YUKI 2016-11-19 22:11:18 |
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「ねぇ茅人君、今日の予定、私が決めてもいいかしら?」
半分ほど飲み終えたコーヒーを片手に、汐は微笑み訊ねてきた。
「いいですよ、汐さんの好きな場所で」
予定らしいものを決めかねていた茅人にとって汐の言葉はありがたく思え、優しい笑みで頷く。
茅人の返事を聞き終えた汐は残りのコーヒーを飲み干し、茅人が飲み終え纏めておいたゴミの入った紙袋を掴み、汐が飲み終えた空き容器も入れ辺りを見渡す。
茅人がどうしたのかと聞こうとした瞬間、汐は近くにある公園へ歩みを進めた。
「汐さん?」
茅人の声に気づいていないのか、さらに汐は園内に進み、ごみ箱の中に紙袋を捨てて振り返る。
「捨てる物はいつまでも持っていても邪魔になっちゃうから…、ほら、早く行くわよ?」
汐の声はいつものように明るくて、笑顔も暖かいのに、微かに悲しく聞こえたのは茅人の気のせいなのだろうか。
おそらく気のせいだろう。
なぜなら今日は天気が良くて、汐は笑っていて、こんなにも心地良い気分なのだから。
「まずはどこに行きましょうか?」
公園を立ち去ったあと、街中の遊歩道を歩き、茅人は隣を歩く汐に聞いた。
すると汐は笑顔で返す。
「ここから少し離れたところに、プラネタリウムの施設があるの知ってる?」
汐の言葉に、先週読んだ雑誌の記事を思い出した。
施設が出来てから十数年経つが、林の中にあるその建物の印象は洗練されていてとても素晴らしいと、名前の知らない記者が熱く綴っていた。
でもあの場所はさほど人気のある場所でもなく、女性が喜ぶとは思わないのだが、汐はなぜそんな話をするのだろう。
「知ってますよ、雑誌の記事を読みましたから。汐さんは、プラネタリウムがお好きなんですか?」
茅人の質問に汐は微かな苦笑を携え告げる。
「好きどころかもう、十年以上見に行ってないわ。嫌いな訳じゃないけど、あまり惹かれなくて」
汐の言葉の意味を簡潔に言うならば、汐はもう長らくプラネタリウムに足を運んでいないのだろう。
そしてその理由については茅人の想像を元にした考えだが、汐は人の手で作られた星に魅力を感じないのではないだろうかと茅人は思った。
だがそれならば、何故今日それを見に行くのだろう。
あまり好いていないものを、わざわざ見に行くくらいなら、好きな場所に出かけたほうがずっと有意義だと思えるし、星が見たいなら少し時間を潰してから、夜に郊外に行けば満点の星空が見れるはずだ。
幸い今日は明日の朝まで雲一つない天気らしく、申し分ないはずなのに。
疑問を浮かべる茅人に、汐は楽しげな声をかける。
「わからない、って顔をしているわね。でも、もう少ししたらきっと分かるわよ」
意味を深めた言葉に訝しさを思う茅人は、先導をきって歩く汐の後をゆっくりと追いかけた。
プラネタリウムまでの距離はさほど離れてはいなかったが、時間の都合を考えた結果、汐と茅人は近場のカフェにより軽い昼食を終え、その後林に向かった。
林の中には近辺の地下鉄駅からすぐの道にある遊歩道が延びており、踵の高いサンダルを履いた汐の足元に不安の色はなく思える。
柔らかな素材の遊歩道は、アスファルトよりも負荷がなく、茅人の足取りも心なしか軽い。
「この場所、写真で見たより緑が鮮やかですね。街から少ししか離れていないのに」
茅人の言葉の通り、汐もこの林がこんなにも澄んでいるとは知らず、感嘆の吐息を漏らす。
「やっぱり、こういう風景は自分の目で観ないと駄目ね。でも、こんなに綺麗な自然の中に作りものがあるなんて、皮肉なものね」
汐の言葉には、先ほど見えた憂いが微かに滲んで見えた。
先ほどから感じる汐の憂いは、何が原因なのだろう。
待ち合わせの時、紙袋を捨てた事、そしてこの風景。
茅人には共通点が見つからない。
ちらりと汐の表情を横目で見ると、そこには木陰を楽しむ笑みがある。
足取りは変わらずに軽い。
供に歩みを進めたせいか、数メートル先にはプラネタリウムの入り口がある。
入場券を買いに行こうと茅人が足を進めると、汐に手を引かれた。
「もう買ってあるから、行きましょう」
茅人の手に触れていない反対側の手のひらには、大人二人分の入場券が握られている。
「チケット代、払います」
「誘ったのは私だから、奢らせて」
財布を取り出そうとする茅人に、汐は微笑し告げる。
料金自体はそれほど高いものではないし、この場で押し問答をするのは茅人としても好む事ではない。
同意の意味として財布をしまう茅人の仕草に、汐は満足そうな表情を浮かべた。
入場等は入り口ですべて行えるらしく、再び汐と茅人は歩みを進める。
「大人二人」
汐は係員に入場券を渡す。
係員は慣れた手つきでそれを切り、半券を汐に渡し返した。
茅人も汐と供に中に入ると、目的の部屋はすぐに見つけられた。
室内は薄暗く、ドーム状に広く作られている。
そのわりに客は少ないようで、室内には数人しかいないようだ。
自由席と入場券には書いてあったので、二人は出入口近くの人の少ない席を選ぶ事にする。
席に着く汐の姿に変化はない。
茅人も落ち着いた気持ちで、隣に座る。
数分の時が流れ、室内が濃い暗闇に変わった。
(始まったな…)
内心呟く茅人の隣で、汐も同じ事を思っているのだろうか。
「私ね、今日は茅人君に謝らなきゃいけない事があるの。そのまま聞いていて」
囁きにも似た小さな声は、おそらく他の人々には聞こえていないだろう。
「わかりました」
返事をする茅人の声も、また微かなものだった。
だがそれは、汐の耳に届いてくれたようだ。
「仮の恋人を頼んですぐなんだけど、あの話、なかった事にしてほしいの」
汐の言葉に茅人は小さな驚きを抱く。
だがそれを茅人は表さず、努めて冷静に聞き返す。
「理由を聞いてもいいですか?」
「私が貴方の約束を守れなくなったから、それにもう、恋愛についての資料はそろったから」
理由を聞かれるとわかっていたのだろう。
汐の口調は滑らかに思える。
だが、茅人には約束を守れないと言う意味が理解できない。
「守れないのは、どの約束ですか?」
追求する茅人の言葉に、汐は数秒の間を置く。
「……好きに、なってしまった、から」
途切れ途切れの言葉は羞恥によるものだろうか。
しかし今の茅人にとって汐の羞恥などは問題ではない。
それより『汐が茅人を好き』という事への返事の方が問題である。
茅人の答えは決まっているが、その事で汐が傷つくのは避けたい。
避けれなくても痛みを減らしてやりたいと思う。
(いや、僕にその権利はないか)
改めて思い直したのは、どんな形にせよ茅人はこれから汐を傷つけるという事だった。
「…僕は、汐と恋愛は出来ません。本気でお付き合いする事は、無理です」
一つ、一つの言葉は汐を傷つけているのだろう。
それを分かっていながら言うのは、茅人にも苦痛なものだった。
静かな室内に流れる沈黙は、酷く長く感じる。
「そう言われると思ってた。せめて、理由を聞いても良いかしら」
一分も経たずに返ってきた言葉に、泣いている様子はなかった。
それでも震えて聞こえる汐の声は、悲しみをこらえているのだろう。
そんな汐を慰められない茅人に出来るのは、過去の、大切な人を失った日の話をしなくてはならない。
「別に、汐さんに原因がある訳じゃありません。僕自身、今はまだ過去が吹っ切れていないだけで」
茅人の言葉に汐は何も言わないで続きを待つ。
そんな優しさに痛みを覚えながら、茅人は続ける。
「高三の時、好きな女性がいたんです。その人は僕の家庭教師の先生で、二つ年上の穏やかな人でした。僕は彼女を好きだと気づいて、すぐ告白しました。でも彼女に『今は生徒と先生だから気持ちに答えられないよ。でも、もし高校を卒業する日まで気持ちが変わらなかったら、その時はちゃんと返事をさせて』と言われてしまい、僕は卒業の日を待ったんです」
茅人は自身の過去を思い出し語り続け、心にある傷に触れる感覚を覚えた。
それは鋭利な刃物で抉られるような痛みで、それでもいつかは再び見つめ直さなくてはいけないものなのだろう。
「卒業式の日、僕は彼女と近くの公園で待ち合わせをしました。でも、彼女が園内に入る事はありませんでした。公園の前にわたる歩道で、交通事故に巻き込まれたんです」
過去からの痛みは記憶を呼び起こす。
あの日、目の前で起きた交通事故。
歩道側の信号機は青だった。
アスファルトには、彼女の体と赤い血液。
バイクを運転していた運転手は、ほぼ即死だったらしい。
警察は書類送検で片づけ、残されたのは闇のような悲しみと孤独だけだった。
「…僕は、まだ彼女を忘れられません。他の誰より失った彼女が大切です。今もまだ、僕は彼女が好きなんです。ですから、僕は誰ともお付き合い出来ません」
静かに茅人の話を聞いていた汐は、いったい何を思っただろう。
過去に捕らわれたままの茅人に呆れただろうか。
それとも今は亡き人と比べられて、憤りを覚えたかもしれない。
だが茅人の予想は、どちらも外れていた。
「私がその女性なら、早く忘れて幸せになってほしいと思う。でも、私が茅人君と同じ立場なら、きっと忘れられないわ。」
汐は微かな物音をたて、優しく凛とした声で話す。
さりげなく隣を見ると、汐は席を離れようとしていた。
「…だから、いつか貴方の、茅人君の過去の痛みが和らいだら、その時、誰かを好きになったら、その時は幸せになってね」
濃い暗闇の中、汐の表情はよく分からない。
それでも、汐が泣いているのは分かった。
なぜなら汐の声は、涙ぐんで途切れ途切れの切ない声で、それでも暖かい声だったから。
今すぐにでも、その手を握ってやりたいと茅人は思うが、それはただ汐を傷つける、無責任な行いと言えるだろう。
茅人は汐に何も言えず、遠ざかる気配を見送った。
茅人には、もう何も出来る事はないのだから。
あれから四ヶ月、汐は店に一度も来ていない。
連絡もこないし、茅人もしていないままだ。
汐がいなくなって少しだけ寂しくはあるが、それは茅人が思うべき事ではない。
いつものように開店準備をしていると、店のマスターに厚手の茶封筒を渡された。
宛名の住所はこの店、宛名は『園崎茅人様』と書いてある。
「確かに渡したからね。開店までまだ時間があるし、中見てみたら?」
マスターの去り際の言葉に頷き、封筒の裏を見ると知らない住所とよく知った名前が書かれていた。
水無月汐、汐のフルネーム。
それはつまり、この封筒を茅人に送ったのは汐であるという事だろう。
少し分厚い封筒を、店のペーパーナイフで慎重に開けると、中からは一冊の小説と、短い手紙が入っていた。
小説のタイトルは、胡蝶と夢の亡者。
薄紫の蝶が舞う、淡い表紙である。
その表紙は、実に汐らしく思えた。
続いて茅人は手紙を開いてみる。
懐かしい汐の言葉は、変わらず優しく思えた。
『茅人君へ。約束の本が出来たので店に送ります。直接渡せなくてごめんなさい。やっぱり、顔をあわせるのは気まずくて、こんな形にしました。あの日、茅人君に言った事に、後悔はないの。茅人君がちゃんと訳を言ってくれて凄く嬉しかったわ。それでね、この気持ちを小説にしたのが『胡蝶と夢の亡者』です。登場人物も年齢も、振られた理由も違うけどね。読んでくれたら嬉しいです。最後に、私、茅人君を好きになれてよかったわ。今までありがとう、元気でね』
汐の手紙を読み終えた茅人の心は、なぜか穏やかだった。
あのプラネタリウムの別れから、寂しさやむなしさが常にあった心は、それらが夢のように消えていく。
もう、会う事のない人に救われた心は、過去の傷も近い未来癒すだろう。
そんな事を思い、茅人は店の開店準備に戻った。
作者の後書き
長かった胡蝶と夢の亡者が、ようやく終わりました。
誤字脱字、相変わらず多いです、ごめんなさい。
ここまで読んで下さった皆様に宣伝です。
現在書きかけ、今後更新予定の『銀の十字架』もぜひ読んでみて下さい。
相変わらずの亀更新だと思われそうですね、もちろん亀更新ですよ!
中味は戦闘物ですので、キャラクターの動きは素早い予定です。たぶん。
では、そんな感じで、この後は皆様のご意見ご感想をどうぞ!
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