名無しさん 2020-10-21 17:10:45 |
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───そうか、良かった。にっ…がい。ゲホッなんだこの酷いコーヒーは。さては僕に飲ませない為の悪魔の仕業だな。
( 訊くまでもなく感想を述べてくれた友人の表情筋一つの動きさえ見逃すまいと、盗み見る心算も即時見抜かれてしまうであろう程に凝視。少なくとも嘔吐く様子は見受けられない。無意識下に握り締めていた手を解き、倣って口にした液体は、酸味ばかりが舌に纏わり付いてどうも好ましくない。咽せる口元を袖で抑え眉根を強く寄せ )
こんな黴の生えた下手物をよく食べようなんて思えるな。狂ってる。鼠でも避ける臭さだぞ。
( 昔、牛乳を入れた容器を放置していると、分離した脂肪分が付着して無味のバターのようなものが出来た記憶がある。それを穿り舐めて叱られたのが我が人生で知る限りの"乳製品"、然し友人はこの物体を紛うことなき食品と認識しているようだ。不気味な乳製品を朝食に加えたのは己だが半信半疑のままチーズを観察、それでも刺激臭に耐えかね何度も瞬き )
僕も食べるのか?この誰かが巫山戯て生み出したような物体を?断ってもどうせあんたに言い包められるんだ…分かった、食ってやる。但しあんたの分を多くするからな。
( 主の御許に招かれる権利、或いは死体と引き換えに手にした金貨以外の贅沢品を存じ上げない。誰かの密やかな楽しみだとしてもそもそも想像力が其処には至らず、彼の隠された意図も知る由が無い。若干気乗りはしないものの、ただ単純に分けてくれる厚意を無下にはしまいと一つ頷き、パンを掴み取り適当に折ることで一本を二人分に作り替え )
おいおい、コーヒーなんてそんなものだろう。少なくとも、私が塀の中で口にしていたものよりはよっぽど上等だぜ?カフェインとグルコースの補給をいっぺんに済ませられる優れものだ。
( 咳き込む相手に気遣うような視線を向けつつ、獄中で口にした如何とも形容し難い液体を回顧。合衆国のコーヒーをさらに数倍薄めたような飲み物は、見てくればかり黒々としていた。あんな泥水まがいとは比べるべくもない、これは立派な嗜好品だ。良質だとは世辞にも口にできない、しかしながら己にとっては理想的な飲料を二度三度と飲み下し )
人間、その気になればなんだって食べられるぞ。人体に有害な物質を除けばな。どこの国だったか、蛆虫の湧いたチーズを敢えて口にする地方もあるくらいで──ああ、話が早くて助かる!私の食が細いのは知ってるだろう、君も。
( 飢餓状態に陥った時、生理活性物質を求める人類の本能。そうした無差別なエネルギーの摂取は別としても、決して馴染み深いとはいえない食文化が世界には数多存在する。有用性の薄い情報を記憶の底から引っ張り出し、適当な例として提示。重要な理論も計算式も、このくらいすんなりと引き出せたなら。心持ちが憂いを帯びそうになった所へパンを差し出され、そのまま横道に逸れそうになった意識を食卓へ戻す。受け取ったそれを一旦手元のトレーに置き、ナイフを手に件のチーズを器用に切り分けながら話を続け )
確かに甘いコーヒーなんて見たこともないが、これは異様に不味い。淹れ方が悪かったんだろう…。グル、何だそれ?
( 今気付いた点。他者が用意した食事は己のよりも三割増しに美味に感じるという事。よって今回の失敗の原因は己に在る、証明終了。責任を取る為にも一気に飲み干して溜め息一つ。耳慣れない単語に首を傾げ、訊くのはタブーと荘園では暗黙の了解で統一されていた彼の過去に触れてしまって良いものか迷いが生じ )
うっ、蛆虫!?見慣れてるが食べたいとは到底思えない。でもその連中から見れば僕の方こそ下手物食いなんだろうな。あんたはどうやってそれだけ豊富な知識を身に付けたんだ?頭を使うならもっと食わなきゃ死ぬぞ、脅しじゃなくて本気だ。
( 傷んだ遺体に湧く蛆虫に限らず、人が本能で忌み嫌う昆虫の類は素手で触れるのも造作ないもの。それでも栄養分として摂取する機会は出来れば避けておきたい、イメージがイメージなだけに人間が食らう対象というよりは人間を食らう存在として認識しておきたいから。何を前にしても、先程廊下で鉢合わせた際に諭してくれた時でさえも、友人は脳内の引き出しが崩壊しそうな程の知識をもって滔々と説明してくれる。これだけ優れておきながら何故脳に損傷を負う羽目になったのであろうか。貴重な宝に安易に傷を付ける世間は正に唾棄すべきだ、会話を続ける片隅で娑婆を呪い )
そうか?私は気に入ったんだが。また淹れてくれよ、クレス君。
( あからさまな自責の念が滲む声音に、目の前の相手が本来真摯な人物であることへの確信を強める。荘園に招かれた参加者に十中八九後ろめたい過去が存在するように、少なくとも人倫に基づいた善行の日々を送ってきた訳ではないのだろう。だが、彼の心根が誠実であり、責任感を持った人間だということは理解できる。そして、信用と信頼に足る相手だということも。嘘偽りない言葉ながら、悔いる気持ちが和らげばという意図からささやかな要求をひとつ )
豊富な?…いや、雑然とした知識だ。取るに足らないことばかり覚えていて、重要なことはすっかり抜け落ちている。今の私の脳の容量はな、有限なんだよ、だから、こんな…こんなどうでもいいことは、今すぐにでも…忘れてしまいたいんだ。
( ある形容詞が耳を掠めたとき、ブルーチーズを切り分ける手が止まった。神経回路の構造上、脳が無制限に記憶を蓄えられることは承知している。尤も、それは正常な脳に限った話なのだが。常日頃から己の記憶障害には煩わしさを感じているだけに、ちょっとした言葉にさえ敏感になりがちだ。センシティブな自分が酷く鬱陶しい。大切な記憶を慎重に整頓して、不要な知識は屑籠に捨ててしまえたらどんなに良いか。独り言めいた声が震える中、己へ苛立ちと焦燥を理性で極力押し殺し )
まあ、そんなことはどうだっていい。君の言う通りだ!研究への没頭を省みようとは思わないが、食事にはもう少し気を遣わなきゃならない。
( 一度ナイフを置き、残ったコーヒーをぐっと飲み干す。不器用な優しさをそのまま反映したような風味に、ほうと小さく息を吐いた。駄目押しに"どうだっていい"と問題をやや乱雑に一蹴、先刻下手物呼ばわりされた件の乳製品を偶数個に等分する。理に適った友人の指摘に首肯し、固いパンを手に取りつつ思考を巡らせ )
グルコース、いや、ブドウ糖…糖分の方が分かりやすいか。この餌を補給してやらないと、私たちの脳細胞は働くことができないんだ。私は燃費が良い方だと自負しているが、食事の量とタイミングについては再考の余地がありそうだな。
雑然。そう思っているのか。───どうでも良いものが僕を、いや僕達を助けてくれているんだ。あんたから見ればどうでも良くていい、必要以上に頼らなくてもよくなるようになってやる。今の内に貰った知識は僕の脳に叩き込む、そうすればあんたの脳はあんたが必要としているモノだけ入れておけるようになるだろ。
( 卒ない社交性の水面下に秘められた苦悩、それは底無しの沼のように冥暗たるものであり、荒らされた墓地のように沈鬱でもある。人は皆等しく死に向かうものであるとは先刻承知しているが、死後の幸福という神の最後の情けを望めずに生きる事が如何に苦痛であるか。触れてやるなと囁く僅かな良心を無視して毅然とした眼差しで友人を捉え精一杯の最善策を模索。生を費やしてまで叶えたい目標を無理に止めさせる方法だって選択することは可能だ、だが果たして彼から発明への情熱を奪ったとして一体何者が救われるというのだろう。完全なるエゴよ、我が魂から消え去ってしまえ、墓守は墓守らしく沈黙の中に存在しなくてはならないのだから )
グルコースが糖分。確かに疲れた時無性に口にしたくなるな。燃費は良いんだろうがルカは自分の限界を無視するじゃないか…ダイアー先生が言っていたぞ、独りにしておいたら危険だってな。
( 知識人は俗人とはやはり違って、何気ない物言いさえ知的に思える。原始的な生理的欲求を深く掘り下げていけばもっと知らない言葉に巡り合うのだろう、些細な当たり前に関心を持つ者こそが新しきを知るのだと初めて気が付けた不思議な瞬間。尊敬の念と心配をもって横目で見遣る友人の様相は何処となく不安定で明日の行方を予知させないものがあるようだ。さて新しい課題が出されたところで此方も考慮すべき点がある、ソーセージにフォークを突き刺し自信なさげに提案 )
全員の食事のタイミングに合わせるのはそもそも無理だろ。集中している時に呼びかけてもあんたは無視してくれるからな。差し入れても無駄だ、となると僕が言えるのは定期的にあんたを食事に誘って今みたいに用意してやる程度の話だろう。コーヒーも望むだけ淹れてやれる…と思う。
そうなのか?私にとってはガラクタ同然の知識だが、何かの役に立てているのなら僥倖だ。けれど、そうだな、私の代わりに君が覚えていてくれるのなら…それも遠慮なく放り出せる。余計なものが無くなれば、今よりずっと研究も捗るだろう。それに、例え私に必要ないものでも、いつか君が上手く使ってくれるはずだ。
( 塵も残さず燃やし尽くしたいと望んだ認識と見聞の集積が、必要とされるや不思議と愛しく思える。とうに諦めていたものの一部、栄光に彩られた過去の残滓たる知識。その管理を、友人は引き受けるという。不要であると切り捨てられた記憶の欠片を、自ら拾い集めようとする献身に瞠目。影さながらについて回った忘却の虚しさ、やるせなさ、恐ろしさが、嘘のようにすっと引けていく。安堵と共に目を伏せ、口元には自然と微笑が滲む。真っ新な紙面の如く限りない可能性を秘めた頭脳を、ほかでもない己の為に貸し出してくれるというのだから )
なんだ、ダイアー女史はそんなことを言っていたのか?それなら、次に彼女と顔を合わせた時に伝えておいてくれ。「規則正しい食事をするよう見張っておくから、ルカ・バルサーについては何の心配も要らない」と。
( 固いパンを齧りながら、今しがた名を挙げられた第三者とのやり取りを想起する。古株の女医から気に掛けられていることは薄々、否、はっきりと認識していた。生活習慣と食事の内容について折に触れ助言を齎す彼女は、医師として他の参加者の体調を気遣わずにいられない質なのだろう。前科者たる自分にさえ心を配る彼女の思い遣りが得難く有難いものであると理解する反面、毎度生返事ばかりで自身は生活を改める気など更々ない以上、いつまでも余計な配慮を続けさせるのも酷であるという事実。医師の伸べる手が己以外の適切な相手へと届くよう、一抹の望みを胸に言伝を託し )
ともかく、今後は君の誘いを断らないよう善処するさ。何より栄養失調なんて洒落にならないし、自分を想って行動してくれる友人の厚意を無碍にはできないからな。
( 今の今まで無反省を貫き居直り続けた為か、降り注ぐ正論の数々にも痛痒を感じない。しかし破滅への一途を辿る筈の我が身が健康体を保てているのは、相手を筆頭とした仲間の助力あってこそ。多少なりとも食に関心を持つべきかという遅すぎる内省と共に、等分したチーズの一片を口へ運ぼうと )
ああ、意外だろ?学ぶことが楽しいんだ。知らない何かを得た時脳ミソに電気みたいな刺激が出る。丁度あんたが起こすピリピリしたやつに似てるかもな。もし僕が同じくらいに賢ければ手伝ってやれたかもしれない…機械技師みたいに。でも無理なものは無理だ、だったら"化け物"の脳ミソを差し出してやるから使えよ。
( 過剰な関心を持たれない有り難さ。あるがままを自然な形で受け入れて貰える有り難さ。有り難いの積み重ねで今の己が在る、ならば暴れる野良猫の皮を捨てていかなくては。天涯孤独も埋まらない虚無に望みを託す生き様も、己が盲信するところによってのみ救われる哀しき存在であることも、彼と重なる部分は決して一つのみではない。単なる事実を並べる間冷静で居られるのは荘園から与えられた慈悲故だろうか、俯く背中を軽く叩き朗らかに言い切り )
あの人はいつも何かしら言ってくる、僕達よりも僕達を知っているんだ…凄いな。分かった、伝えておく。あんたのそういう部分が紳士だよな。
( 母とは姿形も雰囲気も似てはいない、然しほんの時折彼女の内に母を見出すことがある。とはいえ彼女は人間であって聖母ではないのも知っているから、実の母以上に絶え間ない愛を感ずるものは他にある筈がないのだが。友人の頼みを快諾、無自覚ではあるのだろうけれども黙って素知らぬ顔をするに留まらない辺りは流石と思わせられ、実際に口にも出して )
はん、厚意だとは考えていたのか。もっと鬱陶しいだの余計なお世話だのと言い出すかと思ったぞ。そういえば今は何を作っているんだ?この前取り掛かっていたやつは完成したのか?
( 呆れたいが呆れられぬ。密やかに胸の奥底、誰にも勘付かれない場所にしまったままの思慕の情はいつだって未知の発明に勤しむ背中を美しきものと捉えている、間違いなく。壁と扉に阻まれていても彼の脳という小宇宙に棲みつく那由多の閃きが形にしていく何か、その何かは彼という有限の財産が描き出した後世への偉大なる遺産で、何人も真似し難い唯一無二の夢想の権化なのだ。ソーセージを咀嚼してゴクリと飲み込み、理解出来るかは兎も角尋ねてみて )
成る程、思えばこんな味だった気がする。悪くはないが、食卓ではパン在りきの食べ物だな。
( チーズを口に含み、数度咀嚼を繰り返して飲み下す。誰に請われた訳でもない感想をぽつぽつと零し、舌の上に残る強い塩気を拭い去るよう再びパンを口にして )
…ところで、ダイアー先生に言われなかったか?君の容姿は伝染する病でもなければ、他者を害する疾患でもない──君自身が一番よく理解していると思うが。それを"化け物"呼ばわりする連中は、よっぽど無学で旧態依然としている。だから、蔑称を当たり前のように一人称として使うのは止せよ。
( 人類は本能的に未知を恐れる。体系化された知識の大枠から外れたあらゆる存在を畏怖し、遠ざけ、迫害するのだ。電話機や蓄音機の存在が当然のものとして認知され、果ては飛行船が青空を航行する現代。他者と異なる外貌を異類異形の魔物として攻撃する愚かしさが、科学の世紀においても蔓延していようとは。結局の所、真に恐るべきは人智の及ばぬ存在ではなく、人間の悪意に他ならない。視線で以て澄んだコーラルレッドの瞳を射貫かんとするのは、己が発言は軽率な冗談でないと証明する為に )
クレス君、私は純粋な気遣いを突っ撥ねられるほど非情な男じゃあないんだぞ。…今?今は──進捗は悪くないが捗々しいわけでもない、だからのんびりしている暇もない。口で説明するより、実際に見てもらった方が早いだろう。
( 人生の指標たる研究に話題が及べば、意識は食卓から自室に残された図面に飛躍。想い描いた理想の終着点に至るには何もかもが足りない。金も時間も、理論的な材料も。ならばせめてゲームに勝ち残る為の発明を、というのが現状の指針だ。あれが完成したのなら、今後はもっと試合に貢献できる。芽生えた確信が強まる中、相手に説明するというより自身に念を押すような調子で語り掛け )
そうだな…今晩がいい。今晩、私の部屋に来ないか?上手くいけば、日付が変わる前にはプロトタイプが完成する筈だ。
あ……ああ、すまない。気分が上がるかと思って言っただけなんだ、考え無しで悪かった。"白皮症"は遺伝子がどうのこうので起きるんだったよな、聞いてるさ。ルカは自分が如何にこっ酷く言われようが、僕の思い違いを正そうとしてくれるんだな。
( 何気ない一言でこうも真摯に指摘をくらうとは恐れ入る。ご尤もな言葉の数々を受けて口に綿を詰めたかのように語調が迷い始め、次第に弱々しく変化して萎れ。あの時医師が語った内容の詳細はよく理解出来なかった、己が周囲に影響を及ぼさない点以外は。嗚呼彼は何と情に厚く、また同時に冷淡なのであろう。他人の事は上手く正しい位置へ立たせようとするくせに他人からの助言に耳を傾けやしない人、己だけの堅牢な世界に喜んで籠る変わり者め。到底本人には言えやしない皮肉をそれとなしに含めて、不味いコーヒーの後味よりも苦く呟き )
進めるものは進めるにしても、焦ってまた徹夜続きになった時は無理矢理食事に誘い出すからな。僕なんかが見るだけで分かるような物なのか?今試合で使っているアレの仕組みさえよく分からんというのに。本当に見ても良いんだよな…?プロ、確か試作品だったか。よし、お邪魔する。
( 友人が非情ではないのは百も承知、但し頑固者であるのもまた然り。最初に念の為宣言はしておきつつ、本心では発明品を拝見出来るのが楽しみで堪らない。全知全能なる神は人間に高い知能を与えたもうた、その知能が神の域を凌駕せしめんとするのを知ってか知らずか。主は彼を選んだ、故に彼は主の思惑通りに偉業を成し遂げるべきだ。その片鱗に触れられるとは何たる名誉なのだろう!とはいえ知識皆無の身で科学の最先端はそもそも想像に難く、少々目を泳がせ再確認。何度か耳にした単語の意味は脳に染み付いている。確りと頷きパンとチーズを一緒くたにして頬張り )
違うんだ、謝らないでくれ。君を責めたいわけじゃない。今までに君をそう呼んだ相手すべてを忌々しく思うだけで…いや、結果としては君を非難しているのと同じか。君を正しく導きたいわけじゃないし、導けるとも思っちゃいない。ただ、自分が好ましく思うものを悪く言われて良い気はしないだろ。私自身の為に言ったんだ。要するにエゴだな。
( 可惜一度口に出した言葉が再び胸奥に還ることはない。狼狽に揺れる声音と表情とを目にすれば、咄嗟に否定の言葉を口にして。事実上、彼の言動を批判したことに変わりは無いのだが。考えた末の発言はその実軽々しいものであったのかも知れない、などと悔いても遅い。夜間は月光を照り返すプラチナブロンドが好きだ。眩しすぎる日光に細められる淡紅色が好きだ。畢竟、誤謬を正す助言を装いながら、相手に対する自身の感性を肯定する為の言葉でしかなった。居た堪れなさと責任を感じ、自ら合わせた視線を逸らして )
……。有難い話だ。我ながら、何度呼んでも無駄な時は無駄だけどな。そういう時はちょっと小突けば気が付く。何、君と私の仲だろ?遠慮は要らない。
( 裏表のない言葉から逃れるようにチーズを口内に詰め込む。世辞にも行儀が良いとは言い難い様子を晒しながら、口いっぱいに広がる塩気には無視を貫き。咀嚼したそれを無理やり喉の奥に押し込むと、幾らか平静を取り戻した。作業に没頭した自身が周囲の変化に鈍いことは承知の上、外界への感受性を数値化したならマイナスを記録するに違いない。強制的な過集中の解除法を簡潔に授け、友人の良心が咎めることの無いよう直々の許可を下して )
ああ、分かるさ。寧ろ見て欲しいんだ。ほかの参加者にも使えなくちゃ意味が無いからな!ありがとう、クレス君。
ちょっと待て、ルカが落ち込む必要は無いじゃないか。だからあんたのそういう所が…繊細過ぎるんだ。僕を世間から庇ってくれるのがエゴなら、あんたを牢屋にぶち込んだ世間を憎む僕はどうなる?苛々する余り目の前に居たら今直ぐにでも殴ってやりそうだ!こんな青タンまで残して…クソッタレ!罰当たりめ!
( 大変な思い違いをしてしまった、急いで是正しなくては友人ばかりが悪となってしまう。顔を勢いよく上げ、泣き始める寸前の幼子のように表情を歪め、比例して声もが震え出し。今まで言うのが憚れていたのに、到頭腹から出ずる汚物を吐瀉してしまうなんて。机を強く叩いた拳に痺れが走る、だがこんな細やかな痛みは彼の受けた痛みに比べれば軽過ぎる程に軽い。隣人を愛さぬ己をどうか赦すな。結局目には目を、歯には歯をもって償わせたいと願ってしまう被創造物こそ、謹んで罰されるべきなのだ )
小突いても構わないと言われたとして、僕はあんたを実際に小突き回すんだろうが…それだけじゃあんたの意思を無視し過ぎてやしないか?拷問じゃないんだぞ。どうせなら少しくらい楽しみになるようにしたい。例えば好物を用意するとかな。
( しまった、流石に一方的が過ぎた。突如食べ物を一気食いした様子からして、決して良い印象を与えたとは思えない。飄々としながらも繊細微妙な発明家は今の今まで散々不自由を強いられて過ごしてきたというのに全く同じ状況を作っては困る。空になった皿の上の食べ滓を指で傍に寄せつつ思い遣りと思しき発言、少し考え込んで浮かんだ案は果たして当人に受け入れていただけるのだろうか )
ありがとうって、それは僕の台詞だ。使い易く作ってくれるお陰で何回か触れば慣れる。この僕でさえ使える発明品を用意してくれるルカは正真正銘の天才だな。
君は…優しいな、元死刑囚には勿体無いくらいの友人だ。だが、私の為にそんな悲しい顔をしないでくれ。君は私が不当な扱いを受けたことに憤っているんだろう。けどな、私が無実であるという保証は何処にもないんだ。私の頭の中にさえ、ない。もし私が罪を犯しているなら、君の怒りまで不当なものになってしまうんじゃないか。そしてそれを、君の神は許してくれるだろうか?
( 記憶に残る限り、己に繊細と銘打ったのは友人が初めてだ。敢えて述べるなら、他ならぬ彼こそ感じやすく繊細な人物なのだが。強く机を打ち据えて赤みを帯びる拳が痛々しく映る。世間が相手を爪弾きにした事実は許されざる悪である一方、自身の受けた扱いが必ずしも不正であるとは限らない。殺人を犯しておきながら、その事実を忘却という大罪で上塗りしていたのだとしたら?懺悔も告解も叶わぬ以上、天に御座す我らが父とやらに許しを請うことも能わず。願わくは、いたいけな墓所の番人がこれ以上心を痛めることのないよう。それが事実にせよ誤謬にせよ、不確かな罪状と共に生きる覚悟はとうに出来ているのだから )
難問だな、私は食事に…というより、衣食住のどれにもいまいち惹かれないんだ。好物らしい好物もない。必要最低限の栄養素が摂取出来れば良いと思っていたし、食事の最中も大抵は考え事をしているから…ああでも、強いて挙げるなら一つあるぞ!君の淹れたコーヒーは好きだ。角砂糖は三つ、ミルクは抜きの。
( 味の良し悪しはある程度理解していたつもりだが、個人的な好みとなると話は別だ。糖分の為に角砂糖や蜂蜜を、ナトリウムの為に食塩を、カリウムの為にバターを。覚醒にはカフェイン入りのコーヒーを、そして強制的な入眠にはアルコールを。思い当たるのは特定の成分を含有する調味料やら飲料やら、これらを列挙することが相手の望む返答になるとは考え辛い。悩んだ末に導き出した結論はというと、つい先刻口にしたばかりのひと品。単純に好ましいと感じるのは、無論含まれる栄養素云々を差し引いた上で )
褒めるのが早すぎるんじゃないか?拍手は実物を目にした時まで取っておいてくれよ。でも、天才の称号は悪くないな。発明品の使用に際した前金として有難く頂戴しよう。
煩い……他の奴の都合なんか知ったことか…あんな、間抜けで、意気がっているだけの、何奴も此奴も嘘ばかりの世の中にあんたまで負けるなよ…クソッ。主は僕のような塵屑でさえ愛して下さるんだ、だったらルカを愛さなければ主じゃない。
( 行き場を失くした敗者の魂の雄叫びが全身で渦巻くばかりでどうにも出来ず、途切れ途切れに悪態を吐き再び机を叩こうとした拳を力無くだらりと垂らし。何もかも全て滅びてしまえば良いのに。そう願ったのは一度や二度ではなかった。唯一の友人を得た今でさえ現実は哀れな存在に微笑みかけてはくれぬ、己が現実に微笑まない所為で。それでも事実がどうであれ彼に一切の救いなしとは信じたくない。熱りが冷めるまで続いた木目との睨み合いの末、噛み締めた奥歯同士を漸く離し神の名を借りた己が渇求を言霊に託して )
強いて挙げた好物があの物体か、他に何かあるだろ…。何処までも変わった奴だな。あんな物で本当に良いっていうなら幾らでも応えるが少しくらいは味の楽しみがあったって罰は当たらないじゃないか。どうせならあんたが唸る位の料理を作ってやりたい。
( あの胃が靠れるだけの失敗作が選ばれたのも大いなる謎ではあるが、改めて友人の形振り構わぬ生き様に驚くと共に或る一種の感銘を受け。ただ、ほんのりと何処からか芽を出した喜びまでは否定出来ない。口に出すと捻くれるのに胸がこそばゆくて、それが落ち着きを奪い視線を定める位置を迷わせ。料理人を職業としない男が好き好んで台所に立つのは却って白い目で見られる以前に誰も思い付きもしない時代だ、コーヒーの出来栄えに対する遺憾かもしれないし友人への対抗心かもしれないが、兎にも角にも一度はあっと言わせてみたいと確かに思った。理想とする料理の心象はかなり朧げで危ういものでありながらも意外とそう遠くもない気がする。急な思い立ちに独りでに意気込み )
おい、本心で言っているんだぞ。僕がキャーキャー言う方が気味悪い。片付けて来る、少しは体力を取り戻せたか。
屈した訳じゃないさ、境遇を受け入れただけだ。君が神を信じるように、私は私自身を信じている。さらに言えば、私自身の夢を。この心臓が動き続ける限り、私は夢を追うことを止めない。死後の救いなんか求めちゃいないんだ、地獄に堕ちたって構いやしない!こんな涜神者の救済を求めてくれる君は優しすぎる。だからな、つまり…神に救われたと思ったことはないが…少なくとも、君の言葉には救われた。
( 信仰に等しいほど熱狂的な大願成就への切望は、冷たい墓の下に眠ろうと消え失せる気がしない。受刑者として殊勝な改悛に信心を捧げていたなら話は別だが、この身も心も見果てぬ夢に奪われている。己は間違いなく敬虔さと真逆に位置する男だろう。友人の抱え込んだ感情が遣る瀬無さに変わる様は目に明らかで、半端な理神論者の為に彼の信仰が費されることそれ自体が神への冒涜のように思えた。不可知の存在よりも何よりも、確かな存在として知覚できる友人の言葉に希望を見出している。努めて慎重に言葉を選ぶものの、口にしたのは紛れもない事実で )
君がわざわざ料理を?それならリクエストの権限を放り出すわけにはいかないな、何でもいいだなんてのは逆に失礼だ。しかし…ううん。それなら、笑わないで聞いてくれ。君の作ったケーキが食べたい。いや、そういうのじゃないんだろ、分かってるけどさ。
( 自ら台所に立つという宣言に些か目を剥くのは、同性の友人が炊事を行うという発想がまるで存在しなかった為。女性が家庭外で労働を始め、彼女らが医師や学者として活躍する時代において、男は厨房に出入りしないという先入観そのものが偏見なのかも知れない。瞬時に旧体制的な考えを改めると、残る課題は具体的な注文の決定。"コーヒーに合う料理"という問いを自ら立てた結果、極めて短い連想ゲームはものの数十秒で終了した。食に頓着しない頭が最終答案として提示したのは、主食の大枠を外れた甘味。素っ頓狂で的外れな要望が友人を悩ませることは承知の上、予防線を張りつつ眉を下げ )
ああ、お陰様で。食事を取ったら頭もすっきりした!君と顔を合わせる前にも眠っていたし、さっきも少し意識を飛ばしていたから…あと二日は保ちそうだな。
( 元より鬱々としていて、痩けた頬が余計に見窄らしい印象を与える顔立ちに影が落ちる。その側で語る友は聖人と同じ名を与えられていながらも信ずる先は神ではない、成し遂げんとする科学力の集大成だ。それこそが彼を至高天へと至らしめる徳となる、断じて金貨等といった俗物ではなく。理解しているからこそ友人の進む道を羨み、また同時に、いずれ訪れる袂を分かつ日を寂しく思わずにはいられない。彼は情け容赦なき現実を見据え歩まんとしているのに、取り乱して醜態を晒すしか能のない己の情けなさといったら。この悲劇ごっこが何になるというのだろう、意を決して顔を上げ )
折角の食事の時間に水を差してすまなかった。あんたがいつか最高の発明を完成させるのを楽しみにしているぞ。その時僕が近くに居なくたって別にいい、多分…理由はよく分からんが…あんたの夢が成就すると僕の望みも叶う気がする。これは信仰がどうのじゃない、僕自身が見つけたものだ。男なら黙ってさっさと進むのが一番、だろ?
( 続く想定外の言葉に意表を突かれて口が半開きのまま停止。薄汚い墓守にケーキをリクエストするとはどういった風の吹き回しなのだろう、正直"片手間で食べられるから簡単なサンドイッチが良い"程度の返答が来るものと勝手にたかを括っていたのはどうやら不正解だったらしい。サンドイッチよりケーキの方が難易度が桁外れに高過ぎる、あれらは甘くて贅沢でスポンジと濃厚なクリームが乗っていて等々色々と連想される形容詞が過るが、さて間違いなく提供出来るものだろうか?然し友人が珍しく食に対する意欲らしきものを示しているのに、安易にかき消してしまうような真似があってはなるまい。自信ありげな笑みをと踏ん張った顔が不気味な微笑を湛え )
そうか、そんな物で良いなら任せろ。ドライフルーツが入ったやつから誕生日に出てくるようなデカいやつまでお茶の子さいさいだ。飽きるまで食わせてやるから期待してくれていい。ぼ、僕の料理の腕前に驚くなよ?
( そうは言っても当然の事ながら料理のリの字も知らない。となると、誰かに教えを乞う必要があるわけで。誰か確かな腕前を持ちながらも、余計な詮索はしない淡白な人間は居ないものだろうか。食器を重ね盆の上へ載せる間も適任者を脳内データベースの乏しい記録から引っ張り出そうとしていて )
なら次回は2日後だな。今夜ルカの部屋で発明品を見るとして、またその進捗でも教えてくれ。───楽しみに、しているかどうかは、勝手に解釈してくれていいさ。
ああ、必ず成し遂げる。君の望みも背負ってるなら尚のことさ。だから、あの発明が実現したら…一緒に祝杯を挙げよう!君が世界じゅうの何処に居たって容赦なく呼び付けるぞ、なんなら迎えに行く。覚悟しておけよ。
( 再び交わった視線から憤りや悲哀は感じられない。先刻とは打って変わって清々しさを胸に抱き、明るい語調と共に首肯。無二の理解者に希望を託された今、完全に退路は断たれた。辺獄への片道切符を握ることになろうと構わないのだ、思い描いた発明を完遂出来さえすれば。徐に立ち上がり、明日には全てを忘却するとも知れない頭で無責任な未来を放言する。友人の肩に気安く腕を回したかと思えば、その手で二、三度背を叩き )
いやあ…君がそれだけ料理に対して興味を持ってるなんて知らなかったな!シェフかパティシエにでもなれそうな勢いじゃないか。何はともあれ、期待してるよ。私からあれこれ指定はしないから、君の考えるケーキを作ってくれたらいい。
( 流石に無理難題を押し付け過ぎたかと反省しかけたのも束の間、自信に溢れた快諾とぎこちない微笑ににんまりと笑みを敷く。もし済まなそうに断られていたのなら、恐らく此方が罪悪感に駆られていたことだろう。率直に述べると、この献身的な友人が料理に精通しているとは考え難い。簡単な軽食であれば一人でも拵えてしまえる筈だ。無論、ケーキなどという多少なりとも技術が必要な品なら話は別だが。他者に頼らざるを得ない状況を作り出した事実が吉と出るか凶と出るか、預言者のような天眼を持たない以上は神のみぞ知る。理想的な帰結といえば、彼が仲間の為と洋菓子作りに挑むような情の厚さを持った人物であると伝わること。秘めた計画の成功を祈りつつ、無情にも課題の自由度と難易度を同時に吊り上げ )
勿論、構わないとも。発明は常に己と時間との戦いだ、一時とはいえそこに第三者が介在することによって張り合いも出る。──私"は"楽しみにしてるぞ、クレス君。自分の研究に関心を寄せる相手がいるのは、結構気分がいいものだからな。
デカい拡声器を態々作って呼びそうだよな、あんたの場合。他の連中も呼ぼう。皆口々にあんたを褒め称えるさ。そうなれば良いっていう願望じゃない、そうなるに決まってるんだ。僕の友人の晴れ舞台は新しい時代の幕開けの象徴になるんだから。
( 一週間もしない内に例の頭痛を起こして忘れてしまうかもしれない。そんな話をしたかな、そう言って首を捻る彼の様子は思っている以上に現実味を帯びて想像される。否、忘却は成功の栄誉の陰に隠れてしまう程度の話だ。或る地域では彼の名は" 光を齎す者 "を意味するらしい、教えてくれたのは冒険家を名乗る男だった。名の通りに彼の発明によって、狭く苦しい時代を生きる我々は一縷の光に触れる事が叶うだろう。叩かれた背中にじんわりと広がる熱を心地良いものとして捉え、僅かに目元に潤みを持たせて確言すれば友人のシルバーグレイの瞳を見上げ )
何なら転職してやろうか?これで稼いだって良いかもな。は、何だって?僕の考えるケーキ…ケーキ。はっははは!挑戦なら受けて立つ。一口食べるだけで速攻昇天するようなヤツを絶対に作ってみせるぞ。
( 首枷の友人にのみ舌は回る、冗談だって自然に出て来てくれる。裏に隠された優しい意図を知らないまま、何としてでも天才を一度でも構わないから平伏させてみたいという野心のみが膨れ上がり。自由形式という無理難題に苦しめられる間思い出した、これは確かマズローが唱えた法則だったか。以前勉強の為にと医師から借りた本に書いてあった筈。当初は内容なんてさっぱり理解しかねたのに今は解る。自己実現だ!ルカに承認された上での!急に水を得た魚の表情へと変わり、ご丁寧に人間の欲求を解明して名付けた心理学者への親近感を抱いて意気揚々に誓いを立て )
張り合いか…一生かけてもあんたのその熱情を本当に理解する事は出来ないんだろうな。それくらいあんたは誰よりも前を歩いてるって意味で。はは、僕も楽しみだよルカ。ありがとう。
…ふ、ふふっ、ははは!うん、直に招待状を読み上げるつもりだ。それこそ、街全体に響くくらいの声で!──そうだな、大規模な祝賀会を開きたい。そうすれば皆思えるだろ、あの狂ったゲームへの参加は決して無意味じゃなかったってさ。だから、クレス君……アンドルー。荘園での出来事が若かりし日の思い出になる頃、君に新たな時代を見せてあげよう。他でもない私が!
( 決して高くはない勝率を鑑みずとも、自陣営の参加者全員が生き残れる可能性はほぼ皆無。そんな中、思い描いた祝いの席では全ての仲間と再会を果たせるという奇妙な確信があった。過ぎた絵空事として空虚に響いても構うものか。誰より己を高評する男から湯水と浴びせられた賛嘆に浸り、希望に満ちた未来に耽溺することを許されたい。それが泡沫の夢であることには目を瞑って、せめて今だけは!微かに滲んだ淡い紅が溶け落ちる前に、謝意と親愛を込めて抱擁を送る。視線が無いことを良しとして、期待と興奮に彩られた朗笑を満面に広げ )
いや、それは良策かも知れない。少なくとも、ほんの冗談で終わらせるには惜しい!ここを出たら菓子職人を目指すのも一つの手だと思うぞ、案外コックシャツが似合ったりしてな。
( 相手の意図は作為的に敷かれたレールを外れ、此方の思惑を突き抜けた。これだから友人との会話には飽きが来ないのだ。元より彼には高いポテンシャルを感じていたものの、図らずも新たな分野に可能性を見出してしまったかも知れない。体質から日の下を歩き辛い墓守に夜色の外套がしっくりくるのは言うまでも無いとして、真っ白な制服を纏った想像上のパティシエ姿はなかなか様になって見える。無数の選択肢を包摂する彼の将来に想いを馳せ、茶化すような調子でその道の一つを提案し )
分からなくたっていいんだ。第一、君はもう理解してるんじゃないか?発明家としての私ではなく、ただひとりの人間としてのルカ・バルサーを。──さて、片付けくらいは引き受けよう。朝のゲームで疲れてるだろ、早く部屋に戻って休むといい。付き合わせたのは私だけどな。
( 理論の構築にも実験の反復にも、一個人としての記憶や感情は不要だ。頭では理解しつつ、この極めて個人的なやり取りを慈しまずにいられないのは何故だろう。今なら『地下生活者の手記』を綴った小官吏の主張を容れられるかも知れない、人間は非合理に基づく存在であると。再び開いた口から押し付けるのは一方的な勧め、先刻まで彼の背に回していた手で机上の盆をひょいと持ち上げ )
そうなると僕の名前が世間に公表されるわけか。クソ、恥ずかしい…あんたならやりかねなくて尚更。凄いな、そんな大掛かりな催しなんて呼ばれた事も参加した事もないぞ。皆の視線の先はあんたとあんたの発明品で、あんたはスピーチをして拍手を浴びて、胴上げまでされて其処ら中が花束だらけになるんだな。まるで祝福そのものだ。おい、ルルルカ!?…ああ、期待してる──生きてその瞬間をきっと迎えてみせる。
( 勝手な願いが届くのならば最初に招待を受けたい。真っ先に祝いの席へと駆け付けたい。拡声器から響く名前を耳にするのは居た堪れないだろう、だが友人の偉業を称える場では老いも若きも等しく在れる。誰もが人類の先駆者を愛し、敬い、喜びに咽び、互いを抱き合う素晴らしい時よ来たれ!その夢を精々一隅に過ぎない荘園如きに潰されてなるものか。胸一杯に広がるビジョンに酔い痴れ自ずと口調にも熱がこもり。ファーストネームで呼ばれたと気付いた時には身体的な距離はゼロに、ハンターの気配は無いにも関わらず騒ぎ出した心臓がばれてしまいやしないかなんて今は考えまい。同じ力をもって腕を背中へ回し、徹夜で染みた独特の匂いに己が香を重ね合わせて双眸を閉じ )
食べもしない内から買い被られるとは思わなかった。でももしかすると成功するかもしれないよな。店を開いたら絶対にやりたい事がある。僕の店はどんな奴も差別したりなんかしない。その格好で来ても喜んで迎えてやる、常連になってくれれば万々歳だ。
( 実現するか否かは問わずに、可能性として留めても誰も責めはしない筈。友人の口車に乗せられているのだと指摘されればそれはそれ、否定もしないし寧ろ笑ってみせよう。彼の左瞼の腫れと己の左頬の傷痕を御覧じろ。外見的要素等というものが人生に何ら支障を来さないと証明するには充分ではないか。賞金の使い道は神殿への旅費だ、信仰を捨て切れはしないけれども、転職するなら其方に費やしてみても良いかもしれない。頬杖つき友人の方に視線を投げ、最優先で店に招き入れるべき相手は既に決まっている事実を知らせ )
発明家じゃなくて人間として…?そうなのか、僕はルカを理解出来ているのか。人間として、ふふっ、ん、んんっ。休むべきなのはそっちだろ、片付けも僕がやる。それくらいしないと気が済まん。
( 思いがけない言葉に瞬きすること数回。発明ありきの友人として接するならば志を応援して然りだと思っていた。今、浮かれているかもしれないという可能性を踏まえて言わせて貰えるならば、世間一般に向けた肩書きよりも更に内側に存在する特別な領域に触れるのを許されたのか。この高揚感は一体全体何と呼ばれるものなのだろう。勝手に緩んだ頬が勘違いから生じた結果ではないのを祈りつつ誤魔化しの咳払い。持ち上げられた盆を追うようにして慌てて異議を唱え、取り返そうと腕を伸ばし )
君には最前席を用意するつもりだ、私の話が長いからって居眠りするんじゃないぞ。スピーチ中に名前を呼ばれたくなければな!……ともあれ、君の中で私の株価がこれ以上ないくらい高騰しているのは分かった。握った証券をうっかり手離すなよ?生きてゲームに勝利して、停滞した人生の続きを始めようじゃないか。
( 研究の完遂は疎か、荘園からの脱出を果たすことさえ未だ成っていない現状を想像力で塗り替える。世界に誇る発明の公表を控え、無二の友人をどう迎えようかと頭を悩ませる稀代の技術者こそ現下の自分なのだ。馬鹿馬鹿しいと笑う余人には笑わせておけ、夢を夢で終わらせないのが真の天才だということを証明しよう。微かに香る湿った土壌の匂いに目を伏せ、程よい温もりに身を任せてしまいそうになる。再び瞼が開かれた時、そこは熱気に満ちた式典会場ではなく、ひと気のない食堂だった。相手を戒めていた腕をするりと解けば、彼の胸元を拳でトントンと軽く叩き。友がそこに"バルサーへの信頼"という銘柄を保有する限り、願望の成就を確約するのは己でありたい )
許されるのか?目元に隈を拵えた徹夜明けの前科者が、しかも首枷をジャラジャラいわせながら入っていったって?…冗談はさておき、そいつは先進的だ。でも、初めて君の店に向かう時くらいは正装させてくれ。第一号のお客として、少しは格好つけたい。
( 友人に対する強欲と傲慢とを繋ぎ合わせた思考回路は、己が初の来店者となることを信じて疑わない。万人に開かれた店を構えるというのなら、店主が困り果てるくらい大々的に宣伝を打とう。それとも、小さな町の片隅に佇む可愛らしい店舗を望むだろうか。何方にせよ、幸福を形にする為の投資は惜しまない所存。開店を果たした暁には真っ先に顔を出したい。皺一つないモーニングコートを羽織り、首元にはクラバットを締めて!星の数ほど存在する可能性の一つ、まだ見ぬ将来を愛でる声音は上機嫌に弾み )
そうとも。私の体質や習慣、個人的な嗜好を理解しているのは、君が私の友人だからだ。発明の成果にしか興味を示さないパトロンじゃこうはいかない。…ふむ、そこまで言うなら仕方ないな!じゃ、片付けは頼んだぞ。今晩、部屋で待ってる。
( 言葉にするごと強まるのは、彼のような理解者は得難い存在であるという確信。財産も地位も名声も失い、唯一残った頭脳も碌々使いものにならない。常について回る殺人者のレッテルが、栄光の残滓すら塵に変えた。出獄後、あるがままの自分を受け入れてくれた初めての相手を恩人と呼ばずして何と呼ぶのか。彼との邂逅を果たさなければ、個としてのルカは摩耗し、今以上に研究一辺倒な発明家のなり損ないが生まれていたに違いない。やがて友人のお人好しに根負け、此方に伸べられ宙を彷徨った手に盆を受け渡す。元死刑囚にさえ忌憚なく意見を述べ、他意無く世話を焼こうとする純真さを持てばこそ我が救い主たりえたのだろう。既にして研究成果への反応に期待を寄せつつ、ひらりと片手を振って足取りも軽く歩み出し )
はは…自信が無い……それもまた恥ずかし過ぎる!その頃には一般市民並みの常識は身に付いている予定だ、た、多分。あんたの重荷にはなりたくない、ただあんたには僕の行く先を預けても不安にならないんだ。妙…だよな。
( 居眠りしないとは約束いたしかねる、相済まないが日常会話においてでさえ友人の言葉選びには全力を傾けずには理解へと至らないから。これでも初対面のあの頃に比べれば言わんとしているものが拾えるようにはなったが。ところが効果覿面な脅し文句を耳にするや否や再び羞恥心に着火。最前列ならば尚更他の参列者にも恥じない振る舞いをすべきか、せめて如何に彼が発明において多大なる誇りと信念をもって挑んだかについて語る際には、頷きながら拝聴出来る程度になろうと口籠もりはしても約束は交わし。本心が語るところによれば実に残念だったようだ、体温が離れていってしまったのは。小突かれた胸は未だに急いているというのに。此方を見ている友人の輪郭が謎の閃光を繰り返し、眩しくて細めた目では余計見えるものも見えないにも関わらず、夢の実現者の背後にはいつの間にやら歓喜と称賛で賑わう人集りが出来ていて、各々が理想とする明日の方角を見据えている景色が広がる幻想に暫し浸り。現実の彼に伝えたかどうか自分でも判別出来なかった、唇は確かに動かしたけれども届いたのかどうかさえ曖昧なのは目覚めていながら夢でも見ていたのだろうか )
ああ、服装なんか構うものか。人間だって本来は皆素っ裸だろ。正装してくれるなら止めはしない、紳士が来店してくれたら見かけた誰かが続いて入ってくれるかもしれないしな。まさに生きた広告になってくれると思うぞ。
( 信仰の次か信仰と同等に大切な友人が悪人だろうが聖人君子だろうが、そんなものは大した問題にはなりはしまい。通りすがりの阿呆面が後ろ指をさそうがさすまいが、最初に踏み入れる権利は友人にもう渡してしまった以上、余所者のつまらない思考など気にしてやる必要も無い。極端な発言に込めた彼への信頼感を察して貰えるなら本当に有り難いのだが。今こそ囚人服を纏ってはいるが、育ちが良い男だとは能無しにも分かるところ。背筋を伸ばして闊歩する発明家が店を訪れる名誉も、この紳士は我が友人だと誇れるのも、何もかもが愉快で軽やかに笑い声を立て )
…そうか、友人ってのはこんなにも恵まれた役割なんだな。ルカのパトロンじゃなくて、友人になれて良かった。取り掛かる前にもう少しは休めよ。母さん、僕には凄い友達が出来たんだ。其処から見えるかい、石を投げない人が居たんだよ、僕は母さんと同じ人間だったんだ!彼奴が嫌がるから言わない…神からの賜物なんて表現したら絶対否定するもんな。
( 機械的に付いて回るだけの関係であったとしたら、少なくとも彼が非常に大事にしている神聖な領域に近付かせては貰えなかったことは明確。人好きのする性質を持ちながらも他人に関心の無い天才肌、無理に踏み込もうとしても綺麗に躱してしまえる天涯孤独の偉人。感謝するなんて屹度変だと言われてしまうのだろう。君は面白いね、とも。踵を返した背中に念を押して見送り、廊下に消えるまで黙って眺め。丁度独り言が聞こえなくなる距離を隔てた瞬間、頬が輝き始めた後に永遠の楽園におわすと信じて疑わない母の面影に語りかけ )
──覚えているのか何とも分からないな。おい、ルカ。居るのか?今朝の約束で邪魔しに来たぞ。
( 時は夕餉の時間も越えて、空から星々と月の女神が微笑みを投げかける夜に差し掛かり。可能性として忘れている事も念頭に置いておき部屋の扉をノック。床に部品や紙屑や、若しかすると当人が倒れて呻いているかもしれない為にいきなり入室することはせずに、慎重にドアノブを回し少しずつ扉を押し開け中を確認しようと )
( 正午以降は実験に肝胆を砕き、夜の帳が下りる頃に漸く頷けるだけの精度を備えた試作品が完成。夕餉の席には顔を出さずに二日振りの入浴を済ませ、鼻唄混じりに自室へ引き返して現在に至る。未だ湿り気を帯びる髪を適当に結い上げ、横目に約束の時刻が迫っていることを確認し。其処らじゅうに散らばる紙屑を拾っては屑籠に放り、拾っては放りを繰り返す。やがて屑籠が溢れ返っても意に介した様子は無く、未完の没作をぎゅうと押し込んで。この部屋を自ら訪れる者は殆ど無く、また滅多に人様を招き入れることもない為に、部屋全体が雑然としていることは否めない。久方ぶりに友人を招くのだから、せめて足の踏み場は作ってやらなければ。一人意気込み、有体に言えば散らかり放題の空間を適当に片付ける。電子管、抵抗器、インダクタにトランス、電子部品は種類毎に小箱に収納。物覚えが悪い為に擦り切れるほど読み込んだ論文集は、枕元から本棚へ )
共振とパルスはこっち、電磁波はそっちで…電界?電離層の隣でいいか。これで粗方の整頓は済んだな、あと、は──…っ?…、……!
( ぐらり、突如として視界が傾く。咄嗟に伸ばした手は書籍群の上部を掴み、今し方終えたばかりの分類はばさばさという耳障りな音と共に水泡に帰した。声を上げる間もなく全身を強かに打ち付け、瞬間、頭蓋を抜けた鋭い痛みに視界が歪む。非常に不味い。今日はまだ、日記を書いていないのに。ここ二週間近くは症状が出ていないからと油断していた。俄かに擦り減り始めた理性が叫ぶ、発作が悪化しない内に対処しなければ、と。耐え難い苦痛に抗いながら立ち上がる、つもりだった。全身を支えるだけの力を失った下肢は使い物にならず、情けなくもその場に蹲ったまま奥歯を噛み締めることしかできない。来客の声が耳朶を叩いたことにも気付けぬまま、三叉神経を焦がす電流の如き痛苦への怨嗟が胸中を占め )
…ッ、……どう、したって、こんな時に──ああ!最悪だ、こんな、最低の、ふざけるなよ、この、……!
うわっ!な、何だ今の音は…まさかルカがまた倒れて……?マズいぞ打ち所が悪いと大変な事になる!おい!しっかりしろ、大丈夫か!?
( 完全にドアを開く前の不穏な音。何かが床に転げ落ちた衝撃音と、紙屑の乾いた音と、薄くて脆いガラスのような物体が割れる音と。何れも緊急事態が発生しているのを本能に悟らせる警告そのもので。遠慮は瞬時に捨て勢いよくドアを開け放ち、靴が雑多を踏み付けるのにも構わず友人のもとへと駆け寄り。苦痛に歪む表情と不安定な呼吸はどう考えても例の頭痛に見舞われているからに他ならない。このまま行けば意識レベルの低下による二次の事態を招いてしまう、咄嗟に冷静な対象が出来れば多少は救われるものをパニックを起こし、慌てて周囲に鎮痛剤が残っていないか目視で確認。駄目だ、物が溢れ返り過ぎて探すにしても本人が危ない。これは自ら医師の元へ連れて行かなくてはどうもしようがないのでは。先ずは背中を摩り声をかけ続ける事で昏迷ないし昏睡には到達させまいとして )
おい、ルカ!無理するな力を抜け、クソッ退け邪魔だ、あっちへ行ってろ!あんたをダイアー先生の所へ連れて行く、触るが悪く思うなよ。
( 床に散らばる無機物を足で蹴飛ばし、最初に友人の身体を安全に預けられる場所を確保。次にすべきは患者の搬送だ、本来ならば転倒による強打が予測される場合は脳震盪の可能性を考慮して"素人が患者を動かす行為は禁止 "されるものだと知ってはいる、だが担保も手を貸してくれる人間が近くに存在しないのも理由で、職業柄決して萎びてはいない筋力をもって友人の位置を調整した後床からその身体を抱え上げようと身構え )
──っ、触るな!!…ア、ンドルー?す、すまない……そこの抽斗の三番目に、……鎮痛剤があるんだ、二つばかり飲ませちゃくれないか。
( 例えるなら、脳漿に無数の電極が犇いているような感覚。ぎりぎりと歯を食い縛り、僅かに残った冷静な判断力で呼吸を努めて落ち着ける。あまりの痛みにじっとしていられない。周囲に気を配る余裕も無いまま、背に何者かの手が触れるや否や本能的に声を張り上げ。直後、突如として視界に入った相手が友人であると辛うじて特定すれば、激痛の最中淡く滲んだ罪悪感に声が震えた。導火線の如く理性を焼かんとする火の手を、意志という名の精神力を以て無理矢理押さえつける。文字通り這い蹲って縋りつき、震える手を持ち上げて袖机を示して )
……駄目だ!医者の所は!ひ、抽斗の、三番目だから……ッ、ぐ、──あるんだ、机の……痛み止めがさ……大丈夫だから、た、頼むよ、なあ、連れて行かないでくれ……お願いだ!
( 現環境では必然的に担当医となる参加者の名を耳にした刹那、偶発的な災害に見舞われた頭の奥に一片の記憶がちらつく。彼女が医師の責任において投与する薬剤は即効性で、地獄の苦しみからものの数分足らずで己を現実に引き戻す救済の具象だ。とはいえ、福音の先には大きな副作用が待っている。この身を蝕む痛みと一緒くたにして、前後数十時間の記憶までもすっかり取り上げてしまうのだ。様々な可能性を考慮した後、最終的に医師の元への搬送という結論を導き出した彼は正しいのだろう。床に倒れていたのが他者であったなら、自身も同じ判断をした筈だ。にも関わらず、死にも勝る忘却の恐怖に慄き、哀れっぽい眼差しで懇願する様は酷く惨めに違いない。極めて反知性的な判断な理由から合理的な処置を拒み、文字通り頭を抱えて嘆願を重ね )
気にするな、驚かせてすまなかった。抽斗だな、っで、でも耐えられるのか…?ま、まっ、また、分かった取りに行く。
( 努めて冷静に、感情は見せず穏やかに。声を張り上げて拒絶したくなるのも無理からぬ状況と知っていれば自ずとそうなるだけ。示された方角を目で追ってみたものの、鎮痛剤を服用する前に脳の血管が破裂してしまいかねない逼迫した状況下において、急患から目を離して良いものか迷い全身を竦ませ。主よ哀れな魂をどうかお救い下さい、癒しの天使を友人の元へとお遣わし下さい、私が彼の分まで信仰心を貴方に捧げます…必死に神に祈り片手は首元の十字架を強く握り締め、もう片手で背中に今一度触れることにより了承の意を表して )
分かった、分かった!止める、大丈夫だ手を離したぞ。馬鹿め、あんたが望まないことを僕が無理にすると思っているのか……少しくらい黙ってろ。薬を飲ませるには、あったこれだな。水なら洗面台に、待ってろよ直ぐに飲ませてやる。起きれるか、ゆっくり───慌てるな。ッすまん、ルカ。
( 本音を言えば酷く恐ろしい、何故なら一歩間違えれば彼の将来を台無しにする立場に置かれているから。死んだ者は黙していても生者は息絶えるまで苦悩を訴え続ける。友人は何度この悍しい発作に襲われなければならないのか、壮大な夢物語を容赦なく遮断されながら。嘆願に気圧され何度も頷き返し、殆ど気絶に近しい意識混濁を示す彼をそっと床へ戻してやり。さあ、ゆっくりはしていられない。指定の抽斗を乱雑に探り目的の錠剤を見つけ、次に水分となるものを求めて汚れたグラスを手に洗面所へ突入。そのまま丸ごと与えた場合、誤嚥による二次災害が見込まれるような。咄嗟の判断で錠剤を砕き友人の口に無理矢理押し込み、グラスから直接飲める状態ではないのを考慮した上で、加えて彼の男性としての尊厳を尊重した上で、己の口に水分を含めば間を置かず友人の口を塞ぎ液体を流し入れ )
……いッ、ウ、ぐ……もう、……ッうんざりだ!嫌なんだよ、嫌だ、思い出さなきゃいけないのは……早く薬を飲まないと……畜生、ああもう痛い、痛い!許し、──!
( 溶け出した正気は脂汗としてじっとりと額に滲み、血の気の引いた?を伝う。耐え切れなくなった皮膚がぶつりと音を立てるのも構わず、更に強く唇を噛み締めた。痛い、苦しい、耐えられない。見えない稲妻に中枢神経を切り裂かれながら尚も意識の手綱を握っていられるのは、暈けた視界に彷徨く人影が己に救いを齎す存在であると確信すればこそ。混濁する精神の奔流に翻弄されながら、"彼"に関する記憶を手繰る。彼は、君は私の…果たしてなんだったか。生まれてこの方敬虔な信仰心とは無縁だったが、常人ならざる姿を取った彼は天上に座す神の使いに違いない。この際神でも天使でも、それこそ悪魔だって構うものか!救済への激しい希求から遂に寛恕を乞う寸前、乾いて切れた唇を塞がれた。部屋に谺す患者の声はぱたりと止み、沈黙に見守られる中流し込まれた錠剤を素直に飲み下し )
……?……は、ははは!はは!元通りだ、全部!私も、ロレンツも!だって、天使に、キスされて──何を言ってるんだ?それより……どうにかしてくれよ、頭が割れそうなんだ、痛くて……。
( 体温が離れて尚も呆けた表情を晒して黙り込む。然しそれも束の間、今度は面白くも無いのに笑いが込み上げて止まらない。遂に救われたのだという奇妙な確信が膨らみ、弾けて消えていく。眼前の光景をはっきりと捉えられないのは、生理的に滲んだ涙の所為だろうか。一人騒ぎ立てていた狂人の喧しさは徐々に鳴りを潜め、後に憔悴しきった男が残された。虚ろな瞳を彷徨わせ、覚束ない目線の先にようやく捉えた"太陽"。赤い、美しい西日。この目に映るのが日没なのだとしたら、一体今は何時だろう。分からない。何も考えられないし、考えたくない。頭蓋の内側の駆け巡る痛みから逃れたい一心で、友人の瞳に恒星を重ねて手を伸ばし )
……助けてくれ、アンドルー……。
僕は天使にも悪魔にもなれる、あんたがそう思った通りに捉えてくれていい。───おいで、ルカ。貴方に投げられた石礫を私も共に身に受けましょう。流された血の分だけいつか貴方は誰かを救える時が来ます、今は辛抱なさい。神は貴方の苦しみを決して見捨てはしないのです。貴方が倒れた時、彼は貴方を背負ってくれるでしょう。側にある光を忘れては駄目、辛い時は私を思い出しなさい。可愛い子、私の宝物。誰よりも貴方を一番に愛しています。
( 地獄の業火に焼かれても尚、友人が口にした名は"アンドルー"だった。一旦記憶がリセットされてしまった際、確か必ず"クレス君"に戻っていたと思われる。嗚呼、死という救いにも縋れぬまま呪いを受けているにも関わらず、この名を手放そうとはしなかったのか。ひび割れて血が滲む唇を優しく拭い、髪に隠された右目は隙間から純粋無垢な魂を、左目は消えそうに燃え続ける命の燈を捉え。もしも天使になれるならば彼を守護し導く存在となろう。もしも悪魔になれるならば汚れた記憶を喰らい幸せな妄想のみ延々と与え続けてやろう。淡々とした口調で囁いた後伸ばされた手を取り、そのまま抱き寄せ背中を撫で続ける間、かつての母の記憶を辿りその無償の愛を模倣して。衰弱した発明家から垣間見る本質は普段の彼からは一切想像がつかないものだ、死期が近い者は丸くなるというが、生い立ちや故郷は問わずに人間の根本に在るエネルギー体は赤子の如く極めて無と等しいものだったとは知らなんだ )
馬鹿だな、僕は馬鹿だよな。あんたが死にそうな程苦しんでいるってのに呑気にあんたに名前を呼ばれて喜ぶなんてさ。忘れる事を当たり前にしようとして悪かった…あんたは僕を理解者だと言ってくれたのに、実は全然分かっちゃいなかったんだ。クソッタレは僕の方だよな。
( 聴こえていなくても構わない。寧ろ聞き流すべき内容だ、非常に下らない戯言なんてものは。どうやら入浴だけは済ませたらしい湿っぽい髪の香りに鼻腔を擽られ、己よりも幾分か小柄な体躯に収められた柔い部分を撫でるような調子で言葉を紡ぎ。今度こそ絶対に、何があろうが必ず、一番の友人に相応しい人間になりたい。此れ以上は望まないから友人が必要以上に苦痛を感じなくても生きていける時間を与えて欲しい。彼が削ぎ落とした箇所に己が肉付けして、また研究に試合にと全力を傾けられるようにしてやらねば。固い誓いを胸にそのまま動かず緩和を待ち続け )
( いつまでも沈まぬ太陽は揺れる灯火となり、やがてコーラルレッドの瞳として像を結んだ後、人ならざる存在であった筈の彼は見知った友人へと姿を変えた。否、彼は元々人間だ。その背後には後輪も翼も無い。塗炭の痛苦にとうとう耐え切れず、ひとでなしとして凄惨な差別を受けた彼をあろうことか人外に重ねてしまったのだ。脈打つような痛みの中で人非人の所業を悔い改める前に、柔くやさしい声に包まれて瞬きを繰り返す。子守唄の如き穏やかな調子で紡がれる言葉が何を意味しているのかは終ぞ理解出来なかったものの、自分は赦されたのだという確証を得た。大脳の内側に空気を震わせる程の雷鳴を轟かせていた激痛の波は徐々に引いて行き、今は遠雷のような疼痛が残るばかり。既に嵐は去った筈なのに、掴みどころのない感情が涙腺を刺激する。見据える先に愛すべき友の姿を捉えたまま、溢れ出る涙を流れるに任せて )
──もう、大丈夫だ。ありがとう、君が私を助けてくれたんだな。にしても、はは、私はどうして泣いているんだ?何も悲しくはないんだが……いや、違う。悲しいんだ。でも、何が悲しいのか分からない。
( 徐に身を起こし、紅潮する頬に幾筋か流れた悲哀の跡を乱雑に拭う。周囲の状況から鑑みるに、相当な醜態を晒してしまったのだろう。心優しい友人のこと、己の惨め極まりない姿を目にして大慌てで処置を行う彼の姿は想像に難くない。遣る瀬無く胸奥を支配する哀愁の影に戸惑いながら、未練がましく神経を刺激する鈍い痛みに米神を押さえ。何か、とても大事なことを忘れてしまった気がする。どんな方法論や計算式にも勝る大切なもの。失われた記憶の空白を引き摺り続けることはとうの昔に止めたつもりだったが、厭に引っ掛かる。若しかすると、現状の研究を飛躍的に進めるようなアイデアだったのかも知れない。持病に葬られた記憶を惜しんで嘆息を一つ、無念を断ち切ると改めて口火を切り )
にしても、何か用があって私を訪ねて来たんだろう?悪いな、介抱までさせて。大変だっただろ、ああいう時の私は手が付けられないから。アンドルーには改めて礼を、……"アンドルー"?なあ、私は君をそう呼んでいたよな?
いや、偶然居合わせただけだ。僕は何もしていない…泣いていい時は思いっきり泣くのもそんなに悪くはないぞ。まあそうだな、あまり泣き過ぎてもまた頭痛の種になるとは思うが。涙の理由に名前なんて本当は必要ないだろ、気持ちをすっきりさせる為にあんたの目が流し始めたんだろうさ。
( 恩着せがましい気持ちでやった事ではないのは紛れもない事実だ。そう、他者を慈しむ気になれる時は百回中一回訪れるか訪れないかの程度に過ぎない。元来己は利己主義且つ死者を冒涜する守銭奴なのだから。こうやって予防線を張っておかなくては友人はまた要らない気を揉む羽目になりかねないではないか。泣き腫らした瞳に映る男は情けなくも友人への情を引き摺っているらしく、肩を固く撫でると気休め程度の言葉を投げ掛け。涙に揺蕩う彼をもっと温かく、もっと愛を込めて慰められたらどんなにか良いだろう!そうしなかったのは偏に危うく貰い泣きをしそうで、先程まで頭痛に悩まされていた友人を前にして子供のようにわんわん喚く寸前だったからだ。感情を爆破させて、彼が彼自身を癒すのを邪魔したくなかったからだ )
謝るな。そんな事より完全に治まるまでは出来るだけ安静にしておいた方がずっと良い。……そうだよ、僕は"アンドルー"だ。良い名前だろ。用はこれから果たすつもりだ、見ろよこの汚い部屋を!何だこの豚小屋は、脱いだまま放置していたら虫が湧くぞ、もう湧いていても可笑しくないじゃないか。全く…仕方ないから片付けてやる。
( 誓いは貫き通す、晴れ晴れとした表情で祝賀会を思い描いた天才を本人が忘れようとも己は忘れまい。やや毅然とした態度にて謝罪も気遣いも遠慮したい意向を示し、さっさと切り替えていくつもりだったのに。確かめるように、探るように、恐る恐る名を呼ぶ口振りに再び感傷が込み上げ目に涙が盛り上がりそうな感覚をおぼえ。駄目だ、泣いては困惑させてしまう。ならば笑ってみせるが吉。したり顔を浮かべる裏では心がさめざめと泣いた、少年の姿のままで。約束とは敢えて違う用件をでっち上げ、我楽多と呼んでは失礼だが用途不明の物体を次々に拾い集め、序でに匂う布製品を籠に押し込め整理整頓に勤しみ )
( 主人の制止も聞かずに何もかもを忘却の海に沈めてしまう己の頭が呪わしく、また恐ろしい。如何に重要な閃きや理論でも、果ては愛しく尊い思い出でも、無作為に選出された全ての記憶が等しくゼロに還る。今日の自分と明日の自分の同一性を証明できない己は、一生涯テセウスのパラドックスに囚われ続けるのだろう。彼の言う通り、涙の数だけ理由を求めるのはあまりにも不毛だ。人間は非合理性の生き物なのだから。肩口に触れた優しい手には、そうだな、と一言返して微笑むに留めておき )
アンドルー…そうか、アンドルー。君は本当に世話焼きだな、いっそ私のアシスタントにならないか?…冗談だよ、君を都合の良いハウスキーパーとして扱おうとは思っちゃいない。さて、脱ぎ捨てた服は洗濯に回すとして──いやしかし、今回も派手にやったな。
( 繰り返し呟いた名前を今一度心に刻み付ける、二度と忘れてなるものか。師に忠実な使徒の名を冠する彼を助手として迎え入れたい旨を申し出るも、ものの数秒で撤回。あくまでも個人的な厚意と親切から部屋の片付けを買って出てくれた友人の意図を踏み躙りたくはない。周囲に視線を巡らせば、持病の弊害とも言うべき惨状に我が事ながら閉口。足元に転がる小さな真空管を拾い上げると、大きなひびの入った硝子部分を目にして苦笑する。貴重な品をまたひとつ傷物にした。目に見えるだけまだ取り返しがつく、不可視の友情はこれほど分かりやすく損傷を訴えてはくれないから。泣き喚き怒鳴り散らすのは日常茶飯事として、挙句物に当たり始めるほど激しい例の症状を友人は見届けた筈。ちらりと窺った横顔から動揺の色は見て取れず、彼の存在が何にも代え難いことを噛み締めて )
そこに散らばった本は適当に重ねておいてくれ、後で私が分類する。ええと、日記には…なんだ、まだ何も書いていないじゃないか。
( 少しでも記憶の空白は埋めておきたい。あわよくば、昨日から現在に至るまでの記憶を繋ぎ直したい。脳内に残留する直近の記憶は昨晩のもので、幸いにも丸一日以上のブランクは生じていないと推論。頼みの日誌を開いてぱらぱらと捲れば、左端に記された今日の日付以外を空白が占める一頁、加えて一枚のメモが目に留まった。脳損傷による慢性的な健忘症を患っている以上、ほかの参加者のように一日の出来事を完璧に綴ることは難しい。そこで覚えておかなければならない事物やアイデアは早急に書き留め、自室に戻り次第日誌の栞として挟んでおく記憶術を身に付けた。にしても、この書き置きは一体何を示しているのだろう?二重の打ち消し線が引かれた" Kreiss "の文字に、" Andrew "の名が並んでいる。どちらのスペルも友人を示していることは疑い無いが、発明にも研究にも関係のない何を一体書き残したのか。数時間前の自分から突如として放られた難題に首を捻り、ヒントを求めて問いの主人公たる彼に視線を投げ掛け )
なあ、アンドルー。今日の私がどう過ごしていたのかを知らないか?察するに、君と一緒に居たんだろう。もし違ったらすまない。
僕が世話焼きに見えるのか?そうでもないぞ、相手を選んでいるからな。ただあんたに関してだけは話が違ってくる…借りが多過ぎるんだ。今の僕は借金塗れで1ペニーさえ返せていない。それだけあんたに貰い過ぎたんだろう。
( 今だけはそう何度も名を呼ばないでいただけたら助かったのに。とうとう堪え切れず一筋静かに零れ落ち、紙を丸めたような表情が見えないように背中を向け、短い呼吸を繰り返し平然を取り戻そうと踏ん張り続けて。声は震えていないだろうか。鼻を啜ってしまうと勘付かれてしまいそうだ。向けていた背中と顔が位置を交換する頃、塩水は幸いにも引っ込んでくれたらしい。友人の前言撤回を黙って聞き届けると寂しい微笑を湛えつつ誤魔化しも弁明もなき真実を伝え。普段ならば感佩をそうそう簡単には態度に出さなかった気がする。今この時だからこそ、彼から自覚も記憶も去ってしまったとしても、両手では既に数えられない友愛を贈られているのは己の方であることに気付いて欲しい。それだけ彼は尊い存在であり、同時に必要不可欠で己史上最高の朋友だと知らしめたい。あわよくば荘園全体公認のソウルメイト同士となりたい、生を享けた誠の意味は彼との巡り合いに在ると自惚れてみたい )
…すまん、さっき色々と蹴飛ばしたのは僕だ。べ、弁償しなきゃならないのか?いっいく幾らだそれ……。なら本はこっちに寄せておく。それにしてもかなり擦り切れているんだな、何回も読み尽くした跡がある。これを全部頭に叩き込んだ…?信じられない。
( 使い物にならなくなった真空管を一瞥して謝罪、あれが科学界では如何なる価値を保有する物なのかは分からない。分からないからこそ実は目玉が飛び出る程の豪華な道具かもしれないと今更震え始め、持ち主の表情を窺い眉を窄めて怒号を待ち。破れて補強された形跡や、表紙から本体が剥がれて丸裸になりかけているものや。集めた数だけ本の冥利に尽きるであろう証を発見して目を見張り。適当に一頁を開いてみたが見事に何も理解出来ない。数学者が見ればあまりもの美しさに卒倒するであろう数式が素人にはアラビア語かその親戚に思えて仕方なし。友人は本当に人間なのか?実は改造人間か何かではないのか?疑いの目を向けてみても凡才と天才を隔てる壁の解明には至らず即時に諦め )
ん?今日の事を知りたいのか?上手く伝えられるかは分からんが…あんたは徹夜明けで僕は早朝のゲーム帰りで、むしゃくしゃしていた僕を宥めてくれた。食堂に連れ込んであの臭いチーズ、ああいや細かくは言う必要は無いよな。飯を食った。角砂糖三つのミルク抜きコーヒーを飲んだあんたに好物を聞いたらコーヒー以外出て来なかった、だから他に考えろと言ってケーキと答えられた。それから──それから、二人ででかい夢を描いたんだ。発明の完成を全員で祝う話までして。柄にもなくワクワクして絶対に叶いそうな気がして、途轍もない希望がそこにはあった。
( 集められるだけの書籍やら小道具やらを整理したお陰で次第に床面積が広がっていくのを立ち止まって眺めていたところで、友人から肝腎要の質問を投げられ顔を其方へ向け。朝からの一連の出来事を要約するのは難しい、其処に事実でないものを混ぜてしまうのも如何なものか。然も最低二回は友人の目前で醜態を晒した身なのだ。省みるのも苦しい時間の使い方をした話までするべきかどうか、考えるだけでも身体が勝手に恥で火照り始めたからさあ大変。聴き取り易さを意識したのは始めの頃のみ、段々と声は小さく掠れていくばかり。パティシエ云々の部分が終わり、最後に思い起こされたあの絶え間ない光栄の瞬間、祝福に彩られた輝かしい未来を回顧する間は打って変わって恍惚とした様相に。新しい時代を約束してくれた友よ、君は大志を抱き続けよ。その為になら犠牲も厭わぬと君は言うのだろう。ならばなすべき事はもう決まった。しがない墓守が有りと有らゆる障害から君を守ってみせるまで )
止せったら。君にそれほど沢山のものを与えた覚えは…いや、違うな。そもそも貸しだと思っちゃいないんだ。君との関係に法則としての等価交換を持ちこむつもりはない。ギブアンドギブだって構わないんだよ、それが友達ってものじゃないのか?それに私は、100万ポンド以上の…それこそ金銭に換算するなんて馬鹿げてるくらいのものを既に貰ってる。
( 友人の言葉をそっくり信じるなら、己は彼に決して少なくない貸しを作っているらしい。読んで字の如く覚えがないのは記憶障害の可能性が無きにしも非ず、ならばと発想の転換から自論を展開。生まれた思い出が回想される前に丸々失われようと、例えそれが何度繰り返されようと、一度芽生えた親愛の情は簡単に掠れて消えてしまうものではない。何度頭蓋の内側から排されようと、胸のいちばん奥で覚えている。故に謙虚な反省を敢えて否定はするまい、この誠実で情に厚い友には何もかもを与えんとする己が好意こそ証明だ。身も心も発明に捧げた我が人生、もし彼が望むなら最後に残った魂だけは差し出そう。何にも代え難い献身に報いる方法をそれ以外には知らないから。そして肉体の死後、彷徨える魂を不可視の神や悪魔に明け渡すより、自身の救いとなった確たる存在に最期の贈り物として委ねる方がずっと魅力的に感じられたのだ )
そんな顔するなよ、弁償なんか考えなくていい。私を誰だと思ってる?天才発明家のバルサーだぞ、自分で部品を拵えるのだって朝飯前だ。……ン?なんだ、それが気になるのか?電磁気学に興味があるなら、君の為に特別授業を開講するのも吝かじゃない。はは、実行するなら今晩どころか丸々二晩は寝かせてやれないけどな!折角なら数学や工学分野に限らず、私が知っていることなら何だって教えよう。
( 見る見る萎れた態度は可哀想なくらいに心苦しげな表情と相俟って同情を誘う。自若として言ってのけた言葉に偽りは無く、常ならばおいそれと露わにしない自負心を過剰なほど主張することで内省に浸る友人を宥め。どうせ新たに作り直すなら更に小型化を進めるべきか、いや機能面を改めるべきかと考えを巡らせる。そのまま思索に耽る寸でのところではたと気付けば、目に映るのは書籍を開いた彼の姿。例え一時の気まぐれにせよ、己の専門領域に触れようという試みが見られるのは喜ばしいもので。冗談半分本気半分、淡い期待を乗せ驕傲とも取れる態度で勧誘。乾いた唇を舐めると、微かな鉄錆の味がした。頻繁に穴の開く不完全な知識大系は誇れたものではないが、知的好奇心を満たすに十分なものではあると思いたい )
───ふむ。ああ、成る程…希望か。それは確かに忘れちゃならないものだ、見失って泣きたくなるのも道理だな。ありがとう、今度はしっかり覚えておくよ。日記にも書いておこう、もう忘れないように。君の記憶力が良くて助かった!じゃあそうだな…ついでにもう一つ。このメモがどういうことかは分かるか?
( 自分自身に対して類推を行うのも滑稽な話だが、凡その見当は外れておらず、如何やら午前時間の幾らかを友人と共に過ごしたようだった。一字一句聞き漏らすまいと真剣に耳を傾け、表情の変化さえ見逃すものかと其方を見据える様はいっそ不躾に映ったかも知れない。とはいえ、終始真顔でだんまりとしていた訳ではなくて。苦笑を浮かべ、肩を竦め、嘆息し、得意げな笑みを湛え、頬を掻く。随所随所にごく自然な反応と相槌を挟みつつ、過集中の一種として挙げてよい程の熱意を以て一連の話を聞き終える。友人の語り口の節々に己への信頼と讃美が見え隠れしており、正直言って悪い気はしなかった。感謝の言葉に自戒を添え、加えて備忘録たる一枚の紙片を差し出しながら問いを重ね )
そら見ろ、お人好しはあんたの方なんだ。ギブアンドギブなんて言っていたらその内何もかも僕に搾取されるからな、ミイラみたいに乾涸びるのが目に見えてる。僕は死体愛好家じゃない、生きていてくれなきゃ困る…寂しくなるじゃないか。
( 100万ポンド以上は幾ら何でも大袈裟過ぎやしまいか、毎日休まずに墓穴を掘っても到底稼げない額に換算されるような善行を積んだ覚えは無い。自覚が無いのではない、完全に有り得ないのだ。友人の口振りを鵜呑みにしてしまえば友情どころか一方的な依存になってしまう。首を竦め薄目で睨んでみても、縁起でもない喩えで不満を垂れてみても、結局は彼が居ない時間に到底耐えられぬものと自覚した上での子供染みた我儘であり、他に例を見ない愛着があればこその屁理屈でもある。墓守が人に対して生きていろ等と言うのは矛盾があるだろうが、彼を前にすると棘もへし折られ角も丸くなるようで終いには鼻を鳴らし )
そっ、そういう問題じゃないだろ…!あと一つの部品が足りなくてあんたの作品が完成しなかったらどうするんだ、あんたが泣かなくても僕は泣くぞ!でん、じ?こう、何だそれ?えっ良いのか……!?聴く、じゃないな知りたい。ルカの宇宙の中に行ってみたい。
( 折角の寛大なお言葉を頂戴しても猛烈に狼狽え、一番に願うからこそ一番叶わなかったとすれば後悔に次ぐ後悔しか残らない結末を何が何でも避けるべく声を裏返しての反論。友人を支えると誓っておきながら、誓いの真逆を既に歩んでしまっている愚か者め。考え無しはさっさと地獄に堕ちろ。感情の振れ幅が極端という相変わらずな欠点を爆発させた後に拾った本に付着している埃を丁重に払い、恰も我が一族に代々受け継がれる至宝であるかのように確りと抱き。耳慣れない単語に追い付けはしなかったが素敵な提案に瞳孔が拡大。それは単なる自己満足に過ぎないのかもしれない、そうだとしても友人の良き理解者としてまた一歩前進、否それだけが理由ではない。本来ならば彼は雲の上の存在、己とは確実に住む世界が違う人。そのような人物から直接多くを学べるとは有り難き幸せ、思ってもみなかった奇跡!急に愛おしくなった難解な書籍を更に強く抱き締め、友人の瞳を真っ直ぐ見据え )
そんなに心配しなくていい。忘れても何回だって教えてやる。僕の話を好きに繋いで、あんたにとって気分が良くなるような"記憶"を繋いでおけばいいさ。時には本当に忘れてしまった方が楽な場合もある。思い出は美化されるともいうしな。──何だこれは?僕のファミリネームを消してファーストネームを書いた状況とは何なんだ?どっちにしても僕の名前を記録しておきたかったんだろうか…。いつ頃書いたかも記憶にないなら多分、今夜ルカに作品を見せて貰う約束をしたのをあんたの流儀でメモしたのかもな。
( 話した内容は幾分か主観的とはいえ偽りはなかったと思う。それにしてもこの耳の傾け方といい自然な態度といい、万一己が嘘の経緯を話していたら一体どうするつもりなのかと心配にもなってしまう。当然其のような卑しい真似はしない前提で。思わず友人の頭部に手を伸ばし無心で慰撫、先程見た涙に揺れる光景は刹那の解放を許されたからこそだったのだと信じたい。顔に近付けなければ文字が読めず、受け取り紙との至近距離で一文字ずつ目でなぞり。此れだけの情報では書かれた意図が読めない、二重線を引いたのは何らかの理由で打ち消したかったのだろうけれども。思うに食堂で語り合った今日の朝、友人は君付けで統一していたのを初めて呼び捨ててくれた。となると今夜の訪問を記録しておこうと名前のみ書いたが、嬉しいことに新しい呼び名に訂正してくれたのかもしれない。手掛かりをそっと返し、今の回答は飽くまで憶測に過ぎない点はそれとなく言葉尻に匂わせておき )
( あ、あー。テストテスト、聞こえてるか?突然すまない、驚いただろ。でも、どうしても伝えたくてさ。なんでも今晩は流星群が見られるそうじゃないか。君は私と違って宵っ張りでもないし、どころか規則正しい生活を送る真人間のようだから、そんな暇は無いかも知れないが。今晩くらいはココアを片手に、同じ星を眺めることが出来たらロマンチックだと思ったんだ。因みにホットココアはラム酒を数滴落とすと美味い。マシュマロを入れるって手もあるな。だから──流れ星が見られたら教えてくれ、明日にでも。いや、見られなくても教えてくれ。残念賞を贈ろう。……まあ、本当にそれだけだ!大した用でもなし、話を横道に逸らすようで悪いな。それじゃ、また。 )
言ったろ?君にはもう沢山貰ってるんだ、だから特別なことはしなくたっていい。幾ら与えたって乾涸びやしないさ。それに人はいつか死ぬ。いつかは今じゃあないが、私が天寿を全うしたら君に墓を建ててもらいたいな。
( 過ぎるほど謙虚な友人には是非とも恩義の債務整理を勧めたい、彼の存在によって何度となく救われていることに気が付いていないのだろうか。発作を起こせば皆が皆我関せずの姿勢を貫いた雑居房と比較して、偶々居合わせたただ一人が甲斐甲斐しく介抱を行ってくれる現状の恵まれたことといったら。変わらぬ対応を貫いて欲しいという希望をそれとなく含めつつ、人生の幕切れまで関係が続くことを当然のものとして手前勝手な願望を零し )
まあ、その時はその時だ。無数に存在するイフの話をしたって仕方ないさ。…おっと、まさか快諾されるとは思わなかったな。君がその気なら私も全力で臨もう。まず聞いておきたいんだが、アンドルー、君は今までどれだけ数や量を学んできた?簡単な計算はできるよな。自然数はまあ良いとして、約数は分かるか?断っておくが、決して馬鹿にしている訳じゃないぞ。
( 明らかな周章狼狽ぶりに相対し、悠然どころかいっそ呑気なほど無頓着に返答。パーツの一つ一つには然したる愛着もないから、という理由だけではない。これが己の急病に際した友人の焦燥の産物だということを踏まえると、硝子に走った亀裂はかえって愛しく思える為に。不謹慎にも愉快な心持にくつりと喉を鳴らし、件のひび割れをやさしく指先でなぞる。次いだ予想外の色好い返事には些か瞠目、上げた視線に期待を込めて。どんな題材を扱うにせよ、物理学に臨むならばある程度の数に対する知識は必須。それが相手への軽視や蔑みでないことに念を押し、学習による経験値を把握すべく矢継ぎ早に問いを投げ掛け )
頼もしい限りだ。いつだって真実だけを追い求めるのは難しい、ならいっそ現実を都合良く解釈したって許されるよな。……ああ!"アンドルー"が訪ねてくることを書き留めておいたなら納得が──うん?いや、待てよ。君、さっき「偶然居合わせた」って言ってなかったか。ということは……すまない、君なりに気を遣ってくれたんだろう?それを知らずに片付けの手伝いまでさせて、私はとんだ大馬鹿者だ。兎に角、約束は果たそう。少し待ってくれ、すぐ操作方法を思い出す。
( 良い年をした大人が同年代の同性に撫でられる絵面を客観視し苦笑、それでも友人なりの労いとして受け取れば悪い気はしなかった。矯めてまじまじと紙面に向き合う彼の導いた推定、そしてそれとない示唆から凡その真相を承知。たった二語からよく事情を察せたものだと感心した直後、先ほど告げられた言葉との矛盾にふと気が付いて。書き置きが友人の来訪を示すものであるならば、相対的に先刻の発言への信憑性は薄くなる。部品を破壊した張本人として名乗り出るような彼が、全く意味のない誤魔化しをする筈がないだろう。とすれば、その意図する所は丸々一日の記憶を吹き飛ばした自身への遠慮と気遣いに他ならない。自ら取り付けた約束を違えるような不心得者になるのは御免だ。慌てて机に向かい、入り乱れた部屋の中で唯一整然と並べられた図面からその意味するところを理解しようと努める。途端に存在を主張し始めた疼痛に眉を顰め、朧気な記憶を辿りながら若干覚束ない手付きで試作品らしき装置の仕組みを探り )
( ぬあっ!?何だ今の声は、おい何処に隠れて喋っている。心臓が危うく止まるところだったぞ。……?まさか幽体が喋っているんじゃ…勘弁してくれ。流星群っていうのは星が短時間で沢山降る現象の事か、昨晩に起きていたなんて知らなかった。僕は朝に弱い上に体調に響いてしまうから夜更かしが苦手なんだ、笑うなよ?不機嫌な奴に朝っぱらから出くわしたくないだろ。男同士で眺めたって別に嬉しくはないんじゃないか、あんたが言うロマンチックの意味が違うならすまん。ホットココアにラム酒が合うのか。意外な組み合わせがしっくりくる場合もあるものなんだな、丁度あんたと僕のように。因みにルカがココアで僕がラム酒だからな。逆は嫌だ。もう分かっているだろうが星は見えなかった。残念賞を貰うぞ。それであんたの方は見えたのか?それと成仏してくれなきゃ困る。──機会があれば次は夜更かしに付き合ってやるさ、星でも何でもあんたが喜ぶならそれで良い。 )
( ははは!いいね、いい反応だ。残念ながら姿は見せられないが、また直ぐに会えるさ。それにしても星は見られなかったのか、惜しかったな。君が夜更かし出来ないからって笑うかよ、寧ろ想像通りの健康優良児で安心した。子どもじゃないって?知ってるとも。でも時々、君が小さな子どもに見えることがあってね。ちょうどこのくらいの…と言っても伝わらないか。見えてないんだったな、失念してたよ。何はともあれ、君はそのままの君で居てくれ。男同士で眺めたって?そっとしておいた事実にわざわざ触れてくれるな!君、ロマンチックどころかむさ苦しいんじゃないかとか思っただろ。まあ事実なんだが。だけどな…ほら、同性だろうが異性だろうが、家族だろうが友人だろうが恋人だろうが、そんなのは些細な問題なんだよ。一緒に星を見る行為自体に夢がある。天体観測はいいぞ、アンドルー。長くなりそうだから強いてその特徴を論うことはしないが、機会があれば天体と銀河系の魅力についても語りたい。因みに私も流れ星は見られなかった、残念なことにな。ラム多めのココアをちびちびやりながら、小一時間夜明け前の空を眺めていたんだが…結局身体を冷やしただけだった。ただ、月は綺麗だったな。地球照がよく見えてさ。──さて!肝心の残念賞についてだが、これは私から君への"招待状"だ。ここ以外にもう一つ、君と言葉を交わすための場を確保した。もっと気軽に意志疎通が図る手段があれば、と思ったんだ。おはようだとかおやすみだとか、今日の試合は酷いもんだったとか、早く寝るだとか夜更かししたいだとか、そんなことでいい。この場所と違って定期的に使う必要もないぞ、好きな時に覗いてくれたらいいから。部屋の名前?ヒントは"宛名"だ。もっとも、迷惑なら無視してくれたっていいけどな。もし気になるなら、ヒントを頼りになんとか探してみてくれよ。/ 〆 )
( 開け放たれた扉からエントランスに踏み入り、室内に籠る仄かな温かさにほうと息を吐く。マップ上を支配していた底冷えするような寒さが身体の芯まで染み入っていた為か、末端の感覚は殆どない。工具用手袋を外すと腰から提げたツールバッグへ雑に押し込み、ひと気の無いホールを横切る。無意識のうちに手指を擦り合わせつつ回想、此度のゲームの敗因は一体何であったか。ゲーム開始直後の居場所露見、救助前の駆け引き失敗、更には逃亡経路の誤認。無数の要因が絡み合った結果のサバイバー敗北であることは疑いない。とはいえ、心に引っ掛かっているのは試合の敗因それ自体ではなくその終幕だ。脱落者が二名となった時、行動不能状態に陥った仲間が助けを求めていたことは知っていた。救助可能な状況を作らないことで勝ちを確定させるのがハンターの狙いであり、この時点で自身が標的となる可能性はほぼゼロ。相手とハッチの位置からしても、失血の進行度からしても、治療に向かうのは余りにも無謀。通信機に幾度となく表示された"手を貸して、早く!"という定型文から目を背け、非情と知りつつ地下室への脱出を果たして今に至る。廊下に出ると、未だ閉じられていないカーテンの合間から夕陽が射し込んでいた。自室への歩みを進めつつも、常とは真逆に理論から感情へと振り切れた思考は脳内を巡り続け )
…ああ、そうだよ。発明を実現するためなら、きっと容赦無く仲間を見捨てる。そういう男なんだろうな、私は。
( 失血死と通称される負傷後放置の憂き目に遭った仲間の、あの凍てついた眼差しといったら。救護室に運ばれる間際に視線が交錯したほんの刹那、その瞳はあからさまな失望の色を湛えていた。仲間を信頼すればこその失望であり、相手が己に期待を寄せていたことの証でもある。尤も、その信頼は無に帰すどころか既に侮蔑や諦念へと変じてしまったのだが。これが単なる練習試合でなかったのなら、三人の人命と引き換えに大金を手にしていたことになる。あまりの業の深さに知らず乾いた笑みが零れ、通路の途中で足を止め。理には適っているのだから、口先だけでも己の行動を肯定したかった。科学という名の悪魔に心身を捧げるなら、いっそ不要な人情もかなぐり捨ててしまえたら。そう断ずることが出来ないのは、同じ参加者の一人と結んだ絆があまりにも強すぎた為だろうか。窓辺に歩み寄り、赤々とした西日に片目を眇めて )
( / おはようございます、遅れ馳せながら今週もお疲れ様でございました…!お忙しい中のお返事、並びにお気遣いいただき感謝いたします。近頃ますます冷え込んで参りましたので、墓守君背後様もお身体に気を付けてお過ごし下さいませ。
今後の流れにつきましてご了承いただけた為、此方のトピックにて新たな場面の出だしを投稿させていただきました。あれこれと考えあぐねた結果予想以上に重い描写となってしまいましたが、どのような方針で絡むかは墓守君に一任致します!場面切り替えの描写は未だに慣れていないため、分かり辛い部分等ございましたら申し訳ございません。現状の質問や要望が特に無いようでしたら、此方も一旦失礼致します! )
( / 申し訳ございません!今朝方の投稿で誤って下げてしまいましたが、こちらは下げ進行でなくとも問題ございません。取り急ぎ、用件のみにて失礼いたします…! )
( ただ外気が冷たいという理由から閉め切った自室にて開いた本は、紙の劣化による黄ばみが目立つもののインクは読める程度に残っていた。単語を紙に書き写しては辞書を頼り、記載されている意味に目を通し、それを書き写した単語の下に記しておくつもりだったのだが。ほんの数日前ならば捗っていた筈の自己学習、然し夕方の試合へ出掛けていった囚人服の恋人の安否が度々案じられるあまりに気も漫ろに。吐息と共にお役目を絶たれた羽根ペンを卓上に置けば窓の外を何度も確かめた、この部屋から姿が見えるわけがないのにも関わらず。部屋で待機していられる落ち着きは失われ、外套を纏い廊下へ出て、帰還を──彼に限った話だとは断じて言わないものの一番に待ち侘びるのは当然一人のみだが──兎に角真っ先に知りたいが為に廊下の先へ目を凝らし。と、ストレッチャーを走らせる嫌な音が何処からか耳へ届き、まさか彼が負傷したのではと慌てて駆け出そうと身構え。だが窓辺で黄昏れる人物のシルエットが霞んだ視界の中に飛び込み、それが何者であるか判別出来た途端に駆け寄り )
───ルカ!無事だったか、思っていたより早かったな。あんたがどうなったのかが気になって、勉強が進まなかった。
( / 外出しておりましたため、お返事が遅くなり申し訳ございません!場面展開のご対応を頂きありがとうございます、囚人君の寂しげな独り言は聞こえなかった体でお出迎えさせて頂きましたがよろしかったでしょうか?現時点では特に要望と質問いずれもございませんので、此方の流れで引き続きよろしくお願い申し上げます! )
( 何となしに日没を眺めるうち、焦燥と動揺に奪われていた冷静さを徐々に取り戻した。平素は試合結果に心持を左右されるたちではないのだけれど、などと他人事のように心情を客観視。先刻の自暴自棄とも取れる発言が余人の耳に入っていなければ良いが──そう考えつつ振り向くと同時に、馴染み深い声音がごく間近で耳朶を擽った。些か目を剥くも、数秒と掛からずに彼が己の最も信頼する相手であると判別。眉を下げれば苦笑と共に返答して )
!……ああ、アンドルー。すまない、ぼうっとしていて…今さっき戻ったところだ。心配させたか?見ての通り、大した怪我はしてない。私はな。
( / お返事の速度につきましてはお気になさらず!いつでもご都合の宜しいタイミングで返していただければ幸いです。墓守君の対応についても全く問題ございません、恋人の身を案ずる彼の優しさに触れて心が温まりました…!こちらこそ、引き続きよろしくお願い致します!それでは一旦失礼致します。 )
私は、か……お疲れ様。もう日暮れが近いんだな、太陽は燃えているのに空気が冷たいのはどんな仕組みによるものなのか分からん。手袋を外したのか?手を貸してみろ、温めてやる。
( ああだこうだと問わずとも察した、今回の試合も芳しい結果は得られなかった事実を。抑圧され続けてきた発明の完成への渇望を妄想で終わらせない為には自他共に顧みる時間を惜しむ、此れは確かに彼を形成する人格において屡々感ぜられるものではあるけれども。ただ、彼は同時に他者への慈悲と己の行いによる罪悪感をも隙間から漂わせる人物である。負傷者の"目"を酷く恐れるのは脱出に成功した者ならば誰しも否応無しに起こり得るもの、ならば触れてはやるまい。茜色の天空は鮮やかなのにも関わらず、窓ガラスを叩く風は冷たい。先程彼がぼんやりと眺めていた外界に視線向けて呟き。ふと普段は手袋で隠されている両手が剥き出しになっているのに気が付き、決して高いとは言い難い体温を貸すのも吝かではないと己が片手を差し出し )
……ありがとう。それは高度の関係だ、冬は太陽の熱も光も地上に届きづらい──と、すまないな。…ほら、結構冷えてるだろ?この時期は得意じゃないんだ、手先が悴んで思うように作業できなくてさ。
( 彼是と悩んだところで何も解決しないのは承知の上。思考を先の試合結果から遠ざけられる話題には一も二もなく飛び付き、幾らか強引に話題の転換を図る。恐らく彼は此方の意を汲んでいるのだろう、今はその思い遣りに甘えたい。不意に齎された触れ合いの機会に口を噤めば、大した役にも立たない蘊蓄は自ずと遮られた。数秒の逡巡を経て、差し出された手を両掌で包み込む。冷え込んだ屋外から戻った為に体温の差が生じているにせよ、この手に触れて明確に温かいと感じたのは初めてかも知れない。皮下に纏わりついた不可視の氷を溶かすように、ほとんど感覚のない手指で彼の手を握り込み )
太陽の位置が変わるって事か?宇宙は不思議だな。確かに暑い日ばかりでも困る…そろそろ動物達は冬眠の準備でも始めているかもな。あっ、彼処に駒鳥がいるぞ。──手っ取り早く温める方法なら知っている。こうして……摩擦してやればいける筈だ。
( 万物の創造主で有らせられる天の父が理由無くして季節を用意されたとは考え難い。脳裏に浮かぶ宗教上の観点と、科学者が解き明かした理とは、どちらか一方のみが偽りでも正解でもきっとないのだろう。改めて銀杏の葉を散らして黄色く染まった地面を見下ろしてみるとしよう、時間が許すのならば彼と二人で落ち葉を踏みながら歩いてみたい。木の枝の上、頑張れば手が届きそうな位置に、人間に対する警戒心を失ったムネアカドリの愛らしい姿を発見して僅かに身を乗り出し。ガスで発熱させる器具、手編みの手袋。恋人の冬の手を保護する策は幾つか思い付くことだけは出来る。そう、思い付くだけで何れの策も実現は不可能なのに。だとしても悴んだままではあんまりにも可哀想ではないか。握り込むその手を顔に近付け、息を吐きかけ、もう片手にて血の巡りが戻るようにと擦り続けるのを原始的だと彼は笑うだろう。それでも構わない。少しでも気が紛れるならば願ったり叶ったりなのだから )
本当にざっくり言えばな、機会があれば太陽系に関する講義でも開こう。…ん?本当だ。ここまで近寄って来るのも珍しい、人に慣れてるんだろうか。……可愛いなあ。
( 堂々と開講を宣言しつつも、胸を張って教師を名乗れるほど自惚れてはいない。知識を分け与えることが自己満足に過ぎないと理解しつつ止められないのは、彼の学びに対する従順な姿勢を心から愛しく思うが故に。思えば現在の関係に落ち着くより以前も、想いびとが内側から自分の色に染まる過程を無自覚に楽しんでいた節がある。今後も科学の先達者として──或いは恋人として、沢山のことを教えよう。密かな企てを胸に、ふと逸らされた視線の先を目で追って。マロニエの枝に遊ぶ駒鳥の姿を捉えるも、それに意識を向けていたのはほんの数秒。先ほど胸中を占めていた陰鬱はどこへやら、今は彼の横顔に視線を、更には心を奪われている。小鳥を見つけて身を乗り出すさまがいとけなく、恋人の純朴に意図せず頬を緩めてしまったことは許されたい )
ほう?そうなのか。それは…おっと、ふふ。確かに温かい、暖炉に手を翳すよりずっといいな。暫くそうしていてくれ。
( 実の所、この手が温かろうが冷たかろうが然したる問題にはならないのだ。人肌から伝う熱を恋しく思い、ささやかながらも恋人との直接的な触れ合いを求めているに過ぎない。何らかの革新的技術により手のみならず全身を即座に温める選択肢が存在したとして、叶うなら自分はこの非効率的な手法を選びたい。愛情の偉大さを噛み締め、脳下垂体から都合よく分泌され始めた神経伝達物質によって幸福感に浸り )
……へへ、あんたから教わるのは、本当に楽しいんだ。駒鳥の胸は夕焼けと同じ色だな。あんたの情熱みたいに燃え続けてる。
( 以前、彼にとって有意義な記憶のみ残るようにと、雑学は己が貰い受ける約束を交わした。あの時の誓いは一時の気休め等ではない。風船から空気が抜けていくが如く彼が断捨離した知識をいつでも引き出す為に、求められれば即時手助けとなれるように。自然と笑顔が生まれ頭を掻き。ムネアカドリの色に関する優しい逸話は昔母が教えてくれた、磔に処された救世主の棘を抜くその鳥のように恋人の苦しみを和らげてやれるならば何でもしてみせる所存だ。駒鳥から視線を恋人へと戻し、絡み合う目と目の心地良さに愛する者同士のみ知り得る平和を見出して表情がまろやかに溶け )
この手は僕にとっても宝だ。手だけじゃない、ルカの全てがかけがえのないものなんだ。こんな事しかしてやれない、でも愛だけは限りなく持ってる。…これ、使えよ。
( 目は口ほどにものを言い、手は口よりも心を表す。痛めつけるも慈しむもその手が心情を表すというのならば、恋人へは後者のみを示し続けていたい。血色を取り戻しても尚その手を離さず、暫し眺め頬擦りで愛おしみ。すらりと長い指に苦労の証が刻まれた彼の手を惜しみつつ離すと、己の手袋を外して片手ずつ順番に填めてやり )
胸の赤が私の情熱で、私がさっきの小鳥なら、君はあのトチノキだな。羽を休めるための止まり木で、最後には必ず戻る場所。──あー…本当に、狡いぞ君。その顔は反則だ。
( 記憶の彼方に埋もれた故郷にかわって、彼の傍らが帰るべき場所となれば。浮つく願いの込もった言葉を口にした直後、意味を成さない呻き声と共に額を押さえ。レトリックを巧みに駆使して的確に対象を表現するような、夢溢れる詩人の才能は持ち合わせていない。技術者を自負する以上当然といえば当然だが、花の綻ぶが如き彼の笑みをそれらしく喩える術を知らない語彙を呪う。非難されるべきは自身の技量と心の余裕であるにも関わらず、責任の所在を相手に押し付けて嘆息。これ以上の言葉は要るまい、そも笑顔に溶かされた脳味噌でこれ以上語れることがあるだろうか。周囲にざっと視線を走らせて余人の目が無いことを確認すれば、恋人を力一杯抱き締めようと )
こんな事しか?こんな事まで、の間違いだろ。満ち足りた愛情で窒息しそうだ、悪くないどころか本望だけどな。……なあ、キスしていいか?いま、君が可愛く見えて仕方ない。
( 頬を擦り寄せる様子は恰も小動物に似て愛らしい、ある程度体格に恵まれた彼相手にそう感じることにも疑問を覚えなくなった。愛されていることを遅まきながら実感し、胸の奥がじわりと熱くなる。嵌められた手袋のサイズが若干大きく感じるのは恐らく気の所為ではないだろう。己は凡そ手先のみを用いる作業を、恋人は力仕事を専門としている為か。その些細な差異さえ愛おしく、無意味に握って開いてを繰り返し。ほんのりと廊下全体に落ちていた橙色の光は徐々に弱まり、代わって薄闇が辺りを覆い始めた。ほんの僅かな時間にせよ、荘園じゅうの灯りが点るまでの猶予はある筈。漸く触覚を取り戻し始めた両の手で、彼の頬を優しく包み込み。もし恋人がよく利く夜目を持っていたのなら、視線の逃げ場を奪った状態で注ぐこの眼差しは相当熱っぽく映ることだろう。口づけに態々許可を求めるのは一周回って意地が悪いかも知れないが、度を越した律義さをどうか笑っていただきたい )
いいなそれ。あんたが安心して羽休めが出来るようにしっかりと立ち続ける。切られても暴風に曝されても倒れたりしない。枝を伸ばして堂々としてやるんだ。…何が狡いんだよ、変な奴。
( 焼けつくように暑い夏、厳しい寒さで凍える冬。季節折々に姿を変えていても彼が迷わず帰る事が出来る場所でありたい。日差しや吹雪から彼を守りながら毅然と大地に根を生やしていたい。両腕を目一杯開いて樹になってみた、丁度泣き虫と呼ばれるハンターの少年が這わせる樹木のように。呻き声と仕草が意味するは表現に悩むが故と知っていながら恋人の可愛い苦悩を笑ってやろう。普段の知性の差が逆転したから優越感に浸っているのではない、こうも悩んでまで話を合わせてくれる心配りが純粋に嬉しいからこそ。次にしようとするものを読み取り、同じく腕を背中に回し、骨格以上に中身がたっぷり詰まった夢の発信者の抱擁をしかと受け )
窒息したって構わんさ、その時は呼吸を分け与えてやるだけだ。そうだ、クリスマスの贈り物に何か温まるようなやつを選ぼうか?他に希望があれば聞くぞ。──月が僕を見てる。キス、しよう。あんたに触れたい。
( 実寸に関わらず彼の手は偉大なのは間違いないが、指先の革が余っているのを見ると、黙っていても庇護欲が疼き始めどうにも抗えず。タイミング良しと言うべきか思い出したは主が遣わし給うた救いの御子の誕生日、且つ創造物にとって最も喜ばしい日のこと。ナイチンゲールに交渉すれば特例で最適な贈り物を提供して貰える可能性は皆無でもなかろう。実用的な品、将又心癒す小鳥の類はどうか。尋ねておきながら候補が次から次へと忙しなく浮かび。仄暗い廊下で際立って輝いている熱を帯びた瞳、無垢な一雫を今にも零しそうな月の女神の眼差しよ。あなたは僕を掴んで離さず、芳醇な恋の色香で厭世を忘れさせてしまうのだ。無意識な呟きは霞んで消え行き、双眸閉じて恋人のシルエットに重なり )
勝手に居なくなられちゃ困る、私の巣は此処にしかないんだ。しかし、く、ふふ……私が小鳥ってさ!似合わないだろう。強いて動物に例えるなら、蛇とか、狐とか、その辺りじゃないか?自分で言うのも可笑しな話だが。いや、うん…反射的に狡いと言ってしまったが、やっぱり君は狡くない。私がその笑顔に弱いだけだ。
( 生憎、籠に囚われる小鳥のような従順さは持ち合わせていない。風雨震雷に晒されようと枷を嵌められようと、夢に見た青白い電光に向かって羽搏くことだけは止めたくない。故に求めるのは外敵から身を護る為の堅牢な鳥籠ではなく、何時なんどきでも其処に在り、確かに迎えてくれる栖だ。そう考えつつも、可愛らしい小鳥と自身のイメージがまるで合致しない事実にくつりと喉を鳴らし。腕に抱かれて眸を閉じると、そのまま冬眠にでも入ってしまいそうな安堵に包まれる。半ば言い訳染みた反省の言葉を口にしながら、布越しに伝う鼓動を聴き )
ああ、そういやもうすぐクリスマスか。私の方でも何か用意しておこう。そうだな、どうせなら君と同じ防寒具が欲しい。それか、色違いのものを。何を選ぶかはアンドルーのセンスに一任する。──君、言うようになったな。しじんの、………。
( 宗教意識の濃淡に関わらず、多くの人々が知る所の行事である降誕祭。来る者は拒まず去る者は決して逃さないこの荘園で日々を送っていると、どうも日付の感覚が鈍りがちであることは否めず。敬虔な信徒と恵まれた子供達にとっての善き日について耳にするや、真っ先に思い描いたのが外界における経済の潤いである辺り全く以て夢が無い。黙考すること数秒、それらしい要望を口にした所で贈り物への期待を馳せる自分に気が付いた。年中行事から何かと距離を置いてきたが、恋人を持つ身となれば話は変わってくる。向後は研究に支障が出ない程度に浮かれてやろう。否、浮かれているのではなく、熱に浮かされているのかも知れない。肉体の接触による脳内物質云々、などと理屈を捏ねる人格を押し退けて瞼を伏せ。"詩人の才能があるんじゃないか"、という軽口は重なる吐息に溶けて消えた。そっと触れ合わせるだけのそれが物足りなくて、後頭を軽く押さえつける。啄むように唇を動かせば、薄く片目を開いて反応を窺い )
いつも少しだけ僕を見上げる形で、よく喋るだろう。それが親鳥に餌を強請る雛鳥と重なる時が偶にあるんだ。それと小鳥は綺麗な声で囀ってる。ルカの声も心地良くてよく響いて、何かしていても耳を澄ませていたくなる。蛇だとしてもアダムとイブを唆すより自分で知恵の実を全部食べ切ってしまいそうだよな。ん、そうか。
( こればかりを強調しても喜びはしないだろうから控えめに、否控えめなつもりで伝えてみた細やかな話。そう、彼の発明の完成への願望を止められるものは皆無。猛禽類に襲われようが強風に煽られようが、真っ直ぐに鳩舎を目指す伝書鳩に喩えた方が適切だっただろうか。蛇は宗教上で悪とされている、然し恋人は最初の人類を失楽園させる役割を選びそうにない。何故って彼こそが知恵の実そのものに違いないのだ。耳触り良く本心を巧みに隠す彼が垣間見せる素直な姿勢。今我が腕の中で安らぐ彼の体温。心を曝け出して擦り寄る光の子。多くは返さず更に強く深く密着させ )
防寒具…か。マフラー、いや帽子?作業で使うグローブとはまた別の手袋。ルカはミモザのようなイエローが似合う気がする。お揃いならそれを身に付けて自慢しに行きたいな。───ル、カ。ッあ、ルカ、ルカ。
( 普段頭部を保護しない恋人に被せてみたら意外と洒落ていて可愛いかもしれない。襟元から包帯が覗いたままの恋人の首を柔らかく包んでやれば作業の邪魔にはならなさそうだ。気の毒な程に冷えて霜焼けまで拵えないようにと手を守ってやるのも義務だと思える。ダークトーンの服装が常である彼にせめて一箇所だけでも明るい色を添えてやれたとしたら?気休めにしかならなくても彼本来の魅力を引き立てるたった一つが欲しい!想像だけで待ち遠しくなるクリスマス、信仰云々は抜きにしても恋人が喜ぶ様相を目の当たりにしたくて堪らない。動きを封じられた瞬間の驚きで不随意にビクッと震えが生じるも、恋人の乾燥していながら柔い唇から甘い甘い毒を分け与えられる度に脳細胞や神経細胞の全てが"彼"に侵蝕され、合間には恋人の名を吐息混じりに口にして更なる甘美な毒を求め )
大抵の場合、小鳥の囀りは求愛を意味するって知ってるか?私が君に対してべらべらと捲し立てるのも、つまりはそういうことさ。…禁断の果実を?それは言えてるな、もし君が最初の人類だったなら話は別だが。この私と知恵の実を二つに分けようって誘惑するに違いない。…ふ、ふふ、くるし、アンドルー、苦しいぞ。
( 元より多弁なことも、彼の前ではより一層口達者になることも自覚している。良き聞き手たる恋人を前にしては湯水の如く溢れる言葉に口が追い付かず、舌を回るに任せているうち日が暮れてしまうことも屡々。以前より熱く語っていた発明への意欲、さらに愛の言葉で嵩増しされた口数は、好奇心と愛情を以て耳を傾けられなければ喧しいと一蹴されていたかも知れない。眼前の彼こそが最初の人類だったのなら、この能弁を用いて楽園からの逃避行を図っていただろう。寸分の隙も無く抱き留められる幸福に浸り、圧迫感を伝えつつも満更でもない様子で抱き締め返し )
───ン、ふ、…アン、ドルー。好きだ、きみを…愛してる。……ッ、はぁ。良くないな、歯止めが利かなくなる。
( 細い銀糸の柔らかさを掌で堪能しながら、体温を分け与えられたもう一方の手は背後へ回して腰を抱く。あまたの言葉を尽くしたとして、この胸中を言語化することは不可能だ。故にご容赦願いたい。リップ音のあわいを縫って囁く愛が、使い古された陳腐な言葉にしか変換されないことを。うっとりとくちびるの柔らかさを味わいながら背筋をなぞり、白い睫毛の内側に隠された薄紅色を盗み見る。態々確認するまでもない、溶けて潤んだ柘榴は目に毒だ。理性が焦げ付く前に今一度瞼を硬く閉じ、噛み付くようなキスを最後に漸く顔を離して。ぽつぽつと灯り始めた照明が恋人と己とを照らすまであと少し、柄にも無く熱に浮かされた事実を悟られまいと深呼吸 )
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