+ 2019-11-13 04:26:08 |
通報 |
またか。俺を見てそう言った人間は、ケテルと名乗った。
男性なのか。そう問いかけたら、その人間は片側の口角だけを釣り上げ唇を歪ませた。まるで加虐的な意味を含んだ笑みのようにも見える。
「貴様がそう思いたいならそう思えば良い」
「じゃあ……違うのか?」
「性別という無意味な記号でしか人を判別することが出来ないのであれば、好きなように意味づければ良いと言ったのだ」
「……分かった」
取り敢えずこいつのこと、ケテルのことは男性だと思うことにした。こんな傲慢な女は嫌すぎる。
性別ぐらい普通に教えてくれればいいのに。それともそう簡単に性別が言えないような事情があるのだろうか。
「しかし、貴様は随分と床が好きなようだな?」
ケテルの言葉にハッとなり、俺は立ち上がった。横になっていたことすら忘れていたとは不覚だった。更にこいつに言われたのはもっと不覚だ。
ケテルは俺が立ち上がったのを見届けると、そのまま建物の中へと入っていった。立ち上がることで把握出来たのは、ここが店のような場所の入口であること、そしてケテルと名乗る男が店の中へと、俺のことなど意に介さずに中へと入っていったことだけだ。
この建物が店だというのがわかった理由は二つ。まずでかでかと掲げられた看板。"healing DOLL "と言う文字がキラキラと輝いている。そしてその下には床置き式の看板があった。
「ヒーリングドールへようこそ……ここは人では癒せぬ傷を癒す場所……か」
独断と偏見だがセラピー的な場所なのだろう。不思議と惹き付けられる手書き文字の下には、席の値段が書かれていた。もちろんこれも手書きだ。
S席が二万円、A席が五千円、B席が二千円。席によってかなり値段が変わるらしい。サービスの違いなのだろうか。
そんな怪しさ満点の場所にケテルは入っていった。店らしい建物に入口に扉はなく、ただただ奥の方へ闇が続いている。明かりはないどころか人の気配すらしない。
このまま引き返せばまだ俺は日常へ戻れる。そんな根拠の無い確信だけが警告を発していた。だがその理由は分からない。記憶が無いからなのか、それとも人間としての本能なのか。
でも俺には恐らく選択肢は無い。記憶喪失の男を雇ってくれる場所があるとは思えないからだ。仕方なく、俺は闇がうごめく小さな店、ヒーリングドールへと足を踏み入れた。
店の中には紺色の絨毯が敷かれ、真っ黒な壁と相まって、庶民には近寄り難い高尚な雰囲気を放っていた。
その長い一直線の通路の突き当たりにケテルは立っていた。見れば見るほどスタイルが良く、嫉妬に似た何かが込み上げてくる。
「来ることを決めたか」
俺とケテルとの距離が数メートルになろうかというところで、唐突にケテルはそう言った。
まるで俺が人生の分岐点ともなろう重大な決断をしたかのような物の言い方に、何故か少し頭に来た。
「悪いかよ」
「いや、貴様がそう決めたのならば私はそれを尊重しよう」
不機嫌な俺の声など気づいていないのか、ケテルはまた口を歪めた。笑ったよりも口を歪めたの方がすごく正しいと思えるくらい歪な笑い方だった。もしかしてこいつ、笑うのが下手なんじゃないのか。
「来い」
ケテルは短くそう告げるとまた歩き出した。俺よりも遥かに長い足のリーチは広く、若干早足にならないと直ぐに距離が離れてしまう。
この横暴な男に世界一似合わない"気遣い"なんてものは望めないがために、それなりに離れないように歩くしかない。
入口から左へと曲がり、非常階段と思われる階段を駆け上がった。更に通路を奥へと進んでいくと、左手側のガラス越しに華々しいステージが目に入る。
俺が今いる場所はステージらしき広場の二階席の更に上、三階のガラス窓の所だった。
「すげぇ……」
きらきらとしたステージの上で、数人の男が歌って踊っている。衣装の豪華さも相まって、更に男達の輝きが増しているようにも思えた。
「ステージに魅入られたか」
ケテルは俺よりも先で立ち止まり、長い髪を払い除けた。
「ステージ……?」
「そうだ。ここは社会に適応できなくなったはずれ者達の劇場なのだ。彼らが演じるものは、人生」
「人生……」
歌が終わると男たちは一斉にステージから居なくなった。一人の男がスポットライトに照らされ、静かに独白を始める。
男は酷く後悔していた。言葉は聞こえなくても、仕草だけで後悔が伝わってきた。のめり込むようにガラスを見つめる。それだけ引き込まれる何かが、あの男にはあった。
「今はケセドだろう」
「ケセド……ってのも、人の名前か?」
「そうだ。ここにいれば、いずれ貴様も会うことになるだろう」
「何で、あんなに後悔してるんだ?」
ケテルは俺の問いかけに答えず、また鼻で笑った。さっきから不快な気分にしかさせられてないそれは、今度は挑戦状のようにも思えた。
俺の中でひとつの答えが見つかる。自信のないままにぽつり、と口にしてみる。
「答えが欲しければ、己で見つけよ?」
ケテルは目を見開いた。
どうやら正解だったらしい。
「ここの劇団員……でいいのか? それは、どうやってなればいい?」
「着いて来い」
変わらず足の早いケテルに必死に着いていきながら、俺の中ではじわりじわりと無から感情が生まれてくる。
あそこに行けば、あのステージに立てば。
俺は忘れた何かを取り戻せるんじゃないか。そんな切望に似た感情だった。
随分と長い道のりを歩かされ、ようやくケテルが足を止めたのは、コンクリート製の扉の前だった。
「この中で待っていろ」
ケテルが扉を開くと、溢れんばかりの襲いくる光に目を瞑る。
しばらく薄目を開けたりなんなりして光に慣れてきた頃、その部屋には一人の金髪の女性の姿があった。
「光には慣れた? 廊下が暗いから眩しいよね」
女性は優しい声で語りかけてくる。その柔らかな微笑みに、思わず気が緩んでしまう。
「ケテルが乱暴に連れてきたんでしょう? ボクもそうだったから」
女性は苦笑いを浮かべながら、ソファに座るよう促してくる。その優しさに甘えソファに腰掛けると、暖かいココアが差し出された。
女性は身長はそんなにないがために豊満な胸が強調される。女性らしさを詰め込んだ、と言っても過言ではないような魅惑の体だった。
じろじろと眺めすぎたことを後悔してすっと目を逸らす。頭上からくすくすという押し殺した笑い声が聞こえて、更に羞恥心を煽られる。
「いいよ、見られるのは慣れてるから。もうこの体も好きになれたしね」
「すいません……」
「いいって。あ、名前言うの忘れてたね。ボクはティファレトっていうんだ」
「ティファレト……? 外国の人ですか?」
「タメでいいよ。ううん、なんて言うんだろなぁ……ここでは"キャストネーム"っていうので呼び合うんだ」
「キャストネーム? ってことはあのケテルやケセドってのも?」
「うん。ケテルは王冠、ケセドは慈悲、そしてティファレトは美っていう意味。セフィロトの樹って知ってる?」
「知らない」
記憶を探ろうにもその記憶自体が無かったことを思い出す。コップやココア、ソファなど一般的な物の用語は覚えているようだが、セフィロトの樹という単語は知らないようだった。
「セフィロトの樹っていうのは、ギリシャ神話出でくる生命の樹ってやつと一緒なんだ。その樹に成ってる身を食べると永遠の命が得られるってやつ。
それを昔の人が思想主義に乗っ取って体系化して名前をつけたものがセフィラ。ボクらの名前の元ネタだね」
「へぇ……」
「元々劇団員だった11人にはセフィラの名前をつけて、新しく入ってきてくれた子にはパスっていうセフィラ同士を繋ぐ名前をつけているんだ」
「何でそんな名前名乗ってんだ? 普通に本名でいいじゃねぇか」
「それが、そうもいかないんだ。本名を名乗れない。自分の人生が無い。それがボクらであり、ボクらに求められているものだからね」
「自分の人生が無い……?」
本名を名乗れない理由は何となく分かる気がする。法を犯せば本名は名乗れなくなるだろう。だが自分の人生が無いというのはどういうことなのだろうか。
俺の問いかけにティファレト、と名乗った女性は困ったように眉を下げた。
「ヒーリングドールっていうのがこのお店の名前でね。要は癒す人形。ボクらはその人形としてあるべきなんだ。人形には人生が無いでしょう?」
「そりゃ無いけど……」
「だからこそ"人生"を演じられるんだ。人ならざる者が人間を演じるんだよ。要はあやつり人形のように、ボクらはセフィロトに言われたことだけやっていればいい。それで良いんだ」
「……でも」
「要らないんだよ。ボクという人間は。大事なのは"ティファレトという名前を持つ動く人型"だけであって、"ボク"じゃない。もう二度とボクは"ボク"として求められることは決してない。それって素敵なことだと思わないかい?」
蛍光灯の光を反射してキラキラと光る瞳は、どろりと濁っていた。将来も生気も人間性も心までも、全てを捨ててまで人間を演じるという女。
何となく、理由もない生理的嫌悪感に身震いする。そんなの、間違っている。その言葉が喉まで込み上げてきて、擬似的な吐き気を誘発する。
でも本当にそれが間違いなのか俺には分からない。正しいが分からないから間違いと言えない。そんなもどかしさがあった。
「そんな深刻な顔しないでよ」
女性だったそれは、にこりと笑顔を作った。思わず安心してしまうような、居心地の良い人間らしさ溢れる笑顔だった。
「ボクらは納得してるんだよ。だからここにいる。君だってそうでしょう?」
「いや……俺は、違う、と思う……」
「何で?」
「記憶が無いんだ。だから肯定も、否定も出来ない」
「へぇ……面白いねぇ」
すごく興味深そうな声色で、ティファレトは言った。しかし表情は無く、心底興味が無いのだろうということが同時に理解出来た。
不気味だ。俺はここに来てよかったんだろうか。そんな不安に押し潰されそうになる。
「じゃあ名前は? 名前も覚えてないの?」
不意打ちすぎる質問に反射的に顔を上げた。名前、名前。ほぼ空白しかないその頭の中を探ったところで、それらしい固有名詞は出てこなかった。
「分から……」
「ダアトだ。そいつは、今日からダアトと名乗らせる」
王様気取りの尊大な声が聞こえて振り向くと、案の定ケテルがそこにいた。
「ダアト!?」
ダアト、という言葉を聞いた瞬間、ティファレトは目を見開いた。それは驚きと言うよりも怒りを滲ませた、という表現の方が近い表情で、とても自然だった。
ティファレトはあくまでも冷静さを保とうとしたのだろう。大きく息を吸ってから大きく吐き、そしてもう一度ケテルに向き直った。
「ねぇ、ケテル。正気なの?」
「私はいつでも正気だが?」
「正気ならこんなどこの誰とも分からないような男にダアト、なんて名前付けないでしょう!? その名前がどんだけ大事か分かってる!?」
「そう怒鳴るな、ティファレトよ。まるで"人間"のようだぞ」
「……っ」
ケテルが人間、を強調するとティファレトは黙り込んだ。無表情を必死に保とうとしているものの、滲み出る悔しさが隠しきれていない。
何だ、彼女はまだ人だったのか。無機質すぎる彼女に感じていた不気味さはいつの間にか消え去っていた。
「ダアトよ」
ケテルは俺を見ながらそう声をかけてきた。
「それが、俺のキャストネーム……で、良いんだな?」
「嗚呼、構わぬ。ティファレトから聞いたか」
「一応。キャストネームの話とセフィロトの樹の話は」
「なら良い」
「それで、俺はこれからどうすればいい?」
ケテルはまた歪な笑みを浮かべると、そのまま部屋を出ていった。最早ついてこい、なんていう言葉すら無かった。
仕方なく着いていこうとしたが、視界の端にティファレトの姿が映った。ただ俯き表情の見えないティファレトは気になったが、俺はケテルの後を追うように部屋を出た。
ケテルは2階の木製の扉を3回ノックした。
この王様気取りの性別不明野郎が礼儀を知っていたことに驚き、礼儀正しい行いをしたところにカルチャーショックを受けた。多分同じ国出身だろうが。
「入れ」
暗く嗄れた声にはい、と短く返事をしたケテルは部屋にはいる。俺もそれに続き部屋に入るが、その部屋の殺風景さに思わず足を止めてしまった。
さっきの事務室みたいな場所にはまだ光があってココアを出せる場所があって、ソファという座る場所があった。しかしこの部屋には何も無い。文字通り何も無いのだ。
「君がダアトか」
部屋の中央の床にあぐらをかいた老人は、顔を上げるなりにんまりと笑った。
「……はい」
「その名は批判を受けるだろう。何故ダアトにした?」
焦点の合わない瞳が気持ち悪くて視線を逸らしながら会話する。しかし老人はそんなことは関係ないように意に介さず笑っている。
「この男はダアトだ。決めたのは私だ」
「君か」
ケテルははっきりと目を合わせながら、老人は目を合わせてるはずなのに焦点の合わない瞳で、二人は対峙していた。
もしかしたらあの老人は目が見えないのかもしれない。それを確かめる術は無いのだが。
「他の奴等には何と説明する?」
「私が決めた。異論は認めない、と」
「ふはははは」
老人は大きな声で笑い始めた。地響きのような嫌に響く笑い声だった。
「なら良い。セフィロトも認めたと言え」
「……感謝します」
「下がれ」
ケテルは小さくお辞儀すると部屋を出た。
全く理解出来ない俺はケテルについて行くタイミングを失い、謎の老人と二人きりになってしまう。
「君は」
逃げようと覚悟を決めた瞬間、狙い撃つように老人は話しかけてきた。
「ここをどう思った」
「不気味さと神聖さが両立する異世界……と思いました」
「ほぅ」
真っ黒な瞳をこちらに向けながら、老人はまたにんまりと笑った。面白がっている。感情がはっきりと分かりすぎて感情が読めない矛盾に気分が悪くなってくる。
「なら、君はここで生きていけるか」
「……分かりません」
「分からない」
「俺は、ティファレトみたいに人形では居られません。俺は人間ですし」
「なるほど、なるほど」
老人はコツン、と杖を立てて立ち上がった。右足を引きずりながら、俺の目の前に近づいてきた。
「人間と人形の違いは?」
「え……?」
「心か? 将来性か? 死か? それとも無機物と有機物という違いか? あるいは無動と有動の違いか?」
「いや……未来に期待寄せられるか、じゃないですか……?」
「ふむ」
老人はまた右足を引きずりながら、元の位置へと戻った。
「根本が間違っているという点を除けば、君の言い分は模範的な正義だ」
「根本が間違っている……?」
「それは君がみつけたまえ。ダアト。知識の名を冠する者よ」
「……はい」
有無を言わさない強い口調に、一歩引いてしまった。これ以上は俺にはどうしようも出来ない。
この会話の意味が分からないまま、何故ケテルと一緒に部屋を出なかったのか。ただそれだけを後悔しながら、俺は部屋を後にした。
トピック検索 |