雪風 2015-06-07 23:36:40 |
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入浴中にお母さんは着替えを持ってきて、脱衣場に置いてくれていた。
お風呂を出た後、それを着て廊下に出ると、誰かの階段を降りてくる音が聞こえた。
降りて来たのはお母さんだった。いつの間にか二階に上がっていたようだ。
リビングからは誰の声も聞こえなかった。灯りがもれているので、お父さんか結衣はリビングにいるのだろう。
「ご飯食べるでしょう?」
入浴前と同じことをお母さんは訊いてきた。
「うん。離れに持っていくよ。」
そう答えた。実は家の中に入る前は、遠慮をやめてこの母屋で食べていこうと考えていた。が、お父さんと結衣の言い合いとお母さんの意味深長な笑みで気が削がれてしまっていた。
「ご飯、温め直してくるわね。離れにはお母さんが持っていくから先に戻ってて。」
特に違和感がない自然な様子でお母さんはリビングに入っていった。表情もいつも通りに戻っていた。
でも不自然だった。
お母さんが離れに食事を持ってくることは今迄に一度もなかった。
僕はいつも食事を自分で運んだ。
お母さんは僕に遠慮をしているのか離れにあまり近づくことはなかった。
何か話があるのかもしれない。
そう考え、不安が増した。
仔猫を飼いたい。
その言葉を僕が口にしたことで、今日この家族の心はそれぞれ大きく揺れてしまった。
お母さんの心の揺れはどれ程で、何を感じたのだろうか。
今迄にない行動を取るお母さんは僕に何を言うのだろう。
母屋を出て離れに戻る。
お母さんが来るまで、そんなに長い時間は掛からなかった。
だけど、お母さんが何を言うのか色々な予測が頭に浮かび、それがことごとく辛い想像で、お母さんが離れの扉を開けるまでに僕はすっかり考え疲れしてしまっていた。
ベッドに寝転がっていると、お母さんは食事を持ってやって来た。そして、テーブルに食事を置いた。
この離れは玄関と十畳の部屋とトイレしかない。
十畳の部屋には、僕が寝転がっているベッド、タンスと本棚と勉強机が部屋の端に置いてある。
そして、部屋の中央にテーブルがあり椅子が四脚ある。
四脚あっても僕しか使用しないのから、いつもならば一つで充分だ。
今夜は普段使われていない椅子にお母さんが腰を掛けた。
「少し話をしてもいい?」
僕は起き上がり、食事が置かれたお母さんの正面の席につく。
「どうしたの?」
お母さんが何を言い出すのか不安になりながら、努めて穏やかな顔をしながら訊いた。
「食べながら聞いて。」
お母さんの表情を伺うが読み取れない。笑みもなければ深刻そうでもない。普通の表情としか表現のしようがない。
お母さんも僕同様、表情を作っているのだろうか。
「いただきます。」
とにかく食べ始めるしかない。
暫く僕が食べる様子をただ見ていたお母さんが口を開く。
「猫のことだけど……」
さて、お母さんは何を喋り出すのだろう。
「うん……。」
「さっき、お父さんと話してね……」
「うん……。」
「お父さんが、あなたが飼いたのだから飼うべきだって……」
「………。」
「あなたはこの離れで一人だし、飼ったらいいんじゃないか、って。うんん、飼った方が良いだろうと言ってくれたのよ。」
お母さんは僕の顔を覗き込むようにしながら言った。
「結衣ちゃんは何て言ってるの?犬が飼いたいんでしょう?と言うか、僕が猫を飼うのは反対なんでしょう?」
お母さんは少しだけ困った顔で首を振る。
「そうね。結衣ちゃんは反対なんでしょうね。でも、お父さんは結衣ちゃんを説得してくれるって。だから大丈夫よ。」
僕の心は揺れた。
仔猫と一緒にいられるかもしれない。
そう思い、心が揺れた。
一緒にいたい。
結衣の説得はまだだけど、僕は結衣に対して卑屈にはならないと決めた。
「ありがとう、お母さん。」
そう口にした瞬間に思い起こす。
仔猫にとって、この家に来ることは幸せなのか?
仔猫には視力がない。
僕は昼間は学校に行く。
その間、仔猫は離れで独りで過ごすことになるが、それは危険度が高い。僕がいない間は母屋に預かってもらうしかない。飼うには家族の協力が必要不可欠だ。
仔猫を飼うこと。それは僕だけの問題ではないのだ。
あの仔猫を積極的に飼いたいと思うのは僕だけだ。
お父さんとお母さんは反対していないだけ。
結衣はお父さんに説得されても、協力は望めない。
僕の意見を通して仔猫を飼えば、結衣は確実に面白くないだろう。
頼めばお母さんは協力してくれるとは思う。
でも、結衣に睨まれながら仔猫の世話をさせるわけにはいかない。
僕は結衣に卑屈にはならない。遠慮もしないと決めた。
でもお母さんはその覚悟はあるだろうか。
僕の様に離れにいるのではなく、母屋で結衣と一緒に暮らすお母さんは、僕とは状況が違う。
「でももう、仔猫のことはいいんだよ。」
そう僕の口は言った。
「どうして?」
お母さんは、小首を傾げる。
「仔猫は目が見えないんだ。簡単な覚悟では飼えないよ。僕はよく考えもしないで仔猫が飼いたいと言ってしまった。そのせいで、お母さんに迷惑をかけてしまったと思っている。」
最初から仔猫を飼うのは無理があったということに気づくのが遅かった。
お母さんは僕の言葉を聞いて、表情に哀しそうな影を仄かに出す。
僕は何か間違えたのかもしれない。でも、それは考えないことにした。
「それより、お母さんに聞きたいことがあるんだ。」
「何?」
「お母さんはお父さんのことが好きで再婚したんだよね。」
お母さんは笑顔になる。しかし、その笑顔はどう表情を出すべきなのか困った笑顔だろう。
「何よ、急にそんなこと。恥ずかしいわ。」
「ごめん。でも聞きたいんだ。」
「そんなこと聞くまでもないでしょう。決まってるじゃない。」
お母さんははにかみながら答えた。
その答えで充分だ。その本当に恥ずかしそうな表情で理解できる。
だからこれから僕は思う様に生きられる。
これからお母さんはお父さんと生きていく。そして、結衣の母親になるのだ。
そういうことだ。
「高校を卒業したら独り暮らしをしようと思うんだ。」
お母さんがどんな反応をしても揺るがない覚悟で言った。
しかし、僕の覚悟とは裏腹にお母さんはあっさりと言う。
「それは良いことね。男の子は家を出る逞しさがないと、これから大変だからね。」
この言葉を聞き拍子抜けした。
下手をすると泣かれるかと思っていたので安心はしたが、寂しさも感じた。
僕の複雑な心境を察したのか、お母さんは言葉を続ける。
「あなたには悪いことをしたと思ってるのよ。お母さんの再婚のせいで、一緒にこの家に来るとこになったけど、正直に言ったらあなたにとって居心地は良くないでしょう?ごめんね。」
「………。」
「だからね、あなたが家を出るのは良いことだと思うの。お母さんに付き合わせて辛い思いをさせてるから。あなたが家を出ても親子じゃなくなるわけじゃないし。でもね……」
そこでお母さんは言葉を切った。
「何?」
「家を出てなにをするの?働くの?」
「そのつもりだよ。」
当然だとばかりに答える。
「進学して、独り暮らしをするという手もあるでしょう。大学に入ってアパート生活してる人なんてたくさんいるわ。大学寮だってあるんでしょう。それは考えないの?家を出ることには変わりないんじゃない?」
お母さんは僕にどうしても進学をしてほしいようだ。
そう感じる。
「それにはお金が必要だから……。」
お母さんはやはり僕の進学の為に結婚したのだろうか。
それを考えてしまう。
「あなたが、お父さんの援助で進学するのが嫌なのは薄々分かってるわ。結衣ちゃんの存在かそうさせているのもね。」
お母さんは核心をつく。僕の考えなどお見通しだったようだ。
「だからね、お母さんはお父さんにお願いしたの。あなたが進学したい気持ちが有ったらお金を出してほしいと。でも、そのお金は必ずあなたが返すから、ってね。お父さんは返す必要はないと言ってくれたけど、それではあなたは承諾しないでしょう?」
僕は頷く。
「お父さんには、お金は絶対に返すということにしてもらったの。もし、あなたが返さなくても、お母さんが必ず返すと言ってね。」
「………。」
「それからね、進学したとし独生活費が必要でしょう?生活費の為にアルバイトばかりして勉強が疎かになったら本末転倒じゃない。だから、お母さん、あなたが進学したらパートに出ようと思って。あなたの生活費を送るわ。そのお金は返すことないわよ。」
お母さんは笑ってそう言った。
そんなお母さんを見ながら思う。
僕はそんなに勉強したかったのかな。
と。
でも、お母さんは僕に勉強を続けて欲しいと思っていることはよく分かる。
その気持ちを裏切る術を僕は持っていない。しかし、僕は就職するつもりでいた。
「ありがとう、お母さん。でも僕は就職しようと決めたんだ。だいたいお母さんにそこまでさせられないよ。」
「そこまでって?お母さんほずっと働いてきたのよ。知ってるでしょう?再婚してから家の仕事ばかりで退屈していたのよ。あなたのお陰で外で働く良い口実ができるわ。お礼を言うのはお母さんね。ありがとうね。だいたい、あなたは成績がいいんだから勿体ないわよ。」
さっき以上の笑顔でお母さんにそう言われてしまった。
もう諦めるしかない。
「考えてみるよ。」
もう、お母さんが僕を進学させるために再婚したのか違うのか考えても仕方ないことだった。お母さんには強い信念があるのだ。
僕はきっと進学するのだろうと思いながらごはんを食べた。
僕は進学を心に決めた。
そして一ヶ月が過ぎた。
進学を決めたことは、就職しようと考えていた僕にとって大きなことだったが、特に生活が変わることではなかった。
学校に行き放課後になると図書館に寄り勉強する。そして、家に帰り母屋でお風呂に入り、食事を離れで食べる。
それを繰り返す日々。
そんな中で少し変わったことは図書館から家への帰路だった。
大した距離ではないが以前より遠回りしている。
あの女性の……いや、あの仔猫の家の前を通るの避けた。
何となくだが後ろめたさがあった。
それを感じる必要がないとは分かっていた。
あの女性は、僕が仔猫を飼うことはできないと確実に予想していたのだから。
だから避けるのは僕の気持ちの問題だろう。
後ろめたいのは僕の心の中にあるだけのことだ。
それでも僕は仔猫の家の前を通ることをしてこなかった。
しかし、突然に今日僕は仔猫の家の前を通ることになった。
それは僕の不注意と言えるかもしれない。
僕は考え事をしながら図書館を後にした。
前に受けた模試の結果が良く、第一志望の大学を変えても良いのではなかろうかと思案していた。
ここ一ヶ月は帰り道を変えていたが、考えを巡らしていた為に、そちらに気をとられて、何も考えずに馴れた道を通ってしまった。
気がついた時には仔猫の家のそばに来ていた。
引き返そうか。
そうも考えたが、やはり進むことにした。
もし女性に会うことができたら、挨拶をして、やはり仔猫を飼うことは出来なかったと話せばいい。
それだけのことだ。
それに、ひと月振りにここを通る僕が、たまたま女性が門を出てくる所に鉢合わせる確率はどれ程だろうか。
きっと、女性の顔を見ることなく僕は通りすぎる。
仔猫の家を間近にしてそんなことを考えながら歩いていると、何と女性が門を出てきた。
見事に鉢合わせた。
僕の足が止まる。
女性はまたもや華やかさの欠片もないエプロンをしていた。
女性は僕の姿を認めると、
「やっぱり君が来ていたんだ!」
と笑顔で言った。
笑顔だったが、どこか哀しそうな感じがした。
女性は僕がこの家の前を通るのが分かっていた口振りしをている。
「やっぱり……とは、どういうことです?」
挨拶もなく会話が始まった。
「あの子が珍しく鳴き声出すから、君が来たんじゃないかと思ったの。だから、やっぱり、なのよ。」
あの子とは、あこ仔猫のことだろう。
しかし、猫が鳴き声をあげるの珍しいのだろうか。飼ったことのない僕には解らない。
そんなふうに思っていると女性が、
「ねえ、少しでもいいから時間ない?」
と訊いてきた。
「えっ?ええ。時間ならありますよ。」
「良かった。なら、家に寄っていって。あの子に会っていってくれる。」
仔猫に会えるのは嬉しかった。
一ヶ月も経つと、どれ程大きくなっているのだろう。
そんなことを考えていると、まだ仔猫が飼えないことを謝罪していないことに気付く。自分で言い出したのだから謝罪はしっかりするべきだ。
「あっ。はい。そうだ、あの仔猫を飼いたいと言ったのに、都合で飼えなくて……。そのまま何も言わずにご無沙汰してしまい、済みませんでした。」
僕が頭を下げると、
「ああ、大丈夫よ。そんなことは気にしないで。さあ、入って。」
女性は手招きをして僕を家の敷地内に誘った。
それに応じて門をくぐると、狭い庭があり、奥には小さな古い平屋の家があった。
女性は縁側を指さし、
「あそこに座って待っててくれる。直ぐに連れてくるから。」
そう言って自分は玄関の扉を開けて中に入っていった。
女性が指した辺りに座る。
過ごしやすい季節になっており縁側に居ても、もう寒くなかった。
縁側に座る僕の背中側は障子戸になっていて、家の中の灯りが漏れている。
暫くすると灯りだけでなく声も漏れてきた。
女性の声だ。
「ありゃ、お前。こんなとこまで這ってきてたんだね。そんなに体を動かしちゃ駄目じゃない!」
心配そうな声だった。
それに、女性の
…這って来てたんだね…
と言葉が気になった。
仔猫の体調は良くないことを察した。
家の中から上品とは言い難い足音がこちらに近づいてくる。足音は女性のものだろう。
後ろの障子戸が開き、僕は座ったまま振り向く。
雑然とした部屋を背に女性が仔猫を抱いて立っていた。
仔猫は……ぐったりとして女性の腕の中にいた。
明らかに弱っているのが分かる。
仔猫は一ヶ月前に会ったあの日から全く大きくなっていない。
これでは鳴くことは無いだろうと納得できる。
だが、仔猫は僕を真っ直ぐに見ていた。
そして僕の方に片手を伸ばす。
いや、猫なので片方の前足と表現するべきかもしれない。だが僕には、仔猫が僕に向けて手を差し出している様に見えた。
差し出されたその手が弱々しくて、何だかとても哀しくなった。
涙が込み上げてきた。
僕は振り向いたまま動けなくなってしまった。
ミャア~
仔猫が力ない声で鳴く。
両手を差し出してくる。
あわてて立ち上がり女性の前に立つ。
「さあ、泣いてないで抱っこしてあげて。君をずっと待っていたんだから。」
女性が仔猫を受けとるよう促してきた。
抱いたら壊れてしまいそうな感覚に襲われ、おそるおそる仔猫を受け取る。
僕を見つめる仔猫の瞳が無垢で心が痛かった。
「僕を待ってくれていたんですか?この仔猫は……。」
女性は頷いて言う。
「そうだと思うよ。この子、まだ動けた頃は、あの日に君と会った時間ごろになると家の外に出てたからね。」
哀しみの強さが増す。哀しみは後悔のせい。
涙がボタボタ落ちて仔猫の身体に当たる。
ごめんね……ごめんね……
何度もそう呟きながら涙がとまらなかった。
「少しの間さ、この子をそのまま抱っこしてあげていてよ。」
女性は、仔猫を泣きながら抱いて立ちすくむ僕に向かってそう言うと縁側に座った。
「君も座ってよ。」
涙は止まらない。立ちすくむしかない。
「僕は……この家の前を通ることを避けていたんです。」
「そうだろうね。その気持ち、分かるよ。飼いたいと言いながら飼えなかったら、あたしと顔を会わせるのは躊躇するのは当然だと思うよ。」
女性は人を否定することをしない。
そんな人何だと思う。
僕の心がわずかに救われる。
そして、振動がないように仔猫を抱きながら女性の隣に座った。
「ねえ……。」
「はい……。」
「この子さ……。」
「はい……。」
「あまり長くないと思うの。」
「はい……」
それは僕にも解った。
「だから、またこの子に会いに来てほしいのよ。……なるべく間をおかずに。」
仔猫にはそんなに時間がない。
日数を空けてしまうと、もう会うことは出来ない。
そういうことだろう。
「また明日来ます。これから毎日来ます!」
女性は微笑む。
「ありがとう。長い時間いろとは言わないからさ、この子に少しでも顔を見せてあげて。」
実際には僕の顔は見えないだろうが、僕は頷く。
「そうします。」
僕は目線を下に向けて仔猫を見る。
首を捻って僕を見ている。
黒い大きな瞳が僕を見ている。
「きっと、君の顔は見えてるんじゃないかな。」
女性が僕の心を見透かしたかのような言葉を口にした。
「ミャア~」
小さな声で一声鳴くと、仔猫は僕の腕に頭をもたれて、そのまま寝てしまった。
「君に会えて安心したのかね。いつもより穏やかな顔して寝てる。」
暫くそのまま仔猫を抱きながら女性の隣で座っていた。
夜風が出てきて気持ち良かった。
女性は何も喋らず、僕も言葉を発しなかった。
家に帰ると、いつも通りお風呂に入り、離れで食事を摂った。
その後、本来は勉強を始めるが今日は違った。
僕は探し物をしていた。
女性の家からの帰り際、女性は家の中から小さなオリーブの枝で編まれた籠を持ってきて、仔猫をそこに寝かせるように頼んできた。
仔猫がほとんど動けなくなってからは、その籠の中で仔猫は過ごしているという。
「この子の寝床よ。」
女性はそう言っていた。
何枚かフワフワしたタオルが敷かれてあり、居心地は良さそうだった。
が、一番上に置かれていたタオルの色が仔猫の身体と同じ白い色で、何だか味気なさを感じた。
タンスの中をあさると、淡い水色のタオルがあった。
探し物が見つかった。
ビニールに入ったままのまだ使ってないタオル。
これを買ったのは、まだ小学生の時だった。
お母さんの離婚前。
僕の本当のお父さんとお母さんと三人で行った最後の家族旅行で買ってもらった。
海の近くの土産物屋で僕がねだった。
「こんなものが欲しいのか?タオルだぞ。」
お父さんが笑う。
「しかも無地じゃない。」
お母さんも笑っていた。
それが嬉しかったのを鮮明に覚えている。
もうお父さんが離れていくのは分かっていた。何も聞いていなかったけど察していた。
三人で行く最後の旅行。
僕は子供心に、何かをねだらないといけない気がしていた。
何故そう思ったのか今の僕には解らない。
もしかすると何か欲しいと言えば二人が喜ぶのではないかと考えたのかもしれない。
でも土産物屋に僕の欲しいと思う物はなかった。一生懸命探したけどなかった。
きっとあの時の僕に欲しいものなど無かったのだと思う。
ただお父さんとお母さんが仲良くしている姿を……いや、仲良くなくても険悪ではない光景が欲しかった。
だから二人が笑ってくれて嬉しかったのだろう。
欲しくもないが買ってもらい、使うこともなく今日までタンスの中に眠っていたタオル。
今はあの時にねだって良かったと思う。
だって、あの仔猫にとても似合う色だ。
鞄の中にタオルを入れ込む。
明日は図書館に寄らずに、女性の家に行こう。そして、このタオルをあのオリーブの枝の籠に敷こう。
そう思った。
翌日
放課後に学校を出ると、真っ直ぐに女性の家に向かった。
早足で図書館を通りすぎる。
女性の家に着く前にタオルを取り出した。
僕に出来ることは仔猫にタオルを使ってもらうくらいのことだが、早く仔猫に何かした形が欲しかった。
女性の家の門まで来ると息が切れていた。それなりの距離を早足で歩いてきたので当然だろう。
門の前に立ち、耳をすます。
特に何も聞こえない。
期待外れを感じた。
仔猫は僕が近くに来ると姿を見せなくても鳴くのではないかと少しだけ楽しみにしていた。
昨日はそうだったと女性は言っていた。
が、今日は違うらしい。
仔猫は眠っているのかもしれない。
門から顔だけ出して中を伺う。
女性がいた。
縁側に座っていて、籠ごと仔猫を膝に乗せていた。
門をくぐると女性が僕に気付く。
「お帰り。約束を守ってくれたね。」
そう言って微笑んだ。
「お邪魔します。……実はタオルを持ってきました。その籠の中に敷いて貰おうと思いまして。」
女性の視線が僕のタオルを持っている手にいく。
「ありがとう。良かったね、お前。」
下を向き、仔猫にそう話掛ける女性。
仔猫は動かない。
縁側に歩いている途中に僕は雫を見た。
下を向いたままの女性と籠の中の猫との間に一粒の涙の雫を見た。
嫌な予感がする。
「眠っているのですか?」
歩み寄りながらそう訊くと、
「うん。眠ってるよ……。」
と短い答えが返ってきた。
女性の隣に僕は座る。
仔猫は目をつむり小さな口を空けたまま微動だにしない。
「!」
言葉が出なかった。
女性が泣き笑い顔をしながら
「そのタオルいい?」
そう言った。
タオル渡すと、女性は仔猫を片手てながらも大事にそうに持ち上げてタオルを敷き、元に場所に仔猫を戻した。
そして泣き声で呟く。
「綺麗な水色だよ。本当に良かったね。……お前、……まるでお空にいるみたいだよ。」
全てを悟った。もう何も訊く必要はなかった。
「でもさ、そんなに早くお空にいかなくて良かったのに。もう少しゆっくりしていけば良かったのに……。」
その後、言葉を発しない女性の隣で僕は下を向きながら座っていた。
ほどなくして僕は意識せずに呟く。
「ごめんね、もっと早く来るべきだったね。ごめんね。……そうじゃないか。あの日、家族の反対を押し切ってでも家に連れていけば良かったね。本当に、本当にごめんね。」
女性は首を振る。
「謝らなくていいよ。確かにこの子、君を待っていたけど、家族の反対があったなら、この子はここにいるべきだったんだよ。」
「………。」
「でも妬けるな。本当に妬けるな。この子と一緒にいたのは、あたしなのに。でもこの子は君を好きだったんだもんね。」
僕の目からも涙があふれ、容赦なくこぼれていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何を謝っているのか自分でも解らないが、そう口が動く。
女性がまた首を振る。
「だから謝ることなんてないよ。泣かないで。」
そう言われても僕の涙は止まらない。
「昨日が最後なんて……思わなかったから……だから僕は……」
泣いてましい言葉が上手く出てこない。
「泣かないでよ。大丈夫だから。」
何が大丈夫なのだろう?
そう思う僕に女性が続ける。
「昨日が最後なんてことはないよ。」
「………?」
そこで一息つく女性。
「あたしはね、物心ついた時から猫を飼っているの。父も母も猫好きでね。近所から猫屋敷なんて言われてるのよ、この家は。……だからね、たくさんの猫と会ってきたの。その中にはこの子と同じ様に、身体が弱くて直ぐに命が終わってしまう子もいた。」
「………。」
「だけど、確信的に感じることがあるの。産まれてきた仔猫の中にさ、ああ、前に会ったことある猫だ、と。」
「………。」
「猫は何度か生まれ変わると云うけど、それは本当だよ。」
「……生まれ変わる?」
抑えた泣き声で訊く。
「うん。猫は生まれ変わる。そしてね、身体が弱かった子は、次は凄く元気に産まれてくるのよ。皆そうだった。」
女性は真顔だった。
「少しさ、今回はタイミングが早かったんだよね。この子は君に早く会いたくなって、まだ自分の身体の状態の準備も、そして君に猫を飼う環境という準備も出来てない状況でこの世に出てきちゃったのよ。」
思考はあまり働かない。だから、僕の脳は女性の言葉を否定も肯定もしない。
「つまりこの子はさ、今回は君に顔見せに来たんだよ。次に生まれ変わって来るときの飼い主に挨拶しに来たんだよ。だから、次に元気に産まれてきた時に、この子はまた君に会うんだよ。」
「………。」
思考は出来ないが、感情は揺さぶられる。
女性の言葉が真実のことであろうとなかろうと、とても優しい響きを感じた。
その優しさは僕に向けられたものなのか、仔猫に向けられているものなのかは判らなかったが、優しさは心を動かす。感情が揺れて涙はさらに溢れ出してくる。
「あさ、この子を抱っこしてあげて。また会うにしろ暫くお別れだもん。この子が満足するまで一緒にいてあげて。」
女性は両手で包み込むように、仔猫の身体を籠から持ち上げた。
そして、ゆっくりと僕に手渡してくれた。
僕は両手で仔猫を抱きながら、膝の上に乗せる。
両目を瞑り、少し開いた口から小さな牙が見えている。
その牙があまりにも小さくて、それが何だか哀しかった。
「まだこんなに小さい牙だったのに……」
仔猫はこの牙を使って狩をする機会など無かったことだろう。
「ああ、牙ね。小さくて可愛いでしょう。」
そうか。と思う。
牙が可愛いなんて発想はなかった。
でも確かにそう言われれば可愛い。
異性の感性に触れた僕は、新たな発見を感じた。
お前、なんにもかもが愛される素質を持っていったんだな。
心の中で呟く。
暫く二人と一匹で縁側に座っていた。
それは哀しい時間だったが、それだけではない気がした。
どこか穏やかさを感じる。
そんな気持ちにさせてくれたのは、女性な人柄なのだと思った。
「君が自由になった頃に……」
女性が突然に語り掛けてくる。
「……え?」
「君が家族のしがらみとか何だとかが関係なく、君が君の意思で猫を飼えるようになった時に……」
「はい……」
「その時に、またおいでよ。この子を迎えに来なよ。」
僕の涙は知らずに止まっていた。
「君が自由になり、そして猫を飼える環境になった時、必ずこの子はここにいると思うのよ。今度はタイミング良くね。」
「いてくれますかね?」
「必ずいるわよ。だって、この子は君が大好きなんだから。今回は顔見せだったけど、次はきっと君の傍を離れない覚悟だと思うよ。君も覚悟しておいてね。」
女性は少しだけ笑った。
僕は思う。
今回、仔猫は心が弱っている僕を励ましに来たのかもしれない、と。
だって僕は、仔猫から無償の、いや、根拠の全く解らない好意を注がれ、それに心を踊らせた時間を貰ったのだから。
それが嬉しい時間だったのは間違いない。
さらに仔猫は、僕に目標をくれた。
自由になる機会を与えてくれた。
僕がお母さんから本気で離れていく覚悟を持つ切っ掛け作ってくれた。
僕の目標は、僕に無条件で好意を抱いてくれた、この仔猫を飼う環境を作ること。
それにはお母さんと離れなければならい。
お母さんはあの家に幸せを求めて再婚したのだから。
僕はあの家と離れ、仔猫と一緒に暮らせる家を持つ。
どれくらいの時間が掛かるのだろう。
目標に辿り着くまで。
それは定かではないけど、仔猫を迎い入れるために、最短の道を行く努力はするつもりだ。
「君が次にここに来た時、この子はどう君に挨拶するんだろうね。どう君に自分が自分であることを伝えようとするんだろう?」
女性は空を見上げている。
「きっとさ、一目散に君に駆け寄るよ。だってあの日、目も見えないのに迷わず君の所へたどり着いたんだから。今度は元気に飛び付いてくるんだろうね。」
僕は小さな笑い声をだす。
きっとそうだろうと思って。
仔猫の欠け方の耳をなでる。
次はこの耳も完璧な形をしているのだろう。
でも僕はこの耳も好きだ。
女性は膝の上に残された籠から僕がさっき渡した水色のタオルを取り出し、僕に渡した。
「この子が君にまた会うまで寂しくないようにさ、これに身体をくるんで埋葬させてね。ずっとこの子が君をそばに感じていられるように。」
受けとると、僕は女性の言うように頭以外の仔猫の身体にタオルに包み込んだ。
白い顔と水色のタオルはよく似合う。
「ありがとう、これでこの子も寂しくないね。」
女性が再び夜空を見上げるので、僕もそれに倣う。
都会の夜空に星は少ないが綺麗だと思った。
次に仔猫に会えるまで、本当にどれくらいかかるのだろう。最短の道をトオッタとしても何年も掛かるだろう。
年単位だと思うと永い時間だと感じた。
でも星空はその考えを簡単に打ち消してくれる。
だって、気の遠くなるほどの昔からこの夜空に鎮座している星々にとって、僕と仔猫が再会するまでの時間なんて大したことではないのだから。
それこそ、星々にとっては瞬きするくらいの時間だろう。
僕は暫く女性と夜空を眺めた。
北風さん、
ガチめに泣いてくれたのは、正直に嬉しいです!
感想くれて凄く有り難いです。
また書いてみよう!と、いう気が湧いてきた。
「私は夢の中から出られないのです。」
そう彼女は言った。可笑しなことを言うものだ。
彼女は、ずっと覚醒することなく眠っていて、長い間、夢の中をさ迷っている。そう思っているようだ。
「夢の中?でも僕とこうして話しているではありませんか。」
僕は彼女に同情しながら、優しく声を掛けた。
彼女は少し精神が病んでいるようだ。
妄想にとりつかれているのだ。
「ええ、話しています。でも、それが何だと言うのです?至極当然のことです。夢の中だって会話はするでしょう。ここは夢の中です。」
彼女はこの現実を、夢の世界だと頑なに信じている。
まあ、それが妄想というものだろう。
「もちろんそうですね。夢を見た時に会話することはあります。しかし、僕らは現実にいます。ここは夢の中ではありません。」
何を言っても無駄なことは分かっている。が、だからといってこんな時はどうすれば良いのだろうか。
彼女は言う。
「ここが現実だと言いますが、本当にそうだと証明出来ますか?出来るならばやってみせて下さい。そうしたら、あなたの言うことを信じます。……出来ないでしょうね。何せここは夢の中ですから。」
何だか小馬鹿にされた気分がした。
が、彼女は病気なのだから仕方ない。それに彼女は馬鹿にしたつもりはなかっただろう。彼女にとって現状を理解してないのは僕の方なのだから。
「ここが貴方の夢の中ならば、どうして僕はここに居るのです?僕はどうやって貴方の夢の中に入り込んだのですか?人の夢の中に入るなんて不可能なことですよ。」
さて、彼女はこの至極まっとうな話を理解出来るだろうか。普通の人ならば反論はできないだろう。しかし、妄想の中にいる彼女にとってはどうだろうか。きっと抗ってくるだろう。
そう思いながらも、期待することはある。
彼女はどんな言葉を出すだろう。どう反論してくるのだろう。きっと、突拍子もない面白いことを言い出すはずだ。
そんな期待は失礼だとは思う。妄想を面白がるなど飛んでもないことだ。
だが、そう考えてしまったのだから仕方がない。要は彼女に僕の心の内が悟られなければいい。彼女に不愉快な思いをさせなければいいのだ。
「ごめんなさいね。」
彼女はそう言った。出だしは謝罪だった。そして言葉を続ける。
「いつだったか思いだせないけど、あたし、誤って階段を踏み外してしまったの。それは覚えている……。それで頭を強く打ったんでしょうね。それから、目覚めてないのよ。おそらく今は病院のベッドの上ね。ずっと夢を見続けているの。いえ、見続けているとは言えないかしら。深い眠りの時は夢をみていない。浅い眠りになると夢をみている。きっとね。夢ってそういったものでしょう。頭を打ったあの日以来たくさんの夢をみたわ。そして夢の中でたくさんの人と会ってきたの。あなたは、その内の一人ということね。」
なるほど、と思う。
彼女の妄想がどんな設定なのかが理解出来た。
「ごめんなさいね。」
そして彼女はもう一度そう謝罪した。
だから僕は訊く。
「何を謝っているのですか?」
彼女は本当に済まなそうな顔をした。
「だって、あなたは自分の存在を何の疑いもなく信じてるもの。未来があると思っているもの。なのに、あなたはもう消えなければならない運命。この夢が終わったら、あなたを無に帰さなければならない。」
まあまあかな。
そう思った。
期待したほどではないが、そこそこの面白さはある。
「夢が終わると僕の存在を消すことになる。それを謝罪していたのですね。」
妄想は彼女にとっての現実だ。彼女は真剣に謝っているのだろう。
「 夢なんて無意識に作るでしょう。だから、あなたを作り出したのも無意識なのよ。 赦してね。」
彼女は真剣に申し訳なさそうな表情をしている。
その顔を見ると、何とも可哀想になってくる。
何もしていないのに僕に対しての罪悪感を背負ってしまっている。
「あなたは何も悪くないです。気にしないで下さい。」
とにかく彼女を安心させようと思いそう言った。が、 僕の言葉など意味はなかった様で、彼女の表情は全く変わらなかった。
「そろそろね。この夢が終わるのも……、わかるものね。つまり、あなたの命も尽きるわ。」
何故か彼女は上を見上げて目を瞑っているいる。
「…………。」
何を言えばいいのか分からず沈黙してしまう。
どうやら、この夢終わりが近づいているようだ。
しかし、彼女はどうするのだろうか?
ここは現実だ。だから、彼女の言うような夢の終りは来ない。
終わりが来ないことをどう説明するのだろうか。どう理由をつけるのだろうか。
暫く彼女もそのままの姿勢を保ちながら口を開かなかった。
目を瞑っているのは無意識に理由を考えているのだろうか?
「夢が終わるのが分かるのですか?深い眠りが来そうなのですか?」
沈黙が嫌でそう声を掛けた。
「いいえ、どうやら目覚めるみたい。現実の音が……、声が聴こえるの。あたしを呼んでる。あたしの名前を誰かが……。あたしの名前を呼ぶ声が微かに聴こえるの。現実に帰れる。」
目を瞑っているのは、耳を澄ましているかららしい。
その時、僕の背筋が凍る。
名前!
名前!名前!
名前!名前!名前!
自分の名前が思い出せない!
僕は僕の名前が思い出せない。
「もう、目覚めるみたい……」
彼女の言葉に恐怖する。
待って!!
名前が思い出せない!!
彼女の言ってることは本当?
だとしたら僕の存在の方が……
そんな訳がない!!
待って!!
いま思い出すから……
「サヨウナラ」
辺りが暗くなる。
待って!!
完全なる闇が来た。
そして、目覚めが始まる。
おわり
ああ、生きてる。また会えた。
女はそう言って僕を抱き締めた。泣いている。
あなたは誰?
あたしは貴方の婚約者よ。
え?僕は婚約者なんていません。付き合っている人もいないです。
そうね。だから貴方にしたの。貴方の次元では貴方は天涯孤独。
まあ、そうだけど。
ここは、貴方の次元ではないの。あたしが召喚したの。
ここでは貴方はしんでしまった。
そんな世界は堪えられない。だから貴方を召喚したの。戻らなくて良いはずよ。
女の家の庭に木の棒が何本も刺さっている。僕は何かを感じる。
女が不在の時にそこを掘ってみた。
僕は僕のいたいを見つける。
彼女は僕を何度ころしたのだろう。いろんな次元から召喚しながら。
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