_ 2017-05-30 07:25:29 |
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マンションに入ってるコンビニで流れている音楽が、常にS.E.N.S. だからのんびりしてしまう。
昔はドラマの挿入歌によく使われていたけれど、最近はあまり聞かなくなったような気がする。
たしかに、眠りにつくのに丁度いい旋律かもしれない。
車で出かける時によくかかっていたのだけど、揺られるリズムと相まって、度々眠りに落ちていたなぁ。
優しい青色に揺られるような、穏やかな眠りにつけますよう。
意地を張るとかでなく、それまで堪えてきたものに針を刺され空気を抜かれてしまうと、自分でもどうしたらいいのか、どうして欲しいのか分からなくなるものだ。
虫の知らせとでも言うのか、相方のことをやたら振り返る一日だったなと思っていたら、これまで我慢していたものをいとも容易く蹴破られてしまった。
暫く気持ちは浮き上がりそうにないけれど、ここでぼんやりと文字を綴っているほうが落ち着きそう。
元々人と適切に付き合うのが下手くそな人間なもので、会社でも気分が滅入っているままだったから、はー駄目だなぁと。
相方は切り替えがやたらと早い人で、きっと私もそうだと思っているんだろうな。過去の傷を冗談に変えて飛ばしてくるのがあまりに性急だし、まだそんなことで落ち込んでいるのかと呆れられることもままある。
バランスが難しい
会社では、女性特有のものなのか、男性にもこういう面はあるのか分からないけれど、あまりに人を評価する会話が多すぎる。
職場の人は勿論のこと、街で見かけた人がどうとか、宅配便のお兄さんがどうとか。
当人が傷を負ったわけじゃないのだから、そんなのは自由にさせておけばいいのにというようなことも、”生理的に受け付けない”という謎の理由で話題に上がる。
そして、そう思っている自分にも罪悪感が湧いてしまってもう悪循環というか。
あとは、共有できないと分かると突き放されてしまうこと。
好きな音楽や作品の話であれば、知らなくても教え合うことができるのに、バラエティ番組の話となったらもう見ていなければ用は無いとなってしまう。口では伝えきれない、番組内での細かなニュアンスなどもあるのだろうけど、ちょっとさみしい。私がリアクションに乏しいのが最も大きな原因だろうけれど
仕事において必要な最低限のコミュニケーションが取れているから良いとは思っているけれど、そう割り切るには少し時間がかかりそうだ。
『Nのために』を見返していて、”究極の愛とは罪の共有だ”という台詞について少し考えたのだけど、結局、究極の愛ってなんだよわかんねーわ。となってから気が付いた。
あれは究極の愛を形容したのでなく、罪の共有を究極の愛だと形容したのだなと。
そう考えると、これは時間に限りのあるひとつの作品だから仕方がないとして、それを究極の間と形容できる物の答え合わせって死ぬ間際にしか分からんのだなと。
とは言え、定期的にその時点での自分にとってのそれは何だったのかと振り返るのも楽しそうだ。
では、今の段階では……と考えてみたけれど、別に究極と言えるほどの物は無いなと。
どれも突出して輝いているものでも、心に彫りつけるものでもなく、どれも等しくなだらかな”思い出”だ。
それぞれで輝き、心に彫りつけられたものはあれど、首を出している物は特にないみたい。
そもそも、そんなものに出会っていたら次の恋なんて出来ないような気がした。
そうか、それが人であるからどうしても感情が入ってしまったけれど、作品を好きだ嫌いだと話すのとある意味変わりはないのか……。
個を貫くか、そこへ溶け込むかのどちらかを選べればいいのだけど。我ながら難しい性格をしていると思う……
自分を維持しながら他と触れ合うというのは本当に繊細な作業だなといつも感じる。でも、少し思考が落ち着いたような気がします。ありがとう
客観的にアドバイスをするのはできるのに、客観的に視るのはいつまで経っても難しい。
大人になりきれないのなら無邪気で在ればいいのに、分からない振りをするのもなかなかしんどくなってしまうものだし。
クーリッシュ、久しぶりに聞いたな。一時期ハマっていた
カルピス味なんてあるのか。最近はカルピス味ブームなんだろうか。夏休みの風物詩?
的を射た知識に触れると、特別な絵画や本などの芸術作品に出会った時のような爽快感がある。
ただ、そこへ行きつくまでに周りをそぎ落とす作業で眠くなってしまって、未だ身につかないまま社会へ出てしまったけれど。
二人の教養に触れるたびに、感心すると同時に自分だけの教科書を読んでいるようであたたかい気持ちになります。
マクドナルドのシェイクだ
そう思えば、カルピス味というのはしっかりと主張しつつ何にでも合ういい素材なのかも。
パピコも割と好きだった
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