ゴースト 2015-12-19 22:24:54 |
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それから数日間、冷たくなってるソニアや民兵と一緒に過ごしていたんだ。
でも、外に出ていた民兵の人は誰も帰ってこなくて、もう全てが終わった事に気づいた。
本当はとっくに気づいていたけど、もう現実を受け入れるほど俺の心は強くなかったんだ。
それから、少しして、俺は皆の遺体を埋めることにしたんだ。
スコップとかがないから、木の棒でひたすら彫り続けて、
全員の遺体を埋めるには数日かかった。
俺ムスリムじゃないからさ、お墓に何をすればいいかわからなかったんだ。
だから、棒を立てて、咲いていた花を移して植えるぐらいしかできなかった。
ボシュニャチの民兵の人に、辛くても生き抜けって言われたけど、もうそんな気力もなかった。
もう全てを失って、希望だとか光も何もないんだ。
その場で死のうと思って、銃を探したんだけど、銃が全部なくなってるんだ。
食料もとっくに尽き果てていて、飲まず食わずでいた僕は、もう疲れて眠くなっちゃってさ、そのままソニアを埋めた場所の前で寝たんだ。
目を覚ましたら、夢の中みたいで、どこかの家のベットに寝てたんだ。
おかしいな、これは夢なのかなってそれとも今までのが夢なのかなって思ってたんだ。
そしたら部屋の中に中年ぐらいの女の人が入ってきてさ、何か僕にいいながら、水とか食べ物をくれたんだ。
それから少しして、これが夢じゃないってわかってさ。
僕は山で倒れていた所を、スルツキの民兵に保護されて、そこから結構離れた民兵の暮らす集落に連れて来られていたんだ。
もう死にたいって思ってた僕はさ、スルツキの民兵がソニア達を撃ったんだろって、絶対に許さないって暴れたんだ。
でも、この家の奥さんや、民兵の旦那さんは悲しそうな顔しながら、自分たちはしていないって言ってさ、僕が暴れてるのに抱きしめてくるんだ。
僕は嘘つきめ、嘘つきめって叫びながら暴れたんだけど、離してくれなくてさ、寝るって言って部屋に篭ったんだ。
それから何日も、部屋にもって来てくれたご飯とかも食べないで、ずっと篭っていてさ。
そうだ、ここから逃げればいいんだって思ったんだ。
それで夜になるのを待って、窓から外に飛び出して、辺りを見渡したら、十何キロ先かわからないけど、前いた山っぽいのが見えたんだ。
僕はソニア達の所に戻らなきゃって、あそこに戻らなきゃって思って、山に向かったんだ。
途中で、道がわからなくなったりして、何とか洞窟についた時には3日以上経っていたと思う。
その後、2日くらいまた洞窟で一人過ごしていたんだ。
そしたらさ、集落の民兵の人が来たんだ。
気づいた時にはもう洞窟の入り口の所まで来ていて、逃げ場はなかった。
ああ、僕も撃たれるんだな、良かったってほっとしたんだ。
だけど、彼らは僕を撃たないんだ。
撃たないどころか、一人で何してるって怒るんだよ。
意味がわからないんだよ。
お前らスルツキは子どもでも女の人でも殺して、子どもに乱暴だってするだろって。
僕の事も同じようにしろって泣きながら叫んだんだ。
だけど、彼らはただ無言のまま僕を担いでさ、洞窟から連れ出そうとするんだよ。
嫌だ嫌だって言っても離してくれなくて、バックがバックが、だから離しせって言っても離してくれなくてさ。
バックはどれだって言うから、答えたら、俺が預かるとかいってさ、僕の事を下ろさないまま山を下ったんだ。
疲れていたのもあって、僕は途中で寝ちゃってさ、起きたらもう集落のすぐ近くまで来てたんだ。
その後、また同じ家に連れて行かれて、家に入ったら、あの二人が怒りながら僕の事をビンタしたんだ。
それから僕の事、この前よりも強く抱きしめてきて、また暴れようとしたんだけど、力が強くて暴れられなかった。
それから知ったことなんだけど、この集落の人たちは元々民兵じゃなかったんだ。
ボシュニャチの民兵に襲われて、村の女の人や男の人、子どもも何人か殺されたり連れ去られたりして、それで武装してたんだ。
僕を世話してくれた夫婦にはさ、僕よりちょっと年上ぐらいの子どもがいたんだ。
だけど、彼は襲われた時にボシュニャチの民兵の人に殺されてしまっていてさ…。
その時、漠然と皆が苦しんでるっていう感じだったものがさ、スルツキの人も苦しんでいるんだ、被害にあってるんだ、皆が辛いんだって確信に変わったんだ。
多分だけど、僕がお世話になっていたボシュニャチの民兵の人達なんだ。
この集落を襲ったのはさ。
そして同じような事を他の集落でもやっていたんだ。
中には、本当に悪い奴もいて、虐殺や暴行、性的暴行をしている人間もいるんだ。
それは否定しようがない事実なんだ。
そしてスルツキが今回の紛争で大勢のボシュニャチの人々を殺してたり、暴行したり、凌辱したのも事実なんだ。
だけど、彼らもまた、同じような被害にあってるんだ。
自分達を守る為に、家族を守る為に、お互いにお互いを殺しあってるんだ。
望んでいるのは、形は異なっていても、同じ 平和に暮らす ってことなのにさ。
でも、昔に起きた虐殺や戦争の禍根が未だに残っていて、それがお互いの理解とかそういうのを邪魔するんだ。
積もりに積もったものが、阻むんだ。
今までの歴史が、彼らに人を殺させるんだ。
やらなきゃ、やられるって思わせるんだ。
それから僕は、彼らと1年ちょっと生活した。
スルツキの人を憎む気持ちは薄れることはないんだ。
だけど、彼らにも彼らの事情があって、それを僕は否定出来ないんだよ。
否定する事が出来ないんだ。
少なくとも、全員が望んで人を殺しているわけじゃないんだ。
罪悪感とかそういうのと戦いながら、それでも殺さなきゃいけないって、それで相手を殺している人たちもいたんだ。
彼らと暮らして半年ぐらい経った頃だったと思う。
アメリカを始めとするNATOが、スルツキの勢力下の地域に爆撃を始めたって聞いた。
後で知ったけどさ、もっと前から国連として活動はしていたんだけど、遅すぎるんだよ。
もう何もかもが遅すぎるんだ。
そして彼らと暮らして大体1年2ヶ月ほど経って、1994年の12月になったんだ。
1月から停戦になるから、祐希はサラエヴォへ行って、そこから国に帰りなさいって言われたんだ。
でも、僕はもう嫌だった。
というより、これから先、全てを背負って生きていく自信がなかったんだ。
集落を出発する朝、僕を世話してくれた夫婦とか、民兵の人が集まってくれたんだ。
だけど、僕はもう無理だって、もう死にたいって思ってさ、頼んだんだ。
頼むから僕を殺してって。
痛くても我慢するから、殺してって。
大切な友達達も皆いなくなってしまったのに、生きていても辛いって言ったんだよ。
そしたら、周りの兵士たちも、お世話をしてくれた二人も悲しそうな、少し困ったような顔したんだ。
そしてお互いに見つめあいながら、何かを早口でいってさ、僕を取り囲んだんだ。
僕はソニア達に、もうすぐそっちに行くよって、心の中で呟いた。
やっと終われるって思ったんだ。
だけどさ、彼らは僕に何かをするわけでもなく、歌を歌いだしたんだ。
何が起きたかわからなかった。
違う国の言葉だし、意味もわからなかったんだ。
意味を知ったのは、日本に帰って数年してからっだ。
歌詞はね、
I see trees of green, red roses too
I see them bloom, for me and you
And I think to myself, what a wonderful world
I see skies of blue, and clouds of white
The bright blessed day, the dark sacred night
And I think to myself, what a wonderful world
The colors of the rainbow, so pretty in the sky
Are also on the faces, of people going by
I see friends shaking hands, sayin' "how do you do?"
They're really sayin' "I love you"
I hear babies cryin', I watch them grow
They'll learn much more, than I'll ever know
And I think to myself, what a wonderful world
Yes I think to myself, what a wonderful world
Woo yeah
日本語に訳すと、
青々とした木々、そして真っ赤に咲くバラが見える
僕と君のために、咲き誇っているよ
僕は自分に語りかけるんだ、「なんて素晴らしい世界なんだろう」って。
青い空、そして真っ白な雲が見えるよ
光り輝く日が訪れ、夜がやってくる
僕は自分に語りかけるんだ、「なんて素晴らしい世界なんだろう」って。
美しい虹が、大空に架かっている
道を行き交うみんなの顔も輝かせているよ
人々は「元気かい?」と手を振りながら握手をしているよ
皆心の中で「愛しているよ」と言っているんだ
赤ちゃんの鳴き声を聞き、その成長を見守るんだ
この子たちは皆、僕が知らない世界も目にしていくんだろう
そして僕は思うんだ、「なんて素晴らしい世界だろう」って。
そう、僕は思うんだ。「なんて素晴らしい世界だろう」って。
この歌はさ、今の戦争の世界が素晴らしいって言ってるんじゃないんだ。
きっと、世界は素晴らしくなるんだ。
そう皆が願い、思えば、素晴らしい世界になるんだって意味なんだ。
愛でね。
皆、好きで殺してるわけじゃないんだ。
そうしないと自分達の仲間が子どもが殺されてしまうからなんだ。
そして、相手も同じなんだ。
それをお互いにわかっているんだよ。
わかっているのに、止められないんだ。
泣きながら歌ってるんだ。
ボシュニャチやフルヴァツキを殺した民兵たちが泣きながらさ。
彼らは好きで殺してるわけじゃないんだ。
そしてそれが許されない行為だと知っているんだ。
知っていながら、どうすることも出来ないんだ。
お互いにね・・・。
この時、英語が理解できていれば、彼らに何か言えたかも知れない。
でも、当時の僕には何の歌かわからなかったんだ。
悲しい歌なのかと思った。
平和を願う歌とは知らなかったんだ。
その後、僕はサラエヴォまで連れて行かれてさ、解放される時に手紙を貰ったんだ。
その手紙の内容は、ちょっと長いから要約するけど、
人生は不公平だ。
一生平穏に暮らす者もいれば、一生紛争や貧困に喘ぐ者もいる。
だけど、人生には、神様が皆にチャンスをくれるんだ。
学校やお父さん、お母さん、大人や友人、彼らは何度でも君にチャンスを与えるんだ。
それを活かすかどうかは、君次第なんだよ。
小さな贈りものになるけれど、私は君に生きるチャンスを与えよう。
強く優しく、そして誠実に人生を全うしなさい。
そして、素晴らしい世界を作りなさい。
子どもが笑いながら育つ世界を。
君達子どもに託そう。
素晴らしい世界を。
こんな感じの内容なんだ。
その後、1995年1月から4ヶ月の停戦が結ばれて、僕は首都で再会した父と共に、オーストリアに向かい、後に日本に帰ってきた。
結局、この一連のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結するのは、僕達がこの国から脱出した10ヶ月後の事だった。
1995年7月、安全地帯となっていたスレブレニツァが包囲され占領されたんだ。
多くのボシュニャチが処刑、強姦、拷問され、生き残った中から一部の女性は解放されたけれど、男性は殆どが順次処刑されていった。
殺されたのは、大人、子ども、男女、老若女男問わず虐殺されたんだ。
犠牲者は、8000人を超えていて、未だに身元がわからない人も多く居る。
もし、サラエヴォから脱出できなければ、僕らはそこにいたかもしれない。
良い人もいれば、悪い人もいる。
スルツキが憎い。
憎いけど、全てのスルツキが悪というわけじゃない。
どうしたらいいんだ。
どうやって生きていけばいいんだ。
平穏な日々に戻ってからも、それを悩んでいた。
そして、いつの間にかドラガンに責任を押し付け、うらんで、生きていくようになった。
あの日、いつもの様に皆でソニアの家に遊びに行くはずだった。
だけど、ドラガンだけが用事で行かれないと言ったんだ。
だから僕は、あの日ソニアの家に来たスルツキの民兵は、ドラガンが僕たちの居場所を知らせたせいで来たんだと思ってたんだ。
そのせいで、ソニアの家族やカミーユが殺されてしまったんだと・・・。
でも、ドラガンは裏切ってなんか居なかった。
Facebookで彼の弟を見つけ、コンタクトを送ったら、僕達がカリノヴィクで襲われた日に、ドラガンは殺されていた。
僕達を庇おうとして。
僕達を庇ってくれた仲間を裏切り者として、15年以上も憎んできた、「ずっと仲間だ」って約束したじゃないか、それなのに、その言葉を忘れて、僕が彼を裏切っていたんだ。
今までの人生が全て崩れるような感覚に陥って、僕はもう生きていけないと思った。
罪悪感だけじゃない。
僕には荷が重過ぎるんだよ。
気づいたら、会社に退職願を出していた。
丁度さ、いい機会だったんだ。
ドラガンの弟から、サニャとかの家族の現住所も教えてもらえてさ。
サニャとカミーユの家族は、全員ではないけれど、生きていたんだ。
だから、まずはドラガンのお墓で謝って、そしてドラガンの家族に謝罪して、そして感謝を述べて。
それでさ、その後は、カミーユの家族に会いに行って、サニャの家族に、サニャの遺品を渡してさ。
全てを終わらせようと思ったんだ。
ただ、ボシュニャチの人との約束の一つ、話を広めるというのは僕には出来なかった。
そしてもう、時間もない。
もし何かを感じてくれれば、それでいい。
欲ではあるけれど、僕自身、彼らが何を伝えようとしていたか、そして僕が何を伝えればいいか考えて、それを少しでも感じ取ってくれれば、なお嬉しい。
大切なのは、素晴らしい世界を願い、それを伝えて、実現に近づけていくことなんだと思う。
文章を書くのが苦手な僕には、僕の気持ちだとか、どんな事が起きたかを上手くは伝え切れなかったと思う。
だけど、もし、読んでくれた中で、何か感じるものがあったとしたら、バルカン半島、ボスニアのことにも少し目を向けてくれると嬉しい。
日本だからこそ出来る事があると思う。
断罪するだけではなく、罪を犯してしまった民族にも、救済の手を、救いの手を差し伸べて欲しいんだ。
それは偽善かもしれない。
それは意味がないことかもしれない。
だけど、今ある禍根を…もしだよ。
もし取り除くことが出来れば、いつか素晴らしい世界になるんじゃないかな。
僕はそう思うんだ。
彼らが歌ってくれた歌に、そのヒントがあるような気がしたんだ。
”この子たちは皆、僕が知らない世界も目にしていくんだろう”
彼らが知らない世界、それは、民族融和かもしれない。
でも、それは簡単なことじゃないんだ。
恨みや禍根は、今現在一時的に裁きによって蓋をすることが出来たかもしれない。
だけど、それが消えたわけじゃないんだ。
行いが間違っていても、全ての民族に正義や大義名分があったんだ。
一方的に絶対悪にして断罪しても、その恨みや禍根は蓋で隠されているだけで、子どもたちに継承されていくんだ。
子どもたちに継承された恨みや禍根が、何度も、何度も同じ悲劇を繰り返してきたんだ。
それを断つには、周りの、世界の人々の手助けが必要だと思う。
そして、そういった時に、日本だからこそ出来ること、日本だからこそ手助け出来る事があると思う。
パレスチナとイスラエルの子どもを結びつけたように。
最後になるけれど、この紛争で亡くなった全ての方々のご冥福をお祈り申し上げます。
ソニア…彼女はスルツキ(セルビア人)民兵によって殺害される。
サニャ…彼女は爆発に巻き込まれ死亡する。
メルヴィナ…彼女はスルプスカ警察によって乱暴された後、連行される。
メフメット・カマル・ミルコの三名は行方不明となり、生存は未だ不明である。
カミーユ…彼もまた、スルツキ(セルビア人)民兵によって殺害される。
ドラガン…彼は裏切り者であったと誤解をしていた。
この話しはフィクションでもあり、ノンフィクションでもあります。
まず、話に登場したソニア(Sonja_Grebo)、サニャ(Sanja_Edu)、
メルヴィナ(Melvina_Prazina)、カミーユ(Camil_Trpkova)、
メフメット(Mehmet_Spaho)、カマル、ミルコ(Mirko)、
ドラガン(Dragan_Stanisic)
彼らは実在した。
そして彼らがこのような体験をしたのは事実だ。
ミルコとその家族が殺害されたらしいというのも、伝聞ではあるが事実だ。
祐希という人間が日本国籍を持つ日本人というのは創作。
希望の祐(たすく)即ち希望の助けという意味を込めて仮名を使わせてもらった。
彼の名前は、希望という意味があったからね。
ただし、母親が日本人で父親がボシュニャク人のハーフで、国籍が日本人ではなかったと言う事だ。
「what a wonderful world」がセルビア人の民兵村で歌われたというのは部分的に事実だ。
全ての人が歌ったわけではない。
彼を保護した夫婦が、彼に対して歌ったものだ。
そして、その後も彼はこの歌を愛した。
そして彼は、26歳の時に、勤めていた会社を辞めて「ボスニアに行ってくる」という言葉を最後に消息が分からなくなっている。
彼は、ドラガンが裏切り者ではなかった事を知った後、15年以上もドラガンの事を裏切り者だと思いこみ、過去の記憶の苦しみを恨みに変えて生きてきていたけど、それが崩れ去ってしまい、罪悪感に耐えられなくなったようだった。
そして、一連の状況下や思いを綴った原稿用紙を僕に託し、「もう楽になってもいいかな」と言って姿を消した…。
彼は今どこにいるのだろうか。
この大空の下のどこかに居るのだろうか。
それとも・・・・。
ソニア達と一緒に遊んでいるのだろうか・・・・。
完
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