YUKI 2016-11-19 22:11:18 |
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意地の悪い笑みを携え言う水城の言葉に、茅人は何も言い返せない。
確かに汐を心配していたのも、その場に行って何かしたいと思ったのも茅人だった。
そこでフオローしてくれたのも水城であり、彼は文句を言われるどころか感謝されても良い立場と言えるだろう。
分かってはいるが、どこか納得いかないと茅人は思った。
「とにかく、あと一時時間で今日は終わりなんだし、頑張って働けよ」
出来上がったドリンクをトレイに乗せ、水城はお客さんのもとに向かった。
(そうだな、あと一時間、頑張るか)
その様子を見つめ、茅人も気合いを入れ直す。
時間はゆっくりと流れ出す。
店内に流れるBGMを聞きながら、茅人はグラスを洗っていく。
薄暗くレトロなこの店には、シックな曲が良く似合う。
そんなこの店を茅人は、早くも気に入り始めていた。
(良い店だよな、バイトがなくても来たくなる店だ)
初めは気が進まなかったのに、今ではこの空気に馴染んでいる自身がいる。
そんな事を考えていた茅人の耳に、会計を求めるベルの音が聞こえた。
「お待たせいたしました」
「お会計、お願いします」
会計用レジの前に急いで駆けつけた茅人の耳に届いたのは、先ほど聞いた声だった。
「柚子ソーダ、ごちそうさまでした」
汐の透き通る声が茅人に届く。
「喜んでいただけて嬉しいです」
それに呼応するよう、茅人が丁寧に会釈する。
ところが茅人が会釈を終える前に、汐の笑い声が聞こえた。
特におかしな事をしたとは思えない茅人が疑問符を浮かべていると、汐は慌てて弁解をする。
「ごめんなさい。ただ貴方の、園崎君の姿勢が随分紳士的で、女性に慣れてそうなのに真面目に思えて…」
随分と失礼な事を言われた気がする。
確かに茅人は女性の相手をする事に慣れているが、だからと言って不真面目なわけではない。
お酒も成人するまで口にしたことはないし、女性と遊びで付き合った事もない。
凄く真面目とは言えないかもしれないが、不真面目な性格ではないはずだ。
「一応不真面目ではない自覚はあったんですが…」
苦笑するしかない茅人に、汐は頷く。
「そうね、園崎君は不真面目ではなさそうだけど、とても面白い人だわ」
面白いというのも複雑だが、不真面目よりは良く聞こえる。
何よりも目の前のお客さんが喜んでいるのだから、ここは受け入れるべきだろう。
「面白い人はお好きですか?えっと…」
「大好きよ、あと、私の事は汐と呼んでくれて良いわ」
茅人が汐をどう呼ぶか悩んでいると、それに重ねるように汐が答えた。
そして店を出る直前に一言残し、汐は立ち去る。
「今夜は良い夜だったわ。気分も晴れたし、少し頑張ってみようかしら。また会いに来るわね、園崎君」
満月の夜に微笑む汐を、茅人は店の前まで送り扉を閉めた。
茅人が『Bar淡雪』で働き始めて、もうすぐ三週間になる。
仕事にも慣れはじめて、常連さんとの会話も楽しめてきた。
いつものように茅人がカウンターで接客をしていると、一人の見慣れた女性が来店する。
「いらっしゃいませ」
その女性、汐は微笑み奥のテーブルに向かう。
汐はいつも奥の席を好んで使う。
それはカウンターしか空席がない場合、そのまま帰ってしまう程だ。
一度理由を聞いた事があるが『広くて落ち着くから』という事らしい。
確かに汐は、いつも荷物が多い。
ノート型のパソコンや資料らしき紙の束、分厚い本に電子タブレット。
(あんなに沢山の荷物、重くないのかな?)
汐を見るたびに、その疑問が茅人の中に浮かぶ。
もちろん重い荷物を持つのは本人の自由だし、他人がとやかく言うべきではないだろう。
だがその資料や本に全く触れないとなると、意味が分からない。
使わない物を持ち歩き、取り出しても邪魔なだけではないだろうか。
汐の接客をして戻ってきた水城に、茅人は小声で疑問を投げかけた。
「なぁ、汐さんって何であんなに荷物持ってるのかな?」
「小説家だからだろ」
茅人の疑問に、果実酒の水割りを作りながら水城は簡潔に答える。
それは分かるのだが、茅人が聞きたい事は少し違うのだ。
その事に気づいたのか、水割りをトレイに乗せた水城は苦笑しつつ続けて言う。
「最初の頃に言っただろ、スランプなんだよ。だから『書きたいけど、書けない』状態なんだろ」
「『書きたいけど、書けない』か…」
水城の言葉を復唱しても、茅人にはよく分からなかった。
好きで始めたものを、途中で出来なくなる感覚を茅人は知らない。
そのため茅人にそれを理解するのは、とても難しいのだ。
汐のテーブルには、相変わらず触れられる事のない紙の束が、無造作に置かれている。
(触りたくないなら、片づけた方が邪魔にならないと思うけどな)
その光景をぼんやり見つめていると、偶然汐と視線が重なった。
見つめていた事に気づかれただろうか。
小さく会釈をする茅人に、汐は手招きをする。
足早に汐のテーブルの前に来た茅人に、汐は訊ねた。
「何かあった?」
どうやら気づかれていたらしい。
汐を相手に下手な言い訳が通じない事を、茅人は学習している。
「汐さんがいつも沢山持ってる本とか紙の束が気になりまして、つい、見入ってしまいました」
茅人は先ほど思っていた事を簡潔に、失礼のないよう伝えた。
その言葉を聞いた汐は、一瞬意味が分からなさそうな顔をする。
「気になるほどの物ではないと思うけど、資料や専門書とかだし…」
汐の指先が、一冊の本に触れた。
分厚く重厚なその本は、少し汚れがあり新品には思えない。
「その本、随分と古そうですね」
「そうね、今は製造されていない貴重な本よ。古書店を何カ所も巡って探した物なの」
茅人の言葉に汐は本を開き、中に記入されている最後の発行日を指先で綴る。
日付は三十年前。
それはとても古く、しかし三十年の時が流れたにしては、綺麗な本だ。
「こんなに古いのに、まだちゃんと使えるんですね…」
茅人の言葉に汐は僅かな訂正を交え、優しい声を発する。
「園崎君、本は使う物ではなくて、読んで聞いて、触れて感じるものなの。この本と言う手紙に残された、作者の思いに耳を傾けて、感じて触れて、そして読むものなのよ。『もの』だけど『物』じゃないの」
『もの』だけど『物』じゃないと言う汐の言葉はよく分からない。
だが茅人にも、この『本』と呼ばれた物に作者の思いが詰め込められて、それが永い時を重ねて今此処にある事だけは分かる。
茅人の視線にあるその本は、先ほどより重厚で暖かく思えた。
「本は、手紙か…考えた事もなかったです」
「普通は考えないでしょうね、でも私には手紙に思えたの。沢山の手紙を読んで『私もこんなふうに書けたら』と思ってこの仕事を目指したの」
茅人の苦笑に汐は明るい笑みを浮かべ、自身のルーツを話す。
暖かく優しい汐の笑みには、過去の作者達への感謝と好意が写って見えた。
(本当に本が好きなんだな。でもそれなら…)
茅人の中に生まれた思いが、音になり、声になった。
「それなら、書けないという事がより辛いですよね」
その言葉に、汐は驚いたように茅人を見つめる。
そして汐の表情に茅人も、自身の犯したミスに気づいた。
普段は上手く出来ている茅人の言葉の選択も、なぜか汐の前ではミスがでてしまう。
気が緩んでいるのだろうか?
言葉を選んでいる茅人に、汐は機嫌を悪くする事もなく苦笑を浮かべる。
「誰に聞いたのかは分からないけど、確かに好きな事が出来ないのは辛いわ」
指先を本から離し、琥珀色の液体が入ったグラスに触れる。
液体は残り少なく、グラスの二割程しかない。
「でも、一番辛いのは『書けない私の存在』が怖いという事よ」
その言葉を発した汐は、茅人よりも年上なはずなのに、森で迷子になった少女のように見えた。
汐の瞳は僅かな苦痛を滲ませ、此処にはない別の何かを見つめているように思える。
しかし茅人が彼女の瞳を見つめても、それが何かは分からなかった。
きっと彼女の苦しみは、他者には理解出来ないし、助ける事も叶わないのだろう。
しかし茅人はそれを頭では分かっていても、心では受け入れられない。
たとえ理解出来なくても、助けられなくても、何か出来ないだろうか?
そんな茅人の思いは、声となり汐に届けられた。
「あの…、僕に出来る事は少ないと思いますけど、愚痴や相談ならいくらでも聞きますから、話したい事があればいつでもどうぞ」
茅人に言える事は、これが精一杯だった。
あまりにも頼りなく根拠のない言葉を、少しでも優しい笑みで告げる。
新人学生バイトに出来る事など、在り来たりの言葉と飲食物の提供、優しい微笑みと丁寧な接客くらいしかありはしない。
茅人自身その事を理解していたが、次に発せられた汐の言葉には動揺を隠せなかった。
「それなら園崎君にお願いしようかしら。ねぇ園崎君、貴方、私の恋人になってくれない?」
「え、それは、今の話とどんな関係があるんですか?」
汐の楽しそうな声に茅人は、冷静さを繕い聞き返す。
(何故、小説を書けない事と、恋愛がつながるのだろう。そもそも、茅人が知る限り、汐はそんな事を言う女性ではないはずだ。ならば何故…)
思考を巡らせ悩む茅人に、汐はある事に気づき急いで訂正した。
「言い方が悪かったみたいだから、訂正するわね。私とある条件の上で、仮の恋人になってくれないかしら?」
そのまま汐は、お願いを詳しく説明してくれた。
まず第一に、汐の得意とするのは恋愛小説であり、デビューの時から今まで、そればかりを綴ってきたらしい。
そして第二に、最近自身の書く小説の基準や世間の恋愛心理にズレが現れた気がしてきたらしく、そのため自身の考えに自信がもてなくなった。
その為、一度初心に帰り恋愛とは何かを知るため、茅人に仮の恋人になってもらい感性を磨きたいと思ったようだ。
「理由は分かりました。ですが、なぜその役を僕に?」
茅人はまだ汐の願いに納得出来ず、自身の疑問を投げかける。
汐の容姿を一言で表すなら、漆黒の蝶と言えるだろう。
艶があり腰に届く長さの黒髪に、琥珀色の蝶の髪飾り。
ワイシャツに膝丈のフレアスカート、そこから覗く日焼け知らずの素肌。
首筋から腰へのラインが柔らかく、体型のバランスも悪くない。
仮とはいえ、恋人を探すつもりならいくらでも相手はいるだろう。
むしろ探さずとも、向こうから近寄ってきてもおかしくはない。
別に茅人のように『恋愛が出来ない人』を選ぶ必要はないはずだ。
「僕ではおそらく参考になりませんよ?それに汐さんなら、他に適任になってくれる相手なんてすぐ見つかりますよ」
苦笑いを浮かべる茅人に、汐は不満そうな表情を見せる。
「確かに相手は見つかるでしょうけど、恋人に興味はないの。私が探しているのは仮の恋人よ?本気になられても迷惑なだけだし、貴方は…その事を考えれば、凄く適任に思えるのよ」
汐の言葉の中には、茅人の考えを読んでいるような言葉があった。
「なぜ僕が適任に思えるんですか?」
「だって園崎君、女性の扱いに慣れているみたいだから…」
どうやら茅人の考えは、ただの深読みだったらしい。
肩の力が抜けている茅人を見て、汐は申し訳なさそうに言う。
「あの、ごめんなさい。そんなに傷ついた?」
「いえ、大丈夫です」
苦笑を浮かべ答える茅人に、汐は安堵して再度茅人に訊ねる。
「やっぱり嫌よね、仮の恋人役なんて。変な事言ってごめんなさい。他の人を探すわ」
小さく謝罪をする汐の瞳には、悩みの色が見えた。
どうやら汐は、本気で仮の恋人を探しているらしい。
茅人にも紹介出来る相手がいないわけではないが、彼らが本気にならない保証はない。
水城なら適任かもしれないが、どうだろうか。
今ならちょうど水城もいるし、聞いてみても良いかもしれない。
「そろそろ一度、カウンターに戻りますね。また、後ほど」
微笑みながら一礼し、茅人はテーブルを後にした。
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