YUKI 2016-08-21 01:55:44 |
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毎週水曜日の休みもあるし、体調さえ崩さなければ一人でも何とかなるものだ。
「確かに藤白さんはいつも楽しそうですね、ではいただきます」
彼がオムライスを食べ始める様子を片目に、藤白も厨房に戻る。
その後、一時間もするとお客様は彼だけになった。
先ほど食後の飲み物を届けにいった後からは、彼とは特に会話もない。
窓の外は相変わらずいい天気だ。
店先でも掃除をしてこようかとドアへ向かう藤白の足取りを止めたのは、先ほどまで本に集中していた彼だった。
「そろそろ帰りますので、会計をお願いします」
「え、あ、はい…」
藤白は急いでカウンター横に向かい、その側に来た彼の伝票を確認した。
「760円です、スタンプカードも押しておきますか?」
「はい、じゃあお願いしようかな…っ」
彼が鞄の中から財布を取り出そうとすると、引っかかってしまったのか携帯電話や手帳などが床に落ちた。
「大丈夫ですか?」
落とした物を彼とともに藤白も拾う。
すると藤白が手に取った生徒手帳には彼の名が書いてある。
「天宮(アマミヤ)、煉(レン)?」
思わず口に出して読んだ事を、藤白は後悔する。
いくら偶然とはいえお客様の個人情報を知り、その上声に出すなど非常識だろう。
「すいません、見なかった事にしますので…」
焦りながらも謝罪する藤白の様子を見て、彼も慌ててるようだ。
「いや、落としたのは僕のせいですし、名前ぐらい気にしませんから」
それでも申し分けなさそうな顔をする藤白を見て、彼は少し悩んだあと一つの提案をする。
「では、僕が藤白さんの名を呼ぶかわりに、藤白さんも僕の名を呼んでくれませんか?それなら平等ですし」
彼はこれなら問題ないだろうと、自信のありそうな表情を浮かべた。
確かに、お客様の中には名前を呼びあう仲の人もいる。
そう考えればそれほど問題でもないのかもしれない。
何よりも提案を持ちかけた彼の表情は、名案だろうと言いたげで笑いを誘う。
「わかりました、では、天宮さんとお呼びしますね」
「はい…、て何で笑っているんですか」
声は出さないでいようとしてもどうしても笑いが隠せない藤白に、天宮は少し怒ったフリをする。
その様子がより高い笑いの波を起こし、もう藤白には押さえられそうもない。
天宮は天宮でどうしたらいいのかと別の悩みが生まれているようだ。
ようやく落ち着いたのは十数分後で、ずいぶんと会計を待たせてしまった。
「では、天宮さん、またのお越しをお待ちしていますね」
「また来ます、藤白さん」
店を出る天宮を見送り、そのまま店の前の花壇に咲く紫陽花に目をやる。
青空の下の紫陽花は、薄い青を帯びていて綺麗だ。
明日も良い天気になることを祈り藤白は店に戻った。
あれから二週間もすると日々の暑さも増してきて、さすがに藤白もバテ気味だ。
お客様の注文も冷たい飲み物や食べ物が、ほとんどになってきた。
去年よりも暑く感じているのは藤白だけかと思っていたが、今朝のニュースの話ではやはり今年は去年より暑くなるようだ。
「もう暑くならなくていいよ」
弱気な言葉はお客様が少ないから吐けるものである。
「夏は暑いものですし、諦めるしかありませんね」
店のドアを開けながら藤白に言ったのは、すでに馴染みのお客様の天宮である。
天宮の手元には、なにやら小さなケーキの箱らしき物があった。
「暑中見舞いです、冷蔵庫に入れて後で召し上がってください」
渡されながらも藤白は戸惑う。
「このような物は受け取れません」
経営者としてお客様から物を貰うのは、良い事ではないだろう。
「せっかく買ってきたのに返されても…、じゃあ他のお客様にもサービスで出すのはどうですか?今ならお客様も少ないですし、藤白さんのも僕の分も足りるでしょう」
天宮は少し考えてから、一つの提案をあげてきた。
藤白が箱の中身を確認すると、ゼリーのようで数は八つ。
店内の人数は六人。
確かにこれなら足りるだろうが、良いのだろうか。
「でも、お客様から貰うのは…」
「では、これは知り合いからとして受け取ってください、それなら問題ありませんよね」
知り合いから貰うのは問題ないだろうが、流されている気がする。
でもこのまま頂いた物を返すのも、失礼だろう。
「わかりました、では後ほどお持ちしますね」
とりあえず納得した藤白はゼリーの入った箱を冷蔵庫に入れ、天宮を席に案内する。
席についた天宮の手元には相変わらず、一冊の本があった。
「本当に天宮さんは本が好きですね」
「今は読むだけですけど、いずれ書く側になれればと思っているんです」
藤白が何気なく呟いた言葉に、天宮は自身の夢を添えて返す。
沢山の本を読んで、色々な知識に触れてきている、そんな人の書く物語はきっと素敵な物だろう。
「いつか、天宮さんの描いたお話が出来たら、私にも読ませてくれますか」
「まだずっと先になると思いますけど、いつかかならずお渡しします」
藤白からのお願いに約束をしてくれた天宮の優しげな瞳には、芯の強さが見える。
「はい、待ってます」
微笑みを浮かべ厨房に向かう藤白の心には、暖かな感情が溢れていく。
この気持ちの『名』は何と言うのだろうか。
木漏れ日のような暖かい感情。
けれどまだその名は分からない。
いつか分かる時は来るのだろう。
そんな風に思い馳せながら、先ほどのゼリーを白い皿に乗せ、周りにカットしたフルーツを添える。
そのままでも問題はないのだろうけど、せっかくだからと思い添えてみたのだ。
「お待たせしました、どちらか選んでください」
ゼリーは二種類あり、ベリー系、シトラス系がありトレイに乗せたお皿を天宮に見せる。
「いや、僕は残った方で」
「いいから選んでくださいっ」
遠慮がちの天宮に対して、藤白は引く気はない。
その様子に少し間を置き、天宮はシトラスの方へ指をさす。
その表情には苦笑いすら見えるが、藤白は気にしない。
「どうぞ、と言っても、天宮さんが買ってきてくれた物ですけどね」
天宮の前に置かれたゼリーは先ほどの箱に入っていた物より、華やかに輝いて見える。
他のフルーツや、フルーツソースと供に盛りつけるだけで、あのシンプルなゼリーがより綺麗に見えた。
「凄いですね、あのゼリーがこうなるなんて」
微笑みを浮かべゼリーを見つめる天宮に藤白は小さく首を振る。
「果物を少し足しただけですし、大した事はしていません」
微笑み会釈をし、他のお客様にゼリーを配りに行く藤白を横目に天宮は手元の本を開く。
すると本の最初のページから先ほど買った栞が落ちた。
レジ横で偶然見かけた木製の栞。
本物のクローバーを加工し木目に装着されている、シンプルでどこか暖かみのあるそんなものだ。
普段栞など買う事はないのだが、あのときはつい手が延びてしまった。
なぜ惹かれたのかは分からないが、買って良かったと天宮は思う。
藤白の方は、ゼリーを他のお客様に配り終え、自身もカウンター内の椅子に座りゼリーを食べ始めていた。
藤白の口元に運ばれたのは、薄紅のゼリーに包まれたラズベリー。
窓からの明かりが反射して煌めく様子は涼しげであり、口に含むと甘酸っぱく爽やかな味がする。
その様子を眺めながら天宮も薄黄色の冷菓を口に含ませた。
店内は外よりは暑くはないが、外気との温度差で体調を崩さないよう、冷房は控えめだ。
お客様は冷たい飲み物を飲んでくつろいでいる為まだ良いが、朝から厨房で頻繁に調理をしている藤白にはなかなか厳しいものである。
そのせいか、最近の藤白は夏バテ気味だ。
食欲もなく、夜もあまり寝付けていない。
明後日は休みとはいえ、やはりこの調子での週一休みは辛い。
しかしこの店は藤白が一人で経営している。
体調が悪いとはいえ、風邪等の病気や動けないほどの怪我でもないかぎり店を休む事は出来ない。
お客様に迷惑をかけるくらいなら、明後日まで多少無理をしてでも頑張りたいと藤白は思っているのだ。
そんな事を知らない他のお客様達は、デザート代わりにサービスで出されたゼリーを食べ終え、会計を済まして店を出て行く。
「今日も暑いわね、こんなに暑いとバテてしまうわ」
「本当よ、藤白さんは凄いわね、こんなに暑いのにいつも元気だもの」
店の外に続くドアを開け、漂う暑さにお客様達は口々に言葉を交わす。
お客様の言葉に言い返してしまいたい心を押さえて、いつものような笑顔で藤白は答える。
「ほとんど店内に居ますから、全然平気ですよ」
心配させまいとつく嘘を信じてくれて、お客様達は店をあとにする。
その様子に安心し、店内に入る藤白に天宮は独り言のように声をかけた。
「平気なわけないでしょう、ろくに休めずに店内や厨房に立ってるんだから」
本を閉じ不機嫌そうな天宮には、先ほどの藤白の嘘を見破っているようだ。
「少し大変ですけど、本当に大丈夫ですよ」
それでも藤白は平気だと嘘をつく。
天宮も、他のお客様も、お客様に変わりはない。
心配させる事は、あってはならないだろう。
しかし、そんな嘘すらも見抜いている天宮は、より不機嫌になり声を荒げる。
「だからっ…もう、いいです、帰りますので会計を」
それでも本人が平気だと言っている以上天宮にはどうすることも出来ない。
すぐに落ち着きを取り戻そうと声を押さえ、席を外してレジに向かう。
今現在、店内にいるのは天宮と藤白のみだ。
なら、天宮が店を出れば藤白は接客をせずにすむし、閉店時間まであと二時間あるが、早めに閉店する事も可能だろう。
お客様である天宮に出来るのはこれが精一杯である。
しかしそんな気持ちを知らない藤白には目の前の人物がただ怒っているようにしか見えない。
何か藤白が彼に嫌な思いをさせてしまったのだろう。
「あの、すいません、私、何か失礼をしたみたいで…」
理由は分からないが謝罪をする藤白に、天宮はため息を一つつき店を出る前に一つだけ言い残す。
「これ、あげます。あと、店やお客を大切にするのもいいですけど、少しは自分の体のことも考えてください。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、そうじゃないとこっちも落ち着きませんから」
藤白の目を見て言い聞かせるその様子は、どうやら本当に心配しているように見える。
天宮に渡されたのは木製の栞のようだ。
可愛らしいクローバーの栞である。
「ありがとうございます、気をつけて帰ってくださいね」
栞を手に店を出る天宮に声をかける。
小さく会釈をし立ち去る天宮を見て、藤白は早めに店を閉める事にした。
看板をしまおうと、店の外に出るとそこには小さな黒いフサフサの固まりがある。
何だろうと思い近づくと、どうやら黒い子猫のようだ。
その猫は藤白の両手の平に乗るほどの子猫である。
迷子か、捨てられたのかは分からないが、このままほっとくわけにもいかない。
看板を急いでしまい、バスタオルを店内の奥から持ってくるとそれで子猫を包み抱き上げる。
動物病院はまだやっているだろうか。
店の鍵を閉め、藤白と子猫は急いで病院へ向かった。
藤白の店、恋鈴館の近所にある動物病院は、診療時間を過ぎていた。
「困ったな、先生まだいるといいけど…」
院内を窓から覗くと、中にいた看護士さんがこちらに気づく。
その視線に気づくと、藤白も急いで窓から見えるよう子猫を見せる。
するとどうやら状況を察したらしい看護士さんは、急いでドアの鍵を開けてくれた。
「ありがとうございます、実は猫を拾ってしまいまして、先生はまだいらっしゃいますか?」
「奥にいるはずですので、落ち着いて待っていてください、飼い主さんが落ち着かないと猫ちゃんも不安になってしまいますから」
慌ててきたため呼吸の荒い藤白を、看護士は宥める。
呼吸を整え診察室の方を見つめ待っていると、ほどなくして看護婦と先生が現れた。
「お待たせしました、とりあえず診察室へどうぞ」
診察室に入り、子猫を診てもらっているあいだ、藤白の瞳には心配の色が滲んでしまう。
落ち着くように言われても、いつから子猫が外にいたのか、藤白が気づくのが遅れて手遅れになっていたとしたらと思うと落ち着けるわけなどない。
しかしその不安は、次の先生の一言で安心へと変わる。
「見たところ怪我もありませんし、おそらく問題はありませんけど、念のため検査しましょう。今日はこのまま入院して、明日、また迎えに来ていただけますか?」
「はい、よろしくお願いします、明日また来ます」
優しそうな先生の微笑みに藤白も気持ちを落ち着け、ようやく笑顔が戻った。
病院を出た時には、すでに外は夕闇に染まり始めていた。
帰路につく藤白の手には、あのクローバーの栞が握られていた。
昨日の夜はよく眠れず、藤白の今朝の体調は最悪である。
眠い、暑い、体が辛い。
最近寝不足気味ではあったが、昨日の子猫の事を考えるとほとんど寝れなかった。
こんな姿を見たら天宮はたぶん怒るだろう。
しかし明日は休みだし、今日を乗り越えれば、あとは子猫を引き取り少しは休めるはずだ。
自身に言い聞かせ、藤白は店の看板を外に出し、店を開店し始める。
平日のせいか、店はさほど混みはしないが、藤白が心配なのは午後からだった。
平日に天宮が現れるのはいつも午後からだ。
毎日来るわけではないが、数日来ない日もあれば、二、三日連日来る日もある。
曜日もばらついてるため、いつ来るか分からないのだ。
そんな事を思いながらも、手際よく仕事をこなし、気づけば夕方近くになっていた。
もしかしたら今日は天宮は来ないのかもしれない。
そんな藤白の淡い期待は、すぐに消えてしまった。
「こんにちは、体調はどうですか?」
店内に入ってきた天宮の様子に、藤白の鼓動が跳ね上がる。
どうやら、藤白が眠気に負けそうになっていたため、ドアベルの音に気づかなかったようだ。
天宮には体調の悪さが、昨日の時点でバレていた。
ならば今ごまかす事も不可能と言える。
「少し寝不足ですけど、明日はお休みですし、大丈夫ですよ」
言葉を選びながら席に案内する藤白に、天宮は呆れているようだ。
「昨日あれほど言ったのに、どうしてすぐに休まないんですか」
天宮の言い分はもっともだが、藤白にも事情があったのだ。
席についた天宮に、藤白は昨日の子猫の話を簡単に説明した。
「それで、寝不足になっていると」
苦笑いを浮かべる藤白に、天宮は小さく頷く。
やはり怒られてしまうだろうか。
自身の体調管理も出来ない人が、子猫を拾うなどあまり褒められた事ではない。
しかし天宮は僅かな沈黙の後に、意味の分からない質問をしてきた。
「子猫を買うために必要な物は、既に買ってきたんですよね」
「へ?あ、はい、昨日、病院帰りに先生方に聞いてケージや子猫さんのトイレセット、ご飯等は買ってきました」
質問の意図が分からないまま答える藤白を余所に、天宮はさらに続けて言う。
「分かりました、では子猫は僕が迎えに行きますので、藤白さんは病院にその事を連絡してください」
「いえ、そんなご迷惑はかけられません、大丈夫ですから」
天宮の言葉に藤白は焦りながら、しかし、はっきりとその提案を断る。
天宮は大切なお客様だ。
その彼に、店主である藤白が私用で頼るのは、何か違う気がする。
天宮は優しい人だ。
そして今の藤白が、無理をする事は良くない。
彼が言う事は正しいかもしれないし、そうすべきなのだと思う。
それでも、嫌なのだ。
自身がここで頼る事で、今まで自身を支えていた『何か』が崩れてしまう気がする。
互いの間に沈黙が流れていく。
しかし時は確実に流れていくし、店を閉めたあとは子猫を迎えに行かねばならない。
「あの、今日は早めにお店を締めて、子猫を迎えに行ってきますので」
先に口を開いたのは藤白の方だった。
言葉なく立ち尽くしている天宮の横を、目線を逸らし小走りで藤白が通る。
「では、せめて手伝いを…」
「お客様にそんな事はさせられません」
ようやく出た天宮の言葉にも、藤白は笑顔で拒絶する。
『お客様』という藤白の言葉が、今ほど天宮に残酷に突き刺さった瞬間はないだろう。
しかしその言葉が痛いのは、藤白も同じである。
その証拠に藤白の微笑みはいつもの暖かさとは違い、酷く泣きそうなものだ。
その表情を見せまいと、外の看板を外しに向かう藤白の後を、寂しげな表情を浮かべ天宮は見つめるしかない。
看板を店内に入れ、藤白が店内を掃除しようと箒を取り出すと、天宮は藤白に声をかける。
「僕はもう出ますけど、無理はしないでください」
「あ、はい、心配させてごめんなさい」
店のドアを開け告げた天宮への藤白の言葉は、決して天宮が望んだものではなかった。
天宮は謝ってほしかったわけではない。
そんな悲しい顔をさせたかったわけでもないのだ。
ただ、心配で、少しでも元気になって、あの暖かな笑みを藤白に浮かべてほしかっただけであった。
しかし実際は、天宮は高校生で、一人暮らしをしているとはいえ、親のお金で生活をしている立場なのだ。
社会人の一人でお店を経営している、強く優しい藤白には頼りなく写るのだろう。
肩を落として店を後にする天宮を見つめ、藤白も心が痛む。
突き放したのは藤白自身だ。
傷つく資格もないのだろう。
しかしそれでも、『お客様』と『店員』の線引きは必要なのだ。
それにこうして掃除をしている間も、子猫が藤白の事を病院で待っている。
早く終わらせて、迎えに行かなくてはならない。
そうこうして、明日の食材の発注、売り上げ計算、食材の下拵え、戸締まりの確認を終え、藤白は病院に連絡をし店を出た。
しかし店を出た瞬間、店の隣の建物に藤白のよく知る人物がいた。
「天宮さん?忘れ物ですか?」
そこにいたのは、少し前に店を出た天宮である。
何か忘れて取りに戻ってきたのだろうか。
店の掃除の際、一応お客様の忘れ物について確認もしてはいるのだが、見忘れがあったのかもしれない。
そうならば、急いで店に戻って確認しなくてはならないだろう。
ところが、店に戻ろうとする藤白に天宮がかけた言葉は、予想してないものだった。
「違います、藤白さん貴方を待っていたんです」
「え、待っていたって、私はこのあと病院に…」
天宮の言葉を藤白は理解できず、しかし急いでいる事だけでも伝えようとする。
「ですから、病院に行くのを付き添うために待っていたんです」
天宮の話を歩きながら聞くと病院の場所までは分からないが、かといって体調の悪い藤白をそのままにも出来ず、仕方がないので店の外で待っていたという事だった。
その話を聞いて始めこそ意地を張っていた藤白だが『迎えにいく途中倒れたら大変ですから』との言葉に反論できず、されるがまま病院に付き添ってもらう事にしたのだ。
天宮の説教を聞きながら歩いていると、病院までの道のりが近く感じた。
説教をされて感じる事ではないのだろうが、側に頼れる人がいるというのは少し心強く思える。
天宮は高校生で、お客様なのに、藤白に頼られる事が重荷になってはいないだろうか。
多分先程までの気持ちにはそんな思いも僅かながらあったのだろう。
そんな事を思っている藤白の心境は、天宮には伝わっていないだろう。
そうこうして歩いていくと、目の前に昨日の動物病院が見えた。
中にはいると来院者は少なく、すぐに藤白の名前が呼ばれる。
「あら、今日はお二人なんですね、ご兄弟ですか?」
「え、いえ、あの…」
看護士さんの言葉に藤白は言葉を詰まらす。
先程の事を考えると『お客様』という言葉に抵抗がある。
なんと言えばいいのか悩む藤白の横で不意に天宮が代わりに答えた。
「彼女のお店の店員です、アルバイトですけど」
笑って答えている天宮を横目に藤白は、混乱する。
藤白の店は誰も雇ってなどいないし、今のところその気もない。
あの店の規模なら一人でこなせるし、今までだってそうやってきた。
雇えないわけではないが、人に頼らなくてはならないほど藤白自身は弱くはないつもりだ。
なのに、それなのに彼は何を言っているのだろう。
藤白の思考が巡る中、子猫の手続きは進んでいく。
藤白の手元に黒い子猫が抱かれたのは、ようやく思考が落ち着き冷静になれた頃だった。
「予防注射もしておきましたし、何か困った事がありましたら、いつでもご連絡ください」
「はい、ありがとうございました」
看護士と医師の説明を聞き、手続きと支払いを終えた藤白は礼を言い、子猫と天宮と供に病院を出た。
「天宮さんも今日は付き合ってくれてありがとうございました、気をつけて帰ってくださいね」
病院の前で頭を下げる藤白に、天宮は言う。
「お店まで送ります、もうすぐ暗くなりますし」
天宮の言葉に藤白が空を見上げると夕焼けのオレンジが、夜の闇と僅かに混ざり合い始めている。
ここで断るのは失礼になるだろうし、確かに暗い道を今の藤白の体調で歩くのは不安だ。
「はい、では、お願いします」
「では、行きましょう」
藤白の素直な返事に、天宮は優しく声をかける。
そんな二人の帰り道は静かなものだった。
それでも聞きたい事のあった藤白が沈黙を破る。
「あの、さっき看護士さんに言っていた事なんですけど」
「看護士さんに言っていた事…子猫の名前がまだ決まっていない事ですか?」
少し考えたあと、天宮は答える。
確かにその事も考えねばならないが、藤白の聞きたい事とは違う。
「違います、天宮さんがアルバイトの方だと言っていた事です、私は誰も雇ってなんかいません」
「でも僕は貴方のお店で働きたいと思っています」
力強く言った藤白の言葉に対抗するよう、天宮は自身の気持ちを告げる。
「とはいえ、平日は学校が終わってからしか働けません、でも休みの日は朝からでも働けますし、時給が安くても文句は言いません」
藤白が驚いているうちに、詰めよるよう天宮は続けた。
あまりの勢いに藤白が考え、悩んでいるうちに、二人と一匹は恋鈴館の前に辿り着いてしまった。
「答えは少しならば待ちますが、あまり待たされるのは好きではないので、出来れば一週間以内には聞きたいと思っています。それでは、今日は帰ります」
店の前まで藤白を送った天宮は、自身の気持ちを伝え終えると、来た道を引き返し家路に着こうとする。
しかし足取りは数歩のところで止まった。
藤白が天宮のシャツの端を掴んだからである。
「え?あの、藤白さん?」
驚いて振り向く天宮の様子を無視し、藤白は聞く。
「何で、何で天宮さんはそこまで私やこの店の事を気にするんですか?私にもこの店にも貴方が思うほど魅力はないでしょう、こんな面白味のない、頼りがいもない店主のいる小さな店でなぜ働きたいと思うんですか、私には理解出来ません」
藤白の言葉に天宮は悲しそうな笑みを浮かべてしまう。
それは答えに詰まったわけではなく、なぜこの女性はこんなにも自らの大切な物や、自身にある価値に気づけないのだろうという思いから現れた感情だった。
「貴方は何も分かっていないんですね」
何も分かっていないと天宮に呆れられ、藤白は不機嫌になる。
「意味が分からないんですが…」
その藤白の言葉に天宮は盛大なため息をつく。
そして、藤白の抱いた子猫を撫でながら、天宮はさらに言う。
「藤白さん、確かに貴方は頼りないし、体調管理は出来ていないし、背は低いし、貴方の店も小さいですが…」
なぜ背の低さまで追加されたのかは納得がいかないが、とりあえず藤白は天宮の言い分を聞く。
「それでも、僕はそんな貴方の暖かな笑顔と、自身の事より他の誰かを思う優しさを隣で支えたいと思いました、それが理由では駄目ですか?」
天宮の言葉があまりにも恥ずかしく、しかし誠実すぎて藤白は視線をそらせずには入られなかった。
藤白以外の人から見てもこれは直視する事など出来ないだろう。
「え、あ、でも親御さんの許可と、学校の許可がないと…」
「両親は単身赴任で家にいませんし、学校は申請書を出せば問題ありません」
弱腰になっている藤白に、さらに詰め寄り天宮は言う。
「でも、学生の本分は勉強ですし…」
「常に平均点以上はキープしているので、問題ありません。まだ何か断る理由があるんですか?」
声も小さくなり勢いに押された藤白に対して、畳み掛けてくる天宮の圧は強い。
「いえ、ありません」
藤白に言える言葉はそれが精一杯だった。
藤白に抱かれている子猫も呆然としている。
「では、履歴書等は明後日までに持っていきます。シフトは僕も一緒に組みますからその時に、いいですね?」
あっと言う間に話は進み、藤白はただ頷く事しか出来ない。
ものの数分で藤白は天宮を雇う事が決まり、これではどちらが雇い主か分からない図である。
「他に何か質問は?なければ僕は帰ります」
「えと、あ、子猫の名前どうしましょうか」
勢いに飲まれ藤白はつい子猫の名前についてまで聞いてしまった。
しかし、子猫の名前だってこれから飼う藤白にとっては、重要な問題である。
「名前ですか、そうですね…」
今までの流れでは珍しく天宮の言葉が詰まる。
しかしそれは藤白も同じである。
黒い子猫は天宮と藤白の顔を見比べ、不思議そうな顔をしている。
「四ッ葉(ヨツバ)…なんて、どうですか」
悩んだ末案を出したのは天宮だった。
「四ッ葉、クローバーの四ッ葉ですか?」
藤白の問いに天宮は頷く。
「この子猫との事がなかったら、僕は貴方への思いを言えなかったかもしれません。それに、藤白さんが気づかなかったらこの子猫は助からなかったかもしれない。だから、幸運の四ッ葉のクローバーという意味で『四ッ葉』です」
幸運の四ッ葉のクローバー。
確かにこの子猫にぴったりな名前かもしれない。
「四ッ葉、貴方の名前は四ッ葉ですよ、これからよろしくね」
藤白は子猫の喉を撫で、幸せな微笑みで子猫の、四ッ葉の名を呼ぶ。
四ッ葉もどこか嬉しそうに喉を鳴らす。
「気に入ったみたいですね、四ッ葉、僕の居ない間藤白さんを頼みましたよ」
天宮の言葉に反応したかのように、四ッ葉は愛らしく返事を返す。
藤白は困ったように笑い、天宮は楽しそうに笑う。
二年目の夏、恋鈴館には一人と一匹の店員が増えた。
空はすでに暗くなっていたが、夜空には満点の星空輝いている。
それはまるで、新たな店の始まりを時が歓迎しているようであった。
END
+ 後書き +
夏から書き始めまして、思いの他長くなりました『紫陽花とクローバー』ですが、ひとまずこれにて締めとさせていただきます。
現在夜中の三時近くです。
眠いです。
この後即寝ます。
誤字・脱字・ミス等多々ありますが、その辺はどうか許していただければと思っています。
なお、今後この作品の続きを縁があり、やる気が出れば書くかもしれません。まあ、分かりませんが。
ですがその他の作品はドンドン書く予定なので、興味のある方は是非読んでみてくださいね。
では、以降、ご意見・ご感想をどうぞ。
此のサイトで小説を
読むのは久々でしたが、
良い作品に出逢えました。
何処となく復古調で
穏やかな時間の流れる
喫茶店の雰囲気が
伝わってくるようです。
藤白が四ッ葉ちゃんに
初遭遇する場面では、
>>そこには黒い仔猫が縮こまっていた
と書くのではなく
>>そこには小さな黒いフサフサの固まりがあった
と書いている処、
壺を押さえているなァと
頬が緩んでしまいましたw
見事な表現力ですね。
主上げです
あと遅れましたが、白狐さん、最後までお読みいただきありがとうございました。
今後は上記の名で頑張りますので今後もよろしくお願いします。
真夜中に失礼します。
久々に心温まるような優しい時間の流れる小説に出会い、一気に呼んでしまいました。
天宮くんとの今後が気になるところですね。
とても面白かったです。ありがとうございます
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