刑事A 2022-01-18 14:27:13 |
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( 授業が終わり教室から出てくる学生たち。学校のような場所では、普段校内では見掛けない刑事の姿に好奇の目が向けられる事も多いため、其の反応には慣れていた。しかし不意に声を掛けられると、ニヤついた表情の男子学生と視線が重なる。リリーに好意を持っていたという男子学生は何処か気弱そうで、彼に言い返す事も出来ない様子だった。「…そうか。君自身はどうだ、何か彼女に関して知っている事______彼女とはどう言う関係だ?」ジョン、と呼ばれた男の存在を把握し話を聞くと決めた上で、何処かヘラヘラしている男に視線を向けたまま話を聞こうと、にこりとする事もなく問いを投げ掛け。 )
( 微笑む事も無く、誰がどう見ても極力話し掛けたくは無い無表情の相手を見て流石に男子生徒も口元のだらしない笑みを引っ込めた。そうして相手の圧に何処となく居心地の悪そうな表情で『…まぁ、俺は別に何も無いですけどね。』とぼそり呟くと、もうこれ以上話は無いとばかりに先程までの威勢の良さは何処へやら、そそくさとその場から離れて行き。一方取り残されたジョンは相変わらず困った表情のままに去って行った男子生徒と相手を交互に見遣った後、『__リリーに好意があったのは本当です、』と控え目ながら話を切り出し。この場を去る事も出来たのだが、結局後々話を聞かれるだろうと思っての事で )
( 友人を面白おかしく差し出しておいて自分は何も語らないのかと冷ややかな目を向けたものの、引き留める事をしなかったのは現時点で被害者との繋がりはかなり薄いだろうと判断したから。逃げる事をせず、彼女への好意を認めたジョンと向き合い手帳にメモを取ると「彼女に恋人がいる事は知っていたのか?」と尋ねて。ジョンは、恋人が居ることは知っていたと答えた上で『…でも、リリーは時々僕とデートをしてくれました。誕生日の日やバレンタインデーの時だって、花やプレゼントを受け取ってくれたんです。』と告げて。果たしてそれは純粋な好意だったのだろうか。いつしか彼女が自分の物にならない事に怒りを覚え、手を掛けるまでに至った可能性はないか。_____相手の供述をメモに取りながら、急に刺すような頭の痛みを感じこめかみ辺りを抑える。ズキズキとした痛みは思考の邪魔をして、彼に何を尋ねれば良いのか一瞬分からなくなった。「……彼女はどういう反応だった。」と少しの間を置いて尋ねると、『とても幸せそうでした。僕もリリーが隣にいてくれて幸せだったんです。…でも、恋人がいるからと告白に答えてくれる事はありませんでした。』と。 )
( 相手の表情が一瞬僅かに変わった事で、ジョンは何か気に触る様な事を言ってしまっただろうかと不安げに瞳を揺るがしたのだが、調子の悪さまでを感じ取れる事は無かった。__一方ミラーは他所のクラスの人達や教員に話を聞きに回っていた。教員達はリリーの事を“優しくて真面目な生徒。”と答え、生徒達は“可愛い人、結構モテてる印象。”と答える人が大半だった。これと言って特別彼女の行方に関係する証言は得られなかったものの、一先ず聞き込みした情報を引き連れ相手の所まで戻れば、話を聞かれている男子生徒と目が合い軽く会釈をし。相手の半歩後ろで話の続きを聞こうと )
( 失踪した彼女の遺体が見つかっていない以上詳細な犯行時間は絞り切れないが、彼女が失踪したと見られる日の朝の行動を尋ねるとジョンは『その日は休みだったので、お昼頃まで1人で寝ていました。』と答えた。一人暮らしのためアリバイの立証は出来ない。「…また話を聞きに来る。何か思い出した事があれば連絡してくれ。」そう告げると彼を残して踵を返し、隣の相手に「…ジョンとリリーの関係に対する客観的な意見が欲しい。」と、クラスメイトに聞き込みをしたい旨を伝えて。それと同時に「_____鎮痛剤を持ってないか、」と相手に尋ねる。普段薬が必要なほどの頭痛に悩まされる事は然程多くないため、市販の鎮痛剤は持ち合わせていなかった。 )
( アリバイの立証が出来ない以上彼もまた被疑者の枠から除外する事は出来ない訳で。次の授業の準備の為小走りで去って行く背中に数秒の視線を向けた後、相手の要望に首を縦に振れば「わかりました。…彼女、結構人気だったみたい。ジョンの他にも好意を寄せていた人がまだ居るかもしれません。」先程の聞き込みの中、多くあがった“モテる人”と言う情報を伝えつつ。続けられた問い掛けには思わず「え、」と声が漏れた。それは安定剤以外の薬を求められた記憶があまり無かったからかもしれない。「あるけど__、調子悪い?」取り敢えず常備している市販の鎮痛剤を鞄のポーチから取り出し、2錠を手渡して。その際最早癖のようなものになっているのか、相手の顔色、それから頭の天辺から足の爪先までザッと視線を流して )
( 相手から手渡された鎮痛剤を受け取りつつ礼を述べると「_____いや。気圧か何かの影響だろう、頭痛がする。」と、体調には問題が無い事を告げて。普段頭痛に悩まされる事は然程多くはないものの、今日はこめかみの辺りがズキズキと痛む。痛む箇所に指で軽く圧を掛けつつ、車に戻ったら薬を飲もうとジャケットのポケットへと薬のシートを滑り込ませて。---その後、食堂で先程のヘラヘラしていた男子学生の姿を見つけ、談笑しているグループの元へと近づいて行くと彼はギョッとしたような、バツの悪そうな表情を浮かべた。ジョンとリリーの関係性について尋ねると、彼と話していた女子学生が『…正直ちょっとキモかった。だいぶしつこく言い寄ってたから、あの子も断りきれなかったみたいだし。』と答え、彼も自分の証言は間違っていなかったとばかりに頷いて。その後数人のクラスメイトに話を聞けたものの、ジョン本人の感じ方と他の学生からの意見はあまり一致しない結果となり、署に戻るべく相手と車に戻って。 )
明日から雨らしいし、その影響かな。…無理しないでね。
( 頭痛とはこれまた珍しい、とは思うのだがそう言えば今朝のニュースで此処数日は雨が続く予報だとやっていたのを思い出し特別重要に捉える事も無く。__ジョンとリリーの関係についての客観的な意見は彼が話したのとは掛け離れているようだった。彼にとっては純粋な好意だったのかもしれないがそれが行き過ぎた可能性は拭い切れ無い。相手と共に車に戻り先程の錠剤を飲む様子を見ながら「…自覚の有る無しに関わらず、ストーカー行為に発展してた可能性もあるよね。」と、告げ署へと車を走らせて。__相手専用の執務室にて2人で聞き込みの内容を整理する。証言を書き留めた手帳を捲りながら「ジェイはジョンの存在を知ってたのかな?……もし知ってたなら、自分と付き合っていながら確り断る事も無く曖昧な接し方をしてたリリーと口論になって、思わず殺害してしまった可能性も。怒りが男性側に向かない人も居るし。」考えられる可能性を口にし、言葉の終わりに顔を上げ相手に視線をやり )
( 署に戻り聞き込みして得られた情報を整理している最中、相手が可能性のひとつとして上げた一例に手元のメモから視線を上げ、少しばかり興味を引かれたように相手を見つめる。もっとも其の些細な表情の変化に気付く者はごく僅かなのだが。「…彼女に言い寄っていた男じゃなく、言い寄られていた女性の側に怒りが向く_____確かにな、」何処か納得したような言葉を紡いだのは、自分自身の考察にその可能性が漏れていたから。相変わらず恋愛事には疎く、女性に対する男の心情も自分に置き換えて考えた所でもっぱら“興味がない”のだから、なんの参考にもならないのだ。相手の言うようにジョンに言い寄られていた事を知ったジェイが、彼女の曖昧な態度に激昂した可能性は考えられる。「……お前は、男女の痴情の縺れには詳しいな。」と、手元に視線を落とすとかなり語弊のある言い方で冗談混じりに告げて。 )
( 此方を見詰めた相手の表情がほんの僅か変化したのを見て直ぐに、興味が唆られた様で何よりだ、と言いたげに肩を竦めたのは“恋愛事”に余りに疎過ぎると言っても過言ではない相手の事を長く見て来たからか。「お前の曖昧な態度が相手を付け上がらせるんだー、みたいなね。」全くと言って良い程感情の籠らぬ棒読みで男側の意見を勝手に代弁し、再び手元の手帳にその可能性を書き記すのだが。その最中珍しい冗談が相手の口から飛び出せば思わず顔を上げ。「…ちょっと、それは語弊がある。」片眉を僅かに持ち上げあからさまに不満そうな表情を浮かべるが勿論本気で気を悪くした訳では無い。「私は何時だって円満なお付き合いをして来たんだから。」相手にとっては此方の過去の恋愛事情など別に興味無いであろうが、態々わざとらしく“円満”を強調した辺り軽口で。続けて「そんな冗談が言えるなら頭痛は心配無いようだね。」と、密かに心配していた大学での相手の頭痛の話を持ち出し再び小さく肩を竦めて見せて )
( 語弊がある、と言い返されるも反応を示す事はなく無視を決め込む。しかし、自分のこれまでの恋愛は円満だったという言葉には呆れたように顔を上げ「_____お前の話は聞いてない。捜査の役に立つような経験じゃない事は分かった。」と告げて。関係が円満なのは当然良い事なのだが、捜査の役に立つものではないと穿った視点からのなんとも失礼な返答を。頭痛の事を持ち出されると、今は強い痛みではないため「…薬が効いてる。気圧にやられたんだろ、」と頷いて。刺すような痛みを感じた瞬間もあったものの、今は鎮痛剤により抑えられる程度の痛み。少量の毒は症状を引き起こしはしたものの、未だ水面下で蓄積するのみで異変に気づく事はなく。 )
__本当0か100なんだから。何でそんなひねくれちゃったんだろ。
( 経験の全て、何でもかんでも“捜査”に重要か否かに結び付けバッサリと切り捨てた相手に不平不満を漏らすが勿論相手に届かない事は承知している。捲っていた手帳をパタンと閉じてから鞄の中のポーチを漁り取り出したのは先程相手の飲んだ物と同じ鎮痛剤。「明日も天気悪いし、念の為持ってて。」此処暫く天気が安定しないと言う予報ならばその頭痛が長引く可能性もあると薬を手渡した後「後でもう一度ジェイに話聞いて来る。…紅茶淹れるけど、何か飲む?」新たに生まれた可能性の有無を確認すべく、また、何か他の情報が得られる可能性の為に一息入れてからの予定を告げて )
( “捻くれている”と言われるのはいつもの事、当然気にする様子も見せず視線は既にパソコンのモニターへと向いていて。明日からも天気が悪いと鎮痛剤を渡されれば其れを受け取り、礼を述べるとジャケットのポケットへと入れておく。「…あぁ、同じものをくれ。」と、デスクに置いていたマグカップを相手に手渡し。ジェイに話を聞いた後、次に探るべきはペットショップだろう。ジェイが店長を勤め、リリーが店員として働いていたペットショップで新たな証言や関係者が見つかれば良いのだが。 )
( 相手からマグカップを受け取れば執務室を出て給湯室へ。警視正の趣味か、はたまた誰か他の人の拘りか此処には紅茶もコーヒーも結構な種類が揃っていて、今日は何にしようかと少し思案した後にダージリンに決めそのティーバックで紅茶を作り。__今日エバンズとミラーが大学に聞き込みに行っていた間、執務室には1人の男性が訪れていた。彼は総務課の派遣事務員で控え目で余り目立つタイプでは無いのだが、エバンズに書類を渡しに来たのだ。けれども相手は捜査に出ていて不在の為直ぐに出て来た。…のは建前。彼がデスクに置かれているエバンズのマグカップの縁に薄く塗ったのは紛れも無い“毒”で、それは時間を掛けてじわじわと相手の身体を蝕むもの。それを勿論の事知らないミラーは出来上がった紅茶を片手に再び執務室へと戻り、「お待たせ。」と、マグカップを相手に差し出して )
( 生憎、仕込まれた毒は全くの無味無臭で摂取していることにすら気付かなかった。効き目も未だ激しいものではなく、僅かな異変に留まり少しの不調として片付けられてしまう程度のもののため、直ぐに外的要因を訝しむ事などできずに。---相手に淹れて貰った紅茶を飲み、ジェイへの聞き込みへと向かうと、ジェイは”彼女の大学の友人は知らない。好意を抱いている友人がいる事も知らなかった“と証言した。それが本当であれば、ジェイとジョンの間に関係はないことになる。一方で店で気になる事を尋ねると、少し言い辛そうに”彼女に好意を持っている店員がいる“と話した。店員の名前はクリス、明日は出勤予定の筈だという。彼への聞き込みは明日にしようと署に戻る途中、再び強い頭痛に襲われた。キリキリと締め付けられるような痛みに眉を顰めこめかみを押す。昼から時間が経っているため構わないだろうかと、明日のためにと貰った鎮痛剤を口にして水で流し込んで。明日出勤前にでもドラッグストアに寄ろうと思いつつ目を閉じて。 )
( 聴取の結果、彼の話が本当であるならジェイはジョンの存在を知らない事になり署で話した“可能性”は当てはまらない事になるのだがそれはあくまでもジョンに対してだけ。新たに名前の上がった【クリス】には“可能性”が適用される状況の為結局何か変わる事はなく。クリスが2人が恋人同士だと知っていた場合、自分の所へ来てくれないと逆恨みの末リリーを殺害した可能性もある。全ては明日クリスに聴取してからだろうと署へ車を走らせるも、その道中で先程渡したばかりの鎮痛剤を服用する相手に一抹の不安を覚え。「…今日は早めに休んだ方がいいかもね。気圧じゃなくて風邪かもしれないし。」次の薬の服用時間的には少しばかり間隔が空いていないが、一度時間を守らなかったくらいでは然程酷い問題が起きる訳では無いと、そこには何も言う事無く代わりに早すぎる鎮痛剤の効果切れと相手の体調に心配そうに眉を下げて )
( 締め付けるような頭痛に加えて車酔いのような気分の悪さがあり、相手に断りを入れることはせずに少し座席の背もたれを倒す。普段の不調とも違う感覚のため「……そうだな、」と、相手の提案に大人しく返事を返すと鎮痛剤が早く聞く事を願いながら目を伏せて。---翌日、起きた時には頭痛は治っていたものの昨日までは感じていなかった身体の重怠さがあり、やはり風邪だろうかと思いつつ出勤途中にドラッグストアで鎮痛剤を購入し。未だ容疑者は絞り込めておらず、同時に失踪した彼女についても身代金の要求もなければ遺体の発見も出来ていない状態。ペットショップで働くクリスに話を聞き、彼女の捜索に当たっている捜査員にも痕跡の発見を急ぐように伝えなければと思いつつ、頭をクリアにしておこうとマグカップを手に給湯室へと向かいコーヒーを淹れるとシンクの前に立ったままひと口飲んで。 )
( 今日はペットショップでの重点的な聞き込みをする日。此処で重要な手掛かりや証言を得る事が出来ればリリーを見付ける大きな一歩にもなり得ると気を引き締め昨日聴取内容を記録した手帳を確認し。数分後、席を立ち給湯室へと向かう。頭をクリアに、は相手と同じ考えだった。シンクの前に立ちコーヒーを啜る相手に視線を向け「おはようございます。」と先ずは朝の挨拶をすれば、自身のマグカップにコーヒーを淹れつつ「…具合はどう?」と続けて調子を尋ね。目下に住み着く隈は何時もの事、後他の不調は…と、無意識に思考は巡り。もし相手の調子が余り良くないのだとしたら今回の聞き込みは1人で行く事も視野に入れての事で、返って来る返事はわかっていながらも暗に滲ませた“行けそう?”を問として )
( 足音が聞こえ振り向くと、そこに居たのは同じくマグカップを手にした相手。捜査前に頭をクリアにしておこうと、自分と同じような理由で此処に来たのだろうと思えばコーヒーや紅茶のパックが取りやすいように一歩横へとずれて。続いた体調を問う言葉には「…あぁ、問題ない。」とだけ答え、当然捜査には行けると頷いて。鎮痛剤は持っている、捜査に支障を来たすほどの不調に悩まされている訳ではないと自分自身にも言い聞かせつつ「10時に署を出てペットショップに向かう。」と相手に告げ、部屋へと戻って行き。 )
( “問題無い”と言う相手の言葉を信じたのは、特別酷い顔色や不調が目に見えなかったから。当然その不調が毒物によるものだと思ってもいない訳だから矢張り気圧の関係や風邪の引き始めを疑うのは当然で。腕時計に視線を落とし時間を確認し頷いてから部屋に消える背中を見送って。__約束の10時。相手と共に署を出て予定通りペットショップへと向かう。中には数人の客と店員、それから店長であるジェイの姿が在り。「クリスさんに話を聞きに来ました。」と告げると、ジェイは軽く頷いた後に裏でケージの清掃をしているクリスの元まで案内してくれて )
( 一見しただけの印象ではあるが、ジェイとクリスには互いに気不味さを抱えているような、僅かなぎこちなさがあった。恐らく店長であるジェイに対するクリスの対応が事務的でやや冷たい事も、そう感じさせる要因だろう。ジェイがその場を離れると簡単に挨拶をし、単刀直入に質問を投げ掛けて。「_____あなたが、リリーさんに好意を抱いていたと聞きました。店長のマレックさんとの関係は知っていたんですよね?」クリスはほとんど間を空ける事なくその言葉に頷くと『勿論店長との関係は知っています。でも俺はずっとリリーが好きでした。彼女もその事は分かってくれていました。』と答えて。 )
( 相手の問い掛けに間髪入れず答えたその言葉に申し訳なさの様なものは感じられなかった。もしかしたら店長より自分の方がリリーを愛していると言う自信やプライドもあったのかもしれない。クリスの表情を黙って見ながらその話をメモに書き留め、矢張り大学で聞き込みをした印象通り、彼女は結構モテるタイプだったのかと思案して。「__リリーさんに店長と別れて欲しいと伝えた事は?」想いが強いあまり、リリーがジェイと付き合っている事が納得いかず自分の元に来て欲しいと願い口論になり殺害した可能性も視野に、続けて「もう一つ、最後にリリーさんと会ったのは何時ですか?」と、質問を続けて )
( 相手の問いにクリスは『…別れて欲しいと直接的に伝えた事はないですけど、“俺の方が幸せにできる”とは言いました。10も年下の、しかも未成年に手を出すなんて信用できないですよね。リリーは盲目って感じでゾッコンだったのであんまり強くは言えませんけど。』と答えて。その答えからも、先ほど感じたぎこちなさのようなものの理由が分かる気がした。クリスはジェイを良く思っておらず、店長という立場で10歳も年下の女性に手を出した事にも不信感を感じているという事だろう。『最後に会ったのは…バイトの時です。リリーが失踪したと言われている日の2日前ですかね。』クリスはゲージの中の子猫を触りながら、そう答えて。 )
( その返事からは、自分の方に来て欲しいのに来てくれないリリーへの怒りや恨みよりも、10歳も年下の未成年に手を出した店長への怒りや失望の方が強い様に感じられ、もし本当に殺害したいと言う気持ちがあるのならばそれは多分彼女では無く店長の方に向くのでは…と直感的に思った。勿論あくまでも推測の域を出る事は無いが。その話も手帳に書き留め、クリスに撫でられどこか気持ち良さそうに目を細めた子猫に無意識に視線を向け、それから直ぐにその視線を持ち上げると「…その時に普段とは様子が違ったり、何か気付いた事はありませんでしたか?」と質問を重ねる。その答えを聞きながら頭の片隅で考えるのは、クリスの言う通りリリーがジェイにゾッコンだったとして、それならば何故他の異性に好意があると言われた時確りと断らないのか。それが出来ない性格なのか、はたまた何か別の理由があったのか )
( 『疑われてるんでしょうけど、俺が犯人ならリリーは狙いませんよ。好きな子を殺したりしたら元も子もないじゃないですか。』と、相手の思考を察してかはたまた偶然か、クリスは冷静に言ってのける。未だ被害者の生存確認も出来ていなければ遺体も見つかっていない状況。『いつもと変わったところは特に。…まだリリーがどこに行ったか、手掛かりはないんですか?』と問われ。彼はリリーが失踪したと思われる日の朝、前日から夜通し友人と飲み明かし、友人の家で寝ていたと証言した。一緒にいた友人らが証言できるはずだと。---そんな供述を聞きながら、突然視界がぐにゃりと歪むような強い目眩に襲われ思わず近くにあったゲージを掴む。独特の金属音が鳴ったものの平衡感覚が分からなくなってしまうことはなく、額に冷や汗が滲むのを感じながらも立ったままで話を聞いて。 )
( 此方の思考を察したのだろう彼の言葉に一瞬僅かに眉が微動したのはその冷静さに対してでは無い。恋愛感情のある相手を狙うか狙わないかはその人の性格やその時の状況で幾らでも変わる為問題はそこでは無いのだ。好きな相手ならば、心を向けている相手ならば、何故“殺したりしたら”なんて言葉を選んだ。少なくともまだリリーの遺体は見つかっておらず殺害されたと断定された訳では無い。失踪では無く事件だと思っているとしても“誘拐したりしたら”が妥当では無いのか。クリスをじっと見詰めたまま、次いで今度は彼からの問い掛けに「__今全力で捜査をしています。」と答えるに留めつつも、果たしてアリバイがあるのならば犯行は難しいか、それとも友達も共犯、もしくは口裏を合わせてくれるよう頼んでいる可能性もあるのかと思案し。__事件の事でぎゅうぎゅうに圧迫されていた脳に金属音が響いたのはその時だった。突然の音に周りの動物達が忙しなく動き、反射的に音の鳴る方へ視線を向ければそこにはゲージを掴み立つ相手の姿があり。クリスは不思議そうな表情を浮かべただけだったものの、長く相手を見ていればその不自然な行動が不調と結び付くのに時間は掛からない。「…また何か思い出した事があればご連絡下さい。失礼します。」このまま長く此処に居るべきでは無いと、話はもう十分聞けたとばかりに話を終わらせては、相手に目配せをして店内へ、そうしてジェイにも軽く頭を下げ車に戻るや否や「__調子悪いね。」助手席に座る相手の手首に触れ脈拍を見つつ、問い掛けでは無い決定の言葉と共にその表情を伺って )
( クリスに聞きたい事は未だあった。ジェイに直接リリーとの関係について問いただしたり口論になったりした事があるのか。他にリリーを誘拐する動機のある者に心当たりはないか。しかし自身の体調が思わしくない事に当然すぐに気付いたのであろう相手は話を切り上げ、車へと戻る。もっと話を聞く必要があったと不服の声を上げようと思ったものの、目眩が酷くそれは叶わなかった。助手席の椅子を深く倒し首元を緩めるのだが、異常なまでに汗をかいていて背中を汗が滑るのを感じた。相手が触れた手は小刻みに震えて脈もかなり早く、自分で鼓動を感じるほど。ただフラッシュバックを起こす感覚とは違うのだ、体調を崩す時に胸の内に残る不安定さのようなものは無いはずなのに。 )
( “可笑しい”と瞬間的にそう思った。脈は触れただけでわかる程に早くその手も小刻みに震え、何時その震えが全身に回り痙攣と言う形になっても不思議では無いと思える程。額にたまのように浮かぶ汗も異常事態を物語っており、こんな状態じゃまともに捜査など出来る筈が無いと。気圧の変化や風邪では無いと思ったが矢張りそれ以上の…毒には結び付かなければ、考えられるのはこれまで幾度となく見て来た状態から導く“フラッシュバックによる発作”で、だからこそ必要なのは鎮痛剤では無く安定剤だと誤診した結果、相手の鞄の中から普段服用している見慣れた薬と、ミネラルウォーターのボトルを取り出し「大丈夫、大丈夫、」と落ち着かけるように声を掛けつつ肩付近を擦り、少しでも飲み込む事が出来そうならば薬を、と )
( 相手から差し出されたペットボトルは受け取ったものの、安定剤には首を振り口にする事はなかった。これまで幾度となく発作に苦しめられて来たが、だからこそ今の症状が過去のフラッシュバックに起因するものではないと直感的に感じたのだ。ほんの少量の水を口に含んだものの、未だ手は震えていて目眩によるものか、視界が日差しの強い外から屋内に入った時のように可笑しな色をしている。「…っ、…少し休ませてくれ、」と辛うじて言葉を紡ぐと深く倒したシートに身体を預け、少し背中を折るようにして目を閉じてしまい。捜査を進めなければならないのに、この状況では到底動けない。少し休む事で体調が戻れば良いのだがと思いつつ、以前目眩が酷い時に飲むようにと処方された目眩止めの薬があるのを思い出す。今は鞄の中を探る動作さえできそうになく「_____鞄から薬を取ってくれ、…ピンク色の小さい錠剤だ、」と相手に頼み。 )
( 普段の相手ならば捜査に支障をきたす事が無い様にと直ぐに安定剤を服用する筈が、今回はどういう訳かそれを拒否した。額に滲む汗や手の震え、脈の速さは何か別の理由から来るものなのかと僅かに眉を寄せ考えるも、その間に相手は倒した背凭れに身体を預け休憩の体勢に。余程辛いのだろう苦しげに吐き出される呼吸音を聞いて今のベストが何かを思案すれば、先ずは相手の要望通りに安定剤を鞄にしまい代わりに奥の方にあるもう一つの袋を取り出し、中からピンク色の錠剤を相手に渡し。__様子を見る限り、明らかに風邪や気圧の変化、少しの体調不良などでは無い。こんな状態で捜査の続行は当然不可能な訳で、目眩止め薬が効き、落ち着くまでの間車の中ではろくに休む事も出来ない筈だ。そうしてそれは署の仮眠室でも恐らく同じ事。仮眠室に行くまでに何人の署員に調子の悪い相手を認識されるか。この場所からなら相手の家より己の家の方が近い…となれば。「__エバンズさん家で休もう。そっちの方がちゃんと休めるし、私1人此処に戻って来ても良い。」辛うじて、と言った言葉がピッタリな程に何とか身体を起こした相手が目眩止めを服用したのを確認してから、今一度軽く肩を擦りこの先の行き先を。これは提案では無く己の中では既に決定事項だ。なるべく車を揺らさぬ様運転に注意を払いつつ自宅まで向かう事として )
( 捜査に注力すべきだと思いはするものの、今は相手の提案を拒絶する事はしなかった。出来なかったと言う方が正しいだろうか。この状態では何も仕事が手に付かないのは目に見えているし、署に戻った所で他の署員の目もある。少し落ち着くまでの数時間だけでも家で休むのが最善だと思えば、頼む、とだけ答えて目を閉じて。---車が停まると相手に支えて貰いながら家に戻ったものの、相変わらず視界は嫌な揺れ方をしていて目を開けているのが辛い。ジャケットも脱がずにベッドに横になると、メールを打つことは出来そうにないため何かあれば電話をするとだけ伝えて目を閉じて。「…悪いが、他に怪しい人物に心当たりがないか、被害者のクラスメイトやバイト先の人間に聞き込みをしてくれ。今捜査線上に上がっている被疑者ももう少し絞り込みたい…アリバイの確認も頼む、」頭は正常に働いているからこそ、やらなければならない事は整理できるのに何も出来ない事がもどかしい。少し落ち着いたら署に戻ると告げて。 )
( 身体を起こしておく事は疎か、目を開けて居る事すら酷く辛いのだろう、ベッドに身を横たえた相手は視界を閉ざしたままに身体の不調とは裏腹に正常に働く思考で捜査の指示を出した。それに軽く頷き「大丈夫、クリスにももう少し詳しく聞き直すから__何も心配しないで。」掛け布団を相手の肩付近まで掛けてサイドテーブルに一応の安定剤と目眩止め、それからミネラルウォーターのペットボトルを置いて家を出る。不調の相手を1人残してこの場を離れる事に不安が全く無い訳では無かったが、今は少しでも早くリリーの居場所に関する情報を得る事が優先だった。__車を走らせ先ずはペットショップへと戻ると店内へ。お客の出入りを知らせる扉に取り付けられた鈴の音が鳴り、此方の姿を見たジェイに、クリスともう一度話がしたい、と言えば再び店の奥へと案内してくれて。__クリスは先程と同じく小動物のゲージの掃除をしていた。「…先程確認しそびれた事がありまして、お忙しいとは思いますがもう少しだけお時間を下さい。」と話を切り出した後、「リリーさんとの関係について、直接店長と揉めた事はありますか?…それと、例えばリリーさんが誰かと揉めていたとか、彼女に好意を抱いていた人が別に居たとか、誘拐の動機がありそうな人物に心当たりは?」2つの質問を問い掛け手帳を開いて )
( クリスは掃除の手を止め再びやって来た相手に視線を向けると、相変わらず淡々と聞かれた事に答えた。『店長に直接何かを言ったり言い合いをしたりした事はないです。まぁ、特別仲良くやってるって訳でもないですけどね。_____あ、それなら1人思い当たる人がいます、よく来る客で。動物を見に来てるとかそういうのじゃなくて、あからさまにリリー目当てで迷惑してたんです。最近では待ち伏せ?かなんかをされたらしくて、その客が来たら彼女には裏の作業を任せて表に出さないようにしてましたよ。店長の方が詳しいとは思いますけど、あいつは調べた方が良いです。』_____クリスが挙げた男は、ジェイによるとマーティン・スコットという男だという。トラブルになった時に免許証で名前などを控えたのだと言うが、警察に届け出る事まではしなかったらしい。 )
( クリス、ジェイ共に【マーティン・スコット】と言う名前の男性を怪しい人物として挙げた。新たな容疑者の登場で絞込みは更に範囲を広げる事となり彼にも話を聞く必要が出て来たと思えば、ジェイから過去の防犯カメラ映像を見せてもらいマーティンの顔を確認し。後は署にてマーティンの前科の有無やリリーとの関係について話を聞く事が最初。それが終わり次第クリスの証言したアリバイが本当かを確かめる為に彼の友人に会いに行き、もう一度大学での聞き込みの必要性もあるだろう。__クリスに話を聞き終わりペットショップを出る際、ジェイに向き直り軽く頭を下げてから「ありがとうございました。…あ、最後に一つ。これまでリリーさんとの関係でクリスさんと揉めた事はありますか?」と、先程のクリスの話の真偽を確かめて )
( 相手の問いに、ジェイはクリスと同じく“揉めた事はない”と答えた。互いに何となく嫌悪感や気まずさのような物を感じているだけで、直接的な不和があったわけではないようだ。---相手が署に戻って来る頃、1人の男がエバンズの執務室へと足を踏み入れた。刑事課のフロアは人が行き交い各々忙しなく業務が行われているものの、警部補専用の執務室の電気は消えていてパソコンも閉じられている。捜査に出ているのか、はたまた彼に盛っている毒の効き目が出始めたか。マグカップは定期的に使われているようで目論見通り順調に事が進んでいるのだが、たったこれだけで根を上げられては困る。違和感のない自然な動作でマグカップの縁に毒を塗り付けつつ、資料を彼の机の上に置き。 )
( 2人の話が一致した事で大きな揉め事は無かった事が一先ず証明された。着実に絞り込みを進める中署に戻る前にスマートフォンを確認するが相手からの連絡は無く、静かに身体を休ませる事が出来ているだろうかと思案するが、連絡も出来ない程に苦しんでいる可能性もある。何にせよ兎に角急ぎ聞き込みを終わらせ相手の様子を見たいとスマートフォンを鞄に戻し署へと車を走らせて。__やれ強盗だ、やれ事件だと刑事課のフロア内は相変わらず署員が忙しなく動き回っており時折疲弊した溜め息も聞こえて来る。自席に鞄を置きノートパソコンの電源を入れて何となしに頭を向けた先、暗い警部補専用執務室に気配を感じた気がして首を傾げる。体調が良くなった相手が戻って来たのかとも思うがそれならメールの一つ送られて来ていても可笑しくは無い筈だ。数秒間執務室を見詰めた後、静かに歩み寄り軽いノックに続き直ぐに扉を開ければ果たしてそこには暗い部屋の中男性の姿があり。「っ、」流石に驚いたと双眸が見開かれるが、フロア内の光を受けてその人物がたまに廊下で擦れ違う事のある別のフロアの派遣職員だと気付くと、口元に小さな笑みを蓄え「…お疲れ様です。警部補に用事ですか?」と、問い掛けて )
( 相手が執務室の扉を開けた時、ちょうど資料を置いて部屋を出ようとしていた所で男も驚いた表情を浮かべる。相手がいつもエバンズと行動を共にしているベル・ミラー刑事である事は当然知っていて、直ぐに同じように微笑むと『お疲れ様です。すみません、エバンズ警部補に捜査経費の書類を渡しに来たんですがご不在だったので。デスクの上に置いてあるので、確認後総務部に戻して頂くよう伝えて貰えますか?』と告げて。怪しまれないための下準備は念入りに行っているため説明にも淀みが無ければ、刑事課に関する業務を率先して請け負って来ているため書類も普段から彼が処理しているもの。怪しまれる要素はひとつもなく、説明と共にデスクの上に置いた書類を指差して見せ。ついでに『今日中に貰えるとありがたいんですが…何時ごろに戻られるか分かりますか?』と付け足し、彼の様子を間接的に窺い。 )
( 彼が派遣社員として雇われたのは確か数ヶ月前と、期間こそ短いものの度々捜査経費等の書類関係で刑事課のフロアで姿を目撃していた。だからこそ普段と変わらぬ様子でエバンズの居ない執務室に居た所で特別怪しむ事も無く、デスクに置かれた丁寧に端の揃えられた書類を一瞥した後に「わかりました、伝えておきますね。」と、快く頷き。己の横を通り過ぎて部屋を出て行くと思われた相手はどうやら書類に関してたっぷりの猶予を持っている訳では無いようだ。問い掛けのその裏の真意に気が付く事は出来なく、相手の奥の壁にかかる時計に視線を向けると「そうですね__…、」と考える素振りを。今のエバンズが何処まで調子を戻したのかがわからない以上下手に勝手な返事をする事も出来ず、少しの沈黙を置いた後。「…今日中に聴取をしなければならない被疑者が多くて。もしかしたら遅くまでかかるかもしれないんですけど……」エバンズはあくまでも今聞き込みに出ていると言う体で、やや眉下げた申し訳無さそうな、それでいてどうしたって曖昧になってしまう返事を返して )
( 案の定、彼の部屋に居たことを怪しまれる事はなかった。実際に相手の言う通り聴取に追われているのかもしれないが、エバンズの戻り時間を明示しない事を考えると身体に不調が出始めている可能性も十分にある。既に継続して毒を盛っているため異変が出るのは想定通りだが、彼が署に来なくなって毒を盛る機会がなくなるのも、今病院に行かれて毒物が検出されるのも困るのだ。『そうですか…分かりました。そうしたらなるべく早めにお願いします。』とだけ伝えて軽く会釈すると刑事課のフロアを後にして。---一方のエバンズは、目眩を抑える薬を飲んで休んだ事が功を奏したのか、実際は摂取した毒物がようやく体内で薄まったのか、幾らか動ける程には回復していた。時刻は既に午後4時を過ぎているのだが、今からでも署で出来る事はあるだろう。座ったり横になったりしている方が楽なのだが、署にさえ行ってしまえばなんとでもなる。着たまま横になったことで少し皺の入ったジャケットを整え、“少し落ち着いた。今から向かう”と、相手のスマートフォンにショートメッセージを送り。 )
( 総務部の男性職員と会釈を交わし別れてから自席に戻り、確認したがマーティンに特別な前科は無く、とは言え前科が無いから犯罪を犯さないと言う事にはならない。時刻は午後4時を過ぎた頃で大学への再聞き込みとクリスの友人へのアリバイ確認は明日以降になると思案しつつ、今日中にマーティンの自宅へと話を聞きに行こうと。鞄を持ち席を立った時、ふいにスマートフォンが音を鳴らし手に取ればそこには相手からのメッセージが来ており、画面上の時間を確認する。__署に来れるだけの体調を持ち直したのかもしれないがマーティンへの聞き込みは未だ大きな負担になると思えば、“今からマーティンの家に聞き込みに行って来る事、総務部から捜査経費の書類が来ていてなるべく今日中に戻して欲しいとの事”を返事として送り、署を出てマーティン宅へと向かい )
( 多少なり回復したとはいえ、未だ捜査に奔走できる状態ではないと判断したのだろう。先に1人で聞き込みに行くという相手の返事を確認すると、タクシーを呼び署へと向かい。---フロアで会った署員たちに特別怪しまれる事もなく部屋に入ると電気をつける。デスクの上には幾つかの報告書と、相手が言っていた捜査経費の書類が置かれていてパソコンを起動するとデスクに置いていた眼鏡を掛けそれらの書類に目を通して。 )
( __【マーティン・スコット】の家に着いた時には既に午後5時近くになっていた。外で遊んでいた子供達がちらほらと家へ帰り始める中で扉を軽くノックすれば、中からは“少し待ってくれ”の言葉が聞こえそれから数十秒後に鍵の開く音と共に扉が開かれ。顔を出した男と監視カメラ映像で確認した男の容姿は同じ。彼がマーティンで間違い無いと判断すれば「レイクウッド署のミラーと言います。リリー・ブラントさん失踪の件で少しお話を聞かせてもらえますか?」胸元からFBIの警察手帳を取り出し見せ。少し考える素振りを見せたマーティンだったが、素直に家の中へと案内してくれて、互いに向かい合う形でソファに腰を下ろし聞き込みを開始する。“リリーに好意があったかどうか”“リリーが失踪した日のアリバイ”の2点を問うてその答えを待ち。__一方レイクウッド署では先程捜査経費書類を持って来ていた派遣職員が再び刑事課フロアを訪れていた。今度は嘘偽り無く総務部からの書類を署員に配る目的だったのだが、先程電気の点いていなかった警部補専用執務室の明かりが灯っているではないか。扉一枚隔てた其処に、自分の盛った毒を何も知らず摂取している相手が居る。…そう思うとどうしてもこの目で様子を見たくなってしまい、ノックの後『…総務部の者ですが、』と声を掛けて )
( マーティンは相手の問いに対して、好意はあったと答えた。しかし先に好意のある素振りをしてきたのは彼女の方でストーカー行為をしていたわけではないと主張するあたり、若い女性から仕事上で愛想良くされた事を“好意”と受け取ってしまう、よくある“都合の良い勘違い”のパターンと言えよう。被害者が失踪した日は、昼過ぎにペットショップを覗きに行ったものの、午前中のアリバイは無いという状況で。---書類を確認していると不意に部屋の扉が叩かれる。総務部という言葉に、相手が言っていた先ほどの書類を取りに来たのだろうと思えば入室を許可し、確認を終えてサインをした書類を相手に差し出す。「捜査経費の書類だったな、遅くなった。」と言葉を添えつつも、未だ顔色はあまり良くない。文字を見る限り手の震えのような症状が慢性的に起きている状況ではなく。 )
( マーティンに確かなアリバイは無く、加えて勘違いからの逆上によりリリーを拉致監禁しても可笑しくは無い程に“都合の良い”思考だ。「わかりました。また何かあれば伺います。」と頷き一先ずはその情報だけを持ち帰る事として。___入室の許可が降りた事で男性職員は静かに執務室へと足を踏み入れた。相手から捜査経費書類の話を出されると『いえ、急がせてしまって申し訳ありません。明日の朝でも間に合うようになったとお伝えするつもりで来たのですが、』と、此処に来た最もらしい理由をくっ付けて軽く頭を下げ書類を受け取り。その文字に歪みや薄さは無く表立って毒の影響が出ているのは感じられない。顔を上げて見詰めた相手の顔も、何処と無く顔色の悪さは伺えるが元々が白い為に大幅な変化は無いように思えて。不自然に思われない何気無い小さな動作でデスク上のマグカップを見、中身が入って無い事から毒を塗ってからまだ使用されてない事を知る。早く、何でも良いから飲め、と早る気持ちを抑えつつ『…では、失礼します。』と、再び深く頭を下げて執務室を出、そのまま総務部へと戻って行き )
( 明日の朝でも、と言う事だったが早く処理できるに越した事はない。相手の言葉に頷きつつ、また何か必要があれば声を掛けてくれと告げ相手を見送って。_____仕事に行き詰まった時、少し休憩を取りたいと思った時に温かい飲み物を欲するのは極自然な事だろう。少ししてマグカップを手に立ち上がると、紅茶を淹れる為に給湯室へと向かう。マグカップの縁に毒が塗られているなど当然思いもしなければ、無味無臭の其れに気付く事が出来る筈もない。午前中の酷い症状が幾らか落ち着いた事に安堵して、温かい物を飲みたいと思うだけの余裕が生まれた事も更に毒を摂取するきっかけとなった。ティーバッグからお湯に色が染み出すのを眺めつつ、今回の事件で被害者の行方が未だ掴めない事を考える。怪しい人物は数人上がっているものの、皆が皆被害者に好意を持っていて関係性がややこしい。ぼんやりしていて濃く出し過ぎてしまったティーバッグをゴミ箱に捨てると、冷蔵庫に入っている牛乳を入れ再び執務室へと戻り。 )
( __署に戻り、執務室の明かりを目にしたのは相手が紅茶休憩をとった少し後の事。メールにあった通り確りと戻って来る事が出来たのだと思えば一度自席に鞄を置いた後、扉を2度ノックしてから返事を待つ事無く入室し。椅子に座り此方を見た相手の手にはマグカップが握られており、具合の悪さから何も胃に入れる事が出来ていないのでは、と思っていたからこそそれも安堵を助長させた。ふ、と鼻から抜ける様な息を漏らした後に「戻りました。」と一言告げるとデスクを挟んだそこにあるソファへと腰を下ろしつつ「…少し落ち着いた?」未だ顔色が悪い事は悪いのだが、先程までの調子の悪さは少し休んだからか、それとも薬が効いた事によるものか、おさまっていると思えば体調を確認する様に緩く首を傾けて )
( 扉がノックされ相手が顔を出すと視線を重ね、体調を尋ねる言葉に小さく頷くと「…あぁ、手間を取らせて悪かった。」と答えて。体調は万全とは言えないものの午前中と比べれば幾らかマシになっていて、紅茶をひと口飲むと相手の聞き込みの成果を聞き。相も変わらず、怪しい人物こそ上がっているものの容疑者を絞り込むに至らない状況に息を吐きくと「…分かった。現時点では、全員被害者に好意を持っていたと言う事以外の情報が未だ薄い。犯人が白昼堂々彼女を誘拐すると言う暴挙に出ている以上…何か事件に繋がる決定打があった筈だ。被害者自身についてもう少し調べる必要がありそうだな。何か犯人を駆り立てたきっかけ______自分の好意を蔑ろにされたと受け取ってしまう状況や、トラブルがなかったか、彼女の友人やペットショップの関係者を中心に広く情報を聞きたい。」と告げて。相手はよく動いてくれている、自分も捜査に集中しなければと。 )
( 謝罪の言葉に「平気。」と答えたのは強がりでも何でも無く素直に問題無いと思えたからで。「流石にマーティンの名前まで挙がるとは思わなかった。被疑者を絞り込む筈だったのに。」ソファの背凭れに軽く体重を掛け、今日新たに登場した被疑者に溜め息を。アリバイがあり直ぐに被疑者枠から除外する事が出来れば良かったものの、彼にアリバイは無く更には“リリーからの好意”を勘違いしてる以上相手の言う事件に繋がる決定打的な揉め事を起こしていても不思議では無い。未だ被害者の行方がわからないのも釈然としなかった。「…大学には昼休みを目掛けて行くとして、朝一でクリスのアリバイ確認もとりたい。」と、要望を口にしつつ、今一度相手の体調を伺う様に視線を向けた後「__エバンズさん、今日泊まってもいい?」と少し声を潜め此処暫く無かったお泊まりを望んで )
( 車が見つかったスーパーの監視カメラは店の入り口にしか向いておらず駐車場の状況は記録されていなかった。そのため車を降りてからの彼女の行き先を掴めずにいるのだが、其の捜査も急がせなければと。翌日の聞き込みの計画に同意を示すも、続いた問い掛けには暫し返事に躊躇する。原因こそ分からないものの夜も体調を崩す可能性はある訳で、敢えて相手を巻き込み気を遣わせるのも憚られる。「_____未だ体調が安定しない。お前も捜査の疲れがあるだろう、」と答えて。 )
( 案の定相手はこの要望に言葉を詰まらせ曖昧な表情を浮かべた。特別何も無い状況であるならまだしも、体調面で不安がある以上夜中に目を覚まし此方の眠りも妨げてしまう可能性があるとでも考え首肯しかねて居るのだろう。不安定な遠回しの言葉に少し考えてから「…じゃあ駄目?」と、珍しく相手からの明白な言葉を待つ問い掛けを続けた後、それでも許可が降りる様少しだけ悪戯に笑うと「夜中に目が覚めた時、あったかいホットミルク飲めるよ?」己が居る事による物理的なメリットを挙げて、その答えを待ち )
( 駄目だと断言しきる程の事でもないため言葉を詰まらせたものの、相手は引く事をせずメリットもあるのだとばかりに言葉を続ける。「…分かった、好きにして良い。」と、此方が折れる形で家へ来る事を許可すると、この所相手に翻弄される事が増えたと1人溜め息を吐いて。---紅茶を飲んでからちょうど2時間程が経った頃、当然その因果関係には気付いて居ないのだが、突然パソコンのモニターが歪んだように感じてまたかと眉を顰める。頭痛と目眩の症状は未だ午前中ほど酷くはないものの、視界に映るものが二重に歪んで見えて思わず眼鏡を外して眉間を解す。そのまま仕事を続けていたものの、パソコンに打ち込んでいた資料の文字は途中からスペルミスや打ち間違いが増え、誤植を示す赤い波線が表示されているのを見て手を止めて。手が震えてキーボードを上手く打てていないのか、それとも視界が歪んでいるせいでキーボードの正しい位置を認識できていないのか、どちらにせよ正常ではない。既に退勤している者も多くフロアには人が少ない。部屋を出るとそのままトイレへと向かうのだが、入ってすぐの手洗い場の所で酷い目眩に襲われその場へと座り込んでしまい。 )
( 此方に判断を委ねる言葉なれど泊まりの許可が降りれば何処か満足そうな表情で仕事の続きをするべく自席へと戻り。__今日纏めておきたい事件の資料が出来上がり、ガチガチに固まった身体を解すべく両腕を上げぐぐ、と伸びをしてから深く息を吐き出したその時。視界にフロアを出る相手の姿が映れば何となしに頭を向け、僅かに怪しむように目を細めた。それは一瞬であったが苦しげに眉が顰められた表情に見えたからに加えて、何かに耐えるような至極ゆっくりとした足取りに思えたから。一拍程の間を置いて静かに席を立つとフロアを出て廊下へ。辺りを見回しても既に相手の姿は無く、エレベーターの表示も止まっている為乗った訳では無さそうだと思えば、この短い擦れ違いで姿が見えなくなるとなれば直ぐそこにあるトイレに行ったのかと、踵を返す前。何の勘が働いたのか躊躇いがちに一度だけ「…エバンズさん、」と名前を呼び )
( 視界がぐにゃりと歪むような酷い目眩の原因に心当たりはなかった。体調を崩すことこそ多いものの、この症状は過去に起因する精神的なものではない筈なのだ。外から聞こえた相手の声、様子が可笑しい事に気付き後を追ってきたのだろう。せめてこの症状を引き起こしたのが家であればと思うものの、此処は職場で自分が居るのは男性用トイレ。相手を呼ぶ事も出来る筈がなく、暫しの沈黙の後に少しばかり目眩の波が引いているタイミングで立ち上がると外へと出て。気を抜けば再びしゃがみ込んでしまいかねない状態で、「______帰りたい、」と、外に居た相手に唐突にもひと言だけ訴える。しかし執務室に戻り、纏めかけの資料を保存してパソコンを閉じた上で荷物を手にし車に向かう、それだけの作業も今は出来そうになく「…車まで荷物を持って来てくれないか、」と言葉を紡いで。 )
( 呼び掛けに返事は無かったものの、程なくして顔面蒼白の相手が廊下に出て来ると、その余りの顔色の悪さに思わず言葉が詰まる。双眸を見開き反射的に伸ばした片手が相手の腕を取るよりも先にたった一言帰宅を訴えられれば「っ、帰ろう、今直ぐ。」と何度も頷き。それから相手に頼まれた通り一度執務室に戻り纏めかけの資料を保存しパソコンの電源を切り、相手の鞄と上着、それから自身の荷物を持って共に車へと乗り込めば、ほんの少しでも気分の悪さが落ち着く布石になれば良いと窓を開け車内に風を入れて。__10分程で相手の家に着くと、先に鍵を借りて荷物を中へ。続いて車に戻り相手を支えた状態で部屋へと入ると、なるべく大きな振動にならぬよう注意を払いつつソファへと座らせ、首元を緩める為にネクタイとワイシャツのボタンを二つ外す。その際首元に手を当て脈を確認したが、脈拍は早く、あの時の車内でおきた状態と酷似してると言えよう。「少し横になる?その方が楽じゃない?」相手の背中を優しく上下に擦りながら、此処は家なのだ、身体を横たえる事だって出来ると促して )
( 相手が泊まりに来るという約束は、結果的に功を奏したと言えよう。支えて貰いながら部屋へと入りソファに座ると、午前中に飲んだものと同じ目眩止めの薬を流し込んで。首元が緩み汗の浮かんだ肌が空気に触れると少しばかり楽になるようで、相手の促す言葉に頷いて身体を横たえる。呼吸が乱れている訳ではないものの脈拍は早く、首筋はじっとりと湿っている。視界に映るもの全てが二重に見えるような感覚と強い目眩に目を閉じると、やがて浅い眠りに落ちたようだった_____実際には朦朧とし意識を手放したに近い状態だったのかもしれないが。時間にして30分ほど、ふと目を開けると視界の歪みは幾らか軽減されていた。少量の同じ毒を摂取し続けている事で身体に僅かながらの耐性が出来ていて、中毒症状の起きる時間が短くなっているのだろうが当然その感覚は無い。未だ脈は早く体調は優れないものの、目を開けているだけで辛い状態は落ち着きつつあるようで。 )
( 横になり、程なくして気を失う様に意識を手放した相手を見詰め張り詰めていた緊張が解けたのか息を吐き出す。意識のある中具合の悪さに耐えるのは辛いだろう、僅かでも眠れる事に安堵するが根本的な事が解決した訳では無く、此処暫く続く相手の不調について考え。安定剤を飲まないと言う事は、相手の中で過去に起因する精神的なものが引き金となっている訳では無いのだろう、けれどただの風邪で片付けるには余りにも問題点が多すぎる様に思えるのだ。やはり一度病院に__と、そこまで考えて、相手が目を覚ましているのに気が付いた。上から覗き込む様に合わせた視線、焦点は合っていて平衡感覚がわからなくなる程の酷い目眩は落ち着いていると判断すると「起き上がるのが辛かったら、このままで良いからね。…何か欲しい物ある?」床に肘立ちの状態でそう問い掛けつつ、汗で貼り付く焦げ茶の前髪を軽く払って )
( 汗ばんだ身体が気持ち悪い。前髪が払われた事でじっとりとした暑さが少しばかり軽減し、相手の問いには「…水が欲しい、」と答えて。これ程汗をかいたのだからある意味当然ではあるのだが、酷く喉が渇いていた。身体をゆっくりと起こし受け取ったグラスに口をつけて少し水を飲むと、小さく息を吐き出す。サイドテーブルに、まだ水の残ったグラスを置いて再びソファへと横になると、少しの沈黙の後に「______過去が作用してる訳じゃない、」とひと言呟く。「フラッシュバックも起きていない、…記憶に飲み込まれそうな苦しさとも、過呼吸とも違う感覚なんだ、」と言葉を続けて。自分でもこの突発的な体調不良の原因が分からないことに不安感を抱いていた。 )
( 僅かでも水分を補給出来た事は大きい。体調が少しずつ戻って来ている事にも繋がるし、もし万が一吐き気を催しても胃の中にあるそれを吐く事が出来ればただ嘔吐き続けるより楽な筈だ。再びソファに横になった相手に視線を向け唐突に落とされた言葉に耳を傾ける。確かに相手の言う通りこれまでの過去が作用している発作的な調子の悪さとは何処か違うと傍目から見ても思うのだから、相手自身が一番そう感じているのだろう。けれどだとしても原因が不明なのだ。「エバンズさんがそう言うならきっと他の原因がある筈。__頭痛と目眩…熱中症な訳でも無いだろうし。…他に何か症状はある?」先ずは相手の言葉に頷き、続いて考え込む様に視線を床に落とした後、顔を上げ問い掛ける。理由のわからぬ不調はただ不安だけを産み、素人が幾ら考えてもわからぬ時、専門の人に判断を委ねるのが適切だとも思っていれば、「…嫌かもしれないけど、一度病院に行くべきじゃないかな。」と付け足して )
( 主な症状は頭痛と目眩、それに加えて心拍数の上昇や発汗がある事を思えば暑さに影響を受けている可能性も排除はしきれないだろうか。「_____脈が早くなって、異常な程に汗をかく。…明日はもう少し水分を摂るようにしてみる、」と答えて。病院に行くべきだという相手の主張はもっともだ。原因不明の、それも日常生活に支障をきたす程の不調が起きているのだから早々に病院に行くべきだろう。しかし今は、それ以上に優先したい事があるのだ。「……捜査の進みが遅い。時間が経つほどに証拠が消えて行く上に、そろそろ何かしらの糸口を掴まなければ人員を削られてもっと追い込まれる事になる。今が踏ん張り時だ、」暗に病院に行くのは捜査に進展が見られて時間が取れた時で、今はそんな事をしている余裕はないと言葉にして。“本当に不味いと思ったら時間を取る”と付け足した言葉は、自分を後回しにする時に誤魔化すようにいつも言っている事。実際これまで自身の判断で病院に行った事は無いに等しいのだが。 )
( 異常な脈拍と発汗は矢張り暑さのせいなのだろうか。けれども真夏でも無いし全く水分を補給してない訳では無いと思うのだ__ならば何故。意識的に水を飲む様にする、との言葉には取り敢えず頷くも、続けられた“らしい”返事には一瞬眉を寄せジットリとした瞳を向け「……」言葉の無い時間が数秒。ふ、と息を吐き出すと「…それ、エバンズさんが言う言葉の中で私が信じられないと思う三つの内の一つだからね。」と、態とらしく肩を竦め。残り二つは、明らかに体調が悪いだろう時の“大丈夫”と、病院に行けと行った時の“後で行く”なのだがそれを態々告げる事は避け。__捜査の進みが悪い事も被疑者の絞込みが上手くいってない事も身をもって理解している事。加えて被害者の女性はまだ見付かってすら居ないのだ。彼女がまだ生きている可能性が残されてる以上捜索に全力を尽くすのが最優先事項な訳で、それ以上今直ぐに、と言葉を続ける事をしなければ「__…リリーを見付けたらその後ちゃんと時間を取って。エバンズさんが病院に行ってる間に証拠を見付けて、犯人逮捕に全力を尽くすから。」これが此方の折れる条件だとばかりに真っ直ぐな瞳を向けて )
( 相手にとって自分は随分信用ならないようだと思い僅かに眉を顰めたものの、その“3つ”を問いただす事はしなかった。続いた相手の提案に数度頷くと「分かってる、」とひと言。先ずは失踪した女性の行方を早急に掴むこと、そして捜査線上に上がっている被疑者たちのアリバイを調べ疑わしい人物を絞ることが最優先だ。「_____泊まるなら寝室のベッドを使え。俺は此処で良い、」今夜は泊まるのだと言っていた相手にベッドを使うよう告げると、今は起き出してベッドまで移動する方が億劫だと。 )
( 署から此処まで相手自身もわからぬ原因不明の不調に耐えたのだから、少しの時間眠る事が出来たとは言え体調が完璧に元に戻った筈は無く、今はただ遅れてやって来た倦怠感の様な怠さに襲われているのだろうと思えば、無理にベッドに連れて行く事はせず素直に頷き。__言われた通り直ぐに寝室に移動する事はしなかった。唐突に伸ばした右手を相手の頬にあてるや否や、「…さっきの言葉、怒った?…エバンズさんの事はちゃんと信用してるんだよ。でも心配が勝っちゃうの。」確信は無いものの、何となく何処か機嫌が悪い様に感じると、体調の悪さも勿論そうだろうが、先程の己の言葉も少なからず影響しているのではと思い僅かに首を擡げ。白く、少し冷たくも感じられる頬を掌をあてたまま親指の腹で何度か撫で「心配されるの嫌いだってわかってるんだけどね。」と、言葉を続けた後、「…酷い言い方したね、ごめんなさい。」顔を覗き込む様にして謝罪を送り )
( 相手の手が頬に添えられ顔を覗き込まれると、少しばかりバツの悪そうな、不機嫌そうな表情を浮かべ「_____別に怒ってない、」とひとこと。自分にとって優先順位が低い事に関してはその場凌ぎの適当な言葉で流している自覚があるし、相手が“口煩く”言うのも自分を案じての事だと理解はしていた。しかし相手が謝罪を紡いだ事で逆に意固地になっていると言うべきか「上司として信用ならないんだろう、お前の言い分は分かってる。」とぶっきらぼうな言葉を。この所は体調を崩す事も多く、隠していても共に捜査を請け負っている相手には見抜かれる。捜査が思うように進まない要因が、本来捜査とは関係のない自身の体調面にある事が殆どでその事に苛立ちを抱えていた。謂わば自身に対するやるせなさを相手にぶつけている八つ当たりに近いのだが、今回もまたこうして足を引っ張り、相手に余計な業務を増やしている自分自身の“頼りなさ”に、無性に腹が立つのだ。 )
( “怒ってない”と相手は言うがその表情は誰がどう見ても不機嫌そのもので、思わず浮かんだ笑みを誤魔化す様に左手で己の口元を軽く触りつつ「そっか。」と一言だけ答えるに留め。そのまま頬を撫で続けていたが相手は何を思ったのかこの会話を尚も続ける為のぶっきらぼうな“自嘲”を口にした。その言葉に動かしていた指先はピタリと止まり、その緑眼に真剣な色が宿る。「そんな事言ってません。」と、先ずは言葉を真っ直ぐに否定。「__本当に上司として信用出来ないと思ってるなら、捜査の指揮官を違う人に変えて貰います。でも私は今回の事件、2人揃ってないと解決出来ないと思ってる。だから事件解決まで何方も欠けちゃ駄目。」相手の頬にあてているだけの手を静かに引き自身の膝の上へ移動しつつ、相手が必要だと言いながらも変な重圧を掛けぬ様に“2人”と強調して。相手が何故こんな言い方をしたのか、それが何処にぶつける事も出来ない自分自身に対する苛立ちや不甲斐無さから来てるのだと言う事は感じていた。「…エバンズさんじゃなきゃ嫌だ。」今度は伸ばした手で相手の手を取り、そのまま自身に軽く引き寄せ相手の手に頬をくっつけると、何時ぞやも口にした事のある子供の様な言い回しで相手以外は望まないと、悪戯にはにかんで見せて )
( 相手が時折口にする、何処か子どもっぽいその言葉は何故か拒絶する事なく受け入れる事が出来た。自分が必要とされているという優越感に浸りたい訳ではないのだが、飾らないその言葉は相手の偽りのない思いのように思えて。少しばかり呆れたような曖昧な表情を浮かべはしたものの、それ以上苛立ちに任せて言葉を紡ぐ事はせず。---その夜は症状が悪化する事はなく、朝を迎えた。しかし少しずつ、確実に体内に溜まっている毒は、摂取した直後の強い症状だけに留まらず身体に不調をきたし始めていた。身体が重たい感覚と指先の強張り。未だ普段の何気ない行動に影響が出る程のものではなかったものの、コーヒーを飲むためにマグカップを手にした時に違和感を感じ。しかし今は捜査に集中すべき時だと、その違和感を口にしたり気にする素振りを見せる事はせず、相手と共に署に向かい。 )
( __相手が感じた僅かな違和感は上手に隠された為に気が付く事が出来ず、署に着くや否やデスクから必要な物だけを持ち再び相手と共に車に乗り込み。「先にクリスの友達の家に行くね。」今日は昼から大学に行き聞き込みの予定。その前にクリスのアリバイの確認を済ませるべく車を走らせて。赤信号で停まる時に不自然にならぬ動作で隣の相手に何気無い視線を向けるも、昨晩の様な明らかな表立っての不調は見られず一先ずは安堵を胸に。__数十分後、目的地へと着くと、車を降りて呼び鈴を鳴らし。中から男性の声が聞こえ、直ぐにドアが開き顔を出したのはクリスに教えられた通りの友人。「…少しお話を聞かせて下さい。」警察手帳を見せ、時間は取らせないと告げてから「…リリー・ブラントさんの失踪の件はご存知ですよね?その日の朝、クリスさんとはご一緒でしたか?」目前の彼を真っ直ぐに見詰め、クリスのアリバイの真偽を確かめて )
( 相手の問いに友人は頷くと『その日は久しぶりに集まったメンバーで夜通し酒を飲んでました。みんな潰れて、面白がって撮った写真ならありますよ。』と答え、ポケットから取り出したスマートフォンを操作してカメラロールを遡ると、彼は此方に画面を向けた。たくさんのアルコールの空き缶とテーブルの上にはつまみの残り、床で4人の男が寝込んでいる写真だ。仲の良い男友達同士のその写真が撮影されたのは事件が起きた日の7:38。クリスの顔も確認出来るもので、すっかり酔い潰れて寝込んでいる様子。アリバイは立証されたと言って良いだろう。---礼を述べて戻った車内で、スマートフォンが着信を知らせる。電話先の相手は、聞き込みに奔走している捜査員の一人。リリーの恋人だったジェイが、”リリー以外の女性と付き合っている“という話が出たと言うのだ。証言したのはジェイの知り合い。”ジェイは学生の頃から知り合いだったハンナと5年近く付き合っている。時々2人を見かける事がある”という。「_____分かった。また何かあったら連絡してくれ。」と答えて電話を切ると「有力な証言が出た。ペットショップに向かってくれ。」と、予定の変更を告げると情報を共有して。 )
( 彼に見せられた画面には確かにクリスの姿があり、時間に間違いも無い。クリスの証言通りアリバイは成立され彼が被疑者の枠からほぼ外れる事は決定で。__さて、次は大学へ、とエンジンを掛けシートベルトを締めたその時。ふいに助手席に座る相手のスマートフォンが着信を知らせ、口振りからして恐らく捜査官の誰かと会話しているのだろう事がわかれば、発進する事無く電話の終わりを待ち。__電話を切った相手から共有された情報は思いもよらぬ物だった。ジェイはその事を一言も口にはしなかったし、現在進行形で【ハンナ】と言う女性と付き合っているのなら、邪魔になったリリーを誘拐、殺害する動機は十分有り得るのだ。「…もし本当だとしたら最低。」エンジンを掛け言われた通りペットショップに向かう道すがら、小さな溜め息と共に少しの嫌悪に塗れた言葉を吐き出して )
( 恋人がありながらリリーと付き合っていたジェイは、その事実を隠していた。動機があると判断されるのを危惧しての事かもしれないが、捜査員がもたらした情報によってジェイへの疑惑は一気に深まり。---ペットショップに行き恋人の件について問いただすと、暫しの気まずい沈黙の後『……確かに、僕が二股をしていた事は事実です。でも、リリーと適当に付き合っていた訳ではなくて…本気だったんです。事件には関係ないと思って言いませんでした。』と、顔を上げて訴えて。 )
( 事件に関係が無いと思った、では無く保身の為の隠蔽だろうと言わざるを得ない供述に自然と眉根には皺が寄り、その訴えに耳を貸す気など僅かも起きない気持ちになるのは当然だろう。険しい表情のまま「__ではハンナさんの方が遊びだったと?」と、問うた言葉には冷たさが滲み。それを咳払い一つで消し去ると、続いて「ハンナさんは貴方が二股をしている事はご存知ですか?」と尋ねる。__ジェイには十分過ぎる程の動機があるが、逆を返せばハンナにもそれこそ十分過ぎる程の動機がある事になる。ジェイを取り合い口論になり殺害してしまった可能性も…。被疑者が1人減ればまた1人増え、の繰り返しに加えてリリーの行方も未だ不明。思うように進まない捜査の中で相手の体調もまた気掛かりな所であり )
( 相手の的を得た言葉に少し言葉に詰まったものの、ジェイはハンナも遊びではないとばかりに首を振った。そして『ハンナは関係ありません。リリーとは面識はありませんでした。』と、二股をしていたことを彼女が知っていたかという問いに対する返事ではなく彼女は事件に関与していないという事の方を訴えて。「関係ないかどうかではなく、ハンナさんが二股の事実を知っていたかどうかです。」間髪入れずにそう尋ねると、ジェイは『…知っていました。少し前にメッセージを見られて…』と答えた。その言葉を手帳にメモしようとしたのだが、上手く手に力が入らずペンを取り落とす。床に落ちたペンを拾い上げ再びジェイに視線を向けたものの、立ち上がった瞬間に貧血を起こした時に近い感覚があり。 )
( 相手からの指摘に言い難そうに答えた言葉で更に2人が疑わしくなった。リリーの存在をハンナが知っていたとなればジェイを取られたく無いと犯行に及んだ可能性もあるし、ジェイとハンナの2人が共謀してリリーに危害を加えた可能性もある。勿論ジェイ個人による犯行である可能性も消えた訳じゃない。「…わかりました。ハンナさんの__、」“住所を”そう続けようとした所で、何かが床に落ちる硬い音が響き自然と頭は下がる。一度僅かに跳ねたそれはペンで、相手が普段使用しているFBIの文字が彫り込まれている物。続いて落ちたそれを拾い上げるべく相手が屈み__特別変わった事では無い。日常的に普通にある事なのに何だかわからない違和感を感じた。それは直感的なもので、こういった、相手に関する事での勘は当たりやすいのだ。調子の悪さを振り返したのではと思えば一度だけ隣に視線をやった後に目前のジェイを真っ直ぐに見詰め「…ハンナさんの住所を教えて下さい。彼女が事件と無関係かどうかは私達が直接話を聞いて確かめます。」真剣な、けれどもやや早口な言葉で以て拒否は認めないとばかりに。少しでも早く車に戻るべきだと思っていて )
( 今日はあのマグカップを使っては居なかったのだが、既に摂取して体内に溜まっている毒が恒常的に身体に影響を引き起こしつつあるのだろう。立っていられないほどの目眩ではなかったが、少し気分が悪く視界が揺らぐ。メモ帳に書いた文字は普段よりもガタついていて、同時に少しばかり視界が霞むようで手元が見辛かった。相手の言葉にジェイは曖昧な表情を浮かべ『…でもハンナは関係ないので……』と、尚も煮え切らない態度で言葉を濁したものの、相手からの圧に観念したようでハンナの住所を伝えた。「リリーさんの両親に結婚の挨拶に行って、どうするつもりだったんですか?彼女は自分が浮気相手だなんて思いもしなかったんでしょう。」そう尋ねると、ジェイは“どうするか決められなかったから体調が悪いと言って挨拶を先延ばしにしようとした”と言った。そんな状況まで行きながら、リリーともハンナとも別れる決断が出来なかったと言うなら救いようがない。_____二股をしていたジェイ、そんな彼と長年付き合い浮気の事実を知ったハンナ、ジェイと結婚すると親に挨拶に行こうとしていたリリー_____この三角関係だけでもややこしいというのに、まだ他にも事件との関与を拭いきれない人物たちがいる上、被害者の遺体も、居場所を示す情報も出ていない。調べなければならない事も、やらなければいけないことも未だ山積みだというのに体調が優れない。その場で座り込む事にこそならなかったものの、車に戻る頃には背中に酷く汗をかいていて。 )
( 濁された言葉の後、渋々__と言った様子ながら告げられたハンナの住所をメモに書き留め鞄に仕舞ってから再び視線を向ける。相手の鋭い問い掛けに全く以て救いようの欠片も無い返事をしたジェイを見詰める瞳に嫌悪が滲むも、今は一先ず車に戻る事が先決。__助手席に雪崩る様に座り込んだ相手は矢張りあのペンの落下の時から相当無理をしていたのだろう、気分が悪いであろう事は明白で。「ちょっとゴメンね、」手を伸ばして相手のシャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩める事で少しでも息苦しさを払拭しようと試みた後エンジンを掛け。「なるべくゆっくり走るから。…ハンナさんの家に着いたら少しだけ休もう。」そう声を掛けてから車を走らせたそのスピードは言葉通り揺れを最小限にした速度。窓の外から照り付ける日差しもまた気分の悪さを助長させるかと思えば少し窓を開ける事で車内に風を送り。__そうやって進む事凡そ15分後、ジェイに教えられた通りの家に辿り着くと、車がある事を確認した後に路肩に車を停めハザードを点け。「…ハンナさんに話を聞いて来るから、少し待ってて。__終わったらまた署で供述の照らし合わせを一緒に。」少し温くなってしまっているかもしれないが新品のミネラルウォーターを差し出しつつ、穏やかな笑みと共に暗に相手は此処で休んでいて欲しいと。けれども“何も出来ない”と気に病む事が無い様に、最後一緒にやりたい仕事を付け加えてから車を降りて、ハンナが住む家の呼び鈴を押し出て来るのを待って )
( 首元を緩められると相手の言葉に軽く頷き、背もたれを倒す。フラッシュバックによる過呼吸ではない、けれど息苦しさから自然と呼吸が上擦ってしまい身体が酷く重たいのだ。また捜査が相手に任せきりになってしまうという罪悪感は、署に戻ってからの仕事に相手が言及してくれたことによってだいぶ薄れ、「…聞き取りを頼む、」とハンナへの聴取を相手に任せると車に残る事を選び。---インターホンが鳴った事で出て来たハンナは、長髪のブロンドで大人びた、被害者の雰囲気とはまた違った女性だった。相手が手帳を見せた事で警察だと理解はしたものの、何故自分の所に訪れたのかはすぐには思い当たらなかったようで『…何の捜査なの?』と不審そうに尋ねて。 )
( 扉の奥から出て来た女性__ハンナは、写真で見たリリーと比べてやや派手に感じた。それは決して悪い意味では無いものの、異なる2人の雰囲気に果たしてジェイは何方の見た目が好みだったのかと考える。警察手帳を見せた後に紡がれた問いは誤魔化している感じも知らない振りをしている感じも無く、本当に何の用事かわからない、と言った様子なものだから「リリー・ブラントさん失踪の件です。」と、質問に答えつつ話を聞かせて欲しい旨を伝え。不信感はあれど中に通されればソファに腰掛け、さて、内容の核心に迫ろうか。「…リリーさんが失踪した日、貴女は何処に居ましたか?」先ずは彼女のアリバイの確認から徐々に、と。__通されたリビングは窓が大きく開放感の感じられる明るい部屋。ソファに腰掛け少し横を見れば丁度窓の外には路肩に停めた己の車が見える位置で、一度だけ視線を向けて )
( ハンナは相手の口からリリーの名前が出ると眉を顰め『あぁ、あの子の事。』と告げると『色んな男をたぶらかしてたんでしょ?何か事件に巻き込まれても可笑しくないわ、恨みを買ったんじゃない?』と、刺々しく言い。『二股されてた私も容疑者って事ね。本当、災難続きだわ。その日なら…家にいた。ジェイは友達と飲みに行ってそのまま泊まるって言ってたから週末は1人だったの。アリバイなら無いわ、野球の中継を見てたけど証言できる人はいないもの。』ハンナはその日、家で1人だったと答えた。しかしジェイはその日リリーと会っていたのだから、彼女に二股がバレて尚、懲りずに関係を続けていた事になる。---ベルが事件の聞き込みを続け、エバンズが車で身体を休めている頃、署では再び書類を持った男がエバンズの部屋に訪れていた。そろそろ身体に不調が出る程には毒を摂取させる事に成功している筈だ。怪しむ事もなく変わらずデスクに置かれているマグカップに内心ほくそ笑みつつ、彼が異変に気づき病院に罹るよりも前に多量の毒を盛ろうと画策する。はやる気持ちを抑えて、今はまだ縁に塗りつけ密かに苦しませるのみだと。 )
( 目前の彼女は未だ発見には至らないリリーを心配するでも無く刺々しい言葉を吐き捨てた。二股されていたのだから勿論怒りはあると思うが、隠す事の無いその態度は寧ろ清々しいとも言うべきか。何にせよアリバイの立証が出来ない以上被疑者の枠から外す事は出来ず、現時点でアリバイのあるジェイに比べ最も事件に関与してる可能性が高い事になる。手帳に証言を書き留めた最後、静かに顔を上げ彼女を見据えると「二股の件でジェイさんと話し合いは?」と、問う。続けて「__貴女は自分の方が本命だと思いますか?」と。全くタイプの違う様に感じられる2人の女性の何方とも選ぶ事が出来ず、中途半端に互いと付き合って居たとなればその行動も、心情も、全く理解が出来ない。__署内で今も尚、エバンズを苦しめるべく毒を使用し続けている男の存在など知る由も無いままに目前のハンナに質問を重ねる時間が続き )
( ハンナは相手の問い掛けに『話し合うも何も、10も年下の女にうつつを抜かすなら別れるって言ったわ。向こうは学生でしょ?信じられない。』と吐き捨てて。『____失礼ね、私の方が遊びだったとでも言いたいの?ジェイとは学生の頃からの知り合いで、付き合って5年になるのよ。向こうが遊びに決まってるでしょ、』ハンナは苛立った様子を見せ『貴方も彼氏が居るなら気をつけた方が良いわよ、残業だとか友達との飲みだとか言って女遊びしてる奴なんて山ほどいるんだから。』と続けて。---車内にいるエバンズの元に連絡が入ったのは、その少し後の事だった。隣町の警察署から、女性の遺体が見つかったという通報。身体的特徴からリリー・ブラントである可能性が高かった。体調は未だ回復していなかったものの、直ぐに現場に急行する必要があった。ハンナの家にいる相手に電話をかけると「____ミラー、切り上げて戻って来い。隣町で被害者と思われる遺体が見つかった、」と告げ、ハンナの家の窓越しに相手に合図をする。相変わらず視界は嫌な歪み方をしていて、じっとりと汗をかいている。しっかりしろと自分に言い聞かせつつカーナビに通報があった現場の住所を設定し。 )
( リリーは勿論の事、ハンナの事も遊びでは無いと答えたジェイの言葉を思いだす。何方も遊びでは無く本気だったものの、ハンナに二股がバレた事で“別れる”と真っ向から突き付けられた時彼は果たしてどんな気持ちになり、どう行動するべきだと思ったのか。__リリーの両親に結婚の挨拶をする事を、体調不良を理由に先延ばしにしようとしたそれこそがある意味“答え”ではないのか。そう言えばハンナに飲みに行くと言ったジェイは、その日リリーと会っていたのだから結果的に嘘をついたのだと気が付き、彼女の苛立った言葉を聞きながら3人の関係性について考えを巡らせる。その時、ふいにスーツのポケットに入れたスマートフォンが震え相手からの着信を知らせた。失礼します、そう断りを入れてから通話ボタンを押し視線を窓の外に向ければ、果たして此方に合図を送る相手の姿と__電話口から聞こえる最も最悪な知らせ。嗚呼、生きている姿のリリーと対面する事は出来ないのだと、胸に落ちた重たい苦しさに思わずきつく双眸を閉じた後、軽く頷き電話を切り、再びハンナを見。「__話の途中ですが、事件に進展がありましたので失礼します。…ご忠告どうも。」話を切り上げ立ち上がり、尚も不機嫌そうな彼女に軽く頭を下げてから車に戻るや否や、「間違いであればいいのに。」と、一言だけ言葉にし、相手が設定したナビの案内通りに遺体が発見された現場へと急行して )
( 失踪した彼女が生きている一縷の可能性は崩れ去り、事件は紛れもない殺人事件となった。相手の言葉に小さく頷き同意を示しつつも、被害者である可能性は限りなく高いことは理解していた。---現場は山を少し入った所にある川で、車を停められる場所から少し歩く必要があった。それと言って傾斜が急な訳ではないものの、草木の中を歩いて行くのは身体に堪え表情は少しばかり険しいものに。やがて道が開けて現れたのは岩も多くある程度の幅と深さがある川で、既に規制線が張られていた。『お疲れ様です。』声を掛けてきた警官は此方に敬礼すると、ブルーシートで囲われた場所まで移動する。『第一発見者は川釣りに来ていた男性です。被害者は岩陰で故意に川底に沈められていました。身体にナイロンテープが巻き付けられ、ボートを停める時に使用するアンカーで底に固定されていました。遺体の発見を遅らせようとしたものと見られます。』位置関係や発見時の状況を説明されて分かる事は、19歳の少女に対する明らかな殺意と用意周到な隠蔽工作。やるせない気持ちを抱えたまま「…分かった。直ぐに検死に回してくれ、出来る限り早く情報が欲しい。」と告げて。照りつける太陽が川の水面に反射し酷く眩しい。眩しさに引っ張られるように平衡感覚が分からなくなる感覚から既の所でバランスを取り戻し。 )
( 遺体発見現場まで歩くのに苦労する程酷い道のりでは無いものの“今の”相手の体力を奪う事は間違い無いと思われた。けれど相手は足を止める事もせず、表情こそ険しいが気丈に立ち続けるのならば今は口煩く言葉を並べる事はしない。__規制線の向こうでは既に鑑識数名が慌ただしく動き現場は重苦しい雰囲気。それを更に加速させたのは発見された遺体の状態で、“殺す気は無かった”なんて犯人が使うお決まりの言葉すら陳腐な嘘に思える程に明らかな殺意と用意周到さ。相手からの命令に頷いた警官は直ぐにその場を離れていき。__柔らかな風が吹き抜け、川のせせらぎや鳥の声が静かに響くこの場所はきっと“こういう事の為”に使われる場所じゃない筈なのに。既に遺体の状態で運ばれて来たのでは無く、もしこの場所で殺害されたのだとしたら、リリーは生きている間どんな気持ちだっただろうか。照り付ける太陽の陽射しの強さと比例する様に、心が被害者の気持ちに傾く。__と、相手の表情が一瞬険しさを強め、僅かに身体が傾いた気がして空を見上げる。空に浮かぶ太陽を覆い隠す雲は一つも無く場所的には悪い。「__エバンズさん此方、」頭を戻し隣に立つ相手に声を掛けつつ、一度だけ軽く腕を引き呼んだのは、木々が生い茂り陽射しを遮断してくれる森との境目。そこで徐にしゃがみ込むと「…足跡とか、他に何か見落としてる証拠があるかもしれない。…情報が来るまで一緒に。」その状態で相手を見上げ小さく微笑み。“これ”が今の最前の判断だと思っての事で )
( 検死の結果が出るのは早くとも明日、死後時間が経っている可能性が高いため明後日、明々後日になる可能性も十分あった。その間に出来る事は現場に残された物を調べる事。不意に相手に手を引かれ向かった先は日陰になっているエリア。しゃがみ込んでいても不自然に思われないようにという配慮だろう、体調がぎりぎりの状態の今はそれだけでもありがたく小さく頷いて。足元は数日前の雨によって少しぬかるんでいる場所もあり、足跡が残っているとは考えにくかった。此処まで車で入ってくる事はできないためタイヤ痕は残っていない。少しすると警官が戻って来て、『検死の手配が出来ました。遺体の状態が良くないので、少し時間が掛かるだろうとの事です。現場に残っていた物は、此方の作業が終わり次第直ぐにレイクウッド署に届けます。』と告げて。検死に時間が掛かるのは遺体発見が遅れた自分たちのせいでもあるため責める事は当然できない。それでも捜査は進展を見せるだろうと、「ご苦労。また何か気になる事があれば携帯に電話をくれ。」と答えて立ち上がり。供述を照らし合わせ、現場に残された証拠品を調べ、検死結果を待つ。今出来る事はそれくらいだと思えば、相手に署に戻る事を促して。 )
( 地面と近くなった事で湿った土と葉の混じる匂いが鼻腔を刺激するがそこに証拠と呼べる物はありそうに無く、ややして小走りで戻って来た警官より検死の手配が出来たとの旨を告げられれば相手と同じく立ち上がり軽く頭を下げる。リリーの両親に彼女の遺体が発見された事を告げなければならないのは酷く気が重かった。__相手に促されるまま来た道を戻り、車に乗り込んで背凭れに後頭部を当て深く息を吐き出す。シートベルトを締めてエンジンを掛け、運転席側と助手席側の窓を少し開けた所で漸く口を開くと「…戻ります。」とだけ一言。__窓の外から入って来る風の香りに“緑”が混じらなくなった頃、景色はレイクウッドの見慣れた街並みに戻っていて、署の近くにあるスーパーマーケットと公園を通り過ぎ、到着した時には夕方近くになっていた。共に刑事課のフロアの扉を潜ればそこに残っていた署員達から労いの言葉を掛けられ、軽く微笑む事で返事とし。相手専用の執務室に入ってソファに鞄を置いた所で肩から力が抜ける。特別な緊張していた訳では無いが矢張り気は張るもので、「紅茶淹れるけどそれでいい?」と、確認を投げ掛けて )
( 執務室に戻りデスクに腰を下ろすと深く息を吐く。体調が良くない中で外に出るのはやはり疲れが溜まるもので。紅茶を淹れるという相手に「…あぁ、同じものを頼む。」と頷いてマグカップを手渡して。デスクの上には総務からの書類が置かれていて、それに目を通しつつ必要なサインを済ませて。容疑者は未だ4人から絞り込めていない状況で悠長に構えてはいられない。取り寄せていたマーティンの前科に関する資料に目を通し。 )
( 差し出されたマグカップを受け取り給湯室でお湯を沸かす。アールグレイの茶葉のティーバッグで紅茶を淹れ、出来上がった紅に少しの砂糖とミルクを入れたのは少しでもまろやかに喉を通る様にと言うそれ。二つのマグカップから優しく香る紅茶の匂いは鼻腔を通り胸に落ちる。一度大きく息を吸い込み、今日は長丁場になりそうな予感に気を引き締め直し執務室へと戻れば「お待たせしました。…どんな感じ?」相手のマグカップを手渡しつつ、マーティンの前科の有無が書かれている資料を覗き込み。__今はまだ気が付く事が出来ないで居た。飲み物を淹れると言う何時も通りのその行為が、相手を少しでも休ませられる様にと願うその気持ちが、逆に相手の調子の悪さをより一層酷いものにさせていると言う事に )
( 礼を言って受け取ったマグカップに口を付け、まろやかなミルクティーをひと口飲む。相手の気遣い通り飲みやすいそれは仕事の合間の息抜きにぴったりなのだが、実際は身体を蝕む毒を更に取り込んでいる事に他ならない。しかし無味無臭のそれに気付く事など、ここ最近の不調から毒を盛られている可能性に行き着く事など、不可能に等しい。手元の資料を覗き込んだ相手に「マーティンが逮捕された過去はないが、幾つか警察から厳重注意を受けている事案がある。どれも女性への付き纏いやストーカーまがいの行動によるもので、全員何かしらの店で働いている従業員だな。リリーの前は薬局の店員、その前はカフェのスタッフ。警察が介入してからは徐々に大人しくなって、別の店の女性に入れ込む、といった具合か。」と告げて。自分が足を運ぶことのできる店で気に入った女性店員に付き纏うといった迷惑行為を繰り返していたようだと。 )
( 厳重注意は幾度となくされたが逮捕までは至らない、どうせ“これくらい”じゃ警察は逮捕に踏み切れないだろうと調子に乗り迷惑行為を繰り返していた可能性が高いか。茶葉香るまろやかな濁りを一口胃に落とし、相手の僅か後ろで立ったまま資料の下まで目を通して。「__もし犯人がマーティンだった場合、迷惑行為を通報しなかった事をジェイはずっと引き摺るかな、」仮に警察に通報していたとして、危害を加えられて無い以上踏み込んだ対処は出来なかったかもしれないが。気持ちが僅かに別の誰かの心へと向いたそれを、今は捜査に集中しなければと言う思いで引き戻し紅茶をもう一口啜る。それからマグカップを相手のデスクに置きソファに腰掛けたタイミングで手帳を開き。「…検死結果が出ないと何とも言えないけど、ハンナ個人による犯行は難しいんじゃないかな。…別の場所で殺害したとしたも、女性の力であそこまで遺体を運ぶ事は出来ないだろうし、仮に生きてるリリーを車に乗せて2人きりで山までなんて、……面識の無い人に着いて行く?」ページをゆっくり捲りメモした供述を見直しながら、考えを巡らせ、最後、緩く首を傾け相手を見 )
( 事件が起きると誰もが過去の一瞬、自分の選択を後悔する。「…そういうものだ。後悔しても過去は変わらない、」とだけ答えて。続いた相手の考察には同意を示すように頷くと「…そうだな、ハンナの単独犯という事は考えづらい。彼女が事件に関わっているなら、誰かしら共犯者がいたと考えるのが普通だろう。被疑者は揃いも揃って4人ともアリバイがない、ただリリーを巡る三角関係と考えると、ジョンだけ毛色が違うな。」と資料を眺めながら口にして。---マグカップに仕込まれた毒薬が効果を示すのは早くなっていた。既に体内にある毒と反応する所為だろうか。汗が浮かび、胸の苦しさを自覚するようになる頃には、資料の文字を追えない程に視界の歪みが酷くなっていて。 )
( “後悔しても過去は変わらない”それは誰より一番相手自身が感じている事か。それ以上何も言う事無く頷くだけに留めると、手を伸ばしデスク上のマグカップを引き寄せ中身を啜り。「…ハンナの共犯者として上げるならジェイが妥当かなって思うけど、…まだ名前の上がって無い友人とかの可能性も拭い切れないし。」今いる容疑者の中でハンナの手助けをするなら1人しか居ないとは思うがそれも憶測。続く相手の言葉に「確かに、」と頷いては「誰も彼も動機があるのも厄介。」と溜め息を吐き出してからマグカップを再びデスクに置き。__互いに供述を照らし合わせ考察を口にしていた時間は凡そ20分。顔を上げた先に居る相手の額に汗が滲み、苦しげに寄せられた眉を見て体調の悪さを感じ取ればソファから立ち上がり駆け寄る。椅子から落ちてしまわぬ様に背中に添えた掌を僅かに押して、相手を前屈みの体勢にする事でデスクとの位置を近付け「待って、今薬出すから!」外には漏れぬ様、けれどやや切羽詰まった声色でそう声を掛け相手の鞄の中から目眩薬を取り出しそれを二錠掌に。近くに水は無く、相手を置いて取りに行くのは適切では無いと判断すると、良くない事ではあるものの温くなった紅茶で流し込む事を選択し「…飲める?」顔を覗き込み、今の状態で飲む事が出来るかの確認と共に軽く背中を擦って )
( 被疑者として上がっているリリーに好意があった周辺の男たちに、ハンナが殺害を依頼した____というのは、あまりにこじつけが過ぎるか。そもそも自ら嫉妬に狂いリリーを殺害する事こそあれど、見知らぬ女からの依頼で好意のあった女性を殺害するというのは無理がありそうだ。穿った見方をすればマーティンとならあり得るか。「…ジェイからマーティンの存在を聞いていて、リリーに対する嫉妬や憎しみを煽って殺害させた…というのは無理があるか、」思いつく繋がりを口にしたものの、いまいちピンと来ず首を捻り。---また原因の分からない、耐えようのない身体の不調に襲われ、デスクで顔を覆う。促されるまま何とか錠剤を飲み込んだものの「…喉が痛い、…」と苦しげな声が盛れ。何度も経口で毒を摂取している事で喉にも炎症が起き始めている様子。身体を起こしている事が辛いのだが、此処で横になる訳にも行かない。_____不意に扉がノックされ、扉が開き顔を覗かせたのは総務部の男。幸い外の刑事課の署員たちは異変に気付いた様子はない。部屋の中の様子に『す、すみません…書類をお渡ししようと…』と驚いたように告げたものの、エバンズの様子が明らかに可笑しい事は見れば分かる。この様子ではもう一押しで彼を殺害できると内心思いながら、表面上では慌てたふりをして『書類は置いておきます、』と告げて。 )
( やっとの思いで錠剤を飲み込んだその様子だけを切り取れば安堵出来るのだが問題はその薬が効く迄に時間が掛かると言う事だ。胃に落ちたそれが溶けて体調を回復させるに至る迄、相手はこの原因不明の不調に耐え続けなければならない。掠れた苦しげな声で訴えられた初めて聞く症状に視線は相手の喉元へ落ち。目眩や頭痛に加えて喉の痛み、薬の飲み過ぎかとも思うが、それならばほぼ毎日の様に安定剤を飲んでいる時に同じ症状が出ても可笑しくは無い筈だし、そもそも錠剤を服用して喉の痛みが出るなど聞いた事が無い。相手は続く不調を過去の事件で起きる発作的なそれでは無いと言い切ったのだから、そこに繋がりは無いだろう。だとしたら一体何だと言うのだ。パニックを起こしている訳では無いのだから落ち着かせてどうにかなる状態でも無く、どうしたら良いのかもわからないこの状況が酷く怖くて思わず吐き出した息が震え。だが兎に角何かはしなければ駄目だと。一先ず訴えられた症状を少しでも軽減出来る可能性としてコーヒーや紅茶では無く、矢張り水で喉を潤した方が良いのではと思えば「っ、待ってて、今水を__、!」と、背中から手を離し。扉をノックする音が聞こえたのは正にその時。不味い、と反射的に腕は扉に伸びるのだがそれよりも早く無情にも開いてしまったそこに居たのは以前もこの場所で顔を合わせた総務部の男性。彼だから良いとか悪いとかの話では無く、そもそもこの状態の相手を見られたのが不味い。当然彼も慌てた様子なものだから「ありがとうございます、」と、表面上何事も無くその書類を受け取るが全く誤魔化せていない事は明白で、変に言い訳をしても、誰にも言うなと釘をさしても更に可笑しな状況を産むだけだと思えば何も言える筈も無く、「…なるべく早く目を通してサインするよう伝えます。」結果的にそんな事務的な言葉で彼が居なくなるのを待つしかなくて )
( ノックの音がして、この状態を見られてはならないと思いはするのだが、既に平静を装える状態ではなかった。酷い息苦しさと視界の歪み、普段であればなるべく避けたい場所である病院に行ってでも楽になりたいとさえ思う程に苦しく、原因に一切の身に覚えがないのだ。---相手とのやり取りの中で男は『いえ、急がないので…』とだけ気を遣ったように答え、相手の後ろのエバンズに視線を向けたものの言及すべきではないだろうと『失礼しました。』と頭を下げて出て行き。さすがにここまで状態が悪くなれば異変に気付くだろう、長く引き延ばす訳には行かなそうだと明日この地道に重ねてきた作戦を終わらせる事を決め。---酷い症状が少しずつ落ち着くまでには、およそ1時間弱掛かった。相手が部屋にいて、自分の姿を隠すような配置で座ってくれた事で捜査の会議をしているのだろうと室内にまで入って来る者はいなかった。浅い呼吸を繰り返し、ようやく視界が正常な状態に戻り始めるもワイシャツは濡れて気持ちが悪い。「______被疑者逮捕の見通しが立ったら、病院に行く、…」自らそう告げる程に、身体はきつい状態だった。 )
( “何も言うな、早く出て行け”と__自分自身では気が付かないが男を見る瞳にはもしかしたらそんなある種の敵意にも似た色が宿っていたかもしれない。部屋を出る最後の最後迄エバンズを気に掛ける様な素振りこそ見せたが、結局男は小さく頭を下げるだけに留めた。男から受け取った書類をデスクの上に雑に放り、再び相手が調子を回復させる迄の間は物凄く長い時間の様に感じられた。デスクに身体を預ける様な前のめりの体勢で、正常とは程遠い呼吸を繰り返していた相手は、やがて酷く脱力した様子ながらその身体を起こし、例えどんな状況でも開口一番必ず拒否する様な病院へ自ら行くと。それ程迄に原因不明の調子の悪さが限界に達しつつあるのだろうと思えば思わず奥歯をキツく噛み締め「…うん、…絶対に。」と、頷く事しか出来ない。__刑事課の署員達はどうやらこの部屋で捜査会議をしていると思っている様で、それならば好都合。ブラインドをもう僅か閉め殆ど中の様子が見えない様にした所で別に怪しまれる事も無いだろうと。相手の浅い息遣いが酷く大きく聞こえる部屋の中、自身の鞄の中から取り出したのは、見張りの為車で一夜を過ごす事になったとしても問題無い様にと常に持ち歩いているソープの香りがする“汗拭きシート”。それを一枚取り出し「…失礼します。」と、突然触れられる事に驚きや嫌悪が無い様声を掛け、相手の首元を伝う汗を拭い。それからもう一枚を引き抜き__理由があるとは言え流石に“この場所”でこれ以上手を入れる事は出来ないと、シートを相手に握らせ。「検死結果が出ない以上出来る事は限られる。その出来る事は、“今日は”もう終わりでいいよね?」投げ掛けたのは確認の言葉ではあるものの、実際は“NO”の返事は聞くつもりが無かった。「少し休んだら帰ろう。」と真っ直ぐに見据え何がなんでも連れ帰る意志を前面に、後は相手の呼吸が整う迄の間、背中側のシャツを緩く掴み少しでも気持ちの悪さを軽減出来る様にと扇いで )
( 不調を感じるようになってから、日が経つにつれて症状は徐々に酷くなっていた。症状に気付いてから悪化するまでの時間がかなり短くなっている事、そして幾らか症状が落ち着いた後にも倦怠感や気分の悪さと言った不調が拭いきれないものになっている。首元にひんやりとした感覚があり、じっとりとした汗の不快さが少しばかり軽減された。手渡されたシートで、緩んだ首元から鎖骨あたりまで、そしてワイシャツの裾あたりから背中の一部を拭って。相手の言う通り検死結果や現場に残された証拠品が上がってこない事には喫緊でやらなければならない事はない。相手の問い掛けに対して“NO”と答えることはなく、軽く頷くと深く息を吐き出して。「……犯人は必ず捕まえる、」そう呟くように言葉にしたのは、最後まで捜査に邁進するという相手に対する宣誓か、或いは自分自身を奮い立たせ言い聞かせるものか。 )
( 自らの意思で病院を望む程に調子が悪くとも、相手は折れない。まるで誓の様な、自分自身に対する言い聞かせの様な音で落とされた言葉に、ただ大きく一度だけ頷いて。__それから凡そ一時間、倦怠感こそあれどある程度落ち着いた様子の相手の顔を覗き込み表情を確認しては、「…帰れそう?」と問い掛けて。今回の様にいきなり体調不良を振り返し今度は倒れてしまっても可笑しくは無いし、身体の調子の悪さと悪夢を見る事によって心の不安定さが同時に訪れるかもしれない。音として伝えてはいないものの、少しでも近くに居たい気持ちのだと、今夜は相手の家に泊まらせてもらおうと考えていて )
( 相手の問い掛けに帰れると頷けば、デスクを軽く整えて立ち上がる。立ち眩みこそあったものの、再び座り込んでしまうほどではなく鞄を手にすると相手と共に駐車場へと向かい。送ってくれるという相手の車の助手席に座り、ほんの数分微睡んだものの程なく家に着き。相手がエンジンを切った事で、家に来るつもりなのだろうと思うもその事に何か言うことはしなかった。「…家にあるものは好きに食べてくれ。帰る時に鍵はポストにでも入れておいてくれれば良い。」部屋に入りジャケットを脱ぎながら相手にそう告げると、そのまま寝室に向かいベッドに体を横たえて。 )
( __家に着き、部屋に入って早々に寝室へと消え行く背中を見送る。酷い倦怠感と尚万全に回復した訳では無い調子の悪さを引き摺っているのだろう、今は何よりも休息が必要な様に思えた。好きな様に、と言われた通りにキッチンの戸棚を開けてそこにあったパンを一枚だけ貰いミルクで胃に流し込む。何方かと言えば夜ご飯より朝ご飯的な感じではあるし、量だって少ないのだが余りお腹の空いてない今の状態ではこれくらいが丁度良かった。それから数時間、相手の不調の事やリリー殺害の事件について、何か見逃しや不審な点は無いかと考えを巡らせて。__相手は帰る時に鍵をポストに、と言ったのだが、そもそも今日帰宅する気は無い。痛重たく感じられる皺眉筋を解す様に人差し指の第二関節でグリグリと押し込む様なマッサージの後、静かに立ち上がり相手を起こさぬ様に寝室の扉を開け。暗がりでもわかるシーツの膨らみは、そこに相手がいる事の証明。忍び足で近付きベッドの脇にしゃがみ込む体勢で眠る様子を見詰め、願うのは一日でも早く原因不明の調子の悪さが治まる事。声を掛けるでも無く、けれど再びリビングに戻る訳でも無く、気が付けば瞼は重たく下がり、やがてそのまま座り込む様にして何時しか浅い眠りに落ちていて )
( 目眩への対処として応急的に飲んでいる薬は、不調の根本的な解決にはならないものの症状を緩和してくれた。身体に重怠さは残っているものの、身体を横たえると直ぐに眠りに落ちていて。---寝苦しさが助長したのか、その夜見た悪夢は鮮明なものだった。自分が見殺しにしてきた多くの罪なき人たちが、虚で暗い瞳を自分にむけている。そしてその内の1人が____夢とは気まぐれなもので、何故かそれはかつてクラークに見せられた彼の弟ルーカスの姿形をしていたが_____こちらに手を伸ばし、首を掴むのだ。ありったけの力で、自分たちを見殺しにしたお前も地獄に落ちるべきだと。---息が詰まるようなその苦しさと憎しみの籠った瞳に意識は覚醒し、苦しげに喘ぐような声が漏れる。喉が痛い、それに加えて呼吸は狂っていて呼吸の仕方を忘れてしまったかのように肩が上下するばかり。「_____っ、は…ッあ゛、」懸命に酸素を取り入れようとするものの、悪夢によって引き起こされたパニックがそれを阻み。 )
( 床に座り込み頭を垂れる様な体勢で眠り続けていたのは最初。やがてその身体は前のめりになりそのままベッドの縁に頭を預ける様な体勢へと変わり、けれども覚醒はする事無く静かに寝息をたてるだけ。__時計の針が0時を過ぎた頃、間近で喉の奥で息が引っ掛かった様な苦しげな声が聞こえ瞼が持ち上がる。寝起きの鼓膜を震わせたのは酸素を懸命に取り込もうとする狂った呼吸音で、体調の悪化によるものでは無く、悪夢を見た事によるパニック発作だと思えば立ち上がりベッドの縁に腰掛けた状態で相手の背中に掌を宛てがい。「…エバンズさん、」小さく、穏やかに、その名前を呼び掌を上下に動かす事で背中を擦りながらほんの僅かでも呼吸が楽になるようにと。それは何時ものやり方。けれど、今回相手の見ている悪夢にルーカスが関係しているなどとは思いもせずに )
( 毒による身体の不調が影響を来たし、結果的に辛い夜になった。喉の痛みが夢にも直結したのだろう。脳裏にこびりついた嫌な記憶を消し去ろうとしつつ喘ぐような呼吸と共に背中が上下して。自分が見た夢のような出来事は今も、そして過去にも起きていない。震える手でシーツを握り締めながら浅い呼吸を繰り返し、思わずベッドの上に置かれた相手の手を握り締めることで今に意識を押し留めようとして。 )
( 苦しみに喘ぐ相手のその痛みを少しでも早く消し去ろうと上下する背中を擦り続ける中、ふいに伸ばされた相手の手が己の手を握り締めると自然と視線はそこに落ち。咄嗟のその行動は考えるよりも先に身体が動いたのだろう、苦しくて、怖くて、近くにあるものに縋りたい時、はたまた“今”に意識を繋ぎ止めておく手段か。「__大丈夫、エバンズさんはちゃんと此処に居る。怖い事は何も無いんだよ。」相手の手ごと握り締められてる己の手をゆっくりと持ち上げ、自らの頬に相手の手の甲を押し付ける。そのまま何度も、何度も、まるで頬から伝わる温もりを相手に流れ込ませるかのように繰り返し動かしながら、一言一言を確りと伝わるように、相手がちゃんと戻って来れるように、言葉を伝えていき )
( 脳裏に焼き付いたままだった鮮明なまでの赤が徐々に色褪せ、苦しさの波が引くのにはかなりの時間を要した。それでも相手の手の温度と背中を摩る優しい感触に導かれ、恐怖心も薄らいで。あと少し、犯人逮捕に漕ぎ着けるまではしっかりと立っていなければならない。呼吸を意識的にゆっくりと整えながら、力が篭っていた手から少し力が抜ける。悪かった、と小さく囁くように告げた言葉。まだ起きるには早い時間、捜査に備えてもう少し休もうと無意識ながら相手が休めるようにベッドの半分を空けて。 )
( 相手からの謝罪には首を横に振る事で何も気にしていない事を伝える。例え夜中であれ、早朝であれ、何度目を覚ます事になったとしてもそれを僅かも迷惑だと感じた事などこれまでたったの一度だって無い。恐らく無意識なのだろう、己を気遣う様にして空けられたスペースに静かに横になり此方に背を向ける相手を見詰めれば、一拍程の間の後に「…エバンズさん、此方向いて。」と。相手が寝返りを打つ様に己の要望を叶えてくれたのならば、今度は苦しくない程度にその頭を抱き竦め、自身の胸元に軽く引き寄せる様にハグをしつつ目を閉じて )
( 相手に抱き締められ、その心音を聴きながら温もりに包まれる事で心の内に広がっていた恐怖や不安といった負の感情が少しずつ薄れていくのを感じた。そうして気付けば眠りに落ちていて、悪夢で再び呼吸を乱す事もないまま朝を迎えて。---身体には重怠さが残っていて、出来る事ならこのまま休んでいたいと思うような調子の悪さはこびりついて離れない。しかし漸く遺体が発見された局面、きちんと捜査を行い犯人逮捕に向けて動かなければならない。ソファで相手が淹れてくれたコーヒーを一気に煽るようにして気合いを入れると、署へと出勤して。 )
( __相手の調子は朝を迎えても悪そうではあったが、捜査が終わってない以上仕事には行かねばならない。署では検死結果が出る迄の間、ひたすらに被疑者の話の点に可笑しな所が無いか、何か見落としが無いかを今一度確認する作業が続くのと同時に、午前中は遺体発見現場に再び赴き、何か些細な事でも…と情報を集めて。__エバンズとミラーの両方が不在の時を見計らい総務部の男は専用の執務室に来ていた。今迄と同じ様に経費に関する書類を手に、刑事課の誰かに何かを言われても怪しまれないように。そうしてデスクの上にエバンズのマグカップを見付けると、振り返る様に背後の扉に一度視線を向けた後、ポケットに忍ばせていた毒が入った小さな容器を取り出して、今度は今迄とは違いカップの縁に少量塗るのでは無く、明らかな殺意を持って底面にたっぷりと塗りたくり。無色透明のそれは当然気付かれる事が無いだろう。思わず持ち上がった口角を誰に見られている訳では無いものの片手で隠し、壁に掛かる時計を一瞥して思うのはエバンズが倒れる時。即効性のあるものじゃないこの毒が身体を蝕み死に至るのは恐らく夜であろう。その瞬間を目の当たりにする事は出来ないだろうが、1人自宅で倒れれば救急車を呼ぶ事も出来ず朝には冷たくなっている筈。完璧だ、と一度息を吐き出し無表情へと戻れば誰に何を言われる事無く執務室を、刑事課フロアを出て自分の持ち場へと戻り )
( 恨みを抱いた1人の男によって普段使っているマグカップに致死量の毒が塗られている事などつゆ知らず、相手に淹れて貰った紅茶を口にしていた。味に違和感を覚えるでもなく、未だ半分以上残っている紅茶に時折口を付けつつ作業を進めていると部屋の扉がノックされ顔を上げる。入って来たのは紙を持った_____男ではあったのだが、彼は総務部の人間ではない。結果が出るのを待ち侘びた検死を担当している人物だと気付けば「どうだった、」と開口一番に尋ねて。監察医は頷くと資料をデスクに置き『被害者の死因は首を絞められた事による窒息死です。手ではなく紐状の物が使われています。それから…被害者は、妊娠していました。亡くなった時には妊娠3ヶ月ほどだったと見られます。』と説明して。思いがけないその言葉に思わず言葉を失う。被害者はまだ学生で結婚もしていない、これ迄の捜査では誰の口からもそんな事実は語られなかった。ただそうなると、付き合っていたジェイの子と考えるのが妥当だろう。被害者の妊娠を知り、それが動機になり得る人物____ジェイとハンナ、この2人への疑惑が一気に強まる事実に、険しい表情のまま資料に視線を向け。 )
( 相手に紅茶を淹れ、一度デスクに戻り再び相手の部屋を訪れ捜査の話をしていた丁度その時。待ち侘びていた検死担当の監察医が来れば自然と視線は彼へと向き。__告げられた検死結果は驚愕するもの。窒息死、とそこまでは驚くべき事では無かったが問題は続けられた“妊娠”の言葉だ。思わず息を飲み相手を見れば、相手もまた言葉を失い険しい表情で資料を見ている所。『失礼します。』と、頭を下げ監察医が執務室を出て行った後。「__妊娠、してたんだね…。」今しがたそう言われた言葉を至極小さな声で呟く様に繰り返すが、相手に向けたと言うよりはまるで独り言の様な響きを持って落ち。「…ハンナは兎も角、ジェイがこの事を知らなかったとは思えない!只でさえリリーとハンナの間でどうしたら良いのかわからないで居たのに、急に子供が出来たって言われて__エバンズさん、明日もう一度2人の所に行こう。他にも何か隠してる事がある筈。」リリーの妊娠の話が出なかった事で一気に疑惑が強まった2人。感情の昂りのままに前半はやや早口で、後半口調こそ落ち着いたものの表情は確実に怒りの色を宿していて )
( 相手の言う通りジェイとハンナに話を聞くのは急務と言えよう。遺体が見つかればその事実も公になると分かっていて、発見を遅らせるためにわざわざ錘を付けてまで隠蔽をはかろうとした。身勝手で悪質な犯行である事は間違いない。---夕方になると、現場の捜査が概ね完了し残っていた証拠品などが署に運び込まれた。遺体を沈めるのに使われた錘や遺体に巻きつけられていたナイロン製のロープ、足跡やタイヤ痕の有無に関する資料。それらを確認し、何か容疑者の絞り込みに繋がる証拠がないか見極める作業は何度やっても骨の折れるもの。「…遺体の発見が遅れた事で足跡のような痕跡は全滅だ。」資料に目を通しながら溜め息混じりに告げる。しかしその頃には、視界が眩むような感覚を覚える程に毒は体内に回り始めていて。 )
( 普通ならば見逃しても可笑しくは無い程に微細な証拠だったとしても、人が殺されその捜査にあたる以上“見落としました”は絶対に許されない。“ジェイとハンナは黒”と言う目線だけで証拠品を見極めるのはある意味“別の容疑者”を見逃す可能性に繋がるとは思うのだが、あの2人が事件に無関係だとは到底思えず眉間に皺を寄せた険しい表情で確認作業を続け。時間の経過と共に消えてしまった痕跡はもうどうする事も出来ない。もっと早く発見出来ていれば、と歯痒い思いを抱えたまま「別の証拠を何としても見付け出して明日2人に突き付ける。」尚も真剣な表情で資料を見詰め、今夜は徹夜も厭わない覚悟の言葉を。__感情の昂り、検死結果、届いた証拠品の確認、ある種の使命で相手の不調がほんの一瞬頭から抜け落ちていた )
( 証拠品の確認に没頭している間に、フロアからは1人また1人と署員が仕事を終え出て行った。暗くなったフロアの奥にある執務室にだけ煌々と明かりが灯り、相手と共に確認を進めて行く中で息がしづらくなるような、周囲の酸素が薄いような感覚を感じていた。しかしそれは座っていれば耐えられる程度のもので、軽くネクタイを緩める事でやり過ごした。遺体が見つかった地域の周辺でボートを扱っている会社がないか、或いはアンカーが盗まれた船がないか。ナイロン製のロープは何処で購入できるものか。其れらの事に集中して作業を進めている内に、耐えられる程度だった不調は気付けば重いものになっていた。資料から顔を上げると、既に部屋の中の間取りを認識できない程に眩しく感じられるような強い目眩の症状。トイレに立とうとしたものの立ち眩みによって平衡感覚が分からなくなり、咄嗟に身体を支えようと手を置いた場所はファイルと資料の積まれた場所で。 )
( 遺体発見現場に監視カメラは無かったが、そこに続くまでの道路、街中、お店、はたまたタクシーの車内カメラには容疑者としてあがった人達が映り込んで居る可能性がある。港の方まで足を運べばもっと確実な映像を見る事も出来るだろう。しかし今日この時間からでは流石に店も会社も開いていない為、矢張り明日朝一で確認し確実な証拠を手に入れる必要が__と、今は既にこの部屋しか明かりが点いていない事にも気が付かない程に考えを巡らせていた矢先。しん、と静まり返り秒針の音や書類を捲る小さな音しか聞こえていなかった部屋の中、ふいに響いた紙の束が床に落ちる音に反射的に双肩は持ち上がり弾かれた様に顔を上げ。果たしてそこには散らばった大量の資料と__「…ッ、エバンズさん!」そんなものは後で片付ければ良い事。顔面蒼白と言っても過言では無い程に血の気を失った様な顔色で、今にも崩れそうな身体を懸命に支える相手の姿。不調を抱えたままこんなに遅い時間まで仕事をしていた事で、身体に限界が来たのかもしれない、と。立ち上がるや否や倒れてしまわぬ様に相手の身体を抱き支え一先ず床に座らせようと試みる。散らばった書類の上であっても今は構わなかった。「エバンズさん、目を閉じて。直ぐ落ち着くから。」ぐるぐると回る様な目眩にも、ぐにゃぐにゃと歪む様な目眩にも、視界を閉じる事で僅かでも軽減させる事が出来る筈だと背に手を当てたままそう促して )
( 呼吸が上手く出来ず、呼び掛ける相手の声も一枚膜を隔てたかのように遠くに聞こえた。酷い目眩に加えて焼け付くような喉の痛み。あまりの苦痛に、このまま息が出来なくなって死んでしまうのではないかとさえ思った。空咳をする度に喉に強い痛みが走り思わず首元に手を添えたものの、息が出来ない苦しさと痛みに加えて不快な感覚が押し寄せる。「…っ、ごほ、…ッ」床に蹲ったまま、咄嗟に口許を覆ったものの床に散ったのは鮮血。多量の出血ではなかったものの、紙が散乱している事でその色は余計に鮮明な赤として主張した。それでも尚視界が歪むような目眩は落ち着く事なく、身体を起こしている事が困難になり。 )
( 相手は此方の声を認識していないようで、目を閉じる事も無く苦しげに眉を寄せ乾いた咳を何度も繰り返した。その度に丸くなる背中が跳ねる様に揺れ一秒でも早く落ち着く様にと背を撫で続けるのだが。「___え……」一層強い空咳の後、床に散乱した白い資料の上、散ったのは“赤”。内蔵に損傷を受け吐き出される大量の血液では無く、それは微量のものだったが量の問題では無い。多かろうが少なかろうがそれは“吐血”だ。身体は硬直し、双眸を見開いたまま薄く開かれた唇から何の言葉も発せないでいる中、蹲り苦しんでいた相手はまるで力尽きた、と言う言葉が正しいか、そのまま床に倒れヒューヒューと浅い呼吸を繰り返す。明らかに、明らかに不味い状況だ。“体調不良”なんて言葉で片付けられる程軽いものじゃない。「大丈夫…っ!今救急車呼ぶから!」半ば叫ぶようにそう言葉にし一度相手から離れ、デスク上の電話で救急病院に連絡をし救急車の手配をする。それからはあっという間だった。救急隊が駆けつける迄の間、これ以上の吐血で呼吸が阻害されぬよう相手の身体を横向きに寝かせ、懸命に声を掛け続ける。そうして救急隊が到着し相手が救急車に乗せられれば共に病院へと向かって )
( 救急車に乗せられたのと時を同じくして意識が途切れる。少量の吐血と異常な脈拍、呼吸困難、意識の喪失______酸素マスクを取り付けられ病院に搬送される間に、何かしらの中毒症状が疑われる状態だと病院に情報が共有された。病院に到着するとエバンズを乗せたストレッチャーは直ぐに処置室へと向かい、相手には外の待合室で待つようにとの声掛けがされて。---深夜1時を回った頃、ようやく担当の医師と見られる男性が相手の元へやって来て。『…未だ油断は出来ませんが、今は点滴による処置を行っています。_____多量の毒物を摂取した事による中毒症状で間違いないでしょう。体内から致死量に近い成分が検出されました。あと少しでも多く接種していたら、命を落としていた。…自殺、あるいは悪意を持って毒を盛られたか、その2択しかあり得ない状況です。』声を落として、今回の原因を相手に伝える。毒の成分を中和するために点滴での処置を行っているものの、未だ集中治療室から出られる状態ではないと。『血を吐いた事自体は、幸い命に関わるものではありませんでした。内臓がダメージを受けているのではなく、強い刺激によって喉が炎症を起こした。つまり、経口で毒物を摂取した事は間違いありません。』と続けて。 )
( 救急車の中で辛うじて繋ぎ止められていた意識が途切れたのを見て更なる恐怖から背筋が凍る思いをした。そしてその恐怖は病院に着き、告げられた医師の言葉で更に膨れ上がる事となる。__自殺?毒を盛られた?一瞬頭が真っ白になり目前の医師の顔を見詰めたまま口を開く事が出来なくただただ混乱を呼ぶだけ。「…毒って…でも、そんな__誰が、」漸く唇から僅かな息が漏れ、それに続く様に言葉がぽつ、ぽつ、と落ちるがエバンズが毒を摂取してる場面に身に覚えなど無い。そして絶対的に自殺では無いと言えるからこそ必然的に選択肢の1つは除外される訳で。倒れる前、相手が吐き出し書類に散った血が今尚頭を離れない。だが医師は内蔵の損傷では無く毒の経口摂取による喉への炎症だと説明するものだから、そこに関してだけはまだ唯一、僅か安堵出来るものだろう。「…警部補が口にする物は基本的に限られています。」と、伝えた後、此処で漸く少し頭が働くようになったのか「…警部補の事、よろしくお願いします、」と頭を下げ。__まだ集中治療室を出る事が出来ないとなれば、当然リリーの事件を追う事は不可能。この状況を警視正にも伝え何よりも相手に毒を盛った犯人を並行して見つけなければならない。絶対に許さない、と湧き上がる怒りをそのままに細い息を吐き出して )
( 相手から事情を聞いた警視正は、それが署内で起きた毒殺未遂事件である可能性も考慮して、エバンズに関する詳細は周囲に明かさないよう相手に指示した。彼は急遽対応しなければならない案件でレイクウッドを離れた、というのが表向きの理由。そして相手の他に本当の事情を知る存在として、信頼できる刑事に応援要請を打診すると告げて。---その後、早朝に相手のスマートフォンにメッセージを送ってきたのはダンフォードだった。“警視正から話は聞いた。お嬢ちゃんは大丈夫だったか?エバンズと捜査してた案件は俺が引き継ぐ。昼前には着けると思う。詳細は追って聞かせてくれ”と。 )
( “毒殺未遂事件”、それは言葉以上に重たく腹に落ち、その被害者となったのが相手だと言う事もまた負を助長させた。__翌朝、何故だろうか、応援に来るのは【クレア・ジョーンズ】だとばかり勝手に想像していたものだから、ダンフォードからの連絡には一度目を丸くし、続いて“私は大丈夫です。けれど何故エバンズさんが毒を盛られたのか、何もかもがわからない状態のままです。”と返信して。__時刻は午前11時30分を過ぎた頃。約束通り昼前にレイクウッドに到着したダンフォードと顔を合わせるなり、何も解決していないのだが大きな安堵を覚えたのは、きっと彼がどれ程エバンズを思っているか、その心を少しだけ知っているから。気丈に振舞っていた気持ちが僅か揺らいだ時、手が震え、思わず視界が歪みそうになったのを深い深呼吸で立て直す。リリーの事件、彼女が妊娠していた事がわかり一気に捜査は進みジェイとハンナが最重要容疑者として上がった中、今日は2人に話を聞き何としても証拠を見付ける大切な時なのだ。ダンフォードに事件の詳細が書かれた資料を手渡し、これまでの状況を説明しなきゃいけないのに。「…っ、ダンフォードさん…エバンズさんが…!」唇を開いた時、立て直した“と思っていた”不安定な揺れが顔を覗かせた。警部補専用の執務室の中、声量こそは抑えたものの、その震えまでは止める事が出来ずに )
ルイス・ダンフォード
( エバンズが何者かに毒を盛られ捜査から離脱せざるを得ないとレイクウッドのウォルター警視正から聞いた時、直ぐには状況を飲み込めなかった。同時にまた彼が謂れのない悪意を向けられ一方的に傷付けられ、苦しまなければならない事に憤りを感じた。そして、ミラーも既に同じ気持ちに苛まれているだろう、と。---事情を知らないレイクウッドの署員たちは応援に入った自分を明るく歓迎してくれたものの、彼女と顔を合わせた時からその不安定さ______なんとか感情を押し殺して捜査に集中しようと必死になっている事には気が付いていた。主人が不在の執務室で相手の声が揺らぎ、本当は一番気掛かりであろう本音が漏れると『……分かってる。あいつに毒を盛った犯人は必ず見つけて刑務所にぶち込んでやる。』と、乱暴な言葉選びながら力強く告げて。自分が知りたかった“詳細”は、担当する事件を差し置いて、エバンズの事。『あいつの一番近くに居たのはお嬢ちゃんだ。エバンズの様子に少しでも違和感を感じた事を全て教えてくれ。あいつは友達が居ない上に職場以外で人と接触する事がない。生活の中で毒を盛るなら、一番可能性が高いのは此の建物の中だ。証拠を消して逃げられる前に尻尾を掴む、』と。そこまで言った所で『少女が殺害された事件を早急に解決さえすれば、並行して何をやっていようが文句は言われないだろう。忙しくなるぞ、2つの事件を同時に担当するなんて本部の超売れっ子刑事くらいだ。』と、やや戯けて付け足して。 )
( 同じ署で働く仲間達にもエバンズの事を言う事は出来ず、あくまでも“何も無い”振る舞い方をしなければならなかったのもまた酷く心の磨り減る要因だった。不安も恐怖も顔に出す事が出来ない時間は余りに長く感じたのだ。だからこそ本当の事情を知るダンフォードと顔を合わせた時感情が溢れ出した。己の情けない揺らぎに、犯人に対して確かな怒りを滲ませた荒く力強い言葉が返って来ればそれだけで張り詰めていた心は幾分も軽くなると言うもの。震える息を一度細く吐き出してから同じ気持ちだと言う様に大きく頷き。「…最初は頭痛からだったんです。丁度天気も悪かったから、気圧の関係か風邪をひいたんだろうって思ってて。でも症状は全然治まらないし、それどころか酷くなる一方で、」エバンズの様子は果たしてどうだったか、最初に不調を訴えた所から遡る様にぽつ、ぽつ、と言葉を落とし。「…身体の震えや、脈が早くなったり酷い目眩がしたり__でも本人は過去に関するフラッシュバックが起きてる訳ではないって言ってました。それとはまた違う、わからない不調だって。」言葉にする事でその時の彼の苦しむ姿が思い出され胸が苦しくなるのだが、記憶している事は全て目前の相手に伝えなくてはならない。そうして最後、倒れた時の姿が鮮明に脳裏に浮かび、その時の息が出来なくなる程の恐怖が蘇りそうな感覚に床を見詰めグッと拳を握り締めてから「……此処で、倒れて病院に運ばれました。血を吐いたけど、それは内蔵の損傷によるものじゃなくて、何度も繰り返し毒を摂取した事で喉が傷付いたせいだって医者は。」病院に運ばれるまでの経緯を説明しつつ、静かに顔を上げ。「違和感は特別何も、…基本的にこの部屋に居るか捜査で私と一緒に外に出てるかで__、」この建物内で毒を盛られたとして、果たして一体誰が、と考えてしまう。一瞬だけクラークの姿が頭を過ぎったのだが、恐らく彼は違うだろう。エバンズを苦しめたい願望は人一倍強いだろうが、それはあくまでも“苦しみながら生きている”姿を見たい為。クラークの歪み切った性格を考えるなら生死に関係する様な手段は選ばない筈だ。無意識の内に眉間に皺が寄り険しい表情になったものの、まるで此方の心を少しでも軽くする様な戯けた言葉が続けられれば思わずぱち、と瞬きをし相手を見詰め。それから自然と持ち上がった口角のままに「エバンズさんが起きたら自慢出来ますかね。」と、同じく明るい戯けた返事を返して )
ルイス・ダンフォード
( ひとつひとつ、記憶の糸を辿るようにして紡がれたエバンズの変化。その中には彼の事をしっかりと見て、彼の言葉をしっかりと聞いていなければ記憶に留まらないほど些細なものも含まれていて、エバンズに対する相手の誠実で真っ直ぐな向き合い方を目の当たりにしたような気がした。毒物を摂取し血を吐くほど状態が悪いなら命に関わる可能性もあると一瞬肝が冷える思いをしたものの、内臓の損傷ではないという言葉に思わず息を吐き出す。『外に居る時に毒を盛るのは至難の技だ。煙草のフィルター部分に毒を塗り込んで毒殺を図ったケースを担当した事があるが、あいつは煙草は持ち歩かない。普段口にするものも限られてる…ペットボトルの飲み物や薬くらいだろう。』と、毒の摂取経路について考えを巡らせて。しかしどれも本人にバレずに毒を混入するのはそう簡単ではない。_____ふと、エバンズのデスクに置かれたマグカップに視線が止まる。いつも彼のデスクに置かれているイメージがあるし、此処で話をしている最中彼がマグカップを口に運ぶ姿は何度も見た事があった。『……マグカップなら、気付かれずに毒を混入できるか、』独り言にも近い呟きが溢れて。 )
( 相手の言う通り、署内でも聞き込みをする車の中でも彼が煙草を吸っている姿を見た事は無く、本当にたまに柔軟剤の香りに混じる様に僅かに煙草の香りを感じる事が出来るくらいの認識しかない。薬だって彼が服用している事を知っている人物は限られるのだから、そこを選ぶのは至難の業の筈。残るはペットボトル__と記憶を呼び覚まそうとしたその時。ふ、と溢される様にして落ちた相手の独り言に息を飲み勢い良くデスクに頭を向ける。そこには主不在であっても静かに鎮座する見慣れたマグカップがあり、それを捉えた時にまるで胃液が上がる様な嫌な感覚を覚え思わず片手を口元に宛てがい。「ッ、」この部屋でマグカップに毒を塗る事は簡単だ。彼が捜査で留守にしている間に部屋に入る事は誰でも出来る。このフロアの人物も、別のフロアの人物も、ただ一言“用事がある。”と言えば良いのだから。でも、もし本当に毒物が付着していたのがこのマグカップなのだとしたら__「っは、ぁ…」私は何度、このマグカップで彼に飲み物を淹れた?__自分でもわかるくらいに身体の温度が下がった。勿論毒が付着していると知っていて意図的にそのマグカップを彼にわたし続けた訳では無い。けれどもっと早く気が付き、注意をし、別のコップか何かを選びそれをわたしていれば此処まで酷い事態は避けられたのではないだろうか。喉に息が引っ掛かりそうな感覚に、口元に手をあてたまま俯く。瞳が揺らいだ事で部屋の床が滲み、余りに大きな罪悪感の様な負の感情に飲み込まれてしまいそうで )
ルイス・ダンフォード
( 考えられる可能性として何の気なしに口にした呟きだったが、その反応を見て直ぐに、相手がエバンズの為にとマグカップに飲み物を淹れて渡していた事を悟った。おそらく稀に、という訳ではなく定期的に。『______大丈夫だ、俺の目を見ろ。』明らかに動揺している相手の肩を掴み、視線を合わせるようにしゃがんで相手を見つめる。『悪意を持った人間があれに目を付けた可能性はあるが、お嬢ちゃんが悪いことなんてひとつもない。コーヒーや紅茶の一杯二杯、俺だってあいつに飲ませる。それくらいでしか休憩を取らないからな。…非があるとしたら、ふざけた事を考えた犯人だけだ。マグカップを置いていたエバンズも、お嬢ちゃんも何にも悪くない、』言い聞かせるように言葉を紡ぎ、してを落ち着かせようと。ただマグカップに毒の成分が付着しているかは確認する必要がある。しかしエバンズの物だと気付かれない為には、念の為隣町の鑑識に頼むのが最善だろう。ちょうどここから10kmほど離れたカルダーン署には馴染みの鑑識がいるため、今日中にでも依頼をしようと考えて。 )
( 確定した訳では無いものの可能性として極めて高い毒の付着物に頭が真っ白になる感覚を覚えたのだが、ふいに肩を掴まれ顔を上げた事で揺らぐ緑の虹彩が真剣な色を宿した相手の瞳と重なった。そのまま紡がれる言葉は己にも、勿論エバンズにも非など僅かも無く悪いのはあくまでも犯人ただ1人であると言うもの。相槌を打ちながらその言葉を静かに飲み込み心に落とし、頭を数回縦に動かす。__まだ何も確定せず、何も進めていない以上此処で動揺しやるべき事を見失ってはリリーの事件もエバンズの事件も何方も解決する事は出来ない。軽く瞳を閉じ震える息を一度細く吐き出してから再び相手を見詰めた時、虹彩に今さっき迄の不安定な揺れは無く決意が灯り。「__すみません、」先ず初めに口にしたのは取り乱した事への謝罪。続けてマグカップを一瞥し「…もしこれに毒物が付着していたとして、誰にも怪しまれず調べる事が出来るでしょうか。」と。それは正しく相手が依頼先の件で考えていた事と同じ事で )
ルイス・ダンフォード
( 相手の瞳にあった不安定な揺らぎは消え、2つの事件の解決に向けてしっかりと自分を持ち直したようだと思えば頷いて力付けるように肩を叩いてやり。『あぁ、その事なんだが。隣のカルダーン署に馴染みの鑑識がいるんだ。事情は伏せて、そいつに頼もうと思う。今抱えてる仕事より先に分析してくれって頼んどくよ。』相手の問いにそう答えると笑って見せ。_____『さて、そうと決まったら俺はまずカルダーン署に行ってくる。悪いがお嬢ちゃんは本線の方の事件を進めてくれ。鑑識にこれを渡したらすぐに合流する。ただ、おそらくだが…被害者が妊娠していた事実は2人とも知らなかったと言うだろうな。知っていたとなれば動機に繋がる、見た目にも分からない状態となれば認めるメリットがない。証拠を突き付ける意外に認めさせるすべはない、後で話そう。』エバンズのマグカップを、証拠品を扱う時のように袋で掴み口を閉じると、相手に指示を出す。しかし相手が話を聞きに行く2人はシラを切るだろうから、新しい話が出なくとも気落ちしないようにと言っておき。そうして10km離れたカルダーン署へと向かって行き。 )
( エバンズが毒を盛られた事は警視正を含めた自分達3人しか知らない事で、“急遽対応しなければいけない事件”の為署に居ない事になっているのだから当然鑑識に疑われる事態は避けなければならず、マグカップに毒物が付着しているか否かを調べるのはかなりリスクを背負う事になる…と思っていたのだが。相手の人脈の広さを此処に来て知る事となり表情からは自然と硬さが取れる。そうして後に続けられた言葉もまた相手の人柄を表しているのだろう、此方が気落ちしない様に、事件解決を急ぐ余り変に気負わない様に。__相手はカルダーン署へ、自身は先にジェイの元へ行き毅然とした態度でリリーの妊娠の件を突き付けるのだが、ダンフォードが考えていた通り、ジェイは“知らなかったし全く気付く事が出来なかった”と言った。そうしてそれはハンナも同じで何方も認める事をせず、現段階では逮捕出来るだけの証拠を提示する事も出来ない為に周囲の再聞き込みの後署に戻り、一先ず相手の帰りを待つ事となり )
ルイス・ダンフォード
( カルダーン署で馴染みの鑑識の所まで行くと、随分久しぶりの再会に互いの近況を軽く話し合った後に『頼みたい事ってのは、これの解析なんだ。ちょっと訳アリでな、なるべく早く成分を割り出して欲しいんだよ。昔の顔に免じて、明日までに頼めねぇか?』と。随分急な、それも急ぎの依頼に対して男は溜め息を吐いたものの“お前は昔から変わらねぇなあ”と呆れたように言ってマグカップを受け取った。感謝と共に明日また結果を受け取りに来る事を告げ、相手と合流すべく署に戻る。その途中で、エバンズが捜査に回していた照合の結果がデータで届き、確認した内容に深く息を吐き。---署に戻り執務室へと向かうと、相手の聞き込みの結果を聞くよりも前にスマートフォンの写真を相手に見せる。『被害者の身体に巻きつけられていたナイロンテープが、ジェイの働く会社のものだった。この証拠を突き付ければ言い逃れは出来ないだろう、』と。 )
( 執務室で顔を合わせた相手は酷く険しい表情をしていて、見せられた写真とその絶対的な証拠に此方もまた思わず眉間に皺が寄る。「やっぱり何も知らなかった、だなんて嘘だったんですね。」と、溜息混じりに言葉を落とした後相手と視線を重ね「犯行の動機がリリーの妊娠だと仮定して、ハンナが関わっているかどうか__一先ずジェイを連行します。」主犯はジェイである可能性が高いが、果たしてハンナはその全てを本当に何も知らなかったのか。慎重に見極めないと大変な事になると思いつつ、続けて「…あの、マグカップの分析の方は、」と、様子を伺う様な少しばかりの心配を滲ませた問い掛けを )
ルイス・ダンフォード
( この証拠があればジェイを引っ張る事が出来る。彼に証拠を突きつけ、共犯者が居たのかどうかを問い詰めればある程度の事件の大枠は見えてくる筈だと同意を示し。相手にとって何よりも気がかりなのはエバンズの事だろう。マグカップの分析について問われると『安心しろ。昔のよしみで明日には結果を上げて貰える。他のどの分析より優先するように頼んどいた。』と相手の肩を叩き。 )
( 何方の事件の方が大切で、何方の事件の方を優遇する、何て個人意志で勝手に決めて良いものでは無いが矢張り心を支配するのは今尚容態の回復しない上司の事で、それが偽りの無い本心なのだ。だからこそ相手から貰った言葉にわかりやすい安堵の表情を浮かべると「良かった、エバンズさんをあんな目に合わせた犯人を早く捕まえなくちゃ。」結果がどうであれやるべき事をやる、と今一度意気込み。__分析結果が出るのは明日。となれば今日、今やるべきはリリー事件の解決だ。相手と2人で容疑者の取り調べをすると言うのは初めての経験で、エバンズを育てたと言っても過言では無い相手は果たしてどんな進め方をする刑事なのか。ある意味勉強になると思いつつ「取り調べには同席させて下さい。」と、告げて一度署を出て。__向かうは再度ジェイの元。彼は『さっきも言った通り何も知らなかった。』と繰り返したが、此方には証拠品がある。ダンフォードに送って貰った写真を突き付け署への同行を願えば、ジェイは何も言わず素直に車に乗り込み。そのまま署へ、ダンフォードと共にジェイの取り調べに移ろうか )
ルイス・ダンフォード
( エバンズの容態が心配なのは当然変わらないが、応援で来た以上引き継いだ事件を滞りなく解決するのが第一に求められる事。相手と共に、任意同行を求めたジェイと取調室で向かい合って座り。録音機を回した後に、ここまでの捜査で尋ねてきたアリバイの有無や被害者との関係性などについて再び確認を取り『リリー・ブラントが妊娠していた事は知っていたのか?』と、一度はジェイが否定した問いを投げ掛ける。知らなかったと首を振る男に向ける視線は、普段の明るく快活な彼らしさが一切消えた厳しいもの。エバンズが取り調べの時に纏うのは鋭く冷たい威圧感、ダンフォードは更に其の圧を重たくしたような、嘘を吐くのを躊躇わせるような言い知れぬ恐ろしさを感じさせる力があった。『それなら、このナイロンテープについてはどう説明するつもりだ?此れは間違いなく、お前の会社で使われているものだ。通販や店で出回ってる一般的なものじゃない。店長のお前なら自由に持ち出せただろうな。』続けて尋ねると、ジェイはモゴモゴと否定していたものの言い訳がましく、説明が噛み合わなくなってくる。ダンフォードの顔を見る事が出来ず、気まずそうに俯いていたものの『分かりやすい嘘をついて俺たちの手を煩わせるな。此処まで証拠が出てるんだぞ、』と告げれば暫しの沈黙の後にやがて、『……俺が、殺しました……』と認める言葉を呟き。 )
( __背筋が凍るとは正にこの事。何も知らなかった、と否定をするジェイに向けられる視線は鋭く身が竦む様な恐怖を与えるものだから、取り調べを受けているのは自分では無いと言うのにその“氣”に当てられそうになるのだ。それ程迄に相手が放つ圧は圧倒的で空気すらも変える。エバンズと似てはいるが微妙な点に置いて違う箇所もある__。“女性刑事”と言うだけで取り調べ相手にナメられる事も多々ある現状の中、相手やエバンズの様な遣り方が出来れば何か変わる事もあるだろうかと、そんな事を一瞬考えた矢先。相手の圧にこれ以上耐えられなくなったのか、言い訳の苦しさに自分でも気が付きもう無理だと判断したのか、ジェイは至極小さな声で自供を口にした。確りと録音されたその言葉で彼を有罪に出来る事は決まったものの、聞かなければならない事はまだある。目前に座り俯き加減のジェイを真っ直ぐに見詰め「ハンナさんはこの件に関与していますか?」と、問い掛けた後「彼女を守りたい、なんて言う考えで嘘をつくつもりなら辞めて下さい。調べれば直ぐにわかる事です。」少しだけ声に冷たさを含ませた静かな声色で言葉を続け、僅かな動揺や隠し事も見逃さないとばかりに尚も彼から視線を外す事は無く )
ルイス・ダンフォード
( ジェイ相手に更に共犯者の有無についてを詰めて行く相手の姿を見て、こんな顔も出来るのかと驚く。自分の知っている相手は明朗で表情がくるくると変わる少女のようなイメージ。しかし取り調べをしている様子は女性刑事ながら同年代の男性刑事顔負けだ。同時に後輩であるエバンズにも似た空気を孕む事から、彼の仕事ぶりを間近で見ているからこそ成せる技なのだろうと1人納得して。一方のジェイは、ハンナは一切関わっていないし殺人の事も何も知らないと答えた。ハンナに浮気がばれ、リリーとの関係を精算しないなら別れると言われた直後、学生であるリリーから妊娠を告げられ結婚したいとせがまれた。そこで遊びのつもりだったリリーが邪魔になり、結婚の挨拶に行く予定の朝、車の中で彼女を絞殺した上で山の方まで車を走らせ川に遺棄したと______ジェイはそう証言した。 )
( 一時は“何方も本気”的な事を言ってのけたその口で今度は“リリーの事は遊びだった”と言う。妊娠までさせたと言うのに余りに身勝手で人の心を弄ぶ様な言動に嫌悪感しか湧かず眉間には皺が寄り。言葉に詰まる箇所や、何かを隠そう・誤魔化そうとする不自然な表情の変化は見られないものの、ジェイの言葉を100%信じる事は出来ない。険しい表情のまま一度小さく息を吐き出した後、隣に座るダンフォードに僅か顔を寄せ「…ハンナのアリバイは立証出来ていない状態です。」“家で1人野球中継を見ていた”と答えたハンナの言葉を耳打ちして )
ルイス・ダンフォード
( 長く付き合っているハンナと別れるのを回避する為にリリーを手に掛けたという事は、口ではどちらも本気と言っておきながらやはり初めからリリーは“遊びだった”という事なのだろう。ジェイの事は確実に有罪にできるだけの証拠が揃っているが、相手の言うハンナに関しては有罪に出来るだけの証拠がないというのが正直な感想だ。一度断りを入れて部屋を出るとドアの前で声を落としつつ『…今の状況でハンナを引っ張る事は出来ないな。今回の事件のどの証拠を切り取っても、彼女の存在を示す明確なものはない。出来るとして、彼女が履いている靴裏から現場の土砂の成分が検出されるか確認するくらいだろう。』と答えて。 )
( 証言通りジェイの単独犯であるならば、証拠と自供によりこのまま事件解決なのだが。「ですね。__ジェイの逮捕後、もう一度ハンナに会って来ます。」声を潜めた相手の声量と同じ声量で先ずは同意を、続いて僅かでも疑う箇所があるならば再度聴取と彼女の靴を鑑識に、と答え。ジェイに逮捕を告げるべく戻る為に扉に手を掛けその動きを一度止める。傍らに立つ相手に顔を向けると「…ダンフォードさんは、ジェイが嘘をついてると思いますか?、」と問い掛けて。“ハンナは関わってない”と答えたジェイの言葉、相手はどう受け取ったのだろうと )
( もう一度ハンナに会いに行くという相手の言葉に頷きつつ、相手の問いには少し考える素振りを見せて。『…ハンナが被害者の妊娠を知っていたのかどうかで流れは変わって来る。まずハンナが本当に被害者の妊娠を知らなかった場合だ。ハンナと別れたくない、という動機でジェイが被害者と別れようとしていたなら、彼女の妊娠を知って殺害に走る決断をするのにハンナは関わっていないだろう。結果として遊びだったとしても、好意を抱いて付き合っていた相手だ。追い込まれて殺害するしかなくなったというのは矛盾しない。あいつの単独犯の可能性が高いと俺は思う。』頭の中で整理していた可能性をひとつずつ言葉にしていく。『ただ、被害者の妊娠がハンナにも伝わっていた場合_____その場合殺害の指示をするのはハンナにもなり得る。勿論ジェイが勝手に動いた可能性も同じだけどあるが、別れたくなければ女をどうにかしろとか、自分の手で始末しろとか、直接手を汚さずにジェイに殺害させる事はできるだろ。その場合は共謀ということになるが、わざわざハンナが一緒に現場に出向いているとは考えにくい。自分が殺しを指示したとハンナが認めるか、実行犯となるジェイが指示されてやった事だと吐くか、或いは殺害を指示した証拠がスマートフォンなんかに残ってるか…それぐらいでしかハンナを有罪にする事は出来ないだろうな。…とするとだ。ジェイが口をつぐみハンナがシラを切れば、何にせよ女の方は証拠不十分で罪に問えない。』全て可能性の話ではあるが、ジェイが彼女の関与を認めない以上、真実がどうであれハンナを有罪にするのはかなり難しいだろうと自論を述べて。 )
( 静かに紡がれていく可能性の話を最後迄聞き、一度頷きを落とす。仮にジェイがハンナの関与を認めたとしても彼女が否定し証拠が無ければそれはただの虚言となる訳で、相手の言う通り彼女を有罪にするのは余程の事が無い限り極めて難しい状況だろう。「……出来る事は全てやりますが、それで証拠が上がらないのなら…__一先ずジェイを逮捕します。」悔しさを滲ませたまま言葉を切り先ずは目前の男を、と相手と共に取調べ室へと戻り。ジェイに逮捕を告げ再び話を聞く為ハンナに会うが彼女の証言は変わらなかった。リリーの妊娠の事は知らなかったを繰り返し、ジェイが犯行を認めた事を話しても一切関与はしてないと。加えて疑いが晴れるならと、渋々ながらにも携帯とスニーカーの提出にも応じてくれて、その靴裏から遺体発見現場の土砂の成分は発見されず、携帯の全てのデータからも今回の事件に関与している様な証拠は見付ける事が出来なかった。__結果的にリリー殺害事件はジェイの単独犯と言う事で無事解決した訳なのだが。__「お疲れ様です。ありがとうございました。」お礼と共にダンフォードに差し出したのは自販機で買った缶コーヒー。“もう一つの事件”が解決していない以上、マグカップでコーヒーを淹れるなんてとてもじゃないが出来ない。自分の分のカフェラテの缶を両手で包みプルタブを見詰めながら「…動機は何なんでしょう、」と呟く。突拍子も無いその言葉だが、解決した以上リリー事件の話をしている訳では無いと言う事は伝わるだろう )
ルイス・ダンフォード
( 結果的にジェイの単独犯と言うことで事件にはかたが付いた。労いの言葉と共に渡された缶コーヒーに礼を言って受け取るのだが、それが“自販機で購入した飲み物”である事が今の相手にとっては意味がある事なのだろう。プルタブを開けて中身を呷りつつ相手の呟きに視線を向ける。今回の事件に関してではなく、エバンズの事を言っているのは間違いない。『…あいつは不器用で誤解されやすい。その所為で昔から、周りからの恨みを買いやすかった。あの性格だ、言葉はキツいし一切友好的じゃない。なのに同年代の中では出世頭で、顔も稼ぎも良いだろ?』冗談を交えつつ、一方的に妬みや恨みを買いやすい奴なのだと。しかしその後少しばかり真剣な表情になると手元へと視線を落とす。『ただなぁ、…時々あいつが、自分から周囲に恨まれるように仕向けてるんじゃないかと思うことがあるんだよ。仕事内でのいざこざなんてのはあいつは一切気にしてないから良いんだが、“あの事件”が絡んだ時だ。あれは、あいつが1人で背負うような規模の話じゃない。なのに、あることないこと言われても言い返す事もせず、周囲から恨まれる事が過去への償いかのような顔をして受け入れる。それが俺は気に食わねぇ。』あの一件での誹謗中傷を全て受け入れ、周囲から許される事を自ら避けているかのような彼の態度はどうしても納得がいかないのだと告げて。『動機が何かはまだ分からんが、例の事件絡みじゃなければ良いとは思っちまうな。…ただ、明確な殺意があったのは間違いない。あいつがこれまでに担当した事件関係の恨みか、計画が頓挫した犯罪組織かなんかのターゲットにされたか…考えられる動機自体はそう多くは無さそうだが、絞るのは骨が折れそうだ。』現時点では何故エバンズが標的となり命の危険に晒されたのかは憶測にしかならないと肩を竦めて。 )
( 相手が紡いだ冗談には顔を上げ小さくはにかんで見せる。そうしてエバンズが此処に赴任して来た時を思い出す。__署員達からは“本部から来たエリート様”と呼ばれ、当時彼の纏う威圧感や冷たさから好んで近付く者は疎か、必要な仕事の話ですら行きたがらない人が多かった。皆が萎縮し暫くの間は刑事課フロアに何とも言えない重たい空気が漂っていたように思う。“エバンズの顔が良い”と初めて思ったのは確か【ソフィア】が彼にアプローチをした時だ。あの時“カッコイイ”と言ったソフィアの言葉で確かにエバンズは整った顔立ちをしている、と気が付いたのだ。__何だか最近の様な気もするし、もっともっとずっと昔の様な気もする過去に何故かわからないが目頭が熱くなり、一度相手から視線を落とし再び缶を見詰めるも、ふ、と相手の言葉に真剣な色が滲んだのに気が付き顔を上げる。相手が言う“あの事件”とは間違い無く“アナンデール事件”の事だ。そうして相手が感じる“気に食わなさ”を己もまた同じ様に感じる事が多々あるのだ。「…エバンズさんは何時だって自分を守らない…。本当は痛い癖に、苦しい癖に、…そう言う…“負の感情”全部に蓋をして……悪夢に魘される度に薬を飲んで、それで、っ…エバンズさんだって“遺族”なのに、悪いのはあの時の犯人だけなのに…!」相手が紡ぐ言葉に心が引っ張られたか、思わず言葉の端々が震える気持ちが溢れ出した。もう苦しんで欲しくないのに、痛みから遠い所に心を置いて欲しいのに。“助けて”と口にする事すら躊躇うエバンズは一体何時になれば救われるのか。一体何時になれば彼を“悪”だと言う人達は居なくなるのか。缶を強く握る事で昂った感情を落ち着かせようと努め、深く息を吐き出してから「……もし犯人の動機が“あの事件”に関係しているなら、エバンズさんには伏せたいです。…知ったら、また苦しむ事になる。エバンズさんを狙った訳じゃなくて“誰でも良かった”って…そう、嘘を、」瞳に宿るそれは懇願。その嘘がバレずに時が経つ事なんてほぼ不可能なのに、わかってはいるが、そう願わずにはいられないのだ )
ルイス・ダンフォード
( 自分の些細な冗談に、相手が過去へと想いを馳せた事は知る由もなく相手へと視線を向ける。どうやら自分が抱いていたのと同じような“気に食わなさ”を相手もとうに感じていたらしい。『…あいつは生真面目が過ぎるんだ。その上不器用で人に頼るのが苦手で_____全てを背負う必要なんて元から無かった。弱音を吐いても、傷付いている事を叫んでも良かった。なのに誰にも弱い自分を見せようとしない見栄っ張りだ。手の掛かる困った奴だよ、』彼が傷つく度に、それを外に出すまいと必死に自分の中に押し留めようとする様子を見る度に、どうしようもないやるせなさを感じるのだ。もっと楽に生きて良いと、抱え込もうとしているものを吐き出して良いと言ってやらないと潰れてしまいそうで。冷たい表情を浮かべ凛と立っている彼の中に、今にも押し潰されそうな不安な顔をした少年のような姿を見るのだ。だからこそ、平気で彼を傷付けようとする存在が、今回の事件のように見当違いな恨みを一方的に抱いているのであろう人物のやり口が許せない。『……嘘で真実を隠し通すのは難しい。今は犯人の動機がなんだったのか、毒を盛ることができた人物の特定に集中しねぇとな。』相手の懇願に対してそう言葉を掛けて。---スマートフォンが着信を知らせたのはその時だった。成分の解析を依頼していた鑑識官からの電話で、すぐにボタンを押して電話に出ると相手に紙とペンを要求する。詳しい成分はメールに添付したが、毒物が検出されたと。反応が出たのは主にマグカップの飲み口、底にも成分が残っていたが数時間で死に至るような所謂“猛毒”ではない。検出された毒によって殺害を企てたのだとすれば、少なくとも10日以上掛け体内に蓄積する毒物が致死量に達するのを待つという地道な方法になると。“仮にこの毒を毎日同じ量、結果的に致死量近くまで飲んだとすれば最終段階では痙攣やせん妄、呼吸困難などの明らかに異常な症状が出る筈だ。病院にかかる事もなく突然倒れたなら、かなり周到に摂取させる量を調整していた可能性はあるな”と電話の向こうで鑑識官は見立てを伝えて。 )
( 相手が語るそれらは全て真っ直ぐにエバンズを見て確りと心を向けている事が現れているもの。彼は今尚過去に苦しみ、癒える事の無い痛みを抱え生き続けて居るものの、相手の様な存在は彼に絡み付く闇に光を注ぎ、確かな温もりで以て守っているのだろうと感じる。だからこそ「__何時かエバンズさんの抱える痛みが消える事を願ってます。0にはならなくても、僅かでも薄れれば、…その為なら私は何だってするし、例え嫌がられても病院にだって連れて行きます。」前半は確かな意志の籠る言葉で、最後は何かと理由を付けては病院・医師から逃げ回る彼を思い出し少しだけはにかみを交えつつ「…絶対、口煩い生意気な部下だって思われてるでしょうけど。」と、笑みのまま締め。無理だとわかっていた懇願は、矢張り通す事は出来なかった。犯人に嘘の動機を述べさせる事も、供述を書き換える事も、何もかもが出来ない中当たり前と言えば当たり前なのだ。彼を守る為の嘘を並べるより、今やらなくてはいけない事がまだある。相手の言葉に大きく頷いたその時、ふいに相手のスマートフォンが着信音を鳴らし続いた会話で電話の相手が鑑識官なのだとわかれば、要求通りに紙とペンを渡しその内容を見守り。__数十分後、鑑識官と話し終えた相手はその内容を口にした。矢張り毒の付着したマグカップを定期的に使った事が原因で、それには思わず視線が落ちるのだが兎に角犯人を特定しなければ。「署員なら怪しまれず此処に来る事は簡単な筈。…10日__念の為2週間前から遡った防犯カメラの映像を確認します。この部屋の入り口が映るカメラはフロアの角にあるやつだけなので、」例えどれだけの量があろうとも1日も早く、徹夜をしたって関係のありそうな、怪しそうな人達全てを洗ってみせると。後はどうかエバンズが無事に目を覚まして欲しいと願うばかりで )
ルイス・ダンフォード
( 昔から付き合いのある自分やジョーンズを除いて、あの事件以降誰に対しても固く閉ざされていた心が相手にだけは開いているような感覚は度々感じていた。そして今は、相手のような存在が彼のすぐ側に居る事に安堵と嬉しさを感じる。防犯カメラの映像を確認すると言った相手の言葉に頷き『皆が退勤した後に防犯カメラの映像を確認するぞ。エバンズの部屋を度々訪れている人間を絞り込む。犯人の目的がエバンズに毒を盛る事だけなら、目的を果たして早々に行方を眩ませる可能性もなくはない。なるべく早く尻尾を掴んで証拠を炙り出せ。』と、相手に指示して。---今はまだ知る由もないがダンフォードの見立て通り、総務課の男は退職の手続きを既に始めている段階だった。“急遽父親の体調が悪化し介護のため地元に帰ることになった”と課の上司に報告し、既に派遣会社からは新しい人材を送る事で話は着いていて。 )
わかりました。警視正には事情を話し、許可を貰っておきます。
( 署員達が全員帰宅した後となれば夜も遅く、加えて朝方まで監視カメラ映像と睨めっこ状態になる。特別大きな問題に繋がる事は無いがその根本的な理由を知る警視正には一声掛けておくべきかと。同時に相手からの指示は何処かエバンズを彷彿させた。声が似ている訳でも口調が似ている訳でも無い筈なのだが、微妙な点に置いて似ていると思うのは矢張り新人だった頃のエバンズを育てたのが相手だったからなのか。__窓の外がだんだんと薄暗くなりつつあるものの、署員達が退勤する時間にはまだ早い。壁に掛かる時計を一瞥し、相手へと視線を戻しては「…エバンズさんは集中治療室から出られたでしょうか。」と、口を開く。勿論己とずっと共に捜査をしていた相手が今のエバンズの状況をわかる筈は無いと思うが、矢張り気掛かりなのだ。「…意識が戻って通常の病室に移動になれば、きっと医師から連絡があるだろうし、それに何も解決してない状態じゃ行ったって余計に不安にさせるだけですよね。」続けた言葉の数々は“彼の傍に行きたい”と願いつつも、それを抑え込む為の言わば自分自身に対する言い聞かせ。気ばかりが焦る中で「皆が退勤する迄の間、何か出来る事は無いでしょうか。」と、問い掛けて )
ルイス・ダンフォード
( 刑事課のフロアに居る皆の退勤を待たずとも、何かと理由を付けて監視カメラの映像を取り出す事はできるのだが普段と違う行動に些細な疑念を抱いた者から憶測や噂が広がるのはよくある事。今回はエバンズの一件を誰にも察されたくないため、敢えて夜を待ってから行動する事を選んだのだ。エバンズの執務室で別の書類に目を通しながら、心ここに在らずといった状態の相手に視線を向ける。『病院から連絡がねぇからな、まだ目を覚ましてないんだろ。ここに居たって状況が分からなくてヤキモキするだけだ。お嬢ちゃんが見舞いに行ってやれば良い、追うべき事件は解決したんだ。』相手が自分に言い聞かせるようにして蓋をしようとしていた気持ちをいとも容易く肯定すると、病院に行ってみろと助言する。『あいつの顔を見て、医者に容態を聞いてきてくれ。』と明確な目的を相手に与えるためにそう告げて。 )
( 夜までの間、リリーの事件の報告書を書き上げる事も出来たのだが解決した以上心を占めるのはエバンズの事で。ヤキモキしている己の心を汲み取り何の迷いも無くさもそれが今出来る唯一だ、とでも言わんばかりの淀みない指示が来れば思わず一度瞬き。「…あ、」薄く開いた唇の隙間を縫って出た小さな音は「ありがとうございます!」に続いた。「先に警視正に防犯カメラの事を伝えてから行きます。夜__18時までには戻ります。」深く頭を下げてから執務室を出てノートパソコンの入った鞄を片手に刑事課フロアを出れば先ずは警視正の部屋へ。映像の話をすれば彼はダンフォードが考えた時間帯が適切だろうと頷き、これで誰にも怪しまれず監視カメラの件は解決出来そうだと。__エバンズの入院する病院までは車で数十分。入口を抜けて入院患者の居る病棟までエレベーターで上がり、そこにあるナースステーションの前で医師と遭遇すれば「あの、」と呼び止めた後。「アルバート・エバンズさんのお見舞いに来たんですけど、もう集中治療室から出られましたか?」と問い掛けて )
( 相手に呼び止められた医師は、相手の口から出た名前に『アルバート・エバンズさんですね。未だ目は覚ましていませんが、容態は少しずつ安定してきています。つい先ほど一般病棟に移る許可が降りて移動された筈ですよ。』と答えて。集中治療室での対応が必要な重篤な状態は脱したものの、まだ意識は戻っていないという。医師はつい先ほど移ったばかりだという病棟の部屋番号を伝えると、軽く頭を下げて廊下を歩いて行き。---エバンズが移されたという病室は上の階にある個室だった。ちょうど看護師が機械や点滴の調整を行っており、扉が開く音に顔を上げると優しく会釈して。『こんにちは。少しずつ容態も落ち着いてきましたよ。中毒症状はだいぶ改善されて数値も戻ってきましたし、喉の炎症も落ち着いています。』相手を安心させるように告げると、ベッドで眠るエバンズに視線を向けて。未だに酸素マスクと点滴は外れていないものの、倒れた時と比べると顔色の悪さは軽減していると言えよう。『…あの、意識が戻っていなくても、感覚は働いていると言われてるんです。声だったり、手に触れる感触だったり、きっと伝わっているので声を掛けてあげてください。』まだ若い女性看護師は相手を恋人と思ったのか、そう言って少しはにかんだように微笑むとお辞儀をして部屋を出て行き。 )
( 意識は未だ戻っていないが、それでも一般病棟に移されたと言う事は命の危機は無く回復が見込めると言う事だろう。医師の言葉に余りに大きな安堵が胸中を渦巻き、思わず震えた息を吐き出せば深々と頭を下げ。__医師に教えられた番号の部屋には点滴と酸素マスクに繋がれながらもベッドの上で静かに眠るエバンズと、自分と同年代くらいだろうか、柔らかな雰囲気の女性看護師が居た。視線が重なり軽く会釈をすれば、彼女はその雰囲気と同じく柔らかく微笑み此方が望み続けた言葉をくれるものだから、思わず目頭が熱くなる。「良かったです、本当に。ありがとうございます。」沢山の安堵と、同じくらい沢山の感謝を乗せ今一度頭を下げベッドに歩み寄り。見下ろした相手は相変わらず白い顔をしているが、倒れる前の様な酷い顔色の悪さでは無い。酸素マスクが呼吸に合わせて白くなるのもまた確りと息をしている事の証明となる訳だから安堵を助長させ。_と、看護師に声を掛けられ顔を上げる。穏やかな、それでいて何処か可愛らしくも見える笑みで紡がれたのは所謂“希望”。再び相手を見、彼女へと視線を向け直しては、胸に灯った優しい温かさに同じくはにかむ様に笑い「…はい、」と、頷いてその背を見送り。__近くにあったパイプ椅子を引きベッドの脇に。それに腰を下ろし少しだけ距離の近くなった相手の片手を包み込む様に緩く握る。骨張った手の甲を親指の腹で優しく撫でながら「…エバンズさん、」と静かに名前を呼び、「今ね、ダンフォードさんが応援に来てくれてるの。だから何も心配しないで。」まるで起きている相手を前に話している様に、「エバンズさんを苦しめた犯人も必ず逮捕するから、…目が覚めたらまた一緒に仕事しようね。」ゆっくり、ゆっくり、語り掛けを )
( 目を閉じたままのエバンズが相手の言葉に反応を示す事こそなかったものの、温度の低い手の甲に柔らかな熱は感じただろうか。一定のリズムでマスクが曇っては小さな呼吸音が漏れる。当初は摂取した毒物がどれほど体内に溜まり異常を引き起こしていたかが分からなかった為、回復にどれくらいの時間を要するかは勿論、後遺症もなく回復できるのかも見通しが立たない状態だった。しかし幸いにも回復が不能なほどに重篤な影響を受けた機能はなく、薬がしっかりと効果を発揮したこともあり、意識が戻り数値が全て正常なものに戻れば後遺症も残らず退院できる見通しが立っていて。---ダンフォードはエバンズの執務室で、相手の言葉を思い返していた。“もしもあの事件を動機にエバンズを狙ったのなら”。もし仮に犯人があの事件を理由にエバンズを狙ったのだとしたら、彼はまた受けるべきではない恨みを向けられて、必要のない苦しみを味わった事になる。あの事件を担当したばかりに。優秀だったからこそ選ばれた、それだけだった筈なのにその時の何気ない決定が一生彼に付き纏う絶望になってしまった。そんな事を考えて、まだあの事件が関わっていると決まった訳じゃないと暗い気持ちを追い遣って。 )
( __静かな語り掛けに対して相手は目を覚ます事も、手を握り返して来る事も、何か言葉を発する事も無かった。それでも“希望”はその光を失う事無く胸に宿り続けるものだから、それから暫くの間も事件の事、日常生活の些細な事、懐かしい過去の話などを語り。そうしている内に窓の外は薄暗くなりあっという間に時刻は17時を過ぎ。“今から戻ります。”と、ダンフォードにメッセージを送った後「…それじゃあエバンズさん、また来るからね。」椅子から立ち上がり握っていた相手の手を離す。その際、仄かな温もりが失われた事に少しだけ不安を感じたものの、次来る時は相手をこんな目に合わせた犯人逮捕の報告を持って来ると誓い病室を出て。__署に戻ったのは17時30分を過ぎた頃。刑事課のフロアにはまだ数名の署員は残っているが、此処を出た時よりは少なくなっている。フロア内をぐるりと見回しそこにダンフォードが居ない事を確認しては、“警部補執務室”の扉をノックし中へと入り。「戻りました。」何時もはエバンズが座るデスクに居る相手と視線が重なり、軽く頭を下げてから向かいのソファへ鞄と共に腰を下ろす。真っ直ぐに相手を見詰めた緑の虹彩には確かな安堵と喜びの入り交じる色が滲み「まだ意識は戻ってなかったんですけど、一般病棟に移る事は出来ました。容態も安定してきてるし、吐血を引き起こした喉の炎症も落ち着いてるって。…後は数値が完全に戻って、目を覚ませばきっと直ぐ退院出来る筈です。」医師と看護師から告げられた“希望”を余す事無く相手にも。最後の退院の話こそ言われた訳では無いが、願望として思わず言葉となり )
ルイス・ダンフォード
( 戻って来た相手の顔には先程までの翳りはなく、光を浮かべた瞳を向けて彼の様子を報告する様子に口角を緩めて。『そりゃあ良かった。一般病棟に移ったならひとまず安心だ。見舞いに行って良かっただろ、考え過ぎてネガティブになるより動いた方が良いんだ。』と言いつつ、『お嬢ちゃんは本当に感情が分かりやすいな。尻尾が着いてるみてぇだ、』と笑って。---署員たちが居なくなったのは20時を過ぎてからだった。普段であればもう少し残っている署員が数人いる事も珍しくないのだが、比較的忙しくない日だった事もあり数人で飲みに行く話が持ち上がったようだった。エバンズの執務室の扉が見える監視カメラのデータを取り出しパソコンに落とすと、2週間分の映像を相手と手分けして確認する地道な作業を始める。早送りで映像を見て、執務室が開くタイミングで映像を止め人物を確認する。時折マグカップを持ったエバンズ自身が部屋を出て行く様子も映っていたが、当然それが不調の原因などとは思いもしていなかっただろう。『_____こうして見ると本当にあいつは部屋から出てこねぇな、』23時を回った頃、伸びをしつつぼやくように告げたのは、彼の“引きこもり”具合について。時折出てくる事はあるものの圧倒的にフロアに姿を見せる回数が少ないと。『俺なんて暇がありゃフロアに出てる。急ぎで承認して欲しい仕事がある時に限っていねぇと言われる事もあるが、あいつはその心配は無さそうだな。』その後は出入りがあった人物の顔をデータベースの写真と照合し、名前と回数をカウントしていく作業が続き。 )
( 口角を緩め笑みを浮かべた相手のその表情にも喜びを覚えた。相手からすれば今も尚可愛い後輩であるエバンズの容態の安定は絶対的に安堵に繋がるものだろう。相手の心にもまた光が宿っただろうと感じるから。“考え過ぎてネガティブになるより動く”__すんなりと胸に落ちたその言葉はまた別の角度の“希望”の様に思えた。確かにその通りだ。頭であれこれと考えるより心に従う、行動する、それが時にとても大切な何かを生む時がある。「本当に。…話が出来た訳じゃないけど、エバンズさんの顔見たら元気が出ました。」何処となく気恥ずかしさを覚えつつも、今の気持ちに素直な真っ直ぐな返事をして。と、その後に続けられた言葉には思わず瞬く。感情に乏しい訳では無いが“尻尾”だなんて、そこまで分かりやすいとは自分では思って無かったからだ。「……そんなにですか?」と、些か怪しみを込め僅かに首を傾けはしたものの、何処が、何が、と追求する事は無く。__電気が消され暗くなったフロア内、自分達の居る警部補執務室だけは明るい光に包まれていて、その中で至極真剣な表情で以て映像を確認する。ほんの僅かの違和感も見逃さぬ様に、瞬きすらも忘れるくらい本当に真剣に、それは眠気すらも何処かに追いやるくらい。_肩に力が入っていたその余計な緊張を解したのは相手のぼやきだった。確かにこれだけ長い時間映像を見ていてもエバンズが執務室から出て来たのは片手の指でおさまるくらいの数。何時だって此処に閉じこもり、まともな食事を摂ってるのかも怪しい状況で眉間に皺を寄せた険しい顔で書類やパソコンと睨めっこをし、出て来るのは捜査に行く時、飲み物を淹れる時、トイレに行く時くらいと言っても過言では無い。「その内此処で寝泊まりする様になるんじゃないかって心配で、」と肩を竦め、態とらしく溜め息を一つ。そう思えば相手とエバンズは行動面で言えば真逆かもしれない。“自由人”と、何時かの飲み会の日に聞いた単語を思い出し思わず苦笑いを浮かべ。__その後、映像にはエバンズに用事のある署員達、サラやアシュリー、警視正の姿何かもちらほらと映り、その中でこの事件の犯人である総務課の男性派遣社員の姿も何度も映る事となり )
ルイス・ダンフォード
( そのうち執務室に寝泊まりを始めるのではないかという相手の懸念。彼ならやりかねないと、深刻な事態だとばかりに態とらしい真面目な表情を浮かべて同意を示した。まだ全ての映像を確認した訳ではないものの、此処まででも執務室に訪れている回数の多い署員は絞り込めるかもしれないと相手に声を掛ける。当然ながら皆一様にレイクウッド署で働いている一署員。見知った人物の名前が、捜査線上に上がってくるというのは相手にとってもあまり気持ちの良いものではないだろう。『俺が確認した映像で現段階でエバンズの元を訪れている回数が多いのは、刑事課と総務課の署員だな。お嬢ちゃんと警視正は省くが_____サラ・アンバー、ジェイコブ・スミス、サム・テイラー、グレッグ・クーパー。この辺りはほぼ毎日エバンズの元を訪れている。』アンバーとスミスは仕事内容的にも普段からエバンズの元を訪れることが多く、エバンズも2人の名前は把握しているだろう。テイラーは今担当している事件の捜査を始めてからエバンズに報告を求められる事が増え、行きたくないと同僚にぼやきながらもエバンズの部屋を度々尋ねていた。クーパーはここ最近刑事課の経理処理などを担当しているらしく総務課から度々エバンズの部屋を訪れている____あの男だ。 )
アシュリー・ベイルも数回出入りしている様ですが__回数的には除外かと。
( 捜査の為の映像確認とは言え何だか“盗撮”にも似た気持ちも少なからず覚えてしまうのは、同僚であり友人でもある人達を疑いの目で見なければならないからだろうか。自身が確認している映像の中にも相手の方の映像と同じ面々が映っていて、その中にアシュリーの姿もあるが回数的な事を考えれば“容疑者”に加える事は無い筈。「アンバー、スミス、テイラーの3人は刑事課の者ですが、彼は総務課の派遣署員で___、」相手が口にした数名の至極簡単な説明をしようとして、言葉が止まる。画面に映る【グレッグ・クーパー】の姿を見詰め、次に顔を相手に向けては「…一度、エバンズさんの居ない時に此処で顔を合わせました。確かマーティンの名前が新しく容疑者としてあがった時だから、」何処と無く緊張の様な色滲む表情で映像を早送りし、その場面で再生を。そこには書類を持ったグレッグが執務室に入り、それから直ぐに部屋に入る己の姿が。もう少し進めば部屋から出る2人も流れるだろう。「その時は、エバンズさんに渡さなければならない経費関係の書類があるとかで。」つまり、だ。マグカップに毒を塗るとなれば当たり前ながら部屋に誰も居ない時じゃなければならない。エバンズが居て、彼に用事がある時では駄目なのだ。生憎この部屋に監視カメラは無い。名前の上がった他の人達の時はこの部屋の具合がどうだったのかも確認しなければならないと思いつつ )
ルイス・ダンフォード
( エバンズの部屋を訪れている回数が多い人物を絞り込む所までは、滞りなく進んだと言えよう。既に日付を跨いでいる訳ではあるが。ただ相手の言うようにエバンズが部屋にいる時では毒をマグカップに仕込む事など出来ない。エバンズが部屋に居ない時に度々部屋を訪れている人物を割り出す必要がある。調べるべき日を更に絞り込んで効率よく確認をする為には_____『…お嬢ちゃん、事件の捜査がどういう日取りで進んでいったか覚えてるか?いつ何の捜査を行ったか、誰に話を聞いたか、何処に出向いたか。そういう大雑把な記録みたいなもんだ。それがあれば、捜査を軸にあいつが体調を崩していた日を思い出せねぇか?』捜査を行う上で、いつ何をしたかの記録があれば、捜査の動向と合わせてエバンズが大きく体調を崩した日を思い出せるはずだ_____相手ならば。どこに行った時、誰に話を聞いた時、エバンズの調子が悪そうだったと、相手ならば覚えているだろうと踏んだのだ。『検出された毒は即効性こそないが、その日の内には効果が出る。エバンズが体調を崩した日、更にその日の捜査に出向く前のエバンズが部屋に居ない時間帯。そこの映像を調べて人物が特定できれば、そいつが黒だ。』と自分の想定を説明して。 )
( リリー殺害事件、最初は比較的スムーズに進むと思っていたのだが途中から容疑者が増え絞込みの捜査にも時間が掛かったのだ。相手の想定通りに行けば確かにこの部屋で1人になる事が出来た人物を__エバンズに毒を盛った犯人を見付ける事が出来る。「待って下さい、聞き取りをしたメモを見れば、」鞄から手帳を取り出しデスクの上に置く。座る相手の隣に立ち開いた手帳には日付け、時間、を最初に聞き込みをした内容が書き記されていて。__リリーの母親への聞き込みから始まり、大学での聞き込み迄は良かったのだ。この後、「…此処が最初です。此処で初めてエバンズさんに鎮痛剤をわたして、クリスへの聞き込みの後、症状が悪化しました。エバンズさんを自宅に送ってから、もう一度ペットショップに戻って聞き込みをして__さっきのグレッグとの遭遇に繋がります。」ページを開き、そこに書かれている自分の字を追う毎にその時が思い出される。事件の事は勿論、同時進行する様に体調を崩すエバンズの苦しそうな表情も。この後、エバンズの家に二回泊まった事は勿論伏せるものの、その前段階としてエバンズがトイレで“家に帰りたい”と訴えた事や、捜査が進む中でどのタイミングでリリーの遺体を見付けたかなども思い出し。メモを巡るのに合わせて監視カメラ映像を早送りする中で、グレッグがまた1人執務室に入る場面があった。それは己が1人でマーティンの家に聞き込みに行ってる時間の事。この時果たしてエバンズは何処に居たのか思い出せないのだが、リリーの遺体を見付けた後の事は覚えている。「…この時、エバンズさんが調子を崩したんですが、グレッグが来て、3人で顔を合わせました。」明らかに調子の悪そうなエバンズを見て、動揺したグレッグの顔を良く覚えていた。その後はエバンズが倒れ病院に搬送されるまでの流れで。「……私達が捜査に出てる時、この部屋に入ったのはグレッグだけ、とはいきませんが回数で考えたら多いと思います。後の人達は比較的エバンズさんが居る時に来てるんじゃないかと。」固い表情で、真剣な眼差しで、一つ息を吐き出して )
ルイス・ダンフォード
( 相手の証言があった日付の映像を遡り、総務課の男がエバンズの部屋を訪れているかどうかを確認する。その結果、彼が体調を崩したという日の朝方や捜査に出て不在にしている間に数度グレッグが書類を持って執務室を訪れている事が分かった。『お嬢ちゃんの言うエバンズが体調を崩した日_____この総務課の男は概ね此処に足を踏み入れているな。…此れを見ろ。日中に別の署員に書類を渡してるが、通りすがりにこの部屋を見てる。エバンズが居たんだろう、中には入ってねぇが気になるな。』相手に見せた映像には別の署員と書類を手に話をした後、通りすがりにエバンズの執務室の中を確認するグレッグの様子が映っていた。その日は朝既に書類を手にエバンズの部屋に入っているが、書類を催促する様子はなく刑事課のフロアを出て行っている。『…こいつについては調べた方が良さそうだな。いつからレイクッドで働いているのか…派遣なら履歴書なんかも総務課にあるだろう。』現時点で1番怪しいのはこの男だと仮定すると、素性についても調べる必要があると。 )
( 記憶と、メモの内容と、カメラ映像をまるでパズルのピースを合わせるかの如く当て嵌め導き出したのは矢張りグレッグは現段階決して“白”では無いと言う事。グレー__何方かと言うと極めて黒に近いグレーであろう。執務室を通り過ぎる際に部屋の中を確認しようとしたその行動は果たしてどんな意味があったのか。「…自分が盛った毒がちゃんとエバンズさんに効いているか…様子を見たかったんでしょうか。」睨む様に画面の男を見詰め、確かな怒りの籠る口調でそう言葉を落としてから、グレッグの調査には同意を示す様に頷き。「リチャードさんに頼めば見せてくれるとは思いますが、その理由をどうするかですね。“刑事課の人が履歴書を見に来た。”なんてグレッグ本人に言われでもしたら直ぐに証拠を消されます。」この事を知ってるのは極僅かの面子だけ。確実に彼を調べるならば、理由は伏せるべきだ。少しばかり考える間を空けた後、「__この時間なら総務課も誰も居ない筈です。“考えすぎるより行動”、ですかね?」先程相手が言った言葉の“ネガティブ”の部分だけを省いたそれは、暗に“忍び込み”をチラつかせるもの。この強引ともとれる考えを相手はどう思うか )
ルイス・ダンフォード
( 本人に勘付かれる事なく素性を探るというのは骨の折れる作業だと考えていた矢先。相手からの提案に相手へと視線を向け少しばかり意表を突かれたような表情を浮かべると、やがて豪快に笑い。『さすがお嬢ちゃん、相変わらず大胆だな!お堅い警部補なら嫌な顔をするだろうが、生憎俺はそういうのは嫌いじゃない。ハッキングなんかはする訳にいかねぇが、書類を見るくらいならなんの問題もないだろう。』そう言うと立ち上がり、ぐぐっと伸びをしてから相手と共に部屋を出る。真っ暗な総務課のフロアの電気を点け、総務課長のデスク付近の棚へと向かう。『人事やスタッフの契約に関するファイルがどっかにあるだろ。それを探すぞ。あとは本人のデスク周りにも何かあるかもしれねぇ。』そう言いながら棚の引き戸を開けてファイリングされた書類の中身を確認し初めて。 )
( 此方の“匂わせた提案”を汲み取り豪快に笑い、意図も簡単に了承して見せた相手は矢張り不思議なタイプで、これまで共に捜査をして来たどの刑事とも違う様に思えた。だからか、相手と共に総務課に向かう道すがらで“このタイプ”の相手に教育された、まだ新米だった頃のエバンズを想像してひっそりと微笑み。__日付を跨いだこの時間、矢張り総務課には残ってる署員は居らず何時もの賑わいは無かった。相手の言葉に頷き「朝までに見つけられると良いんですけど。」と、危惧したのは恐らく契約の書類などかなりの枚数があると踏んでいるから。相手が書類を探す間、己は先ずグレッグのデスク周りから、と部屋の一番奥に向かい__足が止まった。その理由は“何かの違和感”を感じたからだ。彼のデスクはきちんと整理整頓がされていて、必要な物を直ぐに取り出し易い様になっているが、“綺麗過ぎる”気がする。徐に引き出しを開けるがゴチャゴチャと余計な物は入っておらず、言うならば“何かあれば簡単に纏めて出て行ける”状態。「…ダンフォードさん、ちょっと来て下さい。」棚の書類を探す相手にそう声を掛け、相手が来たのならば「少し綺麗すぎる気がしませんか?…勿論性格なのかもしれませんが、それにしては物が無さ過ぎる気が、」と、呟いて )
ルイス・ダンフォード
( グレッグ・クーパーに関する契約書類を探してファイルを確認していると相手に声を掛けられ、それを棚の上に置いて相手の元へと向かう。確かに相手の言う通り彼のデスクはさっぱりとしていて物が少ない印象を受けた。『言われてみりゃそうだな…最近聞くミニマリストってやつか?ここまで物が少ないと仕事にもならなそうだが、』と怪訝そうに口にしてから、デスクの脇に置かれた紙袋へと視線が落ちる。紙袋の中には書類の束が入っていて、その外側には“廃棄”と書かれた付箋。『_____これを見ろ。書類を大量に処分しようとしてる…デスクを明け渡す為に片付けてる最中なんじゃねぇか?』思い至ったのは、このデスクを他の人物に明け渡すために整理整頓を行っている最中なのではないかという事。異動や退職を控えた人物のデスクとして見ればなんの違和感もない、異動期には度々目にしてきた光景だと。 )
…まだ仕事を任されていない新人なら兎も角、
( 監視カメラ映像にもあった通り、グレッグは以前から度々刑事課フロアを訪れ経費に関する書類や様々な仕事に携わった来た筈。腑に落ちない、と僅かに眉を潜めたその時。デスクの脇にある“廃棄”の紙袋に目を留めた相手がその中にある大量の書類を見付けると思わずギョッとし。「明け渡すって……本当にグレッグが犯人だとしたら、証拠もまだ掴めて無いのにこのままじゃ逃げられます。」相手の考えが正しいなら何時から彼は異動の準備をしてきたのか。そうして今話は何処まで進んでいるのか。「明確な証拠があれば…。」と、落とした呟きは思いの外小さかった。「__リスクはありますが、明日の朝一で本人に直接聞くのはどうでしょうか?勿論事件の事では無く、異動の件のみについて。」顔を上げ廃棄書類から相手へと視線を向けては、果たしてどうするべきか、ある意味指示を待つ形を見せて )
ルイス・ダンフォード
( 証拠がまだ出ていない疑惑の状態で男に接触するというのは、疑っている事に気付かれ警戒され、一歩間違えれば隠蔽工作によって証拠を見失う可能性もある。『逃したくない気持ちは分かるが…この状況で本人に退職について聞きに行くのはリスクの方が高いだろうな。_____ただ、それを逆手に取るっていうのは無しじゃねぇな…』一度はリスクが高すぎると懸念を示した提案だったが、上手く使えば尻尾を捕まえられるだろうかと考え込みながら独り言を。『……本人に退職について聞けば、疾しい事がある場合俺たちが疑っている事に気付くだろう。警戒されて証拠を消される可能性もある。だがそれを逆手に取って、揺さぶりを掛ける事はできるかもしれねぇ。疑っている事に気付かせて、動くように仕向けるんだ。被疑者に接触した後、行動を監視する。慌てて証拠を廃棄しようとしたり普段と違う行動があれば任意で事情を聞けるって事だ。明日クーパーが退勤した後を尾行する大掛かりな対応にはなるが、』考えていた方法を相手に告げると、自分は警部補代理の仕事もあるため必然的に尾行するのは相手になると付け加えて。 )
( 普段必要最低限の仕事の事でしか会話をしない相手が急に話し掛けて来た場合、少なからず何かあると疑われるのは必然で矢張りリスクが高過ぎるかと視線を落とすが、間髪入れずに続けられたのはそのリスクを逆手に取る方法だった。態と此方が疑っている事を相手に示しその上で出方を伺うなんて__絶対にバレないと言う事だけを考えていた己にとってそれは視野の広がるもので。相手を見詰め一つ瞬き、漏れたのは“成程”という音の代わりの感嘆にも似た息。勉強になる、と素直にそう思えば数回相槌の様な頷きの後「…では明日、午前中の内にグレッグに接触して行動を監視します。」と、少しの緊張も混じる返事を。それもその筈、今や殺人事件はエバンズと共に多く捜査して来たが、尾行の経験は一度だって無い。バレたらその瞬間に何もかもが水の泡になる程重要だとわかっているからこそ、普段の何倍も緊張するのは当然か。視界の端でチラついた自身の髪を見「……目立つかな、」と誰に宛てるでも無く呟いたのは、比較的目に留まりやすい髪色をしていると自覚があるからで )
ルイス・ダンフォード
( 突然対象者の尾行という提案をされても動じない辺り、相手もエバンズにしごかれながら数々の事件捜査を潜り抜け経験を積んで来た刑事だけある。タイプは違うがジョーンズを前にしていた時の頼もしさに似たものがあると思いながら少し笑って。『わかってると思うが、間違ってもカツラなんて被って来るんじゃねぇぞ。帽子も怪しいからな、髪は結んどきゃあ大丈夫だ。』尾行と聞いて、そのイメージばかりでカツラや帽子、サングラスを使うと思っている若手が多いのだ。以前自分よりも2回り以上離れている新人に、何の変装を準備すれば良いかと真剣な眼差しで聞かれた事を思い出し相手にも釘を刺しておき。 )
( カツラ…とはまではいかずとも、帽子の存在の事は少なからず考えていた。後頭部で髪の毛を全て括り帽子の中にしまってしまえば目立た無いのでは、と。だからこそ此方の考えを読んだ様な忠告に一瞬ドキッとし思わず薄い苦笑いが表情に滲み。“感情がわかりやすい”と言った相手には恐らく気付かれただろう。「…危なかったです。自然体が一番バレないって事ですね。」下手に隠す事はせず先ずは素直に過ちの告白を。気付かれない様に、気付かれない様に、と変装をした結果、それが一番不自然となり目を引く。もしこの先潜入捜査や尾行の任務が降りて来た時にも思い出す事が出来る様心に刻んで置こうと決め。__グレッグへの接触が明日ならば、今出来る事は契約書類を確認し彼の素性を知る事。先程呼び止めてしまった相手と共に再び棚の引き戸からファイルを物色し、ややして人事や契約関係のファイルを数冊見付けると「ダンフォードさん、これ。」と、声を掛けて )
ルイス・ダンフォード
( 相手の表情を見逃す事はなく『お嬢ちゃんの場合は髪を括ってメガネをかけるくらいで良いだろうな。派手な色の服は避けて…後は音の鳴るヒールも履かない方が良い。気を付けるのはそれくらいだ。』と助言しておき。相手が持って来たファイルを開くと、グレッグの履歴書を見つける。以前働いていた会社を一身上の都合で退職して以降は派遣の仕事をしている様子。記載されていた住所を控えておき『俺はこいつの事をもう少し調べてみる。仮にこいつが毒を盛った犯人なら、何かしらエバンズとの接点があったと考えるのが妥当だよなぁ。』と、履歴書を眺めて。 )
( 髪を括る紐も、伊達眼鏡も、底がぺったんこな軽い運動靴もある。黒いTシャツにジーンズを履けば人混みに紛れる一般人そのものだろうと相手の助言に頷き。__グレッグの履歴書は特別不審な点も無く極一般的な派遣社員の様に思えた。勿論履歴書の写真と文字だけで何もかもを判断など出来る筈が無いが、相手の呟く様に落とされた言葉に同じ様に履歴書に視線を落とし。“接点”その単語で一番初めに浮かんでしまうのはどうしたって“あの事件”だ。「…もし彼が“遺族”なら、立派な接点になります。本来恨むべき犯人はもうこの世に居なく、関係者として残されてるのはエバンズさんだけなんだから、」動機としては十二分に有り得ると、まだ決まった訳では無いものの声に少しの怒りや悔しさを滲ませつつ。しかしそれだけを見て後を除外する事は出来ない。「……それ以外の理由なら、例えば過去に逮捕された…注意程度だったかもしれませんが、その事での逆恨みの線はどうでしょうか。」顔を上げ隣の相手に視線を向けた時には、その声色は何時も通りの捜査に向き合う真剣なものに変わっていて、「後者で、それも逮捕まではされていなかった場合、エバンズさんとの接点を調べるのは相当難しいですよね。」と、困った様な息を吐き出して )
ルイス・ダンフォード
( 相手の言葉に頷き『あの事件の犠牲者の苗字はさらってみるつもりだが…関係者として残っているのがあいつだけだからこそ、直接接点のない奴から恨みを向けられた線も排除仕切れねぇ気はするな。…嫌な話だが、』と続ける。あの事件の遺族という線は勿論、直接エバンズとの接点がなくとも一方的に恨みを抱く、という状況も考えられなくはないのだ。全ては、あの事件の関係者がもう1人しか残っていないという忌まわしい状況故に。そうなれば接点を見つけるのは至難の業だ。『それも十分に考えられるな。ただ、逮捕までされないような状況なら恨みを募らせるほどの影響はなさそうだ。毒殺しようと目論むほどにエバンズを恨んでいたなら、例えば逮捕された事で職を失ったとか、恋人を失ったとか、そういう背景があるんじゃねぇか?』と想定を口にして。 )
__そうだとしたら…英雄気取りも甚だしい。
( 残っているのが彼だけだから、それがもし今回の事件の動機なのだとしたら。あの事件の“悪”に制裁を加えてやった、そう狂った正義感に満たされてるのだとしたら。見る人が見ればその嫌悪に塗れた表情に驚くかもしれない。反吐が出る、とでも言いたげに眉を潜め吐き捨てた言葉は酷く冷たく刺々しい空気を纏って地面に落ち。続けられた想定の言葉には再び考える素振りを見せる。確かにそうだ、毒殺まで企てたのならば“相当の理由”があると考えるのが妥当だろう。「…“お前のせいで俺の人生が__”って事ですね。」正しく逆恨みの想定理由にやれやれと肩を竦め、「明日、何か掴めると良いんですけど。」と。そうして再びグレッグの履歴書を見詰めては、「…エバンズさんが目を覚まして、何か思い出せれば、」今尚意識の戻らぬエバンズの事を口にして )
ルイス・ダンフォード
( 相手の落とした呟きは、まさしく嫌悪感の滲んだもの。エバンズの身に降りかかる様々な不条理を近くで見て来たからこそ、そして彼を大切に思っているからこそのものなのだろう。『あいつもかなりの数の事件を担当してる。クーパーの顔を覚えてるかどうか…とはいえ、仕事の事となると驚異的な記憶力を発揮するからな。覚えがあるかもしれない。普段顔を合わせてる人の顔と名前は全く覚えねぇクセに、事件の事はよく覚えてたりするんだよ。』---翌日。ダンフォードはグレッグの素性を調べながら、署員たちの報告書を見たり捜査の相談に乗ったりと午前中から忙しくしていた。退職を控えたグレッグは、後任を連れて仕事で接点のあった刑事課の事務員などにも挨拶をしに来ていて、今後の経理処理などを後任に引き継ぐ旨などを説明しており。 )
( 仕事の時の記憶力と、そうでは無い時の人の顔と名前による記憶力の違い__【サラ・アンバー】をなかなか覚えなかった時を思い出し内心微笑ましい気持ちを覚えたのは胸にしまっておこうか。__翌日、相手の読み通り退職を間近に控えているのだろうグレッグは、後任の男性を引き連れて挨拶回り件仕事の説明をしていた。刑事課の事務員に話しかけ終わったタイミングを見計らい、胸に巣食う荒ぶりを抑え込んだ笑みを顔に貼り付け歩み寄れば「お疲れ様です。」先ずは無難な挨拶を。彼の隣の後任を一瞥し軽く会釈の後、再びグレッグを見詰めては「…もしかして、辞めちゃうんですか?」と。何とも白々しい問い掛けだがその際貼り付けた笑みの奥、瞳にだけは僅かに怪しむ様な色を意図的に浮かばせて )
( グレッグは相手に声を掛けられた時、少なからず驚いたような表情を見せた。それもそうだろう、個別に話をする程の仲でも無ければ、そもそも相手を故意に避けていたのだから。後任の紹介と引き継ぎの為に刑事課に行かなければならない事は決まっていたが、最も顔を合わせたく無かったのが彼の不調を知っていた相手だった。署員の訃報といった話が上がって来ないと言うことは、毒殺計画が未遂に終わったという事は薄々感じていた。病院に運ばれたのなら毒を盛られていた事にも気づかれただろう。捜査の手が及ばぬうちに身を引くため退職の手続きを進め、刑事たちが捜査に出ている事が多い昼前の時間帯に、警部補の執務室から一番離れた入り口からフロアに入ったというのにわざわざ向こうから声を掛けてきた。『お疲れ様です、…えぇ、まぁ。公認は彼なので、引き続きよろしくお願いします。』と当たり障りなく答えて。 )
( 声を掛けた際の微妙な表情の変化、当たり障りの無い受け答え、その数々を貼り付けた笑みの裏側から観察する様に見詰めつつ「寂しくなりますね。…此方こそよろしくお願いします。」と、思ってもいない言葉と共に頷くのだが。勿論そこで話を終わらせる気は無い。右足を一歩前に、グレッグとの距離をもう少しだけ縮めると、表情は変えぬまま周りには聞こえない様に僅かに声を潜め「…そう言えば数日前の警部補の事、私が言うのも変だけど驚かせちゃってゴメンなさい。今はもう元気になったので…一応報告として。」毒物が体内を巡り体調不良を訴えたエバンズと、丁度そこに出会したグレッグ。あの日の出来事を態とらしく切り出し“元気になった”なんて言ってのけた後は、「お仕事中にすみません、お世話になりました。」と__紛れも無い皮肉と共に頭を下げて )
( 他愛のない挨拶を済ませて総務課に戻ろうとした時、不意に相手が此方に近づき声を顰めて語った言葉に思わず僅かながら表情が硬くなる。エバンズに盛った毒が効果を発揮している事を確認したあの時の事を敢えて今蒸し返して来ると言うことは、紛れもなく自分を疑っているという事。『…それなら良かったです。お大事にと伝えてください。それじゃあ、私たちはこれで。』作った笑顔を相手に向けるとそう言って総務課へと戻って行き。---刑事課のフロアを離れても、当然心中は穏やかではなかった。自分が彼を毒殺しようとしたことが水面下で暴かれようとしていると思えば行動を起こすのが遅かったと後悔する。家にある毒物を早急に何処かへ捨てて証拠を隠滅しなければと焦る気持ちを表に出さないように押し留めて仕事を続け。 )
( 互いに心の内はどうあれ表面上は取り繕った笑顔で別れた。彼の後ろ姿が刑事課フロアから消えるのを見届け途端に冷たさを帯びた真顔に戻ると、足早にダンフォードが仕事をしている執務室へと向かいノックの後中へ。「__やはり退職の方向で進んでいるみたいです。理由は言いませんでしたが、既に後任の男性も決まっているので、居なくなるのも時間の問題かと。」溜め息混じりにそう告げては「何が何でも今日中に証拠を掴みます。」今一度強い意志の籠った言葉を送り、後はグレッグが退勤するであろう時間までリリー殺害事件の報告書を仕上げたり、別の仕事を片付けたりと仕事を進ませて )
( 総務課の署員たちが退勤する時刻まであと1時間ほどに迫った頃、相手の電話が着信を知らせた。それは病院からのもので、エバンズの意識が戻ったという知らせだった。『良かったな。会いに行ってやりたい所だが…どうする、グレッグの尾行は俺が変わるなりするか?』ダンフォードがそう尋ねたのは、ようやく目を覚ました彼に会いに行くことを優先させた方が良いかと悩んだから。実際グレッグに声を掛けて行動を起こした以上、明日以降に後ろ倒すのはリスクが高い。今日証拠を隠滅されてしまえば計画の意味がなくなるため、相手が病院に行くなら自分が尾行をする必要があるかと。 )
( “エバンズの意識が戻った”電話口から聞こえたその看護師の言葉は、己が何よりも聞きたかった言葉だった。思わず涙ぐみそうになるのを堪え大きな安堵を抱えたまま、此方を気遣う相手と向かい合う。今直ぐ病院に向かい陽の光を受けて確りと輝くだろうあの褪せた碧眼を見詰め、もう大丈夫、と声を掛けたい。それは紛れも無く優先したい望みなのだが。__「私がやります。」唇の隙間を縫って出た言葉は当初の予定通りの進みだった。__セシリアの命日を控え、精神的に不安定だったエバンズを残し1人で出張に行った何時かの日、FBIとしては失格であろうが捜査中も彼の事ばかりを考えまったく集中する事が出来なかった。解決してもいない捜査を途中で切り上げ、1秒でも早く彼の元に戻りたいと心底切望したのだ。けれど彼の傍にはあの時クレアとダンフォードが居てくれた。クレアは此方の気持ちを肯定した上で踏み留まる事の出来るあたたかい言葉をくれた。2人の存在はとてつもなく大きく、エバンズとはまた違う角度から勇気や安心を与えてくれるから、きっと今回この決断が出来たのかもしれない。「…犯人を逮捕して、全てを終わらせた状態でエバンズさんに会いに行きます。」相手を真っ直ぐに見詰める緑眼に揺れは無く、力強くそう言葉を続けて )
( 当初の予定通り自分が捜査を請け負うと答えた相手は普段以上に頼もしく、エバンズの為にも刑事としての責務を全うしようとしているようだった。写真や物的証拠を持ち帰る事ができればと願いつつ相手を送り出し。---グレッグは退勤すると、車に乗って自宅へと戻って行った。家に入ってから暫く動きはなかったものの、家の扉が開いたのは2時間ほど経ってから。鞄を持ち再び車に乗ると署とは反対方向に車を走らせ、町を出た郊外まで。30分ほどして到着したのは、所謂ゴミの最終処分場。誰でも粗大ゴミやその他のゴミを持ち込み捨てる事が出来る場所だった。グレッグは暗い中車を降りるとカバンを手に奥へと入って行き______捨てたのは、口を固く縛ったビニール1袋。中にはプラスチックの容器と大量の濡れたキッチンペーパーのような紙が入っている。毒薬を染み込ませて紙ゴミとして処分しようとした為だった。 )
( __グレッグが家から出て来るまでの2時間はとてつもなく長く感じた。もし証拠の一つ持ち帰る事が出来なければ幾ら彼が怪しくとも逮捕は出来ないとわかっているから。目を覚ましたエバンズは今頃何をしているだろうか、喉の炎症が完治していればご飯は確り食べられるだろうか、ダンフォードは仕事を一段落させて彼の傍に居るだろうか、そんな様々な…けれど全てエバンズに関係する事ばかりをグルグルと考えていた矢先、玄関の扉が開き鞄を持ったグレッグが出て来れば表情には緊張が滲み、それはこの尾行がバレては不味いと言う気持ちの現れか、眼鏡越しに緑の虹彩を無意識に下げ。それから彼が運転席の扉に手を掛け乗り込もうとした所の写真を一枚、間に別の車を挟みある程度の距離を空け追跡した先で、ゴミの最終処分場に入る所を一枚撮り。物陰に隠れる様にして様子を伺えば、彼は鞄の中から一つのビニール袋を取り出しそれを他の人のゴミ袋の奥に押し込める様に捨てた。袋は決して大きくは無く、態々それだけを此処まで捨てに来たのは明らかに怪しい。その行動を確りと写真におさめては、彼がゴミ処理場から出たのを確認した後、指紋が付着せぬ様手袋をはめビニール袋を引っ張り出し固く結ばれた口を開いて。__無臭ではあるが、濡れたキッチンペーパーとプラスチックの容器。これが何かを今判断する事は出来ないものの、鑑識に回して毒物だと判断されれば逮捕に踏み出せる。逸る気持ちを抑えそれを持ち車に乗り込むと、“証拠品が入っていると思われる袋を見つけました。これから署に戻るので合流をお願いします。”と、ダンフォード宛にメールを送信して )
( 結果的に、相手の持ち帰った証拠はグレッグを犯人と確定させるに十分事足りるものだった。鑑識による鑑定の結果、袋の中に入っていた液体は紛れもなく毒物で、即効性こそないものの摂取する事で体内に蓄積して身体を蝕む植物性の毒薬と断定された。一方ダンフォードによる捜査の結果、グレッグ・クーパーという名前は全くの偽名である事が明らかになった。派遣に登録した段階から名前を偽っており本名は【ジョシュ・ベラミー】____彼には犯罪歴があり、そのいずれもが飲酒した状態での暴行やDVといったもの。担当という程の役割を果たした訳でもないものの、その事件の担当刑事がレイクウッドに赴任したばかりのエバンズだった事が明らかになり。---相手の厚労により逮捕されたジョシュは取り調べ室で俯いたまま口を閉ざしていた。 )
( グレッグ__【ジョシュ・ベラミー】が起こした今回の殺人未遂事件。捜査の中で過去にエバンズに逮捕された事があると言う事が明るみになり動機としてはその線が色濃いものの、それはあくまでも推測でしかなく本人の口から直接聞き出さなくてはならない。彼の目前に腰を下ろして尚俯いたまま視線を合わせようとしない相手を一拍程黙したまま見詰めた後、「…もう一度聞きます。警部補を殺害しようとした動機は何ですか。」と、問う。それでも口を開こうとしない相手に一度小さな溜め息を吐き出すと、続けて「過去の暴力事件で貴方を逮捕したのが警部補だった。…貴方はその事をずっと根に持ち続け、今回の事件を起こした。…違うのなら否定して下さい。」視線を逸らさず真っ直ぐに見据えたまま、答えを聞く迄は絶対に解放しないとばかりの態度で )
ジョシュ・ベラミー
( 相手の問い掛けにようやく顔を上げると『……そうですよ、その通りです。あの時逮捕された所為で俺は全てを失った。職も、恋人も何もかも…なのに人の人生をめちゃくちゃにしておいて悪びれる様子もなく冷たい言葉を吐き捨てられて、憎しみに駆られました。』と答えた。謂わば逮捕された事に対するただの逆恨みだ。『でも、』とジョシュは言葉を続けた。『出所してしばらくして、週刊誌の記事を見たんです。ショックでした。俺はあんな人間に断罪されたのかと…彼は俺に罪を突き付けて全てを奪った。でも本当はあの人こそ、裁きを受けるべき存在だったんです。なのに当の本人はのうのうと、俺のように檻の中に入ることもなく過ごしてる。それで復讐を思いついたんです。俺が味わった苦しみを与えてやろうって。それで此処に来ました。気付かれない程度の毒を少しずつ与えて、一番近くであの人が蝕まれていく様子を見て、気持ちが晴れました。』淡々と、業務について説明している時のような口ぶりでそう言葉を紡いで。 )
( 案の定“過去の逮捕”が今回の犯行動機で、ダンフォードが想定した通りその事で職も恋人も失った所謂逆恨みだった訳だが__。“その動機”に絶対に抱いてはならなく、間違いではあるが一瞬でも安堵した心は次の瞬間、鋭利な刃物で滅多刺しにされたかの如く血を流した。勿論比喩ではあるがそれ程までの衝撃だったのだ、彼が続けた言葉は。一瞬にして頭に血が上るのを感じ、喉の奥で引き攣った息が出口を探して彷徨う。…またか。また、エバンズは悪意ある言葉に、態度に、傷付けられるのか。こんな奴に。何がショックだ、何が裁きを受けるべき存在するだ、何を持ってしてそんな巫山戯た言葉を吐けると言うのだ。言いたい事は山ほどあるのに無意識の内に噛み締めた奥歯が怒りで小さく鳴るだけ。ややして震える息の合間、漸く開いた唇からは「……本気で言ってますか、」と、たった一言。それだけが漏れて )
ジョシュ・ベラミー
( 『本気じゃなかったら此処までしませんよ。俺の人生をめちゃくちゃにした報いをようやく受けたんです。“此方側”の筈なのに俺を断罪したことを悔いれば良い。あと少しでも多く毒を塗っておけば良かった、』---ジョシュは歪んだ身勝手な思想のままそう言葉を紡いだ。収監される事は確実だと自暴自棄になっているのだろう、聞かれていないことまでやや感情的に言葉にして、毒殺が失敗した事に対する悔しさを滲ませて。『あなたに声を掛けられた時、焦って行動したことを後悔しています。尾けられてる事も考えておけば良かった。もっと早くレイクウッドを出ていれば…』紡いだのも自身の行動に対する後悔ではなく、捕まった事への後悔で。 )
( 音声録音装置には相手が自暴自棄に告げた自供も、反省の色が僅かも見えない身勝手極まりない後悔も余す事無く確りと録音されただろう。机の下で血が滲んでも可笑しくは無い程に握り込んだボールペンは、後どれくらいの時間その身を保っていられるだろうか。「もし貴方があと数日早く此処を出ていたとしても、私が逮捕を諦める事は無い。」相手が自身の行動の遅さに嘆き後悔した所で、最終的に行き着く結末は何も変わる事が無いと冷たい声色で吐き捨てると同時、持っていたペンを机に叩き付ける様に置いて。これで相手の有罪は確実。警察官相手に殺害を企てたのだから、幾ら未遂で終わったとは言え当分の間牢屋から出る事は出来ないだろう。最後の最後まで冷たい無表情を貫き、椅子から立ち上がり部屋を出る前。一度だけ振り返ると「…“最初”じゃなくて良かったですね。」そう吐き捨て。その言葉の意味を相手はどれだけ考えてもわからないだろう。“最初”はクラークが身を持って体験した。“次”はどれだけ怒りに震え、例え我を忘れたとしても最後まで“刑事らしく”と、他でもないエバンズと約束したのだから。__取り調べ室を出て真っ直ぐに向かうのはダンフォードが居る執務室。ノックの後部屋に入れば「…犯行動機も身勝手な後悔も、全て録音されています。エバンズさんには明日報告を兼ねて会いに行く予定です。」と。その声色は抑揚の無い冷静沈着なもの。しかし普段より少しばかり早口である事、ダンフォードと視線を合わせずやや俯き加減である事が、纏う空気が普段と違う事を表していて )
ルイス・ダンフォード
( 聴取を終えて戻ってきた相手の様子が可笑しい事には直ぐに気が付いた。それは此れまで幾度となく目にして来た、感情を必死に押し留めようとしている表情だ。未だ若かったエバンズやジョーンズも同じような表情を見せる事があった。自分自身もやりきれない感情を外に出すまいと上辺でだけ平静を装うあの気持ちを知っているからこそ、相手の置かれている状況も直ぐに理解した。『……正しい対応をしたな。ふざけた主張に耳なんて貸さなくて良い。どれだけ自分が正しいと喚いていたとしても、相手は歪んだ思想を持つだけのれっきとした犯罪者だ。そいつらごときの言葉に心を揺さぶられる必要なんてねぇ。』---まるで相手の心の内を見透かしたように告げる。『エバンズもお前を誇りに思ってるだろうな。』彼の為にと事件を解決した相手にそう言って笑いかけ。 )
( 報告を終え、一度だけ頭を下げてから部屋を出る筈だった。踏み出し掛けたその足を止めたのは相手からの労いの言葉と肯定。心を殺し感情を押し留める筈だったのに__気が付けば大粒の涙が次から次へと頬を濡らし、顎先を伝った滴がボタボタと床に落ちていた。悔しかったのだ。犯行動機こそ“あの事件”とは無関係だったが、最後の最後、ベラミーが傲慢にも語ったのは結局“あの事件”に結び付く事。エバンズを悪だと罵り、勝手にショックを受け、あまつさえ“犯罪者”だと言う。「…誰もエバンズさんを見ない…っ。」俯いたまま、震える唇から絞り出した言葉は悲痛な色を纏い落ちる。目前の相手への言葉では無く、ベラミーに、世間に、マスコミに、彼を“悪”だと言う全ての人に向けたもの。__吐き出す息が乱れる中、相手の言葉に柔らかさが宿ったのを感じ顔を上げる。涙で歪む視界には笑顔の相手が居て、その相手が言う通り、誇らしい部下だと、そうエバンズが思ってくれていたらどれ程嬉しいか。「早く、エバンズさんに会いたいです。」赤くなった目を僅かに細め、同じ様に笑い返しては、揺れた感情を落ち着かせる為に一度大きく深呼吸をして )
ルイス・ダンフォード
( 誰も彼自身を見ていない、というのはずっと感じていた事だった。あの事件を担当した刑事という肩書きが余りに大きすぎて、事件に関わった人物が居なくなる度に存在感を増すそれが重くのし掛かり、押し潰すようにして彼自身を覆い隠してしまう。『_____俺はあいつ自身を見てる。あの事件がどうだなんて、今のあいつには関係ない。過去の話は過去の話だ。お嬢ちゃんだって同じだろ、俺らがあいつを見てやれば良いんだ。』涙を流す相手にそう語り掛けると、宥めるように肩を叩いてやり。『行ってやれ、あいつの件は俺が引き継ぐ。お嬢ちゃんの捜査と聴取のお陰で有罪は確実だ。ずっと会いに行きたかったんだろ。寝てても叩き起こせ、』と笑みを浮かべて。---意識を取り戻したエバンズは少しずつ回復し、搬送された時には異常な数値を示していた血液検査の結果もかなり正常に近い値まで戻っていた。倒れる前慢性的に続いていた頭痛も今はなく、補助的に着けられている酸素マスクももうじき外れるだろう。あの長引いた体調不良が毒物による急性中毒が原因のものだったと聞いてはいたものの、詳細は分からないままの状態でいて。 )
( 気持ちを落ち着かせる為の“明日”など必要無かった。ダンフォードからの言葉を大切な宝物の様に包み胸に落としてから深く頭を下げ執務室を出て。__病院に到着した頃には泣いた事による赤らんだ目元も元に戻っていた。ナースステーションでエバンズのお見舞いだと言えば、数日前彼が一般病棟に移されて直ぐ顔を見に来た時に出会った看護師が穏やかに微笑み頷いて。__病室の前で一度小さく深呼吸をしてから扉に手を掛ける。“寝てても叩き起こせ”と言うダンフォードの此方の心に寄り添う優しい言葉を思い出し、一瞬1人笑みを浮かべるも、流石に寝ていたら起こす気にはなれない。ノックで起きてしまう事を懸念して静かに扉を開ければベッドの上には目を覚ましている相手の姿が。眠っていなかったのだ。途端に沸き起こったこの気持ちを一言で言い表す事は出来ない。安堵、嬉しさ、少しの切なさ、そう言った感情をそのままに「…エバンズさん、おはよう。」と、穏やかに微笑み傍に歩み寄って )
( 病室の扉が開き其方に目を向けると、入って来た相手の姿が褪せた瞳に映る。「……お前か、」とひと言だけ答えるも、相手と顔を合わせるのは随分久しぶりの事のような気がした。最後に相手を見たのは紛れもなく、あの夜執務室で倒れた時が最後なのだ。「____迷惑を掛けて悪かった。事件は解決したか、?」言葉を紡ぐ度に口元のマスクが曇る。少しばかり声に掠れは残るものの普段通りの様子で、倒れるまで追っていた事件の顛末を相手に尋ねる。ちょうど先ほど相手に部屋を案内した看護師が部屋にやって来ると、話をするならと”少し身体を起こしますね“と声をかけられ、ベッドの背中の部分が少しばかり持ち上がり傾斜が付くことで座っている相手と視線の高さが合い。 )
( 相手の顔を見たのは久々では無い。けれどその声を聞いたのは久々だった。少しばかり掠れてはいるものの、聞きなれた低く耳心地の良い声。「迷惑な事は何も無いよ。」と首を横に振り答えてから椅子に腰掛け、次に口を開いたタイミングで看護師が部屋に入って来れば、軽く会釈をして再び相手と視線を重ねる。看護師がモニターと点滴を確認して部屋を出た後、“事件解決”にYESを示す様一度頷き「__犯人はジェイで、案の定リリーの妊娠が関係してた。結婚を迫られて邪魔になったから殺害だって…身勝手な動機だよね。」呆れと怒りの滲む溜め息を吐き出し、膝の上で無意識に軽く爪を触った後「あのね、今ダンフォードさんが来てるの。…エバンズさんが摂取した毒の話もちゃんとしたいんだ。今聞ける?」本題は此方なのだとばかりに話を切り出し、少しだけ長い話、そして相手にとっては苦しい話となる事も懸念しての確認をとって )
( 今回の入院の原因である“毒の摂取”。此れは一切身に覚えのない事案のため相手の説明が必要だ。おおかた誰かに毒でも盛られたのだろう、恨みを買う事には慣れてしまったと思いはするものの其れを言葉にしなかったのは痛みに慣れてはいけないと相手がいつも言っているのを覚えていたから。相手の問い掛けに対し静かに頷き相手の言葉を待った。 )
( 相手は何も言葉にする事は無かったが静かに頷いた。けれどきっと胸中には様々な気持ちが渦巻いているに違い無い。相手の考える“恨み”が今回の事件の動機では無い事を直ぐにでも伝える必要があると思った。「__総務課に居たグレッグ・クーパーって男性覚えてる?派遣の。本名はジョシュ・ベラミーって言うんだけど、今回の事件は彼が起こした事で、動機はエバンズさんに逮捕された事による逆恨み。…エバンズさんがまだ此方に来て直ぐの頃、暴行の容疑で逮捕した相手なんだけど、」顔と名前が一致するのに時間の掛かる相手の事、彼を覚えていない可能性はあるがそこはさして重要では無いと思ってしまうのは、本当に重要なポイントが己の中で“動機”であるから。緩く首を擡げつつ、相手の反応を待って )
( 相手の言う男の名前から顔が結び付くはずもなく「…覚えてない、」と答えたものの、自分と関わりがあり総務課で働いている派遣の男と聞いて彼の顔を思い出す。「_____捜査経費の件で来てた奴か。」と口にしたものの、顔を思い出しても彼がかつて逮捕した容疑者だと思い当たるまでの鮮明な記憶ではなかった。暴行容疑で逮捕したことを逆恨みされて毒を盛られたというのであれば理不尽この上ないのだが、相手の話し方からして誰が犯人か、というだけの話ではなさそうだと。 )
( 案の定相手はベラミーの事を覚えていないと口にしたが、記憶の片隅にある何かが引っ掛かりある1人の顔を思い出したのだろう、“捜査経費の件”と正しくその通りの言葉が出れば「その人。」と頷き肯定し。相手が空けた間は“その先”を待っている様だった。本当は嘘を突き通したい事、けれど警部補である相手はベラミーの聴取の録音を間違い無く聞く。それならば隠し通す事は出来ない。「__動機は過去の逮捕の逆恨みの他に無い。これは嘘じゃない。…でも、アナンデール事件の事が話に出たのも本当。エバンズさんの事を“悪”だって言ったけど、それはあくまでもベラミーの勝手な戯言で、傲慢な正義感を振りかざしてるだけ。…ベラミーは正真正銘の犯罪者で、そんな人の言葉に傷付けられないで。」真っ直ぐに相手を見詰め、嫌でも後に聞かなければならないベラミーの身勝手な主張を隠す事無く話しては、最後に相手の手を掬い取り甲を一度だけ撫でて )
( 相手の言葉を聞いて、あの事件とは何も関係のない人間でさえ自分を恨む理由のひとつに其れを挙げるのかと小さく息を吐き出した。いつでも自分にはあの事件の影が付き纏っている事を知らない訳ではないが、こういう時に其れを改めて自覚させられるのだ。逮捕された事への個人的な恨みに加えて、あの事件を担当していた自分を“悪”と看做し“正義”の裁きを与えるというような歪んだ思いもあったのかもしれない。続いた相手の言葉と手を取られる感覚に顔を上げると、少しばかり心配そうな、それでいて力強い光の灯った瞳と視線が重なる。「______今更傷付いたりしない、」とひと言答えて。 )
__傷付くよ。何時だって、悲しい事や嫌な事を言われたら傷付く。それは私も、エバンズさんも、誰だってそう。
( “傷付いたりしない”と相手は言うが、それはその気持ちに蓋をし目を瞑っているだけだと思っているからこそ緩く首を振り。そしてもう一度相手の手の甲を撫でた後に静かに手を離し自身の膝へと戻せば、これ以上心を揺さぶられぬ様にと空気を変え「身体の毒もかなり抜けたし、喉の炎症も治まってるんだって。だから、きっともう直ぐ退院出来る。…良かったね?エバンズさんの嫌いな病院から解放されるんだよ。」少しだけ悪戯な色宿る笑みを浮かべ、まるで監禁でもされている場所から脱出出来る…なんてニュアンスで )
( ネガティブな気持ちを見て見ぬふりなどしなくて良い、全ての感情に蓋をしなくて良いと、いつも相手は言い聞かせるように繰り返す。そうして此処までの空気を変えるように告げられた言葉に溜め息を吐くと「…こうしているのにはもう飽きた、」と答えて。何をする訳でもなくベッドに縫い付けられている状態はもううんざりだと。「ダンフォードさんが来てると言ったな。礼を伝えておいてくれ、なるべく早く戻ると。お前もあの人に面倒を掛けるなよ。」と付け足して。 )
明日にでもクロスワードの雑誌持って来てあげようか?
( 身体も動く様になった以上、一秒でも早く退院して職場に戻りたいであろう相手の気持ちは手に取る様にわかるのだが。医師からのOKサインが出るのは少なくとも今日・明日の話では無いだろうし、こればかりは相手にも己にもどうする事も出来ない。それならば、と緩く首を擡げ告げたのは相変わらず少しの悪戯や意地悪の含んだ、そうして答えのわかりきってる問い掛けで。続けられた言葉には「わかった。」と、頷きを1つ。これは前者に。勿論後者にも頷き返しはするのだが、ふ、と何かを思い出した様に背凭れに深く座り直すと「…そう言えばね、ジェイの取り調べをダンフォードさんと2人でしたんだけど、少しだけエバンズさんに似てたよ。…エバンズさんがダンフォードさんに似てるのかな?…兎に角、纏う空気って言うか__新人だった頃のエバンズさんを育てた人なんだなぁって実感した。」相手にとっては特別喰いつく様な話では無いかもしれないが、何だか不思議な感じがしたのだ。呆れた返事が返って来る事も想定しつつも、1人楽しげに笑って見せて )
_____いらない。
( 相手の提案に被せるように間髪入れず答えたのは、相手が言葉を紡ぐ少し前に悪戯めいた表情を浮かべたのに目敏く気付いたから。冗談を言う時、相手はよくその顔をする。続いた言葉には数度瞬きをして昔の事を思い出す。「…捜査の基礎は全てあの人に叩き上げて貰ったからな。普段の言動にさえ目を瞑れば、俺の理想とする刑事像だ。」一部に皮肉が篭ってはいるものの、普段に比べればだいぶ素直な言葉を紡いで。初めての殺人事件の捜査の為に現場に着いてきた相手のように、自分もまた初めての現場には彼と共に行ったのだ。相手と違ったのは、教官となる彼が指導や育成を得意とする人柄の良い刑事だったということだろう。 )
そ、残念。
( 適当に肩を竦めるでも無視をするでも無く、間髪入れずに、しかもやや早口にも聞こえる口調で拒否されれば肩を竦めるのは此方の方。けれどそれは呆れている訳でも断られた事に傷付いた訳でも無く言うなれば態とらしい仕草。それで以てこの冗談を終わらせると、続いた多少の皮肉こそ篭ってはいるが相手にしたら随分と珍しい言葉にぱち、と一度瞬き。「…そっか。」溢れ落ちた相槌の音は何故か自分が褒められた訳じゃないのに嬉しさが滲むもので、それはきっと相手がそう思える人に出会えたと言う事への喜びだろう。もう一度、今度は誰に宛てるでも無い頷きに続いて小さく微笑むと「私の理想とする刑事像はエバンズさんだよ。」と、聞かれてもいない事をお世辞など何も無しに告げ。__何時間も居た訳では無いが、まだ病み上がりと言える相手は1人静かな休息が必要かもしれない。腕時計を一瞥し「…そろそろ帰ろうかな。退院して落ち着いたら、また一緒にお泊まりしよ。」相変わらず余計な一言を悪戯めいた口調と表情で。その裏に隠したのは、早く相手の体温を、心音を、“生きている”証の何もかもを隣で感じたいという言う切望で )
( 相手は自分を理想の刑事像だと言ったが、自分が理想とするに相応しい刑事だとは到底思わない。「…やめとけ、もっと適任が居るだろ。」と肩を竦めて受け流すに留め。そうして事あるごとに“お泊まり”という意味深な言葉を選ぶ相手に冷めた視線を向けたのが数週間前の事_______その後経過も問題はなく、1週間ほどして退院する事が出来た。しかし長い入院で体力が落ちている事もあり、直ぐに職場復帰とはいかなかった。退院して直ぐに仕事に戻るという考えは一蹴され、1週間ほどの静養を余儀なくされた訳だが、実際未だ疲れやすく1日の中でも何度か横になる事があったため、必要な休息だったと言えよう。ソファでの短い眠りから覚めてカーディガンに袖を通すと少しの空腹を感じて冷蔵庫を開ける。しかし中には食料らしきものはほとんどなく、さすがにそろそろ買い物に行かなければと思案して。 )
ルイス・ダンフォード
( __エバンズが退院し、職場復帰を果たす迄の凡そ一週間が警視正に言われた応援期間だった。仕事人間の相手の事だ、その決定は不服だっただろうが残念ながら覆る事は無いだろう。署で顔を合わせるミラーも今は別の捜査に励んで居て、此方はと言うとこれと言って忙しい訳でも無い。仕事も普段より1時間以上早く終わった今日、ふ、とエバンズの顔が浮かび、何をしているだろうかと考えるよりも先に執務室の電気を消し退勤を押していた。署の近くにあるスーパーに寄って買ったのはミネラルウォーターのペットボトル数本と適当に見繕ったお惣菜。ついでにあれば朝ご飯にでも食べるかもしれないとトーストもカゴに入れ、なかなかの世話焼き振りを披露し会計を済ませた後向かうのは相手の家。駐車スペースに車を停め、片手で鞄と買い物袋を引っ掴み部屋のチャイムを押せば『…エバンズ!』と、声を張って )
( 近くのスーパーに行こうと、久方振りの外出を決めた直後。チャイムの音が部屋に響き、外から自分の名前を呼ぶ声がした。其れは聞き間違える筈もないかつての上司の声なのだが、特段約束をしていた覚えもなく仕事の帰りに寄ったにしては幾分早い時間。そもそも来るならメールなりチャットなりがあっても良いものなのだが。ドアを開けようと玄関へ向かう途中にももう一度チャイムと自分を呼ぶ声が響くものだから、結局ドアを開けての第一声は「_____聞こえてます、」というぶっきらぼうなものになり。顔を合わせた相手はいつもと何ら変わらない様子ながら、こうして会うのは思いの外久し振りな気がして「お久しぶりです。…どうしたんですか、急に。」と尋ねて。 )
ルイス・ダンフォード
( 扉が開いた第一声、表情と比例したぶっきらぼうな言葉が遠慮無く降り掛かるがそれを気にする男では無い。もし気にするタイプであるなら訪問の事前連絡の1つしただろう。ただ、可愛い部下の姿が見れた事に嬉しさを隠す事無く豪快に笑うと『仕事が早く終わったんでな、お前の顔が見たくなった。』これまた素直な言葉を恥ずかしげも無く答えつつ、買って来た惣菜諸々が入ったビニール袋を軽く掲げ『飯も買って来たんだが、上がっていいか?』言葉こそ確認を取る疑問形ながら、最早片足は返事の前に一歩前に出ていて )
( 彼は昔からこういう人だった。事前の連絡など入れず風の吹くまま気の向くままに動き、恋人同士でも気恥ずかしいような言葉を平然と言う。それを思い出し、少しばかり呆れたような、それでいて嫌悪感は感じさせない表情のまま「……どうぞ、何もありませんが。」と、既に玄関に入ってきている相手に返事をして。部屋はいつもの如く殺風景で、ソファに毛布が置かれているくらいで他にはこれと言った物は出ていない。「何か飲みますか?」と、キッチンの方へと向かいつつ相手に尋ねて。 )
ルイス・ダンフォード
( 初めて訪れた相手の部屋は殺風景で、悪い意味では無く何処とない“らしさ”感じた。袋をテーブルの上に置いてから毛布を端に寄せつつソファに腰を下ろせば『アイスコーヒーを頼む。』と答えた後に『…起こしたか?』と。それは毛布の存在がソファで仮眠していた事を現していると思ったからで。__必要最低限の家具しか置いていない部屋の中、棚の上に静かに置かれている女性ものの腕時計を見た瞬間に、それが誰の物かを理解し思わず険しい表情になった。殺風景なこの部屋で、その腕時計だけは何故か目を引き同時に物寂しい空気を漂わせている気がしたのだ。静かに腕時計から視線を外し、それに触れぬまま一度は置いた袋から中身を取り出しテーブルへと並べて )
( 毛布をソファに置いたままだった為、チャイムの音で起こしたと思ったのだろう。「いえ、買い物に出ようと思っていた所だったので。それはその辺に避けておいて下さい。」と答えつつ、アイスコーヒーを準備して。相手がセシリアの形見の腕時計を見つけた事には気付かなかったが、明らかに自分の物ではない女性物の時計を見れば、自分の過去を知っている相手なら直ぐに其れを察する筈だった。アイスコーヒーをテーブルに運つつ「…随分買い込みましたね、」と袋から出てくる物を眺めつつ告げて。 )
ルイス・ダンフォード
ほぉ、じゃあ調度良かったじゃねェか。
( 折角の眠りを邪魔した訳では無く、更には買い物をしてきた事が正解だったとわかればこれまた豪快に笑いつつ、相手もソファに座るだろうと毛布を背凭れに掛け直して。袋の中からはミネラルウォーターのペットボトル数本、食パン、そして今夜食べるだろうお惣菜の数々が。これを買って来たのがミラーだった場合、きっとサラダやサンドイッチと言った食べやすくヘルシーな物が多くなるだろうが、量を食べるダンフォードとなれば当然サラダは無く主に肉を中心とした惣菜のチョイスが多くなり。『冷蔵庫に入れときゃ2.3日はもつだろ。』全てをテーブルに出し終え何とも適当な返事をした後、出されたアイスコーヒーを一口飲んでから再び棚に置かれている腕時計に視線を向けると『__次来る時は、甘い菓子も持って来るか。』それは供え物として。誰に宛てるでも無い呟きを少しだけ緩めた表情で紡ぎつつ、それからお惣菜の蓋を次から次へと開けては『…ほら、沢山食え。』と、勧めて )
( テーブルの上に広げられたのは肉料理を中心とした惣菜。飲み会でも豪快な肉料理が出て来ると喜んでいた様子を思い出し「_____ダンフォードさんらしいラインナップですね、」と答えてテーブルを見渡し。相手の呟きは、セシリアの腕時計に気付いての事だろうと思ったものの、その気持ちを有り難く受け取っておこうと大きく反応する事こそないものの少しばかり表情を緩めると棚の上へと視線を向けて。実際こうでもされなければ自分で好き好んでちゃんとした惣菜を買い揃える事は少なく、有り難く頂こうと頷いて。「…応援でダンフォードさんに来て貰う事が増えましたよね。」徐に口にしたのは、相手の手を煩わせる申し訳なさと、応援となると相手が呼ばれる事が増えたという実感で。 )
ルイス・ダンフォード
( 勧めておきながら、グレイビーソースのたっぷり掛かったローストビーフを一枚フォークの先に刺しモグモグと咀嚼した所。ラインナップの話題に口内のそれを飲み込んだ後『葉っぱじゃ腹は膨れねェよ。お前もちゃんと肉食って栄養付けねェと、また倒れるぞ。』と、“サラダ”を“葉っぱ”と、そうして今回倒れたのは栄養云々の話では無く毒を摂取した事によるものの筈が、まるでお構い無しの適当さを披露しローストビーフの惣菜を相手の目前に移動させ。そこでふと思い出した様にフォークを置くと『…そう言えばな、』一度身体の向きを変えソファの端に置いた鞄を開け『…何かのキャンペーンだったのか、店の人がくれたんだ。新商品らしいが、俺にはアルコールが低すぎる。』取り出したのは缶ビール。“気が向いたら飲め”と、付け足しつつその缶も相手の方に押しやり。__簡単な食事を進めていく中、唐突に相手が口にしたのは“応援の頻度”の話だった。少し考える素振りを見せ、確かにそう言われると此処最近は結構此方に来ていると思えば『言われてみればそうだな。…まぁ、俺は此処の署が気に入ってるから問題ねェよ。お前が一から育てた嬢ちゃんの捜査のやり方も見れたしな。』初めから終わりまで、心底楽しいと言いたげに口角を持ち上げ、その瞳に少しの柔らかさを滲ませて )
( 香草やレモンの乗ったチキンのオーブン焼きをひと口サイズに切り分け口に運びつつ「栄養失調で倒れた訳じゃありません。」と言い返す。相手が取り出したのは缶ビールだった。その言葉に少し首を傾げつつ缶を受け取ると「…アルコール度数が低いなら、飲んでも問題無さそうですね。」と答えてそのままプルタブを開けた。病み上がりにアルコールというのは褒められた事ではないだろうが“アルコールが低い”というのなら少しくらいは許されるだろう。炭酸が抜ける独特の音を聞くのは久しぶりな気がした。「ダンフォードさんはワインでも飲みますか?ありますよ。」と言いながらグラスを取りにキッチンの方へと向かい。「俺が育てたというのかは分かりませんが…捜査の基本は叩き込んでるつもりです。使い物にならなくては困りますから。____ダンフォードさんから見てミラーはどうでしたか。」相手の目にミラーの働きぶりはどう映ったのだろうと、気になった事を尋ねて。 )
ルイス・ダンフォード
( 相手の至極真っ当な返しにもただ豪快に笑うだけ。推しやったビールはそのまま冷蔵庫へと消えると思っていたが、どうやら病み上がりの状態にも関わらず今飲む判断をしたようで、炭酸の抜ける耳心地の良い音が部屋に響いた。“アルコール度数が低い”とは言っても“自分にとっては”で、お酒である事は変わらないのだが、まぁ、一本飲んだ所で身体に何か支障をきたすわけじゃあるまい。特別咎める事もせず『お、なら一杯飲むか。』と、頷いて。__ミラーを教育した刑事がもし相手じゃなく別の人だったら。何がどう変わっていたのかを想像出来る程ミラーの事を詳しくは知らないが、2つの事件を同時に解決に導いたその根性は相手が以前お酒の席で言っていた通りなのだろう。『…荒削りな部分もあるが、真っ直ぐな刑事って印象だな。変に臆する事も無く、最後まで捜査をやり切れる強さもあるが、』そこで一度言葉切ると、軽く視線を相手に流し『少し感受性が強い様だ。悪い事じゃないが、その分心が疲弊するのも早いだろう。…お前もわかっていると思うが、長く刑事でいるとどうしたって“割り切り”が必要な事件が出て来る。それに直面した時、嬢ちゃんがどう行動出来るか、どう持ち直す事が出来るかがある意味課題になりそうだな。』何処と無く真剣味宿る声色でそう分析をしつつ、出してくれたワインに口を付けて )
( 相手にとってアルコールが低い、という言葉を敢えて都合良く解釈して今飲む理由にしただけの事。差し出された缶ビールを見て少し飲みたくなったのだ。グラスに赤ワインを注いで相手に手渡すと、自分も軽く缶を持ち上げて相手の方へ傾けつつひと口飲んで。---相手の語ったミラーの刑事としての姿は、2年も共に働いている自分の見立てとほぼ完全に一致していた。長年新人刑事の指導教官を務めていた相手だからこその分析力だと思いつつ「______さすが、分析が的確ですね。」と感心を素直な言葉に落として。「事件の解決を見据えて捜査を遂行する熱意や集中力は備わっています。時々、その気持ちが強すぎるあまりに一人で突き進もうとする癖があるので、客観的な視点で冷静に状況を分析して道を選ぶ必要性を教えている所ですが…度胸があって刑事事件の捜査には適性があるかと。」上司としての評価を述べつつ、相手の言葉には同意を示した。「懸念しているのは正に其処です。刑事事件、主に殺人事件の捜査を専門に請け負うには感受性が高すぎる。全ての事件に心を痛め、被害者や遺族に感情を引っ張られすぎると正しい目で事件の本質を見られなくなる上、本人の心が保ちません。ミラーを殺人事件の担当刑事にする事には不安が残ります。」直属の部下として育てている立場だからこその懸念を言葉にして。 )
ルイス・ダンフォード
( 一口しか飲んでいないアルコールがまさか効果を発揮した訳じゃあるまい。2人に贈られるやけに素直な称賛の言葉、それを音として発したと言うその事に珍しい事もあるものだと僅か口角持ち上げ。__『嬢ちゃんにとって“客観的”も“冷静”もなかなか難しい事なんだろうな。心が揺れる状況に立たされた時、それが強く出る。…ベラミーの聴取の録音はもう聞いたか?俺には何の話だったかわからねェが、直接目にして無くてもわかる程の怒りだった。』今回ミラーが最も冷静じゃなかった──抑えきったからある意味では冷だったのかもしれないが──のは相手を悪く言われた時。それを思い出しつつワインをまた一口煽り、“度胸”の点には頷いて。『二つの捜査の同時進行、犯人の尾行、…“忍び込み”も度胸があったからこそだな。』最後だけは少しだけ面白がる素振りで相手の反応を伺い。続いた懸念事項には表情を真面目なものに変える。『__壊れてからじゃ遅いが、こればっかりは本人の意思だからな。』ぽつり、落としたのはミラーの話なのだがその裏には少なからず相手の話も含まれている。『…だが、』と、繋いでから表情を緩めると『そこがある意味嬢ちゃんの“良い所”なのかもしれねェな。…多くの殺人に向き合うと悪い意味で慣れちまうが、嬢ちゃんはきっとそうじゃない。それで心は疲弊して、事件の本質を見れなくなる事もあるだろうが、そこは周りがサポートしてやりゃいい。』誤解されやすいが、何だかんだで確りと人の事を見て必要な時に手を差し伸べる事の出来る相手が傍に居るのならば、きっと心配は無いと根拠の何も無い自信が密かにあり )
( 聴取の音声は未だ聞いていなかった為、相手の問い掛けには首を振る。単純に署に出勤できていない事と、取り寄せてまで聞くには内容的にも未だ気が乗らなかったというだけの理由なのだが。いつだったか、クラークの聴取の最中に自分が使い物にならなくなった時、残されていた録音でミラーが酷く怒りを露わにした事を思い出す。相手から何も報告がないと言うことは、今回は怒りを行動に移す事はなくあくまで冷静に対応したのだろう。「_____聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしますが、ミラーに違法な捜査を強要したりしていませんよね。」“忍び込み”というワードに僅かに眉を動かすと、相手に限ってそんな事はないと思いながらも被疑者の家に忍び込ませたりと言った違法な捜査に手を染めていない事を確認して。相手の言う通り、ミラーは自然と周りから手を差し伸べられサポートを受けながら育って行く事が出来るだろうと、ふと思った。きっと、相手なら自分が心配しなくても大丈夫だろう。「…そうですね。」と答えて、缶ビールを口にしつつ惣菜を摘んで。 )
ルイス・ダンフォード
終わった捜査だ、聞かなくたって構わない。
( 未だ聴取の録音を聞いていないならば、無理に聞く必要は無い。報告書は書き上げているし、口頭での報告も既に警視正には済ませている。警部補と言う立場ならば確認しておくべきなのかもしれないが、相手の心を思えばそれは適切では無いと思うのだ。__グラスの中で揺れる赤を見詰め息を吐き出した時、ふいに隣から疑いの視線と問い掛けが来れば面白そうに声を上げ笑い。『同意の上だ。』“忍び込み”をにおわせたのはミラーからなのだがそこは取り敢えず伏せつつ、『総務課のフロアに少し邪魔しただけだよ。違法な事は何もしてねェ。』問題など何も無いとばかりに。それで相手が納得するかしないかはこの際だ、何せ終わった事。次いだ同意の返事には相手に視線を向け一拍程の間を置き、何を思ったか伸ばした手は相手の頭へ。『…お前が困った時は、俺がちゃんと助けてやるからな。』そのままワシャワシャと雑な手付きで撫で回せば、何時の間にか話はミラーから相手に移っていて )
( きっかけこそ逆恨みに等しいものだったが、周到に毒殺を企てるほど恨みを募らせ、あの事件の事を引き合いに出したという男。彼女が其れにどう対応したのか、被害者として、同時に上司としても確認しなければならないという思いがあった。総務課のフロアへの“忍び込み”_____ひとまず違法な捜査でなかった事に安堵しつつ、細かく手順の設けられた総務課の事務的な手続きを待っていたら捜査が一向に進まないという苛立ちも分かり、それ以上は言及する事なく軽く頷いて。「俺はもう、助けて貰うような年次でもありません。」と、髪を乱されながらも答える。もう相手の手を煩わせるような新人ではないのだから、きちんと一人で対処しなければ。しかしその気持ちは有り難く力強く感じられるもので「……気持ちだけ頂きます、」と答えて照れ隠しかのように缶ビールの中身を呷って。 )
ルイス・ダンフォード
関係無ェよ。新人だろうがそうじゃなかろうが、お前はお前だ。…人は何時だって誰かに助けられながら生きてるだろ。
( 勿論人を選んで助ける・助けないを決める訳では無いが、相手の存在はある意味特別だった。ジョーンズは相手と同じく新人の頃から育てた可愛い部下で、もし彼女の身に何か起きた時だってどんな手を使ってでも助けるが、相手と彼女で唯一違いがあるとすれば__。ジョーンズは助けて欲しい時にきっと言葉にしてくる。“助けて”と素直に言えるが果たして相手はどうだろうか。ギリギリ迄たった1人で奮闘し、耐え抜き、周りがその事に気が付いた時にはもう既に最悪の結果になっている可能性が高いのだ。相手の目前にある障害の何もかもを事前に排除、なんてお節介を焼き幼子の様に扱うつもりは無いが、なるべく苦しんでほしくないし、手遅れになる前に助けてやりたいと思うのが素直な気持ちで。もう一度、今度は先程よりもゆっくりめに髪を撫でた後手を引き、その手でワインの残るグラスを掴むと中身をいっきに飲み干して。『__さてと。元気そうな顔も見れたし、俺はそろそろ帰るとするか。残りは全部食べろよ。』空のグラスをテーブルに置き、些か多い気もする残りの惣菜を全て相手に託すと、後はゆっくり休ませるかと立ち上がり )
( 相手は、自分が警部補になった今でも新人の時と何も変わらない接し方をする。子ども扱いしなくて良いと言っておきながら、時にそれが心地良くもあるのだ。---相手とささやかな夕食を楽しんだ少し後、ダンフォードは応援の期間を終えて署に戻って行き、自分も数週間ぶりに職務に復帰した。そして更にその数ヶ月後________少し前に捜査を終えた事件の報告書を纏めるため、その日は遅くまで署に残っていた。相手が証拠品などの捜査資料を作り、自分は別の刑事から上がってきた報告書と並行して目を通す。気付けば23時を回っていて、息を吐きつつ一度肩を解す。静かな刑事課のフロアに電話の音が響き顔を上げると、相手が電話を取ったのだろう、すぐにその音は鳴り止んだ。この時間に掛かってくる電話と言うのは緊急の要件の事が多いため、どう言った内容だろうかと立ち上がり部屋を出ると、電話をしている相手の方へと視線を向けて。 )
( __とある事件の証拠品の資料作りに目処が着いた事で、日付を跨ぐ前に署を出られるかもしれないと言う細やかな期待が胸中に広がった調度その時。静まり返っていたフロアの中でやけに大きな響きとして電話が鳴れば、反射的に弾かれた様に手は受話器へと伸びていて。電話口から聞こえた声は女性。スーパーの隣に位置するビルの屋上で人の叫び声や銃声の様な音が聞こえたとの事。執務室を出て来た相手と目が合い、左手で適当な紙の端に“叫び声、銃声?”と、走り書き見せた後「直ぐに向かいます。」と、告げて電話を切り。「防弾ベスト持って来ます。」走り書きのメモで相手には急行する事が伝わっただろう、パソコンをシャットダウンし足早に2人分の防弾ベストを取って戻って来ると、その一着を相手に渡しつつ現場まで車を走らせて )
( 相手の走り書きのメモを見ると直ぐに緊急の通報だと判断し、相手が電話を切る前に一度部屋に戻り上着を掴む。途中手渡された防弾ベストに腕を通しつつ車に乗り込んで。---到着したビルは既に消灯しており中に人の気配はないが、屋上で叫び声と銃声が聞こえたと言う。「気をつけろ、屋上だと逃げ場がない。」と、相手に声を掛けると屋上へと向かい。屋上も暗く、通報があったにしては静か過ぎると言うのが直感。自分が刺されたあの日を思い出すには十分な状況だった。「気を緩めるな、」と囁くように相手に告げつつ、相手を一歩後ろに控えさせて拳銃を手に歩みを進めた。 )
( 細く吐き出される息も、廊下や階段を進む足音すらもやけに大きく響く気がする静寂の中、忠告の言葉に小さく頷くだけに留め身を切り裂く様な緊張感を纏い相手の斜め後ろを静かに進み__出し掛けた右足が止まった。背後に人の気配を感じ、声を出すよりも先に首筋に“何か”を当てられたとわかった時には既に身動きがとれない様に羽交い締めにされた後。吹き抜ける冷たい風も感じられない。ただ、鼻腔を擽る整髪料の様な香りだけが酷く強く残った。__『銃を捨てろ。』ミラーを後ろから羽交い締めにしたのは中年の男性。その隣には男と同じ歳くらいの小柄な女性が立っていた。男の右手には何やら液体の入った注射器が握られていて、その針はミラーの首に刺さるかどうかと言うギリギリの所。後少し力を入れれば薄い皮膚を簡単に貫通し、その下の筋にまで届くだろう。女性は何も言わない。ただ、エバンズを真っ直ぐに見詰める瞳には深い絶望が宿っていて )
( 風の音しか聞こえないような静けさの中だったからだろうか。不意に、背後にいる相手の動きが不自然に止まった気がした。同時に僅かな物音が聞こえれば反射的に銃を構えつつ振り返る。「_____っ、」思わず絶句したのは、想像もしていない光景が広がっていたから。相手は背後から男に羽交締めにされ、首筋にはあろう事か注射器を突き付けられているのだ。その隣には暗い瞳をした女性の姿。注射器の中身が何か、知る由もないがこの状況では危険な物に違いなく、打たせてはならないのは確か。相手の名前を呼ぶことさえ出来ないままに、銃を捨てろという命令に抵抗する事もせず手にしていた拳銃を地面に放ると、重たい金属の音が響いた。両手を上げ一歩下がりつつ「______彼女を傷付けるな。」とひと言告げて。 )
( 吹き抜ける風の音よりも、自身の心臓の音よりも、固い地面に落ちた拳銃の重たい音は大きく響いた。相手が所持している銃は今放ったやつのみだと言う事は知っている。つまり丸腰の状態だ。何方かに拳銃を向けられても対抗する手段が無いのだ。もっと慎重に周りを見るべきだった。もっと__。薄く開いた唇が“エバンズさん”と相手の名前を呼ぶよりも先に、首筋に極僅かな痛みが走った。思わず息を飲み身体を強ばらせるがその後に続くものは無く、恐らく針の先端が少しだけ皮膚を突き抜けたものによる痛みだと、頭の何処か、やけに客観的な自分が分析する。__相手の言葉に男は頷く事も、首を横に振る事もしなかった。ただ一言、『だったらそこから飛び降りろ。』と、相手の背後の闇を顎でしゃくる様に示して。__絶句したのは今度は此方の方。この男は何を言っているのだ。「っ、無視して!」首筋の注射もお構い無しにそう声を張れば、それに被せる様に至近距離で『黙れ!!』と男の怒声が響き、鼓膜が乱暴に揺さぶられ )
( 飛び降りろ、と言う言葉に思わず指し示された先に視線を向けるが、遠くに町の明かりが見えるものの闇が広がるばかり。当然此処は屋上で飛び降りようものなら待ち受けるのは間違いなく死のみだ。その要求を受けて初めて、此れが恐らく自分を標的にした、自分に対する恨みを持っている人間による犯行だと気が付いた。矛先が自分なら尚更、相手が巻き込まれるべき事件ではない。「______待ってくれ、話を聞かせて欲しい。目的は何だ。望むのは、俺の“死”か?、」両手を上げたまま、目的を尋ねる。今撃たれたら応戦する術はない。同時に相手の首筋ギリギリの所に突き付けられている注射器もまた、刺されてしまえばどうする術もないのだ。犯人を刺激しないよう考えながら言葉を紡いで。 )
( 相手と同じく己もまたこれが“衝動的な事件”では無かった事に気が付いた。そもそも最初から悲鳴も銃声も無かった、恐らく自分達__相手を此処に呼ぶ為の口実で、署に電話を掛けて来たのは男の隣に佇んだままの女性だろう。相手に対する恨みで嫌でも一番最初に浮かんでしまうのは“あの事件”だ。そうと決まった訳では無いものの、思わず一度固く瞳を閉じ。__“望み”を問われた男は冷めた目で相手を見詰め『確かに死を持って償って欲しいとは思うが、』と冷静な口調と共に頷くも、途中で言葉を切る。そして再び口を開くと『それ以上にもう一度思い出して欲しい、あの時の絶望を。お前は“また”救えなかった。』言葉尻に嘲笑を滲ませ、あろう事かミラーの首筋にその細い針を躊躇いなく突き刺すや否や、中の液体を全て流し込み、追って来れない様にとミラーの身体を相手の方に突き飛ばして。__“救えなかった”その言葉が鼓膜を揺らした刹那、首筋には皮膚を、肉を突き破る先程よりも鈍く強い痛みが走り、間髪入れずに何かが体内に流し込まれる。不味い、そう思い抵抗しようとするがもう既に後の祭り。勢い良く突き飛ばされた身体はバランスを崩し地面に崩れる。後ろで注射器が地面に落ちる音、2人の逃げる足音、乱暴に閉まる扉の音が聞こえた )
( 絶望を思い出せと目の前の男は言う。絶望など嫌というほど味わっていると言うのに。そうして“また、救えなかった”という言葉の意味を理解して背筋が凍るような気がした。恐らく元から、過去の絶望を思い出させる為に______成す術もなく大勢を見殺しにした無力で無様なあの日を追体験させるために、ミラーを標的にしたのだ。「ッ、やめろ!!!!」思わず叫んだものの、注射器の中身は既に相手の体内に流し込まれ、支えを失った相手の身体は突き飛ばされていた。本当はこの場を走り去る2人を逃す事なく逮捕すべきなのだが、今は自分1人しかいない。相手を放置する選択など出来る筈もなく、相手の身体を抱き止めると首元を抑える。打たれた薬が何か分からない。麻薬の類か、即効性のある毒薬や自分が以前打たれたのと同じような薬の可能性もある。「______ミラー、大丈夫だ。直ぐに病院に連れて行く。」そう言って、まずはビルを出なければと。 )
( 何だ、何を打たれた。直ぐに解毒なり何なりしなければ手遅れになる様な劇薬なのか、それとももっと別の__。頭の中で警告音が響き、その裏側で様々な状況を考えようと冷静を努める事が出来たのは凡そ数十秒の間だけだった。途端に世界が一変したかの様に何の音も聞こえなくなり、その中で一瞬酷く耳障りな耳鳴りが聞こえた瞬間。頭の中に流れ込んで来たのは“過去の記憶”。濁流の様に押し寄せるその光景は、灯りの無い暗く湿った地下室。パイプベッド、ロープ、そうして__「…ッ、離して!!!」意思とは関係なく双眸からは大粒の涙が溢れ、恐怖から身体がガクガクと震えた。四肢の何処にも力は入らないのに、今自分を抱き留めているのが相手だと理解出来ず、懸命に逃れようと身を捩り、相手の腕に爪を立て、荒い呼吸を繰り返す。まともに呼吸が出来ない、息が苦しい、けれど“逃げなければ”。それが薬がもたらした“記憶”と“幻覚”だと認識出来ぬまま、まるで今起きている事の様に、頭も身体も思い込んでいて )
( _____嗚呼、この薬を打たれた時の恐怖を自分はよく知っている。相手の様子を見て、瞬時にそう思った。生命に危機が及ぶような毒薬で無かった事には安堵したものの、この薬が打たれた者にどう作用し、どんな苦しみが待ち受けているか、それを思うと胸が締め付けられるような気がした。本当なら味わわなくて良いはずの苦しみを相手に経験させている。自分でも抗えないままに記憶が強制的に引き出され、恐怖に支配されるあの恐ろしい感覚を今相手が感じているのだ。犯人の目論見通り、自分は“また”、助ける事が出来なかった______彼等の恨みとは関係のない筈の相手を犠牲にしたのだ。---暴れる相手に突き離されるほどの体格ではないため、その身体を離す事はしなかった。ガタガタと震える相手を抱き竦め、頭を肩口に押さえ付けるように後頭部を支えた。「っ、…ミラー、少しだけ辛抱してくれ。大丈夫だ、安心して良い。直ぐに楽になる。」屋上を吹き抜ける冷たい風で相手が冷えないよう、片手で身体を抱き竦めたままの状態で上着を脱ぐと相手の肩に其れを掛ける。相手は自分が過去の記憶に襲われている時、確かにいつも“大丈夫”だと声を掛けてくれていた。朦朧とした中、遠くで聞こえる声を思い出しながら声を掛け、相手の背中を摩って。 )
( 記憶と認識出来ぬ記憶は次から次に呼び覚まされ溢れ出す。__痛かった。何度も注射を打たれた腕は青黒く変色し、どんなに暴れ抵抗しても体格差から逃れる事は出来ない。それは正に“今”と同じ状況。己を落ち着かせようとする言葉も、体温も、今は何も届かずただ“帰りたい”と逃げる為に取った次なる抵抗とばかりに重たい口を開け相手の肩口に歯を立て__力を込め噛み付く、と表すその前。どんな事をしてでも逃げて、“約束”を果たさなければと思ったその瞬間、流れ込む記憶が変わった。鼻腔を擽るのは優しい柔軟剤の香りと、血の匂い。「…エバンズさんッ!!、」そう叫び、後頭部を支える手に一瞬僅か力が抜けたのを感じて勢い良く顔を上げると、先程迄は相手から逃れようと躍起になっていたのに、今度は決して離れないとばかりに震え何の力も入らぬ手を伸ばし相手の冷たい頬へ。「駄目、っ…駄目…待って、」駄目、嫌、と繰り返し頬を撫で、ボロボロと涙を溢す瞳には恐怖と絶望を宿す。やがて頬にあった手は下へと下がり相手の胸元へ。懸命に押さえようとするその姿は心臓マッサージをしているかのような、或いは止血をしているかのような、そんな動作ながら明らかに恐怖におかされ錯乱状態なのが見て取れるだろう。「や、だ…ぁっ」最終的に子供のように泣きじゃくり、相手の胸元の服を握り締めたまま、嗚咽を繰り返して )
( 相手の様子が変わった事で、襲い来る記憶に波がある事に気が付いた。自分を認識したものの“今”を見ている訳ではない。恐らく様子から察するに自分が撃たれて瀕死の怪我を負った時の記憶だろうか。胸元を抑える相手の手を掴み、心臓の場所へと誘うと鼓動の音を認識させるように押し当てる。「ミラー、俺は此処に居る。なんともない。お前は約束を果たしただろう、_____思い出せる筈だ。」相手が見ているのは過去の悪夢だと伝えるように静かに言葉を紡ぐと背中を摩り続ける。過去に堕ちてしまっても、ふとした瞬間に相手の声が届く事があった。何がきっかけで今に引き戻されるかは分からない、だからこそ声を掛け続け、一瞬でも今に戻るきっかけを作らなければならないのだ。 )
( ふいに手を取られ、それが先程宛がった箇所よりも少しだけ上へと移動した事で掌に規則正しく刻む鼓動を感じる事が出来た。その鼓動はまるで体内を流れる血液の如く静かに上へと昇りやがて己の心臓に届いた__気がした。釣られて頭を持ち上げ握られていない方の手を相手の顔の前へ。「…血……、血が…っ、止まらないの……!私、血液型が同じだから…早く、ッ、」幾ら止血する為傷口を圧迫しても流れ出る血は止まらず、相手の命の光すらも流れ出る。自身の手は真っ赤に染まり鉄の重い匂いが鼻腔から消えない。何もかもが幻覚であり記憶なのに、錯乱したまま“相手”に“相手”を助ける様にと言うのだが。揺らぐ緑眼に褪せた碧眼が映ったその一瞬、動きが止まった。そうして緑の虹彩に光がちらつく。“思い出せる”とは。「__エバンズ…さん……。」自然と唇を震わせたのは相手の名前。先程の過去の相手への叫び声では無く、目の前の相手を呼ぶ名前。そのまま荒い呼吸を繰り返しながらも、至近距離で真っ直ぐに見上げ続けて )
( 自分が撃たれて意識を失っていた時。相手は今と同じような事を救急隊員に告げていたのか、或いはそんな気持ちを抱えたまま無事を願っていてくれたのか。相手の“恐ろしい”と感じる記憶の中に自分が居るからこそ、大丈夫なのだと安心させたかった。ふと視線が重なった瞬間、相手の瞳に宿る色が確かに変わった気がした。いつも自分が相手の緑色の瞳を道標に意識を引き戻されるように、自分の瞳もまた、きっとそれと同じ役割を果たしたのだろう。自分の名前を呼ぶ声に頷くと相手の瞳を見つめたまま「______あぁ、俺は此処に居る。大丈夫だ、何も心配しなくて良い。」と答えて。背中を摩る手は止めぬまま、相手が落ち着くのを待った。 )
( __暗い空の下でも何故かわかる相手の瞳の色。その色を認識した途端に脳内を支配していた“記憶”がまるで突風に吹かれ散ったかの様に綺麗さっぱり無くなった。そうして己を安心させようとする声が届く。背中を擦る手の温もりも、寒くない様にと掛けてくれた上着の優しさも、全て。力の入らぬ腕を持ち上げ今一度相手の頬に震える指先を触れさせる。自身の手も、相手の頬も、寒空の下に在った為冷たく熱を感じる事は出来なかったが今はそれに恐怖したりはしない。べったりと塗れていた真っ赤な血も勿論無い。「……エバンズさん…、」再度相手の名前を呟き、此処に確りと存在していると言う事を自身の胸の内に落としてから「…ん、」大丈夫と言う合図か、相手の言葉に対する頷きか、小さく声を漏らし額を相手の肩口に、今度は自らくっつけては徐々に身体から力を抜いていき、それと同時に長い時間を掛けて震えが治まっていき )
( 相手が少しばかり落ち着いた事に安堵すると、僅かにずり落ちた上着を再び肩に掛け直しスマートフォンを取り出す。何かあれば連絡して構わないと言われておきながら一度も掛けた事のなかった番号______アダムス医師へと電話を掛けた。遅い時間の為一度掛けて出なければ別の手段を探そうと思ったものの、数コールのうちに彼の声が聞こえた。深夜の突然の電話に対する謝罪と共に現状を伝えれば、“日常的に薬を飲むなどしておらず薬剤自体にあまり耐性のない人の場合、薬が効果を発揮しやすい事があるため念の為病院で経過観察を行うのも一案だ”とアドバイスを貰う。必要であれば病床は手配すると伝えられ、この後向かう旨を伝えて電話を切った。床に落ちたままの拳銃を拾い上げ、「立てるか?」と相手に尋ねる。そして相手の身体を支えながら立ち上がると相手と共に屋上を後にした。相手から鍵を受け取り、相手を助手席に座らせると自分は運転席へと回る。車のエンジンを掛けると「病院に向かう。辛くなったら言ってくれ、」と告げて相手の冷えた手の甲を一度優しく撫でて。 )
( 車内、普段ならば自分が運転席で相手が助手席なのだが今は逆だ。こんな指先の震えた手でハンドルなど握れる訳も無いし、足にもまだ確りとした力が入る訳じゃない。けれど何故かその反対の場所が無性に不安になり思わず細く息を吐き出す。理由など無い。もしかしたら普段何とも思わない事に妙に敏感になり、感情が揺れるのは未だ体内に残るあの謎の薬物のせいなのかもしれない。相手からの気遣いの言葉に小さく頷きシートベルトを締めるのだが、車が走り出してから数分も経たずして呼吸に僅かな乱れが混じり始めた。窓の外の暗い空、一定間隔で流れる街灯の明かり、時折擦れ違う対向車__何も怖い事は無い、普段見慣れた筈の景色。過去の嫌な記憶が呼び覚まされている訳でも無いのに胸の奥が嫌な熱さを帯び、それとは逆に指先は冷たくなる。「っ、エバンズさん…!」思わずシートベルトから身を乗り出して隣の相手に縋る様に手を伸ばせば、「入院は嫌、っ、」と、まだ医者と会ってそう言われた訳でも無いのに拒絶を表して )
( 胸の内を掻き乱す恐怖心に波がある事は知っていた。だからこそ相手に名前を呼ばれると、近くにあったコーヒーショップの駐車場へと車を一度停めた。当然店は既に閉まっていて駐車場は暗い。入院は嫌だと言う相手に視線を向けると、少しでも落ち着くならと伸ばされた手に自分の手を軽く重ねた。「…お前はどうしたい?医者は経過観察の為に病床を用意する事は出来ると言っていた。薬がどう作用するか分からない。病院に居た方が安心出来る、」万が一の事を考えて数日であっても入院した方が良いのではないかと言いながらも「嫌なら無理に入院しろとは言わない。」と付け足して。ただ自分が居ない間、相手を1人にしておくことが不安だったのだ。 )
( 車が停まったのは暗いコーヒーショップの駐車場。此処へは捜査の合間の休憩にも訪れた事のある場所で、重なった相手の手の仄かな熱にほぅと安堵の息を吐き出す。たったそれだけ、たったそれだけの事で酷く安心出来た。此方の意思を尊重してくれるその問い掛けに暫し俯き答えるまで時間を要する。何故かはわからないが入院と言う響きには恐怖があるのだ。しかし、だからと言って家に戻り何かをしたい訳でも無い。「__エバンズさんは?」たっぷりの時間の後、顔を上げての第一声は相手への問い掛け。足りない言葉を付け足す様に「エバンズさんは、病院に居る?」と。それは些か幼くも感じられる問い掛けだっただろうか。ただ、今は相手が視界に映らない所に行ってしまうのが無性に恐ろしかった )
( 相手の問い掛けに頷くと「…お前が眠るまで、側にいる。」と答えて。相手が眠りに落ちるまでは側にいるつもりだったが、その後にはやらなければならない事が山積している。相手の事を警視正に報告し、逃げた2人について調べなければならない。電話が鳴るまで自分たちがやっていた仕事も早めに終わらせる必要があった。相手が何も気にせず、怖がる事なく身体を休める事ができるようにやるべき事があるのだ。「ずっと病院に居る事は出来ないが…見舞いには行く。」と、相手が不安にならないように告げて。 )
( “眠るまで”の後は__一瞬眉が下がるのだが
、続けてお見舞いには来てくれるとの言葉に静かに頷く。恐怖や不安が無くなった訳では無くただ単に影を潜めているだけであっても、今この瞬間は少し落ち着いていた。だからこそ刑事としてこの後相手がやらなければならない様々な事があるのも当然理解出来て。「…なるべく早く寝る、」と、ほんの僅か、口角が緩む程度の微笑みではあるがそう答え。それは暗に入院に同意すると言う事。今一度自身を落ち着かせる様に深呼吸をした後は背凭れに体重を掛け座り直し、病院に着くまでの道すがら、時折隣で運転をする相手に視線を向けて )
( 僅かながら相手が微笑みを浮かべたのを見ると、少し表情を緩めて頷いて。医療体制が整った場所で信頼出来る医師が側に居る状態であれば、あの恐ろしい薬に対する不安も幾らばかりか拭う事が出来る。自分の所為で辛い思いをさせている相手が“守られている”状態であって欲しいと思った。赤信号で車が止まると助手席の相手に視線を向け様子を確認していたものの、此方を見る相手と視線が重なると前方に視線を戻す事が何度か繰り返され_____病院に着くと、当然時間外ではあるもののアダムス医師の診察室に通された。首筋の針の痕を確認すると、軽く消毒をして「…薬物の影響には波があります。特に恐怖心を増大させたり、過去の記憶を強制的に引き出すような強い効果は、薬が薄まっても些細な事がきっかけで引き起こされる事がある。自分では大丈夫だと思っても、完全に薬が抜けるまできちんと様子を見た方が良いでしょう。」と告げて。「薬の併用で思わぬ副作用が起きる事があるので、鎮静剤や睡眠薬は使えません。何かあればナースコールで知らせてください。」注意事項を伝えると、空いている個室へと案内されて。相手が看護師に連れられて着替えなどを済ませている間、1人病室の椅子に座って屋上での出来事を思い返す。中年の男と女、2人の関係性は分からないが自分に対する恨みを持っている人間_____” あの時の絶望を思い出せ。お前は“また”救えなかった。“と男は言った。アナンデール事件の関係者である事は間違いないが、何処から2人を特定するべきか。薬はクラークに使われた事もあるものの為、ある程度流通している薬物の類だろう。この時既に、その考え自体に蓋をしていたものの、自分は相手の側に居るべきではないという思いは心の片隅に生まれていた。 )
( 病院着に袖を通しながらアダムス医師からの薬物の説明について考えた。睡眠薬を飲む事が出来ないと言う事は、夜中にあの恐怖が襲って来ても通り過ぎるまでひたすらに耐え抜くしか方法が無いと言う事。どれ程で恐怖から解放されまた眠りにつけるのかがわからない。例えナースコールを押した所で鎮静剤も使えない以上看護師にはどうする事も出来ないだろう。__それは酷く絶望的な事のように思え、背中に嫌な汗が流れたのを感じた。けれどこの恐怖を相手は経験し、そうして眠れない夜の日々を過ごしている。己を安心させようと微笑みながら『きっと直ぐに元に戻れます。』と、励まし病室を出て行った看護師に軽くお礼を言い、相手の傍に歩み寄ると「__エバンズさん。」と名前を呼ぶ。まさか自分から離れる事を考えているなど、想像出来る筈が無かった。「…眠るのが怖い、」先程は早く寝ると言ったが、医師の説明を聞き、真っ白の病室に来れば心細さは再び顔を出すもので、素直なまでに恐怖を訴えつつ、それでもその身はベッドに横たえて )
( 相手に名前を呼ばれると思考を止めて顔を上げる。紡がれたのは素直な恐怖心だった。自分ではどうしようもないあの感覚______まるで蛇が首を擡げるかのように突如として沸き起こる恐怖心。一度記憶の渦に突き落とされて仕舞えば自分で感情をコントロールすることはできない。その恐怖を知っているからこそ、相手の気持ちはよく分かった。「____なるべく気持ちが落ち着く事を考えて寝た方が良い。…お前はそういうのが得意だろう、」暫し考えた後に紡いだのは、1つの小さなアドバイス。心配せず眠れと言う事は出来るが、薬を打たれている相手に対してそれは余りにも無責任だ。それなら、今相手が出来る、なるべく心を穏やかに休む事が出来る提案を。相手は感受性が豊かだ。美しい物や楽しい事、日常の中に潜む些細な喜びを見つけるのが人一倍得意ならば、これまでに重ねて来た”其れ等“を、今自分の為に使って欲しい。相手の気分が和らぐ事を、と考えたものの何せ自分は感受性など持ち合わせていないに等しい。何が綺麗だとか、楽しかったとか、そういった話題は一向に思い付かない上に話し下手なのだ。「………まだデスクには、シャチの人形を飾ってるのか、」かなりの間を置いて尋ねたのは、いつだったか相手がデスクに飾ると言っていたぬいぐるみの話題。唐突にそんな問い掛けをすると、自分で言っておきながら曖昧な表情を浮かべて。 )
( 真っ白の掛け布団をお腹の位置まで引き上げ、軽く身体を横にして相手の方を見る。相手は己の恐怖心に“大丈夫”とは言わなかった。そう言わずに小さな解決への糸口を口にし夜の恐怖に向き合う術を提示してくれる。「__此処は病院じゃなくて私の家で、私が眠った後、隣でエバンズさんも一緒に寝てくれる。それで、朝起きたら2人でコーヒーを飲んでから海を見に行くの、」“気持ちが落ち着く事”と考えて、浮かんだのは、現実的に有り得る事ではあるものの、今この瞬間を切り取れば妄想のそれ。楽しいも、幸せも、落ち着くも、何時だって相手が側に居る時だった。__ふいに突拍子も無い話題に一度瞬く。その話題を出した相手は、相手自身が何とも曖昧な表情を浮かべていて、別にこの話題を話したかった訳でも、勿論シャチのぬいぐるみが欲しい訳でも無いだろう。きっと己が不安にならない様に、悪い事を考えない様に、そんな不器用な優しさから話し下手にも関わらず出してくれた話題。胸の奥が暖かく幸せに包まれた。「…飾ってるよ。疲れたなって思った時、あれを触ると癒されるんだ。」小さく首を縦に肯定を表してから、「私が職場に戻るまでの間、エバンズさんに貸してあげる。」相手は絶対にシャチのぬいぐるみに癒しを求めたりしないだろうが、そう言いながら少し笑って )
( 相手が口にしたのは、何気ない日常だった。相手の家に泊まることも、一緒に出掛けることも、この2年の間に気付けば自然な事になっていた。この場所が心地良くて、相手の優しさに寄り掛かり過ぎていたのかもしれないと、病室の白いベッドに横になる相手を見て、頭の片隅にそんな思いが芽生えた。ぬいぐるみの話をわざわざ持ち出したのは、相手が嬉しそうに其れを見せて来た記憶があったから。おしゃれなカフェの彩りの良いサラダやケーキに海、_____相手の好きな物は少ししか知らないが、笑顔の記憶ばかりなのだ。相手が笑顔になっていたものの話をしようと思った。相手の返答には軽く頷いただけでそれ以上話を膨らめようとする訳でもなかったが、続いた言葉には怪訝な表情を浮かべ「俺には必要ない、」と答えて。ぬいぐるみをデスクに飾って仕事をするなんて、周囲から気が狂ったのかと思われても可笑しくはない。それでも相手の表情が和らぐのを見ると少しばかり安堵して。 )
( 案の定相手は怪訝な表情で拒否を示した。元から答えはわかっていたのだからそれ以上押す気は無く、ただ、他の人が見れば機嫌を損ねてしまったのか、或いは怒らせてしまったかとも取れるその眉間に少し皺の寄った表情が不思議と好きだと、今何の脈略も無しに感じた。呆れた様な表情も、少しだけ微笑む様に緩まる表情も、寝起きの何処かぼんやりとした表情も、見慣れている筈の数々が何故か頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、__やがて薬の影響で錯乱状態にあった疲労も相まって瞼が重く落ちる感覚に、数回抗うのだが、意識は眠りの底に追いやられる。無意識の内に伸ばした手は勿論相手に届く筈は無く、再び白いシーツの上に落ち、それと同時に瞼も完全に閉じられた。最後に見えたのは此方を見る褪せた碧。その色がやけに濃く残った気がしたが、そのまま静かに寝息をたて始めて )
( 相手が眠りに落ちても暫くは、真っ白なベッドの中で寝息を立てる相手の姿を椅子に座ったまま見つめていた。十数分後、ようやく立ち上がると布団越しに相手の肩を軽く撫で、静かに病室を後にした。---とっくに日付を跨いだ深夜だったが、警視正に報告のメールを入れるとそのままの足で暑へと戻る。真っ暗な執務室に明かりを灯し、まずは現場に残された注射器の指紋照合と薬物特定の為、鑑識への依頼の手配を。そしてあの2人を特定するため、遺族として取材を受けるなどして過去の新聞や記事に顔写真が載っていないかを照合する。あのビルの監視カメラの映像は日中に______と作業をしているうちに外が明るくなり、夜が明けた事に気付く。長時間同じ姿勢でいた為肩が重たく、眼鏡を外して一度立ち上がり身体を軽く動かすと、眠気覚しにコーヒーを淹れようと給湯室に向かい。早朝のフロアはシンとしてひんやりとした空気が感じられる。熱いコーヒーを手に、ブラインド越しに窓の外を見ると朝焼けと共にちらほらと犬の散歩をする人やジョギングをする人の姿が見えた。それは余りにも穏やかで平和な光景に思えた。______相手は、こう言う日常を生きるべきなのだ。明るく穏やかな場所で日常を紡いで行く、あの笑顔を誰にも奪われる事なく。昨晩のように、暗闇の中で恐怖にもがくのはあまりにも酷だ。コーヒーをひと口啜り、やけに凪いだ心は”相手を此方側に引き摺り込むべきではない“と訴える。あれは、自分と行動を共にしていなければ起きなかった悲劇。初めて彼女に過去を打ち明けた時には、寄り掛かり過ぎるのが怖いと言った筈なのに、いつしか支えて貰う事が当然のように彼女に身を預けていた。薬を打たれ、錯乱して恐怖に怯える相手の姿を思い出すと胸が締め付けられる。彼女が危険に晒されるまで決断出来なかったのは、おそらくあまりにこの場所が_____相手の側にいる事が心地良かったからだ。これ以上の危険が及ぶ前に全てを本来あるべき均衡に戻さなければならない。マグカップを持ったままデスクに戻ると、再びパソコンへと向かい。 )
( __唐突に意識が引っ張られ、布団を跳ね除ける様にして目を覚ましたのは夜中の2時過ぎの事。夢を見た。辺りは暗闇に染まっていて、己から数メートル離れた所に相手が立って居る。互いに向き合う形なのに何故か相手の表情は霞み上手く認識が出来ない。“エバンズさん”そう名前を呼ぶのに相手はその場に立ち尽くしたまま。もう一度名前を呼び近付こうとするのだが何故か相手との距離は離れる一方。相手はその場から動かず、己は確かに歩み寄ってるのに少しも近付けないのだ。病室は暗く、眠る前迄確かに話をしていた筈の相手は居ない。“眠るまで側に居る”と言われていたのだから今の状況は当たり前と言えば当たり前なのに頭の天辺から爪先までを支配する恐怖心が正常な思考も、今と夢の境も何もを奪い去る。「__何処、っ…!」ベッドから転げ落ちる形で床を這った丁度その時、巡回に来ていた看護師が己の姿を発見した。ナースコールが押され数人の看護師が来るが勿論鎮静剤は打てず、最早拘束にも似た形で再びベッドに戻され__そこからの意識は無い。次に目を覚ましたのはカーテンから光が射し込む時間帯。頭も身体もやけに重いが波は今おさまっているのだろう、酷い恐怖心は無く少しの喉の乾きを感じながらもぼんやりと天井を見詰めて。__出勤して来た警視正が相手の元を訪れたのは午前9時過ぎ。執務室の扉を開け、パソコンを見詰める相手に『昨晩はご苦労だった。』と声を掛けて )
( 相手が夜中どんな恐怖を味わったか、離れている今感じ取る事はできなかった。不意に執務室のドアが開き顔を上げると警視正の姿。夜中遅い時間帯に連絡した事を謝罪しつつ「少しの間の入院で、薬が完全に抜けるまでの経過観察をすると聞いています。______このような事態を招き申し訳ありません。」と告げて。そして一瞬の間を空けた後に「…折り入ったご相談があるのですが。」と言葉を続けて。---警視正と共に会議室へと移動して扉を閉めると、向かい合って座り、本部へと異動ができないかと切り出した。「…過去の事件の所為で、ひとつの場所に長く留まり過ぎると色々な弊害がある。今回の犯人も然り、記者たちもそうです。今が潮時だと考えました、」昨日の一件で、本部に戻るなら今がそのタイミングだと感じた。「レイクウッドを離れて……本部で、刑事としての職責を果たしたいと考えています。」本部からもかつて異動の打診があった事を思えば、役職に拘らなければ不可能ではない筈だ。異動できるのならば一刑事としてでも構わない、と。 )
警視正
医師の元で入院出来るなら安心だろう。…お前もミラーも生きている。今回はそれで良い。
( 命の危機に直結する薬で無かった事が救い。加えて入院している病院には相手も何だかんだで信頼している【アダムス医師】が居るのだから問題無いだろうと頷きつつ、続けられた謝罪には強く咎める事はせずに軽く相手の肩を叩き。__執務室では無く会議室に移動までしてする話とは、と一瞬表情が険しくなった警視正は、相手が話し始めた事でこの場所を選んだ理由を理解した。刑事課フロアに居る署員達に今は万が一でも聞かれたく無いのだろう。深く吐き出した息と共に『……そうか…、』と呟いた後、暫し何と答えるべきか思案する間が空くのだが、役職を失ってでも異動したいと言う相手の気持ちに迷いや躊躇いは無く、ならば誰が何を言った所で結局は本人の意識が残る。『…本部への異動願いは勿論受け取るし、必要ならば私が向こうの警視正に話しても構わない。だが__、』“ミラーには言ったのか?”と言う問い掛けは続かなかった。直感的にミラーはこの事を知らないと思ったからだ。『…いや、何でも無い。お前がそれを望むなら応援する。』結局首を振り話の続きを無かった事にすると、何処に居ても、と激励の言葉を送り )
( 警視正は何かを言い掛けたものの、言葉を続ける事はせずに頷いた。相手から本部の警視正へと話を通して貰うのが正規のルートで一番早く人事が進むだろうと思えば「助かります、」と答えて、相手から話をしてもらう事を頼み。「本部から取り寄せたい資料があります。必要があればその捜査の為に本部に行って、警視正にお話します。」今回の件に関連してアナンデール事件の資料を取り寄せたいと思っていた為、その為の出張と称して人事異動に関する話を直接する事も出来ると伝えて。 )
警視正
( 相手の中では既に未来の道筋が決まっている。誰にも__ミラーにも相手を止める事は出来ないだろうと根拠の無い確信があった。『昼までには警視正に伝えておく。』と、頷きつつ一度手元に視線を落としてから再び相手を見。『…エバンズ、』名前を呼んだその表情は酷く真剣なもの。『お節介かもしれないが、変な別れ方だけはするな。』“誰と”とは敢えて口にはしないが相手はきっとわかるだろう。__レイクウッドに来たばかりの相手は常に威圧的な空気を纏い他者を寄せつけなかった。誰にも頼らず、弱みを見せず、人知れず痛みに耐える。そんな相手が唯一心を開いた様に思えたのがミラーだった。互いに寄り添い、時にぶつかり、それでもこうして長く一緒に居たのはお互いがお互いを必要だと感じていたからの筈。相手が本部に異動したからと言って二度と会えない訳では無いし、同じ国内だ、飛行機に乗れば済む話。けれど不思議とそんな簡単な事では無い気がした )
( 昼までには本部の警視正に異動について打診してくれるという相手に感謝を述べたものの、真剣な声色でよぶ止められると相手に視線を向ける。相手が告げたのは恐らく、長年パートナーとしてバディを組んで来たミラーの事だろう。「______ミラーに、必要のない敵意が向くことを避けたいんです。自分の近くに居るというだけで、今回のように危害を加えられるリスクがある。長くレイクウッドで行動を共にしすぎました。……勿論説明はします。でも、其れを正直に話したら彼女は“自分は大丈夫”だというでしょう。」暫しの間を置いて言葉を紡ぐと少し困ったように微笑を浮かべる。「要らない脅威に対して、自分の身を犠牲にして欲しくないんです。」とつけたして。 )
警視正
( 相手の言う事は間違い無いと思った。ミラーは間違い無く“大丈夫”と口にし続けるだろう。お互いに相手が目の前から居なくなる恐怖を角度こそ違えど抱く筈なのに、擦れ違う。不器用で、けれど人一倍優しい相手が“このやり方”でミラーを守ろうとするのならば__『…わかった。私からは以上だ。』今度こそ首を縦に振りそれ以上何かを言う事はしなかった。ただ、相手があんな風に困った様に笑う、その表情は暫くの間脳裏から離れる事はないだろう。__会議室を出て午前中の仕事を終わらせた後、ワシントンにあるFBI本部に電話をした警視正は、そこの警視正に相手の異動の話を打診した。過去にも話が出ていた事や、相手の刑事としての有能さを知っていた為返って来たのは二つ返事の“YES”。その他諸々詳しい事は相手が“出張”で出向いた時に話すだろうとそれ以上は何も言わず。__時刻は昼12時丁度。再び執務室を訪れた警視正は相手を会議室に呼ぶなり『…異動の件だが、席は空けておくから何時でも構わないそうだ。此方でやり残した事を済ませてから行くといい。』と、告げて )
( その後、時間を縫って入院している相手の元に定期的に顔を出しつつも、逃げた犯人についての捜査を進めた。捜査と並行して一泊二日の日程で本部へと足を運び、本部の警視正と異動後のポジションや仕事の開始時期などについて話をするなど水面下で準備を進めるうちに、レイクウッドを離れる決意は固いものになっていた。レイクウッド署の警部補としてやるべき仕事を整えつつ、本部の警視正と取り交わした異動の日が近付いてくると他の刑事が出勤しない休日に執務室の整理に取り掛かる為署に向かい。---ダンボール箱を組み立て、先ずは必要な資料や書籍類を詰めていく。2年という歳月は短いながらも、部屋をまっさらな状態に戻すには骨の折れる月日だと改めて実感する。使っていたマグカップなども割ないように梱包するものの、周囲にバレないように荷造りをするのは不可能だと思えるほど部屋は段ボールや詰める為に引き出しや棚から取り出した私物でいっぱいになった。 )
( __体内を流れる薬物は点滴の効果もあって徐々に薄まり、思ってる以上に早い退院許可が降りたのが一昨日の事。その旨を警視正に報告すれば念の為に後数日は自宅療養をし、その後、職場復帰を果たしても良いとの命令が。正直な所1日でも早く捜査に戻りたかったのだがこればっかりは仕方が無い。__2日入院し、自宅に戻ったその日は日曜日だった。薬を打たれてから一度も署に戻っていない為にノートパソコンはデスクの上。これでは我が身に起きた事件のあれこれを調べる事も出来ないと家を出たのがお昼過ぎの事。警備員に警察手帳を見せて署に入り、誰も居ない__と思っていた刑事課フロアに足を踏み入れ真っ直ぐにデスクに向かう予定の足はピタリと止まった。警部補専用の執務室から何やら物音が聞こえるからだ。この部屋を使うのは基本的にエバンズただ1人、けれども彼は休日の筈。怪しむ様に表情を真剣なものに変え、足音をたてぬ様に扉へと近付き、小さな深呼吸の後ノックも無く扉を開け放ち__「……え、」思わず間抜けな声が漏れたが、それは驚きから出るものだ。まるで空き巣にでも入られたかの様な散らかり様、その中心にこの部屋の主が立っている。状況を理解出来ぬまま「…エバンズさん…?」と、目前の相手を認識しているものの、語尾に疑問符のつくトーンで名前を呼び )
( 不意に扉が開く音がして驚いて振り返ると、そこには此処に居る筈のない相手の姿。驚きに見開かれた瞳。「______ミラー、」相手の名前を口にしたものの、相手はこの部屋の中を、そしてそこに居る自分を確かに目に映しており、今更どうこう言い訳出来る状況ではないと直ぐに理解した。「…身体はもう良いのか?」少しして普段となんら変わらない口調で相手の体調を尋ねる。そうして相手と同じように部屋の中を見回し「2年でも、意外と物は増えるものだな。」なんて、普段しもしない世間話のように呟いた。何故自分がこの部屋を整理しているのか、それを相手に伝える決定的な言葉を紡ぐ事を無意識ながら避けたかったのかもしれない。 )
( 相手もまた驚きを表情に。驚愕を乗せた緑と碧が暫く重なり、少しして普段と変わりない口調で紡がれた体調を気遣う言葉に「…うん、後数日で仕事に復帰出来る、」と答えたものの、その声色には未だ思考が追い付かない事がありありと浮かぶ戸惑いが見え隠れしていて。__嗚呼、空き巣が“可愛らしい”だなんて不謹慎にも思えてしまう程だ。こんなの誰がどう見ても所謂“異動の準備”ではないか。けれど、だとしても、何故。こんな余りに急過ぎるしそんな話一度も聞いてない。混乱する頭で何も考える事が出来ない中、相手から視線を外す様に向けた先、明らかに割れ物を──マグカップを包んでいる事が伺える形をした新聞紙がダンボールの上にあるのを見付けた途端、息が詰まりそうな感覚を覚えた。指先に血が通っていないと思える程冷たくなり、心臓が嫌な音を立てる。「__…大掃除なら、まだ早いんじゃない…?」認めたくないし、何も聞きたくないし、こんな光景も見たくない。思わず震えた唇が辛うじて紡いだのは、わかっていながら態と外した問い。自分は今どんな顔をしているだろうか。冗談を言う時みたく、意地悪に笑えているのだろうか )
( 大掃除、というワードに相手に視線を向け「…この時期に大掃除はしない、」と、少し困ったように表情を緩める。相手との間に暫しの沈黙があり、箱詰めした荷物に視線を落としたものの隠し通せる事でもないと観念すれば「________本部に異動する事になった。」と、荷造りの理由を告げた。本当は“なった”のではなく“した”という表現が正しいのだが、少しの後ろめたさがあったためにその言い回しは選べなかった。「……相談も無く悪い、」1人でその決定を下した事を相手は良く思わないだろうと謝罪を述べつつ「次の金曜日に発つ。其れまでに残っている仕事は全て済ませていく。」と告げて。つまりレイクウッドの警部補として仕事をするのはあとたったの5日間という事だった。 )
( “大掃除”を肯定してくれていたらどれ程救われたか。今一番聞きたくなかった言葉は鋭利な刃物となって胸に突き刺さる。2年一緒に居るのだ、2年一緒に居て相手の一番近くでその姿を見て心に触れて来た。今回の本部への異動は上からの命令では無く相手自身が望んだからと言う事は容易く想像出来るのに。「……」何も言わず__何も言えず足元に視線を落としたままで居たものの、相手は謝罪に続き更なる残りの期限迄もを口にした。「っ、聞きたくない!」弾かれる様に顔を上げ、思わず荒らげた声は想像以上に大きく震えたのだが、その緑の瞳にはなみなみとした涙が溜まっていて。「……何で…?」そう口にした途端、大粒の涙が頬を滑った。「…私が…ミスしたから…?…犯人は必ず捕まえるし、次は絶対、完璧にやるから…だから…っ、!」それは後から後から止まる事知らぬ様に流れ続ける。嗚咽に邪魔されながら、懸命に行かないで欲しいと、嫌だと、まるで駄々をこねる子供の様に首を左右に振って )
( 相手は何もミスなどしていない。今回の件を引き起こしたのは紛れもなく自分なのだから。「……ミラー、…」泣きじゃくる相手を見て困ったように相手の名前を落とすと、相手の所為ではないと首を振る。「______レイクウッドには長く留まり過ぎた。お前の所為じゃない。…俺が、ようやく本部に戻る決断をしただけだ。」ひとつの場所に長く留まると、過去の事件が自分の足元に影を落とし様々な弊害を招く事は理解していた筈なのに。今回の事件が本部に戻る決定打になった事は、当然ミラーには言うつもりはない。自分の所為で、或いは、自分さえ我慢すれば、と相手が思ってしまう事は避けたかった。「いつか戻るつもりでは居た。今なら、本部でも警部補の役職で働かせて貰える。______それに、お前も一人前の刑事になった。」と、2年捜査を共にした事で、相手も1人でやっていけるだけの技術は身に付けていると告げて。 )
( “何時か”が来る事は以前一度本部行きの話が出た時から覚悟していた。覚悟はしていた、が。余りに突然過ぎる。そんな素振り一つ見せず、己が自宅療養している間にこんなにも__もう何を言っても止める事が出来ない所まで話が進み、相手の気持ちが揺らぐ事は無いと嫌でもわかってしまう。加えて“警部補”の役職のまま異動出来るなんて好条件でしかない。そもそも相手は望んでレイクウッドに来た訳では無かったのだから__と、自分に言い聞かせる沢山の事を思うのだが、そんなもので心を保てるのならば最初からこんなに泣きじゃくったりなどしない。少しでも気を抜けば子供の様に声を上げ泣き崩れてしまうであろう今、喉の奥は締め付けられ抑えきれない嗚咽が繰り返し唇の隙間から漏れる。床に落ちる涙は散らかった新聞紙を濡らしたが、勿論そんな事に気を止める事が出来る状態では無い。__そんな中、最後に紡がれたそれが更に涙腺を緩める結果を招いた。初めて言われた“一人前”の言葉。それを、今、このタイミングで言うのか。認められた事が嬉しくてたまらない筈なのに、今だけは素直に喜べない。「…まだ…っ、全然足りない…!」一人前なんかじゃない、相手が居ない所で1人ではやれない、それはFBI捜査官としては甘えだろう、けれど飲み込む事は出来なかった。此処で立ち尽くし泣き続けた所で、相手が異動を取り消す事は無いだろうし、荷造りが終わらないだけ。わかってはいてもどうすれぱ良いのかわからなかった )
( 相手が涙を溢す姿を見ても尚、その決断が揺らぐ事はなかった。今相手にとってこの別れが辛く悲しいものだったとしても、今離れておけばこの先相手の生きる道に暗い影は落ちない。その為の別れだという思いがあるからだろう。涙ながらに言い返す相手の言葉には、普段通りの様子で少し肩を竦める。「一人前は言い過ぎだな、…1人でもやっていけるだけの、刑事としての礎は築けているだろう。」あくまでも“普段通り”を振る舞うことで、嘆き悲しむような事ではないと相手に感じて欲しかったのかもしれない。そうして真っ直ぐに相手と向かい合うと「…ミラー。もう決めた事だ、俺は本部に戻る。______お前は刑事としてまだ伸びる。ただ、この先捜査を担う上で、ひとつひとつの事件や遺族、被害者に心を寄せすぎて自滅する事だけは避けろ。」と、決意と共に相手への助言を贈り。止めていた手を再び動かし始めると、デスクの上に積まれた捜査資料のファイルがダンボールの中に詰められて行き。 )
( 此方がどれ程涙を溢し行かないでと訴えた所で相手の決断は変わらない。何処までも冷静に言葉を紡ぎ“別れ”は揺るがないのだと嫌でも示して来る。__その中でふいに空気が変わったのは相手が“一人前”の話題に対して少しばかり肩を竦めた“何時も通り”の反応をしたから。それでわかった。何時までも此処で嘆き悲しむより、どうしたってこの決断を覆す事が出来ないのならば、残り共に居られる時間をどれ程有意義なものにするかが大切なのだと。鼻を啜り、「…言い過ぎでは無い…、」と、至極小さな小さな声で再び言い返しては、未だポロポロと流れる涙は止められぬものの真っ赤な瞳を真っ直ぐに相手に向け「…エバンズさんが、私を育てた事を誇れる様な、そんな刑事になります。」助言に対して確りと頷いた後、決意とも取れる言葉を告げ。それから再び荷造りを再開した相手の姿を暫し見詰め、ややしてその場にしゃがみ込むと何も言わずダンボールの空いてる所に必要であろう書類を詰め、手伝いを始めて )
( ____5日という期間は当然ながら瞬く間に過ぎて行った。相手にも手伝ってもらい荷詰めをした箱は、もう此方で使わない物だけ先にワシントンへと送り、数箱が執務室には残った。月曜日には執務室の異変に気付いた署員たちの間でエバンズの異動が囁かれ始め、本人の言質を取った者によってその噂は瞬く間に広がった。あまりに急な事で、送別の食事会や花束はどうするのかと慌てたような話題が湧き起こったのだが、当の本人は普段と変わらず仕事を進めるばかり。サラやアシュリーは相手を心配して声を掛けた。---最終勤務日となる金曜日。家の引き渡しの立ち合いの為に普段より1時間ほど遅れてスーツケースを持って出勤すると、特に普段と変わった風でもなく執務室へと姿を消す。新しく確認が必要な報告書は、次にこの席に座る警部補の担当となる為書類は別のトレイに入れる事となり、エバンズの確認待ちの書類よりも多くなっていた。執務室にはパソコンを除いて私物はなくなり、がらんとした部屋の隅にスーツケースが置かれているだけ。そんな部屋の中で、パソコンに向き合いいつもと変わらない業務を行って。 )
( __心此処に在らず、が正直な5日間の過ごし方だった。幾ら残りの時間を有意義なものにしようと決めた所で矢張り寂しさは勝つのだから、こればっかりは仕方が無い事だ。瞬く間に時は過ぎて今日はもう相手が“レイクウッド署の警部補”で居る最後の日。明日から幾ら待ったって相手が出勤して来る事は無く、執務室には新しく赴任して来る警部補が居座るだろう。もう、顔を見て話をする事も、食事をする事も、共に捜査をする事も無くなる。鼻の奥がツンとした痛みを帯び、目頭が熱くなり思わず泣き出してしまいそうな気持ちになるのだが、寸前の所で堪えたのは、笑顔で何の心配も要らないと送り出すと決めたから。__給湯室で、相手のマグカップでは無い予備のカップにコーヒーを淹れ、執務室の扉を叩く。入室の許可の後部屋に入れば、嫌でもスーツケースとすっかり殺風景になった室内が視界に映り、それにもまた酷く心を揺さぶられた。「お疲れ様です。」そう言って相手の前にマグカップを置き、一つ息を吐いてから「…最後だね、」と切り出す。その後に言葉は続かず、眉の下がった、何処か困った様にも見える笑みを浮かべて )
( 部屋に入って来たのは相手だった。手にしていたのは自分の物ではないマグカップだったが、温かな珈琲の香りを引き連れていつものようにデスクに置かれるとひと言礼を言い、其れを口に運んだ。「……そうだな、」と答えたものの「自分でも余り実感が湧いてない。」と続けて。この後夜の便でワシントンへと向かい、週明けからは本部で警部補として働く。古巣に戻るのだから仕事に対する心配は然程ないものの、レイクウッドが最後だと言われると此方もまた自分にとっては思い出深い場所となっている為か、妙な気分だった。「_____赴任してきた時に想定していた以上に、濃い2年間だった。」コーヒーを飲み小さく息を吐き出すと、そう言葉を紡ぐ。「静かな町だが、事件も多かった。本来予定にはなかった、新人を育てるという仕事も発生したしな。…レイクウッドでの事を思い出そうとすると、お前の顔が散らつくだろうな。」少し冗談めかしたものの、間違いなくこの2年の記憶の中で相手が占める割合が高い。「…まぁ、そう悪くない2年だった、」と付け足しては相手と視線を重ねて。 )
( こうしてコーヒーを啜る姿を見るのも最後。目に映る何もかもが最後なのだと此方は嫌でも実感してしまう。何時も以上に何処と無く饒舌に話し始める相手の言葉を聞きながら、その全てを聞き逃さない様言葉を挟む事無く一つ一つに相槌を打ち。途中に出た“新人”の単語には小さく笑みを浮かべ漸く口を開く。「私もまさか“警部補”と初めての殺人の捜査をすると思わなかったよ。__顔と名前を覚えるのが苦手なエバンズさんの記憶に残れるなら、それだけで自分を誇れる。」前者は遠い思い出を呼び覚ます様に、後者は少しだけ冗談を滲ませて。__視線が重なった事で相手のもつ褪せた碧眼を真っ直ぐに捉えた。嗚呼、この瞳を見る事も、もう叶わないのだと。そう思った瞬間に思わず視界が歪むもそれを誤魔化す様に一つ軽く咳払いをし。「最も聞きたい言葉はそれかも。」“悪くなかった”は、相手にのみ“良かった”と捉える事が出来ると勝手に思っている。此処に来る事は本意では無かっただろう、“新人教育”もした、何度命の危険に晒されたかもわからない。けれど、何もかもを引っ括めそれでも“悪くない2年”だったのなら、これ程嬉しい事は無い。「__ハグしたい。」揺れる瞳で、それでも小さく笑いながらそう強請って )
( 相手とこの執務室で何度も他愛のない会話をし、何度も温かい飲み物を手渡して貰ったと、扉の近くに立つ相手を見て思う。はじめは全くと言って良いほど役に立たない新人刑事だったが、いつしか相手と共に捜査に向かうのが自然な事になっていた。相手の運転する車で現場に向かうまでの心地の良い静寂と、車窓を流れるレイクウッドの景色。ワシントンのような都会ではない為高層のビルも少なく、時に移動の間は静かに休息を取れる時間でもあった、食事に連れ出された事も、互いの家で眠った事も何度もある。______レイクウッドでの日々は、いつだって相手が隣に居たと改めて思いながら相手の若葉色の瞳を見つめていた。「……執務室でする事じゃない、と言いたい所だが…最後だからな、」相手の要望に対して肩を竦めてそう答え、デスクから立ち上がり応じると、「…世話になったな、」と軽く相手の肩を叩いた。 )
( これが、このささやかな触れ合いが、温もりが、最後だとわかるからこそ相手の肩口に額を押し付ける様にして奥歯を噛み締める。そうしなければ再び“行かないで”とみっともなく縋ってしまいそうだった。「…それは、私の方、」息を整える合間に懸命に紡ぐ言葉は途切れる。「…無理はしないで、もし何かあれば何時だって電話して。朝でも夜中でも、私は少しも迷惑だって思わないから、…それから、なるべくでいいからご飯もちゃんと食べて__、」伝えたい事は山の様にあるのだ。何時もよりも早口で、まるで母親の様に言葉を並べ立てる中、それがお節介だと気が付くと何処か困った様に微笑みつつ顔を上げて。一歩後ろに下がり相手から離れると、泣き出してしまいそうながら、それでも見せた笑顔で「…エバンズさんが直属の上司で、私は幸せでした。」と、この2年間のありったけの感謝と共に頭を下げ、相手との最後の別れを締め括り )
( その後飛行機の時間に向けて執務室を出ると署員から要らないと言った小さな花束を渡され、苦手な拍手を浴びる事となった。“しっかりやれ”とミラーにも別れの挨拶を告げてレイクウッド署を後にしたのがもうかなり前の事になる________
レイクウッドを離れてからの日々は、目まぐるしく過ぎて行った。長く働いていた古巣に戻っての仕事。いざ本部に身を置けば環境に馴染むのは早かった。いくつもの報告書が上がって来ては其れに目を通す日々。人口の多いワシントンでは事件も頻発し、殺人事件の捜査に当たり現場に赴く事も多々あった。都会特有の忙しなさとも表現されるのかもしれないが、仕事に没頭していられる本部の空気感は昔から嫌いではなかった。
---しかし、体調が思わしくない事が増えたのは半年ほど経ってからの事。本部に移動してからは大学病院で薬を処方して貰っていたものの、きちんとした診察を定期的に受けているわけではない。夜中の不眠や夢見の悪さに加えて、日中の目眩や息苦しさにも時折襲われるようになっていた。相談をする相手として思い浮かんだのは、レイクウッドにいるアダムス医師だった。スマートフォンに登録されている名前を暫し見つけて悩んだ後に、発信のボタンを押すと電話を掛けた。 )
( エバンズがレイクウッドを去ってから一ヶ月目迄は物凄い時の流れの遅さに襲われた。頭の片隅には常に相手の存在が在り、集中しなければと仕事に没頭しても執務室の扉が開く度有りもしない希望が頭を擡げた。その部屋から出て来るのは、遠くの町から赴任して来た新しい警部補だと言うのに。給湯室で相手の分のコーヒーも、と考えた時には思わず自分の未練がましさに苦笑いしたものだ。
___相手が去ってから二ヶ月後、レイクウッド近郊の比較的治安の良い田舎町で爆弾事件が起こった。犯人は逮捕出来たものの、1人の幼い少女が犠牲になった。被害者となった姉妹はそれぞれ身体に爆弾を巻き付けられ、爆弾処理班数名と、幼い姉妹を安心させる為にそこに残ったミラーは、先ず妹の爆弾を解除出来た事に安堵したのだが、次は姉の方を…と言う所でタイマーが作動したのだ。残り時間は数十秒。耳に付けた無線からは退避命令の怒号が聞こえ、為す術が無かった。妹の方だけでも助けられたのは奇跡だと、そう労われたが、その事件を切っ掛けにミラーの中で何かの糸が切れたのは確かだった。__その後、本部からクレアが休暇で訪れ、他愛の無い話をし、“何時も通り”笑顔で別れたのが最後。その間、エバンズからの連絡も無く、何故かミラーが電話を掛ける事も無かった )
( __ふいにスマートフォンが着信を知らせ、画面を見るとそこには“アルバート・エバンズ”の名前。余りに珍しい人からの電話に一瞬明日はサイクロンでも来るのでは、と医師らしからぬ事を考えたアダムスだったが、直ぐに通話ボタンを押すなり『…エバンズさん、どうしました?』と問い掛けつつ、電話口から聞こえる僅かな呼吸音に異変が無いかを聞き分ける為集中し )
( レイクウッドでの事件については注視していたもののその事件について詳細を知る事は出来ず、本来相手に危害が加わる事がないようにという思いで離れた以上此方から連絡をする事もなかったため状況は知らぬままだった。---電話に出たアダムス医師の第一声に「…突然連絡して申し訳ない。少し相談したい事がある、」と告げて。「______ここ半年程は薬の効きも良かったんだが、此の所余り調子が良くない。夢見が悪くて眠りが浅い所為か、日中にも支障が出て困ってる、…目眩や息苦しさを軽減したいんだが、何か対策は出来ないか?」と尋ねて。普段であれば病院を受診して直接相談する所だが、レイクウッドの病院に行くのは容易では無い。新しく薬を処方して貰うにしても、相手の見立てを大学病院の医師に伝える方が安心だと思ったのだ。今過呼吸に苦しんでいるという様子ではないものの、呼吸には少しばかり苦しさが混ざり、声のトーンは全体的に普段よりも疲労が感じられるもので。 )
アダムス医師
( 珍しい相手からの電話は、これまた珍しい内容だった。どんなに体調が悪くても“自分の事”であるならば電話など掛けて来る事も無い筈なのに。声に滲む疲労感からそんなにも容態が悪いのかと表情は険しくなり、手元にある手帳を開くと告げられた不調を走り書き。『__薬の効果が少し弱まってる可能性も考えられますね。同じ薬を長く服用し続けると、どうしたって身体が慣れてしまいます。…強さはそのままで、少し種類を変えてみるのも有りですが。…本来なら直ぐ様子を見たい所なのですが、今ワシントンに居まして。明日以降時間を空けられそうなら一度病院に来て下さい。直接様子を見て診断をしたい、』2日前から短い出張で此処ワシントンに来て居た。まさか相手も同じ所に居るとは思わない為、そう言葉にして )
( 長く同じ薬を服用すると効果が弱まるという言葉には納得できた。実際レイクウッドを離れてからは同じ薬を処方して貰うばかりで、半年以上其れを服用しているのだから。相手がちょうどワシントンに居るタイミングだった事には驚いたが、そうして続いた言葉に相手にきちんと異動の事を話していなかった事に気付く。「_____報告をしていなかったな。半年前に、レイクウッドからワシントンの本部に移った。今はワシントンに住んでるんだ、病院には顔を出せない。」と説明して。 )
アダムス医師
( 病院嫌いの相手だが、こうして電話を掛けて来たと言う事は“行きたくない”と逃げ回る状態でも無いのだろうとの見解での言葉だったのだが、そもそも気持ちの問題では無く物理的な距離の問題で病院に行く事が出来ない状況だとは思わなかった。“あの事件”を目の当たりにして体調を崩す事となった場所にもう一度戻るだなんて。レイクウッドに居た時は発作の起きる回数も減った様に思えてたし、何より側に居たミラーには相手自身心を開けていた筈だ。僅かに吐き出した息の後『__少し話をしませんか?』と、提案する。驚きに言葉を紡ぐ時間が掛かったのだが、良いか悪いか今相手と自分は同じ所に居る。泊まっているホテルも本部から比較的近い位置にある為、今日これからの時間互いに空ける事が出来れば体調を見る事も可能なのだ。『本部の近くにレストランがあったでしょう。そこで夕食でも、』片手でネクタイを外しつつ、果たして相手はこの提案を受けるか。再度デスクに置かれている時計を一瞥して )
( 心に負った傷の元凶とも言える場所に戻る事を自分の口から彼に伝える事に、一切の気不味さがなかったと言えば嘘になる。それでも自身の不調について相談をするなら矢張り相手だと思い電話を掛ける事を決断したのだ。---電話口から聞こえた相手の提案は思いがけないものだった。同じ場所にいる今だからこそ、直接会って話が出来るというのは分かるのだが。「…医師と患者がディナーか?」と怪訝さを全面に押し出した返答をしたものの、相手と直接話ができる機会というのは今後多くはないだろう。この機会に会って話をしておくのも良いかもしてないと思えば「_____分かった。20時半くらいになりそうだ、其れからでも構わないか?」と尋ねて。 )
アダムス医師
( 見えなくとも相手が怪訝な表情を浮かべたのだろう事は電話口から聞こえる声色でわかった。確かに医師と患者がプライベートでディナーを共にすると言う話は余り聞かぬ上に、自身もこれ迄患者と2人きりで食事をした事は無い。けれど相手はある意味“特別”だ。『あそこは美味しいらしいですよ。』と、答えになっていない答えを僅かな笑みと共に返して。断られる可能性も十分にあった誘いだったが、この先の距離の事を考え今を逃せば、と言う思いになったのだろう、了承の返事が来れば『えぇ、勿論。…では、また後程。』相手の空ける事の出来る時間帯で構わないと頷きつつ一度電話を切り。__時刻は20時半少し前。先にレストランに到着し中に入るも、相手の姿はまだ無い。入口付近が見える窓際の席に座り、メニューを持って来たウェイターに人を待っている旨を伝えた後は、窓の外を通り過ぎる車や人を何となしに見詰めていて )
( 夕食の約束があるというのは自身にとっては珍しい事だった。仕事を終わらせて署を出ると、本部から程近い場所にあるレストランへと向かう。店に入ると窓際の席に見慣れた姿があるのに気付き、待ち合わせだと伝えてテーブルへと歩み寄った。「悪い、遅くなった。」と、約束の時間に少し遅れた事を謝罪しつつ席につくと、診察室意外の場所でこうして向かい合う事は無かったと思い「…外で会うのは違和感があるな、」と告げて。今は落ち着いているのか苦しげな様子は見られない。ウェイターが持って来たメニューを受け取り開くと「食事は任せる。」と、相手の嗜好に合わせる事を伝えて。 )
アダムス医師
( 暗い夜道、車が行き交い街灯の下を暖かそうな上着に身を包む人達が足早に過ぎ去る。比較的田舎であるレイクウッドとは違い此処ワシントンは彼方此方に都会の色が見える。__カラン、と扉を開ける際に鳴るベルの音が店内に響き、其方を見れば待ち人である相手の姿が。目前に座り開口一番紡がれた謝罪に穏やかに微笑んでは『私も今さっき来たばかりですよ。』と、首を振り。向かい合う相手の顔色はそこまで酷いものでは無く、言葉の端々に苦しげな呼吸音も感じられない。“今は”まだ落ち着いているのだと判断し開かれたメニューに視線を落としたまま『本当に。…けれど、外でなら会ってくれる事がわかりました。』先ずは肯定を。けれど続けた言葉は、来いと言ってもなかなか病院に現れない相手に向けた少しの意地悪と珍しい揶揄いが含まれていて。メニューには“有機栽培した野菜”を推す文字がでかでかと主張をする。ペラペラとページを捲り、丁度戻って来たウェイターに『…この野菜たっぷりの煮込みハンバーグを2つ、』と、野菜も摂れ、尚且つ確りと肉の栄養も摂れる食事を頼み。軽い会釈と共にウェイターが去ったのを確認した後相手に視線を向けると『…驚きました。此処に来てもう半年だなんて、』先程電話で少し聞いた報告を話として持ち出して )
( 注文する料理を決めるという作業を相手に任せると、メニューを閉じてグラスに注がれた冷えた水を飲む。“外でなら”という言葉には相手らしからぬ皮肉が込められていて「______そうだな、此処ならいざという時逃げられるだろう。」と、まるで隙あらば相手が自分を病院に幽閉しようとしているかのような言い方で返事をして。洒落たレストランで彩りの良い野菜を頼む人間を自分はもう1人知っていると思いながら、相手がメニューを閉じるのを見ていた。「…あぁ、気付けばもう半年だ。レイクウッドには長く留まり過ぎた、」目の前に仕事をこなしているうちに、あっという間に季節が進んでいたというのが正直な体感。本部に戻るには適切なタイミングだったのだと答えて。「ワシントンに出張だなんて、医者が珍しいな。」相手がレイクウッドを離れている事も珍しいと続けて。 )
アダムス医師
__私がそんな危ない人に見えているのなら、仕事のし過ぎですね。
( 此方の軽い皮肉に返って来たのもまた皮肉。何時だって相手はこうして皮肉を口にし病院も、治療も、入院も嫌がる。けれど調子の悪さを抑える薬は欲しいと__全く以て“厄介な患者”ではあるのだが見放す気はさらさら無いのだ。相手と同じ様にグラスに注いだ水を一口飲み『…何だかんだでずっと居るんだと思って居ましたが、矢張り此処で働くのが良いですか?』傍から見た感じではあの場所で、ミラーの隣で、この先も長く長く続く日々を過ごして行くのだと勝手に思って居ただけに“長く留まり過ぎた”と言う言葉は少しの違和感を覚えた。深く踏み込み過ぎる事はしないものの、今一度問い掛けて。話が此方に移れば少しだけ笑みを浮かべ『医者同士の会合ですよ。正直な所、喜んで出たいものではありませんが…これも仕事と言う事で。』少しだけ声を潜めた返事を。そのタイミングでウェイターが湯気のたつ煮込みハンバーグを2つ持って来た。それぞれの目の前に置かれたそれは素揚げされた野菜が沢山入っていて、ハンバーグも肉厚な俵型。ロールパン2つと小皿に入ったこれまた有機栽培のサラダも一緒に付いて来て )
( どうやら相手も、病院を出ると饒舌に“人間らしく”なるようだ。相手の言う通り、望まぬ異動ではあったもののレイクウッドは比較的気に入った町だった。ワシントンの本部と比べると静かで穏やかな町、署の規模としても人が多過ぎる事も、かと言って人手不足に悩む事もなく働きやすい場所だった。「…ひとつの場所に長く留まっていると、所謂“招かれざる客”も集まって来るだろう。」其れは記者であり、自分に恨みを持つ者であり_____そう言った輩を引き連れている以上、定期的に環境を変えなければコントロールが効かなくなる。ミラーの件を打ち明けた訳では無かったが、今回の異動に少なからず周囲への影響を避けたいという思いがあった事は認めて。運ばれて来たのは野菜がたっぷりと入った料理とサラダ、ロールパン。自分にしてみれば随分と豪勢な夕食で、暫し湯気の立つ皿を眺めていたものの「……医者らしい夕食だな、」と、栄養素や健康を気にする医者のイメージ通りの選択だと偏見を。「会合なら、場所は直ぐそこの大学病院か?其処の医者に薬の処方だけ頼んでる、」本部に程近い場所にある大きな大学病院で定期的に薬を出して貰っている事を告げた。精神的な要因が絡んだ症例については相手のような専門の医師が居ないらしく、少し離れた病院に行かなければならない為診察は受けていないのだと。 )
アダムス医師
( 相手の言う事は最もだった。“そう言う事”に執着する人間達は此方が想像もしない様な驚く程の嗅覚で群がる。__あの日、ミラーの身体から薬物を抜く処置をしながら彼女も“招かれざる客”の被害を受けたのだろうと直感的に思っていた。そうして今回の本部への異動の“詳細”をきっとミラーには伝えていないのだろうとも。軽く頷き言葉を肯定しつつ、小さくちぎったロールパンを咀嚼してから『…無責任に聞こえるかもしれませんが、私は貴方も、ミラーさんも、何方もが“望む”場所で幸せになって欲しいと思います。』微笑みを携えた、それでいて口調はとても優しく真剣なそれ。“望む場所”は言葉通りの国や州の話では無い。“誰の隣”か、ではあるのだが懸命に周りを巻き込まんとしている相手の心には今はまだ上手く届かないだろうと思えば直接的な言葉は避け。__濃厚ながら後味のスッキリとしたデミグラスソースを絡めて食べるハンバーグは絶品だった。野菜も程良い食感が残る柔らかさで美味。『デザートはチョコと生クリームのBIGパフェにする予定なのですが、』あからさまな医者への偏見にはニコニコとした笑みのままに、本気か冗談か、そんな戯言を紡ぎつつ。『えぇ、そうですよ。…本来なら薬を処方するその都度診察は受けてもらいたい所なのですが、専門的な医師が居ない以上どうしたって難しい。…今回の様に、薬の効果が弱まっている可能性がある中で同じ薬を服用し続ける事は、エバンズさんの心にも身体にも負担になります。』専門的な医師不足は深刻な問題でもあると、少しばかり眉を寄せ。それから少し考える間を空ける。『……食事の後、部屋に来てもらう事は可能ですか?そこでなら少しの診察は出来ます。』一つの提案は、場所を変えるもの。相手の返事を待つ時間、グラスの水を一口飲んで )
( “望む場所で幸せになる”______相手の紡いだ言葉は、酷く難しい事に感じた。自分が“何処で”生きて行くか、何が幸せなのか。其れを探るのは容易な事ではない。普段からあまり量を食べる方では無く、少しの不調を引きずっている為全てを食べ切る事は出来なかったものの、十分な栄養は摂る事が出来ただろう。パフェ、という単語が目の前の相手から出るのは違和感があり「…ヨーグルトかフルーツしか食べない訳じゃないんだな、」と告げておき。この後の相手の提案に少し目を瞬かせると「構わないが……良いのか、仕事でもないのに。」と答える。学会で来ているのに診察まで提案してくるとは、相手もまたかなりのお人好しだ。 )
アダムス医師
( 案の定相手は言葉を返して来る事は無かった。自分自身が何処に居たいのか、何をしたいのか、そう言った“気持ち”に酷く疎い__否、望む気持ちに蓋をし続けた結果、“本当”がわからなくなってしまっている。そんな印象をずっと感じていた。加えて相手は“幸せになる”と言う事を当たり前の様に選択肢から除外する。大勢の人達を、妹を、救えなかったそんな自分が幸せになどなって良い筈が無いと。“あの事件”は決して相手のせいでは無い。確かに大勢の犠牲者を出したが罪を償うべきなのはあの時あの場に居た犯人ただ1人。その事をきっと相手の近くに居る人達は何度も何度も言い続けて来ただろう。けれどその場で事件を担当した相手はそんな簡単に気持ちを切り替えれるものでも無いし、割り切れるものでも無い。だからこそ誰でも無く“相手自身”が“自分を許す”事が必要なのだ。それ以上多くを語る事はせずに『実は何方も余り好んでは食べないんですよ。』と、これまた嘘か本当か。結局パフェの話をしておきながらデザートを頼む事はしなかった。少しばかり__否、結構突拍子も無い提案に返って来た答えは控え目なYES。此方の様子を伺う様な雰囲気に『このまま貴方を診ずに帰ったら、その後が気になって仕事も手に付かなくなります。』あくまでも此方が診たいのだと言う事を滲ませつつ、『…しかし、今日診たからまた後一年後で構わない、なんて話にはなりません。少なくとも一ヶ月に一度はきちんと医者に診て貰わないと。…隣町まで足を運ぶ事は難しいですか?』隣の街の病院にならばカウンセラーを兼任する医者が居る為、本来定期的にそこまで行って欲しい。けれど、そもそも同じ街に居たって病院に来なかった相手が態々ある程度の時間を掛けて診察を受けに行くとも思えずに )
( 普段であれば、食事の帰りに診察をして体調を確認したいと言われても必要ないと突っぱねて居ただろう。唐突なその提案を飲む気になったのは、ワシントンに来てからというものきちんと身体の具合を診てくれる医者が近くに居ない為貴重な機会だと思った事と、薬の処方などについて相手の判断を仰ぎたいと思う程度には調子が良くない日が続いていたからだった。しかし定期的に隣町の病院まで足を運ぶべきだという相手の言葉には顔を顰める。「そこまで暇じゃない。毎月隣町まで行くのは面倒だ、」と拒否して。食後に頼んだホットコーヒーを飲みつつ「精神科はこの辺りに幾つもクリニックがあるが、あの空気は好きじゃない。」と不服そうに、あくまで精神科単体のクリニックには掛かりたくないと告げて。 )
アダムス医師
( この食事の後の診察には応じてくれるものの、定期的に病院には行きたくないと言われてしまえば、案の定考えていた通りの返事に思わず苦笑し小さく肩を竦め。『そう言われると思っていました。』こうなった相手はテコでも動かない。“面倒”を高々と掲げ、ならば数ヶ月に一度なら…と言った妥協案すらも頑固な迄に口にはしない筈。__逃げ回る相手を彼女ならば、と脳裏に過ぎったのは紛れも無くバディとして多くの時間を共にし自分自身も信頼の置けるミラーの姿で。相手がコーヒーを頼んだ時に一緒に頼んだのは茶葉の味が濃く染み出たダージリン。ミルクも砂糖も入れる事の無い紅を啜り、考える事数十秒。『…医者に診てもらえとは言いましたが、居心地の悪い所に長く居座るのは良くない事です。とは言え、貴方にあった薬を処方しなければならないのは絶対。…少なくとも一年に一度は此方で学会があります。回数的には全く足りていませんが、その時は例えどれだけ忙しかったとしても私と会って様子を確認させて欲しい。』かなり、とてつもなく妥協した案を伝える。“それから”と、続けた先、まだ要求はあるらしく『もし万が一薬が変わった時は飲む前に電話を下さい。大学病院の医師を信じていない訳ではありませんが、“強い薬”を飲めば良いと言う程貴方の症状は簡単じゃない。』真剣な表情で相手を真っ直ぐに見据え、何時かの日、普段服用しているものとは違う薬を飲んだ相手の身に何が起きたかを覚えているからこその忠告を )
( いつも自分からしてみれば大袈裟なほど受診や静養を促してくる相手の事。何が何でも医師の診察を受けるように、と言われるかと思ったものの相手は妥協案を示してくれたようだった。「…学会の度に俺の診察もセットじゃ、業務が立て込み過ぎだ。」と、相手の言葉に対してYesともNoとも答えずにそうとだけ言って。薬については有難い提案だった。医師によって自分の状態をどう診断して、どういう目的で薬を処方するか分からない。身体に合わない薬や必要以上に身体機能を低下させるような薬を避ける為にも、薬が変わった時には電話をする事を約束して。---そろそろレストランを出ようと相手と共に席を立った時。不意に視界が大きく揺らいだ気がして、一瞬テーブルに手をつく。特段自分の行動に言及する事はなく、小さく息を吐き出すと身体を立て直した。 )
アダムス医師
( かなり譲った妥協案なのだから、そこはYESの返事一択の筈だと困った様に微笑むが、薬の件に関して約束をしてくれたのならば今回ばかりは良しとする。__食事も済ませ互いに頼んだ飲み物も飲み干した。既に時刻は21時半を過ぎていて、店内にちらほらと居た他の客の姿も見えない。比較的遅い時間までやっているこの店だが、既にラストオーダーは終わっていて後20分やそこらで閉店となるだろう。『久々の再会です、此処は私に。』と、一言。そのままレジで会計を済ませる筈だったのだがその一瞬、相手の手が不自然にテーブルにつき、その身体を支える役目を果たしたのを見逃さなかった。ものの数秒で体勢を立て直し、まるで何事も無かったかの様に振る舞うつもりだろうが。『…2人分をカードで、』支払いを済ませるや否や、先ずは相手と共にレストランを出て駐車場に停めておいた車に乗り込む。相手が助手席に座ったのを見て問答無用でその手を取ると、手首に親指を押し付け脈拍をはかり。『__不整脈は出ていませんね。』一定の感覚で脈打つのを確認し、手首を離せば『何時から調子悪かったんですか?』と、問い掛けつつホテルまで車を走らせて )
( 流石は医者と言うべきか、相手はほんの僅かな異変に目敏く気が付いたようだった。スムーズに会計を済ませるや否や有無を言わさず相手の車の助手席へと連れられ、車内で脈拍を測られる。食事中から無理をしていた訳ではないのだが、立ち上がったあの一瞬の目眩が引き金となったようだった。「_____ずっと具合が悪かった訳じゃない、」とだけ答えると背凭れに身体を預けて。車窓を流れる街路灯の灯りを瞳に映しつつ、自分の意に反して少しずつ上擦り始める呼吸を押さえ付けるように浅く呼吸を繰り返して。今発作が起きて終えば、効きが悪くなっている薬を飲んだところで落ち着くまでにどれくらい掛るか分からない。一度目を閉じると自分の呼吸に意識を向けながらホテルまでの道のりをやり過ごして。 )
アダムス医師
( 何だかんだと皮肉を口にしながら食事をしていた相手の呼吸音に異常こそ無かったし、顔色も酷く悪かった訳では無い、そうなると相手の言う通り最初から具合の悪さを抱えて居た訳では無く、恐らく急に立ち上がった時の一瞬の目眩だったのだろう。しかし今は違う。その目眩が引き金となり明らかに先程迄の落ち着いた呼吸音では無くなっているし、それを無理矢理押さえつけ様としているものだから身体に力が入っている事もわかる。懸命に耐える相手に時折様子を伺う様な視線を向けながら数分で到着したホテルの駐車場に車を停め。『部屋は直ぐです。』此処で発作が起きてしまえば、出来る処置も限られる。普段より遅い歩みの相手と共にホテル内を移動し、エレベーターに乗り込めば5階のボタンを押し。静かな機械音を響かせ上へと上がる箱の中で、相手の斜め後ろに立ちその首筋にうっすらと汗が滲んでいるのが確認出来た。箱の扉が開き部屋迄の道のりは長くは無かったが、歩く事さえしんどいだろう。やがて廊下の奥の部屋に辿り着くと鍵で扉を開ける。相手を促す様にソファに座らせ、再度脈を測ってから『__エバンズさん、』と名前を呼び、確りと此方を見る事が出来るか、その焦点があっているかの確認を )
( 必死に酷い発作が起きないようにと呼吸を押さえ付けていたものの、その甲斐もなく徐々に呼吸は肩が上下するような苦しげなものへと変わっていく。いつのまにか車は駐車場に停まっていて、相手に身体を支えられながらせめてホテルの部屋まではと身体が力を失わないように力を入れた。暗かった部屋に明かりが灯り、足元は柔らかな絨毯の感覚に変わる。そうして綺麗なビロードのソファに身体を預けると、少しでも呼吸が楽になるようにと僅かに震えのある指先でネクタイを解き乱雑に首元を緩めて。呼び掛けられた事で目を開けて相手へと視線を向けるものの、瞳は苦しげに揺らいでいるだろう。ゆっくりと繰り返す事を意識していた呼吸はそれに逆らい徐々に浅いものに変わっていて、ソファの肘置きについた手に力が籠る。「……っは、ぁ____っは、……苦しい、…」背中が浅く上下して、額を肘置きに押し付けると未だ呼吸が完全に狂ってしまう事に抗いながら背中を丸めて。 )
アダムス医師
( 此方の呼び掛けに顔を上げた相手の瞳は苦しげに揺らいでは居るものの、焦点が合わない訳でも過去を彷徨って居る訳でも無い。その事を確認して今はまだ声が届くと判断すれば、絨毯に膝を着く体勢で相手の背中に片手を添え。『…ゆっくり呼吸をして、…大丈夫です。“過去”では無く“今”を考えられるものを思い浮かべて下さい。最近食べた物でも、見た景色でも、貴方が一番最初に思い出す事の出来るものを、一個ずつ、思い出して。』まるでメトロノームが一定の間隔で音を鳴らす様に、狂い掛けている呼吸を元の位置に戻す様に、背中を軽く叩きながら静かに語り掛ける。呼吸が苦しくてパニック状態になると人は元に戻ろうと懸命に呼吸をする。けれどそれが上手くいかないと、更に恐怖心は倍増し余計に何も判断をする事が出来なくなる。“呼吸をする”と言う事に意識を向け過ぎると余計に発作が酷くなる時、考えなければいけない事は全く別の事だ。何か違う事を考え、何か違う事に意識を向け、そうしている内に人の身体の何と不思議な事か、自然と呼吸の仕方を思い出す。__その様子を静かに見守りながら、この先の治療方針を考えて )
( “過去ではなく今に目を向ける”______苦しさの中で届いた言葉は、自分にとって難しい提案だった。気を抜けば事件の記憶や妹の姿に引っ張られて深い後悔が渦巻く暗い所に引きずり込まれてしまう。懸命に“今”の記憶を探るのだが、ワシントンでは仕事に没頭するばかりでそれ以外の記憶は殆どない。記憶の中を彷徨っている内に喉に息が引っ掛かり、呼吸は乱れを引き起こす。「_____っ、は…ぁ、」思わず縋るように相手の腕を掴んだものの、ペースの狂った呼吸は息ができなくなってしまうのではないかという恐怖心を誘った。---過去に引き摺り込まれそうなぎりぎりの狭間で、相手の静かな言葉に誘われふと脳裏を過ったのはいつか見たステンドグラスの鮮やかな色。その色はレイクウッドを離れる時に贈られた小さな花束の記憶へと繋がる。花を貰って喜ぶようなタイプでもなければ寧ろ移動するのに邪魔だとさえ思ったのだが、ワシントンに着いてから少し萎れた花を適当な瓶に入れて眺めたのだ。マグカップに入った紅茶の色、手渡された缶コーヒー、車窓を流れる緑。なんとか思い出す事の出来る景色は全てレイクウッドのものだった。一瞬、自然と肺に届いた細い呼吸が、狂いを徐々に元に戻す手助けをする。首筋には酷く汗をかいていて、唇から僅かに掠れた音が漏れるものの、過去に沈み込んでしまわないように相手の腕を掴んだままで居て。 )
アダムス医師
( 相手が“今”を見るのが苦手な事は知って居た。それが難無く出来て居るのならば、過去の罪悪感や罪の意識に縛られる事無くもう少し楽に生きる事が出来ている筈だから。けれど自力で絡み付く恐怖や発作から脱する為には必要な事。まるで縋る様に掴まれた腕に視線を落とし一度背中から手を離すとその相手の手の甲を撫でる。数回撫でてから次は肩を擦る様に掌を移動させ『必ず戻れますよ。』と声を掛け。__長い時間を掛けて木枯らしが吹く様な不安定だった呼吸が幾らか元に戻った頃、静かに立ち上がり簡易冷蔵庫から新品のミネラルウォーターを取り出すとキャップを緩めてから相手に手渡す。『…もう少し落ち着いたら、少し診察をしましょうか。』と穏やかな口調で切り出しつつ、再度相手の肩を軽く擦ってから近くに置いておいた自身の鞄を開け、中から数種類の錠剤が入った袋や常に持ち歩いている聴診器何かを取り出して )
( 呼吸が狂わないように押さえ付ける事ではなく、自分が“今”の記憶として思い出す事が出来ると気付いたレイクウッドの記憶を呼び起こす事に意識を向ける。どれ程の時間を要したか、やがて呼吸の乱れは収まり後には酷い倦怠感と疲労だけが残った。相手の手を掴んでいた指先からようやく力が抜け、手が離れて。ソファの肘置きに頭を預けた状態のまま、ゆっくりと呼吸を繰り返し不足していた酸素を取り込む事に務める。しかし胸の奥か鳩尾か、発作に苦しんだ後には重たい痛みが残る事が増え身体を起こす事が億劫だった。反対にその痛みから不調が引き起こされる事もあった。「……時々、身体に痛みが出る。それがきつい、」と、僅かに掠れて疲労を含んだ声で告げて。此れまで、体調が思わしくない時には倦怠感や目眩、呼吸がし辛いような感覚を感じる事があった。しかし最近はそれに加えて身体の痛みが出る事があったのだ。ストレスが掛かっている事によるものか、日中にその症状が出ると仕事にも支障を来たしてしまう。ワシントンには、自身が過去のトラウマと不調に苦しんでいる事を知る者は少ない。誰かに縋る事も出来ない。大きな署で気を張っている事は、気付かぬ内に少なからず身体に良くない影響を与えるようだった。 )
アダムス医師
( __暫くして重たい語調ながら此処最近の身体の不調を訴えられると、軽く頷きつつ鞄から出した聴診器を耳にあて。『発作の後に起きる痛みなら身体に無理な力が入った為とも考えられますが、そうじゃない時にもある痛みは精神的なもの以外に心臓に何らかの症状が出ている可能性もあります。』そこまで言ってから『失礼しますね。』と一言断りを入れワイシャツの下から直接素肌にチェストピースを当てる。先ずは胸に、そこから下に降り鳩尾付近から肋骨の横まで、鼓膜に届く音に注意を払い。ややして静かに聴診器を抜きそれを消毒した後に鞄に戻すと相手に向き直り。『…軽いものですが心雑音があるようです。ただ、今の段階では診断を下す事は出来ません。先程の発作が尾を引いている可能性もあるからです。』真剣な、けれども変な恐怖は与えぬ様穏やかな声色のまま、規則正しい心音の中に度々混じった雑音を指摘し。『近い内に大学病院で検査をしてもらった方が良いですね。それと、』この場所では心電図などの詳しい検査は出来ない。今の相手には必要な検査だとしつつも、一度言葉を切り相手の手を取り『不整脈を調べるのはエバンズさん自身も出来る事なので、1日に数回、手首のこの位置で脈を測って下さい。15秒間、規則正しい感覚で脈を打っているか。もし感覚がちぐはくな様なら、もう15秒__その後は必ず病院に行くように。』簡単な不整脈の確認方法を教え、一先ずは精神的なものでは無い病気の話をするが、ワシントンに来て気を張り続けて居る事が大きな要因になっている可能性が極めて高いとも思っていた。『…悪夢を見る頻度は、レイクウッドに居た時と比べて変わりましたか?』と、夜の問い掛けを )
( 肌に触れるひやりとした感覚を感じるのは久しぶりの事の様に感じた。ソファの背凭れに身体を預け、特段の抵抗も見せる事なくゆっくりと呼吸を繰り返す。相手が聴診器を外すと軽くワイシャツの裾を整えつつも“大学病院での検査”という言葉には、少しばかり嫌そうな表情を浮かべて。「大学病院は待ち時間が長い。…不味いと思ったら行く、」大勢の患者が集まる大学病院は待ち時間が長く、精密な検査などを行えばあっという間に半日過ぎてしまう事があると難色を示しつつ、受診を先延ばしにするような常套句とも言える言葉で答えて。鳩尾辺りを軽く摩ったものの其処に触れただけでは心臓の音までは分からない。続いた問い掛けには「……睡眠薬を服用する回数は増えた、」と答えて。レイクウッドでは睡眠薬を飲む回数がかなり減っていたのだ。夢見が悪く魘される事は多々あったが、自然と眠れていた______特に相手のいる暖かい布団では。しかしワシントンに戻って数ヶ月後から眠りにくくなり、睡眠薬を使う事が増えた。だからと言って深い眠りで悪夢を見ないという訳でもなく、魘されて目を覚ます事も多々あった。事件が起きた直後に通っていたのは今と同じ通勤路。事件の数日後、妹を失った事実を受け入れられないまま重い身体を引き摺って署へと向かい、記者たちに囲まれたのと同じ道だという事を時折思い出しそうになる。あの事件に関する記憶が、ワシントンには未だ鮮明に残り続けている事を思い知らされた。 )
アダムス医師
( 案の定の顔を見せた相手に小さく溜め息を吐く。“待ち時間が長い”も“不味いと思ったら”も最早相手のお決まりの台詞だ。『何だろうと不整脈が確認された場合は必ず行って下さい。』今回ばかりは大目に見る、で帰す事はしないと今一度同じ言葉を繰り返しつつ、鞄から取り出したのは白く小粒の錠剤が2週間分入った袋。『…鎮痛剤です。安定剤や睡眠薬と服用しても大丈夫な軽いものですが、依存性が0な訳では無い。無闇矢鱈に飲まないように。』それを相手に手渡し、何度も聞いたであろう注意事項を告げてから少しばかり思案する間を空ける。相手の目下に鎮座し続けている隈は濃く纏まった睡眠をとる事が困難な状態にあるのはわかるのだが、どうしてもその何もが“此処”に来た事による悪化だと思わざるを得ないのだ。だからと言って睡眠薬を強い物に変える事は出来ない。『__本来なら睡眠薬を飲まずに眠れるのが一番です。薬をこれ以上強いものに変えるのも、それだけ副作用が大きくなり起きている時間帯に支障をきたす。』副作用の事を考えると、相手にとってのベストな強さ、量は今処方している物だ。『…眠る前に好きな音楽をかけたりアロマも時には効果を発揮します。とは言え、貴方にとっては気休めでしか無く症状がそれでおさまるとは思えないのも事実、』告げられる事はありふれた療法で、けれど本来相手に一番効果的なのはそれじゃないとも思う。言葉を切り、相手を真っ直ぐに見詰め少しだけ表情を緩めると『…貴方が話したいと思った時、今回の様に電話を下さい。それは私だけではなく、きっと貴方の周りに居る人達も皆そう思っている筈です。』暗に“誰かに頼れ”と。それこそ難しい事だろうが、これが大切な事だと思うからこそで )
( 少しの期間であっても鎮痛剤を処方して貰えたのは有難い事だった。痛みが強い時、仕事中に痛みが起きた時などに重宝するだろうと思えば、無闇に飲みすぎないようにという念押しに大人しく頷いて。本部の刑事課のフロアに居る時、其処で通報の電話が鳴るのを聞いた時、或いはセシリアと食事をしたレストランの近くを通った時______日常のふとした瞬間に、過去の記憶が湧き上がるような不安感を感じる事があった。“あの時”に自分が居た場所に居るのだから、記憶が直結して思い出す事が増えるのは当然の事と言えるだろう。体調が優れない時は尚更、署内でフラッシュバックを起こす事だけはしないようにと気を張っている。誰かに頼るように、と暗に告げる相手の言葉に対して「…レイクウッドは、案外恵まれてたのかもな。」と言葉を紡いでから、軽く肩を竦めて見せる。手を差し伸べ、1人で背負わなくて良いのだと寄り添ってくれるミラーの存在。町は穏やかで、自分の事をよく理解している馴染みの医者もすぐ近くにいた。思えば、気を張りすぎる事も言いようのない不安を抱えたままでいる事も、今と比べれば格段に少なかったと言えよう。「_____悪いが、朝まで此処で休ませて貰っても良いか、」と相手に尋ねる。身体には重たさが残っていて、今家まで戻るのは辛い状態。ペットボトルの水で唇を湿らせると再び身体を横たえて。 )
アダムス医師
( 相手が落とした呟き、レイクウッドを離れた事に対する後悔の色こそ見えなかったが懐かしむ様な色は僅かにチラついた気がした。『__離れた理由をあれこれ探るつもりはありませんが、戻りたいと思った時はその気持ちに蓋をしないように。…貴方は心の声より頭で考える事を優先しがちだ。確りと考え決める事はとても大切ですが、心を蔑ろにして良い事にはなりません。』長い年月、片時も傍を離れず見守った…と言う訳では無いが主治医として少なからず心を寄せて来た。その中で見えた相手は理性的で、自身の優先順位がとても低いのだ。次いだ望みには直ぐに頷く事で許可を返し。『勿論ですよ。…まさか医者の目の前でソファで一夜を過ごせると思っていないですよね?ベッドで寝て下さい。』身体を横たえた相手を見、次はそこでは駄目だと首を横に振る。相手が遠慮無くベッドに行ける様にと僅かに片眉を上げ続けたのは、“医者と患者”を強調したそれで )
( 医者として“口煩い”のは変わらないと、渋々ながらも一度横になったソファから身体を起こすとベッドへと向かった。朝には幾分体調も落ち着いていて、痛みが強なったり発作が酷くなったりした時には直ぐに病院に掛かるよう釘を刺す相手に何度か頷いて、また連絡すると約束するとホテルまでタクシーを呼び家へと戻ってから出社する事となり。______その少し後。痛みが強い時にと飲んでいた、アダムス医師から貰った薬もあと数日分を残すのみになった頃、レイクウッドから本部に出張で来る署員が居ると警視正から聞かされた。一緒に働いて居たとはいえ、名前と顔が一致していない者も多いため、誰が来るにせよ久しぶりの再会を待ち遠しく思う、なんて感情とは無縁で普段通りに専用の執務室でパソコンに向かっていて。 )
サラ・アンバー
( __警視正からワシントン本部に出張の命令を出されたのが一週間前の事。一番最初の気持ちは“何故ミラーじゃない”だった。エバンズが此処を去り既に半年以上が経過していて、その間ミラーは一度だって彼と会ってない筈なのだから、長くバディとして組んでいた彼女に声が掛かっても良い筈__と。気持ちの公私混同を認めながらも勿論命令に背ける事も無くワシントンに飛んだのが今日この日。__“本部”と言うだけあり建物は大きく中で働く署員の数もレイクウッドと比べ物にならない程。皆が何処か忙しなく動いていて、田舎から此処に不妊した刑事は慣れる迄に相当な時間が掛かるだろうというのが第一印象だ。警視正に紹介され刑事課のフロアに居る署員に挨拶を済ませた後、執務室に相手が居ると教えられ扉をノックする。中から入室の許可が出れば静かに扉を開け半年ぶりの相手をその目に映し『…お久し振りです、警部補。』と、挨拶をして )
( ノックの音に入室の許可を出し顔を上げると、其処に立っていたのはよく見知った刑事だった。「______レイクウッドからの出張要員はお前だったのか、…アンバー。」出張に来るのがミラーなら何かしら事前に連絡があると思っていたため、今回は顔と名前の一致していない男性署員が来るだろうという想定から外れ、ある意味思いがけない人物の来訪。彼女なら当然覚えがあった。ミラーと仲が良かったと思いつつ、記憶にあった名前を呼び。半年ぶりというのは、懐かしさを覚える程ではないが久しい感覚はあるもの。相手自身に大きく変わった様子は見られないと思いながらも「…レイクウッドは変わりないか。」と尋ねて。 )
サラ・アンバー
( 相手が署員の顔と名前を覚えるのを苦手とする事は知っていた。だからこそ“ミラーの友人の刑事”くらいの認識があれば良い方だと思って居ただけに確りと自身の名がその口から出れば失礼ながらも少しの驚きの色を瞳の奥にチラつかせ。『はい。…当たり前ですが、大きい所ですね。想像していた以上の広さでした。』頷きつつ、後ろ手に扉を閉めて中に入れば少し迷った後に相手の座るデスクの反対側に鎮座する椅子に腰掛けて。半年振りの相手はパッと見変わった様子は無い様に思えた。容姿が変わった訳でも、表情が柔らかくなった訳でも無い。相変わらず眉間に皺を寄せパソコンの画面から顔を上げない所もある意味懐かしい。それでも“レイクウッド”の事を問われればまだ相手の中に僅か残る懐かしさがあるのではと口角を緩め。『新しい警部補が赴任して来て、とても忙しくなったくらいです。後は…ミラーが、恐らく過去一番とも言える大きな事件を担当しました。』相手が去った後、後任として新しい警部補が地方から来た。相手より10以上年上の男性で、それなりの経験があるからこそ警部補になった筈なのだが、これまた少しばかり__否、大分厄介な人物だ。仕事と言う仕事の殆どを署員達に押し付け、何処をふらふらほっつき歩いているのかなかなか姿を見せない。かと思えば明らかに警部補の確認漏れの様な事も署員のせいにしてくる始末。お陰で署員達は朝から晩まで気を休める事も無く働き、兎に角忙しいの一言に尽きるのだ。愚痴の一つでも言いたいのを堪え、聞かれてはいないがミラー個人の担当した仕事の話も最後に付け足して )
( 相手の言う通り、地方の署で働いている刑事たちにとっては本部はかなり、想像以上に大きく感じられるものだろうと頷く。長年働いていた自分でさえ、数年ぶりに戻って改めてその規模を実感したのだから。相手の訴える忙しさは“良い忙しさ”なのか“追い込まれる程の忙しさ”なのか自分では判断が付かないが、上が変わったからと言って其処まで環境が変わる程の業務量ではなかった筈だ。少なくとも人手不足という訳ではなく、事件に余裕を持って刑事を割けるだけの人員は居た訳で。続いた言葉は思いがけないもので、相手に視線を向けた。“過去一番とも言える大きな事件”_____離れている以上、ミラーから連絡を貰う義理も無ければ其れを待ち望んでいる訳でもない。むしろ相手と関わりを持つ事を未だ何処かで恐れ、連絡をしていないのも自分だ。けれど、それ程の大きな出来事があれば、相手なら連絡をしてくると思ったのだ。しかし今は本部のワシントンの警部補とレイクウッドの刑事。そういう関係でもないと思い直せば「……大きな事件を任されるのは、刑事として信頼されている証だ。積み重ねてきたものが評価されているんだろう、」と答えて。 )
サラ・アンバー
( 言葉の頭に少しの間が空いた事、相手の顔が画面から持ち上がった事で事件の話を彼女から直接聞いていない事を察した。__けれど不思議だ。ミラーならば真っ先に相手に報告をしても良い筈なのに。__と、そこまで思って矢張り何かしらの壁が出来たまま2人は離れたのでは無いかと疑った。ミラーはあの事件、刑事として犠牲者を最小限に抑える為の最善の選択をし、他の署員達からも労われた。けれどそれを誇る事は出来なかったに違いない。相手の言葉に頷きつつも『…何だか少し心配で、』と、切り出す。『無理に頑張りすぎて、何時か動けなくなってしまうんじゃないかって。』実際此処最近でミラーから悩み相談をされた事も無いし、疲れ果てた様子を見た訳でも無い。忙しい業務の中、アシュリーも入れた3人でご飯も何度も食べに行き、特別変わった様子は無い様に思えるのだが、何故かわからない、小さな不安の芽が顔を出している気がするのだ。『理由は無いんですけどね。』と、軽く微笑んでから一度視線を下方に落とす。そうやって数十秒、意を決した様に顔を上げ相手を見ると『__警部補、』と呼び掛けた後『…何で、レイクウッドを離れたんですか?』相手がこうして根掘り葉掘り聞かれるのを好まないとわかっていながらも、あの急なタイミングでワシントンに来た理由を知りたいのだと )
( ミラーが無理をしている時、普段と同じように振る舞っているつもりの行動や表情のふとした所から、心の中に押し留めようと躍起になっている感情を垣間見る事があった。今は顔を見ていない為、其れを察するのは不可能だったがいつも近くにいる同僚であり友人の相手が“不安”を口にするのだから、事件が何かしらの影をミラーに落としているのだろうと思えた。かと言って、相手にアドバイスする事も出来なければ、自分が何か連絡を取るべき立場でもない。「……1人で背負い込み過ぎる事があるからな、」とだけ告げるも、呼びかけられれば再び相手へと視線を向ける。続いた問いは何度も周囲から聞かれたもので、少しばかりうんざりしたような、其れでいて少しばかり表情を緩めるようにして溜め息を吐くと「______そればかり聞かれる、」とひと言。「…レイクウッドには長く留まり過ぎた、それだけだ。本部に戻るにはちょうど良いタイミングだったんだ、ひとつの場所に長く留まるのは得意じゃない。」と答えて。 )
サラ・アンバー
( 相手の言う通り“1人で背負い込み過ぎる”事があるのは間違いのない事。けれどそんなミラーが何かあった時、相手には真っ先に相談している姿を度々目撃していた。だからこそ今回相手がミラーからの連絡を受けていないと言う事は、壁云々では無くそもそも“不安”は杞憂だった可能性もある。そればかりは彼女に聞いた訳でも、心の内を正確に読み取る事が出来る訳でも無い為何とも言えないのだが__『そうですね、』本当に駄目になった時、ミラーはきっと相手を頼ると、そう今も信じているからこそ、ただ頷くだけで。此方の問い掛けは案の定様々な人達から受けた質問と同じだったらしい。その表情を見て少しだけ困った様に微笑み返すも、“調度良いタイミングだった”との言葉には疑問を抱かざるを得ない。ミラーが数日の入院と数日の自宅療養をしている正にその時に相手は赴任の準備をしていたのだから。『……ミラーには何も言わず、ですか?』思わずそう問うて、ハッとした様に僅か背を正す。『すみません、警部補の決断に異を唱える訳でも、責めてる訳でも無いんです。ただ__、』再び視線を僅かに下方へ落とし、先程質問した時同様少しの時間を空けて意を決した様に相手を見詰め『…ミラーと距離を置こうとしてるように思えて。』あくまでも憶測。けれど相手の言う“長く留まり過ぎた”の裏に隠した何か__ミラーが関係している何かがある気がしたのだ )
( ______レイクウッドに長く留まり過ぎた、というのは嘘偽りのない本心だ。だからこそ、環境を変えなければならないと思い異動に踏み切った。少しばかり訝しむような問いに相手を見つめたものの、直ぐにハッとした様子で言葉を重ねる様子に小さく息を吐く。もう少し具体的に説明するとしたら、長く留まり過ぎて“周囲に影響が出るのを避けるために”去った、と言うのが正しいだろう。「……半年前にミラーを襲った犯人の動機は、あいつから聞いたか?」暫しの間を置いて、其れだけ相手に尋ねる。相手を襲った犯人は相手自身に恨みや敵意があったわけではなかった、其れこそがレイクウッドを離れ_______ミラーから離れる決断をした理由なのだが、目の前の相手はどこまでをミラーから聞いているだろうか。 )
サラ・アンバー
( 相手には相手の思う事があり、それは他者が__それもただの部下である自分が無闇矢鱈に引っ掻き回し詮索する事では無いのかもしれない。だが、例えそうであっても相手に向けるミラーの確かな想いを知っている。2人にしか結ぶ事の出来なかったであろう信頼や絆を少なからず近くで見て来た。だからだろうか、彼女以上に相手の異動は純粋な疑問として胸に燻り続けたのだ。__上司に対して出過ぎた言葉であった事は百も承知。流れる沈黙の合間に刻む秒針の音が大きく聞こえる中、返って来たのが問い掛けなれば一度瞬き。『…いえ、何も。』と、首を横に振る。嫌な記憶を呼び覚ます薬を打たれた事は聞いていたが、それならば尚更事件そのものをなるべく思い出させない様にするべきだと思い、何も聞く事をしなかった。そうしてミラーもまた何も話さなかったのだ。『あの事件の事は何も聞いていません。ただ犯人は2人組で、まだ捕まっていないと言う事は知っています。』詳細は知らぬまま、今尚逃げ続けている犯人の行方を追う為に敷かれた検問がその範囲を拡大し、レイクウッドからは勿論、近隣の署からも捜査官が出ている、と言う事だけは報告されていた )
( 相手の返答に軽く頷くと背凭れへと一度身体を預ける。真っ直ぐに相手と視線を重ね、暫しの沈黙の後。「______ミラーに薬を打ったのは、アナンデール事件の遺族だった。」そう静かに言葉を紡ぐ。「…つまり、俺への復讐に“利用“されたんだ。本来向けられるべきじゃない悪意に傷付けられた。……お前の言う通り、犯人は捕まってない。近くに居れば、また標的にされて危害を加えられるリスクがある。」だから、離れたのだ。周囲との関わりを断ち、自分以外に害が及ばぬように。「此の事をあいつに話して、どんな答えが返って来るか……親しいなら想像に容易いだろう、」そう言って少しだけ笑って見せる。返って来る言葉は間違いなく”私は大丈夫“なのだ。自分に向けられるべきではない悪意を向けられ傷付けられても、薬物を打たれるような恐ろしい経験をしても、これからもそのリスクが付き纏うと言っても、きっと相手は”大丈夫“だと言う。再び背凭れから身体を起こすと「…此の話は此処限りだ。元気にやっていたとでも言っておいてくれ、」と付け加えて。 )
サラ・アンバー
( 何も知らない、と首を横に振った直後。酷く真剣な色を宿した碧眼と視線が重なった。そうして静かに語られるあの日の事件の詳細。__思わず彷徨った視線は数秒相手を捉える事が出来なかった。動揺を落ち着かせる為に無意識に右手親指の爪先で人差し指の腹を軽く掻き、胸に落とす様に数回小さく頷き、そうやって漸く相手と視線を合わせ直した時、何とも言えない痛みが胸中を支配した。それは相手の言う通り、本来傷付かなくて良い筈の悪意に傷付けられたミラーを思って。今尚“あの事件”から許されない相手を思って。そうして__知ってしまった“優しさ”を思って、だ。何時だったかミラーが言った事があった。“エバンズさんは不器用で、だけどとっても優しい人”だと。その時は納得出来なかった。優しいは兎も角、何時も冷静で書類のミス一つせず何でも器用に熟すエリートだと思って居たからだ。__けれど今目前に居る相手は違う。ミラーを、周りを、巻き込まない為に自分自身から遠ざけるのは“不器用な優しさ”なのではないだろうか。その優しさにきっとミラーは直ぐに気が付き一番近くで見て来た。『__“大丈夫”と、ミラーはきっとそう言いますね。』ほぼ100%と言える答えはきっと相手の考えと同じだろう。レイクウッドに居ても尚見る機会の少ない相手の笑みを見て、それがまた無性に切なくなる。此処だけの話、に素直に頷いては『警部補の言う通りに、』と、ミラーにも他の署員にも何も言わない事を約束して )
( 自分の語った理由に、相手は何を思っただろうか。レイクウッドを去ると決めたきっかけを言葉にしたのは初めてだった。自分の決断を称賛して欲しい訳でも、憐れんで欲しい訳でもない。言うなれば_______ミラーと親しい彼女に、相手を傷付ける目的で、或いは蔑ろにして選んだ道ではない事を、今更ながら言い訳のように知って欲しいと思ってしまったのかもしれない。「…それも、理由のひとつだというだけだ。元々本部に戻る事は考えていた。今の肩書きのまま本部に戻れる、そのタイミングも後押しになった、」と、あくまであの事件はきっかけのひとつでしかなく、事件がなくともこのタイミングで本部に戻る事を決めていた可能性はあると付け加えて。「…人手が足りないような事があれば、警視正に相談してくれ。本部から応援を派遣する事もできる。」先ほど相手が言っていたレイクウッドの状況に対して、此方から応援の刑事を送る対応も出来ると告げると、再びパソコンへと視線を戻して。 )
サラ・アンバー
( 一概にそうだとは言えないが特に男性とっては昇進は大切な事。“警部補”のまま居られる事が出来るのはかなり良い条件で勿論その付け足しにも納得が出来る。加えて相手は元々本部の人なのだから何時か戻る事があっても実際は不思議じゃない。ただ__その余りに不器用な優しさを、今回ばかりはミラーが確りと気付き受け止める事が出来たかどうかは疑問が残る所。一度は頷き、納得を胸には落としつつも『……同僚ではありますが、ミラーの友人として。…彼女の“大丈夫”は以外と当てになります。』と、微笑む。それこそ他者が聞けば確信など何も無いそれ。その言葉で相手が納得し心変わりをした結果レイクウッドに戻って来るとは少しも思わないのだが、ただ、伝えたかった。再びパソコンに視線を落とす相手を見、少しだけ考える間を空ける。『__だったら、』と先の言葉の後『応援には警部補を指名しますね。』そんな権限は無いにも関わらず一つの戯言を。その時の表情はほんの少しだけ、冗談や戯れを言う時のミラーの笑顔に似ていただろうか )
( 自分がレイクウッドの応援に派遣されるというのは何とも可笑しな光景だと思えば「其れは勘弁してくれ、」と答えて。かつての部下に小さな真実の1つを打ち明けた所で何が変わる訳でもない。その後も滞在中は時折顔を合わせ二言三言交わしたものの、やがて彼女はレイクウッドへと帰って行った。________それから更に数ヶ月。本部に戻ってから間もなく1年が経とうかという頃になると、身体の不調はより顕著なものになっていた。締め付けられるような痛みを感じる事も増え、ふとした瞬間に視界が眩む事もあった。---その日は、少し前にワシントンで起きた事件について今後の捜査方針についての会議が開かれ、会議室には捜査関係者となる警視以下の刑事たちが集められた。目を落としていた資料の文字が急に歪んだ事で数度瞬き、鳩尾を締め付けるような胃痛にも近い感覚を感じると静かに息を吐く。途中から話の内容は所々しか意識を向ける事が出来なくなったものの、程なく会議は終了して。刑事たちがパソコンや資料を纏めて席を立ち部屋を出ていく中、立ち上がればバランスを崩し転倒する事件があると思った。せめて不審に思われぬようにと資料に目を落とし考え込む素振りを。その裏、徐々に浅く上擦りそうになる呼吸を必死に押し留める事しか出来ずにいて。 )
ロイド・デイビス
( __相手が座る席の斜め後ろの席、そこに腰掛け会議終了と同時に立ち上がり他の署員同様部屋を出ようとするのだが。__ふ、と視線を向けた先の相手はパソコンや書類を纏める事もせずやや俯き加減のまま動かない。手元には先程説明にあった事件の資料があり、何やら腑に落ちない箇所でもあり確かめているのかと横を通り過ぎる際に視線を向け。__その表情までは見る事が叶わなかったが、何処か微妙な点に置いて違和感を感じた。その違和感が何かを説明する事は出来ないのだが、そのまま相手を残し部屋を出る事を選ばなければ少し怪しむ様に腰を折り『…警部補?』と、声を掛けて )
( せめて他の上司や署員が全員この場所を去った後であれば良かったのだが、今異変に気付かれては不味い事になる。徐々にざわめきが遠くなっていく気配を感じていたのだが、不意にすぐ近くで自分を呼ぶ声が聞こえた。僅かに肩が震えたものの、その声は聞き覚えのある声で。しかし、痛みが強まるのと同時に背中を僅かに丸めると、浅い息が吐き出される。平静を装っておくのはもう不可能だ。首筋には汗が浮かび、徐々に背中は浅く上下する。部下の前で_____と思いはするのだが、この状況では相手に助けを求めるより他はなかった。「……っ、鞄を、持って来て貰えないか、…」辛うじてそう言葉を紡ぐと、執務室に置かれている鞄を此処へ持って来て欲しいと頼む。アダムス医師から受け取った鎮痛剤は既に使い切ってしまったものの、定期的に病院で処方される薬はその中に入っている。署内で酷い発作を起こす事だけは避けたかった。 )
ロイド・デイビス
( 呼び声に返った来たのは何時もの凛としたものとは掛け離れた懸命に絞り出す震え声。表情こそ見えぬものの噛み締められているのだろう歯の間から漏れる苦しげな息遣いと、浅く上下する背中が今置かれて居る状況の重大さを物語っており。『…直ぐに、』頷くや否や、足早に会議室を出て警部補専用執務室へと向かう。__デスクの横に置かれた鞄を持ち部屋を出れば、何故警部補の鞄を?と不思議に思っているのだろう此方を見る数名の署員達の視線を感じ、それに軽く微笑み再び足早に会議室へと戻り。中には部屋を出る前と同じ体勢の相手が居て、一拍程の考えた、とも言えない間の後に扉を施錠すると『…持って来ましたよ。何が必要ですか?』明らかに様子の可笑しい相手の前に鞄を置き、冷静に、中から取り出す物が何なのかの確認をしつつ、此方の声が届いているのだろうかと軽く肩を揺すって )
( 乱雑にネクタイを緩めたものの、このままやり過ごす事が出来る程度の不調ではなかった。辛うじて押さえ付けるようにしてペースを保っていた呼吸には狂いが生じ始め、視界は嫌な揺れ方をしている。相手が戻って来て、鞄が視界の端に入ると開けるように頼む。中には処方薬と書かれた袋に入ったままの錠剤がある筈だ。しかし痛みが強く、其れを言葉にする事ができないまま縋るように相手の手首を掴んでいて。「_____っ、は……ッ、」署内で此処までの体調不良を引き起こすのは滅多にない事だったが、直ぐに落ち着くとも思えない状況に焦りばかりが募り呼吸が上手く出来なくなって行き。 )
ロイド・デイビス
( 鞄を置いたそのタイミングで手首を掴まれると、予想していなかった事に驚いた様に目を丸くし相手を見る。身体に襲い掛かる何かに耐えようとしているのか、それとも行くなと行動で示されているのか__何方かを読み取る事は出来ぬものの男性の無意識下で掴まれる強さはなかなかのもので、血管が押さえ付けられる様な重い痛みに一瞬ぴくりと眉が微動する。けれど振り払う事はしなければ要望通りに鞄を開け__“何”に対する答えは無かったが中を覗けば“今の相手”が望むものなど簡単に察する事が出来た。白い袋には“処方箋”の文字。中からは既に何度も服用しているのだろう数の少なくなった錠剤が出て来て、次は怪しむ様に眉が寄せられる。病気だったのか、と言う疑問を胸にシートから薬を取り出し__『…警部補、ちょっと、』手首を掴む手を軽く引き剥がす様に引き、それが叶うならば会議室に備え付けられているウォーターサーバーから水を持って来ようと )
( 言葉で伝える事が出来ずとも、鞄を開いた相手は直ぐに自分が求めている物が何か察したようだった。一度手が離れ、相手はウォーターサーバーから水を汲んで戻ってきた。しかし呼吸はすっかり乱れ、直ぐに錠剤を飲み込む事は出来そうになく。痛みと息苦しさに徐々に思考は働かなくなっていき、呼吸を正しいペースに戻すきっかけも掴めなくなっていく中、不意に手のひらが背中へと添えられた。落ち着かせようと背中を摩るその手は側に居たデイビスのものだと分かっていた筈なのに、曖昧な意識の中では“彼女”のものだと錯覚してしまった。彼女の声に意識を向け、背中を摩る手のリズムに呼吸を合わせれば楽になれる。“大丈夫”と優しく語りかける言葉と心音は苦痛を和らげてくれる。「……ッ、は…ミラー、っ……」思わず彼女の名前が唇から溢れ、縋るように相手の片方の腕を緩く掴んだものの、その過ちには気付かない。正常な呼吸に戻る糸口を必死に探りながら波が引く事を願い続けて。 )
ロイド・デイビス
( 薬を望む事は出来てもその後それを飲み込む事が出来なければ恐らく相手に襲い掛かる苦しみは消えない。けれど無理矢理飲ませた所で結局は咳き込み全て吐き出してしまう未来しか見えなければ、少しでも落ち着く様にと背を擦る事しか今の段階で出来る事は無く。__ふいに先程よりも弱い力で腕を掴まれ、視線を向ける。痛みや苦しみに耐える力加減では無く今度はそれが“縋り”によるものだとわかったのは、相手の震える唇から絞り出された“名前”を聞いたから。“ミラー”が誰なのかはわからないが間違い無く意識が曖昧になっているのは確かで。もし“ミラー”がこの署内に、或いは近くに居るのならば今直ぐ呼んで来たいが生憎パッと思い付く署員の中にその名前の人は居らず、仮に居たとしても今の状態の相手を1人残し離れる事が最善とも思えない。『…警部補、』今一度呼んだ名前は先程よりも小さく、続けて『…大丈夫ですよ。』と口にしたものの、薬を飲めていない状態でどれだけの時間が経過すれば落ち着くのかもわからず、“大丈夫”を繰り返しながら背を擦り続ける時間だけが流れて )
( 狂った呼吸を必死に繰り返しながら、背中を摩る掌に意識を向ける。いつからだろうか、少なくともミラーが近くに居るようになってから、過去に意識が引き摺り込まれないように_____少しでも早く苦痛から解放される為の糸口を探る為、背中を摩る感覚に呼吸のペースを合わせる事で正常な呼吸を取り戻そうとするようになった。徐々に肺に届く深い呼吸が出来るようになると、曖昧になっていた思考が働き始める。やがてかなりの時間を要しながらも呼吸が落ち着くと、僅かに身じろいで薬を手にして相手が持って来たウォーターサーバーの紙コップで其れを飲み込んで。身体には酷い倦怠感が残り、首筋も汗に濡れているがなんとか意識を飛ばす事なく、落ち着く事が出来た。会議が終わってから1時間以上経過しているだろうか。相手を付き合わせた事にも申し訳なさが募り「______悪かった、」と少し掠れた声で告げる。「……戻らないと怪しまれるな、」とは言ったものの、身体は未だ辛い。一時的に酸欠状態に陥った事によるものか、手も小刻みに震えていた。 )
ロイド・デイビス
( __長い時間を掛けて相手の呼吸が安定したものに戻ると人知れず安堵の息を飲み込む。薬が確りと胃に落ちた事をこの目で確認し謝罪に対して軽く首を振る事で答えては、徐に斜め前の席に腰掛けて。『これだけ広い署内でたかだか2人の姿が数時間見えないくらい、誰も気付きませんよ。』どう見ても紙コップを握る指先は震えていてまだ万全の調子では無い事くらい誰が見てもわかる。戻る必要など無いと肩を竦め、聞く人が聞けば適当にも聞こえる返事を返すも、一応の言い訳は忍ばせておくつもりか、『もし万が一何か言われたら、俺の報告書がわかり難いから注意してた、とでも言えば大丈夫です。』と。続いて殆ど空になったであろう紙コップを一瞥し『…まだ飲みますか?』必要ならば再度持って来る、と受け取る為手を伸ばして )
( 自分の報告書について注意をしていた事にして構わないというのは、此方を気遣った相手の優しさだ。手を差し出されると紙コップを相手に渡し「…頼む、」と答えて。相手がウォーターサーバーで水を汲んでいる間、この状況をどう説明すべきかと途端に冷静になる自分が居た。到底正常ではない過呼吸に苛まれ、常用している薬の存在にも相手は気付いただろう。以前本部に居た時には隠し通す事が出来ていたが、全てを見られた今となってはどうする事も出来ない。口止めをすべきか、或いは少し体調が悪かっただけだと誤魔化すべきか、そんな不毛な事を考えている間に相手は水の入った紙コップを手に戻って来ていて、礼を述べると其れをひと口飲んで。重い倦怠感に身体は横になりたいと訴えるが、背凭れに深く身体を預けるに留める。「_____朝から、あまり調子が良くなかったんだ。」暫しの沈黙の後に紡いだのは、言い訳とも取れる言葉。誰に責められたわけでも無いのだが、自分自身の不甲斐なさから、つい口を突いた言葉だった。 )
ロイド・デイビス
( 水を汲む僅かな時間の間、紛れもなく考えていたのは相手と同じこの状況に関してだ。__相手のあんな状態を見たのは初めてだし、薬だって市販薬では無く明らかに病院で処方されている物だとわかる。頻繁的に起きる症状なのか、本来は救急車を呼ばなければならない程なのか。__頭を駆け巡る思考は相手の手に水が渡った事で急停止した。僅か伺う様に表情を盗み見るも、長く落ちた前髪の奥の瞳は倦怠感を滲ませている。先と同じく相手の斜め前に腰を下ろし__何かを問い掛けた訳でも無いのに唐突に落とされた言葉に一つ瞬く。その言葉を聞き届け軽く2、3頷くと『…寒くなって来てますもんね。』決めたのは相手の症状に追求しない事。けれど『でも少し驚きました。今日は珍しく落ち着いてるし、早めに帰っても問題無さそうですよ。』少しの心配を覗かせるくらいは良い筈だ。そう言葉にして漸く緩く微笑むと、続いて思い出したとばかりに再度閉じ掛けた口を開き『…そうだ。俺、ミラーさんの事呼んで来ましょうか?何処の課に居るか教えて貰えれば、』それは何も知らないからこその純粋な親切心。相手はきっと“ミラー”を探していると思っているからこその申し出で )
( 相手が先程の一件について深く追求して来なかった事に密かに安堵する。本来ならきちんと説明して、迷惑を掛けた事を謝罪すべきなのだろうが、自分の抱えているものを部下という立場の相手に全て打ち明けるのはどうしても気が乗らなかった。しかし、不意に相手の口から出た名前に驚きから思わず身体が固まる。相手は彼女の事を知らないのだから、その名前が出る筈がないのだ。その上、文脈を考えればまるで自分がミラーを探していたかのような______そこまで考えて、意識が朦朧としていた先程の状況を思い出す。誤って相手の名前を呼んだのだろうか。記憶にはないが、この状況に陥った時に側に居たのはいつも彼女だったことには間違いない。「……ミラーは此処には居ない。」と、ひと言答えて首を振る。「…意識が混濁していたのかもしれない。気を遣わせて悪かった、」その名前を自分が呼んだのだとすれば、それは意識の混濁によるもので深い意味はないと告げるに留めて。「______もう大丈夫だ、仕事に戻ってくれ。もう少し休んだら俺も戻る、」未だ気怠さを湛えた瞳を相手に向けると、もう自分の仕事に戻って欲しいと告げて。 )
ロイド・デイビス
__あ、そう…なんですか、?
( 記憶にある中では刑事課に【ミラー】と言う署員は居なかった様に思うがこれだけ広いのだ、別の課には居て相手はその人を呼んだ可能性があると考えたのだが、どうやらそもそもその名前の人は居ないらしい。では誰を__可能性としては極めて低いが、人で無いのなら愛犬か何かの名前でも呼んだのかと取り敢えず頷きはするものの、心底納得した訳では無い事はきょとんとした表情と曖昧な語調で直ぐに伝わっただろう。結果的に此方がそれ以上何か言う前に仕事に戻る様にと言われれば再び頷く他なく。立ち上がり一礼してから扉を開ける前。『…警部補、』と相手の名前を呼ぶと『俺で良ければ何時でも呼んで下さい。鞄くらい何度でも持って来ますから。』僅かにはにかむ様な笑みを浮かべつつ、勿論鞄の事だけでは無くどんな理由でも、との言葉を含ませてから今度こそ会議室を出る為の一礼をして )
( レイクウッドを離れてもう数ヶ月で1年が経とうというのに、未だ無意識にミラーの名前を呼んでいたとは。思っていた以上に彼女に寄り掛かり、支えられていた事を今更ながら改めて実感して小さく息を吐く。本部に戻ったのはあくまで自分の意志だ。しっかりしなければと自分に言い聞かせ、会議室を出ていく相手に視線を向けていたものの。不意に名前を呼ばれ、手助けの申し出を受けると「…あぁ、助かる、」と素直に言葉を紡いで。その親切心は有り難く受け取っておこうと。今回の一件で相手には要らぬ手間を掛けさせた訳だが、何かあった時に少しでも手を差し伸べてくれる存在というのは心強い。相手が会議室を出て行くのを見送ると、その後少し会議室に留まり大丈夫そうだと判断すると刑事課のフロアへと戻って行き。 )
ロイド・デイビス
( __刑事課フロアへと戻り再び仕事を始めてから凡そ30分程が経ち、遅れて会議室を出た相手が警部補執務室に入って行くのを見た。ある程度調子を回復させたのだろうと胸に安堵を落とし残りの仕事を片付ける。__それから特別捜査に呼び出される事も無くデスクワークを続け、気が付くと時刻は夜の6時を回った頃になっていた。普段の忙しさは何処へやら、比較的落ち着いている今日、早上がりの出来そうな署員達は仕事を終わらせ帰宅していてフロアに残るのは後数人。己もまた同じで提出しなければならない書類を提出した後帰ろうと席を立ちジョーンズの元へ向かうと、パソコンの画面を見詰めている彼女の横から『お疲れ様です、頼まれていたものが出来上がりました。』と、声を掛けつつ、手にしていた数枚の書類を手渡して。不備が無いかを確認して貰う間、視線を流したのは警部補執務室。何時の間にか窓から漏れていた光は消えていて知らない間にエバンズは帰ったのだろうか。彼女からOKが出れば再び視線を相手へと向け。後は自席に戻り帰るだけなのだが__『……“ミラーさん”ってご存知ですか?』口をついた唐突にも取れる問い掛けは意識の混濁が見られたエバンズが口にした名前。物凄く気になるかと言われればそうでは無いのだが、スッキリはしないのだ。些か詮索し過ぎかとは思うものの、相手に聞けば何かわかるかと思っての事で )
クレア・ジョーンズ
( 相手から書類を受け取ると目を通しておくと笑顔で返答したのだが、一拍の間を置いて思いがけない名前が不意に相手の口から出た事に驚いて相手に視線を向ける。「えぇ、知ってるけど…」と答えたものの、新人として配属された時からずっと本部にいるデイビスとレイクウッドのミラーとの共通点は何かと暫し考える。年齢は同じくらいか彼の方が少し上だろうか。すぐに浮かんだのは当然“ベル・ミラー”だった訳だが、少し考えてからこの署にも“ミラー”という名前の署員がいた事を思い出して「…あ、もしかして総務のミラーさんの事?私たち刑事課が直接関わる事はあまりないけど…情報セキュリティ関係の事に詳しい人よね。」と、覚えている限りの情報を告げる。「ミラーさんがどうかした?」と尋ねて。 )
ロイド・デイビス
( エバンズは“此処には居ない”と言った“ミラー”を相手は知っていると言う。総務課の人達の顔を思い浮かべるも、当然ながら全員を思い出す事など出来る筈も無く正直な所ピンとは来ない。__何故彼はあの時一度は探していたその人を、急に居ない等と言ったのか、彼自身が言っていた通り記憶の混濁を考え、そこでこれ以上の詮索を辞める。少なくとも“ミラー”は存在して居て想像していた犬では無い可能性の方が格段に高くなったから。口角を持ち上げる様に笑みを浮かべ問い掛けに関して軽く首を振ると『いえ、警部補が探してたみたいだから少し気になって。』上司と部下の他愛無い会話の中の特別じゃない事、と言うニュアンスで答えた後。『でも、総務課に居るなら俺が態々探すまでも無いですね。』緩い笑みのまま軽く肩を竦めて見せて )
クレア・ジョーンズ
( “警部補が探していた”という言葉に思わず目を瞬く。彼が探していたのなら、やはり一番に思い浮かんだ彼女である可能性が格段に高い。しかし、彼女の事を探している、だなんて、あのエバンズが言うだろうか。『アルバートが?…それなら、多分本部には居ない人だわ。以前勤務していたレイクウッドにいた刑事じゃないかしら。よく一緒に捜査をしていたから、少なくとも総務課のミラーさんよりは近いはずよ。』詳細については言及しなかったもののあくまで事実だけを伝えて、以前の署に居た人物の可能性が高いと伝えて。しかし、確かに相手はエバンズにとって以前から知る部下で、珍しく相性も比較的良いように見えるのだが、自分のプライベートな話をするとは考えにくい。『……貴方に、“ミラー”を探してるって言ったの?』首を傾げつつ、尋ねて。 )
ロイド・デイビス
( 相手のその言葉で漸く“此処には居ない”の本当の意味を理解し、同時に納得した。以前勤務していた署に居た署員の名前だったのならどう頑張った所であの時自分が呼んで来れる筈が無い。何故か無性に気になってしまった“謎”が無事解決した事でスッキリと家に帰れると、いっそ清々しい気持ちさえ覚えた所なのだが__どうやら一度は解決したと思っていた“謎”が相手に移ってしまったらしい。不思議そうに首を傾けどうにも腑に落ちていない様子に勿論放って『お先に失礼します。』なんて帰れる筈も無く。しかし返事にはとてつもなく困った。正確に言えば“ミラーの名前を呼んだ”だけで直接探していると言われた訳でも、連れて来てくれと言われた訳でも無い。加えてあの時彼は明らかに倒れても可笑しくない程に調子が悪そうだったものだから、それを相手に伝えても良いのかわからなかったのだ。『……あ、いや__直接探してるとは言われなかったんですけど、』何と答えるべきか、僅かに視線を逸らす様に相手の横の壁を見ながら言い淀む事数秒。上手い誤魔化しを見付ける事は出来ず、『…多分、俺とミラーさんを勘違いしたんだと思います。』“意識が混濁していた”と言った彼の言葉を思い出しそれに乗っかる形の返答をしつつも、普通ならば此処に居ない相手と勘違いする筈も無く、更なる疑問をまた生み出すだけだと気が付くと暫しの沈黙の後『……少し調子が悪そうに見えて、』明らかに“少し”では無かったのだが、これが出来る限りの返答で )
クレア・ジョーンズ
( 彼女が此処に居ない事を、当然エバンズは誰よりも理解している。例え暗闇の中だったとしても、性別も背格好も何もかもが違う相手をミラーと混同する事など“通常では”あり得る筈がない。その違和感は直ぐに、相手の言葉によって解消される事になる。相手は“少し”調子が悪そうだったと言葉を選んだが、側に居る人物をミラーと混同する程体調を崩した所に、相手が居合わせたと言う事だろう。『そうだったのね。…此の所急に寒くなったから、』相手をあまり心配させないようにと、重くなり過ぎないように紡いだ言葉は奇しくも相手と同じもの。同時に朦朧とした中で名前を呼ぶほど、やはり彼にとってミラーは大切な存在なのではないかと、やるせない気持ちになる。エバンズが本部移動を決めた理由は知っている。不器用な彼だからこそ、ミラーを大切に思うからこその決断だと分かっているが、彼自身の心を蔑ろにした決断だ。実際本部に移動してきてから1年ほど。エバンズとミラーが接点を持っている様子は見られないし、顔色が良くないと感じる事も増えて来た。再び目の前の相手へと視線を向けると『アルバートが探していた人の事は心配しないで。貴方から聞いた事も本人には言わないから。…また声を掛けてあげて。あの人、あんな顔だけど貴方の事は好きだと思うわ。』と告げる。今回の件については此方でなんとかするし、相手から聞いたと話したりはしないと約束して。そうして、少し悪戯っぽく笑うと懲りずに彼に”構ってあげて欲しい”と伝えておき。 )
ロイド・デイビス
( 上手い返しが出来た訳でも、確りと誤魔化せた訳でも無かったが相手は根掘り葉掘り聞いて来る事はせずただ納得した様子を見せただけだった。けれど相手が一言紡いだ言葉は己がエバンズに掛けたそれと同じもの。嗚呼、きっと“全て”を理解した上での納得なのだろうと直感的に感じると、『__本当に。初雪も近いかもしれませんね。』同意する様に頷くと同時、その動作と共に持ち上げた瞼の奥の瞳に何処か柔らかな色を宿して。__あの会議室で調子の悪いエバンズを見付けたのが自分では無く相手だったら。もしかしたら彼はもう少し弱音を吐く事が出来て、何かが違ったのかもしれない。ふ、とそんな“たられば”が浮かんだ正にその時。落とされたのは此方の気持ちを汲んだ約束と、悪戯な“お願い”。その言葉と笑みに一度瞬き、直ぐに破顔すると『好意を持たれてる顔では無かったと思いますけど、もしそれが本当なら…警部補は常に“誤解”と戦うはめになりそうです。』皮肉などでは無く、言うなればまるで上司と少しの言葉の遣り取りをする様に。それから悪戯な色宿る瞳を見詰め、所謂安堵の溜め息を小さく吐くと『…ジョーンズさんって良い人ですね。』今感じた気持ちのそのままを言葉に、軽く頭を下げて )
クレア・ジョーンズ
( 彼の周りが少しでも暖かければ良いと思うのは、ずっと側で彼を見て来たからこその勝手な思い入れだろうか。相手が言うように、彼は誤解されやすい。けれど本当は優しい人なのだ。続いた相手の言葉には『______そうよ、今気付いたの?』と悪戯に笑みを浮かべて返事をする。『引き止めてごめんなさい。気を付けて帰ってね。』遅くまで話し込んでしまったと思えばそう言って彼を解放し、書類をデスク上に置かれたトレーに入れて。---エバンズが去ったレイクウッドには未だ一度も行けていない。デイビスから聞いたことを横流しするつもりはないが、少し彼女と話がしたいと思い時計を見上げると、スマートフォンを開いて“ベル・ミラー”の電話番号を押していて。 )
( __犯人の自白を引き出す事が出来、一件の事件捜査を無事に終わらせた今日。身体の疲れは然程感じていないものの、ご飯を作って食べる事が無性に面倒に感じてしまい近くのお店で中華をテイクアウトし食べ終えたのがついさっきの事。特別興味のそそられる番組も無く、適当に流しているだけのニュースの情報を聞きながらソファに深く座り、膝掛けのじんわりとした温もりを感じながら何か温かい飲み物でも、と思った矢先。テーブルに置いてあるスマートフォンが震え着信を知らせた。前のめりでそれを手にすれば、画面には此処暫く顔も見ていない、声も聞いていない【クレア・ジョーンズ】の名前があり。近々誰か応援に来ると言う話も聞いていない為、それ関係の話では無いだろうが何かあったのだろうかと通話ボタンを押し「…お疲れ様です、ミラーです。」携帯を耳に、再度背凭れに背を預ける形で電話に出て )
クレア・ジョーンズ
( 数コールの後に相手の声が聞こえると『もしもし、ベルちゃん?こんな時間に急にごめんなさい。ちょっと声が聴きたくなっちゃって…用事がある訳じゃないんだけど、』と告げて。用もなく電話をするには少し遅い時間だと分かっているだけに、声には少し申し訳なさが滲む。都合が悪ければまた掛け直すと付け足しつつ、『最近レイクウッドに行けてないから、どうしてるかなと思っていたの。』と続ける。エバンズは早々に署を後にしているため、この電話を聞かれる事もない。電気の消えている執務室に視線を向けつつ、相手の近況を尋ねて。 )
( 電話の向こうから聞こえる声は少しの申し訳なさを滲ませていて、“こんな時間”に釣られる様に壁掛け時計を半無意識に一瞥するも、用事の有無に関わらず例えどんな時間であれ相手と話をする事が出来るのならば何の問題も無いのだ。「私も声が聞きたかったです。だから、…嬉しい。」片手で膝掛けを少し引き上げつつ懐かしいその声を噛み締める様にはにかみ。続いた近況への問い掛けには緩めた口角をそのままに「何も変わらずですよ。」と、先ずは相手に余計な心配を掛けない様にと問題無い事を伝える。数ヶ月前に起きた事件の事も、エバンズの事も、何も口にはせぬまま「…強いて言えば、以前クレアさんと一緒に食べたベーグルのお店。あそこに新商品が出たくらいです。」彼女が初めてレイクウッドに応援に来た日に食べたお店の話題を持ち出し、少しだけ悪戯に笑って見せて )
クレア・ジョーンズ
( 相手の声色は落ち着いたもので、元気にやっているようだと安心する。『あ、あのお店?美味しかったわよね、またレイクウッドに行った時連れて行ってね。ワシントンにもテイクアウト専門のベーグルショップが出来てね、今期間限定でりんごとサツマイモのジャムが出ていて…もう2回食べちゃった。』相手と一緒に食べたベーグルショップの話題が出ると、また食べに行きたいと言いつつワシントンにできた店の話をして笑う。『ベルちゃんが本部に来た時には連れて行ってあげるわね。近くの公園のベンチで食べるのがお気に入りなの、』他愛のない話をしてから『仕事はどう?困ってる事はない?』と尋ねて。 )
( “勿論です”と目前に相手は居ないながら大きく頷くのだが、まさかワシントンにも似た様なお店が出来ていたなんて。「絶対美味しいやつじゃないですか、それ。今年はもう間に合わないかもしれないけど来年もし行く事があれば是非お願いします。」出来たての全粒粉の香り立つモッチリとした弾力あるベーグルに仄かな酸味やコクのあるジャムが合わさり絶妙な旨味を産む__想像しただけで美味しい事間違い無しのそれに少しだけ羨ましそうな声色で返事をしては、何時になるか、そもそも果たしてこの先本部に行く事があるのかもわからない中で敢えて“来年”と口にして。テレビは何時しかニュース番組から良くわからないバラエティ番組に替わっていた。伸ばした手でリモコンを掴み違うチャンネル番号を押し再度別のニュース番組に切り替える。「事件そのものの数は特別増えていない筈なんですけど、新しい警部補が来てから倍忙しくなった気がします。…勿論悪い人じゃないんですよ。でも__皆エバンズさんの仕事ぶりを知ってるから、」心底困り果てている愚痴では無いものの、日々業務に追われる事は確か。此処で漸くエバンズの名前を出すと少しだけ困った様に笑いつつ「…エバンズさんは元気ですか?」と、彼の調子を問うて )
クレア・ジョーンズ
( 本部への応援は様々な地方の署から派遣されるため機会としてはあまり多くないだろう。前回の応援も別の女性刑事が来ていたし、ある意味競争率が高い枠のかもしれないが。『また最新のベーグル情報を仕入れたら連絡するわね、』と悪戯に笑って。---“忙しい”という言葉を、やり取りのあったレイクウッドの刑事たちから今年に入りよく聞くようになった。『そうなの…アルバートの働き方はやり過ぎだったとしても、警部補が1人変わっただけでそこまで負担が増えるっていうのも困った話よね。あの人だって他の刑事の仕事を奪ってまで働いていた訳じゃないし…新しい人、サボりぐせがあるのかしらね。』彼ほど仕事に熱心なタイプではなかったとしても、元々1人で賄う役職。其処が入れ替わっただけで、そこまで負担が増えるというのは明らかに可笑しいと、困ったような口調で答えて。『…いつも通り、毎日パソコンと睨めっこしてるわ。』肩を竦めつつ、そう述べるに留める。先ほど聞いたばかりの話では、体調を崩している事がある様子だったが欠勤するような重篤なものではないし、相手を心配させてしまうだろう。『_____アルバートとは連絡は取ってる?』それとなく相手に尋ねて。 )
__ずっと電気も点いてるし執務室に居るって思い込んでたけど、実際は抜け出して散歩でもしてるのかも。…なんて。忙しいのは本当ですけど、音を上げる程では無いんです。だから、あまり心配しないで下さいね。
( 何方の警部補も執務室に閉じ篭り用事のある時にしか出て来ない印象だが、相手と決定的に違うのは“捜査に出ない”と言う所。本当に丸一日籠城を決め込んで居るのだからその間に書類の数枚の確認くらい出来る筈だと他の署員から文句の飛ぶ気持ちもわかるのだ。けれど現段階では何もかもが機能しなくなっている訳では無い。余計な心配を掛けぬ様敢えて冗談を口にしながらも、まだまだやれるのだと言う意思表示は確りと伝え。約1年が経った今も尚、どうやら彼の働き方は変わっていない様だ。眉間に皺を寄せた難しい顔でパソコンを見詰め、此方が話し掛けても顔すら上げない時がある。数え切れないくらい見て来たその表情をたった1年会わないだけで忘れる筈も無く鮮明に思い出せるものだから、胸の奥が小さく痛み、それに気が付かない振りをして微笑むと「良いんだか悪いんだか、ですね。」と肩を竦め。次いだ問い掛けには言葉が詰まった。この1年、たったの一度だって相手に連絡をした事は無かった。その理由は自分でもわからない。声を聞いたらまた会いたい気持ちが溢れ出し泣き言を言ってしまうから、確り1人でもやれているから何も心配いらないと暗に伝えたかったから、変に強がってしまったから__もしかしたら思い浮かぶ理由のそのどれもが正解なのかもしれない。ただ、“1年”と言う年月が思いのほか長くて、何かが変わってしまった様にすら思えたのだ。「……いえ、」と、一言答えてまた口を噤む。途端に重たい空気が自身の周りを漂い、それを払拭する為に立ち上がると、膝掛けをソファの端に畳み携帯は耳に付けたままキッチンへ。愛用のマグカップにスティックコーヒーの粉を入れケトルにお湯を沸かしながら「…エバンズさんの事、気にならない訳じゃないんです。ただ、何を話せば良いのか急にわからなくなっちゃって。」その場に立ったまま、表情は笑顔こそなれど困った様に声量は落ちて )
クレア・ジョーンズ
( 彼の居なくなったレイクウッドで、泣き言を言わず一刑事としてしっかりやらなければと気を張っている、というのはあるのだろう。忙しくはしているもののあまり心配しないで欲しいという言葉には少し困ったように1人微笑んだものの、破綻するほどの状況ではないのだから今は相手の言葉を尊重してそれに従い見守ろうと。---やはり相手とエバンズは連絡を取り合う事はしていないらしい。“何を話せば良いか分からない”というのは、お互いがお互いを思うからこそ、2人ともが抱えているぎこちなさのように思えた。「……きっと、アルバートも同じ事を思っているわ。本当はベルちゃんに話したい事がたくさんある筈だもの。』心細く辛い状況に陥った時、無意識ながら相手の名前を呼んでいたのだと伝えられたら、2人の向き合い方は変わるだろうか。本当は相手を守る為に本部に戻ったのだと伝えられたら______きっと彼はそれを良しとしない為自分の口から伝える事はないが、本当は相手の事がずっと心の内にあるのだという事だけでも伝えたかった。『レイクウッドでの2人を見て、すごく嬉しかったの。アルバートもすごくベルちゃんに心を開いているのが分かって……こっちではベルちゃんみたいな人が居ないから、少し寂しそう、…なんて。そんな事言ったらきっと怒られちゃうわね。…だいたい不器用過ぎるのよ。あの人なりの優しさなんて、忘れちゃうくらい時間が経ってから気付くの。言葉にもしないし、顔にも出さないんだから。』彼なりの正義を貫く時、彼はそれを一切顔にも出さず、ただ静かに水面下で事を進める。相手を大切に想うからこをワシントンへとやってきたエバンズの事を思い、つい途中からは言葉に力が入ってしまい、思わず自分を落ち着かせようと深く息を吐く。すれ違っている2人を見るのは酷くもどかしくて、言葉に力が入ってしまうのだ。 )
__私に話したい事、…もっと客観的に周りを見て冷静に捜査しろ。とかですかね、
( 彼が自分に話したい事なんて。好き好んで世間話に花を咲かせるタイプでも無いし、相手と違って何処のお店の何が美味しいなんて話は余程暇であっても絶対にして来ないだろう。彼がもしこの距離で話したい事があるとすればそれは“仕事の事”だろうと少しおどけた様に答えるも、数秒後には真顔に戻る。持ち上げた筈の口角は思いの外重くまるで自分の表情筋では無い様な感覚だった。お湯が沸いた事でケトルの電源が切れ、マグカップに注ぐ事で出来上がったコーヒーを片手に再びソファに座り直す。その行動も半無意識の中。だからこそコーヒーは真っ黒のままで、苦いまま。マグカップに口を付ける事をせず目前のテーブルに置き電話口の相手の言葉を静かに聞くのだが、途中から明らかに声色も声量も変わり、感情の昂りが感じられたものだからその珍しさに一度瞬き。同時に酷く優しい思い遣りが流れ込んで来た気がした。彼を思い、己を思ってくれるその優しさは何時だって素直なまでに真っ直ぐに届く。「………エバンズさんに誇れる刑事になりたいんです。」沢山の時間を掛けて漸く話始めた声は僅かに震える。「1人でも確りやれてるんだなって思って欲しい。…でも、このまま連絡をしないで、何時かもっと長い年月が経って、…エバンズさんに会いたいっていう気持ちも、大好きって気持ちも…っ、もし、全部無くなったら……、」それは、とてつもなく恐ろしい事。問題無いのだと思っていて欲しい、けれど本当は会いたくて連絡がしたい、でも今更何を話せば良いのか。複雑に絡み付く様々な思いは何時しか身動きが取れない程にきつく結ばれる物になっていた。言葉尻が萎みそれ以上を飲み込む形で息を吐く。そうして深呼吸の後に薄く唇を開くと「…以前の私だったらさっさと飛行機に飛び乗って、今頃もうワシントンでエバンズさんにベーグルの差し入れしてる筈なのに。」空気を変える為の少しの冗談を交えた言葉を。嗚呼、何時からこんなにウダウダとネガティブに考え何もかもに足踏みする様になってしまったのか )
クレア・ジョーンズ
( 相手の中にも様々な思いや葛藤がある事を知る。心配を掛けないように、刑事として1人でもやっていけるということを暗に伝えるために、連絡をしないまま1年が経とうとしているのだ。『…自分の気持ちを押し殺す必要はないと思うわ。ちょっとした近況を報告するだけでも、アルバートも安心出来るんじゃないかしら。地域の署の報告書が上がって来ると、時々レイクウッドの資料に目を通しているのを見るもの。』彼も、レイクウッドに心を寄せていることは間違いないと伝える。お互いに気を遣いすぎてぎこちなく距離が離れて行ってしまうのは寂しい事だ。『_____今すぐに、とは言わないけれど、自分の心に従って動くべきよ。ベルちゃんはそれが得意でしょう?“頭より先に身体が動く”って、前にアルバートも言っていたもの。…ちょっと失礼ね、』心を固く縛り付けて自制する必要はない。相手は心の向くままに行動する事が出来るのだから、その伸びやかな自分らしさを失って欲しくはないと。いつか彼が可笑しそうに相手の話をした事を思い出して、その言葉を伝える。彼は心で感じたままに動ける、生き生きとした相手の事を少し羨ましく思っていたのかもしれないと思いつつ、彼らしい言い回しに少し首を傾げて笑って。『でも、ベルちゃんの話をしている時、楽しそうだった。』と付け加えて。 )
( __そうだ。何も連絡をしない事が相手に心配を掛けない唯一の方法な訳では無い。様々な事件を確りと解決して日々を充実して過ごして居ると話せば彼はそれだけで安心出来る筈。__“確りと解決して”に自分で言って少しの引っ掛かりを覚えたのだがそれには直ぐに蓋をする。「…私が思ってる以上に此処の事を気にしてくれていたんですね。」此処から送られる報告書を見ていた事は勿論知る由が無い為に、初めて知ったその事実を深く胸に落とす事となり。続けて紡がれたアドバイスの中に、相手と彼との話の中に出た聞く人が聞けば失礼だと感じる一言があったのだが、勿論己はそうは思わない。寧ろすんなりと頷く事が出来るもので、同時に矢張り無性に懐かしさを覚えた。自然と口元には笑みが浮かび、何処か呆れた表情の彼の顔がハッキリと思い出されるものだから、「…エバンズさんがそう言うなら、きっと私の得意な事の一つです。」何だか全く素直な返事では無いが、その声色の柔らかさや微妙に照れ隠しの様な感じは伝わるだろうか。そうして現金な事に、それだけで心が満たされる。己も相手と彼の話をしている今、とても楽しいのだから。「…ワシントンに遊びに行った時、3人でご飯が食べたいです。」今度は素直な迄に要望を口にしつつ、僅かはにかんで )
クレア・ジョーンズ
( 電話の向こうから聞こえる相手の声が少し柔らかくなった事に安堵すると静かに微笑みを浮かべる。『勿論。引きずってでもベーグル屋さんに行って、3人で公園ランチにしましょう。ディナーもね。』と、相手の言葉に大きく頷きつつ悪戯に笑って告げる。ワシントンで、3人で食事が出来たらとても楽しいだろう。『…レイクウッドでも、また3人で食事をしたいわよね。』一方で、エバンズがワシントンにいる今相手の気持ちを考えるとそれを望むべきではないのかもしれないが、そんな言葉が落ちる。『ワシントンから私とアルバートで応援に行けば良いのよね。機会を狙ってみるわ、』と付け加えて。 )
( 相手の口から出た予想外の荒っぽい言葉にギョッとしたのは自然な事だろう。これがエバンズやダンフォードの言葉なら__何て言うのは偏見かもしれないが“引き摺ってでも”なんて聞くとは思わなかったのだ。相手の姿とその言葉のアンバランスさを考え次には思わず堪えきれなかった笑みが溢れ。「エバンズさん細身だけど身長は高いからなぁ、私達2人掛りなら連れて行けますかね?」体重こそ体格の良い男性と比べると軽いかもしれないが、その分彼は高身長だ。悪戯な言葉に乗っかる様に戯言の心配を態とらしく口にし、またクスクスと笑って。果たして“レイクウッドで”彼と会う事は出来るのだろうか。__相手から受け取った沢山の温かい言葉で小さな気持ちの芽が発芽していた。それは素直な迄の“近くに居たい”と言う気持ち。そんな気持ちを見透かした様に付け足された言葉は所謂希望で、「2人が揃って来てくれるならとっても頼もしいです、本当に。…ホテルがとれなかったら私の家に泊まって下さいね。」心底安心出来る事だとしみじみと。続けて観光地でも無いレイクウッドでホテルがとれないなど基本的には有り得ないとわかっていながら悪戯に笑う。3人でお喋りをしながら夜を過ごす、朝が来る事すら惜しいと思える、きっと楽しく素敵な時間だろうと簡単に想像出来てしまうのだ )
( 2人がまた近々再会する事を約束して電話を切ったのが、もう数ヶ月前の事。---きっかけは妹の命日だっただろうか。数年ぶりに“あの日”を当時と同じ場所で迎えるのは、思った以上にきついものがあった。普段通る道や署内でのふとした瞬間に些細な記憶が甦り、その全てが当時を鮮明なまでに思い出させた。あの日を過ぎさえすればと耐えていたものの、命日を過ぎて、世間からあの事件に関する記事や報道が消えても、一度崩れた其れは元に戻らなかった。眠る事ができず浅い眠りに落ちても悪夢に魘される。発作が酷くなり、大学病院で処方される薬では殆ど効果を感じられなくなっていた。身体に強い痛みを感じる事も増え、人目のない所で必死に痛みをやり過ごし、市販の鎮痛剤を流し込んだ。沼に徐々に足を取られ、沈み込みそうになるのを必死に耐えているような感覚と言うべきか。目眩や身体の痛みで捜査に集中できない事もあり、自分でもかなり状態が悪い事は理解していた。しかし誰に助けを求める事もなく、警部補として今求められる仕事を黙々と続けて。---その日も、執務室で報告書に目を通している最中、鳩尾に痛みが走りジャケットの下で痛む部分に手を添え、力を入れて抑えることで痛みが落ち着くのを待った。数分で幾許か痛みは落ち着いたものの、首筋に浮かんだ汗をハンカチで軽く抑えて。 )
警視正
( __此処数週間の間で、相手の顔色の悪さが目に見えて酷いものになっていたのは気が付いていた。“妹の命日”を過ぎて立て直す可能性に賭けていたが流石に限界だと言う判断を降す事になったのが今朝の事。比較的落ち着いてるお昼前、相手が警部補執務室に居るのを確認して扉を叩く。返事の後に部屋に入り一番初めに目に留まったのは矢張り青白いその顔で、僅かに眉を微動させた後『…少し話があるんだが、今良いか?』と、切り出して )
( ノックの後に扉が開き、入って来たのは警視正だった。彼とは以前本部に居た時にも関わっており、レイクウッドのウォルター警視正とも顔馴染み。本部でも同じように警視正として働けるよう取り計らってくれた人物だ。相手の表情を見て、あまり良い話では無さそうだと感じる。少し背筋を正しつつ、此の所の捜査の進みの遅さを指摘される可能性を考えながらも「はい、」と頷く事で相手の言葉を促して。 )
警視正
( 此方の語調の真剣さを感じ取ったのか僅か姿勢を正した相手に『楽にして構わない。』と、一言告げると何からどう切り出すべきかと思案する。難しそうに少しばかり表情を顰めたものの、結果的に回りくどい言い方をした所で何にもならないと思えば相手の碧眼を真っ直ぐに見据えた後『__隣接しているFBI訓練生のアカデミーはわかるな?急ではあるが、君には来週の頭からそこの座学専門の教官職に就いてもらう事が決まった。』提案や要望では無く、あくまでも決定事項なのだと言うニュアンスでそう告げる。ほぼ間違い無く拒否してくるだろうとは思うものの、一先ず相手の返事を待つ間を空けて )
( 警視正の口から紡がれた言葉は到底想像出来るはずもない、大きな衝撃を与えるものだった。「______、」思わず絶句した、と言っても良い間が空き視線が重なったまま時が止まった後、冷静になれと自分自身に言い聞かせ相手の言葉を反芻する。“FBIアカデミーの座学専門の教官職”_____大勢の教官が訓練生を育て一人前にして現場に送り出している事は当然知っているし、その仕事に対して敬意も持っている。しかし、自分が教官の立場に立つというのは一体どういう事か。教官は皆FBIアカデミーに属し、本部や地方の署の“刑事課”からも外れた独立した存在だ。つまり彼らは“教官”として後進の育成に注力するのであって、“刑事”ではないのだ。「………刑事を、辞めろと言う事ですか、?」言葉になった第一声は其れだった。教官になれ、と言われれば聞こえは良いが、刑事として在り続けたいと思う者にとって其れはクビを宣告されるようなものではないか。「経験を買って、警部補として本部に迎えてくださったんじゃないんですか、」思わず責めるような言葉が漏れて。 )
警視正
( 案の定驚愕に見開かれた瞳と視線が交わる。その状態で互いに見詰め合ったまま暫しの時が流れ、程なくして絞り出す様に落とされた第一声は普段冷静な相手からは珍しく困惑がありありと滲むもので。けれど此処で情に流され曖昧な返事をする様な事があってはならない。一切視線を逸らす事無く『そうだ。』と、頷きと共に滔々と言い切り。冷静になれ、と抑えつけているのだろう感情の隙間からどうしたって納得のいかない気持ちが流れるのを感じたのは、次いで紡がれた責める様な色宿る言葉を聞いたから。刑事を辞めろとは断言したが、相手の考えているだろう理由とは異なる。それだけは確り説明しなければならないと言葉を聞き届けた後、『…その通りだ。君だから警部補の役職のまま此処に呼んだ。』先ずは相手の言葉を肯定し。『昔同様、捜査の進め方も報告書の出来も皆に見習って欲しいくらいだ。仕事のやり方に問題があっての話じゃない。__限界だろう?その身体で、この先も刑事として居続けるのが難しいと言う事は君自身が一番良くわかっている筈だ。』この異動は刑事としての相手の仕事振りに失望した訳でも、能力が劣っていると思った訳でも無く、ただ心身の状態を客観的に見ての事なのだと )
( 相手は仕事ぶりに問題があっての事ではないと言った。続いた言葉には思わず一度固く目を閉じる。結局、レイクウッドに異動する事になったあの時と同じではないか。抗えない心身の不調が、自分の望む道を歩けないように足を引っ張る。「______未だやれます。欠勤をして迷惑を掛けるような事はなかった筈です。」と、心身の不調を理由に仕事を請け負えなかったり、スケジュールを長期で変更せざるを得なかったりと言った周囲への影響は無かったと訴える。---しかし“自分が耐える”事で仕事が滞りなく進む、という状況が失われつつあるのは感じていた。薬を飲んでさえいれば概ね日中の仕事に支障はなかったのだが、此の所はその限りではない。痛みや目眩に集中力を遮断されることもあり、限界が近い事を頭の片隅で感じていたのは警視正の言う通りなのだ。それでも。それでも、刑事で無ければ意味がない。 )
警視正
( この決定事項が相手の心をどれだけ絶望に落とすかを察する事が出来ない程、愚かでは無い。自分の意思とは関係無しに襲い来る不調を“今は駄目だ”とコントロールする事が出来ていれば相手は今も昔もこんなに苦しんだりはしない筈だ。余りのやるせなさに固く瞳を閉じた相手と同じタイミングで僅か視線を床へと落とし再び持ち上げる。そうして紡がれた案の定の訴えを退ける様に首を横に振ると『…自分がどんな顔をしてるか知っているか?、署員の中にも君の様子が可笑しい事に気付いてる者が出て来てる。…“隠し通す事”も“耐える事”も、もう限界の筈だ。』決定は覆らないとばかりの厳しい言葉を続け。『君が“刑事”に拘る理由を知らない訳じゃない。だが、今無理をしてどうなる?教官として身体を労りながら、回復した後にまた刑事に戻れば良い。無理が祟ってこの先二度と戻れなくなったら、それこそだろ。』相手はまだ若い。今ならまだ“刑事”としての未来が完全に無くなった訳じゃないのだと、後半はまるで言い聞かせる様な語調に変わっていて )
( 体調が優れなくても仕事中は平静を装い、なんとか隠し通せていると思っていた。しかしその裏で、異変に気付いている署員も居たらしい。初めから何もかもが中途半端だったのだ、捜査も、自分の弱みを隠し通す事も、満足に出来ていなかった。言い聞かせるように紡がれる警視正の言葉に、現時点でその決定が覆る事はないのだろうと思い知らされる。警視正は“今なら再び刑事に戻れる可能性はある”と言ったが、果たしてどれほどの時間が掛かるだろうか。拒否出来ない命令なのだと理解すれば、心に重くのし掛かるのは絶望や深い自己嫌悪に近い感情だった。再び鳩尾に鈍い痛みが走ると細くゆっくりと息を吐き出し、相手へと視線を持ち上げる。「______そんなに、酷い顔をしていますか。」周りから見て自分がどんな顔をしていたかなど、知る由もない。ただ、あの事件が起きた日の少し前から体調がかなり悪化しているのは自分でも当然分かっていた。 )
警視正
君が思ってる以上には、な。
( 互いに譲る事無く長い時間押し問答が続く事も想定しての通告だったのだが、何を言った所で決定が覆る事が無い事を感じ取ったのだろう。ただ一言だけそう言葉にした相手にほんの僅か表情を緩めつつ答える。何時見ても青白い顔をし、時には痛みや苦しみに耐えているのか眉間に皺を寄せ動かない姿、目眩に襲われているのだろう立ったばかりなのに不自然に座り直す姿を目撃した時もあったのだ。『必要な物は全て向こうに揃っているから、私物だけ持って行くと良い。』と、面倒な準備諸々が無い事を説明した後、『…何かあれば、何時でも連絡してくれ。出来る限り力になると約束する。』こんな気休めにすらならない言葉で相手の心が穏やかになるとは思わないものの、空白の時間があるとは言え長く見て来た部下だ、思う所は当然あるようで )
( 警視正からのたったひと言で、一瞬にして自分を取り巻く環境は激変する。この刑事課に、もう自分の居場所はないと言うことだ。「______…分かりました、」上からの正式な命令を拒否する事は出来ない。諦めの乗った声色ながらそう答え、また執務室を片付けなければならないのかとデスクに視線を落として。---刑事として働く時間はあっという間に終わりを迎えた。署員が出勤しない日曜日の内に執務室を後任に引き払い、1人刑事課を後にする。ジョーンズには状況を話し度々の異動で迷惑を掛ける事を詫びたものの、彼女は少し眉を下げつつも微笑んで“また直ぐに戻って来て、身体を大切にね。”と応じた。---FBIアカデミーで教官として働くようになると当然捜査に赴く事はなくなり、此れまでの働き方とは一変した。数十人の訓練生を前に、教室の中で時に椅子に座ったまま捜査について話し、提出されるリポートなどに目を通す。本部の刑事たちと顔を合わせる事もなければ、今ワシントンでどんな事件が起きているかと言った情報も全く入ってこなくなった。同時に無理を押して現場を回る事もなくなったもののそれだけで体調が上向く事もない。感情には蓋をして、求められる仕事をこなすべく授業をするばかりの毎日が続いて。 )
( __“不器用な彼の優しさは忘れてしまうくらい時間が経ってから気が付く”。ジョーンズと電話をした日からその事がずっと頭の片隅にあった。そうしてその言葉が示す所に気が付いたのが数ヶ月前。__相手が何の相談も無しに急に本部への異動を決めた時、その理由がわからず、ただ余りに大き過ぎる悲しみと喪失感に泣いて縋っただけだった。だが、今ならちゃんとわかる。不器用で優しい相手が精一杯守ろうとしてくれた結果なのだと。犯人の動機は“相手と近い者を傷付ける事で、アナンデール事件の時同様再び守れなかったと言う追い体験をさせる事”。そしてその犯人は逃走したまま捕まっていない。再び狙われ危険が訪れる事を危惧し、相手は全てから離れる事を選んだのだ。それがわかった時、自分の気持ちの事ばかりで、相手の心に少しも寄り添えていなかったと自分自身への不甲斐無さでいっぱいになった。__常に抱え続ける沢山の気持ちの中、スマートフォンの画面に映される相手の名前を見詰める。時刻は夜の9時前、この時間ならば相手はまだ眠っていないだろうと思うのだが、簡単な事の筈なのにどう言う訳か指が動かない。画面を見詰めるだけの時間がそれから10分程。ふ、と一つ息を吐き、意を決するかの様な気持ちで漸く相手の名前を押すとそれに続きコール音が鳴り。3コールで出なければ電話を切り、間違えたのだとメッセージを残そうと決めて )
( 仕事を終えホテルの部屋に戻ると、ジャケットだけをソファの背もたれへと掛けワイシャツのまま肘掛けに頭を乗せ横になる。倦怠感がいつも付いて回り、部屋に戻ると夕食も食べず横になって休む事が多くなっていた。不意にスマートフォンが着信を知らせ、画面を見ると表示されていたのは此処1年ほど見ることのなかったミラーの名前。暫しその画面を見つめた後、3回目のコール音がなり終わったタイミングで通話ボタンを押す。「_____随分久しぶりにお前の名前を見た、」1年以上も連絡を取っていなかった相手との電話なのだが、第一声は其れだった。 )
( 聞き慣れている筈の呼び出し音が今日はまるで違う音に聞こえた。実際はそんな事無いのに本来抱かなくて良い筈の緊張のせいだろうか。2コール目の呼び出し音が終わり、3コール目の呼び出し音が鳴る直前に切る準備として終了ボタンに指を近付ける。その音の鳴り終わりを聞き届け__反射的に指が離れ、慌てて携帯を耳に付けたのは此処1年以上聞いていなかった相手の声が聞こえたから。久し振り過ぎる電話だと言うのに第一声は何とも相手らしい言葉で、思わず安堵の息が漏れる。「__私は昨日も見たよ。」何度も何度も相手に電話をかけようとして、その度に沢山の理由を掲げ辞めてきたのだ。「でも、エバンズさんの声は随分久し振りに聞いた。」懐かしい声の筈なのに、頭も、心も、相手の声を確りと覚えている。「……」何を話せば良いのか__言葉がぎこちなく止まり、少しの間の後「…今、電話出来る?」その問い掛けは本来電話を掛ける前の確認の筈なのだが、それに気が付いたのはもう告げた後の事で )
( 耳元で聞こえる相手の声は、久しぶりながら不思議と懐かしさは感じなかった。レイクウッドで働いている、まだその延長線上に居るような感覚。相手の問い掛けに対して「…あぁ。もう部屋に戻ってる、」と答え、外出先ではない為問題ないと伝える。「______変わりなくやってるか?」レイクウッドで相手は変わらず事件に奔走しているのだろうかと尋ねて。 )
__良かった。
( 事前連絡も無しに唐突に掛けた電話だったが、その返事で早急に通話終了にならない事を知る。再び人知れず安堵の息を漏らし身体の力を抜く様にソファの背凭れに体重を預けては、続けられた問い掛けに軽く頷きつつ「うん、何も問題無いよ。署員も皆元気だから心配しないでね。」間髪入れずに変わった事は無いと告げた後、「エバンズさんの方は?やっぱり本部は忙しい?」極当たり前に相手の本部での日常を尋ねる。それは勿論、相手は今刑事では無く教官であると言う事を知らないからこその問い掛けで。軽く足を組み、電話越しの懐かしい声に集中して )
( 随分食い気味な返答だと少し笑ったものの「それなら良い、」と頷いて。相手からの問いに少しの間が空いたのは、なんの疑いもなく此方での仕事について尋ねられ、どう答えるべきか一瞬迷ったから。「_____あぁ、事件は格段に多い。その分刑事も人数がいるから忙殺されるほどでは無いけどな、」と、警部補として勤務していた時の状況を告げる。今はもう刑事ではないなんて、あまりに情け無く相手に言える筈もなかった。天井を見つめながら、この1年で自分を取り巻く環境が大きく変わった事を改めて感じさせられる。声は1年前と変わらないのに、今は飛行機が必要な距離に相手はいるのだから。相手からの問いに答えたきり、何かを尋ねる事もなく暫しの沈黙が流れて。 )
( 此方の問い掛けの後僅かに空いた間。その後の答えは凡そ予測出来たもので、矢張り都会の本部ともなれば起きる事件は勿論の事、地方の署から来る報告書諸々の数も多いのだろうと少し困った様に笑い。「それなら良かったけど、無理はしないでね。」掛ける言葉は1年前から何も変わらない相手の身を案じるもの。__その後また少し流れた沈黙。ふ、と一瞬チラつく不可思議な感覚を覚えた。それは記憶や物理的なものでは無い、もっと、言葉に出来ない言うなれば直感。何故だろう、言葉にされた訳でも表情から読み取った訳でも無いが相手は“何か”を心に閉じ込めている気がしたのだ。「……何かありましたか?」無意識な敬語と努めて穏やかな声色で沈黙を破ると、その答えを待って )
( 相手に問い掛けられ、何故か“隠し通すのも限界だ”と言った警視正の言葉を思い出した。些細な所から異変に気付かれ、結局中途半端に隠し通せなくなるのでは二の舞だ。全てに蓋をして表向きを上手く取り繕っていれば、警部補の立場を失う事にはならなかったかもしれない、と。「______いや、何もない。」相手の問い掛けに対して、一度は隠し通す事を選ぶと「…数ヶ月前に、アンバーが来た。レイクウッドは忙しいらしいな。」と、話を変え相手に訊ねて。 )
( 少しの沈黙を置いて返って来た返事はそれ以上を問えないものだった。“何も無い”が嘘か本当かは現段階で判断出来ないのだから「そっか、」と小さな違和感を宿したまま頷き。話がレイクウッドへと移る事で記憶は数ヶ月前の本部応援の頃まで遡る。「アンバーが自ら志願しての応援だったんだよ。当たり前だけど本部は広いって言ってた。」警視正から本部に応援を派遣すると言う話が出た時、己は挙手しなかったが代わりにアンバーが珍しく“行きたい”と申し出たのだ。__そして帰って来たアンバーは本部での仕事の事や初めて訪れたワシントンの事を嬉々として話したが、他は話す事無く相手との“約束”は確りと守っていた。足先が冷たくなりほんのりと部屋が寒くなっている事に気が付くと一度立ち上がり部屋の隅の電気ヒーターを点ける。小さな機械音が鳴り程なくして部屋は温まるだろう。再びソファに戻ると「…そうなの。こう、何て言うか…新しい警部補が来たんだけど私も含めた皆が上手く馴染めなくてね。仕事が効率良く回らないのが忙しい原因なのかもしれないけど、もう1年になる訳だしそろそろ慣れるとは思う。だから、此方は大丈夫だよ。」その通りだと肯定はしつつも、相手に余計な心配をさせぬ様言葉は選んで )
( レイクウッドに居た頃にはやや控えめな印象を受けたアンバーが自ら望んで本部に来たと知り軽く頷きつつ「本部が特別だと言うつもりはないが、経験を重ねるのは刑事としての成長に繋がる。」と彼女の選択を肯定する言葉を選んで。「気遣い上手だとクレアも喜んでた、」ジョーンズが彼女を褒めていた事を伝えつつ、レイクウッドに新しく赴任したという警部補は誰だったかと思い出そうとするのだが、自分の顔見知りの刑事ではなかったはずだと考える。「…効率よく課が回るよう手配するのも仕事だと思うけどな、」ちくりと皮肉を言いつつ、相手が“此方は大丈夫”と告げるたびに、安堵する気持ちと共に何故かレイクウッドが遥か彼方、手の届かない所にあるような気がしてしまうのは自分が後ろ向きになっているからだろうか。また暫しの沈黙が続いた後「_______ミラー、」と相手の名前を呼ぶ。自分の惨めな状況を相手に話すつもりなどなかったのに、どういうわけか喉まで言葉が出かかっているのだ。 )
__私も、応援の機会があれば志願してみようかな。
( “あの時”は公私混同を含む沢山の複雑な気持ちが邪魔をして出来なかったが、今なら本部に応援に行っても確り仕事が出来る気がした。「そう言えば、数ヶ月前にクレアさんとも電話したの。今度ご飯に行く約束も出来たんだ、」相手の口からジョーンズの名前が出た事で表情が緩まる。彼女と話した相手に関する話は勿論伏せたまま、言葉の端々に楽しさを滲ませ。__再び訪れた少しの沈黙の後。僅か落ちた様に感じる声量で名前を呼ばれると「…どうしたの、エバンズさん。」と、先程問い掛けた時と同じ、柔らかく穏やかな声色で意識的に相手の名前を同じ様に呼ぶ事で先の言葉を紡げる様にと )
( ジョーンズの話が出ると、相手の声色が弾むのが電話越しにも分かった。不自然だったであろう呼び掛けにも、相手の返答は穏やかなものだった。「______刑事課を離れた。今は、……もう刑事じゃない、」たっぷりの時間を要して、漸くそう言葉を紡ぐ。“刑事ではない”という現実は、言葉にする事でより現実味を増して重くのし掛かった。本部での警部補という立場を、たった1年しか務め上げる事が出来ずに降りる結果となった事はあまりにも情けがない。またズキリと痛みが走り、浅く息を吐き出す事で其れをやり過ごす。僅かに身体の向きを変えると「…1年で降ろされたんじゃ、世話は無いよな。」自分自身を嘲笑するかのようにそんな言葉を紡いで。 )
( 促しの後の間は長く、それでもその間相手の言葉を急かす事はせず落ち着いたタイミングで話せる様にと待ったのだが。__漸く振り絞る様に紡がれたのは想像を遥かに超える事。刑事じゃない、とは一体どう言う意味だ。何かがあって休職をしている訳でも、調子が悪くて療養している訳でも無く言葉通り“辞めた”と言う事なのか。余りに衝撃的な事実に息を飲むばかりで言葉は出ず、今度は此方が沈黙を落とす事となり。同時に先程の問い掛けへの答えは、相手がまだ“警部補”として本部に居た時の様子を話したのだと察する。浅く吐き出された息の後、自嘲気味続けられた言葉でそれが相手自身の意思では無かったのだろう事に気が付くと、「___理由を聞いても良い?、」一度深く息を吐き出しソファの上で背筋を正し、恐らく上からの命令で相手が何を言った所で覆る事は無く今の状況なのだろうが、何があったのかは知りたいと、拒否の道も作った上での問い掛けを続けて )
( 体調を崩し上層部からの強制的なストップが掛かった。根本の原因を言えばそうなるのだろうが、理由としては求められる仕事を満足にこなせなくなったからに他ならない。「______求められるだけの成果を上げられなかった。上からの命令だ、」言葉少なにそうとだけ答えると、体調の悪化について触れる事はせず「…今はFBIアカデミーに所属してる。毎日座学の担当だ。」と現在の仕事を告げて。本来であれば銃器の扱い方や実践的な捜査を行う授業などもある訳だが、其れらは担当していないためひたすら座学の講義を行う日々なのだ。 )
( 相手の刑事としての優秀さを約2年間近で見て来た。自分自身の不調を薬で抑え込み全ての捜査に私情を挟む事無く全力で挑み、被害者や遺族に誠心誠意向き合うその姿を見て、憧れ、相手の様な刑事になりたくて此処まで来た。その相手が“求められるだけの成果を上げられなかった”だなんて。何かの食い違いがあったか余っ程の理由があったと考えるのが普通だ。__FBIアカデミーの座学担当になれば捜査に出る事は勿論無い。時間を問わず急な呼び出しがある事も、夜中まで仕事をする事もほぼ無いだろう。つまり、相手には十分身体を労る時間が取れると言う事だ。無言のまま相手の紡ぐ言葉を脳内で繰り返し、何があったかの想像をした結果__全身の血の気が引くのを感じた。襲うのはとてつもない恐怖。それは薬も効果を発揮せず、一時の“長期療養”などではもう無理な程に、相手の身体も心も限界だと言う事ではないのか。「…っ、」だとすれば、相手はどれ程の苦しみを長い間1人耐えて来たのか。そうして相手が最も嫌がる“体調のせい”で刑事を降ろされた今、どれ程の絶望と無力感の中に居るのか。何も知らなかった。勿論知った所で己が上の決定を覆せる訳でも無ければ何か出来た訳でも無い、けれど心が痛いのだ。「……エバンズさんの、望む仕事じゃないよね、」視界が歪んだのは心が震えたから。同時に唇も震え、漸く紡ぐ言葉も震える。相手の身体も、心も、心配で堪らなかった )
( 耳に当てたスマートフォンから聞こえた相手の声は小さく震えていた。自分が刑事である事に拘る、その理由を知っているからこそ此方の状況に心を寄せてくれているのだろうか。自分の代わりに、悲しみ、悔しがり、哀れんでくれているのだろうか。「……望む仕事では無いな、」暫し考えた後に、素直に相手の言葉を肯定する。刑事として現場に立ち、事件を解決する事こそが自分の望む道だというのに、今は其れすら叶わない。「______全てが中途半端だったんだ。もっと遣り様があった。…今更後悔しても、刑事に戻れる訳じゃないけどな、」無理をするなら、もっと完璧にこなして見せなければならなかった。誰にも気付かれないように。無気力にソファに横になったまま天井を見つめ、深く溜め息を吐く。「暫くは今の仕事をこなすしかない。頃合いを見計らってもう一度打診してみる、」冷静に先を見据え“前向き”に受け止めているかのような、物分かりの良い言葉を紡ぐのは、そうとでも言っておかなければ、歩みを止め本当に全てが潰えてしまいそうだから。全てが辛いのだと、子供が喚くように黒くドロドロしたものを吐き出してしまいそうだからだ。そこに本心はない。「お前も、無理はするなよ。」と、表向きだけ取り繕われてやけに”綺麗な“言葉を紡いで。 )
__“遣り様”?
( やけに素直な肯定に感じた僅かな違和感、それを追尾する間も無く淡々と続けられる言葉の中にあった一言、それを聞くや否や唇の震えがピタリと止まった。「遣り様って何ですか…?」もう一度唇の震えが戻るとしたらそれは悲しみからでは無いだろう。「エバンズさんの言う遣り様って、つまり“もっと上手く隠す”事…?」自分でもわかる程に声量は落ちスマートフォンを持つ指先に力が籠る。まるで何処か他人事の様にさえ聞こえる、余りに冷静で明らかに心に蓋をした“前だけを見据えた”言葉も、此方を気遣う言葉も、そんなものは現段階で一言だって聞きたく無い。「__それが本心じゃない事くらい顔を見なくたってわかります。…そんな綺麗な言葉じゃなくて、心にある“本当の言葉”を聞かせて。」揺れる心を抑え告げたのは極めて真剣な色宿る言葉で )
______もっと上手く隠し通せていれば、刑事課を離れる事にはならなかった。
( 相手の言葉に被せるようにして、其の憶測を肯定する言葉を紡ぐ。限界だと気付かれさえしなければ、周囲に異変を察知させなければ、刑事では居られたのだ。「刑事でなければ、何の為に立っているのか分からない。捜査に行かなくなっても、1日中座ったま講義をしても、何も変わらない。苦しいままだ、」仕事が変わっても身体が楽になる訳でもなく、気持ちばかりが落ちて行く。蓋をしていたものが溢れていくのか言葉を紡ぐごとに感情が乗ってしまう。「自分でも、満足に捜査が出来なくなってる事くらい分かっていた。成果も上げられず、それでも刑事でいさせて欲しいなんて、言える訳がない、…っ」誰にも言えずにつかえていた、内側に押し留めていた汚い気持ちが、ボロボロと零れ落ちていく。吐き出す息が震え、スマートフォンを持つ手に力が籠って。 )
( 相手が選ぶ道は、選べる道は、何時だって“隠す事”。自らの心に分厚い氷を張りその上から重たい蓋をする。そうやって懸命に立ち続けても尚、相手の前には高い壁が立ちはだかり、傷だらけになりやっとの思いでその壁を超えたとしても次は無情にも足元が崩れる。相手は何も悪く無い。不調に繋がる何もかもは全て“あの事件の犯人”が招いた事だ。苦しむべきはたった1人しか居ないのに。__何も言える筈が無い。何を言っても相手の心を楽になんて出来ない事が今回ばかりはわかるのだ。ただ、悔しくて涙が止まらない。噛み締めた奥歯が軋み、痛むのも気が付けないくらいに悔しい。電話越しの相手の息が震え、余りに大きく渦巻く感情が溢れ出しているのがわかる。「…私は今、っ…腸が煮えくり返るくらい腹立たしいし、泣き喚きたいくらい悔しい…!、でも…ッ、本当に悔しくて泣きたいのはエバンズさんの方だって、……何で、っ、エバンズさんばっかりがこんなに苦しい思いしなきゃいけないんだろうね
……っ、」ボロボロと堰を切った様に流れる涙に邪魔されながら、僅かに俯く。相手ばかり、相手ばかりが何故こんな思いをしなければならないのか。物分りの良い振りも、諦めも、何もかも相手には必要無い。責めたい人を責め、言いたい事を言えば良いと思った。例えどれ程汚い言葉であってもその全てを聞き届けたいとさえ思うのだ )
( 自分一人では泣く事が出来なかった。どれ程苦しくても、絶望に叩き落とされても、ただ耐える事に必死で心に蓋をして、涙を流すだけの余裕が無いと言うべきか。けれど、相手が側に居る時だけは______相手が涙を流す時だけは、自然と泣く事が出来るのだ。悔しいと涙を流す相手の声を聞きながら、涙が溢れるのを感じた。「忘れている筈だったのに、些細な事で当時の記憶が蘇る…っ、動きたいのに、身体が言う事を聞かない…いつまで経っても一歩も進めない自分に、心底嫌気が差す、」事件を起こし、多くの人を絶望に突き落とした本当に責められるべき存在は一生失われ戻る事はない。その状況から、いつしかやり切れない気持ちの矛先は自分へと向くようになってしまった。葛藤を口にしながらも、紡がれるのは自分自身への嫌悪。雁字搦めになったまま、苦しいのだと訴える。長く身体の調子が優れない事は心身を消耗させ、暗い深みへと徐々に身体ごと引きずり込まれていくような感覚だった。 )
( 吐き出す息が震え、喉の奥で言葉が引っ掛かるのを聞いて涙を流せている事がわかった。その事には安堵するがだからと言って相手の苦しみが綺麗さっぱり無くなった訳では無い。震える唇から紡がれる言葉は全て“自己嫌悪”で、動きたくとも動けない葛藤の中身動きが取れず立ち尽くして居るのがわかるものだから、そうでは無いのだと、一生このまま何て事は絶対に無いのだと、今の相手に例え届かなくとも伝えたかった。「…エバンズさんの望む道は必ず敷かれます。ずっとこのままな筈が無い。ずっとエバンズさんだけが苦しい筈が無い。っ…そんな事、絶対にあっちゃ駄目だから、」スマートフォンを持たない片手を強く握り締め昂る感情を抑え付けながら、言葉を繰り返す。「エバンズさんはちゃんと進めてるよ。そうは思えないだろうけど、私が知ってる。__今はね、エバンズさんの嫌いな“休憩中”なだけ。休憩には必ず終わりが来るから、そしたらその時……、」“その時”。後に続けようとした言葉を思わず飲み込んだのは、相手が本部に異動した理由を知っているから。けれど、これが“心に正直”な気持ちなのだとしたら、「…近くに居たい。___戻って来て、エバンズさん…。」心からの想いが言葉に乗り、漸く小さな音として放たれた。そのまま少しの沈黙が落ちて )
( 相手の素直で真っ直ぐな言葉に、返事をする事は出来なかった。自らの意志でレイクウッドを離れたのに、1人で抱え切れなくなったものを相手に支えて貰う為に______苦しさを少しでも薄れさせる為に、レイクウッドに戻るのはあまりに身勝手だ。自分が戻って、またミラーに危害が及んだらどうする。「…レイクウッドに戻れば、……少しは楽になるんだろうな、」本部と違って刑事として仕事を続けられるかもしれないし、事件の頃に見ていた景色を見る事もない、側で寄り添ってくれる相手がいる。けれど。「______今は、未だ戻れない。」静かに紡いだ言葉は非情なものだと思われるだろうか。自分が楽になれても、またミラーが苦しむような事になれば自分で自分を許せなくなる。「…お前と話せて良かった、」暫しの間を置いて、幾らか気持ちが落ち着くとそう告げてソファから起き上がり。 )
( __そう、苦しみの全てが無くなる訳では無いがレイクウッドに戻れば何かが変わるかもしれない。此処でなら本部程の忙しさも無いのだからと警視正は再び相手を刑事に戻すかもしれないし、相手の主治医であるアダムス医師も居る。相手は嫌がるかもしれないが定期的に病院に通い、薬だけじゃなく別の方法も取り入れながらまた働く事が出来る様になる可能性だって大いにあるのだから。相手もそれをわかっている。わかっていながら、それでも首を縦には振らなかった。けれど。「__…エバンズさんが本部に戻った本当の理由、私知ってるよ。」電話を終わらせようとする言葉尻に被せる様にしてそう告げる。今本当に苦しいのは相手なのだから、他の誰の事を考えるのでは無く、相手自身の心を一番に優先して良い筈なのに相手はそれをしない。理由を言う事も無く水面下で守り抜こうとするのだ。「…私は、何時だって遅いね。守られてる事に気付きもしないで、ただ泣くだけで、何も見えてなかった。…“大丈夫”に何の根拠も無いのにね、」ぽつ、ぽつ、と話すのは相手が隠し通そうとした真実。静かな部屋の中で、時計の針の音と、電気ヒーターの僅かな機械音だけが響いて )
( 相手の口から思い掛けない言葉が紡がれると、思わず沈黙が生まれる。異動を決めたきっかけについて相手には話していないのだ。「……本部異動は自分の為だ、」と、此れ迄も説明してきた理由を重ねるも、相手がまるで全てを知っているかのように言葉を続けるものだから、後に続く言葉が無くなる。アンバーもジョーンズも、相手には言わないと言っていた筈だが、何処から其れが相手に伝わったのか。何にせよ”隠し通す“事が下手になっているのは間違いない。「______俺が嫌だったんだ。お前を守ろうとか、崇高な事を考えた訳じゃない。」暗にあの一件がきっかけになった事は認めつつも、あくまで自分の為に動いたのだという主張は崩さずに告げる。「…だから、未だワシントンを離れるつもりはない。」今はこの場所で、例えそれが望まないものであったとしても目の前の仕事だけをこなさなければならないと。 )
( 例え相手が“自分の為”に決めた異動であったとしても、結果的に守られた事は事実だ。相手がそれを頑なに認めなくとも。犯人も捕まっていない今、“私は大丈夫”だと言う以外の言葉が見付からない中で相手の心を変える事はきっと出来ない。「__私は、私の見えない所でエバンズさんが苦しんでるのが嫌だ…、」余りに小さく落ちた言葉は再び震える。「私の見えない所で泣いてるのも嫌だし、私の見えない所で耐えてるのも嫌だ。でも…っ、1人で全部背負って“隠される”のはもっと嫌…。“隠す”なら、私の目の前で隠して…!」嫌だ、嫌だ、と何もを否定するまるで我儘な子供の様に相手がたった1人で頑なに貫く気持ちや負の感情を隠す事を嫌がり。__以前は気持ちを隠される事の全てが嫌だった。けれど相手の中に染み付いたその“癖”はそう簡単に変えられるものでは無い事を知った。ましてや不器用で優しい相手なのだから、人に弱みを見せる事を良しとしない相手なのだから、尚更。それならば、せめて己の前で、と思うのだ。相手が隠し通そうとする“本当の気持ち”を全て掬い上げて吐き出して欲しいと、一緒に寄り添い、一緒に解決策を考えたいと、そう思うのだ )
( 相手の目の前で隠したのでは、其れは隠した事にはならないと少し笑う。「それじゃあ隠せていないのと同じだろう、」と言いつつも、自分が必死になって蓋をしようとしている様々な感情を素直に受け止めてくれる存在というのはとても大切なものに思えた。「_______次に会う事があったら…その時は話を聞いてくれ、」今はこんなにも離れているが、もしまたレイクウッドか、或いはワシントンで会うことがあったら、その時は自分が胸の内に溜めた様々な感情を聞いて欲しいと、そう告げて。 )
( 相手の言う通りそれでは隠した事にはならない。けれど「…それで良いの。」と静かに微笑む。相手からすれば全く以て納得も理解も出来ない言葉だろう。“隠し通せなかったから”刑事じゃなくなったと言うのに。勿論悔しさや悲しさは少しも薄れる事無く胸中に吹き荒れる。でももし、相手が確りと不調を隠して今も尚刑事で居たとしたら__きっとそう遠くない未来に身体も心も壊れ刑事はおろか、二度と立ち上がる事が出来ない所まで堕ちていただろう。隠した心は、見なかった振りをした気持ちは、何時か絶対に何らかの形で別の負を連れて来る。わかっては居るのだ。__“次に会う事があったら”と相手から言葉にされた事で一度瞬く。それは今の電話を切る締め括りの言葉で、相手からすれば“次に”は“何時か機会があったら”と言うニュアンスだったのかもしれない。それでも。今の相手を残し電話を切り、“次”をただ黙って待つなど出来る筈が無い。途端に心にあった“何か”が一瞬にして消失し、何かを考えるより早く手はノートパソコンの電源を点けていた。そして調べるのは一番早いワシントン空港行きの便と明後日の内に戻って来れる帰りの便。「__全部聞く。エバンズさんが話したい事、どんな気持ちも全部聞くから…“待ってて”。」全身の血が沸き立つ様な感覚を覚える中、最後に告げた言葉の本当の意味を、相手はきっとわからないだろうがそれで良いのだ )
( “次に会う事があったら”というのは、謂わば社交辞令のつもりだった。自分は未だワシントンを離れる事はせず刑事課にも戻らない。相手は相手でレイクウッドで忙しくしており、本部に応援に来たとしても顔を合わせるだけの時間があるか定かではないし、前回レイクウッドから刑事が派遣された事を思うと次の機会はそもそも暫く先だろう。また会う事があったら、その時には落ち着いて自分の気持ちを整理し、感情を打ち明ける事が出来るだろうか。先の事と割り切っているからこそ「……あぁ、待ってる。」と、素直な言葉を紡いで電話を切り。---次の日も講義の為に部屋を出る前、テーブルの上に置かれた処方薬の袋と市販の鎮痛剤の箱の中からそれぞれ錠剤を取り出し、水で流し込んだ。処方薬は効果を感じず飲まない事もあったが、気休めの為にも朝は飲むようにしている。モチベーションも何も無いに等しいのだが、此れから捜査員になる訓練生たちに対して私情を挟んだ適当な講義をする訳にもいかない。深く息を吐くとホテルの部屋を出て講義のためにアカデミーへと向かい、夕方までの複数回の座学を淡々とこなして行くだろう。 )
( __相手との電話を切ったその瞬間、瞳にはある意味闘志の様なものが宿った。まるで難解な事件を捜査する時の様な至極真剣な表情でパソコンの画面を見詰め、時間の計算をする。タイミングの良い事に明日明後日と連休で最低でも明後日の内にレイクウッドに戻って来る事が出来れば良いのだ。祈る様な気持ちで画面を上から下まで見、奇跡的に求める時間ピッタリの空きを見付けた時にはその場で飛び上がりたい程の嬉しさを覚えた。勿論小さなガッツポーズで抑えたが。往復の航空券をとってしまえばもう此方のもの。次にやる事は相手の住んでる所を特定する事で、それはジョーンズに電話をして理由を話せば彼女は何処か嬉しそうな声色で快く教えてくれた。レイクウッドの時の様にてっきり何処かを借りて住んでいると思っていたが、1年経った今もホテルに住んでいるらしく、再びパソコンの画面に向き合い同じホテルの部屋の空きを確認すれば、相手の泊まる部屋と同じ階に残り2部屋だけの空きがあり、迷い無くそこを予約する。これでワシントンに飛ぶ準備は全て整ったと言えよう。__翌日、本当に必要な最低限の物だけを鞄にワシントンに降り立ったのは午後5時を過ぎた頃。空港からワシントン市内へタクシーに乗り、本部の近くにあるホテルに到着したのは午後6時30分前。チェックインを済ませ何も待てないとばかりに相手の部屋の前に立つと、この時間、アカデミーの教官ならば既に戻って来ているだろうと考え一度深く息を吐き出した後、扉を2度ノックして )
( その日も講義を終え18時にはホテルに戻る。帰宅時間は刑事として働いていた頃よりもかなり早くなったが、だからと言って夜の時間を有効に使えている訳でも、休んだからといって調子が上向くこともない。ジャケットをソファの背凭れに掛け、ソファに身体を横たえる。身体が重たく、横になりたいと思う事が増えたのは間違いない。数十分後、不意にドアがノックされ目を開ける。清掃は数日間隔で日中に頼んでいるがこの時間に来る事は無いはずだし、ルームサービスも当然頼まない。自分が長く部屋を借りているのは従業員も知っている為、用があれば受付で声を掛けられる筈なのだが。身体を起こすと、そのまま入り口へと向かいドアを開けて________其処に立っていた相手と視線が重なり、思わず息を飲んだ。何故相手が此処に居るのか、少し大人びたようにも見える相手の緑色の瞳が此方を見上げている。昨日声を聞いたのが1年以上ぶりの事。確かに“待っている”とは言ったが、飛行機に乗らなければならないこの場所までレイクウッドからやって来たというのか。「_______どうして、…」紡いだ言葉は驚愕のあまりそれ以上は続かなかった。 )
( ノックをしてから数秒後。中から僅かな物音が聞こえ続いてまるで隔てていた壁の様にさえ感じられるドアが開いた。__己が此処に居る状況を飲み込めていないのだろう、驚愕をありありと宿した碧眼と緑眼が静かに重なり、やがて漸くと言った言葉が相手の唇の隙間を縫った。1年以上見ていなかった相手は最後に別れた時よりも痩せている様に感じられ、目下の隈も顔色の悪さも比べ物にならない程酷い。一目見ただけで不調がわかる程だ。“どうして”への返事など決まっているではないか。「…話を聞きに来ました。」昨晩電話越しに相手が言った事、その約束通りに来たのだと。相手を見上げたまま、視界が歪んだ。一度感情を落ち着かせる為に浅く息を吐き、それから浮かべたのは正しく泣き笑いの柔らかな笑顔で )
( “話を聞きにきた”と相手は言うが、その為だけに飛行機に乗って、遠く離れたワシントンまで来たと言うのか。相手の浮かべる表情に胸が苦しくなるのは何故だろうか。「……入れ、」と、部屋の中へと促すと扉を閉める。温かいものを飲もうと思って沸かしておいた湯をマグカップに入れインスタントのコーヒーを溶かすと相手へと差し出す。まだ状況に頭が追い付いていなかったものの、もうひとつのマグカップを出して同じくコーヒーを入れソファへと腰を下ろすと、コーヒーをひと口口に含んでから相手に視線を向ける。「……本当に、話を聞く為だけに此処まで来たのか?」そう尋ねつつ、背凭れへと背中を預け息を吐き出す。「_____お前の行動力を見くびっていた、」と、今一度まっすぐに相手を瞳に映して。 )
( 会いたいと、所望し続けた相手が今は目の前に居る。涙で潤んだ瞳には相手のその碧眼がやけにキラキラと輝いて見えた。__促されるまま部屋に入り差し出されたマグカップを受け取る。湯気のたつコーヒーを一口飲めば途端に胃は優しい温かさの中に沈み、内側から静かに身体を温めてくれる様だった。相手がソファに座った事で、少しの間を空けて己も隣へと控え目に腰掛けると、此処まで来た理由の確認に間髪入れず頷き。「そうだよ。…“待ってて”って言ったでしょ。」己の発したその言葉と、受け取った相手の認識は間違い無く時間のズレがあっただろうがお構い無しだ。柔らかくはにかんだ笑顔のままに「エバンズさんも知っての通り、頭より先に身体が動いたの。」何時かの日、ジョーンズと電話をした時に言われた言葉を思い出し表情を少しだけ悪戯なものに変えて。__手を伸ばせば届く距離に相手は居る。「……どうしても、会いたかった。」と、心が求めたままの素直な言葉は、ほんの少しだけ震えて )
( 漠然と、相手と再会するのはもっとずっと後の事だと思っていた。それなのに今相手は自分の目の前にいて、1人で淡々と暮らしていた部屋には懐かしい穏やかな空気が流れているのだ。相手の言葉に軽く頷き「考えなしに行動するのは、お前の得意技だったな。」と、皮肉めいた返答を。こうした何気ないやり取りさえ、随分久しぶりで懐かしさと心地良さを感じる気がした。僅かに震える言葉を聴きながら「______そうか、」とだけ静かに答えて手元のマグカップを見つめる。相手が手を伸ばせば届く距離にいるのが不思議な感覚だった。「…夕食は食べたのか?ルームサービスで良ければ頼め、外に出れば店は色々ある。」長旅で疲労もあるだろうと思えば、夕食が未だなら好きに頼んで構わないと告げて。 )
( 返って来た皮肉は此処1年聞かなかったもの。皮肉を聞かされて嬉しい、だなんて他者が聞けば怪訝な表情を浮かべる事間違い無しでどうかしていると思うかもしれないが、とんでも無い程の喜びと懐かしさが胸中を渦巻いているのは紛れもない事実。「久し振りに褒められた。」相手からすればそれは100%褒め言葉では無かっただろうに、都合の良い解釈で満足そうな笑みを浮かべ。相手の言葉でそう言えば夕飯を食べていなかった事を思い出す。ギリギリの飛行機に乗り、部屋に戻る事もせずに真っ先に此処に来たのだから。「…まだ。折角だから__」お言葉に甘えてルームサービスのメニューを見てみようとマグカップを目前のテーブルに置き__そこに処方箋の袋と鎮痛剤の箱を見付けた。1年前から確かに相手が飲み続けている物で、きっと此処数ヶ月は確りと効果を発揮しなかった物。胸が痛み、メニューに伸びた手が止まる。僅かの沈黙を置いて身体の位置を戻すと隣に座る相手を見詰め。「__ご飯は後にする。…今は、こうしていたい、」徐に伸ばした手は相手の目元に。濃く色を付ける隈を一度親指の腹で撫でた後、静かに腕を下ろすのと同時に相手の肩付近に凭れる様にして額を軽くくっ付けて )
( 相手の視線がテーブルに向き、動きが止まった事に気付き追うようにテーブルへと視線を向ける。相手が訪ねて来るなどとは微塵も思っていなかった為、朝部屋を出た時のまま処方薬と鎮痛剤をテーブルに置いたままだった事に遅れて気付いたものの、今更慌てて隠すような事でもないだろう。目元を撫でる感覚に僅かに目を細めたものの、優しいその感触は少し気持ちを落ち着かせた。相手が側に居てくれれば、少しは穏やかに眠る事が出来るかもしれないという淡い期待が顔を覗かせると、肩口に額を寄せる相手に「______今夜、此処に居てくれないか、」と、思わず小さく尋ねていた。相手に迷惑を掛けるとか、弱い姿を見られたくないとか、其れを二の次に考えてしまう程に“穏やかな眠り”を欲していた。ワシントンに来てからというもの、無限に続くのではないかと錯覚する程に長い夜を1人で耐え続けてきたのだ。 )
( 処方箋の袋の中は安定剤だろう。これはレイクウッドに居た時から飲むのを何度も見ていた。けれど市販の鎮痛剤は身体の何処かが痛む為に飲んでいるもの__。肩口に額をあて仄かに香る柔軟剤の匂いを感じるものの、此処はホテルだから当然か。記憶にある香りとは違った。そんな中、まるで溢れ落ちる様にして紡がれたのは相手からは珍しい望みの言葉。静かに額を離し持ち上げた顔には笑みが浮かんでおり。「…勿論。帰れって言われても居座るつもりだった。」相手から言われなくともそのつもりだったのだと、相変わらずの強引さでそう告げてから「飛行機は明日の夕方の便だから、朝までずっと此処に居る。」と、今一度ハッキリとした言葉で返事をし。__「…身体、痛い?」唐突な問い掛けは鎮痛剤の箱を見たから。相手を真っ直ぐに見詰める緑の瞳には心配と真剣な色が揺蕩っていて )
( 相手が夜側に居てくれると思うだけで、幾らか不安が和らぐのを感じた。不意に投げ掛けられた問いには少し返答に迷ったものの「______偶にな、」と答えるに留めて。実際に身体の痛みは慢性的に起きるようになっていて、その痛みをやり過ごすのにかなり時間が掛かる事もあった。痛みが強ければ強いほど、息が浅くなり身体も強張るため鎮痛剤を手放す事はできなくなっていたのだが、アダムス医師と話をして以降その事は誰にも打ち明けては居ない。それ以上詳細を語る事はせず、テーブルの上に置かれたメニューを手に取り相手に渡すと、夕食を頼むように促す。薬を見つけて躊躇はしたのだろうが、相手も空腹だろう。「好きな物を頼め、今日は奢ってやる。」と告げて。 )
( “偶に”と相手は言ったがその前に空いたほんの僅かの間と、その後詳細を語る事をしなかった事で恐らく“頻繁に”である事を察するも、相手がそれ以上を語らないのならば今は深く追求する事はしないと小さく頷くに留め。一度は手に取る筈だったルームサービスのメニュー表が相手の手から渡された。それを受け取り「…エバンズさんに奢って貰うの久し振り。ご馳走になります。」と此処に来てから何度も実感する懐かしさを再び胸に素直に奢ってもらう事を決めるとソファの背凭れに凭れつつページを捲り。朝食と昼食の箇所は飛ばし“夕食”と書かれた中には肉系は勿論、サラダやスープなど比較的軽く食べれる物やスナック類もある。お腹は確かに減っているもののガッツリ食べたい気分でも無ければ、ロールパン2つが付属としてついてるマッシュルームのポタージュと、お決まりと言えよう彩りの良いサラダを選びフロントに注文をする。その際“スプーンとフォークを2人分”との言葉は忘れない。ややしてドアがノックされ頼まれた物が運び込まれて来ると、スプーンとフォークを相手に差し出す様に目前へ。「…一緒に食べよ。」そう言って微笑む。全てを2人分頼まなかったのは、恐らく相手は食欲が余り無いのだろうと察したからで )
( 此の所は夕食も取らずソファで横になったまま眠ってしまう事も度々あった為、きちんとした食事を部屋で取るのは少し久しぶりの事のように思えた。差し出されたスプーンとフォークを受け取ると、湯気の立つスープを器に掬う。スプーンで口に運んだ其れは暖かく胃に落ち、優しい味わいが口に広がりほっと息をつく。調子が悪く食欲がない日が続いていたものの、スープであれば無理なく食べられそうだと思えば「______身体が温まる、」と告げて相手の方へと器を押しやって。スープをゆっくりと口に運びつつドレッシングの掛かった鮮やかなサラダに視線を向けると、相手は自分と食事をする時いつもこうしたサラダを頼んでいる気がして「…相変わらず、カラフルな野菜が好きなんだな。」と、何処となく呆れたような不思議そうな声色で言葉を落として。 )
( 要らない、と拒否されなかった事に安堵した。例え僅かでも食べ物を摂取出来ればそれだけで栄養は身体を回り、気休めであったとしても微力な原動力となる筈だから。押しやられた器からスープを掬い一口飲めばマッシュルームの良い香りが鼻腔を擽り、濃厚な、それでいて優しい味が身体を包み込む様に胃に落ちた。「__本当、温まるね。」と、相手の言葉を肯定してからもう一口。こうして相手と食事を共にするのは1年振りの事で、懐かしい反面不思議な切なさもあるのだ。「…エバンズさんが次レイクウッドに来た時は、ポトフを作る。味、まだ覚えてる?」器を見ながら告げた一言、それは暗に再びレイクウッドで相手との再会を心待ちにしているというもので。ロールパンの1つを相手のお皿に勝手に置くと、続いて細く切られた赤いパプリカにフォークを突き刺し。持ち上げた顔に浮かべるのは少しの悪戯な笑み。「今回はワザと。」相手の反応を見て“してやったり”は些か子供じみていただろうか。それからやけに幸せに感じる時間の中で食事を続けて )
( 相手が作ったポトフの味を忘れる筈は無かった。甘いホットミルクの味も。その2つは、自分が絶望に落ち込んでいる時やどうしようもなく苦しさを感じた時に心身を温め、光の方へと持ち上げてくれたものなのだ。「_____あぁ、楽しみにしてる、」と相手と視線は重ねないながら素直な言葉を紡ぐと、スープを口に運んで。“わざと”と言うことは、自分に指摘される事を分かっていてサラダを選んだと言うことか。相手の思考はよく分からないと呆れたように首を傾げつつも、穏やかな夕食の時を楽しんで。---ズキリ、とまた鳩尾が痛んだのは食後の紅茶を入れようとポットの方へと向かった時だった。ワイシャツの上から鳩尾を軽く抑え浅く息を吐き出す。相手に心配を掛けないようにとは思うのだが、この強い痛みは何事もなかったかのようにやり過ごすのがいつも難しい。軽く唇を噛むとポットの置かれた棚に片手を着いて、ゆっくりと息を吐き。 )
( __量こそは決して多くは無かったが、恐らく普段余り食事をしていないだろう相手が少しでも何かを胃に入れる事が出来たのは喜ばしい事。空いた皿をテーブルの端に寄せ食後の紅茶スペースを確保した丁度その時、棚に手を着く音と不自然に止まった動きを敏感に感じ取り頭を其方に向け。果たしてそこにはやや背を折る形で鳩尾に手を当てたまま動かない相手の姿が。発作が起きてる時や、目眩に襲われてる時とは違う雰囲気に脳裏を過ぎったのは鎮痛剤の箱で。「…エバンズさん、」後ろから静かに声を掛け相手の隣へ。「紅茶は後にしよう。…大丈夫だから。」ゆっくりとした呼吸を意識的に繰り返す様子と押さえている箇所を見て痛む場所がわかると、相手の背中を一度だけ軽く撫でた後、その手を添えソファに座る様にと促して。背凭れに背中を預け、身体を倒す様な形で座った相手の隣に腰掛け「…失礼します、」と前置きの謝罪を一言。ワイシャツの下のボタン2つを外し中に手を滑り込ませる形で直接素肌の上から鳩尾に掌を当てると、「__“手当て”。」と、文字通りの言葉でその行動の意味を説明した後。何も心配無い、直ぐに楽になる、と言いたげに微笑みながら「…人の温もりはきっと痛みを和らげる。」その手を動かす訳でも無く、ただ己の持つ熱を痛む部分に浸透させるかの如く宛てがい続けて )
( 痛みに耐えようとすると必然的に呼吸は浅くなる。痛みを逃すように意識的にゆっくりと細く息を吐き出すのだが、不意に相手に呼び掛けられると、促されるままにソファへと腰を下ろして。ボタンの隙間から手が差し込まれ素肌に触れると僅かに身体が震えたものの、その温かさにやがて強張った身体からほんの少し力が抜ける。しかし鳩尾から背中に掛けて広がるような痛みに息を詰まらせると「______痛い、…」と言葉が漏れる。此の痛みが引き金となって発作が起こる事もある為なんとか落ち着かせたいのだが、直ぐには治らない。「水を一杯くれ、」と相手に告げると、テーブルの上に置かれた処方薬と鎮痛剤の箱を開けて中の錠剤を取り出して。 )
( 普段気丈に振る舞う相手が痛みや苦しみを言葉にするのは余っ程の時。身体が強張り鳩尾から広がる痛みに耐える事は出来ないのだろう、薬を飲む為の水を所望されれば頷きつつワイシャツの中から手を引き立ち上がり。薬を飲んだとて今直ぐにその効果が発揮され楽になる訳では無い、その間の相手の苦しみを思うとどうしたって胸は痛むのだ。伏せられているグラスに水を半分程入れて相手の元に戻るとそれを差し出し再び隣に腰掛けて。「……」錠剤を飲み込んだのを確認してから「…病院行った?」と、問い掛けるのだが凡その答えはわかる。__こんな時、相手の主治医であるアダムス医師が近くに居てくれたら。相手の事を確りと知る彼ならば適切な処置が出来て、きっともっと相手は楽で居られる時間が増える筈なのに。相手を取り巻く環境が優しいものであればと、相手が偽る事の無い気持ちのままで居られる場所であるならばと、願わずにはいられないのに )
( 処方薬と鎮痛剤、それぞれを水で流し込むとソファに身体を預けるようにして楽な姿勢を探す。「_____薬が無くなると困るから病院には行ってる、…いつも飲んでいる薬と同じものを処方されるだけだけどな、」診て貰っているとは言っても、ワシントンの医者は積極的に診察をしようとはしない。初めて罹った時に、以前処方されていた薬として伝えて以降同じものを処方されるばかりの事務的な対応。痛みについては、以前アダムス医師が来た時に話したきり、ワシントンの医者に相談する事はしていなかった。痛みが引くのを待ちつつ、結局横になるのが楽で肘掛けへと頭を乗せて。 )
( 結局診察をしてもらった所で、相手の事を良く知らぬ医者では何時かの日の様に日中の業務や生活にも支障をきたす様な強い安定剤や鎮痛剤を処方する可能性がある。本来は今の状態を確りと検査し適切な薬を飲み、新たに症状として出現した痛みも調べて欲しい所なのだが、相手の事だ、きっと心を許した医師にしか相談はしないだろう。__レイクウッドにさえ居れば。結局は全てそこに繋がる思考を“たられば”を言った所で無理なのだとストップさせ、横になった相手の先程勝手に外したワイシャツのボタン2つを付けてから、「…久々に顔を合わせた部下からのお願い。痛みの原因だけはちゃんと調べて貰って。」と、病院嫌いの相手には難しいとは思いつつもそう告げ、今度はワイシャツの上から相手の鳩尾付近を左右に往復させる様に軽く撫でて。「…少ししたら起こすから、眠って構わないよ。」そう声を掛けたのは、幾ら刑事であった時よりやる事が減ったとは言え仕事をして帰って来てる相手が疲れて無い筈がないと思ったから。加えて痛みに耐えるのは疲労を伴う。邪魔にならぬ様、反対側のソファへと座り直して )
( 病院に行っても結局はストレスだとか精神的なものだと言われるのだろうとたかを括っている。アダムス医師には以前、脈拍に乱れがないかを確認するようにと言われたのだが、手首に指先を押し当てた所で明瞭に脈動を感じる訳でもなく直ぐに辞めてしまった。相手がソファを離れるとそのまま目を閉じるのだが、なかなか寝付けずに苦しげな息が漏れる。身体は辛いのだが、眠る事を拒んでいるような感覚。睡眠薬を飲まなければ寝付く事が出来なそうだと思えば暫くして目を開け「…睡眠薬の瓶を取ってくれないか、」と相手に頼んで。普段の処方薬に加えて鎮痛剤と睡眠薬、どう考えても薬に頼り過ぎているのだが今はそれ以外に苦痛を取り除く為の最善策が思い当たらない。 )
( 眠る為に目を閉じた相手だったが然程時間を置かずして目を開け、睡眠薬を所望した。テーブルの端に置かれている薬瓶の中にあるのが目的のそれだとわかるものの、相手は数分前に処方薬と鎮痛剤を服用したばかりでその上睡眠薬まで__は流石に短時間の内に薬を体内に入れ過ぎる事になる。相手自身も飲み過ぎだと言う事はわかっているだろう、“駄目だ”と突っぱねる事は簡単だが、今苦しむ相手に掛ける言葉としては余りに酷に感じられ一瞬の間が空き。目を開けてる相手と視線を重ねた数秒後、「…今は睡眠薬じゃなくて、此方を選んで。」徐にソファから立ち上がると横になる相手の傍らに膝を着く形で腰を折り、そう声を掛ける。それから幾らか伸びた様に感じられる前髪が邪魔にならぬよう軽く払ってから、両手で相手の片手を柔らかく包み込み、甲を静かに撫でて。“これ”が薬の代わりになり同じ眠りを齎すなんて烏滸がましい事を言うつもりは無いが、それでも人の温もりの力を信じたかった。大丈夫だと、そう言葉にはせずただ手の甲を撫でる親指をゆっくりと動かしながら、先程飲んだ鎮痛剤が効き、相手の身体を襲う痛みがとれる事を願って )
( 薬に頼り過ぎている事は感じていた。身体の不調が重なる度に、その場しのぎに薬を摂取する事で“今”の苦痛を和らげる。其れが後々に何かしらの良くない影響を与える事も分かっていながら、楽になりたいと願ってしまうのだ。相手が手の甲を撫でると、包み込まれたそのぬくもりに一度視線を向けた後、何を言い返す事もせず少ししてゆっくりと目を閉じる。全く寝付けずにいたはずが、少しばかり心がほぐれるのか僅かな眠気をきっかけに時間を掛けて、やがて浅い眠りに落ちていて。---微睡みの中で薄らと夢を見た。現実と区別の付かなくなるような恐ろしいものではなかったものの、遠くで色々な声が聞こえる。現場で聞いた刑事たちの怒声や打ちひしがれる遺族の声、飛び交う記者たちの声、妹の声。全て記憶によって作り出されているもので、このまま眠りが深くなれば鮮明な記憶と共に映像を伴った夢が生まれるのだろう。其処に沈む事を拒むように僅かに眉間に皺が寄り、小さく息を吐き出したものの目は開かない。誰の物とも分からない“人殺し!”という叫びがやけに鮮明に聞こえたのと同時に強い痛みに襲われ息が詰まる。「______っ、゛…ッ、!」声にならないくぐもった叫びと共に意識が浮上するのだが、あまりに痛みが強く上手く息が吸えない。ソファから身体を起こそうと反射的に身体を動かし、バランスを崩すと床へと崩れる。床に手をつき鳩尾辺りを握り締めたまま呼吸は徐々に上擦り、少し骨張った背中は浅く上下を始める。今まで幾度となく襲われた痛みと苦しさ。「……ッミラ、…!」思わず相手の名前を呼んだものの、この苦痛がすぐにやまない事は理解している。首筋には汗が浮かび、身体を支えている腕は小刻みに震えながら、懸命に浅くなる呼吸を繰り返して。 )
( 瞳が重なり一度柔らかく微笑めば、後は眠りに堕ちる相手の様子を静かに見守るだけ。1時間後くらいに起こせば鎮痛剤が効果を発揮している頃かと眠りを邪魔せぬ様にゆっくりと包み込んでいた手を離すのだが。__「…ッ!」相手の瞳が閉じられてから然程の時間経たず、静かだった部屋に喉の奥に引っ掛かる様な張り付く重い呼吸音が響いた。同時に眠っていた筈の相手が身動ぎをし、続いて起き上がろうとしたのだろう、その身体はバランスを崩しソファから床へと落ちる。反射的に出た腕は相手の身体を支えるには至らず、背中を丸め懸命に呼吸を繰り返す相手から呼ばれた名前で、ハッとした様に再び中途半端に伸びた手を相手を抱き竦める形で背中に回し。「、此処に居る…!大丈夫っ、」無意識の内に呼んだ名前かもしれない。それでもそれが確かに己の名前なれば決して離れる事は無いと伝えたいのだ。鳩尾辺りを握り締める相手の手を上から握り、懸命に背中を擦りながら「痛いね…っ、もう直ぐ薬が効く。あと少し、ほんの少しで楽になれるから、」と、耳元で声が届く様にと伝え続けて )
( 強い痛みは呼吸を阻害する。ワシントンに来てからというもの、自分でも気付かない程に少しずつ心身を蝕まれいつしか強い痛みに襲われるようになっていた。刑事を辞める事になった直接的な原因とも言えよう。痛みが発作を引き起こす、或いは発作が痛みを引き起こす事もあった。今はただ、息を吸うのも辛いほどの強い痛みが身体の中心にあって、一気に背中に汗をかくのを感じた。此れが肉体的な痛みなのか、精神的に痛みを感じているだけなのかも判断できないのだ。「_____っ、は…ぁ、゛……」必然的に浅くなる呼吸の所為で頭が回らなくなると、現在と過去の記憶が入り乱れ混乱する。明らかにレイクウッドに居た頃よりも状態はかなり悪い。相手の呼び掛けに答える事のないまま、呼吸は乱れ徐々に身体には痙攣が生じ始めていて。 )
( 相手の様子から此方の声が全く届いていない事がわかった。首筋の汗はあっという間に背中にまで広がりワイシャツを湿らせ、喘ぐ様な呼吸は肺に空気が届いていないのが一目でわかる程に殆ど意味を成して無い。やがて腕の震えが身体全体の震えに変わりおさまる事の無い痙攣を引き起こせば、その明らかに不味い状況に心臓が嫌な音を立てる。__レイクウッドに居た頃よりも遥かに状態が悪いではないか。__鳩尾付近を握る相手の手から己の手を離し、両腕で相手の身体を押さえつける様にして抱き竦めるのだが腕の中でも痙攣は止まる事無く、ふつふつと湧き上がる恐怖はやがて“死”へ直結する。「…もう、いいよ…ッ…!」思わず感情が溢れ出すままに溢した言葉は震えた。「もういい…っ!戻ろう…エバンズさん…。」そうして一度音となった言葉は止まらない。「私が全部何とかするっ、二度とエバンズさんの目の前で誰にも傷付けられないし、エバンズさんの痛みももう一度一緒に持つ…!レイクウッドに戻ればアダムス医師も助けてくれるから…っ、」いち部下に出来る事など限られ、FBIである以上傷付かない事は難しく、何も約束など出来るものでは無いが、それでも今はそんな事を考えている場合では無かった。痙攣を繰り返し、まともに呼吸すら出来なくなっている相手がただこの場に崩れ落ちてしまわない様に、絶望に染まってしまわない様に。「…じゃないと…っ……死んじゃう…!」このまま此処に居続けては__。考えたくも無い余りに恐ろしい未来が先程から顔を覗かせ続ける気がして視界が滲み、相手を抱き竦める腕に力が籠る。1年近く相手が苦しむ姿を見ていなかったせいか、記憶にある以上に状態が悪い事がわかってしまったからか、ただ、怖くて怖くて堪らないのだ )
( 相手に抑え付けられるようにして抱き竦められながらも、身体は自分の意思に反して痙攣を続けていた。それがようやく治ったのは数分後の事。ゆっくりと身体の震えが落ち着くのと同時に、耐え難い痛みもまた静かに波が引くように落ち着いて行き、力が入り強張っていた身体がようやく緩むと相手に体重を預けて。弱みを見せる事が出来ていた存在の居なくなったワシントンで、1年以上たった1人で苦しさを押し留めて来た。医者に助けを求めるでもなく、声を上げる事もせずただ懸命に痛みを堪えて。そのまま1人で居れば、その大き過ぎる負担に目を瞑り“気付かずに”後戻りの出来ない所まで堕ちていたかもしれないが、相手が来た事で再び痛みに気付いてしまったのだ。相手が”死“を連想する程に酷い状態なのだと、ぼんやりとした意識の中で感じて。現に刑事を辞める事を余儀なくされるほどに壊れ掛けていたと言うのに、”耐える“以外の選択肢が浮かばなかった。今の自分がどれほど堕ちているか、相手に言われるまで客観的に見つめる事も出来ていなかったのだ。______楽になりたい。相手やアダムス医師のように信頼できる存在が側に居る所へ戻りたい。刑事として働きたい______相手の言葉をきっかけに、胸の内にはそんな願望が沸々と湧き上がって来ているのだが、それを言葉にする事は酷く難しい。その選択は、責任感もなく私利私欲だけで全てを投げ出しているように思えてしまう。言葉を紡げぬまま、縋るように相手の背中へと回した腕に力が籠り。 )
( 長い長い時間を掛けて抱き竦めていた相手の身体の痙攣が治まり、それと同時に強張りが解ける様に此方に凭れる身体を今度は押さえ付けるのでは無く優しく__しかし決して崩れてしまわない様に抱き締める。痛みと苦しみに耐えた背中は解放された今も汗に濡れ、“どれ程”だったかを伝えて来る様で胸が痛む。その背中を優しく上下に擦りながらどれ程の時間そうしたか。酷い倦怠感に襲われているだろう相手がまたもう少しだけ落ち着くのを待ってから背中に回した腕を解き、けれど完璧に身体を離す事は無く互いに床に座り込んだ体勢のままに、相手の冷えた頬に手を伸ばす。遥かに痩せ、顔色の悪い窶れて見える顔を見てまた酷く胸が痛むのだが、頬を一度撫でてからその手を降ろし次は熱を産む様にと肩を何度も優しく擦りながら「__此処には私達しか居ない、エバンズさんが何を言っても私しか聞いてないから。…1年間、胸の中に溜めた沢山の事、私に教えて。」相手の瞳を真っ直ぐに見詰めつつ、たった1人溜め込んで来た事を話して欲しいと。「…エバンズさんは、今何を思っていますか?」自らの気持ちの優先順位を一番下にまで下げ、終いには無かった事にまでしてしまう。そんな相手だからこそ、“心の内の吐き出し”は、“痛みの認識”は、絶対に必要なのだ。それは昔からずっと思い続けている事で、何も怖く無いと僅かに微笑みながら促しの言葉を疑問形として紡いで )
( 正面から見詰めた相手は、以前と変わらない若葉色の瞳に自分を映している。憐れむような、慈しむような、労るような、そんな色を宿して。自分では内に溜め込むばかりのどす黒い物を相手に促されて吐き出すという経験を此れまで幾度しただろうか。「_______楽になりたい、」そのたったひと言を発するのには酷く時間を要した。「でも、後戻りは出来ない。…自分で決めた事を自分の都合で投げ出すなんて……責任感の欠片も無い人間がやる事だ、」いつも、但し相手の前でだけ、つかえていた言葉の後に秘めていた気持ちが言葉となってボロボロと溢れ出す。自分でも整理できていなかった思いが言葉になり、そこでようやく痛みに気がつくのだ。「だけど、辛くて仕方がない。何もかも_______刑事でなければ意味がないのに、この有様だ。」結局は、楽になりたいと願う気持ちと、ワシントンで踏ん張らなければならないという思いが交互に浮かんでは消えるばかり。行動に結び付く結論には至らず、幾度となく飲み込んできた思いで。 )
( 躊躇い、葛藤、その中で長い時間を要しながらも“楽になりたい”と相手自身が言葉にした事に酷く安堵した。心の内に確かにあるその思いを聞き届けて一度大きく頷く。それからその一言が切っ掛けとなった様にボロボロと溢れ落ちる思いの数々を最後まで聞き届けてから再び真っ直ぐに相手を見詰めると「後戻りじゃない、“進む道を選び直す”の。」それは聞く人が聞けば屁理屈かもしれないが己にとっては前向きな言葉。「今道を変えても誰もエバンズさんの事を責任感の無い人だなんて思わない。それは、本部もレイクウッドもエバンズさんがどんな人かを知ってるから。…被害者や遺族に真剣に向き合って、最後まで事件解決にベストを尽くす__エバンズさん自身が築き上げた信頼は、そんな簡単に揺らいだりしないよ。…それでも何か言う人が居るなら、それは無視したって良い。そんな言葉は聞く必要無い。」例え相手自身が自分を“責任感が無い”と思ったとしても、決してそんな事は無いのだと。語り掛ける様に、そうして最後にはやけに真剣で珍しく断定的な強い言葉で締め。再び表情を穏やかに緩ませては「…何も諦めて無くて良かった。」と、例え今何処に行く事も出来ず足踏み状態だったとしても、自暴自棄になってる訳でもない、虚無に囚われてしまっている訳でもない、“楽になりたい”も“刑事である事”にも相手の中から決して消えた訳では無い、先ずはその事に安心した様に微笑み。「一緒に考えよう。直ぐに答えは出ないかもしれないけど、信頼出来る医師の居るレイクウッドに戻って、尚且つ刑事で居られる方法が絶対にある。」相手の片手を両の手で包み込む様に握り締め、己は何も諦めていない事を今一度言葉にした後。瞳を閉じそのまま僅かに身体を前に倒す事で相手との距離をもう少し詰め額同士を軽く合わせると、「…だから、離れて行かないで、」静かに言葉にしたそれは物理的な距離だけでは無く“心の距離”。直ぐに額を離し緑眼に相手を映せば「__エバンズさんが関係する事で私が傷付くと思うなら、離れる事じゃなくて、側に居る事で私を守って。」珍しく余りに真っ直ぐな願望を口にして。それは言葉だけを切り取れば傲慢で我儘なそれなれど、今の相手に届く言葉としては適切だと思った。“私は大丈夫”、“傷付いても構わない”、それでは相手が誰にも言わず本部に戻る決断をしたその理由を、不安を、恐怖を、拭えないと思ったからで )
( レイクウッドに戻りたいという思いは、確かに自分の中に芽生えていた。しかし自分の意思で、周囲に害が及ばないようにと離れる決意をした以上手放しに戻る訳にはいかないという思いは強く、相手の言葉に直ぐに頷くことは出来ずに。不意に相手の額が寄せられ、直ぐ近くで声がした。それが物理的な距離の事を言っている訳では無いことは理解できたのだが、同時に続いた相手の言葉は自分が想定していた物とは違っていた。自分の所為で相手に危害が加わる恐れがある、だから相手の側には居られないと告げた場合相手は、自分を犠牲にするのも厭わないという覚悟と共に大丈夫だと言い張ると思っていた。けれど相手が紡いだのは、それよりもずっと自分に寄り添う優しい言葉。自分が抱える不安を理解した上で、近くに居て良いのだと促すような。その言葉に何故か酷く安堵し「______守れるだけの体力が戻ったらな、」と、小さく掠れた声ながら何処か今の状況を冗談めかすようにそう告げて。 )
( 相手は戻るとも、戻らないとも、明確な返事はしなかった。それだけ今回の決断は大きく重たいものなのだろう。それがわかるからこそ逸る気持ちを抑え、確りとした基盤が出来上がり、相手自身が心から“戻る”と頷ける時を今はまだ待つべきなのだろうと、相手の心身の不調を思う不安はあれど返事を急かす事はせず「なら、それまで私も頑張らなきゃだね。」紡がれた小さな冗談に乗っかる形で自身を鼓舞する決意と共に頷きつつ「__まずは体力回復の為に十分な睡眠をとらなくちゃ。勿論、此処で2人一緒に。」相手の背後のベッドに視線を移動させ、少しだけ悪戯に笑って見せて )
( 今は未だレイクウッドに戻る決断をする事は出来ない。それでも相手が暗に“待つ”と伝えてくれている事は安心に繋がった。相手に支えられながら身体を起こし、力を入れた事でズキリと鈍い痛みが走ったものの薬が効果を発揮しているのか強い痛みが引き起こされる事はなかった。ベッドに身体を横たえると小さく息を吐き出す。1人のベッドは酷くひんやりとして、幾度となく目を覚ますのだが相手が隣に居るだけで温もりを感じる事ができて気分が落ち着くのを感じた。相変わらず眠るのは怖い。けれど今は相手の体温に身体を預けるようにして、穏やかな眠りを求めて。 )
( __1年振りに相手の隣に身を寄せる様にして横になる。長い長い時間の筈だったのに、不思議とその温もりを思い出せるのはそれだけ特別だからだろうか。背中越しにも伝わるゆっくりとした呼吸は心を穏やかにさせ、柔らかな柔軟剤の香りは安らぎを連れて来る。遠慮がちに伸ばした手で眠りを邪魔せぬくらいの控え目な動作で以て相手の背中を撫でながら、ふ、と一瞬脳裏を過ぎったのは“最期に見た少女の顔”。続けて何時の日か相手に見せて貰った写真の中で微笑む【セシリア・エバンズ】の優しい顔が浮かび、思わずきつく瞳を閉じてから動かしていた手を止め相手の背中に静かに額をくっつけて。「__…私は、何時だって遅いね、」至極小さな呟きは相手を起こさぬ様冷たい空気の中に散る程のもの。何時も__遅いのだ。相手の優しさに気が付くのも、相手の痛みに気が付くのも。誰かを失う苦しさや切なさ、不甲斐無さ、罪悪感、どれもこれも何時だって、相手が先に経験する。「…大丈夫なんかじゃなかったのに、私はそれしか言えなくて__でもきっと、またそう言う。…ごめんね、」ぽつり、ぽつり、と溢れる言葉の最後は謝罪。額を僅かにくっつけたまま再び手を動かし背を撫でながら、やがて瞼は降り浅い眠りへと落ちて行き )
( 1年ぶりの相手の体温は、ワシントンに来てからというもの1人では感じる事のなかった落ち着きをもたらした。睡眠薬を飲まなければ寝付けなくなっていたものの、久しぶに薬に頼る事なく眠る事が出来たのだ。気持ち的に落ち着いたからと言って直ぐに全てが改善するという事はなく、夜中に幾度となく目を覚ましたものの、その度に隣に居る相手の姿とその温もりに程なく落ち着きを取り戻す事ができ、短い眠りを何度も繰り返しながらも朝を迎えて。普段であれば夜中に悪夢で目を覚ますだけではなく、そのまま発作が収まるまでに長い時間を要する為、短い眠りを繋げただけでも身体は少しばかり楽になっているような気がして。出勤時間は刑事として働いていた頃よりも遅い。警視正らの計らいによって午後からの講義を担当する事が多いため、今までより2時間ほどは朝に時間があるのだ。目を覚ましたものの少し身動ぎをしただけで、布団の中の温もりに包まれたままでいて。 )
( 相手の背中に控え目に身を寄せた状態で深い深い眠りの中、夢も見なかった様に思う。__ふ、と意識が浮上し重たい瞼を持ち上げれば部屋の中には柔らかな光が射し込んでいて朝を迎えた事を寝起きのぼんやりとした頭が理解した。同時に今布団の中では1人では無い事を、そうしてこの温もりがもう数時間後には無くなってしまう事を思い出し細く吐き出した息の後、すぐ目前にある相手の背中を数秒見詰めてから徐に少しだけ上半身を起こして。「……」静かな朝を邪魔する気は無いのだが、欲してしまった温もりは今よりもう少し大きいもの。無言のまま片腕を相手の背後から前に回し、それと同時に頭だけを横になる相手の肩付近へ乗せる。全体重を掛けて乗っかっている訳では無いのだから、久々に相手と迎えた朝なのだから、とやけに自分に甘い言い訳を潜ませつつ、頬擦りをする様な、頭を押し付ける様な、そんな子供じみた動作を数回繰り返した後、にんまりとした笑顔のまま動かなくなり )
( 布団の中で相手が身動ぐのを感じた直後、不意に背中に温もりが宿る。相手が背後から此方を抱き竦めるような態勢になっている事を理解したものの、何か声を発する事はしなかった。暫くそのまま横になっていたものの、やがて「_____いつもより随分よく眠れた、」とポツリと言葉を落として。浅い眠りを繰り返したものではあるのだが、睡眠薬を飲んで眠る日々よりも少なくともまとまった睡眠を取る事が出来たと言えよう。少し寝返りを打つ形で仰向けになり相手の方へと視線を向けると「……何時の便だ、」と相手の予定を尋ねて。 )
( その体勢のまま目を閉じ一方的な温もりを得る事数分。ふいに少し掠れても聞こえる相手の声と共にこの触れ合いに終止符が打たれれば静かに身体を離すと同時に「__良かった。これでレイクウッドに戻る理由がまた1つ出来た筈。」と、僅か冗談めいた声色で返事をしつつ、次いで問われた問い掛けに枕元の置時計を確認してから顔を向け「…1時過ぎ。遅くても1時間前には空港に居たいから__私の方が先に出るかもしれないね。」この部屋で相手と話せる時間も後少し。ベッドから降り足元の少しひんやりとした空気を掻く様にして歩きつつ、ケトルにお湯を沸かすと、伏せられているマグカップ2つにそれぞれコーヒーを淹れて。__余りに突然過ぎる訪問なのだからあっという間に終わりを迎えるもの。マグカップの中の黒を見詰め、次にほんの僅か垂らしたミルクが渦を巻くのを見、その香りを引き連れて戻って来ると「…どうぞ、」とマグカップの1つを相手に差し出し己は近くの椅子に腰掛けて。朝の柔らかな光を受け、相手の姿を目に焼き付ける。次、何時会えるかなんてわからないのだから。熱い黒を喉に流し込みながら、出発迄の時間を少しでも幸せで、優しいものに出来ればと )
( 相手の返答に頷きつつ差し出されたマグカップを受け取る。部屋に戻ってものんびりと自分の時間を楽しむ事はほとんどなく、ただ横になっているものだから、こうして温かいコーヒーを朝から楽しむというのは久しぶりな気がした。「……そういうのを、弾丸旅行っていうんだろうな。」と紡いだのは、まさに“弾丸”という言葉がぴったりな行程だから。ただ、自分に会うという目的の為だけにワシントンに来てくれた事には感謝以外の気持ちは無い。たった1日足らずの時間であっても、相手の明るさと優しさに触れ、沈んでいた心は少しばかり立て直した気がするのだ。「…少し早めに出て、土産物でも買ってやろうか?」ふと、そんな提案をする。ホテルの近くにはワシントン土産を売る広めの売店があり、空港まで送ることはできないにせよ部屋を出る時間を30分程早めれば土産を買うだけの時間はある。物珍しいラインナップではないかもしれないが、この地域ならではのお菓子やグッズには相手も興味があるかもしれないと。 )
意外と悪くないよ。…このホテルから引越しする時は教えてね。次会う時、何も知らないで此処に来て、会えなかった、なんて事になったら大変。
( コーヒーを啜りながら正に言葉通りの行程に小さく笑う。航空券を買ったその時から此処に来る迄とんでもない勢いと進む時間の速さではあったが“苦”だとは僅かも感じなかった。相手がレイクウッドに戻って来るのはまだ先の話になるかもしれない、それでも再びこのワシントンまで会いに来る事を約束するかの様な言葉を選び再びコーヒーを一口啜り。__穏やかに流れる時間の中で、相手の珍しくも感じられる申し出に一度瞬く。何かを奢って貰う事が珍しいのでは無く、相手の口から出た“土産物”と言う単語が珍しく感じたのだ。その響きを一度咀嚼してから遠慮無く小さく頷くと「…欲しい、」とはにかみつつ素直な返事をして。相手と共に居られる時間がまた少しだけ有意義なものになる事に嬉しさを滲ませ「デスクワークの合間に食べるお菓子なんかが良いかなぁ。」緩んだ頬のまま、マグカップの残りのコーヒーを飲み干して )
______下手すれば通報が入って、本部の刑事たちに事情を聞かれるな。
( 自分が居ないホテルの部屋に突然見知らぬ女性が訪ねてくると言うのは宿泊客にとっては恐ろしい状況。通報されて本部の刑事たちがやってくる可能性もあると肩を竦めて見せ。相手の返答に頷くと、コーヒーを飲み切って立ち上がる。準備を整えて刑事の頃と変わらないワイシャツとジャケットに袖を通し、コートを羽織って講義に使う資料などが入った鞄を手にすると、準備を済ませた相手と共に部屋を出て。今夜仕事を終えて戻って来ても、相手はもう部屋には居ないと頭の片隅で考えつつ、ホテルから程近い店へと。ゆっくり店内を見た事はなかったのだが、売り場は広くお菓子や食材、ポストカード、オリジナルグッズなど様々な土産物が並んでいた。好きなものを選べとばかりに相手を促しつつ、相手が手にするものを横で眺めて。 )
__そっか、エバンズさんの行方がわからなくなってもそれなら会える可能性があるのか。“アルバート・エバンズさんのお部屋だと思って”って言えば連れて行って貰えるかも。
( 相手が想像した宿泊客にとっての恐ろしい状況は、最悪此方からすれば吉。冗談めいた語調ながは警察官としては到底アウトな発言と共に軽く眉毛を上げた笑みで締め。___都会の土産物店は矢張り大きく様々な種類のお土産が棚一面に鎮座していた。“I Love ワシントン”なんて書かれたキーホルダーを一度は手に取るものの、同じ国内で別に感情が揺れる事もなければ直ぐにそれを元の位置に戻し、次の棚へ。その棚には絵画をモチーフにした様々な文房具が売っていて、丁度来年使う手帳を切らしていると思えば、直感的に惹かれた表面に日傘をさす女性の淡い絵が描かれている手帳を手に取り隣に居る相手に「…これにしようかな。」と、見せて。それから隣にある棚、お菓子が売られているそこで足が止まると、ワシントンでは有名なソフトシェルクラブ味のスナックを見付け「…美味しそう、」と、手に取り控え目に相手を見上げて )
( 相手が手にしたのは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに展示されている絵画をモチーフにした手帳。ワシントンらしさもあり普段使いにもちょうど良い。同意を示すように頷きつつ、手帳とスナックを受け取る。「他には良いのか?」と尋ねつつ、レジに向かう途中に動物のイラストが缶に描かれた、チェリー入りのチョコレートを見つければ其れも手に取る。ドライチェリーをチョコレートでコーティングしたそれは、ひと口サイズで仕事のちょっとした合間に食べるのにも適しているだろう。レジで会計を済ませ、ワシントン土産だということが一目で分かるデザインの袋に入ったそれを相手に手渡すと「…駅まで送る。」と、直ぐ近くの駅前までは送ると伝えて。 )
( 相手が会計を済ませている間、様々な種類のチョコレートが鎮座する棚の前で再び足を止める。中でも真っ先に目に止まったのはココアパウダーの降り掛かったアーモンドチョコ。“口溶け滑らかなビターチョコレートを使用”とパッケージに書かれているそれは物凄く美味しそうに思えて隣のレジでひっそりと買えば、己が強請ったお土産を手渡されると同時に「ありがとう、大切にするね。…これ、お返しって言う訳では無いけど美味しそうだったから。」お礼の言葉と共にアーモンドチョコの入った小振りの紙袋を相手に手渡して。__空港に直結する電車が通る大きな駅なだけあり、付近は人通りが多かった。中に入って電車乗ってしまえばもうそこからはたった1人。隣に相手は居ない。途端に手に持つ荷物やお土産袋がずっしりと重たく感じ、それに比例する様に足取りも重くなる。わかりやすい程に視線は下方に落ち、前へと進む歩みもそのペースを落とす。相手との距離が空いても尚、小走りで駆け寄る事もしなければ無言のまま、空港の入口付近でその歩みは完全に止まるだろう )
( 思いがけず相手から紙袋を差し出されると数度瞬き、中身が昔自分が好物だと言ったアーモンドチョコレートだと気付くと「…悪いな、」と答えつつ其れを受け取って。---駅の入り口まで向かい、相手の乗る便に十分余裕を持って空港に着く電車が数本電光掲示板に表示されているのを見ると、焦らなくて良さそうだと相手を振り返る。しかし直ぐ側を歩いていると思っていた相手は自分より少し後ろで足を止めていて、纏う空気に先ほどまでの明るさはない。今回は相手が自分の為にワシントンまで来てくれたとはいえ、レイクウッドとワシントンはそう簡単に行き来出来る距離ではない。あの頃のように“また明日”と別れる訳にはいかず、次にいつ会えるかも分からないのだ。俯く相手に歩み寄り、軽く頭に手を乗せる。「_____会えて良かった。…刑事に戻れるように、もう少し模索してみる、」と、前向きな言葉を告げて。レイクウッドに戻る事は、今は未だ約束できない。それでも「……側で守れるように、体調を整えないとな。」と、少し表情を緩めて。 )
( 賑わう人々の声や駅内のアナウンスが右から左に流れる。相手は今日から仕事で自分は明日から仕事__つまり絶対に間に合う電車には、飛行機には乗ってレイクウッドに戻らなくちゃいけないのに、頭ではわかっているが気持ちが着いて来ない。俯いたまま何とか気持ちを立て直そうと深呼吸を数回繰り返したその時、落とした視界の中に相手の革靴の先が映り、続いて頭に骨張った温かな手が乗せられれば静かに頭を持ち上げて。余りに懐かしい、けれども酷く安心出来る手。今は昔に感じられる事だが、相手が柔らかく髪の毛を撫でてくれた時は、とても幸せな気持ちになれたのだ。そうして掛けられた言葉は此方を安心させようとしているのか、とても前向きなもの。その言葉に少しばかり安心した様にはにかみつつ「私も会えて良かった。__エバンズさんの部下として仕事が出来る日を楽しみにしてます、」と。その言葉は出会った時と、過ごして来た日々の中と、何も変わる事の無い素直な感情で。お別れのハグを、と思ったのだが此処は人目が多い。相手はこう言う所で例え別れのハグだとしても躊躇するのではと思えば、握手を求める様に片手を出し「あんまりにも無理ばっかりして、なかなか此方に来なかったら…私が先に本部に異動願いを出すから。私の行動力がどれ程のものか、今回の件でわかったでしょ。」少しだけおどけて見せたのは、泣き出しそうな気持ちを隠す最後の強がり。別れのその時、相手の中に残る己の表情はやっぱり笑顔が良いと思うから )
( 差し出された相手の手を素直に握り返しつつ、続けられた言葉には苦笑する。相手自身が豪語するように、相手の行動力は今回の件で実証済みだ。モタモタしていると本当に相手が移動願いを出し、ワシントンへやって来るかもしれない。安心してレイクウッドに戻る事が出来る日が来れば、という思いはあるのだが危険因子が取り除かれていない今、戻る選択は出来ないという気持ちは揺らいでいなかった。「早まるなよ、同じタイミングで俺が異動になったら困るだろう。」と、肩を竦めておき。______相手を見ていると、刑事として捜査に邁進していた日々を思い出してしまう。ワシントンには相手のような“相棒”も居なければ、刑事として捜査に関わる事も今は出来ていない。まずは刑事の立場を取り戻す事が先決だと気持ちを立て直しつつ、電車の発車時刻が近付いているのを見ると「_____もう行け。気を付けて帰れよ。……こっちから応援してる、」と告げて、構内へと促し。 )
( 互いに重なった手が離れ、最後の熱が消える。肩に掛けたボストンバッグを持ち直し、真っ直ぐに相手を見詰めて浮かべるのは笑顔。掛けられた言葉の別れの切なさに感情が揺さぶられない様に深呼吸で立て直しては、「__次は定期的に連絡するから。ちゃんと出てね。」今回は電話一本掛けるのに1年掛かったが今度はそんな事になったりしない。「…またね、エバンズさん。」敢えて“またね”と言う言葉を選び最後の最後まで“次の再会”を印象付けてから軽く一礼をして背を向けて。__1年振りの相手との再会はあっという間に終わった。飛行機の時間には確りと間に合い、無事にレイクウッドに到着した時に相手とホテルを教えてくれたクレアにメッセージを送れば、それからはまた何時もの日常に戻り、数日後には回って来た事件の捜査に奔走して )
アーロン・クラーク
( __相手がミラーと再会した日から凡そ一週間後の今日。相手が泊まるホテルの部屋の中で相変わらず高そうなスーツを身に纏い1人ソファに座りながら寛ぐ。相手が此処ワシントンに異動になった事、刑事を辞めて今はFBIアカデミーで教官をしている事は既に知っている。長い足を器用に組み換えて、仕事終わりの相手が戻って来るのを今か今かと心待ちにするその表情は普段より少しばかり幼くも感じられるもので )
( 相手がレイクウッドに戻り、あっという間にワシントンでの日常が戻った。相手と会った事で幾らか沈んでいた気持ちは立て直した部分があるものの、変わらず体調は良くない上にやりがいを持って仕事に取り組めている訳でもない。決まった時間に現在の職場であるFBIアカデミーに向かい、複数コマの講義を担当する。講義後の雑談には当然付き合う事をせず、質問がある学生にだけ対応して教官室に戻る事の繰り返しで。---その日も最後の講義を終えて帰路に着くと20時前に部屋に戻る。ネクタイを緩めつつ扉を開けて部屋に足を踏み入れ、視界の端に綺麗に磨き上げられた革靴が映った。其処で漸くハッとして顔を上げれば、どういう訳だろうか、部屋のソファで寛ぐのは自分が最も嫌悪する男。「______っ、…」此処にいる筈の無い姿に言葉を失い、その後何故彼が部屋に入れたのか、そもそも何故此の場所を______自分がワシントンに居てこのホテルを拠点にしている事を知っているのかと遅れて疑問が湧き起こり。「……どうしてお前が居る、」と、距離を取ったまま辛うじてひと言だけ言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
( 廊下を歩く至極小さな足音と気配が部屋の扉の前で止まった事を敏感に感じ取るや否や、口角が歪に持ち上がる。続けて鍵が解錠され扉が開き__嗚呼、漸くだ。誰よりも、何よりも愛している相手が今目の前に居て此方を真っ直ぐに見て居る。驚愕に縁取られた瞳が思う事は様々なれど今態々丁寧にその疑問に答える気は無かった。ソファから立ち上がり、立ち竦む相手との距離を大きな歩幅であっという間に詰めてしまうと、伸ばした手は相手の後頭部と腰を支える様に回し__抵抗される前に、何かを言う前に、外の空気を含んだ冷たい唇を啄む様に己の唇を合わせると、同時に相手の腰を強く引き寄せ更なる密着と拘束を選びつつ、再会を喜ぶには少しばかり乱暴な、欲を抑える事を知らぬ様な、そんな荒っぽい口付けを角度を変え、何度も、何度も繰り返して )
( 何も言わぬままに相手が立ち上がったのを見て警戒こそしたものの、部屋の外に飛び出すような事は当然しない。身体に力が入っただけだったのだが、相手は大きな歩幅であっという間に自分の目の前にやって来ると、そのまま身体を引き寄せられて。抵抗できない程の強い力で腰と後頭部を固定され、自分よりも体温の高い相手の唇が重なる。いつか、ミラーの名前を出した事に腹を立てた相手が自分を力尽くで抑え付けるため、お前は支配されているのだと刻み込むかのごとく唇を奪われた事があった。其れと同じような______まるで毒蛇に巻き付かれ身体が麻痺する毒を牙から流し込まれる獲物のような状態で。抵抗するように相手の腕を掴むのだが、1年以上が経ち相手との力の差は更に開いたような気さえする程に、自分よりも体格の良い相手の身体はびくともしない。酸素を求めるように口を開くも、相手の口付けから逃れる事が出来ないままに苦しげな表情を浮かべて。 )
アーロン・クラーク
( 腕を掴まれ抵抗と呼ぶには余りに弱々しいその行動にはかえって健気さすら感じるもの。苦しさに耐えきれなくなった相手の唇が酸素を求める様に薄く開いたのを感じ、まるで“良い子だ”とばかりに一度だけ舌先で優しく下唇をなぞるのだが勿論解放する気はさらさら無い。熱く湿った自身の舌先を相手の口内に押し込み、そのまま歯列をなぞる様に何度も何度も深い口付けを繰り返し、相手の身体がその場に崩れ落ちてしまわぬ様に確りと抱き支え。__元から相手は細身だったが、この1年でその体格は更に痩せた様に思える。口付けに集中しながらも頭の片隅でそんな事を考えつつ、腰にあてた手を撫でる様に緩く動かす。やがてたっぷりの時間を掛けて相手を堪能すると、満足したとばかりに後頭部の拘束を解き顔を離し。その際互いを繋ぐ銀の糸を舌で断ち切ると、己の唇を軽く舐めた後『__会いたかったですよ、警部補。』何とも清々しい笑顔で一方的な再会を喜んで )
( 相手の熱が移るようにして、徐々に思考は正常に働かなくなる。何故こんな状況に陥っているのか、何故相手はこの場所を探り当て部屋の中にまで上がり込んでいるのか。この男の好きに等させて良いはずが無いのだが、上手く力が入らずに成す術もないまま少しずつ相手の腕に体重が掛かる。そんな“最悪な状況”がどれほど続いただろうか。やがて相手の顔が離れ、この状況にそぐわない爽やかな笑顔と共に紡がれた言葉に嫌悪感を露わにすると、腰を支えたままの相手の腕を振り払い。「______どういうつもりだ。何で此処を知ってる!、」僅かに声を荒げつつ再び距離を取ると、相手を睨み付けながら手の甲で唇を拭い。 )
アーロン・クラーク
( 腕を振り払われ、再び距離を取り睨み付けられようとも此方の表情は笑顔から変わらない。それはそうだろう、どれ程嫌悪感を向けられた所で“会えた”と言う事実だけが全てなのだから。『その仕草唆られますねぇ。』手の甲で唇を拭うその一瞬の仕草にうっそりと目を細め相変わらずの台詞と共にさも当たり前の様に再びソファに腰掛けると、此処は相手の泊まる部屋だと言うのに隣に座れとばかりにポンポンと自身の横を叩き。『どうって__今のキスの事でしたら、再会の挨拶と言った所でしょうか。貴方の事で知らない事なんて俺には無いんですよ。因みにこれ、』相手の疑問に答える気になったのか、一つ一つやけにゆったりと話しながら、スーツの内ポケットから取り出したのは“FBI”と書かれた警察手帳。勿論これが偽装の物だと言う事は相手には直ぐにバレるだろうが、生憎ホテルの従業員やその他“一般人”に見破れる物では無い。再びポケットにしまいつつ『便利な物ですね。』なんて悪びれた様子も無く笑った後、『本当はもう少し早く会いに来る予定だったんですけど、予定外の仕事に追われてしまって。…でもまぁ、結果的に“今”で良かったかもしれません。』随分とまぁ、ペラペラと良く回る口で休み無く言葉にしながら相手の頭の天辺から足の先までを一度軽く流し見て )
( この男に何を言った所で暖簾に腕押しである事を改めて突き付けられると、眉間に皺を寄せたままそれ以上の言及をする事はなく。手にしたFBIの警察手帳、偽装した其れを使いホテルに侵入したのだろう。「偽造容疑で逮捕されるぞ、」今の自分にその権限はないものの、あまり乱用していてはいずれ足がついて罪に問われる事になると告げて。相手が仕事に追われていようが無かろうが知った事ではない。そもそも会いにくる必要など無いわけで、今が良いタイミングだとも思わない。相手の言葉を無視しつつ、ドアの近くから奥のクローゼットの方へと移動するとジャケットを脱いでベッドの端に置き、ネクタイをハンガーに引っ掛ける。「何でも良いが、此処は俺の部屋だ。帰ってくれ。」と告げつつ、休みたいのだと相手を追い払う仕草をして。 )
アーロン・クラーク
( そんなヘマはしない自信があるものの、確かに相手の言う通り余りに乱用してしまえば何処かで思わぬミスに繋がるかもしれない。だが__『これを使うのは貴方の前だけなんで心配はご無用ですよ。それに__“今の”貴方では何にせよ俺を罪に問う事は出来ないですしね。』相変わらずの謎の自信を滲ませつつジャケットを脱ぐ後ろ姿を見詰めながら何とも意味深な言葉を紡ぎ。案の定相手は久し振りの交流を楽しむ気は欠片も無いらしい。己を追い払わんばかりの言葉にも仕草にも何処吹く風で『泊まらせて下さい。』と、どんな返事が返って来るかわかりきっているお願いを一つ。それから再びソファから立ち上がると、ベッドの脇に居る相手の背後まで歩み、徐に片腕を掴み。『…さっきで俺との力の差はわかったでしょう?このまま無理矢理ベッドに押し倒されるか、何も無く一緒に眠るか、選んで下さい。』絶対的に何方も選びたくないであろう選択肢を堂々と掲げ、腕を掴む指先にほんの僅か力を込めて )
( 相手はまるで、自分の現状を全て知っているかのような口振りで自信を滲ませた。否、ホテルまで突き止める程の執着を持つ此の男の事、本当に自分が教官となった事実や其の経緯まで知っていても可笑しくはないと今は思えた。「_____ふざけるのも大概にしろ。」泊まらせろという言葉には眉を顰め、ひと言言い返す。何が悲しくて此の男を自分の部屋に泊めなければならないのか。此れまでにも散々苦しめられて来たと言うのに。しかし相手はいつも、自分がより選びたくない選択肢を持ち掛けて思い通りに事を進めようとする、それが常套手段なのだ。「泊めない。部屋は他に幾らでもあるだろう、もう帰ってくれ。」と、取り合う様子を見せずに相手の腕を振り払おうと。 )
アーロン・クラーク
__これは少し想定外でした。そんなにも俺に抱かれたかったんですね。
( この二者選択、何方も相手にとっては不愉快極まりない選択であろうが何方か選ばなければならないのなら100%後者を選ぶと思っていたのだ。だからこそ再び帰れと言われ腕を振り払おうとする抵抗に何処か驚いた、それでも至極満足そうに口角を持ち上げ何とも都合の良い解釈の元__相手の腕を掴む手に更に力を込め距離を詰めると同時、勢いのまま相手を柔らかなベッドの上に乱暴に押し倒しあろう事かその腹の上に跨って。『残念ながら部屋は何処も満室だったんです。クリスマスが近いからですかねぇ。』そんな危うい体勢のまま、律儀に返したのは少し前の返事。見下ろした相手は矢張り1年前より遥かに窶れていて、何処か病的にも見える。加えて身体につく肉も薄く体重も最後に会った時より減っているだろう。刑事を辞めた__辞めさせられた理由に絡んでいるのは一目瞭然で、暫し上から不躾に見下ろしたまま、ややして楽しむ様に抵抗はさせながらも相手の頬を緩く撫で、その指を首筋に、そのままワイシャツのボタンを上から一つ一つ外していき。『酷い事はしないので、良い子にして下さいね。』と声を掛けるのだが、この状況が相手からすれば“酷い事”である事は華麗に無視で )
( 何でも思い通りになると余裕の笑みを浮かべて選択肢を突き付ける相手に、そもそも泊める気は無いと主張しただけの事。それなのに腕を掴む力が強まり、気付けば一瞬で視界は反転していた。相手は都合の良い解釈で、折角提示した妥協案を自分が無視したと受け取ったのだろう。「____っ、分かった!ベッドでも何でも使って良い、だから触るな、!」一切悪びれる様子も無くワイシャツのボタンを外す相手の手を掴み、背に腹はかえられないと許可を出す。そうでもしなければこの男の事、何をされるか分かった物ではない。此方を見下ろす相手を下から睨みつけたまま、相手の腕を掴む事で牽制して。 )
アーロン・クラーク
( 焦らす様に至極ゆっくりとした、それでいて優雅な所作で以てボタンを静かに外していく中。上から2つ目のボタンが外れ3つ目に指が掛かった所で相手から投げやりではあるものの泊まりの許可と共に静止が入れば、その指先は直ぐにピタリと止まり。__『……』此方を睨み付ける相手の碧眼には強い嫌悪感と鋭さが宿っている。力では到底叶わないとわかっている己に組み敷かれ、ろくな抵抗も出来ない中で白い喉を晒しながらもその瞳に揺らぎは無い。絶対的に不利な状況下なのに。この“どうにでも出来る感”と、その中で見せる相手の瞳に思わず背中の産毛が逆立つ様な加虐心が生まれ、小さく喉を鳴らす。けれど選択肢を与えた以上、相手が選んだ以上、無かった事にするのは“ルール違反”であろう。ふつふつと湧き上がる熱を笑顔の裏に隠し僅か身体を折り相手の耳元に唇を近付けると『__“一緒に”寝るんですからね。』相手の嫌がる単語を強調しつつ、再び静かに持ち上げた顔。その瞳には歪な光はもう無く、そこで漸く相手の上から退けて。向かうは備え付けの小型冷蔵庫。扉を開け何時買って来たのか中から小さなボトルワインを取り出しては『…貴方も飲みますか?』と、少し前の出来事など何も無かったかのように振り返って )
( わざわざ“一緒に”と強調して来る相手の底意地の悪さを感じながらも、身体が離れると、外されたボタンを留め直し手早くも乱雑にワイシャツを整えベッドから離れる。仕方無く許可を出すずっと前から我が物顔で部屋を使っているではないかと苛立ちを募らせつつ「_____いい。」と答えて。冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを出して固いキャップを開けると、睡眠薬を飲み込む。此れを水では無くワインで流し込めば、夢を見ないほどの深い眠りに身を委ね朝を迎える事が出来るだろうか、と一瞬考える。薬が効くまでには暫し時間が掛かる。動ける内に休む支度を整えようと、ソファで寛ぐ相手を置いて浴室に向かうと施錠した上でシャワーを浴びて。---時間にして20分程、髪をタオルで拭いつつ浴室を出ると1人用の座椅子に身体を預ける。眠気は未だ無いものの、身体が怠い。横目に相手に視線を向けると「……一杯くれ、」と、結局少しのアルコールを身体に入れる気になったのか空のグラスを相手に差し出し。 )
アーロン・クラーク
( 断られればそれ以上を勧める事無く自身の分のワインをグラスに注ぎ一口。揺れる赤は特別高価な物では無いがそこまで安い物でも無い。本来ならチーズか何かを摘みながら飲みたいものであるが、生憎少し嗜む程度にすると決めていた為買っては来なかったのだ。ミネラルウォーターで睡眠薬を流し込む様子を横目に、その後浴室へと向かう背中を見詰めるも、遠く鍵を施錠する音が聞こえると面白そうに喉の奥で1人クツクツと笑い。__それから相手が戻って来る迄の間、結局ボトルの中の赤は当初の予定とは変わり半分程まで無くなっていた。身体はほんの僅か熱を帯びるものの思考回路はハッキリしていて“酔っている”とは余り言えない状態。そんな中で座椅子に座った相手が気が変わったのか一度は断ったワインを望めば『俺の前で意識を失う事になりますよ。』と、先程の睡眠薬の話と絡めつつも、勿論断る事は無く差し出されたグラスにワインを半分程注いで。__シャワーあがりの相手が引き連れる仄かな石鹸の香りは何故か酷く落ち着けるもの。まだ湿っている焦げ茶の髪を見ながらまた一口赤を啜り、『……前にも言いましたけど、俺と何処か遠い所に行きません?』溢れた、と言っても自然な程に出た言葉は以前お墓の前でした話と同じもの。なれど何の脈略も無く、また、今は答えが想像出来るもので )
( 異常に効き目が強く出る事がある為、薬とアルコールの併用はするなと言うのが通説だが、効き目を感じにくい薬の効果が増強されるならば願ったり叶ったりではないか。相手の言葉に反応する事はなく、グラスを受け取り注がれたワインを口にする。芳醇な香りが鼻に抜け、喉を通った赤は熱を持って胃に落ちる。---相手が紡いだ言葉は、普段のように芝居掛かったものではなくて極自然なトーンで此方に届いた。以前も彼から同じ提案をされた事がある。互いに傷を負い、一向に前にも進めずもがき苦しみ続ける_____其れは、此処を離れたからと言って変わるだろうか。其れに、やはり相手と自分は立場が違い過ぎるのだ。少なからず薬やアルコールも影響しているだろうか、先ほど迄の嫌悪や鋭さが抜けた碧眼を相手へと流すように向ける。「______遠くへ逃げたからと言ってどうなる、過去は消えない。……俺とお前は同じじゃない。時間を掛けても分かり合う事は出来ない。」と、言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
どうにもなりませんよ。過去は着いて回るし、痛みは消えない。__その中で、俺は貴方が欲しいんです。誰にも邪魔をされない所に行きたい。
( 矢張り相手からの返事はNO。それを聞き届けてから再びグラスにワインを注ぎ入れ揺れる赤の水面を見詰める紫暗の瞳は何処となく暗く濁り。『それに__、』繋ぎ言葉の後に持ち上げた顔。普段の時と変わらぬニコニコとした人当たりの良さそうな笑顔で『貴方は今刑事じゃないでしょ。』と。『此処に居ても、例えレイクウッドに戻ったとしても、その身体ではもう刑事に戻るのは不可能だ。貴方自身が一番良くわかっている筈です。…貴方は刑事じゃなく、望むなら俺も今の仕事を辞めても良い。互いに刑事でも犯罪者でも無いなら問題は一つ解決でしょう?』酔ってはいないものの、少なからず身体を巡るアルコールが存在を消す訳では無い。普段もそうであるが、今日はより一段と饒舌で、けれど紡ぐ言葉の中の何処にも相手の気持ちは含まれておらず )
……例え誰にも邪魔されない所に行ったとしても、お前の物にはならない。
( 相手の主張は何の脈絡もないもののように思えた。遠い場所に行ったとしても、其れが自分を“手に入れる”事に繋がるのだろうか。そもそも此方の気持ちも無視して手中に収めようとしているだけでは無いかと思えば、相手の抱く願望が叶う事はないと断っておき。やはり相手は自分が刑事で無くなった事も把握していたようだった。何とか刑事に戻る道を模索しながらも体調は思うように上向かない、そんな中で紡がれた“刑事に戻るのは不可能”という言葉は、気持ちを更に沈ませるものだった。「______何者でもない俺たちが一緒にいて、傷口を舐め合ってどうなる。」自分たち2人が一緒に居る意味を見出せないと、饒舌に喋る相手に言い返す。彼が語るのは唯の夢物語だ、自分はワシントンを、刑事という肩書を捨てる事は選べない。少しずつぼんやりとしてきた頭でワインを呷り。 )
アーロン・クラーク
__頑固ですねぇ、少し試してみればいいのに。…そうだ、実は俺の家は此方にもあるんです。試しに数週間一緒に暮らしてみません?
( どんな提案をした所で相手が首を縦に振る事は無い筈なのに。諦め悪くまるで“お試し期間”を設ける様な提案を続けながらグラスの中の赤を呷る姿を見、至極自然な動作で以て次なる赤を注ぎ入れ。『難しく考え過ぎなんですよ。理由が欲しいなら幾らでもあげますけど__…貴方が離れればミラーが誰かに傷付けられる事も無い、彼女のこれからの幸せを遠くから願える。刑事じゃなければ“あの事件”の事で責められる事も無い。後はそうですねぇ……貴方が苦しんでる時、“遺族”である俺から何時だって“許す”と言って貰えるとかはどうですか?』足を組み替えつつ、一つ、二つ、と挙げる“理由”の中には相手がワシントンに来た大きな理由もまた含まれていて。アルコールが入りほんのりと朱に染まった相手の顔。このまま長く話し続けていたら睡眠薬の効果も相俟って意識が落ちるのも時間の問題だろうか、と。相手を愛おしいと思うその気持ちの中に、同じくらい傷付き苦しんで欲しい__涙を流すその表情を見たいと言う気持ちもあるのだ。そんな事を1人静かに考えながら、時折視線が交わるとニッコリと微笑んで見せて )
______お前は本当によく口が回るな、
( 相手の提案に眉間に皺を寄せるも、全てを聞き終えて紡いだのはそんな言葉だった。試しに一緒に暮らしてみないかという誘いは無視したまま、ワインを呷る。自分がNoと言えないように周りを固めて逃げ道を無くすのが相手の遣り口だが、探偵でも雇っているのかと言いたくなる程に情報を熟知しており、此方が拒否する間を与えないとばかりに言葉を重ねる。薬と酔いとで少しずつ思考が緩慢になる中、嫌悪や拒絶よりも先に心底器用な男だという呆れが勝ったというべきか。「…もう良いか、そろそろ休みたい。」そう告げると、グラスの中身を飲み干しカラになった其れをテーブルに置く。この熱が、覚めない深い眠りへと誘ってくれれば良いと淡い期待を抱きつつ立ち上がり。くらりと視界が揺れたものの、そのままベッドへと向かい布団の中に潜り込む。薬は効果を発揮したようで、小さな寝息が聞こえ始めるのに時間は掛からず。 )
アーロン・クラーク
( ゆったりとした熱に侵されているのか、此方が挙げた“理由”に嫌悪を表す事無く碧眼に良く見せる鋭さも無い。それ所か早々に話を切りあげ1人さっさとベッドに入ってしまえば思わずソファの上でぐるりと頭を反転させその様子を見。__掛け布団が僅かに上下し始めるのと、小さな小さな寝息が聞こえ始めたのはそれから程なくしてだった。アルコールと睡眠薬が効いたとは言え、余りに早いその就寝に最早放置を食らった気さえして思わず苦笑いが漏れ。『…仕方の無い人ですねぇ、』と、溢した独り言は勿論相手には届かない。グラスに残ったワインを飲み干し相手が眠っているのを確認してから静かに部屋を出て向かうは一階のフロント。相手に相談も許可取りも無く勝手に決めた“居候生活”は、明日の朝言えば良いか、と。24時間待機して居るフロントの女性に相手の隣の部屋を何泊の指定無しでとって貰うと、お礼と共にある程度の現金を前払いしてから再び“相手の”部屋に戻り。__これで全て済んだとばかりに満足気にスーツを脱ぐと、持って来ていた鞄から上下黒の薄手のスウェットに着替え、寝支度を整えた後、何の躊躇いも無く相手の横に潜り込み。瞳を閉じはするものの、長年の癖は早々抜けない。眠る事は無く、時折浅い浅い所に意識を落とす事こそあれど、再び直ぐに覚醒する。そんな夜を過ごして )
( 相手の話を受け流し、さっさと1人眠りに着いた訳だが其れが長く続く筈もない。相手が布団に入って1時間ほど。夢を見た事で静かな眠りは打ち破られる。やけに鮮やかな赤が視界に広がるのと同時に、身体は跳ね上がるようにして覚醒していた。リアルな夢に呼吸が乱れるのと同時に、またあの強い痛みが身体に走り鳩尾を抑えたまま起こした上半身を前に折り曲げる。「_____っ、…は…!」深く息が吸えない。布団の中には相手の体温を感じるのだが、痛みで身体が強張り苦しさが募る。鎮痛剤をとサイドテーブルに手を伸ばしたのだが、昨夜は相手が居たため就寝準備を整えて眠る事をしなかった。錠剤の箱は鞄に入れたままになっている事を思い出し、其れを取るべくベッドを抜け出すのだが鞄までのほんの数メートルの距離が今はとても遠く感じた。鳩尾を抑える手に力を込めて床に蹲ったまま、痛みの波が僅かでも落ち着く瞬間を願ってゆっくりと細い息を吐き出して。 )
アーロン・クラーク
( __隣で眠る相手の呼吸音に乱れが生じ、その身体が勢い良く起き上がった事で閉じていた瞼を静かに持ち上げる。時間にして凡そ1時間、お酒と睡眠薬の力を借りても尚、ものの1時間程しか落ち着いた眠りの中に身を委ねられなかったのかと他人事の様に溜め息を一つ吐き出すのだが、遠い過去に己も同じ経験をした。医師から処方された睡眠薬の量を守らず倍を強いお酒で飲み干した時ですら悪夢は朝まで眠らせてくれなかったのだ。“懐かしい”と、そう感じた心は果たして正常か。そんな記憶をぼんやりと手繰り寄せていた矢先、まるで何かを欲する様に相手はベッドを抜け出すのだがその身体は床に蹲る体勢のまま動く事をしない。枕元の間接照明を点けてベッドの上から相手を見下ろし、どんな状況かわかっていながら『__何してるんですか?』と、余りに呑気な言葉を掛ける。勿論苦しみに耐えている相手が確りとその言葉を聞き取れたとは僅かも思わないのだが、手を差し伸べる事も無く暫くの間苦しむ姿を眺め。ややして伸ばした手で相手の焦げ茶の髪をくしゃくしゃと撫で回すと、『…何が欲しいです?』凡その見当は付くものの、こんな状態であっても相手の口から言わせようと思うのかそう問い掛け、そこで漸くベッドから降りて相手の横にしゃがみ込んで )
( 日に日に強まっているようにすら感じる身体の痛みは、行動を制限する。不意に髪に触れる手の感覚を感じて、相手の声がすぐ近くで聞こえた。過去と現在の区別が付かなくなる程に混乱している訳では無い為、相手に頼んで薬を取ってもらうのが最適な手段だという事は考えられた。「_______鎮痛剤の、箱を取ってくれ…っ、鞄に入ってる、」紡いだ言葉は支離滅裂な訳でもなく冷静なものだったが、痛みが強まると思考が途切れそうになる。これ程の痛みを市販の鎮痛剤だけでどうにか出来るとも思わないし、可能ならモルヒネでも打って欲しいとさえ思うのだが、今は少しでも楽になる手段が其れしかないのだ。蹲った床はひんやりと冷たく身体の熱を奪う。ベッドの上のブランケットを引き寄せて、ゆっくりと呼吸を繰り返し。 )
アーロン・クラーク
( 相手が所望したのは鎮痛剤の箱。鳩尾を握り締めている所を見るとそこに走る痛みを取り除きたいのか、はたまた消えない悪夢から解放される為の安定剤を求めていると察しはついていたがどうやら今回は前者だったよう。痛みの合間合間に身体を強張らせる相手の顔は覗き込みたくとも床に邪魔されている。今一度柔らかな焦げ茶を撫で回してからゆっくりと立ち上がると、ソファの端に無造作に置かれている相手の鞄の中から目的の鎮痛剤を、続いて冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持って再び相手の横に床に膝をつく形でしゃがみ込み。『__持って来ましたよ。』と声を掛けるのだが、その錠剤も水も此方の手の中。痛みに耐え苦しむ相手を目の前にしても渡す事をしないと、次の瞬間には何を思ったかやけに歪に口角を持ち上げ。『欲しいですよね、これ。だったら口を開けて下さい。』そう言うや否や、徐に錠剤を上下の歯で軽く咥え、この後の展開を想像させがら意地悪く見せ付けて )
( 睡眠薬はしっかりと効いている筈で、だからこそ身体は未だ眠りたいのだと怠さと眠気を訴えている。鳩尾を軽く摩り呼吸を浅く繰り返しつつ、相手の声に顔を上げるのだが水も錠剤も此方に差し出されては居なかった。この男は手放しに優しさを振り撒くような人間ではないと思い出す。行動の裏には何かと理由があるのだ。錠剤はあろう事か相手が咥えていて、その愉快そうな表情からも相手が何をしようとしているかは想像が付いた。しかし此の痛みが取り除けるのなら、背に腹は変えられないと震える唇を開いて。 )
アーロン・クラーク
( 色恋沙汰には滅法鈍感な相手だが、流石に此処まで見せれば例え痛みや眠気で朦朧とする意識なれど嫌でも次の展開を想像出来たのだろう。少しの間の後震える唇が薄く開けば満足気に頷き片手を相手の後頭部へ。そのまま顔を近付け相手の想像通り唇を触れ合わせた後咥えていた錠剤を器用に相手の口内に押し込むと、同時に軽く舌を吸って__終わり。散々好き放題する予定は最初から無かったかのようにあっさりと顔を離し、小振りな物なれど異物を飲み込むのに何も無しは苦しいだろうと直ぐに水を差し出して。そんな欲望とは逆の珍しい優しさはまだ続く。まるで言う事を聞いた褒美だとばかりに相手が確りと薬を飲み込んだのを見届けてから、徐に背中と膝下に腕を回し、上に掛かるブランケットごといとも簡単に相手を抱き抱える。それから労わる様な優しさで極力振動の無い様に相手をベッドに降ろすと掛け布団を掛け、自身も隣に身を横たえて。『目を閉じて、もう一度一緒に眠りましょう。』眠りの淵に誘う様に、相手の髪を撫でながら再び寝息が聞こえるその時まで手を休める事は無く )
( 身体を強張らせ身構えていたものの、一度唇が重なり錠剤が押し込まれると相手は直ぐに身体を離した。そうして水の入ったペットボトルを渡されると、促されるままに薬を飲み込んで。抵抗出来ない状況下で相手に自由を奪われなかった安堵と、薬を飲めた事で此の痛みも落ち着くだろうという安堵。更に相手に身体を持ち上げられ布団の中に戻れば、直ぐ近くに感じる体温に、身体は従順にも安心し僅かばかり力が抜けて。誰かが側に居る、という状況は時に苦痛を和らげる。それが相手であっても、温もりと共に髪を撫でる手に自然と緊張は解けやがて眠りに落ちていて。 )
アーロン・クラーク
( 身体の何と正直な事か。与えられる温もりに相手の身体は強張りを解き続いて再び寝息が聞こえる。伏せられた瞼、長い睫毛、先程確りと己の要求をのんだ唇、痩せた頬__順番に人差し指を触れさせ満足した所で手を離すとその手を布団の中にしまい込み。__それから数時間後、軽い眠りに落ちていた意識が浮上し時間を確認すればまだ早朝の4時を少し過ぎた所。隣の相手は眠っている。まだ起きるには早い時間帯ながらも2度寝が出来そうな感じでも無いと思えば、一度控え目な欠伸をしてから静かにベッドから降りて。朝の冷たい空気は遠慮無く足元から身体全体を包み、僅かに眉を寄せ。備え付けられているエアコンを点け部屋の温度が暖まるまでの間、ケトルにお湯を沸かしコーヒーをいれつつ、相手が次起きる時は再び悪夢に魘された時か、それとも自然と目が覚めたもう少し後か、とソファに腰掛け遠目から盛り上がる布団を見詰める時間を過ごして )
( 誰かの体温は冷えた身体を温め、安心して眠る事が出来る。二度目の眠りは薬の力も借りて深く、静かなものだった。---夢を見はしたものの、飛び起きる程に鮮明な夢ではなかった。けれど不安感のようなものがじわじわと胸の内に広がり、少し首筋に汗をかいていて。朝の5時ごろになってふと目を覚ますと隣に相手は居ない。強い痛みも落ち着いていたが、倦怠感は身体に纏わりつく。コーヒーの匂いがする事でソファの方へと視線を向けると、相手は其処に座っていた。相手が近くにいる事に少し慣れたのか、相手に向けるその瞳に敵意や嫌悪は余り無い。「……睡眠薬が必要なら使え、」と言葉を紡いだのは、相手も自分と同じように過去の記憶に苛まれ眠れない事を知っているからで。 )
アーロン・クラーク
( 規則正しく上下に微動していた掛け布団が大きく持ち上がり、寝起きの相手と視線が交わったのはコーヒーを飲み干して少し経ってからの事。褪せた碧眼には寝起きである事と夜中に苦しんだ分の倦怠感が纏わりついていて心做しかぼんやりと朧気に見える。『おはようございます。』と、口にした朝の挨拶に返って来たのが此方を気遣う申し出であれば、以前世間話程度の会話の中で出た此方の睡眠情報を覚えて居たのかと一拍程の間の後に喉の奥でくつくつと低く笑い。『記憶力が良いのも考えものですね。それ、俺の弱みになり兼ねないので内緒でお願いしますよ。』小さく肩を竦め、それでも何処か嬉しそうな様子でそんな戯言と共に暗に睡眠薬は飲まないと示すと、もう一度ケトルにお湯を沸かす為に立ち上がり__『そうだ、』と振り返る。『昨晩貴方が寝た後に決めたんですけど、暫くの間此処に居候する事にしました。』何故この部屋を使う相手に先に許可を取らないのか、そもそも勝手に決める事自体可笑しな話なのだが最早決定事項なのだとばかりに相手に背を向け、今度こそケトルにお湯を沸かし相手の分のコーヒーを作って )
( 相手は自分よりもずっと心の傷や本心を隠すのが上手い。確かな絶望が纏わりついている筈なのに、常に過去の翳りなど誰にも勘付かせないような振る舞い。そんな掴みどころがなく翻弄されてばかりの相手の弱みを握れるのなら願ってもない事だと肩を竦める。「…勝手に決めるな。居候しても何のメリットも無いだろう、」勝手に“決めた”と言い切る相手に呆れたように溜息を吐きつつ却下するが、この男が決めた事は大抵の場合、思い通りになるまで周囲を歪めてでも突き通す事は知っている。重たい身体を起こしソファへと移動すると背凭れに身体を預け_____ちょうど淹れたてのコーヒーが差し出されれば奇妙な物でも見るように相手に視線を向けて。自分の行動を先読みしているようなタイミングだと思いつつもカップを受け取ると熱いコーヒーを口にして。 )
アーロン・クラーク
( 案の定相手は此方の身勝手な決定事項に拒否を突き付けて来たのだが、そんな柔らかな拒否で覆る程のものでは無い。右から左に聞き流しながらも“損得”の話の所にだけは反応を示し。『貴方と一緒に暮らせる、これがメリットです。まぁ、貴方にとってのメリットはわかりませんけどね。』相手と一緒に過ごす事が出来るのならば、例え電気も水道も通ってない森の奥でも、それこそ言葉の通じない異国でも構わない。隣に、相手が居れば。何の躊躇いも無く此方のメリットをあげはするが、嫌われている自覚はあるものだから、一度は相手側のメリットを保留とし__コーヒーを手渡し、相手がそれを飲んだタイミングで腰を折り目線の高さを近付ける。『ねぇ、警部補。俺と一緒に過ごすメリットを考えて下さいよ、1つで良いですから。』そうして楽しそうな笑顔で強請ったのは相手を悩ますものだろう。何か答えるまで此処から動かないとばかりに )
( 相手の言葉には眉を顰めたまま「俺にお前と過ごすメリットなんてある筈がないだろ、」と言い返す。相手と共に暮らすというのは自分が一人の時間を持てず心穏やかに過ごせなくなるだけだ。しかし続いた相手の言葉と共に視線が直ぐ近くで交わると嫌そうな表情を浮かべる。メリットなど無いと幾ら説明しても相手は納得しないだろうし、離れろと言っても距離を取る事をしないものだから眉間に深い皺を寄せたまま「______寒くない、」とたった一言ぶっきらぼうに答えて。1人で部屋に居る時、布団の中に居る時に感じる寒さを相手が部屋にいるだけで感じなくなる。其れは不安や恐怖心を軽減する上ではメリットとも言えるかもしれないと、無い理由の中から絞り出して。 )
アーロン・クラーク
( 本当は宿泊費を前払いし、確りとこの部屋の隣の部屋を取ったのだがそれは勿論内緒。言ってしまえば問答無用で部屋を追い出されるか此方が出て行かないのならば相手自身が隣の部屋に閉じ籠ると言い出しても可笑しくはない。ニコニコと危険性などまるで持ち合わせて無いです、なんて爽やかな笑顔を振り撒きながら返事を待つ事果たしてどれ程の時間が経ったか。たっぷりと空いた間の後、無理矢理絞り出したと言っても過言では無いたった一言の返事に思わず至近距離で瞬く。“寒くない”なんて__『…まったく。暖を取れるのがメリットだって言うなら、“湯たんぽ”を抱えてたって良い訳だ。』やれやれとあからさまに肩を竦め背筋を正しては、態とらしく溜め息を一つ吐き出し。けれど機嫌を損ねた訳では無い。時刻はまだ朝の6時前。相手の為にいれた筈のコーヒーを取り上げるとそれをテーブルに置き直し『仕事は午後からでしょ。まだ起きる時間としては早すぎます。…“湯たんぽ”代わりになってあげますよ。』珍しく小さな皮肉を口にし、刹那、ソファに座る相手を夜中の時の様に軽々と抱き上げるとそのままベッドに逆戻りを決め込んで )
( 相手を満足させるような返答をしたかった訳では無いため、溜め息混じりの相手の反応にもつれない態度を崩す事はなかった。しかし不意に口から離したマグカップを奪われると驚いた表情を浮かべ、続いて急に身体が持ち上げられると息を飲む。バランスを崩さないよう咄嗟に相手の肩を掴み、そうして直ぐに離す。「っ、おい!降ろせ!」と抗議の声を上げたものの、ベッドまでの距離はそう遠くない。程なくベッドに降ろされると相手を睨んだのだが、相手はどうやら自分の仕事が午後からであるという事まで知っているらしい。確かに起きるのは早い時間である事には間違いないのだが_______相手に抱き竦められるような状態は寧ろ落ち着かない。暫くは相手の“拘束”から逃れようと相手の腕の中で抵抗を示していたものの、体温の低い身体が温められれば自然と眠気は再びやって来て。 )
アーロン・クラーク
( 至近距離での抗議の声も勿論無視。それ所か身体を持ち上げたその一瞬、咄嗟に己の肩を掴んだその行動に満足気な笑顔すら浮かべる始末で。ベッドに降ろしてからも続く抵抗は細身のその身体を抱き竦める事で簡単にいなす。『逃れられないのは貴方が一番良くわかってるでしょう。早く寝ないと酷い事しちゃいますよ。』緩く瞳を閉じたまま物騒な事を言うのだが声色は穏やかなまま。やがて腕の中の抵抗が弱まると『…良い子ですね。』直ぐ真横にある相手の柔らかな髪の毛を一度だけ撫で『__次の貴方の休み、デートしましょうよ。貴方の気に入りそうな場所捜しておきますから。』うとうとの微睡む相手に聞こえていようがいまいが、返事の有無すらも別に必要無い。まるで“恋人同士”の様な戯れを望みつつ、再び相手が目を覚ます時までその体温を感じたままで居て )
( 相手と居る事に安らぎを感じて居なくても、身体は正直に温もりを求めその体温に不安が和らぐのを感じる。相手の言葉には何も返事をしないまま、いつしか眠りに落ちていた。朝の“二度寝”はどういう訳か穏やかなもので、夢を見る事も苦しさに意識が引き上げられることもなく9時頃に目を覚まして。「______、」相手は一睡もしていなかったのだろう、目を覚ましてふと相手の方に視線を向ければ此方を見ている相手と目が合い気まずさを感じる事となった。何も言わぬまま相手の腕の中から抜け出し、備え付けの簡単なクローゼットを開け仕事用のワイシャツを取り出して。 )
アーロン・クラーク
( __二度寝から目覚めた相手が仕事の準備を済まし部屋を出るのを見届ける。夜迄ずっとこの部屋に居るか、もしくは出掛けたとしても相手より先に帰って来るのだからと半ば強引に預かったカードキーが手の中で冷たさを帯び、1人になった部屋は途端にひんやりとした空気を引き連れて来たものの此方とてやる事がある。身だしなみを整えホテルを出ると向かう先はワシントン市内にあるもう一つの住処。そこでこの先の生活に必要そうなスーツや下着などの衣類、スキンケア用品、お気に入りのワインボトルも数本、その他様々な物を大きなスーツケースとボストンバッグに詰め込み再び“相手の部屋”に戻って来て。相手が仕事から戻って来ればドアを開け何時もと変わらぬ笑顔で出迎える事だろう。__そんな日々を数日。途中にあった相手の仕事休みの日には“デート”と称して公園に連れ出し意味も無く散歩もした。__夜、珍しく深い眠りに落ちていたのだが、それはある意味前兆。深い眠りは必然的に悪夢を連れて来るもので、久し振りに見たその夢は矢張り“あの事件”の繰り返し。血に染まる床には何十人もの教諭と園児が折り重なる様に倒れていて皆瞳に光は無い。弟のルーカスは絶え絶えの息と共に何度も血を吐き出し、今にも光の消え失せそうな瞳から涙を流す。違ったのはその場に相手が居た事。あの時の年齢の相手では無く、今の見慣れた姿の相手。何も言う事無く冷たい瞳で多くの遺体を、ルーカスを、ただ見下ろしている。『…っ、!』喉に息が引っ掛かると同時に意識が覚醒した。指先が冷たく呼吸が苦しい。無意識に隣に視線をやれば眠る相手が居て、少しの間見詰めた後に静かにベッドから抜け出す。グラスに赤ワインを注ぎ入れ一口飲むのだが冷たい空気とは裏腹に体内は灼熱の如く熱いのだ。ふつふつと湧き上がる感情に明確な答えは出せず、ただ苛立ちの様な、溢れ出そうと渦を巻くもどかしい何かがひたすらに感情を乱す。酷く不愉快なそれを逃す術が無く、ギリ、と奥歯を噛み締めた後自身の感情を制御出来ぬまま、まだ半分程中身の入ってるワインボトルを何の加減も無しに床に叩き付け。物凄い音と共に砕けた硝子の破片は散らばり、中の赤は水溜まりの様に広がる。細く荒い息を繰り返しながら、その場に立ち尽くしたままで )
( 意味も無く公園に連れ出され嫌々相手の外出に付き合わされる事はあったのだが、相手が側に居る事に徐々に慣れて来ている自分が居た。体調は変わらず良くなかったが、1人で眠っている時よりも温かく、少し安心して眠る事が出来るようになっていた。濃く目の下に住み着いていたクマは少しばかり薄くなっただろうか。---その日も相手の側で眠っていて、相手がベッドを抜け出す動きに僅かながら眠りが浅くなったのだが_______突然響いた激しい衝撃音に一気に意識が引き上げられた。悪夢に魘されていた時だったら其の音が銃声と重なり、フラッシュバックに襲われていても可笑しくない程の音だった。飛び起きるようにしてベッドに身体を起こし音の出処を探れば、直ぐに相手が立ち尽くしている事に気づいた。足元にはワインのボトルが粉々に割れ、未だ中身が入っていたのだろう、赤がじわじわと広がっている。「_____ッ、…クラーク、」彼の表情は俯き気味で読み取れないものの、浅い呼吸に肩が上下している事に気付く。彼が取り乱した様子を見せる事など滅多にない。何があったのかと相手の名前を呼び、ベッドから立ち上がり。怪我をしないようにガラスの破片を片付ける必要があるが、相手は明らかに様子が可笑しい。悪い夢に、普段抑圧している過去の記憶が引き出されたのか。「……ベッドに戻ってろ、水を持ってく。」先ずは少し相手を落ち着かせ、フラッシュバックが起きないようにする必要がある。記憶を押し留めようと必死に呼吸を繰り返している時、全てを飲み込むように過去の記憶が首を擡げる苦しさはよく知っている。自分の安定剤を飲ませて落ち着かせるべきかと考えながら相手に近付くと、一度ベッドに戻るように促して。 )
アーロン・クラーク
( 床に散らばるボトルの破片は、あの日何発もの銃弾を受け粉々に散った窓硝子と同じ。水溜まりの様に広がる赤は遺体から流れ出るドス黒い血と同じ。呼吸が苦しい中、何処か夢現の様な気持ちすら覚える中床を見詰めていたのだが、この音で相手が目を覚まさない訳が無い。案の定起きた相手に名前を呼ばれると漸く顔を上げ『__嗚呼、すみません、起こしちゃいましたね。手を滑らせてしまって。』薄い笑みを携えこの惨事の説明をするのだが、“手を滑らせた”くらいではボトルはこんなに粉々になったりはしない。明らかに故意的に叩き付けた事は直ぐにバレるだろうが別に構わなかった。浅く息を吐き出しながら、ベッドに戻れと言う相手に拒否する様に軽く首を左右に振り__距離が縮まった事でより鮮明に相手の碧眼を捉える事が出来る様になった、刹那。再び湧き上がるドス黒い感情は理性を失わせる。更に距離を縮める為に踏み出した足は、スリッパのお陰で怪我こそしなかったものの飛び散った破片を踏み付けた。そうして腕は相手の胸ぐらへと伸び、加減を知らぬ勢いで掴み掛かると、暗紫の虹彩に珍しく苛立ちの色を浮かばせながら『__…何で助けられなかったんですか、』と。それは余りに脈略の無いもの。そうして夢に引っ張られ思わず溢れた、と言うのが正しい様な静けさで )
( 相手は取り繕うようにいつもの笑顔を貼り付けたものの、明らかに手を滑らせただけでの惨事ではないだろう。遣り場のない感情を抱えて、或いは脳裏に焼きついた残酷な記憶の残像を何とか消し去るため、自らワインボトルを叩き付けた、というのが正しい解釈な気がした。しかし相手の言葉に大きく反応する事はせず、小さく頷く事で受け流し。破片を片付けようと近付いたものの、相手の足は割れたガラスを踏み付け、バキ、と鈍い音が鳴る。スリッパを履いているとはいえ怪我をする恐れがあると思えば「…おい、気を付けろ_______」と言葉を紡いだのだが、不意に胸ぐらを掴まれ引き寄せられると首元が僅かに締まり強制的に相手と視線が重なる。「……っ、」突然の事に息を飲み、相手の暗い瞳を見つめ返す事しか出来ずにいると紡がれたのは過去に対する問い。夢を見た事により、過去と現在を混同しているのか、或いは過去に意識が引っ張られ其の怒りを抑える事が出来なかったのか。どちらにせよその瞳にはやるせない苦しさと苛立ちと、様々な感情が渦巻いている。「_____悪かった、」今の自分が目の前の相手に言える事はそれだけだ。静かにその言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
__悪かった?…謝罪一つで死んだ人が戻って来るとでも、
( 碧眼と暗紫が至近距離で交わり、続いて静かに謝罪が落とされたのだが結局今この状況で相手が何を言葉にしたって駄目なのだ。日頃気味の悪いくらいに相手を褒め愛を囁く同じ唇で、冷たく棘の纏った言葉を吐き捨てる。胸ぐらを掴む指先に更に力が篭もり息苦しさは少しも治まりを見せていないものの、発作にまでは繋がらない。その繋がらないギリギリのラインで踏み留まったまま、感情に任せて僅か相手を引き寄せ、その反動で次は斜め後ろにあったソファへと押し倒すと『貴方が幾ら謝罪をした所で誰も戻らない。セシリアさんも、ルーカスも、誰も。__冗談じゃない。何が安定剤だ、鎮痛剤だ。自分だけ楽になろうなんてよくもまぁ、そんな事が出来ますね。』相手を真上から睨み付ける様な瞳で肩で息をしながら怒りに任せた言葉を饒舌に紡ぐ。それは相手に向けたもの、自殺した犯人に向けたもの、そうして、自分自身に向けたもの。ただ、今は相手を苦しめたかった。この部屋で出会った時から相手が度々痛みを訴える箇所、鳩尾付近を加減の知らぬ力で以て上から押さえるとそのまま体重を掛ける。痛みも、苦しみも、余す事無くその身で受けろとでも言うかのように、ただ相手の苦痛に歪む顔を、絶望に染まる瞳を、懇願を聞きたいと )
( 相手が紡いだのは、ずっと前から、幾度と無く遺族や記者に掛けられた言葉だ。謝罪をした所で居なくなった人間は二度と戻って来ない_______そんな事は痛いほどに分かっているというのに。「っ、亡くなった人が二度と戻らない事は分かってる!それでも…謝る以外に、今は何も出来ない…!」視界が反転し背中に衝撃が走り表情を歪める。此方を見下ろす相手の瞳を見つめ返し、今となっては幾ら過去を後悔し懺悔しても、それ以外に行動に移せる事がないのだと訴えて。“自分だけが楽になろうだなんて”_____その言葉は相手が以前からまるで呪いのように自分に掛けていた言葉だ。あれほど苦しんだ被害者たちを見捨てておきながら、今尚自分だけが楽になろうと薬に頼る事を相手は責めた。反論出来ぬまま困惑したような怯えたような色を携えた瞳で相手を見上げていたものの、相手の手が鳩尾に掛かり、其方に意識が向いた一瞬。強い力で押さえ付けられるのと同時に激痛が走り身体が大きく跳ねる。「______っ、ぐ…ッあ゛、!」声にならない悲鳴が漏れ相手を引き剥がそうと暴れるのだが、相手はびくともしない。酷い痛みは当然呼吸を浅いものに変え、痛みから逃れようとしても相手は其れを許さなかった。断続的に鋭い痛みが身体を引き裂くように走り、額には脂汗が滲む。相手を見上げていた瞳はゆらゆらと不安定に揺らぎ、身体には震えが生じ始めていた。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾を押さえ付けた瞬間に相手の身体は大きく跳ねたものの、その僅かな逃げすらも許さないとばかりに更なる体重を掛け片腕一本でその身体をソファに縫い付ける。どれ程の痛みが身体を駆け巡っているのかはわからないが鎮痛剤を欲していた程だ、物理的な衝撃が加わってる今は何も無い時よりも何倍も強い痛みであろう。薄い唇からひっきりなしに漏れるくぐもった悲鳴と懸命に逃れようとするその抵抗、次第に浅くなる呼吸が証明で。『痛いですよね?助けて欲しいですよね?でもルーカスは貴方の何倍も痛かったし、助けて欲しかった筈だ!貴方が…ッ、…何で何もしなかったんですか!』そんな相手を見下ろしながら昂る感情は語気を強めさせる。普段の飄々とした余裕綽々な態度とは違い、感情のままに責め立てる言葉の数々は熱を持つ。__あの日、相手は決して“何もしなかった”訳では無いだろう。人質全員を救う為に出来る事を懸命に考え、どうにか犯人を落ち着かせようとだってした筈だ。夢に見た、冷たい瞳で遺体を見下ろすだけの相手では無かった筈なのに、あの日の記憶にあるのはつんざく様な銃声と、叫び声と、血の赤。そして倒れる弟の姿だけなのだ。『__ねぇ、警部補。“助けて”って言わないんですか?痛いの、もう嫌でしょ?』脳裏を過ぎる過去の記憶と、先程見た夢。ぐちゃぐちゃに混ぜ合わさり脳を支配する。大きく肩で息をしながらも、語調だけは普段の柔らかなものに戻るのだが、紡ぐ内容は一見優しさや救いに見える歪んだもの。鳩尾から手を離す事無く、反対の手で頬を優しく撫でて )
( 激しい痛みの中でもがいている状況下で紡がれる相手の言葉は、心を掻き乱し絶望を誘う。あの事件で犠牲となった相手の弟は、セシリアは、大勢の罪なき人々は、銃弾を受け痛みの中で命を落とした。この耐え難い痛みをもっても尚、自分は命を落とす事は無いというのに、一体どれほどの苦痛だっただろう。感情の籠った相手の声、“遺族”の怒りと言葉。其れを身に浴びながら、身体を痛め付けられる。痛みによって呼吸はすっかり浅く意味を成さないものになっていて、痛いと何度も訴えるも絶え絶えに紡がれた言葉を相手が聞き入れる事はない。_______まるで拷問だ。痛みによって生理的な涙が目尻の端から溢れ、震える唇で言葉を紡ごうとするのだが浅い呼吸に阻害され上手く言葉が紡げなかった。「_____っも、やめ……ッ痛い、____助けて、くれ…っ、!」骨が軋むほどの圧力に、心臓を鷲掴みにでもされているような痛みが襲う。パニックの一歩手前と言っても良いだろう、絶え絶えに言葉を紡ぎ、恐怖からか酸素が不足しているからか身体は震え、相手の腕に掛けた指先は冷え切って。 )
アーロン・クラーク
( 相手の瞳から涙が流れたのを見て満足そうに口角を持ち上げる。頬を撫でていた指先で溢れるその涙を何度も拭いながら、与えられる痛みから逃れたいと言葉にならぬ声で必死で懇願するのを聞き届け、そこで漸く鳩尾から手を離すと『__仕方無いですね。』と、態とらしく肩を竦め。相手は浅くなった呼吸を懸命に繰り返しながら小さく小刻みに身体を震わせている。痛みからから、苦しみからか、恐怖からか__何であれ“自分が与えた”絶望で変わる相手の姿を見るのは何とも言えない優越感の様なものを感じるのだ。悪夢によって呼び覚まされた過去は次に残虐性を呼び、相手に向く。痛めつけたいと、本心からそう思った筈なのに今はその気持ちがすっかり散り、満足したのだろうか、悪夢の記憶も何もかも、何処か清々しい気分だ。『…可哀想に、痛かったですよね。でももう大丈夫。痛い事は何も無いですよ。』相手に痛みを与えた当事者であるのにまるで無関係な人の様な言葉を優しく紡ぎながら先程体重を掛けた鳩尾付近を優しく撫でる。二重人格を疑われても可笑しくは無い程の感情の変化なのだが、知った事では無い。背後では未だ片付けていない硝子の破片が飛び散り赤が広がっているのだが、意識の中には無い。ただ、目の前の相手に優しく語り掛けるだけで )
( 鳩尾を強く圧迫していた手が漸く離れたものの、痛みが直ぐに引くことはない。「っ、は…ッあ、…は……っ、」喘ぐような浅い苦しげな呼吸が落ち着かぬまま、まるで他人事な言葉と共に再び相手の手が添えられると条件反射的に怯えたように身体が跳ねるのだが、再び強く押さえ付けられる事はなかった。しかし其れでも与えられた苦痛と恐怖は明確に刻み込まれ、涙の膜が張った瞳にはありありと恐怖が浮かんでいて。今すぐ相手と距離を取りたいと思いはするものの、痛みに身体が強張って上手く動けない上に身体を動かそうとするだけで鋭い痛みが走る。何事も無かったかのように優しく語り掛けてくる相手は人の心を持たぬ悪魔か。____否、先ほどはあれ程人間的に感情を露わにしていたのだ。事件の遺族たちに思いを寄せ、あれほど感情的にやり場のない怒りを表に出す相手を見たのは初めてだった。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾を撫でた時に反射的に跳ねた身体、それは与えた恐怖と痛みを素直に感じた証。此方を見上げる涙に潤む瞳が恐怖一色に染まったのを見て心底満足そうに微笑むと『__俺、貴方のその目が一番好きです。』苦しむ相手に今掛ける言葉としては到底場違いな事を、まるで恍惚とした甘ったるい語調で送った後『後始末はきちんと俺がするので眠って構いませんよ。カーペットは…弁償ですね。』未だ小さく震える相手の身体の下に手を入れ痛みに気遣う事無く簡単に抱き抱えると、床で粉々になっている瓶を避ける事もせずに踏み付けながらベッドまで向かいそこに相手を優しく降ろして。『おやすみなさい、警部補。』汗で張り付く前髪を軽く払ってやってから言葉通り散らばった大きめの破片を摘み上げる様に片付けつつ、残りは明日相手が仕事に行っている間に掃除をして貰おうと思案して )
( 恐怖と苦痛に晒された直後、其処に突き落とした相手自身の手で眠りを促されベッドへと降ろされる。恍惚とした表情で紡がれた言葉_____相手が何を考えているのか、自分に向ける感情のどれが本物なのか、何一つ分からない。上擦った呼吸が落ち着くのにはかなりの時間を要し、けれど呼吸が正常なものに戻るとどっと襲う疲労によって眠りに引き摺り込まれる。暫くは相手の動きを警戒していたものの、やがて眠りに落ちていて。---何度も目を覚まし、迎えた翌朝。昨晩の一件を経て痛みは普段以上に強く、体調は当然良くない。この状態で仕事に行かなければならない事は憂鬱だった。床にはまだワインボトルの破片とワインが溢れている。相手を避けるように口もきかぬままに仕事へ向かったものの、学生からは顔色が悪い事を指摘され、ふとした瞬間に襲う強い痛みをやり過ごす事に意識が向いた。彼が居ると思うと真っ直ぐにホテルの部屋に帰る気にもならず、最後の講義を終えても教官室に残ったままで。 )
アーロン・クラーク
( ___朝、最高に機嫌の悪い相手が終始無言で仕事へと向かった後、ホテルの責任者に昨晩の騒動の謝罪と汚したカーペット代を弁償し部屋を元通り綺麗な状態に戻して貰ったのが数時間前の事。綺麗な部屋で今度は至極穏やかな気持ちのままマグカップの中の紅茶を啜って居たものの、本来相手が帰って来る時間になっても一向に部屋の扉が開く事は無い。__昔、そう言えば似た様な事があったと思い出した。あの日は確か相手を部屋に置いて自身が出掛けたのだ。そして帰って来た時相手はもう居なかった。たった一言“家出ですか?”と送った記憶がある。『__仕方ないですねぇ、』誰に宛てるでも無い独り言の様な呟きは直ぐに後を追った紅に消える。中身を飲み干し一息着いてから立ち上がると身支度を整えホテルを出て。__向かった先は相手が勤めるFBIアカデミー。既に殆どの生徒は帰宅していて擦れ違う人は数える程。確りとセットした髪型では無い、降ろしっぱなしの髪ながら特別変装をする事も人目を気にする事も無く普段と変わらぬ飄々とした表情で廊下を進み、やがて相手が居るだろう教官室の前で止まると扉を二度ノックし。中からの返事を待たず扉を開ける。『__わからない箇所があるので聞きに来ました。』相手を瞳に捉えそんな戯言を紡ぎながら扉を閉め、ツカ、ツカ、と目前に歩み寄ると、少しばかり顔を近付ける様にして『まだ機嫌直らないんですか?』と、まるで此方には何の非も無く相手が勝手に不機嫌になっているとでも言うかのような問い掛けを )
( 夜になってようやく痛みが和らいでは来たものの、昨晩の相手の暴挙によって体調が悪化した事は間違いない。もう殆ど済んではいるのだが、明日の講義に向けた準備に敢えて時間を掛けて教官室で作業を続けていた。---普段であれば相手の革靴の音には耳敏く気付くのだが、此処が大勢の学生が行き交う校内だった事もあり、相手の気配を察知する事は出来なかった。ノックの音に顔を上げ_____相手の雰囲気が普段と違った為、一瞬学生かとさえ思ったのだが。直ぐに其れが相手だと気付けば其の表情には警戒の色が浮かぶ。「作業が終わってないだけだ、_____わざわざ来る必要は無いだろう。」と告げて。 )
アーロン・クラーク
( 警戒心の滲む瞳でぶっきらぼうに告げられた言葉に一度視線を相手の手元に落とす。広げられた資料をザッと見てから『__要領の良い貴方なら直ぐに終わるでしょう。』と、肩を竦めるも相手の腕を取り身勝手に帰宅を促さないのは気紛れか。ニコニコと何処かご機嫌な色さえ纏いながら相手から離れるも1人帰る事はしない。先程迄学生の誰かが座って居たのだろう席に腰掛け、既に授業は終わっている為何も書かれていない少しばかり白く濁る黒板を見詰めては『…懐かしい気分にでも浸ろうかと思いましてね。』と、相手を迎えに来た、とは別の理由を答え。『貴方は忘れてしまったかもしれませんが、俺も一応FBIだったんですよ。ちゃんと此処を卒業もしたし別に違法な手を使った訳じゃない。』聞かれてもいない事を饒舌に話し始めたのは機嫌が良いからか。背筋を伸ばし席に腰掛けるでも無く、少しばかり気を緩めているのか頬杖すらつきながら『__俺がもしあのままFBIだったら…貴方の部下だったら、今頃どうなってたんでしょうね。』珍しく“タラレバ”を落として )
( 珍しく相手は、無理矢理に自分を従わせる事はしなかった。言葉を無視したまま明日以降の講義に向けた準備を黙々と続けていたものの、不意に紡がれた言葉に一度視線だけを持ち上げる。今となっては“犯罪者”である相手も、かつては確かにFBIの捜査官を志した学生だったのだ。一体どういう心境の変化があって道を踏み外したのかは分からないが、あの事件が彼を歪めてしまった事は間違いない事実であろう。直接的な被害者以外に幾人もの間接的な被害者を生んでいる事は当然分かっている。相手のように人生を狂わされた遺族や、全てを崩壊させられた当事者が大勢居る。其の事に対しては当然罪悪感があった。暫しの沈黙の後「_____其の立場を自ら手離したのはお前の判断だ。」とだけ答えて。幾らたらればを言った所で、そもそも望んでFBIを離れたのは相手なのだから未来は変わらないと。 )
アーロン・クラーク
__相変わらず“らしい”返事ですね。
( 返って来たのは寄り添いでも何でも無い言葉。なれどこの件に関しては少しも寄り添いなど欲しくは無いし寧ろこの遣り取りが心地良いとさえ思う程で。__それから凡そ1時間程が経ち、ホテルに戻りたくないと言う理由で悪足掻きの如く時間を掛けていたのだろう準備が嫌でも終わりを迎える頃。廊下ではもう足音や話し声はすっかり聞こえなくなっており、此処を出るのは調度良い時間帯だろうと思えば『…そろそろ帰りましょう。部屋はもう綺麗だし、今日は酷い事しないって約束しますから。』と、後者に置いては全く信憑性の欠片も無い言葉と共に立ち上がり結局は相手の返事など無視でホテルへと連れ帰り。__部屋の中は昨晩の騒動を感じさせぬ程綺麗になっていた。血を吸った様に真っ赤だったカーペットは新品の物に取り替えられていて、ガラスの破片も勿論無い。別のワインも用意されている程だ。部屋をぐるりと見回しその完璧さに当事者ながら満足そうに頷いては、さっさとスーツを脱ぎ部屋着に着替え。約半日程誰も居なかった部屋はひんやりとしている。『…“湯たんぽ”必要じゃないですか?』くるりと振り返り至極楽しそうに笑いつつ、数日前に相手が言った“メリット”の必要性を問うて )
( 明日の講義の準備をしている、と言い張ってアカデミーの教官室に泊まり込む訳にも行かない。結局相手と共にホテルの部屋に戻る事となり、渋々ながらも其れに従って。---“寒さ”は心身を不安定にする。身体の冷えは不調を引き起こすし、不安を煽られる事もあるのだ。相手の言う“湯たんぽ”は、謂わば“添い寝”のことを指しているというのは直ぐに理解でき「______要らない。」と一蹴して。其の後シャワーを浴びて身支度を整えると日付が変わる頃にベッドへと入る。昨晩の出来事が尾を引いて、1日あまり体調が良くなかったため今夜は早く休もうと考えて。 )
アーロン・クラーク
( 返って来る返事は100%の確率でわかっていた為『素直じゃないですねぇ。』と肩を竦めるだけで終わらせる。相手がシャワーを浴びた後に立て続けに浴室へと姿を消し戻って来た時には既に相手はベッドに横になっている状態で、掛け布団が僅か盛り上がっていた。その白い山を遠目に数秒見詰めてから何を言う事も無く再び浴室へと戻ると、傷みの無い金髪に生温い風を当て根元から確りと乾かして。__時刻はまだ日付けが変わってから然程経ってはいない。特別眠気も無い今、布団に入った所で結局天井を見詰める暇な時間を過ごす事になると思えば、眠る相手に近付きまだ少し湿っている様にも感じられる焦げ茶の髪に軽く指を通した後、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しソファへと身を沈めると、暇潰しとばかりに世界情勢や経済なんかのニュースをスマートフォンで読み進めて )
( 相手が浴室へと向かい扉が閉まる音を聞いてから目を閉じる。やがて戻って来た相手が自分の髪に触れた所迄は辛うじて意識があったものの、程なくして眠りに落ちていて。---しかし、穏やかな眠りは長くは続かない。元々体調が良くなかった事も影響してか、酷く鮮明な夢を見た。静寂に沈んだ幼稚園の一室、辺りは血の海で大勢が折り重なるようにして倒れている。その場に立っているのは自分だけで、他には誰も居ない。靴の先に何かが当たり視線を落とした先には妹が倒れていて______思わず伸ばした手で、指先で彼女の髪を撫でた感覚があまりに鮮明だった。彼女はひと目で命が無いと分かる青白い顔をし、美しい若葉色の瞳は闇を湛え暗く色褪せていて。それはいつか見た、あの写真と同じ姿だ。---血の匂いがした気がして、彼女の暗い瞳や髪に触れた感覚があまりに鮮明で、あの日の感情が呼び起こされた。妹をこんな形で失うなんて、側に居たのに助けられなかったなんて、彼女が今後二度と自分に向かって微笑み掛ける事がないなんて______あの日に感じた絶望と恐怖が襲い、飛び起きた時には呼吸は狂い涙が溢れていた。同時に飛び起きた反動で強い痛みが走り、思わず鳩尾を抑えて蹲る。痛みと恐怖と、どうしようもない不安。「_____っ、う゛…ッはぁ……あ、セシリア、っ……」思わず妹の名前を口にしたものの、浅くしか呼吸が出来ない事で息が苦しい。心臓を鷲掴みにされるような強い痛みのせいで身体を起こす事が出来ず、感情を掻き乱され涙が止まらなかった。 )
アーロン・クラーク
( __暇潰し予定だったスマホ弄りに何時しか熱中し目の奥の重たい怠さを覚えた頃。眠りに落ちる事は無くともそろそろ身体を休めた方が良いだろうと立ち上がった調度その時。呼吸にあわせて微動するだけだった白い布団が跳ね除けられる様に勢い良く捲り上がり、続けて飛び起きた相手の悲痛な嗚咽が静かだった部屋にやけに大きく響いた。真っ白なベッドの上で身体を丸め蹲る相手は明らかに悪夢に魘され目を覚まし、襲い来る過去の記憶や痛みに耐えようにも為す術が無くなっている状態だとひと目でわかる程。狂いそうな呼吸を懸命に抑え付け落ち着こうとする段階はすっとばした様だ。『__警部補、』やれやれと態とらしく肩を竦め近付き、名前を呼ぶと同時に特別な労り無く相手の身体を抱き起こすも、そこで漸く碧眼から止め処無い涙が溢れている事に気が付く。泣きじゃくる、と言う表現が間違いでは無い状態に何処か困った様に笑うと『そんなに泣いたら明日大変な事になりますよ。』勿論の事狼狽える訳でも無くまるで世間話をする時の様な語調で語り掛けつつ、それでも抱き起こした相手の身体を自身に凭れ掛からせる様にして軽く後頭部に手を添えて )
( 上手く力の入らない身体を相手に抱き起こされ、それに抵抗することもなく凭れ掛かるように相手に体重を預ける。胸が張り裂けそうな、と表現すべきか。言いようのない感情が胸の内に渦巻き、一時的なものであろうが少しでも気を緩めればこれまで何とか耐えて来たものが崩れ去ってしまいそうな恐怖感があった。妹の優しい笑顔を覚えていたいのに、血に塗れて思い出したくない姿ばかりが脳裏に焼き付いて離れない。つい先ほど触れたような気さえする柔らかな茶髪も、緑色の瞳も、見ることは叶わない。嗚咽を漏らしながが、どうしようもない喪失感を埋めたくて思わず縋り付くようにして相手の肩口へと自ら顔を埋める。今こうして身体が密着し体温を感じることの出来る距離が唯一、空虚な心を落ち着かせてくれるかもしれないと思った。喘ぐような呼吸は治らず、涙は相手の肩を濡らすばかり。強い痛みをなんとか逃がそうとするのだが一向に楽にならず、小刻みに身体を震わせながら相手に身体を寄せ。 )
アーロン・クラーク
( 鎮痛剤を服用していない状態で痛みがそんな簡単に治る筈も無く、脳裏に焼き付く過去の残像が消える筈も無い。正しく絶望の中に居る相手が今縋れる唯一の相手は目の前に居る自分だけだと言う優越感は気分を昂らせるには申し分無し。相手の碧眼から溢れ落ちる涙が肩を濡らし感じるその冷たさすらもまた気分の昂りを助長させるものだから、幾分も優しくなれるだろう。『可哀想な警部補。__俺にどうして欲しいですか?貴方がちゃんと自分の口で言えたら、叶えてあげますよ。』縋る様に身を寄せてくる相手の背中をまるで子供をあやす時の様にポン、ポン、と一定の感覚で軽く叩きながら耳元に唇を寄せて紡ぐは甘美な言葉。甘い毒を纏ったその言葉は今相手を甘やかす為だけに向けられ、痛みと苦しみの中、涙声で落とされるであろう要望をゆるりと口角持ち上げたまま静かに待つ事として )
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