風人 2016-04-04 04:41:02 |
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小説『人造人間キカイダー THE Novel』は劇中に『サイボーグ009』が出てくるのはともかくヒロイン光明寺ミツコが『ときめきメモリアル girls side』にハマッてる描写がおもしろい。
これはキカイダー=ジローがアンドロイドであり非人間的存在と描写演出されてることの現実との対比を兼ねている。
『ときめきメモリアル girls side』の男性キャラとジローは同一にならぶ存在。
アンドロイドが人間になれるか否かを問うテーマは人工知能を持つ被造物が人間にどれだけ近づけるかを。
現実世界において人工知能もロボット開発技術も進んでるからいつかはあり得ないことではない。
『キカイダー THE Novel』のキカイダー=ジローは戦闘型と医療型のロボットの左右結合タイプということにもロボットの在るべき未来が感じられ皮肉でもある。
『人造人間キカイダー THE Novel』はビジンダー=マリも出てくるけど直接キカイダー=ジローとの対峙は少ない。
その辺は惜しいところ。
だけど『キカイダー』らしさは逃避行。
カードデータの改竄やNシステムを誤魔化すところはいかにも現代的。
光明寺博士は他科学者と共に逃げようとするが結局は捕まってしまう。
服部探偵がこの人物は三枚目(笑)。
だけどこの人がいないと『キカイダー』の人物たちは動きようがない。特にジローやミツコたち。
『Novel』ではたいして遠くに逃げてないのは作風上しかたない。
小説『サイボーグ009 完結編』が少しずつ世界観が多くなるのに『キカイダー THE Novel』はあくまで機械であるジローがいかに人間に近くなれミツコが架空のゲームキャラから離れいかに人間や女性として成長できるかということ。
『009 完結編』がマクロな方向に向かうとしたら『キカイダー THE Novel』は人間の内面、機械や人造人間の精神世界のミクロというところ。
小説『キカイダー THE Novel』はところどころ人間側と人造人間側の対比がある。
気持ちだったり治療の有無や創造主と被造物であるちがい。
キカイダーとミツコ、マリ=ビジンダーとミツコ、サブロー=ハカイダーとミツコなど。
物語の中心にいるのはこの作品ではミツコ。
ジロー=キカイダーは彼女を通し彼女から服部探偵やダークから逃げてきた科学者たちからジローは戦いを通し人間を学ぶ。
キカイダーの姿を本当の姿と自覚しグレイサイキングやアンドロイドマンをはじめ同族殺しの道を歩んでしまう。
ミツコたちを守るためとはいえダークやギルに反旗を翻す。
『こちら県庁おもてなし課』再読中。
公務員が融通を利かさないところをずばずば指摘する前半は痛快。
「名刺が名を刺す」という有川浩さんの表現は絶妙。
序章の高知県にパンダ誘致はフィクションでしょうけどわかりやすい喩え。だけど市内のど真ん中に動物園はいざ動物が放たれたら危険な指摘は正しいこと。
ところどころに現実的な指摘があって有川浩さんは切り込んでいく。
有川浩先生の『県庁おもてなし課』は話の展開がいい。
主人公たちが知らずに身に付いた公務員お役所体質を地域活性化のために自覚し民間の人達の力を積極的に借りていく。
だけど地域活性化で人手不足があることも自覚していく。
近年の地方や地域活性化、地産地消などに通じるモノは作品にいくらでもある。
『こちら県庁おもてなし課』劇中貢献してくれた清遠氏を癒着だなんだといちゃもんつけて使い捨てに県庁のやり方には憤る。
必然的に組織に人が所属する以上は過去の古傷はいくらでもある。
組織の中には誰かが関わることでおもしろくない人がいるのもまた現実。
清遠氏はとりあえずプロジェクトから外れた形になるがおもてなし課と関係がなくなるわけではなく主人公掛川たちにとりあえず託す。
語られる清遠氏と佐和たちの過去。
この辺はまた考えさせられる場面。
アニゴジの前章にあたる小説『GODZILLA 怪獣黙示録』。
ゴジラをはじめとする怪獣たちに蹂躙される未来世界。
ゴジラは初代ゴジラに準じた大戸島の伝説はありながらも脅威を誇る。
各怪獣たちもオリジナル設定に基づきながらアレンジが加わりオリジナルを上回る設定。
だけど『怪獣黙示録』の世界観の人類は愚か、怪獣という脅威があるにも関わらず世界各国の利権や覇権を巡り互いに滅びの一途へ辿りかけるという。
この時点なら物語は警鐘で終わるかもしれないが怪獣に対してなす術があまりなさすぎ。
そこへ異星人が手を差し伸べてから物語は再び動き出す。
まだ途中なので最後まで読めてません。
『GODZILLA 怪獣黙示録』英雄視される者、人類に手を差し伸べた異星人を敵と言う者。
この辺は様々。
医療小説『桜宮サーガ』シリーズの『田口白鳥シリーズ』の田口先生も物語が進むにつれ病院長の懐刀という院内の評判。
田口先生自体はほんと平凡な人物。
だけど見る人が見たらちがうというのは現実にあるということ。
その人物をどう見るかどのような気持ちで接するかでひととなりは変わる。
『怪獣黙示録』に関しては人物が多いこと。だけど主要人物以外はみなほぼ一度限りでわかりやすい。
『GODZILLA 怪獣黙示録』は実写映画『ガッチャマン』に比べたら世界観がしっかりしてると思う。
怪獣出現に戸惑いながら蹂躙されていくさま、カマキラス出現をきっかけに世界各地にドゴラだなんだと現れてくる。
東宝怪獣映画のオマージュがしっかりあったのは最初は気づかなかった。
だけど怪獣が出現してるなかでも国同士の覇権や利益を求めるばかりに怪獣たちにいいようにされる世界。
ふと思うけど怪獣同士の争いもまた人間同士の争いということでしょうか。
滅びの一途を辿る地球人類の前に現れるふたつの異なる異星人。
エクシフ、ビルサルド。
ただ興味深いのは救いの手を差し伸べた異星人に疑いを持つ地球人がいることも描写される。
主人公はそれに憤りをおぼえるが、『インデペンデスディ・リサーシェス』で友好的な球体型宇宙人を人類は攻撃してしまう愚行をしてる。
『怪獣黙示録』の異星人の真意はわからないけど異星人とのファーストコンタクトに慣れてない地球人の未熟さもまたあると思う。
『怪獣黙示録』で疑いを持つ地球人がいることも無視できない事柄と思う。
小説『サイボーグ009 完結編』で病に伏せながらも作品を書きたいと願った石ノ森章太郎先生。
作品中の神に抗う姿を見せる00ナンバーとギルモア博士。
『009』はネットサーフィンしてたらいろいろな方や世代に読まれてる作品と伝わる。
『完結編』や近年の『RE:SYBORG』などあるいは各アニメ作品などにも触れらている。
神に抗う009たちと病に闘う石ノ森章太郎先生の姿は重なる。
『完結編』で“神”がおこなうことにしては残酷ではないかと問うジョーたち、果たして自分はどこまで作品を書けるのかという石ノ森先生。
“神”への対抗する術を 石ノ森先生に乞うギルモア博士。
近年では脳や自分の内に“神”がいるという研究に結論が出てるともいう。とあるブログをググッたら亡き赤塚不二夫先生も自分こそが神だと仰ってたよう。
宗教が人間が作ったものなら宗教で崇める各々の神々もまた人が作りし存在。
ゴジラもいつしかGODZILLAと神の名を持つ怪獣王となったのもある種の具現化であり崇拝の対象ともいえる。
石ノ森先生は自分の内にある“神”と対話し作品を書きたい意思のあらわれだったのでしょうか。
『こちら県庁おもてなし課』で清遠氏が身を引く姿は司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』の竜馬に重なるところもある。
竜馬は大政奉還がなされ後を薩摩潘と長州潘に後を託し自らは身を引く。これを陸奥宗光が見てる。
土佐潘が山内容堂の出たがりな殿様のリーダーシップで他潘が引っ張り回されてはできたばかり新政府は瓦解してしまう。
『おもてなし課』の清遠氏を嫌う議会や県上層部もある意味『竜馬がゆく』の山内内容に似た節はあるかもしれない。
『竜馬がゆく』のなかで竜馬は「仕事というのは困難な八割をすればいい。残りの二割は後の者に託せばいい」とだけ言葉を残していたと思う。
有川浩先生が清遠という人物に竜馬を重ねたわけではないでしょうけど。
小説『サイボーグ009 完結編』は“神”について考えるきっかけになった作品。
結果的に映画『RE:SYBORG』を見るきっかけにもつながった。二巻の帯に『RE:SYBORG』の宣伝がありましたけど手に入れた当初はこんな作品があるんだという認識程度だったが。
“神”についてはいろいろな作品で語られてるから解釈そのものはむずかしい。
海堂尊先生の『桜宮サーガ』の救急医療の神に選ばれたであろう速水晃一。本人自体は経済感覚がい救急医療のだだっ子であり恋愛にやや疎い。
だけど医療が必要としてる限りは救急医療に全身全霊を傾ける生き方もある人物。
『お遍路ガールズ』の御霊返りや『死国』の四国は死者が住まう国。死者の魂を返すという行為もまた死者がもしも神とするなら対話でありコミュニケーション。
“神”そのものは宗教観や個人観などさまざま無数にあるからいちがいにはいえない。
組織を変えるには『こちら県庁おもてなし課』の吉門さんみたいに外部から県庁の人間を突っつくかあるいは『桜宮サーガ』の厚労省白鳥さんみたいに内部にいながらややつま弾きにされた部署や内部から変えていくかでしょう。
『県庁おもてなし課』の吉門さんはあくまできっかけに過ぎない(物語内の諸々の事情により)、かたや『桜宮サーガ』の白鳥さんは厚労省の人物であって舞台とひとつとなる東城医大など病院からした外部の人間。
ただ白鳥さんは悪評はあれど彼の言うことは正論かつ筋が通り結果的に「良薬口に苦し」で東城医大は痛みを伴いながら改革や一部縮小され痛みを伴う改革している。
そんな意味では彼もまたきっかけに過ぎない。
厚労省みたいにむかしからのお役所はどこもお堅いのは社会の古き慣習。これを打破するのは一筋縄ではいかない。
『県庁おもてなし課』で主人公掛川たちが変わったのは吉門の言葉を聞く最低限の聞く姿勢があったらこと。自分たちの不備や欠点、なによりお役所であるという悪い点を客観的に理解し見つめ直したこと。そんなことがなければ物語は前半で頓挫してた。
『桜宮サーガ』シリーズで白鳥さんは厚労省という権力を使いながら東城医大や地方の病院にメスを入れていく。必ずしも順風満帆ではないけど。
『極北クレイマー』では姫宮さんを投入し改善したはずだったのに結果的に失敗に終わるという。
社会は失敗し思いもよらないことがある。それはどこの街や地方地域も変わらない。
小説『ゲゲゲの鬼太郎』。
人間と妖怪が仲良く世界を暮らせることを望む妖怪。架け橋になるために人間を助けて時に悪事を働く妖怪を懲らしめ悪事にやむなく使役された妖怪もまた助けと奮闘。
だけど目玉の親父さんは鬼太郎が人間に恋をすればかつての自分や亡き奥さんのように互いにつらい目に遭うかもしれないとあえて鬼太郎の恋を導かずに破局させる。
知らない方がしあわせという意味を含むノベライズ版のラスト。
鬼太郎が親心がわかるだけにせつない。
『水木サンの幸福論』、久しぶりに読むと素朴というのが表現から伝わる。
戦前戦中戦後を生きた水木しげる先生。
いまほど裕福な時代ではないけどモノがないから想像力が育まれたんでしょうね。
ただ水木しげる先生みたいな生き方はむずかしいと思う。
なかなか人生がいろいろな意味で開化しない人もいるし自分の才能や長所を知らないままの人もなかにはいる。
“生きてる”のは何かに“生かされている”、何か見えない存在に。
それが妖怪かあるいは別な存在かはたぶんにひとそれぞれ。
『水木サンの幸福論』久しぶりに読むと素朴な時代だけどガキ大将だったり算数ができなかった水木しげる先生。
絵を描き始めるも時代は戦争に向かってしまうどうしようもない時代の流れ。
生来がのんびり屋なためか起床はなかなかできず上官に殴られる日々や南方に行ってからも叱られ怒られる日々。
なんでも水木しげる先生の手相の生命線は短かったらしいけど左腕を失うも戦中戦後生きて長く存命されてた。
手相と人生はさほど関係ないのでしょうか。ひょっとしたら短命に終わるかもしれない人生を妖怪やもののけの話をのんのんばあから聞いて信じていた水木先生を妖怪や何かふしぎな力が長く人生を過ごせるようにしたかもしれませんね。
ただ戦争のくだりは水木先生の視点を通しながら戦いたくないのに戦う愚かしさ命を狙われる毎日などは読んでてつらい。
気づけば敵と呼ばれる兵隊が後ろからやってきて銃を放ち命からがら逃げる。
いつ殺されるかわからない日々。
だけど水木先生はそんななかでも生き残れた。
『水木サンの幸福論』を実践するにはむずかしいけど学ぶべきところは多くある。
原作小説と映像に起こされた作品はいくつかの違いはどうしても存在する。
原作そのままだと作品に齟齬があったりわかりにくかったりする。
レムの『ソラリス』は原作にないラストシーンを加える形で意味深に終わるという。
『水木サンの幸福論』、紙芝居から貸本漫画家そして漫画家へと紆余曲折を経る水木しげる先生。
その間に奥さまと一緒になり長く貧乏生活を過ごしながら時に出版社にいいようにあしらわれたりぶつかり合ったりの繰り返し。だけど和解もある。
だけど戦後の時代を水木しげる先生の目を通すと生きることもたたかいということでしょう。
水木しげる先生自体が作品に凝り性なために作画やディテールに凝り〆切に追われる。
でも水木しげる先生の画は他の漫画家さんには見られないくらい細部に凝ってる印象はある。キャラ自体はマンガ的だけど背景の細かく自然や家屋の寂れた感などはいまも記憶にある。
『鬼太郎』がアニメ化されたことで忙しくなりやや今度は忙しいことで家庭内に不協和音があるがそちらは奥さまが書かれた『ゲゲゲの女房』に詳しく書かれている。
あえて水木しげる先生がそちらに触れてないのはグチっぽくなることを避けたかもしれませんね。
仕事を何本も抱える生活から一旦抜けて貧乏生活から学び余裕ある仕事に配慮し自分の“水木サンのルール”を思い出す。
妖怪関連の本や生い立ち、戦争時代の本を出し世に再び認知や理解される。
そして水木しげるロードへといたる。
なかなかできることではない。
水木しげる先生が書かれた『水木サンの幸福論』奥さまの武良布枝さんの『ゲゲゲの女房』。
あらためて読むとふたりの生まれたところや生い立ちに違いはあるけど重なるところある。
のんのんばあのお話や戦争が終わった時に水木しげる先生は南方で、布枝さんは家族や近所の人たちとラジオ放送を聞いて同じ時代を生きてたというのが重く伝わる。
水木先生は南方で現地除隊を考えたけど親しくしてた戦医の説得で現地除隊を諦めご両親に顔を見せ紆余曲折を歩む。
もし水木先生が南方の地で原住民と暮らしていたら漫画家になることがあったかわかりませんが日本との架け橋になったかもしれない。
だけど布枝さんと一緒にならなかった。
この二冊の本を重ねて読むとひととの出会いは大切。
貧乏な生活ではあり時に歯車がこわれたり狂うこともあるけど何かが御二人をくっつけた意味。
だけど戦争のくだりはどちらも読んでて考えさせられる。
かたや南方に知らない国に行って「なぜ戦って死んで来なかった」と言われた水木先生、かたや本土にいて貧乏で大所帯だった布枝さんの一家。どちらにしても命懸けの生活。生きること。
戦争がもたらしたものは敗戦、日本という国が負けた事実。
これは当時の人達が思いはさまざまだったことは難くない。
『水木サンの幸福論』と『ゲゲゲの女房』、戦後の水木しげる先生が片腕で自転車に載ってる写真が同じモノでした。
戦後いろいろ辛いことあったけど当時は互いに貧乏ではあったが見合い話が何らかの形で縁を持たせたくれた。
片腕で自転車に乗る水木しげるさんが布枝さんにはよき若者に見えたことでしょう。
見合いし結婚を早くにその後の顛末は若いふたりでもありかたや売れない漫画家、漫画は少し知ってても漫画家のことはわからない布枝さん。
ここからさらに紆余曲折がある。
だけど見合いとはいえお二人は結婚された。貧乏神に取り憑かれはあったかもしれないが縁は結ばれその糸はかんたんに切れるものではなかったという証。
現代社会が離婚が多いなか水木しげる夫妻はある意味理想の夫婦。
水木先生はすでに亡くなられましたが布枝さんのなかに生きているでしょう。そして『鬼太郎』をはじめとした各作品にも水木先生の魂は存在している。
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