風人 2016-04-04 04:41:02 |
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『水木サンの幸福論』と『ゲゲゲの女房』をくらべ読むとあたりまえですが水木先生と布枝さんの考え方や感じ方がちがうの伝わる。
だけど戦争で南方に向かう水木先生の手相の生命線は短かったのに戦後に奥さまの布枝さんが見ると生命線が伸びていたという。
これは運命を変えたというひとつの証でしょうか。
貧乏生活しながら漫画を描きゲーテの教えを布枝さんに教えた水木先生。クリスチャンではないがゲーテに魅力を感じ「水木サンのルール」の基礎になったかもしれない。
やや布枝さんのしっかりしてる気質は読み取れるが漫画業界のではふつうの人、時にアシスタントをつとめたり出版社におもむくも報われない。
だけど文章から布枝さんの性格やしっかりした一面、あるいは女性としての感性から水木先生を見守る母性のようなものは伝わる。
紙芝居、貸本漫画、掲載漫画そしてテレビへと目まぐるしく変わる戦後文化。
『悪魔くん』も打ち切りの憂き目に遭う作品だが作品にパワーがあるという内々の評価。
だけど貧乏時代はまだまだその芽さえでない苦悩と毎日の日々。
貧乏にも関わらず水木しげる先生と布枝さんの模型作りにハマる。
ある意味布枝さんは女性モデラーの先駆けだったかもしれませんね(笑)。
『ゲゲゲの女房』、やがて売れ出した水木しげる先生。
だけど貧乏生活に戻ることに怯えがあり仕事を眠れないほどに請け負ってしまう。
時に自転車に乗り逃げ出しネタを考える日々。
担当の方にお茶を出し「自転車に乗り走って考えていると思いますから」と伝える布枝さん。
一方では必要のない増改築を家屋にしてしまう日々。
このへんのくだりを読むとある種の麻痺感覚があるように感じられる。
貧乏に戻りたくないからと眠る間さえなくなる忙しい日々、増改築をしてしまう麻痺感覚。
売れ出した頃の水木先生が自らのルールをどこかで忘れ頭から抜け落ちてたと思われる。
貧乏神はいなくなったけど今度は忙しさを与える神様がやってきててんやわんや。
『水木サンの幸福論』ではこの売れ出した頃は少し触れられてはいるけど布枝さん側視点のようなくだりはほとんど触れられてない。
意図したものかどうかはわからないけどあえて触れてないんでしょう。
世の中が物質文明にあふれると妖怪がいないのでは?と思ったこともある水木しげる先生。
時にはニュージーランドに移住しようかと言い出す始末。
漫画家さんのなかでは素朴な自然のなかで生まれ育ちそれを愛しそのなかにいる妖怪やお化けを信じることができる人だったんでしょう。
戦後でもし南方で現地除隊をする生き方もあったでしょう。
『鬼太郎』が生前五度アニメ化され亡くなってから再び六度目のアニメ化。ちゃんと時代が妖怪を必要と伝えてると思う。
だけど『ゲゲゲの女房』のなかで水木しげる先生が漫画家として売れ出し貧乏からは抜け出れたけどこの時期は得るものと失うものを見失いかける時期だったかもしれませんね。
寝る間を惜しみ生活するも家族団欒は夕食だけ。突然富士山に行くと言い出す水木先生に振り回される布枝さんたち家族。読者として読む限りでも常軌を逸出してる面は感じる。
見方を変えたらですけどひょっとしたら神様が水木しげる先生を試したのかもしれない。
この人物が売れ出したらいいようにも悪いようにもどう人間が変わるのかと試練だったかもしれない。
だけどめぐりめぐって本質は変わらなかったかもしれない。
以前なにかの文庫の巻末で紹介されてた『大泉洋エッセイ 僕が綴った16年』を購入。
タレント本は普段買わないけど大泉洋さんは興味ある人物。
だけど若い頃はちょっと尖てたった表現ですね(笑)。
いまほど人格がまるくない感じですがひととなりは出ておもしろい文章と思う。
大泉洋さんのエッセイSMAPの木村拓哉さんに勘違いされたくだりはおもしろかった。
相手の側の勘違いなんだろうけど本人も「ん?」となってはじめはちんぷんかんぷん。
あとお父さんに電話かけたらいきなり怒鳴られたという変なお話。
舞台や俳優、テレビや映画業界なとのことも書かれていて裏側を垣間見える。
旅行や地方ロケが多いらしく日本各地と映画に関係するイベントで海外にも行ったりと楽しまれてるよう。
タレントのエッセイもあんがい読める。
今朝放送の『NHK映像ファイルアンコール 石ノ森章太郎』。
小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』にも生前の石ノ森先生の姿は登場してるが通じている何かはあります。
石ノ森先生が描きたかったのは“人”。
では『009 完結編“で“人”に挑む存在がなぜ“神”なのか。
“人”が“神”を作ったように石ノ森先生も作品の中に“神”を求め己に問うたのか。
“人”の内に“神”も“悪魔”もいると辿り着いたのかもしれない。
小説『009 完結編』は三巻になりギルモア博士の下に00サイボーグが集結した途端に“神”たちはそれまでとちがい日本で人を喰らい街を破壊し空から海から陸からあらゆるところから東京を蹂躙していく。
さながら作品世界の人物や読者にも絶望を与えんがために。
物語がラストを迎える前覚醒したイワンにより語られる真実を目の当たりにしすべての事実を知る。
だけど“善”も“悪”の“心”がるのが“人間”とジョーは語る。
たしかに悪い人間はいるがすべての人間が悪いわけでもなくそこには守るべき世界や人たちがいる。
“人”が完璧ではないが未来の芽を自分勝手な“神”に滅ぼされるのは正しいか否か。
ラストに向かうくだりはやや唐突であるがちゃんとそれまでの物語が整理されひとつの終着点へ向かっていく。
読書の話題が又吉直樹さん羽田圭介さん以降けっこうテレビに露出してる感じ。
読書人口は減ってるかもしれないけど話題の本などは読む人はいるでしょうね。
昨夜放送の『switchインタビュー』も読書な話題。
おもしろい本を探すには基本的に自分を知らないとわからないと思う。ラノベや小説からジャンルは何でもいいから開拓し広げていく。
私は若い頃からラノベ路線だったけど同時にドラマのノベライズを読んでたから別の土台はある程度出来て三十前後や四十なってから読む本が変わってきてる。
むかしは興味なかった本や避けてた本に読めるようになった。ジブリ関係や四国関係の本、あと最近は小説の巻末に載ってて興味あった大泉洋さんのエッセイ。
エッセイはむかし兄が明石家さんまさんの本を持ってたのでたまに読んでたおぼえがある。
だけど実際にタレントさんのエッセイを購入したのは今回がはじめて(声優は除くとして)。
歳と共に自分がちがってきてることを実感。
眉村卓先生の『時空の旅人』はどんどん過去の時代にタイムスリップしてしまう物語。
アギノ・ジロがいた未来世界が前半はよくわからないままだけど自由意思がない時代らしいことはわかる。
だけど過去の時代も戦時下の時代なために必ずしも生きやすい時代ではない。ましてや当時の人たちに怪しまれでもしたらそれこそ拘束や拘置でもされたら即悪い運命につながる。
アギノの生まれた時代が自由意思がない時代にしてもいつの時代にも苦難や困難はある。
戦国時代へ行けば時間管理局の人間が怖がるだろうから安全というのは短絡。当然いつの時代にも危険はあるわけだし。
過去へ行けないタイムマシンましてや歴史を変えてはいけないむずかしさ。
この物語は当時のアニメ映画もだけど時間旅行の怖さを書いてる作品。
眉村卓先生の『時空の旅人』過去に向かっていく人物たち。
過去に近づくたびに主人公たちが文明がないと何もできないことに気づくくだりある。
いかに文明社会のなかに生きているかという警鐘。いざ文明が失われたら何もできないかもしれない。
過去に遡り石松こと後に教授とされる人物が協力者となる。
少しずつであるけどアギノ・ジロについてはヒロイン早坂啓子をはじめとしてみな同情や共感を持ち始めていく。
ただ時間管理局の追っ手も出てきてさらに物語は混迷と化していく。
眉村卓先生の『時空の旅人』によると時の流れは無数にあり時空管理局も時の流れによりちがう次元や時の流れの人物や世界もいる。
いわば平行世界やパラレルワールドと思われる。時の流れや分岐は何らかの形で存在してるが見ることはできない。
歴史改変モノを読むともしも歴史を変えてしまったら存在するはずの人物や出来事が存在しなくなり別な人物や別な出来事として存在してしまう可能性がある。
もしも織田信長が本能寺で明智光秀にやられなかったら誰かが光秀の代わりに信長を討つのかあるいはまた別な歴史の流れがさらに存在するのか。
『時空の旅人』はその辺を人物たちは体験し目撃していく。
歴史改変は存在が消えるかもしれない怖さがある。歴史の流れの何かの手違いや意図した改変の意思を持つ何者かの手で存在が消されるおそれがある。
小説『時空の旅人』あらためて読むと複雑。
時間の流れにはじまりと終わりはないと言うセドウド・ジン。
時間管理局員は別の時間の流れにもいてこれは無数の平行世界それぞれの時間管理局員である解釈も成り立つ。
だとしたら時間の流れはなんなのか。生きてる限りはその時空や世界に存在してるのだろうが存在が消えてしまう危険もある。
時間にはじまりと終わりがないのは人生無限ループ(?)の鍵でしょうか。
しかし七十年代にこういう作品があったのは興味深い。当時のSF的ブームもあったと思うけどこの当時はおおらかな印象がある。
『時空の旅人』自体は少々複雑な本ではあるけど時間旅行の考察や解釈は現代にも通じる描写。
『時空の旅人』だと歴史改変された場合はいくつかのパターンがあるということ。
本能寺の変を逃れた信長であっても志半ばに倒れる。これは彼が一国一国と順に帰順させていく方法を取ったから。
かたや秀吉は自ら従う国には従順にしある程度自由に統治し歯向かう国にだけ戦えばよい。
だけど秀吉が太閤にもならずまた徳川が幕府を開かなかった場合は北条や伊達勢などが生き残り各々が外国と貿易し栄えていく。
その後武士の時代は終わるらしいが第一次世界大戦などはアメリカに攻めていき歴史は変わるが世界から総スカンを買うというセドウド・ジン。
そこから先はセドウド・ジンは口を閉ざすから改変された歴史の行く末はわからない。
考えると悪い方向にしかいかないかもしれない。
時の流れが複数ありパラレルワールドがある可能性は否定はできないけどほんと怖い歴史の流れもあるかも。
小説『時空の旅人』原作小説はやはりむかし見た同名アニメ映画とやや展開が異なる。
歴史改変を阻止するのはたぶん同じと思うけど追跡者クタジマ・トシトの存在が物語が後半になり何らかの形で歴史が変わったために彼の存在はいつの間にか消えアギノ・ジロや早坂啓子、北先生たちには記憶にしか残ってない。
小説の物語の展開を考えたら本能寺の変を再び歴史の本来の流れに戻す際にその流れのなかで彼は潜在時空にのみ込まれ存在そのものが消えた可能性として考えられる。
ただその過程のなかで別人に生まれ変わったかもしれないと物語内は示唆している。
どこかで歴史改変がなされ気づいた時には別の時の流れに乗ってたらそれもまたおそろしいことだけど現実の時の流れではあがいてもどうしようもないかもしれない。
『時空の旅人』を読むと時の流れを考えさせられる。
小説『機動戦士ガンダム外伝 ブルーデスティニー』はある意味無慈悲に人物を突き放して表現されている。
主人公ユウは自らも敵に対し必要以上の感情や気持ちが入ることをよしとしない。
EXAMシステムを初めて起動させ後に戦いが終わりシャワーを浴びた時に戦いに欲情してたことを悟る場面は印象に残る。
EXAMシステムが対ニュータイプ用のシステムか否かは再読しててもよくわからない節がある。戦争の最中には実験システムなどは無数にあるなかから淘汰されていく。
他のガンダム小説にくらべたらやや作品自体は冷たい印象を宿すかな。
人物それぞれユウたち連邦側は誇張が少ない、ただし控えめではない。
ユウが敵のニムバスはこれは戦場において敵や相手を想像するに留まる程度に抑えている。
実際に戦場において兵士が敵や相手をどの程度考えるかは個人差によるからユウやニムバスが特別なわけではない。彼らも敵味方に分かれた一兵士でしかない冷たい現実かもしれない。
小説『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』のコジマ、『外伝 ブルーデスティニー』の蛙親父。
コジマ大隊長はなんだかんだて官僚的ではあったが敵味方にも人の命やルールを重んじながら戦争をしてたと思われる。
結果的には上官に背きシローたちを応援した。
蛙親父は具体的な人物像はわからないにせよレビル将軍という派閥や後ろ楯がなくなったことで出世の道をなくした。
連邦の官僚的体質は宇宙世紀時代が進むにつれひどくなったであろうことからコジマは戦後それなりに左遷されながらもうまく立ち回ったんじゃないでしょうか。ジャブロー上層部に疎まれながら(苦笑)。
蛙親父さんはどうなんでしょう。軍に残り戦後の残務に追われたとか考えられる。
連邦側の上官は出世できなくなるのがオチでしょうか。
出世できなくなるのはある意味人間らしいと思うので悪くない終わり方と個人的に思う。
『時をかける少女』は短編、『時空の旅人』は前後編のやや長編。
筒井康隆先生、眉村卓先生どちらも物語などは異なるが共通してる点もある。
どちらもヒロインが時間旅行したり過去の自分を垣間見たり未来人の人生の存在が関わるなど。
どちらの作品も時間旅行という題材を自由に描写してるおおらかさがある。反面どちらも未来世界についてはより良き未来という雰囲気ではないのはある種の作品当時の時代からく時代の影にも思える。
だけど七十年代当時の明暗が伝わる作品でもある。
『時をかける少女』に収録されている「果てしなく多元宇宙」はパラレルワールドもの。
別の宇宙の自分の騒動に巻き込まれた本来(?)の自分は他の次元に巻き込まれるという物語。
雰囲気は『世にも奇妙な物語』系に近いけどちゃんと理屈は合わせている。
筒井康隆先生の面白さ伝わる。
小説『サイボーグ009 完結編』は冒頭から多くの矛盾をはらんでいる。
ギルモア博士と生前の石ノ森先生が出会うことではなく001イワンから009ジョーまでの各々の章からラストにいたるまで。
00サイボーグとコンタクトした“神”と称される別次元の存在。
唐突におとずれる物語の真相とジョーが語る“ひと”とはなにか。
善と悪をひっくるめて人間ということ。
身勝手な“神”に滅ぼされていいことではない。なかにはキリストや釈迦みたいな“善”だけの人間もいたかもしれないけどそんな人物はまれ。
00サイボーグたちが9人ということ。9つの異なる国の者たちで構成されるという意味。
『完結編』の三巻では00サイボーグたちも“神”による精神操作で操られそれまで見せなかった“悪”の心が各々に芽生える場面は強烈。反面彼らもまた“人間”である証。
物語自体を考えたら“神”の自分勝手やわがままで滅ぼされていいわけではない。
欲望もあれば生きたい本能もある。そのなかに感情も愛憎もある。争いをのぞむ者もいれば平和をのぞむ者もいる。
矛盾は多くあるし悩みや葛藤は尽きないがだからこそ“人間”といえる。
いちがいに“善”だけあるいは“悪”だけとは限らない。
小説『仮面ライダーブレイド』**ない身体になった剣崎(ケンザキ)とジョーカーである始(ハジメ)。
『サイボーグ009』に通じる部分があるけど『ブレイド』本編から三百年後の世界は残酷。
虎太郎→コジロウとかつての人物の名前をもじり役割を受け継ぐ人物たちの描写、三つの月と地球とは異なる世界。
そして実は舞台は統制者が作り出した地球ではない世界という真相。
**ない剣崎は不死身の不幸そのもの。
かたや始はもとからジョーカーアンデッドですからアンデッドとして生を受けたから死の概念は最初からないであろう。
だけど剣崎が死を求めてしまい地球は温暖化により絶滅してしまうのは救いがないですね。
“仮面ライダー”として守った世界や地球が崩壊は救いがない。
だけど物語はかつてのテレビシリーズをなぞるように紡がれ四人の仮面ライダーが揃う。
橘朔也がタチハラ、睦月がサツキと彼らは剣崎や始とちがい別人らしいけど何らかの形で彼らを受け継いでいる。
実は別な惑星だったオチや四人がバラバラにいることなどから考えたら著者の宮下準一さんは映像化を考えてつくったようにも感じられる。
VFX合成ならなんとなく小説『仮面ライダーブレイド』は映像化できそうな作品。
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