風人 2014-11-30 06:00:58 |
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『極北ラプソディ』ではドクターヘリのパイロットのことについて触れられてるのもまた興味深い。
パイロットひとりを育成し現場に赴くにしても予算も時間もかかる。医者や看護師と同じくあたり前なことだけど。
ドクターヘリにしても救急車が行けない場所に行ける利点がある反面、主に天候に左右される欠点もある。
必ずしも万能ではないことも事実。
劇中では速水先生の無茶な要請もあってドラマティックにドクターヘリもパイロットも活躍してるけど、現実だと現場の医者やパイロットがどこまで判断を下し行動するしないを決めるか疑問に残る感じする。
現実はドラマティックにいかないのもあるし非情なものもあると思う。
海堂尊先生はそれをわかりながらあえてドラマティックに書いてるんだと思う。
世良先生は『ブラックペアン』時代は比較的に本音を出すところあったけど『極北ラプソディ』だとやや大人としての駆け引きや本音との解離が見られる感じ。
白鳥さんみたいに本音だけを相手に向けてないふつうの大人らしい気遣いがある。それが大人としてはふつうと思うけど。
『極北ラプソディ』で今中先生に大学に戻って勉強し直してほしいと水沢教授にお願いしたのはおそらく若い時期にしかできないことがある配慮があったようにもうかがえる。
だけど今中先生が断って現場にいたいという意思が聞けたからある意味、満足したとも受け取れる。
語るべきところや伝えるところは相手に伝えるのは世良先生なりの相手や病院に対しての優しさでしょう。
当然、世良先生の通ったあとには悪い評判しか残らなくなった日本各地域の病院の現状もまた事実。
『極北シリーズ』の地域医療の財政破綻やドクターヘリの維持などを考えたら切実かつ身近な問題と認識させられる。
『桜宮サーガ』においての白鳥さん世良先生速水先生など過激な主張する人物はある意味、海堂尊先生が医者として言いたかった一面でもあるでしょう。
だけど、その反面どんな本でもマスコミや一般市民の意見や論調も同じくらいに対比して描写してるのも特徴。
社会が一個人の思い通りにならないのは如実にどの本でもあらわしてる。
速水先生の救急医療態勢やドクターヘリ、理恵先生の代理出産、彦根くんのゲリラにも似る大風呂敷など。
もちろんこれらすべてが正しいわけでも間違いもあるわけで一概にどうとは言えない問題としてはらんでる。
『マドンナ・ヴェルデ』はラストが綺麗に終わってたのは実によかった。
女性が“母親になる”のは理屈ではなく内面の変化や成長、せめぎあいがあったかからでしょうと思う。
母性は理屈ではないところで芽生え育まれていく、と考えた方がいいと思う。
『マドンナ・ヴェルデ』でもし生まれてきた子供たちがマスコミや世間の目に白日のもとに晒されたら理恵先生の思うようにならずマスコミに叩かれ子供たちは不憫な人生を歩む可能性はあったと思う。
だけど、『桜宮サーガ』はマスコミの立場側の人物として別宮葉子さんや地元マスコミなどとして立てているのもひとつの特徴。
海堂尊先生はマスコミが病院や医者をどう見てどう書くかは理解してると思うからあえてマスコミ側を出して意見を作中で言わしてるんでしょう。
海堂尊先生が『そこまで言って委員会』に出演してた当時もその辺はわかってたんだと思う。
花房さんは世良先生といっしょになりたくて速水先生にくっついてたんでしょうか(苦笑)。
速水先生は恋愛ごとに疎そうですけど『ジェネラル・ルージュの凱旋』では如月翔子に気をかけてた節もあるからなんとも言えないかな。
だけどドクターヘリが欲しくても自分は乗らない速水先生は時にほんと子どものよう。
“ジェネラル(将軍)』というより子どもと言った方がいいかも。
世良先生と花房さんは『ブラックペアン1988』で「となりのトトロ」をふたりで見た仲だったと思いますからあながち結ばれる示唆がなかったわけではない。
田口先生や今中先生が恋愛にほど遠いと思うと共感もあれけど複雑に思います。
あの白鳥さんでも妻子持ちなのが小憎らしく思うかも(苦笑)。
『極北ラプソディ』で世良先生が今中先生を雪見市に派遣したのはおそらく半ば見捨てるつもりもあったかもしれないけど、医者としていろいろな現場を見てほしい配慮や采配だったんじゃないでしょうか。
今中先生は若い立場でありながら極北市民病院を支えたひとりであるのは変わらないけどまだまだ若いからいろいろな医療現場の実態があるから勉強してこい!な気持ちが世良先生にあったと思う。
大学病院に週一度通うことを水沢教授にお願いしたのもその配慮だったとも思う。今中先生は断りましたけど。
今中先生は田口先生みたいに『桜宮サーガ』的な事件や事故に関わってるわけではないけど極北市民病院の現状に正面から関わりなんとか対応していくことでしか対応できなかった。
世良先生が来たことで敵をつくりながらではあるけど現状を保つことで市民病院が成り立つのもまた事実。
市民病院にとって何が必要で何がいらないかの考えや判断は考えるのも実行もむずかしい。
田口先生や今中先生は医者として等身大のまま物語が進むなかでいろいろな疑問にぶつかり悩む。
そこにいろいろな人物がいるからでしょう。同じ医者や看護師、あるいは患者、役所の人々など。
マスコミや市民の無思慮な悪意や発言もあるけど医者たちは耐えながら自分たちのいる場所から上手にバランスを取っている。
たしかに批判もあるけど『桜宮サーガ』では別宮葉子さんを除けば大半のマスコミはおそらくわざとに取材不足に書かれてる一面もある。
医者とマスコミでは立場が違うし受け取り方も違うのも事実。
田口先生や今中先生は比較的に現実を理解して独断や偏見ない視野があるから物語のなかで悩み成長してゆくのが魅力ある。
基本的に白鳥さんは官僚として、速水先生や世良先生は医者として矢面に立つことで現状を変えていってる感じする。
けど物語が進んでる時は正しくても未来になった時に白鳥さんなどが行ったことが過去として振り返った時に正しかったかどうかは疑問の余地や懸念はある。
『螺鈿迷宮』の桜宮巌雄先生の言葉は他の物語にも影響してる感じする。
『極北クレイマー』『極北ラプソディ』共に霞ヶ関官僚、斑鳩室長白鳥さん両者の力が遠く北海道まで影響してる感じする。
速水先生はよくも悪くもいくら優秀な救急医でも社会というよりは会社の規則やルールのなかではよそ者であり子供扱い(笑)。
だけど医者や救急医として必要不可欠な存在。
『極北クレイマー』『極北ラプソディ』ともにさりげなく恋愛要素は書かれてます。
相変わらず今中先生は恵まれませんけど(苦笑)。
ドクターヘリ一機飛ばすにしても予算も人にもお金に時間がかかる現実の壁は厚いもの。
管制する越川さんにとっては速水先生の仕事は何より思い出に残ったでしょうと思いたい。
速水先生の無茶や無理に付き合うのはよほど勇気や決断が迫られるのは東城医大も極北救命救急センターも変わらない(苦笑)。
さりげないラブロマンスは劇中で癒されるもの。
『極北シリーズ』は読むと切実に地域地方の病院を感じるのが伝わる。
幼い頃に大学病院に世話になって大人になったら医療センターに通うこともある。
黒字経営な病院は少ないのが現状かもしれないですね。
そのなかで得してる人間は少ないでしょうし感情を押し殺すか前面に出して戦うかかいずれかの道から決断し行動しないとならない。
速水先生みたいな人も医療現場に必要と思いますし世良先生みたいに意見や改革をする人も必要不可欠なこと。
『ジーン・ワルツ』『マドンナ・ヴェルデ』の理恵先生はまた別な話と思いますけど代理出産は道義的倫理的などいろいろな問題はらんでるからむずかしいもの。
『桜宮サーガ』にはいろいろ現状や現場で向き合う戦う姿勢の人物たちがいる。
医療はむずかしいものと考えさせられる。
『極北ラプソディ』を再読してるけど彦根くんは『桜宮サーガ』内の橋下徹みたいな感じ。
医療のために大風呂敷を広げてドクターヘリやドクタージェットを使って日本を分断しようとする。
白鳥さんや世良先生が彦根くんの絶対的シンパでなくともある程度の息がかかってるとしたらこの辺は医療関係の人間関係が広いようで実は狭いという証でもある(苦笑)。
今後読まないとまだまだパズルのピースは埋まらない感じ……。
『極北クレイマー』でもし姫宮香織ではなく白鳥さんが極北市民病院に赴いてたらしっちゃかめっちゃかにされたでしょう(苦笑)。
ある意味、白鳥さんの通ったあともペンペン草が生えないとも言える。
速水先生は予算を食い潰すし世良先生は破壊による再生でしょうか。彦根くんは大風呂敷を広げながら満足をいけば引き際はとりあえずよい。
海堂尊先生の中に既存の既得権益や価値観について反する思想や思考はとりあえずはあるんだと思う。
それが官僚として白鳥さん、医者としては速水先生や世良先生もしくは彦根くんなど作品中の人物としてあらわれてる。
自己表現のひとつとは思いますけど。
『極北ラプソディ』の後半で世良先生の過去に振り返る描写あったけど迷いはなかったけど行くところはなかったんでしょう。島のひとから見たら自殺しそうに見えたのはたぶん見知らぬ他人から見たらそんな風に見えたんでしょう。
世良先生は『ブラックペアン1988』の頃は尖ってたけど『極北シリーズ』においても尖ってた。だけどその中に彼個人として地域地方の病院を救いたいという意思はある。
しかし荒療治な面もあったために『極北ラプソディ』以前につぶれた病院もあったと思われる。
それが世良先生に心残りや罪、後悔としてなかったとは否定できない。
過去の佐伯先生や『極北ラプソディ』で語られた久世先生とのいきさつを考えたらどこかでなにかを取り戻そうしたいけど実際はできなかった。
人生はどこかで過去を悔やみながら得るものは少ない。
『極北シリーズ』の世良先生はいるべき場所と愛すべきひとを得たことでしあわせは得たでしょう。
海堂尊作品はたまに『ゴジラ』や『ウルトラマン』『ウルトラセブン』が上映や放送されてた頃が劇中で人物の会話や思い返されたりする。
たぶん海堂尊先生は少なからず当時にそれらの作品に夢を馳せてたんでしょう。
だけど大人になり医者になったことでいろいろ現実の壁にぶつかり現実を直面したと思う。
だけど会話や人物が思いを馳せるのはかつての自分を思い描くんでしょう。
リアルな現代もSFやフィクションに近くなってるけど最先端の医療技術がない地方や地域もあって行き届かないのもある。
『極北ラプソディ』の神威島の久世先生は最先端の医療技術あって診ることはできても治療や手術は中央に頼らざる得ない旨を理解してるひとりと思われる。
医療技術の進歩と人間の精神が伴わないのは社会がいろいろ阻んでると思う。
『極北クレイマー』での消防士広崎広明さんが三枝先生を訴えるような事例はいくらでも世の中あると思うし加害者被害者いかなる立場に誰もがなると思う。
医療技術を使うのが人間である以上、医師医者看護師患者など誰もが聖人君子でもなく心や感情、気持ちあるもの。
どこかでせめぎあいや理屈で成り立たないことがあるのが人間の一面。
医療技術の進歩と共に人間の精神が伴うのはある種の理想と思う。
だけど技術が進んでも人間の精神は未熟なまま。当事者や第三者も言うのは簡単だけど未熟だからこそ社会に伝わる面もある。風化しやすい一面もまたあるけど。
社会がちいさいと物事はうまくいくかもしれないけど現実は大きいしそこに既得権益や利己的な事柄など複雑に絡むからなかなか進まない。
『桜宮サーガ』は医大や病院ひとつ経営するにしても赤字なのが如実な現状のあらわれ。
『極北ラプソディ』の神威島の最先端医療はあくまで患者を診て判断することはできても先生が治療や手術できない一面もある。
これも医療が持つひとつの一面といえる。
『極北ラプソディ』は前半こそ赤字経営や患者がいなくなった極北市民病院の実情が語られているけど、中盤の桃倉センター長や後半のヘリパイロットの危機などでドラマティックに演出してる。
医者の判断はむずかしいと思う。世良先生は『ブラックペアン1988』の頃は上に尖ってはいたけど正確に的確に判断し思いきったことをするようだったけど『極北ラプソディ』では歳相応かそれ以上に迷いが見えたともいえる。
世良先生は東城医大を去ってからいろいろ迷いや悩みがあって救急現場を離れてたのも内面に迷いや葛藤を生んだのでしょう。
だけど若い今中先生に託すというのもひとつの願いや希望であったともいえる。
世良先生は神威島の久世先生に救われまわりまわって極北市民病院を立て直しながら現場復帰で丸くおさまった。
『極北』シリーズがたった二部で完結なのはいささかもったいない感じ。
だけど地方地域医療の描写は今中先生の目を通して如実に書かれてる。
『極北クレイマー』の病院長が最後はお役目ほったらかして逃げたというのも笑える反面、現実にもふつうありえそう。
経営苦難や仕事の途中でも辞める人は現実にいる。
『極北ラプソディ』で世良先生が地元マスコミと中央メディアにしか取材を受けないのはある意味、納得。
地方新聞や地方局などは地元の人たちしか見聞しない。
私も地元テレビ局のニュースで地元の医療センターや大学病院の報道を目にする機会あった。
『極北』シリーズの極北市民病院は他の桜宮サーガとちがい問題が解決してないまま物語が終わるというのもそれはそれでありと思う。
現実には簡単には解決しないからそれを乗り越えてゆくのも医療の在り方。病気と同じと言える。
『極北シリーズ』は読むと地域地方医療のむずかしさ伝わる。
幼い頃に大学病院に入院したり最近は母と共に医療センターに一時期通ったことあったけどドクターヘリも当然、予算や維持費は食うわけだしパイロットなど人材確保も必要不可欠。
『極北ラプソディ』の神威島みたいに治療は出来ずとも最先端のCTなど診る技術もまた必要。
『極北シリーズ』を読むと地方は一長一短な感じする。
医者が優秀でも最先端医療がなかったりおそらくその逆もまた現実にあると思われる。
医者や患者にとっては病気や怪我がないのがいちばん幸いと思うけど現実はそうはいかない。
神威島とて久世先生が劇中で言ってたようにはじめから設備が揃ってたわけでなくちゃんと地元の人たちに聞いてもらうことも大事。
治療は出来なくても診ることをして島からドクターヘリを飛ばすというの医者のお仕事。
完璧を目指せばどこかで無理をして破綻をきたすというのもあるかもしれない。
世良先生のやり方が正しくなかったわけではないけど久世先生のやり方は感銘を読者として受けなくもない。
『極北ラプソディ』での桃倉センター長を救うための場面は前にも書きましたがいささかドラマティックすぎ(苦笑)。
『極北シリーズ』は『田口白鳥シリーズ』とちがって問題の大半が解決してないまま終わってる感じがしてむしろ別な意味で考えさせられる。人間関係含めて。
『極北クレイマー』再読中だけど今中先生は室町院長にあだ名をつけられぱなっし(笑)。
だけど極北市民病院の設備の悪さや看護師への行き届きなさは悪い意味で目立つ。
これらは後々、解決してゆくけど解決するまでは遠回り。だけど市長や姫宮香織の介入で解決する(苦笑)。
でも現実にはすべての病院や診療所などに設備が行き届かないのも現実にあると思う。
病院ではないけど公園などではいまだに古いトイレのところもある。
『極北シリーズ』は読むと医療を身近に感じる。
『極北クレイマー』を再読中だけど地域地方の病院が生き残るには難問が山積。
室町院長にしたら三枝先生の医療ミス問題もあるし市民病院を査定してほしい気持ちもある。
『極北クレイマー』をはじめに読んだ時は病院を査定してそれを生業としてる人たちもいたということ。三ツ星レストランのように。
赤字経営はともかくとして設備や環境が悪い病院や診療所が現実にあるのもまた事実。
だけど『極北クレイマー』を踏まえて『極北ラプソディ』を読むとちゃんと段階を踏んでるのは理解できる。
『極北ラプソディ』で極北市民病院の問題はほとんど解決しないまま物語が終わるけど、問題が如実に顕れて読者に問いてた形とも言える。
“あなたは『極北シリーズ』を読んでどう思いましたか?”みたいに海堂尊先生はそう読者に伝えたかったのではないでしょうか。
今中先生が見て聞いて感じたことは現実の読者そのままやあるいは医者や看護師が思うことと思う。
医療の現実の先が見えないまま市に見放されかかり予算も回らないおそろしい地域地方医療の実態。
姫宮ブリザード、室町ハリケーンで多少は極北市民病院が改善されたけど長い目で見てもあの時点でまだまだだったと思われる。
『極北ラプソディ』で世良先生がしたことはたしかに市民にとっては“毒を以て毒を制す”ことだったしそれがもとで患者である田所さんが亡くなったのは気の毒と思う。
だけど、市が極北市民病院に予算を回さない回せない状況も責任ある。
『極北ラプソディ』での世良先生のやり方はたしかに乱暴なところあるのは否めない。だけどふたりの先生しかいない状況では救急患者を見られないのも実情。
『極北ラプソディ』のラストをプラスに解釈するならゼロからいちから始めましょうと言えると思う。
三枝先生逮捕の一件は『桜宮サーガ』全体から見ても各方面に伝わってるのわかる。
斑鳩室長と西園寺さやかが裏から手を引いたこととはいえ極北市民病院という一病院から中央や地方にまで及んでいるおそろしさ。
『極北クレイマー』の姫宮香織の介入は当然、白鳥さんの意思あってのことでもよもや手を打たれたのは痛手。
『極北ラプソディ』の世良先生がしたことは今中先生や市民にとってもまた茨の道。だけど世良先生は『極北クレイマー』のラストで茨の道を進むことは示唆され『極北ラプソディ』で実際に行ってる。
だけど三枝先生の存在を極北市民病院から奪ったのは広崎消防士を利用し介したとはいえ尾を引いている。
見方を変えたら中央官僚の思惑や確執が地方に影響してるとも言える。
斑鳩室長は『アリアドネの弾丸』でおそろしさを見せてる印象あるから桜宮巌雄とはまたちがう。
『マドンナ・ヴェルデ』でも三枝先生の一件は理恵先生たちにも伝わってることから伺い知れる。
まだまだ読めてない未入手な本あるから『桜宮サーガ』のパズルは埋まらない(>_<)。
『極北クレイマー』を再読してるけどあらためて読むと室町院長や後藤先生はしたたか。
後藤先生は後々にいろいろな秘密が明かされるからいちがいに悪い人物ではない。
見方によっては今中先生と後藤先生のやりとりは物語にクッションになってる。
サーベイヤーのように病院を審査して生業としてる人たちもいるでしょう。極北市民病院は『極北シリーズ』通して生き残りを暗中模索してる。
室町院長は逃げ道を確保し『極北ラプソディ』での世良先生も当初は逃げ道あるかのように示唆してた。
現実に考えたら経営苦難で医者を辞める人たちもいないとは限らないと言えるでしょうか。
『極北ラプソディ』での久世先生が過去の世良先生が先を見失ってたことを語るくだりは医者であるかどうかよりもひととして生きれるかどうかの問いでしょう。たぶん。
世良先生が神威島を再び訪ねるまでは世界を敵に回して生きるみたいな生き方は誰もがどこかでひねくれた考えを持つかもしれないし諭してくれる人を必要としてるかもしれない。
『桜宮サーガ』はいつどこで誰が再登場したり名前が出てくるかわからないか世界観や人物の幅が広い。
医者の世界は広いようで狭いと田口先生がとある本で言ってたけど『桜宮サーガ』はいい意味で医者の世界は面白いと思う。
寒い時期に『極北シリーズ』を読んでる私。
『極北シリーズ』を再読することで今中先生は基本的に読者目線なことわかる。『田口白鳥シリーズ』の田口先生もだけど。
なにげにしたたかな人物を配置したり医療の現状を医者と官僚の違いを対比させるのは海堂尊先生の持ち味と思う。
『極北シリーズ』では市役所との関係や軋轢ということになるか。
室町院長もある意味、タヌキなところある(笑)。だけど室町院長がラストには極北市民病院を去ることでラストに問題は山積なままだけどいちおうの溜飲は下がることあるのも事実といえると思う。
無責任ということは簡単だけど大人社会のなかでは逃げ道や抜け道ないと人生いきれない人もいる。
市役所側の平松事務長にしてもなかなか市の改革が進めたくても財政赤字なら進められないし重い腰を上げられない市側の立場も見える。
市民病院のトイレひとつ改善するにしても市長の“お声”ないとむりからぬこと。
『桜宮サーガ』全体に言えることだけど世の中、一枚岩ではないということ。
医者や役人の立場もあって壁をひとつ抜けたりこわしてもまたいくつも壁が無数にある。
白鳥さんや彦根くんみたいなひとはその辺の壁を順序もなくこわしてある程度は進められる。
『極北クレイマー』での姫宮香織の登場で今中先生はある程度溜飲を下げたし居心地はほどほどによくなった現状ある。
もし白鳥さんが極北市民病院を訪れてたらおそらく世良先生が来る前にペンペン草も生えなかったかもしれないと思う(苦笑)。
『極北ラプソディ』での世良先生のやり方はいささか乱暴なところもあると思う。
だけど、予算なければ医者や看護師が少ないなかでは患者を見れないのも実情。
医療のむずかしいところと思われる。
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