雪風 2015-06-07 23:36:40 |
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図書館を出ると雨がポツリポツリと降っていた。
大した雨じゃない。
そう思い、いつもと変わらぬゆっくりな歩調で帰路に着く。
家に向かう足取りはいつも重い。
別に家が嫌いなわけじゃない。
僕の家は大きく立派だ。当然お金持ちだ。
両親は優しく接してくれる。
そう思う。本当にそう思う。
だから家が嫌いな理由はない。
確かに妹とは仲が良いとは言えない。
というより悪い。
でも僕の妹だ。僕が家に帰ることに嫌悪感を持つほどの影響力などあろうはずがない。
だから僕が母屋でなく離れに一人住んでいることも、そして食事を離れに持っていって孤独に食べることも僕が選んだ。
僕の考えで決めたことだ。他の誰の意思でもない。
そこに妹の存在は全く関係ない。
「気楽なもんさ。」
自嘲気味に呟く。そして力なく笑みを浮かべた。
大通りで信号待ちをしていると、正面に若い母親と幼い男の子が向こう側に立っていた。
傘を持つ母親の空いた方の手をしっかりと握る男の子。
「雨が強くなってきたよ!早く帰ろう!」
元気の良い男の子の声が耳に届いた。
車が目の前を何台か通り過ぎた。男の子の言う通り雨足は少し強くなっている。
今度は母親の明るい声が聞こえた。そして母親は雨に濡れないように男の子の身体を自分に引き寄せる。
男の子の笑い声が響いた。
楽しそうな母子の光景が眩しかった。
だから直ぐに僕は目をそらす。
幼い頃、僕とお母さんも似たような関係にあった。
昔を思い出す。
でも、すぐにそれを止める。
それを思い出しても楽しい気持ちにはならない。
今の僕にはそんな想い出など無意味なことだ。
お母さんの再婚という決断は、いったい誰かを幸せにしたのだろうか?
僕に血の繋がらない父と妹が出来た。
父は金持ちだし優しい。
でも僕は幸せになったのだろうか。
わからない……。
幸せを感じるほどではない。でも不幸だと感じてもいない。
信号が変り僕たちはすれ違うが、僕はうつ向きながら歩き、母子をやり過ごした。
大通りから裏路地へと入る。
そこから暫く真っ直ぐに歩いた。
家は着々と近付く。
雨足は直ぐにまた弱まった。
家と家の間の雑然とした細い道を歩いていると、古びた平屋の家の門から突然に何かが僕の足元に飛び出してきた。
それは小さく白い何かだった。
僕はグッと爪先に力を入れて身体に急ブレーキを掛ける。
踏まずに止まることができた。
小さく白い何かが僕の足元にすり寄る。
猫だ。白い仔猫だ。
ズボン越しに暖かさが伝わってくる。
何だか言葉では言い表せない心地よさ。
足元を動き回る仔猫を見ながら僕はじっと動かず、暫く仔猫の温もりの心地よさを感じていた。
仔猫を見ている内に気づく。
左の耳の先にの方が少しだけ欠けている。
何かに噛み千切られたのだろうか。
「あらあら、ごめんなさい!」
女性の声がした。そしてサンダルを引き摺るように駆け寄って来る音がする。
それは仔猫が飛び出してきた平屋の方からだ。
音のする方に顔をむけると、30代前半くらいの美人とも不美人とも言えない女性が、華やかさの欠片もないエプロンをしてこちらに向かってバタバタと走ってくる姿があった。
女性は僕の前に来るとかがみ込み仔猫を抱き上げた。
「姿が見えないと思ったら家の外にいるなんて。駄目でしょ!」
そう言って睨んでるような笑ってるような顔をした。
「メ!」
今度は完全に笑みを浮かべながら仔猫に顔を近づけていた。
「あの……」
僕は女性に話し掛ける。
「あの、この仔猫の耳……」
女性は僕の方に顔を向け。
「ああ、気づいたら耳が千切られたのよね。この子の兄弟にやられたのかな……。この子ね、生まれつき目が見えてないみたいなのよ。だから、母猫の居場所すらわからないのよね。母猫のオッパイの場所も当然わからないから、良くお乳の出る所は他の兄弟に取られて身体も大きくならなかったのよ。もう乳離れはしているけど、あまり大きくならなくて。他の兄弟達は貰い手もあったんだけど、この子は残っちゃたんだー。仕方ないよね。目が見えなくてちゃんと育つか判らない子だから。」
気がつくと僕は言葉を発していた。
「この仔猫、僕が貰ってもいいですか?」
「……欲しいの?この子を。」
女性は意外そうな表情を僕に向けた。
「はい。……駄目ですか?」
「う~ん。駄目じゃないけど、さっき言った通りこの子は目が見えないのよ。」
「ええ……聞きました。」
「君、猫を飼ったことあるの?」
「ありません。」
「最初に飼うのは、この子のような目が見えない猫じゃない方がいいと思うよ。直ぐには無理だけど、この子の母猫はまた産むだろうから、次に生まれる子達の中の一匹を君にあげる。元気の良い子をね。連絡先を教えてくれる?生まれたら一番に電話するから。」
そう言って女性は仔猫をゆっくりと地面に下ろす。
そして、左手一つで仔猫の自由を奪っている。仔猫が動かないよう押さえつけている。
ジタバタするが、仔猫は小さく力がない。出来ることは、
ミャァ~
と細い鳴き声えで女性に抗議の意思を示すのがやっとだった。
そして右手の方は、
エプロンのポケットに手を入れ、携帯を取り出していた。
どうやら僕の電話番号を自分の携帯に登録するつもりの様だ。
あまり後先考えず行動するタイプに感じた。
電話番号を訊かれるより先に僕が口を開く。
「僕は猫が飼いたいんじゃないんです。
」
「えっ?」
僕の言葉に女性は少し驚いたようだ。
それでなのか、拘束していた手が緩み仔猫は解放された。
それでもさっきみたいに走ることはなく、女性の周りをうろうろする。
「猫が欲しいなんて思ったこと、人生で一度も無かったんです。ついさっきまでは……」
言葉を切ったが女性は何も言わない。次の僕の言葉を待っている。
「だから、この仔猫なんです……。他の猫では駄目なんです。この仔猫がいいんです。大事にします。お願いします!」
そう言って女性に向かって頭を下げる。
下を向く僕の視界に仔猫が入ってくる。僕の足元にすり寄る。
「ありゃ、この子も君を選んだか。相思相愛ね。」
僕は仔猫を抱き上げた。
顔が近くにある。目が合う。
ミャァ~
小さな口を精一杯大きく開けて僕に挨拶しているようだ。
「君、見たところ高校生でしょう。何処に住んでいるの、近所?」
女性は立ち上がり明るい声で訊いてきた。
「線路向こうです。ここからは歩いて10分程度です。」
仔猫から目を離して女性を見る。
「あら、線路向こう?君、金持ちの家の子なんだね。」
確かに、線路を向こうの僕の家のある地区は金持ちが多く、立派な家がたくさん建っている。一方この女性の家があるここら辺は雑然としていて小さな古い家ばかりだ。
返答に困る。こんな時、自分を金持ちと素直に認めていいのだろうか?
母が再婚するまでの僕の生活は誰がどうみても貧乏だった。
僕が金持ちになった歴史は浅い。こんな時、金持ちはどう答えるのがベストなのだろうか。
考えている内に女性が先に口を開く。
「あっ、ごめん!気にしないで、思ったことがそのまま口に出ちゃうのよね。よく失敗するんだ、この口は。」
笑いながら女性は頭に手を置いた。
「いえ。まあ……、父は金持ちです。」
つい口から出た言葉は、僕にとって葛藤やら自虐やらが込められている。が、女性には全く関係なく、理解出来ないことだろう。
「ごめんね、本当に気にしないで。」
嫌味を言ってしまった。
きっと女性はそう思ったのだろう。
勘違いをさせてしまい、謝らせてしまったことに少し罪悪感を覚えた。
しかし、次の女性の言葉で僕は安心する。
「良かったね、お前。玉の輿に乗れるかもしれないよ。」
屈託なくそんなことを仔猫に言った。
気にしているのは僕の方だ。
それは兎も角、心に引っ掛かることがある。
それは、
女性は、「玉の輿に乗れるかもしれないよ。」と言った。「玉の輿に乗れるよ。」ではない。
まだ完全に仔猫を僕に託そうとしていないということだ。
「この仔猫、僕は連れて帰っていいんですか?」
女性の心の内を測るためにそう質問した。
すると女性は、こう答える。
「君がこの子を連れて行くことに異論はないよ。両想いだもんね。でもね、この子はすぐここに戻ってくるのかもしれない。」
この仔猫にはモデルがいる。
幼い頃に近所で飼われていた猫が産んだ、他の兄弟より一回り体の小さな、片耳の欠けた人懐っこい仔猫。
他の兄弟は直ぐに貰われていったけど、その仔猫は残った。
でも、暫くしたら姿が見えなくなった。
貰い手がいたのか、あるいは……
ちゃんと成長したのか、
大事にされたのか、
今でも気になる。
「………。」
確かに女性の言う通りだと思う。
これは僕が一人で決めていい問題ではない。
まず僕の意思。それで全てが始まり、女性の了承。そして……
「君は親御さんの許可を貰ってもないでしょう。君はまだ子供だから親御さんが反対したらこの縁談は残念だけど成立しない。今までもよくいたのよ、ここで小さな猫を見て、可愛くて家に連れて行ったものの、親御さんから飼うのを反対されて返しに来る子達がね。」
そう、そして……
家族の賛同が必要だ。
僕はまだそれを得ていない。
それが得られなければ仔猫とは一緒にいられないことは頭のどこかでは分かっていた。でも今まで考えの表面には出てこなかった。
大事なことなのに。
ただこの仔猫を連れて帰りたい。
それだけになっていた。
そんな大事なことをおざなりにして女性に猫が欲しいと言うなんて、僕の方こそ後先考えない行動をしている。
でも僕は普段はそんな軽率なことはしない、と自負している。
僕らしくないと自分で思う。
「親御さんが飼って良いと言ったらまたおいでよ。」
何で僕はこの仔猫に執心するのだろう。
考えている僕に、そう女性が言った。
そして僕に近付くと両手を僕の前に差し出してきた。いや、仔猫の前に差し出した。
仔猫をその手に渡す。
「分かりました。家族の許しを貰ってからまた来ます。」
女性は頷くが、表情に困った色が含まれている。その理由は直ぐに女性の口から吐露された。
「許しがもらえたらね。でも、期待しない方が良いと思う。この子はさ、ハンディがあるからね。親御さんは反対する確率が高いと思う。でもきっと、反対するのは君の苦労を考えてだよ。高校生にもなって猫が欲しいと言えば、自分で面倒みるのが条件になるだろうからね。実際、元気な猫を飼うよりも大変だもん。」
女性の話を聞き、ピンッときた。
女性は、僕にもう一度よく考えるように促しているのだと。勿論、家族が仔猫を飼うことを反対するだろうという推測も本心だろうが、
本当に君は盲目の仔猫を飼う覚悟が出来ているの?
そう問われているのだ。そして考える時間を僕に呉れようとしている。
「駄目でもさ、あんまりガッカリしないで……。あたしはさ、嬉しかったよ。この子が欲しいと言ってくれる人がいて。つい顔が綻んじゃうくらいに。」
猫を抱えながら、女性は僕に笑顔を向けた。
「また来ます!」
丁寧に頭を下げ、再び帰路に着く。
暫く歩くと、
ミャァ~
仔猫が鳴き声が響いた。
足を止め振り向くと女性は見送ってくれていた。そして仔猫は女性の手の中で暴れている。
「あははー、君と離れたくないのかな!こんな大声聞いたことがない!」
女性は、暴れる仔猫を落とさないよう身体を屈めながら、離れた場所にいる僕に聞こえるように大きめの声をあげた。
僕はもう一度頭を下げ、歩き出した。
変わらず雨が降っている。
でも僕が早足で家に向かっていることとは関係ない。
早く帰ろうとするなんて、あの家に住むようになってから初めてのことだ。
急ぎながらも覚悟を決める。
盲目の仔猫のこれからの一生涯の責任を持つ。
それは想像しかできないが大変なのは間違いないだろう。
想像しかできないのだから判断は今の気持ちに任せるしかないと思う。
ならば答えは出ている。僕の歩く速度が答えをだしてくれている。
家に連れ帰ったことを後悔する日が来るのかもしれない。
でも、ここで困難であろう未来に怖じ気ずいたら、やっぱり後悔するだろう。
例え後悔しても仔猫に酷いことをしたり見捨てたりはしない。
これが僕の覚悟だ。
当然の覚悟だ。
後悔しても決断したのは僕なのだから、何の罪もない仔猫を哀しませては絶対にいけない。
「だいたい後悔するなんてことないはず……。」
無意識にそう呟いていた。
僕は走り出す。
家に着くと離れに寄ることなく、荷物を持ったまま母屋に行った。
覚悟はついている。後は家族の賛成を取り付けるだけだ。
入り口の扉の前に立つと呼び鈴を鳴らした。
母屋の鍵は父が渡してくれていたが使ったことがない。
驚くほど早くお母さんが扉を開けた。
「お帰りなさい!あなたが走ってくるのが中から見えたから……、あら!ずいぶん濡れてるじゃない。傘を持ってなかったの?タオル持ってくる。」
強い雨ではなかったが、自分が思っているよりビシャビシャの様だ。
お母さんは小走りで奥に消え、そして直ぐにタオルを持って戻ってきた。
「早く頭を拭いて。そしたら今日はご飯前にお風呂に入っちゃっいなさい。もう入れてあるから。」
僕の住む離れにはお風呂はない。いつも母屋まで入りに来ている。普段ならば食事を離れに運び一人で摂り、食べ終わったら食器を母屋に返し、お風呂を借りて離れに戻るという順番だ。
「聞いて欲しいことがあるんだ。」
お風呂に入っている場合じゃない。
「……どうしたの?」
僕を見てお母さんは不安になったようだ。顔つきで分かる。
きっと僕の表情がお母さんを警戒させているのだろう。それだけ僕は真剣なのだ。
質問には答えずに、
「お父さんはいる?結衣ちやんは?」
と聞く。
話はお母さんだけにではない。お父さんにも妹にも聞いてもらわなければならない。
結衣とは妹の名前だ。
「リビングにいるけど……いったいどうしたの?」
お母さんの顔は益々不安そうになる。何か僕が厄介な問題を持ち込こんで来たのではないかと警戒している様だ。
この家に来て間もないお母さんにとって、血の繋がる僕に厄介事を持ち込んでほしくはないだろう。
お母さんは何を想像しているだろう。僕が何と言うと思っているのだろう。
「猫を飼いたいんだ。」
そうお母さんに告げた。
お母さんにとって、これは厄介事だろうか。
それを測る為に言った。
お母さんの反応は……
「そう。それならお父さんに聞いてみないとね。」
安堵したようで、心なしか表情が和らぐ。
なんだ、そんなことだったの……
そんな言葉が聞こえてきそうだ。
僕も安心する。少なくともお母さんは反対しないと思えた。
僕は荷物を床に置き、頭を素早く拭いてタオルをお母さんに返す。
「直ぐに話してくる。」
靴を脱いで玄関に上がると、お母さんの脇をすり抜けてリビングに向かう。
少し長めの廊下を歩き、リビングに続く扉を静かに開けた。
広いリビングにお父さんと結衣はいた。
お父さんはソファーに座りゴルフクラブを磨いている。
結衣は絨毯に座り込み、足の短いガラス製のテーブルにほほづえを着きながらテレビを観ている。
二人とも扉を背にしているので、僕に気づいていない。
「お邪魔します……。あの、二人に話したいことがあるんです。」
この空間の居心地の悪さはいつものことだが、今日はいつも以上だ。
そう感じるのは、お願いをする僕の立場のせいだろう。
二人が振り向く。
結衣は僕を一瞥すると露骨に嫌そうな顔をして、テレビの方に顔を戻してしまった。
結衣の行動は僕の予想を外させない。
「おお、お帰り。しかし、お邪魔します、は無いだろう駿太君。君の家なんだから。」
お父さん明るくそう言った。
が、何ともわざとらしい。
無理やり明るい声を出しているのが見え見えだった。
結衣が僕を拒絶する姿勢でいる以上、お父さんの明るさは虚しくなるだけだ。
「済みません。」
謝る僕にお父さんは、
「まあ、いいさ。ところで話って?こっちに来て座りなさい。」
と、自分の隣のソファーに座るよう促す。
「いえ、服が濡れているんです。ソファーも濡れてしまうので、ここで話します。」
「ならばお風呂に入って着替えてからの方がいいんじゃないかな。」
「大丈夫です。早く話をしたいんです。」
僕は長居をするつもりはない。
「そうか。分かったよ。では遠慮しないでソファーに座りなさい。立ってては話なんて出来ないよ。」
とにかく座らないと話は進まない様だ。
仕方なく濡れたままだがソファーに掛ける。
結衣の遠慮ない溜め息が部屋の中に響く。
結衣の横顔が見える位置に僕は来ている。不機嫌そうな表情だ。
そこへお母さんが表れる。部屋に入ってきてお父さんの隣に座った。
「実は仔猫を飼いたいんです……いいですか?」
自分でも知らぬ間に下を向いていた。
どんな判決が下るのか。
緊張を感じる。
しばしの沈黙の後、
「いいんじゃないかな。」
と、お父さん。
僕は顔を上げる。
「いいじゃないか。駿太君が飼いたいなら反対する理由なんかないよ。」
お父さんはニコやかにゴルフクラブの手入れをしながら言った。隣ではお母さんはホッとした表情があった。
「ありがとうございます。」
僕は頭を下げた。そしてハッとする。肝心なことを言っていなかった。
仔猫は目が見えないことを。
「あっ!実はその仔猫は……」
僕の言葉を結衣が遮る。
「嫌よ!あたし。反対!」
その場が凍りつく。
お父さんの顔もお母さんの顔も固まる。
僕は誰にも分からないように溜め息をついた。
反対する可能性が一番あるのは結衣だと思ってはいた。
だが、反対するより無関心なのではないかと思っていた。どうでもいいと考えるのではないかと楽観していた。
僕に対する結衣の言動はだいたい予想が当たるのに今回は読み違えていたようだ。
少しの沈黙後、お父さんが結衣に訊く。
「何で反対なんだ?理由は?」
厄介なことなになった、そんなふうに思っていることだろう。
「だって、あたしも前から仔犬が欲しかったんだもん。家に猫なんかいたら仔犬が可哀想じゃない。」
強気を全面に押し出す勢いで答えた。しかし、ずっと結衣はテレビから目を離していない。僕に背を向けたままだ。仔猫を飼うことを絶対に拒否するという姿勢だ。
「そんなこと今まで言ったことなかったじゃないか。何で急にそんなこと……」
お父さんは明らかに困っている。
「こいつだって急に言ったじゃない。大体こういった話は急なもんでしょう。どうしたら急にならないのよ。」
「こいつ」とは、もちろん僕のことだ。
お父さんは少し時間だが思案してから口を開く。
「お兄さんに向かって -こいつ- なんて呼ぶのは感心しないな。それから、駿太君が仔猫を飼うことに反対する理由は何もない。駿太君は猫を飼えばいい。結衣が仔犬を飼うことにも反対しない。が、猫と犬を一緒に飼うことが出来ないと判断したのならば結衣が犬を飼うことを諦めなさい。先に話をしてくれたのは駿太君だ。」
意外だと思う。普段お父さんは結衣を甘やかしている。結衣の言うことに反対するところは見たことがない。僕にいつも気を使って接しているのも確かだが、結衣より僕の気持ちを通そうとするとは考えなかった。
謝りながら仔猫を飼うことを今回は諦めて欲しい、と僕に頼んでくる。
きっと、そういった展開になると思っていた。
あの仔猫を家に連れて来ることができるかもしれない。
その期待が高まってくる。
結衣はテレビから目を離しお父さんを睨む。
それは誰もが怯みそうな怖い顔だった。
「ふーん、お父さんはこいつの味方をするんだ。」
そして声を荒げる。
「あたしはこの家にずーっと住んでるだから!新参者が遠慮するべきよ!あたしが仔犬を飼うわ!」
結衣の喚きに、お母さんは顔だけでなく全身が固まってしまった様で微動だにしない。
「結衣!」
お父さんがたしなめる様に結衣を牽制した次の瞬間、結衣は立ち上がる。
「だいたい先に話を出しのは、あたしよ!仔犬を飼いたいと、あたしが先に言ったんだから!」
突然の結衣の言動にお父さんは言葉に詰まるが、すぐに気持ちを立て直して落ち着いた声で言う。
「そんな話聞いていないな。いつ、誰に言ったんだ?言ってなんかないだろう?」
結衣は苛立った顔をして、お母さんを指差した。
「この人に言ったわよ。もう一週間くらい前に!」
お母さんは口を開けて驚いた表情をした。
結衣はお母さんの方に体を向けて、
「お父さんに、仔犬が飼いたいと言っておいてって頼んでおいたじゃない!何でお父さんに話しておいてくれなかったのよ!お陰でお父さんに怒られたじゃない!」
と、物凄い剣幕で詰る。
お母さんは動揺しながら
「ごめんなさい……」
と声を絞り出した。
それに対して結衣は、 ヒステリックにお母さんを責め立てた。
「謝ってほしくなんかないわ!何でお父さんに話しておいてくれなかったのか理由を訊いているの!何で!」
明らかにお母さんは困惑している。すぐに言葉は出ないが、やがて、
「ごめんなさい……なかなか話すタイミングかなくて……本当にごめんなさいね……」
と、詰まりながらそう言った。
お母さんが結衣に、そんな頼まれごとをされていないことは明確だった。
結衣はお母さんを疎ましく思っているのは間違いない。
これまで、新しいお母さんを受け入れようとは全くしていない。
だから仔犬が飼いたければ、お母さんではなくお父さんに話していただろう。
つまり、結衣は嘘をついている。
だけど、お母さんは結衣に謝罪の言葉を口にした。
そんなお母さんに畳み掛ける。
「タイミングがなかった?……そう、ならば今すぐ言ってよ。遅いけど今がタイミングよ!あたしが仔犬を飼いたいと前から言っていたことを、ちゃんとお父さんに……ううん、こいつに言って!そして、こいつが仔猫を飼うのを止めさせて!」
結衣はやっと僕を見た。その目は敵意以外に何も感じなかった。
やや沈黙があった後、お母さんが下を向きながら蚊の鳴くような声で言葉を絞り出した。
「結衣ちゃんから仔犬を飼いたいと相談されていたの。ごめんね、早く言わなくて。」
そんなお母さんの姿を見て僕は心の痛みを感じる。
お母さんは哀しそうに僕を見た。そして続ける。
「いろいろ忙しくて、言う機会がなくて……。全部お母さんが悪いの。本当にごめんなさい……。だから、駿。……ごめんね、猫のことは……」
そこまで言って、また下を向き黙ってしまった。
僕の目に涙が溜まり始めるのを感じた。
こんなにお母さんを苦しませてしまうとは思わなかった。
仔猫と一緒にいたい思うことが、こんな事態になるとは考えていなかった。
しかし、それ以上に思うことがある。
心の中でお母さんに問いかける。
この再婚はお母さんを幸せにしたの?
「わかった!?そういうことだから!猫は飼わないでよ!」
結衣は勝ち誇ったように言った。
「結衣……」
お父さんは少なからず結衣の態度に立腹しているのだろう。険しい表情をしている。だけど言葉が続かない。
叱る気はないか……。
そう思う。
むしろ、僕が引くのを待っているかもしれない。
そうすればこの問題は解決する。この家族の新たな問題は浮かび上がってしまったが、少なくとも目の前の事態は幕引きができる。
「ごめんなさい、我が儘を言って。仔猫のことは、もういいです。」
涙が僕の頬を流れた。
もう諦めるしかない。自分の主張をもう一度する立場には僕はない。
結衣の言う通り僕は新参者だ。
そして、これ以上お母さんに辛い思いはさせられない。
お母さんは、結衣に気を使うあまり実子の僕に我慢を強いるしかない程にこの家庭内で弱い立場だ。
そんなお母さんを苦しめてしまった。
それを思うと哀しみが強まり、僕の頬をまた涙が流れていく。
「何よ、泣き脅し?男のくせに、みっともない。そんな卑怯な真似したって猫は飼わせないんだから!」
僕の涙を見た結衣は、そう吐き捨てるように言うと、再び座ってテレビを見始めた。
僕の心はそんなに強くない。そして優しくもない。結衣の今の言葉を聞き、心に暗い思いが生まれた。結衣への暗い思いが。
僕は、お父さんに向けて頭を下げて立ち上がる。
もう、ここには居たくない。早足で扉に向かう。
「駿太君、待ちなさい!」
お父さんの声が背中越しに聞こえるが、
「失礼しました。」
と言い放って早足で扉に向かった。
一刻も早くこの場を去りたかった。
はやり、ここは居心地が悪いし、良いことがあったためしがない。
早く独りになりたい。
玄関で靴を履いていると、お母さんが追いかけてきた。
「どこに行くの!?雨に濡れたんだからお風呂に入っていって!」
その声は物悲しさを多分に含んでいた。当然、心境がそうさせているのだろう。
では、その心境とはどんなだろう。
結衣の嘘を嘘と言えなかった後ろめたさ。
そして、嘘をついている結衣を庇うことで、僕に猫を諦めさせた後ろめたさ。
つまり、後ろめたさだと思う。
「お風呂はいいや。猫のことを断りに行かなくちゃ。」
なるべく明るい声を出そうとしたのに、沈んだ声が出てしまった。
僕が元気を出さなければ、お母さんは自分をさらに責めてしまうのはよく解っていたのに。
だけど、僕には余裕がなかった。
「風邪をひくから!お風呂に入っていきなさい!」
お母さんは少し声を荒げたが、怒りがそうさせたのではないだろう。悲痛な思いからだ。
それが解っても、この家を出ることを止められなかった。
「大丈夫!」
そう言い残して玄関を出た。
そして、直ぐに走り出す。今はこの家から一刻も早く遠ざかりたかった。
僕のこの態度がお母さんを哀しませてしまうことは十分に解っていた。
だけど、結衣のいる家のお風呂にのんびりと浸かる気になるほど、僕の心は鈍感にできていない。
だけど、お母さんを傷つける僕自身の行動が、さらに自分を苦しめる。自分を責める。
負の感情が渦巻いている。
そう感じながら門を出て、暫く走った。
雨はやんでいた。
疲れたわけでもないが、速度を落とし歩くことにした。
「荷物を母屋に置いてきちゃった。」
少しばかり乱れた呼吸の合間に独り言が出る。
お母さんには、猫を貰うことを断りに行くと言ったが、本当はずくに行かなくても良いことだ。
それどころか、飼えないならば別に断りを入れずにそのままにしても良いのだろう。
何故なら女性は、
「親御さんが飼って良いと言ったらまたおいでよ。」
そう言ったのだから。
猫を飼うことはできない。
だから行く必要はない。
さて、何処に行こうか……
そう考えた。
行くあては全くない。
家を出て適当に突き進んだ結果、最寄りの駅方面に来ている。
お腹が空いているわけではなかったが、駅前のファーストフード店に行くことにした。
この後、僕はいづれ家に帰る。しかし、時間をおかなければ帰る気にはならないだろう。
時間潰しをする場所が他に思い当たらなかった。
大きな家の並ぶ住宅街を駅に向かって行くと、帰路を急ぐ人達とすれ違う。
そんな人達を見て、家とは帰りたくなる場所であることが普通なんだろう、なんてことを考える。そして思い出す。
お母さんが再婚する前、僕は小さな家賃の安い借家に住んでいたが、その時は僕も家が心地良い場所だったことを。
そう。
居心地の良い場所だった。
お母さんは忙しくあまり家に居なかったけど、寂しくはなかった。女手ひとつで僕を育てるために頑張ってくれているのだから寂しく思うはずがない。
それに、貧乏暮らしで欲しい物はなかなか買ってもらえなかったけど、家の中で誰かに気兼ねする必要はなかった。
前の暮らしに特に不満はなかった。
お母さんが再婚を口にした、あの日のことを僕は思い出す。
「実はね、再婚しようと思うの。」
お母さんがそう切り出したのを覚えている。
反対する気持ちは全く無かったが、突然の告白で何を言えばいいのか解らず少しの間沈黙してしまった。
お母さんは、黙っている僕の顔色を伺っていた。反対されるかもしれない、という不安があったのだろう。
早くお母さんを安心させようと、努めて明るいを出した。
「おめでとう!」
それが選び抜いた言葉だった。
「気が早いわね。まだ考えてる段階よ。」
お母さんは安堵したらしく笑った。
お母さんを安心させることができてホッとした。
あの頃、お母さんが再婚することで状況がここまで変わるとは想像していなかった。
自分は新たな家族から疎まれるかもしれない。居場所がなくなるかもしれない。
そんな考えが全く頭をよぎらなかった訳ではない。
だけど、その時はその時だと思った。
そうならば高校を卒業したら家を出ればいいや……
そんなふうに軽く考えていた。
もちろん、こんな状況なので卒業後は家を出るつもりでいる。
だけど、卒業までの数ヵ月間がこんなにも長く感じるとは思わなかった。
僕は時間の流れのスピードを甘く見ていた。
長い……
そう思う。
新しい家は僕にとって帰りたくなるような場所ではなかった。
歩きながらも、マイナスな思考が僕に襲いかかってくる。
突然、ふと思う。
僕は何て愚か者だろう。そして、自分勝手だろう。
自分が帰りたくもない家に仔猫を連れてこようとしていた。
そんなことをして仔猫の幸せになるとは思えない。
だって僕にとって家は楽しい場所ではないのだから。
なのに仔猫にとっては良い場所と考えるのは都合が良すぎる。
自分が好きな場所でない所に仔猫を連れてくるのは自分のエゴに他ならない。
だいたい僕は何故、仔猫を家に連れてきたかったのだろう。
冷静に考えれば直ぐに答えは出る。
孤独が嫌だったから……だ。
この答えを出すと自分のプライドが傷付くことは、頭のどこかで分かっていたのだろう。僕は自分が不幸せだと感じていることを否定したかった。だから今まで考えようとしなかった。
僕の弱さだ。
寂しさを紛らすために、自分の為に仔猫を犠牲にしようとしていた。
僕は女性にこう言った。
「猫が欲しいなんて思ったこと、人生で一度も無かったんです。」
と。
猫に興味がなかったのに、何故あの仔猫にはここまで心惹かれているのか?
これも簡単に答えが出る。
タイミングよく僕の足に擦り寄って来たからだ。
誰かに必要とされたい時に、偶然にも仔猫が僕のしてほしいことをしてくれた。
そう、
仔猫が無条件に僕という存在を受け入れてくれた気がした。
だから仔猫と一緒にいたいと思ったのだ。
仔猫に教えて貰った。僕は不幸なのだ。少なくとも不幸を感じている。
仔猫の飼い主である、あの女性は良い人だと思う。猫を飼い慣れてもいるようだし、仔猫にとってあの家は生まれた場所であり、盲目の仔猫にとって慣れたあの家にいる方が良いはずだ。僕が家に連れかえったら、仔猫は新たな空間を視覚抜きで慣れていかなければならない。
それは大変なことだろう。
僕は僕の為に仔猫を家に連れて行こうとした。
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