思音 2016-01-24 23:54:56 |
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遠くでは、虫のなく声が聞こえる。何が哀しいのだろう。彼の語る恋物語に泣いているのだろうか。
泣かないで、泣かないで。
ふと耳を澄ませると、なき声がもうひとつ。
嗚呼、あなたの語り声は、どうしてそんなに深くて、痛くて、哀しい叫び声のような。
涙を流さずとも、人は泣けるのだということを、わたしはあなたに教えて頂いたのです。
いつか、わたしもこの物語を、誰かに語る日が来るのでしょうか。
――『御伽噺』
今日は満月なんですね
昨日と一昨日は、月がいやに目に入るものだから、嗚呼、美しいなぁなんて見ていたけれど。
思えば、いざ満ちた時には、いつも見逃している気がします。
どんなに欠けていても、自分で見つけて美しいと感じた月はとても美しい。
どんなに満ちていても、人に教えられて見上げる夜空は、どこか狭くて苦しいです。
けれど、きっと、大切な人が教えてくれる空であれば、何より美しく輝いて見えるのでしょうね。
ひとりというのは、不思議なものですね。
その空間にひとりで居るのに、そばに誰かが居るような気がする時もある。
たくさんの人の中に居るのに、ひとりだと感じる時もある。
どちらが良いということも、どちらが寂しいということも無いのですが。時として、どちらかを羨んでしまうことがあります。
誰かの心を穏やかにしたいというのは、常々思っていることですので、そう言っていただけるのはとても嬉しいです。
素敵な花ですね。可愛らしい形と色、持っている言葉も。ご存知かもしれませんが、わたしの名前の読みと同じ読みを持つ花は、勿忘草の花言葉と対になるようなものなんですよ。
あぁ、本当だ。今調べた所、対になる花言葉が出てきました。わからないけれど、何故だが少し切なくなりました。
私にも、勿忘草の花を贈りたい人がいるのです。
わざわざ調べてくれたんですね、ありがとうございます。言葉も耳にするもしくは目にする時によって、その人の気持ちや状況が反映されるのかもしれませんね。
それが悲しいことなのか、幸せなことなのか分かりませんが、花を送りたいと思える人が居るというのは素敵なことです。
そして、人に花を送りたいと思えるあなたの心を、どうか無くさずに居てくださいね。
人と人が思い合う気持ちは、足して百になるのだ。
そんな言葉を、どこかで見かけたことがあります。
自分が六十ならば、相手は四十。
自分が四十ならば、相手は六十。
きっと、五十と五十で居られる時など、本当に刹那的なことなのでしょう。
はて
人を思う気持ちは、決して良いものばかりではないのでした。
自分が六十愛していても、相手が四十憎んでいることもある。ええ、そうでした。
好きだと伝えるのに
いやだと言うために
どうして周りを気にしなければいけないのでしょう
好きな人に好きだと伝えてしまうと、その人だけでなく、周りの人も離れてしまう。
嫌なことを嫌だと言うと、好きな人も離れてしまう。
そんな捩れた世界の中は、ひどく狭苦しく感じます。
さびしい、は嫌いではありません。
きゅ、と胸が狭くなる感覚も、青と白の空気も、苦いような酸っぱいような香りも、どこかで大切に感じることがあるのです。
さびしい、の香りは、珈琲によく似ています。
時々、いま自分がひとりで居られることが夢のように思えます。
部屋の扉を叩く音がするんじゃないか
怒声や罵声が聞こえてくるんじゃないか
そんなことをふと思いついて、ひとりで震えることがあります。
けれど、もうそんなことをする必要は無いのだと思い出した時、ふっと体が軽くなるのです。
それでも鉛のように染み付いた何かは、消えてはくれませんでした。
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