物草 惣兵衛 2017-11-14 04:24:08 ID:c196a580b |
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男は左脚に深手を負っていた。
それでもその脚を引き摺って必死に走り、幾つか建ち並ぶ廃工場のひとつに転がり込むように逃げ着いた。
太腿からおびただしく流れる血は、高級なスラックスをべっとりと汚し、なお止まる様子はない。
身体を支える右脚の脚力も限界にきていた。それよりも立ち眩みが酷い。
もう走れない。逃げられない。
男は前のめりに倒れ込む。
ガシャン!という音が漆黒の闇の中に響き、夥しい数の廃棄されたマネキンの山に頭から突っ込んだ。
塵埃が巻き上がり、それを吸い込んで激しく噎せる。
堪らず胸を掻き毟ると、白いカッターシャツは手に着いた血によって赤く染められてゆく。
男は仰向けに体勢を変え、新鮮な空気を探して顎を突き出し、喉奥から音を立ててゼイゼイと荒い呼吸を繰り返した。
━━畜生…。こんなところで、まさか、あいつに…。
脳裏にあのときの記憶が甦る。
━━いっそ、始末しておけばよかった…。
激しい後悔と無念さに、男はギュッと下唇を噛んだ。
高い天井の、破れた屋根の隙間から月光が射し込む。
その光に照らされて、舞い上がった無数の粉塵がキラキラと小さな煌めきを放つ神秘的な風景を見つめながら、男は遠くから近付く靴音の響きを聴く。
それはまさに、男に死期を告げる響きに他ならない。
「な、なあ、ルード。聞いてくれ」
急に現実に引き戻された気になって、男は暗闇に向かって絞り出すように言った。
「間が悪かったんだ。あのときはああするしかなかった。そうだろ?…でなきゃあ、オレたちは…」
月光を帯びた塵の煌めきが僅かに揺れる。
ぼんやりと埃まみれの地面を照らす明かりが、息を切らして仰向けに横たわる男の眼前に、追跡者のブーツを照らし出した。
追跡者はそこで立ち止まった。ほとんど黒に見えるぐらい濃いグレーのボーラーハットの下で、その持ち主の口元が歪む。
「オレたちは?」
トーンは低くても、その声はどこか楽しげであった。逃げ場を失った獲物に詰め寄る補食者の余裕。確固たる決意に基づいた殺意。追跡者が今、纏っているのはそういった果てしなく冷酷な雰囲気であった。思わず、倒れている男も荒く紡いでいた息を詰まらせる。
「その『オレたち』ってのは、誰と誰だい? 俺やエリゼ、フィリベールなんかも含まれていたのか?」
追跡者は男に一歩、近づき、冷淡な口調で問うた。月明かりは尚も辺りの粉塵や壊れたマネキンたちに注いでいるが、追跡者の瞳はボーラーハットの鍔が落とす影に隠され、男には視認できない。ただ、声のトーンから判断しても、互いの立ち位置を考えても、見下ろされていることは確かに思えた。
「いや…ちがっ、違うんだ!ルード!聞いてくれよ!!」
「お前の口から聞きたいことももうない!」
彼等が訪れるまでは、長く静寂に包まれていた廃工場の一角に、初めて荒げられた追跡者の声が響く。続いて、その手が持つリボルバーの先端が、喘ぐような調子で弁解を試みた男に向けられた。
「家族ごっこも終わりだね…さようなら、父さん…!」
━━こんなはずじゃなかった…。
言葉にならない思いはただ胸の中に、男は追跡者の指がリボルバーの引き金にかかる様を、恐怖に引き攣った表情で凝視することしかできなかった。
コートに身を包んだボーラーハットの人物の発した怒声が闇を切り裂く。
真っ直ぐに差し向けられた銃口の筒先が、浮かんでいるかのように月の光に照らされ、引き金に指先の力が加えられていく様子までもがはっきりと男の目に映る。
「お、オレを殺ったところでどうなる?
お前は辿り着けない。ビッグマミィのところまではな…」
開き直ったかのように、男は薄ら笑いさえ浮かべながら言い放った。
「お前も餌食になるのさ。
エリゼやフィリベールのように…」
その台詞の言い終わりを待たずして、撃鉄が落とされた。
渇いた銃声と同時に雷火が弾け、一瞬、埃まみれのマネキンの山に埋もれる男の最期のニヤけた顔を闇に浮かべた。
暗闇に余韻が響く。
それは耳鳴りのせいかもしれない。
コートの追跡者は銃を下ろすと、自らのざわめく胸中を落ち着かせるように山高帽をかぶり直し、大きくひとつ溜め息を吐いた。
━━これが、終わりの始まり…。
胸に去来するひとつの思いを頑なにしまい込み、ルードと呼ばれた人は踵を返して、再び幽暗とした闇の中に身を溶け込ませていった。
響く靴音は決然としていて、何かに駆られるかの如く力強く廃工場に鳴り渡っていたが、遠ざかるその跫音は廃マネキンの上に横たわる男の耳に届くことはなかった。
外に出ると、よく晴れた夜空には月が浮かんでいる。その明かりが作り出すぼんやりとした薄闇の中で、存在感を放つのは、今はもう使われていない廃工場たちの真っ黒な輪郭ばかりであった。
辺りはまた静寂を取り戻しており、ここから先の湿った地面は足音も幾らか吸収してくれる。いつどこに敵となる人物が潜んでいるか分からないため、ルードは常に気を張り詰めていたが、素早く運ぶその歩みに迷いはなく「脇目も振らない」という形容がぴったりと当て嵌まるようであった。
━━にしても……。
歩きながら、ふとルードの脳裏にさっきまでの光景が蘇った。自嘲的な声色、雷火によって一瞬、浮かび上がった表情。
━━…………。
涙は出ないけれど、苦しいという言葉だけでは言い表せない、自制を緩めれば暴れ出してしまいそうな感情が、心にはあった。
━━笑っていやがった。最後にあの男が言いかけたのは、あの女のことだけだった。
こんな状況で、自分はまだ何かを期待していたのだろうか。
━━だから、もう聞きたいこともないと言ったのに。
その前に、疑問形で語りかけてしまったのは自分だったか。一抹の後悔が棘となって胸に刺さる。しかし、ごっこ遊びは誰かが下りたら終わるのだ。残った者が無理に続けようとしても滑稽になるだけである。だから、自分も下りたのだ。あとは、
━━全てを終わらせるだけだ。
無骨に佇む錆びたフェンスを乗り越えて、ルードは廃工場の建ち並ぶ敷地を抜け出した。
その死体が発見されたのは、この寂れた廃工場に銃声が轟いてから数日経ってのことだった。
シティの東に位置するこの工業地帯は、その役目をすっかり終えて、今ではかつての活気は見る影もなく風化の一途を辿っていた。
この広大な土地を一度はシティが企業主から買い取ったが、その際の売却額が異常なほど破格だったため議会と企業間による贈収賄疑惑が降って湧き、それが元でこの荒れ果てた工場群は未だに手付かずの状態で放置されている。
そんな場所だから、ここは行き場の失ったホームレスや不良たちの溜まり場になり、殺人や死体遺棄など物騒な事件の格好の舞台になった。
隣接するイーストタウンの住民たちの要請もあって、シティは工場地帯を鉄条網付きの高いフェンスでぐるりと囲い防犯カメラも増設したが、以前に比べて幾らかましになった程度で、それでもこの廃れきって世間に見放された地帯に侵入する者は後を絶たなかった。
死体を一番に発見した浮浪者の老人も、この場所に魅せられたうちの一人だった。
彼は何日もかけてタウンを彷徨き、ときにはシティの中心街まで出向いて行ってコレクションを収集していた。
お気に入りの人形やマネキンをゴミ置き場で見つけるとそれらを引き摺って、彼だけの秘密のオアシスであるこの廃工場に連れて帰っていた。
この日の朝、やっと見つけた一体の壊れたマネキンの上半身を抱えて、破れたフェンスの隙間を掻い潜り、痛む背中を丸めて、老人は数日ぶりにようやく自分だけの邸宅に辿り着いた。
上機嫌でお気に入りのコレクションたちである廃マネキンの山を見て異変に気付く。
「なんだぁ?こりゃ」
無造作に置かれたマネキンたちの傍らに、何かがある。それは置いてあるように見えた。
血にまみれた衣服。男性ものの白いカッターシャツに、高級そうなスラックス。それはあたかも人が横たわるように人の形に置かれていて、ピカピカに光る靴までもが開かれたスラックスの裾に整然と並べられていた。
「…??」
老人は駆け寄って目を凝らす。
人が脱いだ…?いや、そうじゃない。「脱け出した」という形容のほうが当て嵌まる。
服だけが残されて、人の姿がそこにはなかったのだ。
「おい、なんだよ、こりゃあ…」
恐る恐る手を伸ばして、血で赤黒く染まったシャツを握って持ち上げようとする。すると、その手にズシッと重みを感じた。
意を決して剥ぎ取るようにシャツを捲り上げた。
ゴロンと、シャツから何かがこぼれ落ちた。
「!?」
それは一匹の黒猫だった。
死んでから何日か経過していることは、老人の目にも明らかだった。
黒い毛は使い古されたモップのようにバサバサで、血が固まってこびりついている。
頭部は原型を留めないほどにグシャグシャに破壊されていて見るもおぞましく、それまで幾つもの死体を見てきた老人でさえ腰を抜かしそうになるほどだった。
「こ、こりゃあ…何だよ…」
「そりゃあ、猫が化けてたんだろうよ」
やや垢にまみれた白い髭を酒で濡らしながら、浮浪仲間の老人が豪快に笑った。
季節は秋口で、段々と寒くなってきている。だからこそ、彼等が今たむろしているのは、シティの中でもあまり治安が良くない繁華街の、とあるバーの裏である。ここなら、適度に狭くて暖気が逃げにくいし、バーの換気扇から出てくる風は暖かい。
閑静な住宅街とは異なり、白い目で見られることも少なく、それどころか、たまに衣服や嗜好品を恵んでくれる人もいるのだ。髭の老人が今、口にしている酒もそうして恵まれたものである。
「ばか言え、そんなわけがあるか。酔っ払いがよ」
マネキン収集が趣味の老人は、心地好く酔って上機嫌な髭の老人に少しきつい口調で言い返した。しかし、髭の老人は意に介さない様子である。
「ばーか!じゃあ、お前の方こそ酔っ払ってたんだろうがよ。あるいはぁ、寝ぼけてたんだ!」
そう言ってまた、うへへと笑い、酒瓶に口をつけて傾ける。マネキン収集が趣味の老人は、やっぱり、こいつに話しても無駄か…、と内心で落胆した。
治安の悪い場には変態だって現れる。今まで何度、死体を見てきたことだろうか。その中には異様な状態のものもあった。それでも、あの現場は何故か、それらとも一線を画して不気味に思えたのだったのだ。
「…か…かるとっちゅうのかね。そういう趣味の者がやったのかね…」
老人は視線を落とし、誰にともなく呟いた。すると、その時、路地の入口にバーの裏を覗き込む影が立った。
「おじさんたち、こんなところで何をしているの?」
聞き慣れない甲高い幼声に、ホームレス仲間の老人二人は目を丸くして通りの方へ同時に顔を向けた。
陽は暮れ馴染み、そろそろネオンに火が灯ろうとしている街の雑踏に紛れて、その声の主は街路から注ぐ光を背にしてこの狭く小汚い路地を覗き込むようにして立っていた。
オレンジがかった赤毛の長い髪はウェーブがかかっていて揺れている。ベージュのダッフルコートにレースのついたスカート。白いタイツにティンバーランドのワークブーツが妙に不釣り合いで可愛らしい。
年齢は6、7歳くらいか。どう見ても女の子。
その小さな影が首を傾げて、ただこの場所が暖かいという理由だけでたむろしている根なし草の老人二人に向かって問いかけている。
「ほほっ、こいつぁ珍しいお客さんが来たもんだ」
髭を酒で濡らした老人が赤くなった鼻を上に向けて笑った。
何をしている?などと訊いてくるのは、彼らにとってはもっぱらビルの警備員か役所の人間くらいだ。
一般人どころか警察官ですら見向きもされないこの老いぼれた宿無しに不意に語り掛けてきた小さな少女を前に、驚きと物珍しさが相まって、白髭の老人は饒舌になる。
「なにをしているかって?はははっ、こりゃ傑作だ。教えてやんなよ、ジョセフ」
白髭にとろんとした目を向けられたジョセフと呼ばれたマネキン収集の老人は、ポカンと口を開けたまま、路地の入口に立つ女の子を見ていた。
「がはははっ、見とれちまってやがらぁ。こいつぁロリコンってやつでな、可愛らしい女の子を見ると拐っていっちまうんだぜ」
そう言って下品に笑い、ポンポンとジョセフの肩を叩く白髭のしわくちゃな手を振り払って、「そんなんじゃねえ」と呟いたあと、自らを落ち着けるように、ゆっくりと少女に向かって言葉を投げた。
「どうしたんだい?お嬢ちゃん。もう陽が暮れるよ?」
「私?」
質問を返された少女は、一度傾げた首を向き直して確かめるように言った。きょとんとした表情も愛らしい。
一瞬ドキリとしてしまったが、近くに親がいるかもしれないと思い、ジョセフは慌てて意識して平静を保った。彼は確かに子供好きであったが、それは決して邪な感情によったものではなく、子供をある種の欲望の対象としては見ていないし、当然危害を加える気もなかった。しかし、それでも自分のような者が我が子に話しかけるだけで、あからさまに嫌悪感を示す親はざらなのである。
無邪気な子供の前と油断をして、楽しい気分になった時に、突然現れた親に水を差される切なさはなかなか慣れない。だからこそ、ジョセフはそこでかえって警戒を強めて、やや固い口調で続けた。
「そうだよ、お嬢ちゃん。お父さんはどうしたの?」
その問いかけに、少女は事もなげに即答した。
「お父さんなんて知らないよ。会ったこともない」
そして、路地に踏み込み、ずんずん歩いて、二人の老人のすぐ近くまで来た。本当にすぐ近く、手を伸ばせば触れるどころか、抱きしめられそうな距離である。予想外の行動に、髭の老人は口をつぐんで興味深そうに少女を見遣り、ジョセフの方はやっぱりドギマギしてしまった。それでも、何か言おうと口を開きかけたところで、少女の声にそれを阻まれる。
「ねぇ」
少女はじっと、ジョセフの瞳を見つめる。
「な、なんだよ…」
思わず、目を泳がせてしまいながらも答える。少女の方は毅然とした調子で続けた。
「私、人を探しているの。黒い猫なんだけれどね、黄色い虎猫でも良いわ。見ていないかしら?」
少女の声はどこか焦燥していて、切羽詰まった様子で見上げるように嗄れた老人を見つめる。
「猫…?」
二人の老人はまた顔を見合わせた。
すがるように訊いてくるいたいけな女の子の悲しげな面持ちに、ジョセフはなんだか胸が締め付けられる思いがした。
「猫を探しているのかい?」
女の子は視線を落としてコクリと頷く。
ダッフルコートの胸の前で組まれた小さな両手は、自分の指を抓るようなせわしない仕草を繰り返していて、それだけでも彼女の心配げな気持ちが伝わってくる。
「飼ってるわけではないけれど、おうちに毎日遊びにくる猫が昨日から見当たらないの」
少女はジョセフに向き直り、小さく息を吸い込んで捲し立てるように言葉を続ける。
「黒猫のほうはジル。虎猫のほうはマーロ。名前を呼べば尻尾を立てて近寄ってくるわ。ほんとはおうちで飼ってあげたいんだけど、ママがアレルギーだからダメって…」
それからまた首をもたげて、泣きそうなくらいか細い声で呟く。
「きっと、どこかでおなかを空かせてると思うの…」
あ、そういえば…、と、赤い顔をした白髭の老人がポンと手を打つ。
「黒猫っていやあ、今朝こいつが工場で見たぞ。シャツに絡み付いてて…」
慌ててジョセフは白髭の歯抜けた口を手で塞いだ。
一瞬、廃工場で見た黒猫の凄惨な姿が頭を過る。
そんな話を子供に聞かせていいわけがない。ましてこの子は、大好きな猫を心から心配して、こんな路地裏にまで探しに来ているのだから。
「じ、ジルとマーロだね。わかった、探しておくよ」
白髭の口を押さえながら、老人は目尻に皺を作って女の子に応えた。
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>>9 部分訂正
●少女の台詞
誤 「猫が昨日から見当たらないの」
正 「猫がもう一週間も見当たらないの」
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× × × × ×
朝日が眩しい。
一度開いた瞼を少し下げ、細めた瞳を無意識のうちに手で庇う。それから、大きく欠伸をして、昨夜眠りにつくまでの流れと、今日やるべきことについて思いを巡らせる。
ここはイーストタウンの郊外、たまたま目についただけで、誰とも知らない者の畑の敷地内である。そこに建っていた物置小屋に背中を預けて一夜を明かし、今は丘の上から射した太陽の光に起こされた。
丘の上にあるそこそこ大きな屋敷は、逆光によって黒く染まっている。牧歌的な風景なのに、それを見つめる彼の心は重たかった。
「ビッグマミィ…」
呟いてから立ち上がり、服についた土を払う。あの屋敷は、かつて皆で過ごした場所。そして、今の彼にとっては追放されてしまった帰らざる地。あの屋敷のどこかに、今もビッグマミィはいるのだろうか。
「辿り着いて見せるよ。どこに行っても見つけだす」
独りごちたその時、パン、パンと乾いた発砲音が響き、物置小屋の壁が幾らか破片を散らした。咄嗟に身を屈めて、音がした方向から隠れるように小屋の裏に回る。
「誰だ!」
「ル、ルード…」
返ってきた声は震えており、姿を見なくても、腰の引けた雰囲気が伝わってくるようであった。そして、その声も雰囲気も、記憶にあるものだった。物置小屋の壁に背を沿わせたまま、思わず、ルードの口元には皮肉っぽい笑みが浮かぶ。
「マルタンか。久しぶりじゃないか!」
「やっぱり、ルード…裏切り者…!」
次に答えた声は、先ほどよりも剣があった。しかし、ルードも引くことはなく言い返す。
「裏切り者?どっちがだ!」
「…お、お前しか有り得ない!父さんを殺したな…?許さない…!」
返答はそこまでのようだった。駆け出してくる気配を感じ、既に装填を確かめたリボルバーを片手に、ルードも応戦体勢となる。
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