YUKI 2016-11-19 22:11:18 |
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「そう。それならまず始めに、契約期間と細かい約束事、それから報酬について決めましょうか」
茅人の返事を聞き終えると、汐は二枚の書類のような物をテーブルに乗せ、自身の恋人役を優しく見つめる。
契約期間と約束事。
それについては茅人も、話し合いたいと思ってはいた。
しかし『報酬』というのは考えていなかった。
「期間と約束事は確かに重要ですが、報酬は必要ありません。僕が貴方に協力するのは、僕自身が望んだ事ですから」
茅人の凛とした声に汐は、僅かな驚きを見せる。
しかし次の瞬間、それは静かな拒絶の色に変わった。
「それは…、困るわ。私と茅人君の恋人関係は、仮のものなのよ?線引きは絶対必要なの。それでないと、私が困るのよ」
表情を曇らす汐の反応に、茅人は思考を働かせる。
汐は報酬を払えないと困ると言う。
だが、茅人にもそれを受け取るつもりはない。
しかし、これでは時間だけが流れ、話が進みそうもない。
悩む茅人の指先が、テーブルに重ねられていた分厚い一冊の本に触れた。
そしてその本により、名案が浮かぶ。
「分かりました。それでしたら報酬は、受け取らせていただきます」
茅人の言葉に汐は安堵する。
「そう、良かったわ」
「ただ、その報酬の事なんですが、こちらから提案してもいいですか?」
汐は強引に自身の気持ちを押し通し、それを茅人が受け取ってくれた事に気が緩んでいた。
汐は微笑みを浮かべ、肯定の言葉を告げる。
「私に出来る事や、用意出来る物なら」
その言葉に茅人が陰のある笑みを浮かべるが、汐は気づかない。
そして次の瞬間、汐は後悔を覚える事となったのだ。
「では、報酬は、僕が協力する事で得られた経験を元に作られた、汐さんの最新作の小説を直接下さい」
陰のある笑みは先ほどより陰影が濃く、汐はようやく事の重大さに気づく。
現在、汐は酷いスランプに落ち、新作が書けずにいる。
そして今回のスランプ脱出のために汐は、茅人に恋人役をお願いしたのだ。
それなのに、協力を得られ、内心安堵していた矢先に告げられたのは『スランプを脱出し、完成させた小説』を報酬として欲しいと言う言葉。
それはつまり『協力はするが、決して無駄にするな』という意味と同列に、汐には聞こえた。
一方茅人自身は僅かな遊び心と、汐への応援の言葉であり、それ以上の他意はない。
なぜ汐がそれほどに考え込んでいるのか、茅人自身よく分からずにいた。
「あの、汐さん…」
優しく声をかける茅人に、汐の指先が小さく反応する。
その仕草に視線を逸らす茅人に、汐は静かに息を飲む。
「…その場合、報酬を渡すのは少し、…いえ、結構遅くなると思うわ」
茅人を見つめた汐の瞳に、苦みのある色が薄く滲んだ。
そこまで思い詰める理由は分からないが、とりあえず了承してもらえたようで茅人は安堵した。
「それで良いです。では、あとは期間と約束事ですが、僕の方は昨夜の条件と大学やバイトを優先する事、それ以外は特に何もありません」
「申し訳ありません。そろそろ仕事に戻らないと」
カウンターの傍らにある時計に視線を向け、汐の言葉を遮るように茅人は囁く。
その言葉に汐も自身の腕時計に視線を向け、茅人を十分以上も拘束していた事にようやく気づいた。
さすがに仕事中の茅人を、長々と拘束するのは申し訳ない。
小さくため息をこぼし、汐は白紙のメモ用紙とペンを取り出す。
「いえ、私の方こそ気づかなくてごめんなさい。あとの事はこちらで纏めておくから」
「よろしくお願いします」
苦笑を浮かべる汐に、茅人は小さく会釈し、その場を後にした。
カウンターに戻る茅人を出迎えたのは、使用済みの食器達と水城の楽しげな微笑みだった。
「仕事抜けて悪かったな。忙しかったか?」
カウンターに入るなり食器を洗い始める茅人に、水城は横に小さく首を振る。
「いや、今日は店も混んでいないし気にするなよ」
前菜の盛り合わせを作りながら話す水城の声は、茅人の耳に穏やかに届く。
茅人が思うほど、水城は気にしていないように思える。
(こいつ、結構優しい奴だよな)
水城の優しさに内心照れくささを抱き、茅人は改めて友人との出会いに感謝した。
そんな事を考え食器を洗い終えた茅人と、盛り合わせを完成させた水城が視線を交わしたのは、ほぼ同時だった。
「…お前が聞かれたくないなら聞かないけど、俺にできる事があったら言えよ」
先に発した水城の声は、店内の物音にかき消されそうなほど小さい。
それが故意なのかそうでないのかは分からないが、茅人には届いていた。
その儚く優しい水城の言葉は、茅人の返事を望んでいないのかもしれない。
茅人にはそう聞こえたし、それに見合うほどの言葉も浮かばなかった。
だが、それでも茅人は言葉を紡ぐ。
「ありがとう、心配してくれて。今はまだ上手く話せないけど、話せるようになったら話すよ」
水城から届いた声の音量より、僅かに小さい声。
本当は水城に届く声で伝えるべきなのだろう。
それでも小さくなった声は水城への感謝と、茅一自身への決意が混ざったからかもしれない。
そんな自身の気持ちに気づき、僅かに俯く茅人の隣で、水城は僅かに驚き小さく笑った。
おそらく茅人の声が届いたのだろう。
「そうか…待ってるからな」
羞恥により視線を逸らす茅人に、水城は一言添えてカウンターを出た。
そんな二人の様子を遠くから見つめる者がいた。
メモ用紙に必要事項を書き終えた指先を休め、残り少ない柚子ソーダで喉を潤し、見つめる先には茅人。
本来なら飲み物を新たに注文するついでにメモを渡せば済む話なのだが、なぜかそれをする事に戸惑いが生まれる。
(別に、私と茅人君は『仮の恋人』なのだから気にする事はないはずなのに)
汐にとって茅人との関係は、小説のためでしかない。
茅人もそれを分かっているから特に変わった様子はないし、汐もそれを良しとしていた。
それなのに僅かに揺れる靄のような心は、仮とはいえ恋人として何か惹かれているせいなのだろうか。
この感情は果たして小説に役立つのだろうか。
そんな靄を流すよう柚子ソーダを飲み干す汐の背後に、一人の男性が声をかけた。
「別に、悩みと言うほどでもないわ。それに話したい事があるのは、貴方の方でしょう?」
汐はドリンクのメニュー表を受け取り、苦笑を浮かべながら水城の気持ちを探る。
汐は水城がこの店でバイトを始めた頃からのつきあいだ。
正確に言えば、汐が常連として通っている店に水城が勤め始めたのだが、それから一年が過ぎ、今では会話に花を咲かせられる程度には親しくなった。
そしてそれと同じく、お互いの性格等も少しは理解している関係でもある。
水城は、決して優しいだけの人ではない。
優しく場の空気も読めるが、知的な狡猾さもあるのだ。
そのため汐は水城と言葉を交わす度に、隙を見せないよう常に気をつけている。
不意に水城が距離を詰めた。
「茅人とどんな話をしていたんです?」
微かに息遣いがわかる距離からの囁きに、汐は内心穏やかでいられない。
だが、それを露わにするほど汐も愚かではなかった。
「別に、少し悩みを打ち明けただけよ」
「俺には話せないよう悩みですか?」
後ろに微かに腰を引き、優しく微笑み答える汐に、水城も笑みを崩さずまた距離を詰めていく。
二人の間にはテーブルがあり、これ以上今の水城が距離を詰める事は不可能だろう。
しかし汐の方も、これ以上腰を引くのは不自然と言える。
「嫉妬してるの?」
「そうだ、と言ったらどうします?」
汐のからかうような言葉に、水城は白々しい嘘で返す。
数秒の間を置き、汐は改めて聞き直す。
「下手な嘘ね」
呆れたように視線を落とす汐から離れ、水城は汐の隣に歩みを進めた。
「申し訳ありません」
「それで、なぜそんな事を聞きたいのかしら」
汐の言葉を否定しない水城のわざとらしい謝罪に、少し汐は気分を害したが、汐は話を進めるよう促す。
「俺は、俺の友人をあまり困らせないでほしいだけです」
水城もそんな汐の苛立ちに気づき、一言だけ添えその場を後にした。
『水城の友人』とは多分、茅人の事だろう。
水城なりの思いは、汐に苦く響いた。
水城がカウンターに戻ると、茅人がカウンター席の女性客と談笑をしていた。
「楽しそうですね、何の話ですか?」
それとなく会話に加わる水城に、茅人がかい摘んで内容を語る。
「恋人が出来たらどんなデートをしたいかって話をしてたんだよ」
茅人の言葉に、女性客は笑顔で肯定した。
水城がさらに細かく話を聞くと、女性客は茅人の何気ない質問に答えた形らしく、いくつかのプランを告げていた最中のようだ。
一通り話し終えた女性客はそれなりに会話を楽しめたようで、十数分後店を後にした。
水城は女性客を店の出入口まで見送り、茅人はカウンターでグラス等を洗っている。
洗い物を終え、食器磨きを始める茅人は不意に視線を感じた。
殺意や嫌悪とは違うが、決して優しさの感じない視線。
茅人の視線がグラスから外れる瞬間、その違和感は姿を消した。
(何だ、今の感じ…まさか)
茅人の視線が汐を捉えると、汐はさりげなく顔を逸らす。
汐のテーブルにあるグラスは空だ。
その様子から、ドリンクの注文をするつもりだったのかもしれない。
だが、先ほど感じた視線は汐のいる位置からの可能性が高いし、目があった瞬間顔を逸らした気もする。
確かめてみる価値はあるだろう。
茅人が注文伝票とメニュー表を手にしたとき、ちょうど水城が店内に戻ってきた。
茅人が手招きをすると、水城はすぐにカウンターに近づいた。
「少しカウンター頼んで良いか」
茅人の言葉に水城は疑問を感じる。
しかし茅人の視線が汐へ向いている事に気づき、水城は小さく頷いた。
「いいけど、無理するなよ」
「わかってるよ」
水城の優しさに茅人は苦笑し、メニューと伝票を手にカウンターから出る。
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