雪月桜 2017-06-18 01:44:33 |
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(それでも、今まで捕まらなかった奴だしな。生かして捕まえるのは諦めるしかないか)
卯月は左手のナイフを素早く投げ、男の右脇腹を狙いにかかる。
別に本気で脇腹を狙うつもりはなく、卯月の本来の狙いはその時に生まれる隙なのだが、この程度の攻撃がかわせないならこの男の実力も対したものではないだろう。
すぐに現れるはずの隙を狙い、卯月は右手の銃のグリップを握る。
案の定男は腰を捻る事でナイフを避け、僅かな隙を見せた。
狙い道理の動きを見せる男へ、卯月は男の頭部に狙いを定め引き金を引く。
路地に反響する乾いた銃声。
そして卯月の瞳に写ったのは、先ほどから半歩横にずれた位置に立ち、涼しい顔をして煙草をふかす優男だった。
「質問の最中に攻撃とか、マナーがなってないな」
男はナイフはもちろん銃弾すら掠めた様子がない。
それどころ緊張感もなく、卯月に微笑を向けている。
(こいつ、慣れすぎだろ…)
男の動きは柔軟で、掴みどころがない。
普通の賞金首のほとんどは、卯月の不意うちに無傷はない。
酷ければその場で命はなく、運が良くても軽傷がほとんどだ。
それは日々の訓練と経験によるもので、卯月も自身の腕を信じてきた。
だがこの男はその攻撃をすべて見切り、最低限の動きのみで回避したようだ。
その動きは襲われ慣れた者が体で覚える動き。
卯月とは別の経験による動きと呼べるだろう。
「…っ、あんたが教えてくれるなら、そのマナーとやら教わってもいいけど?」
軽口を叩く卯月の背中には一筋の汗が流れていく。
「別にいいけど、俺の授業料は高いよ」
微笑を浮かべ卯月を見つめる男の表情は、穏やかな笑みの裏に深い闇が見えた。
もう不意うちは通用しない。
それにこの男、卯月の予想していた以上に強い。
「どうしたの?来ないなら俺から教えにいこうか?」
残り僅かになった煙草を地面に捨て踏み消すと、男は冷笑とともに素早く卯月に近づいた。
強すぎる警戒心は時に反応を鈍らせる。
僅かな隙を与えてしまった卯月は、男の持つナイフを避けきれなかった。
本来の狙いであろう、首の頸動脈への攻撃だけは避けられたが、代わりに右肩を切りつけられてしまったようだ。
焼け付くような鋭い痛みは、それが軽傷ではない証拠だろう。
「っ、…ぅ」
肩の痛みは耐えられるが右手に持つ銃に力が入らない。
左でも使えない事はないが、右手より照準が悪くなる。
先ほどの狙いすらも避けられたというのに、左手で倒せるとは思えない。
二撃目は何とか避けられたが、これでは卯月に勝ち目はないと言えるだろう。
(逃げるか?それだけなら出来そうだな…)
背後に僅かな視線をやり逃走経路を確認すると、路地を塞ぐ物は特にない。
上着の内側に隠していたナイフを一本左手に持ち、卯月は隙を狙う。
目の前の男は退屈そうな瞳で卯月を見つめていた。
「君も他の人と同じだね。もう飽きたよ」
そんな男を睨みつけ、茅人は苦笑する。
「飽きたなら見逃してくれないか?俺もそろそろ帰りたいんだ」
近距離で狙うのは男がナイフを持つ右手。
殺傷力は低いが武器を持つ手を攻撃されれば、少しの隙は出来るはずだ。
「逃がしたら君、また俺を狙いにくるよね。それなら、今終わらせた方が楽だと思うんだ。だから悪いけど、逃がさないよ」
男が持つのは、卯月が始めに投げたナイフだけ。
ナイフのサイズは十センチ程で、刃の長さも六センチと小柄。
それは今卯月の左手にあるものと変わらないが、男と卯月では目的が違う。
男は卯月の命を狙っているが、卯月の方はこの男から逃げ切れれば多少怪我を負っても問題ない。
「それなら、無理にでも逃げる」
その一言を発したと同時に卯月は、男に立ち向かって行く。
その動きに男は僅かな動揺を見せる。
男の反応は当然の事だろう。
なぜなら卯月の言葉は撤退を意味しており、逃走経路は二カ所しかない。
普通この状態で選ぶのは、卯月にもっとも近い逃走経路だろう。
少なくとも男を倒さなくてはならない通路などを選ぶ事はしない。
だが卯月にとってそれこそが突破口だった。
卯月の思考を読むくらいの男なら、それなりに賢いはずだ。
ならば通常の逃げ方をしても、背後から狙われて終わりだろう。
それに気づいた以上、卯月が生き抜くには賭に出るしかない。
正直、賭に勝つ可能性は五割もなかった。
男が卯月の行動を読み間違えたとしても、それに対しての反応速度がどれほどのものかは分からない。
卯月が男の手を切りつけられれば、逃げきれるとは思うが…。
急接近に成功した卯月は、その手に持つナイフで男の右手を容赦なく切りつけた。
(勝ったな、あとはこのまま逃げるだけだ)
ナイフの刃には、男の血液が伝うように垂れている。
そのまま速度を落とさず通路を抜けようとした卯月の背後から、乾いた発砲音が聞こえた。
卯月の銃はすでにホルスターに収まっているし、男の手にあったのはナイフだけだったはずだ。
そのナイフを持つ右手もたった今卯月に切りつけられ、使いものにならなくなった。
左ふくらはぎに感じる激しい痛みと、その痛みの中心から広がる赤い血液が背後から銃弾に撃ち抜かれた事を証明している。
「ぃ…っ、…そんな物持ってるなんて聞いてなかったな」
おそらく卯月はもう助からないだろう。
左足は力が入らないし、右肩から流れた血液のせいで意識も朧気になっている。
ゆっくりと男の方を見ると、男の左手には艶の少ない闇色の拳銃が握られていた。
銃のサイズは卯月の物と変わらず、それほど重いようには見えない。
「言ってなかったからね。それに出す必要ないと思ってたから」
たやすく拳銃を扱うその仕草は、ナイフを扱っていた右手よりも軽い。
おそらく左利きだったのだろう。
「俺を相手にするのに、利き手は必要ないと思ってたって事かよ」
嫌みを含め発する口も、もうまもなく沈黙する事になるだろう。
そんな卯月を見おろしながら、男は楽しそうに微笑んだ。
「うん、そう思ってた。でも君が予期せぬ動きをして、僕の右手を傷つけた時、今回の子は違うなって分かって嬉しかったよ」
卯月に切られた男の右手からは、いまだに深く赤い血が地面に滴り落ちていた。
その痛みを気にもせず、男は卯月に笑みを向ける。
「君みたいな人は珍しいね」
恐怖に駆られ目線を逸らしたいと卯月は思った。
銃を突きつけてくる男の左手にぶれはなく、優しく囁く声はどこか冷めていた。
「でも、残念ながら君に僕は狩れないよ。それじゃあ、おやすみ」
男の指先が、引き金に触れた。
どうせここで終わるならせめて俺をしとめた奴の顔を最後まで見ていたい。
男の指先が引き金を絞り、次の瞬間銃声が響いた。
乾いた音と銃口から香る、火薬の香り。
だが、卯月の体にさらなる痛みはなかった。
訳がわからず辺りを見回すと、卯月の右隣後方に熱を帯びた銃弾が転がっていた。
おそらくわざと外したのだろう。
「…何のつもりだ、俺の息の根を止めるんじゃなかったのか?」
意味のわからない男の行動に、卯月は苛立ちを見せる。
威嚇でもするかのような卯月の態度を見つめ、男は先ほどと同じポケットから金属製の首輪のようなリングを取り出した。
「動いたら、今度こそ終わりにするから」
卯月の耳元でそう囁くと、男はそのリングを卯月の首につける。
「痛っ…、なに…?」
(何だこれ、首輪か?しかもなんか一瞬痛みがあったぞ)
リングを装着し終える瞬間、項のあたりに針に刺されたような鋭い痛みがあった。
だがそれは一瞬の事で、どうやら針ではないようだ。
訝しげにリングに触れる卯月に、男はリングについての簡単な説明をし始めた。
「その首輪は軍の科学者が特製に作った拘束具。つけられた者が強引に外そうとしたら、高圧電流で黒こげになるよ。疑うなら試してくれても良いけど…」
淡々と告げる男に対して、卯月は思考が停止しそうになる。
男の瞳に嘘はなさそうだ。
つまりこの首輪を卯月の意志で外すのは、今のところ不可能で、解除するには男から情報を聞き出すしかない。
これは、もしかすると命を落とすより、酷い状況なのではないだろうか。
「っ、……し…ろ」
「何?何かわからないところでもあった?」
卯月の呻くような呟きを聞きながら、男は傷つけられた右手に手際よく包帯を巻きながら聞き返す。
その手際から、男の怪我に対しての慣れ具合が見て取れる。
だが今の卯月にとっては男の手際の良さも、自身の怪我の痛みや流れ出る血液も、目の前の男に逆らえる立場じゃない事もどうでもよかった。
大事なのは首輪を解除する方法だけと、卯月は焦りを表すように怒鳴る。
「教えろって言ってんだよ!こんな危ない物…、さっさと外せ!」
強引に外す事の危険性を理解した卯月は、首輪に触れていた手を離し、かわりに男に向かって威嚇するように聞く。
だがそんな卯月の威嚇も、男の瞳には子猫の威嚇にしか写らない。
「せっかくつけてあげたのに、外したらもったいないでしょう?よく似合ってるよ子猫ちゃん。でも躾は始めが肝心だよね」
男は楽しげに言葉を綴りながら、シャツの左ポケットからだした小さな機械を取り出した。
それを左手で持つと、機械についていた小さなスイッチらしき物を、左中指で軽く押した。
「っぁあぁゃ、ゃめっ、ぅぁああぁ!!」
男がスイッチに触れた瞬間、卯月の首につけられたリングに、高圧な電気が流れた。
男が電気を流したのは僅か五秒前後。
だが、それだけで主導権がどちらにあるか思い知らされるには、はっきりと理解出来た。
右肩と左足の怪我だけでも重傷と言える卯月の身体は、リングから身体へと流された電流により、今にも意識を手放しそうだ。
そんな卯月の左手に、男が一枚のメモ用紙を手渡す。
紙には数行の文章が書かれているようだが、卯月にそれを読む気力はなかった。
「あれ?生きてる?おーい、俺、死体の処理は好きじゃないんだけど。というか、せっかく拾ったんだから、殺しちゃったら目覚めが悪いんだけど」
飄々とした声の男に怒りを覚えるが、指先も動かせない卯月に話す力などあるはずもない。
(ムカつく、でも…身体、動かねぇ…俺、もう…駄目か、も)
内心の怒りも、表す術がなければ伝えようがない。
怒りは死の縁に近づくにつれ、弱音へと色を変えた。
倒れ、瞳を閉ざした卯月を見つめ、男は自身の行いに後悔のため息をつく。
「ちょっっと、痛めつけすぎたかな…。俺が運ぶ、しかないよな。どうせ運ぶなら、綺麗なお姉さんがよかったのに」
どうやら男の後悔の理由は『男の怪我人なんて荷物運びたくなかった』という事らしい。
意識を失った卯月を左手で担ぎあげ、男が独り言のように自身の名を口にした。
「もう寝ちゃったみたいだけど、一応教えてあげるよ。江、秋森江(アキモリコウ)が俺の名前。でも、後でまた自己紹介させられるんだろうな、面倒くさい」
怪我をした右手で拾い上げた紙切れは、先ほど卯月に手渡した物だ。
個人情報をタダで漏らすほど、江は甘くない。
血溜まりから流れる錆鉄の香りと、空気に混ざり姿を消した硝煙の香り。
銃弾等の回収可能な物は、卯月を担ぐ時に江が回収してある。
争いがあった事は発覚するだろうが、そのうちの一人が江であるとは気づかれないだろう。
江があの喫茶店の常連なのには理由がある。
あの店の裏路地には監視カメラがなく、その路地を囲う建築物も路地を覗く窓はほとんどない。
そして、江は卯月との交戦の際、すべての窓を確認しながら戦っていた。
まぁ、その油断から右手を切りつけられたのだが、卯月を飼い慣らせば今後の戦いが楽になるだろう。
「良い拾い物があったな」
路地裏に背を向けると、江は足早に監視カメラを避けながら喫茶店の店内に戻っていく。
あとに残るのは血溜まりと硝煙香る、秋の狭い青空だけだった。
「………っ、…ここ、どこ、だ…?」
微かに意識を取り戻した卯月の瞳には、知らない景色が写る。
見たところ室内のようだが、ライトブラウンの木製の壁や天井、床に敷かれた大きめの白いラグマット、その側に置かれた黒い布製の一人掛けソファとガラステーブル、どれも卯月の知らない物ばかりだ。
「っ、…痛っ」
身体を起こそうとすると、右肩と左足に鋭い痛みが走る。
(あぁ、そうか。俺、あの男と戦って、返り討ちにあったんだったな)
男から逃げようとして、失敗して足を撃たれて、それから変な首輪みたいなリングを首につけられて、そのあと……よく思い出せない。
卯月は記憶を辿るよう、意識を取り戻していく。
「何か凄い痛い目にあった気はするんだけど、よくわかんないな…」
部屋の中に窓はなく、出入口は斜め右側端にあるドア一つ。
状況の理解が出来ない卯月は、左手で自身の首に触れてみる。
触れた指先に伝わったのは暖かい肌の温もりだけではなく、体温の移った金属質の堅い感触もあり、先ほどの出来事が夢ではない事を思い知らせた。
(そうだ俺、あのあと男に怒鳴って、で、男が何かのスイッチを押したんだ。それで体が痺れて痛くて……そのあと意識を失った、のか?)
ほとんどの記憶を取り戻し、これからどうすればいいのかと悩んでいると、突然部屋のドアが開く音が聞こえる。
「やっと起きたみたいだね。おはよう子猫ちゃん」
部屋の中に入ってきたのは、皮肉にも卯月をさんざん痛めつけてくれた秋森江だった。
「俺は子猫じゃねぇ!つうか、何で俺、生きてるんだよ」
怪我をした獣のような瞳で威嚇する卯月に、江はあからさまに面倒くさそうな顔をする。
江の手には何かの飲み薬とミネラルウォーターがあり、それらをテーブルに乗せながらため息をつく。
「命の恩人に向かって、酷い言いようだな。君がそういう態度なら、俺にも考えがあるんだよ?」
江がロングパンツの**ットから取り出した小物に、卯月は顔色を悪くした。
江の左手に収まるのは、先ほど江が触れていたスイッチのついた小物。
おそらく卯月の首についたリングの、コントローラーだろう。
「っ、やめろ…」
「やめて下さいだろ?」
卯月の震える声に、江は楽しげに微笑んで見せた。
苛立ちを覚えないかと言われれば嘘になる。
だがあの痛みと痺れに挑むほど、卯月とて愚かではない。
「……やめてください」
屈辱を覚えながら頭を下げる卯月に、江は嬉しそうに笑った。
「うん、素直な子は好きだよ。ほら、痛み止めと化膿止めの薬。水も多めに飲んで」
そう言って体を起こし休んでいる卯月のベッドの上に、江はそっと薬とミネラルウォーターのボトルを置く。
優しく微笑む江の表情に、先ほどの冷めた空気はない。
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