YUKI 2016-08-21 01:55:44 |
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高校一年生の夏休み、私、藤白雪(フジシロユキ)は初めてバイトというものをした。
『高校生になったらバイトとかしてみたいな』なんてたわいもない理由だったが、それがきっかけで私の人生は変わってしまった気がする。
そのバイト先は高校近くの、小さな喫茶店だった。
大きな窓から木漏れ日を沢山吸い込んでいた喫茶店は、まるで外とは違う時間が流れているように感じたものだ。
室内の珈琲の香りは、BGMの名も知らないクラッシックの音に乗るよう、優雅なものだったのを今も覚えてる。
その店で夏の日々を過ごす私は『いつか私もこのような空間を持てるだろうか』と思うようになり、夏休みだけのつもりがその後もバイトを続け、珈琲の入れ方から、経理の資格取得、料理の研究等を大学卒業まで必死に勉強した。
バイトのお給料は必要最低限しか使わず、貯金をし続け、大学卒業時にはお店を持てる額になった。
大学は経済学部を選択し、ある程度の事務も出来るようになったし、お店も小さいながら手に入れ、店を開けてからもうすぐ2年目を迎える。
これは、喫茶店『恋鈴館』とその女主人の私、藤白雪の二年目の夏の話である。
その日の午後は雨が降っていた。
朝のニュースで午後からは雨降りだと言っていたが、あまりの土砂降りにお客様は一人もいない。
これでも朝からお昼前まではそれなりに混んでいたのだ。
このお店も後数日で二年目を迎えるわけで、常連のお客様も増え、今ではそれなりに貯金も出来るほどになった。
なので来客の少ない日があっても気にはならない。
しかしさすがに三時間もお客様が来ないと暇だ。
ゆっくりと流れるBGMが藤白を眠りに誘う。
このままお客様が来ないなら今日はもう、お店を締めてしまおうか。
『カラン、カラン』
そんな事を思っている藤白の耳に、ドアベルの音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
慌てながらも藤白は、出入口に立つ見慣れた少年に優しく声をかける。
目の前に立つ少年は、一月程前から頻繁に通ってくれている常連のお客様だ。
傘を持たない彼は全身が雨で濡れており、少し肌寒そうに見える。
急いで奥からバスタオルを持ってくると、藤白は優しく微笑みそれを彼に渡した。
「大丈夫ですか?とりあえず、それを使ってくださいね」
「ありがとうございます」
藤白からタオルを受け取ると、彼は小さく会釈した。
奥の方の窓際の席に案内し、藤白は急いで暖房を入れる。
初夏とはいえ、雨に打たれれば体も冷えるだろう。
この天気なら他のお客様はまず来ないと思うし、室温を上げても問題ない。
なにより、彼が風邪を引くことの方が大変だ。
そんな思いを浮かべ、藤白はカウンターの中の厨房で牛乳を沸かし始めた。
飲み水の入ったグラス、布のおしぼり、それと換えのバスタオルを持ち、牛乳がまだ沸きそうもない事を確認し、先ほどの彼の元へ急いぐ。
藤白が彼の席に付いたと同時に、彼はメニュー表を閉じた。
「注文良いですか?」
微笑を浮かべ問う彼の髪は、タオルで乾かしたためある程度乾いてはいるが、やはりうっすらとまだ雨に濡れていた。
グラスとおしぼりを置き、藤白は横に小さく首を降り言う。
「今、ココアを沸かしているので、もう少しお待ちいただけますか?」
濡れたタオルを受け取り、換えのタオルを渡す藤白に彼は不思議そうな顔をし聞いた。
「え、まだ、何も注文してませんけど」
「サービスです、私も休憩しようと思っていましたし、お付き合いいただけますか?」
微笑みを浮かべる藤白に負けたのか、彼は少し困ったように微笑み、そして頷いてくれた。
その様子を見てから、厨房に戻るともうすぐ牛乳が沸きそうになっていた。
沸く寸前の牛乳を別の小鍋に濾し入れ、ココアの粉末、少量の砂糖を入れ軽く火にかけ、混ぜ合わせる。
再度濾しながらカップに注ぎ、洗い物をシンクに置き水に漬け、二つのうち一つのカップをトレイに乗せ彼の元へ運んだ。
「お待たせしました、どうぞ」
白い湯気を浮かべるココア入りのカップをテーブルの上に乗せると、彼は藤白に礼を述べた。
「ありがとうございます」
彼はどうやら一冊の小説を読んでいたようだ。
中身はカバーがかかっていた為分からないが、おそらく私物だろう。
「本、好きなんですね」
藤白は特に理由もなく、カバーのかかる本を見つめ入った。
「ええ、まあ」
短い返事を聞き、藤白は微笑んで告げる。
「寒かったらおっしゃってくださいね」
それだけ言うと、藤白は厨房へと戻り洗い物を始めた。
外を見れば未だに雨は降り続いている。
店の閉店時間は後三時間、止んでくれるだろうか。
もし止まなければ傘を貸してあげよう。
ただしこのお店兼、二階にあるわが家にはあまり傘の種類がない。
ビニール傘が二本と、茶色と赤のチェック柄の傘が一本あるだけだ。
柄入りの傘は明らかな女性ものだし、それを貸すのは彼に失礼だろう。
ならば貸すのはビニール傘が良いはずだ。
藤白は二階に傘を取りに行こうと思い、彼に声をかけた。
「すいませんけど、私少し二階に行ってきますので、お客様がいらしたらお伝え願いますか?」
「分かりました」
頷きながら呟く彼の目線は、先ほどの小説に向けられている。
藤白は店のドアを開け、茶色い傘を開くと急いで外階段から二階へ上がって行った。
彼に声をかけたとはいえ、長い時間店を開けるのは店主としてよろしくない。
二階の玄関の鍵を開け、中に入り傘スタンドからビニール傘を手に取りどちらが良いか見比べ、大きめの方の傘を選んだ。
あまり普段使いはしないが、毎朝の玄関掃除の度に手入れもしていた為か、汚れもない。
問題なさそうだと思い、ビニール傘を手に玄関の鍵をかけ、一階の店に戻る。
店内には彼以外のお客様はおらず、藤白は安堵した。
「お店、開けてすいませんでした」
彼に声をかけながら店内にはいる。
「いえ、誰も来なかったし、大丈夫ですよ」
一度こちらに視線を移し、一言告げると彼はすぐに手元の本に視線を戻した。
微笑をこぼし、藤白はお客様の使うカウンターのイスに座り、先ほどのココアを手にした。
ココアは少し冷めていたが、猫舌の藤白には丁度良い。
ほんのり暖かいココアを手に、藤白の視線は彼に注がれていた。
時計の音とBGMのみが流れる暖かい空間は、先ほどまでの睡魔を呼び起こす。
いつしか睡魔に負けた藤白を起こしたのは、先ほどまで奥に座っていた彼だった。
「あの、ここで寝たら風邪引をひいてしまいますよ」
肩を揺すられゆっくりと目を覚ました藤白が慌てて時計を見ると、閉店時間が30分程過ぎていた。
「起こしてくれてありがとうございます」
彼に礼を言い、冷めたココアをシンクに片づけ席を立つ。
「じゃあ僕は帰ります、ココアごちそうさまでした」
鞄を片手にドアへ向かう彼に藤白は傘を渡した。
「あの、外はまだ降っているようですし、よかったらコレを使って下さい」
「え、でも」
困ったような顔をする彼に藤白は強引に傘を渡した。
「駄目です、風邪をひいたら大変でしょう?傘は返さなくても良いですから、受け取って下さい」
真剣な瞳で言う藤白に根負けしたのか、彼は苦笑いで傘を受け取る。
「分かりました、では、ありがたく使わせていただきます」
その言葉を聞き満足そうに微笑む藤白に小さく頭を下げ、彼は恋鈴館を後にした。
外は変わらず雨が降り続いたままで。
今日は土曜日のせいか、朝の通勤をする会社員や学生さんはほとんどおらず、静かな早朝だった。
眠い目を擦り、軽い朝食を食べ、洗濯物を干し、掃除を終わらせ、身支度を整える。
そんな感じで部屋を出る頃には時計は八時半を回り、目もすっかり覚めてきた。
急いで二階の店に向かおうと玄関を出ると、藤白を真っ青な空が出迎えていたらしい。
雲一つない空は、昨日の雨の事など思わせまいと言わんばかりに優しく、暖かい。
昨日の彼はあれから大丈夫だっただろうか。
彼が帰った後もしばらく雨足は早かったし、一度雨に濡れ体温を奪われた体は幾ら乾かし暖めたからとはいえ、体力を消費してしまった事実は変えられない。
風邪など引いていなければ良いと、一階の店の鍵を開けながら思いに更けてしまう。
しかしどれほど気にやむ事があっても時は流れゆく。
店内の清掃や、朝刊の回収、店の中や外の観葉植物の水やりに、発注していた食材やコーヒー豆等の受け取りとやることは山ほどある。
気持ちを切り替え手際よく作業を進め、開店二十分前にはすべての準備が整った。
「今日はお客様が沢山来そうね」
恋鈴館は平日より土曜、日曜、祝日のほうがお客様が多いのだ。
おそらく休みの日にはゆっくりお茶でもしたいという、ご近所の皆様のおかげだろう。
そんなわけで、今日は食材も多めに仕入れ、日替わりランチも昨日から仕込んで置いたショウガ焼きである。
忙しくなる日は予め食材を仕込み、後で調理が簡単に出来る物を多く提供するようにしているのだ。
だからと言って手は抜いたりしないし、なるべく美味しい物をといつも思っている。
食材の下準備を終え、店の外に開店の合図を示す看板を出す。
看板はシンプルな物だが、そこに描かれている紫陽花の絵が実はお気に入りなのだ。
いつか年をとり、お店を辞める日が来ても、きっとこの看板は手放さないだろう。
開店を始めてから一時間後、店はこれからランチタイムにはいる。
その事を知っているお客様は、タイミングを見計らい次々とお客様が入ってきた。
どの人も常連のため、今では慣れた間柄だ。
しかしその日はこの時間には珍しいお客様が一人、突然来店した。
彼は晴天の空の下にはあまりに不釣り合いな、透明な傘を持っている。
「昨日はありがとうございました」
丁寧に拭かれた傘を藤白に手渡すと、彼は窓際の席が空いていない事を確認し、カウンター席に腰をおろす。
「あれから大丈夫でしたか」
目線は洗い物と調理に移しながら、藤白にとって聞きたかった事を何よりも一番で聞く。
しかし彼は何を聞かれているのか分からないらしく、困惑しているようだ。
「えっと、風邪とかひいたりしませんでしたか?」
「あ、そういうことでしたら大丈夫です」
改めて聞いてみると、彼はようやく意味が分かったと、微笑しながら無事を知らせてくれた。
その言葉を聞き微笑み返すと、藤白は出来たばかりの料理を手に待たせていたお客様の元へ向かう。
店の中の空席はカウンターしかなく、このような混雑する様子を知らない彼は少し戸惑っているらしく、料理を運び終えて戻ってきた藤白に告げる。
「タイミングが悪かったみたいですね、今日は帰ります」
「大丈夫ですよ、あと一時間もしたら少し落ち着きますから」
ランチタイムはいつも始めの一時間だけで、その後は徐々に落ち着いてくるのだ。
おそらく今日もそれは変わらないだろう。
「そうですか、では落ち着いてからまた来ます」
しかし、彼はそれでもどこか遠慮がちだ。
申し訳なさそうにする藤白に、彼はこのあとの予定を教えてくれた。
「それにこの近くには書店も、図書館もありますから、良い本があれば借りるなり買うなりしようと思っていたんですよ」
ですから心配ないと微笑み彼は店を出ていった。
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