One Day 2017-01-28 14:34:16 |
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序曲
それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私たちは肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけている地平線から、反対に何物かが生まれて来つつあるかのように……。
そんな日のある午後、(それはもう秋近い日だった)私たちはお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木陰に寝そべって果実を齧じっていた。砂のような雲が空の上をさらさらと流れていた。そのとき不意に、どこからともなく風が立った。私たちの頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それとほとんど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私たちは耳にした。それは私たちがそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架とともに、倒れた音らしかった。すぐ立ち上がって行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
****、*******。
ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠れているお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上がって行った。まだよく乾いていなかったカンバスは、その間に、一めんに草の葉をこびりつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を除りにくそうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」
お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。
「もう二、三日したらお父様がいらっしゃるわ」
ある朝のこと、私たちが森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。私はなんだか不満そうに黙っていた。するとお前は、そういう私の方を見ながら、すこし嗄れたような声で再び口をきいた。
「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」
私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私たちの頭上の梢が何んとはなしにざわめいているのに気を奪られているような様子をしていた。
「お父様がなかなか私を離してくださらないわ」
私はとうとう焦れったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。
「じゃあ、僕たちはもうこれでお別れだと云うのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」
そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑んで見せようとした。ああ、そのときのお前の顔色の、そしてその脣の色までも、何んと蒼ざめていたことったら!
「どうしてこんなに変わっちゃったんだろうなあ。あんなに私に何もかも任せ切っていたように見えたのに……」と私は考えあぐねたような恰好で、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径を、お前をすこし先にやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。突然、私の頭の中にこんな考えが閃いた。お前はこの夏、偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だったように、いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、素直に身を任せ切っているのではないだろうか?……「節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許に今のままのお前でいるがいい……」そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。お前はその手を私に取られるがままにさせていた。それから私たちはそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私たちの足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生の羊歯などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、斑らに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちにほとんどあるかないかくらいになっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。
それから二三日した或る夕方、私は食堂で、お前がお前を迎えに来た父と食事を共にしているのを見出した。お前は私の方にぎごちなさそうに背中を向けていた。父の側にいることがお前に殆んど無意識的に取らせているにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。
「たとい私がその名を呼んだにしたって……」と私は一人でつぶやいた。「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでもう私の呼んだものではないかのように……」
その晩、私は一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえって来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしていた。山百合が匂っていた。私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしているのをぼんやりと見つめていた。そのうちすこし霧がかかって来たようだった。それを恐れでもするかのように、窓のあかりは一つびとつ消えて行った。そしてとうとうホテル中がすっかり真っ暗になったかと思うと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。そして薔薇色ばらいろの寝衣ねまきらしいものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にじっと凭よりかかり出した。それはお前だった。……
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