ものぐさ物書き 2017-08-17 15:58:19 ID:01bed38fc |
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雪さ。
そう、雪っていうんだぜ。
空から真っ白い塊が降ってくるのさ。
氷かって?いや、ちょっと違う。
それは、雹といって、また別物さ。
この季節になると、街を真っ白に染め上げるんだ。
ネオンに埋められたシンジュクの繁華街が、見渡す限り白一色の世界。ほんの4、5センチ足らずの雪でも、あの息苦しい大きな街を、お伽の国のように変えちまうのさ。
だから、寒さは確かにたまらなかったけれど、オレは雪が嫌いじゃなかったな。
――――あの年のはじめ…。
オレは雪の中で自転車を漕いで、せっせとニューイヤーズ・カードを配ってまわってたんだ。
ポスト・マン。あの国じゃ「郵便屋さん」と呼ばれてた。
仕事を転々としたあとに、前の年の暮れから臨時のアルバイトとして雇われたんだ。臨時雇いだったから、この先どうなるものやら不安でならなかったけれど、とりあえず背に腹は変えられねえってところだった。
皿洗いにはじまって、建設現場や土木工事や、いろんな仕事をしたものさ。
学生ビザで入国したはいいが、オレの目的は、あくまで決まった額の入金をすることにあったからな。なにしろあん時、お袋の腹ん中にゃあ末っ子のおまえがいたんだぜ。親父はあんな男だったから、長男のオレがなんとかしなくちゃならなかったってわけだ。
大変だったかって?あったりめえよ。
毎日毎日寝ずに働いたって、アパート代や食費代がバカ高いから、金はすぐに右から左に消えちまう。
信じられねえかもしれねえが、この町でちょっとした家屋敷を借りられるだけの金が、あの国じゃあほんの数日分の食費に消えちまったんだ。
だけどあの国の女どもは、オレたちのひと月分の給金ぐらいの服をぽんとカードで買っちまうし、野郎どもは野郎どもで、そんな女たちとの食事やホテル代に大金を投げ出す。
特に金持ちってわけじゃなくたって、そういう贅沢はできる国なんだな。
「ちきしょう、あんな女たちとやりてえな」
郵便バイクを走らせながら、ゴローはよくそう言ってた。
オレだって同じ気持ちだった。
綺麗に着飾った女は街に溢れてたのに、みんながどっか遠くにいて、見ることはできたって触ることも話しかけることすらできやしねえ。
おっと、前置きが長くなっちまった。
今夜はゴローとあの女の話を聞かせてやるよ。
まあ、いいからしばらく黙って聞けって。これがおまえの相談に対する兄(アン)ちゃんの答えになるかどうかはわからねえがな。
その前にビールをもう一本持ってこいよ。
こう暑くっちゃかなわねえや。
厳密にいやあ、ゴローはあの大都会の人間じゃなかった。
あの街よりももっとずっと北の、もっとずっとたくさん雪が降る小さな田舎町が生まれ故郷だったらしい。
新聞配達の奨学生として上京してきて、夜間高校を出て、それから郵便局に勤めたってわけさ。
苦労して、親兄弟を心配させねえような安定した職に就いたんだ。オレにしてみりゃあそれなりに立派な野郎だなって気もどっかにあったんだが、野郎自身はそういう境遇が不満らしくて、ちょっとでも酒が入ったときにゃあ、
「つまらねえなあ。ああ、つまらねえ」
って繰り返してたっけ。
そのせいだったのか、ゴローは髪の毛を茶色に染めて、後ろのほうは雄鶏の尻尾みたいに長く伸ばして、しかも耳にはピアスなんかもしてたのさ。
たぶん、郵便局の服務規程なんかにゃあ違反してたんだと思うぜ。
ほんというと、オレは最初、ゴローの野郎が嫌いだったのさ。
なぜって、二言めにゃあオレたちのことを、ガイ人呼ばわりしやがるんだ。ウスノロのガイ人野郎。そういうのが野郎の口癖だった。
あの国じゃあ、アメリカ人やヨーロッパ人なら別だが、オレたちみたいなガイ人は、大人しくしてるに限るんだ。だから、オレは何をいわれたって黙ってた。
だけどな、兄ちゃんの喧嘩ッ早いのは知ってるだろ。
ある日、ついに堪忍袋の緒が切れちまったんだ。
「おい、ウスノロ。言っとくが、年賀状を捨てたりしやがったら、その浅黒いツラの皮をひん剥くからな!」
オレは一応我慢して、ヘラヘラ笑って行きかけたんだが、結局くるっと逆戻りすると、ゴローの横っ面を殴っちまった。
あとで聞いた話によると、実際にどっかの国のどっかの野郎が、自分の分担の年賀状を捨てちまって問題になったことがあるらしい。
八割がた配達したんだから、二割ぐらい捨てたって怒られないと思った。
そいつはそう言ってたらしいや。
だが、オレはそんな男じゃないぜ。
言っていいことと悪いことがあるって点を、ニッポン人にだってちゃんと教える必要がある。そうだろ。
ゴローと親しくなったのはそれからさ。
言っちゃなんだが、喧嘩はめちゃくちゃ弱かったな。
同じ田舎育ちでも、向こうのガキは棒ッ切れひとつ振り回したこともねえような育ち方をしてるんだ。
あのころ、オレもゴローもハタチそこそこだったけれど、きっと野郎のほうはオレと違って、喧嘩なんぞガキのころからしたこともなかったんじゃねえか。
「おめえ、なかなかやるじゃねえか」
鼻血をダラダラ流しながら、ゴローの野郎は威張って見せたが、オレのほうが手加減してそこでやめてやっただけだ。
ほんとだぜ。
まあ、それはそれとして、配達区域についちゃあ、ゴローはオレの先生だった。
野郎のほうは、郵便バイクでスイスイ行きやがる。
それに引き換え、オレはえっちらおっちら自転車を漕いでたんだからえらいことだったが、あれでなかなか優しいところがある男でな、スピードを落として「気楽にやりな」なんて言いながらつきあってくれたっけ。
それに、シンジュクからシンオオクボのあたりってのは、意外と細かい路地が多いんで、バイクも自転車もけっこう似たり寄ったりだったんだ。
あの人が暮らすマンションは、シンオオクボって街にあった。
びっくりしたぜ。とびっきり綺麗な女だった。
肌が透き通るように白くって、抱きしめたら折れてしまいそうに華奢なくせに、胸も腰もマシュマロみたいに丸く柔らかく張り出してた。
じかによく見たのかって?バカ言うな。ガキが生意気言うんじゃねえぞ。
それとな、とても綺麗な手をしてたんだ。
畑仕事はおろか、水仕事ひとつしたこともねえで暮らしてると、きっとあんなふうに綺麗な手になるんだろうな。
オレたちが配達で通るのと、あの人が毎朝コンビニに降りてくる時間とが重なるんで、遠くからだけど何度も見ることができたんだ。
だけど、じきにわかったんだが、それは偶然じゃなかったのさ。
いつもだいたい何時ごろに、あの人がマンションの表に姿を見せるのか、ゴローはちゃんと知っていたんだ。
「あれは昔の女なんだ」
ある夜、ゴローからそう言われ、オレはまたまたびっくりした。
年の瀬が近づくと、故郷を思い出して人恋しくなるのはゴローも同じだったらしくて、なんとなく一緒に酒を飲み………もちろん最初は割り勘だったぜ。そのまんまゴローのアパートに泊めてもらったりしてたのさ。
だいぶ酒がまわってから言い出したもんだから、オレは出任せだと思って信じなかった。
こう言っちゃあれだが、釣り合わねえことこの上ねえ。
夜学の同級生だって言ってたが、まあそんなこたいいや。
あの人は東京の生まれで、家は普通のサラリーマンだったらしい。
歳だけはオレたちとちょうど同じくらい。
好きな色は燃えるような赤で、好きな男のタイプは、優しくて包容力のある人。
好きな食べ物はイタリアンで、車はBMW。
ええと、それからなんと言ってたかな…。
いずれにしても、絶対にゴローと釣り合わねえってことは確かだった。
いくら毛を茶色に染めたって、畑から抜いてきたばっかりのイモみたいな顔を隠せるわけがねえし、それに言い忘れてたが、ゴローのやつは田舎の訛りが抜けきれないらしくて、なんだかちょっと変なニッポン語を話すんだ。ああ、アクセントが変だったな。
本人はそれをひどく気にしてたみたいで、あんまり誰とも口をきかなかったっけ。
オレは信じなかったね。
ところがだ。ゴローのやつはあの女のことを、じつによく知ってやがったんだ。
嘘じゃあ、とてもあすこまで具体的にゃあ話せねえ。
「あいつは昔、ホストクラブにはまっちまってたことがあるのさ。まだ高校に入ったばっかりの頃だった」
こりゃまたびっくりさ。ホストクラブなんかで金を遣う女がいることでさえ驚きなのに、それが高校生で、しかもあの人だったとは…。
「おめえはそう言うがな、そういう若い女が東京じゃどんどん増えてるんだ。男にチヤホヤされ、それにお姫様扱いだろ。それに相手は年上だから、親にも教師にも相談できねえようなことだって相談できる。ホストなんてのは、どうせ口当たりのいい答えしか言わねえだろうから、それでひとまず安心できる。そんなわけで、月に何十万も何百万も注ぎ込んで、帳尻を合わせるために、てめえが風俗やらクスリの売人やらに身を落としていくってのが、お決まりのコースなんだ」
あの人もそうだったらしい。
ゴローが止めるのも聞かず、やがてシンジュクのソープで働き出した。
石鹸(ソープ)ってなにかって?ああ、売春宿さ。
あの国じゃあ、いろいろ言葉を言い換える習慣があるのさ。
援助交際ってやつもしてたらしい。
これは売春を言い換えたニッポン語さ。どうだ、難しいだろ。
それでもって、ゴローとあの人が別れることになっちまったころ、あの人はあるエロビデオ会社から声をかけられて、そういうビデオに出るかどうかを悩んでたらしいや。
なんでもあの人の夢は、自分のお金で真っ赤なBMWを買って、それを好き放題乗りまわす生活をすることだったんだ。ビデオに出りゃあそんな生活が目の前に近づいてくる。
でも、親兄弟や友達の目ってのはやっぱり気になるだろうし、そんなこんなで悩んでたってわけだ。
それで結局どうしたのかって?
結局、出たのさ。
「自分がここにいるっていう存在の確認?」
なんで?って訊かれて、あの人はそんなふうに答えてたっけ。
それからちょっと考えてから、
「怖いですよ。でも、思いきってやってみようかなって。人生は一度だけだし?」
そんなふうにも言ったっけ。
ぽつりぽつりと、考え考え、語尾を上げて喋ってた。
ニッポン語の学校じゃあ、語尾を上げるのは疑問形だって習ったけれど、なんだか最近のニッポン人は、てめえのことを喋ってたって、語尾を上げるみてえなんだ。
兄ちゃんはその人とじかに話したのかって?
まあ、話したような、話さんような……。
つまり、ビデオの中でそう言ってたのよ。
そう驚くなよ。ゴローが全部持ってたんだ。
合計で3本のビデオに出たらしいや。10代の終わりごろだったらしい。
まあ、後学のためにも、おめえも一回くらいはそういうもんも観といたほうがいいぞ。
おっといけねえ、話が逸れてきた。
今んとこは、うちのやつには内緒だぜ。
いずれにしろ、その夜はそんな話を聞いて、ゴローと一緒にあの人の裸のビデオを観て、そして酔いつぶれて眠っちまったんだ。
なに?おめえなら絶対許さねえってか?
てめえの彼女がビデオに出るのを許して、しかもそのビデオを誇らしげに兄ちゃんに見せるなんて、ゴローはどうかしてるだと?
ああ、オレもその夜はそう思ったよ。
まあ、いいからプリプリしねえで、話をもうしばらく聞けって。
ゴローは、ビデオの中でよがりまくるあの人の躰をじっと見つめながら、寂しそうに言ったんだ。
「俺にゃあ、真っ赤なBMWは買ってやれねえ。ホストクラブにいく金だって出しちゃやれねえ。そうだろ?だから…こうしてじっと見てるしかねえんだ」
ってな。
あの人のマンションにゃあ、真っ赤なBMWが、誇らしげに駐車してあったよ。
まあ、そんなこんなで年が明けた。
あの国じゃあ年越しのとき、寺という寺で鐘をつくのさ。
百八つの悪い心を捨て去って、新しい年を迎えるってことらしい。
オレやゴローたちは、郵便局で百八つの鐘を聞いた。
大きな機械があって、それが郵便番号を自動的に読むらしくて、人間様の手間はそんなにゃあかからねえんだが、それでも機械なんてのは読み漏れがたんとある。それを手で分けていくわけさ。
もっともオレたちガイ人は漢字がわからねえから、ただの雑用だったがな。
明るくなって、えらい人の挨拶が済んで、いよいよオレたちの仕事の本番だ。
オレはゴローにくっついて、担当区域に飛び出していった。
あの朝の、シンジュクの街の景色だけは、なぜだかいまでも思い出すよ。
雪が降ってたんだ。
そのせいだろうな、なんだかやけに清潔で、とにかくいつもとは違ってた。
空気がしんと冷えていて、排気ガスも少ねえのか、えらく遠くまではっきり見えて、肺の中も頭ん中も綺麗になったような気がしたぜ。
笑い事じゃねえんだ。
信じねえだろうが、あの街じゃ普段は遠くは霞んじまってるのさ。
昼近くだったかな。
一息入れるつもりで、オレたちゃ缶コーヒーを買った。
うまかったな。
手も舌も焼けるような気がしながら飲んでると、珍しく遠慮した調子でゴローが言ったんだ。
「なあ、おめえ、これをどう思う?」
そして制服のポケットから、年賀状を一枚抜き出したんだ。
―――世界は冬に終わる
そこにはそう書いてあった。
ああ、いまでもよく憶えてるよ。
オレにゃあきちんと読めなかったんで、ゴローが読んで聞かせたくれたのさ。
はっきりと、憶えてる。
こんな二行だったよ。
世界は冬に終わる
そんな気がしていました
あの人が、誰かに宛てた年賀状だった。
相手が転居しちまってて戻ってきたのが、他の年賀状と一緒に混じってて、元旦の配達分に入ってたんだ。
だけど、こんな年賀状ってあるだろうか?
「この野郎のことなら知ってる」
オレが首をひねっていると、ゴローがぽつりと言った。
「こりゃ、去年の秋ごろから彼女が付き合ってた医者だ」
ああ、と思った。
そういう話はたくさんあったんだ。
医者、青年実業家、広告クリエイター。もういまじゃ全部は憶えちゃいねえが、ゴローがオレに話して聞かせただけでも、彼女は何人もの男と付き合ってたらしいや。
そう聞かされたときから、オレにはピンときていたんだ。
ゴローのやつは、はっきりは言わなかったが、結局あの人から捨てられたんだな…ってさ。
だけどここ何ヵ月かは、相手はその医者だけだったらしいのに…。
「おい、こりゃあ……、別れの手紙ってやつだよな」
ゴローの言うとおり、そう考えるしかなかった。
年賀状が別れの手紙だなんて、なんてひどい話だろう。
なあ、おまえだってそう思うだろ?
医者には妻子がいたらしい。
年賀状は着かなかったわけだから、その野郎のことはどうでもいいが、年のはじめに向かってこんな文句を書くしかなかったあの人は、いったいどんな気持ちだったんだろう。
会いにいったらどうなんだ、と、オレはゴローに言ったんだ。
きっと寂しい思いをしているんだろう。慰めてやることが大事だし、それに、そうしたら、もしかしたらあの人の気持ちだってまた…ってなことをな。
するとゴローは両目を見開いてから、怒ったような顔で首を振った。
「バカ野郎!俺なんか出る幕じゃねえや!」
いまにして思えば、あん時のゴローの顔を見て、オレだって気づくべきだったんだ。
なんであんなことをする気になったのか…いまじゃもう、まったくわからねえや。
オレはゴローの目を盗んで、あの人のマンションに入ったんだ。
部屋番号は年賀状で見てわかってたからな。
たぶん、元旦から降った雪が悪かったのさ。
シンジュクって街はおかしな街でな。
ネオンが灯ってるあいだはいいが、お日様が顔を覗かせて明るくなると、人を急に落ち着かない気分にさせるんだ。
こんなところで、こんなことをしていていいんだろうか。いつまでもオレは、このままこうしているんだろうかって、いてもたってもいられなくなっちまう。
しかも美しい雪景色だぜ。
恋のキューピッドを務めてみてえなんて、オレは妙な仏心を起こしていた。
いや、もしかしたらそうじゃなかったのかもしれねえ。
ただ、ゴローにかこつけて、あの人とじかに話してみたかっただけなのかもしれねえよ。
正直言やあビデオを見て以来、オレの頭ん中にゃあ、素っ裸のあの人が居座って離れようとしなかったんだ。
ゴローとヨリを戻せないだろうか、なんて思ったのは嘘で、オレただ、綺麗なあの人をもっとそばで見て、話してみたかっただけなのかもしれねえ。
ドアの前に立って呼び鈴を押す直前、心臓がドキドキ鳴ったのを憶えてるよ。
間近に見るあの人は、なぜか遠くから見るよりも、ビデオのなかにいたときよりも、ずっと小さく見えた。
肌がボロボロで、酒臭かったのを憶えてる。
しどろもどろに事情を話したオレの顔を、しばらくじっと見つめていたけれど、それから薄く微笑んだみたいだった。
そして軽蔑するように吐き捨てたんだ。
「あんた、いったい何の話をしてるの?いったい何が目的なの?ゴローなんて男は、あたしぜんぜん知らないよ」
まあ、そうやいのやいのと質問攻めにするなよ。
ああ、そうさ。
ゴローが言ってたのは全部、嘘だったんだ。
付き合ってたって話はもちろん、夜学の同級生だったって話も、悩みを相談されたって話も、なにもかもな。
だがな、それでもゴローがオレにしたあの人の話は、ほとんどがホントのことだったんだ。
どういうことかって?
つまり、ゴローは長い間ずっと、あの人のところにくる手紙を、こっそり開けちゃあ読んでたってわけだ。
まあ、そう呆れるなって。
話はまだ肝心なところが残ってるんだ。
何がなんだかわからねえまま、キツネにつままれたような気分でマンションを出てきたオレは、真っ青な顔をして立ってるゴローと出くわしたんだ。
それでゴローを問い詰め、盗み読みの話を聞き出したわけだが、問題はそんなことじゃなかった。
「おい、おめえ、これをどう思う?」
ゴローは震える手で、オレに葉書を見せた。
そこにゃあ、やっぱり例の文句があったんだ。
―――世界は冬に終わる―――
っていう、昨日の年賀状とまったく同じ文句さ。
宛名は医者じゃなかった。
何者なのか、ゴローにも見当がつかない別人だった。
やっぱり相手が転居してて、戻ってきちまったってとこだけが一緒だった。
すると、あの人は同じ文句の年賀状を、二通出したってことになる。
ゴローは首を振って否定した。
「なあ、そうじゃねえんじゃねえのか?俺は、嫌な予感がしてならねえんだ…。」
そして一呼吸して、こう続けた。
「どの年賀状も全部、こう書いたとは思えねえか?付き合ったことのある野郎ども全員にも、昔の友達連中にも、こういう文句を書いたんじゃねえのか?」
―――でも、どうして…。
訊き返しながら、オレの頭ん中にも、ドス黒い嫌な予感が拡がっていくのがわかったんだ。
なんでかってことは、うまく言葉じゃ言えねえよ。
だけどあの人は、エロビデオのなかで言ってた、自分の夢だっていう真っ赤なBMWを手に入れちまった。
あの人は、何人か付き合ってた男がいたけれど、いまじゃ誰もいないらしい。そして家族のもとへも帰らずに、正月をひとりで迎えてる。
……いつからそんなふうにして、ひとりで正月を迎えるようになったんだろう。
ホストに貢ぎはじめてからか。ソープで働きだしてからか。それとも、エロビデオに出てしまってからか……。
いいや、たぶんあん時オレは、そんなふうに言葉で考えたんじゃないんだ。
オレはあの国にいるあいだじゅうずっと、綺麗に着飾った女たちを見て、漠然と感じていたのさ。
こいつらは綺麗で恵まれているけれど、もしかしたらどっかでいきなり煙みたいに消えちまうんじゃねえかって。
何をしていいかわからねえままで生きてきて、ある日いきなり、崖っぷちからどっかへまっ逆さまに落ちちまうんじゃねえか…って。
いや、そんなことでもねえのかもしれねえ。
年の始まりってやつは、ひとりでいる人間には残酷なんだ。
あん時、オレだってゴローだって、ほんとはどうしていいかわからねえほどに寂しかったのさ。
故郷へ帰りたい。懐かしい人たちの顔を見たい。
雪景色のシンジュクを眺めていると、たまらなくそう思えてならなかった。
だから理屈じゃなく、あの人の孤独がわかったんだ。
間一髪ってやつだった。
救急車が来たり、そのあと警察が来たりして大変だったよ。
だけど、ゴローとオレは、とにかくあの年のあの日、あの人の自殺を食い止めることができたのさ。
オレの話はこれで終わりだ。
どうだい、少しは参考になったかい。
それからゴローとあの人はどうなったかって?
知らねえさ。
オレは正月が終わるとともに、おめえらのために新しい仕事を探さにゃならなかったんだ。
それっきり、どっちとも会っちゃいねえ。
だけど、たぶんどうもなりゃしなかったろうさ。
なんでえ、純愛でも期待してたのかい?
おまえ、そんなアマちゃんじゃあ、とてもあの国に働きになんぞ行けねえよ。
だが、おまえだって男なんだ。
腹をくくって、行くんだったら行ってこい。
案外と、夢のひとつやふたつくらい転がっているかもしれねえぜ。
あの女は、とりあえずは死ぬことを思いとどまった。それだけのことだ。
これは、美談でもなけりゃあ、お伽噺でもないんだぜ。
ただ、こことは違う、遠い国のお話さ。
2017.9.1 了
最前から、一人の娘が軒先に佇んでいる。
どんよりと暗い雲のたれこめた、誰にとっても気勢の上がらない日である。雨は降りそうで降らない。
口入屋のあるじ源兵衛は、去年六十の坂を越えた。
以来、こんな天気のときにはきまって、持病の腰痛がひどくなる。
商いもおっくうな気になって、今朝は四ツの鐘を聞いてからやっと表戸を開けた。
娘は、それからほどなくしてやって来たものらしい。
源兵衛が帳づけからふと目を上げると、小さな背中がそこにあったのだ。
客ではなさそうだった。
色あせためいせんの着物の肩と、腰のあたりの線が貧弱だった。
髪はきちんと結ってあるが、飾り物一つない。
草履はすっかり履きつぶして、裸足の踵が地面につきそうなほどである。
娘は車坂のほうを見ていた。
源兵衛が、車坂を上がったこの町で商いを始めてから、かれこれ十五年がすぎた。
あいだに公方さまが一度代わり、大火が一度あり、流行り病で連れあいをなくした。
それ以外には、これといって変わったことのないまま過ごしてきた。
源兵衛一人暮らしていける程度の上がりがあれば充分の、小さな商いを続けている。
昼近く、源兵衛が飯にしようとする頃にも、娘はまだ同じ所にいた。
同じように、車坂のほうを見ていた。
細い肩はぴくりとも動かない。
午後になって、仲町の薬種問屋の番頭がやってきた。
出替わりで中働きの女中を嫁にやるので、かわりを探しているという。先の女中も源兵衛が世話をしたのだが、いいところに縁づいていたのだそうだ。
「表にいるのはどなたですか?」
いつも白い手に薬の匂いをさせている番頭は、表のほうに顎をしゃくった。
「さあ……私は存じませんが」
源兵衛は答え、帳簿を操った。
「お客じゃないのなら、あんなところに立たれていては迷惑でしょう。追っ払ったらどうです」
「別に悪さをするわけではないし、かまわないですよ。娘さんだから、怖がって入ってこられない客もいますまい」
「娘といっても、ちっととうがたっている様子だったが。まあ、器量は悪くなかったな」
番頭はにやりとした。
その日だけでは用が足りないので、番頭は後日を約束して帰っていった。
帰りぎわに、源兵衛は言った。
「あの娘さんに声をかけないで下さいよ。ひょっとするとこっちを向いて、お客になる人かもしれませんからな」
番頭がいなくなると、源兵衛はまた、店先で娘と二人きりになった。
娘は同じ姿勢で同じ方に目をやったままだった。
一度だけ、額のほつれ毛を撫でつけたとき、横顔が見えた。
艶のない頬に、唇には色がない。その唇は、これっきりもう誰とも一言も話すまいと決めたかのように、きっちりと堅く結ばれていた。
待ち人来たらず…か―――――。
車坂を上がってくる人の行き来が多くなった。
そのうち何人かは、立ちん坊の娘に、めずらしげな視線を投げていく。
娘はその誰とも目を合わせない。
客は来ない。源兵衛は居眠りをした。
車坂を登り降りする人々の足音が、ちょうどいい子守歌になる。
元気よく登ってくる者もいれば、ふうふうと辛そうな者もいる。
四年前、源兵衛の店の向かいに、町医者が越して来た。
四十がらみの小男で、二人の子供の手を引き、臨月の女房を連れていた。
ほどなく、その医者は「名医」と呼ばれるようになった。
源兵衛は思う。
腕前がそれほど図抜けているわけではなかろう。商売がうまいのだ。
あの医者は、とにかく自力で車坂を上がってこられる病人しか診てやらない。そのくらいの病人なら、とくに医師がめざましい処置をしなくとも、そのうちに本復するものだ。
坂道がそれを見分けてくれる。
半刻ほどうつらうつらして目を覚ました。
娘はまだ立ち続けていた。
源兵衛はあくびをし、顔を洗いに立った。
七ツを過ぎて、強い雨が降り出した。
源兵衛は帳簿の上に手をおいて、降る雨足をながめた。
急な雨に、医者から帰る患者たちが、軒下から空模様をのぞいているのが見えた。
狭い店のなかに、雨の匂いがたちこめた。
娘は動かない。
軒先から娘の肩に、雨のしずくが落ちる。
薄い着物はすぐにびっしょりと濡れ、娘の肩に張りついた。やせた身体の線がいっそうはっきりと見える。
しばらくすると、顎の先からも雨がしたたり始めた。
暮六ツの鐘をきいて、源兵衛はようやく娘に声をかけた。
娘はゆっくりと振り向いた。
雨で顔が濡れている。目の下にはうっすらとくまが浮かんでいた。
「申し訳ないんだが、店を閉めたいのですよ」
娘は軽く目を見開いた。
あまり長いこと唇を結んでいたので、すぐには言葉が出ないかのようで、じっと源兵衛を見つめた。
それから「あいすみません」と、頭を下げた。
着物の裾にまで雨がしみている。真っ白な爪先が泥にまみれている。
「となたかをお待ちだったんですな」
娘は目を上げ、源兵衛を見た。
「気がすみましたか」
源兵衛は訊いた。
かたくなだった娘の唇が、初めてほころんだ。
「…はい。気がすみました」
「それなら中で暖まっておいでなさい」
娘は首を横に振った。
「じゃあ、せめて傘をお持ちなさい」
屋号の入った番傘を差し出すと、娘は少しためらってから受け取り、もう一度深くに頭を下げると、雨のなかに出ていった。
貸した傘は、翌日になって戻ってきた。
このあたりを仕切っている、鹿造という岡っ引きが持ってきたのだった。
「この先の長屋で夜鷹が首をくくってね。そこで見つけた」
源兵衛は傘を受け取った。
娘の顔がちらりとよぎった。
鹿造はあがりまちに腰をおろし、一人ごとのように言った。
「故郷(くに)から男と二人、手に手をとって江戸に出てきたはいいが、男はどうにもうだつがあがらねえ。このままじゃあ二人とも駄目になるからと、ひとはた揚げたら必ず迎えに来ると約束して、男は出ていった。それから十年だ。迎えに来ると約束したその期限が、昨日だった」
源兵衛の目に、車坂を見つめる娘の顔が浮かんだ。
「待つだけ待ったら気がすむだろうと思いましたんですがね……。もっと強く引き止めてやればよかった……」
「いや、それでも駄目だったろう」
鹿造は低く言った。
源兵衛は冷たい傘の柄を握ってつぶやいた。
「男はたいてい戻ってはこないものです」
「いや、そうじゃねえ。戻ってきたんだ」
鹿造は言った。
「男は昨日の夜明け前に戻ってきた。凶状持ちになってな。女は男を刺した。刺してから、男をそこに残して、この軒先でずっと待っていたんだ」
源兵衛は傘を置き、軒先に目をやった。
―――もう、すみました―――
娘はそう言った。
男が死に、娘の夢も死んだ。
夢がもう車坂を上がってこないことを確かめるために、娘はここで、じっと待っていたのだ。
車坂には、今日も雨が降っている。
2017.9.7 了
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