匿名さん 2021-09-19 00:20:52 |
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『裏切りのサーカス』について
大変遅くなりました。
こちら、実は先日の16日中に視聴していたのですが、一度の視聴では到底噛み砕ききれないことに気がつきまして…
二度目の視聴を計画していたのですが、時間がなかなか取れそうにないため、初見の視聴、及びその後読み漁った他の方の解説に基づく感想を置かせていただきます。
構成等考えず垂れ流しにした駄文ですので大変読みづらいかと思いますが、お目溢しいただければ幸いです。
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冒頭、コントロールとジム・プリドーの密談に始まり、ブダペストで将軍を待つシーン。
この時点で、視聴者側に求められる状況把握能力がかなり高いことをじわじわと悟り、画面や台詞から情報を拾って整理するのに必死でした。
そうなると必然的に、映画に入り込むまでに時間がかかってしまっていたのですが。
その先、罠に気づいたジム・プリドーの緊迫感で、一気に持っていかれました。
主観的なコンテと、絞られていく⇔増大していく効果音の組み合わせによる臨場感が、感覚的にとてもわかりやすくって。
あそこで初めて、『裏切りのサーカス』に入り込んだかもしれません。
自分にとって、この映画の感想は、もうこのブダペストのシーンの時点で集約されているといっても過言ではないかもしれないというか…
情報戦の部分は、読み解く以前に把握自体が難しく、解説による介助を必要に感じるほどだったのですが。
美術・音響・間といった、直接的・映画的デティールのシッな美しさが大変すばらしくて、そこだけで虜にされていました。
私はどちらかといえば、脚本の流れや監督の意図を深読みするが好きなタイプなのですが、『裏切りのサーカス』は良質な難解さが終始敷き詰められているので、映像の迫力やレタッチの美しさというわかりやすい部分に魅入る、およそ大衆的な観方に寄っていたのだろうと思います。
この映画は本当に難しいですね…??でも、全て辿った上でもう一度見直せば発見に溢れていると思うので、主様が五回観たと仰ったわけが非常によくわかりました。
続いて、ロンドン・サーカスでの会議シーン。
ベネディクト・カンバーバッチがまだ若い!と声を上げて笑い、中年から初老の男どもしかいない会議室の図に「この映画らしさ」を感じて魅入り…。
この時点ではコントロールのビジュアルにそれほど注目しなかったのですが、この役者さん、後から回想などで再登場を重ねるたびに、どんどん目元に渋い味を感じるようになっていくから不思議でした。
そこから、静かに流れはじめるタイトルバック。
途中事切れていた老人がコントロールだったことに、すぐには気づきませんでした。あの死に方は、病死とも暗殺ともとれるように意図していたのでしょうか。
ここでスマイリーが眼鏡を買い替えたのは、心機一転を思わせる脚本の流れに沿いながらも、観客のための視覚演出を知らせる狙いがあったのですね。
恥ずかしながら視聴中は全く気付きませんでしたが、こういう工夫をする映画が、個人的にとても好きです。
それから、スマイリーの自宅の扉に挟まれている木片。
あれは職業柄による用心である、というのは見て取れましたが、ここにもうひとつ、妻アンへの煮え切らない感情が込められていたのには、膝を打つ思いでした。
先ほどの眼鏡といい、映画的な演出、キャラクターの表層的描写、キャラクターの内面的描写、といった様々な目的がひとつのデティールに幾重にも込められていて、とても丁寧に造り込まれた映画なのだなあと。
このオープニングが終わると、いよいよ高官たちの密談、スカルプハンターの電話(「首狩人」の元ネタはここでしたか!)、新体制となったサーカス、スマイリーとギラムの調査の始動、スマイリーの回想、ギラムの暗躍…といった具合で、「もぐら探し」の経過が描かれていくわけですが、この地道なデティールが、初見だとその意味をきちんと把握しきれず、恥ずかしながら雰囲気で視聴しておりました。
が、屋内スポーツで汗を流していた高官たちが、更衣室で話すシーン。
ここの背景で、モブの男性がシャワーを浴びている全裸姿が後ろ半分だけ映されていたことの意味が、後になってわかりました。
視聴時は「ああいうのだいたい女体を使ってサービスシーンにするものだけど、これはおっさんたちの映画だもんな~」程度に思っていたのですが、そうやって視線を吸われて少し考え事をさせられた時点で、制作陣の掌の上だったと言いますか。
あれはこの映画の情緒的な部分に、ホモセクシュアルのエッセンスが非常に重要にかかわっていることを、最初に匂わせたシーンのように思います。
そしてこの直後、スマイリーがコニーを訪ねるシーンでも、先ほどまで芝居をしていた若者たちが、堂々といちゃついてキスをしてから、思わせぶりにどこかへ消えていく描写。
そしてそれを見たコニーが、スマイリーを誘惑するような発言をする流れがありました。
これについても、ここまで事務的に「もぐら探し」の経過を描いてきた後に、「登場人物たちには感情や肉欲がある」ことをさらりと示していたのかもしれない。
単なる情報戦の映画ではなく、その背景に個々人のどろどろした感情や欲や性愛が流れているという話が、こういう些細な、一見謎に思える挿入によって、説得力を増していたかもしれません。
それを踏まえて再度考察すると、コニーの家で初めて出てくる、ビル・ヘイドンとジム・プリドーの若かりし頃のあの写真……。
コニー自身は「可愛い子たちだった」と昔を懐かしむニュアンスで出していますし、私も視聴時は「昔から仲が良かったんだなあ」くらいにしか思いませんでしたが、それどころじゃない意味が込められていたわけで。
勘の良い人なら、今のところ直接顔を合わせた描写のないふたりの関係について、この時点でうっすら読み取れたのかもしれない。
そしてこの後、本来原作にはない、クリスマス・パーティーの回想が始まりますね。
これは一度限りでなく、たしか三度ほど挟まれるわけですが、これは読解力が追い付いていない視聴者にとって、非常にありがたい工夫でした。
楽しい音楽に明るいパーティー、そこに織り込まれる登場人物たちのキャラクター描写、という、感覚的にもメタ的にもわかりやすいシーンだったからです。
それまでの地道な雰囲気から一変する新鮮さもありましたし、そもそも視覚的にも、灰色やセピア調でととのえられた現在から、暖色系に明るいものへとレタッチが変更されている。
古き良き時代のサーカス、に埋没する感じ、それ自体も味わっていて楽しかった。
また、これは解説記事を読んで膝を打ったのですが。
怒りっぽいコントロールに粗末にされて内心怒りを燻ぶらせているパーシー・アレリンの描写は、単に性格描写であるだけでなく、後々の放逐シーンに見る精神的弱さを予感させるものでもあったわけですね。
傍の女性が宥めようとしても荒っぽくはねのける辺りに、プライドを虚仮にされた男のささくれた気持ちがよく現れていて。
それを考えると、コントロール失脚後その後釜についたパーシー・アレリンは、どんなに悦に入っていたことでしょうか。
やはりここでも、ホモセクシュアルとはまた違う、社会やパワーバランスといった方面での男の心理が、それとなく匂わされていたのか。
それ以外にも、ビル・ヘイドンとジム・プリドーの様子や、ビル・ヘイドンとスマイリーの妻アンのさり気なくも危険な気配=主人公スマイリーの情緒的な部分にかかわるエッセンス、という、これまた重要な描写が、ごくさり気なく織り込まれていて、クリスマスのシーンは本当に終始見事でした。
そしてここから突然変わって、生きていたジム・プリドーと、冴えない少年ビル・ローチの交流の物語。
ここも視聴時は挿入の意図がわからず、なんとなくで見ていたのですが、「ビルを何人も知っているよ、みんないいやつだ」という一見なんてことない台詞に、ここでも深い意味が込められていたわけですね。
そしてこの前、教室に入り込んだ取りをジムが叩き殺すシーンがありますが(ほとんどあれをやるためだけにあのシーンを入れていたのかと思います)、これについては終盤で言及します。
突然のジム・プリドー生存バレの後、今度はスマイリーの側でも状況が変化、すなわちリッキー・ターが参入。
ここでは彼とイリーナの情を交わしていく様が回想の形で描かれていきますが、これは事実の描写でも、彼の主観による描写でも、もぐらとスパイの過去の関係のカムフラージュでも、或いは匂わせでもあったのかもしれない。
本当にいろいろな見方ができますね。
この後、イリーナの夫が浴槽の中の惨殺死体で出てくるシーン。
あれは『裏切りのサーカス』の中でも最もショッキングな、わかりやすい猟奇的シーンで、固まるイリーナの背後から、ごく普通の顔をして現れるKGBの表情が、逆に不気味で見事でした。
これも解説を読んでなるほどと思った話ですが、あの死体が出てくる前、リッキー・ターがイリーナに電話をかけるシーンで、精肉店の店員が肉にどんっと包丁を振り下ろすシーンがある。
あれはさりげない模擬的描写だったわけで、本当にこの映画は丁寧な造りをしていると再三感嘆させられました。
その後再び、スマイリー一派によるもぐら探しが進行していくと同時に、サーカス上層部の四人組もただぼんやりと探られてはいないような描写が続き。
ロイ・ブランドに歌で脅されたギラムは(この映画、クリスマス・パーティーと言い歌を効果的に使う節がありますね)、リッキー・ターが本当に戻っていたことに激高して殴りかかる。
あのシーン、ギラムにぼこぼこにされたリッキー・ターが、血塗れの口に詰まった何かをとるような些細な描写が、リアルな感じがしてとても好きでした。
いきなりすさまじい乱暴を働かれたのに落ち着いたままでいるのも、現場で荒事を請け負う人間ならではの、状況を見据えた冷静さのように見えます。
このとき名将ぶりを見せたスマイリーは、仕事のきつさに少し参ったギラムを誘い、もぐらのボスことカーラについて、昔接触したときの様子や、彼自身の見解を述べていく。
この映画の主題は「もぐら探し」であることもあってか、ここでカーラはその顔を見せず、その人柄や感情も、スマイリーの言葉の上で語られる。
おそらくここは、私が視聴時に最も読み取れずにいたところで、スマイリーとカーラの間に多くの結びつきがあることが、今でもまだぴんとはきていません。
最視聴することで目が向くようになる部分でしょうか、小説版はもう少し詳しいのでそちらも修めたいと思っています。
スマイリーの語る話から一転、今度はギラムの短い描写。
一緒に暮らしている恋人らしき男が、ギラムに対し、わけも告げずに別れさせられたことへの言及と思しき台詞を伝えながら出て行ってしまう。
ここで初めて、ピーター・ギラムは同性愛者で(も)あることが明かされますが、私はこれを、「仕事柄プライベートが崩壊することもままあるんだな、大変だな」くらいの表層的な部分しかさらっていませんでした。
よくよく考えてみると、映画冒頭のギラムときたら、ビル・ヘイドンとともに女好きっぽい言動をしているし、通りすがりの女性の脚に目をやってもいる。
前者は男づきあいで演じた部分もあるにしても、後者は明らかに彼自身の素の反応で、ピーター・ギラムは両方「いける」タイプであることがわかる。
これはすなわち、物語の黒幕、ビル・ヘイドンのことを示唆する手がかりでもあるわけで、原作におけるピーター・ギラムの人物像からの改変が、非常に巧みに成されているのだなと、ここでも唸るばかりでした。
余談ですが、オーディオコメンタリーにて、ピーター・ギラムが無言で鳴き咽ぶシーンを、ゲイリー・オールドマンがボソッと「...lovely...」だなんて零したという話も見かけました。
わかる、可哀想な若造は可愛い。
その後再び、クリスマス・パーティーの描写。
ここにジョン・ル・カレがカメオ出演している話は視聴前から知っていて、どれだろうどれだろうと探してみましたが、結局わかりませんでした。どこのシーンだろう…?
このときスマイリーの妻アンとこれ見よがしに不倫していたビル・ヘイドンは、その回想シーンで、ジム・プリドーが撃たれたという連絡を聞き、「彼を死なせたら復讐してやる」と激しく息巻く一幕があります。
ここも初見時は、「サーカス上層部ともあろう人が、ずいぶん強い言葉を使うのだな」「それくらいジム・プリドーが必要不可欠な手駒ということか」とすっとぼけた感慨しか得ていなかったのですが、これもすべてがわかった後だと意味が違って聞こえてくる。
その後、ジム・プリドーが回収されてまずい事態になったからと、サーカスの職員を伴ってジム・プリドー宅の家探しをしに行くわけですが、そこでコニーの手元にもあったあの写真がまた出てくる。
このときのビル・ヘイドンの表情、というか間が…
ここで初めて微かな違和感のようなものがありましたが、この時はまだ明瞭になっていませんでした。
場面変わって、スマイリーとジム・プリドーがついに接触し、ジム・プリドーの回想が語られるシーン。
ブダペストで捕まったジム・プリドーは、おそらく24時間騒音を聞かされ眠らせてもらえない拷問に見舞われていましたが、その横では監視役らしき女性が、ジム・プリドーにまったく無関心な様子で、のんびり書物を読んでいた。
あの淡々とした拷問シーンはとてもリアルに感じられて恐ろしかったです。
しかし最も印象的だったのはその後、ジム・プリドーの前に面割りの為引っ張り出されたイリーナが、全く呆気なく頭を撃ち抜かれたシーン。
その躊躇いのない冷酷無慈悲な素早さや、リッキー・ターが愛情を仄めかした女があっさり撃ち殺された衝撃の強さもさることながら。
イリーナの死体が倒れた後、壁に飛び散った脳漿が、重力に従って時間差で落ちるあの描写、あれがすごく…語弊のある言い方をしますと、たまらなく好きでした。
あのシーン、ピントはあくまでジム・プリドーに合っていて、目の前で処刑を見せられたからのきつい怯えをメインとして置いています。
だからあの壁から落ちた脳漿は、いわば動く背景色のようなものであって、あくまでも画面を補完する一部に過ぎないのですけれど。
手前に怯えるジム・プリドー、背景に時間経過とともに落ちる脳漿、そういった奥行きのある画面構成がたまらなく好き。
ある意味、手前と奥とで、生者と死者(の一部)の対比にもなっているし、怯えきっているために硬直しているジム・プリドーと、死んで物質になったからこそ重力のまま動きを見せるイリーナ「だったものの」の、逆転的な静と動の描写でもあるというか。
言いたいことが上手くまとまりきりませんが、あのワンシーンは、『裏切りのサーカス』中でいちばん好きな画面でした。
この後、ジム・プリドーの話を手掛かりに推理を深めたスマイリーは、リッキー・ターを使ってもぐらをおびき出す作戦を考えるわけですが。
リッキー・ターが協力の見返りとして、イリーナの救出を要求すること、スマイリーがそれを呑むことが、何とも苦くて切ない。
スマイリーも観客も、イリーナはとっくに殺されていることを知っているけれど、スマイリーはそれでももぐら探しのため、ありもしないニンジンをリッキー・ターの前にぶら下げるわけだ。
この非情さというか、情報戦に従事するプロならではの判断力が、この映画に深みをだしていたように思います。
ギラムもかつて、リッキー・ターの帰還を敢えて知らされないままサーカス内を嗅ぎ回ったため、上層部にがつんとゆすられて震え上がっていたけれど、ここはそれの比じゃない辛さ。
ここからいよいよ、スマイリー一派が詰めていくシーンが始まりますね。
エスタヘイスがエレベーターで上がっていくと、扉の開いた先にギラムが逆光の構図でじっと構えていたシーンは、鬼気迫る静かな恐ろしさがありました。
このエスタヘイス、これまではあまりぱっとしない役どころだったというか、ほとんど印象になかったので、「送還しないでくれ」と言いだした時は、「君元々そっちかどこかの出身だったんか…?」と首を傾げながら呑み込んでいました。
多分この辺りは大人の映画だからこその造りで、彼の怯えた台詞によって、観客には明かされていないがそういう背景があるらしい、と察するようになっていたのか。
これまでも、シーン中の自然な流れから発生する台詞から、次はどこへ行く・だれと会う・何をする、がその次のカット変換で無言のうちに示されていたこともありますし、やはり随所に深い読解力が必要になりますね。
飛行機まで引っ張り出されたエスタヘイスが、ぺらぺらと全て喋ってしまうのは、彼の打たれ弱さをありありと物語っていました。
でもこれは、様々な、とっくにわかりきった情報を呼び水にしたうえで、飛行機による送還匂わせブラフでより引き出した情報のようにも思います。違うかな…?
ブラフというには様々な裏付けがしっかりなされているものの、エスタヘイスの日和見主義な性格や、送還を恐れる気持ち、そういった心理的な部分に切り込んで、いちばんほしい情報を容易く引き出したのではないか。
またここについて、参考に読み耽っている解説記事が、
「エスタヘイスのような東欧の小国出身(と思われる)者は、歴史に翻弄され、日和見主義で生き抜かざるを得なかったのだから、大英帝国の人間であるスマイリーが『忠誠心』や『裏切り』に触れるのは傲慢である」
「『忠誠心と裏切り』というエッセンスは、サーカスの物語にかかっているのはもちろん、主人公スマイリーの哀れな献身と、その妻アンの奔放な裏切りにもかかっている」
という知見を述べていて、これも本当に噛み応えがあるというか、つくづくするめ映画だなというか。
この後いよいよ、リッキー・ターをちらつかせて隠れ家におびきだすことにより、「もぐら」とご対面を果たすシーン。
闇の中のスマイリーのコンテ、そして絞られていく⇔増大していく効果音の組み合わせ。
ここでまた、冒頭のジム・プリドーのあの時と同じ手法が反復的に使われて、物語のほとんどを唖然と眺めていた私でも、その緊迫感に再びみるみる引き込まれていきました。
ただ、このシーン、原作小説ではもっと違った味わい深さがあるとのことで、やはり『寒い国から帰ってきたスパイ』で魅せられたジョン・ル・カレ自身の語るこの物語を読まねばという思いに駆られています。
さて、「もぐら」の正体はビル・ヘイドンであったことがいよいよ明かされるわけですが、ここはまったく述べづらいというか、映画の中の情報戦についてけずじまいだったので、「あ、そうなんだ…」という感じでした。
強いて言うならば、スマイリーの妻アンとの描写や、ほかの三人に比べて如何にも魅力的=意外性のある立ち位置であること、あとはコリン・ファースは有名な俳優なので、まあそうなるよなあというメタ的な納得感……があったくらいでしょうか。
絵というか、見た目の特徴的には、パーシー・アレリンの俳優さんもなかなか味があって好きなのですが(逆にほかのふたりについては、あまり印象がないともいう)。
とはいえ、処理する情報量がここまであまりに膨大で、推理・予想する体力が全然残っていませんでした。
ただ、本国イギリスにおいて、「もぐらはビル・ヘイドンである」というのは明智光秀の裏切りくらいには有名な話であり、向こうの人たちはわかっている状態でこの映画を観る=制作陣も、バレていると知った上でこの映画を作り込んでいるそうです。
そうなると、あの少しあっけらかんとしたというか、ババーン! というショッキングさを伝えはしない、ごく静かなネタ晴らしには、納得がいくというか。
ひいては、脚本の細かい部分や、画面のレタッチ、視覚的・効果音的に直接的な演出、といった点に注目するのも、あながち間違った観方ではないのかもしれないな…と、自分を納得させています。
さて、炙りだされてしまった「もぐら」は軟禁となり、無能なパーシー・アレリンはふらふらといずこへか消えていく。
エスタヘイスは飛行場でのシーンがあるから良いとして、ロイ・ブランドはどうなったんでしょう。
ギラムを歌で脅すシーンがあったくらいで、やはり彼は印象が薄かった気がします。
またここで解説の引用となるのですが、このモスクワ送りが確定した東側の犬ビル・ヘイドンは、KGBの手中にあるこちらの工作員との交換材料になるのですね。
要はゲームの駒のようなもので、ここで「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」他諸々の顔写真をチェスの駒に貼り付けていた意味が効いてくる。
あれは観客向けに「この人たちがもぐら候補ですよ」「この野郎が本丸ですよ」という視覚的演出を成していただけでなく、スパイならではの人間の扱い方にもかかっていたわけなのか。
もうつくづく、何度目にもなりますが、丁寧なダブル・トリプルミーニングに脱帽するばかりです。
ここでスマイリーとビル・ヘイドンの、最後の会話がなされますが。
ビル・ヘイドンの心中を明かしつつ、諸々の答え合わせも辿りつつ、ひいてはスマイリーの心情が最もあらわになるシーンでもある。
スマイリーは愛しのアンを寝取られても哀れなほど仕え続けた、惨めで可愛い負け犬だったのに、ビル・ヘイドンがもっともらしい矜持のようなものを見せると、途端に自尊心がぐらついて感情をあらわにするわけです。
この辺りも初見時はぼんやりと見ていたのですが、様々な解説を読み、作中のスマイリーの性格描写を思い起こすと、本当にどこまでも、人間故人の感情に深く切り込んだ話になっていることがわかる。
そういう点では、『寒い国から帰ってきたスパイ』に見た、ジョン・ル・カレの作風をきちんと再現しているような気がします。
その後のビル・ヘイドンの、「僕は名を残す人間だ」という空虚な言葉には、これは視聴時に、スマイリーと一緒になって呆れたというか。
散々高尚なお言葉を垂れていたけども、そんな動機のために「もぐら」をやっていたのかと、がっくりくるというような。
ですからその後の、「アンに伝えたいことは?」と尋ねるスマイリーが落ち着き払っていたのにも、これは納得がいきました。
スマイリーの中で、長年嫉妬やコンプレックスの権化という脅威だったビル・ヘイドンは「なんだ、つまらない男だった」というように、ある意味卒業できてしまったわけだ。
ビルはこのとき、スマイリーを揺るがすためにアンを誘惑していたと明かしましたが、スマイリーはこれに、「ある時点まではそうだった」と返している。
このところはまだちょっと、よくわかっていないままです。
他の方の解説では、「ビル・ヘイドンの底を知った今は効かなくなった」という意味として読んでいるものがあるのですが、今はもうビル・ヘイドンも囚われの身で、これからはアンを誘惑しようがないというか、スマイリーを揺さぶるも何も、もう自分が地上に引きずり出されてしまった後だしというか。
ここのところは小説版の描写次第でまた違ってくるのかもしれないので、大事な疑問として覚えておこうと思います。
そういえばビル・ヘイドンは、自分の大事な人間に金を渡してほしいと、要は去る自分の尻拭いをスマイリーに託すわけですが。
ひとりは女、もうひとりは男というのが、後者は「ん?」となっていました。
可愛がっている後輩のような、世話している関係の者か?くらいに思っていましたが、もうそんなどころじゃなかったのか。
アンなりジム・プリドーなりとよろしくやっていただけじゃなく、もうさらにふたり、男と女でひとりずつ愛人がいると。
どこまで手が広いのだろうこの男。
さてその後。
三度目、最後のクリスマス・パーティーの回想がやってきて、ビル・ヘイドンとジム・プリドーが意味深な視線を交わします。
私は本当にもう鈍くって、ここでようやく、「こいつらの視線、なんかただの同僚とか友人のそれじゃないよな…?」「そういう空気に見えるな?」となる始末でした。
ですから視聴後、ビル・ヘイドンとジム・プリドーが恋愛関係だったというそのものずばりな言語化を見て、「本当にそのままだったんかい!」と拍子抜け?したというか。
余談ですがあのシーン、ビル・ヘイドンの立ち振る舞いの中に、ゲイの人ならそうと気づく、さりげなくも特有の仕草があるそうです。
どれなんだろうと見返したけどどれかはわからなかった。
あの顔のパーツを中央に集めてくしゃっとやる笑い方だろうか。
そういえばあの後、ジム・プリドーが何かに気づいたような、妙にシリアスな表情を浮かべていたけれど、あの心情もまだ読み解けていません。
そしてその、もはや直接的なシーンを挟んでからの、ジム・プリドーによるビル・ヘイドン処刑シーン。
撃たれる前にビル・ヘイドンがふとそちらに気づき、ジム・プリドーも一瞬見つめ返すものの、しかしカメラは(気持ちは)切り替わることなく指を動かし、次のカットでビル・ヘイドンはあっさりと撃たれ傾いでいく。
映画的にもクライマックスの頃ですが、ジム・プリドーは、自分が長年捧げてきた愛情や「忠誠心」に、ビル・ヘイドンの「裏切り」を受けて、自ら終止符を打ったわけですね。
このところのビル・ヘイドンとジム・プリドーの間にあった感情の波は、これまでごらんのとおり、私がそういった方面に大変に疎いので、考察の浅さというよりは、「そういうものなのだなあ」くらいの気持ちで、様々なご意見を読みふけろうかと思っています。
個人的には、ビル・ヘイドンはほとんど何も感慨なく、裏切りを知ったジム・プリドーの選択肢をただそのまま受け入れていた=自殺に等しい道を選んだように思えるのですが、どうだろう。
スマイリーが尋ねに行った時も、泣いていたのか、目が赤かった気もしますし。
ただこのシーン、原作によると、ビル・ヘイドンは首を折られた死体となってスマイリーやギラムに発見されるようですね。
たしか描写として、「鳥の首でも絞めるような、慣れた手つきを思わせた」というような地の文になっていたはず。
そして同じく原作では、作中初めてジム・プリドーの生存が明かされる教室でのシーンで、あの迷い込んだ鳥を、箒か何かで叩き殺すのではなく、首を絞めて殺したという。
ここから、ビル・ヘイドンの下手人はジム・プリドーであることが導き出せる、という話になってい方と思います。
個人的にはこちらのほうが、あの鳥を殺すシーンのミーニングも(あのシーンだけを見れば「元スパイの男の俊敏さ・非情さは今も失われていないことがわかる」感じになっていますね)、ジム・プリドーを始末するときの心境も、よりいろいろなものが深く味わえて好きだったりします。
やはり原作、原作を読まなければ。
この後、リッキー・ターが誰かを待っているような様子なのも切なかった。
言うまでもなくイリーナのはずで、『寒い国から帰ってきたスパイ』のリーマスの心情に驚いたのと同様、そこまで本当に彼女を想っていたのかと切なくなりました。
正直なところ、イリーナにコンパクトのミラーをキラキラさせるシーンでは、情報を引き出すためだけにそういう「ごっこ」をしていたのかと思ったので、スマイリーにイリーナ救出を頼むシーンでは、まさか本当に情を寄せていたとはと驚いていました。
もうとっくに生きていない女を、そうと知らずに待つ姿が切ない。
あのカットでは、彼もどこかで、何かおかしいことを薄っすら感づいている表情だったように思う。
その後、スマイリーが帰宅すると、当たり前のようにアンが戻ってきている。
ここ、スマイリーが軽くよろめいていたという話ですが、初見時はわからずにいたので、要確認だなと思っています。
あのアンの、結局ほとんど出てこないのにスマイリーの人物描写をがっちり握っている感じは、本当にこの映画の良い塩梅だなあと。
強いて言えば、アンのそれが成功的過ぎて、同じことをやっている筈のカーラ周りはいまいちわからないままというか。
でも正直、あの尺の映画でスマイリーを描写しようとすると、カーラ周りの掘り下げはいったん弱めにしておいて、「もぐら」も深くかかわっているアン周りに注目するのが自然かなあとも思っています。
そうして最後、亡きコントロールが退いた後に座っていたパーシー・アレリンの椅子に、今度はスマイリーが満足げに鎮座している。
「もぐらを探す」という使命をしかり果たしきった男が、内面的にも、妻を盗んだ魔男への怯みや女々しさを脱却したことが(けれどもアンの帰宅時に見るように、元の弱々しい性質がそう変わったわけではないのだけれど)、ありありと真正面から描かれる。
絵面も、バックに流れる『ラ・メール』のライブ音源ゆえの拍手万雷も、映画のラストとして最高にマッチしていて、完璧な〆方でした。
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ここまでだけでもあまりに多くの駄文を書き連ねてきましたが、正直この映画は語ることが多すぎて、これ以上はまとまりがなくなってしまいそうなので、中途半端ですがこの辺りで一度筆をおきたいと思います。
とにかく、すごくよかったです。
難しすぎてわけがわからなかった、という感覚はもちろんかなりあったのですが、きちんと読み込めば読み込むだけ面白さに気づけるし、脚本の難しさとは関係のない、映画的な構造や制作側の意図を噛み砕くのも、本当に楽しかった。
素晴らしい映画をご紹介くださり、本当にありがとうございました。
改めて。
あの当時、リアルの多忙化によってせっかくの物語を打ち止めとさせていただきましたが、それでもずっと、物語の世界に…だけでなく、主様とああして、同じ情熱に浸りきった思い出そのものに、心を寄せておりました。
主様は今どうされているでしょうか。
お元気でしょうか、日々楽しく過ごされているでしょうか。
あのとき分けていただいた熱を、今こうして、ようやく自分も受け継ぐことができました。
素晴らしい読み物(映画もこれに含めます)は、一生頭のなかで反芻するタイプですので、誇張なく、主様の影響をこの先ずっと受けていると思います。
『寒い国から帰ってきたスパイ』も『裏切りのサーカス』も、どちらも一度味わっただけでは到底足りないとんでもない作品なので、まずはそちらを読み込みますが。
特に原作小説の方について、これからもいろいろ触れていくつもりです。
改めて、本当に本当にありがとうございました。
いつかの折に、興奮のまま書き殴った新規ファンのこの感想が、先輩である主様の目にも触れたらいいな、と願っております。
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