△ 2021-03-29 01:55:20 |
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(今日は本当に何も無い。残っていた事務作業も午前中には終わってしまって依頼もなく要するに暇だった。相棒も最初の方は依頼人が来るかもしれないといつものスタイルを崩さなかったがそれが3時間を過ぎる頃にはやる気を失ったようでソファーでお気に入りの推理小説を読み始めた。僕も特に熱中するようなキーワードも無く気まぐれに手を取った本を隣で読んでいた。外からは街の風車が回る音が聞こえてくるほど静かで窓際から暖かな日差しが差し込むと次第に気持ちが良くなってきて眠気が頭を支配する。恐らくもう依頼人も訪れないだろうし、今日はこのまま昼寝してしまうのも良いかもしれない。いよいよ口から小さな欠伸が溢れるとパタンと持っていた本を閉じてベッドで寝てしまおうと立ち上がる。だがその腕は直ぐに引かれてしまって体勢を崩した身体は相手にもたれかかったような状態になる。頭に手を置かれてぽんぽんとそこを撫でられる。思わず相手の方を伺うが視線は小説に注がれたままで心地の良いクッションを抱くようなそんな体勢だ。色々文句を言っていたが降り注ぐぽかぽかとした日差しと相手の体温、一定の心臓の音と髪を撫でる仕草は一気に抵抗する意欲を奪ってとろりと脳が微睡む。いつ人が来るか分からない状態で離れるべきであるのに離れたくない。心地の良い温かさは思考を奪うのに十分で、クリップを外し優しく髪を撫でる相手の優しい手つきを感じれば大人しくその微睡みに身を任せた)
(君には沢山の可能性がある。その気になれば素敵な女性と付き合うことだって出来るし恵まれた仲間も手を貸してくれる友人も沢山いる。 だから端的に言えば怖かったのだ。万が一に他の人の手を取った時、自分は一人になる。君にとって多くの人の一人でも僕にとっては数少ない、唯一といっても過言では無い大切な人なのだ。だから彼の善性を利用した。君は決して困った人を見過ごさない。いつだって救いの手を伸ばすからずっとそれを握っていることにした。振りほどかないのを知っているからくっついて自分には君が必要だと刷り込んだ。狙い通り君はずっと傍にいてくれた。可哀想に、悪魔に魅入られたせいで自由に動くことが出来なくなってしまったのだ。それが分かりつつもこの手を離す気はさらさらない。どれだけ傲慢なことだと罵られようが僕には君が必要でずっと傍にいて欲しい。だから今日も君の名前を呼ぶのだ。)
…何だか変だと思ったんだ。やっとモヤモヤしていた謎が解けたよ。 …僕は、君と出会うずっと前から死んでいたんだ。この身体もデータの塊で、本当は食事も睡眠も必要ない。…君と違って人間じゃないんだよ。
(ぽつりと吐き出すように紡いだ言葉は自分が思うよりも落ち着いた物だった。衝撃的で信じ難いことであるはずなのに、あるべき場所にぱちんとピースがハマったようなそんな感覚さえした。まっすぐと目の前の相手を見据える。その目は分かりやすく見開かれていてこちらを凝視している。普通ならば大切なこの相棒とも出会うことも無かったのだ。そんな相手に今度は自分の口でその事を伝える。その声は酷く凪いでいて自分のことながら別人の話をしているような気分だった。自分の手のひらに視線を落とす。一度自覚すればそうとしか思えなくて試しに指先に意識を向けてみるとデータは分解されて淡い緑の発光を伴って空気中に解けていく。それを見た相手の顔は苦しそうに顰められる。そんな顔をさせたい訳じゃないのに。再構成した指先で相手の頬に触れる。データではない相手の身体は命の温もりを宿した温かさを持っている。慣れ親しんだそれに口許が穏やかに笑みを作る。再び目を合わせる。相手に伝えるように、そして自分に言い聞かせるように吐き出した言葉は僕らが導き出した真実だった。)
(今の彼にとって自分が一番という自惚れではない自負はある。相棒として恋人として彼の傍にいるし大切に思われているのも事実だろう。だけど僕が知っているのはあくまで出会ってからの数年で、それより前は文章上でしか知らない。彼が見た夢の中で探偵ではない彼を見た時衝撃と何とも言えない気持ちが胸に募った。当然生きてきたのだから子供の時の彼だっていると分かっているのに、それを受け入れられないでいた。今までも似たようなことはあった。今の彼を構成しているであろう場所、出来事、顔馴染み。それらを知る度に喜びとそこに自分が居ないことへの寂しさにも似た想いに心臓を締め付けられているようだった。どう頑張ろうと過去には介入出来ない。今と未来を与えられてもなお足りないと嘆くなんてどれだけ我儘なのだろう。頭を巡るは自己嫌悪と被害妄想。変なことを考えるのもいつも隣にいる彼がいないせいだろう。夢の中では、もしくは起きた時には彼が居ることを願いながらそっと目を閉じた)
「 4月1日がエイプリルフールで嘘をついても良い日とされているのは有名な話だけど4月2日が嘘をついては行けない日、つまり真実しか言ってはいけない日とされているのは知っているかい?これも誰かが1日についた嘘の話とも言われているけど面白い試みだと思うんだ。嘘を付けないという事は照れ隠しやカッコつけも禁止だよ。…じゃあそういうことでよろしく頼むよ、相棒 」
(今日は依頼が立て込んで帰るのが遅くなってしまった。すっかり2人の家となった場所に戻ってくればどちらからとも言わずに抱き締め合う。肩口に顔を埋めると彼の匂いがする。いつも使っている洗剤の匂いと愛用しているという香水の匂い、それに僅かに汗と彼自身の匂いが混ざりあったものだ。そして何より安心出来る匂いでもある。疲労が溜まっているのもあって顔を埋めたまま深呼吸をすれば閉じ込めた腕の中から抗議の声があがる。だがそんなもので引き下がる自分ではない。腕に力を込めて再びその匂いを堪能する。僕の大切な相棒の匂い。風呂に入ればシャンプーやボディーソープの匂いが混ざるし潜入先によってはその場所の匂いも持って帰ることはあるが、この匂いが一番落ち着くのは内緒だ。そのまま抱きしめていると抗議は諦めたのか彼が擦り寄ってくる。髪が揺れる度にそこからも良い匂いがすれば口元を緩め更に深く息を吸った。)
首筋に刺された薬の効果がまだ残っているようで全身が気怠い。
もう何もしたくなくなって沈んでいくのが心地良い。
運ばれていた車から降りて目の前の大きな建物を見上げる。あの夜に抜け出した場所よりも周りと溶け込んでいて尚且つ厳重な印象を受けた。
一度脱走した身、警備や拘束は厳しくここに踏み込んでしまえばもう二度と自由に外を出歩くことはできないだろう。
引きずられるまま中へと入る。
周りの色が白と黒で統一された空間で沢山のゲートのようなものを抜けその度に周りの空気は冷たく無機質なものに感じられた。
たどり着いたのは最上階。中央部に用意された部屋は研究に必要なもの以外何も置かれていない。部屋というよりもゲージといった表現の方が近いかもしれない。そしてそこで飼われる実験動物が自分なのだ。
そんな扉の前、ふと外の方に視線をやれば小さな窓から街の象徴である風車に紫の光が灯って___
気づけば周りの関係者を押し退けて走り出していた。
突然のことに一瞬彼らは呆然とするもすぐに追いかけてくる。
その手には見慣れたメモリ。対する僕は生身で対抗する術はない。
ここから逃げ出せるとは思っていない。だけども紫の光を見た途端この体があるべき居場所を思い出した。
目指す先はガラス張りの通路、そこまで駆けだせば地面を踏み込んで躊躇なく空へ飛んだ。
割れたガラスが光を反射してキラキラと光る。飛び散る赤がやけに奇麗だった。
空中にある体は地球の重力に引っ張られて堕ちていく。
組織の人たちが何やら怒鳴ったり喚いているがざまあみろとさえ思った。
この体を好きに使っていいのは彼だけだ。
他の誰かに好き勝手されるのは許せない。
地球に還っていく最中、一際大きな風が吹いた。
その風に彼の気配を感じると無意識に笑みを浮かべた。
「君に謝らないといけない事がある。…あの時、僕は君を諦めようとしていた。痛くて辛くて苦しくてこれが終われば楽になると、君の手で終わるのならばそれも悪くないかもしれないって一瞬過ぎって君との未来から手を離そうとしたんだ。あんなに二人で一人だと、君を置いていかないと約束したのに……だから君の隣にいる資格が無いのは僕の方かもしれない。……それでも一緒に居てくれるかい?」
(嫌な夢を見た。どんな夢だったかはっきりと覚えていないけど恐ろしく怖かったことだけは覚えている。瞼を開くと見慣れた薄暗い部屋。カーテンの隙間から差し込む光がない辺りまだ深夜なのだろう。目の前には彼が規則正しい寝息を立てながら眠っている。彼は基本的に一度寝ると朝までぐっすりなタイプだ。眠りが深いのか状況を確認するために身動ぎをして物を立てても起きる気配はない。自分ももう一度眠ろうと目を閉じてみるが変に頭が冴えてしまったようで眠れそうにない。静かで暗い部屋にいると闇に呑み込まれていくような気がして、だけども寝てしまったらまたあの夢の続きを見てしまいそうで宙ぶらりんなまま寝返りを打つ。明日は依頼人が訪れる予定があると言っていた。主に対応するのは彼と所長だが必要であれば自分の出番もあるだろう。だから早く寝なければと焦れば焦るほどに余計眠れなくなって小さく溜息が零れた。こうしていても埒が明かなそうで水でも飲んで気持ちを切り替えようとそっとベットを抜け出そうとする。幸い今日は眠っている間に腕は解かれていたようで脱出は容易だ。音を立てないように起き上がってキッチンに向かった。コップに水を注いで一口飲めばその冷たさが体に染みわたって幾らか胸の底に沈みこんでいた澱みが晴れた気がする。夢はその人の記憶を整理する最中に出来た不可思議な映像らしいがあの光景を自分はどこかで見て体験したのだろうか。こうやってどんなに考えても答えが分からない問いは嫌いだ。暗然たる気持ちを抱えながらベット脇に戻ってくるがまだ眠れそうな心境ではない。ならばいっそ寝るのを諦めて夢について検索をして気を紛らわせようと考えた途端、布団の中から手が伸びてきて腕を掴まれる。そのまま強く引っ張られると抵抗の術もなくベットに引きずり込まれた。こんな状況でそんなことをする人物は一人しかいない。突然のことに困惑する中、視線を向けて彼の名前を呼んでみればぼんやりとした目がこちらを向く。まだ微睡みの中にいるようなそんな感じだ。一方で掴む手の力は強く相手がもぞもぞと動いて背中に腕を回されたかと思えば強く引き寄せられ腕の中に納まる形になる。ずっと布団に入っていた相手の身体は暖かく慣れ親しんだ匂いがする。無意識に身体の力が抜けて更にその背中を撫でられると心地よさに包まれてふわりと意識が揺らぐ。さきほどまであんなに目が冴えていたのにその温かさに一気に眠気がやってきた。目の前の首元に擦り寄れば更に匂いが強くなる。がっしりとした腕に包まれて信頼のおける相棒に”守られている”とそう実感できると胸に引っかかっていた不安や懸念が溶けていくのが分かる。彼の名前を呼ぶ、返事はないけれど抱かれた腕に力が籠るのを感じれば口端が緩む。ふわふわと心地の良い温もりの中「おやすみ」と小さく囁いて瞼を閉じた。もう悪い夢は見なかった)
(自分のことを知識の暴走特急だとか周りが見えなくなると言われたのはいつだったか。今日は依頼もなく朝から本棚に籠っていた。一つのことを知ればそれに関連した知識を調べたくなり全てを網羅したくなれば時間が溶けるのはあっという間だ。一通り調べ終えて少し休憩でもしようと現実に戻ってきた途端違和感に気付く。本を持っているはずの手の感覚が薄く上手く動かない。吐く息は白くて全身が微かに震えている。事務所スペースと違ってここには格納庫を兼用しているのもあって暖房器具は無く外気とほぼ同じ気温だ。ここに来るとき彼は今日は今季一番の寒さだと言っていた。その中で長時間過ごしていれば凍えて当然だ。まさか事務所の中でこんな危機に陥るとは思わなかった。ひとまず身体を温めなければと頭は動くも身体が思うように動かない。連絡手段も遠くのソファーに投げ捨てられていて数時間前の自分を呪いたくなる。自分もまともに動けず連絡も取れないとなれば所長か彼が偶然ここを見に来てくれることを祈るしかない。白い息が零れる。凍える体を自分で抱きながら相棒に望みを託していた)
「とある文豪が『love you』を『月が綺麗ですね』と訳した話は知っているかい?実際に彼がそれを言った文献は残っておらずあくまで逸話や都市伝説という扱いだけど何とも興味深い話だ。彼に限らず古来から日本では想いを伝えるために和歌や短歌を詠んだり文を綴ったりしたそうだけど直接的に気持ちを表現するよりも何かに例えたり情景で描写することが好まれる傾向にあったらしい。つまり同じ好きという意味でもその人によって表現が違うという事だね。だが人が人に向ける感情は分類分けは出来ても統一なものではないと思えば至極真っ当なことのようにも思える。例えば同じ好ましいと思う気持ちでもコーヒーとバイクに向ける物は違うし彼女と君に向ける想いも違う。そのニュアンスや重みといえばいいのかな、そういった所を表すのが言葉という訳だ。更に言えば他人の心情や想いなんかは外見や触診では判断がつかないことが大半で相互理解を図るにはいかに自分の感情を上手く言語化するというプロセスを踏む必要がある。僕達のドライバーのようにお互いの思考や感情が共有できるのなら話は別だけど。そこで君への気持ちを僕も言語化してみようと考えたのだけどこれが案外難しい事に気が付いたんだ。相棒としての感情としては信頼、恋人としては愛情などが主なものだろうけど君の探偵としてのスキルには尊敬もしているし甘い所には時として憂いの感情を抱いている。全幅の信頼を置いているつもりだけど女性の依頼人と仲睦まじい様子を見れば嫉妬してしまうし独占欲や執着心を君に向けているのも自覚しているつもりだ。そう思うと君に向ける気持ちというものは好きや愛してるだけでは表現しきれないことになるけど、だからといって適切な言葉が思い浮かばないのはもどかしくて仕方ない。そこで知識の海に潜って見つけたのがさっきの『月が綺麗ですね』という言葉だ。直接感情をストレートに伝える必要はなくそこに含まれる意味だけを伝えればいい。そして僕にあてはめて考えた時、真っ先に浮かんだ言葉は既に君に伝えてあったんだ。僕と君は二人で一つ、君の好ましいと思っている点も甘い所も含めて僕の相棒でこれから先もずっと隣にいる大切な人だ。そして向かう先が極楽浄土だろうと地獄の底だろうとやることは変わらない。君のいく場所が僕の居る場所で、君が命尽きる時が僕が終わる時だ。だからね、何処までも僕と相乗りしてくれるかい?」
(命が流れ出る気配がする。きっとこれは長くはもたないだろうなと妙に冷静な頭が他人事のような結論を出す。自分が作ってきたもので命を奪われるなんて皮肉な話だがこれが今まで自分のしてきた報いというものなのだろう。もうあまり力は入らなくて自分の身体を抱く存在に凭れ掛かる。自分はずっと一人で別に死んでも構わないと思っていた。だけど今は相棒と呼んでくれたこの男を、一人残してしまうことだけがどうしても気掛かりだ。顔を見上げるとぼやけた視界の中で相棒が顔をぐしゃぐしゃにして叫んでいる。落ちてくる滴は冷たくなっていく体にはやけに熱く感じられた。力を振り絞って相棒の頬に手伸ばす。そこを優しく撫でてから笑顔と呼ばれる表情を意識的に作る。自分が居なくなっても君は探偵を続けるのだろうか。きっと一人でこの街を守っていくのだろう。そこに自分がいないことが酷く寂しく感じた。僕のことを気にせず生きていってほしいけど自分以外の人が君の隣に居るのは嫌だなと思う。君は僕のたった一人の相棒だから。君の名前を紡ぐ。するり頬を撫でて最期の言葉を口にする。どうか僕の身体がこの街の風に溶けて君のずっと傍に居られたら、なんて夢物語を描きながらゆっくりと瞼を閉じた)
(彼と別れるときこっそり貰った箱を懐から出す。煙草、タバコの葉を加工して作られる一種の娯楽品だ。その有毒性は古くから知られているのに未だ喫煙している者は少なくはない。丁度相棒は外に見回りに出ている。今日は遅くなると言っていたからまだ帰ってこないはずだ。未成年の喫煙は法律で禁止されている、こういう所はちゃんとする相棒の前では絶対に出来ない行為だ。秘密のことをするためにも事務所の屋上に出てくると床に座り込んで箱から一本煙草を取り出す。あの時彼がやっていたように煙草を咥えて軽く息を吸いながら先端に火をつけた。上手く着火出来た煙草の先からは煙があがり、あの時と同じ匂いを感じた。そのまま軽く吸い込んで煙を吐く。今まであまり感じることのないような苦みとほんのり甘い風味が口に広がって吐き出した煙は空気と混ざって消えていく。もう一回とその味を確かめるように深く息を吸ったら今度は肺の中まで煙が入ってしまってごほごほと激しくむせた。舌に乗ったままの苦みといいやっぱりこんなものを吸うなんてよっぽどの物好きだ。煙草に含まれるニコチンは身体を蝕むとともに脳の一部を刺激してリラックス作用をもたらすともいわれている。自分の気持ちに蓋をしてこれに頼らなければならないほど彼は孤独に追い詰められていたのだろう。その原因が自分だと考えればなんとも言えない気持ちを抱えてしまう。考え込みながら煙草を咥え煙を吐き出す動作を続けていればいつのまにか手に持っていた煙草はかなり短くなっていた。案外人のことを言えない体質かもしれない。まったりとした思考の中、先端を陶器に押し付け火を消すと無意識に二本目に手が伸びかける。だが突如影がかかり強くその手首を握られ制止がかかった。見上げるとこちらの相棒が凄い形相で見下ろしていて「あ」と短い声が漏れる。深く眉間に刻まれた皺を見る限り今回のお説教は長そうだと何処か他人事のように考える一方で怒ってもらえるのも相手が居るからこそだなと変な感想を抱きながら煙草から手を離した。)
(食事とは単なるエネルギー補給の手段でしかなかった。身体を問題なく動かすために決められた栄養素を規定値通りに体に取り込むだけの行為。それは小さな薬品のような形をしているときもあればゼリー飲料のときもあり、検索に夢中になっている時は腕に管が通されてそこから必要な栄養素が直接注ぎ込まれていた。それに対して何の感想や感情を抱くことなくあの建物の中に居た。それが大きく変わったのはあの夜からだ。机に並べられたのはパッケージに包まれた正体不明の何かで袋ごと無理やり押し付けられた。これが何かと問えばサンドイッチと返ってきて、見知らぬ単語にまた情報の海に入ろうとしたところを騒がしい声で遮られた。どうやら食べ物であることは分かったがじっと手元のサンドイッチを見ていればまた男が眉を寄せる。何故男がサンドイッチを自分に渡したのかと問えば眉間の皺が更に深くなって無理やり奪われて包装を剥がしてから再び手に握らされる。初めて触るそれは柔らかな感覚がして嗅いだことのないような匂いがする。男ももう一つのサンドイッチを手に取って包装を剥がすとそのまま食らいついた。咀嚼してから飲み込んで体内に取り組む、その一連の流れを見て漸くこれが食事だと気づく。見様見真似で手元のサンドイッチの先端にかじりつくと幾つもの感覚が舌から伝達される。柔らかな感触、シャキッとしたみずみずしい感触、何やら半液体状のものが塗られていて挟まっている何かはさっぱりしたような味と濃いめの味とまた違う味が同時に押し寄せた。その情報の処理が追い付かず暫し固まっていると男から名前を呼ばれる。顔を上げれば穏やかな顔で笑っている男がいて味について聞かれた。正直分からないことばかりであるがその顔を見ると無意識に頷いていた。たぶんこれは嫌ではないから。もう一口噛り付く。形容する言葉は分からないが何かが満たされたような気がする。それがきっと始まりだった。)
(探偵の仕事をしていれば当然一緒に過ごせない夜だって出てくる。相棒が一晩中張り込みをする日や出張という形で泊まり込みで調査をするときもあるし自分が情報を集めるためにガレージに籠ったりガジェットの修理制作をしたりで理由は様々だ。自分が動くタイプの場合はそれに没頭していれば気が紛れるし余計なことを考えずに済む。問題は逆に相棒が出かけていて自分が暇な時だ。特になにもすることなく一人きりの夜はやけに静かだ。一人で家に戻る気もなくて基本的に事務所で過ごすことが多いがそうすれば尚更調査を終えて帰ってくるかもしれないなんて考えて変に眠れなくなる。いつもなら夜更かししようものなら強引に布団に引きずりこまれるのにそんな相棒も居なくては寝不足に拍車がかかる。今頃何をしているのだろうか。一度そう考えてしまえば思考はそちらに引っ張られてしまう。きっと連絡をすれば優しい彼は応えてくれるだろう。だが要件もないのに寂しいからという理由で電話をかけるのは子供っぽい気がしてベットに身を投げながら連絡手段を閉じた。布団からは僅かに彼の匂いがする。すれ違いに仮眠を取った相手の匂いが移っているのかもしれない。顔を埋めてその匂いを吸い込めば幾らか気分は落ち着いてくる。だけど安心して眠るのには物足りなくて「…早く帰ってきたまえ」と小さく呟けば無理やり目を閉じた)
(相棒の声が頭に響く。その音を意味を理解した途端心臓が握りつぶされたような苦しさが襲って瞳が揺れる。相棒がそんなことをいう訳ないと思うのに何処か他人事のように回る頭はこれまでの違和感や記憶から整合性を主張し始めた。自分が今まで幸せだと思っていた時間の中でも相手はずっと自分を恨み許せないと思っていたのだろうか。そう思った途端息が苦しくなって喉がひゅっと鳴った。違う違う違う違う、でも本当に?頭の中はぐちゃぐちゃになって思考がまとまらない。とにかく落ち着かなくてはと息を吸うが言われた言葉を思い出してすぐに吐き出してしまう。全部自分のせいだ、自分のせいで相棒を不幸にした。そんな存在がこれからも隣に居る資格なんてあるのだろうか。とめどない後悔と暗い感情に支配されるともはや息を吸っているのか吐いているか分からず浅い呼吸を繰り返す。そんな状態で体から力が抜けていけば重力のまま床に崩れ落ちた。痛い苦しい辛い助けてほしい、追い込まれた頭は縋るように相棒の姿を見上げるが返ってくる視線は氷のように冷たい。再びあの低い声でこちらの罪を責め立てる。何処かでぽきっと何かが折れたような音がした。嫌われてしまったのならもうどうでもいい。外界から全てを遮断するように膝を丸めて耳を手で塞ぐ。目をぎゅっと瞑れば激しく動く自分の心臓の鼓動しか感じなくなる。それすら今は鬱陶しい。大切な人を傷つけてしまうならもう何もしたくない。全てを放棄して小さく蹲る。それが最期の『 』の記憶だ。)
(見上げた桜はこの街の風に吹かれゆらゆらと揺れている。時折花弁が散って空中を舞いながら地面に落ちていくのも綺麗だ。暫しその光景を目に焼き付ける。落ちていく小さな花弁の一つが風に乗って彼のハットの上に乗った。薄らとピンクに染まったそれを見ているととある小説家が桜の木の下には死体が埋まっていると綴っていたのを思い出した。彼によると桜は死体から養分を吸い上げているからこそここまで綺麗に咲いているらしい。勿論それが小説の上での表現であるのは重々承知しているが不思議とずっと頭に残るような言葉だ。もし本当にこの桜の下に死体があるならばこの綺麗な景色はどれだけの屍の上に成り立っているのだろうか。そう思えば花弁の薄紅すら吸い上げた血で染まっているようで美しさと冷たさを感じた。この仕事をしていれば死はそう遠くない所にある。ボタンが掛け違っていれば今こうして花見をすることもなかっただろう。自分達の目指す未来のために到底走るのを辞めるつもりはないが、___もし死んだら、この街の土に還って君の好きなこの街を彩る桜になってもいいなと空を仰いだ)
(相手が依頼に関して新情報が入ってきたから直接聞きに行ってくると家を飛び出していったのが十分前。夕食を済ませてのんびりしていた時間の呼び出しを邪魔された、と思わなくもないが依頼人の笑顔のために奔走する相手の顔を見ればとてもじゃないがそんなことは言えない。ベットに寝転んで適当に時間を過ごしていればインターホンが鳴った。相手ならば鍵を持っているはずで所長もここの住所は知っているが来るならば先に連絡ぐらい入れるだろう。他に誰が、とも考えて今日宅配便が届くと相手が言っていたのを思い出した。ベットから降りて一応ドアスコープで配達員の姿を確認してからドアを開けた。予想通り宅配便の受け渡しのようで段ボールを受け取ると配達票に受領印を求められた。『苗字だけのサインで結構なので』と言われ促されるまま【左】と書き込む。それを手渡せば『ありがとうございました』と言って配達員は去っていきリビングに箱を持ちかえる。控えに残った自分の筆跡で書かれた相手の苗字。彼から与えられた名前に苗字は無くて実生活で必要になるときは彼の苗字を名乗ることが多かった。だけど相手と過ごすようになって店の予約をするときや何か手続きをするようになってからは相手の苗字を告げることが多くなってきた。戸籍なんか無くてただの簡易的な見分けの為の名だとしても相手の苗字を名乗るのが嬉しいだなんて、そんなことを伝えたらまた君が花が咲くみたいに微笑んでからかってきそうだから秘密にしておくことにした)
(少年の話を聞いたとき何処か近しい物を覚えた。大好きな人達と共に過ごして、楽しい気持ちの中で不意に高い所から落ちていく、手を伸ばしても届かなくて、周囲に緑の煌めきが見える。時間が引き延ばされたような感覚でずっとずっと沈んで世界に溶けていくような__ 目の前の少年が消えていくのを見ていれば何か大事なことを思い出せるような予感としか言えない衝動がして無意識に一歩踏み込んで不透明な存在に手を伸ばす。一緒に消えていける、と根拠もなくそう思った瞬間反対の手を強く掴まれた。反射的に振り向けば何故か彼は酷く焦った顔をしていてまるで引き留めるように手に力が籠る。その必死さが気になって「どうしたんだい」と問えば視線を逸らして口ごもる。そうしている間に少年は消えてしまって部屋には静寂が戻ってきた。それでも手の拘束は解かれることなく、ずっと握られたままだ。様子を伺うように見ていれば『帰るぞ』とだけ言われて手を引かれる。全くもって意味が分からないが当然異論はない。彼の右側に立つと一緒に部屋を後にする。自分の居場所はここだ。あの時何を思い出そうとしていたのか、という疑問は繋いだ手のぬくもりに消えていった)
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