フルムーン 2016-05-03 02:16:08 |
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僕は気付いたら人間の部屋に居た。
僕は阿呆だ、誰が何と言おうと阿呆に違いない。人間の優しさとあの声に釣られ、今まで嫌だ嫌だと可哀想とまで言った飼い猫同様に囲われてしまうなんて。
混乱と後悔の最中、またあの柔らかな声が部屋中に優しく響く。
「お客さんは魚はお好きかな、にしんしか無くてすまないね。」
もう騙されはしないぞ、僕は人間に囲われたりはしない。
目の前に置かれた器に入った二匹の焼いたにしん、自然と近付いた人間に僕は威嚇した。
噛み付いてやろうか、引っ掻いてやろうか。けれど出来なくて、僕はただ威嚇するだけ。
人間といえば少し驚いた様な顔をしてはまた優しい笑みを浮かべる。どうせ他の人間同様、騙して痛い目に合わせようって魂胆なんだろう。
でも、僕の考えは容易く覆された。
「安心しなさい、私は君に何もしない。」
何もしない、その言葉を信用しろって言うのか。
でも、何故か僕は信じてしまう。この人間に特別な力等あるようには見えないというのに、歩み寄ってしまうんだ。
僕はにしんを一尾口にくわえた、そして焼くという行為は魚の旨味を実によく引き出す物だと知った。
焼かれたにしんは臭みもなく肝の苦味も少ない、人間や飼い猫はこんな美味なる物を食っていたのか。
もう一尾のにしんも口にする。
僕の為にだろうか、にしんからは僅かな塩味しかしなかった。
美味い物をたらふく食える生き方と自由な時間を過ごせる生き方、二通りの生き方。
今なら僕はどちらを選ぶだろう、いや、きっとどちらも選ばない。
飼い猫になるとしても、この目の前で優しく微笑み掛けている笑顔が無けりゃ飯も美味くは感じないだろう。
野良は確かに気楽だ、だけど共に命の危険も伴う事もある訳だ。
何よりこの人間が居ない、それはなんと寂しい事なのだろう。
こんな風に考える自分を、今まで想像も出来なかった。
僕は今日をこの青年の部屋で過ごす事に決めた。
やはりまだ信用しきれる訳もなく、僕は相変わらず距離をとった所に鎮座していた。
大人しく息を潜め、この青年の行動を見張る。
この頃の僕には想像なんて出来なかったが、今で言う探偵の様な気持ちであったのだろうと思う。
よく見れば青年は分厚い布の上に腰掛けている、あれは何だ。ああ、飼い猫が話していた布団という物か。
この青年はこんな時間も寝ているのか、なんて寝坊助だ。
他にも何か無いものか、辺りを見回してみると高く積み上げられた本の数々。
この青年は本なんて読むのか、僕の生まれた隣町ではこんな物を読む変わり者なんて居ない。
皆働き、活気のある男共ばかりである。
こちらの町は変わり者が多いのだろうか、そんな事を考えていると青年は口を開いた。
「君に名前はあるのかい、無いのならば私が付けても構わないだろうか」
名前、そんなものある訳が無い。ずっと野良暮らし、縛られる様な物は一つも無いのだから。
この人間は僕に名を付けて楽しいのだろうか、しかし呼び名があるという事には少し憧れた事もあった。
呼び掛けられてみたい、僕と話したい猫に名を教えてみたい。
そんな子供染みた欲、随分前に諦めた。
付けるならば勝手に付けろ、そう言うように一声だけ鳴き声を上げた。
すると青年は僕の意図を理解したかの様に微笑み、また口を開いた。
「有り難う、ならば…そうだ。紫苑という名を付けても良いだろうか、私の好きな花の名前なんだ」
シオン…僕の名はシオンか。これは良い、とても呼びやすい。
沸き上がるこの感情は、僕はきっと喜んでいるのだろう。ごろごろと鳴らす喉の音は何よりの証明だ、僕はこの青年をとても気に入った。
青年は山の様に詰まれた本の中から一冊、本を手に取り僕の元へ歩み寄って来た。
先程迄の警戒は嘘の様に解いてしまって、僕は青年が隣に座るのをじっと見ていた。
栞の挟んだページを開けば僕の前に置き、青年は何処か楽しそうで、しかし憂う様に微笑んで一言漏らした。
「紫苑、どうか君は私を忘れずに居ておくれ。」
青年はかなりの心配性だ、僕はそれ程に記憶力が悪い様に見えるのだろうか。全くもって不愉快である、しかし青年の憂いを帯びた眼差しを見ると僕は静かに尻尾を振った。
その日の時は何とも早く過ぎて行った様に感じた、何せもう夜である。
「さ、お食べ。」
青年は部屋で食事を摂る様子、そろそろ僕も腹が減ってきた。
ふと差し出されたのは青年の食事から選りすぐったおかずの数々、これはなかなかの馳走だ。
昼食べた物とは桁違いに美味と感じる。まあ、芋の煮た料理は何とも気味の悪い食感だったが、味は悪くない。
僕は余程美味そうに食していたのだろうか、青年は嬉しそうに小さく笑みを溢した。
「紫苑を見ていると、食事が美味しく感じるよ」
それは誠に良い事である。
しかし、僕を見ていると。という言葉がどうも引っ掛かる、まあ飯が美味い事に免じて目を瞑るとするか。
青年が一つ咳をした。
それは食事を終えて二、三と時を刻んだ頃。
毛繕いの為に腹を出し仰向けになっていた僕は驚き目を丸めた、青年はばつが悪そうに眉を下げた。
「すまないね、驚かせてしまった」
いや、それよりお前体調が悪いのではないか。
そう聞いても所詮は解り合えぬ猫の鳴き声が部屋に響くのみ。青年が口を開きかけるも、同時に障子が開かれる音と紡がれた青年と違う声音に僕は尻尾の毛を逆立てた。
「聡一郎、猫なんて入れて…」
障子が開かれた其処には、和服姿の似合う青年と顔立ちの似た女性が立っていた。
どうやらこの青年の名は聡一郎というらしい、僕でもそれ位気付けた。
そして女性をじっと見据えると、後ろから青年の声が聞こえた。
「母さん。雨に濡れていて、紫苑は…」
成る程、女性は青年の母親という訳か。
僕は、一体何だと言いたかったのだろう。
青年の言葉は女性の声に掻き消された。
「名前まで付けて…猫なんて入れて、もし何かあったらどうするのっ」
酷い金切り声だ。鼓膜が可笑しくなるのではないか、そう錯覚する程である。
それに、どうやら僕はこの家には不要の存在の様だ。すると突然、青年が咳き込み始めた。
「紫苑は…私の…ごほごほっ、ごほっごほっ」
口元に添えた青年の手が赤く染まる。
あれは何だ…青年は苦しいのか。
僕が人間なら、青年の背を擦ってやれる。
僕が人間なら、青年に薬を出して苦しみを和らげてやれるのに。
呆然とするなか、青年の母親の悲鳴に次ぎ医者を呼びに行く青年の母親の足音だけが響いた。
医者が来て、横たわる聡一郎の診察とやらを始める。
騒動で僕の存在は忘れてしまっているのだろう、青年の母親はただ青い顔で青年を見下ろしていた。
僕はといえば、部屋の隅でただひたすら祈っていた。
僕はまだ青年の言い掛けた言葉を聞いていない、どうしたら青年は苦しまないのか。
僕が一体、青年に何をしてやれるのか。神が居るとするならば、青年ともっと一緒に居たい。
もう、一人は嫌だ…と。
何とも身勝手な祈りである。
暫くして医者が帰った、母親は頭が痛いのだろうか。眠る聡一郎から離れ、何処かへ行ってしまった。きっと、彼女も眠りに行ったんだろう。
そっと、青年の顔を覗き込む。青年の唇の端に付いた赤、これは先程青年が口から吐き出したもの。
拭ってやろう、舌で舐めるとそれは鉄の味がした。
青年は血を吐いたという事だろうか、再び呆然と青年を見つめてしまう。
苦しいなら、僕は何をすれば良い。
辛いなら、僕が支えてやりたい。
痛いなら、僕が治してやりたい。
猫だから、何も出来なくて。
猫だから、支える事も出来なくて。
猫だから、治してあげられない。
人間だったら、こんな願いも聞き入れて貰える訳が無くて。
悲しい。
生まれて初めてそんな感情が湧く、今迄嫌いだった人間に向けてそんな事を思う。
可笑しい、全くもって可笑しいな僕は。けれど、青年を見ていると人間の真似事をしたくなる。
人間では男女が行う所を見た、飼い猫曰く好意がある者への行為だとか。
好きだ、僕はこの人間が堪らなく好きだ。だから、僕にも何か聡一郎に贈りたい。
僕は青年の口にそっと、口付けた。
小さく身動ぎを見せた青年に気付き、口付けを止めると目を塞ぐ様に手で覆い震える青年。
また苦しくなったのか、慌てて青年の顔の傍へと駆け寄る。
手では覆いきれない、水が青年の目から流れ出ていた。
これは一体何だ、目から水なんて流れているのは余程辛いのか。もう慌てる事しか出来ない。
青年は小さく声を漏らした。
「紫苑は私の…大事な、家族なんだよ」
家族…僕は青年の家族だと言うのか。生まれてから親の顔も知らず、一人のらりくらりと生きてきた僕を。
不思議だ、目頭が熱い。次の瞬間、僕の目からも水が溢れ出ていた。
すると青年は驚いた様に目をまんまるくして、不思議そうに首を傾げた。
「お前…紫苑は、私の言葉がわかるのかい」
よっぽど不思議な事だったのだろうか、僕だって人間の言葉位わかるさ。
でなければ人間が怒った時、猫は逃げ出したりなんかしない。
僕は人間がする行為を真似て、頷いて見せた…それも自慢気に。
全くもって、失礼な人間だ。僕を理解力の無い、馬鹿な猫だとでも思っていたのだろうか。不愉快極まりない、そう思っても青年を嫌いだとは思わない。
この気持ちは一体何だというのか、これは僕にも理解出来ない。
「家族という表現は嫌かい、それとも嬉しいと思ってくれたのかい」
相変わらず、子供に語り掛ける様な優しい口調の青年。自惚れだと突っぱねてやりたいが、今の僕にはその余裕は無いらしい。
最後に一つ鳴き声を上げて、青年に擦り寄ってみる。流石のにぶちんでも、これ位すれば理解出来るだろう。
――ポタリ――。
一つの雫が僕の脳天に落ちてきた。一体何だというのだろう、青年は気に入らなかったのだろうか。
上を見上げれば澄ました青年の顔では無く、くしゃくしゃになった青年の泣き顔がそこにあった。
何だ、僕は間違ったのか。驚きと動揺を隠せず尻尾を垂らし耳を折る僕を見て、涙をたっぷりと浮かべたまま青年は笑った。
「有り難う。お前は優しい子だね、最後まで一緒に居ておくれ」
鼻声になり僕の頭に落ちた涙を拭う様に優しく頭を撫で、何処か意味深に何故か悲哀染みて青年は言った。
泣くな…嬉しいならば只笑っていればいいじゃないか。そう言っていても猫である僕の言葉が通ずる訳もなく、止まらない涙を只真っ直ぐに只じっと見詰める事しか出来なかった。
――――……。
青年と暮らし始めてから四度程の朝を迎えた、相変わらず青年は咳をし苦しそうにしながらも優しく澄ました顔を僕に向ける。
無理はするな、そう言ってみたのはこれで何度目か。意味の無い事でもこの青年にはいつか届く、そんな不確かな確信が僕に同じ事を繰り返させていた。
「紫苑、今日の夕食には母が鰻を用意してくれるらしいんだ。紫苑には白焼きを用意しよう、楽しみにしておいておくれ」
鰻…魚屋から盗みたくても独特な滑りで盗めなかった、あの魚か。白焼きとは何だろう、青年の出してくれる食事は毎度違えど美味な物ばかりだ此度も期待出来るだろう。僕は楽しみだ、そう返事した。
…小さく笑みを溢す青年、僕は何事かと真上の顔を見上げた。
「鰻で喜んでくれるとは、今日は吉日かな」
そうだ、青年はこんな所があった。僕の言葉は猫がよく、にゃあと言っている言葉と同じ言葉を発している筈。なのに決まって、理解している様な口振りで話すのだ。
変わった人間も居たものだ、今まで見た事も聞いた事も無い。猫の言葉がわかるなんて、とんだ変わり者だ。
そうこうしている内に空は茜色に染まっていた。
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