風人 2016-04-04 04:41:02 |
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実写映画小説『ガッチャマン』、本来ガッチャマンはマクロな世界のなかで組織や個人の思惑、感情気持ちが複雑に絡み合う世界と思う。
そこに頑ななまでの健の意固地なまでの真面目さ、ジョーの(両親を殺した相手=カッツェ)復讐、ジュンの不器用ながら健への想い、甚平の無邪気ななかに隠れた孤児としての寂しさ、竜は一見のんきに見えながらも唯一メンバー内で家族があるという一途な純粋な思い。
南部博士もまたそんな彼らを従わせ戦いに赴かせながらも時に葛藤し悩み特に健については亡くなったはずの父親がレッドインパルスとして諜報に活躍し時に相容れない存在やライバル、また共闘する互いの関係の複雑さ。
南部博士はギャラクターから地球を救いたい一心を才能からすべてを心血を注ぐ愚直なまでの真っ直ぐさ。
これに対するのはベルク・カッツェ。彼ないし彼女は総裁Xへの愛情や信頼こそがカッツェの唯一の生ある悦び。そして科学忍者隊に苦渋を舐めさせられながらも何度も挑む指揮官らしさ。
だけど実写映画小説『ガッチャマン』にはそれらの長所も短所も失礼ながらすべてなくしてる感じ。
実写映画小説『ガッチャマン』はよく読むと要所要所がおかしい。
科学忍者隊がゴッドフェニックスに乗るにしても本来これはアニメならばレッドインパルスが倒れと云々くらいの説得力があって然るべき点。
ゴッドフェニックスの補助武装にバードミサイルというのもおかしな点。
本来忍者隊は諜報任務を主とし戦いはあくまで最後の手段。
あとがきにはレッドインパルスについて触れらてましたが本編では触れられてない。あるはずの設定が本編で語られてない煮つめの甘さ。
一行や一文でも語られてるならともかくいくつか明らかに語られるべきことが語られてない。
人物が仲間意識を持ってないとありながらあまりに健たちが自分の感情や気持ちでしか動いてないプロ意識に欠ける。兵士であるならそこはプロ意識を持つべき。
肝心なところが欠けてる作品。
オリジナルアニメ作品において科学忍者隊のメンバーはけっして完璧ではない。皆どこか欠けていびつに育ちながらも若者らしくまっすぐ生きようと戦う。
なぜ実写映画小説版にそれがないのか……。
小説『君の名は。』で好きな場面は瀧くんが三葉を探しにいこうとし司や奥寺先輩とあちこちいくなかラーメン屋でようやく糸守町と知るところ。
ラーメン屋の主人と奥さんがいたから瀧くんは糸守町にいくことができる。
なにげにラーメン屋の夫婦がいなかったら瀧くんは糸守町という名前を思い出さない。
またさりげなくラーメン屋の主人が瀧くんをいまはない糸守町にまで案内してくれたりさりげなく町のことを語り伝える。
出番は少ないけどラーメン屋の夫婦さん何気なく好きな人物。
昨年はいろいろ多くの本を購入し読めたが(未読もあり)今年はいまのところないですね。
明けて二週間ですからね。読みたい本のなかに文庫化にいたってない作品もあるでしょうね。
思えば去年は小説『サイボーグ009 完結編 GOD’S WAR conclution』と『ティターンズの旗の下に』が読み始め。
今年は実写映画小説『ガッチャマン』でちょっと失敗。
今日は『サイボーグ009』つながりで小説ではなく映画『RE:SYBORG』について。
『サイボーグ009』としていえば誰もが思うヒロイックな作品ではない。
プロダクションI・G作品としてはアリだけど『009』らしさは少ない。
『RE:SYBORG』としてしてること“リ・スタート”なわけですし。
ジョーとジェットの対立については日米の専守防衛か先制攻撃かということを個人と国家に置き換えて専守防衛についてはヒーローとしての立場。
また作品中の“彼の声”わかりやすくいえばこれは人間ひとりひとりのなかにある善悪の心が左右されやすい象徴。
『009 完結編』で00サイボーグに関わった人物たちが神や悪魔に取り込まれる描写と同じと思われるけど演出としては正直わかりにくい。
“天使の化石”についても神がいることの暗示であると同時にたぶんに正義に生きた人々の象徴であり00サイボーグたちが辿り着く未来への暗示だったと思う。
『RE:SYBORG』についていえば『サイボーグ009』の基本知識があってもたぶんにわかりにくい。劇画調すぎるなおかつ話が尺内に収まりきれない。
『RE:SYBORG』は小説もあるらしいので機会あれば読んでまた映画とくらべたいと思う。
大人向けだけど大人向けすぎかつ硬派。
『サマーウォーズ』に『クライシス・オブ・OZ』(かな?)という外伝小説作品あったけど『君のの名は。』にも外伝あった。
微妙に本来の物語とは違う観点かつ三葉になった瀧くんの物語ぽい。
いかにも外伝らしく本筋の物語とはちょっと路線がちがう。
小説『君の名は。』外伝は脇役の勅使河原や四葉ちゃんなどに視点を置いたサイドストーリー。
本編中でサラッと流れた1カット程度流れた場面などが外伝につながる。
勅使河原ことテッシーは瀧くんと入れ替わった三葉ちゃんを〈狐憑き〉と読んでたらしい。
なにげにテッシーくんが三葉ちゃんの境遇に共感したり思いを少し寄せていたりかな。
この辺は外伝ではないと書けない物語。
小説『君の名は。』外伝、四葉ちゃん千年前の宮永神社の巫女さんと入れ替わっていたんだ。
四葉ちゃんの物語はちょっと幼く子どもなようだけど彼女なりに姉や祖母、宮永神社を見つめ彼女なりに考えている物語。
千年前の巫女と入れ替わったことがきっかけでちいさな一歩であり大きな成長を遂げる少女。
サイドストーリーにしとくはもったいない物語。
小説『君の名は。』外伝による瀧くんから三葉ちゃんがケータイに残した文章は意外に過激。
巫女の血を引きながらも中身は田舎住まいだけどふつうの女子高生。
田舎と嘆き都会に憧れ一部の同級生たちには父が町長だったり勅使河原建設と関係あったり父と顔を会わせれば厳しく接せられる。
成人迎えた大人でもたぶん嫌がる状況に若い十代で複雑な気持ちを抱く。
だけど瀧くんなりに直接顔を会わしてないながらも彼女を思い入れ替わりながら彼女の知らない表情に思いを寄せる……。
女子は清楚な一面もあるけど本音は別にあるのは女子ないし女性という生き物のわからないところ。
小説『君の名は。』外伝では三葉ちゃんの親友サヤちんもさりげなく出番ある。
三葉ちゃんとテッシー絡みはもちろんだけど四葉ちゃんと仲がいいという意外な一面(笑)。
本編の小説では「サヤちん」だけど本名は「早耶香(さやか)」と外伝小説でわかる。
アニメでわかりにくいところは小説や本だとわかるのも利点。
小説『君の名は。A nother side:Earth』のテッシーこと勅使河原の章「スクラップ アンド ビルド」。
政治家と実家の建設業者の癒着。大なり小なり世の中はこのようなシステムで成り立っているという縮図。
だけどテッシーくんがそれなりに地元に愛着を持ち実家に複雑な感情を抱くのは正しいこと。
アニメ本編と外伝作品「腐敗の匂いがするな」の表現は彼なりの内にある倫理観。
ある程度は三葉に共感と同情が混じりながらも自分は何もできない幼馴染みとしての感情。
小説『君の名は。』外伝、四葉ちゃんの物語。
個人的にはいちばんのお気に入りでしょうか。
だけど口噛み酒ををひょんなことから自ら口にし千年前の巫女さまと入れ替わる。
だけど話の辻褄からいえばこの巫女さまは実は四葉ちゃんの前世らしい。
なにげに小学生ながらに女の子であり女性として姉三葉たちを見つめながら内面はしっかり一人立ちしていく片鱗。
女の子や女性がある意味大人なのがわかる短編。
[あと少し、もう少し]小説
中学生男子の汗と涙の絆を描いた作品。
仲間を信じ合いタスキを繋ぐ、仲間の大切さに感動しました。
小説『君の名は。』外伝。
三葉四葉姉妹の父であり糸守町町長でもある宮水俊樹。
四編最後の物語の主役をつとめる。ほぼ大人のドラマな感ある一編。
俊樹と二葉の自然かつ淡白な出逢いを描写しながら俊樹の実家との葛藤や悩み、苦悩。だけど実家や恩師などを捨てることになる。
やがて俊樹と二葉はひとつの夫婦になり家庭になるが……。
俊樹は宮水神社や二葉の祖母により神主に変えられていく自分に抵抗をおぼえる。
やがて三葉そして四葉が生まれるなか二葉が亡くなりなにかが糸守町がおかしいのではと気づく。
そして彼は糸守町を変えるために町長へと道を進む。
瀧くんと入れ替わった三葉の言葉に耳を貸さずなにかに戦慄し振り返る過去……。
やがて亡くなった二葉の言葉の真意を理解する。
再び出会った三葉は紛れもない本物の三葉。
物語的にはほぼ二時間ドラマで通用する一編。
これもまたおもしろい物語。
小説『君の名は。』外伝。
サヤ**と名取早耶香をメインにした物語がないのは不憫。
だけど三葉と入れ替わった瀧くん、将来をそれとなく誓いあってるであろうテッシーこと勅使河原くん、親友の妹でありながら時に大人な話題をする四葉ちゃん。
描写は脇役だけど要所で活躍し三章それぞれで三葉ちゃんとは異なる形で普通の田舎の女の子。
また四葉ちゃん関係だけど彼女がムネについてサヤちんに聞く場面があるがここは名(迷)場面。
90年代に『科学人忍者隊ガッチャマン』をOVAと共にリメイクした小説『GATCHAMAN』。
実写映画版小説『ガッチャマン』にくらべたらこちらの方が70年代のオリジナル第一作に近い。
名作ではなく小説としていえばディテールに凝りすぎでありオリジナルと解離してるところもまたあるのは否めない。
だけど一巻《火の鳥、翔ぶ!》では健の真面目さやこの時点では生死不明となっている父への複雑な感情、ジョーの両親を殺した相手への熱情またあまのじゃくな一面、ジュンは孤児である過去や爆破のエキスパートその内にある健へのほのかな想い、甚平もまた孤児でありジュンを慕いながら少年らしい一面をあちこちで見せる、竜もまたヨットハーバーでオーナーの一面を見せ一見役に立たない風ながら巨鳥ゴッドフェニックスを巧みに操りタートルキングに挑む。
南部博士、科学忍者隊に信頼を置きながらアンダーソン長官と共に彼らを見守る。隙がない中年紳士と思う。
敵ギャラクターを指揮する謎のベルク・カッツェ。
OVA版およびその小説では総裁Xの正体は早々と明らかになる。その正体は遠い宇宙からやって来た現地調達スーパーマシーン。
実写版『ガッチャマン』にくらべたらこちらの方がふつう『ガッチャマン』として読める作品と思う。
実写映画小説『THE last day on Earth CASSHERN』および実写映画小説『ガッチャマン』。
どちらも大亜細亜連邦とか日本が世界の中心とかいささかあり得ない世界観。
仮にアジア諸国が力を持つにしても中国や韓国な感じ。とてもじゃないけど日本や日本人が世界で主役になれるわけない。
むしろ政治的な力はなくなったけど科学技術や独創的な発想から科学忍者隊やキャシャーンが生まれ悪や組織から世界や人々を救うという展開にした方がいいと思う。
南部博士や東博士、上月博士などに少し発言権を持たす程度が自然な感じに思える。
実写映画はとかくむずかしいのは理解するけど極論からいえばオリジナル作品が放送された70年代と2000年代はあまりに時代にひらきがありすぎ。
余談みたいなものだけど小説『マクロスF アナタノヲオト』に劇中でオズマとキャシーが情報収集のために映画館をおとずれそこで彼らが眺めている映画作品は「ナッシング・マクロス」。
いわば1999年にマクロス艦が落ちてこなかった我々の現実世界に近い世界観を作品化してる(ただし別世界観の『オーガス』とはまた無関係な位置と思われる)。
劇中でオズマは愚痴る。
「そんなわけあるか」と。
『マクロス』の世界観は東西両国が争いなからもすでに火星まで人類は到達しておりその気になればマクロス艦がなくてもよその星系までいけたらしい。
ただオズマの言い分はたぶんに正しい。
なにげに著者の小太刀右京さんは実写映画化作品にメタフィクションを用い警鐘を鳴らしてるかもしれない。
実写映画小説『CASSHERN』もまた悲壮感にあふれているがあまりに作品自体が暗すぎ。
救いがない上にさらに救いがないのは欝。
ただ実写映画小説『ガッチャマン』も主人公たちからヒーロー性を奪いベルク・カッツェからも悪役性があまり感じない。
この辺実写化すると二次元のアニメからキャラクターから本来ある魅力が喪われるのではと感じてしまう。
テーマなどはそれなりに伝わるけどこれじゃない感が大きい。
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