白兎 2017-01-16 10:58:52 |
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例え運命の相手だったとしてもその人に恋人とか妻とかいたならうちは恋愛対象として好きにならない自信あるな、好きな人がいる人は気付けば好きにならんかな多分
自己論
私はその時の状況、場面、活動様式に応じて様々なものになる。それが唯一可能なものは鏡と人間である。鏡は対面したものを制限することなくそっくりそのまま映し出すことができる。鏡は特定の色を持たないのだ。人も同じでその時の環境によって臨機応変に対応できる人もいればできない人もいるし普段の自分と変わる人もいれば自然体の人もいる。つまり、人は何者にでもなれる可能性を無限大に持っていて制約はないのだ。
だが、私は元々誰とも特定できない者である。つまり、何者でもない者なのだ。だからこそ、その都度の状況などに対応して何者かになることができる。鏡は特定の色を持たない。だからこそ、何らかの色を映し出すことができるのだ。
私は常に何者かであると同時に無人なのだ。私は無人と何者かの二重性において存在している。無人的=本来的私であり、それを例えるなら鏡、素の自分となる。何者か=非本来的私であり、それを例えるなら映像、仮面になる。これは役者と役柄の関係と似ている。
1,無人は何者かとして生活世界に存在する。2,無人は無人として生活世界に存在しない。
1,内在→無人の存在様式(有り方)
2,超越→内在的超越(フッサール)となる。
なので、無人は生活世界での何者かの生死とはなんの関係もない。無人としての私は生死を超越している。=不生不滅になる。
無人同士は無差別平等である。無人とはいかなる属性も持たない、取り替え不能のかけがえのないものである。何者かはなんらかの属性を持つのである。ということは、同じ属性に持った者によって取り替え可能なのだ。例えば、芸術である歌や絵画などはその人でないと思い付かなかったり描けないようなものが沢山ある。だが、職業などのサラリーマンや店員、スタッフなどはなろうと思えば誰にでもなれるのだ。資格さえあれば就ける仕事もある。
無人は役者。何者かは役柄。生活世界は舞台。そして、ネットワークはシナリオと例えることができる。
人には二通りの生き方がある。一つ目は、自分が本来無人であることに気付くことなく自分を何者かと同一視して生きる非本来的生き方。二つ目は、自分が本来無人であることを自覚して生きる本来的生き方。これに気付くには自分が本来無人であることに身を持って体験することが重要だ。
何者かという仮面がはがれ落ちる状況に身を置くということは何者かであることが無意味になる状況である。例えば、親しい誰かの死に直面する。自分、もしくは相手に愛を与えたり与えてもらったりするなど。素顔と素顔の極限的交わりによってこの愛においては自他が何者であるかは不問になる。つまり、本気で相手と関わろうとすることによって相手が誰であるかは関係なくなるということだ。
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