小説家 2018-05-27 13:15:22 |
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──…、
( ゆらり、ゆらり、と宛ら赤子を眠らせる為の揺籃に優しく揺られている様な心地好い不思議な感覚を、憔悴し切った身体と朦朧とした意識下でも微かに感じ取っていた。然し彼の腕の中で揺られている間は僅かにでも瞼を動かす事はなく、薄い着物に包まれた白く細い体を呼吸と共に小さく上下させるのみで。── 何時間、否若しかすると何分かも経っていないのだろうか。震える様に薄らと開かれた黑の双眸が初めに映し出した物は、見慣れぬ高い天井。己がとある一室に横たわっている、と最低限の状況をぼんやりと理解し、次いで幾度か瞬きをした後、身体は横たわらせた侭徐ろに顔を横に向けては今居る場所を把握せんと目視出来る範囲を隅々まで見遣り。 )
( /絡みづらい等なかったようで安心致しました。はい、それでは此方も一度退がらせて頂きますね。 )
──…嗚呼、良かった。目を覚ましたんだね…気分は?
( 腕の中に抱いた微かな重み、少女を布団に寝かせ、目を伏せたままの顔に掛かった髪を耳へと掛けてやると桶と手拭いを取りに一度部屋を出て。一体何処から来て、何故門の前に倒れて居たのか、医者に連絡した方が良いだろうか。色々なことを考えながら、一式を持ち襖を開けて部屋へと戻れば、いつの間に目覚めたのか黒曜石のような瞳を此方へと向ける少女と目が合い、優しく微笑み掛けて。その瞳が、同じ年頃の少女のあどけないものよりも何処か大人び過ぎているような、少し暗い色が浮かんで見えたのは気の所為か。何を問い詰める訳でも無く、まずは汚れを落とそうと水に浸して軽く絞った手ぬぐいで相手の顔をそっと拭い )
──ッ、!
( 大きな双眸を忙しなく動かし、先ず把握した事はこの邸内が遊郭の類ではない事。連れ戻された、と云う可能性が無に均く成った安堵と果たして今居る此の場所は何処の誰の邸なのかという不安が同時に胸中を渦巻き。幾多の物思いに耽ていると、目線の先に在る襖が静かに開かれ姿を現した家主であろう人物。年の頃は三十路近くか、幾許か。美しい真黒の髪に若々しい白皙、何よりも綺麗で端整な面持ちが一際目を引いた。暫し惚けて近付いてくる彼を見遣り、されるが侭に己の顔を拭って貰っていたが、一度我に返れば反射的に勢いよく彼の掌を払い除け。重々しい身体に鞭打ち軽く状態を持ち上げつつ、瞳に警戒心を浮き彫りにし乍敵とでも言いたげに其方を睨めつけ。 )
…すまない、怖がらせてしまったね。私は、君を傷付けるつもりは無いよ。
( 大人しく此方を見詰めていた少女が不意にその瞳に怯えた様な色を浮かべる。まるで威嚇する子猫の様に、その小さな身体で必死に警戒を顕にする様子に、怖がらせてしまったと謝罪を述べ乍その手を下ろして。此方を警戒して不安定に揺らいだ黒い瞳、暗い色を宿してはいるが宝石のように煌々と瞬くその少女の瞳に思わず目を細める。一体彼女は何に恐れ、怯えているのだろうか。彼女を怖がらせ無い様に一度部屋を出ようと、冷たい水に浸した手拭いを一度軽く絞り相手に差し出し、水を張った桶も相手の方へと押しやると再びゆっくりと立ち上がり乍優しい微笑みを見せて )
──何か、食べる物を持って来よう。その手拭いで、少し汚れた所を拭いておくと良い。
( 力無く伏せられていた双眸を凜然と向け、見据える其の先の彼は、あろう事か謝罪を零す。介抱してもらった身である己が如何に無礼な態度をとっているか、自分自身が良く分かっている。然し彼は怒りを全く見せず行き場のなくなった掌を緩りと下ろし。穏やかな顏に、差し出された手拭い、彼は善人なのかもしれないという可能性が微かに脳裏を掠めるも、未だ外観のみでは信用するに足りないと相反する思いが鬩ぎ合い。眼前にある手拭いを一瞥しては徐に立ち上がる彼と動く唇を無言で見詰め。すうと小さく息を吸い込み、言葉を被せる様に僅かに震え凛とした声音を響かせ彼の人間性を試すかの様な問を投げ掛け。 )
──そんな事云いんして、ほんにはわっちを女衒に売る心算でありんすか。
───…私はしがない物書きだ、君を何処かに売ってしまおうなんて、そんな事は考えても居ない。
( 立ち上がり、此方を揺らぐ瞳で見据えながら微かに震えた声で、其れでいてはっきりとした声で言葉を紡ぐ彼女を見れば少々驚いた様子で。彼女の言葉と口調から漸く理解した、彼女は遊郭に其の身を売られた過去を持つのだと。少しの間を置いて、先ずは怖がらせない様に自分の身を明かし、相手を見つめる瞳は酷く優しげな色を孕み。彼女が望まないなら、長く此処に引き止めておくこともしないと、もうひとつの選択肢も提示し乍彼女が安心できる方を選べるように、安心させるように微笑んで見せ )
君を此処に縛り付けるつもりもない、…唯、少し身体を休めた方が良い。もし此処が少し不安なら、よく知っている医者の診療所に連絡を取るよ。──君の好きな方を選べば良い。
( 視界に映る彼の表情が、明確に驚愕の色を露にする。己が何者で、何処からやって来たのか凡その目処がついた筈。遊郭から逃亡して来た年端も行かぬ小娘何ぞ厄介で迷惑に決まっている、きっと彼も態度を一変させるだろう、と其方を見詰めていると、あろう事か酷く穏やかな声音で身分を明かし始め。続け様に滔々と告げられる言葉達、その全てに少しの賊心も感じられず彼が根幹から優しい人間なんだと理解すれば、今度は此方側が僅かに瞠目し。動揺した素振りを露呈させつつ、提示された今後の選択肢について何方を選ぶべきか思案し、軈て小さな声量で不安気にぽつぽつと返答を。 )
──…此処で休ませて、くだしゃんし。外に出たら、何時何処で女衒に見つかるか分かりんせん…。
…勿論。少し待っておいで、すぐに粥を作ろう。
( 暫し相手を見つめてその返答を待っていたが、相手の瞳から僅かに警戒の色が薄れ、唇から溢れた小さな言葉に頷くと優しく微笑んで。女衒から逃げて来たと言うなら自分以外の者が居ないこの屋敷の方が安心だろう。軈て立ち上がると部屋を出て、その静かな足音は遠ざかって行き。彼が戻って来たのは其れから半時足らず経った刻、盆に乗せられた器からは湯気が立ち優しい香りが部屋を充たす。小鉢には彩豊かな刻み新香、食べ易いように小さめに切った林檎、そして温かい緑茶も乗った質素ではあるが食べやすい食事の並んだ盆を相手に手渡して。)
──食べられるだけで良い、少し食べてご覧。食べたら、ゆっくり休むと良い。此処には私以外誰も住んで居ないから、安心して構わない。
( 快く承諾を示した彼の暖かな対応に、知らずの内に硬直していた全神経が一気に弛緩していくのを感じる。小さく頷き、粥を作る為一度退室した彼の足音が消え入ると静寂が辺りを支配し。障子からは濃くなった夕が差し、微かに烏の鳴き声が耳朶に触れると本当にあの鳥籠の世界から抜け出して来たのだと惘考え。幾許か時が経った後、再び現れた彼が手に持っていた盆には粥、林檎、緑茶と並んでおり、ふわりと良い香りが鼻腔を擽る。久方振りの温かい食事に黒曜石を煌めかせ、盆を受け取り乍こくりと首肯し。手前に在った小振りの散蓮華を持ち、一掬いして口元に運び咀嚼すれば、口腔内に広がる優しい味わいに途端に表情を綻ばせ言葉を洩らし。 )
おい、しい。…とても、美味しゅうござりんす。
…良かった、遠慮は要らない、好きなだけお食べ。
女衒に居たのでは、温かな食事も満足に食べられなかっただろう。
( 此処に来て初めての、相手の心からの笑顔に此方も表情を綻ばせて。きっと永らく女衒に捕らわれて居たのでは、日々の生活も幸せとは言い難いものだったのだろう、だからこそ人生を賭けて逃げ出して来たのだろうと思いながら。相手の食事を邪魔することはなく、布団の傍に腰を下ろしたまま藍に染まった庭に視線を移し。丁度牡丹の花が開き見頃を迎えている、彼女の居た世界ではきっと四季の移り変わりを知る機会も少なかった筈と不意に思えば徐に立ち上がり、縁側から下駄に足を滑り込ませ暗く、少しずつ冷んやりとして来た庭へと出て。そして一輪、蕾から花開いたばかりの鮮やかな紅牡丹を茎から手折ると其れを持って再び部屋の中へと。一輪挿しにして彼女の枕元に置くと柔らかく微笑んで )
──此の時期は、牡丹の花が綺麗に咲く。まだ花開いて間もない若い花だ、数日経って君が元気になった頃には、きっと満開になる。
( 幾度か散蓮華を口に運び、噛み締める様に咀嚼を繰り返す。じわり、水面に波紋が広がる様に優しい風味が舌を撫ぜ、彼の優しさに満ちた言葉と相俟って思わず透明な雫が眦に滲みそうに為ったのを、懸命に堪え。──ふと、庭へと出た彼が徐に何かを手に取り、此方を向く。其の手の中には可憐な紅牡丹が収められており、食べる手を止めては幼子の様な純粋さを含んだ視線をじい、と送り。己の傍らに其れを置き乍紡がれた彼の言葉から思い遣りが痛い程に感じられ、微かに双眸を細め表情を再度綻ばせ。然し不意に脳裏を過るのは身体が完治した後の行動、何時までも邸に身を置く何ぞ傍迷惑以外の何ものでもないだろう。直様翳りの有る面持ちに一変させては、目線を眼下の布団に落とし。 )
色々と、ありがとうござりんす。わっちの身体が治りんしたら、此処は出て行く心算でありんすえ。そん時までちょいと辛抱してくだしゃんし。
…焦る必要は無い、君が居たいと思う迄居れば良いよ。此の屋敷には私の他には誰も居ない。気を使う必要はない。
( 矢張り年頃の少女、差し出した牡丹を見て表情を綻ばせた事に此方も釣られるように優しい微笑みを溢して。然し直ぐにその表情は暗さを孕んだ物へ、少女の口から出た言葉でその訳を察し、そっと其の髪を撫でてやり。まだ二十歳にも満たないで在ろう此の歳の少女が、自分の行先に不安を覚えながらも迷惑掛けまいと気丈に振る舞う姿は、何処か寂しさを感じて仕舞う。怯えと、覚悟と、寂しさと、歳の割に様々な柵を背負い過ぎた彼女を、笑顔にしてやりたいと願うのは独り善がりだろうか。再び彼女の髪を軽くくしゃりと撫ぜ乍ら柔らかく微笑んで。 )
──牡丹の花が開く頃、身体が治ってから、先の事はゆっくりと考えれば良い。今は休養が第一だ。
( /物語の途中に済みません、一度背後より失礼させて頂きます…!少々用事が立て込んでおりまして、返事がほんの少しばかり遅くなってしまう事をお伝えしに来ました。遅くても三日後には必ず返事を致しますので、待って頂けると幸いで御座います。 )
( 穏やかに頭頂部に添えられた掌、仄かに伝わる温かい人肌の熱、降ってくる気遣いの言葉。重く暗雲の立ち込める胸中を優しく照らされた様な、そんな錯覚に囚われる程に彼は情に満ち溢れている。今や霞んで仕舞い、最早鮮明に思い出す事の出来ない遠い昔日に両親がしてくれた様に、髪を幾度か撫ぜられると、伏せた双眸に覆い被さる睫毛と覗く黒曜を刹那震わせては、ゆっくりと大きく首肯し。面を上げ矢張り未だ大人びた雰囲気を醸す表情で、確りと彼の方を見遣れば、徐に口を開いて。 )
わっちを拾ってくれた御方が貴方様で、ほんに良かったでありんすえ。── そいで、名をお聞きしても、宜しいすか。
── 私は、雨宮庵と云う。
好きに呼んでくれて構わない。…君は、?
( 彼女の黒く煌めく瞳が自分の視線と絡んだ事に安心しながら、自分の名を相手に伝えて。誰かに名乗る事など何時ぶりの事だろうか、もう随分と長い間新しい知り合いが増える事など無かったように思える。彼女の瞳は未だ大人びた色を浮かべて居るが、それでも警戒の色が消えただけで今は十分だと柔らかく微笑みながら。食事も摂り、少し顔色も良くはなってきたがまだ無理をさせる訳には行かないと思いつつも、もう少しだけ彼女と話して居ても良いだろうかと考えて。自分にとっても久々の話し相手、此処に来る人間など医者か出版の者くらいなのだから、と。 )
アメミヤ、イオリ…
( 緩やかな弧を描く彼の口元から告げられた其の名を聴き、一度復唱する。確か花街に来る客だったか同期の遊女だったか、明細に記憶に有る訳ではないものの何処かで耳にした事のある名。己の覚えている限りでは、其の名の人物は物書きであり大層人気が有るという事。貴族の豪邸にも負けず劣らずの邸、微かに薫る墨の匂い、道理でと合点がつく。浪漫溢れる時世の此の界隈で名を轟かしているであろう彼を見詰める双眸にやや驚きを浮かべるも、直ぐに元の面構えに戻し。話は途切れる事なく、今度は此方へと問いが来る。遊女時期に使用していた、所謂源氏名の様なものを反射的に言い掛けた口をはたと噤み、一度呼吸を置いてから約三年近く名乗る事のなかった本名を告げ。 )
…篁紅子と申しんす。如何様に呼んでくれても構いんせん。…以後よしなに。
──紅子、…良い名前だ。
紅子と紅牡丹…何とも粋だね、……嗚呼、素敵な話が書けそうだ。
( 名乗れば僅かに驚きの表情を見せた相手、自分の名を少なからず耳にした事が有るのだろうか。次いで相手が小さく答えた名前は彼女にぴったりなもの。名前を聞いただけで様々なものと関連付けて想像を巡らせてしまうのは作家の悪い癖だ。しかし彼女の枕元に据え置いた咲きかけの牡丹と彼女は随分似ているように思えてするすると二つが絡み合って行く。書き物の方に意識が向くとその一点にのみ集中が向いてしまう。暫し彼女との会話を放り出してじっと牡丹の花を見つめ押し黙っていたものの、少しして頷くと相手に視線を戻し微笑みを零し。今筆を執れば面白いものが書けそうだと不意に立ち上がると相手を見つめてにこりと微笑んで。 )
ゆっくりお休み、…紅子のお陰で筆が進みそうだ。私は書斎に居る、何かあったら呼んでくれ。
わ、分かりんした。
( 職業柄か、己の名と話の名を結び付けて呟きを零す彼を幾度か双眸を瞬かせ乍見。恐らく今の彼の脳内には、様々な情景や美しい言の葉が絶えず頻りに溢れているのだろう。暫し沈黙の下りた場に再び穏やかな声が響く。立ち上がる其の姿を目で追い慌てた様に一つ返事をしては、書斎へと戻って行く様子をじ、と見詰め、人の気配が完全に失くなると温もりを求めて布団の中に潜り目を瞑り。
─── 次に目が覚めたのは、夜も更け穹が漆黒に染まった頃。精々二、三時間程しか経っていない様ではあるが、反して辺りは暗く冷たい雰囲気を放ち。夜ともなると、如何しても花街に居た頃の記憶が嫌でも蘇って仕舞い無意識的に顔が強張る。品定めするかの如く這う客の目線、伸ばされる武骨な手、追想されるは其の様な光景ばかり。寒さに耐え難いからだと自分自身に言い訳をしては微かに震える己の肩を抱き。 )
( 書斎に戻り筆を執れば、思い浮かんだ幾多の物語の欠片が忘れ去られてしまう前にと紙に文字をしたためて行き。書き物に没頭している間に時は経ち、気が付けば辺りは暗くなっている。春先とは云えまだ夜は少し冷える、書き物に没頭して身体を冷やさない様にと医師からいつも言われている事を思い出し、立ち上がりながら厚手の羽織を肩に羽織り。彼女は眠っているだろうか、起きて喉が渇いても大丈夫なように緑茶を淹れようと廊下に出ると台所の方へと。熱い緑茶を入れた湯呑みを持って静かに彼女の眠る部屋の襖を開けると中は暗く、よく眠っているのだろうと思いながら布団の傍に置いた湯呑みを交換して。暗い室内に湯気と墨の香りがふわりと広がる。寒くは無いだろうかと彼女に掛かっている布団を肩まで掛け直しながら彼女が起きている事には気が付かないまま、顔に掛かった髪をそっと耳に掛けてやり。やがて立ち上がり少しだけ障子を開くと明るい月の光が薄く部屋に差し込み、涼しい夜風が僅かに其の髪を揺らす。…月の綺麗な夜、闇に包まれてもその紅を主張する鮮やかな牡丹、冷たい風、紅い花のよく似合う少女──再び思考に沈んでいた意識は不意に己の唇から溢れた渇いた咳に遮られ浮上する。静かに障子を閉め、部屋に戻ろうと踵を返して。 )
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