YUKI 2016-11-19 22:11:18 |
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その仕草に視線を逸らす茅人に、汐は静かに息を飲む。
「…その場合、報酬を渡すのは少し、…いえ、結構遅くなると思うわ」
茅人を見つめた汐の瞳に、苦みのある色が薄く滲んだ。
そこまで思い詰める理由は分からないが、とりあえず了承してもらえたようで茅人は安堵した。
「それで良いです。では、あとは期間と約束事ですが、僕の方は昨夜の条件と大学やバイトを優先する事、それ以外は特に何もありません」
「申し訳ありません。そろそろ仕事に戻らないと」
カウンターの傍らにある時計に視線を向け、汐の言葉を遮るように茅人は囁く。
その言葉に汐も自身の腕時計に視線を向け、茅人を十分以上も拘束していた事にようやく気づいた。
さすがに仕事中の茅人を、長々と拘束するのは申し訳ない。
小さくため息をこぼし、汐は白紙のメモ用紙とペンを取り出す。
「いえ、私の方こそ気づかなくてごめんなさい。あとの事はこちらで纏めておくから」
「よろしくお願いします」
苦笑を浮かべる汐に、茅人は小さく会釈し、その場を後にした。
カウンターに戻る茅人を出迎えたのは、使用済みの食器達と水城の楽しげな微笑みだった。
「仕事抜けて悪かったな。忙しかったか?」
カウンターに入るなり食器を洗い始める茅人に、水城は横に小さく首を振る。
「いや、今日は店も混んでいないし気にするなよ」
前菜の盛り合わせを作りながら話す水城の声は、茅人の耳に穏やかに届く。
茅人が思うほど、水城は気にしていないように思える。
(こいつ、結構優しい奴だよな)
水城の優しさに内心照れくささを抱き、茅人は改めて友人との出会いに感謝した。
そんな事を考え食器を洗い終えた茅人と、盛り合わせを完成させた水城が視線を交わしたのは、ほぼ同時だった。
「…お前が聞かれたくないなら聞かないけど、俺にできる事があったら言えよ」
先に発した水城の声は、店内の物音にかき消されそうなほど小さい。
それが故意なのかそうでないのかは分からないが、茅人には届いていた。
その儚く優しい水城の言葉は、茅人の返事を望んでいないのかもしれない。
茅人にはそう聞こえたし、それに見合うほどの言葉も浮かばなかった。
だが、それでも茅人は言葉を紡ぐ。
「ありがとう、心配してくれて。今はまだ上手く話せないけど、話せるようになったら話すよ」
水城から届いた声の音量より、僅かに小さい声。
本当は水城に届く声で伝えるべきなのだろう。
それでも小さくなった声は水城への感謝と、茅一自身への決意が混ざったからかもしれない。
そんな自身の気持ちに気づき、僅かに俯く茅人の隣で、水城は僅かに驚き小さく笑った。
おそらく茅人の声が届いたのだろう。
「そうか…待ってるからな」
羞恥により視線を逸らす茅人に、水城は一言添えてカウンターを出た。
そんな二人の様子を遠くから見つめる者がいた。
メモ用紙に必要事項を書き終えた指先を休め、残り少ない柚子ソーダで喉を潤し、見つめる先には茅人。
本来なら飲み物を新たに注文するついでにメモを渡せば済む話なのだが、なぜかそれをする事に戸惑いが生まれる。
(別に、私と茅人君は『仮の恋人』なのだから気にする事はないはずなのに)
汐にとって茅人との関係は、小説のためでしかない。
茅人もそれを分かっているから特に変わった様子はないし、汐もそれを良しとしていた。
それなのに僅かに揺れる靄のような心は、仮とはいえ恋人として何か惹かれているせいなのだろうか。
この感情は果たして小説に役立つのだろうか。
そんな靄を流すよう柚子ソーダを飲み干す汐の背後に、一人の男性が声をかけた。
「別に、悩みと言うほどでもないわ。それに話したい事があるのは、貴方の方でしょう?」
汐はドリンクのメニュー表を受け取り、苦笑を浮かべながら水城の気持ちを探る。
汐は水城がこの店でバイトを始めた頃からのつきあいだ。
正確に言えば、汐が常連として通っている店に水城が勤め始めたのだが、それから一年が過ぎ、今では会話に花を咲かせられる程度には親しくなった。
そしてそれと同じく、お互いの性格等も少しは理解している関係でもある。
水城は、決して優しいだけの人ではない。
優しく場の空気も読めるが、知的な狡猾さもあるのだ。
そのため汐は水城と言葉を交わす度に、隙を見せないよう常に気をつけている。
不意に水城が距離を詰めた。
「茅人とどんな話をしていたんです?」
微かに息遣いがわかる距離からの囁きに、汐は内心穏やかでいられない。
だが、それを露わにするほど汐も愚かではなかった。
「別に、少し悩みを打ち明けただけよ」
「俺には話せないよう悩みですか?」
後ろに微かに腰を引き、優しく微笑み答える汐に、水城も笑みを崩さずまた距離を詰めていく。
二人の間にはテーブルがあり、これ以上今の水城が距離を詰める事は不可能だろう。
しかし汐の方も、これ以上腰を引くのは不自然と言える。
「嫉妬してるの?」
「そうだ、と言ったらどうします?」
汐のからかうような言葉に、水城は白々しい嘘で返す。
数秒の間を置き、汐は改めて聞き直す。
「下手な嘘ね」
呆れたように視線を落とす汐から離れ、水城は汐の隣に歩みを進めた。
「申し訳ありません」
「それで、なぜそんな事を聞きたいのかしら」
汐の言葉を否定しない水城のわざとらしい謝罪に、少し汐は気分を害したが、汐は話を進めるよう促す。
「俺は、俺の友人をあまり困らせないでほしいだけです」
水城もそんな汐の苛立ちに気づき、一言だけ添えその場を後にした。
『水城の友人』とは多分、茅人の事だろう。
水城なりの思いは、汐に苦く響いた。
水城がカウンターに戻ると、茅人がカウンター席の女性客と談笑をしていた。
「楽しそうですね、何の話ですか?」
それとなく会話に加わる水城に、茅人がかい摘んで内容を語る。
「恋人が出来たらどんなデートをしたいかって話をしてたんだよ」
茅人の言葉に、女性客は笑顔で肯定した。
水城がさらに細かく話を聞くと、女性客は茅人の何気ない質問に答えた形らしく、いくつかのプランを告げていた最中のようだ。
一通り話し終えた女性客はそれなりに会話を楽しめたようで、十数分後店を後にした。
水城は女性客を店の出入口まで見送り、茅人はカウンターでグラス等を洗っている。
洗い物を終え、食器磨きを始める茅人は不意に視線を感じた。
殺意や嫌悪とは違うが、決して優しさの感じない視線。
茅人の視線がグラスから外れる瞬間、その違和感は姿を消した。
(何だ、今の感じ…まさか)
茅人の視線が汐を捉えると、汐はさりげなく顔を逸らす。
汐のテーブルにあるグラスは空だ。
その様子から、ドリンクの注文をするつもりだったのかもしれない。
だが、先ほど感じた視線は汐のいる位置からの可能性が高いし、目があった瞬間顔を逸らした気もする。
確かめてみる価値はあるだろう。
茅人が注文伝票とメニュー表を手にしたとき、ちょうど水城が店内に戻ってきた。
茅人が手招きをすると、水城はすぐにカウンターに近づいた。
「少しカウンター頼んで良いか」
茅人の言葉に水城は疑問を感じる。
しかし茅人の視線が汐へ向いている事に気づき、水城は小さく頷いた。
「いいけど、無理するなよ」
「わかってるよ」
水城の優しさに茅人は苦笑し、メニューと伝票を手にカウンターから出る。
茅人が汐のいるテーブルに近づくと、汐はメモ用紙を茅人に差し出した。
書かれていたのは、茅人が提示した報酬と『本気の恋愛にならない事、本心から相手を恋愛対象に見ない事、期間の延長はしない』という、いくつかの約束。
そして三ヶ月という期間が書かれ、最後に汐の了承するサインと茅人の了承するサインを書く空間が残されていた。
汐は同じ内容のメモ用紙を二枚書いていたらしく、一枚は茅人の物のようだ。
「ここまでする必要があるんですか?」
「念の為よ」
茅人の疑問に、汐はメニューを受け取りながら答える。
手早くサインをしながら茅人は、先ほどの視線について問いただす。
「あの、さっき汐さん僕のこと見てませんでしたか?」
その言葉に汐の肩が揺れる。
言葉こそ発さないが、その仕草から否定するのは無理があるだろう。
「特に意味はないわ」
汐も否定出来ないと思い、素直に肯定した。
「そうですか。忠告しておきますが、よけいな嫉妬はやめてくださいね」
茅人の言葉に汐は反論を投げかける。
「恋愛を知る上で嫉妬心は必要だと思うわ。小説の資料として必要なものよ」
「嫉妬心は仮の恋人に抱くべき感情ではありません。どうしても嫉妬心を学びたいならば、他の方を対象に学んでください」
憤りを滲ませ咬みつく汐に、茅人は冷たい言葉で返す。
茅人は自身の言葉に間違いを感じていない。
仮の恋人は、あくまで恋人のように過ごす関係であり、感情を揺らす本気の恋愛とは違う。
茅人から見た汐は、どこかそのあたりを勘違いしている気がした。
「そうね、私が間違っていたみたいね。ごめんなさい」
「わかってくれたらそれでいいです」
汐の謝罪に茅人は安堵した。
「ねぇ、こんな事を言ったら迷惑かもしれないけど…次のお休み、用事とかあるのかしら」
汐の言葉はどこか不安そうだ。
茅人の怒気の含んだ声におびえているのかもしれない。
茅人自身、汐を怖がらせるつもりではなかったのだが、少し言い過ぎただろうか。
汐の質問に茅人は優しい声で答える。
「特に予定はありませんが、どうしました?」
「デートしたいと思って。ほら、店の中だけでは限界があるじゃない?だから…」
汐の提案に茅人は少し考えを巡らす。
だが数秒後あっさりと茅人は承諾した。
「わかりました。では、朝の十一時、この店の入り口の前でいいですか?」
店の外で客に会うのはどうかと思ったが、茅人の店は一般的な店であり、汐と外で会うことに疚しさはない。
ならば何も問題はないはずだ。
「わかったわ。それじゃ、日曜日、というかまた明日が正しいわね」
「はい、また明日十一時に店の前で」
汐はいそいそと帰り仕度を始め、茅人は会計用レジに向かう。
会計を済まし終えた汐を店の外まで送り、茅人は店内に戻った。
(汐さん、変だったな…)
茅人は先ほど何か思い詰めていた汐を思い、すぐに頭を振る。
茅人が今汐の事を思っても仕方がないし、気のせいかもしれない。
店に入り時計に視線を向けると、仕事が終わるまであと一時間を切っていた。
「よし、働くか」
店内の音に茅人は静かに混ざり重なっていく。
「少し、早く着いたな」
現在、茅人の腕時計が示す時刻は十時五十分。
昨晩の約束を守るため、茅人は店の壁に寄りかかり汐を待つ。
女性を待たすのは失礼に当たるだろうと思い、茅人がこの場に着いたのは五分ほど前。
汐がこの場に着くのはもう少しあとだろう。
(ただ待つのは退屈だな)
茅人が時計から視線を外し、空を見上げる。
今朝の天気予報は晴天で暑くなるとの事だった。
予報の暑さは今のところ間違ってはおらず、茅人の喉に乾きを覚えさせる。
そんな時、茅人の立つ位置から十数歩離れた場所に、自販機を見つけた。
付近を見回すが、汐が来る気配はない。
飲み物を買いに行き、すぐに戻るならさほど時間もかからないだろう。
茅人は足早に自販機に向かった。
(汐さんのも買っておくか…)
暑さの中自販機の飲み物を見つめ財布の中身を確認すると、硬貨は殆どなく紙幣に千円札はない。
それ以外の紙幣はあるので金銭には困らないが、このままでは自販機で飲み物が買えない。
どうするべきかと悩んだ茅人の視線がとらえたのは、この場から少し離れた場所に見える一軒のコーヒーショップだった。
その店は茅人もよく利用している、持ち帰りのドリンク販売もしている店だ。
普段からそれほど込み合わないその店は、店内も落ち着きがありコーヒーの味も美味しい。
汐がコーヒーを飲める事は店で確認済みで、おそらく気に入ってもらえるだろう。
茅人は一度待ち合わせ場所を見つめ、汐が来る気配のない事を確認すると、急いでコーヒーショップへと向かった。
茅人が店内に足を踏み入れると、店内は店の外より僅かに涼しさを感じる。
店内の冷房による微風が、茅人の体を冷ます。
普段の茅人ならこのまま店内で涼むところだが、今日は事情が違う。
運良く店内に人は疎らで、茅人は持ち帰り用のアイスコーヒーを素早く注文する事が出来た。
数分の待ち時間が長い時間に感じる中、店員が二杯のアイスコーヒーをカップに注ぐ。
「お待たせしました、気をつけてお持ち帰りください」
時間を確認する茅人に店の店員は、アイスコーヒーと付属のシロップやミルクを入れた紙袋を手渡し声をかけた。
「ありがとう」
一言店員に礼を言い中身を確認すると、茅人は足早に店を後にした。
店を出た茅人はすぐに時刻を確認した。
時刻は十一時二分前。
急いでも待ち合わせ場所に着く頃には、数分遅れた形になるだろう。
ため息を吐きたい気持ちを内心で押さえ、茅人は足早に目的地へ急ぐ。
右手に抱える紙袋を揺らさないよう速度を上げて歩く。
走ればなお早く着くだろうが、せっかく買ったコーヒーが紙袋の中で悲惨な結果になる可能性がある。
それでは意味がないと茅人は足早に歩く事を選んだ。
遠くに見えていた待ち合わせ場所には、すでに汐の姿があった。
その姿を見つけた瞬間は待たせた事へ何と言って謝るべきかと考えていた茅人だったが、汐の輪郭がはっきりと見えた時、その考えは塵となった。
茅人の瞳に写る汐は、微かな緊張感と憂いの色が見える。
デートに誘われた茅人が緊張感や困惑を浮かべるならまだしも、なぜ誘った側の汐が悲しげな表情をしているのだろうか。
緊張しているだけならばまだわかるが、普通デートに誘いそれが成功したなら、喜んだり嬉しそうだったりする事が多いだろう。
本来の目的である恋愛についての資料も作れるだろうし、茅人には汐の憂いの意図がわからない。
何と声をかければ良いかわからず、茅人は歩みを緩め汐との距離を近づけていく。
あと十数歩という距離で、汐が茅人の存在に気づいた。
こちらに振り向く汐の表情には、既に憂いの色はない。
「お待たせして申し訳ありませんでした。すぐそこの店で買い物をしてきたので…」
言い訳と謝罪を並べ、茅人は紙袋の中からアイスコーヒーを取り出す。
店を出てからの時間が僅かなため、氷の大きさは変わっていないようだ。
「ミルクとガムシロップは入れますか?」
一杯のコーヒーを片手に茅人が問うと、汐は小さく頷いた。
滑らかで透明なシロップと純白色のミルクは、黒に近い液体を淡いカラメル色に変える。
「お待たせしました」
「ありがとう、いただきます」
コーヒーを受け取り、汐は茅人に微笑み礼を言う。
その様子を見つめたあと、茅人も自分のアイスコーヒーにミルクとシロップを混ぜた。
汐より少し遅れて口にしたコーヒーは、少し甘くてほろ苦い。
店の壁を背に隣でコーヒーを味わう汐の表情は、待ち合わせに遅れた茅人への怒りも先ほどの憂いもなく、その冷たい喉越しに嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ねぇ茅人君、今日の予定、私が決めてもいいかしら?」
半分ほど飲み終えたコーヒーを片手に、汐は微笑み訊ねてきた。
「いいですよ、汐さんの好きな場所で」
予定らしいものを決めかねていた茅人にとって汐の言葉はありがたく思え、優しい笑みで頷く。
茅人の返事を聞き終えた汐は残りのコーヒーを飲み干し、茅人が飲み終え纏めておいたゴミの入った紙袋を掴み、汐が飲み終えた空き容器も入れ辺りを見渡す。
茅人がどうしたのかと聞こうとした瞬間、汐は近くにある公園へ歩みを進めた。
「汐さん?」
茅人の声に気づいていないのか、さらに汐は園内に進み、ごみ箱の中に紙袋を捨てて振り返る。
「捨てる物はいつまでも持っていても邪魔になっちゃうから…、ほら、早く行くわよ?」
汐の声はいつものように明るくて、笑顔も暖かいのに、微かに悲しく聞こえたのは茅人の気のせいなのだろうか。
おそらく気のせいだろう。
なぜなら今日は天気が良くて、汐は笑っていて、こんなにも心地良い気分なのだから。
「まずはどこに行きましょうか?」
公園を立ち去ったあと、街中の遊歩道を歩き、茅人は隣を歩く汐に聞いた。
すると汐は笑顔で返す。
「ここから少し離れたところに、プラネタリウムの施設があるの知ってる?」
汐の言葉に、先週読んだ雑誌の記事を思い出した。
施設が出来てから十数年経つが、林の中にあるその建物の印象は洗練されていてとても素晴らしいと、名前の知らない記者が熱く綴っていた。
でもあの場所はさほど人気のある場所でもなく、女性が喜ぶとは思わないのだが、汐はなぜそんな話をするのだろう。
「知ってますよ、雑誌の記事を読みましたから。汐さんは、プラネタリウムがお好きなんですか?」
茅人の質問に汐は微かな苦笑を携え告げる。
「好きどころかもう、十年以上見に行ってないわ。嫌いな訳じゃないけど、あまり惹かれなくて」
汐の言葉の意味を簡潔に言うならば、汐はもう長らくプラネタリウムに足を運んでいないのだろう。
そしてその理由については茅人の想像を元にした考えだが、汐は人の手で作られた星に魅力を感じないのではないだろうかと茅人は思った。
だがそれならば、何故今日それを見に行くのだろう。
あまり好いていないものを、わざわざ見に行くくらいなら、好きな場所に出かけたほうがずっと有意義だと思えるし、星が見たいなら少し時間を潰してから、夜に郊外に行けば満点の星空が見れるはずだ。
幸い今日は明日の朝まで雲一つない天気らしく、申し分ないはずなのに。
疑問を浮かべる茅人に、汐は楽しげな声をかける。
「わからない、って顔をしているわね。でも、もう少ししたらきっと分かるわよ」
意味を深めた言葉に訝しさを思う茅人は、先導をきって歩く汐の後をゆっくりと追いかけた。
プラネタリウムまでの距離はさほど離れてはいなかったが、時間の都合を考えた結果、汐と茅人は近場のカフェにより軽い昼食を終え、その後林に向かった。
林の中には近辺の地下鉄駅からすぐの道にある遊歩道が延びており、踵の高いサンダルを履いた汐の足元に不安の色はなく思える。
柔らかな素材の遊歩道は、アスファルトよりも負荷がなく、茅人の足取りも心なしか軽い。
「この場所、写真で見たより緑が鮮やかですね。街から少ししか離れていないのに」
茅人の言葉の通り、汐もこの林がこんなにも澄んでいるとは知らず、感嘆の吐息を漏らす。
「やっぱり、こういう風景は自分の目で観ないと駄目ね。でも、こんなに綺麗な自然の中に作りものがあるなんて、皮肉なものね」
汐の言葉には、先ほど見えた憂いが微かに滲んで見えた。
先ほどから感じる汐の憂いは、何が原因なのだろう。
待ち合わせの時、紙袋を捨てた事、そしてこの風景。
茅人には共通点が見つからない。
ちらりと汐の表情を横目で見ると、そこには木陰を楽しむ笑みがある。
足取りは変わらずに軽い。
供に歩みを進めたせいか、数メートル先にはプラネタリウムの入り口がある。
入場券を買いに行こうと茅人が足を進めると、汐に手を引かれた。
「もう買ってあるから、行きましょう」
茅人の手に触れていない反対側の手のひらには、大人二人分の入場券が握られている。
「チケット代、払います」
「誘ったのは私だから、奢らせて」
財布を取り出そうとする茅人に、汐は微笑し告げる。
料金自体はそれほど高いものではないし、この場で押し問答をするのは茅人としても好む事ではない。
同意の意味として財布をしまう茅人の仕草に、汐は満足そうな表情を浮かべた。
入場等は入り口ですべて行えるらしく、再び汐と茅人は歩みを進める。
「大人二人」
汐は係員に入場券を渡す。
係員は慣れた手つきでそれを切り、半券を汐に渡し返した。
茅人も汐と供に中に入ると、目的の部屋はすぐに見つけられた。
室内は薄暗く、ドーム状に広く作られている。
そのわりに客は少ないようで、室内には数人しかいないようだ。
自由席と入場券には書いてあったので、二人は出入口近くの人の少ない席を選ぶ事にする。
席に着く汐の姿に変化はない。
茅人も落ち着いた気持ちで、隣に座る。
数分の時が流れ、室内が濃い暗闇に変わった。
(始まったな…)
内心呟く茅人の隣で、汐も同じ事を思っているのだろうか。
「私ね、今日は茅人君に謝らなきゃいけない事があるの。そのまま聞いていて」
囁きにも似た小さな声は、おそらく他の人々には聞こえていないだろう。
「わかりました」
返事をする茅人の声も、また微かなものだった。
だがそれは、汐の耳に届いてくれたようだ。
「仮の恋人を頼んですぐなんだけど、あの話、なかった事にしてほしいの」
汐の言葉に茅人は小さな驚きを抱く。
だがそれを茅人は表さず、努めて冷静に聞き返す。
「理由を聞いてもいいですか?」
「私が貴方の約束を守れなくなったから、それにもう、恋愛についての資料はそろったから」
理由を聞かれるとわかっていたのだろう。
汐の口調は滑らかに思える。
だが、茅人には約束を守れないと言う意味が理解できない。
「守れないのは、どの約束ですか?」
追求する茅人の言葉に、汐は数秒の間を置く。
「……好きに、なってしまった、から」
途切れ途切れの言葉は羞恥によるものだろうか。
しかし今の茅人にとって汐の羞恥などは問題ではない。
それより『汐が茅人を好き』という事への返事の方が問題である。
茅人の答えは決まっているが、その事で汐が傷つくのは避けたい。
避けれなくても痛みを減らしてやりたいと思う。
(いや、僕にその権利はないか)
改めて思い直したのは、どんな形にせよ茅人はこれから汐を傷つけるという事だった。
「…僕は、汐と恋愛は出来ません。本気でお付き合いする事は、無理です」
一つ、一つの言葉は汐を傷つけているのだろう。
それを分かっていながら言うのは、茅人にも苦痛なものだった。
静かな室内に流れる沈黙は、酷く長く感じる。
「そう言われると思ってた。せめて、理由を聞いても良いかしら」
一分も経たずに返ってきた言葉に、泣いている様子はなかった。
それでも震えて聞こえる汐の声は、悲しみをこらえているのだろう。
そんな汐を慰められない茅人に出来るのは、過去の、大切な人を失った日の話をしなくてはならない。
「別に、汐さんに原因がある訳じゃありません。僕自身、今はまだ過去が吹っ切れていないだけで」
茅人の言葉に汐は何も言わないで続きを待つ。
そんな優しさに痛みを覚えながら、茅人は続ける。
「高三の時、好きな女性がいたんです。その人は僕の家庭教師の先生で、二つ年上の穏やかな人でした。僕は彼女を好きだと気づいて、すぐ告白しました。でも彼女に『今は生徒と先生だから気持ちに答えられないよ。でも、もし高校を卒業する日まで気持ちが変わらなかったら、その時はちゃんと返事をさせて』と言われてしまい、僕は卒業の日を待ったんです」
茅人は自身の過去を思い出し語り続け、心にある傷に触れる感覚を覚えた。
それは鋭利な刃物で抉られるような痛みで、それでもいつかは再び見つめ直さなくてはいけないものなのだろう。
「卒業式の日、僕は彼女と近くの公園で待ち合わせをしました。でも、彼女が園内に入る事はありませんでした。公園の前にわたる歩道で、交通事故に巻き込まれたんです」
過去からの痛みは記憶を呼び起こす。
あの日、目の前で起きた交通事故。
歩道側の信号機は青だった。
アスファルトには、彼女の体と赤い血液。
バイクを運転していた運転手は、ほぼ即死だったらしい。
警察は書類送検で片づけ、残されたのは闇のような悲しみと孤独だけだった。
「…僕は、まだ彼女を忘れられません。他の誰より失った彼女が大切です。今もまだ、僕は彼女が好きなんです。ですから、僕は誰ともお付き合い出来ません」
静かに茅人の話を聞いていた汐は、いったい何を思っただろう。
過去に捕らわれたままの茅人に呆れただろうか。
それとも今は亡き人と比べられて、憤りを覚えたかもしれない。
だが茅人の予想は、どちらも外れていた。
「私がその女性なら、早く忘れて幸せになってほしいと思う。でも、私が茅人君と同じ立場なら、きっと忘れられないわ。」
汐は微かな物音をたて、優しく凛とした声で話す。
さりげなく隣を見ると、汐は席を離れようとしていた。
「…だから、いつか貴方の、茅人君の過去の痛みが和らいだら、その時、誰かを好きになったら、その時は幸せになってね」
濃い暗闇の中、汐の表情はよく分からない。
それでも、汐が泣いているのは分かった。
なぜなら汐の声は、涙ぐんで途切れ途切れの切ない声で、それでも暖かい声だったから。
今すぐにでも、その手を握ってやりたいと茅人は思うが、それはただ汐を傷つける、無責任な行いと言えるだろう。
茅人は汐に何も言えず、遠ざかる気配を見送った。
茅人には、もう何も出来る事はないのだから。
あれから四ヶ月、汐は店に一度も来ていない。
連絡もこないし、茅人もしていないままだ。
汐がいなくなって少しだけ寂しくはあるが、それは茅人が思うべき事ではない。
いつものように開店準備をしていると、店のマスターに厚手の茶封筒を渡された。
宛名の住所はこの店、宛名は『園崎茅人様』と書いてある。
「確かに渡したからね。開店までまだ時間があるし、中見てみたら?」
マスターの去り際の言葉に頷き、封筒の裏を見ると知らない住所とよく知った名前が書かれていた。
水無月汐、汐のフルネーム。
それはつまり、この封筒を茅人に送ったのは汐であるという事だろう。
少し分厚い封筒を、店のペーパーナイフで慎重に開けると、中からは一冊の小説と、短い手紙が入っていた。
小説のタイトルは、胡蝶と夢の亡者。
薄紫の蝶が舞う、淡い表紙である。
その表紙は、実に汐らしく思えた。
続いて茅人は手紙を開いてみる。
懐かしい汐の言葉は、変わらず優しく思えた。
『茅人君へ。約束の本が出来たので店に送ります。直接渡せなくてごめんなさい。やっぱり、顔をあわせるのは気まずくて、こんな形にしました。あの日、茅人君に言った事に、後悔はないの。茅人君がちゃんと訳を言ってくれて凄く嬉しかったわ。それでね、この気持ちを小説にしたのが『胡蝶と夢の亡者』です。登場人物も年齢も、振られた理由も違うけどね。読んでくれたら嬉しいです。最後に、私、茅人君を好きになれてよかったわ。今までありがとう、元気でね』
汐の手紙を読み終えた茅人の心は、なぜか穏やかだった。
あのプラネタリウムの別れから、寂しさやむなしさが常にあった心は、それらが夢のように消えていく。
もう、会う事のない人に救われた心は、過去の傷も近い未来癒すだろう。
そんな事を思い、茅人は店の開店準備に戻った。
作者の後書き
長かった胡蝶と夢の亡者が、ようやく終わりました。
誤字脱字、相変わらず多いです、ごめんなさい。
ここまで読んで下さった皆様に宣伝です。
現在書きかけ、今後更新予定の『銀の十字架』もぜひ読んでみて下さい。
相変わらずの亀更新だと思われそうですね、もちろん亀更新ですよ!
中味は戦闘物ですので、キャラクターの動きは素早い予定です。たぶん。
では、そんな感じで、この後は皆様のご意見ご感想をどうぞ!
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