風人 2016-04-04 04:41:02 |
通報 |
今年最後に購入した本は『機動戦士ガンダム外伝 ブルーディスティニー』『相棒 season7(中)』『相棒 season8(上))の三冊。
『ガンダムシリーズ』は富野由悠季氏の文章が粗いぶん他の著者が書かれた作品の方がふつうに読みやすい。
言い方を変えたらそれだけ富野監督の文章は個性があるともいえる。
『相棒シリーズ』はseasonごとや各話ごとでかなり特徴が変わる作品。
時々だけど過去の物語とリンクしてることもある。これは長寿ドラマの利点でしょう。反面内容を覚えてないといつどの話だったかわからなくなることもある(笑)。
小説『機動戦士ガンダム外伝 ブルーディスティニー』。
ブルーディスティニー2号機あっさり奪われる。
なぜにこうもガンダムタイプはあっさり奪われるのかふしぎ(笑)。
ガンダムが奪われてしまうのが半ばお約束になってるとしか思えん。
小説『機動戦士ガンダム外伝 ブルーディスティニー』は『第08MS小隊』に雰囲気よく似てる。
ただ『第08MS小隊』が冒頭宇宙を舞台にし本筋の物語はずっと地球上なのに『ブルーディスティニー』は冒頭は『逆襲のシャア』から入って過去に遡り一年戦争中の物語を語り最後は再び主人公たちの現在に帰決する。
あくまで主人公は敵を敵という名の記号としてとらえてないはずが敵パイロットはあくまで人間として名乗りを上げる。
富野由悠季さん以外の宇宙世紀を舞台にした作品や小説はあくまで“戦争”の中の物語としてとらえてニュータイプなどはそっちのけなどが特徴的。
一兵士の物語を連邦ジオン共に描くことで戦争の非常さや訴えるテーマがあるという感じ。
EXAMシステム、ややもすると高性能すぎる感じもしますがそこはゲーム発からの作品ですからね(苦笑)。
ただ主人公が戦いの度に何かしら悩むのは共感する。
小説『機動戦士ガンダム外伝 ブルーディスティニー』のEXAMシステム、人間より速く敵を感知するのは理解できるがパイロットの精神を乗っ取るかもしれないのは恐怖。
ましてや昨日の敵が今日の友になったからといって安易に容認できるわけがない。
理解できないシステムを搭載して仮に暴走したら味方から撃たれるかもしれないという。
EXAMシステムは後の人間を人工的なニュータイプへと変える強化人間の基礎みたいなものでしょうか。
小説実写映画版『ガッチャマン』は実在の国名のが驚き。
アニメの『科学忍者隊ガッチャマン』ではホントアール国など架空の名称だったのに。
90年代のOVA版では70年代アニメ版を踏襲してた。
実写映画版『ガッチャマン』ではISOとギャラクターに属してる人間同士の争いをテーマにしてるんでしょうか。
ただ“ガッチャマン”の名を冠してるのは健だけでなくジョーも含まれてるのも驚き。
小説実写映画版『ガッチャマン』では本来名字のないジュンや甚平に名字が設定され実の姉弟になってたり健とジョーがヨーロッパ時代で幼馴染み、竜にいたってはのほほんとしたキャラではあるが家族を失ってる。かなりオリジナルと違った設定。
これは『キャシャーン』も基本設定は同じながらちがう物語に実写版はなってた。
映画しかも実写という制約のなかで表現は小説読んでたら伝わる。
しかしこうも実写化したがる映画界はオリジナル作品で勝負できないのはテレビと同じになってる。
アニメや漫画の実写化は製作側は考えるべきではないだろうか。
小説実写版『ガッチャマン』いささか物語が急すぎる感じ。
健たちがはじめは仲間意識をたいして持ってないところはある種新鮮。
シビアな雰囲気は出てる。
だけどウィルスXによって人間がベルク・カッツェになりカッツェは寿命は短く代が継承されていく。これもまあよし。
だけどあとがきで『ガッチャマン』で『スターウォーズ』をやろうというのはいささか無理がある感じ。
個人的な感想だけどアニメの実写映画化は無理あるということ。
物語がよくても映像がアニメに追いつけるかといったら追いつけない。二次元の嘘が見えてしまう。実写映画の小説(ノベライズ)ならそこは気づかなく読める。
物語自体は当初仲間意識を持たないメンバーが少しずつ後半になるにつれ各々を知り理解し“仲間となる”はよし。
南部博士の冷徹な印象もまあよし。
だけど『ガッチャマン』と認めるか否かはひとしだいでしょうね。
アニメの実写映画はむずかしい。
実写映画化小説『ガッチャマン』は設定はいいのに設定を物語が生かしきれてない感じ。
アニメや漫画の実写映画はなぜにこうもイメージを崩すのかなと疑問。
アニメ『ガッチャマン』のオリジンが70年代、実写映画が2010年代と時代の違いもあるだろうけど日本映画界がむやみにハリウッドを意識してはコケてる感じ。
『ガッチャマン』という素材はいいのになぜという感じ。
『キャシャーン』も小説読んだけどよくわからない感じ。タツノコアニメ作品が独特な雰囲気あるんでしょうけど実写にあの雰囲気はまず持ち込めない。二次元だから生きてる。
実写映画版の小説『ガッチャマン』は設定はいいけどなんだかなという感じ。
小説実写映画版『ガッチャマン』に恋愛要素はほぼ要らない。
恋愛を加味してるから地球を救う大前提がなくなってる。
あとがきを読んだらあの世界では「石」さえあれば誰でもガッチャマンになれるという。これは平成ウルトラマンと同じ解釈と思ってしまう。
一応小説実写映画版『ガッチャマン』で褒める点があれば個々のキャラはしっかり孤独に悩む点。ただ解決に至ってるかは疑問。
南部博士も部下であるガッチャマンを地球を救うために見捨てるという人物ではないはずなのにこの改変(改悪)はひどい。アニメ『ガッチャマン』ではシリーズ(OVA含み)通して出来た人物をあんな風に書き手の方が解釈するのは理解できない。
実写映画化が難しいのは理解できるけど作品の解釈はひどい。
実写映画小説でおもしろいといえるのは少ないですね。
個人的には『三丁目の夕日』シリーズ、ただしこれは映画版というより漫画のオムニバスを小説にした感じで原作寄り。映画とはちがう。
『パトレイバー THE next generation』これは三巻までしか読めてないけど初代の野明たちにくらべたら物語にハデさやコミカルさは一見少ない。
だけど“なにかを喪失した時代や若者たち”という点では共感がある作品。喪失しながらもそこに何かを見出だそうとする人物たち。
実写映画小説版『ガッチャマン』の設定の多くは映画を見たであろう人たちにたぶん伝わってないでしょうね。
恋愛要素を仮によしとしてもアクションとSF活劇にしないとビジュアルインパクトとして成り立たない。
アニメ『ガッチャマン』においては当初は子供向けゆえにアクションとメカ描写に集中されましたが徐々に高年齢層の視聴者(特に女性層に人気を博し)が出来たことで一躍タツノコヒーロー作品は東映動画作品などと一線を画すことになる。
実写映画小説『ガッチャマン』で総裁Xはよく読んだらまったく出てこない代わりに人間をベルク・カッツェに変えるウィルスXが総裁Xの代わりでしょうか?
なんともその辺の説明も曖昧。
はじめ「GP計画」が何なのかなと思ったらゴッドフェニックスのことと後にわかる。ちょっとわかりづらい。
アクション活劇にした方が違和感なく作れたり見れたんじゃないでしょうか。
アニメや漫画の実写映画のむずかしさが逆に伝わる実写映画小説『ガッチャマン』……orz。
実写映画版小説『ガッチャマン』の世界は日本を中心としアメリカに反発を持たれた国家間というのがまずあり得ない。
読み直したらまんま『トップをねらえ!』みたいでおいおいと内心ツッコミしてしまった。
実写映画の『ガッチャマン』の発想は『トップをねらえ!』。
日本が世界の中心になるなんてこと自体あり得ないorz。
ISO国際科学技術庁の支部が日本にあるというのも違和感。
実写映画『ガッチャマン』は設定と描写が画と合致してないのが致命的欠陥。
アニメ第一話の「ガッチャマン対タートルキング」のあのスピード感や躍動感、一言一言であらわす人物描写が実写映画版には皮肉なことにない。
ジョーの復讐が両親への感情からではなく恋愛になってる時点でジョーはこんなキャラだった?と解離してる。
あと国際科学技術庁の南部博士とカークランド博士の権力争いもアニメにもなかったでしょう。
書き手の方が書きたいことはわかるけどただアクション主体のヒーローモノには不要な要素。
人物、世界観、設定などはいいのに満足に生かしきった感は残念ながらない(>_<)。
90年代のOVA版およびOVA版小説の『ガッチャマン』の方がまだリアリティかつ見ごたえ読みごたえあると思う。
この作品も表面だけなぞっただけと酷評な点はありましたが。
『ガッチャマン』という作品のむずかしさでしょうか。
AI(人工知能)が小説を書くという話題去年ありましたね。
だけど人間よりも面白い創作的な表現や文章ができるかは疑問。人間とAIが仮に同じ発想や飛躍した考えなどあっても方向性はちがうと思う。創作や文章表現も同じ。
人間みたいな閃きや発想の飛躍はまだまだできないんじゃないかと思う。
小説や物語は文章表現で伝わるもの。
日本が世界の中心になってるのは私が読んだ限り『トップをねらえ!』と『ゴジラvsキングギドラ』でしょうか。
だけど現実に考えて日本はリーダーシップを取りたい国ではあろうけど結局はアメリカに追従する国でしかない。
リーダーになりたい思想は政府内や与野党内にたぶんにあるでしょう。だけど現実に可能なわけない。
朝日ソノラマ文庫の横山光輝原作の小説『マーズ』これも途中までは地球が救われるか、と期待を持たせながらぎりぎりのところで日本政府あるいは与党幹部が己たちだけの利を考えたせいでマーズとガイアーの命を絶ってしまう愚かさ。それによりラストは地球が原作通りに爆発。
広い宇宙的視野や思考が持てない人間である限りは地球に危機が訪れることを示唆されてるようでこわい作品。
実写映画版小説『ガッチャマン』再読してるがいまいち理解に苦しむ作品。
ISO東アジア支部が日本にあるのはよしとしよう。ただそのわりにガッチャマンたちの活躍に緊迫感や緊張感に欠けるのが目立つ。
これならアニメやOVA同様に要人誘拐や暗殺した物語の方が世界観に緊張感与えると思う。
もちろん東京という都心が危機に追いやられることでの心理的ダメージはあるんだろうけどなぜギャラクターは南部博士を狙わない?
旧作アニメではたびたび科学忍者隊を欺き攻撃を南部博士にすることもあったのに。
南部博士が堂々と表に出ているならたとえワナであってもギャラクターは誘拐や暗殺を試みる組織それこそ悪の華を咲かす一手にするはず。
実写映画版小説『ガッチャマン』の敵味方双方が何がしたいのが実にわからない作品。
実写映画小説『ガッチャマン』、本来ガッチャマンはマクロな世界のなかで組織や個人の思惑、感情気持ちが複雑に絡み合う世界と思う。
そこに頑ななまでの健の意固地なまでの真面目さ、ジョーの(両親を殺した相手=カッツェ)復讐、ジュンの不器用ながら健への想い、甚平の無邪気ななかに隠れた孤児としての寂しさ、竜は一見のんきに見えながらも唯一メンバー内で家族があるという一途な純粋な思い。
南部博士もまたそんな彼らを従わせ戦いに赴かせながらも時に葛藤し悩み特に健については亡くなったはずの父親がレッドインパルスとして諜報に活躍し時に相容れない存在やライバル、また共闘する互いの関係の複雑さ。
南部博士はギャラクターから地球を救いたい一心を才能からすべてを心血を注ぐ愚直なまでの真っ直ぐさ。
これに対するのはベルク・カッツェ。彼ないし彼女は総裁Xへの愛情や信頼こそがカッツェの唯一の生ある悦び。そして科学忍者隊に苦渋を舐めさせられながらも何度も挑む指揮官らしさ。
だけど実写映画小説『ガッチャマン』にはそれらの長所も短所も失礼ながらすべてなくしてる感じ。
実写映画小説『ガッチャマン』はよく読むと要所要所がおかしい。
科学忍者隊がゴッドフェニックスに乗るにしても本来これはアニメならばレッドインパルスが倒れと云々くらいの説得力があって然るべき点。
ゴッドフェニックスの補助武装にバードミサイルというのもおかしな点。
本来忍者隊は諜報任務を主とし戦いはあくまで最後の手段。
あとがきにはレッドインパルスについて触れらてましたが本編では触れられてない。あるはずの設定が本編で語られてない煮つめの甘さ。
一行や一文でも語られてるならともかくいくつか明らかに語られるべきことが語られてない。
人物が仲間意識を持ってないとありながらあまりに健たちが自分の感情や気持ちでしか動いてないプロ意識に欠ける。兵士であるならそこはプロ意識を持つべき。
肝心なところが欠けてる作品。
オリジナルアニメ作品において科学忍者隊のメンバーはけっして完璧ではない。皆どこか欠けていびつに育ちながらも若者らしくまっすぐ生きようと戦う。
なぜ実写映画小説版にそれがないのか……。
小説『君の名は。』で好きな場面は瀧くんが三葉を探しにいこうとし司や奥寺先輩とあちこちいくなかラーメン屋でようやく糸守町と知るところ。
ラーメン屋の主人と奥さんがいたから瀧くんは糸守町にいくことができる。
なにげにラーメン屋の夫婦がいなかったら瀧くんは糸守町という名前を思い出さない。
またさりげなくラーメン屋の主人が瀧くんをいまはない糸守町にまで案内してくれたりさりげなく町のことを語り伝える。
出番は少ないけどラーメン屋の夫婦さん何気なく好きな人物。
昨年はいろいろ多くの本を購入し読めたが(未読もあり)今年はいまのところないですね。
明けて二週間ですからね。読みたい本のなかに文庫化にいたってない作品もあるでしょうね。
思えば去年は小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』と『ティターンズの旗の下に』が読み始め。
今年は実写映画小説『ガッチャマン』でちょっと失敗。
今日は『サイボーグ009』つながりで小説ではなく映画『RE:SYBORG』について。
『サイボーグ009』としていえば誰もが思うヒロイックな作品ではない。
プロダクションI・G作品としてはアリだけど『009』らしさは少ない。
『RE:SYBORG』としてしてること“リ・スタート”なわけですし。
ジョーとジェットの対立については日米の専守防衛か先制攻撃かということを個人と国家に置き換えて専守防衛についてはヒーローとしての立場。
また作品中の“彼の声”わかりやすくいえばこれは人間ひとりひとりのなかにある善悪の心が左右されやすい象徴。
『009 完結編』で00サイボーグに関わった人物たちが神や悪魔に取り込まれる描写と同じと思われるけど演出としては正直わかりにくい。
“天使の化石”についても神がいることの暗示であると同時にたぶんに正義に生きた人々の象徴であり00サイボーグたちが辿り着く未来への暗示だったと思う。
『RE:SYBORG』についていえば『サイボーグ009』の基本知識があってもたぶんにわかりにくい。劇画調すぎるなおかつ話が尺内に収まりきれない。
『RE:SYBORG』は小説もあるらしいので機会あれば読んでまた映画とくらべたいと思う。
大人向けだけど大人向けすぎかつ硬派。
『サマーウォーズ』に『クライシス・オブ・OZ』(かな?)という外伝小説作品あったけど『君のの名は。』にも外伝あった。
微妙に本来の物語とは違う観点かつ三葉になった瀧くんの物語ぽい。
いかにも外伝らしく本筋の物語とはちょっと路線がちがう。
小説『君の名は。』外伝は脇役の勅使河原や四葉ちゃんなどに視点を置いたサイドストーリー。
本編中でサラッと流れた1カット程度流れた場面などが外伝につながる。
勅使河原ことテッシーは瀧くんと入れ替わった三葉ちゃんを〈狐憑き〉と読んでたらしい。
なにげにテッシーくんが三葉ちゃんの境遇に共感したり思いを少し寄せていたりかな。
この辺は外伝ではないと書けない物語。
小説『君の名は。』外伝、四葉ちゃん千年前の宮永神社の巫女さんと入れ替わっていたんだ。
四葉ちゃんの物語はちょっと幼く子どもなようだけど彼女なりに姉や祖母、宮永神社を見つめ彼女なりに考えている物語。
千年前の巫女と入れ替わったことがきっかけでちいさな一歩であり大きな成長を遂げる少女。
サイドストーリーにしとくはもったいない物語。
小説『君の名は。』外伝による瀧くんから三葉ちゃんがケータイに残した文章は意外に過激。
巫女の血を引きながらも中身は田舎住まいだけどふつうの女子高生。
田舎と嘆き都会に憧れ一部の同級生たちには父が町長だったり勅使河原建設と関係あったり父と顔を会わせれば厳しく接せられる。
成人迎えた大人でもたぶん嫌がる状況に若い十代で複雑な気持ちを抱く。
だけど瀧くんなりに直接顔を会わしてないながらも彼女を思い入れ替わりながら彼女の知らない表情に思いを寄せる……。
女子は清楚な一面もあるけど本音は別にあるのは女子ないし女性という生き物のわからないところ。
小説『君の名は。』外伝では三葉ちゃんの親友サヤちんもさりげなく出番ある。
三葉ちゃんとテッシー絡みはもちろんだけど四葉ちゃんと仲がいいという意外な一面(笑)。
本編の小説では「サヤちん」だけど本名は「早耶香(さやか)」と外伝小説でわかる。
アニメでわかりにくいところは小説や本だとわかるのも利点。
小説『君の名は。A nother side:Earth』のテッシーこと勅使河原の章「スクラップ アンド ビルド」。
政治家と実家の建設業者の癒着。大なり小なり世の中はこのようなシステムで成り立っているという縮図。
だけどテッシーくんがそれなりに地元に愛着を持ち実家に複雑な感情を抱くのは正しいこと。
アニメ本編と外伝作品「腐敗の匂いがするな」の表現は彼なりの内にある倫理観。
ある程度は三葉に共感と同情が混じりながらも自分は何もできない幼馴染みとしての感情。
小説『君の名は。』外伝、四葉ちゃんの物語。
個人的にはいちばんのお気に入りでしょうか。
だけど口噛み酒ををひょんなことから自ら口にし千年前の巫女さまと入れ替わる。
だけど話の辻褄からいえばこの巫女さまは実は四葉ちゃんの前世らしい。
なにげに小学生ながらに女の子であり女性として姉三葉たちを見つめながら内面はしっかり一人立ちしていく片鱗。
女の子や女性がある意味大人なのがわかる短編。
[あと少し、もう少し]小説
中学生男子の汗と涙の絆を描いた作品。
仲間を信じ合いタスキを繋ぐ、仲間の大切さに感動しました。
小説『君の名は。』外伝。
三葉四葉姉妹の父であり糸守町町長でもある宮水俊樹。
四編最後の物語の主役をつとめる。ほぼ大人のドラマな感ある一編。
俊樹と二葉の自然かつ淡白な出逢いを描写しながら俊樹の実家との葛藤や悩み、苦悩。だけど実家や恩師などを捨てることになる。
やがて俊樹と二葉はひとつの夫婦になり家庭になるが……。
俊樹は宮水神社や二葉の祖母により神主に変えられていく自分に抵抗をおぼえる。
やがて三葉そして四葉が生まれるなか二葉が亡くなりなにかが糸守町がおかしいのではと気づく。
そして彼は糸守町を変えるために町長へと道を進む。
瀧くんと入れ替わった三葉の言葉に耳を貸さずなにかに戦慄し振り返る過去……。
やがて亡くなった二葉の言葉の真意を理解する。
再び出会った三葉は紛れもない本物の三葉。
物語的にはほぼ二時間ドラマで通用する一編。
これもまたおもしろい物語。
小説『君の名は。』外伝。
サヤ**と名取早耶香をメインにした物語がないのは不憫。
だけど三葉と入れ替わった瀧くん、将来をそれとなく誓いあってるであろうテッシーこと勅使河原くん、親友の妹でありながら時に大人な話題をする四葉ちゃん。
描写は脇役だけど要所で活躍し三章それぞれで三葉ちゃんとは異なる形で普通の田舎の女の子。
また四葉ちゃん関係だけど彼女がムネについてサヤちんに聞く場面があるがここは名(迷)場面。
90年代に『科学人忍者隊ガッチャマン』をOVAと共にリメイクした小説『GATCHAMAN』。
実写映画版小説『ガッチャマン』にくらべたらこちらの方が70年代のオリジナル第一作に近い。
名作ではなく小説としていえばディテールに凝りすぎでありオリジナルと解離してるところもまたあるのは否めない。
だけど一巻《火の鳥、翔ぶ!》では健の真面目さやこの時点では生死不明となっている父への複雑な感情、ジョーの両親を殺した相手への熱情またあまのじゃくな一面、ジュンは孤児である過去や爆破のエキスパートその内にある健へのほのかな想い、甚平もまた孤児でありジュンを慕いながら少年らしい一面をあちこちで見せる、竜もまたヨットハーバーでオーナーの一面を見せ一見役に立たない風ながら巨鳥ゴッドフェニックスを巧みに操りタートルキングに挑む。
南部博士、科学忍者隊に信頼を置きながらアンダーソン長官と共に彼らを見守る。隙がない中年紳士と思う。
敵ギャラクターを指揮する謎のベルク・カッツェ。
OVA版およびその小説では総裁Xの正体は早々と明らかになる。その正体は遠い宇宙からやって来た現地調達スーパーマシーン。
実写版『ガッチャマン』にくらべたらこちらの方がふつう『ガッチャマン』として読める作品と思う。
実写映画小説『THE last day on Earth CASSHERN』および実写映画小説『ガッチャマン』。
どちらも大亜細亜連邦とか日本が世界の中心とかいささかあり得ない世界観。
仮にアジア諸国が力を持つにしても中国や韓国な感じ。とてもじゃないけど日本や日本人が世界で主役になれるわけない。
むしろ政治的な力はなくなったけど科学技術や独創的な発想から科学忍者隊やキャシャーンが生まれ悪や組織から世界や人々を救うという展開にした方がいいと思う。
南部博士や東博士、上月博士などに少し発言権を持たす程度が自然な感じに思える。
実写映画はとかくむずかしいのは理解するけど極論からいえばオリジナル作品が放送された70年代と2000年代はあまりに時代にひらきがありすぎ。
余談みたいなものだけど小説『マクロスF アナタノヲオト』に劇中でオズマとキャシーが情報収集のために映画館をおとずれそこで彼らが眺めている映画作品は「ナッシング・マクロス」。
いわば1999年にマクロス艦が落ちてこなかった我々の現実世界に近い世界観を作品化してる(ただし別世界観の『オーガス』とはまた無関係な位置と思われる)。
劇中でオズマは愚痴る。
「そんなわけあるか」と。
『マクロス』の世界観は東西両国が争いなからもすでに火星まで人類は到達しておりその気になればマクロス艦がなくてもよその星系までいけたらしい。
ただオズマの言い分はたぶんに正しい。
なにげに著者の小太刀右京さんは実写映画化作品にメタフィクションを用い警鐘を鳴らしてるかもしれない。
実写映画小説『CASSHERN』もまた悲壮感にあふれているがあまりに作品自体が暗すぎ。
救いがない上にさらに救いがないのは欝。
ただ実写映画小説『ガッチャマン』も主人公たちからヒーロー性を奪いベルク・カッツェからも悪役性があまり感じない。
この辺実写化すると二次元のアニメからキャラクターから本来ある魅力が喪われるのではと感じてしまう。
テーマなどはそれなりに伝わるけどこれじゃない感が大きい。
正しくは70年代の『ガッチャマン』および他タツノコヒーローは基本的に架空の国に設定に置き換えられてる。
その世界観のなかで南部博士や主人公に近い博士格やコメディリリーフ的キャラクターが権力を持っている。
だけど実写映画版では不自然なほどに権力を持っている。
小説『仮面ライダーウィザード』。
主人公晴人は変身してない時でもペルソナという“仮面”をつけ心に闇を抱えている。たいがい仮面ライダーは皆それに近いですが。
だけどもうひとりの晴人は影であり闇でもあるが見方を変えたら素直な本性であり本音ともいえる存在。
だけど真の敵によりつくられた模造品でもある哀しい存在。
『仮面ライダー』というよりはやや『プリキュア』に近い感じの『仮面ライダーウィザード』。
朝日ソノラマ文庫の90年代版『ガッチャマン』はややもすると詰め込み感はある。
甚平と竜はポジション的都合から少し影が薄いのは否めないかも。
だけど実写映画小説『ガッチャマン』よりはそこそこキャラの個性は生きてるかなと思う。
全三巻でOVAと同じ構成だけど事実上の主役は健、ジュン、ジョーでしょうか。
90年代OVA版の『キャシャーン』の小説の下巻を読むとキャシャーン=鉄也が唯一アンドロ軍団もしくはブライキング・ボスのとある計画に心動かされ一瞬とはいえ彼等に味方してしまう。
それはフィヨルドを越えた先の小さな村で行われ地球環境改善や保護のためにネオロイド(新造人間)を用い環境にどう影響をもたらすかという計画。
この計画を知ったキャシャーンは父東博士の意思かもしれないと知り苦悩や葛藤する。
OVA版小説『キャシャーン』はアンドロ軍団もしくはブライキング・ボスの方が地球にとっては正しいのでは?と考えさせられる場面がいくつか散見できる。
だけど一方ではアンドロ軍団に服従や絶望する人間たちがそのなかから立ち直り人間性を取り戻さんとする物語でもある。
キャシャーンがただのきっかけに過ぎなくとも……。
『新造人間キャシャーン』と『宇宙の騎士テッカマン』は地球環境が限界にきて直面してるなか敵が来るというシチュエーション。
ましてや人間の側もしくは主人公の側に非があるといわんばかりに訴えてくる物語がある。
『キャシャーン』は地球環境に、『テッカマン』は主人公が宇宙人と見るや侵略者と戦わんとするがゆえに。
タツノコ作品は個のキャラを描きながらそこに個人の葛藤と地球平和、あるいは復讐や過ちん犯しかけんとする人間。
90年代OVA版小説『キャシャーン』でもキャシャーン=鉄也はブライキング・ボスやボスの内にいる父東博士の意図がわかり苦悩し葛藤する。
実際の話として地球環境が崩壊した時に人類がどこまで生き残れるはわからないですけど。
タツノコ作品の悪役は力や武力にものを言わせることはあるけどある一方の論理では正しくもある。
90年代OVA小説『GATHAMAN』。
オリジナル作品を踏襲しながらのっけから総裁“X”が外宇宙から来訪し人類の遺伝子を改竄した存在として明らかになる。
冒頭に人類の祖となる類人猿とコンタクトし遺伝子を書き換え後にベルク・カッツェとなる男女二人を選定し二人をひとつにする。
ちなみにカッツェとなる二人より他に一名がいたがこの者は従順さに欠けたために“X”により処刑される。
一巻ではタートルキングとの戦い後に科学忍者隊は南部博士の別荘に招待され彼の口から“X”の正体を知る。
旧作版では南部博士がどのように“X”の存在を知ったかおぼえてないけどこちらでは南部博士が若い頃に戦時下での記録データの収集や整理をしながらをきっかけに後々宇宙からのとある電波に気づいていく。
このくだりはまさにSF的、旧作版では総裁“X”については後付けの設定のために物語は修正せざる得なかった。
だけど90年代版ではあらかじめ“X”の存在を明かすことで初志貫徹の意図は読み取れる。
『カッチャマン』は人類の叡智の象徴ISOこと国際科学技術庁、南部博士そして彼に指揮される科学忍者隊は人類の未来の象徴、かたや総裁“X”とミュータントベルク・カッツェに指揮されるギャラクター。
善と悪の科学の戦いであると同時に人類を二分する戦いでもある。
ジョーが後にギャラクター幹部の息子であったことも作品のひとつの象徴。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』。
この全三巻を読むたびになぜ石ノ森章太郎先生に漫画において『天使編』『神々との闘い編』そして『完結編』と三度において天使や神々を題材にしようと思い至ったのか。読むたびに疑問。
『009』のテーマは『仮面ライダー』と同じく悪から生まれた者を倒すに悪から生まれた者だけ。いわば同族殺し。
ただし『009』にはもうひとつテーマがありそれは反戦。
戦争に相対する反戦。
当初の敵はブラックゴースト(黒い幽霊団)、00サイボーグの生みの親でありギルモア博士も00サイボーグたちも所属していたが脱走。
その後は彼らを能力的に越えてるはずの新型00サイボーグやミュートスサイボーグたちを相手にそこに出会いや悲劇が絡み彼らは苦しみ成長していく。
この段階では反戦をテーマにしながらもヒーローもののフォーマットとしては基本であり定番。
だけど石ノ森先生は天使や神々と呼ばれる存在を00サイボーグたちに挑ませる。
戦いも平和も生み出すのは人間であり心、精神、感情や気持ち。
小説『完結編』では人間という肉体の内に善なる存在の天使や神がいると同時にに邪な悪魔もまた存在しひとが死ぬと善なる魂は別次元の彼らの光の星へ、邪な悪なる魂は光の星へたどり着かず地球に幽霊やお化けとして残る。
心の内には常に善悪が時にバランスを取り時にバランスを崩す。
それこそもまた神々であり悪魔になる、神々や悪魔は心や脳にも宿る。
石ノ森先生は精神哲学から神々に至ったのだろうか……。
なぜ石ノ森先生は小説『サイボーグ009 完結編』でギルモア博士が生前の石ノ森先生に会いにくるという展開を思いついたのか。
メタフィクションな展開は近年ではめずらしいことではない。
『SIC SAGA』の「仮面ライダーW」編でも似たような展開は取られている。
だけど『009 完結編』のあとがきを読むと近年のサイボーグ技術の発達、石ノ森先生が没してからのテロや世界の現実の混乱など。
『009』のテーマである反戦を意識されていたのではないでしょうか。
『009』は生前の石ノ森先生にとってのライフワーク。
そこに答えがあるのかもしれない。
小説『サイボーグ009 完結編』ひとの内のなかにこそ神々、天使や悪魔が宿るのかもしれない。
『RE:SYBORG』でも“彼の声”なる存在は気持ちや立場などによって聞こえ方は著しく異なるらしい。
だけど神々や天使は考察や解釈、また物語や作品によって姿や形は異なる。
解釈はほんと難しいといえる。
生前の石ノ森先生も『神々との戦い』編で難解に陥ったのはだんだんと哲学的領域に入ったかもしれない。
先々月放送された『100分de名著』の題材本はレムの『ソラリス』。
私は読んだことないがこな番組にしてはめずらしくSF小説。
だけど解説者の言葉によるとSFだけどSF批判でもあるという作品。
主人公はとある惑星で死んだはずの恋人というところはなんともSF的。そしてなぜ彼の前に現れるのかという謎。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』、あらためて読むと00サイボーグとギルモア博士が遭遇する天使や神々、悪魔などはそれぞれの出身国や宗教、イデオロギーなどいくつかの背景が見える感じ。
もちろん国家や地域、地方などに宗教などのちがいがあるから当たり前だけど内容がこと細かい。
国家や宗教などひとの数だけ“神”“天使”“悪魔”などがいてそれを認めることがない現実の国家間や政府など。
だけどギルモア博士と00サイボーグたちは生い立ちを互いに語りながらわかり合える一面がある。
二巻のラストでは生前の石ノ森先生が“神”の存在を問う。
神とは何なのか。
自らが生きながらどこまで『サイボーグ009』を書けるのかという問いかけ……。
『サイボーグ009』の文章や表現のなかに石ノ森先生の魂は生きている……。
読むたびにそう思える。
小説『サイボーグ009 完結編』二巻の007を主役にした「幽霊劇場」、あとがきによると生前の石ノ森先生が残したのはタイトルだけ。
それ以外は著者で息子の小野寺丈氏によるもの。
舞台や劇団を手掛けるだけある舞台や役者についての描写は細かい。
だけど一方では007・ブリテンについてはやはり『009』のキャラであり006・張々湖にならぶコメディキャラながらブリテンの背景は役者。
小野寺丈氏が『009』についての知識や読書などは不明ながらたぶんにブリテンのキャラを理解しながら役者として重ね合わせ時に共感、時に突き放しながら書いたとも想像できなくもない。
役者稼業は華やかな反面、一方では役者は落ちぶれた時は酒に溺れる日々。ブリテンのキャラはコメディではあるが内面は意外なくらいにシリアス。
舞台をイギリスに移し展開していく。
ちなみに映画『RE:SYBORG』ではコメディな面影はほぼ一切なくKGBのスパイ(?)になっててコメディキャラのブリテンはどこいった!?と驚く。
小説『サイボーグ009 完結編』の「008 幽霊劇場」の章はいかなる形で作られたのか。
生前の石ノ森先生が残されたのはタイトルだけ。
丈氏が役者や劇団をしているノウハウが生かされているのは内容を見たら伝わる。
だけど彼が『009』という作品にどの程度接し触れ合ってたかは読者はわからない。
ある程度007・ブリテンの人物に共感もありながら劇場で起こる未知な出来事と共に時に突き放しもしている。
ブリテンの章に限ったことではないが00ナンバー個々の章では9人であった日々には意図してわずかにしか触れられてない。
逆にそのぶん個人としてのキャラクター像が増し内面がより深く掘り下げられておりブリテンも例外ではない。
前章にあたる006・張々湖の章に劣らない豊かな表現力。
舞台がイギリスで劇場、また演題が「ハムレット」、これらもまた深みを持たせる。
小説『サイボーグ009 完結編』と映画『RE:SYBORG』、どちらも008・ピュンマが物語の核心に彼が触れそうになる点は偶然なのか符号してる。
『完結編』においてはピュンマは深海にあるピラミッドを見つめ眺めながら天使や悪魔の経緯を知り核心へと近づく。
『RE:SYBORG』においては出番は少ないながら物語の早い段階で“天使の化石”に早くから触れその情報を004・ハインリヒに託すも失踪してしまう。
作者や制作側が意図して重ね合わせることもないとはいえないけど改めて『完結編』を読み『RE:SYBORG』を思い返すと似た点があるのも興味深い。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』。
各章を読むと00ナンバーサイボーグたちが親しかった友人、知人、知り合った者たちが神や悪魔に魅入られ取り込まれていくのはなんとも切なく残酷。
相手が“神”“悪魔”であれ別人のように生まれ変わった者たち。
神も悪魔も00ナンバーサイボーグたちを敵に回したくない意思を示しコンタクトしながら距離をうかがう。
008・ピュンマの章は宇宙と海底のふたつの場面が進行しいかにも石ノ森先生らしいSF色が濃い章。
各々の章で神や天使、悪魔となっていく者たちもまた肉体という器の内にある善である神や天使もしくは悪である悪魔により本来の自己を喪失した者たちともとらえることができる。
人の内に神も悪魔もいる……。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』あらためて二巻まで読むと001・イワン(とギルモア博士)から009・ジョーまでそれぞれが接触した神や天使、悪魔(?)の存在。
読めば読むほど神か悪魔かはっきりしなく曖昧、神と思しきキャラが悪魔に思え、悪魔になったキャラが逆に神か天使のようにも思えなくないもない。
つまりは読む人の気持ちや感情に左右されることで00ナンバーのサイボーグたちと同じか似たような気持ちに共有や移入される。
ジョーの章の翡翠と翡巫女、そして起きる日本国内のパニック。
ジョーの章は現代日本そのままの悪意が噴出したかのようなパニックがあり最終巻への序章でもある。
ただ読むたびに思うのは“神”か“天使”がおこなうことにしては二巻までの展開でもあまりに残酷過ぎる物語。
二巻ラストで再び生前の石ノ森先生の前に現れたギルモア博士は傷だらけ……。
フィクションであるはずの『サイボーグ009』と生前の石ノ森先生の現実の執筆活動が重なる展開は熾烈を極める。
小説『サイボーグ009 完結編』を読んでから人生を考えるきっかけに少しはなってる。
生きてる意味はわかりにくいし掴みにくい。
肉体という器の中にはいくつもの善悪や欲望、悩み、葛藤、気持ちや感情がある。
作品のラストでジョーは悪魔に仕立てあげられた者たちにも同情や共感を示すくだり。
たしかに別次元の惑星で“悪”や“悪魔”だったかもしれないけど“神”や“天使”により流刑地である青い星地球に“神”や“天使”と共に肉体という器で寿命を迎える。が、悪の魂は光の星へ還ることはかなわず地球に残るか再び転生し繰り返す。
善悪の狭間についてラストへ向かう物語は考えさせられる。
善き心が強ければ善き人に、悪しき心に負ければ屈したら悪しきままに。
002・ジェットから009・ジョーまでの各々の章で触れた人物たちもまた善き人であり悪しき人でもあった。
最終巻でとりあえず神との戦いを終えた00サイボーグたちに平和や安息の日々はおとずれなく彼らの穏やかな平らな日々は日々ネットやマスコミに晒される現実のなか増幅していく彼らの内にも潜む悪しき心。
このくだりもまたこわい展開だけど00サイボーグたちはサイボーグではあるが心や気持ちは人間のそれと変わらない等身大であると示している。
彼らがかつて敵としていた「ブラックゴースト(黒い幽霊団)」などに屈しなかったのは各々がひとりの人間であるという存在。
9人がそれぞれの欠点を補い短所さえ認めあいギルモア博士を“父”としひとつの集団。
生まれた国や生い立ちはちがえど互いに認めあう存在。
ひとつにある種集約されている感はある。
生前の石ノ森章太郎先生が『サイボーグ009』において『天使編』『神々との闘い編』で悔いを残すように他の作家も苦悩されるんでしょうか。
漫画家では永井豪先生はたびたび『マジンガーZ』を時代ごとに作り替え挑戦するも『マジン・サーガ』『Zマジンガー』などいずれも消化しきったとは表現しづらいと思う。
今度の映画『マジンガーZ INFINTY』においてもどの程度永井豪先生自身は満足したか。
ある意味『マジンガーZ』は永井豪先生自身が満足し得るところまで辿り着かない作品かもしれませんね。
ひとつの作品で究極や完全完璧に近くそれに至る作品もありまたその都度、時代ごとに生まれ変わる作品もある。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』で00サイボーグたちにコンタクトする“神”あるいは“悪魔”彼らが口にするかつて倒した者たちは「悪だったか?」という問いかけ。
ブラックゴースト(黒い幽霊団)たちは便宜上悪の側ではあろう。
だけど彼らに作られた0010以降のサイボーグたちのなかにはわかりあえた者たちもいる。
いちがいに“悪”とはいえない者たちもいたのは事実。
またギルモア博士のように良心に目覚める科学者などもいたでしょう。
だけど『完結編』ではかつて倒した敵たちについては断片的にしか語られないためにこれについては堂々巡りになる。
ブラックゴーストは人の欲望そのものであり人が欲望を求める限りは限りない形で存在する。
『完結編』のラストのくだりで悪しきおこないをする人間もいるが、善きおこないをするあるいはしようとする人間たちまで淘汰しようとするのは正しいか否か。
悪人もいるが世の中の大半は基本的に善人でもあろう。
善悪のバランスで世界は成り立っているが、“神”の身勝手で淘汰されていいのかという最後の決断。
『完結編』ではジョーとフランソワーズの愛の形に集約されるのはある意味古典名作ぽいが、愛以外に表現しうる存在がないのもひとつの形。
小説『人造人間キカイダー THE Novel』は劇中に『サイボーグ009』が出てくるのはともかくヒロイン光明寺ミツコが『ときめきメモリアル girls side』にハマッてる描写がおもしろい。
これはキカイダー=ジローがアンドロイドであり非人間的存在と描写演出されてることの現実との対比を兼ねている。
『ときめきメモリアル girls side』の男性キャラとジローは同一にならぶ存在。
アンドロイドが人間になれるか否かを問うテーマは人工知能を持つ被造物が人間にどれだけ近づけるかを。
現実世界において人工知能もロボット開発技術も進んでるからいつかはあり得ないことではない。
『キカイダー THE Novel』のキカイダー=ジローは戦闘型と医療型のロボットの左右結合タイプということにもロボットの在るべき未来が感じられ皮肉でもある。
『人造人間キカイダー THE Novel』はビジンダー=マリも出てくるけど直接キカイダー=ジローとの対峙は少ない。
その辺は惜しいところ。
だけど『キカイダー』らしさは逃避行。
カードデータの改竄やNシステムを誤魔化すところはいかにも現代的。
光明寺博士は他科学者と共に逃げようとするが結局は捕まってしまう。
服部探偵がこの人物は三枚目(笑)。
だけどこの人がいないと『キカイダー』の人物たちは動きようがない。特にジローやミツコたち。
『Novel』ではたいして遠くに逃げてないのは作風上しかたない。
小説『サイボーグ009 完結編』が少しずつ世界観が多くなるのに『キカイダー THE Novel』はあくまで機械であるジローがいかに人間に近くなれミツコが架空のゲームキャラから離れいかに人間や女性として成長できるかということ。
『009 完結編』がマクロな方向に向かうとしたら『キカイダー THE Novel』は人間の内面、機械や人造人間の精神世界のミクロというところ。
小説『キカイダー THE Novel』はところどころ人間側と人造人間側の対比がある。
気持ちだったり治療の有無や創造主と被造物であるちがい。
キカイダーとミツコ、マリ=ビジンダーとミツコ、サブロー=ハカイダーとミツコなど。
物語の中心にいるのはこの作品ではミツコ。
ジロー=キカイダーは彼女を通し彼女から服部探偵やダークから逃げてきた科学者たちからジローは戦いを通し人間を学ぶ。
キカイダーの姿を本当の姿と自覚しグレイサイキングやアンドロイドマンをはじめ同族殺しの道を歩んでしまう。
ミツコたちを守るためとはいえダークやギルに反旗を翻す。
『こちら県庁おもてなし課』再読中。
公務員が融通を利かさないところをずばずば指摘する前半は痛快。
「名刺が名を刺す」という有川浩さんの表現は絶妙。
序章の高知県にパンダ誘致はフィクションでしょうけどわかりやすい喩え。だけど市内のど真ん中に動物園はいざ動物が放たれたら危険な指摘は正しいこと。
ところどころに現実的な指摘があって有川浩さんは切り込んでいく。
有川浩先生の『県庁おもてなし課』は話の展開がいい。
主人公たちが知らずに身に付いた公務員お役所体質を地域活性化のために自覚し民間の人達の力を積極的に借りていく。
だけど地域活性化で人手不足があることも自覚していく。
近年の地方や地域活性化、地産地消などに通じるモノは作品にいくらでもある。
『こちら県庁おもてなし課』劇中貢献してくれた清遠氏を癒着だなんだといちゃもんつけて使い捨てに県庁のやり方には憤る。
必然的に組織に人が所属する以上は過去の古傷はいくらでもある。
組織の中には誰かが関わることでおもしろくない人がいるのもまた現実。
清遠氏はとりあえずプロジェクトから外れた形になるがおもてなし課と関係がなくなるわけではなく主人公掛川たちにとりあえず託す。
語られる清遠氏と佐和たちの過去。
この辺はまた考えさせられる場面。
アニゴジの前章にあたる小説『GODZILLA 怪獣黙示録』。
ゴジラをはじめとする怪獣たちに蹂躙される未来世界。
ゴジラは初代ゴジラに準じた大戸島の伝説はありながらも脅威を誇る。
各怪獣たちもオリジナル設定に基づきながらアレンジが加わりオリジナルを上回る設定。
だけど『怪獣黙示録』の世界観の人類は愚か、怪獣という脅威があるにも関わらず世界各国の利権や覇権を巡り互いに滅びの一途へ辿りかけるという。
この時点なら物語は警鐘で終わるかもしれないが怪獣に対してなす術があまりなさすぎ。
そこへ異星人が手を差し伸べてから物語は再び動き出す。
まだ途中なので最後まで読めてません。
『GODZILLA 怪獣黙示録』英雄視される者、人類に手を差し伸べた異星人を敵と言う者。
この辺は様々。
医療小説『桜宮サーガ』シリーズの『田口白鳥シリーズ』の田口先生も物語が進むにつれ病院長の懐刀という院内の評判。
田口先生自体はほんと平凡な人物。
だけど見る人が見たらちがうというのは現実にあるということ。
その人物をどう見るかどのような気持ちで接するかでひととなりは変わる。
『怪獣黙示録』に関しては人物が多いこと。だけど主要人物以外はみなほぼ一度限りでわかりやすい。
『GODZILLA 怪獣黙示録』は実写映画『ガッチャマン』に比べたら世界観がしっかりしてると思う。
怪獣出現に戸惑いながら蹂躙されていくさま、カマキラス出現をきっかけに世界各地にドゴラだなんだと現れてくる。
東宝怪獣映画のオマージュがしっかりあったのは最初は気づかなかった。
だけど怪獣が出現してるなかでも国同士の覇権や利益を求めるばかりに怪獣たちにいいようにされる世界。
ふと思うけど怪獣同士の争いもまた人間同士の争いということでしょうか。
滅びの一途を辿る地球人類の前に現れるふたつの異なる異星人。
エクシフ、ビルサルド。
ただ興味深いのは救いの手を差し伸べた異星人に疑いを持つ地球人がいることも描写される。
主人公はそれに憤りをおぼえるが、『インデペンデスディ・リサーシェス』で友好的な球体型宇宙人を人類は攻撃してしまう愚行をしてる。
『怪獣黙示録』の異星人の真意はわからないけど異星人とのファーストコンタクトに慣れてない地球人の未熟さもまたあると思う。
『怪獣黙示録』で疑いを持つ地球人がいることも無視できない事柄と思う。
小説『サイボーグ009 完結編』で病に伏せながらも作品を書きたいと願った石ノ森章太郎先生。
作品中の神に抗う姿を見せる00ナンバーとギルモア博士。
『009』はネットサーフィンしてたらいろいろな方や世代に読まれてる作品と伝わる。
『完結編』や近年の『RE:SYBORG』などあるいは各アニメ作品などにも触れらている。
神に抗う009たちと病に闘う石ノ森章太郎先生の姿は重なる。
『完結編』で“神”がおこなうことにしては残酷ではないかと問うジョーたち、果たして自分はどこまで作品を書けるのかという石ノ森先生。
“神”への対抗する術を 石ノ森先生に乞うギルモア博士。
近年では脳や自分の内に“神”がいるという研究に結論が出てるともいう。とあるブログをググッたら亡き赤塚不二夫先生も自分こそが神だと仰ってたよう。
宗教が人間が作ったものなら宗教で崇める各々の神々もまた人が作りし存在。
ゴジラもいつしかGODZILLAと神の名を持つ怪獣王となったのもある種の具現化であり崇拝の対象ともいえる。
石ノ森先生は自分の内にある“神”と対話し作品を書きたい意思のあらわれだったのでしょうか。
『こちら県庁おもてなし課』で清遠氏が身を引く姿は司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』の竜馬に重なるところもある。
竜馬は大政奉還がなされ後を薩摩潘と長州潘に後を託し自らは身を引く。これを陸奥宗光が見てる。
土佐潘が山内容堂の出たがりな殿様のリーダーシップで他潘が引っ張り回されてはできたばかり新政府は瓦解してしまう。
『おもてなし課』の清遠氏を嫌う議会や県上層部もある意味『竜馬がゆく』の山内内容に似た節はあるかもしれない。
『竜馬がゆく』のなかで竜馬は「仕事というのは困難な八割をすればいい。残りの二割は後の者に託せばいい」とだけ言葉を残していたと思う。
有川浩先生が清遠という人物に竜馬を重ねたわけではないでしょうけど。
小説『サイボーグ009 完結編』は“神”について考えるきっかけになった作品。
結果的に映画『RE:SYBORG』を見るきっかけにもつながった。二巻の帯に『RE:SYBORG』の宣伝がありましたけど手に入れた当初はこんな作品があるんだという認識程度だったが。
“神”についてはいろいろな作品で語られてるから解釈そのものはむずかしい。
海堂尊先生の『桜宮サーガ』の救急医療の神に選ばれたであろう速水晃一。本人自体は経済感覚がい救急医療のだだっ子であり恋愛にやや疎い。
だけど医療が必要としてる限りは救急医療に全身全霊を傾ける生き方もある人物。
『お遍路ガールズ』の御霊返りや『死国』の四国は死者が住まう国。死者の魂を返すという行為もまた死者がもしも神とするなら対話でありコミュニケーション。
“神”そのものは宗教観や個人観などさまざま無数にあるからいちがいにはいえない。
組織を変えるには『こちら県庁おもてなし課』の吉門さんみたいに外部から県庁の人間を突っつくかあるいは『桜宮サーガ』の厚労省白鳥さんみたいに内部にいながらややつま弾きにされた部署や内部から変えていくかでしょう。
『県庁おもてなし課』の吉門さんはあくまできっかけに過ぎない(物語内の諸々の事情により)、かたや『桜宮サーガ』の白鳥さんは厚労省の人物であって舞台とひとつとなる東城医大など病院からした外部の人間。
ただ白鳥さんは悪評はあれど彼の言うことは正論かつ筋が通り結果的に「良薬口に苦し」で東城医大は痛みを伴いながら改革や一部縮小され痛みを伴う改革している。
そんな意味では彼もまたきっかけに過ぎない。
厚労省みたいにむかしからのお役所はどこもお堅いのは社会の古き慣習。これを打破するのは一筋縄ではいかない。
『県庁おもてなし課』で主人公掛川たちが変わったのは吉門の言葉を聞く最低限の聞く姿勢があったらこと。自分たちの不備や欠点、なによりお役所であるという悪い点を客観的に理解し見つめ直したこと。そんなことがなければ物語は前半で頓挫してた。
『桜宮サーガ』シリーズで白鳥さんは厚労省という権力を使いながら東城医大や地方の病院にメスを入れていく。必ずしも順風満帆ではないけど。
『極北クレイマー』では姫宮さんを投入し改善したはずだったのに結果的に失敗に終わるという。
社会は失敗し思いもよらないことがある。それはどこの街や地方地域も変わらない。
小説『ゲゲゲの鬼太郎』。
人間と妖怪が仲良く世界を暮らせることを望む妖怪。架け橋になるために人間を助けて時に悪事を働く妖怪を懲らしめ悪事にやむなく使役された妖怪もまた助けと奮闘。
だけど目玉の親父さんは鬼太郎が人間に恋をすればかつての自分や亡き奥さんのように互いにつらい目に遭うかもしれないとあえて鬼太郎の恋を導かずに破局させる。
知らない方がしあわせという意味を含むノベライズ版のラスト。
鬼太郎が親心がわかるだけにせつない。
『水木サンの幸福論』、久しぶりに読むと素朴というのが表現から伝わる。
戦前戦中戦後を生きた水木しげる先生。
いまほど裕福な時代ではないけどモノがないから想像力が育まれたんでしょうね。
ただ水木しげる先生みたいな生き方はむずかしいと思う。
なかなか人生がいろいろな意味で開化しない人もいるし自分の才能や長所を知らないままの人もなかにはいる。
“生きてる”のは何かに“生かされている”、何か見えない存在に。
それが妖怪かあるいは別な存在かはたぶんにひとそれぞれ。
『水木サンの幸福論』久しぶりに読むと素朴な時代だけどガキ大将だったり算数ができなかった水木しげる先生。
絵を描き始めるも時代は戦争に向かってしまうどうしようもない時代の流れ。
生来がのんびり屋なためか起床はなかなかできず上官に殴られる日々や南方に行ってからも叱られ怒られる日々。
なんでも水木しげる先生の手相の生命線は短かったらしいけど左腕を失うも戦中戦後生きて長く存命されてた。
手相と人生はさほど関係ないのでしょうか。ひょっとしたら短命に終わるかもしれない人生を妖怪やもののけの話をのんのんばあから聞いて信じていた水木先生を妖怪や何かふしぎな力が長く人生を過ごせるようにしたかもしれませんね。
ただ戦争のくだりは水木先生の視点を通しながら戦いたくないのに戦う愚かしさ命を狙われる毎日などは読んでてつらい。
気づけば敵と呼ばれる兵隊が後ろからやってきて銃を放ち命からがら逃げる。
いつ殺されるかわからない日々。
だけど水木先生はそんななかでも生き残れた。
『水木サンの幸福論』を実践するにはむずかしいけど学ぶべきところは多くある。
原作小説と映像に起こされた作品はいくつかの違いはどうしても存在する。
原作そのままだと作品に齟齬があったりわかりにくかったりする。
レムの『ソラリス』は原作にないラストシーンを加える形で意味深に終わるという。
『水木サンの幸福論』、紙芝居から貸本漫画家そして漫画家へと紆余曲折を経る水木しげる先生。
その間に奥さまと一緒になり長く貧乏生活を過ごしながら時に出版社にいいようにあしらわれたりぶつかり合ったりの繰り返し。だけど和解もある。
だけど戦後の時代を水木しげる先生の目を通すと生きることもたたかいということでしょう。
水木しげる先生自体が作品に凝り性なために作画やディテールに凝り〆切に追われる。
でも水木しげる先生の画は他の漫画家さんには見られないくらい細部に凝ってる印象はある。キャラ自体はマンガ的だけど背景の細かく自然や家屋の寂れた感などはいまも記憶にある。
『鬼太郎』がアニメ化されたことで忙しくなりやや今度は忙しいことで家庭内に不協和音があるがそちらは奥さまが書かれた『ゲゲゲの女房』に詳しく書かれている。
あえて水木しげる先生がそちらに触れてないのはグチっぽくなることを避けたかもしれませんね。
仕事を何本も抱える生活から一旦抜けて貧乏生活から学び余裕ある仕事に配慮し自分の“水木サンのルール”を思い出す。
妖怪関連の本や生い立ち、戦争時代の本を出し世に再び認知や理解される。
そして水木しげるロードへといたる。
なかなかできることではない。
水木しげる先生が書かれた『水木サンの幸福論』奥さまの武良布枝さんの『ゲゲゲの女房』。
あらためて読むとふたりの生まれたところや生い立ちに違いはあるけど重なるところある。
のんのんばあのお話や戦争が終わった時に水木しげる先生は南方で、布枝さんは家族や近所の人たちとラジオ放送を聞いて同じ時代を生きてたというのが重く伝わる。
水木先生は南方で現地除隊を考えたけど親しくしてた戦医の説得で現地除隊を諦めご両親に顔を見せ紆余曲折を歩む。
もし水木先生が南方の地で原住民と暮らしていたら漫画家になることがあったかわかりませんが日本との架け橋になったかもしれない。
だけど布枝さんと一緒にならなかった。
この二冊の本を重ねて読むとひととの出会いは大切。
貧乏な生活ではあり時に歯車がこわれたり狂うこともあるけど何かが御二人をくっつけた意味。
だけど戦争のくだりはどちらも読んでて考えさせられる。
かたや南方に知らない国に行って「なぜ戦って死んで来なかった」と言われた水木先生、かたや本土にいて貧乏で大所帯だった布枝さんの一家。どちらにしても命懸けの生活。生きること。
戦争がもたらしたものは敗戦、日本という国が負けた事実。
これは当時の人達が思いはさまざまだったことは難くない。
『水木サンの幸福論』と『ゲゲゲの女房』、戦後の水木しげる先生が片腕で自転車に載ってる写真が同じモノでした。
戦後いろいろ辛いことあったけど当時は互いに貧乏ではあったが見合い話が何らかの形で縁を持たせたくれた。
片腕で自転車に乗る水木しげるさんが布枝さんにはよき若者に見えたことでしょう。
見合いし結婚を早くにその後の顛末は若いふたりでもありかたや売れない漫画家、漫画は少し知ってても漫画家のことはわからない布枝さん。
ここからさらに紆余曲折がある。
だけど見合いとはいえお二人は結婚された。貧乏神に取り憑かれはあったかもしれないが縁は結ばれその糸はかんたんに切れるものではなかったという証。
現代社会が離婚が多いなか水木しげる夫妻はある意味理想の夫婦。
水木先生はすでに亡くなられましたが布枝さんのなかに生きているでしょう。そして『鬼太郎』をはじめとした各作品にも水木先生の魂は存在している。
『水木サンの幸福論』と『ゲゲゲの女房』をくらべ読むとあたりまえですが水木先生と布枝さんの考え方や感じ方がちがうの伝わる。
だけど戦争で南方に向かう水木先生の手相の生命線は短かったのに戦後に奥さまの布枝さんが見ると生命線が伸びていたという。
これは運命を変えたというひとつの証でしょうか。
貧乏生活しながら漫画を描きゲーテの教えを布枝さんに教えた水木先生。クリスチャンではないがゲーテに魅力を感じ「水木サンのルール」の基礎になったかもしれない。
やや布枝さんのしっかりしてる気質は読み取れるが漫画業界のではふつうの人、時にアシスタントをつとめたり出版社におもむくも報われない。
だけど文章から布枝さんの性格やしっかりした一面、あるいは女性としての感性から水木先生を見守る母性のようなものは伝わる。
紙芝居、貸本漫画、掲載漫画そしてテレビへと目まぐるしく変わる戦後文化。
『悪魔くん』も打ち切りの憂き目に遭う作品だが作品にパワーがあるという内々の評価。
だけど貧乏時代はまだまだその芽さえでない苦悩と毎日の日々。
貧乏にも関わらず水木しげる先生と布枝さんの模型作りにハマる。
ある意味布枝さんは女性モデラーの先駆けだったかもしれませんね(笑)。
『ゲゲゲの女房』、やがて売れ出した水木しげる先生。
だけど貧乏生活に戻ることに怯えがあり仕事を眠れないほどに請け負ってしまう。
時に自転車に乗り逃げ出しネタを考える日々。
担当の方にお茶を出し「自転車に乗り走って考えていると思いますから」と伝える布枝さん。
一方では必要のない増改築を家屋にしてしまう日々。
このへんのくだりを読むとある種の麻痺感覚があるように感じられる。
貧乏に戻りたくないからと眠る間さえなくなる忙しい日々、増改築をしてしまう麻痺感覚。
売れ出した頃の水木先生が自らのルールをどこかで忘れ頭から抜け落ちてたと思われる。
貧乏神はいなくなったけど今度は忙しさを与える神様がやってきててんやわんや。
『水木サンの幸福論』ではこの売れ出した頃は少し触れられてはいるけど布枝さん側視点のようなくだりはほとんど触れられてない。
意図したものかどうかはわからないけどあえて触れてないんでしょう。
世の中が物質文明にあふれると妖怪がいないのでは?と思ったこともある水木しげる先生。
時にはニュージーランドに移住しようかと言い出す始末。
漫画家さんのなかでは素朴な自然のなかで生まれ育ちそれを愛しそのなかにいる妖怪やお化けを信じることができる人だったんでしょう。
戦後でもし南方で現地除隊をする生き方もあったでしょう。
『鬼太郎』が生前五度アニメ化され亡くなってから再び六度目のアニメ化。ちゃんと時代が妖怪を必要と伝えてると思う。
だけど『ゲゲゲの女房』のなかで水木しげる先生が漫画家として売れ出し貧乏からは抜け出れたけどこの時期は得るものと失うものを見失いかける時期だったかもしれませんね。
寝る間を惜しみ生活するも家族団欒は夕食だけ。突然富士山に行くと言い出す水木先生に振り回される布枝さんたち家族。読者として読む限りでも常軌を逸出してる面は感じる。
見方を変えたらですけどひょっとしたら神様が水木しげる先生を試したのかもしれない。
この人物が売れ出したらいいようにも悪いようにもどう人間が変わるのかと試練だったかもしれない。
だけどめぐりめぐって本質は変わらなかったかもしれない。
以前なにかの文庫の巻末で紹介されてた『大泉洋エッセイ 僕が綴った16年』を購入。
タレント本は普段買わないけど大泉洋さんは興味ある人物。
だけど若い頃はちょっと尖てたった表現ですね(笑)。
いまほど人格がまるくない感じですがひととなりは出ておもしろい文章と思う。
大泉洋さんのエッセイSMAPの木村拓哉さんに勘違いされたくだりはおもしろかった。
相手の側の勘違いなんだろうけど本人も「ん?」となってはじめはちんぷんかんぷん。
あとお父さんに電話かけたらいきなり怒鳴られたという変なお話。
舞台や俳優、テレビや映画業界なとのことも書かれていて裏側を垣間見える。
旅行や地方ロケが多いらしく日本各地と映画に関係するイベントで海外にも行ったりと楽しまれてるよう。
タレントのエッセイもあんがい読める。
今朝放送の『NHK映像ファイルアンコール 石ノ森章太郎』。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』にも生前の石ノ森先生の姿は登場してるが通じている何かはあります。
石ノ森先生が描きたかったのは“人”。
では『009 完結編“で“人”に挑む存在がなぜ“神”なのか。
“人”が“神”を作ったように石ノ森先生も作品の中に“神”を求め己に問うたのか。
“人”の内に“神”も“悪魔”もいると辿り着いたのかもしれない。
小説『009 完結編』は三巻になりギルモア博士の下に00サイボーグが集結した途端に“神”たちはそれまでとちがい日本で人を喰らい街を破壊し空から海から陸からあらゆるところから東京を蹂躙していく。
さながら作品世界の人物や読者にも絶望を与えんがために。
物語がラストを迎える前覚醒したイワンにより語られる真実を目の当たりにしすべての事実を知る。
だけど“善”も“悪”の“心”がるのが“人間”とジョーは語る。
たしかに悪い人間はいるがすべての人間が悪いわけでもなくそこには守るべき世界や人たちがいる。
“人”が完璧ではないが未来の芽を自分勝手な“神”に滅ぼされるのは正しいか否か。
ラストに向かうくだりはやや唐突であるがちゃんとそれまでの物語が整理されひとつの終着点へ向かっていく。
読書の話題が又吉直樹さん羽田圭介さん以降けっこうテレビに露出してる感じ。
読書人口は減ってるかもしれないけど話題の本などは読む人はいるでしょうね。
昨夜放送の『switchインタビュー』も読書な話題。
おもしろい本を探すには基本的に自分を知らないとわからないと思う。ラノベや小説からジャンルは何でもいいから開拓し広げていく。
私は若い頃からラノベ路線だったけど同時にドラマのノベライズを読んでたから別の土台はある程度出来て三十前後や四十なってから読む本が変わってきてる。
むかしは興味なかった本や避けてた本に読めるようになった。ジブリ関係や四国関係の本、あと最近は小説の巻末に載ってて興味あった大泉洋さんのエッセイ。
エッセイはむかし兄が明石家さんまさんの本を持ってたのでたまに読んでたおぼえがある。
だけど実際にタレントさんのエッセイを購入したのは今回がはじめて(声優は除くとして)。
歳と共に自分がちがってきてることを実感。
眉村卓先生の『時空の旅人』はどんどん過去の時代にタイムスリップしてしまう物語。
アギノ・ジロがいた未来世界が前半はよくわからないままだけど自由意思がない時代らしいことはわかる。
だけど過去の時代も戦時下の時代なために必ずしも生きやすい時代ではない。ましてや当時の人たちに怪しまれでもしたらそれこそ拘束や拘置でもされたら即悪い運命につながる。
アギノの生まれた時代が自由意思がない時代にしてもいつの時代にも苦難や困難はある。
戦国時代へ行けば時間管理局の人間が怖がるだろうから安全というのは短絡。当然いつの時代にも危険はあるわけだし。
過去へ行けないタイムマシンましてや歴史を変えてはいけないむずかしさ。
この物語は当時のアニメ映画もだけど時間旅行の怖さを書いてる作品。
眉村卓先生の『時空の旅人』過去に向かっていく人物たち。
過去に近づくたびに主人公たちが文明がないと何もできないことに気づくくだりある。
いかに文明社会のなかに生きているかという警鐘。いざ文明が失われたら何もできないかもしれない。
過去に遡り石松こと後に教授とされる人物が協力者となる。
少しずつであるけどアギノ・ジロについてはヒロイン早坂啓子をはじめとしてみな同情や共感を持ち始めていく。
ただ時間管理局の追っ手も出てきてさらに物語は混迷と化していく。
眉村卓先生の『時空の旅人』によると時の流れは無数にあり時空管理局も時の流れによりちがう次元や時の流れの人物や世界もいる。
いわば平行世界やパラレルワールドと思われる。時の流れや分岐は何らかの形で存在してるが見ることはできない。
歴史改変モノを読むともしも歴史を変えてしまったら存在するはずの人物や出来事が存在しなくなり別な人物や別な出来事として存在してしまう可能性がある。
もしも織田信長が本能寺で明智光秀にやられなかったら誰かが光秀の代わりに信長を討つのかあるいはまた別な歴史の流れがさらに存在するのか。
『時空の旅人』はその辺を人物たちは体験し目撃していく。
歴史改変は存在が消えるかもしれない怖さがある。歴史の流れの何かの手違いや意図した改変の意思を持つ何者かの手で存在が消されるおそれがある。
小説『時空の旅人』あらためて読むと複雑。
時間の流れにはじまりと終わりはないと言うセドウド・ジン。
時間管理局員は別の時間の流れにもいてこれは無数の平行世界それぞれの時間管理局員である解釈も成り立つ。
だとしたら時間の流れはなんなのか。生きてる限りはその時空や世界に存在してるのだろうが存在が消えてしまう危険もある。
時間にはじまりと終わりがないのは人生無限ループ(?)の鍵でしょうか。
しかし七十年代にこういう作品があったのは興味深い。当時のSF的ブームもあったと思うけどこの当時はおおらかな印象がある。
『時空の旅人』自体は少々複雑な本ではあるけど時間旅行の考察や解釈は現代にも通じる描写。
『時空の旅人』だと歴史改変された場合はいくつかのパターンがあるということ。
本能寺の変を逃れた信長であっても志半ばに倒れる。これは彼が一国一国と順に帰順させていく方法を取ったから。
かたや秀吉は自ら従う国には従順にしある程度自由に統治し歯向かう国にだけ戦えばよい。
だけど秀吉が太閤にもならずまた徳川が幕府を開かなかった場合は北条や伊達勢などが生き残り各々が外国と貿易し栄えていく。
その後武士の時代は終わるらしいが第一次世界大戦などはアメリカに攻めていき歴史は変わるが世界から総スカンを買うというセドウド・ジン。
そこから先はセドウド・ジンは口を閉ざすから改変された歴史の行く末はわからない。
考えると悪い方向にしかいかないかもしれない。
時の流れが複数ありパラレルワールドがある可能性は否定はできないけどほんと怖い歴史の流れもあるかも。
小説『時空の旅人』原作小説はやはりむかし見た同名アニメ映画とやや展開が異なる。
歴史改変を阻止するのはたぶん同じと思うけど追跡者クタジマ・トシトの存在が物語が後半になり何らかの形で歴史が変わったために彼の存在はいつの間にか消えアギノ・ジロや早坂啓子、北先生たちには記憶にしか残ってない。
小説の物語の展開を考えたら本能寺の変を再び歴史の本来の流れに戻す際にその流れのなかで彼は潜在時空にのみ込まれ存在そのものが消えた可能性として考えられる。
ただその過程のなかで別人に生まれ変わったかもしれないと物語内は示唆している。
どこかで歴史改変がなされ気づいた時には別の時の流れに乗ってたらそれもまたおそろしいことだけど現実の時の流れではあがいてもどうしようもないかもしれない。
『時空の旅人』を読むと時の流れを考えさせられる。
小説『機動戦士ガンダム外伝 ブルーデスティニー』はある意味無慈悲に人物を突き放して表現されている。
主人公ユウは自らも敵に対し必要以上の感情や気持ちが入ることをよしとしない。
EXAMシステムを初めて起動させ後に戦いが終わりシャワーを浴びた時に戦いに欲情してたことを悟る場面は印象に残る。
EXAMシステムが対ニュータイプ用のシステムか否かは再読しててもよくわからない節がある。戦争の最中には実験システムなどは無数にあるなかから淘汰されていく。
他のガンダム小説にくらべたらやや作品自体は冷たい印象を宿すかな。
人物それぞれユウたち連邦側は誇張が少ない、ただし控えめではない。
ユウが敵のニムバスはこれは戦場において敵や相手を想像するに留まる程度に抑えている。
実際に戦場において兵士が敵や相手をどの程度考えるかは個人差によるからユウやニムバスが特別なわけではない。彼らも敵味方に分かれた一兵士でしかない冷たい現実かもしれない。
小説『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』のコジマ、『外伝 ブルーデスティニー』の蛙親父。
コジマ大隊長はなんだかんだて官僚的ではあったが敵味方にも人の命やルールを重んじながら戦争をしてたと思われる。
結果的には上官に背きシローたちを応援した。
蛙親父は具体的な人物像はわからないにせよレビル将軍という派閥や後ろ楯がなくなったことで出世の道をなくした。
連邦の官僚的体質は宇宙世紀時代が進むにつれひどくなったであろうことからコジマは戦後それなりに左遷されながらもうまく立ち回ったんじゃないでしょうか。ジャブロー上層部に疎まれながら(苦笑)。
蛙親父さんはどうなんでしょう。軍に残り戦後の残務に追われたとか考えられる。
連邦側の上官は出世できなくなるのがオチでしょうか。
出世できなくなるのはある意味人間らしいと思うので悪くない終わり方と個人的に思う。
『時をかける少女』は短編、『時空の旅人』は前後編のやや長編。
筒井康隆先生、眉村卓先生どちらも物語などは異なるが共通してる点もある。
どちらもヒロインが時間旅行したり過去の自分を垣間見たり未来人の人生の存在が関わるなど。
どちらの作品も時間旅行という題材を自由に描写してるおおらかさがある。反面どちらも未来世界についてはより良き未来という雰囲気ではないのはある種の作品当時の時代からく時代の影にも思える。
だけど七十年代当時の明暗が伝わる作品でもある。
『時をかける少女』に収録されている「果てしなく多元宇宙」はパラレルワールドもの。
別の宇宙の自分の騒動に巻き込まれた本来(?)の自分は他の次元に巻き込まれるという物語。
雰囲気は『世にも奇妙な物語』系に近いけどちゃんと理屈は合わせている。
筒井康隆先生の面白さ伝わる。
小説『サイボーグ009 完結編』は冒頭から多くの矛盾をはらんでいる。
ギルモア博士と生前の石ノ森先生が出会うことではなく001イワンから009ジョーまでの各々の章からラストにいたるまで。
00サイボーグとコンタクトした“神”と称される別次元の存在。
唐突におとずれる物語の真相とジョーが語る“ひと”とはなにか。
善と悪をひっくるめて人間ということ。
身勝手な“神”に滅ぼされていいことではない。なかにはキリストや釈迦みたいな“善”だけの人間もいたかもしれないけどそんな人物はまれ。
00サイボーグたちが9人ということ。9つの異なる国の者たちで構成されるという意味。
『完結編』の三巻では00サイボーグたちも“神”による精神操作で操られそれまで見せなかった“悪”の心が各々に芽生える場面は強烈。反面彼らもまた“人間”である証。
物語自体を考えたら“神”の自分勝手やわがままで滅ぼされていいわけではない。
欲望もあれば生きたい本能もある。そのなかに感情も愛憎もある。争いをのぞむ者もいれば平和をのぞむ者もいる。
矛盾は多くあるし悩みや葛藤は尽きないがだからこそ“人間”といえる。
いちがいに“善”だけあるいは“悪”だけとは限らない。
小説『仮面ライダーブレイド』**ない身体になった剣崎(ケンザキ)とジョーカーである始(ハジメ)。
『サイボーグ009』に通じる部分があるけど『ブレイド』本編から三百年後の世界は残酷。
虎太郎→コジロウとかつての人物の名前をもじり役割を受け継ぐ人物たちの描写、三つの月と地球とは異なる世界。
そして実は舞台は統制者が作り出した地球ではない世界という真相。
**ない剣崎は不死身の不幸そのもの。
かたや始はもとからジョーカーアンデッドですからアンデッドとして生を受けたから死の概念は最初からないであろう。
だけど剣崎が死を求めてしまい地球は温暖化により絶滅してしまうのは救いがないですね。
“仮面ライダー”として守った世界や地球が崩壊は救いがない。
だけど物語はかつてのテレビシリーズをなぞるように紡がれ四人の仮面ライダーが揃う。
橘朔也がタチハラ、睦月がサツキと彼らは剣崎や始とちがい別人らしいけど何らかの形で彼らを受け継いでいる。
実は別な惑星だったオチや四人がバラバラにいることなどから考えたら著者の宮下準一さんは映像化を考えてつくったようにも感じられる。
VFX合成ならなんとなく小説『仮面ライダーブレイド』は映像化できそうな作品。
小説『仮面ライダーキバ』人間とファンガイアの先にある何か。
過去編と現在編を紡いでいる感じはいい。
過去編の描写がなんとも懐かしい時代(笑)。
人間かファンガイアかと悩み紅渡の姿はまさに仮面ライダーそのもの。
音楽と愛をテーマにしてるところはいい作品。
かたや名護さんはまるで『ファイズ』の草加さんみたいで悲惨。
テレビ版とはちがうもうひとつの『キバ』なんでしょう。
人物を掘り下げ物語をシンプルに再構築していく。
『クウガ』は後日談、『アギト』『龍騎』はアレンジ、『ファイズ』は『異形なる花々』から後日談を加えた+α、『ブレイド』は一見するとパラレルにも見えるさらなる後日談。
『響鬼』はまさかの『変身忍者嵐』とのクロスオーバー、『カブト』はダイジェストと+α、『電王』は何か価値ある何かを守る物語、『キバ』は音楽と愛を過去と現代で奏でる、『ディケイド』は本編でできなかったであろう物語。
とりあえず平成一期ライダーの小説は揃った。
手塚治虫cover【エロス編】収録の「ビッグX」を読むと手塚作品のおおらかさもあれば暗部もある。
『cover』の【エロス編】【タナトゥス編】に収録されてる各作品は各作家さんがアレンジを加えながらもオリジナル作品の魅力は損なわれない。
角野栄子さんの『魔女の宅急便』、基本的な展開はジブリ映画版と同じだけど細部はかなりちがう。
おソノさんがおおらかに書かれてる人物。
大きな町にやってきてキキとジジの世話をみる。
グーチョキパン屋といういかにも児童文学的な名称は小説だけど絵本を読む懐かしさを感じさせる。
小説『魔女の宅急便』文章表現が独特。
児童文学でしょうけど絵本みたいに情景が浮かぶ。ジブリ映画は一巻の前半までなんですね。
小説の方では里帰りまで書かれていてキキが成長したのに里に帰るとひとりの娘に戻るところは微笑ましい。
小説『インデペンデス・デイ』のニムジキは人類存亡の危機さえ自分の出世や栄達のためにしか国家を利用しない人物として書かれてる。
なかには画策や謀略をする人物がいるというあらわれ。
だけど彼がいなければ物語内のエリア51の真相はわからずじまいでもあり必要不可欠な人物どある。
しかしグレイ将軍からエリア51の機密を糾弾され詳細に語ってたらあらかじめ犠牲は少なかっただろうことは難くない。
結果的にホイットモア大統領やコニーをはじめ主要人物から疎まれ長官の地位を解任される。
ニムジキが人類側にとっての悪役であり必要悪な存在として描写されるのはやむ得ない。
だけど続編『リサージェンス』にいっさい去就が記されてないのも気がかり。ニ十年の歳月で何かはあっただろうなくらいでしょう。
小説『機動戦士ガンダムUC』7、8巻が欠けたけど他は購入。
ラプラスの箱を巡りオードリーことミネバもまた巡りながら戦うバナージ。
宇宙世紀誕生の年から『逆シャア』の数年後にいたる物語本編。
過去、現在、未来へと系譜していくメカやモビルスーツ。
いろいろな意味で集大成的な感じはする作品。過去のキャラや出来事たちにもわずかに触れながら歴史を反映していく展開。
小説『機動戦士ガンダムUC』あるかどうかもわからないラプラスの箱に人物たちは踊らされている感もある。
また宇宙世紀という時代が幾度の戦乱で疲弊し宇宙移民という政策の在り方、そこに生まれる差別、地球至上主義などの目に見えるあるいは見えないところの無数の問題。
ところどころに各ガンダムシリーズに少しだけ触れられながら問いていく感じもある。
ただ連邦も袖付きもそれなりに良識ある人物がいる。一部はやはり精神が不安定な人物もいるが。
バナージがガンダムのパイロットとしても扱いは人並みにし袖付きのジンネマンは人格者ではないだろうかと思う。
小説『機動戦士ガンダムUC』連邦政府を覆す力を持つというラプラスの箱、その正体は連邦政府が宇宙世紀開始の年に綴った碑文あるいは条文なるもの……。
ふと思うのは現実世界にも知らされてない法律や条文、碑文など多くあるんじゃないかなと感じた。
歴史は知ってるようで実は教えられた歴史としてか内容を知らない。歴史はたとえば戦国や幕末時代などは所属する勢力や地方などによって伝え方や伝えられ方は異なるが徐々に世が安定したり統一政府などができると国民や大衆に耳がよいように整理や改竄される(だろう)。
宇宙に適応した人類イコールニュータイプとするか否かまたはそれを証明する方法。
あるいは宇宙世紀のガンダム世界では火星圏や木星圏まで行った人物たちも多くいるだろう。彼らが宇宙の深淵を見たかもしれないし見なかったかもしれない。
なにを以て適応したかと決める例をつくるか否かでもまた後々の世に与える影響もまたあるかもしれないしないかもしれない。
解釈や受けとり方は様々なんでしょうね……。
現在の世のなかもまたおなじかもしれない。
小説『機動戦士ガンダムUC』で宇宙移民政策が棄民政策であるというのもひとつの実体。
コロニー開発者や連邦政府、軍関係者などは比較的に優遇されてる身なのはかつてのアムロやカミーユ、後のシーブックの一家などにあらわされ描写はされてる。
だけどサイアム・ピスト。彼はちがった。
ラプラスの箱を手に入れなければそのまま貧困層として亡くなり歴史の表舞台に立つことはなかった人物。
いうなれば本来なら宇宙世紀ガンダム世界の日陰者だったが、ラプラスの箱を手に入れ連邦政府やアナハイム・エレクトロニクスなど大きな勢力と関係を持ち栄華や繁栄を手に入れたが同時にサイド3でジオン・ダイクンがニュータイプを提唱し後ジオンが何者かに殺されザビ家一統が地球圏を混乱に招くことになり更なる混乱を招いた。
宇宙移民者の当然の権利を記した碑文がありながら歴史が闇に隠したあるいは結果的に隠すことになった。
現実世界における格差などもそのひとつ。『ガンダムUC』ではパラオを舞台にした際に主人公バナージを通してかつて資源衛星であった物体に住む人々の姿が書かれる。
宇宙移民に夢を馳せてたはずが実体は棄てられる民の実体もあったという世界の裏側。
小説『機動戦士ガンダムUC』は宇宙世紀世界の闇や裏側を描いている。そんな意味では硬派。
連邦政府の闇や裏側は富野由悠季氏や他のシリーズなどでも断片的にこそ描写や書かれはするものの具体性は少ない(と思う印象)。
福井晴敏先生はそこのところを場面や人物を変えながら端的かつ事細かに書きながら宇宙世紀の闇を書いて伝えている。
連邦政府が悪辣な一面は各シリーズでも書かれ演出されてもいるがより具体的。
宇宙世紀の世界が争いが絶えないのは連邦政府が存続してるからといえるが連邦政府が存在してないと世界が崩壊するかもしれないあやうい世界。
読んでると何が正しく悪かわからなくなり読者に考えさせようという後押しは感じる。
NHK『100分で名著』松本清張スペシャル。
推理モノであり社会派でもある松本清張氏。
読んだことはないけど多くはテレビドラマなどで作品化されてる。社会に切り込む内容は今月放送の『名著』で理解できた。
だけどこの人もまた石ノ森章太郎先生同様に作品を未完になった方。
『神々の乱心』という作品は未完に終わったという。天皇崩御や新興宗教などの現実の事件をもとにつくられるはずだった物語。
宗教やクーデターなど一見するとやや非現実的な物語らしいけど天皇や皇族など詳しいことは一般大衆は知ってるようで知らないのが実情(と思う)。
昭和天皇崩御の時はいまだにおぼえている。テレビ報道が一斉に報じて通常放送になかなか戻らないという……。
松本清張先生が『神々の乱心』を書いていたのは昭和から平成になった前後でしょうね。
松本清張先生が凄い方というのは『100分で名著』で本当伝わった(と思う)。
『100分で名著』によると松本清張先生はフィクションとして書くことで社会の闇や裏側を描いてたというのが本音でしょうか。
フィクションとして書くことで書きにくい実在の事件や物事を一見架空に欺きながら実在の物事や事件を再度通して書いていくみたいな。
実際に事件記者が事実をありありのまま書くと不敬なことは書けないけどフィクションならある程度は書き起こせる。
それだけ松本清張先生が現実の事件や物事について調べて考え再度頭や原稿用紙、パソコンなどで物語として再構築したんでしょうね。
作家として書く側ならとてつもない作業量と想像できる。内容に比したら質もそれにいたる。
小説『機動戦士ガンダムUC』結果ではなく過程が大切というひとつの結論。
これはガンダムシリーズ全般に限らず一日や一年、遊んだり勉強などなにごともいかなる過程でもと思う。
結果だけを見てたり臨むと背中を振り向くと見てなかったものや気づかなかった存在の後悔が表現ができないくらい大きく重たい。
けど人生は失敗したり落ち込んだりへこまないと知らないままの方がほんと無駄に多い。
可能性を開くも閉じるも自分しだいのむずかしさ。
久しぶりに小説『踊る大捜査線 THE movie 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』を読むと松本清張先生の『砂と器』と東北弁があった。
近年は作品同士がネタとしてリンクすることはある。オマージュやパロディとしても。
ただ『レインボーブリッジを封鎖せよ!』で警察の官僚社会の難しさ。
現場を知らないキャリア、官僚の難しさを知るノンキャリア。
『踊る』はサラリーマン警察という形で描いているのでいくぶんのフィクションはある(笑)。
いまになって思うけどキャリアにも有形無形な犠牲はたぶんにあるでしょう。劇中で室井さんは新城さんや沖田さんに一度は見下されながらも現場を知るキャリアという形で見直されていく。
階段を上る間にもセピア色の思い出や青春さえも現実に棄てているキャリアいるんじゃないかな。
『パトレイバー2』の課長代理をつとめていた南雲さんもまた柘植学校でのことやかつての部下たちが去った特車二課に思いを馳せるように。
ラプラスの箱を用いて連邦政府を脅し利用すればいいというフル・フロンタル。
たぶんにシャア本人であればここまでせこいことはしないと思う。
シャアが『逆シャア』で唱えたことは宇宙市民の自治権や独立であって連邦政府そのものを脅すことではない。『逆シャア』でたしかにあこぎなことを彼はしてるが騙し討ちでアナデウアー・パラヤや連邦艦隊を壊滅させてる程度。
フィフス・ルナやアクシズを落とすことで全人類をニュータイプに強制的に覚醒させようとしてるに過ぎない。
『ガンダムUC』でもバナージとハサン先生との会話で全人類がニュータイプになれば?という話をしてたと思うが現実的にはリスクもデメリットもあるしなによりそんな方法自体がそもそも無理ある。
フル・フロンタルはおそらくどの時期のシャアもしくはキャスバル(クワトロ時期含め)などにあたらない矮小な存在として造られたとすべきかもしれない。
連邦政府を『ガンダムUC』以降の時代に脅したとしても時代が巡り巡ってくるだけ。そんな意味ではクワトロとしての一面に近いかもしれない。
『ガンダムUC』のラプラスの箱みたいなものが現実に存在するか否かはわからないけど存在したら権力者や政治家もしくはその一族などには呪縛みたいなものでしょう。
さながらパンドラの箱みたいに箱を開ける者によっては魑魅魍魎かあるいは世に光明をもたらす存在になるか。
もしかしたら日本が韓国や中国などに頭を下げ続ける歴史なども国民が知らされてない歴史の暗部があるんじゃないでしょうか。たんに戦争責任や慰安婦問題などは氷山の一角ではないだろうか。
『ガンダムUC』のラプラスの箱が宇宙世紀の世界のいずれかの段階で明かされたとしても更なる混乱を招いた事態も考えられる。
一年戦争末期に公開したとしたらそれこそザビ家はほぼいなくなったにせよデラーズみたいな血気盛んな人たちはより戦争継続を望んだもしれない。
『Ζ』時期ならジャミトフやバスクはより隠蔽しようとしブレックスやシャアは公開を望んだでしょう。だけどこの時期のシャアならダカールの演説で利用(?)した可能性も否めない。
『ΖΖ』時期ならハマーンもまたスペースノイド自治権とザビ家による支配のために利用したでしょう。
『Ζ』『ΖΖ』時期は連邦そのものが内部抗争で疲弊してるから時期的にはいいかもしれないが逆に本編以上に最悪な事態になったかもしれない。
クワトロと名乗ったシャアでさえフル・フロンタルのように利用する価値として使ったかもしれない危険はある。
箱を巡ってアムロたちと袂を分かつ可能性は充分にある。
小説『ガンダムUC』の敵組織である袖付き。
作品中でも語られている通り一年戦争からの古参兵もいればザビ家を崇拝する者、純粋にジオンやジオニズムを信ずる者など様々な者たちがいる寄り合い所帯。
だけどハマーンのネオジオン、シャアのネオジオンと異なるネオジオンにも関わらず二度の戦争と壊滅。
もちろん両組織に在籍し袖付きに加入した者もいるでしょう。
連邦がいうようにテロ組織にかわりないかもしれないが表面的や潜在的に組織が力を秘めているであろうことは示唆されている。
『逆シャア』におけるシャアの反乱で力をなくしたにも関わらず直接ないし間接的にジオン共和国が介在している。
だけど一年戦争から三十年近く過ぎてなお連邦に対抗しようする信念あるいは志。まっすぐに信ずる者もいれば当初の志とは違った形になったことに疑念を持つ者もいる。
ジンネマンなどはまさにその類いの人物でしょう。ジオン創業の志とは裏腹にコロニー落としをしたことに取り返しがつかない大きな悔やみを残しながらなお戦うという志や姿勢を示す。
主人公バナージはいじけながら反発しながら再度“敵”と称される人物たちにふれあいながら考えていく。
六巻での砂漠の旅はバナージにとっては大きい人生経験だったとうかがえる。
だけど袖付きの戦力が潜在的に秘めている怖さが伝わる巻でもある。
小説『ガンダムUC』においてバナージにユニコーンが託されたのは託すべき人物であるにふさわしかったんでしょう。
もしもバナージ以外にユニコーンが渡っていたらシステム自体が働かなかった可能性もあるし永遠にラプラスの箱は封じられたかもしれない。
ニュータイプの素養を持つ人物はネェルアーガマにリディなどにいたでしょうが最終的には機体を柔軟に扱えサイナム・ビストなど財団の主な人物の信頼も間接的には関わるでしょう。
たんに機械的な性能を引き出せるだけでなく未熟ではあるが成長や伸びしろある人物に託し未来を託すという思い。
何かの小説に“秘匿されたものこそ力を持つ”みたいな表現があったけど『ガンダムUC』のラプラスの箱もそのひとつ。
海堂尊先生の『ブラックペアン1988』が『ブラックペアン』としてTBSでドラマ化。
『桜宮サーガ』シリーズは『バチスタ』から歴史が長いシリーズ。出版社やドラマの放送局は異なるけど作品間のつながりは原作同様にたぶんにあるでしょうか。
『桜宮サーガ』で好みは『イノセント・ゲリラの祝祭』『極北シリーズ』『ナニワ・モンスター』かな。
だけど現実世界にも秘匿された存在など多くあるんじゃないでしょうか。
機密文書など世界各国や各地にあるんじゃないでしょうか。
効力をさほどもたなくなった時に公開され混乱は起こるが結局は一時の流行のように流行っては時の流れや記憶に消えていく。
小説『機動戦士ガンダムUC』五巻ラブラスの亡霊、軌道上でユニコーンガンダムから聞こえるかつての宇宙世紀を記念しての大統領演説。
もちろん“ラブラスの箱”への道標だけどなぜ箱を求める者たちに伝えるかという意図。
最終巻のネタバレだけど結果ではなく過程を大切という意味合いでしょう。
宇宙世紀が開始された時には当然まだニュータイプの概念は生まれてなく“神”もしくは宗教の信仰の対象がそれだった。
だけどラブラスの亡霊の巻においてもデストロイモードを覚醒するユニコーンとバナージ。
神とニュータイプの交錯がここでも行われる。神とニュータイプが等しいとは個人的には思わないがたぶんに“世界”は誤解をし大衆やジオン残党などは求めるかもしれない。
『ガンダムUC』の物語はそんな危険をはらんでいる世界でもある。
フル・フロンタルによる“シャアの再来”もまたそれに近く危険なもの。
内容を読むと危うい世界と肌に感じ現実にも通じるところある。
『踊る大捜査線 THE movie 2 レインボーブリッジを封鎖せよ』のDVDを購入。
最近は『ゴジラ』や『インデペンデス・デイ』など中古DVDを購入することにハマってる。
『踊る2』をDVD購入前にノベライズを読んだけどよくも悪くもたしかに『パトレイバー』寄りな作品。
ただ『踊る』自体は一貫してサラリーマン警察のドラマ。室井さん以外がやや無能なキャリアとして演出されるのはちょっといたいかなというのはある。
実際の警察のキャリアとノンキャリアがいがみあうことはないとバラエティ番組で警察ともと警察の方たちは伝えてましたからね。
『踊る』自体は立体的に警察の縦社会と横のつながりを時にシリアスに時にコメディに演出することで青島俊作や室井慎次たちの人物像を浮き彫りにしていく。これは『パトレイバー』も時にいいかげんないい意味で警察官を演出するのと重なる。
『踊る2』でいかりや長介さん演じる和久さんが老刑事として奮闘し涙する姿はいいですね。
『踊る』のノベライズでもテレビ版、歳末スペシャルから映画一作目までにおいても老刑事として先輩刑事として青島俊作たちを支える。
かたやユースケ・サンタマリアさん演じる真下さんは言葉少なな時はそれなりに格好いいのに水野美紀さん演じる雪乃さんの前だと彼女に振り回される現代的な若者(笑)。
『パトレイバー』が『THE next generation』として作られた経緯を踏まえると『踊る大捜査線』も何年後には『TNG』が作られるんでしょうか。
室井慎次がいずれは警視総監か副総監みたいになって『レインボーブリッジを封鎖せよ!』の和久さんと副総監みたいになりながらかつての関係を彷彿させるか逆に冷えきった関係みたいになりながらもキャリアとノンキャリアが時にぶつかり協力し合いながらとか……?
ただ『踊る』の劇中でもお台場に限らず東京が混沌とした都市に演出され何もなかった土地に所轄署ができ駅ができコンビニや会社、事務所などが入り街や土地は未完成のまま進化していく。
東京に限った話ではないけど東京は人口集中、地方田舎は移住者を募りながら一方では過疎という現状がありながら市町村は姿を変えていく。
『踊る』はある種のフィクションと現実の狭間。
だけど現実はどこか投影してる……。
『踊る』が『パトレイバー TNG』みたいになったら湾岸署もいつかは鞍替えでしょうか(笑)。
『踊る大捜査線』の小説を読むと社会や組織の壁があるのを感じる。
ジャンルはちがうけど『絶対無敵ライジンオー』のノベライズにも主人公の子どもたち日向仁たちも普段は感じない見えない社会の壁に阻まれ校長先生や篠田先生の姿のなかに社会を感じてしまう。
いま読んでる『ガンダムUC』の小説もネェルアーガマ、袖付き、連邦軍、ピスト財団それぞれの思惑を絡めバナージ、オードリー(ミネバ)、リディなどもそれぞれの壁にぶつかり葛藤し悩む。
小説『おジャ魔女どれみ』も高校生になったどれみちゃんたちは思春期という複雑かつ繊細な年頃になりながら青春し互いに悩みあう。
小説『踊る大捜査線』シリーズも数年忘れてた。
『交渉人真下正義』『容疑者室井慎次』も読みたいと思いながら忘れてた。
『真下正義』はとりあえず中古DVDを購入。ほんと『パトレイバー』に似た演出が目立つ作品。
木島丈一郎が口は悪いが足は早い刑事。なんだかんだで交渉課準備室にさりげなく気をかける。
小説『ガンダムUC』のアルベルトはバナージにガンダムを奪われカーディアスに見捨てられたと思い込み策略を使いながら一族の中で生きてきた人物なんでしょう。
マリーダにこだわるのは気持ちや愛情を条件付きであれ求められる相手だったんでしょう。
七巻八巻が手元にないためにそこの経緯はわからないけど一族の間で劣等感やプライド、心や気持ちの狭間で揺れてたとうかがえる。
アルベルトがマリーダに執着するのは一種のストーカーに近い心理はあるかもしれないけど現実に陥りやすい一面かもしれない。
小説『踊る大捜査線』久しぶりに読むとテレビシリーズ時期が内容がよく伝わる。
テレビドラマは基本的に青島と室井視点で演出されてるが小説では青島、すみれ、和久、室井の視点で書かれサラリーマン警察官の苦しみや悩み、葛藤が浮き彫りにされる。
室井がシリーズが進むごとにやや孤立化は否めない。ことあるごとに本庁上層部に意見し歯向かい出世の道は遠くなりなかなか上にあがれない。
青島たち現場を理解すればするほど責任を取り自ら窮地に進んで陥る。愚行といえばそれまでだけど。
青島もまた責任は取らされるが所轄のあちこちを異動させられるだけで済みこれはわざとコミカルに演出される。
だけど室井はキャリアなので軽い処分といっても彼の今後に関わる重たいこと。
室井はおそらく青島に関わらなければ早いうちに幹部待遇かそれに準ずる地位に就けたと思う。
だけど『踊る』シリーズ自体がスピンオフなどで世界観が拡大しそれもまた物語内の時間を遅延させたり一部デメリットもあったと思う。
小説『ガンダムUC』でフル・フロンタルはラプラスの箱を持ち連邦政府を脅し続ければいいという主張。
もしオリジナルのシャアが知ってたらフル・フロンタルのようにするだろうか。
『Ζ』時期のシャアはエゥーゴという武力を借りながらも一度はティターンズから連邦政府を浄化しようと試みダカールで演説をしている。武力に借りてる一面はたしかに危険視はあるがとりあえずはその後ティターンズのような勢力は連邦内部に生まれてない。
『逆シャア』時期なら隕石落としをしながらもしかしたら一度くらいは連邦政府を恫喝程度はする可能性はある。
だけど連邦政府が浄化されるならそれをよしとしたでしょう。
ラプラスの箱が公開された事実か結果をどちらかをシャアは大切にしたとも思う。
フル・フロンタルにはシャアが内にある純粋な一面はたぶんにないと思う。フル・フロンタルにはアルティシア(セイラ)に対する思いもたぶんにない。
だけどシャアが危険なところは武力を借りないとなにもできない一面もまたあるという事実。これは現実においても危険なところ。
コバルト文庫の『宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト』をブックオフで購入。
以前に『銀河鉄道999』を購入して以来の松本零士作品。
『ヤマト』も読んでみたかったシリーズ。
コバルト文庫の小説『宇宙戦艦ヤマト』比較的アニメに沿った展開。
だけど敵側が名もなきガミラス兵、ドメル司令そしてガミラスだけと敵側の描写は少ない。
古代進を中心に各人物が成長する姿を書いてる。島、真田、相原、徳川など各人物に出番は与えられている。
だけどラストが死者四十七名と遠いイスカンダルまで行き往復したのに少なくない?
この辺は『宇宙戦艦ヤマト』が日本人だけしか乗ってなかったり女性乗組員が森雪(小説ではユキ表記とカタカナ)と不自然さ。
ガミラス側の描写があったらよかったかなと思う。
〈西暦ニ千ニ百一年 ヤマトは永遠の旅に旅立っていた----〉
コバルト文庫版の小説もアニメと同様。
だけど皮肉なことに『宇宙戦艦ヤマト』という作品がここで終わらなかったこと。
とあるアニメムック誌で『さらば』を名作と称えながらも『ヤマト』がここで終わらなかったことに懸念してた。
これとはちがうのが『機動戦士ガンダム』。
小説ではアムロとハヤトがとある行き違いからふたりは撃たれ死んでしまう。ただしアニメでは言うまでもなく存命してる。
シャアがジオンを率いるというゲームでのIFの歴史があるのは小説の物語から。余談として富野氏は著書でガンダムというコンテンツが広がり過ぎてることにほどほど怒っている。
小説の方でアムロとハヤトが死なないことを一時は考えたらしいけど富野氏は一度書いた作品を訂正したくないのか挑戦はしたけどできなかった旨のコメントを残している。
これは『ヤマト』と『ガンダム』のちがいのひとつ。厳密にいえば『ヤマト』は松本零士氏の作品ではない。一時期に問題になりましたが。『ガンダム』もまた富野氏の手をとっくのむかしに離れた作品。
富野氏は著書で『ガンダム』シリーズしか作らせてもらえないことに苦悩や葛藤、憤りを製作会社にぶつけている。
もしも『ガンダム』が第一作で終わっていたらまたちがう歴史もあったけど『ヤマト』以降のアニメは売れるコンテンツとして認識された歴史もある。
小説『さらば宇宙戦艦ヤマト』宇宙の愛を照すテレサと絶対的支配者であるズォーダー大帝。
再びヤマトの前に立ちはだかるデスラー。
宇宙の愛を賛美するのは構わないけどヤマト乗組員が戦うたびに亡くなっていくのはやり過ぎ。
なおかつラストはヤマトが亡くなった森雪を抱き亡き沖田十三からメッセージを受け取り特攻し物語はそこで終わり……。
アニメ『新造人間キャシャーン』も鉄也が進んで自らキャシャーンに生まれ変わるという自己犠牲描写があるけどいまの時代に七十年代的描写や演出は無理あると思う。
感動的な場面だし『ヤマト』の作品としての素晴らしさもわかる歳になったけどう〜んと唸る。
小説『銀河鉄道999』久しぶりに読むと鉄郎は内面が熱い。
『999』は一見美しい銀河を旅する物語だけど実際は復讐のために鉄郎は旅をしている。
旅をする人々との出会いや別れを繰り返し鉄郎はある答えを得る。
傷つき戦いを繰り返し敵味方に違わず出会う人々から得る何か……。
機械人間になった者の悲劇など必ずしも機械になったからしあわせではないというのもひとつの答え。
ある意味『999』は銀河鉄道に乗ることで少年は大人になっていく半生あるいは人生そのもの。
形は異なるけど小説『ガンダムUC』もテーマ敵な答えは比較的近いと思う。
小説『さらば宇宙戦艦ヤマト』。
以前にスカパーでこれの劇場映画を見た時は凄いという印象はあった。
だけど『ヤマト』故に物語があちこち不自然。
『ヤマト』第一作から作品内世界がたった一年で復興してしまう。そんなかんたんに復興できちゃうの?と思うくらい変。
これに近いのは『マクロス』シリーズもありますが(苦笑)。
『さらば』では人物たちがやたら亡くなること。ほんと戦記ものに通じる点がある点はよしとしても小説版を読んでても戦記ものか『さらばヤマト』を読んでるのか軽い違和感はあったかな。
『ヤマト』なんですよね、やっぱり。
佐渡酒造はお酒を飲むし女性乗組員が森雪だけしか書かれない。
あとデスラーは魅力的な悪役ですね。
白色彗星帝国に身を寄せながらも古代やヤマトの面々に誰より心は近くにいた。小説だけどしっかり伊武雅刀さんの声で再生された(笑)。
松本零士および西崎義展作品を作品世界内の歴史や年表に倣いまとめているブログがあったけど『ガンダム』ほどにはっきりしてない。
『ヤマト』で地球を何度も救ったのに『999』や『ハーロック』の時代では地球連邦は腐敗し地球は機械人間により征される。
『ヤマト』から『999』までの間に何十年か何百年かは経ってる。そしておそらくヤマトが地球を救ったことは過去の出来事とさえ知る者はほとんどいない。
松本零士および西崎義展作品をつなげて考えなおかつ松本零士先生の謎は謎のままなことを考えたら辻褄はいちおうあう。細かく考えたら矛盾は多々あるかもだけど。
小説『宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト』に見る戦記もののような描写、かたや『銀河鉄道999』は旅ものだけど復讐劇。
古代進も星野鉄郎も方法は違えど熱いものを秘めている点は変わらない。これはハーロックやエメラルダス、トチローも。
松本零士および西崎義展作品はある種の宇宙ロマンの時代だったとうかがえる。
小説『999』でも鉄道がエメラルダスの船が海賊の旗をはためかせてることをふしぎに思うところがある。
小説『宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト』ようやく手にいれ読んだけど内容的にはいまの時代にそぐわないところありますね。
ヤマトの女性乗組員が森雪しか描写されなかったり戦艦としての不自然な人員配置や階級などによる言葉遣いや表現。
そもそも宇宙戦艦一隻でイスカンダルや他の宇宙まで行っては帰ってきてほぼすべてに近いことを成し遂げる。
宇宙愛や自己犠牲は『六神合体ゴッドマーズ』にも受け継がれる。『ゴッドマーズ』もコバルト文庫から刊行されこちらは以前に入手。
『さらば』についてはスケールは大きいこと。古代進と森雪の愛そして結婚を控えながらもテレサを救うために再度宇宙に出るがヤマトは廃艦される直前。
だけど古代進たちは再び宇宙に出る。森雪とケンカ別れをしながらも彼女も再度ヤマトに乗る決意。
『ヤマト』であることを除けば戦記ものと変わらない。古い日本人の大和魂を感じる展開。
『さらば』ではデスラーが男の生きざまを見せるのは屈指の格好よさ。敵側に身を寄せヤマトに再び戦いを挑み負けはするがヤマト側に心は近かったと本音を吐露する。
根っからの悪人ではないと伝わる場面。
だけど宇宙愛や自己犠牲の精神などはいまの殺伐とした時代から合わないと思う。『ヤマト』はアニメで新作は出来てますが時代に合わせ改変されてる。
『宇宙戦艦ヤマト』も『六神合体ゴッドマーズ』古代進も明神タケルも一時は復讐に身を燃やすけど復讐から一転宇宙愛に目覚めるというのも唐突かつリアリティがないかな。
七十年代や八十年代頃はそれが通じた時代ともいえる。
復讐から得るものは当然何もないけど生の感情としては正しい姿。
『ヤマト』や『ゴッドマーズ』はその辺は飛躍してる感じ。
酸いもあまいも感じて見分けながら痛みを通じて生きる姿が現実的かなと思う。
小説『宇宙戦艦ヤマト』や『六神合体ゴッドマーズ』自体の作品の出来はいい方と思う。
だけどいまの時代にはなかなか伝わりにくいテーマと距離感をおぼえる。
小説『六神合体ゴッドマーズ』マルメロ星編。
プラスとマイナス超能力者の区別が明確に伝わらない。
磁石のプラスマイナスみたいなものと思えるけど具体的な描写が少ない。『ヤマト』もだけど肝心なところはぼかされてる。こういうところはいまのアニメなら事細かに描写するだろう。
基本的に当初はいがみあいながら最後は共闘するパターン。
『ゴッドマーズ』はロボットアニメを借りた人間ドラマ。
オリジナルの『マーズ』をもとにしながら別物。
九十年代に刊行されたOVA版『マーズ』のノベライズの方が原作に近い。ただこちらもマーズを監視する監視者の内面が掴みにくいという欠点がある。
当時の声優に監督は武士の気持ちなんだみたいなあとがきがあったような。
横山光輝作品はごく一部を除けばほぼ男の世界。『ゴッドマーズ』は例外。
『マーズ』も『ゴッドマーズ』も魅力が違うから一長一短ある。
小説『踊る大捜査線』四話の「刑事の枷」と『レインボーブリッジを封鎖せよ!』では同じテーマが書かれてる。
「刑事の枷」では室井に本庁捜査一課に青島が呼ばれ、『レインボーブリッジ』では沖田ひとみの指示により結果的に両作品とも所轄が見過ごすことができない犯罪を看過してしまいミスをしてしまう。
犯罪に大きいも小さいもない、というのも『踊る』のテーマのひとつでありサラリーマン警察の足枷を書き演出することで青島や室井が互いに苦悩し成長していく。
足枷はどんな職業でもあるけど信念を貫くのも難しい。
官僚は現実もだけどフィクションにおいても様々。
『踊る大捜査線』の室井慎次は愚直なまでにまっすぐかつ純粋に書かれ演出され人間臭く不器用に浮き彫りにされていく。
『桜宮サーガ』の「田口白鳥シリーズ」の白鳥圭輔は名前の印象とは裏腹に型破りかつとりあえず一応は正論を通しながらまた裏の手や法の抜け道など巧みに使いながらアウトローな手段使いどこまでが本人の意向かは不明ながら厚労省で出世の道を歩む。
白鳥に対する八神もまた厚労省もしくは官僚を象徴的な人物だけど物語の世界観が進むにつれ出世の道から外れていく。
現実の森友問題などはいったん火消しがあったかと思うと最近くすぶっている。
だけど『桜宮サーガ』と世界観を同じにする『ナニワ・モンスター』だとこれらの問題も国民への目眩ましともされる(らしい)。
あくまでフィクションですけど。
だけど知らぬ間に法案や法案のもとになる素案などが国民の目の届かないところで通っている可能性もある。
『イノセント・ゲリラの祝祭』の官僚劇を読むと認識変わる。
『ヤマト』や『ゴッドマーズ』の地球防衛軍の官僚もまた物わかり悪く書かれてる。
主人公たちに良識ある上官や上司は少ない。
あくまで劇的なドラマが主題にあるから官僚的人物はこの手の物語には添えものに過ぎない。
時代が変わるにつれ『ガンダム』など一部の現実的なティストや演出を持つ作品でも問題提議的に取り上げられるが残念ながら基本的に主題ではない。
『第08MS小隊』では連邦の官僚がデスクワーク的でしかなくかつてのレビル将軍みたいに実戦に出る者は少ないと敵側のジオンに揶揄される。
コジマ大隊長などは実戦に限りなく近いところにいるので主人公たちに時に非情な判断をやむ無くする時もあるが基本は内心は協力的や同情的。
『踊る大捜査線』の室井などはきわめてこれに近いポジションにいる。それ故に苦渋の決断を迫られたり結果的に現場へ判断を遅らせたり血を流すつらい目を目の当たりにする。
ただ時代が警察モノでも銃をを撃つはみだしヒーロー風な警官より『踊る』のようにほどほど現実的なサラリーマンとして警察を描くドラマへとシフトしていく。
アニメ四作目をもとにした小説『鉄人28号』は映画『三丁目の夕日』に近いノスタルジィを抱かせながらも大塚をひとりの警官として時にシリアス時にコメディに時に主人公正太郎の父親代わりあるいは物語の代弁者として科学や犯罪(者)について語らせる。
小説『六神合体ゴッドマーズ』マルメロ星編。
ギシン星編、地球編にくらべたら物語にハデさは少ない。
だけど超能力者同士の差別を書いてるところは劇的。超能力のプラスとマイナスの区別はいささか曖昧だけど。
マルメロ星編はガッシュのキャラクターがアニメファンに受け入れがよくなかったのはガッシュが『ゴッドマーズ』という作風に合わなかったとも考えられる。
だけど藤川圭介先生がこだわった。
しかしアニメファンとスタッフの意向によりガッシュを物語から退場せざるを得なかった。
いまの時代なら歳の高いおじさんキャラはそこそこ受けますけど八十年代はロボットアニメからキャラクターアニメへと変わっていく時代。
『ゴッドマーズ』自体はロボットアニメではあるけど人間ドラマに比重を置いた作品といえば皮肉なもの。
ガッシュが藤川圭介先生が思い入れあってもアニメファンが受け入れなかったのはファンとの認識のちがいでしょう。
作り手とファンの間の認識はいつの時代も変わらないかもしれない。
『六神合体ゴッドマーズ』は仮にリメイクされてもさほど変わらない感じ。
『宇宙戦艦ヤマト2199』ぽいかな思う。
原作の『マーズ』をもとにした『マーズ』は九十年代に未完オリジナルビデオアニメ製作、ノベライズで完結。その後は『神世紀伝マーズ』で再度リメイクアニメ。
『六神合体ゴッドマーズ』としてはなかなか無理かなと思う。
スポンサーであるバンダイがオリジナル作品のように人間ドラマに比重を置くかまったく違う形でロボットアニメとしてイメージを変えるか様々でしょう。
美形キャラアニメとしていまの時代に受けるとは思うけど小説『六神合体ゴッドマーズ』を再読するとある程度完成された作品。
だけど人類愛など壮大なテーマはいまの時代にそぐわない。
九十年代ならまだリメイクの余地はあったかな。
小説『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。
漫画の昭和エピソードから抜粋されて現実とリンクさせてるところは『三丁目の夕日』と同じ。
浅草でむかしビートたけしさんたちが修行してたことに触れられている。
小説『パトレイバー THE next generation』を読んで驚くのは時代の流れ。
バビロンプロジェクトが終わり日本の不景気によりレイバーの産業や需要が見事に崩壊した時代。
レイバーイコールロボットがあること自体がめずらしいといわれる始末。
ふと思ったけど手塚治虫先生の『火の鳥 未来編』でも未来時代のはずなのになぜか懐古なレトロファッションが流行し時代が先ではなく過去にノスタルジィを感じる奇妙さ。
『TNG』においてもそれは似る。
時代が有人機から無人機へと飛躍的に進歩するとは思わない時代の早さもある。
無人機においてはロボットアニメやSF小説などでは書かれているが実用化については各作品内で問われていく。
『ガンダムW』ではあくまで人間同士が戦い命の在り方を見せることでモビルドールは所詮人形であり人間ほどに万能ではないという示しを持つ。『ガンダムW』のビットモビルスーツもそれに等しい。
だけど『TNG』の世界では有人レイバーはごくわずかにしか見られなくなる現実。無人偵察機やドローンなどが存在する時代に必要か否か。
しかし『TNG』の塩原や明は自分たちを通しながら問いていく……。
小説『こち亀』、書いたのはむかしのアニメ『ドラゴンボール』の脚本家の小山高生先生。
それぞれのエピソードごとに実在の事柄が記されてある。
浅草のビートたけしさん、野球では野村克也さん、勝鬨橋のエピソードでは『ゴジラ』第一作について触れられてる。
つい最近『ゴジラ』第一作を見れたから実際にゴジラが勝鬨橋を破壊している。
『ドラゴンボール』とは全然印象がちがう書き方をしてる。
『こち亀』では昭和の情緒ある物語を時にコメディに硬派にぽろりとひと涙をさせるつくりに書いてる。
もとの秋本治先生の描いてることをより文章で明確に表現してる。
小説『こち亀』の「勝鬨橋を開け!」のエピソード。
ゲストの白鳥純少年、名前つながりでよもや『科学忍者隊ガッチャマン』まで出てるとは思わなかった(笑)。
なにげに中川圭一も『ガッチャマン』を見てたという。いくつなんだ?
「勝鬨橋を開け!」のエピソードは感涙もの。
純くんのためだけに勝鬨橋が開くの見せるために無茶をする。
ノベライズの挿し絵代わりに一部は原作漫画の画をそのままに使ってるからそこは漫画そのまんま。勝鬨橋が開く時にオート三輪が描かれてるのは秋本治先生の芸コマな演出。
小説『こち亀』感涙の一冊。
小説『六神合体ゴッドマーズ』地球編のロゼの身体を借りたバラの騎士。
考えられる範囲としてバラの騎士のマスクや鎧などはマーグの父親かもしくはギシン星編でのマーグが密かに作り本来は自分が使用するためだったかもしれないけどマーグは惜しくも絶命。
波長(?)が合うであろうロゼがバラの騎士に選ばれたと考えるのが筋。
だけどバラの騎士の設定自体は後付け。
『ゴッドマーズ』という作品が延長された故の措置。
『ヤマト』もだけど『ゴッドマーズ』も藤川圭介節が目立つ。作品が悪いわけではないけど宇宙愛や人類愛というのがリアルにいまの時代に合わない。
『ヤマト』や『ゴッドマーズ』は主人公が絶対正義や正しいという風潮がある。
九十年代になると『セーラームーン』のように月野うさぎ自体が自分がいるから悪が狙ってくるのでは?という流れもある。
平成ウルトラマンみたいに正義や悪の視点を意図的に不明にさせ視聴者に考えさせるくらいがいまの時代は無難な感じする。
怪獣がいるから被害や災害が起きてそれに対してコンタクトをしやむをえず戦わなくていけない姿勢くらいがなんとなく無難。
『踊る大捜査線』にしても犯罪を未然に防ぐことはできるかもしれないけど基本は警察の仕事は手遅れに近い。現実的な対応しかできないのが現実。
小説『宇宙戦艦ヤマト』『六神合体ゴッドマーズ』みたいに主人公たちだけが正しい、正義みたいな世界観や作品はむずかしいでしょう。
主人公がいるから狙われるみたいなパターンはあるかもしれないけど。
ただ宇宙愛や絶対正義みたいな価値観は現実にほぼ通じない。
七十年代の感動路線、『ゴッドマーズ』は八十年代だけど藤川圭介先生が『ヤマト』とほぼ同じテーマをぶつけてる。
敵が宇宙人あるいは未知なる存在だから作品内では筋は通ってる。
だけど『ガンダム』以降リアルに人間対人間の戦争になってる。そこに宇宙愛や絶対正義の価値観はない。
『ヤマト』や『ゴッドマーズ』の小説を読むと主人公たちも敵も意固地までに戦う。一応対話は試みるが失敗に終わる。
『さらば』のデスラーについては悪役やライバルとして面目は保ってる。そこは充分に魅力的。
だけど現代はこういう作品が通じない世の中というのも痛感。
講談社キャラクター文庫の平成仮面ライダー小説。
オリジナルに沿った作品、アレンジが加えられた作品、作品世界を一見すると変えた作品などバリエーションは豊富。
しかし基本は人間を守るために仮面ライダーが戦うという姿勢はどの作品も変わらない。
『ブレイド』にしてもオリジナルからすると一見かけ離れた世界観ではあるが根底にあるのはオリジナルキャラクターたちの生き方や人生を紡ぐ。
小説は映像ではできない表現で勝負してる感はある。
地球人類が絶対正義とは言うのはないと思う。
もちろん地球に生ある魂が住まうという意味では大切。
だけど地球が中心ではない。
小説『宇宙戦艦ヤマト』『六神合体ゴッドマーズ』を読むと地球を中心にした宇宙愛となんとも天動説みたいな物語。宇宙戦士という表現に第二次大戦のむかしの日本の姿をなんとなく見る思い。
富野由悠季さんの小説『機動戦士ガンダム』はアムロがなぜガンダムを操縦できるのか?ニュータイプなのか?短い巻数で戦いながらレビル将軍やセイラ、カイたち仲間に問われながら極端に進化した人類はミュータントでしかないという蔑視。
これは小説では直接的に繋がらない『Ζ』でも再びカミーユは自らに問い時代に試されている。
ただ興味深いのは姉妹編『ΖΖ』は富野氏が書いてないという点。
遠藤明範氏に明るくまっすぐにひたむき悩みながらも少年らしさをジュドーたちが内に持ち大人たちが作った社会を前向きに批判する。
だけどジュドーは妹を仲間たちに預けて自らは地球圏を出て木星圏に向かうラスト。
ジュドー自身は羽ばたいたかもしれないが内に地球圏の人間に絶望したかもしれないダブルエンディングとも取れる。
小説『ガンダムUC』でフル・フロンタルの内にシャアの意識が存在し宇宙の深淵を垣間見えたとしたら……アムロ・レイはどうだったんだろう?
公式的にはアムロとシャアは行方不明の扱いと思いますから去就はただしくは不明。
フル・フロンタルの身体を借りて(憑依?)シャアが語らせたとの仮説もできるが個人的には彼はシャアではない。
シャアに似せて作られた象徴や模造の強化人間という器でしかないと思いたい。
アムロが宇宙の深淵を仮に見たとして絶望するだろうか。
地球圏外の宇宙がはたして闇だけと受け取るだろうか……。
人類が未来を進んで見ればニュータイプの覚醒や地球の自然回復もできるとアムロは信じていた。
人間ですから宇宙の深淵を垣間見たことで程度はあるかもしれないが絶望の闇に取り込まれることは少なさそう(と思う)。
アムロは大人になりきれてない点はある。
だけど連邦という組織に属し軍人として関わりながらも“ふつうの人”としての感性もまた持ってる。ふつうであるということの大切さ。
仮に彼がラプラスの箱を手にしても連邦政府を恫喝や脅しに使うとは考えにくい。
とりあえずブライトやカイと相談し箱を開放し世の中が変わらないならしかたないかと肩を落とす程度にも思える。
アムロ・レイはふつうの人や大人でありある意味等身大の人物。
財務次官、セクハラ問題。
まるで海堂尊先生の『ナニワ・モンスター』の一端みたい。
マスコミにスキャンダルを誘導することで他のスキャンダルか目眩ましをしたり密かに法案を通したりする隠れ簑?
何年かに一度はこんなスキャンダルが起きる。
『ナニワ・モンスター』そのものに見えてしょうがない。
小説『さらば宇宙戦艦ヤマト』。
司令部が地球の平和しか考えずに堕落する姿勢は『ガンダム』の連邦政府官僚に通じる点はある。
また司令部により統率された地球の未来がもしかしたら敵で白色彗星帝国かもしれないととあるブログ記事があったのは興味深い。
いわば腐敗した政権は自己中心的な考え方にしかならない。
『ヤマト』の世界では地球ありきの正義や愛で語られるのもどうかと思い読むたびに考えさせられるけど(苦笑)。
司令部や中枢を担う人物たちに日本人しかいない『ヤマト』の世界。ふつうに外国の人たちから見たら違和感あると思う。
テレサが反宇宙の存在で触れあえない存在なのに地球に危機を伝える、まさに宇宙愛。
だけど現実に反宇宙のひとがこちらの宇宙に危機を伝えるかはちょっと疑問に思う。SFにあれこれつっこんだらいけないけど『ヤマト』は違和感が読むたびに悩み考えさせられる。
小説『さらば宇宙戦艦ヤマト』、新鋭艦アンドロメダの活躍はがっかりなところはあるけど明らかに軍司令部の責任。
ヤマト乗組員を蔑ろにしヤマトを記念艦として廃艦保存。
だけど疑問に思うのは古代進たちは地球に残るであろう後輩たちに何も言わず。
深読みしすぎたら彼らに慕われてなかったと邪推もできるが仮にも地球を救った英雄だからたぶんにそれはない。
『ヤマト』の世界はむかしアニメを見た印象もあるけど司令部が異常なほどに権力を持ってる印象。先のヤマト廃艦も。
ふつうに考えたらアンドロメダに乗る後輩たちにそれなりに戦術は教えてたと思うんだけど司令部があまりに怠惰だったために生かせなかったと考えた方が筋がいく。
『さらばヤマト』に一部似てるのが小説『マクロス||』。
この作品にも地球統合軍司令部は笑えないくらいだらしない。
ミンメイアタック、歌が通じないマルドゥーク軍に最後まで負けないと盲信するほどに信じてる。
例外は主人公格に近く書かれてるエグゼグラン司令くらい。
若干コメディぼく書かれてるが作品内ではまともな司令。
マクロス世界はやや誇張はあるけどヤマトにくらべたらある程度リアルな軍隊像。
だけど『マクロス||』の軍上層部がひどいことにかわりない。
小説『機動戦士ガンダムUC』一巻。
ユニコーンがラプラスの箱を探すというのはサイアムとカーディアスとの会話で示唆はある。
だけど劇中の人物たちはふたりの会話を知る由はないのでまさに手探り。
だけど一方ではメラニー会長が抜けたアナハイムエレクトロニクスが力がないとも話す。
部分的ながら『ガンダムUC』の後々の展開は伏線が張られている。注意深く読まないと気づくか気づかないかのほんの微妙な表現。
福井晴敏先生がファン心理に溺れない程度に書いてること伝わる。
小説『機動戦士ガンダムUC』描写が細かい。
『∀ガンダム』も描写がこと細かいけどちゃんとその作品に現実に応じたことが書かれてる。
『キャプテンハーロック』は悪くはないけど逆に短すぎかつ言い足りない印象。
『ガンダムUC』は宇宙、地球での生活を歴史を踏まえひとつひとつ噛みしめる表現。
バナージが大人になるために敵味方の人物たちは容赦なく酸いも甘いも教えていく。
それでいてちゃんと歴代ガンダムを踏襲していくかのような日常と戦闘描写、悩みや葛藤の繰り返し。
福井晴敏先生の書き方が丁寧。場面によっては言い足りない印象は少しあるがまあ気にならない程度。
小説『機動戦士ガンダムUC』のミコットが見せる反応や感情。
オードリー(ミネバ)とは違う形でのお嬢さん。
オードリーがネェルアーガマにいることを艦内に知らせるなど初期の行動は『SEED』のフレイに似るが物語が展開するに従い普通の女の子の姿を垣間見せる。
ミコットの反応や感情もまた普通の女の子のあらわれ。
『SEED』のフレイほどに感情は激しくないと思う。
普通の女の子が戦闘に巻き込まれたら自暴自棄はある。
だけど軍艦に保護され戦いを見ていくうち失われるものがあるという現実。
小説『Orange』、映画ノベライズだけど少しSF要素が入ってるのは少女小説らしくない雰囲気。
だけどちゃんと過去現在未来に整合性を持たせてるのは筒井康隆先生の『時をかける少女』と似た雰囲気。
取り返しのつかない過去やボーイフレンドのために過去の自分に手紙を書き伝える。
だけど現在を変えていくと少しずつ未来の出来事や事象が未来からの自分の出来事とずれが生まれる。
これはある地点からBやC、もしくは他の分岐点や道ができたことを示唆している。タイムパラドックスなどの問題はあるがそこはある程度スルーされる(苦笑い)。
過去を変える物語はいくらかあるが現在という時が大事という普遍的テーマ。
小説『仮面ライダー電王 東京ワールドタワーの魔犬』ちゃんとミステリーになってる筋書き。
ひとつふたつの物事が解決しても新たな謎が浮き上がる。
良太郎にイマジンたちが各々の役割を果たし謎を解いていく。
だけど謎と謎解きを積み重ねていくことを白倉伸一郎氏が書けるのは驚嘆。
敵の狙いが何なのか?というところがこの作品の魅力。
小説『仮面ライダークウガ』『仮面ライダードライブ マッハサーガ』。
どちらも同じ警察を描きながら人物、世界観、警察という組織の在り方のちがいが異なる。
たんに平成一期と二期のちがいだけでなく時代のちがいも端的にあるでしょう。
『クウガ』は現実的なリアリティと足でする捜査、夏目美加による若い感性など。
『ドライブ』は詩島剛がやや空回りなキャラだけどあらためて“仮面ライダー”を問い直す物語でしょうか。まだちゃんと読めてないけど。
グロンギ、ロイミュード共に人に非なる存在は仮面ライダーシリーズ共通。
だけど両作品ともに怪人が起こす物事は犯罪として動くところはほぼおなじ。アプローチがややちがう。
『クウガ』はあくまでリアリティを重んじながら地道な捜査をし『ドライブ』はややアニメや漫画的あるいはステレオタイプでありながらデフォルメしながら根底に犯罪者の心理を書いてる感じ。
グロンギはあくまである一定の法則があり、ロイミュードは人間の心理に基づいて……というところでしょうか。
小説『仮面ライダードライブ マッハサーガ』。
詩島剛の復讐心を煽りたてながらかつての自分や進之介や仲間たち、チェイスの過去を邂逅しながら謎を解いていく。
『クウガ』や『アギト』とはちがう形での警察とそれに協力する形での剛。
だけど雰囲気としては警察ドラマ。
小説はあくまで仮面ライダーマッハの詩島剛を主役として書かれ『ドライブ』世界の仮面ライダーやロイミュードの在り方をあらためて問い直す物語。
同時に復讐心から離れ本物の仮面ライダーになるという問いかけ。
ヒーローがヒーローたるゆえんは『仮面ライダー』に限らず各作品ごとにその定義は異なる。
だけど復讐からは何も生まれない。復讐から離れることでひとつの成長を見せる。
小説『仮面ライダークウガ』ではグロンギは人間社会に染まりつつある世界観。
かたや小説『仮面ライダードライブ マッハサーガ』においてはロイミュードは人間につけこみ犯罪を共にする。
人間、ロイミュード共に人間くさいというのがひとつの『ドライブ』の特徴でしょう。
朝日ソノラマ小説の横山光輝先生の『マーズ』。
原作漫画を現代的にアレンジしながらも日本政府、自衛隊、米軍などの描写が細かい。
ある意味『ゴジラ』に通じるところはある。
秋の島新島への謎を踏まえ少年マーズに接していく玲子と春美そして監視人。
マーズが秋の島新島で発見されてからほとんど言葉を交わさない、玲子や春美によりコミュニケーションを交わし始める。
監視人のひとりラーが少年がマーズがどうか確かめるというのも監視人側の立場では不安なのもあると伝わる。
初期はコミュニケーションを互いに手探りでしながら動向をうかがうという印象。
朝日ソノラマの小説『マーズ』(原作横山光輝)、再読するたびに内容がよくできてる。
主人公マーズが口を開くまで前半だけでもかなりの時間を費やす。
彼が記憶を失いなかなか言葉を発しないからもある。
日本政府、監視人共にマーズについては手探り。
自衛隊は迫るべき神体については必死にならざる得ない。
相手がゴジラのような怪獣なら撃退すればよいが『マーズ』の場合はなぜ敵(監視人)が襲ってくるかまたはマーズが何者なのか?という疑問がつく。
これらの謎解きをひとつひとつ明かしていかないとならない。
朝日ソノラマの横山光輝先生原作『マーズ』。
気になるのは記憶を失う前の本来のマーズの人格が如何なるものだったか気になる。
ヒントは六人の監視人は生への執着はなくあるのはマーズとガイアーの破壊のみに彼らは異星人からそのような人格を与えられている。
断片的ながら記憶を失いながらわずかに本来の人格らしさをのぞかせていること。ほんのわずか。
自分が地球を破壊するか否かという根本的な使命にマーズは物語が進むにしたがい疑問を持ち判断することそのものむずかしさに悩む。
監視人とマーズのちがいは人間として他者と接するコミュニケーションなどの大切さ。
小説『都市伝説の女』。
トリック推理ものだけどちゃんと犯罪と都市伝説を絡めてる。
ちょこちょこ都市伝説ネタを絡めながら事件を解決していく。
テレ朝系のシュールな魅力もありながら締めるところは締める。
小説『マーズ』(原作横山光輝)。
この作品ではマーズの本来の覚醒予定は2100年となってたけどはたしてその時代の人類が飛躍的に文明を進化させてたかは謎な感じ。
もちろん文明が飛躍的に進化しないとは否定はしないけど最悪人類が自ら滅亡してる可能性がある。その場合は六人の監視人やマーズは役目を果たさないことにもなる。
2100年で太陽系の宇宙にはある程度は行けると仮定としても異星人のファーストコンタクトがなされるか……。
この作品では2100年の文明レベルでおそらく可能としてるんでしょうね。
そして2100年当時の人類が異星人と友好レベルな知的生命体として認知されるかが鍵。
2100年の世界が私には想像できないからそれでも「マーズが人間を滅ぼすか否か?」は想像の域でしかない。
小説『マーズ』(原作横山光輝)。
国連事務局ビルはトランプ・タワーにほど近いところにあるという描写のくだりを読んでふと思ったけどもし『マーズ』の世界観でトランプ大統領ならいかなる決断や態度を示しただろうか?
作品中においてはほぼ日本政府、自衛隊とアメリカ軍しか書かれてないためにアメリカ大統領は端役。
だけどトランプ大統領ならマーズ、ガイアー、監視人や神体の存在を秘匿にしない感じに思える。それこそ全世界的に危機を発信するんじゃないかな。
アニメ『いぬやしき』でトランプ大統領のパロディをされてたと思うけど『マーズ』の世界観ならそれこそマーズたちの事を秘匿にしないまま全世界を混乱に陥れそう。
最後の神体ラーのカオス(混沌)が現れ国連事務局ビルが倒壊しついでにトランプ・タワーももし破壊されたら激怒すると想像してしまった(苦笑い)。
横山光輝原作、小説『マーズ』。
あれだけ犠牲になった人物たちが多くいるのに地球は爆発してしまう。
神体に自衛隊や米軍が勝てないのはやむを得ないにしてマーズやガイアー頼み。
マーズやガイアーの立場はとりあえずいい者側のキャラではあるがマーズやガイアーは地球爆発のキーでもある両刃。
玲子や春美、大垣や池沢、原口という人物たちが個性的に描かれ神体を操る監視人はまた地球の歴史を見てきてる。
ディテールは細部に凝り物語の順番は原作漫画『マーズ』を現代的にアレンジしてる。
ただ地球人口が九十年代当時にOVAが制作、小説も同時期に発売されてるのに四十二億は少ない感じ。
意図して四十二億にしてるとしたら作為的かなとも思う。
直接物語の中心にはならないけど北朝鮮や中東情勢の報告が上がる場面は緊迫感に溢れる。
監視人やマーズとは別に地球に危機感を煽る。
だけどマーズが監視ラーと彼の神体カオスが戦うなか明らかになる日本政府とアメリカの思惑そして汚職隠蔽かな。
一方でスケールある戦いや地球の命運を握るなかなんとも玲子の上司柏原たちがスケールのちいさいことをしてること。
作品中でマーズは真相を知らないままガイアーを停止させ殺されるが、もし真相を知ったら地球爆破のきっかけになったかもしれない。
小説『魔女の宅急便』2と『都市伝説の謎』を購入。
『魔女の宅急便』はアニメでは描かれてない続編が興味ある。
『都市伝説の謎』はノベライズ『都市伝説の女』の流れから『都市伝説の女』のあとがきではもの足りないかと思った。
ざっと読んだがトランプ の成り立ちや『およげ!たい焼きくん』や『だんご三兄弟』のヒットした時代の裏側。
ある程度の時代の符合はあると思うが偶然とするか否か。
時代は動くしなにがヒットするかはわからない。
『都市伝説の謎』、各項目のラストの文面ほぼみな同じ。
>真実であろうとなかろうと、これは都市伝説だ
の一文で各世界や出来事の都市伝説を締め括っている。
ただ義経イコールチンギス・ハーン説は英雄義経に生きて欲しい願望もあるのかなと思う。
『歌舞伎』の「勧進帳」などで扱われていることを考えたら大衆の希望やヒーローとうかがえる。
『魔女の宅急便』は全六巻。
とんぼくんとの関係や宅急便をするなかでちいさいながら徐々に成長していく。
まだ二巻だからところどころに変化の兆しは見えている雰囲気。
ふと疑問に思ったけど小説『仮面ライダークウガ』、バラのタトゥの女こと未確認生命体B-1号以外に作品中に新たに二体のグロンギがいたことになってる。
だけどB-1号がいるということは伽部凛そして郷原以外にも人間社会に潜伏した他のグロンギもいる可能性がある(かもしれない)。
九郎ヶ岳遺跡以外にももうひとりのクウガがいて遺跡を封印したがバラのタトゥの女により封印は解かれもうひとりのクウガのベルトは実加に渡る。
もしかしたら小説『クウガ』の物語はひとつの終わりで始まりを示唆してるようにも読み取れる可能性がある。
小説『都市伝説の女』一巻二巻を再読してから都市伝説モノの本にハマりそうになる。
嘘やほんとが混ざり口伝えやネットのなかで伝わっていくんでしょう。
小説『マーズ』(原作横山光輝)と原作漫画を比べると、マーズが徐々に段階を帯びていく。
またリアルなシミュレーション的に小説は書かれているためにタイタンを除く六体の神体は自然と日本を目指していく。
OVAと小説においてはヒロイン玲子と春美のウェイトが大きいこと。
基本的に横山光輝先生の作品は女性ヒロインが入り込む余地がない男の世界だが小説『マーズ』ははやや様相がちがう。
日本政府や自衛隊に玲子たち女性を設定し配置することで男性一辺倒な世界に偏らない。
記憶喪失のマーズに感情や気持ちを与えていくのが玲子の姪の春美。
徐々に謎を解いていくのが玲子や原口、男性の大垣たち。
執拗に迫る監視人と神体との戦いで女性ヒロインたちは物語に潤いを与える。
またマーズも春美や玲子たちを通して人間を知っていく。
作品中では四十二億という人類の少なさ。現代に合わせたら七十億以上でしょうか。
原作では暴徒と化した民衆によりマーズは絶望し地球を破壊させる。
だけど小説では全人類を信じるのは不可能だけど春美や玲子を信じられると思いながら柏原や自衛隊員に撃たれ亡くなる。
その胸のなかに“自分は地球を爆発させない”思いを抱くのだけど……。
ラストにさらに地球爆発へのカウントダウンという帰着点がある。
小説『都市伝説の女』に影響されたのか都市伝説ものの本を二冊購入。
いまだに語り継がれるものや新たに伝えられるものなど様々。
ウケたのは志村けんさん死亡説。
何年か前に流れて本人が「ちゃんと生きてるよ!」とテレビで叫んでた(笑)。
アニメだと『となりのトトロ』『サザエさん』『ドラえもん』は有名な都市伝説ありますね。
『トトロ』のサツキとメイは死んでいたとか『サザエさん』はなぜか不幸な結末があり『ドラえもん』も最終回がいくつかかあるなど。
いろいろ流布されては形を変えていくのが都市伝説なんでしょう。
小説『機動戦士ガンダムUC』のオットー艦長。
典型的な大人であり面子や体裁を気にするタイプの人物であり艦長としては前向きな人物ではない。
だけど「ラプラスの箱」=ユニコーンガンダムやバナージたちと関わりながら連邦軍のなかにいて板挟みに遭う立場のなか少しずつ成長していく。
バナージたち子どもを守ることにある一定の使命感はあるよう。
再びインダストリアル7に戻りガランシェールのジンネマンたちと相対し向き合った時に“何か”通じるモノはあったかもしれない。
物語の最終決戦の際にもバナージを矢面に出すことに大人として苦渋の表情をみなと一様に見せている。
たしかにダメな大人の人物ではあるけど艦長らしくなっていき政治の駆け引きのなかネェルアーガマを動かす術を見いだす。
たぶんに艦長の地位に出世できたのが本人の望む望まないところは不明だが、艦長になれる人物とロンド・ベルやブライトのような人物の後押しがあったかもしれない。
『ロボットガールズ』THE NOVEL<チームZ>爆誕編。
まさに『マジンガーシリーズ』で萌え作品(笑)。
十藏おばあちゃんが『マジンガーZ』の原型『アイアンZ』をやるのは吹いた(≧∇≦) 。
コバルト文庫の『Dr.スランプ』辻真先先生が書かれてる。
辻真先先生、富野由悠季箸の『だから僕は……ガンダムへの道』に名が出てきますがすごい脚本家としていわれてる。
休みの合間に自作品を書いてしまうほどという。
原稿用紙に向かうだけでも並の人には労力なはずなのにものともしない。
小説『Dr.スランプ』も原作を上手に処理しながらアレンジすくなくオリジナルのまんま。だけど自由な作風が感じられる。
辻真先先生、この人がいなかったらいろいろ多くのアニメで名作や佳作は生まれなかったでしょうね。
ウルトラマンビジュアルブック 特別編を購入。
まさにウルトラマンだけの写真集の要素。
映像とはちがう形でのウルトラマンたちの美麗さや秀逸さを重ねたデザインが日常や非日常に溶け込む写真の一枚一枚。
なにげにウルトラマンジャックの手首が手袋状をわざと意識し撮影されてるのがビジュアルとしておもしろい。
それぞれのウルトラマンのイメージや個性、背景などもを意識し迫力ある写真になっている。
オーストラリアのグレート、アメリカのパワードはややイメージが異なるせいか写真が独特。
これにベリアルが加わりさらにジードまであるから豪華な一冊。
小説『機動戦士ガンダム SEED destiny ASTRAY』、ここでもコーディネーターの存在について語られてる。
望まれてくるはずの遺伝子操作された我が子、だが不確定な遺伝子は必ずしもそれは約束しない。
ブルーコスモスは極端な例としても『ガンダムSEED』の世界観はよし悪しでいいか悪いかしかない。
マルキオ導師のような存在がかろうじて中立で均衡を保ちながらギリギリ平和を保っているなかの世界観。
ASTRAYもまた同様。
傭兵は内容によれば敵にも味方にもなる。
『ガンダムSEED』の世界観は主義主張よりコーディネーターかナチュラルかの生存競争。
それ故に和平がほんの一定期間しか保てない。
むずかしい世界観。
小説『SEED destiny ASTRAY』でエリカ・シモンズを通してコーディネーターについて語られてる。
『SEED』世界で疑問に思うのはコーディネーターはたしかに優れた存在だけど内面に深く書かれること少ない。
主要キャラの内面や善悪の良し悪しはあっても世界観そのものではない。
『SEED』は魅力的な設定ありながらそれを本編で生かした雰囲気少ない。
アニメ本編より小説の方が内容詳しい。
コーディネーターに生まれたからといって才能を妬むナチュラル。
妬むのは理解できるが、なぜナチュラルに生まれた自分を愛さないのか理解できない。
才能あっても善悪になるのは自分自身。生きる道を決めるのも自分。
司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』を全巻購入。
あくまで坂本龍馬ではなく竜馬なんですよね。
半ば架空の人物的に扱われながらある程度は史実におそらく忠実であろうけど表現は司馬先生は自由にしている。
文章の使い方がうまい。
一巻冒頭は幼い竜馬のことに触れられ大人びた竜馬が江戸に剣術修行の旅に出て後に子分になる泥棒藤兵衛、同じ土佐の武市半平太、千葉道場の重太郎とさな子と竜馬を囲む魅力的な人物が出てくる。
『竜馬がゆく』黒船騒動、井伊侍と遭遇するもうまくごまかす竜馬(笑)。
しかし藩の名簿にさえ竜馬の名を載せてない藩の上役。
こういうだらしなさが後々上士と郷士の争いの一端にもなる。
土佐藩ほど複雑な事情を抱えた藩もない。
『エンジェルハート』も小説になってましたね。
冴羽遼と香澄(シャイン)がシティーハンターを続けながら依頼を受ける小説オリジナル物語。
心臓をさがしてくださいというなぞな依頼。
医療ミスの報道など謎が謎を呼ぶ展開かな。
小説『エンジェルハート』心臓を探してほしいという依頼は初期『エンジェルハート』のオマージュでしょうか。
カオリの心臓を探して結果、香澄(シャイン)の内に生きカオリは香澄と共になかに生きて彼女は生き方を探していく。
小説『エンジェルハート』の心臓の本来の主はどんな人物かというのも謎。
NHK Eテレ『100分で名著』、「走れメロス!」は誰が主人公は考えたことなかったな。
ふつうはメロスと思うけど親友セリネンティウスか暴君の王様かあるいはまた別な人物か。
メロスの妹は事情を知らないまま結婚を祝ってもらってたけどもしも事情を知ったらあらビックリでしょうね(苦笑)。
『100分で名著』で「走れ!メロス」の出演者のトークを聞いた限りではそれぞれ人物の心が主人公ではないだろうか?
いまの時代の学生さんの読書感想文は何を読まれているんでしょう。
読書人口は減るなか図書館や大手書店、あるいは個性的な書店などあるけど活字を読んでるんでしょうか。
通販やブックオフオンラインなどもあるから読む人は読むでしょうね。
ちなみに私がいま読んでる作品は『竜馬がゆく』『エンジェルハート』など。
『竜馬がゆく』は現在六巻目。
この巻で亀山社中を結成するもこの巻で悲しいのは近藤長次郎が亀山社中の皆に海外へいくと告白しないがために自害する。
作品中で近藤長次郎は竜馬がいたらちゃんと告白して渡航するつもりだったらしいけど竜馬かあるいは時代が変わるのを待てなかった悲しき秀才の物語。
『竜馬がゆく』七巻は人物や時勢が大きく動く物語。
竜馬はいろは丸を手にいれてしまうも紀州潘に沈められながら国際法に基づいて賠償金をいただく。
また佐幕派だった人物たちは徐々に勤王派に変わっていく。
厄介は山内容堂。
この殿様は頭がいいだけに頑固で厄介。
トピック検索 |