ゴースト 2015-12-19 22:24:54 |
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僕は父に連れられて、トルコ経由でボスニアに向かったわけだけれど、機内から見る空は美しかった。
というより眩しかった。
途中で降りた空港には、飛行機の中とは比べ物にならない程の異国の人々がごった返していた。
そこから首都まで乗り換えて向かい、初めて降り立った外国の地というものは、少し気持ち悪かった。
日本と違い、建物はみな似たような作りと色合いで、何で?と疑問に思ったものだ。外国人も背が高く怖いし、そもそも日本語ではない言葉を話している。
僕が父親と住む事になった街は人口数千人ぐらいか。
日本と比べたら 人口密度はかなり低い場所だった。
周りは山に囲まれてる盆地で、建ち並ぶ統一された住居は、とても綺麗だった。
オレンジ色の屋根は当時日本(といっても俺の地元)では目にする事が無かったから、初めは奇抜だと思ったよ。
子どもが親についていき、海外で暮らす場合、多くは日本人学校等に入る事になると思うのだけど、僕の住む街には日本人学校どころか日本人すらいない。
いや、僕と父さんの二人はいたけどさ。
不安を抱きながら学校へ行っても、皆何を言っているのか理解出来ないわけだ。
当然、僕は一人ぼっちだった。
自己紹介すらきちんと出来なかったからね。
もう少し年を取っていれば、ノリで仲良くする、フレンドリーに接するなんて事が出来たかもしれない。
だけど、当時の僕にそんなスキルがあるはずもなく、どうしようもなかったんだ。
その為、最初の2週間ほどは非常に苦痛だった。
遊びたい盛りの当時の僕にとって、こうした寂しさを我慢するというのは、限界が近づきつつあったんだ。
だから、何か遊ぶものを探そうと思って、休みの日にふらっと一人で街を散策していたんだ。
一人で街中に行くのは初めてだったから、少し迷ったりしたけれどね。
街を行きかう人々を見ながら、学校の方へと歩いていくと、道の端にある空き地で子ども達がサッカーをしていた。
とても羨ましくて、「いいなぁー。」と思ったわけだけれど、「いーれーてっ!」といった言葉は
かけられない。というより、その言葉が話せないからね。
だから、何も声に出せず、もじもじしながら、その子ども達が遊んでいるのを空き地の端っこでぼーっと眺めていたんだ。
そうとう入れて欲しそうな顔をしていたのかもしれない。
サッカーをしている 男子の輪の中にいた一人が、じっと見つめている僕に気づいてさ、「一緒に遊ぶ?」と 聞いてきてくれたんだ。
実際には、そう言ったのだろうというレベルで、俺にはまだこの子が何を話しているのか理解できなかったけれどね。
仮にその男の子をカミーユとしておく。
最初は「?」状態だった俺も、ジェスチャーで身振り手振りで話してくれたおかげで、俺を誘ってくれているんだと理解してさ。
とても嬉しくなった。
これが現地の子と初めて会話?した日だったと思う。
やっと友達が出来るってウキウキしたよ。
僕が暮らしていたのはボスニア・ヘルツェゴビナだったんだけど、 その時はまだユーゴスラビア連邦の構成国だったんだ。
そこには大体3つの民族、ボシュニャチ(ボスニア人)、スルツキ(セルビア人)、フルヴァツキ(クロアチア人)が混在して一緒に暮らしてたんだ。
お互いに言葉は通じなかったけれど、子供同士、皆で一緒に遊ぶサッカーは最高に面白かった。
子どもの頃はさ、身長や体格といった差は人種が違えどさほど変わらないもので、意外とサッカー中にはボールを触ったり、奪ったり出来た。
これも、カミーユがパスをくれたお陰だとは思うけどね。
泥まみれになって遊ぶのは楽しい。
遊びつかれて夕方家に帰ると、久しぶりに父さんが早く帰ってきていてさ。
「どうしたんだ?友達でもできたのか?」みたいな事を 聞いてきて、「もちろん!」ってニコニコしながら答えたよ。
思えば、この街に来て初めて笑った日だったかもしれないなー。
次の日学校へ行ったらさ、小さい街だからやっぱり同じ学校だったわけよ。
放課後に校庭でカミーユ達がサッカーしているのを見つけて、そこに駆けていったね。
カミーユも僕を見るなり駆けてきてさ、「サッカーやろう!」って誘ってくれたんだ。
昨日いたメンバーの他にも、クラスの子とかがいたりして、身振り手振りのコミュニケーションしかできなかったけれど、仲良くなるきっかけになったよ。
その日以降から、言葉は殆ど通じなくても、一緒に鬼ごっこしたりサッカーしたりして遊んでさ、クラスでも徐々に一緒に過ごす友達が増えてきて、学校がとても楽しかった。
特にカミーユとかドラガンはクラスが違うっていうのに、休み時間になると俺のクラスまで来てくれてさ、一緒にくだらない遊びしてたな。
昼休みはワンバンっていって、サッカーボールを一回のバウンドだけでキャッチして相手に蹴るゲームとかやったりしたなー。
何でここまでカミーユ達、特にカミーユが仲良くしてくれるのかはわからなかったけれど、ありがたかったよ。
でも、その理由がわかった時は、すごく辛かった。
とはいってもさ、学校のない日はやっぱ暇な時が多い。
毎回カミーユ達と遊べるわけじゃないしね。
それで色んな所を一人探検したりしてた。
高原っていうか平原が無限に広がってる感じで、なかなか面白かったよ。
そんなある日、カミーユ達はモスクだとか教会がどーのこーので遊べないから、いつものように一人で探検してたんだ。
そしたらさ、少し丘を登って過ぎたあたりに、家があったんだよね。
結構ぼろっちい。
最初廃墟かと思って、潜入を試みたわけなんだけど、庭に入ったところで同い年位の女の子とばったり鉢合わせちゃったんだ。
二人同時に「ビクッ!」ってなったね。
ヤバイ。
人が住んでたってわかった僕は、そのまま逃げればいいものをさ、慌てちゃって何故か自己紹介しちゃったんだ。日本語でだけどね。
そしたら、僕が大体何言ったのか理解したっぽくて、名前を教えてくれてさ、豆?みたいなお菓子をくれたw
あ、仮にこの女の子をソニアってしとくね。
街の中心からソニアの家までは子どもの足で大体1時間か2時間ぐらいなんだけど、ソニアは同じ学校じゃないんだよね。
同じ学年なのになんでだろうって思ったけど、当時はまだ何も知らなかったから、ふーんって位にしか思わなかった。
それから夕方ぐらいまで近くの丘で花摘んだりしながら遊んでたんだけど、気づいたら暗くなってきてたんだ。
このまま歩いて帰っても、また1・2時間かかっちゃう。
どうしようって思ってたら、丁度ソニアパパが帰宅してさ、ソニアと何か話した後に、僕をソニアと一緒に車で街まで送ってくれたんだ。
家の前まで送ってもらった後に、
「ドビジャニヤ!ハンデダゼニカジェネチェニデルデ!」って感じで、
バイバイ、また遊ぼうねって約束して別れたんだ。
送ってもらう途中、言葉話せないってアピールしてるのに、ソニアパパが笑顔で色々と話しかけてきて少し困った覚えがある。
ソニアはソニアで一緒に作った花の輪を俺の頭にのせてきたりしてた。
その日は父さんの作った夕飯を食べてる最中に、ソニアの話ばっかりしてたなー。
思い返せば、この時既に、僕はソニアに一目ぼれしてたんだと思う。
それからは、学校がある日はカミーユ達とサッカーしたりして遊んで、休みの日は毎回2時間位歩いてソニアの家まで遊びにいってた。
学校も楽しかったけど、週に1度ソニアのトコに遊びに行くのは もっと楽しかった。
楽しいと言うより、楽しみだった…かな。
大体する事と言ったら、花を摘んだり、オママゴトしたりさ、人形遊びしたり、ソニアパパの猟にくっついていったりぐらいなんだけどね。
ソニアのパパもママも、毎回来て迷惑だろうにソガンドルマとか作ってお昼に食べさせてくれた。
あの味は今も忘れられないよ…本当に。
野菜嫌いだった僕に野菜の美味しさを教えてくれたよ。
夏休みに入った時期だったかな。
学校で普段一緒に遊んでたメンバーと飽きずにサッカーしてたんだ。
まだこっちの気候に慣れていない僕にとって、乾燥した夏ってのはそれはそれで辛いものだった。
喉が凄い渇く。
日本のじめじめした夏が懐かしかったな。
少しサッカーして、休憩した後にさ、僕が休みの日に何してるのかって話しになって、ソニアって同い年の女の子の家に遊びに行ってる事を話したんだ。
僕らの居る街は人口も少ない。
だから子どもは殆ど同じ学校に通っているわけだけれど、ソニアは通っていない。
じゃあ、僕らで遊びに行っちゃうか!?という話へ自然となったんだ。
ただ、女の子の家に男だけで行くのも少し恥ずかしいらしい。
そういうわけで、他に学校の女の子二人と僕を含めて6人の男子、8人でソニアの家に向かったわけだ。
当時ペットボトルとかいう画期的な容器はないから、重い水筒らしきものを背負って皆で高原を歩いていったわけだ。
日本に比べて気温は高くないんだけどさ、日によっちゃ凄い熱くなったり、夏なのに気温低かったりしてな。
その日は凄く暑かった。
皆汗だくになってヒーヒーいいながらも、いつもより時間かけつつも到着したわけだ。
あー、僕以外の7人は、
カミーユ
ミルコ
メフメット
カマル
ドラガン
サニャ
メルヴィナね。
ソニアの家の前でさ、皆で
「ソニャー!ハンデダゼニカフゥバルサマナー!」って呼んだんだ。
少ししたらバタバタしながらソニアが出てきてさ、僕達みた瞬間目が点になった様に固まってた。
僕はさ、学校の友達連れてきたから、皆で遊ぼうって言ったんだ。
そしたらソニアは少し怯えながら
「こんなに大勢で遊んだことないから怖い」って言うんだよ。
僕此処に来たのが1990年4月で、この夏っていうのはその年の7月の事なんだ。
カタコトではあるけれど、多少理解できるようになってたよ。
まだ6歳ぐらいだったから覚えるの早かったのかもしれない。
ソニアは「怖い」と言ったけど、なら良いチャンスだ!というわけで、皆でサッカーをする事にしたんだ。
実際は、男子6人がサッカーをして、ソニアたち女子は3人で花を摘んだりしてたわけだけどさ。
帰り際にソニアが目をキラキラさせながら、「今日は楽しかった!ありがとう!」と言っていたのが印象的だった。
帰り、街までソニアパパがいつものように送ってくれると言ってくれたんだけど、8人は流石に乗れないので、サニャとメルヴィナだけ車で送ってもらって、カミーユや僕といった男子は歩いて帰る事にしたんだ。
夏だからまだ外も明るいしね。
この年の夏は、僕がこの国に滞在した期間の中で最良の夏だった。
毎日何も心配せずに遊び、疲れたら寝て、そして朝起きて遊ぶを延々と繰り返していたよ。
ただ、金曜と日曜は殆どの子達がモスクやら教会に行く為暇なんだ。
だから、その日は大体ソニアの家で過ごしてたな。
当時は宗教というものをよく理解していなかったし、何かのイベント程度に思っていた。
初めて皆で遊んでから少し経った金曜日。
この日も毎週と同じく非常に暇を持て余していた。
じゃあ、またソニアの家に遊びに行こう!と考えた僕は、水筒を担いで向かったんだ。
家に行っていつもの様に遊んでいると、お昼ぐらいになった。
ソニアパパとママは礼拝があるからと言って、お昼を準備した後、ソニアと僕を残してモスクへ出かけていった。
この日は普段と違って特別な昼食だったよ。
いつもはご飯の後にデザートなんて出ないんだけど、この日はバクラヴァが出たんだ。
最初は、ただのデザートだと思っていたんだ。
だけど、ソニアがニコニコしながら、
「特別なんだよ」って教えてくれた。
このバクラヴァは今でこそ日本にもあるらしいけれど、現地では特別な日に 食べられる事が多いデザートなんだ。
何故、この日が特別なのかは最初、僕にはわからなかった。
だから、「何で?」と質問したんだ。
すると、ソニアは少しモジモジと照れながら、
「祐希が私の友達になってくれた。一杯のお友達を連れてきてくれた。そのお礼の日だから。」
確かこんな事を言われたんだ。
当時の僕は気づかなかったんだけど、前にも書いたとおり、ソニアは僕達と同じ年齢にも関わらず学校へは行っていなかったんだ。
学校自体に通っていなかったのか、それとも不登校だったのかは未だにわからないけれどね。
だから、ソニアには全然友達が居ないんだ。
僕はソニアにとって、初めて出来た異性の友達で、そして久しぶりに出来た友達だったんだ。
こんな目と鼻の先、数キロしか離れていないのに、不思議だよね。
おかしな話だ。
でも、それがこの国の現実だったんだ。
この時は、そういった事を何も知らなかった僕には、そうなんだー位にしか思わなかった。
そういった事もあって、ソニアパパは、一ヶ月前に出会った日の帰りの道中、ニコニコしながら僕に一杯話しかけてくれたし、遊びに行くたびに歓迎してくれて、そして帰りはわざわざ車で送ってくれていたんだ。
この時は謙虚だとか遠慮だなんて言葉すら知らなくてさ、ソニアパパやママには 図々しい事を沢山してしまったなと思う。
バクラヴァを食べながら「美味しいね。」ってソニアに言うと、
ソニアは照れくさそうにしながら、
「私も作るの手伝ったんだよ。」と言ったんだ。
そしてこの日、僕は夕飯前に帰ろうと思っていたんだけど、ソニアパパやママの勧めで夕飯を食べていくことになったんだ。
ソニアのパパやママは朝と昼のご飯を食べていなかったから、夕飯はとても豪勢だった。
お肉はなかったけれどね。
ソニアも笑顔で笑っていてさ、とても幸せな食卓だった。
優しい家族だった。
夕飯を食べ終わった後は、ソニアの家族と日本の話やこの国の話をしたりしてた。
気づくと時間も遅くなっていたんだ。
父さんに連絡して早く帰らなければと、慌ててソニアパパにそろそろ帰るという事を伝えた。
すると、「今夜は遅いから、家に泊まりなさい」と言われたんだ。
流石に一緒のベットではなかったけれど、僕とソニアは夜遅くまでおきて、ベットの横にある窓から、澄んだ夜空を見上げて、色々と話していた。
初めてヒジャブを外したソニアを目にした。
照らされた褐色の髪がキラキラしていた。
この時だったと思う。
漠然としたソニアに対する自分の好意が、ソニアに対する恋だと気づいたのは。
月明かりに照らされたソニアの顔は、とても綺麗だった。
短い6年という人生しか歩んできていなかった僕にとって、この時のソニアは美しすぎた。
そして、こうして31歳になった今でも、この夜のソニアを超える美しい女性とは出会えていない。
ずっとこうしていたいと思っていたよ。
二人で手を繋ぎながら、
「ずっと一緒にいたいね。」、「ずっと一緒にいようね。」
そう約束したんだ。
朝になったソニアママに起こされた時、僕とソニアは同じベットで寝てた。
多分、話している途中で寝ちゃったんだろうな。
ソニアママは少し驚いていたけれど、僕達の頭を撫でながら、
パパには内緒だね。と微笑んでくれた。
その意味は当時理解できなかったけどね。
気持ちとしては、家に帰りたかったのだけれど、ソニアパパがフォーチャの街に買い物に行こうと言うので、一緒に付いて行く事にしたんだ。
フォーチャまでは基本的に一本道で、高原を抜けた後は延々と山と山の間の道を通り抜けていった。
途中で沢山の木を積んだトラックがかなりゆっくり走っていたりしたな。
トラックは相当年季が入っていた。
フォーチャの街が、ドリナ川の対岸に見えた時は、その景色がまるで絵画のように綺麗で、感動したよ。
街にはカリノヴィクと比べて沢山の人たちがいて、活気があった。
日用品を買ったりしたり、ご飯を食べたりしたよ。
昼食を済ませた後だったと思う。
結構古い雰囲気のモスクがあって、まだきちんとしたモスクを実際に目にしていなかった僕は、
「あれは何?」って聞いたんだ。
そしたら、歴史あるモスクだから、見学してみるか?ってソニアパパが言ったんだ。
僕は当然異教徒なわけだけれど、丁度礼拝みたいのをやっていてさ、僕も混ざっていい?って聞いたら、勿論って言われて、一緒にアッラーフアクバルーみたいな言葉を唱えた。
貴重な経験だった。
まさかこの場所にまた来ることになるとは、この時はまだ想像もしていなかった。
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