都々 2016-06-18 21:21:15 |
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鉛のような重い身体をシーツに沈ませる。視界の端に脱ぎ捨てたままの制服が映ったが、起き上がるのも億劫ですぐにそこから視線を逸した。数時間後にはここから出て窮屈な電車に揺られ、学校に向かわなければならない。教室の扉に手を掛けるところを想像すると、このまま永遠の眠りにつくのも悪くないと思えた。
身体は睡眠を欲している。にも関わらず、ここ最近特に睡眠時間が減っていた。瞼を閉じても1、2時間後には目が覚める。その繰り返し。こういう時、高校入学と同時に家を出て正解だったと思う。十分な睡眠も取れず、その上自宅にいても尚誰かに気を使う生活を続けられる程、私は出来た人間ではなかった。
枕に顔を埋め、深く息を吐き出す。やがて眠気がやってきたが、思考を働かせるとあの人達の声が聞こえる気がして眠ることだけに意識を傾けた。
「あの子はバケモノだから」
教室の真ん中。一つだけ残された席に私は座っていた。縛られている訳でもないのに手も足も石のように固くなり、少しも動かすことができない。私を取り囲むように立っている彼らの顔は黒く塗り潰されていて見ることは叶わないが、皆見慣れた制服を着ている。私が毎日身に着けているそれと同じものだ。どこからともなく聞こえる声。此方を気遣っているようでいて、そこには確かに悪意が含まれていた。似たような言葉があちこちから飛ぶ。誰が言った言葉なのか、それとも誰も発していないのか、それすらも分からない。違う、と悲鳴を上げたところで意識が浮上した。
クーラーの無機質な音が聞こえる。部屋は涼しいはずなのに、着ていたTシャツは汗でじっとりと湿っていた。枕元のスマホを手に取り画面に明かりを灯すと、デジタル時計が示す数字は午前2時を少し回っていた。身体を起こし足を引きずるようにしてキッチンへ向かう。グラスにミネラルウォーターを注いで3分の1程を飲み干せば、幾らか気持ちも落ち着いた。
ベッドには戻らず、グラスを片手に本棚の隣へ腰掛ける。壁に背中を預け、ベランダに続く窓に視線を遣った。私がもしこの棚に並べられた小説の主人公だったなら空は綺麗に輝いていたのだろうが、見上げた先には輝く満点の星も、静かに浮かぶ月もなかった。雨を降らす程ではない雲で覆われた薄曇りの都会の空。お世辞にも美しいとは言えないそれを、ひたすらに眺め続けた。
どれくらいそうしていただろう。クーラーの風を直接浴び続けた足の指が冷えてきた頃、待ち望んでいた音が聞こえた。もたれた壁の向こう側から微かに耳に届くアコースティックギターの音。肩の力が抜けていく。いつの間にか浅くなっていたらしい呼吸も、ゆっくりと通常のものへと戻っていった。
この壁の向こう側に住んでいるお隣さんは、私よりも少しだけ年上の大学生だ。どこにでもいる普通の学生といった風貌で、決して近所迷惑を進んで行うような人ではない。すれ違いざまに会釈をする程度の浅い関係にあるその人は、少し前からこうして夜中にギターを弾いていた。お隣さんの部屋は所謂角部屋と呼ばれる物で、上下の階も今は空いている。隣で暮らしている女子高生はぐっすり寝入ってしまっていると考えているに違いない。実際、その音はこうして壁に近付き耳を澄まさなければ聞こえない程遠慮がちなものだった。そのメロディーと一緒に聞こえてくる心の叫びさえなければ、私も気づかなかったと思う。
その日も嫌な夢にうなされ、もう一度眠る気にもなれずベッドの上でぼうっとしていた。ふと叫び声に近い何かが聞こえた気がして窓を開けたものの、どうやら声の出処は外ではないらしかった。隣の部屋からだと思い、壁にそっと耳を添える。それが歌声だと気付いたのはひとしきり泣いた後だった。下の名前も知らない隣人が、心の奥底に抱えた本音。歌詞と言うには纏まりがなく、ただ思いの丈を言葉にしただけの不器用な歌だった。
今日もそんな歌声が壁越しに聞こえる。まさかお隣さんも声に出していない心の中の思いを聞かれているとは思うまい。明日顔を合わせても、変わらず私達はただ会釈をするだけだ。そこには悪意なんて一欠片もなく、私はそれが心地良かった。
壁につけていた背中を僅かに丸め、抱えた膝に額を乗せる。途切れ途切れに紡がれる拙い歌と、素人の私でも分かるくらい下手くそなギターの音。足先は冷えたまま、窓の外には相変わらずぼんやりとした空が広がっているだけで、月も星も輝いていない。だけど、明日もあの教室に私は行ける。そう思った。
▼ 診断メーカー「今夜の鬱語り」様よりお題をお借りして。
( 今夜の鬱語りに、「『あの子はバケモノだから』と影で言われている少女」は如何でしょう? )
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