋ねて。 )
ロイド・デイビス
( 相手のその言葉で漸く“此処には居ない”の本当の意味を理解し、同時に納得した。以前勤務していた署に居た署員の名前だったのならどう頑張った所であの時自分が呼んで来れる筈が無い。何故か無性に気になってしまった“謎”が無事解決した事でスッキリと家に帰れると、いっそ清々しい気持ちさえ覚えた所なのだが__どうやら一度は解決したと思っていた“謎”が相手に移ってしまったらしい。不思議そうに首を傾けどうにも腑に落ちていない様子に勿論放って『お先に失礼します。』なんて帰れる筈も無く。しかし返事にはとてつもなく困った。正確に言えば“ミラーの名前を呼んだ”だけで直接探していると言われた訳でも、連れて来てくれと言われた訳でも無い。加えてあの時彼は明らかに倒れても可笑しくない程に調子が悪そうだったものだから、それを相手に伝えても良いのかわからなかったのだ。『……あ、いや__直接探してるとは言われなかったんですけど、』何と答えるべきか、僅かに視線を逸らす様に相手の横の壁を見ながら言い淀む事数秒。上手い誤魔化しを見付ける事は出来ず、『…多分、俺とミラーさんを勘違いしたんだと思います。』“意識が混濁していた”と言った彼の言葉を思い出しそれに乗っかる形の返答をしつつも、普通ならば此処に居ない相手と勘違いする筈も無く、更なる疑問をまた生み出すだけだと気が付くと暫しの沈黙の後『……少し調子が悪そうに見えて、』明らかに“少し”では無かったのだが、これが出来る限りの返答で )
クレア・ジョーンズ
( 彼女が此処に居ない事を、当然エバンズは誰よりも理解している。例え暗闇の中だったとしても、性別も背格好も何もかもが違う相手をミラーと混同する事など“通常では”あり得る筈がない。その違和感は直ぐに、相手の言葉によって解消される事になる。相手は“少し”調子が悪そうだったと言葉を選んだが、側に居る人物をミラーと混同する程体調を崩した所に、相手が居合わせたと言う事だろう。『そうだったのね。…此の所急に寒くなったから、』相手をあまり心配させないようにと、重くなり過ぎないように紡いだ言葉は奇しくも相手と同じもの。同時に朦朧とした中で名前を呼ぶほど、やはり彼にとってミラーは大切な存在なのではないかと、やるせない気持ちになる。エバンズが本部移動を決めた理由は知っている。不器用な彼だからこそ、ミラーを大切に思うからこその決断だと分かっているが、彼自身の心を蔑ろにした決断だ。実際本部に移動してきてから1年ほど。エバンズとミラーが接点を持っている様子は見られないし、顔色が良くないと感じる事も増えて来た。再び目の前の相手へと視線を向けると『アルバートが探していた人の事は心配しないで。貴方から聞いた事も本人には言わないから。…また声を掛けてあげて。あの人、あんな顔だけど貴方の事は好きだと思うわ。』と告げる。今回の件については此方でなんとかするし、相手から聞いたと話したりはしないと約束して。そうして、少し悪戯っぽく笑うと懲りずに彼に”構ってあげて欲しい”と伝えておき。 )
ロイド・デイビス
( 上手い返しが出来た訳でも、確りと誤魔化せた訳でも無かったが相手は根掘り葉掘り聞いて来る事はせずただ納得した様子を見せただけだった。けれど相手が一言紡いだ言葉は己がエバンズに掛けたそれと同じもの。嗚呼、きっと“全て”を理解した上での納得なのだろうと直感的に感じると、『__本当に。初雪も近いかもしれませんね。』同意する様に頷くと同時、その動作と共に持ち上げた瞼の奥の瞳に何処か柔らかな色を宿して。__あの会議室で調子の悪いエバンズを見付けたのが自分では無く相手だったら。もしかしたら彼はもう少し弱音を吐く事が出来て、何かが違ったのかもしれない。ふ、とそんな“たられば”が浮かんだ正にその時。落とされたのは此方の気持ちを汲んだ約束と、悪戯な“お願い”。その言葉と笑みに一度瞬き、直ぐに破顔すると『好意を持たれてる顔では無かったと思いますけど、もしそれが本当なら…警部補は常に“誤解”と戦うはめになりそうです。』皮肉などでは無く、言うなればまるで上司と少しの言葉の遣り取りをする様に。それから悪戯な色宿る瞳を見詰め、所謂安堵の溜め息を小さく吐くと『…ジョーンズさんって良い人ですね。』今感じた気持ちのそのままを言葉に、軽く頭を下げて )
クレア・ジョーンズ
( 彼の周りが少しでも暖かければ良いと思うのは、ずっと側で彼を見て来たからこその勝手な思い入れだろうか。相手が言うように、彼は誤解されやすい。けれど本当は優しい人なのだ。続いた相手の言葉には『______そうよ、今気付いたの?』と悪戯に笑みを浮かべて返事をする。『引き止めてごめんなさい。気を付けて帰ってね。』遅くまで話し込んでしまったと思えばそう言って彼を解放し、書類をデスク上に置かれたトレーに入れて。---エバンズが去ったレイクウッドには未だ一度も行けていない。デイビスから聞いたことを横流しするつもりはないが、少し彼女と話がしたいと思い時計を見上げると、スマートフォンを開いて“ベル・ミラー”の電話番号を押していて。 )
( __犯人の自白を引き出す事が出来、一件の事件捜査を無事に終わらせた今日。身体の疲れは然程感じていないものの、ご飯を作って食べる事が無性に面倒に感じてしまい近くのお店で中華をテイクアウトし食べ終えたのがついさっきの事。特別興味のそそられる番組も無く、適当に流しているだけのニュースの情報を聞きながらソファに深く座り、膝掛けのじんわりとした温もりを感じながら何か温かい飲み物でも、と思った矢先。テーブルに置いてあるスマートフォンが震え着信を知らせた。前のめりでそれを手にすれば、画面には此処暫く顔も見ていない、声も聞いていない【クレア・ジョーンズ】の名前があり。近々誰か応援に来ると言う話も聞いていない為、それ関係の話では無いだろうが何かあったのだろうかと通話ボタンを押し「…お疲れ様です、ミラーです。」携帯を耳に、再度背凭れに背を預ける形で電話に出て )
クレア・ジョーンズ
( 数コールの後に相手の声が聞こえると『もしもし、ベルちゃん?こんな時間に急にごめんなさい。ちょっと声が聴きたくなっちゃって…用事がある訳じゃないんだけど、』と告げて。用もなく電話をするには少し遅い時間だと分かっているだけに、声には少し申し訳なさが滲む。都合が悪ければまた掛け直すと付け足しつつ、『最近レイクウッドに行けてないから、どうしてるかなと思っていたの。』と続ける。エバンズは早々に署を後にしているため、この電話を聞かれる事もない。電気の消えている執務室に視線を向けつつ、相手の近況を尋ねて。 )
( 電話の向こうから聞こえる声は少しの申し訳なさを滲ませていて、“こんな時間”に釣られる様に壁掛け時計を半無意識に一瞥するも、用事の有無に関わらず例えどんな時間であれ相手と話をする事が出来るのならば何の問題も無いのだ。「私も声が聞きたかったです。だから、…嬉しい。」片手で膝掛けを少し引き上げつつ懐かしいその声を噛み締める様にはにかみ。続いた近況への問い掛けには緩めた口角をそのままに「何も変わらずですよ。」と、先ずは相手に余計な心配を掛けない様にと問題無い事を伝える。数ヶ月前に起きた事件の事も、エバンズの事も、何も口にはせぬまま「…強いて言えば、以前クレアさんと一緒に食べたベーグルのお店。あそこに新商品が出たくらいです。」彼女が初めてレイクウッドに応援に来た日に食べたお店の話題を持ち出し、少しだけ悪戯に笑って見せて )
クレア・ジョーンズ
( 相手の声色は落ち着いたもので、元気にやっているようだと安心する。『あ、あのお店?美味しかったわよね、またレイクウッドに行った時連れて行ってね。ワシントンにもテイクアウト専門のベーグルショップが出来てね、今期間限定でりんごとサツマイモのジャムが出ていて…もう2回食べちゃった。』相手と一緒に食べたベーグルショップの話題が出ると、また食べに行きたいと言いつつワシントンにできた店の話をして笑う。『ベルちゃんが本部に来た時には連れて行ってあげるわね。近くの公園のベンチで食べるのがお気に入りなの、』他愛のない話をしてから『仕事はどう?困ってる事はない?』と尋ねて。 )
( “勿論です”と目前に相手は居ないながら大きく頷くのだが、まさかワシントンにも似た様なお店が出来ていたなんて。「絶対美味しいやつじゃないですか、それ。今年はもう間に合わないかもしれないけど来年もし行く事があれば是非お願いします。」出来たての全粒粉の香り立つモッチリとした弾力あるベーグルに仄かな酸味やコクのあるジャムが合わさり絶妙な旨味を産む__想像しただけで美味しい事間違い無しのそれに少しだけ羨ましそうな声色で返事をしては、何時になるか、そもそも果たしてこの先本部に行く事があるのかもわからない中で敢えて“来年”と口にして。テレビは何時しかニュース番組から良くわからないバラエティ番組に替わっていた。伸ばした手でリモコンを掴み違うチャンネル番号を押し再度別のニュース番組に切り替える。「事件そのものの数は特別増えていない筈なんですけど、新しい警部補が来てから倍忙しくなった気がします。…勿論悪い人じゃないんですよ。でも__皆エバンズさんの仕事ぶりを知ってるから、」心底困り果てている愚痴では無いものの、日々業務に追われる事は確か。此処で漸くエバンズの名前を出すと少しだけ困った様に笑いつつ「…エバンズさんは元気ですか?」と、彼の調子を問うて )
クレア・ジョーンズ
( 本部への応援は様々な地方の署から派遣されるため機会としてはあまり多くないだろう。前回の応援も別の女性刑事が来ていたし、ある意味競争率が高い枠のかもしれないが。『また最新のベーグル情報を仕入れたら連絡するわね、』と悪戯に笑って。---“忙しい”という言葉を、やり取りのあったレイクウッドの刑事たちから今年に入りよく聞くようになった。『そうなの…アルバートの働き方はやり過ぎだったとしても、警部補が1人変わっただけでそこまで負担が増えるっていうのも困った話よね。あの人だって他の刑事の仕事を奪ってまで働いていた訳じゃないし…新しい人、サボりぐせがあるのかしらね。』彼ほど仕事に熱心なタイプではなかったとしても、元々1人で賄う役職。其処が入れ替わっただけで、そこまで負担が増えるというのは明らかに可笑しいと、困ったような口調で答えて。『…いつも通り、毎日パソコンと睨めっこしてるわ。』肩を竦めつつ、そう述べるに留める。先ほど聞いたばかりの話では、体調を崩している事がある様子だったが欠勤するような重篤なものではないし、相手を心配させてしまうだろう。『_____アルバートとは連絡は取ってる?』それとなく相手に尋ねて。 )
__ずっと電気も点いてるし執務室に居るって思い込んでたけど、実際は抜け出して散歩でもしてるのかも。…なんて。忙しいのは本当ですけど、音を上げる程では無いんです。だから、あまり心配しないで下さいね。
( 何方の警部補も執務室に閉じ篭り用事のある時にしか出て来ない印象だが、相手と決定的に違うのは“捜査に出ない”と言う所。本当に丸一日籠城を決め込んで居るのだからその間に書類の数枚の確認くらい出来る筈だと他の署員から文句の飛ぶ気持ちもわかるのだ。けれど現段階では何もかもが機能しなくなっている訳では無い。余計な心配を掛けぬ様敢えて冗談を口にしながらも、まだまだやれるのだと言う意思表示は確りと伝え。約1年が経った今も尚、どうやら彼の働き方は変わっていない様だ。眉間に皺を寄せた難しい顔でパソコンを見詰め、此方が話し掛けても顔すら上げない時がある。数え切れないくらい見て来たその表情をたった1年会わないだけで忘れる筈も無く鮮明に思い出せるものだから、胸の奥が小さく痛み、それに気が付かない振りをして微笑むと「良いんだか悪いんだか、ですね。」と肩を竦め。次いだ問い掛けには言葉が詰まった。この1年、たったの一度だって相手に連絡をした事は無かった。その理由は自分でもわからない。声を聞いたらまた会いたい気持ちが溢れ出し泣き言を言ってしまうから、確り1人でもやれているから何も心配いらないと暗に伝えたかったから、変に強がってしまったから__もしかしたら思い浮かぶ理由のそのどれもが正解なのかもしれない。ただ、“1年”と言う年月が思いのほか長くて、何かが変わってしまった様にすら思えたのだ。「……いえ、」と、一言答えてまた口を噤む。途端に重たい空気が自身の周りを漂い、それを払拭する為に立ち上がると、膝掛けをソファの端に畳み携帯は耳に付けたままキッチンへ。愛用のマグカップにスティックコーヒーの粉を入れケトルにお湯を沸かしながら「…エバンズさんの事、気にならない訳じゃないんです。ただ、何を話せば良いのか急にわからなくなっちゃって。」その場に立ったまま、表情は笑顔こそなれど困った様に声量は落ちて )
クレア・ジョーンズ
( 彼の居なくなったレイクウッドで、泣き言を言わず一刑事としてしっかりやらなければと気を張っている、というのはあるのだろう。忙しくはしているもののあまり心配しないで欲しいという言葉には少し困ったように1人微笑んだものの、破綻するほどの状況ではないのだから今は相手の言葉を尊重してそれに従い見守ろうと。---やはり相手とエバンズは連絡を取り合う事はしていないらしい。“何を話せば良いか分からない”というのは、お互いがお互いを思うからこそ、2人ともが抱えているぎこちなさのように思えた。「……きっと、アルバートも同じ事を思っているわ。本当はベルちゃんに話したい事がたくさんある筈だもの。』心細く辛い状況に陥った時、無意識ながら相手の名前を呼んでいたのだと伝えられたら、2人の向き合い方は変わるだろうか。本当は相手を守る為に本部に戻ったのだと伝えられたら______きっと彼はそれを良しとしない為自分の口から伝える事はないが、本当は相手の事がずっと心の内にあるのだという事だけでも伝えたかった。『レイクウッドでの2人を見て、すごく嬉しかったの。アルバートもすごくベルちゃんに心を開いているのが分かって……こっちではベルちゃんみたいな人が居ないから、少し寂しそう、…なんて。そんな事言ったらきっと怒られちゃうわね。…だいたい不器用過ぎるのよ。あの人なりの優しさなんて、忘れちゃうくらい時間が経ってから気付くの。言葉にもしないし、顔にも出さないんだから。』彼なりの正義を貫く時、彼はそれを一切顔にも出さず、ただ静かに水面下で事を進める。相手を大切に想うからこをワシントンへとやってきたエバンズの事を思い、つい途中からは言葉に力が入ってしまい、思わず自分を落ち着かせようと深く息を吐く。すれ違っている2人を見るのは酷くもどかしくて、言葉に力が入ってしまうのだ。 )
__私に話したい事、…もっと客観的に周りを見て冷静に捜査しろ。とかですかね、
( 彼が自分に話したい事なんて。好き好んで世間話に花を咲かせるタイプでも無いし、相手と違って何処のお店の何が美味しいなんて話は余程暇であっても絶対にして来ないだろう。彼がもしこの距離で話したい事があるとすればそれは“仕事の事”だろうと少しおどけた様に答えるも、数秒後には真顔に戻る。持ち上げた筈の口角は思いの外重くまるで自分の表情筋では無い様な感覚だった。お湯が沸いた事でケトルの電源が切れ、マグカップに注ぐ事で出来上がったコーヒーを片手に再びソファに座り直す。その行動も半無意識の中。だからこそコーヒーは真っ黒のままで、苦いまま。マグカップに口を付ける事をせず目前のテーブルに置き電話口の相手の言葉を静かに聞くのだが、途中から明らかに声色も声量も変わり、感情の昂りが感じられたものだからその珍しさに一度瞬き。同時に酷く優しい思い遣りが流れ込んで来た気がした。彼を思い、己を思ってくれるその優しさは何時だって素直なまでに真っ直ぐに届く。「………エバンズさんに誇れる刑事になりたいんです。」沢山の時間を掛けて漸く話始めた声は僅かに震える。「1人でも確りやれてるんだなって思って欲しい。…でも、このまま連絡をしないで、何時かもっと長い年月が経って、…エバンズさんに会いたいっていう気持ちも、大好きって気持ちも…っ、もし、全部無くなったら……、」それは、とてつもなく恐ろしい事。問題無いのだと思っていて欲しい、けれど本当は会いたくて連絡がしたい、でも今更何を話せば良いのか。複雑に絡み付く様々な思いは何時しか身動きが取れない程にきつく結ばれる物になっていた。言葉尻が萎みそれ以上を飲み込む形で息を吐く。そうして深呼吸の後に薄く唇を開くと「…以前の私だったらさっさと飛行機に飛び乗って、今頃もうワシントンでエバンズさんにベーグルの差し入れしてる筈なのに。」空気を変える為の少しの冗談を交えた言葉を。嗚呼、何時からこんなにウダウダとネガティブに考え何もかもに足踏みする様になってしまったのか )
クレア・ジョーンズ
( 相手の中にも様々な思いや葛藤がある事を知る。心配を掛けないように、刑事として1人でもやっていけるということを暗に伝えるために、連絡をしないまま1年が経とうとしているのだ。『…自分の気持ちを押し殺す必要はないと思うわ。ちょっとした近況を報告するだけでも、アルバートも安心出来るんじゃないかしら。地域の署の報告書が上がって来ると、時々レイクウッドの資料に目を通しているのを見るもの。』彼も、レイクウッドに心を寄せていることは間違いないと伝える。お互いに気を遣いすぎてぎこちなく距離が離れて行ってしまうのは寂しい事だ。『_____今すぐに、とは言わないけれど、自分の心に従って動くべきよ。ベルちゃんはそれが得意でしょう?“頭より先に身体が動く”って、前にアルバートも言っていたもの。…ちょっと失礼ね、』心を固く縛り付けて自制する必要はない。相手は心の向くままに行動する事が出来るのだから、その伸びやかな自分らしさを失って欲しくはないと。いつか彼が可笑しそうに相手の話をした事を思い出して、その言葉を伝える。彼は心で感じたままに動ける、生き生きとした相手の事を少し羨ましく思っていたのかもしれないと思いつつ、彼らしい言い回しに少し首を傾げて笑って。『でも、ベルちゃんの話をしている時、楽しそうだった。』と付け加えて。 )
( __そうだ。何も連絡をしない事が相手に心配を掛けない唯一の方法な訳では無い。様々な事件を確りと解決して日々を充実して過ごして居ると話せば彼はそれだけで安心出来る筈。__“確りと解決して”に自分で言って少しの引っ掛かりを覚えたのだがそれには直ぐに蓋をする。「…私が思ってる以上に此処の事を気にしてくれていたんですね。」此処から送られる報告書を見ていた事は勿論知る由が無い為に、初めて知ったその事実を深く胸に落とす事となり。続けて紡がれたアドバイスの中に、相手と彼との話の中に出た聞く人が聞けば失礼だと感じる一言があったのだが、勿論己はそうは思わない。寧ろすんなりと頷く事が出来るもので、同時に矢張り無性に懐かしさを覚えた。自然と口元には笑みが浮かび、何処か呆れた表情の彼の顔がハッキリと思い出されるものだから、「…エバンズさんがそう言うなら、きっと私の得意な事の一つです。」何だか全く素直な返事では無いが、その声色の柔らかさや微妙に照れ隠しの様な感じは伝わるだろうか。そうして現金な事に、それだけで心が満たされる。己も相手と彼の話をしている今、とても楽しいのだから。「…ワシントンに遊びに行った時、3人でご飯が食べたいです。」今度は素直な迄に要望を口にしつつ、僅かはにかんで )
クレア・ジョーンズ
( 電話の向こうから聞こえる相手の声が少し柔らかくなった事に安堵すると静かに微笑みを浮かべる。『勿論。引きずってでもベーグル屋さんに行って、3人で公園ランチにしましょう。ディナーもね。』と、相手の言葉に大きく頷きつつ悪戯に笑って告げる。ワシントンで、3人で食事が出来たらとても楽しいだろう。『…レイクウッドでも、また3人で食事をしたいわよね。』一方で、エバンズがワシントンにいる今相手の気持ちを考えるとそれを望むべきではないのかもしれないが、そんな言葉が落ちる。『ワシントンから私とアルバートで応援に行けば良いのよね。機会を狙ってみるわ、』と付け加えて。 )
( 相手の口から出た予想外の荒っぽい言葉にギョッとしたのは自然な事だろう。これがエバンズやダンフォードの言葉なら__何て言うのは偏見かもしれないが“引き摺ってでも”なんて聞くとは思わなかったのだ。相手の姿とその言葉のアンバランスさを考え次には思わず堪えきれなかった笑みが溢れ。「エバンズさん細身だけど身長は高いからなぁ、私達2人掛りなら連れて行けますかね?」体重こそ体格の良い男性と比べると軽いかもしれないが、その分彼は高身長だ。悪戯な言葉に乗っかる様に戯言の心配を態とらしく口にし、またクスクスと笑って。果たして“レイクウッドで”彼と会う事は出来るのだろうか。__相手から受け取った沢山の温かい言葉で小さな気持ちの芽が発芽していた。それは素直な迄の“近くに居たい”と言う気持ち。そんな気持ちを見透かした様に付け足された言葉は所謂希望で、「2人が揃って来てくれるならとっても頼もしいです、本当に。…ホテルがとれなかったら私の家に泊まって下さいね。」心底安心出来る事だとしみじみと。続けて観光地でも無いレイクウッドでホテルがとれないなど基本的には有り得ないとわかっていながら悪戯に笑う。3人でお喋りをしながら夜を過ごす、朝が来る事すら惜しいと思える、きっと楽しく素敵な時間だろうと簡単に想像出来てしまうのだ )
( 2人がまた近々再会する事を約束して電話を切ったのが、もう数ヶ月前の事。---きっかけは妹の命日だっただろうか。数年ぶりに“あの日”を当時と同じ場所で迎えるのは、思った以上にきついものがあった。普段通る道や署内でのふとした瞬間に些細な記憶が甦り、その全てが当時を鮮明なまでに思い出させた。あの日を過ぎさえすればと耐えていたものの、命日を過ぎて、世間からあの事件に関する記事や報道が消えても、一度崩れた其れは元に戻らなかった。眠る事ができず浅い眠りに落ちても悪夢に魘される。発作が酷くなり、大学病院で処方される薬では殆ど効果を感じられなくなっていた。身体に強い痛みを感じる事も増え、人目のない所で必死に痛みをやり過ごし、市販の鎮痛剤を流し込んだ。沼に徐々に足を取られ、沈み込みそうになるのを必死に耐えているような感覚と言うべきか。目眩や身体の痛みで捜査に集中できない事もあり、自分でもかなり状態が悪い事は理解していた。しかし誰に助けを求める事もなく、警部補として今求められる仕事を黙々と続けて。---その日も、執務室で報告書に目を通している最中、鳩尾に痛みが走りジャケットの下で痛む部分に手を添え、力を入れて抑えることで痛みが落ち着くのを待った。数分で幾許か痛みは落ち着いたものの、首筋に浮かんだ汗をハンカチで軽く抑えて。 )
警視正
( __此処数週間の間で、相手の顔色の悪さが目に見えて酷いものになっていたのは気が付いていた。“妹の命日”を過ぎて立て直す可能性に賭けていたが流石に限界だと言う判断を降す事になったのが今朝の事。比較的落ち着いてるお昼前、相手が警部補執務室に居るのを確認して扉を叩く。返事の後に部屋に入り一番初めに目に留まったのは矢張り青白いその顔で、僅かに眉を微動させた後『…少し話があるんだが、今良いか?』と、切り出して )
( ノックの後に扉が開き、入って来たのは警視正だった。彼とは以前本部に居た時にも関わっており、レイクウッドのウォルター警視正とも顔馴染み。本部でも同じように警視正として働けるよう取り計らってくれた人物だ。相手の表情を見て、あまり良い話では無さそうだと感じる。少し背筋を正しつつ、此の所の捜査の進みの遅さを指摘される可能性を考えながらも「はい、」と頷く事で相手の言葉を促して。 )
警視正
( 此方の語調の真剣さを感じ取ったのか僅か姿勢を正した相手に『楽にして構わない。』と、一言告げると何からどう切り出すべきかと思案する。難しそうに少しばかり表情を顰めたものの、結果的に回りくどい言い方をした所で何にもならないと思えば相手の碧眼を真っ直ぐに見据えた後『__隣接しているFBI訓練生のアカデミーはわかるな?急ではあるが、君には来週の頭からそこの座学専門の教官職に就いてもらう事が決まった。』提案や要望では無く、あくまでも決定事項なのだと言うニュアンスでそう告げる。ほぼ間違い無く拒否してくるだろうとは思うものの、一先ず相手の返事を待つ間を空けて )
( 警視正の口から紡がれた言葉は到底想像出来るはずもない、大きな衝撃を与えるものだった。「______、」思わず絶句した、と言っても良い間が空き視線が重なったまま時が止まった後、冷静になれと自分自身に言い聞かせ相手の言葉を反芻する。“FBIアカデミーの座学専門の教官職”_____大勢の教官が訓練生を育て一人前にして現場に送り出している事は当然知っているし、その仕事に対して敬意も持っている。しかし、自分が教官の立場に立つというのは一体どういう事か。教官は皆FBIアカデミーに属し、本部や地方の署の“刑事課”からも外れた独立した存在だ。つまり彼らは“教官”として後進の育成に注力するのであって、“刑事”ではないのだ。「………刑事を、辞めろと言う事ですか、?」言葉になった第一声は其れだった。教官になれ、と言われれば聞こえは良いが、刑事として在り続けたいと思う者にとって其れはクビを宣告されるようなものではないか。「経験を買って、警部補として本部に迎えてくださったんじゃないんですか、」思わず責めるような言葉が漏れて。 )
警視正
( 案の定驚愕に見開かれた瞳と視線が交わる。その状態で互いに見詰め合ったまま暫しの時が流れ、程なくして絞り出す様に落とされた第一声は普段冷静な相手からは珍しく困惑がありありと滲むもので。けれど此処で情に流され曖昧な返事をする様な事があってはならない。一切視線を逸らす事無く『そうだ。』と、頷きと共に滔々と言い切り。冷静になれ、と抑えつけているのだろう感情の隙間からどうしたって納得のいかない気持ちが流れるのを感じたのは、次いで紡がれた責める様な色宿る言葉を聞いたから。刑事を辞めろとは断言したが、相手の考えているだろう理由とは異なる。それだけは確り説明しなければならないと言葉を聞き届けた後、『…その通りだ。君だから警部補の役職のまま此処に呼んだ。』先ずは相手の言葉を肯定し。『昔同様、捜査の進め方も報告書の出来も皆に見習って欲しいくらいだ。仕事のやり方に問題があっての話じゃない。__限界だろう?その身体で、この先も刑事として居続けるのが難しいと言う事は君自身が一番良くわかっている筈だ。』この異動は刑事としての相手の仕事振りに失望した訳でも、能力が劣っていると思った訳でも無く、ただ心身の状態を客観的に見ての事なのだと )
( 相手は仕事ぶりに問題があっての事ではないと言った。続いた言葉には思わず一度固く目を閉じる。結局、レイクウッドに異動する事になったあの時と同じではないか。抗えない心身の不調が、自分の望む道を歩けないように足を引っ張る。「______未だやれます。欠勤をして迷惑を掛けるような事はなかった筈です。」と、心身の不調を理由に仕事を請け負えなかったり、スケジュールを長期で変更せざるを得なかったりと言った周囲への影響は無かったと訴える。---しかし“自分が耐える”事で仕事が滞りなく進む、という状況が失われつつあるのは感じていた。薬を飲んでさえいれば概ね日中の仕事に支障はなかったのだが、此の所はその限りではない。痛みや目眩に集中力を遮断されることもあり、限界が近い事を頭の片隅で感じていたのは警視正の言う通りなのだ。それでも。それでも、刑事で無ければ意味がない。 )
警視正
( この決定事項が相手の心をどれだけ絶望に落とすかを察する事が出来ない程、愚かでは無い。自分の意思とは関係無しに襲い来る不調を“今は駄目だ”とコントロールする事が出来ていれば相手は今も昔もこんなに苦しんだりはしない筈だ。余りのやるせなさに固く瞳を閉じた相手と同じタイミングで僅か視線を床へと落とし再び持ち上げる。そうして紡がれた案の定の訴えを退ける様に首を横に振ると『…自分がどんな顔をしてるか知っているか?、署員の中にも君の様子が可笑しい事に気付いてる者が出て来てる。…“隠し通す事”も“耐える事”も、もう限界の筈だ。』決定は覆らないとばかりの厳しい言葉を続け。『君が“刑事”に拘る理由を知らない訳じゃない。だが、今無理をしてどうなる?教官として身体を労りながら、回復した後にまた刑事に戻れば良い。無理が祟ってこの先二度と戻れなくなったら、それこそだろ。』相手はまだ若い。今ならまだ“刑事”としての未来が完全に無くなった訳じゃないのだと、後半はまるで言い聞かせる様な語調に変わっていて )
( 体調が優れなくても仕事中は平静を装い、なんとか隠し通せていると思っていた。しかしその裏で、異変に気付いている署員も居たらしい。初めから何もかもが中途半端だったのだ、捜査も、自分の弱みを隠し通す事も、満足に出来ていなかった。言い聞かせるように紡がれる警視正の言葉に、現時点でその決定が覆る事はないのだろうと思い知らされる。警視正は“今なら再び刑事に戻れる可能性はある”と言ったが、果たしてどれほどの時間が掛かるだろうか。拒否出来ない命令なのだと理解すれば、心に重くのし掛かるのは絶望や深い自己嫌悪に近い感情だった。再び鳩尾に鈍い痛みが走ると細くゆっくりと息を吐き出し、相手へと視線を持ち上げる。「______そんなに、酷い顔をしていますか。」周りから見て自分がどんな顔をしていたかなど、知る由もない。ただ、あの事件が起きた日の少し前から体調がかなり悪化しているのは自分でも当然分かっていた。 )
警視正
君が思ってる以上には、な。
( 互いに譲る事無く長い時間押し問答が続く事も想定しての通告だったのだが、何を言った所で決定が覆る事が無い事を感じ取ったのだろう。ただ一言だけそう言葉にした相手にほんの僅か表情を緩めつつ答える。何時見ても青白い顔をし、時には痛みや苦しみに耐えているのか眉間に皺を寄せ動かない姿、目眩に襲われているのだろう立ったばかりなのに不自然に座り直す姿を目撃した時もあったのだ。『必要な物は全て向こうに揃っているから、私物だけ持って行くと良い。』と、面倒な準備諸々が無い事を説明した後、『…何かあれば、何時でも連絡してくれ。出来る限り力になると約束する。』こんな気休めにすらならない言葉で相手の心が穏やかになるとは思わないものの、空白の時間があるとは言え長く見て来た部下だ、思う所は当然あるようで )
( 警視正からのたったひと言で、一瞬にして自分を取り巻く環境は激変する。この刑事課に、もう自分の居場所はないと言うことだ。「______…分かりました、」上からの正式な命令を拒否する事は出来ない。諦めの乗った声色ながらそう答え、また執務室を片付けなければならないのかとデスクに視線を落として。---刑事として働く時間はあっという間に終わりを迎えた。署員が出勤しない日曜日の内に執務室を後任に引き払い、1人刑事課を後にする。ジョーンズには状況を話し度々の異動で迷惑を掛ける事を詫びたものの、彼女は少し眉を下げつつも微笑んで“また直ぐに戻って来て、身体を大切にね。”と応じた。---FBIアカデミーで教官として働くようになると当然捜査に赴く事はなくなり、此れまでの働き方とは一変した。数十人の訓練生を前に、教室の中で時に椅子に座ったまま捜査について話し、提出されるリポートなどに目を通す。本部の刑事たちと顔を合わせる事もなければ、今ワシントンでどんな事件が起きているかと言った情報も全く入ってこなくなった。同時に無理を押して現場を回る事もなくなったもののそれだけで体調が上向く事もない。感情には蓋をして、求められる仕事をこなすべく授業をするばかりの毎日が続いて。 )
( __“不器用な彼の優しさは忘れてしまうくらい時間が経ってから気が付く”。ジョーンズと電話をした日からその事がずっと頭の片隅にあった。そうしてその言葉が示す所に気が付いたのが数ヶ月前。__相手が何の相談も無しに急に本部への異動を決めた時、その理由がわからず、ただ余りに大き過ぎる悲しみと喪失感に泣いて縋っただけだった。だが、今ならちゃんとわかる。不器用で優しい相手が精一杯守ろうとしてくれた結果なのだと。犯人の動機は“相手と近い者を傷付ける事で、アナンデール事件の時同様再び守れなかったと言う追い体験をさせる事”。そしてその犯人は逃走したまま捕まっていない。再び狙われ危険が訪れる事を危惧し、相手は全てから離れる事を選んだのだ。それがわかった時、自分の気持ちの事ばかりで、相手の心に少しも寄り添えていなかったと自分自身への不甲斐無さでいっぱいになった。__常に抱え続ける沢山の気持ちの中、スマートフォンの画面に映される相手の名前を見詰める。時刻は夜の9時前、この時間ならば相手はまだ眠っていないだろうと思うのだが、簡単な事の筈なのにどう言う訳か指が動かない。画面を見詰めるだけの時間がそれから10分程。ふ、と一つ息を吐き、意を決するかの様な気持ちで漸く相手の名前を押すとそれに続きコール音が鳴り。3コールで出なければ電話を切り、間違えたのだとメッセージを残そうと決めて )
( 仕事を終えホテルの部屋に戻ると、ジャケットだけをソファの背もたれへと掛けワイシャツのまま肘掛けに頭を乗せ横になる。倦怠感がいつも付いて回り、部屋に戻ると夕食も食べず横になって休む事が多くなっていた。不意にスマートフォンが着信を知らせ、画面を見ると表示されていたのは此処1年ほど見ることのなかったミラーの名前。暫しその画面を見つめた後、3回目のコール音がなり終わったタイミングで通話ボタンを押す。「_____随分久しぶりにお前の名前を見た、」1年以上も連絡を取っていなかった相手との電話なのだが、第一声は其れだった。 )
( 聞き慣れている筈の呼び出し音が今日はまるで違う音に聞こえた。実際はそんな事無いのに本来抱かなくて良い筈の緊張のせいだろうか。2コール目の呼び出し音が終わり、3コール目の呼び出し音が鳴る直前に切る準備として終了ボタンに指を近付ける。その音の鳴り終わりを聞き届け__反射的に指が離れ、慌てて携帯を耳に付けたのは此処1年以上聞いていなかった相手の声が聞こえたから。久し振り過ぎる電話だと言うのに第一声は何とも相手らしい言葉で、思わず安堵の息が漏れる。「__私は昨日も見たよ。」何度も何度も相手に電話をかけようとして、その度に沢山の理由を掲げ辞めてきたのだ。「でも、エバンズさんの声は随分久し振りに聞いた。」懐かしい声の筈なのに、頭も、心も、相手の声を確りと覚えている。「……」何を話せば良いのか__言葉がぎこちなく止まり、少しの間の後「…今、電話出来る?」その問い掛けは本来電話を掛ける前の確認の筈なのだが、それに気が付いたのはもう告げた後の事で )
( 耳元で聞こえる相手の声は、久しぶりながら不思議と懐かしさは感じなかった。レイクウッドで働いている、まだその延長線上に居るような感覚。相手の問い掛けに対して「…あぁ。もう部屋に戻ってる、」と答え、外出先ではない為問題ないと伝える。「______変わりなくやってるか?」レイクウッドで相手は変わらず事件に奔走しているのだろうかと尋ねて。 )
__良かった。
( 事前連絡も無しに唐突に掛けた電話だったが、その返事で早急に通話終了にならない事を知る。再び人知れず安堵の息を漏らし身体の力を抜く様にソファの背凭れに体重を預けては、続けられた問い掛けに軽く頷きつつ「うん、何も問題無いよ。署員も皆元気だから心配しないでね。」間髪入れずに変わった事は無いと告げた後、「エバンズさんの方は?やっぱり本部は忙しい?」極当たり前に相手の本部での日常を尋ねる。それは勿論、相手は今刑事では無く教官であると言う事を知らないからこその問い掛けで。軽く足を組み、電話越しの懐かしい声に集中して )
( 随分食い気味な返答だと少し笑ったものの「それなら良い、」と頷いて。相手からの問いに少しの間が空いたのは、なんの疑いもなく此方での仕事について尋ねられ、どう答えるべきか一瞬迷ったから。「_____あぁ、事件は格段に多い。その分刑事も人数がいるから忙殺されるほどでは無いけどな、」と、警部補として勤務していた時の状況を告げる。今はもう刑事ではないなんて、あまりに情け無く相手に言える筈もなかった。天井を見つめながら、この1年で自分を取り巻く環境が大きく変わった事を改めて感じさせられる。声は1年前と変わらないのに、今は飛行機が必要な距離に相手はいるのだから。相手からの問いに答えたきり、何かを尋ねる事もなく暫しの沈黙が流れて。 )
( 此方の問い掛けの後僅かに空いた間。その後の答えは凡そ予測出来たもので、矢張り都会の本部ともなれば起きる事件は勿論の事、地方の署から来る報告書諸々の数も多いのだろうと少し困った様に笑い。「それなら良かったけど、無理はしないでね。」掛ける言葉は1年前から何も変わらない相手の身を案じるもの。__その後また少し流れた沈黙。ふ、と一瞬チラつく不可思議な感覚を覚えた。それは記憶や物理的なものでは無い、もっと、言葉に出来ない言うなれば直感。何故だろう、言葉にされた訳でも表情から読み取った訳でも無いが相手は“何か”を心に閉じ込めている気がしたのだ。「……何かありましたか?」無意識な敬語と努めて穏やかな声色で沈黙を破ると、その答えを待って )
( 相手に問い掛けられ、何故か“隠し通すのも限界だ”と言った警視正の言葉を思い出した。些細な所から異変に気付かれ、結局中途半端に隠し通せなくなるのでは二の舞だ。全てに蓋をして表向きを上手く取り繕っていれば、警部補の立場を失う事にはならなかったかもしれない、と。「______いや、何もない。」相手の問い掛けに対して、一度は隠し通す事を選ぶと「…数ヶ月前に、アンバーが来た。レイクウッドは忙しいらしいな。」と、話を変え相手に訊ねて。 )
( 少しの沈黙を置いて返って来た返事はそれ以上を問えないものだった。“何も無い”が嘘か本当かは現段階で判断出来ないのだから「そっか、」と小さな違和感を宿したまま頷き。話がレイクウッドへと移る事で記憶は数ヶ月前の本部応援の頃まで遡る。「アンバーが自ら志願しての応援だったんだよ。当たり前だけど本部は広いって言ってた。」警視正から本部に応援を派遣すると言う話が出た時、己は挙手しなかったが代わりにアンバーが珍しく“行きたい”と申し出たのだ。__そして帰って来たアンバーは本部での仕事の事や初めて訪れたワシントンの事を嬉々として話したが、他は話す事無く相手との“約束”は確りと守っていた。足先が冷たくなりほんのりと部屋が寒くなっている事に気が付くと一度立ち上がり部屋の隅の電気ヒーターを点ける。小さな機械音が鳴り程なくして部屋は温まるだろう。再びソファに戻ると「…そうなの。こう、何て言うか…新しい警部補が来たんだけど私も含めた皆が上手く馴染めなくてね。仕事が効率良く回らないのが忙しい原因なのかもしれないけど、もう1年になる訳だしそろそろ慣れるとは思う。だから、此方は大丈夫だよ。」その通りだと肯定はしつつも、相手に余計な心配をさせぬ様言葉は選んで )
( レイクウッドに居た頃にはやや控えめな印象を受けたアンバーが自ら望んで本部に来たと知り軽く頷きつつ「本部が特別だと言うつもりはないが、経験を重ねるのは刑事としての成長に繋がる。」と彼女の選択を肯定する言葉を選んで。「気遣い上手だとクレアも喜んでた、」ジョーンズが彼女を褒めていた事を伝えつつ、レイクウッドに新しく赴任したという警部補は誰だったかと思い出そうとするのだが、自分の顔見知りの刑事ではなかったはずだと考える。「…効率よく課が回るよう手配するのも仕事だと思うけどな、」ちくりと皮肉を言いつつ、相手が“此方は大丈夫”と告げるたびに、安堵する気持ちと共に何故かレイクウッドが遥か彼方、手の届かない所にあるような気がしてしまうのは自分が後ろ向きになっているからだろうか。また暫しの沈黙が続いた後「_______ミラー、」と相手の名前を呼ぶ。自分の惨めな状況を相手に話すつもりなどなかったのに、どういうわけか喉まで言葉が出かかっているのだ。 )
__私も、応援の機会があれば志願してみようかな。
( “あの時”は公私混同を含む沢山の複雑な気持ちが邪魔をして出来なかったが、今なら本部に応援に行っても確り仕事が出来る気がした。「そう言えば、数ヶ月前にクレアさんとも電話したの。今度ご飯に行く約束も出来たんだ、」相手の口からジョーンズの名前が出た事で表情が緩まる。彼女と話した相手に関する話は勿論伏せたまま、言葉の端々に楽しさを滲ませ。__再び訪れた少しの沈黙の後。僅か落ちた様に感じる声量で名前を呼ばれると「…どうしたの、エバンズさん。」と、先程問い掛けた時と同じ、柔らかく穏やかな声色で意識的に相手の名前を同じ様に呼ぶ事で先の言葉を紡げる様にと )
( ジョーンズの話が出ると、相手の声色が弾むのが電話越しにも分かった。不自然だったであろう呼び掛けにも、相手の返答は穏やかなものだった。「______刑事課を離れた。今は、……もう刑事じゃない、」たっぷりの時間を要して、漸くそう言葉を紡ぐ。“刑事ではない”という現実は、言葉にする事でより現実味を増して重くのし掛かった。本部での警部補という立場を、たった1年しか務め上げる事が出来ずに降りる結果となった事はあまりにも情けがない。またズキリと痛みが走り、浅く息を吐き出す事で其れをやり過ごす。僅かに身体の向きを変えると「…1年で降ろされたんじゃ、世話は無いよな。」自分自身を嘲笑するかのようにそんな言葉を紡いで。 )
( 促しの後の間は長く、それでもその間相手の言葉を急かす事はせず落ち着いたタイミングで話せる様にと待ったのだが。__漸く振り絞る様に紡がれたのは想像を遥かに超える事。刑事じゃない、とは一体どう言う意味だ。何かがあって休職をしている訳でも、調子が悪くて療養している訳でも無く言葉通り“辞めた”と言う事なのか。余りに衝撃的な事実に息を飲むばかりで言葉は出ず、今度は此方が沈黙を落とす事となり。同時に先程の問い掛けへの答えは、相手がまだ“警部補”として本部に居た時の様子を話したのだと察する。浅く吐き出された息の後、自嘲気味続けられた言葉でそれが相手自身の意思では無かったのだろう事に気が付くと、「___理由を聞いても良い?、」一度深く息を吐き出しソファの上で背筋を正し、恐らく上からの命令で相手が何を言った所で覆る事は無く今の状況なのだろうが、何があったのかは知りたいと、拒否の道も作った上での問い掛けを続けて )
( 体調を崩し上層部からの強制的なストップが掛かった。根本の原因を言えばそうなるのだろうが、理由としては求められる仕事を満足にこなせなくなったからに他ならない。「______求められるだけの成果を上げられなかった。上からの命令だ、」言葉少なにそうとだけ答えると、体調の悪化について触れる事はせず「…今はFBIアカデミーに所属してる。毎日座学の担当だ。」と現在の仕事を告げて。本来であれば銃器の扱い方や実践的な捜査を行う授業などもある訳だが、其れらは担当していないためひたすら座学の講義を行う日々なのだ。 )
( 相手の刑事としての優秀さを約2年間近で見て来た。自分自身の不調を薬で抑え込み全ての捜査に私情を挟む事無く全力で挑み、被害者や遺族に誠心誠意向き合うその姿を見て、憧れ、相手の様な刑事になりたくて此処まで来た。その相手が“求められるだけの成果を上げられなかった”だなんて。何かの食い違いがあったか余っ程の理由があったと考えるのが普通だ。__FBIアカデミーの座学担当になれば捜査に出る事は勿論無い。時間を問わず急な呼び出しがある事も、夜中まで仕事をする事もほぼ無いだろう。つまり、相手には十分身体を労る時間が取れると言う事だ。無言のまま相手の紡ぐ言葉を脳内で繰り返し、何があったかの想像をした結果__全身の血の気が引くのを感じた。襲うのはとてつもない恐怖。それは薬も効果を発揮せず、一時の“長期療養”などではもう無理な程に、相手の身体も心も限界だと言う事ではないのか。「…っ、」だとすれば、相手はどれ程の苦しみを長い間1人耐えて来たのか。そうして相手が最も嫌がる“体調のせい”で刑事を降ろされた今、どれ程の絶望と無力感の中に居るのか。何も知らなかった。勿論知った所で己が上の決定を覆せる訳でも無ければ何か出来た訳でも無い、けれど心が痛いのだ。「……エバンズさんの、望む仕事じゃないよね、」視界が歪んだのは心が震えたから。同時に唇も震え、漸く紡ぐ言葉も震える。相手の身体も、心も、心配で堪らなかった )
( 耳に当てたスマートフォンから聞こえた相手の声は小さく震えていた。自分が刑事である事に拘る、その理由を知っているからこそ此方の状況に心を寄せてくれているのだろうか。自分の代わりに、悲しみ、悔しがり、哀れんでくれているのだろうか。「……望む仕事では無いな、」暫し考えた後に、素直に相手の言葉を肯定する。刑事として現場に立ち、事件を解決する事こそが自分の望む道だというのに、今は其れすら叶わない。「______全てが中途半端だったんだ。もっと遣り様があった。…今更後悔しても、刑事に戻れる訳じゃないけどな、」無理をするなら、もっと完璧にこなして見せなければならなかった。誰にも気付かれないように。無気力にソファに横になったまま天井を見つめ、深く溜め息を吐く。「暫くは今の仕事をこなすしかない。頃合いを見計らってもう一度打診してみる、」冷静に先を見据え“前向き”に受け止めているかのような、物分かりの良い言葉を紡ぐのは、そうとでも言っておかなければ、歩みを止め本当に全てが潰えてしまいそうだから。全てが辛いのだと、子供が喚くように黒くドロドロしたものを吐き出してしまいそうだからだ。そこに本心はない。「お前も、無理はするなよ。」と、表向きだけ取り繕われてやけに”綺麗な“言葉を紡いで。 )
__“遣り様”?
( やけに素直な肯定に感じた僅かな違和感、それを追尾する間も無く淡々と続けられる言葉の中にあった一言、それを聞くや否や唇の震えがピタリと止まった。「遣り様って何ですか…?」もう一度唇の震えが戻るとしたらそれは悲しみからでは無いだろう。「エバンズさんの言う遣り様って、つまり“もっと上手く隠す”事…?」自分でもわかる程に声量は落ちスマートフォンを持つ指先に力が籠る。まるで何処か他人事の様にさえ聞こえる、余りに冷静で明らかに心に蓋をした“前だけを見据えた”言葉も、此方を気遣う言葉も、そんなものは現段階で一言だって聞きたく無い。「__それが本心じゃない事くらい顔を見なくたってわかります。…そんな綺麗な言葉じゃなくて、心にある“本当の言葉”を聞かせて。」揺れる心を抑え告げたのは極めて真剣な色宿る言葉で )
______もっと上手く隠し通せていれば、刑事課を離れる事にはならなかった。
( 相手の言葉に被せるようにして、其の憶測を肯定する言葉を紡ぐ。限界だと気付かれさえしなければ、周囲に異変を察知させなければ、刑事では居られたのだ。「刑事でなければ、何の為に立っているのか分からない。捜査に行かなくなっても、1日中座ったま講義をしても、何も変わらない。苦しいままだ、」仕事が変わっても身体が楽になる訳でもなく、気持ちばかりが落ちて行く。蓋をしていたものが溢れていくのか言葉を紡ぐごとに感情が乗ってしまう。「自分でも、満足に捜査が出来なくなってる事くらい分かっていた。成果も上げられず、それでも刑事でいさせて欲しいなんて、言える訳がない、…っ」誰にも言えずにつかえていた、内側に押し留めていた汚い気持ちが、ボロボロと零れ落ちていく。吐き出す息が震え、スマートフォンを持つ手に力が籠って。 )
( 相手が選ぶ道は、選べる道は、何時だって“隠す事”。自らの心に分厚い氷を張りその上から重たい蓋をする。そうやって懸命に立ち続けても尚、相手の前には高い壁が立ちはだかり、傷だらけになりやっとの思いでその壁を超えたとしても次は無情にも足元が崩れる。相手は何も悪く無い。不調に繋がる何もかもは全て“あの事件の犯人”が招いた事だ。苦しむべきはたった1人しか居ないのに。__何も言える筈が無い。何を言っても相手の心を楽になんて出来ない事が今回ばかりはわかるのだ。ただ、悔しくて涙が止まらない。噛み締めた奥歯が軋み、痛むのも気が付けないくらいに悔しい。電話越しの相手の息が震え、余りに大きく渦巻く感情が溢れ出しているのがわかる。「…私は今、っ…腸が煮えくり返るくらい腹立たしいし、泣き喚きたいくらい悔しい…!、でも…ッ、本当に悔しくて泣きたいのはエバンズさんの方だって、……何で、っ、エバンズさんばっかりがこんなに苦しい思いしなきゃいけないんだろうね
……っ、」ボロボロと堰を切った様に流れる涙に邪魔されながら、僅かに俯く。相手ばかり、相手ばかりが何故こんな思いをしなければならないのか。物分りの良い振りも、諦めも、何もかも相手には必要無い。責めたい人を責め、言いたい事を言えば良いと思った。例えどれ程汚い言葉であってもその全てを聞き届けたいとさえ思うのだ )
( 自分一人では泣く事が出来なかった。どれ程苦しくても、絶望に叩き落とされても、ただ耐える事に必死で心に蓋をして、涙を流すだけの余裕が無いと言うべきか。けれど、相手が側に居る時だけは______相手が涙を流す時だけは、自然と泣く事が出来るのだ。悔しいと涙を流す相手の声を聞きながら、涙が溢れるのを感じた。「忘れている筈だったのに、些細な事で当時の記憶が蘇る…っ、動きたいのに、身体が言う事を聞かない…いつまで経っても一歩も進めない自分に、心底嫌気が差す、」事件を起こし、多くの人を絶望に突き落とした本当に責められるべき存在は一生失われ戻る事はない。その状況から、いつしかやり切れない気持ちの矛先は自分へと向くようになってしまった。葛藤を口にしながらも、紡がれるのは自分自身への嫌悪。雁字搦めになったまま、苦しいのだと訴える。長く身体の調子が優れない事は心身を消耗させ、暗い深みへと徐々に身体ごと引きずり込まれていくような感覚だった。 )
( 吐き出す息が震え、喉の奥で言葉が引っ掛かるのを聞いて涙を流せている事がわかった。その事には安堵するがだからと言って相手の苦しみが綺麗さっぱり無くなった訳では無い。震える唇から紡がれる言葉は全て“自己嫌悪”で、動きたくとも動けない葛藤の中身動きが取れず立ち尽くして居るのがわかるものだから、そうでは無いのだと、一生このまま何て事は絶対に無いのだと、今の相手に例え届かなくとも伝えたかった。「…エバンズさんの望む道は必ず敷かれます。ずっとこのままな筈が無い。ずっとエバンズさんだけが苦しい筈が無い。っ…そんな事、絶対にあっちゃ駄目だから、」スマートフォンを持たない片手を強く握り締め昂る感情を抑え付けながら、言葉を繰り返す。「エバンズさんはちゃんと進めてるよ。そうは思えないだろうけど、私が知ってる。__今はね、エバンズさんの嫌いな“休憩中”なだけ。休憩には必ず終わりが来るから、そしたらその時……、」“その時”。後に続けようとした言葉を思わず飲み込んだのは、相手が本部に異動した理由を知っているから。けれど、これが“心に正直”な気持ちなのだとしたら、「…近くに居たい。___戻って来て、エバンズさん…。」心からの想いが言葉に乗り、漸く小さな音として放たれた。そのまま少しの沈黙が落ちて )
( 相手の素直で真っ直ぐな言葉に、返事をする事は出来なかった。自らの意志でレイクウッドを離れたのに、1人で抱え切れなくなったものを相手に支えて貰う為に______苦しさを少しでも薄れさせる為に、レイクウッドに戻るのはあまりに身勝手だ。自分が戻って、またミラーに危害が及んだらどうする。「…レイクウッドに戻れば、……少しは楽になるんだろうな、」本部と違って刑事として仕事を続けられるかもしれないし、事件の頃に見ていた景色を見る事もない、側で寄り添ってくれる相手がいる。けれど。「______今は、未だ戻れない。」静かに紡いだ言葉は非情なものだと思われるだろうか。自分が楽になれても、またミラーが苦しむような事になれば自分で自分を許せなくなる。「…お前と話せて良かった、」暫しの間を置いて、幾らか気持ちが落ち着くとそう告げてソファから起き上がり。 )
( __そう、苦しみの全てが無くなる訳では無いがレイクウッドに戻れば何かが変わるかもしれない。此処でなら本部程の忙しさも無いのだからと警視正は再び相手を刑事に戻すかもしれないし、相手の主治医であるアダムス医師も居る。相手は嫌がるかもしれないが定期的に病院に通い、薬だけじゃなく別の方法も取り入れながらまた働く事が出来る様になる可能性だって大いにあるのだから。相手もそれをわかっている。わかっていながら、それでも首を縦には振らなかった。けれど。「__…エバンズさんが本部に戻った本当の理由、私知ってるよ。」電話を終わらせようとする言葉尻に被せる様にしてそう告げる。今本当に苦しいのは相手なのだから、他の誰の事を考えるのでは無く、相手自身の心を一番に優先して良い筈なのに相手はそれをしない。理由を言う事も無く水面下で守り抜こうとするのだ。「…私は、何時だって遅いね。守られてる事に気付きもしないで、ただ泣くだけで、何も見えてなかった。…“大丈夫”に何の根拠も無いのにね、」ぽつ、ぽつ、と話すのは相手が隠し通そうとした真実。静かな部屋の中で、時計の針の音と、電気ヒーターの僅かな機械音だけが響いて )
( 相手の口から思い掛けない言葉が紡がれると、思わず沈黙が生まれる。異動を決めたきっかけについて相手には話していないのだ。「……本部異動は自分の為だ、」と、此れ迄も説明してきた理由を重ねるも、相手がまるで全てを知っているかのように言葉を続けるものだから、後に続く言葉が無くなる。アンバーもジョーンズも、相手には言わないと言っていた筈だが、何処から其れが相手に伝わったのか。何にせよ”隠し通す“事が下手になっているのは間違いない。「______俺が嫌だったんだ。お前を守ろうとか、崇高な事を考えた訳じゃない。」暗にあの一件がきっかけになった事は認めつつも、あくまで自分の為に動いたのだという主張は崩さずに告げる。「…だから、未だワシントンを離れるつもりはない。」今はこの場所で、例えそれが望まないものであったとしても目の前の仕事だけをこなさなければならないと。 )
( 例え相手が“自分の為”に決めた異動であったとしても、結果的に守られた事は事実だ。相手がそれを頑なに認めなくとも。犯人も捕まっていない今、“私は大丈夫”だと言う以外の言葉が見付からない中で相手の心を変える事はきっと出来ない。「__私は、私の見えない所でエバンズさんが苦しんでるのが嫌だ…、」余りに小さく落ちた言葉は再び震える。「私の見えない所で泣いてるのも嫌だし、私の見えない所で耐えてるのも嫌だ。でも…っ、1人で全部背負って“隠される”のはもっと嫌…。“隠す”なら、私の目の前で隠して…!」嫌だ、嫌だ、と何もを否定するまるで我儘な子供の様に相手がたった1人で頑なに貫く気持ちや負の感情を隠す事を嫌がり。__以前は気持ちを隠される事の全てが嫌だった。けれど相手の中に染み付いたその“癖”はそう簡単に変えられるものでは無い事を知った。ましてや不器用で優しい相手なのだから、人に弱みを見せる事を良しとしない相手なのだから、尚更。それならば、せめて己の前で、と思うのだ。相手が隠し通そうとする“本当の気持ち”を全て掬い上げて吐き出して欲しいと、一緒に寄り添い、一緒に解決策を考えたいと、そう思うのだ )
( 相手の目の前で隠したのでは、其れは隠した事にはならないと少し笑う。「それじゃあ隠せていないのと同じだろう、」と言いつつも、自分が必死になって蓋をしようとしている様々な感情を素直に受け止めてくれる存在というのはとても大切なものに思えた。「_______次に会う事があったら…その時は話を聞いてくれ、」今はこんなにも離れているが、もしまたレイクウッドか、或いはワシントンで会うことがあったら、その時は自分が胸の内に溜めた様々な感情を聞いて欲しいと、そう告げて。 )
( 相手の言う通りそれでは隠した事にはならない。けれど「…それで良いの。」と静かに微笑む。相手からすれば全く以て納得も理解も出来ない言葉だろう。“隠し通せなかったから”刑事じゃなくなったと言うのに。勿論悔しさや悲しさは少しも薄れる事無く胸中に吹き荒れる。でももし、相手が確りと不調を隠して今も尚刑事で居たとしたら__きっとそう遠くない未来に身体も心も壊れ刑事はおろか、二度と立ち上がる事が出来ない所まで堕ちていただろう。隠した心は、見なかった振りをした気持ちは、何時か絶対に何らかの形で別の負を連れて来る。わかっては居るのだ。__“次に会う事があったら”と相手から言葉にされた事で一度瞬く。それは今の電話を切る締め括りの言葉で、相手からすれば“次に”は“何時か機会があったら”と言うニュアンスだったのかもしれない。それでも。今の相手を残し電話を切り、“次”をただ黙って待つなど出来る筈が無い。途端に心にあった“何か”が一瞬にして消失し、何かを考えるより早く手はノートパソコンの電源を点けていた。そして調べるのは一番早いワシントン空港行きの便と明後日の内に戻って来れる帰りの便。「__全部聞く。エバンズさんが話したい事、どんな気持ちも全部聞くから…“待ってて”。」全身の血が沸き立つ様な感覚を覚える中、最後に告げた言葉の本当の意味を、相手はきっとわからないだろうがそれで良いのだ )
( “次に会う事があったら”というのは、謂わば社交辞令のつもりだった。自分は未だワシントンを離れる事はせず刑事課にも戻らない。相手は相手でレイクウッドで忙しくしており、本部に応援に来たとしても顔を合わせるだけの時間があるか定かではないし、前回レイクウッドから刑事が派遣された事を思うと次の機会はそもそも暫く先だろう。また会う事があったら、その時には落ち着いて自分の気持ちを整理し、感情を打ち明ける事が出来るだろうか。先の事と割り切っているからこそ「……あぁ、待ってる。」と、素直な言葉を紡いで電話を切り。---次の日も講義の為に部屋を出る前、テーブルの上に置かれた処方薬の袋と市販の鎮痛剤の箱の中からそれぞれ錠剤を取り出し、水で流し込んだ。処方薬は効果を感じず飲まない事もあったが、気休めの為にも朝は飲むようにしている。モチベーションも何も無いに等しいのだが、此れから捜査員になる訓練生たちに対して私情を挟んだ適当な講義をする訳にもいかない。深く息を吐くとホテルの部屋を出て講義のためにアカデミーへと向かい、夕方までの複数回の座学を淡々とこなして行くだろう。 )
( __相手との電話を切ったその瞬間、瞳にはある意味闘志の様なものが宿った。まるで難解な事件を捜査する時の様な至極真剣な表情でパソコンの画面を見詰め、時間の計算をする。タイミングの良い事に明日明後日と連休で最低でも明後日の内にレイクウッドに戻って来る事が出来れば良いのだ。祈る様な気持ちで画面を上から下まで見、奇跡的に求める時間ピッタリの空きを見付けた時にはその場で飛び上がりたい程の嬉しさを覚えた。勿論小さなガッツポーズで抑えたが。往復の航空券をとってしまえばもう此方のもの。次にやる事は相手の住んでる所を特定する事で、それはジョーンズに電話をして理由を話せば彼女は何処か嬉しそうな声色で快く教えてくれた。レイクウッドの時の様にてっきり何処かを借りて住んでいると思っていたが、1年経った今もホテルに住んでいるらしく、再びパソコンの画面に向き合い同じホテルの部屋の空きを確認すれば、相手の泊まる部屋と同じ階に残り2部屋だけの空きがあり、迷い無くそこを予約する。これでワシントンに飛ぶ準備は全て整ったと言えよう。__翌日、本当に必要な最低限の物だけを鞄にワシントンに降り立ったのは午後5時を過ぎた頃。空港からワシントン市内へタクシーに乗り、本部の近くにあるホテルに到着したのは午後6時30分前。チェックインを済ませ何も待てないとばかりに相手の部屋の前に立つと、この時間、アカデミーの教官ならば既に戻って来ているだろうと考え一度深く息を吐き出した後、扉を2度ノックして )
( その日も講義を終え18時にはホテルに戻る。帰宅時間は刑事として働いていた頃よりもかなり早くなったが、だからと言って夜の時間を有効に使えている訳でも、休んだからといって調子が上向くこともない。ジャケットをソファの背凭れに掛け、ソファに身体を横たえる。身体が重たく、横になりたいと思う事が増えたのは間違いない。数十分後、不意にドアがノックされ目を開ける。清掃は数日間隔で日中に頼んでいるがこの時間に来る事は無いはずだし、ルームサービスも当然頼まない。自分が長く部屋を借りているのは従業員も知っている為、用があれば受付で声を掛けられる筈なのだが。身体を起こすと、そのまま入り口へと向かいドアを開けて________其処に立っていた相手と視線が重なり、思わず息を飲んだ。何故相手が此処に居るのか、少し大人びたようにも見える相手の緑色の瞳が此方を見上げている。昨日声を聞いたのが1年以上ぶりの事。確かに“待っている”とは言ったが、飛行機に乗らなければならないこの場所までレイクウッドからやって来たというのか。「_______どうして、…」紡いだ言葉は驚愕のあまりそれ以上は続かなかった。 )
( ノックをしてから数秒後。中から僅かな物音が聞こえ続いてまるで隔てていた壁の様にさえ感じられるドアが開いた。__己が此処に居る状況を飲み込めていないのだろう、驚愕をありありと宿した碧眼と緑眼が静かに重なり、やがて漸くと言った言葉が相手の唇の隙間を縫った。1年以上見ていなかった相手は最後に別れた時よりも痩せている様に感じられ、目下の隈も顔色の悪さも比べ物にならない程酷い。一目見ただけで不調がわかる程だ。“どうして”への返事など決まっているではないか。「…話を聞きに来ました。」昨晩電話越しに相手が言った事、その約束通りに来たのだと。相手を見上げたまま、視界が歪んだ。一度感情を落ち着かせる為に浅く息を吐き、それから浮かべたのは正しく泣き笑いの柔らかな笑顔で )
( “話を聞きにきた”と相手は言うが、その為だけに飛行機に乗って、遠く離れたワシントンまで来たと言うのか。相手の浮かべる表情に胸が苦しくなるのは何故だろうか。「……入れ、」と、部屋の中へと促すと扉を閉める。温かいものを飲もうと思って沸かしておいた湯をマグカップに入れインスタントのコーヒーを溶かすと相手へと差し出す。まだ状況に頭が追い付いていなかったものの、もうひとつのマグカップを出して同じくコーヒーを入れソファへと腰を下ろすと、コーヒーをひと口口に含んでから相手に視線を向ける。「……本当に、話を聞く為だけに此処まで来たのか?」そう尋ねつつ、背凭れへと背中を預け息を吐き出す。「_____お前の行動力を見くびっていた、」と、今一度まっすぐに相手を瞳に映して。 )
( 会いたいと、所望し続けた相手が今は目の前に居る。涙で潤んだ瞳には相手のその碧眼がやけにキラキラと輝いて見えた。__促されるまま部屋に入り差し出されたマグカップを受け取る。湯気のたつコーヒーを一口飲めば途端に胃は優しい温かさの中に沈み、内側から静かに身体を温めてくれる様だった。相手がソファに座った事で、少しの間を空けて己も隣へと控え目に腰掛けると、此処まで来た理由の確認に間髪入れず頷き。「そうだよ。…“待ってて”って言ったでしょ。」己の発したその言葉と、受け取った相手の認識は間違い無く時間のズレがあっただろうがお構い無しだ。柔らかくはにかんだ笑顔のままに「エバンズさんも知っての通り、頭より先に身体が動いたの。」何時かの日、ジョーンズと電話をした時に言われた言葉を思い出し表情を少しだけ悪戯なものに変えて。__手を伸ばせば届く距離に相手は居る。「……どうしても、会いたかった。」と、心が求めたままの素直な言葉は、ほんの少しだけ震えて )
( 漠然と、相手と再会するのはもっとずっと後の事だと思っていた。それなのに今相手は自分の目の前にいて、1人で淡々と暮らしていた部屋には懐かしい穏やかな空気が流れているのだ。相手の言葉に軽く頷き「考えなしに行動するのは、お前の得意技だったな。」と、皮肉めいた返答を。こうした何気ないやり取りさえ、随分久しぶりで懐かしさと心地良さを感じる気がした。僅かに震える言葉を聴きながら「______そうか、」とだけ静かに答えて手元のマグカップを見つめる。相手が手を伸ばせば届く距離にいるのが不思議な感覚だった。「…夕食は食べたのか?ルームサービスで良ければ頼め、外に出れば店は色々ある。」長旅で疲労もあるだろうと思えば、夕食が未だなら好きに頼んで構わないと告げて。 )
( 返って来た皮肉は此処1年聞かなかったもの。皮肉を聞かされて嬉しい、だなんて他者が聞けば怪訝な表情を浮かべる事間違い無しでどうかしていると思うかもしれないが、とんでも無い程の喜びと懐かしさが胸中を渦巻いているのは紛れもない事実。「久し振りに褒められた。」相手からすればそれは100%褒め言葉では無かっただろうに、都合の良い解釈で満足そうな笑みを浮かべ。相手の言葉でそう言えば夕飯を食べていなかった事を思い出す。ギリギリの飛行機に乗り、部屋に戻る事もせずに真っ先に此処に来たのだから。「…まだ。折角だから__」お言葉に甘えてルームサービスのメニューを見てみようとマグカップを目前のテーブルに置き__そこに処方箋の袋と鎮痛剤の箱を見付けた。1年前から確かに相手が飲み続けている物で、きっと此処数ヶ月は確りと効果を発揮しなかった物。胸が痛み、メニューに伸びた手が止まる。僅かの沈黙を置いて身体の位置を戻すと隣に座る相手を見詰め。「__ご飯は後にする。…今は、こうしていたい、」徐に伸ばした手は相手の目元に。濃く色を付ける隈を一度親指の腹で撫でた後、静かに腕を下ろすのと同時に相手の肩付近に凭れる様にして額を軽くくっ付けて )
( 相手の視線がテーブルに向き、動きが止まった事に気付き追うようにテーブルへと視線を向ける。相手が訪ねて来るなどとは微塵も思っていなかった為、朝部屋を出た時のまま処方薬と鎮痛剤をテーブルに置いたままだった事に遅れて気付いたものの、今更慌てて隠すような事でもないだろう。目元を撫でる感覚に僅かに目を細めたものの、優しいその感触は少し気持ちを落ち着かせた。相手が側に居てくれれば、少しは穏やかに眠る事が出来るかもしれないという淡い期待が顔を覗かせると、肩口に額を寄せる相手に「______今夜、此処に居てくれないか、」と、思わず小さく尋ねていた。相手に迷惑を掛けるとか、弱い姿を見られたくないとか、其れを二の次に考えてしまう程に“穏やかな眠り”を欲していた。ワシントンに来てからというもの、無限に続くのではないかと錯覚する程に長い夜を1人で耐え続けてきたのだ。 )
( 処方箋の袋の中は安定剤だろう。これはレイクウッドに居た時から飲むのを何度も見ていた。けれど市販の鎮痛剤は身体の何処かが痛む為に飲んでいるもの__。肩口に額をあて仄かに香る柔軟剤の匂いを感じるものの、此処はホテルだから当然か。記憶にある香りとは違った。そんな中、まるで溢れ落ちる様にして紡がれたのは相手からは珍しい望みの言葉。静かに額を離し持ち上げた顔には笑みが浮かんでおり。「…勿論。帰れって言われても居座るつもりだった。」相手から言われなくともそのつもりだったのだと、相変わらずの強引さでそう告げてから「飛行機は明日の夕方の便だから、朝までずっと此処に居る。」と、今一度ハッキリとした言葉で返事をし。__「…身体、痛い?」唐突な問い掛けは鎮痛剤の箱を見たから。相手を真っ直ぐに見詰める緑の瞳には心配と真剣な色が揺蕩っていて )
( 相手が夜側に居てくれると思うだけで、幾らか不安が和らぐのを感じた。不意に投げ掛けられた問いには少し返答に迷ったものの「______偶にな、」と答えるに留めて。実際に身体の痛みは慢性的に起きるようになっていて、その痛みをやり過ごすのにかなり時間が掛かる事もあった。痛みが強ければ強いほど、息が浅くなり身体も強張るため鎮痛剤を手放す事はできなくなっていたのだが、アダムス医師と話をして以降その事は誰にも打ち明けては居ない。それ以上詳細を語る事はせず、テーブルの上に置かれたメニューを手に取り相手に渡すと、夕食を頼むように促す。薬を見つけて躊躇はしたのだろうが、相手も空腹だろう。「好きな物を頼め、今日は奢ってやる。」と告げて。 )
( “偶に”と相手は言ったがその前に空いたほんの僅かの間と、その後詳細を語る事をしなかった事で恐らく“頻繁に”である事を察するも、相手がそれ以上を語らないのならば今は深く追求する事はしないと小さく頷くに留め。一度は手に取る筈だったルームサービスのメニュー表が相手の手から渡された。それを受け取り「…エバンズさんに奢って貰うの久し振り。ご馳走になります。」と此処に来てから何度も実感する懐かしさを再び胸に素直に奢ってもらう事を決めるとソファの背凭れに凭れつつページを捲り。朝食と昼食の箇所は飛ばし“夕食”と書かれた中には肉系は勿論、サラダやスープなど比較的軽く食べれる物やスナック類もある。お腹は確かに減っているもののガッツリ食べたい気分でも無ければ、ロールパン2つが付属としてついてるマッシュルームのポタージュと、お決まりと言えよう彩りの良いサラダを選びフロントに注文をする。その際“スプーンとフォークを2人分”との言葉は忘れない。ややしてドアがノックされ頼まれた物が運び込まれて来ると、スプーンとフォークを相手に差し出す様に目前へ。「…一緒に食べよ。」そう言って微笑む。全てを2人分頼まなかったのは、恐らく相手は食欲が余り無いのだろうと察したからで )
( 此の所は夕食も取らずソファで横になったまま眠ってしまう事も度々あった為、きちんとした食事を部屋で取るのは少し久しぶりの事のように思えた。差し出されたスプーンとフォークを受け取ると、湯気の立つスープを器に掬う。スプーンで口に運んだ其れは暖かく胃に落ち、優しい味わいが口に広がりほっと息をつく。調子が悪く食欲がない日が続いていたものの、スープであれば無理なく食べられそうだと思えば「______身体が温まる、」と告げて相手の方へと器を押しやって。スープをゆっくりと口に運びつつドレッシングの掛かった鮮やかなサラダに視線を向けると、相手は自分と食事をする時いつもこうしたサラダを頼んでいる気がして「…相変わらず、カラフルな野菜が好きなんだな。」と、何処となく呆れたような不思議そうな声色で言葉を落として。 )
( 要らない、と拒否されなかった事に安堵した。例え僅かでも食べ物を摂取出来ればそれだけで栄養は身体を回り、気休めであったとしても微力な原動力となる筈だから。押しやられた器からスープを掬い一口飲めばマッシュルームの良い香りが鼻腔を擽り、濃厚な、それでいて優しい味が身体を包み込む様に胃に落ちた。「__本当、温まるね。」と、相手の言葉を肯定してからもう一口。こうして相手と食事を共にするのは1年振りの事で、懐かしい反面不思議な切なさもあるのだ。「…エバンズさんが次レイクウッドに来た時は、ポトフを作る。味、まだ覚えてる?」器を見ながら告げた一言、それは暗に再びレイクウッドで相手との再会を心待ちにしているというもので。ロールパンの1つを相手のお皿に勝手に置くと、続いて細く切られた赤いパプリカにフォークを突き刺し。持ち上げた顔に浮かべるのは少しの悪戯な笑み。「今回はワザと。」相手の反応を見て“してやったり”は些か子供じみていただろうか。それからやけに幸せに感じる時間の中で食事を続けて )
( 相手が作ったポトフの味を忘れる筈は無かった。甘いホットミルクの味も。その2つは、自分が絶望に落ち込んでいる時やどうしようもなく苦しさを感じた時に心身を温め、光の方へと持ち上げてくれたものなのだ。「_____あぁ、楽しみにしてる、」と相手と視線は重ねないながら素直な言葉を紡ぐと、スープを口に運んで。“わざと”と言うことは、自分に指摘される事を分かっていてサラダを選んだと言うことか。相手の思考はよく分からないと呆れたように首を傾げつつも、穏やかな夕食の時を楽しんで。---ズキリ、とまた鳩尾が痛んだのは食後の紅茶を入れようとポットの方へと向かった時だった。ワイシャツの上から鳩尾を軽く抑え浅く息を吐き出す。相手に心配を掛けないようにとは思うのだが、この強い痛みは何事もなかったかのようにやり過ごすのがいつも難しい。軽く唇を噛むとポットの置かれた棚に片手を着いて、ゆっくりと息を吐き。 )
( __量こそは決して多くは無かったが、恐らく普段余り食事をしていないだろう相手が少しでも何かを胃に入れる事が出来たのは喜ばしい事。空いた皿をテーブルの端に寄せ食後の紅茶スペースを確保した丁度その時、棚に手を着く音と不自然に止まった動きを敏感に感じ取り頭を其方に向け。果たしてそこにはやや背を折る形で鳩尾に手を当てたまま動かない相手の姿が。発作が起きてる時や、目眩に襲われてる時とは違う雰囲気に脳裏を過ぎったのは鎮痛剤の箱で。「…エバンズさん、」後ろから静かに声を掛け相手の隣へ。「紅茶は後にしよう。…大丈夫だから。」ゆっくりとした呼吸を意識的に繰り返す様子と押さえている箇所を見て痛む場所がわかると、相手の背中を一度だけ軽く撫でた後、その手を添えソファに座る様にと促して。背凭れに背中を預け、身体を倒す様な形で座った相手の隣に腰掛け「…失礼します、」と前置きの謝罪を一言。ワイシャツの下のボタン2つを外し中に手を滑り込ませる形で直接素肌の上から鳩尾に掌を当てると、「__“手当て”。」と、文字通りの言葉でその行動の意味を説明した後。何も心配無い、直ぐに楽になる、と言いたげに微笑みながら「…人の温もりはきっと痛みを和らげる。」その手を動かす訳でも無く、ただ己の持つ熱を痛む部分に浸透させるかの如く宛てがい続けて )
( 痛みに耐えようとすると必然的に呼吸は浅くなる。痛みを逃すように意識的にゆっくりと細く息を吐き出すのだが、不意に相手に呼び掛けられると、促されるままにソファへと腰を下ろして。ボタンの隙間から手が差し込まれ素肌に触れると僅かに身体が震えたものの、その温かさにやがて強張った身体からほんの少し力が抜ける。しかし鳩尾から背中に掛けて広がるような痛みに息を詰まらせると「______痛い、…」と言葉が漏れる。此の痛みが引き金となって発作が起こる事もある為なんとか落ち着かせたいのだが、直ぐには治らない。「水を一杯くれ、」と相手に告げると、テーブルの上に置かれた処方薬と鎮痛剤の箱を開けて中の錠剤を取り出して。 )
( 普段気丈に振る舞う相手が痛みや苦しみを言葉にするのは余っ程の時。身体が強張り鳩尾から広がる痛みに耐える事は出来ないのだろう、薬を飲む為の水を所望されれば頷きつつワイシャツの中から手を引き立ち上がり。薬を飲んだとて今直ぐにその効果が発揮され楽になる訳では無い、その間の相手の苦しみを思うとどうしたって胸は痛むのだ。伏せられているグラスに水を半分程入れて相手の元に戻るとそれを差し出し再び隣に腰掛けて。「……」錠剤を飲み込んだのを確認してから「…病院行った?」と、問い掛けるのだが凡その答えはわかる。__こんな時、相手の主治医であるアダムス医師が近くに居てくれたら。相手の事を確りと知る彼ならば適切な処置が出来て、きっともっと相手は楽で居られる時間が増える筈なのに。相手を取り巻く環境が優しいものであればと、相手が偽る事の無い気持ちのままで居られる場所であるならばと、願わずにはいられないのに )
( 処方薬と鎮痛剤、それぞれを水で流し込むとソファに身体を預けるようにして楽な姿勢を探す。「_____薬が無くなると困るから病院には行ってる、…いつも飲んでいる薬と同じものを処方されるだけだけどな、」診て貰っているとは言っても、ワシントンの医者は積極的に診察をしようとはしない。初めて罹った時に、以前処方されていた薬として伝えて以降同じものを処方されるばかりの事務的な対応。痛みについては、以前アダムス医師が来た時に話したきり、ワシントンの医者に相談する事はしていなかった。痛みが引くのを待ちつつ、結局横になるのが楽で肘掛けへと頭を乗せて。 )
( 結局診察をしてもらった所で、相手の事を良く知らぬ医者では何時かの日の様に日中の業務や生活にも支障をきたす様な強い安定剤や鎮痛剤を処方する可能性がある。本来は今の状態を確りと検査し適切な薬を飲み、新たに症状として出現した痛みも調べて欲しい所なのだが、相手の事だ、きっと心を許した医師にしか相談はしないだろう。__レイクウッドにさえ居れば。結局は全てそこに繋がる思考を“たられば”を言った所で無理なのだとストップさせ、横になった相手の先程勝手に外したワイシャツのボタン2つを付けてから、「…久々に顔を合わせた部下からのお願い。痛みの原因だけはちゃんと調べて貰って。」と、病院嫌いの相手には難しいとは思いつつもそう告げ、今度はワイシャツの上から相手の鳩尾付近を左右に往復させる様に軽く撫でて。「…少ししたら起こすから、眠って構わないよ。」そう声を掛けたのは、幾ら刑事であった時よりやる事が減ったとは言え仕事をして帰って来てる相手が疲れて無い筈がないと思ったから。加えて痛みに耐えるのは疲労を伴う。邪魔にならぬ様、反対側のソファへと座り直して )
( 病院に行っても結局はストレスだとか精神的なものだと言われるのだろうとたかを括っている。アダムス医師には以前、脈拍に乱れがないかを確認するようにと言われたのだが、手首に指先を押し当てた所で明瞭に脈動を感じる訳でもなく直ぐに辞めてしまった。相手がソファを離れるとそのまま目を閉じるのだが、なかなか寝付けずに苦しげな息が漏れる。身体は辛いのだが、眠る事を拒んでいるような感覚。睡眠薬を飲まなければ寝付く事が出来なそうだと思えば暫くして目を開け「…睡眠薬の瓶を取ってくれないか、」と相手に頼んで。普段の処方薬に加えて鎮痛剤と睡眠薬、どう考えても薬に頼り過ぎているのだが今はそれ以外に苦痛を取り除く為の最善策が思い当たらない。 )
( 眠る為に目を閉じた相手だったが然程時間を置かずして目を開け、睡眠薬を所望した。テーブルの端に置かれている薬瓶の中にあるのが目的のそれだとわかるものの、相手は数分前に処方薬と鎮痛剤を服用したばかりでその上睡眠薬まで__は流石に短時間の内に薬を体内に入れ過ぎる事になる。相手自身も飲み過ぎだと言う事はわかっているだろう、“駄目だ”と突っぱねる事は簡単だが、今苦しむ相手に掛ける言葉としては余りに酷に感じられ一瞬の間が空き。目を開けてる相手と視線を重ねた数秒後、「…今は睡眠薬じゃなくて、此方を選んで。」徐にソファから立ち上がると横になる相手の傍らに膝を着く形で腰を折り、そう声を掛ける。それから幾らか伸びた様に感じられる前髪が邪魔にならぬよう軽く払ってから、両手で相手の片手を柔らかく包み込み、甲を静かに撫でて。“これ”が薬の代わりになり同じ眠りを齎すなんて烏滸がましい事を言うつもりは無いが、それでも人の温もりの力を信じたかった。大丈夫だと、そう言葉にはせずただ手の甲を撫でる親指をゆっくりと動かしながら、先程飲んだ鎮痛剤が効き、相手の身体を襲う痛みがとれる事を願って )
( 薬に頼り過ぎている事は感じていた。身体の不調が重なる度に、その場しのぎに薬を摂取する事で“今”の苦痛を和らげる。其れが後々に何かしらの良くない影響を与える事も分かっていながら、楽になりたいと願ってしまうのだ。相手が手の甲を撫でると、包み込まれたそのぬくもりに一度視線を向けた後、何を言い返す事もせず少ししてゆっくりと目を閉じる。全く寝付けずにいたはずが、少しばかり心がほぐれるのか僅かな眠気をきっかけに時間を掛けて、やがて浅い眠りに落ちていて。---微睡みの中で薄らと夢を見た。現実と区別の付かなくなるような恐ろしいものではなかったものの、遠くで色々な声が聞こえる。現場で聞いた刑事たちの怒声や打ちひしがれる遺族の声、飛び交う記者たちの声、妹の声。全て記憶によって作り出されているもので、このまま眠りが深くなれば鮮明な記憶と共に映像を伴った夢が生まれるのだろう。其処に沈む事を拒むように僅かに眉間に皺が寄り、小さく息を吐き出したものの目は開かない。誰の物とも分からない“人殺し!”という叫びがやけに鮮明に聞こえたのと同時に強い痛みに襲われ息が詰まる。「______っ、゛…ッ、!」声にならないくぐもった叫びと共に意識が浮上するのだが、あまりに痛みが強く上手く息が吸えない。ソファから身体を起こそうと反射的に身体を動かし、バランスを崩すと床へと崩れる。床に手をつき鳩尾辺りを握り締めたまま呼吸は徐々に上擦り、少し骨張った背中は浅く上下を始める。今まで幾度となく襲われた痛みと苦しさ。「……ッミラ、…!」思わず相手の名前を呼んだものの、この苦痛がすぐにやまない事は理解している。首筋には汗が浮かび、身体を支えている腕は小刻みに震えながら、懸命に浅くなる呼吸を繰り返して。 )
( 瞳が重なり一度柔らかく微笑めば、後は眠りに堕ちる相手の様子を静かに見守るだけ。1時間後くらいに起こせば鎮痛剤が効果を発揮している頃かと眠りを邪魔せぬ様にゆっくりと包み込んでいた手を離すのだが。__「…ッ!」相手の瞳が閉じられてから然程の時間経たず、静かだった部屋に喉の奥に引っ掛かる様な張り付く重い呼吸音が響いた。同時に眠っていた筈の相手が身動ぎをし、続いて起き上がろうとしたのだろう、その身体はバランスを崩しソファから床へと落ちる。反射的に出た腕は相手の身体を支えるには至らず、背中を丸め懸命に呼吸を繰り返す相手から呼ばれた名前で、ハッとした様に再び中途半端に伸びた手を相手を抱き竦める形で背中に回し。「、此処に居る…!大丈夫っ、」無意識の内に呼んだ名前かもしれない。それでもそれが確かに己の名前なれば決して離れる事は無いと伝えたいのだ。鳩尾辺りを握り締める相手の手を上から握り、懸命に背中を擦りながら「痛いね…っ、もう直ぐ薬が効く。あと少し、ほんの少しで楽になれるから、」と、耳元で声が届く様にと伝え続けて )
( 強い痛みは呼吸を阻害する。ワシントンに来てからというもの、自分でも気付かない程に少しずつ心身を蝕まれいつしか強い痛みに襲われるようになっていた。刑事を辞める事になった直接的な原因とも言えよう。痛みが発作を引き起こす、或いは発作が痛みを引き起こす事もあった。今はただ、息を吸うのも辛いほどの強い痛みが身体の中心にあって、一気に背中に汗をかくのを感じた。此れが肉体的な痛みなのか、精神的に痛みを感じているだけなのかも判断できないのだ。「_____っ、は…ぁ、゛……」必然的に浅くなる呼吸の所為で頭が回らなくなると、現在と過去の記憶が入り乱れ混乱する。明らかにレイクウッドに居た頃よりも状態はかなり悪い。相手の呼び掛けに答える事のないまま、呼吸は乱れ徐々に身体には痙攣が生じ始めていて。 )
( 相手の様子から此方の声が全く届いていない事がわかった。首筋の汗はあっという間に背中にまで広がりワイシャツを湿らせ、喘ぐ様な呼吸は肺に空気が届いていないのが一目でわかる程に殆ど意味を成して無い。やがて腕の震えが身体全体の震えに変わりおさまる事の無い痙攣を引き起こせば、その明らかに不味い状況に心臓が嫌な音を立てる。__レイクウッドに居た頃よりも遥かに状態が悪いではないか。__鳩尾付近を握る相手の手から己の手を離し、両腕で相手の身体を押さえつける様にして抱き竦めるのだが腕の中でも痙攣は止まる事無く、ふつふつと湧き上がる恐怖はやがて“死”へ直結する。「…もう、いいよ…ッ…!」思わず感情が溢れ出すままに溢した言葉は震えた。「もういい…っ!戻ろう…エバンズさん…。」そうして一度音となった言葉は止まらない。「私が全部何とかするっ、二度とエバンズさんの目の前で誰にも傷付けられないし、エバンズさんの痛みももう一度一緒に持つ…!レイクウッドに戻ればアダムス医師も助けてくれるから…っ、」いち部下に出来る事など限られ、FBIである以上傷付かない事は難しく、何も約束など出来るものでは無いが、それでも今はそんな事を考えている場合では無かった。痙攣を繰り返し、まともに呼吸すら出来なくなっている相手がただこの場に崩れ落ちてしまわない様に、絶望に染まってしまわない様に。「…じゃないと…っ……死んじゃう…!」このまま此処に居続けては__。考えたくも無い余りに恐ろしい未来が先程から顔を覗かせ続ける気がして視界が滲み、相手を抱き竦める腕に力が籠る。1年近く相手が苦しむ姿を見ていなかったせいか、記憶にある以上に状態が悪い事がわかってしまったからか、ただ、怖くて怖くて堪らないのだ )
( 相手に抑え付けられるようにして抱き竦められながらも、身体は自分の意思に反して痙攣を続けていた。それがようやく治ったのは数分後の事。ゆっくりと身体の震えが落ち着くのと同時に、耐え難い痛みもまた静かに波が引くように落ち着いて行き、力が入り強張っていた身体がようやく緩むと相手に体重を預けて。弱みを見せる事が出来ていた存在の居なくなったワシントンで、1年以上たった1人で苦しさを押し留めて来た。医者に助けを求めるでもなく、声を上げる事もせずただ懸命に痛みを堪えて。そのまま1人で居れば、その大き過ぎる負担に目を瞑り“気付かずに”後戻りの出来ない所まで堕ちていたかもしれないが、相手が来た事で再び痛みに気付いてしまったのだ。相手が”死“を連想する程に酷い状態なのだと、ぼんやりとした意識の中で感じて。現に刑事を辞める事を余儀なくされるほどに壊れ掛けていたと言うのに、”耐える“以外の選択肢が浮かばなかった。今の自分がどれほど堕ちているか、相手に言われるまで客観的に見つめる事も出来ていなかったのだ。______楽になりたい。相手やアダムス医師のように信頼できる存在が側に居る所へ戻りたい。刑事として働きたい______相手の言葉をきっかけに、胸の内にはそんな願望が沸々と湧き上がって来ているのだが、それを言葉にする事は酷く難しい。その選択は、責任感もなく私利私欲だけで全てを投げ出しているように思えてしまう。言葉を紡げぬまま、縋るように相手の背中へと回した腕に力が籠り。 )
( 長い長い時間を掛けて抱き竦めていた相手の身体の痙攣が治まり、それと同時に強張りが解ける様に此方に凭れる身体を今度は押さえ付けるのでは無く優しく__しかし決して崩れてしまわない様に抱き締める。痛みと苦しみに耐えた背中は解放された今も汗に濡れ、“どれ程”だったかを伝えて来る様で胸が痛む。その背中を優しく上下に擦りながらどれ程の時間そうしたか。酷い倦怠感に襲われているだろう相手がまたもう少しだけ落ち着くのを待ってから背中に回した腕を解き、けれど完璧に身体を離す事は無く互いに床に座り込んだ体勢のままに、相手の冷えた頬に手を伸ばす。遥かに痩せ、顔色の悪い窶れて見える顔を見てまた酷く胸が痛むのだが、頬を一度撫でてからその手を降ろし次は熱を産む様にと肩を何度も優しく擦りながら「__此処には私達しか居ない、エバンズさんが何を言っても私しか聞いてないから。…1年間、胸の中に溜めた沢山の事、私に教えて。」相手の瞳を真っ直ぐに見詰めつつ、たった1人溜め込んで来た事を話して欲しいと。「…エバンズさんは、今何を思っていますか?」自らの気持ちの優先順位を一番下にまで下げ、終いには無かった事にまでしてしまう。そんな相手だからこそ、“心の内の吐き出し”は、“痛みの認識”は、絶対に必要なのだ。それは昔からずっと思い続けている事で、何も怖く無いと僅かに微笑みながら促しの言葉を疑問形として紡いで )
( 正面から見詰めた相手は、以前と変わらない若葉色の瞳に自分を映している。憐れむような、慈しむような、労るような、そんな色を宿して。自分では内に溜め込むばかりのどす黒い物を相手に促されて吐き出すという経験を此れまで幾度しただろうか。「_______楽になりたい、」そのたったひと言を発するのには酷く時間を要した。「でも、後戻りは出来ない。…自分で決めた事を自分の都合で投げ出すなんて……責任感の欠片も無い人間がやる事だ、」いつも、但し相手の前でだけ、つかえていた言葉の後に秘めていた気持ちが言葉となってボロボロと溢れ出す。自分でも整理できていなかった思いが言葉になり、そこでようやく痛みに気がつくのだ。「だけど、辛くて仕方がない。何もかも_______刑事でなければ意味がないのに、この有様だ。」結局は、楽になりたいと願う気持ちと、ワシントンで踏ん張らなければならないという思いが交互に浮かんでは消えるばかり。行動に結び付く結論には至らず、幾度となく飲み込んできた思いで。 )
( 躊躇い、葛藤、その中で長い時間を要しながらも“楽になりたい”と相手自身が言葉にした事に酷く安堵した。心の内に確かにあるその思いを聞き届けて一度大きく頷く。それからその一言が切っ掛けとなった様にボロボロと溢れ落ちる思いの数々を最後まで聞き届けてから再び真っ直ぐに相手を見詰めると「後戻りじゃない、“進む道を選び直す”の。」それは聞く人が聞けば屁理屈かもしれないが己にとっては前向きな言葉。「今道を変えても誰もエバンズさんの事を責任感の無い人だなんて思わない。それは、本部もレイクウッドもエバンズさんがどんな人かを知ってるから。…被害者や遺族に真剣に向き合って、最後まで事件解決にベストを尽くす__エバンズさん自身が築き上げた信頼は、そんな簡単に揺らいだりしないよ。…それでも何か言う人が居るなら、それは無視したって良い。そんな言葉は聞く必要無い。」例え相手自身が自分を“責任感が無い”と思ったとしても、決してそんな事は無いのだと。語り掛ける様に、そうして最後にはやけに真剣で珍しく断定的な強い言葉で締め。再び表情を穏やかに緩ませては「…何も諦めて無くて良かった。」と、例え今何処に行く事も出来ず足踏み状態だったとしても、自暴自棄になってる訳でもない、虚無に囚われてしまっている訳でもない、“楽になりたい”も“刑事である事”にも相手の中から決して消えた訳では無い、先ずはその事に安心した様に微笑み。「一緒に考えよう。直ぐに答えは出ないかもしれないけど、信頼出来る医師の居るレイクウッドに戻って、尚且つ刑事で居られる方法が絶対にある。」相手の片手を両の手で包み込む様に握り締め、己は何も諦めていない事を今一度言葉にした後。瞳を閉じそのまま僅かに身体を前に倒す事で相手との距離をもう少し詰め額同士を軽く合わせると、「…だから、離れて行かないで、」静かに言葉にしたそれは物理的な距離だけでは無く“心の距離”。直ぐに額を離し緑眼に相手を映せば「__エバンズさんが関係する事で私が傷付くと思うなら、離れる事じゃなくて、側に居る事で私を守って。」珍しく余りに真っ直ぐな願望を口にして。それは言葉だけを切り取れば傲慢で我儘なそれなれど、今の相手に届く言葉としては適切だと思った。“私は大丈夫”、“傷付いても構わない”、それでは相手が誰にも言わず本部に戻る決断をしたその理由を、不安を、恐怖を、拭えないと思ったからで )
( レイクウッドに戻りたいという思いは、確かに自分の中に芽生えていた。しかし自分の意思で、周囲に害が及ばないようにと離れる決意をした以上手放しに戻る訳にはいかないという思いは強く、相手の言葉に直ぐに頷くことは出来ずに。不意に相手の額が寄せられ、直ぐ近くで声がした。それが物理的な距離の事を言っている訳では無いことは理解できたのだが、同時に続いた相手の言葉は自分が想定していた物とは違っていた。自分の所為で相手に危害が加わる恐れがある、だから相手の側には居られないと告げた場合相手は、自分を犠牲にするのも厭わないという覚悟と共に大丈夫だと言い張ると思っていた。けれど相手が紡いだのは、それよりもずっと自分に寄り添う優しい言葉。自分が抱える不安を理解した上で、近くに居て良いのだと促すような。その言葉に何故か酷く安堵し「______守れるだけの体力が戻ったらな、」と、小さく掠れた声ながら何処か今の状況を冗談めかすようにそう告げて。 )
( 相手は戻るとも、戻らないとも、明確な返事はしなかった。それだけ今回の決断は大きく重たいものなのだろう。それがわかるからこそ逸る気持ちを抑え、確りとした基盤が出来上がり、相手自身が心から“戻る”と頷ける時を今はまだ待つべきなのだろうと、相手の心身の不調を思う不安はあれど返事を急かす事はせず「なら、それまで私も頑張らなきゃだね。」紡がれた小さな冗談に乗っかる形で自身を鼓舞する決意と共に頷きつつ「__まずは体力回復の為に十分な睡眠をとらなくちゃ。勿論、此処で2人一緒に。」相手の背後のベッドに視線を移動させ、少しだけ悪戯に笑って見せて )
( 今は未だレイクウッドに戻る決断をする事は出来ない。それでも相手が暗に“待つ”と伝えてくれている事は安心に繋がった。相手に支えられながら身体を起こし、力を入れた事でズキリと鈍い痛みが走ったものの薬が効果を発揮しているのか強い痛みが引き起こされる事はなかった。ベッドに身体を横たえると小さく息を吐き出す。1人のベッドは酷くひんやりとして、幾度となく目を覚ますのだが相手が隣に居るだけで温もりを感じる事ができて気分が落ち着くのを感じた。相変わらず眠るのは怖い。けれど今は相手の体温に身体を預けるようにして、穏やかな眠りを求めて。 )
( __1年振りに相手の隣に身を寄せる様にして横になる。長い長い時間の筈だったのに、不思議とその温もりを思い出せるのはそれだけ特別だからだろうか。背中越しにも伝わるゆっくりとした呼吸は心を穏やかにさせ、柔らかな柔軟剤の香りは安らぎを連れて来る。遠慮がちに伸ばした手で眠りを邪魔せぬくらいの控え目な動作で以て相手の背中を撫でながら、ふ、と一瞬脳裏を過ぎったのは“最期に見た少女の顔”。続けて何時の日か相手に見せて貰った写真の中で微笑む【セシリア・エバンズ】の優しい顔が浮かび、思わずきつく瞳を閉じてから動かしていた手を止め相手の背中に静かに額をくっつけて。「__…私は、何時だって遅いね、」至極小さな呟きは相手を起こさぬ様冷たい空気の中に散る程のもの。何時も__遅いのだ。相手の優しさに気が付くのも、相手の痛みに気が付くのも。誰かを失う苦しさや切なさ、不甲斐無さ、罪悪感、どれもこれも何時だって、相手が先に経験する。「…大丈夫なんかじゃなかったのに、私はそれしか言えなくて__でもきっと、またそう言う。…ごめんね、」ぽつり、ぽつり、と溢れる言葉の最後は謝罪。額を僅かにくっつけたまま再び手を動かし背を撫でながら、やがて瞼は降り浅い眠りへと落ちて行き )
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