△ 2021-03-29 01:55:20 |
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(ぱちりと目が覚める。ふと見た時計の短い針は3の辺りを指して外はまだ暗闇に包まれている。嫌な夢を見た。この平和な世界が壊される夢。建物は軒並み壊され、人が死んで、灰色の世界になっていくような夢だ。ただの夢と割り切るには妙に生々しくて本当に起こったことのようだった。二度寝しようと布団を被ってもすっかり目が冴えてしまって眠れそうにない。それに1人で入る布団はシーツが冷たくて何だか寂しさを感じてしまう。だからといって隣の部屋の彼を起こして一緒に寝て貰うのをお願いするには真夜中過ぎる。幾らいつも彼を振り回しているとはいえ熟睡している所を起こすのは忍びない。ぐるぐると考えても良い考えは浮かばなくて結局は気分転換に外に出ることに決めた。といってもわざわざ服に着替えるのも面倒でパジャマにカーディガンだけ羽織って部屋の外に出る。物音に気付きそうな彼の部屋の前を通る時は特に足音を立てないように慎重に歩みを進め、階段を降りて行く。なんだかスパイみたいで悪くない気分だ。玄関までたどり着けば靴を履きそっと扉を開けて外に出る。思った通り外は夜の静寂に包まれている。それに春とはいえ深夜だから随分と肌寒い。カーディガンだけは失敗かなと思いつつも少しだけ散歩することにする。周りを見れば夢で見た光景とは違う、人の営みのある家や建物が並んでいる光景に安堵の息をつく。現実じゃなくて良かった。ただの夢だと分かっていたはずなのに実際に見るまで安心出来ないなんて随分と臆病だ。自分の夢はこの平和をいつまでも守ることであるはずなのに、いつの日か何か間違えて壊す側に回ったらと思ったら怖くて堪らない。実際に力を手に入れて守りたい人が出来てから表にでてきた自分の弱さ。自嘲するように笑ってみてもいつもみたいにツッコミは返ってこない。夜の寒さが静けさにこの世界に一人ぼっちになってしまったような錯覚に陥っていた。)
用が終わったならさっさと帰れ。いつまでそこにいるつも、ッ!?…な、に
(仄暗く湿っぽいこの場所に似つかわしく無い新品のようなスーツを着て突っ立っている来客者。メールや電話のあるこのご時世にわざわざ業務連絡の資料を手渡しで持ってくるとは。他の人に押し付けるだの方法は幾らでもあっただろうにこのお坊ちゃんがわざわざ接触してくる意図が読めない。そもそも自分の事は憎いと思っているのでは無かったか。眉を顰め彼の表情を観察してみるが綺麗に整った方の顔が真顔であるだけだ。それにこうして資料を渡したならさっさと立ち去ると思ったのに、彼は此方に目線を向けて動かないままでいる。いつもと違う感じに居心地の悪さに似た何かを感じては追い払うように冷たい言葉を吐く。彼はこんな湿った日陰のような場所にいるべき人間ではない。もっと多くの人の為に、未来の為に活躍出来る者で陽の下で輝くべき人間だ。未だ動く気配のない様子に面倒そうに溜息を付けば椅子から立ち上がり彼に近付く。追い出す意思を示そうと彼の胸を押そうとして伸ばした手を突然引っ張られた。予測不能な動きに引っ張られるまま前のめりになれば唇に柔らかな感覚。信じられない物を見るように目を見開き、言葉も出ない。一方で文字通り目の前の彼は何故か笑っている。反射的に後ろに逃げようとすると腰に手が回され、ぐいっと力強く引き寄せられた。思わず全身が強張る。唇が僅かに離れると口から上擦った困惑の呟きが零れ)
(事務所の扉にそっと触れる。自分と外を隔てる境界線。ここに来てから数度しか外に出た事は無い。明るくて様々な色の溢れる彼の好きな街。だけど自分はここから出る事は出来ない。今の待遇が苦痛という訳でもない。あの頃よりは自由で好きに調べ物だって出来るし彼と仕事が出来るのは充実感がある。胸を張ってここに来れて良かったという事は出来る。だけど、だからこそ。時々妙な不安に襲われる。彼は誰からも好かれている。この事務所にも外にも居場所があって自分の知らない所で知らない事をしている。対して自分はここにしか居場所がない。もしも彼と彼女に見捨てられてしまったら。また明日と告げて二度とここを訪れなかったら。彼の家も知らない、連絡先だって彼が出なければ無いも同然だ。真夜中の暗い事務所でそれを考えるだけで息が詰まりそうで縋るように彼の名前を呼びたくなってしまう。彼は自分にとって太陽のような人だ。普段はかっこつけで頼りないけど芯は何処までも頑固で強くて自慢の相棒。暗い闇から差した一筋の光。一度その温もりを知ってしまったから今度はそれを失いたくないと思う。許されるなら自分だけにそれを向けて欲しいとも。こんなワガママを抱えてると知ったら彼は困るだろうか。捨てられたくない、必要として欲しい。そんな子供みたいな渇望が頭の中に渦巻いている。どうすればそれが叶うのか、地球の全ての知識の詰まったこの頭で考えながらもまた明日彼にこの場所で出会えることを真摯に願っていて)
……随分増えたね、ここでの思い出も。
(昼過ぎ頃、この事務所の主は調査に出掛けていて今日は一人だ。興味を持った単語の調べ物も終わり上がってくれば既に人は居なかった。自分とは言えばやることが無く時間を持て余していると自らの髪が以前より伸びていることに気づいた。視界も少し悪く何より鬱陶しい。気付いてしまえば余計気になってしまってひとまず何とかしようと彼のデスクに向かう。デスクの上から2番目の引き出し、そこには自分に関する物が仕舞われている。今まで外に出て興味を持って買って貰った物や行った場所のパンフレット、撮った写真や糖分補給に必要だからと常備されているチョコ菓子などなど。カッコイイ男を目指す彼の机には似合わない、だけど自分の為にと許されているスペースだ。その中でも特に数が多いのはクリップだ。単に文房具として使うような無機質なものからカラフルなもの、キャラクターがついてるものなど種類は多い。ここに来て過ごすうちに髪が邪魔そうだからと彼がその場にあった物で留めてくれた思い出の品。その内に自らも使うようになって、それを見てか彼も彼女も良いものを見つければ「お土産」と称して買ってきてくれるようになった。このクリップは既に自分のアイデンティティの一つとなっている。一つ一つ手に取ればいつくれたか直ぐに思い出されて、積み重ねた思い出の量を物語っている。ぽつり、と零した感想は嬉しげな響きとなって部屋に満ちる。既にここは自分の大事な家で居場所で、ずっと居たい場所だ。そんな感傷に浸りながらもその中から彼が一番最初には選んでくれた目玉クリップを手に取れば長くなった髪を簡単に留める。壁にある鏡に目を向ければいつもの自分が嬉しそうな笑みで映っていて)
…よし、出来た! 喜んでくれるかな…
(冬も終わりを迎えつつある今日この頃。そして何とか聞き出した彼の誕生日の数日前。手元にあるのは今しがた出来上がったばかりのプレゼントだ。協力してくれた叔父に礼を伝えて今一度その仕上がりを見る。黒を基調とした本体に落ち着いた赤の枠、そして黄色の文字盤をはめ込まれ、銀の針が一秒一秒時を刻んでいる。彼への誕生日プレゼントを考えた時、まず浮かんだのがこの時計を送るというアイデアだった。そしてスマホで色々調べた時に見た時計を送る意味、【同じ時間を共有したい】が自分達にピッタリのように思えた。幸いうちは時計屋だ。叔父に時計を作ってみたいとお願いしてみると最初は驚いたようだが彼へのプレゼントだと説明すると嬉しそうな優しい笑顔を浮かべて快諾してくれた。といっても1から作るには難しく家にあった中古の時計を塗装して組み立てたようなもの。それでも慣れない細かい作業で大変だったし、なにしろ同じ家で暮らしている彼にバレないように時間を作るのに苦労した。それと不意に現れて不満そうに止めさせようとする従者の対応も。そんな苦労を経て世界で一つだけの時計。時計をしてる所は見たことがないが、きっとプレゼントした物ならしてくれるだろうという自信はあった。今すぐにでも渡したいとはやる気持ちを我慢しながらもその時のリアクションを期待しては口元がにやけて)
(乾いた足裏の感触。暖かな砂がまとわりついている。もう一歩踏み出せば今度は湿った冷たい感触がして足先を波が撫でる。太陽の光を反射する海面は何処までも広く遠くへ延びていて水平線がコントラストの違う青の空と区切りを示している。全ての生命はこの海が起源らしい。その説に納得してしまう程海は広大で全てを飲み込んでしまうような美しさと怖さを秘めている。呆然と自分はそれを見ていた。もっと近付きたい。興味が願望へ。行かなくては。願望はいつのまにか義務感に変わっていた。更に歩を進める。冷たい海水が足を浸す。引き潮がもっと近づけと誘い込むようだ。気付けば膝ほどまで海に沈んでいた。浅瀬の爽やかな水色が徐々に藍色に変わっていく。水の中は地上よりも動きにくく重たい塊に進路を邪魔されているようだった。それでもフラフラとした足取りで底に近づいていく。降り注ぐ太陽の熱を感じられないほど冷たい水に身体の半分が沈んだところで口元は自然と弧を描いていた。生きていく為の体温は水に奪われていき海と同じ温度になっていく。諦観のような寂しさが胸を満たして最早冷たくはなかった。寧ろ心地好いとさえ思えてくる。手が足が感覚を失って端からただ溶けていく。海に世界に。力を抜けていき全てを手放す直前、自分だった名前を誰かが呼ぶ幻聴が聞こえた気がした)
(世界と自分、片方を犠牲にもう片方を救えるとしたならば彼はどちらを選ぶのだろうか。きっと初めはどちらも救おうと意地でもその方法を探し出すだろう。そして本当にどちらを犠牲にしなきゃ行けないとなった時、彼はきっと世界の方を選んでくれるだろうという根拠の無い妙な確信がある。平和を求める彼はちゃんとそれぞれの天秤に乗った物の重さの違いを分かっている。命一つとその他全てのどちらを優先するかなんて赤子でも分かる話だ。心の奥底の粘っこい暗闇は自分のことを選ばないことに不満だと主張しているが、ここで世界を選べる彼だからこそ自分はここまで惹かれている。最もそんな選択を迫られることがないのが一番なのだが。何も無ければこの手を手放す気など微塵もない。この者自身も未来も自分のものだと傲慢に主張だって出来る。だがその然るべき時が来てしまったら、自分はこの手を自ら手放して時には振り払うことが出来るだろうか。大切に思えば思うほど手放すのが惜しくなる。人間関係における心のバグのようだ。ろうそくの火がいつまでも燃え続けることが出来ないように物事には必ず終わりがある。永遠の約束もこの世の摂理をひっくり返す程の力は無い。いつか尽きるこの命の輝き。人生という舞台の終幕のシーンをもし選べるのであれば、彼に幕を下ろして欲しい。
きっと彼は怒るだろうけど。)
そんな日が来なければ良いのに
きみは知っているかい? 今日は中秋の名月、十五夜とも呼ばれている日らしい。1年で最も月が綺麗な日とされていて、今のようにお月見をする文化に加えて、当時は秋の豊かな実りである月を称えてその年の豊作の感謝や祈りを捧げる風習として行われていたようだ。今日、天気が悪くなくて良かったね。ここからでもちゃんと月が見える。…それにしても、幾ら二人で食べるとはいえこの団子の量は多くないかい?みたらしにきな粉、餡子と定番どころを揃えてくれたのは嬉しいけど夕食と同じくらいの量あるような…。…なるほど、そこで和菓子屋の店主の売り込みを断りきれなかったと。何ともきみらしいというか、相変わらず甘いね。仕方ない、これを全部きみに食べさせるのは明日の仕事に支障が出そうだし、ぼくも可能な限り付き合ってあげよう。……、それはそういう意味で捉えて良い奴かい? だって、きみがそう言う文学的な奴は興味が無さそうだから。 その意味も当然分かって言ったのだろう? …それにぼくなりに返すとするなら『風が吹くからこそ月が綺麗に見えるのです』と言ったところかな。どちらか片方だけでは月はこんなにまん丸には見えないからね。…顔が赤いよ、相棒。
……こんなもの吸ってて、何か得があるんですか?
(カーテンで窓を遮った湿っぽい部屋。自分の部屋と同じくらいのスペースに台所も風呂も全てが詰め込まれていて狭苦しいが兄と暮らすあの家よりもニコニコと良い子でいるあのガレージよりも息がしやすい気がする。居残りがあるからと嘘をついて胡散臭い彼の家を訪れていた。胡散臭いを体現した家主は突然の侵入者を追い出すのを諦めたのか隣で煙草を吸っている。先端に火が灯り、数秒後に独特の匂いのする煙を吐き出した。煙草。二十歳の大人だけが吸える嗜好品。ただ肺を汚すだけの毒煙をなぜわざわざ金を払ってまで吸うのか僕には分からない。それが子供と大人の境界線なのだろうか。問いかけた声は大人な彼の声より高く部屋に響いた。見つめる視線と問いが鬱陶しいのかそっぽ向かれた。それが気に障って彼の吸っている煙草をひったくれば真似して自分も吸ってみた。フィルター越しの空気は焦げたような苦さと熱を持って肺に入り、初めて侵入した毒に思わずごほごほと咳き込んだ。やっぱりこんなものを吸うなんてどうかしている。だけど何処か落ち着く味だ、とも考えて彼との口付けの時の味とよく似てることに気付いた。見てみろとばかりに笑う彼の顔が薄く水の張ったレンズ越しに映る。舌が苦い。顔を顰める自分がまだ子供だと言われているような気がしてムキになって彼の首の後ろを掴めばそのまま唇を重ねた。苦い、けども今度は何処か甘い味がした)
--っ!! …はぁ、…ゆ、め…?
(それまではいつも通りだったはずだ。共に出掛けた所に困った街の女性が居て話を聞こうと事務所に向かう所。目の前に彼と女性が並んで歩いていて自分が後ろを着いていく。事務所のドアを開いて女性と彼が中に入っていくのに続いて自分も入ろうとしたら振り返った彼の手が自分の肩を押して突き飛ばす。バランスを崩した身体は一瞬の浮遊感を得て階段を落ちていく。手を伸ばしても届かない。向けられた瞳にはいつもの輝きや温もりはなくて氷のように冷え切った鋭い視線が突き刺すように痛い。その口がゆっくりと【要らない】と低く紡いで全てを拒絶するように閉じられて____。勢い良く目を開いて起き上がった。だらだらと嫌な汗が背中に伝う。体の下にあるのは冷たい階段ではなくガレージの慣れ親しんだソファーだ。バクバクと心臓は過剰に反応して、全力疾走したときのように息が苦しい。さっきのは何だ。今自分がここにいる事と状況の乖離から夢であることは直ぐに推測がついた。だけど夢にしては突き飛ばされた感覚も聞いた声もやけに生々しく現実みを帯びていて冷たく低い声が鼓膜にこびりついて剥がれない。彼はそんな人間ではない。優しくて真っ直ぐで義理堅くて自分を必要としてくれて、相棒だと認めてくれた人。だからそんな彼が自分を要らないと捨てる訳がない。___本当に?検索能力が急に使えなくなったら、変身する必要がないほどこの街が平和になったら、これから長い月日が経ったら、彼に心から大切な女の人が出来たら?彼がずっと傍にいてくれてる保証などあるのだろうか。一度芽生えた不安はじわじわと胸の奥に根を張って広がっていく。何度も息を吸って吐いてを繰り返す内に呼吸の仕方が分からなくなってひゅ、と喉の奥が鳴った。うるさく血流は流れ回っているのに指先は氷のように冷たくなっていく。嫌だ、あれは夢だ、嘘だ。そんな短い言葉すら音にはならなくて脳内がグラグラ揺れる。そんな重たい気持ちを抱いてる自分が気持ち悪くて込み上げる吐き気のまま胃の中の物をぶちまけた。まともなものを食べてなかったせいか液体ばかりだったが、喉の奥が焼けるように痛くて酸っぱい味がする。それでも収まらない不安。助けて欲しいとその一心で何とか連絡ツールを震える手で取り出すが彼の紡いだ4文字がまたフラッシュバックして床に落としてしまった。ひとりぼっちのガレージは冷たく無機質だ。)
…おつかれさま。
(ふと左肩に重さを感じて其方に目線を向ける。先程からうつらうつらと眠そうにしていたのには気付いていたがまさか本当に寝てしまうとは思わなかった。数ヶ月前ならば自分のことを警戒して一時も気を抜かなかったことを考えれば無防備な姿を見せても良いと気を抜けるほど今は信頼してくれていると言う訳で何だか胸が擽ったい。それでも彼の境遇上、気配には敏感そうだから息を殺してそっとその頭に触れる。彼の信念と同じくピンと逆立ったように見える髪。だけど実はその髪質自体は柔らかいことを自分は知っている。手で髪を通せばさらりと1度も引っ掛かることなく撫でることが出来た。彼の抱えてるものは自分と同じかそれ以上に重たいだろう。同じ信念を共有して歩き出したとて戦ってきた時間は彼の方が長いし覚悟もきっと硬い。今すぐに全てを分けて貰えるほど自分の力があるとは言えない。だけどこうして少しの間だけでも彼が安心して休める時間が作れるのならば、無防備な姿を見せてくれるのならば、喜んでその時間を守って支えたいと思う。もう一度彼の頭を撫でる。彼は小さく身動ぎしたけどそれでも起きずに規則正しい寝息を立てている。それがどうしようもなく嬉しくて幸せで小さく労いの言葉を掛ければその顔を飽きるまで見つめていた)
……なんだい、それは? 塗るってどこに、ん……。…なるほど、唇を保湿する薬品という物が存在するのか、実に興味深い。 ぼくも使ってみた、…!
(空気を乾燥してきた今日この頃、いつものように興味を持った事柄を本に移して読む。考え事する癖で触れる唇も乾燥しているのかいつもよりカサカサして若干皮もめくれているが特に支障はない。そのまま本を読み進めていたが読んでいた本に影が出来て、目の前に立つ彼を見上げる。その表情は何か小言を言う時の物だ。見慣れた顔であるから特に気に留めないがそれよりも彼の持つ棒状の物に興味が向く。少なくとも事務所内では見たことないものだ。疑問を投げかけるが聞いては貰えずそれのフタを開けたかと思えば顎に手を添えられ向きを固定される。俺が塗ってやるとか言うがそもそもそれが何か分からないと抗議をあげる前に白い部分が唇に触れ、そのまま全体に塗り拡げられた。塗られたそれを唇を擦り合わせて自分でも馴染ませてみると最初よりも幾らか潤ってかさつきも減ったように感じる。不思議そうにしていると彼はそれがリップクリームという物で唇を保湿するための薬品のようなものだと教えてくれた。初めて知った概念のものに興味が移ると表情を輝かせつつまた指先で唇をなぞり探求モードに入る。ひとまずそのリップクリームというものを観察してみたいし、自分でも塗ってみたい。再び彼を見上げてその意思を伝えようとするがその前に彼の瞳が何かに揺らいでいることに気付く。目が合ってそれがより一層色濃く靡いたかと思えば潤ったばかりの唇に彼の唇が重なって)
(記憶もない。恐らく公共的な書類にも僕の存在は記されていないだろう。ともすればこの国での扱いでは僕は存在していないと同義であり、いてもいなくても変わらないということだ。勿論その待遇に不満がある訳では無い。教育機関に行かずともこの世のあらゆる知識は既にこの頭の中にあるし、生きていくための衣食住も今のままで十分満足だ。だけどたまに、ほんと一瞬の揺らぎの中であるが『寂しい』とも思うのだ。地に足が着いていないような不安定さ。一瞬息が詰まって正常な呼吸が乱れる。存在がなくなれば僕がいた痕跡すら消えて初めから居なかったことになるような、そんな虚無感を抱けばそんな不安から逃げるように知識の海に飛び込んだ)
(酷く執着した想いは蓄積していくばかりだ。全てを独り占めしてしまいたいと不健全な欲が蠢いてしまうのを必死に押し留めるのが日課になっている。誰にも触れさせたくないと思う。危害を加えるような敵にも彼が愛する人にも。例え彼が死んだとしても神様や死神にもその手を取られたくない。彼はいつまでも自分のものだ。)
(温かさとは命の温度と同じであると今改めて感じていた。流れ出る赤は自分の身体から出ているものなのに指先より随分と温かく感じる。否この身体が徐々に冷たくなっているからと言った方が正しいだろうか。これは駄目だろうなと何となく察した。あまりにも多く生きる為に必要な温かさが家出してしまっている。あと少しでこの命は終わってしまうだろう。心臓は活動を辞めて酸素を取り込むことのない、ただの冷たい物となっていく。だが、不思議と怖くはない。自分が他の多数の人と同じく全身に血が通っていて温かな赤を持っていたただの人間だったという事実に酷く安心している自分がいる。自然と口元が弧を描いた。いつの間にかあんなにも身体を貫いていた痛さも感じなくなってきた。冷たさも温かさも分からなくなって意識がゆらゆらと遠のいていく。死後の魂が何処に行くか分からない。天国や地獄と呼ばれるところにいくのか、そのまま消えてしまうのか。だけど間違いなく今生の自分は幸せだった。そんな暖かさを胸に抱いたままこの世界は動きを止めた)
きみは『人格の同一性』若しくは『意識の連続性』という話を知っているかい?人は生きるために睡眠を摂る必要がある。これは普段動かしている脳を休める為だとか記憶の整理・定着、身体の細胞の回復が目的であり、睡眠欲というのは生きていくための生理的欲求の一つだ。
そして人が睡眠をとる時、外的刺激に対する反応が低下して意識を喪失する。そして目が覚めた時に意識を取り戻して活動を始める。つまり眠りに入った時と目が覚める時との間には主観的に見て何も感じることのない『無』の時間が発生するということだ。医学的にはノンレム睡眠を行っているとされているその時間、意識の連続性を確保できない状態で果たして眠る前の自分と目が覚めた自分が本当に同一の存在なのかというのを疑う一種の哲学みたいな話さ。
勿論眠る前と起きた後の身体が同じだからという反論も出来るだろうね。だけど、例えば眠る度に自分のDNAから作った見た目も組成もまるっきり同じ複製に意識を移し替えていたとしたら、まるっきり同一人物と言えるだろうか? 持っている思い出とか記憶に関してもただデータとして埋め込まれただけならば本当にあったことなのかを確かめるすべはないんだ。今持っている意識や記憶もあくまで主観的な観測に過ぎない。
…まあ正直、屁理屈をこねているような思考実験ではあるのだけど、ぼくがぼくであり、きみがきみであるのは絶妙なバランスや都合なのかなと思ってね。変なことを色々と考えてしまったみたいだ。
今見えている星の光がいつ瞬いた物か知っているかい?勿論、星によって地球からの距離は様々ではあるけど、数十年か数百年前に発した光を今ぼく達が観測しているんだ。つまり空に見えている光は星にとって過去の物ということになる。何だか不思議な感じがするけどね。そして今この瞬間に発された光は少なくとも数十年後じゃないとぼく達は観測することは出来ないんだけども
……きみとなら何時か見られるだろうね。
(落丁した本のように僕には過去の記憶が無い。「僕」としての意思を持ったのもこの名前を授かったのもあの日の夜からだ。君は共に過ごす中でその名前を呼ぶ。何気なく呼んだり、怒ったように呼んだり、慰めの言葉の代わりに呼んだり、嬉しそうに呼んだり、叫ぶように呼ばれたことだってある。何度も、何回も。無くしたページを埋め合わせるように君が僕を形づけていく。本名では無いけれど大事な大切な僕個人を表す音を君の声が発する。それだけで今日も胸が満たされて、応えるように僕も君の名前を紡いだ。)
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