マイペース 2015-06-28 12:27:48 |
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ん~・・・・
なんか、うちの町でやる某ビールパーティー兼お祭りの前売り券がテーブルの上にあるんだが・・・。
旦那が仕事の付き合いで買わされたと思うのですが、買った当の本人は「ちょっと涼みに行ってくる」と逃亡。
ってことは、この券は私の物と言う事でOK?
後で返せと言っても返さんよ~(笑)
昼飯ゲットだぜ!(爆)
Oh,my god・・・・il||li_○/ ̄|_il||li ナンテコッタ
3日前に張り替えたばっかりの障子が・・・・
猫に破られてた・・・・(TωT)ウルウル
去年だったか、樺太に住む兄弟の話しを戦争アニメとして映画化されたと思います。
あの話を聞いて、私が昔におばさんから聞いた話しとダブりました。
似ているのです。
映画をまだ見ていないので、何処まで同じなのかは分かりませんが、おばさんも寸での所で命拾いした人の1人でした。
本当に運命ってわかりませんね…。
仮にこのおばさんが「花子」だとしましょう。
花子は小学校一年生で、樺太に住んでいた。
花子の家は、漁師の網元で祖父母・両親・盲目の叔母・姉妹が九人の大所帯だ。
網元なので食うには困らなかったが、激戦化してくると漁にも行く事がままならない状態になってきた。
漁に出てる時にソ連の軍艦と遭遇などしたら確実に大砲を撃ち込まれるからだ。
だから沖の方までは行けず、戦艦が入って来れない様な浅瀬でしか漁が出来なくなった。
それでも慎ましく暮らせば飢える事はない。
大人たちも、自分の分を子供達に分け与えていたので、ひもじいと思った事はなかったのだ。
その頃の樺太には、日本人とロシア人が住んでいた。
民間人同士では、多少なりとも助け合いをしながら生活していたそうだ。
同じ町内に住んでいるという事ではないが、当時は、日本人の村とロシア人の村とに分かれていた。
大人同士は警戒心も多々あったが、子供同士ではただの喧嘩相手にすぎない。
日本人の子は日本人同士で、ロシア人の子供はロシア人同士で遊んでいたが、狭い島なので姿が見える時もある。
そういう時は親の話しを聞いていたのか「敵」という認識だった。
どちらからともなく「ばか」「あほ」というような罵詈雑言をあびせあっていた。
当然子供達は敵国の言葉度知らない。
知らないが、ニュアンスで分かる。
ロシア語で悪口を言われたら日本語で応戦をしていた。
そんな事が続くと、次第に相手の言葉が理解できるようにもなってきた。
悪口を言いながらも、子供にとって面白そうな遊びには国境はない。
次第に子供同士は仲良く(?)遊び始める。
遊んでいるうちに気心が知れてくると、今度はお互いの家にも遊びに行くようになった。
ロシア人の子供が花子の家に遊びに来れば、魚をお腹いっぱい食べさせてもらい、花子がロシア人の家に遊びに行けば、日本でいうお風呂であるサウナに入れてもらい、晩御飯も食べさせてもらった。
花子は料理よりもサウナの記憶の方が鮮明に残っていた。
初めて体験するロシア風お風呂の「サウナ」。
ほったて小屋に入ると、熱い蒸気が体にまとわりつく。
大人が「いい」と言うまではその熱さに耐えなければならない。
熱いその中で、汗をかいたら葉っぱが付いた草(?)小枝(?)の様な物で身体を叩かれる。
それが終わったら外に出て、水の中に飛び込み熱を取る。
と言う事を数回繰り返すのだった。
敵同士ではあったものの、民間レベルでは異文化交流の様な事をやっていた。
戦争が激戦化してくると、いよいよ食べる物が無くなってくる。
お米はとうに底をついているし、野菜だって抱負にあるわけじゃない。
一本のサツマイモを何人もで分けて食べなければならない様になって来た。
その頃になると、子供にも満足に食べる者を与える事ができなくなり、いつも花子はお腹を空かせていた。
ある日花子は「お肉が食べたい・・・」とボソリと言った。
食べ盛りの子供なので、肉無しの食事は辛かったのだろう。
そんなある日の事、花子が学校から帰って来ると、大人たちが外で大きな鍋に肉を大量に入れて美味しそうな汁物を作っていた。
花子は「肉だ~!肉肉!!」と大喜びした。
そんな花子を見て大人たちは嬉しそうに「沢山お食べ」とお椀に持ってやる。
お腹が一杯になった花子は、自分の飼っている犬のも食べさせてやりたいから良いか?と聞いた。
そして、いつもなら花子が帰って来ると足にまとわりついて来てた犬の姿が見えない事に気が付いた。
花子は「ポチ、どこいったんだろ」と言うと、大人の1人が指を指しながらこう言った。
「ポチならそこだ。美味かっただろ?」と。
花子は泣いた。何も知らないで「美味い、うまい。おかわり!」と言って食べていたのだから。
それでもこの時代ではこうするしかなかったのだ。
子供を飢えさせるよりは、例えペットでも食料にしないと生きていけない時代だった。
そしてとうとう敗戦の日を迎えたが、ソ連軍はなおも進軍してきていた。
樺太に居た日本人たちに、本土帰還命令が出された。
取る物もとりあえず、順番に護衛船に乗り込む。
花子の家族も港で順番を待っていた。
だが、花子の家族の中に、目の見えない叔母さんがいた。
その人の世話をしながら誘導するのが花子の役割だった。
他の大人たちや姉妹は運べるだけの荷物を背負い、そんな余裕が無かったからだ。
しかし、若干七歳の花子にとっては、少々の荷物と盲目の叔母さんの誘導に手間取っていた。
人々でごったがえす港だったので、大の大人でも困難であろう。
家族全員で同じ船に乗りたかったので、後ろの人に先を譲り、自分たち家族は次に来るであろう護衛艦を待つ事にした。
ここが運命の分かれ道だった。
先に船に乗り、港を後にした住人に手を振りながら「次の船で直ぐに行くから本土で待ってろ」と、後方から忍び寄るロシア軍に怯えながらの別れだった。
船がだいぶ沖に出て、その姿が小さくなり始めた頃、物凄い爆音が聞こえた。
「ズッドーン」
民間人を乗せた護衛艦から煙が立ち上る。
「ズッドーン」「ズッドーン」
何回も聞こえる。
民間人を乗せた護衛艦全てから煙が上り、その姿は消えて行った。
護衛艦の姿が消えると、そこに現れたのはソ連軍の軍艦だった。
主砲は自分たちの居る港に向いていた。
住民たちは逃げた。逃げた。逃げた。
逃げ遅れた者は大砲の餌食になり死んだ。
花子は目の見えない叔母さんの手を強く握り、一生懸命誘導しながら走った。
走りながら何度もこの手を離せばもっと早く逃げれると思った事か。
それでも花子はその手を離さなかった。
逃げたその日は、同じ方向に逃げてきた人達と山の中に身を隠し、一晩中震えながら夜を明かした。
辺りが明るくなると、ソ連の軍艦がどうなったのかが知りたくなり、みんなで港が見える丘の上まで隠れながら移動した。
軍艦はまだそこにおり、港を囲むようにいた。
あれでは次の護衛船は来れない。
住民は絶望した。
ソ連の船でない限り確実に砲弾を撃ち込まれるからだ。
見晴らしのいい丘に居ては見つかってしまうと、みんなはさっきまで居た山の中に戻った。
そこで静かに身を潜めていると、その近くに住むロシア人に見つかってしまった。
もうだめだ。殺される。そう思った時だった。
そのロシア人が、反対側の港に行けと言う。
そこにはロシアの軍艦船が泊まっているが、艦長は話の分かる人だから、話しをすればどうにかなるかもしれないと言った。
終戦はとっくに迎えている。
勿論日本が負けてだ。
この時代の常識として、戦争に負けた国は相手国の植民地になり、住民は奴隷の様なものだった。
それでも、同じ奴隷でも、この最果ての地で奴隷になるよりは、本土で大勢の仲間と一緒が良い。
そう思い、殺されたなら殺された時だ。
一縷の望みをかけて反対側の港に行った。
先程のロシア人の仲介もあり、なんと、あっさりと本土まで送ってくれることになった。
しかし、そこには条件があった。
ロシアの軍艦に一般人は乗せられない。
しかも日本人などとはとんでもない話だ。
そこで艦長が出した条件とは、日本人は艦の最下層の部屋で、誰にも見つからない様に荷物としている事だった。
この軍艦は物資を運ぶ船で、日本の港にも乗り入れる事ができた船だった。
花子たちは狭い部屋の中で怯えながら祈っていた。
「生きて本土に帰りたい」と・・・。
多少検問とかに時間はかかってしまったが、無事に本土へ帰還できたのである。
あの時、先を急ぐ様に船に乗っていたら、いまこの世にはいなかっただろう。
親切なロシア人に出会わなかったら、今もこの世に居たかどうかさえ疑問だ。
偶然と奇跡に感謝しながら、花子は今も生きている。
余談ではあるが、花子の母親は女の子しか生まれなかったようだった。
その事を近所の人からは、「お国の為にならない女ばかり生んで、この役立たず」と言われたそうだ。
しかし母親は台所で水仕事をしていた時にポツリと言った。
「女しか生まなかったからワシの子は誰一人も殺されていないわ」と。
おしまい。
時期が時期なので、戦争について少し話しましょう。
私の祖父母の住んでた所は、戦争とはほとんど無関係のど田舎でした。
家も農家だったので食べる物にも困ってはいませんでした。
たまに上空に飛んでくる偵察機はありましたが、爆弾を落とされた事も無かったと聞いています。
終戦を迎えてしばらくしたら、上空に戦闘機が飛んで来ました。
戦争は終わったはずなのに、まだ攻撃を仕掛けてくるのかと偵察機を眺めていたそうです。
すると、今まで爆弾など落とした事が無かった戦闘機が爆弾らしい何かを落下させました。
それを見た祖母は大慌てで逃げました。
しかし、一向に爆音はしません。
爆弾は不発弾だったのだろうか。
好奇心から様子を見に、落下地点へ行くと、魚取りの漁で使う様な大きな網に、食料が沢山入っていたそうです。
日本語ではない文字で書かれたそれは、大量の缶詰でした。
どう言う意図で食料を投下したのか分かりませんが、食糧危機に陥っていた町場の人達にすれば天の恵みだったと言っておりました。
満州に行ってた人から聞いた話し。
戦争が終わり、満州から引き上げる時の事だそうんです。
開拓団として行っていたその人は、日本に帰国する為に列車で移動していたそうです。
でも、その列車に日本人がいると分かると中国共産党の兵士に攻撃されたそうです。
線路を破壊され立ち往生した列車の人々は、このままでは殺されると徒歩で目的地に向かう事にしました。
食料もほとんどなく、着の身着のままの逃亡劇です。
お年寄りや子供、赤ちゃん連れの女の人も大勢いました。
体力の無い物から次々と脱落していきます。
食べる物も無いので、お母さんは赤ちゃんにお乳を上げる事も出来ません。
と言うか、お乳が出ないのです。
お腹を空かせた赤ちゃんは当然泣きます。
すると、その泣き声で敵に見つかるかもしれないと言い出す人が現れ、赤ちゃんを黙らせろと言いました。
黙らせろ=殺せ と言う事です。
みんなに迷惑を掛けられないと思ったお母さんは、そっと子供の口を塞いで、泣きながら、赤ちゃんに謝りながら殺したそうです。
自分には殺せないという人には、男の人が赤ちゃんを連れ去り、少しして戻ってきたら赤ちゃんは連れていなかった。
つまり、母親の見えない所で殺して捨てて来たのです。
満州から引き上げてきて何十年も経ってはいましたが、未だにその光景が忘れられないと言っていました。
私達は本当に何も知らない。
お腹いっぱい食べて、暇で死にそう~、などと言える平和な世の中に生まれてきて、本当に幸せだと思います。
でも逆に考えれば、その幸せに気が付いていないのは、もしかしたら不幸な事なのかもしれない。
毎年この時期になると色々と考えてしまうマイペースでした。
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